詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」

2013-05-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」(「no-no-me」16、2013年04月10日発行)

 中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」はタイトルどおり「道」に関してのことばと、それについての感想をつづったものである。

波の間に間に進むべき道がはっきり見えるのだと瀬戸内海航路の船長さんはいうのだけれど、ほんとうだろうか。だからコンピューター・パネルはいっさい見ないのだと。

 陸上で暮らしている人間には見えなくても、海で生活している人には見える道がある。--ということから書きはじめて、イギリスのトレッキング・コースに農場を買ったアメリカ人歌手と地元のひとの反発。(アメリカ人が敷地内進入禁止という措置をとったことに対する反発。「道はむかしからそこにあった」のに……。)そして、ローマの道、インカの道、といろいろ見聞きした道のことが書かれ、あわせて中上の思ったことがだれに言うとなく--つまり、日記の形で書かれている。
 最初は「ほんとうだろうか」という短いものだったが、だんだん、それが長くなる。瀬戸内海航路の道、イギリスの荒地(?)の道、ローマの道、インカの道と道が増えるたびに感想が重なり、その感想のなかに知らず知らず、一本の道ができる、という感じだ。静かに浮かび上がり静かに消えていく足跡の道。その感想の道は、感想を呼び起こした具体的な道とのあいだに、一種、不思議な距離感をつくる。この「間合い」というか、「距離感」が「静かな」という印象を呼び起こすのだが、それが中上の詩の力である。
 最終連。

暗い冬の日。終日、エズラ・パウンドの詩を読んですごした。炬燵に足を突っ込んで。『キャントーズ』の第二篇を。空からは霙がしきりに墜ちていたけれども、陽光輝くギリシアの海では玻璃色の波間を海豚の群れがさかんに跳ね、船の甲板では葡萄の蔓が蛇のように這いまわり、葡萄酒がかぐわしい川となって流れた。船と酒とに酔いながら、私は思った。のちにファシズムに加担したパウンドの眼に見えていたのはどんな道だったのかと。

 不思議な「距離感」は、たぶん、批判をしないということろにある。批判というのは自己主張である。では、自己主張をせずに中上は何をするのか。「聞く」のである。相手の声を。聞いて受け止める。
 これは簡単なようで、なかなかむずかしい。
 聞くとどうしても、何か言いたくなる。そして中上自身もたしかに言うのである。聞いた瞬間に中上の「肉体」のなかで起きたことが、そのままことばになって出る。たとえば、海の上なのに道が見えると聞けば、「ほんとうだろうか」と。でも、そこから中上は自己主張しない。もう一度、相手に耳を傾ける。そうすると「コンピューター・パネルはいっさい見ない」という声がもう一度聞こえてくる。それは、コンピューターのパネルのなかに道があるわけではない、という主張かもしれない。たしかにコンピューターの中には道はないね。コンピューターが描き出すのは、海と船の位置、それをたとえば上空から見たものとしてそこに描き出すだけで、それはあくまでコンピューターの見た道(機械が見た道)であって、道そのものではない。道そのものではないものを、私たちは道と信じてしまうことがある。
 では、道はどこにある?
 「波の間に間に進むべき道がはっきり見える」。この「見える」のなかに道がある。「見える/見る」のは「眼」である。それが最終連にも出てくる。「パウンドの眼に見えていたのはどんな道だったのか」。あ、「道」は「肉体」の外にあるのではなく、「肉体」の内部に、「眼」といっしょにある。その人の「肉体」となって存在する。
 「道」は「眼」といっしょにある。だから、それは「他人」には見えない。もし「道」が見たいなら、その「肉体」を共有しないといけない。言い換えると、瀬戸内海の海の上の道を見たいなら、船長さんの「肉体」にならないと、それは見えない。他人の肉体になるのはなかなかむずかしい。
 道で倒れて呻いている人を見たときは、瞬間的に、その人の「肉体」になってしまって、あ、腹が痛いのだと「わかる」けれど、そのとき道に倒れている人が何を見ているか--それは、なかなかわからない。胃ガンで死んだだれかを見ているのか。そのときの苦しみを見ているのか。「肉体」は自分の「肉体」が覚えていることをつかって、他人と「肉体」を「分有/共有」することはできるが、自分の「肉体」がおぼえていないことは、なかなか、それができない。けっしてできない、と言っていいかもしれない。
 だから、イギリスの荒れた農地で暮らす「肉体」を「共有」できないアメリカ人の歌手は平気で「敷地内通り抜け禁止」と自己主張してしまう。そこに住むイギリス人は「肉体」(肉眼)を「共有」しているから、その、アメリカ人には見えない道が「見える」。道はいつでも「肉体」のなかにある。
 僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる、ではなく、「僕の肉体のなかに道はできる」なのである。その「道」は、おなじことを体験する(肉体で味わう)と、知らず知らずのうちに「肉体」がおぼえて、それをつかえるようになるという形でできる「道」なのである。
 腹が痛くなったら、腹を抱えてうずくまる--というのも、痛みと向き合う対処療法としての「道」なのかもしれない。自転車に乗ることを一度おぼえると、いつでも乗れる。そして、その乗り方(肉体の動かし方)はことばで説明するのはむずかしいが、自転車に乗れる人ならだれでもその「道=肉体の動かし方」を、ことばにしないまま「共有」している。「肉体」そのものを共有している。
 中上は、そういう「道」に、つかず離れず、という間合いでついて行っている。そうすると、いろいろなものが、中上と船長さん、イギリス人、インカの文明を築いた人、エラズ・パウンドのあいだに「見えてくる」。--この「見えてくる/見える」は、
 うーん、
 ことばで言いなおすのはむずかしいね。でも、あ、中上にはそれが見えているのだということは、中上のことばを読むと感じられる。中上は瀬戸内海航路の船長さんの「肉眼(見える)」に「ほんとうだろうか」と言っているが、この「ほんとうだろうか」は強い疑問ではなく、「感心(関心?)」の表明である。そうなんだ。あ、そういうことってあるのか、という反応である。そして、その他人の肉体(見える)を信じて、それに中上がついていく。相手に中上の肉体をしばらくあずけてみる。(船に乗っているあいだは、船長さんに肉体そのもの、いのちそのものをあずけるしかないからね--大げさに言えば)。他人を生きるのである。
 でも、いつでも他人に「肉体(見える)」をあずけっぱなしにはできない。疑問もでてくる。そういうときは、そのまま、疑問をぶつける。自己主張し、他人の「肉体」を批判するのではなく、踏みとどまる。「肉体」を「分有/共有」しない。「肉体」の個別性を守る、ということかもしれない。

 この「肉体」の「分有/共有」を追っていく中上のことばは、とてもていねいで静かで落ち着いている。簡単に思ったことを書き流しているだけのように思えるけれど、ほんとうはとても深い。大きな川の流れの水面がゆったり平らに見えたとしても、そのそこは凸凹であり、「いま/ここ」を流れている水は激しい曲折を潜り抜けてきた水であるように。






モノマネ鳥よ、おれの幸運を願え (ブコウスキー詩集)
チャールズ ブコウスキー
新宿書房
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原田亘子『忘れてきた風の街』

2013-05-30 23:59:59 | 詩集
原田亘子『忘れてきた風の街』(空とぶキリン社、、2013年05月01日発行)

 原田亘子『忘れてきた風の街』は「覚えている」ことを書く。この「覚えている」は、そして「頭」で覚えているのではなく、「肉体」で覚えていること、である。
 「愛でる」という作品には「覚えている」という動詞が出てくる。

用水の中から抜けでてきた その時の
湯気を
まだ立ちのぼらせているような
赤ん坊に
大人たちは見入っている

ほほう
ほほうと 愛でている

自分たちもそうされてきたはずの
はるかな記憶は
もう覚えていないのだが

 この「覚えていない」は「頭」では「覚えていない」である。つまり、「ことば」で再現できない。自分が生まれたとき、両親やまわりのひとが「ほほう/ほほう」と感嘆の声をもらしてみつめていたことを、「頭」では覚えていない。けれど、「肉体」はそれを覚えている。それはかなり奇妙な言い方になるかもしれないが、実際のそのときの「体験」そのものを覚えているというよりも、繰り返し繰り返し、大人が赤ん坊を見て、無防備に感嘆の声をもらすのを聴くたびに、そういうことが自分にもあったのだろうと思い返すうちに「肉体」にしみこんでくる何かである。ほんとうは赤ん坊のときの「肉体」の記憶というよりも、いままで生きてくる過程で見てきた赤ん坊と大人たちの関係から、なんとなく感じ取ってきたものの積み重なりの何かである。繰り返しながら「思い出す」、そしてそれを「覚える」。「思い出す」ということと、その「思い出」を「覚える」。繰り返し繰り返し、赤ん坊と大人の繰り広げる感嘆の場を見ているうちに、「肉体」が赤ん坊と大人の両方に「分有」されながら味わう何かである。「肉体」の「分有」(あるいは「共有」)は、たいていの場合、ことばにされない。ただ「肉体」そのものが「分有」されるだけである。
 道にだれかが倒れて呻いている。あ、腹が痛いのだと思う。そのとき、倒れている人と私の肉体は別個のものであり、私の腹が痛いわけでもないのに「痛い」とわかる。そういうとき、私は、そのだれかと「肉体」を「分有/共有」しているのだが、そういうことをいちいちことばにはしない。なぜ、自分の「肉体」でもないのに、それを「痛い」と感じるか、ということを「論理化」しない。ことばを通り越して「腹が痛いのだ」とだけ思う。そして、そのつぎの行動をする。「頭」で整理し、明確に言語化しないまま、なんとなく「わかる」(なんとなく、なのだけれど、絶対間違えない形で「わかる」)ことがある。「覚える」つもりはないけれど、「覚えてしまっている」ことがある。そして、それがあまりにもしっかりと「覚えてしまっている」ので、「覚えていない」と同義になってしまっていることがある。「頭」を潜り抜けずに、「わかる」ことがある。
 腹を抱えて道端にうずくまり、呻く人を見て、「腹を抱えるのは、その部分に痛みがあるからである。たの肉体をその痛みに重ね合わせることで、その痛みを他の肉体の部分に分散させようとする気持ちが働くのかもしれない」などと、いちいちことばにするひとはいない。そういう「頭」を潜り抜けなくても、「腹が痛い」ということは「わかる」。「頭」を潜り抜けないからこそ「わかる」。いちいちことばにするなんて、ばかでしょ? 何もわからない人間がすることでしょ? 

 ずいぶん脱線したような気がするが……。

 「頭」では「覚えていない」ことを「肉体」は「覚えている」。(「肉体」で覚えると「頭」を省略する、と言える。自転車に乗ることを「肉体」が覚えると、右足でペダルを強く押して、ハンドルは中央になるようにてんてんなどとはことばにしない。「頭」でいちいち命令せずに「肉体」がかってに動く。)その「覚えている」ものをしっかりと「思い出し」、ていねいに「動かす(つかう)」と、そこから「肉体」のもっている「ひろがり」というものがあらわれる。「肉体」が新しくなり、生まれ変わるような気持ちになる。
 そこに詩がある。

新芽のような
輝きとやわらかさにあてられ
大人たちは胸のあたりは一面
さくら色にそまって
むずがゆいほどだ

赤ん坊は
自分がそんな大仕事をしているなんて
つゆ知らず
小さな体のどっしりした重みを
母親の細い腕にあずけて
しゃぼん玉のようなあくびを
しきりにくりかえしている

 「肉体」は生まれ変わりながら引き継がれていくということが、とてもよくわかる。大人は胸をさくら色に染めて、赤ん坊になるのだ。大人のまま赤ん坊になり、「大仕事」をするのである。このとき、赤ん坊と大人の肉体は別々に離れているけれど、それは「意識」の問題であって、ほんとうは「ひとつ」になっている。
 --逆ではないか、「肉体」は離れて存在するが「意識(精神)」として「ひとつ」になるのではないか、という反論が聞こえてきそうだが……。
 そうではなく、そこに「肉体」が別々に存在する、「赤ん坊の肉体」と「大人の肉体」がある、と捉えられるのはあくまで「意識」である。「意識」が「赤ん坊の肉体」と「大人の肉体」をわけて存在させるだけであって、「肉体」はそういう面倒なことをしない。「肉体」は「ひとつ」になってしまう。「いのち」になって、ただ生まれる。「生まれる」という「こと」があると言えばいいのかもしれない。

 先日、秋亜綺羅が丸山豊賞を受賞したときの記念講演で「生まれたばかりの赤ん坊と母親のあいだにはことばはないけれど詩はある云々」と言った。ことばのないことろにも詩はある、と言った。--私は、こういう表現を、どことなく「うさんくさい」と感じている。うまく言えないが、「あ、そうだね」と与することができない。
 私の「感覚の意見」では、そこには「肉体」があるだけ。そして、その「肉体」は「流通言語」ではとらえられない。「肉体」そのものが、その瞬間に「生まれてくる」新しいものだから、それまでのことばを拒絶するものだから。
 生まれたばかりの赤ん坊と母親のあいだにはことばはない--のではなく、その「肉体」は、それまでのことばを拒絶している。赤ん坊と母親は、いわば「無意味」なのである。「意味」以前なのである。「無意味」「意味以前」であることによって、「意味」を超越する。そういういわば「激しい肉体の運動」が、「こと」として、そこで起きている。その「おきていること」にどうやって近づいていくか。「肉体」が「覚えていること」を重ねながら生まれ変わるか、ということが問題なのだと思う。

 また、脱線した。

 複数の人間が存在するとき、「肉体」は別個に存在する--というのは、「頭(精神)」がでっちあげた幻である。合理的に思考を整理するための「便宜」である。「肉体」はどういうときでも、「こと」が起きるとき、「ひとつ」である。
 「田打ち桜」という作品。北国のある地方では、コブシを「田打ち桜」と呼ぶ。

田打ち桜
はじめて耳にする言葉だった
 田打ちの農作業が始まる頃に咲く花だから--
農家に生まれ育ったその人が
温かい水のような声でおしえてくれる

 コブシを「田打ち桜」と呼ぶとき、「その人」は田に鍬を入れる人と「肉体」を「ひとつ」にしている。いっしょに田を鋤いている。田を打つという「こと」をしている。それは何度も何度も繰り返されてきて、「ひとつ」の肉体として、そのつど、春に生まれる「肉体」である。コブシの花といっしょに生まれ変わる「肉体」である。
 極端な例をあげて言いなおせば、コブシの花を見るとき、そこには「稲を刈る」という「こと」は存在しないし、そういう「肉体」も存在しない。田の草をとるという夏の「肉体」も、そのときには存在しない。そして、そういう「肉体」が存在しないときには、「稲を刈るには何人必要だ」というようなことも考えない。そういう「思考」は生まれない。「肉体」は「精神(思考)」そのものであり、「思考」というものは便宜上のものであって、そこには「肉体」しかない。
 そういう「生身」の「肉体」の再生(生まれ変わりの瞬間)に出会ったとき、そこに居合わせた「肉体」も「生まれ変わる」。新しくなる。そうしないと、そこで起きている「こと」に入っていけない。「こと」を体験したことにならない。

温かい水のような声でおしえてくれる

 原田は、コブシを「田打ち桜」と呼ぶ「肉体」にであったとき、その人の「声」を「温かい水」と実感する。そう感じ取る「肉体」へと生まれ変わっている。「温かい水」を感じ取る「肉体」になり、原田は同時に、「田を打つ人」にもなっている。打った田に水がはいってくる。入ってきた雪解けの水が田のなかで日にあたためられ、温かくなる。それを感じる田を生きるひとの「肉体」になる。
 「肉体」がその自分という枠を突き破って、他人の「肉体」と「ひとつ」になる、他人の「肉体」のなかに「生まれ変わる」とき、それまでのことばは「無意味」になる。その「無意味」のかかえこむ矛盾が、詩、ということなのかも。

 「世界」には「肉体」しか存在せず、その「肉体」は「ひとつ」なのに、「意識」という病はそれを「複数」に分離し、整理する。でも、「肉体」はときどき、何か強烈な「別の肉体」に出会ったとき(「頭」では整理できない「肉体」にであったとき)、「ひとつ」であることを思い出し、「ひとつ」になる。--という矛盾。「複数」が瞬間的に「ひとつ」になるという矛盾が起きる。
 「肉体」の「矛盾」が詩であり、思想なのだ--とメモしておく。



外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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田島安江「港にて」、陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」

2013-05-29 23:59:59 | 現代詩講座
田島安江「港にて」、陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年05月29日)

 秋亜綺羅のまねをしてみよう、というテーマで作品を書いてみたのだが……。
 いくつかの作品を読む過程で、秋亜綺羅の詩の特徴は、
(1)同じことを繰り返す
(2)繰り返すことによってリズムが生まれる
(3)繰り返すことによって、しつこい感じもする
(4)繰り返すことによって、わからないこともわかったようになる
 というような、「繰り返し」に注目する発言が何回かあった。
 また論理的であると同時に逆説を盛り込んでいるという指摘もあった。繰り返しによって論理を強調し、その論理を利用して逆説に飛躍する--その瞬間の刺戟のようなものが、秋亜綺羅の詩の特徴である--というようなことは、あとでわかったことで、書いているときは手探り。

 その手探りで書かれた、秋亜綺羅風の作品。田島安江「港にて」

カフェぶどう園の前を
カサカサさんが傘をさして通り過ぎる
ビルの廊下はずっと続いている
ビルの廊下に雨は降らない
雨の降らない廊下を
カサカサさんは傘をさして通り過ぎる
濡れない廊下に傘はいらない

わたしの前を
傘をさしたカサカサさんが歩いて過ぎる
ビルの廊下に水が滴る
ビルの廊下に雨の道ができる
濡れた道に
光が射していることに
後ろ姿のカサカサさんは気づかない

カサカサさんはぶどうの蔓をくぐって
店のなかにはいってくる
カサカサさんとふたり向き合って
干しぶどうになりかけている店主が
淹れるコーヒーを飲む

 廊下と傘(雨)のことを長く書いている。1連目の「ビルの廊下に雨は降らない」というのは「常識」である。ここに、すでに「論理」がある。しかし、その「論理」を否定するようにカサカサさんは傘をさして歩いている。これは奇妙。何かしら現実とは「矛盾」することをやっている。この「矛盾」を逆説?というか、論理のなかの非論理と見ることができる。非論理によって、論理が強調される。
 なのに、2連目、「傘をさしたカサカサさんが歩いて過ぎる/ビルの廊下に水が滴る」。これはビルの廊下には雨は降らないけれど、傘の上には雨が降るからである。一般的に、雨が降ったとき、ひとは傘をさす。傘の上に雨は降っている。そうであるなら、傘をさしている上には雨が降っているという「論理」を出発点にして、そこから「現象」を押し広げていくとどうなるか。「ビルの廊下に雨が滴る」。これは、あくまで傘から滴った雨だね。
 だから、傘をさしてカサカサさんが歩いたあとには、雨の道(雨の滴の道)ができる。きわめて「論理的」である。そして、廊下には雨は降らず、傘の上だけに雨は降るのだから、そうやってできた雨の道に光が指すのも「論理的」である。
 さらに、その「雨の道」はカサカサさんが歩いた後ろにだけできるのだから(僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる--である)、前を見て歩いているカサカサさんには「雨の道」、さらにその道に「光がさしていること」は当然見えない。気づかない。これもきわめて「論理的」なことばの展開である。
 そして、その「論理的」なことばの展開が「不条理」にたどりつくというのも、とても秋亜綺羅っぽい。
 秋亜綺羅はもっと「論理論理」した感じでことばを動かすので、「後ろ姿の」というようなしゃれたことばは出てこないだろうと思う。「後ろ姿」には「肉体」があるが、こういう「肉体」のつかい方を秋亜綺羅はしない。「論理」のなかに「肉体」を組み込むことができないのは、秋亜綺羅のことばの欠点のようなものだが、田島はそれをらくらくと乗り越えているところが、私にはとても面白く思えた。
 3連目は、それまでの「論理」の詩をぱっと突き放す。「カサカサ」という音(傘をふくむ音--傘をふくむゆえに雨、水分をふくむ)を、えっ、そうでしたっけ、とそらとぼけて乾燥のカサカサにかえて、書き出しのカフェぶどう園へ引き返す。カサカサ(乾燥)さんに対応するように店主はカサカサのぶどう(干しぶどう)になっている。このユーモアもいい。秋亜綺羅の笑いはどうしても「知的」、つまりブラックな感じがつきまとうが、田島の笑いには「イヤミ」がない。「頭」ではなく「肉体」が笑う。
 「港にて」というタイトルとはかみ合わないのは、私の引用が詩の前半だけだからである。後半に田島の書きたいことがあったようだが、私には前半がおもしろかった。



 陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」は、タイトルの抒情的で、そこに秋亜綺羅がまっすぐにあらわれている。その行は、

あなたが
かゆいのか密かに痛いのか
気が合わなかっただけなのか
だからといって愛せないというわけではないけれど
でもお礼は言わないとね
何に対するお礼だったのでしょう
相変わらずビー玉の割れたところを見たことがないのだけれど
でもお礼をいわないと

 という具合に、脈絡もなく出てくるところがとても魅力的だ。抒情は周囲に吸収されず(周囲と和解せず?)、孤立していると輝かしい。郷愁を誘う。なぜビー玉なのか、理由はいっさい書かれず、ただ、とつぜん「過去」が「いま/ここ」に噴出してくる。それがとても鮮烈な印象である。
 次の連もおもしろい。

巫女が煮ているのは夕焼けか
つまらない
なんだかつまらない
つまらないのは煮物の匂い
しょうゆとみりんとさとう
の、これでもか
って関係性が
肩甲骨の初夏のクスクスクスだよ
なぞっていくのわかるかな
きょうのつまらないはそれ
それだけわかればなんだかいいか

 「つまらない」ということばが、かなりかわっている。陶山が「つまらない」と書いている「巫女が煮ているのは夕焼け」というのは、ちっとも「つまらなくない」。おもしろいと言っていいかどうかは、わからないが、少なくとも「つまらない」ではない。なぜって、「夕焼けを煮る」ということはできない。つまり、そこには不可能というか、「無意味」が書かれている。詩にとって「無意味」は最大の武器である。無意味こそが詩である
 「無意味」と矛盾という形でことばにしっかり結びつけたまま、その「つまらない」を動かしていく展開もおもしろい。秋亜綺羅は露骨に「頭」で「論理」を動かすが、陶山は「肉体」で動かす。
 「つまらないのは煮物の匂い/しょうゆとみりんとさとう」と、「煮ている」を強引に「煮物」にし、そこから「におい」を引き出すところが、あ、すごいなあ、陶山は中学時代の池井昌樹か、と私は思ってしまったが……。
 で、この「肉体」が覚えている「論理」を、

の、これでもか
って関係性が

 と口語をまじえながら、同時に「関係性」というような「頭」のことばで攪拌するところが、とても刺激的だ。
 この2行、秋亜綺羅に盗られそうな感じがするなあ……。
 この連の展開は、秋亜綺羅に「似ている」というのではなくて、秋亜綺羅を「煮て」、食べて、肉体にしてしまって陶山のことばが動いたという感じで刺激的だ。

博多湾に霧の出る日は、―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
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芝憲子「三月の水槽」

2013-05-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
芝憲子「三月の水槽」(「パーマネントプレス」4、2013年05月10日発行)

 「考え」というのは抽象的なものだが、その抽象的なものには「頭」だけで考えたものという印象を引き起こすものと、「頭」で考えているということを忘れて、「肉体」が引き込まれるものがある。私は「頭」で考えられたことがらに対しては、どうもうさんくさいと感じ、気が引ける。いや、「肉体」が引ける、というべきか。だから、ちょっと離れた場所で、石なんかを投げてみる。--ことがある。きのう、おとついの「日記」はそういうものだろう。
 あんなことは書かずに、芝憲子「三月の水槽」について書けばよかったなあ。でも、書いたことは仕方がないし、書かなくてもそう思ったのだから同じことか……。石を投げつけないことには、どうしてもがまんできないこともある。
 「1」の部分。

ふとおもうとかんがえている
独り 電気を点けない夜も
おおぜいと行き交う昼も
なぜいないのだろう
こんなにかんがえているのに

 いきなり「ふとおもうとかんがえている」(ふと思うと考えている、かな?)と始まる。抽象的、しかも、「思う」と「考える」の区別がよくわからないのに、あ、思うと考えるは芝にとっては別なことなんだということだけはわかるという奇妙な書き出しなのだが、引き込まれてしまう。わかることと、わからないことがある、というのは他人のことなのだから、当たり前であって、その当たり前に安心して(?)引き込まれるのである。あ、ここに芝がいる、いま芝に触ったという感じがする。
 田中勲の「冬の書」の場合は、変な言い方になるが、わからないのに、「わからない」という実感が起きない。あ、田中は「文学」のことばを動かしている。その「文学」は私とは直接関係がないから「わからない」のだけれど、なーんだ、田中は自分の「わかっている」文学のなかだけを動いていて、そこからでないんだなということが「わかる」。で、あ、私とは無関係なことをしていると感じてしまうのだ。知らずに触れてしまって、ぎょっとして、あ、離れなくっちゃ、と思う感じ。
 芝の書いていることばからは、そういう印象は起きない。芝の書いていることが「わからない」のは、芝がほんとうに考えている(思っている)からなのだと感じる。だから、もうちょっと、触り返したい感じ。ここを触ったら、どうなるかな、という感じ。それを知りたい。--こういうことは「感覚の意見」なので、いいかげんなことを言うなと田中あたりから反論がくるかもしれないけれど。
 で、2行目の、

独り 電気を点けない夜も

 この具体的な「時間」が、そのまま「肉体」となってあらわれてくる。そこに芝がいるのが「見える」。「肉体」を直接描いているわけではないけれど、そこに「肉体」がある。そして、私はその「肉体」を見るとき、「肉体」がわかる。「肉体」のなかで動いているものが「わかる」。この「わかる」は道で倒れて呻いている人を見て、「腹が痛いんだ」と「わかる」のに似ている。自分もそうしたことがある、ということが「わかる」のである。「思い出す」のである。「肉体」が「覚えていること」が「いま/ここ」に「肉体」のまま、あらわれてくる。そのとき、芝が何を感じたか、具体的なことはわからないけれど、電気をつけるということに気もつかず、しらずしらずに集中して何か、「いま/ここ」にいながら「いま/ここ」ではないところとつながろうとしている感じがある。
 で、「いま/ここ」ではないところとは、なんだろう。
 2連目。

いっしょに話したり
駅へ向かう人混みを歩いたりしたことが
どんなに幸福だったか
ときがもどったら こころから楽しんだのに
どうしてももういちど話したいことがあった

 「いっしょに」が「いま/ここ」とは違う。「いま/ここ」は「独り」。だから「いっしょに」を思う/考える。もし、「いっしょ」だったら、「おもう/かんがえる」ではなく、「楽しむ」「話す」なんだね。
 このとき動く動詞は、抽象的ではない。だれかと「いっしょ」なら、それは「具体」になってしまう。二人の人間がいれば、そこに具体的な「肉体」があり、そのときどんな抽象的なことばを話したとしても、声、それをことばにする筋肉、聞き取る神経は具体だからね。
 「どうしてももういちど話したいこと」の「こと」は「内容/意味」を指すけれど、でも、話してみれば「内容」よりも「話すということ」の方が大事なことがわかる。したかったのは、「話す」という「動詞」である。そこには「肉体」の接触がある。それが「したい」ことである。
 そういうことが「いっしょに」ということばとともに私に向かって動いてくる。「肉体」が動いている。だから、引き込まれる。「ふとおもうとかんがえている」はわからないけれど「いっしょに」ということばを言わずにはいられないということが「わかる」のである。
 でも、まあ、これは、まだ「抽象的」の範疇といえば、その範疇かもしれない。ところが、3連目。

いなくなって
穴があいたというより
からだの上に重い水槽が据えられた
おしつぶされる
水は記憶が渦巻いて流れない
く る し い
わたしの発する熱で
水は沸騰し
蒸気になり
やがて軽くなるだろうか

 こんな感じを私は「肉体」で思い出せない。そういうことをした「覚えがない」。だから、「わからない」のに、「わからない」はずなのに、その「わからない」を超えて、
 あ、すごい、
 と思うのである。「肉体」を感じるのである。こんな「肉体」見たことがない--というのは、ものすごい美人、たとえばイングリット・バーグマンがいじめられて苦悩するのを見て、うーん、ぞくぞくする、いじめてみたいと感じるような……同情しなきゃいけないのに、加害者になってもっと苦しむバーグマンをじかに確かめたいと思うような感じに似ている。「白い恐怖」や「ガス灯」とか、ね。「倫理的行動」ではなく、そういう「肉体」とともにある何かにじかに触れたい感じといえばいいのかな。
 芝のことばに則して言うと。
 芝はここでは苦しんでいるのだけれど、その苦しみを私の力で何とか救ってあげたいと思うより前に、わっ、すごい。芝が苦しむと、そのときの発熱で水がわきはじめる。もっともっと沸騰し、全部水を蒸発させてしまうところを見てみたい。
 変でしょ?
 でも、その変なことを「肉体」で感じながら、「肉体」を私は芝と「共有」する。いや、私にはできないことをするために、私は私の「肉体」を芝の「肉体」に「分有」させる。私の「肉体」を芝に押しつけ、芝に代わりに体験してもらう。そうすることで、おおっ、「肉体」にはこういうこともできるんだ、と錯覚する。私の「肉体」が実際にそうするのではなく、芝がそうするのに、自分でもそうした気持ちになってしまう。
 道に倒れて呻いている人には申し訳ないが、それを見ながら、「あ、腹が痛いんだ」、とっても苦しいんだと思うのに似ている。自分の「肉体」はぜんぜん痛くないのに、「痛み」を感じるのに、どこか似ている。つながるものがある。
 「肉体」の「分有/共有」は、それ自体が「矛盾」というものだけれど(肉体は「分有/共有」できないものだから、「切断」すると「肉体」ではなくなるものだけれど)、そういう「矛盾」をとおしてしかあらわすことのできないものが「思想」なのだろう。「思想」はだから、「矛盾」を含んでいないと「思想」とは言えないのかもしれない。
 芝の詩の最終連は、そういう「矛盾」が結晶している。

いないことが
いちばんいることだったのですね
いないことが
いちばん近いことだったのですね

 「いない」が「いる」、「いない(遠い)」が「近い」。これは「肉体」がつかみとる矛盾という名の「真実」である。







骨のカチャーシー―芝憲子詩集 (1974年)
芝 憲子
潮流出版社
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田中勲「冬の書」

2013-05-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中勲「冬の書」(「パーマネントプレス」4、2013年05月10日発行)

 私は、どうも他人を作品を批判したいという気分のなかに落ち込んでいるのかもしれない。ここに感心した、ここがおもしろい、という気持ちになれない。きのう脇川郁也「痛みのかたち」について感想を書きはじめたときは、まだ、何か、脇川のことばの「魅力」の在りかを探ろうという気持ちもあったのだが、書いているうちにだんだんそれが消えて、妙な感想を書いた。
 そのつづきの気分にいるので、田中勲には、ちょっと申し訳ないが。つまり、最初から「ここがいい」という気持ちのないところから書きはじめることになるのだが。(といっても、私は結論へ向けてことばを動かすのではなく、ことばが動いていくところまでたが書くだけなので、途中で、これはいいなあ、と絶賛にかわるかもしれない。そういうことがしょっちゅうあるのだが……。期待してもらっては困るけれど。)
 田中勲「冬の書」。どこが気に食わないか。

深夜、雨戸が微かな音を立てて
冬という手が
私刑の書をめくり
一瞬、前触れなしの稲妻で
寒々しい降霊の凶暴な予感を告げる

 この書き出し。このすべてがばかばかしい。なぜばかばかしいかというと、ここには人間の「肉体」がないからである。「冬という手が/私刑の書をめくり」には「手」という「肉体」の部分を指し示すことばがあるが、この「手」に私は私の「肉体」の「手」を預けることができない。私の「肉体」を分有できない。そこに書かれている「手」を「肉体」として「共有」できない。
 なぜか、というと。
 そこにある「ことばの肉体」は、田中の「ことばの肉体」というよりも、「流通言語としてのことばの肉体」だからである。「手が/書(本)をめくる」というのは「定型」かした「用語」である。さらに、その「手」には「冬という」という修飾語がついているが、「冬の手」というのも「流通言語(文学言語)」にすぎない。
 田中はここでは自分の肉体はどこかに置き去りにして、「ことばの肉体」を「文学の肉体」とセックスさせている。「文学」とセックスし、文学に「恍惚」をあたえているつもりかもしれないが、うーん、「文学」でオナニーをしているようにしか感じられない。
 「私刑の書」というけれど、その「私刑」が見えない。田中はその「私刑」にどうかかわったのか、ぜんぜんわからない。「私刑の書」ということばをつかってみたかっただけなのだろう。「私刑」ということばの持っているイメージに酔って、(酔わされて?)、「肉体」が意識不明になってしまったのだろう。

寒々しい降霊の凶暴な予感を告げる

 このごちゃごちゃした「酩酊文」は「文学的精神」にしか書けないね。「肉体」は(少なくとも私の肉体は)、いったいどこをつかんでいいのかわからない。「降霊」「凶暴」「予感」。どれがいちばん書きたいことば?
 でも、この1連目は、まだ「冬の風景」らしさで統一されているかもしれない。深夜、冬(の風)が雨戸を揺する。リンチのように人への思いを無視して(自然はいつでも非情である)、冬が(雪が)稲妻とともにやっている。田中の住んでいる富山では、雪をもたらす雷を「雪起こし(鰤起こし--鰤のシーズンと雪のシーズンが重なるから、こう呼ぶ」と言うが、まあ、そういう情景のなかでことばが動いていると受け止めることはできる。そういう情景のなかで「稲妻」と「凶暴」「予感」が呼応しあっている--ゲシュタルトしていると受け止めることはできる。
 ところが、 2連目。

かつて転戦する架空のメディアも
極寒の地へと追放された
聞きかじりのマヤ文明の古代終末論の空々しさ
庭には密かな白い甕よ、そして
コトリと聞こえた
冬の人、恥骨の恥辱よ

 ことばがただ「文学」っぽく集められている。「転戦」「架空」「極寒「「追放」「終末論」。田中の「意識(精神)」のなかではゲシュタルトされているのかもしれないが、そこにはどんな「肉体」も存在しない。「恥骨の恥辱よ」というちょっと気の利いた「漢字遊び」も、それがどんな「恥辱」なのか書かれないかぎり、ことばを統一はしない。1連目の「私刑」と同じように、あからさまな「文学用語(文学流通言語)」にすぎない。
 





迷宮を小脇に
田中 勲
思潮社
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脇川郁也「痛みのかたち」

2013-05-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
脇川郁也「痛みのかたち」(「季刊午前」48、2013年03月20日発行)

 脇川郁也「痛みのかたち」を読みながら、詩は昔はこういう形をしていたなあ、とぼんやりと思った。冬の朝、バスのなかで腰の痛みを感じるところから書きはじめて、

冷たい冬の空が
こんなにも青いことが
僕の胸の痛みになる
(もし鳥が飛ばなければ
空のことはもっと判りにくい)と
詩人・犬塚堯は書いた
なるほど身体の痛みがなければ
その存在は確かなものではない

突きつめれば
身体のことだけが信じられることであったのだ
だが
信じるという心の動きは
身体の痛みように確かなことであるのに
死が訪れるとき
かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか
身体に宿っていたはずの精神はどうなるのか
身体が発する痛みによって生み出される感情は
正体もなく中空をさまようだけなのか

 昔はこうだったなあ、と感じたのは、きっと、ある体験から出発して、ことばが、ことばだけの力を借りて「考え」を動かしていく--事実を書いたあと、それに対する感想が動いていくという形式が、私には懐かしかったからかもしれない。
 「死が訪れるとき」以降は「体験」ではないね。ことばだけの世界。ことばが動いていって、そこに「意味」をみつけだそうとしている。「考え」を確立しようとしている。「意味」と「考え」は、このとき一つになる。ひとは、ことばを読むとき、そこに「事実」を読むというより「考え」を読む。--ほら、学校で、この文章を読んで作者の「考え」を要約しなさい、という感じ……。
 書かれていることに感動するのではなく、私は、この形式になぜか、ぼんやりとした感動を覚えたのだった。

 と書いたところで、私の感想は終わってしまうのだけれど、すこしだけ、補足。
 読み返してみて、この詩でいちばんおもしろいところは、では、どこか、というと実は私の場合「死が訪れるとき」以降の考えではない。私はだいたい「身体」と「感情/精神」というものをわけて考えないから、「死が訪れるとき/かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか」という問題では悩まない。感情は肉体といっしょにある、としか考えない。(これ以上は、私のことばの運動の問題であって、脇川の問題ではないので省略するが……。)
 で、自分では解決済みの問題なのに、なぜ、この詩を「懐かしい」という具合に思ったのか、そのことを書いておきたい。どこに脇川の「肉体」を感じたか、ということを書いておきたい。

突きつめれば

 連の変わり目に書かれた、この1行。そこに私は脇川を感じたのだ。脇川は「突きつめる」人間なのである。ことばが何かに触れる。その触れた部分をさらに押す--これが突きつめる。うーん、「押す」と「突く」は似ているが、「押しつめる」とは一般にいわないから、どこかがどこかがちょっと違う。「突く」というのは、そこにぶつかって、それを突き破って、そのままでは見えなかったものを発見するということかな? 押す+破る。「押し破る」「突き破る」。これは似ているから、まあ、そんな感じなのだと思う。
 で、そういうことだと仮定して。
 私が脇川のことばの運動を、なんとなく古い(懐かしい)と感じたのは、その「突きつめる」という運動の主語が「身体/精神」の「二元論」の「精神」の仕事として描かれているからかもしれない。
 脇川は「死が訪れるとき」ということばで考えているが、このとき省略されていることばがある。脇川は無意識のうちに「肉体」に死が訪れるとき、と考えている。この考え方でいいのかな、と私は疑問なのである。あ、これは、私が先に省略すると書いた部分に逆戻りというか、矛盾することになってしまうけれど……。

 「感情が、あるいは精神が死んだとき」肉体はどうなるのか。

 この問題が、脇川においては無意識のうちに放棄されている。「身体のことだけが信じられることであったのだ」と書いているけれど、その「信じる」も「精神」の運動であって、肉体そのものの運動ではない。
 「精神」を主語にして、「精神(思考)」の問題を「突きつめている」。「精神」の存在のありようを、「精神」はどう定義できるか。この「精神」に夢中になってしまう感じが「懐かしい」と感じた理由かもしれない--と、ここまで書いてきて、ぼんやりと思う。

 「現代詩」はこう書かなければならないというスタイルがあるわけではないが、この「ちょっと古い」と感じられる書き方は、なんといえばいいのか、詩に対する意識がかけているようにも感じられる。「古い」なら意識的な気がするが、「ちょっと古い」は昔身につけたことをそのままなぞっている感じがする。



ビーキアホゥ―詩集
脇川 郁也
書肆侃侃房
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フランチェスコ・ブルーニ監督「ブルーノのしあわせガイド」(★★★)

2013-05-26 23:08:18 | 映画


監督 フランチェスコ・ブルーニ 出演 ファブリッツィオ・ベンティボリオ、フィリッポ・シッキターノ

 映画を見ていると、「国民性」を感じることがある。「個人主義」の描き方、「成功」の描き方--つまり「人生」の描き方が国によってずいぶん違う。
 この映画は、家庭教師をしている中年の男と高校生の話である。高校生の方は知らないのだが、実はその中年男は父親である。高校生が不良・落ちこぼれで落第しそうなので心配している。
 というようなストーリーは、まあ、どうでもよくて。
 おもしろいのが、その家庭教師というか、勉強にラテン語(たぶん)の『イリアス』をつかっていること。古典が「日常」になっていること。そして、その「文学趣味」というのが、最後の方にきてなかなかおもしろい形で生きてくる。高校生が麻薬の売人からドラッグと金を盗む。売人のボスが高校生をとっちめにくる。ボスが息子を殴られたくないなら、父親が身代わりになれ、と言って父親を殴る。--そして、殴ったあと、なんと彼がかつての高校の先生だったことを知り、「先生だけが自分に高い評価をしてくれた」と態度を変える。そのとき、パゾリーニのことばなんかが引用される。ボスが覚えていて、空で言う。高校生は、この師弟の関係を見て、突然、「勉強」に目覚める。その後、高校生は「合格」すれすれぐらいのところまでいくのだが、判定会議に「不合格にして」と申し入れる。勉強したりない。これくらいで合格したら、1年間一生懸命勉強した学友に申し訳ない……。
 こんなこと、アメリカ映画じゃあり得ない。まず、ラテン語の文学がキーワードになることはないし、なによりも最後は生徒は合格するに決まっている。「勝利」が成功だからね。ハッピーエンドの「ハッピー」の形が「定型化」している。フランス映画じゃ、こんなことは「きざ」が浮いてしまう。実感がない。「特殊」であることを強調し、それなりの展開にはなるけれど、共感とは無縁のものになるだろうなあ。「いやみ」ったらしくなる。スペインでは……端から勉強なんかしないなあ。
 イタリア映画は、なぜか、こういうことが似合う。「古典」と「いま」がつながっている。「時間」感覚が違う。ローマ帝国の「文化」がそのまま「肉体」になっている。ローマの街中に遺跡が残っている。それは私のような旅行者には建物、彫刻くらいしか見えないが、「歴史」も「文学」として残っているのだろう。「肉体」になじむ形で、「ことば」として動いているのだと思う。「文学」を読むと、「肉体」が覚えている「歴史」がよみがえってくる。DNAのなかに「世界史」が入り込んでいる。だからタビアーニ兄弟の「塀のなかのジュリアス・シーザー」という映画もできるのだ。ことばを「覚える」のではなく、肉体が覚えていることばを「思い出す」という感じ。
 「肉体」が覚えている「生き方」があり、それが「肉体」の奥からよみがえってくる。そして、ひとりひとりになる。イタリア人だけではなく、イタリアの場合「地中海文明」そのものの、地中海のあらゆる人物のDANをイタリア人はよみがえらせる。そして、「いま」を「いま」ではなく「歴史」の幅(?)に拡大し、どんなドラマでも受け入れる。とっても不思議な「幅広さ」がある。そういうことができるのが、イタリア人なのだと思う。
 だから、というと変かな? 「時間」の感覚も違う。高校生は、合格できるのに「不合格」を選ぶが、彼にとっては1年なんて、何千年の歴史から比べたら1秒みたいなものなのだ。1秒、ここにとどまったって、「歴史」から見ればなんのことはない。「いま」を積み重ねれば「未来」になるのではなく、「いま」を充実させれば「歴史」になる。「未来」という目標から「いま」を律して生きるのではなく、「いま」を充実させることで「未来」を突き動かす。どんな「未来」になるか気にしない。どんな「未来」であるにしろ、「いま」がしっかりしていれば、それは「歴史」を生み出していく。
 うまく言えないが、そんな感じかなあ。
 だからね、と私は、また変なことを言うのだが、ポルノ女優が「自伝」執筆を父親に頼む。ポルノ女優の「歴史」というものなど、ふつうは「触れられたくない過去」の類だけれど、彼女にとっては違うのだ。それは「過去」ではなく「歴史」。映画が終わったあとのクレジットの部分で流れる売人のボスの「自叙伝」も「歴史」。だから、高校教師の父親は、最後を書き換えてくれ、もっと華々しいものにしてくれという元教え子の願いを拒否する。「歴史」は変えられないのだ。「歴史」を変えるなら、高校生の息子のように「いま」という時間に踏みとどまり、それが「正しく」流れるように生きるしかないのである。
 こんな「哲学」はイタリアでしか、あったかコメディーにできない。

 あ、書きそびれた。主人公の高校生がなんともいい感じだ。無理に何かをしようとしていない。「未来」に対して焦っていない。奇妙な「自信」のようなものを生きている。それが、イタリア人の「歴史」だとわかるのは、映画を見終わってからである。






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樋口武二『異譚集』

2013-05-25 23:59:59 | 詩集
樋口武二『異譚集』(「詩的現代叢書」1、詩的現代出版部、2013年02月11日発行)

 樋口武二『異譚集』は散文詩といえばいいのか、物語詩といえばいいのか、詩集のタイトルにならって、異譚詩と言えばいいのか……。まあ、そんなことは、どうでもいいかもしれない。どんな詩にも「物語」はある。つまり、そこにだれかが登場してきて、そこで時間が経過すれば、それは「物語」になる。
 最初に、あっ、と驚くのは「出来事」という作品。プールにだれかが浮いている。ひきあげてみると見知った男。ただし、

いつも私の悪い夢の中に住んでいて 晴れた空などを食べつ
くす 痩せた初老の男である。

 現実の世界の男ではなく、夢のなかの男。だから、そこに書かれているのは、夢のつづきなのか、あるいは現実なのか--その境界線のあいまいになるところに「異譚」があるということなのだろう。
 どういう「異譚」であっても、そこに人間が登場すれば、そこに「肉体」がある。それを描写することばに私の「肉体」は反応する。「肉体」が動けば、それが夢であろうと現実であろうと関係がない。
 この作品で私が驚いたのは、そこに人間の「肉体」だけではなく、「水の肉体」とでもいうべきものがでてきたからである。
 プールから男を引き揚げ、男を蹴飛ばすと、男は夕暮れの街へ去っていったのだが、

プールの水は その男の形に抜けて その場所だけが奇妙に
色褪せ 眺めているあいだにも腐蝕をはじめていた。

 私は私が人間であることを忘れて、水になった気持ちになった。水の肉体を感じた。
 水ではなく、たとえばやわらかいクッションか何かに、座っていたひとの形がくぼんで残っているのをみたことがある。それに似た感じで水の中に、ひとのかたちがくぼんで残っている--ということを「プールの水は その男の形に抜けて」と書いたのだろうけれど、水って、そんな具合にはならないよね。
 ならないのだけれど、そういうふうにことばにすると、その瞬間それが存在して見えてしまう。「ことばの肉体」が「水の肉体」に働きかけて、それが混ざり、ふつうに見ることのできる水とは違ったものになる。私の「肉体」はその水とは離れたところにあって、水を見ているのだけれど、それがまざまざと見えたとき--それが、なんといえばいいのだろうか、何か対象を見ているという感じにならない。
 なぜかというと。
 私はそのとき「プールの水は その男の形に抜けて」以外が見えなくなっているからである。世界には(いま/ここには)、それしかない。「私」という存在すらない。私は、その「見えているもの」そのものになっている。
 だから、その抜け形が色褪せ、腐蝕しはじめるとき、それは「見る」と同時に、自分の「肉体」そのものの変化のように思えるのである。
 言いなおすと。
 たとえば、だれかが道で倒れている。腹を抱えて呻いている。それを見た瞬間、「見ている」ということを忘れて、「あ、この男は腹が痛いのだ」と思う。他人の腹の痛みなどわかりはしないのに(それは芝居かもしれないのに)、腹が痛いのだと感じる。「痛い」になってしまう。「痛いという肉体」になってしまう。
 このときの、「私の肉体」と「道に倒れている男の肉体」の関係に似たことが、「水の肉体」と「私の肉体」に起きる。それは違うものなのだけれど、その違いをこえていっしょになってしまう。
 「痛いという肉体」になったように、私は「男の形に抜けた」水になってしまう。水になってしまっているから、ほかのものが見えないのだ。

 で。

 この詩の、「水の肉体」と「私の肉体(人間の肉体)」のことをさらに言いなおしてみると。
 たとえばだれかと親しくなる。そういう人間の「肉体」の感触が自分の「肉体」のなかに「なじみ」のようにして存在する。そのだれかが、ある事情で去っていく。そのあと、自分の「肉体」のなかに、その去っていったひとの「形」がそのまま抜けて存在する。そして、その形(輪郭? 接点?)のところから、「腐蝕」していく……。
 水に起きていることなのに、その「水の肉体」が、何か「自分の肉体」になる。
 こういう運動を引き起こしてしまう「ことばの肉体」。--それが、ここにはあるのだと思う。
 道に倒れている男について「腹が痛い」と思うのは、そのとき、「腹が痛い」という「肉体」を私とその男が「分有」するからである。(共有するから、かな……。)
 プールの水の「肉体」と、私の「肉体」には共通点がないので、腹が痛い男のようには「肉体」は「共有/分有」されないはずなのだけれど、「ことば」をとおすとそれができてしまうことがある。「ことばの肉体」が「分有/共有」されるのかなあ。
 「水の肉体-ことばの肉体-私の肉体」の「肉体」が重なり合うとき、「水」と「私」の混同(融合)が起きる。その融合を誘うものが「ことば」ということ。
 きちんと整理できないのだが、何か、そういうことが起きている。

 詩集全体の印象としては、何か、あいまいな、完結しないような印象の「譚」が多いのだけれど、この「プールの水は その男の形に抜けて」だけは強烈に、



 そのものになっている。「ことばの肉体」が「もの(存在)」と「人間」をとんでもない力で引きつけて、衝突させ、そこにビッグバンが起きる、という感じ。
異譚集―詩集 (詩的現代叢書)
樋口武二
書肆山住
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新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』

2013-05-24 23:59:59 | 詩集
新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』(思潮社、2013年04月30日発行)

 新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』は連詩の詩集。

 始まりは、

今朝
いつものとおり
お母さんが台所で
しんでいた

 これはこの詩集(この連詩)を特徴づけるものである。「お母さんが台所で/死んでいた」というのは特異なことである。そして、それが「いつものとおり」なら、もっと変である。ひとは一度しか死なない。「いつものとおり」というのは繰り返されるから「いつものとおり」なのであって、繰り返されないものは「いつものとおり」ではない。つまり、ここに書かれていることばは、「流通言語」でいう「事実」ではない。
 嘘から始まる詩である。
 新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀の3人は、嘘からことばを始める。しかし、どんな嘘であっても、その嘘が生まれてくるには何らかの必然というものがある。手がかりがある。で、それは何か--というようなことは、すぐにはわからない。そこには、ただ、ふつうの「事実」ではないもの、「流通言語」では言えない何かをこそいいたい、そこでことばがどんなふうに動くかを確かめたいという「思い」の「真実」だけがある。

 最初の大きな変化は「3」であらわれる。

悪母島
ここをそう名づけた原初の子供のように
男は海の彼方をみつめている

 これは、私(作者が3人のうちのだれであれ、女性)が「男は海をみつめている」と認識している(男が海を見ているのを見ている)という具合に読むことができる。主語の省略である。また、作者が嘘そのもののなかに入っていって、「私(女)」であることを放棄して「男」になっているのだとも読める。「物語」がここから始まっているとも読むことができる。3行だけでは、それがどちらかはわからないが、1、2をつづけて読んできて、さらに3人が女性であることを踏まえるなら、だれかが「男が海を見ている」のを見て、そうことばにしたのだと読むのが一般的かもしれない。
 ところが。

もうぼくを誰も捕らえてくれないんだ

 ということばが後半に出てくる。「私(女)」は姿を消し、「男(ぼく)」が「主語」として表に出てくる。
 この「男」は「嘘」との関係で言えば、嘘をとおしてでしか言えない「私(女)」の何かをあらわしているかもしれない。
 それは「いつものとおり」死んでいる母も同じかもしれない。嘘をとおしてでしか言えない何か、そういうものがある。

 「6」には、さらにこの詩を特徴づける(方向性を決定づける)ことばがある。

言葉を奪われるほど
女になりたい

 3人は、私は実際にあったことはないけれど女性であるはずだ。女であるはずだ。その3人のだれかが「女になりたい」と書いている。女で「ある」のに、おんなに「なる」。これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、そこに真実がある。「いつものとおり」死んでいる母と同じように、矛盾の中に、いままでのことばで言えない何かがある。
 だからこそ

言葉を奪われるほど
女になりたい

 なのである。言葉を奪われてしまうくらいに、女になりたい。
 これもまた、逆説というか、矛盾である。
 もしことばを持っていないなら、ことばを奪われることはない。そうすると、女とはことばをたくさん持っていて、しかも持ちすぎていて、だれかがそれを奪っていくくらいになったとき、女に「なる」。
 言い換えると、これは、

言葉を奪われるほど「の」
女になりたい

 ということであり、そうであるなら、欲望は「女になる」ということよりも「言葉を奪われるほど」の女になる、ことばを奪われるくらい持ちたいということになる。「過剰」のことばを持ちたい……。
 もちろん、そういう読み方ではなく、この「ほど」を「……すればするほど」という具合に読むこともできる。「言葉を奪われれ場奪われるほど」女になりたい。そう考えるとき、そこに、ふたたび「過剰」が顔を出す。ことばを「過剰」に奪われるとき、「女になりたい」。ことばがあるかぎり、奪われることばがあるかぎり、まだ女になったととは言えない……。

 まあ、どっちでもいい--というのはいいかげんな感想になるかもしれないが、どっちにしろ、女に「なる」ということがキーワードなのである。何かに「なる」。「いま/ここ」に「ある」存在ではなく、何かに「なる」ことで「いま/ここ」へとさらに深くかかわる。そういうことをするために、3人はことばを書く--ということをしているのだと思う。

切なく愛し合ったいとしい男の
言葉など知らない娘になる なりたい

 「言葉など知らない娘」とは、ことばを必要としない娘と言い換えることができるか。ほんとうは言い換えたりしてはいけないのだけれど。
 この2行が語るのは、「なる」とは書いてはみたけれど、実際は「なってはいない」ということだ。「なる」は「なりたい」。そこには願望がある。欲望がある。そしてその欲望は、たぶん「本能」である。
 どんなものかはわからないが「なりたい」。なぜ「なりたい」のか、「なる」ことでなにをしたいのか。「いつものとおり」ではないことをしたいのだ。「いま/ここ」を「いつものとおり」ではないものにしたいのだ。
 私が「いまの私(いつもの私)」ではなく何者かに「なる」とき、「いま/ここ」も「いま/ここ」ではない何かに「なる」。「私」の変化と「いま/ここ」の変化が「なる」のなかで「一致」し、すべてがかわる。
 そういうことが「本能」として目指されている。そういう「本能」がことばのなかで目覚めた、ということになる。
 この欲望が「本能」だからこそ、それは次のようなことばになる。

帰れない
帰らない

カエリタイ                             (「8」)

まだ見ぬ人よ、やって来ました
忘れていた少女の頃が揺らぐ
いのちゆらめく未知なる故郷に降り立つ                (「9」)

 「故郷」なのに、「未知」である。「本能」は「未知」である。だから、「帰れない」し、「帰らない」--つまり「本能」から出発してどこかへ行くというのが人間だからである。だが、だからこそ、「カエリタイ」。なぜか。「いま/ここ」を突き破るには、「本能」にまで遡って、そこから出発するしかないからである。
 この詩集では、3人は、その「本能」へ帰る方法を探しているのである。

一瞬間 で 消えるものが好き
たとえば
踊るとき 二度とおなじではないように
きみの歌っている声が そのとき一回のおわり
だのに ことば は
しらじらと 紙に残って在りつづける
ああ どうしても消えるものが 好き
消えていくのが こわい
在りつづけるのが こわい                      (「11」)

 「消えたい」は「カエリタイ」でもある。「帰る」ことが「消える」こと。「本能」あるるいは「ほんとう」は一回かぎりという感じであらわれては消えていく。つまり、常に「いま/ここ」を変えながら動く。おなじ形ではあり得ない。動いた瞬間に「いま/ここ」が変わるのだから、それにあわせて「消える」。

消えていくのが こわい
在りつづけるのが こわい

 これは「矛盾」だけれど、それが「矛盾」だから「思想(肉体/本能/ほんとう/正直)」というものなのだ。「本能」は「いま/ここ」にあらわれ、それを破壊しつくりかえることで消える。そして、消えるとき、それはまた「本能」へ帰る運動をしている。「消える」ことは「在りつづける」ことであり、それが「こわい」のは、そういう運動がどこまでつづくかわからないからである。限度がない。到達点がない。そして、だからこそ、その到達点のない運動を生きてしまう力が「好き」、魅了される。引き込まれていく。
 ああ、しかし、これからがむずかしいなあ。
 こんな具合に「抽象的」に「哲学」してしまうと、ことばがどうしても抽象を繰り返してしまう。

消えていくのがこわい
在りつづけるのがこわい
稲穂のざわめきを抱きしめていて、ぱらむ
風景に黄色い血がまたあふれそう

(ぱしゃり) あるいは “生キテイタイ”              (「12」)

 「カエリタイ」は「生キテイタイ」へと変化しているが、なぜ、「生キタイ」ではなく、「生キテイタイ」つまり生キ「ツヅケテ」イタイになってしまうのか。抽象が、ことばが、ひっぱってしまうのかもしれない。抽象に手をつけると、抽象がことばをひっぱり、「本能」の整えてしまう。
 この力に反発し、抵抗しつづけるのが、連詩の後半部分なのだが、うーん。

わたしたちはただの
ひとつの肉にしかすぎない                      (「38」)

 「肉」も抽象にしか読めない。
 始まりの、

今朝
いつものとおり
お母さんが台所で
しんでいた

 という「理不尽」な美しさがない。説明になっている。

細胞がめまぐるしくうごいて
死滅しては生まれて
きせき、なんてものは
恥ずかしくもあるけれど                       (「38」)

 わかるのだけれど--
 「わかるのだけれど」と書いてしまって、気づくのだけれど、詩は「わかる」とき、もう詩ではなくなっているかもしれない。
 詩の始まりは、「わかる」と「わからない」が拮抗している。「いつものとおり/死んでいる」というのはおかしいという反発する何かがあって、それが反発するからこそ、いや、そういうことは「ある」。ことばでは説明できないけれど、そういう感じってあるじゃないか--と本能が目覚めて、その「矛盾」をこえてなにかをつかもうとする。
 でも、

細胞がめまぐるしくうごいて
死滅しては生まれて

 これって、学校でならったこと、「頭」のなかで起きていることだもんなあ。私は自分の「肉体」のなかで「細胞がめまぐるしく動いて/死滅して生まれて」という運動をしていることを、このことばからは実感できない。「頭」では「わかる」けれど「肉体」では、ふーん、という感じになってしまう。
 「女になりたい」と書いていたけれど、だれか女になれたのかな?
 お、この詩集を読めば「女になれる」のか、前半はどきどきしたのだけれど、後半はそのどきどきが消えてしまった。かわりに「女になれない」困難さのようなものに出会い、「魔術」もなんだか「祈り」のように感じてしまった。
 うーん、なんでだろう。「祈り」から始めた方が「魔術」にたどりつけたかも、というのは、まあ、あとだしじゃんけんのような感想だね。



 狙ってそうしたのか、偶然そうなったのかわからないけれど。
 39ページのイラスト、67ページのイラストは、「18」「33」の詩を分断する形で挿入されている。これが、とてもよかった。切断によって、ことばが、負けてたまるかという感じで逆に接続してくる。そのときの異物(イラスト)とことばの拮抗感が、楽しい。
 「本能」へ帰る、そこから出発し直すというとき、「論理」ではなく、こういう「無意味」な切断がきっと有効なのだと思う。
 詩集の後半が窮屈なのは、3人が互いの「意味」に配慮しすぎて「無意味」が少なくなっているせいかもしれない。
 女に生まれるのではない、女に「なる」のだ--の新しい展開をことばでやりとげようとして、その「意味」に熱心になりすぎて、「魔術」のような、なんだそれは、というような「無意味」が減りつづけたのかなあ。破壊が消えて、再構築が始まり、窮屈になったのかなあ。
 嘘で始まって、だんだん「正しい」ものを描き出す虚構になってしまったのかなあ。「文学」になってしまったのかなあ。
 ことばのうえでも、どこかにとんでもない「破壊」があれば、もっとおもしろくなったのでは、と思った。

 私は、絶賛するつもりで「日記」を書きはじめたのだけれど、結論を想定せずに書くので、引用部分を引き写しているうちにだんだん気持ちが変わってしまって、否定的なことを書いてしまった。




連詩 悪母島(ぐぼとう)の魔術師(マジシャン)
新藤 涼子,三角 みづ紀,河津 聖恵
思潮社
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以倉紘平「幸福」、池井昌樹「未来」

2013-05-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
以倉紘平「幸福」、池井昌樹「未来」(「歴程」584 、2013年05月01日発行)

 以倉紘平「幸福」は亡くなった娘のことを書いている。自転車で通勤していた。

どういうわけか私は自転車で生活道路に入るとき
きまってむすめのいずみのことを思い出す。
勤めに出ていた我がむすめは駅から自転車で帰ってくる。
左折して生活道路に姿をあらわす。
遠くから見ていると
斜めにカーブして現れるという印象が
記憶に強く残っているせいだろうか。
左折するとき なぜか私はいずみになっている。
颯爽と 自転車を漕ぐいずみになって
務めを終え
我が家に帰る歓びのようなものにひたされている。

 娘を思い出すだけではなく「左折するとき なぜか私はいずみになっている。」この「なっている」「なる」がとてもいい。その娘になりながら、以倉は「我が家に帰る歓びのようなものにひたされている。」とも書いている。それはそのとおりなのだろうけれど、それよりも前の、

颯爽と 自転車を漕ぐいずみになって

 という1行がとてもいい。「颯爽と」がいい。これは、ほんとうに娘に「なる」ということ以外では感じることができない「体感」である。「肉体」の感じるものである。その前にある

斜めにカーブして現れる

 もいい。実際の肉体の動き。以倉も同じように、そこで斜めにカーブするのだろう。同じカーブを描いて道を曲がるのだろう。気持ちよりも「肉体」がひとつに「なる」。
 ひとは不思議なことに、自分でありながら自分以外の人間に「なる」とき、幸福を感じる。自分では「なくなる」ときに幸せを感じる。
 だから、

しずかな静かな 春の夕暮れ
遠くから自転車が近づいてくる。
あれはいずみではないかと 佇んでいたら
やはりいずみだった。

 この後半にあらわれる「いずみ」。それが「幻」の姿ではなく、たとえば知らないどこかの女性であっても、それは「いずみ」なのである。斜めにカーブして左折する--その肉体として家へ帰る人。それは「いずみ」であり、「以倉」であり、「ほかのひと」でもある。それがだれであろうと、以倉は娘に「なり」、幸福の中へ帰る。帰るという幸福へと帰る。帰るのは「気持ち」ではない。あくまでも「肉体」である。

 「肉体」があらわれる部分だけを引用したが、その前後の「地図」の部分のことばは、簡潔で、具体的でとてもいい。地図が地図ではなく、具体的な「道」、つまり人が通るときの姿でことばにはりついている。



 池井昌樹「未来」は池井の世代の人間と若い世代の人間との違いを書いている。

これですよ
ゆびさしたのは
ぬぎすてられたぼろジャンパー
これもですよ
ペットボトルにあきかんのやま
そうしてこれも
エレヴェイタアはへどのうみ
かれらにちがいないですな
とうとうやってきましたな
かたをおとしてためいきついて
あおざめているわれら旧人
われらとかれら新人は
ヒトであっても係累はなく
うけつぎつがれるものはなにもなく

 激しい断絶に何をしていいかわからず呆然とする池井がいる。途中省略して、詩の後半。

ケータイかたてにかたいからせて
当世暴君のおでましだ
しっぽをまいてたいさんだ
新人さまのばらいろの
かがやけるみらいのかなた
まなこらんらんかがやかせ
おいかけてくるもののかげ
またおいすがるいきづかい
幕開けだ!

 何だがあきらめきった調子にも読めるのだけれど、「まなこらんらんかがやかせ/おいかけてくるもののかげ/またおいすがるいきづかい」の3行に、私は池井の「肉体」を見るのである。池井もまたいままで「まなこらんらんかがやかせ」「おいかけて」「またおいすがる」を繰り返していたのではない。そして、その激しい動きのなかで、どこか遠くから、池井を見守る何かを感じていたのではないだろうか。
 新人を否定するようなことばを重ねながら、いま、池井が、その「遠い彼方の目」の肉体になっているとも私には感じられる。
 「肉体」はいつでもいれかわる。自分のものであって自分のものではない。

 池井にとって、いつでも、どこでも、どんなことでも「幕開け」なのだと思う。「幕開け」以外の「とき」というものは池井の肉体には存在しない、と私は感じている。


フィリップ・マーロウの拳銃―以倉紘平詩集
以倉 紘平
沖積舎




明星
池井 昌樹
思潮社
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林嗣夫「滑っていく」ほか

2013-05-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「滑っていく」ほか(「兆」158 、2013年05月10日発行)

 林嗣夫「滑っていく」は死の記憶を書いている。(と、思う。)

うっすらと雪の降りつづく町を
肺癌で亡くなった同僚のMと二人で
滑っていく

 という書き出しで始まるので現実をそのまま描いているわけではないのだが、この非現実感が逆にそこに書かれていることをリアルに感じさせる。
 歩いていった先に「仮設の大きな箱」があり、

中には数人の丸裸の死体が置かれていた
どれも 危険な灰をかぶったため
衣服も皮膚もすっかり剥ぎ取られている
痛々しい姿だ
まだ体温があるとみえ
降りかかる雪が次次と解けている
むき出しの肉のままだから顔がない
しかし 肉と骨格の全体が表情になって
およそ誰だか見当がつく
日曜市に店を出していた農家の人もいるようだ

 「顔がない」。ひとはふつう顔で人を識別しているから、顔がないと識別ができないようだが、そうではない。「肉と骨格の全体が表情になって/およそ誰だか見当がつく」。あ、そうか。肉と骨格から、ひとは、そのひとの生きているときの動きを思い出すのだ。それは視力がおぼえているものなのだろうけれど、同時に、肉体の動きそのもの(筋肉と骨格)がおぼえていることなのだと思う。肉体と肉体が、筋肉と筋肉、骨格と骨格が見つめ合っている。むき出しになっているのは「死人」の体だけではない。林の体もむき出しになって、その肉体と反応している。
 こういうことを、「見当がつく」と林は言う。
 この「見当がつく」は「わかる」ではない。「わかる」以前のもの。「未分化」の理解である。「見当」へ向けて、林の肉体が動いていく。目とか、ことばとか……「頭」に属する何かではなく、「頭」以外の「肉体」そのもののなかの判断する力、本能が「意味」へ向けて動くとき(わかる、に向けて動くとき)、それを「見当がつく」という。
 おそろしいことに、この「見当」というものは、間違えない。絶対に、そのとおりになる。そうならないものに対しては、つまり、絶対に理解できなもの、あるいは間違えた判断になるものに対しては「見当」はつかない。
 これはちょっと不思議なことだけれど、「見当」とはそういうものである。その「未分化」の絶対的に正しい判断を、林は「見当」というあいまいなことばで、逆にはっきりさせている。私たちは、そこにあるものではなく「見当」の世界へ入っていく。より「肉体」にからみついたもの、本能、のようなものに引き込まれていく。
 この瞬間が、リアリティというもの、現実感、というものなのかもしれない。
 「いま/ここ」にあるものではなくて、「いま/ここ」にある自分の「肉体」のなかへ入っていくこと、そしてその「肉体」が「いま/ここ」に、「肌」を突き破って、むきだしのままあらわれること--それが人間にとっての現実感なのだ。

「これはAじゃないか」
手前に横たわるのは詩を書く仲間のAだ
「そうか、そうやね」とMもうなずく
皮を剥ぎ取られた死体も
そうだ、そうだよ、というように
かすかな音を出して筋肉をふるわせた

 そのとき、同じように「むき出しになった肉体」が「かすかな音を出して筋肉をふるわせ」、呼応する。「ことば」ではなく、むき出しの「肉体」、隠れていた「肉体」(本能)が直にふれあって、「見当」を事実にかえる。
 先に引用した部分の雪を解かす体温(触覚、になると思う)、いまの部分の「音」(聴覚)が、そのとき「肉体」のなかで「感覚」として、しっかり定着する。あるいは、「分化する」と言えばいいのか。「分化」しながら、融合し(矛盾だね)、「肉体」を「肉体」にする。つまり、「肉体」のなかにいくつもの感覚が融合し、それが時と場合に応じて「分化」してあらわれる、という形になる。
 「見当」が「分化」して、「意味」という「形」になり、それが「わかる(正しい)」にかわっていく、のか……。
 こういうことは、あまり厳密に考えない方がいいのだと思う。それこそ「見当」をつけて、いつでも引き返せる(修正できる)状態にしておいて、その瞬間、その瞬間に、納得できるものだけを「肉体」に取り込めばいいのだろう。
 まあ、これは、私の感覚の意見--あるいは肉体の「哲学」だが。
 ほんとうは、これをじっくりと考えないと「哲学」にはならないのだが、詩なのだから、ここに「哲学(思想)」の入り口がある、とだけ「見当」をつけておけばいいのだ、と私は言っておくことにする。

 これとは逆(?)の方向からというと、うーん、変か。変かもしれないが、思わず逆ということばでつかみとりたいのが「春への分節」である。「死体」ではなく、「ことばをもたない赤ん坊」を描いている。

ことば以前の純粋経験を
どのようにことばとして分節するか
かの西田幾多郎が悩んだところを
いま赤ん坊が悩んでいる
幼い舌や のどや 肺が
ふるえながらに何かをさぐっている
やがて
そこを突破してくるのだろう
繰り返しまわりのものがことばをかけ
それによって呼び覚まされる深い力が
内臓されているはずだ

 「内蔵」ではなく、林はわざと「内臓」と書いている。(傍点が打ってある。)「肉体」の中に、「内臓」のように、「ことば(あるいは分化・分節する能力)」は最初から存在している。「内蔵/内臓」=肉化している。「深い」ということばが、そのことを象徴している。「深い」ところに隠れて存在しているので、それが最初からあったとはだれも思わないかもしれないが、最初からある。それが、ことばになる。内臓は内臓と意識化される前から存在するけれど、内臓が内臓と意識化されるのは「ことば」になったときである。「肉体(内臓)」が分節され、そのとき「世界」が同じように「分節(分化)」する。「意識」が「分化」に、それにあわせて世界が「分節」する? 「分化/分節/意識」。どっちがどっちか、私は「哲学者」ではないので、どっちでもいいと思っているが、ようするに、世界と肉体の内部が呼応して「意味」をつくる。「見当」をつけて「肉体」を動かし、それう少しずつ修正して、「正しいことば」にする。--でも、それは肉体を破って噴出したとき、赤ん坊の「母音にも整理されていない 音」、そしてその音とともにある「肉体」の絶対的な正しさ(分節/分化したいという欲望、本能)には、いつでも劣る。分節/分化する過程で、何かを私たちはたぶん失う(もちろん、同時に何かを手に入れるのだけれど)。未分化/未分節のとき、それでも「いのち」が存在する--そのいのちを支えている絶対的なものには劣る。
 だから、私たちは、未分化/未分節の「肉体」へ帰り、そして現実にもどってくるという往復運動をしなくてはならない。その「往復運動」が「肉体」へぶつかってくるとき、その衝突(衝撃)が詩である。
 と、林は書いているわけではないが、私の「感覚の意見」は、そんなふうに、林の詩を読む。

 後半は、赤ん坊の「分節」運動への反歌のような形になっている。

母親が用事を終えて迎えに来た
ほとんど意味というものを持たない世界で
目を見開いている赤ん坊
なにか大きなものに所属しているといった様子で帰ったあと
わたしはしばらく庭に立った
気がつくと
近くでコブシがねずみ色の無数の花芽をふくらませ
水色に輝く二月の空と対話していた
聴き取れないくらいの
にぎやかで静かな声だ
枝枝をつつむ光が揺らいでいる
コブシの芽はもうすぐ
純白の飛天の姿として分節されることだろう
地上のわたしを置き去りにして

 「にぎやかで静かな声」--この矛盾が「未分化/未分節」であり、「肉体」である。コブシの木の(花の/芽の)肉体であり、それをみつめる(聞いている)林の「肉体」である。林の肉体では、このとき視覚と聴覚がまだ未分化なので(コブシをみつめると、未分化にもどるので)、それを見ながら(聴覚)、矛盾した声を聴く(聴覚)。
 コブシが見事に「分節」したあと、運がよければ林はコブシとして「分節」できる。そのコブシを詩にすることになる。「もの(コブシ)」の「分節」と林の「肉体の分節」が重なったとき、その世界は詩になる。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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甲田四郎「雨戸と蚊帳」、高橋順子「海のことば」

2013-05-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
甲田四郎「雨戸と蚊帳」、高橋順子「海のことば」(「歴程」584 、2013年05月01日発行)

 甲田四郎「雨戸と蚊帳」は台風のとき、家族で雨戸が飛ばないように、夜通し雨戸を家族でおさえていたときのことを書いている。幼い甲田は眠ってしまうのだが、母はずっと起きて雨戸を支えている。そういう時間が過ぎて、台風も通りすぎて……。

目が覚める夜中
引いていく息がある
きょうだい五人で寝ている蚊帳の中に
隣の部屋で寝ていたしわくちゃ浴衣の母がいた
ため息がこもっていた
ボウとした目をしていた
手にしたローソクの炎を蚊帳に近づける
蚊が落ちる
チとかすかな音がしたのだった
音などしなかったのだったか
それが唯一私の知った夜中の母の顔だった
半分寝ながら子供のことだけ考えている
かけがえのない時間だった
寝るときはどんな顔して寝るのだろう
私は知らなかった
死ぬまで

 最後になって、あ、母の寝顔の思い出を書いていたのか、と気づくのだが。
 甲田に申し訳ないが、その母の寝顔の思い出よりも、私は、途中にふいに挟まれた、

手にしたローソクの炎を蚊帳に近づける
蚊が落ちる
チとかすかな音がしたのだった
音などしなかったのだったか

 ここがとても美しいと思った。チという音は蚊がロウソクの炎に焼ける音だろう。それが、したのか、しなかったのか。わからないけれど、甲田は蚊が焼けるときチという音をたてるということは知っている。おぼえている。
 そして、そのことが母の顔の描写(ボウとした目をしていた)よりも、ていねいに描かれている。
 考えてみると不思議である。そんな蚊がロウソクに焼ける音など、思い出さなくてもいい。母の顔をもっとしっかり思い出すべきである--なのかもしれないけれど、蚊が焼ける音、それも音がしたのか、しなかったのか……。
 人生には、不思議な「迂回路」がある。回り道がある。それは、「意味」から考えるとどうでもいいことなのだが、「意味」を逸脱しているからこそ、そこに「意味」に汚れていない「こと」がある。それが美しい。
 たぶん。
 その「意味に汚れていない」という「こと」が、ほかの人生からも「意味」を洗い流すのである。たとえば、母親は子供のことを思うと、寝ないで雨戸を守る。子供のためならなんでもする。どんなに疲れようと、母親とはそうやって生きるものである。--というような、語り尽くされた「意味」を洗い流す。
 母親が子供のために一生懸命になるというのは「意味」ではないのだ。蚊がロウソクの炎に焼けるのと同じように「無意味」なのだ。ただ、そこにそうやってあるだけで、「意味」にはならないもの。「意味」をこえた「事実」なのだ。
 そういうことが、ふっと、わかる。

 どんなものでも、「意味」を超える。「意味」をこえて「無意味」になったとき、そこに「事実」がある。「事実」は美しい。その「美しさ」を、「肉体」はただ、おぼえる。そして、それをいつかつかうということなのだろう。実践するということなのだろう。



 高橋順子「海のことば」にそういう「無意味」としての「事実」の美しさを指摘することは……うーん、ちょっとためらわれるのだが、私が感じたのは「無意味」の美しさなのである。
 東北大震災と津波、その痕跡のことを描いている。

壁の上のほうに真っ直ぐな
黒い線が残っていて それは
波が来た跡だと弟が言う
部屋の中に黒い吃水線を
海は引いていった
弟の家族は黒い線の下のほうに布団を敷いて寝る
彼らが寝ている間
海は寝ないで海の音楽を
くり返している
くり返している
あ 風が出てきた
あ 楽器が壊れた すると
弟たちは寝汗をかく
海は魚や昆布をふとらせ
貝がらを舌でなめ
月のように光らせる やさしいこともするが
時折陸地をのぞくに行く
やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと
おやすみ おやすみ
ずっとおやすみ
海は陸のいきものに言いふらし 言いふらし
もんどり打って帰ってくる
海の引く線は
透明であるべきだと
海は考える
しかし海は黒い線を引く

 このなかにある「無意味」と「事実」。それは、

やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと

 この3行に集約している。「やさしいこと」「やさしくないこと」は別のものである、正反対のものであるというのが「意味」。それが「同じ」では「意味」にならない。肯定と否定(やさしくない、の「ない」)が「同じ」であるというのは矛盾--つまり、「無意味」である。
 でも、その「意味」は人間がつくったものであって、海がつくったものではない。
 
 ここから、私は、甲田の詩にいったんもどるのである。
 母親は子供のために命懸けで生きる。子供ためになんでもする--というのは人間がつくったひとつの「意味」(生き方)である。そしてその「人間」のなかには母親も含まれているのだけれど、その母親は実は「概念」としての母親。実際に生きている母親は、子供のためならなんでもする、寝ないで雨戸をおさえるというようなことを、しない。行動だけを見れば、寝ないで雨戸を支えているのだけれど、それは「こどものために、母親だから」ではない。そんな「意味」など考えずに、本能として、そうしている。そうすることを「肉体」がおぼえているから、それをするのである。
 このときの「肉体がおぼえている」は、だれに教わったものでもない。遺伝子なのだ。本能としか言いようがない。だから「無意味」。そして「無意味」だから、間違いようがない。「間違い」というのは「意味」と比較して、「意味」にあっているかどうかということであるから、「無意味」は絶対に間違えないのである。「意味」を超越して、「事実」として、そこにあるのである。

 高橋の詩にもどる。
 海は、ただ、そこにある。海は動く。自分の力ではなく、ただ別なものの力によって動く。潮の干満は引力。波は風。そして津波は地震。--それは海がそうしたくてするのではない。自然にそうするのである。そこに「本能」がある。ふつうは、それを「本能」とは呼ばないけれど。そしてその「本能」のなかには魚を育てる。昆布を育てるというようなことも含まれるのだけれど……。
 海の「本能」は、ふつうはみえない。つまり透明である。そして、海自身も、たぶん、いつでも「透明」であることを願っているが(透明であるだと/海は考える)が、そして実際透明だと思っているが、それは陸に住んでいる人間からみると、ときどき「黒く」見える。
 それは悲しいことだけれど(悲劇だけれど)、海の責任ではない。--そういうことを、(こんなふうに言ってしまうのは無責任というものかもしれないけれど)、海といっしょに生きている人たちは知っている。海に襲いかかられ、それでも海から離れることができない人たちがいる。それは海の「本能」を知っているからだと思う。「本能」に間違いがないということを知っているからだと思う。海の「本能」を自分の「本能」と重ねて生きるとき、正直になれるひとは(そうやって正直を育ててきたひとは)、海から離れることはできない。
 海に生きる人たちを思い、そういうことも私は考えた。

大手が来る―甲田四郎詩集
甲田四郎
潮流出版社










高橋順子詩集 (現代詩文庫)
高橋 順子
思潮社
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粕谷栄市「大吉」

2013-05-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「大吉」(「歴程」583 、2013年03月20日発行)

 粕谷栄市「大吉」にも「時間」が出てくる。そしてその「時間」は私の印象では、きのう読んだ市原の「時間」とは、まったく違う。この詩では粕谷は「時間」と言わずに「時代」といっているのだが……。

 作った桶を納めた親方とか、近所の連中とかのことは、
碌に、頭に残っていない。大体、それが、いつの時代の
ことだったか、おれが、本当にそこに生きていたかどう
か、今は、何もかもはっきりしていないのだ。

 これだけでは詩の概略はわからないだろうけれど、まあ、粕谷の詩をつづけて読んでいる人には、「題材」がかわっただけで、結局同じことを書いているのだから、この詩は桶屋(桶を作る人)がでてきて、あれこれやったけれど何もしなかったに等しい。ようするに人間は何をしても生きて死んでいくという枠を超えることができず、……とういうようなことだな、と想像がつくかもしれないけれど。
 で。
 ここで私が目にとめるのは、

頭に残っていない。

 いろんなことをしてきたけれど、そしてそこには他人との交渉もあるのだけれど、それは「頭に残っていない」。でも、何かをしてきたこことは確かである。では、その「確かさ」はどこに残っているのか。
 「肉体」に--と私は考える。
 でも、どんな具合に?

            大体、それが、いつの時代の
ことだったか、おれが、本当にそこに生きていたかどう
か、今は、何もかもはっきりしていないのだ。

 「はっきりしない」。これでは、答えにならないね。
 うーん。
 逆に考えようか。
 「はっきりしない」とはどういうことか。「はっきり」とはどういうことか。それは、たぶん「頭」と「ことば」の関係につながる。「ことば」で何かを具体的に描写できたとき、それは「はっきり」している。「頭」にとてもよくわかる。「頭」にわかる形で書くことができないということが「はっきりしない」ということなのだ。
 市原は、字数をそろえるという「枠」を利用して「流通言語」ではないことばの形を平気で詩の中にとりこんでいたが、粕谷は「定型」という「枠」がないので、そこではことばが「流通言語」として通用する形のまま動く。「はっきり」したかたちのままで動くので、「はっきりしないもの」を取り込めない--だから、はっきりしないものがあっても、それを「はっきりしていない」としか言いようがない。
 というのは、余談なのか、本質の問題なのか、ちょっとややこしいけれど。
 でも、「はっきりしない」ということがらに絞って言うなら、私たちのいのちがかかわっていることがらというのは、そのすべてをことばにはできない。というか、しないなあ。いいかげんに処理してしまう。「はっきりしない」ことが私たちのまわりには充満している。
 先の引用の前に、次のことばがある。

 大勢で、賑やかに日々を送っているうち、あっと言う
間に、おれの五十年の一生は過ぎてしまった。夢の黒門
町のことで、おれが覚えているのは、それだけだ。
 こどもの遊ぶ声と、みんなで食った塩鰯の晩飯と、数
えきれない大小の桶と、あと、何があっただろう。

 「はっきりしない」ことだらけのなかで……。
 「五十年の一生が過ぎてしまった」。
 実は、これが「頭」に「残っている」ことである。「はっきり」していることである。「はっきり」とは「50年」という時間である。それを「はっきり」と言えるのは、「客観的」だからである。つまり、「50年」は「おれ」だけの「感じ」ではなく、「おれ」の周囲にいる人間と共有できる「流通言語/流通単位」である。そういうものは「はっきり」している。
 同じように、まあ、「共通」体験というか、「おれ」の体験で「他者」と共有できるのは、家族と食った晩飯だとか、作った桶である。それは「客観的」。
 ところが(繰り返しになるけれど)、人間には、そんな具合に「客観化」できないものがたくさんある。言い換えると「流通言語」で言えないことがたくさんある。それは、だから「はっきり」はしない。鰯のほかにも鯖も鰺も食っているはずでしょ? でも、それをかぞえあげていくと何がなんだかわからなくなるから、「塩鰯」に代表させて、以下省略、つまり「はっきりしない」ということばに閉じ込めて「流通」させてしまう。
 でも、「はっきり」はしないのに、それがあると言えるのはどうしてなのだろう。
 ここから、私の論理は「飛躍」してしまうしかないのだが、「肉体」があるからだね。「いま/ここ」にある「肉体」。それは、意識を超越して「はっきり」している。「頭」で確かめなくてもいい。「頭」で「流通言語」にしなくても、「これが私です」と言ってしまえば、そこに人がいるかぎり、「あなたは明確なことばで定義されていないので存在していることにはなりません」とは、「流通言語」の世界でも言わないからね。「肉体」があれば「人間が存在する」というのは、一種の、前提なのである。
 (これを「頭」であくまで確かめようとする「哲学」もあるにはあるのだが。「われ思う、ゆえにわれあり」とかね。--私は、この考えに疑問を持っているので、まあ、これ以上は書かない。)
 で、ややこしいのは。
 この「肉体」が、それ自体では「永遠」ではないということ。「はっきり」と存在しているのに、その「はっきり」は意外なことに、はっきりしていない。--矛盾した言い方になるが、この矛盾を粕谷は次のように書く。

 もう、誰も知ることのできないことだろう。何百年か
過ぎれば、みんな、そうなるのだ。人間は、みんな、そ
うして、この世から、消えてゆくのだ。

 人間は消えてゆく。残らない。でも、その「残らない/消えていく」を証明するものとして、「時間」がある。「五十年」あるいは「何百年」。そういう「頭」でとらえた「はっきり」が存在することで、人間がそこに「あった」ということを語る。その「はっきり」なしには、人間は存在しない。
 ここの部分が、きのうの市原の「哲学」とぜんぜん違う。
 だいたい「単位」が違う。市原は「五十年」というような、「肉体」で確かめることができる「数」(客観)など、はなから信じていない。いきなり「五千年億」という「でたらめ」の巨大なものをひっぱりだす。「五千年億」なんて、そんなものは存在しない。「時間」は形式として、つまり「五千年億」という形であるように見せかけているだけで、そこにに「肉体」しかない。あるいは「セックスすること(生殖すること)」という「こと」があるだけなのである。市原にとってはっきりしているのは「五千年億」ではなく、「セックスすること」という「こと」である。
 粕谷にとっては、「五十年」は「はっきり」している。そして人間が「死んでゆく」とうことも「はっきり」している。「生きた」ということも「はっきり」している。しかし、自分の「いのち」が「永遠」の方向へ、「未来」の方向へつづいているということは「はっきり」していない。あくまで「過去」に存在したということだけが「はっきり」している。セックスしてこどもが生まれても、粕谷にとっての「はっきり」は、そういうことがあった、という「過去」だけである。粕谷にとっては「過去」が「永遠」、つまり「未来」につながることなのである。

 いや、違う。どこかで、このことばの運動は、何かを踏み外している。「ことばの肉体」を踏み外している。だいたい、そういうことなのだが、何か違っているような感じが残るなあ。
 うーん。
 自分で考えていることなのに、考えが「ことば」にならない。どこかに、ことばを「頭」で動かしている部分があるんだなあ……。

 しようがない。ついでに、強引に、ことばを動かしておく。
 「おれ」が生きていたということは「頭」には残らない。「頭」に残る--「流通言語」となって引き継がれていくのは「おれ」のような「市井の市民」ではなく「歴史的」な人間である。しかし、「肉体」は「残る」。死んでしまえば「肉体」は存在しないけれど、その「肉体」を引き継ぐ「肉体」(遺伝子)がどこかに残る。引き継がれる。
 これを粕谷は「残っているもの」、記憶として書く。消えた「肉体」のなかに残っているもの。そこでは「時間」は「残っているもの」の方向に--つまり「過去」へ「流れる」。一方、市原の場合、それは「永遠」の方へ向かって動く。「セックスし、生殖する」(生み出すということ)の方向へ動いていく。そして、その「生み出すということ」が「過去」とぴったり重なり、その重なりのなかで「未来」と「過去」が融合し「永遠」になる。その「融合(重なり)」を市原は「肉体」で実践する。
 粕谷は--、その「重なり」を「はっきり」というもので「切断」してしまう。そして、そこには「永遠」ではなく、なんといえばいいのか、「時間」というものが「客観」として取り残されるといえばいいのか……。

 粕谷の場合、人間は死ぬ。しかし、「時間」は残る。
 市原にとっては、いのちはしなない。「時間」は消える。






続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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市原千佳子「砂霊」

2013-05-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
市原千佳子「砂霊」(「歴程」583 、2013年03月20日発行)

 市原千佳子「砂霊」は何やら砂の神様のことを書いているらしい。カタカナ難読症(カタカナが読めない)の私には引用がむずかしい呪文があって(引用すると必ず間違えるので省略)、そのあとひらがなのことばがつづく。

されいのめざめまちつづけ
ははのいないひとりあそび
じしゃくですないたぶって
はりねずみいろのさてつの
むなさわぎうつうつあつむ
ましろきがようしのうらて
やさしくじしゃくのさする
ざじざじょさてつさわぎて
されいだえんにけばだちぬ

 砂鉄を画用紙の上にのせ、裏側から磁石を動かして砂鉄が動くのを見る。そのときの様子--と「意味」(内容?)を要約してしまうと、よくわかるのだが、詩とは結局「意味」ではない。
 この詩は、定型詩というのかどうか、1行の文字数がそろえられている。そしてそのために、ときどき変なことばがはいりこむ。あるいは、省略できることばが省略される。

むなさわぎうつうつあつむ

 「胸騒ぎ鬱々集む」なのかな?。「うつうつ」と入力し、変換すると「鬱々」になるけれど。ふーん。私は、こういうことばをつかわないので、正しいかどうか知らない。「集む」はどうして「集める」じゃないのかな? 「ましろきがようし」の「真白き」だって、いまは言わないなあ。「真っ白な」ではないのは、なぜかな?
 いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

ざじざじょさてつさわぎて

 「ざじざじょ」って何かな? 砂鉄の動く音? だから「騒ぐ」? なぜ「ざじょざじょ」やないのかな? 日本語の擬態音は繰り返しが基本でしょ? なぜ、同じ音を繰り返さないのかな? いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

じしゃくですないたぶって

 は「磁石で砂をいたぶって」ということばから「を」が省略されている。なぜ省略したのかな? いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

 繰り返してもしようがないけれど、字数をそろえるために、ことばが「変形」させられている。それは、いわば余分な径路をたどること。ことばを省略するときにだって、「省略する」という回り道を取るのである。省略することで字数をあわせるという回り道がそこにある。「流通言語」では、そういうことをしない。
 この回り道は、言い換えると、市原だけの「時間」である。市原だけの「肉体」である。「流通言語」とは合致しない部分に市原が出てくる。だからこそなんだろうけれど、市原のことばの「肉体」を追いかけているとき、私自身の中にある「流通言語の肉体」が突き動かされる。たが、が外される。そして、そのたがが外れた「肉体」にどこかで聞いたことばがちょっかいをかけてくる。それに反応してしまう。行儀正しい言語じゃなくなる。
 これがおもしろい。
 具体的に書いてみる。

じしゃくですないたぶって

やさしくじしゃくのさする

 並べてみると、「いたぶって」と「さする」が呼応していることがわかる。あ、ここに呼応を感じるのは私がスケベだからかもしれないけれど、「いたぶって」「さする」ってSMっぽくない? その刺戟のなかで「はりねずみ」のように皮膚の表面が(産毛が?)「けばだちぬ」。
 子供の砂鉄遊びを描いているはずなのに、どうも、いやらしい性愛ごっこがみえてしまう。そういう「時間」、書かれていない「時間」を私の「肉体」は経由する。回り道をたどる。もう、私の「肉体」は市原のことばから「いやらしいこと」ばかりを引き出そうとしている。「いやらしいこと」を引き出して、市原の詩は「いやらしいことを書いているから好き」と叫びはじめる。
 そして、

そんなこと書いていません!

 と市原が抗議したとしても、いやいや、そんなことはない。なぜ、そんなに隠したがる? なんて逆襲するだろうなあ。ひとは、ほんとうに言いたいことは直接的に言わず、他人に発見させるものである、なんて「屁理屈」をつけくわえながら。
 ほら、

あのとおいたいしゅうぶろ
ははたちのけばだらぬれる
おそろしいばかりのふろば

 裸体、裸体、裸体がひしめいている。

くろぐろけものやしないて

 陰毛だね。黒々としている。そこには「けもの」がいる。

ときにしべははげしくされい

 「時に、蕊は激しく砂霊」。黒々とした陰毛のなかで蕊(クリトリス)は激しくもだえ、肉体から「霊」の次元へと昇華する。エクスタシーだね。

よびはらみてひらきてうむ

 子宮の中に男を呼び、孕んで、ふたたび体を開いて、子供を産む。
 どうしたって、私にはそんなふうにしか読めない。ほかの読み方ができない。

されいだえんにけばだちぬ

 は、まるでいたずら書きの女性性器である。円を(楕円を)重ねて、そのまわりに陰毛(砂鉄)の毛羽立ちをなびかせて……。
 そういう読み方をしていると、この詩には砂鉄と磁石の磁力遊びと女のセックスというふたつの時間が存在しているとしか思えない。どちらかがどちらかの「時間」を遠回りしているのだ。遠回りしながら「肉体」がおぼえていることを確かめている。そして、つかっている。
 ここからちょっと方向転換して、「まじめ」なことを書いてみるね。

ごせんねんおくのじかんの
すなどけいとなりわたしの
まくらのなかにおりるから
まくらのなかでねむりたい
されいはのうまできている

 「じかん」と市原は書いてしまっているが、「肉体」の「時間」が遠回りをする。そして、時間はどんなに遠回りをしても「肉体」というのは、個人にとって「ひとつ」。どんなに遠回りをしても、遠くない。ぴったりと自分にくっついている。
 ここが、きっと、ことばと肉体の(思想と肉体の)いちばんおもしろいところ。このくっついたままの「肉体」と「時間」は、それがくっついていることを何度も何度もくりかえし確かめているうちに、「肉体」から「脳」にまでなってしまう。
 --この辺は、ちょっと、私の考えもうまくたどることができないので「飛躍」するけれど。
 繰り返すことで「脳」が「肉体」になると考えた方がいいのかもしれないなあ。
 別な言い方をすると。
 たとえば、私はさっき、市原の詩を読みながら、そこに書いてあることばを強引にセックスと結びつけ、女の性(妊娠、出産)と結びつけたのだけれど、そういうふうに「考えること」が「脳」の問題ではなく、「肉体」の「生理(本能)」になるということ。
 スケベな考えが「脳」にまで来たのではなく、「脳」がそういうスケベな「本能」にまで帰ることで「まとも」になる、という感じといえばいいのかな。
 「時間」は「肉体」へ帰っていく。「本能」という間違いのないところへ帰っていく。 で、(で、というのも変だけれど)

ごせんねんおくのじかんの

 これは「五千年奥の時間」ということかな? それとも「五千億年の時間」? 私は「五千年億の時間の」と最初に読んでしまい、うーん、よくわからない、と思ったのだが。たぶん、よくわからない、何か変だけれど何かわかった気持ちになる--何といえばいいのか「五千年」の「奥」にそれを超える「億」の年月がある。「五千年」とか「五千億年」とか言ってしまえる「時間の区切り」ではなく、そういう区切りを超えてしまった「奥」に巨大な「時間」がある。「五千年」の「奥」には「五千億年」があるという具合に言ってしまうとちょっと違って……数字では区切れない巨大な時間があると考えた方がいいのだと思う。すべてはそこに通じる、つまり「数字」(理性の処理)を超えて、「永遠」に通じる「時間」がある、と感じたのである。
 同時に、あ、これが女の時間なのだ、五千年、五千億年というようなくだらない数字の区切りを破壊して、それがどんなに遠い時間でも「いま/ここ」の「肉体」として引き継ぐ--それが女の時間と感じたのだ。
 女はいつでも「永遠」とセックスをするのだ。「永遠」をセックスの中に引き込んで、「永遠」のなかで、「未来」のなかへ、生まれ変わるのだ。--「五千年億」なんて、巨大すぎて、「過去」とか「未来」とか関係なくなり、それで「永遠」というのだけれど、そこには「暗さ」のようなものがないので、私は「永遠」を「未来」と勘違いするのである。(これは、つけたしの「感覚の意見」。)



月しるべ―詩集
市原千佳子
砂子屋書房
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マイケル・ホフマン監督「モネ・ゲーム」(★)

2013-05-19 21:52:02 | 映画
監督 マイケル・ホフマン 出演 コリン・ファース、キャメロン・ディアス、スタンリー・トゥッチ

 最近、映画がまったくおもしろくない。私の目の状態がよくなくて十分楽しめないということもあるのだろうけれど、映画は見たけれど感想を書く気持ちになれない。しようがないので、なぜおもしろくないのか、ちょっと考えてみることにした
 「モネ・ゲーム」は脚本がジョエル・コーエン、イーサン・コーエン。私の大好きな監督(脚本家)だ。とても楽しみに見にいったのだが、
 うーん。
 映画はやっぱり映像だね。おもしろい映像がないと、まったくひきつけられない。たとえばコーエン兄弟の「ノー・カントリー」。男が首を絞められて殺されるシーンがある。苦しくて足でリノリウムの床を必死でこする。その足でこすった床に、靴の黒い引っ掻き傷が花のように開く。おおっ、これが撮りたくてこんな殺し方をしたのか。うなってしまうねえ。
 そういうシーンが、この映画にはまったくない。そもそも映像というものが、この映画には欠けている。どのシーンもふやけている。構図がしっかりしていない。映像に遠近感がない。ただ、演技している状態を撮っているだけ。(「ノー・カントリー」のリノリウムの床の上の傷だって、構図が変だったら映像に昇華しない。そこにあるものを映せばいいというのではない。)
 これではね。
 イギリスの国民性のおかしなところは、「個人主義」の尊重。どんなに好奇心をそそられることでも、相手が自分から言わないかぎりは「知らない」でとおしてしまうところ。たとえ見ててでも、ことばで聞かないかぎりは「知らない」と言い張るところ。「知らない」けれど、聞きかじったことからひとはいろいろ想像はする。その想像はときにはまったくの勘違いということもある。変なことは何もないのに、変なことを想像してしまう。「イギリス個人主義」が引き起こすドタバタだね。
 そういうばかみたいな(?)感覚をコーエン兄弟はからかって脚本にしている。ホテルマンとコリン・ファースの絡みに、それが何度も出てくる。ホテルマンはもともと客の秘密を守らないといけない、プライバシーに踏み込んではいけないという職業なので、そのおかしさが増幅されるわけだが……。
 でもねえ。脚本段階では、まあ、十分におかしいのだろうけれど、映画になってしまうとおかしくないことがある。というより、映像が「ことば」を追ってしまうと、おもしろくなくなる。話している人と、聞いている人の、映像に占めるバランスがちぐはぐだと、おもしろさが台無しになる。--ちょっとうまく言えないが、そういうシーンでは、役者が演技をするのではなく、カメラが演技をしないといけない。変な会話がやりとりされるとき、あっ、変、という感じを役者が表情で見せるのではなく、カメラ自身が役者からそういう表情を引き出さないといけない。フレームの問題だね。フレームを固定して、そこで役者に演技をさせると表情がしつこくなりすぎる。役者は演技などしなくていい。カメラが「登場人物」の視線になって役者をつかみとればいい。カメラが登場人物の「視線」になりきれていない。それだ、笑いが笑いになりきれない。
 カメラの構え方次第では、すごく面白くなるはずのシーンが、とてもくだらない「ことば」の行き違いになる。イギリス人をつかわずに、アメリカを舞台に、コーエン兄弟が撮れば、ずいぶん違ったものになっただろうになあ。
 ごちゃごちゃ書いたが、私の書いていることはわかりにくいかも。一か所だけ、ともおもしろいシーンがあったので、それと比較するとわかるかもしれない。
 コリン・ファースが紛れ込んだ部屋。おばさんがひとりで泊まっている。芝居の切符をコンシェルジェに頼む。部屋の入り口でコンシェルジェと応対し、ベッドルームへひきあげるとき、一瞬、止まる。「あ、忍び込んだのがみつかってしまった」とコリン・ファースは思う。ところが。そうではなくて、おばさんは、おならをするために一瞬立ち止まったのである。そのときの映像、それからブッというおならの音。歩きだすまでの間(ま)。この感じが、ほら、「見ている」のに、「見ている」ではなく、おならをしたくなって立ち止まって、おならをして、動きだすという、おならをする人の感覚になるでしょ? で、その感覚というのは、実は隠れているコリン・ファースの感覚そのもの。コリン・ファースは写っていないのに、その映像はコリン・ファースの意識そのもの。これは、コリン・ファースが演技をしているのではなく、また女優が演技をしているのでもなく、カメラの演技。おばさんまでの「距離」、おばさんの尻の位置をどこに据えるかというフレーム(構図)の問題。それがきっちりきまっている。このカメラの演技が全編にゆきわたるとコーエン兄弟の脚本のおもしろさはもっと引き立つだろうけれどね。

 コーエン兄弟なら、こう撮るんじゃないか、と思いながら見るなら、それなりにいろいろおもしろくなるけれど、喜劇を見にゆくつもりで行くと落胆するぞ。
                        (2013年05月19日、天神東宝7)



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