詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルケス「ママ・グランデの葬儀」

2021-02-28 11:57:03 | その他(音楽、小説etc)
マルケス「ママ・グランデの葬儀」(桑名一博+安藤哲行訳)(再読)

マルケスは「百年の孤独」「族長の
秋」の、果てしなく枝分かれしてゆく文体で有名だけれど、ヘミングウェイのように短い文体の作品もある。
この作品集の「最近のある日」は、その短い文体の代表。
村長が虫歯の治療にやってくる。歯医者は麻酔なしで虫歯を抜く。
その、26ページ。

村長は(略)手探りでズボンのポケットのハンカチを探した。歯医者は彼にきれいな布を渡した。
「涙を拭きなさい」と彼は言った。
 
村長は、、、の文はいくぶん長いが、そのあとが短く、布の修飾語が「きれいな」と短い。「涙を拭きなさい」と、ことばがすばやく動くところが、とてもいい。
さらに、改行して、こう続く。

村長はそうした。彼は震えていた。

マルケスの文体のとは思えない短さである。しかし、この短い文体には強烈な粘着力がある。それ以外のことばが入り込む余地のない粘着力。
と書いて思うのだが、マルケスの文体は強靭な粘着力で成り立っているのだ。どれだけ枝分かれしようと、すべてのことばが新鮮なのは、ことばの幹のなかを粘着力のある想像力という樹液が音を立てて流れているからだ。
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カルビーノ「パロマー」(2)

2021-02-27 08:48:52 | その他(音楽、小説etc)
イタロ・カルビーノ「パロマー」(2)

カルビーノを読むと、私はベケットを思い出す。
カルビーノのことばは疾走し、飛翔するのに対し、ベケットのことばは停滞し、ブラックホールの重力のように何もかも飲み込む。いわば対極にある。しかし、類似点がある。

「言葉をかみしめることについて」の141ページ。

「これから言おうとすることや言われないことばかりでなく、言うと言わざるとにかかわらず、いつかは自分か他人の口から言われたり言われなかったりすることについても洩らさず考えておかなければなるまい」

洩らさず、ということばが二人を結びつける。
ベケットもカルビーノも、洩らさずに書くのだ。
書くことがないときさえ、書くことがないと書くことができる、と。
この、ことばの、果てしない運動。
これはたとえばジョイスと比較すればわかる。
ジョイスには書いても書いても書くことがなくならない。ことばを作り出しても、まだことばが足りない。

でも。
作家はみんな同じともいえる。
「蛇と頭蓋骨」の133ページ。

解釈なんて不可能だ。考えるのを止められないのと同じことだ。

ことばに出会ったから考えるのか、考えるからことばから逃げられないのか。
とりとめもなく、ただメモを残しておく。
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カルビーノ「パロマー」

2021-02-26 08:52:03 | その他(音楽、小説etc)
カルビーノ「パロマー」(再読)

カルビーノを最初に読んだのはいつか、何か。よく思い出せないが、たぶん「柔らかい月」である。
しかし、衝撃を受けたのは「難しい恋」の英語版を読んだとき。まだヨーロッパ便がアンカレッジ経由だったころ、給油の合間に本を買った。私は英語をろくに読めないが、この「難しい恋」はすらすら読める。知らない単語がつぎつぎに出てくるがつまずかない。
なぜか。
ことばの呼応が正確で、呼応のなかに強靭な論理があるからだ。だから、どんな翻訳にも適応するのだ。
村上春樹の大先輩だ。村上の場合は、論理はカルビーノほど強靭ではない。むしろ抒情に線が通っている感じがある。日本的。これが外国や若者に受ける理由か。

脱線した。
「クロウタドリの口笛」の35-36ページ。鳥の会話を分析し、

言葉が沈黙の間も忘れられることなく、

「俺はまだここにいるぞ(略)」とでもいうような、「まだ」の意味を付け加え

口笛は(略)句読点の記号でしかない

対話は可能なのだ、沈黙によっても

と展開する。
最初に引用した「沈黙」が結論の形で復活する。
このときの、軽快なスピードと明瞭さ。リズムの安定した動き。
大好きだなあ。
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ソンチャンホ「赤い豚たち」

2021-02-25 12:05:56 | 詩集
ソンチャンホ「赤い豚たち」(ハンソンレ訳)(書肆侃侃房、2月4日発行)

「月明かりは何でも曲げて作る」は、続けて「花の香りを曲げて蜜を作り」と展開する。
この「曲げる」という動詞の使い方は魅力的だ。
そして、これが「動物園の檻越しの一頭の花」では「腰を曲げてその強いにおいを嗅ぐ」と変化する。
腰を曲げては、肉体を近づける、である。私が対象に近づく。
ここに、ソンの思想を感じた。
曲げるとは何かに近づき、それを、遠くから見ていたものとは違う視点でとらえ直すこと、新しい存在の可能性を引き出すこと。
詩の比喩とは、そういう暴力的で絶対的な運動である。
比喩に出会ったら、作者はいま、自分の肉体を折り曲げ、対象そのものの内部に入り込み、対象を作り替えているのだ、と考えればいいのだ。
対象が形を変えるだけでなく、作者も自分の肉体をねじ曲げ、変形し、生まれ変わろうとしている。
ソンの比喩が激烈なのは、このためである。
(まだ途中までしか読んでいないが、メモとして記しておく。)
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中井久夫著作集11

2021-02-24 13:09:11 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫著作集11

11に収録されているのは、2020年、2021年に触れてのものではない。
でも、いまを分析しているとしか思えないことばがある。射程の長さとは、そういうことである。
「「雪崩」の背景を読む」の209ページ。
中井は、中井の世代が消え去ると、戦争の悲劇が忘れ去られる、と書いている。これは安倍、菅の言動をみればその通りだとわかる。
その、戦争の風化と関連させて、中井は日本の将来を心配している。日本人の、一方に傾く傾向を心配して、こうことばをつなぐ。

「日本人が変わったのだろうか。いや、むしろ、貧困が、将来の不安が、群衆に雪崩を打たせたのではなかろうか。」

安倍以降の、若者の右傾化は貧困と密接に関係しているというのは私の見方だが、無意識に中井に影響される形で、そう考えているのかもしれない。
ジャーナリズムの右傾化も同じ。儲からないので、広告を手配してくれる電通自民党に頼るしかないのだ。このままでは潰れる、という不安がジャーナリズムを支配している。

また、「情報に生命を吹き込む」には、次のことばがある。238ページ。

「情報は発生した時すでに時遅れである。」

コロナの状況を言い当てている。
菅の把握している情報はすべて時遅れ。後手後手なのは、菅に情報を読む力、何が起きているか、何が次に起きるかを想像する能力がないからだ。
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田原「キリギリス」ほか

2021-02-23 09:23:25 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「キリギリス」ほか(「カルテット」7、2月2日発行)

田原「キリギリス」は、私の知らない世界を書いている。
私は田舎育ちだから、昆虫は身近にいた。そして、あまりにも身近だったから、その鳴き声を観賞するということもなかった。
田原はキリギリスをとっている。
なるほどと納得したのが、サツマイモ畑で捕まえるのが簡単という説明である。ここには具体的な肉体が書かれている。キリギリスは、葉っぱから葉っぱへ飛ぶ。葉っぱが多い方がどこへ飛んだかわかる。サツマイモの濃い緑、キリギリス(私の田舎ではギッチョンと呼んでいた)の黄緑。くっきりと色の対比まで目に浮かぶ。
そういう肉体的描写(ただし、間接的)があるから、「指を二本の歯に噛まれて、血が出た」が説得力を持つ。さらに最後の三行でキリギリスと田原の肉体が一体になる感じが、とても説得力がある。

吉田義昭「林檎の重力」は、「林檎畑だから一面に墜落できぬ林檎」という一行がおもしろい。落下ではなく墜落。そのことばの変化のなかにすばやく潜り込む暗喩。
最後が、その暗喩から抜け出せず、抒情になるのは残念だけれど、必然という人もいるだろうなあ。

服部誕「昼下がりの幸福について」は4、5連が美しい。

山田兼士「詩集カタログ」。全部調べたわけではないが、多くの詩集が6行で紹介されている。器用だ。
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松井久子「疼くひと」

2021-02-22 21:53:17 | その他(音楽、小説etc)
松井久子「疼くひと」(中央公論新社、2月25日発行)

小説、ということだが、これはよくも悪くも、映画のシナリオである。
つまり、ここに書かれている人間は、生身の人間(しかも他人)によって演じられてこそ、初めていきいきと動く。
私は映画も演劇も作ったことがないからいい加減なことを書くが、いい映画や芝居は、役者の肉体が、監督や演出家の意図を超えて動く瞬間を含んでいる。
ぜんぜん知らない人間が、私はここにいる、と肉体そのもので主張する。予期しない過去をさらけだすのである。
それに、観客はたじろぐ。私の肉体も、そうあり得たかもしれない、と。
この小説の二人の主人公は、予期せぬ他人に驚き、同時に新しい自己を確信する。それと同じように。
だからこそ、シナリオだと思う。ぜひ、映画に撮ってもらいたい。

そのとき、注文。
映画は245ページのカモメのシーンで終わってほしい。
その方が傑作になる。
女の映画になる。
女が主人公になる。
たぶん、多くの読者はこの小説の終わり方に納得するだろうけれど、それは男の小説の終わり方である。疑問がない。しかし、それでは読む喜びがない。

*

少し補足すると。
カモメのシーンで終わると、読者、観客は、男の子が恋人かなあ、カモメが恋人かなあと考える。
そうすると、母親が女性主人公?
女性主人公は、それを目撃しているから母親ではありえにのだけれど、男が求めていたのは母親だったかもしれない、という具合に謎が深まってゆく。
もちろんカモメが女性主人公かもしれない。
見方は、その人の体験と想像力によって違ってくる。だからおもしろい。
この部分は、私は、とても好きなんです。
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松井久子「疼くひと」

2021-02-22 17:05:12 | その他(音楽、小説etc)
松井久子「疼くひと」(中央公論新社、2月25日発行)

小説、ということだが、これはよくも悪くも、映画のシナリオである。
つまり、ここに書かれている人間は、生身の人間(しかも他人)によって演じられてこそ、初めていきいきと動く。
私は映画も演劇も作ったことがないからいい加減なことを書くが、いい映画や芝居は、役者の肉体が、監督や演出家の意図を超えて動く瞬間を含んでいる。
ぜんぜん知らない人間が、私はここにいる、と肉体そのもので主張する。予期しない過去をさらけだすのである。
それに、観客はたじろぐ。私の肉体も、そうあり得たかもしれない、と。
この小説の二人の主人公は、予期せぬ他人に驚き、同時に新しい自己を確信する。それと同じように。
だからこそ、シナリオだと思う。ぜひ、映画に撮ってもらいたい。

そのとき、注文。
映画は245ページのカモメのシーンで終わってほしい。
その方が傑作になる。
女の映画になる。
女が主人公になる。
たぶん、多くの読者はこの小説の終わり方に納得するだろうけれど、それは男の小説の終わり方である。疑問がない。しかし、それでは読む喜びがない。
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犬飼楓「前線」

2021-02-22 10:31:56 | 詩集
犬飼楓「前線」(書肆侃侃房、2月7日発行)

犬飼楓「前線」は歌集。
コロナ最前線の医療現場の声が聞こえる。
タイムリーな歌集だが、急ぎすぎたのか、ことばが肉体を離れ、意味になろうとしている。
そのなかで私が目を止めたのは。

文句言う先がなければゴミ箱に黙って手袋深く沈める

「深く沈める」に、肉体の動きがあり、深くも、沈めるも、そのまま強く響いてくる。

「し」と打てば「新型」と出る電カルの予測を超えて「信じる」と打つ

この歌も「打つ」に魅力がつまっている。打つとき、打たれるものは自己ではない。自己の手を離れたものに何かを託す。そういう「打つ」があることを教えてくれる。
祈るではなく、「信じる」が、そのとき強く響く。
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西川「読書を論ず」

2021-02-22 07:09:06 | 詩(雑誌・同人誌)
西川「読書を論ず」(竹内新訳)(「カルテット」7)

二行ずつの連が続いている。対句が続いている。
中国人は対(二つ、偶数)が好きである。1+1=2で世界が完成する。3から先は無限である。(と、私はかってに中国人の思想、肉体を判断している。)
この西川の詩は、対句構成が延々につづくので、ちょっと奇妙である、と感じたとき、ふっと、中井久夫がこんなことを書いていたのを思い出した。
日本人の論文とアメリカ人の論文は違う。その違いのために、日本人の論文はアメリカ人には通用しない。
どこが違うか。日本人の思考には中国思想が影響している。漢詩の構造に起承転結がある。日本人の論文は、この起承転結の形で書かれる。しかし、アメリカ人か起承承承承、、、結である。
私なりに言い直すと、日本人の思考は、書き出し+そして+しかし(あるいは)=(ゆえに)結論。
アメリカ人は、書き出し+そして+そしての延々=(ゆえに)結論、なのだ。
西川の詩は、対句という形では中国人の思考だが、簡潔な起承転結形を破り、そして(承)をつづけていくという点ではグローバル(アメリカナイズ?)なのである。

これが詩の感想かと言われると少し困るが、きょう考えたこと。
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池井昌樹「古い家」

2021-02-21 09:33:55 | 詩集
池井昌樹「古い家」(思潮社、3月9日は発行)を読んだ。
巻頭の「どこかへと」に不思議なことばがある。

どこからか
いそぐたびでもなし なしと
こえがした

なぜ、なし、が繰り返されるのか。
たぶん「いそぐたびでもなし」は池井の父の口癖だろう。幼い池井は意味もわからず、いや、わからないからこそ、そのことばを聞きながら、知っていることば「なし」を繰り返した。
そのとき父はどう反応したか。これは、書く必要がない。
父と子には、そういう繰り返しで共有するものがある。
そのときの父の年を越えて、父を思い出しているというよりも、繰り返しによって、肉体になっているものを確かめている。
とてもいい詩だ。

「心から」には、きっとだれもが「いいなあ」とつぶやき引用するに違いない数行があるが、私は「なし」という対話の方が好きである。

表紙の絵は、池井の父が描いたもの。
私は、この家も、池井の父も知っている。泊まったことがある。風呂の浴槽が二つあって、とても奇妙だと感じたことを覚えている。
どうでもいいことなのだが、こういうどうでもいいことが、事実というものだろう。
「なし」も、事実なのである。
「心から」の感動的な数行が真実であるのに対し。

(退院後、もう一度書くつもり。上の感想はメモです。)
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中井久夫全集11

2021-02-20 17:14:22 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫全集11に、「インフルエンザ雑感」という文章がある。2009年のインフルエンザ騒動に関する文章だが、「新型コロナ雑感」として読むことができる。
中井の文章(思想、肉体、ことば)の特徴がくっきりとあらわれている。
事実と中井の肉体をつきあわせ、肉体で体験したことをもとに、ことば(論理)をまっすぐに動かし、その射程を広げて行く。
過激な運動ではないので、その射程を見逃してしまう読者もいるかもしれないが、この丁寧な運動には、やはりいつも頭を叩かれた思いがする。
いろいろ書かないが、100ページには、いわゆるロックダウンについて触れたことばもあり、これは新型コロナ雑感か、と、ほんとうに驚く。

中井の聡明さと正直をあらためて思うのだった。
(全集以外では「臨床瑣談、続」に収録されています。)
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ボルヘス「砂の本」(篠田一士訳)

2021-02-20 14:18:37 | その他(音楽、小説etc)
ボルヘス「砂の本」(3)

巻末の「砂の本」。153ページに、こんなことばがある。

もし空間が無限であるなら、われわわれは、空間のいかなる地点にも存在する。もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。

この訳語「無限」は夢幻に即座に誤植されうるがゆえに、あまりおもしろくない。
いったん「夢幻」と誤読してしまえば、ボルヘスの書いた文章は次のように偽造、捏造されて拡散されるだろう。

もしことばが無限であるなら、われわれは、ことばのどのような動きのなかにも存在し、そこから夢幻がはじまる。われわれがことばを夢見るのか、ことばがわれわれを夢見るのか。ことばが幻か、われわれが幻か、確認した作家も、定義することばもまだ存在しない。

これが、私がボルヘスから学んだこと。あるいは、誤読したこと。
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ボルヘス「砂の本」(篠田一士訳)(2)

2021-02-19 09:13:23 | その他(音楽、小説etc)
ボルヘス「砂の本」(つづき)
きょうは「人智の思い及ばぬこと」を読んだ。
ボルヘスの文体の特徴は、非常に経済的なことである。説明が少ない。読者の想像力を掻き立てておいて、そのあとに、ぱっと短く具体的に書く。
たとえば、65ページ。伯父が死んだと書いた後。

ひとが死んだときには、だれもが抱く思いをわたしも持った。いまとなっては無益だが、もっとやさしくしておけばよかったという悔いである。

このふたつの文章は、順序が逆なら陳腐であるだけでなく、ことばが「わたし」に向かい、物語のスピードが落ちる。(日本によくある私小説になる。)
読者に、ほら、きみの想像通りだろう、とささやきかけ、励ましながら、一番むずかしい描写を読者にまかせてしまう。
小説のおわり。74ページ。

何かのしかかるような、そして緩やかで、複数のものが、斜面を昇ってくる気配を感じた。好奇心が恐怖にうちかち、わたしは両眼を閉じなかった。

さて、何を見たか。
読者が想像する通りである。
だから、書かない。
うまいなあ、と感心するしかない。

*

篠田の訳。最後の「両眼」は微妙だなあ。意味はわかるが、los ojos(たぶん)を、両眼と意識するひとはどれだけいるか。
眼ではなく、両眼の方が強烈でいい訳だとは思うが、ボルヘスに両眼という意識はあったか。
いや、なくてもかまわないし、この両眼は絶対的な力をもっているがゆえに、それが篠田の意図か、あるいは偶然か、それを知りたいと私は思う。
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ボルヘス「砂の本」(篠田一士訳)

2021-02-18 12:34:20 | その他(音楽、小説etc)
ボルヘス「砂の本」を読み始める。(再読)
篠田一士の訳。
篠田はスペイン語から訳したのかなあ。
私はときどきつまずく。
「会議」の、56ページ。
ノラ(略)は秘書の役をやめて、新顔のカルリンスキーが後をおそったが、(略)
この「後をおそった」は後を継いだという意味だろう。
鴎外の小説に出てくるような匂いを持っている。「襲った」と書けば「踏襲」ということばとなって意識化されるかもしれない。だから鴎外は漢字で書いていたと記憶する。(「破った」にも、それに通じる使い方があったと思う。鴎外の文章では。)
さて、篠田は「おそった」と訳したとき、ボルヘスのスペイン語に何を感じたか。「出典」をどう指し示すことができるか。
「会議」のテーマのひとつは本とことばである。
だからこそ、何語から訳したのかなあと気になるのである。

あと、日本語なら「私たち」のほうが自然なのに、「ふたり」と訳しているのも、妙に気になった。
スペイン語なら、たしかにlos dos かもしれないなあ、とは思うけれど。
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