詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「黒母神カーリー・マー」

2012-10-31 11:07:17 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「黒母神カーリー・マー」(「幻竜」16、2012年09月20日発行)

 「詩はどこにあるか」。ふつう話していることば(流通言語)が、そこから「流通」から逸脱する瞬間にある、と書いてしまうと簡単だ。でも、そのことばは「その詩ではどれ?」と見極めようとするとなかなかむずかしい。
 かっこいいことばがあるときは、あ、かっこいい、これが詩だ、と言えるのだけれど、そういうときばかりではない。ときにはそのことばは書かれないことがある。「流通言語」から逸脱しているのだから、「書いてみ見えない」。だから「書かない」という方法がとられることがある。「書いていない」ところに、「ことば」ではなく「肉体」がある。「肉体」がことばをのみこんで、それを見えなくしてしまって、さらに先へと突き進む。そういう瞬間がある。
 「書かれていない」のだから、それを指摘するのはむずかしい。どうやって、その書かれていないことばを「読む」か。補うしかない。「書かれていないことば」を「読む」わけだから、それは「誤読」である。
 で、きょうも「誤読」をしてみる。白井知子「黒母神カーリー・マー」の3連目。

恐るおそる昼休み 二階の動物学の教室にはいってみる
まぶたのない魚の標本の裏に
人間の胎児の瓶が集められていた
うす汚れたひとつの瓶にふれる
妙な温かさが指先に
この胎児は わたしの
妊娠四ヶ月で生まれてしまった子だとしたら
死んだ胎児をわたしには見せず
医師は走りさっていった
だるくてたまらず眠りこんでしまった わたしは あのとき
日本人の胎児ということで
他国に流れていった もしやそんな

 これは南インドチェンナイの女子大学で白井の体験を書いてる(らしい。)胎児の標本を見て、そこから「わたし」の過去、「わたし」と「胎児」のことを思い出している。胎児の標本を見て「記憶」が噴出してきた、ということだろう。
 私がこの詩にひかれるのは、その「意味・内容」ではない。というと、誤解を招いてしまうが、胎児の標本を見て、そこから動きはじめる白井のことばの運動にひかれるのだけれど、その「中心」は、そこに書かれている「記憶」と白井の関係そのものよりも、

妙な温かさが指先に

 この1行の力にひかれる。
 この1行は、わかりやすい形、つまり「流通言語」で書き直せば、

妙な温かさが指先に「ふれる」

 ということになる。その前に「ふれる」ということばがあったから、白井は「ふれる」を省略したのか。そうかもしれない。しかし、そうではない、と私はここから「誤読」するのである。
 ほんとうは「ふれていない」。
 もし指先が「ふれている」としたら、何にふれているのか。その前の行に書いてなるように「瓶」にしかふれることができない。その瓶の中の「胎児の標本」には直接ふれるわけではない。
 けれども、それは外見的な、「流通言語」でいう「肉体」、言い換えると「指先」がふれられないのであって、白井の「肉体のなかにある何か(こころ、でも、精神、でもいいのかもしれないが、私はそういうことばをつかいたくない)」は、「胎児の標本」に「ふれてしまっている」。
 「指先」がふれるのではない。「指先」ではない「肉体そのもの(思想)」が、胎児の標本にふれる。
 「ふれる」と書いてしまうと、「指先」が「主語」になってしまう。それでは白井の本当があらわせない。
 白井は「ふれる」という動詞が、かってに「主語」を「指先」に限定してしまうことについて抵抗している。「流通言語」に抵抗している。たしかに「ふれる」のだけれど、それは「指先」ではない。そういうことを明確にするために、「ふれる」ということばをここでは拒絶しているのだ。前の行と重なるから省略したのではなく、全身で「ふれる」を拒絶する。
 なぜなら、白井の「肉体(肉体のなかにあって、まだ肉体から分離できない思想)」は「胎児の標本」にふれるのではない。胎児にふれるのだ。「胎児の標本」は「死んでいる」が白井の「肉体(思想)」がふれるのは「死んでいる胎児」ではない。「胎児」にふれる。それから「いきている」にふれる。同時に「死んでいる」にふれる。「生きている」と「死んでいる」は矛盾している。同時には存在できない「あり方」だが、それは「流通言語」の定義に従うからそうなるのであって、詩のことばでは、その「胎児」は標本ではなく、死んでいて同時に生きている。言い換えると、「わたし(白井)」は、生きていると死んでいるを区別できない。胎児という「いのち」としか把握できない。その「いのち」と感じあっている。つまり、「肉体(思想)」そのものとしてふれあっている。
 こういうことは、書こうとすればするほど、ことばがうまく動いていかない。ことばにすると、少しずつ「思想」が乱れる。「肉体」がきしむ。その乱れ、きしみが、この連の最後の3行である。

だるくてたまらず眠りこんでしまった わたしは あのとき
日本人の胎児ということで
他国に流れていった もしやそんな

 これを正確な(?)、主語+述語(+補語)という形で「流通言語」にすくいとることはむずかしい。「わたし」は「日本人の胎児」が「他国に流れていった」ということを「うつらうつらと想像した」(述語を補ってみた)のか。
 あるいは「わたし」はあのときから「胎児」そのものとなり、他国に流れていったのであり、いまここにいる「わたし」は「わたしではない」のかもしれない。
 「もしやそんな」のあとにも、ことばにならないことばが動いている。それは「書けない」。だから「書かない」。そして「書かれていない」からこそ、白井の「肉体」を感じるとき、その「書かれていない」ことばが私(谷内、読者)のなかで、白井となって動く。
 こうなると、もう、そこに書かれていることばは白井が書いたものであっても、私は、それを無視する。それは私(谷内)のことばとして読みはじめる。完全に「誤読」しはじめる。
 で、次の連。

真裸を液体にさらしている生物の標本を畏れる
死んで 殺されて 死骸からとかれず
ひっそりと死につづけているのだから
標本に貼られた古い文字のラベル
インドの多民族たちの名称だろう
瓶の蓋をこじあけ 胎児をとりだした
すでに生の懊悩を秘めた顔立ち
ぬめった色斑のある皮膚
街でもとめた絹のスカーフにつつむ

 「わたし(白井)」がほんとうにそんなことをしたかどうかは知らない。それは「想像」の世界かもしれない。けれど、そのことばを読むとき私(谷内)は、白井の想像したことをしてしまうのである。そして、白井が感じていることを感じてしまうのである。標本の胎児は「生の懊悩を秘めた顔立ち」であると感じるのである。その肌が「ぬめって」いると感じるのである。思わず「絹のスカーフ」で胎児をつつんでしまうのである。
 こうしたことが私(谷内)におきるのは、最初に引用した詩の部分の、

妙な温かさが指先に

 という行に、「ふれる」が書かれていないからである。その書かれていないことばにこそ、白井がこの詩で書きたかった「肉体(思想)」が凝縮している。
 「ふれる」、つまり直接何かと自分を「接続させる」、何かと「断絶(切断)」することで自分を存在させるのではなく、常に何かと直接ふれることで、白井の肉体(思想)は動く。この直接性が白井のことばの特徴、つまり「思想」そのものである。
 白井はよく旅の詩を書いている。この詩も南インド・チェンナイでのことを書いているが、旅に出るのは、その土地、そこに生きている人間と「直接ふれる」ためである。
 「ふれる」が白井の詩の(思想の)キーワードである。キーワードであるから、それは「書かれない」。肉体になってしまっているから書かなくてもその「ふれる」をとおってことばは動く。キーワードは、書かれないことが多いのだ。




外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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荻悦子『影と水音』

2012-10-30 10:38:36 | 詩集
荻悦子『影と水音』(思潮社、2012年09月30日発行)

 荻悦子『影と水音』の作品は、どれも1行1行が短い。「影と水音」の最初の部分。

音をたてて
水が湧いている
人工の池に
漲る水
手をかざすと
明るい水の揺れが
手の影を
指先から溶かそうとする

 詩は暗記するしかないもの、と私は最近感想を書くとき、その「定義」として利用しているけれど、たとえば「音を立てて」という1行を暗記する気になるかというと、申し訳ないが、私はならない。私は散文的な人間なのだろう。どうしても「音を立てて水が湧いている」という具合に「主語+述語」を含んだことばでないと、ことばに反応しない。「音を立てて」から「水が湧いている」までのあいだにある「断絶(切断)」が、私にはつかめないのである。
 ということは、この「つかめない部分」に私と荻との「違い」がある。この「違い」は、現代思想でいう「差異」とは別なものなんだろうなあ、と私はふと余分なことを考えてしまうのだが、何かそういう余分なものを誘い込んでしまうくらい、この「つかめいな部分」は私から「遠い」。
 私は「音をたたて水が湧いている」と、それを1行にするが荻は「音をたてて/水が湧いている」と書く。そしてその2行(?)は「水が音を立てて/湧いている」でも「水が/音を立てて湧いている」でもない。つまり、「音を立てて」は荻にとっては単なる修飾節ではなく、独立している。
 ここに、私の感じる「遠さ」がある。
 その「遠さ」は、まあ、荻の「個性」ということになるのかもしれない。
 そうか、まず音を聞いて、その音によって肉体が目覚め、それから「水が湧いている」ということを認識する。この肉体と意識の瞬間瞬間の動きを、荻は追っているのだな。単に目に見えたものを描くのではなく(ことばにするのではなく)、ことばが動く瞬間瞬間を、いわば「写真」のように切り取って、それをじっくりながめる。十分にそれを味わったあと、次の行へ行く。肉体(感覚)とことばの出会い、結合を、十分に味わいながら進む、というのが荻の「リズム」ということになる。
 こうした「ぶつん・ぶつん」と切断された肉体と意識は、どうしても「十分に味わった何か」の影(?)をまとってしまう。

音をたてて
水が湧いている
人工の池に
漲る水

 ここまでは、何も起きていないように見える。それは、私にそう見えるだけであって、荻の肉体と意識(ことば)には、何かが起きているのかもしれない。

手をかざすと
明るい水の揺れが

 これは、水に反射した光のことだろう。それが、

手の影を
指先から溶かそうとする

 散文的に説明を加えると、水面に手をかざすと、その手に水に反射した光が跳ね返り、手にある最初(?)の影、つまり太陽が作り出す影をちらちらと照らすという情景を描いたものであることがわかる。
 で、その手の影(太陽が作り出した影)を水の反射した光が照らすとき、それを「照らす」とは言わずに、荻は「溶かす」と言う。この「溶かす」のなかに、それまでの1行1行のことばの「停止」のときの「十分な味わい」が反映している。1行1行停止して、そこで肉体と意識、それからことばを見つめてきたので、ここで「照らす」という「流通言語」ではなく、「溶かす」という詩のことばが動くのである。
 「指先から」という具体的な肉体が、そうやって詩のなかに定着するのである。
 この感覚、この「遠さ」を味わうためには、私のようなせっかちな人間は向いていない。じっくりと時間をかけて読んでこそ、荻の詩は、そのことばのなかに荻の「肉体」を浮かびあがらせる。じっくり読むと、荻の肉体(思想)が見えてくる。

 私の「駆け足」のスピードで読んだ範囲で言うと(ゆっくり読むと違ってくるかもしれない)、「洋梨」がいちばんおもしろい。

洋梨を抱えてきて
両腕をほどいた
洋梨は
テーブルに落ち
少し震えて静まった

一つが横に
二つは縦になり
三つの洋梨が形づくる
影と


若草色の
テーブルクロスに
影と陰が交じりあう
洋梨の形を逸れることなく
丸みを失わない

 1連目の「洋梨は」という1行は、ちょっと無防備すぎて逆によくわからないが、「抱えてきて」と「ほどいた」の距離、「落ち」と「静まった」までの変化が、ことばそのもののひびきのなかにあって気持ちがいい。
 荻が「遠い」だけではなく、その「遠さ」のなかに、私は「遠近感」を感じるのである。その「遠近感」を親しいものとして私の肉体が受け止めているのを、肉体の感じそのままに私は感じることができる。
 2連目の5行は、とても美しい。1行1行に、たしかに立ち止まらなければならない「世界」がある。大好きなセザンヌの静物画を見ている気持ちになる。
 3連目も「テーブルクロスに」という1行が、私の感覚では、あまりにも「遠い」のだけれど、そのあとの3行がいいなあ。
 特に「丸みを失わない」の「失わない」が、そうか、これが荻の書きたい詩なのか、と「誤読」を許してくれる。洋梨を買ってきてテーブルにならべ、その影と陰の出会いと変化(影と陰のセックスだね)を見てみたい--という欲望に誘われる。





影と水音
荻 悦子
思潮社
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日笠芙美子『秋の腕』

2012-10-29 10:43:56 | 詩集
日笠芙美子『秋の腕』(思潮社、2012年10月20日発行)

 日笠芙美子『秋の腕』は後半に収録されている「水の家」シリーズがとても気持ちがいい。その作品に触れる前に、「春のめまい」という作品。

芽ぶこうとするものが
這い出ようとするものが
かたちにあるものになろうとして
動きはじめている
土は臨月のお腹を抱えている

 「土は臨月のお腹を抱えている」に驚いた。あ、そうなのか、「臨月」の感覚か。あ、そうか、とは書いてみたが、ほんとうは「誤読」しているかもしれないのだが。
 なぜ驚いたかというと、春の芽ぶきガ土のなかからはじまっている。それを「胎動」と結びつけることは、たぶんふつうの男にもできる。だが、そのとき男はそこから「胎児」「子宮」へと意識が動いていく。それ以前(?)の性器、セックスへと意識が動いていくこともある。まあ、しかし、これは意外と少数派かもしれない。
 男というのはだいたい甘えん坊だから、「胎児」を連想したとき、その「胎児」を自分と勘違いし(胎児と自己同一化し)、いまから生まれていくのだと自己中心的に考える。そのとき、その子宮の持ち主(女)がどんな状態かは考えない。
 でも、女は違うのだ。
 「臨月」か。そうだなあ、たしかにそうなるのだろう。もちろん女も子宮の中の胎児の動きを感じるだろう。けれど、それは「別の生き物」(新しいいのち)、それよりもやはり自分の肉体をしっかりと感じるのだろう。それが臨月。
 私の想像力が足りないのかもしれないが、男が土を見て、そこから「臨月」ということばで自然ということはないだろう。
 人間の想像力というのは、不思議だ。どんなに自由(でたらめ)なことを想像できるようであっても、自分の肉体が基本になっている。で、そういう基本をしっかりとおって動いてくることばは、やはり、強い。
 あ、このひとは私とは違う。その「違い」にひきこまれてしまう。
 2連目。

ふいにめまいに襲われる朝
身をよじらせて
目じりに涙をためて
吐いた
つぎつぎに吐いた

 三島由紀夫は自分が生まれたときの様子を、体を洗うときの金盥まで覚えているというけれど、男にできるのはせいぜいがそういうことくらいであって、そのとき母が「身をよじらせて/目じりに涙をためて」というところまでは見えないし、自分がくぐりぬけてくる狭い場所、狭かったなあ、ということは覚えていても、そのとき母の肉体のなかにどんな痛みが動いているかということは覚えていない。生まれてくるときから男は自己中心的なのである。

 で、後半の「水の家」シリーズ。
 ここに出てくる人間は「自己中心的」ではない。男も登場するが、この世界を統一しているのは「自己中心的」ではないいのちである。
 「吊り橋」という作品。

道は
まっすぐではなかったけれど
楽しかったよ
森や川の匂いをさせて
長い散歩から
父の声が帰ってくる
古びた戸口をがたがたさせて

台所で母が
コトコト大根を切っている
あわせてその母も
人参を切っている
あわせてその母の母も
葱を切っている
色とりどりの野菜や母たちで
コトコトコトコト お帰りなさい

 「父(男)」は登場するのが、それは「声」であって、肉体ではない。(もちろん声も肉体なのだが、たとえばこの詩の母のように大根を切ったり葱を切ったりはできない。)その「父」は「声」であるが、その「声」とは「ことば」でもある。おもしろいのは、ことばを聞きながら「母」はそのことばの世界を「見る」ではなく「嗅いでいる」。「におい」を感じとり、それを自分のなかに取り込んでいる。
 そして。
 その「匂い」に「台所仕事」を重ねるのだ。「匂い」にあわせて、たとえば大根を切って、煮る。その「匂い」が「父」のからだのなかに入っていき、父が遠くで見てきた世界と混じり合うのだ。
 「父」が遠くから「匂い」を運んでくるなら、「母」はその「匂い」に負けないくらいの「匂い」を「父」の体のなかにまぎれこませる。「父」にはそういうことは意識できないだろうけれど、そうやって男をしっかりと自分の肉体そのものにしてしまう。奇妙な言い方になるかもしれないが、この「家事」は女(母)にとっては男(子ども)を妊娠させるひとつの方法である。男(父も子どもも)は母の作ってくれるものを食べながら知らず知らずに育ち、その食べたものの影響を受けながら、なにごとかを生み出す。「道は/まっすぐではなかったけど/楽しかったよ」。ああ、そんなことは知っている。ことばをきかなくても、体にまといついている「匂い」を嗅げば、そんなことはすべてわかる。それが「母」なのだ。自分が生んだ生き物(男)が自分が生んだままの姿ではなく帰ってくるのだから、その違いに気がつかないはずがない。
 さらに。
 それはひとりの「母」の体験ではない。「あわせてその母も」「あわせてその母の母も」。これは、「くりかえし」のようであって「くりかえし」以上のような何かだ。母にとっては、あらゆるくりかえしは、何度くりかえしても「はじめて」のことなのである。きのう大根を切った、葱を刻んだ。そして、きょう大根を切り、葱を刻むとき、それはくりかえしのようにみえるけれど、くりかえしではない。はじめて大根を切り葱を刻むのだ。毎回「はじめて」の位置に、母も、その母も、さらにその母も、いっしょに立ち並ぶ。それが「あわせて」である。毎回、「あわせて」の母の人数が違ってくるから、それは同じに見えても「はじめて」である。きょうはあの母と、あすはあの母もくわわり、という具合に違うのである。
 言い換えると、くりかえしているようで、それはくりかえせない。別な「比喩」をつかっていえば、それは妊娠し出産するまでの過程に似ている。それはあらゆる母が体験してきたことのくりかえしなのだが、何度くりかえしても「一回かぎり」、そのときそのときでまったく違っている。
 その違いは「臨月」そのものの違いでもある。--これが、男にはわからない。
 私は「春のめまい」を読むまで、そういう違いがあるとは想像したことがなかった。

 詩の最後。

あおい山のあいだ
揺れる吊り橋をわたる
遠く近く水音がして
胸までいっぱいになってくる
水の家がある
ひんやりと祖母の乳房が揺れている

 「母の、その母の、その母の……」とつながる世界。それは何度くりかえしても「はじめて」だから、そこには「歴史(時間の幅)」はない。
 というわけではないのだ。
 そういうくりかえしを思い起こせるのは、母だけではなく、日笠には母の母、祖母と暮らした時間があるからだ。祖母-母-日笠というの「時間」を体験したことが、「歴史」ではなく、逆に「くりかえし」が毎回「はじめて」であるということに気づかせたのだ。
 ここには一種の矛盾、祖母-母-日笠という時間を見ながら、意識するのは「いま(はじめて)」のことであるという矛盾がある。男から、ここから「歴史」へ入って行ってしまうのだが、日笠は歴史へ帰らずに、過去を「いま」に並列させる。「あわせて」という状態にする。この、矛盾というか、無理というか、なんと呼んでいいのかはっきりしないのだけれど、そういう運動のために、日笠のことばは、不思議な新しさをもっている。
 毎年、間違えずに芽ぶいてくる春の草花のように。毎年なのに、毎年、新しい。間違えない、というのが新しいことの条件なのかもしれない。



秋の腕
日笠 芙美子
思潮社
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ベン・アフレック監督「アルゴ」(★★★)

2012-10-28 11:16:55 | 映画
監督 ベン・アフレック出演 ベン・アフレック、アラン・アーキン、ブライアン・クランストン、ジョン・グッドマン



 イラン革命のときの、アメリカ人救出作戦を描いている。カナダ大使の私邸に逃げ込んだ6人を映画スタッフといつわって救出するまでを描いている。実話なのに映画みたいな話を映画にしている。そうすると、実話なのにまるで「映画」になってしまって、そんなにわくわくしないのだ。不思議なことに。
 結末のわかっている映画はなかなかむずかしいが、3・11を描いた「ユナイテッド95」は、結末がわかっているのに、映画なのだからもしかしたら助かるんじゃないか、がんばれ、がんばれ、という気持ちになるのだが、この映画は、そんなに真剣(?)になれない。「ユナイテッド95」の乗客は全員死ぬのに、この映画では全員助かることがわかっているから? 人間(私?)はあまのじゃくにできていて、無事に生き残る人間に対しては「がんばれ」という気持ちが起きないのかなあ。
 そんなこともないとは思うのだけれど。
 何が原因なのかなあ、と思うと、やはりクライマックスがあまりにも映画的だからだね。この「映画的」というのは、たとえば離陸しようとする飛行機をイラン革命軍(で、いいのかな?)の兵士が滑走路の仲間で追ってくる。追ってくるのを見ながら「早く飛び立て」と祈っている人質たちというスリルが映画なのではなくて。
 画面の切り替えだね。
 現実は「画面の切り替え」ということができない。自分の見ている世界しか存在しなくて、肉眼で見えないところで何が起きているかわからない。ベン・アフレックが空港で兵士たちの顔を見る。何が起きるか、心配しながら、その反応を待つ--こういう部分は、いわばベン・アフレックの「肉眼」を代弁している。そのとき、彼が見るのはあくまで「空港」のなか、それも実際に面と向かっている人だけである。
 このときアメリカで何が起きているか。CIAは何をしているか。映画づくりを偽装しているスタッフは何をしているか。まったくわからない。
 でも、映画はそれをスクリーンに映してしまう。CIAはCIAで緊迫した動きをしている。映画スタッフもぎりぎり間に合う。すべてがあと1秒違っていたら失敗している。その感じを映画はほんとうに秒単位の動きとして「再構成」してしまう。
 巧みだねえ。
 でも、この巧みさが、実話を「映画」にしてしまう。あ、これは「映画」じゃないか、「実話」とは無関係な「作り話」じゃないか、という感じが、そのとき、意識を支配してしまう。その結果、実は「映画」ではなくなってしまう。「娯楽」になってしまう。まあ、「娯楽映画」なのだから、それでいいのかもしれないけれど。
 逆の言い方をすればいいのかもしれない。
 もし、それが可能であるかどうかわからないけれど、最後のクライマックスを、CIAの動きや映画スタッフの動きを挿入せずに(そういう画面で説明せずに)、ベン・アフレックの見ている状況だけで描きとおしたなら、これはほんとうに映画になったと思う。
 人のことはわからない。今自分にできることは何か。それだけに向けて意識を集中する、その集中力を映像化したなら、とてもおもしろいものになったと思う。秒単位のスリリングはスリリングでいいのかもしれないけれど、実際、そこにいるひとの「1秒」は「1秒」ではない。ほんとうは「1時間」あるいは「まる1日」くらいの長い長い不安であるはずだ。それがこの映画では伝わりにくい。はらはらどきどきが、ほんとうに「1秒」なのだ。
 画面がてきぱきと動くと、心理のスローモーションがなくなる。人間のこころのなかに動いている、その動きの細部がふっとんでしまう。「間」がよすぎて「間」がなくなる。結果的に「間」の処理が悪い映画ということになってしまう。
 たとえば、一連のクライマックスのなかの、アメリカ人大使館員が映画の説明をするシーン。アラビア語を話せる男が、絵コンテを見せながら、こんな映画だ、と説明するのだが、その説明に入るまでのためらいが欠落しているので、彼の「どきどき」が伝わってこない。失敗したらどうしよう。この作戦のリーダーは自分ではないし、でもアラビア語が話せるのは自分しかいないし……。そういう苦悩があったはずなのに、それが映像としてえがかれないまま、突然、映画の説明をする。それこそ1秒、いや、その半分でもいいのだけれど、あの男の顔をアップ、目の動き--たとえば、ベン・アフレックに「こうしたい」とつたえるような表情があれば、「間」が濃密になる。
 こういう映画ではスピードが大事であると同時に、時間を止める、止めて瞬間的に深めるという2種類の操作をしないと「映画」が「事実」にならないのだが、どうも、その「時間を止める」ということがきちんと組み立てられていない。
 「時間」がてきぱきしすぎていて、「どきどきはらはら」が上滑りする。
 そのことについてもっと言うと。
 この映画の主役は複雑でベン・アフレックや人質が「主役」なのは当然だが、もうひとつ「映画」が主役であるはずであって、その架空の「映画」をつくらないままつくりつづけた監督とスタッフの「思い」があまりにも手軽にしか描かれていない。なぜ、そうしたのか。そのとき彼らは何を思っていたのか。そのこころの事実が映画ではわからない。時間がそこでは止まっていない。彼らの行動は時間に沿って描かれているが、こころの時間がない。だから「実話」なのに、まるで「映画」になってしまう。
                        (2012年10月27日、中州大洋4)



 (補足)
 中州大洋4で見たのだが、映写機トラブルで映像がいったん停止した。まっくらの画面になり、音だけが聞こえる。それはクライマックスの一連のシーンの、パスポートチェックのシーンなのだが、見ているときは、あ、いいところなのにと悔しい思いがした。事前に「一部画面が途切れる」と知らされていたのだが、まさか、そういうシーンとは思わなかった。
 だが、終わってしまうと、まあ、別に途切れていてもいいかなあ、と思った。
 こういうことを思ってしまうのも、映画の「間」が、すべて「娯楽」の「間」でできているので、見逃したという気分にはならないのである。
 偽の映画をつくる(つくらない)映画スタッフをはじめ、映画にはなっていないぶぶんにこそ、「事実」と、もっとおもしろい「映画」の可能性があるのになあ、という思いがしてくる映画である。



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斎藤恵美子『集光点』

2012-10-27 10:33:49 | 詩集
斎藤恵美子『集光点』(思潮社、2012年10月31日発行)

 斎藤恵美子『集光点』には、非常に困惑した。私には「日本語」として「聞こえてこない」。詩集のタイトルの『集光点』は読んだとき「意味」はわかったような気持ちになる。光が集まる点、くらいだろう。けれど、その「意味」は私の肉体のなかに入って来ない。なぜかというと、私は「しゅうこうてん」という音を聞いたことがないからだ。
 こういうことが頻繁に起きる。そしてそれは「単語」だけの問題ではない。いや、単語以外の問題の方が大きい。
 巻頭の「居留地」。

旅程だけで組み上げられた人生を
なげうって
流れ着いた極東の 波音のする小さな町を
祖国と呼んだ
白昼の 三次元ラウンジから
眺望するドックヤード
振り向きざま
アラブの言葉で 囁かれた記憶もある

 アラブからの船、それに乗ってきた人か、船そのものが「主語」なのかは1連目だけではわからない。わからないことは、そのままにしておく。「三次元ラウンジ」というのも、わかったようでわからない。これもそのままにしておく。
 私がつまずくのは、それよりも2行目「なげうって」である。なぜ、「なげうって」だけが1行として存在しているのか。そのリズムにつまずく。こういうことばのリズムを私の肉体は知らない。どこかで聞いているかもしれないが、そういうときはたぶん聞こえないふりをしているのだと思う。そういう音(リズム)が飛び交う世界は、私の世界とは相いれないと肉体が拒絶するのである。

それらを包む拍子(タクト)はおそらく 波音でしかあるまいと
                                (「居留地」)

此処は、人が、生まれ落ちる前の拍子(タクト)と
                               (「岩石海岸」)

埋め立てられた、土地を歩くと、歩幅のリズムがいつもより
                                (「磯焼け」)

水の呼吸と同じリズムで、淡い緑を揺らそうと
                                (「磯焼け」)

 こうした行を読むと、斎藤は拍子(タクト)、リズムというものに反応していることがわかるが、その拍子、リズムが私とはまったくあわないのである。
 「此処は、人が、生まれ落ちる前の拍子(タクト)と」「埋め立てられた、土地を歩くと、歩幅のリズムがいつもより」の読点「、」のリズムにも私の肉体はまったくついていけない。「意味」はわかる--わかったつもりになるが、きっとそれは「誤読」にすらなっていない。「頭」をかすめて、私の知らない方向へ飛び去ってしまう。「虚無」すら、そこには存在しない。
 こういうとき、私はほんとうに困惑する。
 私の場合まったくリズムがあわない詩人というとまっさきに稲川方人が思い浮かぶが、その稲川の場合は、平出隆の詩を読んだあとだけ、あ、そうなのか、こういうリズムがあるのか、ということがなんとなくわかる。平出のことばのリズムを肉体にしみこませたあとなら稲川のリズムを受け入れることができる。
 斎藤の詩を受け止めるために、私はだれの詩で耳をなじませればいいのか--それが思いつかない。

 こういう作品群に出合ったとき、まあ、ほうっておくしかないのかもしれない。私のことばの範疇外。「目」で読むと、なんとなく「意味」はわかるが、それは私の肉体とはなじまない、と言うだけでいいのかもしれない。
 ところが。

ムスリムの 男の夢に
二度目の天体が現われて
                               (「屋台料理」)

 これは「耳に入ってくる」。「二度目の天体」というのは、「二度目」であるけれど、それはムスリムの男にとっては「はじめて」である。何度現われようが、それは「はじめて」である。ムスリムだからアラーの神のことを考えていいのだと思うが、そのアラーの神と向き合うときのように、それは何度くりかえしても「はじめて」という感じが肉体のなかに直に響いてくる。
 私がいま書いたこと(「二度目であってもはじめて」)とその2行には書いてない。つまり私の「誤読」なのだが、そういう「誤読」を誘い、そのなかでことばを揺り動かすリズムがそこにはある。

今朝は、時間の脈搏へ
自分の脈が思うように重ならない
                                (「D突堤」)

写真は、行為ではないことを、私も肉体で知っている
関係なのだと
写真の中の、死者と私は、接点を持たぬ
                              (「視線の写真」)

 読点「、」に「誤読」を拒絶されてしまうが、ここに書かれている「脈」「肉体(で知っている)」が「誤読」を誘う。そのことばに私は誘われる。
 ぜんぜんわからないのに、そのわからないものがときどき、ふっと私を誘い込む。
 奇妙に何かが揺すぶられる。

 困ったなあ。
 どう書いていいかわからないなあ。

 特に。
 「観念の壺」。これは、傑作だなあ。とてもいい。

テネシー州の上に、ひとつの壺を置いた、あなたにとって
正確とは、自己に忠実であることだったが

テネシー州に、置かれた壺を
まざまざと想起するには
「テネシー州」が固有名詞であることを、いったん忘れ

針の先に、貫かれた一点から噴くものが、鮮烈な知であるためには
言葉の張力が必要だ

 とぎれとぎれに「部分」を引用してみた。この「部分」でも、私は読点「、」につまずいてしまうが、つまずきながらも、まだなんとかついて行ける。
 なぜかなあ。
 斎藤のことばが、「肉体」ではなく「観念(?)」へ向けて動いているからだ。「肉体」ではなく、「頭」で斎藤はことばを受け止め、動かしているのだ。
 読点「、」は肉体の呼吸(リズム、タクト)ではなく、「脳」の波なのだ。脳波の刻む電子音のようなものなのだ。
 そうか。
 「脳」を鍛えてから読まないといけないのだな、「肉体」だけで、素手でことばをつかみ取ると、「脳髄(?)」の灰色の無機質しかつかむことができないから、思わず手を引っ込めてしまうことになる。
 
 と、言う具合にまで「わかった」が、そして、これはなかなかおもしろいことだぞとも「頭」では理解できるが、うーん、やっぱりその方向に動こうとすると、私の肉体が「やめておけ」と引き留めるのである。
 困ってしまった。


最後の椅子
斎藤 恵美子
思潮社
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大西久代『海をひらく』

2012-10-26 11:11:18 | 詩集
大西久代『海をひらく』(思潮社、2012年10月10日発行)

 大西久代『海をひらく』の巻頭の作品は「神椿」。その書き出しを読んで私はびっくりした。

透明な空気に満たされ
つぼみという宇宙で魂はのびあがる
まだ 花と名付けられないものが
光へと首をもたげていく

 いきなり「魂」ということばが出てくる。大西は何を魂と呼んでいるのだろう。魂をどんなふうに定義しているのだろう。わかることは、大西にとって魂は「のびあがる」ことができるもの、運動するものということである。そして、その運動は「つぼみ」という小さな世界にも「宇宙」を見てしまう運動である。また「透明な空気」を好んでいるらしい。透明な空気の中で動くものらしい。さらにいえば、それは「つぼみ」という「未完成」のもののなかでこそ動くことに「意味」があるらしい。魂の動く「場」として「つぼみ」を選んだことに、大西の「思想(肉体)」がある。
 そして、ここから先がさらに大西の特徴かもしれない。詩はつづく。

静まり返った林道をひとりの男が
とある意図を忍ばせ登ってくる

 「主語」は魂から「男」に変わってしまう。魂はどこかへ消えてしまう。
 「主語」は男でもなく魂でもなく、ここには明確には書かれていないが、つまり「登場人物」として登場しないが、この1連のことばを書いた「私(大西)」が、作者が「主語」なのかもしれない。
 詩は、ここから「物語」になる。
 そのとき、その物語のなかでは、つぼみという宇宙でのびあがる魂は、どんな運動をするのか。実は描かれない。そのかわりに、男が椿を絵を描くということが描かれる。
 この、ねじれ。
 詩なのだから、論理はどうでもいい。ねじれにはねじれの、無意識な論理があり、そのねじれの方にことばが動いていくなら動いていけばいい。それが好きか嫌いかは読者次第である。
 私は、好きでも嫌いでもなく、あ、ねじれている、とだけ感じる。
 何かをつかみかけて、それが何かわからない。はっきりと名づけることができないできないので、ねじれていくのだ。
 花を描くことは、花と対話することである。だから、好意的(?)に考えれば(読めば)、後半は、男と花との対話、男が花のなかから魂を抽出しようとした時間を描いているとも言える。まあ、そんなふうなことを書きたかったんだろうなあ、と思う
 そうだと仮定して。
 大西はどうしてつぼみのなかで動き、つぼみを花として開かせるものを、その運動のエネルギー(?)を「魂」と簡単に(?)呼ぶことができたのだろうか。
 最初の「びっくり」に私は戻ってしまう。
 「魂」か。大西が「魂」を書きたいのだ、男が椿の絵を描いたという「物語」よりも、きっと魂そのものが存在するということを書きたいのだと、なんとなく感じるのだが、その肝心の魂が、この詩たけではわからない。
 奇妙に、もどかしい。
 「魂」は「初雪草」という作品にも出てくる。

魂は還ってくる
求めればくるものでもなく
さりげなく男の褥に忍び寄っては
ないことの頼りなさをよびさます
咲いていること
陽を浴びて風に揺れていること
視線の先で光るものをぬぐい
隔たりを確認する

 「ないことの頼りなさをよびさます」が印象に残る。「魂」は「ある」けれど「ない」のだ。それは、大胆に言ってしまえば、「ある」とか「ない」とか断言できない。決めてしまうことはできない。決めてしまうと「間違い」になってしまうような何かなのだ。ただ、「いま/ここ」に「私」がいて(ある)、他のものがあるということをありのまま受けいれる運動なのである。
 「神椿」にもどると、たとえば「つぼみという宇宙で魂はのびあがる」ということばがあらわすものを、つぼみのなかで花の命がのびあがり、そののびあがる運動よってつぼみの宇宙は開かれ、世界と一体になる、そののびあがってくる魂(いのち)と交流しながら男は絵を描いた、といストーリーを読みとったとする。それはそれでいいのだが、だからといって「神椿」をそういうストーリーとして決めつけてしまうと、その瞬間に魂はきっと消えてしまう。
 その瞬間その瞬間、ふっと何かが動く--その動きには「ひとりの男が」というような突然の異質なものの乱入があるのだが、それはそれで「一期一会」の出会いである。その出会いのなかで何かが動いている。それを動きのまま、ありのまま「よし」とする。それが「ある」でも「ない」でもあるということかもしれない。
 あ、なんだか、やふこしくなってきたなあ。
 詩のさらにつづき。

男の海が干上がっても
地におちた小さな黒い粒は
時を恐れず満ちてくる
男もまかひもとくだけの刻の綾に身を浸し
今や夏の陽に溶け合っている

 「時を恐れずに満ちてくる」。これが「ある」も「ない」もひっくりめて「ありのまま」なのだろう。「満ちてくる」のは「粒」のなかの「潮(いのちの動き)」かもしれないし、「時」そのものかもしれない。「時を恐れずに満ちてくる」の「満ちてくる」の主語が「時」というのは、まあ、文法としてはおかしいのだけれど、「ある」も「ない」もありのままなのだから、そういう「矛盾」のなかでは、そういうことが起きたってかまわない。矛盾のなかではあらゆるものが対立しているのではなく「溶け合っている」。そして、それはどのようにも言い換えることができるが、言い換えて、これはこういう意味だと「断言」すると、それは間違いになる。「断言」を回避しながら、ことばを動かす。

 こんなふうにことばを動かしてくると、また、詩は暗記するだけのもの、ということばを思い出してしまう。「時は恐れず満ちてくる」。このことばは、いつか、私の目の前にまたふいにあらわれるだろう、という予感がする。
 こういう不思議な予感をかかえこんでいることばが詩なのだと思う。

 「魂」は「ある」けれど「ない」、つまり(?)「ない」ところに「ある」ということになるのだが、それはどういうことかというと、
 と、私は、いつものようにここで「飛躍」してしまう。
 「魂」は「ない」ところに「ある」のだから、魂ではないものを書くと、それが魂になるということなのだ。
 たとえば「芹ものがたり」。

水音が高鳴って
盛り土が崩れはじめるころ
水辺を埋めた芹が鮮やかに濡れて
朝のひかりに輝きをます

 この「芹」は「魂」なのである。「魂」が「芹」となって目の前にあらわれている。大西には魂が「芹」に見えたということである。

芹は春をくりかえします

冷たい芹は食卓のうえで
生きいきと香ります

 登場するたびに「芹」を「魂」と置き換えてみると、大西の「肉体(思想)」がふいに目の前にあらわれてくる。その瞬間に、大西の肉体が見えてくる。でも、それは、やっぱり「断言」してはいけないことなのだ。
 「ものがたり」とは言いえて妙であると思う。「断言」するとき、私たちはそこに「物語」を読むというか、「物語」に頼ってしまう。「理解する」とは何事かを「物語」として受け止めることなのだが、その「物語」を解体し(解放し)、「ある」を「ない」に変えてしまう一瞬の、定義できない何かが詩なのだろう。
 そういうことばにならないものを大西は「魂」ということばで呼び出そうとしているのかもしれない。

 「パオーッ、パオーッ」は「魂」のかわりに「象」ということばがつかわれている。「象」が「魂」として動いている。とてもいい詩だ。ぜひ詩集で読んでください。



海をひらく
大西 久代
思潮社
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ボアズ・イェーキン監督「SAFE/セイフ」(★★)

2012-10-25 10:34:12 | 映画
監督 ボアズ・イェーキン 出演 ジェイソン・ステイサム、キャサリン・チェン、ジェームズ・ホン

 ジェイソン・ステイサムはハードボイルドアクションの旬の役者である。禿げている(と思う)のに、禿を隠さず、丸刈りの頭、同じ長さ(?)の無精髭でがんばっている。丸刈りも、無精髭も四角く長い顔でないと似合わないのか、小顔(丸顔)では似合わないのか……などと思いながら、さて、今度はどんな味付け?
 なるほどねえ。禿げ、丸刈り、無精髭だけでは、中年のおじさんは汚いだけ。で、もっともっといじめるんですねえ。八百長ボクシングで、間違って勝ってしまってロシアマフィアから狙われる--という出だしはありきたりなんだけれど、さすがロシアマフィアというか、狙い方がねちっこい。妻を殺すまではあたりまえで、その後どうするかというと、ジェイソン・ステイサムに信じられないような「拷問」をする。肉体的に拷問するのではない。だれかと親しくなったら、そのだれかがだれであろうと相手を殺す。つまり、ジェイソン・ステイサムを完全に「孤独」に追いやる。これで、ジェイソン・ステイサムは廃人になりかける。死んでしまおうかなあ、と悩んだりする。あ、「新手」だねえ。ここが新しい。
 さて、その「どん底」からジェイソン・ステイサムはどう立ち上がる。
 これは映画だから、まあ、荒唐無稽です。でも、その荒唐無稽が、なんとも「現代風」。中国の少女が出てくるが、これが数学(数字?)の天才。数字を瞬時に覚え、一度覚えたら忘れない。この少女を「人間コンピューター」に仕立てて、中国マフィアが金庫の番号を書いた「暗号」を記憶させる。番号そのものだったら、もれたときにすぐわかるからね。--その少女が中国マフィアから逃げ出す。逃走の途中の地下鉄でジェイソン・ステイサムとすれ違う。このときジェイソン・ステイサムは自殺しようとしていたんだけれど、少女が気になり、瞬間的に思い止まる。そして、少女が何かから逃げているということを直感し、少女を助けようとする。ここから、映画が本格的にスタートする。
 長々と「導入部」について書いてしまったけれど、実は、映画がはじまってしまうと(本格的にストーリーが動くと)、あとはあまり書くことがない。最初の「味付け」をどう最後まで守り抜くか、その味を押し通せるかというのが映画の評価の分かれ目なんだけれど。
 「廃人」からの立ち直りが早すぎる。「廃人」がフラッシュバックしない。もう一直線に、昔の「正義のニューヨーク特命刑事」に戻ってしまって、やることなすこと、完璧。ハードボイルドをクールにやってしまう。これじゃあ、単純すぎる。少女を守り抜くこと、つまり少女との「関係」を「生きる」希望にして生きていく、というのがあまりにも簡単に描かれていて、あれっ、あの、「孤独」が苦悩は?
 まあ、文学ではなく娯楽映画なのだから、それはそれでいい、と割り切れればいいんだろうけれどねえ。でも、そうなら、あの導入の奇妙な精神的な「翳り」の演出はなんなのさ。
 少女の方も、数学の天才というのは、それはそれでいいのだろうけれど、これがぜんぜん恐怖心が伝わってこない。どうせ助かるんだから、とシナリオを読んで結末を知っているので、「いま」を演じることができない。役者というのは「過去」をつたえるのは大事だけれど、「未来」をつたえてはだめ。「いま」の演技のなかに「過去」を噴出させながら「いま」を突き破って時間を未来と動かすのが役者--というようなことを、こういう「ご都合主義」映画の子役に言ってもしようがないか。
 こんなふうに、変に少女の悪口を書いてしまうのも、映画の導入部でジェイソン・ステイサムに「翳り」を演出しておいて、その「翳り」がストーリーそのものを突き破る具合に映画が展開しないからだね。
 ジェイソン・ステイサムをアメリカへもってきたこと自体が間違いなんだろうなあ。イギリス味というかヨーロッパ味の役者である。アメリカの「過去はありません」タイプの映画では、どうにもおもしろくない。「アメリカには過去はありません」というのでは困るから、変に陰湿な導入にしたんだろうけれどね。
 ついでに。
 なるほど、これが「アメリカの過去」か、と思ったのが、ニューヨーク市長の描き方。あくどく金をつかんでいる、というよりも、「彼氏」の描き方。ジェイソン・ステイサムがたしか「ボーイフレンド」と呼んでいたが、影の会計士のことを「隠語」でそう呼んでいるのかと思ったが、どうもほんとうのボーイフレンドのよう。アメリカでは、こういうプライバシーがせいぜいの「過去」なんだなあ。
 で、それに関連しておもしろかったのが、ジェイソン・ステイサムが「秘密」を焼き込んだCDを市長に要求する。市長がそれを渡すとパソコンで詠み込んで見せろ、と要求する。「アバのCD」だと困るから。あ、そうなんだ。アバはボーイフレンド・ミュージックなのだ。そういえば「プリシラ」ではアバの「ダンシング・クィーン」にあわせておどっていたなあ。ボーイフレンド群が「マネ・マネ・マネー」と歌って流行を下支えしてたんだね、という音楽界の「過去」がそんなところで噴出してくるところが、なんというか、思わず笑ってしまった。
                        (2012年10月24日、中州大洋4)


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池田順子『水たまりのなかの空』

2012-10-24 10:44:38 | 詩集
池田順子『水たまりのなかの空』(空とぶキリン社、2012年08月20日発行)

 池田順子『水たまりのなかの空』にはわからないことばがふたつ出てくる。

こよこよと
枝か 何かが
どこかで鳴いて
その度に水溜まりのなかの空が
さざめいている
ゆれるだけゆれて
映すだけ
                                 (「詩集」)

貰った右足を股関節に取り付ける
すっとハマった のに
しっくりこない
立ちあがると
シイ と音がして
少し疼いた
                              (「シイの記憶」)

 「こよこよ」と「シイ」がわからない。どちらも「オノマトペ」である(と思う)。オノマトペだからわからなくていい--のかどうかも、まあ、はっきりわからない。風が「そよそよ」吹いている。手にくっついたものが「ねばねば」している。オノマトペだけれど、わかる。ほかのことばで言い換えることができる。風が「そよぐように」静かに吹いている。手にくっついたものに粘りけがあり、なかなか手からとれない、しつこく絡みついてくる。ほかにも言い方があるかもしれない。それに「そよそよ」「ねばねば」は聞いたことがあるが、「こよこよ」「シイ」は聞いたことがない。初めて知った。だから、わからない。
 初めてのことは、わからない。それを受け止める準備が私の肉体の中で整っていない。私はかなり保守的な人間なのだろう。自分の肉体が体験したこと以外はわからない。実際にそのことばが人と人のあいだ(だれかと私とのあいだ)で行き来したものでないと、そしてそれを耳で聞いたことがないと、まったく理解ができない。だから、私は「読書」というものがとても苦手だ。難読症かもしれない。カタカナの場合は、完全に難読症だと自覚している。長いカタカナの文字は正確に読めない。発音できない。
 少し脱線した。
 で、こうやって「初めてのことは、わからない」と書いて、そこまで書いて、不思議なことに池田の書いていることが少しわかる。言い換えると、「誤読」するための手がかりに触れたような気がする。
 「シイの記憶」というのは次のように始まっている。

別れ際
あなたは
右足を外すと
わたしにすっと差し出した

 右足を外して差し出す(差し出される)。こんなことって、ある? 体験したことってある? 私は、ない。池田も、たぶん、これが初めてだろう。
 初めてのことは受け止めようがない。どうしていいかわからないけれど、こんなふうにするのかなあと手探りで肉体を動かす。

あなたの右足は
長くて大きい
ふらっとよろけながら
代わりにわたしの右足を差し出した
あげたいものは
他にあったのに

 右足をもらったのだから、右足をお返しする。片足では歩けないからね。ほんとうは違うものを「あげたい」というより、ほかのものを交換したかったのだろう。もっとありふれたものを。
 右足は、ほんとうは右足ではなく、「あげたいもの」(交換したいもの)の比喩ということになるのかもしれない。でも、比喩、というふうに考えると「初めて」の感じがうすくなるね。「意味」になってしまうね。「意味」になってしまうと、それはもう初めてではない。「意味」になっていないものが「初めて」のこと。
 いま起きている「こと」を肉体になじませる。肉体が納得できるまでまつ。それが初めての体験のすべてだ。初めてというのは、まあ、この詩を読んでもわかるけれど、夢中になる。セックスのようにね。何をしているか、わかっていない。わかっていなくても、人間にはできることがたくさんあって、セックス何というのはその代表的なものだけれど、夢中になってやって、それから「あ、これはこういう意味なんだ」とふりかえるものである。
 で、夢中になって、池田は自分の右足を差し出し、貰った右足を股関節に取り付ける。そのとき、「ハマった」のに、しっくりこない。「シイ」と音がする。あ、そうか。「シイ」というのは、池田の肉体が初めて味わう「違和感」なのだな。初めてだから、そういうことをほかの人がしているというのを聞いたことがないから、それをどういっていいかわからない。わからないまま「シイ」と言ってみる。肉体に耳をすますと、肉体のなかの耳(外からは見えない耳--これを私は「肉耳」と呼ぶ)が「シイ」という音を聞き出す。だから、それをとりあえず書くのだ。
 ほんとうは「シイ」ではないかもしれない。もっと体験豊かな人なら違うことばで言うのかもしれない。けれど、池田は他人と右足を取り換えるという体験を共有していないので、他人のことばを借りて(流通言語を借りて)自分を語ることができない。だから、「シイ」ととりあえず言ってみる。
 同じ体験をしたひとがあられわたら、そのひとは、それは「シイ」じゃないよ、「キイ」だよと教えてくれるかもしれない。そうか、「シイ」ではなく「キイ」というのか、ということが、まあ、そのとき起きる。
 ことばは、そういう具合に、育っていく。
 で、池田の詩というのは、そういう具合に育っていく前の、いわば「ことば以前のことば」を中心に動いている。「初めてのことば」を中心に動いている。
 だれでも「初めて」を書けば、それは必然的に詩になる。--これは、ことばで言ってしまうと簡単なことだけれど、実はとてもむずかしい。「初めて」なのだから、当然、そこには「ことば」がない。「ことば以前」なのだから「ことば」がない。「ことば」がないと、それを覚えておくことができないし、覚えておくことができないので、それをつかうこともできない。そういう矛盾がすぐ目の前にあらわれてくる。それを「肉体」でむりやり乗り越える必要がある。
 その「むり」が「シイ」であり「こよこよ」なのだ。
 だから、それが「何」をさしているか、どういうことか、というのは読者にわからなくて当然なのだ。だから、それはわからなくていいのだと思うけれど、でも、あ、池田がむりをしているという感じはわかる必要がある。それに対して共感するか反発するかは、まあ、読者次第だね。

 「詩集」という詩に戻ってみる。

水溜まりのある夏の庭に
雨上がりの雲が映るとしよう
泣いた空を
すっかり写しとりたい庭の水溜まりを
今度はいったい
何が
写しとる というのだろう


こよこよと
枝か 何かが
どこかで鳴いて
その度に水溜まりのなかの空が
さざめいている
ゆれるだけゆれて
映すだけ

 「何が」「何かが」「どこかで」。池田は「わからない」ままでいる。
 でも、どんな初めてのことでも「わからない」だけでなりたっているわけではない。「わからない」だけの世界というのは、たぶん、ない。
 何が池田に「わかっている」だろうか。「何が」とか「どこか」とか、指し示すことのできる「もの」ではない。名詞で言い換えることのできる「対象」ではない。
 引用した部分に繰り返し出てくることば--それを繰り返しているのは、それが池田にわかっていることだからである。
 「映る」「写す」
 池田にわかっているのは、その「動詞」である。「動詞」であらわすことができる「こと」である。
 水たまりに雲が映る。それは水たまりが雲を写すということ。
 では、この水たまりと雲と、映る・写すはどういう具合に、「写す」ことができるのか。「何が」写すことができるのか--と書けば、おのずからことばが動く。「ことば」が「動詞」があらわす「こと」を、「ことば」で写す。「こと」と「ことば」は、そのとき重なり合う。「ことば」という音(ことば)のなかに「こと」がすっぽり吸収される形で納まっている。映っている--水たまりに雲がすっぽり映るように。
 で、ことばが「こと」、つまり動詞といっしょに動いている何かであるからこそ、ことばにならないことば、ことば以前のことばは、どうしたってオノマトペからはじまるしかない。オノマトペというのは、動詞派生のことばというか、動詞と重なることばである。「そよそよ」のなかには「そよぐ」というどうしがあり、「ねばねば」のなかには「ねばる」という動詞がある。「動詞派生」と書いたけれど、まあ、それは逆で「そよそよ」から「そよぐ」が生まれ、「ねばねば」から「ねばる」が生まれたのかもしれないけれど、ことれは「方便」だらか、どっちでもいい。

 また脱線したが……。

 「詩集」と作品は、詩集の巻頭にあるのだが、池田はその作品で、「私の詩は、私が体験した初めての『こと』を、『ことば』を探しながら書いたものです」と静かに告げているのである。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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華原倫子『樹霊』

2012-10-23 10:45:23 | 詩集
華原倫子『樹霊』(思潮社、2012年08月20日発行)

 詩は暗記するもの、ときのう書いた。その定義(?)にぴったりなのが、華原倫子『樹霊』である。
 「戻ってきた死者」の書き出し。

死んで戻ってきた人間は
どこかに嫌なゆがみがある
継ぎあてた所の湿った感じとか
痩せた骨の上の乾いた皮膚とか

 「死んで戻ってきた人間」というものを私は知らない。会ったことがない。だから、ここに書かれていることが「正しい」かどうか私は判断できない。ただ読むだけである。
 「どこかに嫌なゆがみがある」というのも、まあ、華原を信じるしかない。
 ところが、その次、3行目。

継ぎあてた所の湿った感じとか

 これは「死んで戻ってきた死者」の描写になるのだろうけれど、そのことを一瞬忘れてしまう。「主語」というか「主題」というか、そういうものを忘れて、あ、この感じ「覚えている」と思う。
 「肉体」のなかで何かが動く。
 それはたとえば洗濯物。シャツ。いまはつぎのあたったシャツなんかだれも着ないだろうけれど(ファッションとしてあるかもしれないが)、私の子どものころはまだ次のあたった服というものはあった。そして、そのつぎの所にはたしかに何かしらかわききらない湿った感じがあった。それはほんとうに湿っているのか、つぎのあたった服なんか恥ずかしくて嫌だなあという思いが「ここ、湿っているから着たくない」という気持ちにさせるのか、実はよくわからないが、そういう実はよくわからない気持ちを含めて、肉体の奥から「感覚」があふれだす。
 あ、そうだ、と思う。
 これを覚えておこうと思う。こういう感覚はなくしてはいけないのだとも思う。覚えておいて何につかえるわけではないのだが、それを覚えることによって「生きている(生きてきた)」という感じがするのである。
 「意味」は関係がない。
 華原は「意味」をこめているかもしれないが、その「意味」は私には伝わってこない。「意味」を超えて、ただ「感覚」(感触)が肉体のなかにあるものと結びつく。肉体のなかから、ある感覚がはっきりとしたことばで引き出されてくる、そのときの感じ--あ、これは知っている。これは私の感じている通りのことだと思う。だから、覚えておきたい、と。
 それは次の

痩せた骨の上の乾いた皮膚とか

 も同じである。「死んで戻ってきた死者」、あるいはただの(?)「死者」でもいいかもしれないけれど--というのは乱暴な言い方だね。言いたいのは、「死者」とは無関係にということ。つまり、「死者」とは無関係に、この感じわかるなあ、ということ。
 何かがあって痩せてしまったとき(病気のあととか)、その痩せたからだの皮膚は骨に張りつき、たしかにかわいている。うるおっていない。豊かさがない。--あ、この豊かさの欠落、何か豊かなものか消えてしまうということが「死ぬ」ということにつながっているのか、と思う。
 だれかが死んだとき、その顔はかわききっている、かわききっていた--そういうことも思い出す。そのことを私の肉体は覚えていて、たしかに知っている。けれど、私はそれをことばにしたことはなかった。そのことばにしたことがなかったことを、華原のことばをとおして、たしかにそうだと思う。その瞬間、それを覚えておかなければ、と思う。
 そのとき、私が「覚える」のは「意味」ではない。ただ、音である。ことばの音である。その音と結びついている「感覚」である。

 詩のつづき。

なによりもいるのかいないのか
風にかき消されやすいのが問題である
体の裏側と話しているような味気ない会話
(ひどくびくびくしているなあ)
「一度死んだらわかる
死ぬのは怖いよ、ほんとうに」

 抽象的なことばがつづくのだが、「体の裏側と話しているような味気ない会話」の「味気ない」というひとことが、抽象的なことがらをぐいと肉体に引き寄せる。「味気ない」のひとことによって、抽象的なことがらが肉体の問題、なまの感覚の問題すり変わる。
 で、このとき。
 私はやはり「意味」を通り越して、その「なまの感覚」そのものにひきつけられる。「味気ない」が「体の裏側と話しているような」と結びついていることも非常に影響している。「味気ない」が「肉体」とは無関係な形で語られているなら、それは印象に残らないかもしれない。けれど「肉体」(体の裏側--皮膚の内側? それとも背中? ふたつ組み合わせた背中の内側?)と結びつけられているので、なにか、肉体が「ざわっ」とする。感覚的に「わかる」のだが、それは、いま私が書いたようにことばにしてしまうと、それが「正しい」かどうか、まったくわからなくなる。
 「わからない」のに「わかる」。この矛盾。だからこそ、あ、覚えておこう、と思う。覚えておくしかない。
 ここに、詩があるのだ。

 だれかのことばと出会い、そのことばのなかに、自分の肉体とつながるなにかを感じる。それがなんであるか、「わからない」のに「わかる」といいたい気持ちになる。いや「わかる」のに何がわかったのか言おうとすると「わからなくなる」。その瞬間の、肉体の中で動いているもの--そのもののために、そのことばを「覚える」しかない。「覚えておく」しかない。それは、いつかほんとうに「わかる」に変わるかもしれない。永遠に「わかる」とはいえなくて、「わからないけれど印象に残る」で終わるかもしれない。
 けれど、覚えておきたい。
 そこに、詩を、たしかに私は感じる。
 華原の詩は、そういうことばを非常にたくさん含んでいる。

 「植物」というのは抽斗(たぶん、机の)があけにくくなって、むりやり開けたとき、その抽斗が「木」でできていることに気づき、その木が自然(森林とか鳥とか)に結びつき、抽斗の抵抗(開けさせられたくない、という思い)を感じ、それに華原の肉体が反応するとてもおもしろい詩である。「死んで戻ってきた死者」のように特別な(?)「主語」はなくて、日常の抽斗が「主語」になっているのだが、だからこそ、まるごと「覚えておきたい」「覚えるしかない」というものとしてあらわれてくる。
 引用で読むよりも、ぜひ、詩集の中でそのことばを味わってください。



 華原の詩集には、後半に「短歌あるいは一行詩」という作品群がある。

夜の卓の皿ほの白く池の面にひらく花群のように押し合う

 これは特にすぐれているという作品ではないと思うけれど、とても興味深い。短歌の音律の定型からはずれているのだが、どこかで定型を意識しているので、奇妙なねじれ(字余り)がある。そして、そのねじれのなかで、どうにもならない何か、定型からはみだしてしまうものの、肉体そのものがなまなましく動く。
 これを短歌に強引にととのえてしまわないところに、華原が「現代詩」を書く理由があるのだろう。音律を気にしない方が、多くのことを書ける。
 でも他方で、音律を無視してしまうと、ことばのなかの、強引なねじれのようなものがなくなって、ちょっと寂しい。
 舞台で役者がいちばん美しく見えるのは、役者がむりな姿勢をしているとき、という。むなり姿勢というのは、肉体のなかにひそんでいる可能性である。ほんとうはそういうふうにだれでもが姿勢をとることができるはずなのだが、ふつうはしない。つまり、そこに「わざと」があるのだが、その「わざと」が何か肉体のなかにあって、まだ眠っているものを目覚めさせるのだ。「あ、それ知っている、あ、それをやってみたい」と思わせる。それはことばの問題に置き直せば、「あ、それ知っている、あ、それを覚えておいてつかってみたい」というのに似ている。
 この「むり」は音律が自由な「現代詩」よりも「短歌」の方が強烈にあらわすことができる。読む方が「定型の音律」と無意識の内に比較するからね。
 この魅力があるから、華原は「短歌」も書きつづけているのだろう。華原がどういう経緯で「現代詩」と「短歌」を書くようになったか私は知らないが、短歌から出発したひとなのかな、と思った。音の美しさのなかに、そのリズムの「むり」のなかに、肉体そのものを感じるからである。
 「現代詩」の「抽斗」をテーマにした作品と呼応するように、「短歌」にも抽斗が出てくる作品がある。

夏箪笥、引き出しを白く袖が垂れこぼれる息のようなひとの名

 読点「、」もあり、「短歌」というより「一行詩」と呼びたいのかもしれない。まあ、「短歌」「一行詩」の区別なんて、読む人がかってにすればいいだけなのだから、どうでもいい。
 「袖が垂れ/こぼれる息のような」なのか「袖が垂れこぼれる/息のような」なのか。読点「、」がないために、どっちともとることができる。(「白く」が「しろく」だと、「ひとの名」の文字のつながり方と融合し、さらにわからなくなるかも。--これは、余談。)
 読点「、」にもどるとてんてん。夏箪笥のあとに「、」をつけながら、ここではつけていない。
 意地悪だなあ。でも、その意地悪なところが好きだ。作者が意地悪なら、読者はもっと意地悪をしていい。つまり、どんなふうに「誤読」しようが作者に文句は言わせない。「誤読」されるのが嫌だったら、だれにもわかるように正確に書いたらいいじゃないか、という特権が読者にはあるのだ。
 だから、私は、「ええい、もう、こんなめんどうくさいことを書いて。華原は意地悪な人間だ」と関係のないことばで締めくくるのだ。で、さらにつけくわえると。「めんどうくさいことは、理解するのではなく、覚えるしかない」とも。そうつけくわえてみると、詩がどういうものか、さらにわかる。




樹霊
華原 倫子
思潮社
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笹田満由『凱歌』

2012-10-22 09:45:49 | 詩集
笹田満由『凱歌』(書肆山田、2012年09月15日発行)

 詩とは何か。私はいいかげんな人間だから、「定義」などそのときの気分次第で変えてしまう。きのう言っていたことと違うじゃないかといわれても、それはしようがない。きのうにはきのうの事情があり、きょうにはきょうの事情がある。「定義」なんていうものは、そのときの方便にすぎない。
 で、きょうは詩とは理解するものではなく、そのまま丸暗記(?)するものである。わからなくても肉体のなかにとりこんで、わからなくてもそれを口を動かして声にしてしまうようになると、まあ、それが詩である。
 「行く川の流れは絶えずして」とか「月日は百代の過客にして」というのも、そういう意味では詩である。そういった「意味」のありそうなことばは、「意味」として「流通」してしまうが、それを声にしているとき、ひとは「意味」を真剣に考えたりはしていない。「意味」を考えるよりも、ただ「覚えている」ものをだれかと共有しているにすぎない。その「共有」が詩である。
 だから。
 たとえば河邉由紀恵の『桃の湯』のなかの「ねっとり」「ざらり」というようなことば、それが詩である。何かいろいろ書いてあったが、そういうことばが書いてあったということだけはしっかり覚えている。「暗記」したのは、つまり私の肉体のなかにしっかりと定着して、必要に応じていつでもあらわれてくるのは、河邉の作品の中では、そういうことばとである。説明がむずかしいが、こんなにしっかり覚えているのはそれが詩である証拠である--と私は、私の事情を優先して、詩を定義する。
 ええと。
 なぜ、こんなめんどうくさいことを書いているかというと。
 笹田満由『凱歌』には、自然に覚えてしまうことばがないからである。なぜ自然に覚えてしまわないかというと、簡単に言うと、私と笹田の関心がまったく違うからだ。だから(?)、私はほんとうは笹田の詩集の感想なんか書いてはいけないのだろうけれど、そのまったく違うということについて、言い換えると、ここの詩集に詩を感じなかったということは、何かの「方便」として書いておいてもいいかなあ、と思ったのだ。
 たとえば「天使」。

わたしを殺してもあなたは
救われない
たとえ
すべての人を殺しても

残ったあなたは
ひとり救われないでしょう
ならば

殺してください
世界を
あなたの手でもって

 何か「意味」を書こうとしているのだと思う。「意味」というふうに私が考えてしまうのは(受け取ってしまうのは)、2連目に「ならば」という「論理」を動かすためのことばがあるからだ。「仮定」を経て、「飛躍」する。その「飛躍」の瞬間の、ある論理から別の論理への「切断」と「接続」が、2連目と3連目の1行あきに凝縮している。詩のリズムを笹田はちゃんと守って書いている。こんなふうに「流儀」を守るのは、笹田が「意味」を必死になってつたえたいと思っているからだ。--それはそれで、感動的ではあるんだけれどね。で、その部分に奇妙な感動を感じたから、私はこうして感想書いているとも言えるのだけれど。
 でも、何も「覚えたい」とは感じない。3連目、

殺してください
世界を
あなたの手でもって

 これって、その「世界」のなかに「わたし」は含まれているのかなあ? 含まれているのなら、「世界」なんて言わずに「わたし」と言えばいいのに、わざわざ「世界」と言ってしまうのは、どうしてだろう。ほんとうは「あなた」ではなく「わたし」が「天使」になって「わたしの手」で「世界」を殺してしまいたいのに、空とぼけて「あなた」「天使」と言っているんじゃないかなあ。
 この空とぼけた感じ、自分はあらゆることがらの「外側」にいて、ときどきやりたいことがらだけに口を挟む感じ(客観的な感じ?)が、うーん、いやだなあ。

 否定的なことばかり書いたので、ここはいいなあ、と思ったことも書いておこう。「夜」という作品。

結ばれた絆で
あなたを
絞め殺して

しまわないよう
祈るように
待っています

 ことばのなかにある切断と接続がおもしろい。「あなたを/絞め殺して」、どうするんだろう。何が解決するんだろうと思っていたら、1行の空白、ことばの「断絶」をはさんで、「しまわないよう」が出てくる。「殺す」が「殺してしまわないよう」という逆のことばになる。「殺してしまわないよう」だから、傷つけるけれど、殺すということまではしないということかもしれないけれど、そこに不思議な「暴力」の愉悦(?)のようなものがひそんでいる。
 で、「殺してしまわないよう」に、どこに気をつけるのかというと。
 「祈るように」だって。
 「殺す」と「祈る」。私にはまったく逆の行為のように思えるけれど、「祈る」は笹田が書いているように「絞め殺して」とは断絶していて(切断されていて)、「しまわないよう」と接続している。
 この不思議なリズムを次の

待っています

 が引き受ける。
 「殺す」→「しまわないよう」(殺すの否定)→「祈る」→「待つ」という変化が、一筋縄ではいかない。
 「暗記する」しかない。つまり、ここには詩がある。
 詩集全体としては読み返すところはないように思えるけれど(申し訳ないが、私にはそうとしか思えない)、この2連だけは特別である。特に2連目の3行は、特別である。
 こうしたことばの動きが、あと1篇(あと何行か)あれば、この詩集の印象はまったく違ってくるだろう。私は「前置き」を書かずに、そのことだけを書いたと思う。

 ところで。
 「夜」は、私が引用した2連6行(1行あきを含めると7行)がすべてではない。実は3連目がある。私は「わざと」それを引用していない。私はしばしば作品を引用するとき、わざとある部分を省略するが、今回もそうしている。
 その省略されたことば、今回の詩集では3連目を読んで読者がどう思うか。それは読んだ人にまかせたい。省略された3連目を引き受けるのに、私の肉体は向いていない。私のことばは適していない。


凱歌―詩集
笹田 満由
書肆山田
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清岳こう『春 みちのく』

2012-10-21 12:01:37 | 詩集
清岳こう『春 みちのく』(思潮社、2012年08月31日発行)

 清岳こう『春 みちのく』は東日本大震災後に書かれたものである。清岳は『マグニチュード9・0』という詩集も出している。今回の詩集は、その後に書かれたものだろう。同時期に書かれたものも含まれているかもしれない。たとえば、巻頭の「ばらの芽に」。

毛虫が一匹

今年はそっとしておく
ともに生きのびたもの同士

 昨年の春に書かれたものか、今年の春に書かれたものか。判断できない。この、やっと3行だけことばにしたというところから、震災直後の、まだことばが動きだそうにも動きだせない状況を感じとることができる。そうすると、これは昨年の春に書かれたものだろうか。いや、今年2012年の春に書かれたものかもしれない。昨年はまだばらの毛虫にまで目が行き届かなかったかもしれない。今年になって、ようやく自分以外の自然(毛虫)にまで目が届くようになった。毛虫に気がつくようになった、ということかもしれない。そして、自分以外のもの、昔なら平気で殺していたものに対するこころが変わったことに気がついて、この3行が生まれたのかもしれない。
 そう思うと、この作品のなかの「今年」は実は2012年だけではなく、2013年、2014年の「今年」でもあるかもしれない。3月11日はいつまでたっても3月11日。そして、ばらはいつまでたってもばら。毛虫はいつまでたっても毛虫。繰り返されても、それは毎回新しい出会い、出来事なのだ。

ともに生きのびたもの同士

 この1行は繰り返しても繰り返しても、毎回、新しい気持ちなのだ。「生きのびた」は清岳とともに、毎年「今年」を迎え、毎年同じ出会いを生きるのだ。
 繰り返していると、ことばはどんどん変わっていく。いままで見えなかったものにまで目が届くようになる。「今年」は毛虫に気がついた。2013年の「今年」は葉っぱの穴に気がつくかもしれない。2014年の「今年」はその葉っぱの穴の向こうに蟻が見えるかもしれない。2015年の「今年」はその穴にぶら下がって落ちそうになっている雨の雫が見えるかもしれない。だんだん世界がひろがっていくだろう。
 そして、そのたびに「生きのびた」は新しく甦る。
 短い3行だけの詩だが、この詩集の巻頭にふさわしい詩だと思う。

 何度繰り返しても、そこに書かれていることは、毎回、最初の出来事なのだ。同じことしか書かれていなくても、それは毎回、「いま/ここ」で起きたことであり、それが「いま/ここ」で起きているのは、清岳が「生きのびた」からであり、また清岳のまわりのあらゆるものも「生きている」からである。
 「生きている」という動詞が、動詞でしかあらわせない「いま」が、ここにある。

 「梅の花」という作品。この詩も短い。

陽(はる)です
陽ですよ

つぶやきながら
ざわめきながら

 わかる。わかるなあ。わかるけれど、短すぎて、何を言っているか、わからない、とも言える。つまり、ここから、たとえばこの詩は再び春がめぐってきて、梅の花を見ることができるよろこび、生きるよろこびが書かれている、ということはできる。たぶん、だれもがそんなふうに「感想」を言うだろうと思う。
 でも、その「根拠」は? 詩に、「わかる」ための根拠などいらないのだけれど、たとえばそんな質問をしてみると、きっと質問されたひとは困る。
 私の現代詩講座の受講生ならどう答えるだろうか。
 陽と書いて「はる」と読ませる。その瞬間、太陽の光と春がいっしょにやってくる。梅の花ということばは書かれていないが、書かれていないことによって、逆に、春と太陽の光と梅の花がいっしょになっている感じがする。陽を「はる」と読ませているところに、清岳のよろこびを感じた、そう答えるかもしれない。
 そうだねえ、そこに、詩があるね。ふつうのことばでは言えない何かがあるね。ふつうのことばではいえないから、陽と書いて「はる」と読ませている。いつもと違うことばのなかには詩がある。
 でも、私は、もっと違うところにこの詩の魅力を感じている。

<質問>「つぶやきながら」はだれが、なんとつぶやいているのかな?
<受講生1>梅の花が「はるですよ」とつぶやいている。
<質問>だれに?
<受講生1>私に、清岳に。
<受講生2>清岳が梅の花につぶやいているのかもしれないし、太陽の光が梅の花に「は
    るですよ」とつぶやいているのかもしれない。
<受講生3>そよ風が、まわりのものすべてにつぶやいているかもしれない。
<受講生1>あ、それいいなあ。
<質問>そうだねえ、いまの見方はいいなあ。何もかもがとけあっていっしょになってい
    る。ことばはとりあえず、「もの」を区別するけれど、その区別にとらわれてい
    ると、ほんとうに書かれていることを見落とすのかもしれない。
    で、つぎに「ざわめきながら」は、どういうこと?
<受講生2>いっしょになって区別のつかない、太陽の光、梅の花、それから風などが、
    ざわざわしている。
<質問>なんて言っている? ざわざわしているとき、その内容は?
<受講生3>はるですよ、かな。
<質問>そうだね。私も、そう思う。で、これからさらに意地悪な質問をしてみるね。
    なぜ「つぶやく」なのだろう。なぜ「ささやいている」ではないのだろう。
    なぜ「ざわめく」なのだろう。
<受講生1>質問の意味が、ちょっとわからない。
<質問>どういうときに、「つぶやく」? どういうときに「ざわめく」ということばを
    つかう? たとえば私が何か変なことを言う。わけのわからないことを言う。そ
    うしたら、あれ、いま何を言った?と思わず声がもれる。それが「つぶやく」と
    いうことじゃないかな? そして、「何か変なことを言っていない?」と隣のひ
    とに話したりする。それが「ざわめく」じゃないかなあ。
    もし太陽の光や梅の花や風がよろこんでいるのなら、「つぶやく」「ざわめく」
    ではなく、語り合っているとか、語りかけているとか、そうならないかなあ。
<受講生2>そうか……。
<受講生3>ささやきながら、なら、ざわめくにつながる。
<質問>「つぶやく」と「ささやく」はどんなふうに、ふつうはつかいわけている?
<受講生1>つぶやくは、ひとりで。ささやくは、だれかに向かって。

 そうだね。「つぶやく」はひとりでするもの。だれかに向かってつぶやくということはあっても、それはひとりごと。面と向かっていうことではなく、自分自身に向かって言う。もちろん、わざと相手に聞こえるように不満を「つぶやく」というようなこともあるけれど、この詩のなかの「つぶやく」はそういうことじゃない。よろこびで、思わず「つぶやく」ということもあるけれど、それだって聞かせる相手は自分だね。「うれしい」とつぶやくとき、それは自分に向かっていっている。相手に言うときは「うれしい」とはっきり言う。感謝をする。「つぶやく」とは言わないね。
 「ざわめく」も、相手に向かってはっきりものを言う状態じゃないね。だれに対して言っていいかわからない、あるいはどんな具合に言っていいかわからないとき、わからないまま何かことばにする。それが集まって「ざわめき」になる。
 で、こんなふうに読んでくると、ほら、最初に感じたことと何か違っていない? 最初、太陽の光、梅の花、風が、春がきたよろこびを声に出している。それは「主語」をはっきりさせることができない。まじりあっている。一体になっている、と感じていたね。もしそうなら、それは「つぶやき」や「ざわめき」とは違うものじゃないかなあ。
 でも、清岳は、それを「つぶやきながら」「ざわめきながら」と書く。
 このことばを書かずにはいられない何かが清岳の肉体のなかにあるということだね。まだ、みんな「ひとり」。孤独の状態。一体になっているはずなのに、どこかに「ひとり」「ひとり」にしてしまう何かが残っている。
 それを震災の悲しみ、という具合に言ってしまうのは、たぶん何か違うのだろうけれど。「生きのびた」という意識、一方に亡くなったひとがいるのに自分は「生きのびた」という意識があって、それが「生きる」という単独のことばになれない。「生きる」はどうしても「生きのびた」になってしまう。そういう意識が動いているのかもしれない。
 そういう苦しみをかかえながら、それでも「つぶやきながら/ざわめきながら」のなかには、不思議な力がある。「ざわめく」のは「ひとり」ではない。ひとりではないということは、「つぶやき」「ざわめき」を、つぶやきやざわめきで終わらせない可能性があるということだね。つぶやきやざわめきは、きっと美しい声になる。「生きのびた」声ではなく、「生きる」声にかわる。それを、清岳は感じているのかもしれない。

 どんな声もすぐには「ことば」にはならない。そして「ことば」はいつでも「主張」とは限らない。主張以前というと誤解を招くかもしれないが、明確にはことばにして説明できない「いのり」(願い)のようなものを含んでいると思う。ことばにできないことを、自分の知っていることばのなかにつつみこむようにして守りながら生きる。そういう生き方がある。そういう生き方をするのが、あたりまえの人間だと思う。
 その「あたりまえ」に寄り添う清岳の思想(肉体のあたたかさ)を私は、たとえば「出席簿」に感じる。

慶長十六年 明治二十九年 昭和八年
家を舟を命を根こそぎかっさらわれぶんどられ

七海(ななみ) 夏海(なつみ) 真海(まみ) 帆波(ほなみ) 好海(よしみ)
海人(かいと) 拓海(たくみ) 広海(ひろみ) 海生(かいせい) 千洋(ちひろ)

それでも
こんなにも海を愛しつづけた親たちがいて
こんなにも海にだかれて育った子どもたちがいて

 「それでも」なのだ。「理由」(根拠)は説明できない。それは、それぞれの「肉体」のなかにある。「思想」とは、こういう「肉体」になってしまった「祈り・願い」のことばなのだ。ふつう、思想は「つぶやかれ」、そうして「ざわめかれる」。つぶやきや、ざわめきのなかにこそ、ことばにしなければならないものがある。清岳は、それに耳をすましている。「生きのびた」を「生きる」に変える力を育てている。

春―みちのく
清岳 こう
思潮社
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斎藤健一「太陽」ほか

2012-10-20 10:28:25 | 詩集
斎藤健一「太陽」ほか(「乾河」65、2012年10月01日発行)

 私は斎藤健一の詩が好きである。なぜ好きなのか。ときどき考えるが、好きに理由などない。私の肉体と波長があうのである。これは、まあ、一方的な感覚であって、いわば片思いみたいなものだ。
 「太陽」という作品。

舌はひりつく。あかるい空が震動する。眠ってしまうこ
とは許されないのである。緑色に墜落する海。ビロード
のような水滴。湾が見わたせる。ぼくは喘ぎながらじっ
とながめる。整った胴体とまるい眼鏡。おとなしく愚か
な食欲におびえているのだ。

 たとえば「眠ってしまうことは許されないのである。」この文章の主語は? 「ぼく(斎藤)」だろうか。単純に考えると、そうなるだろう。私は何らかの理由で眠ることが禁じられている。
 あるいは「舌」だろうか。最後の「食欲」ということばが、主語は「舌」だと言っている。舌は食欲のために眠ることができない。飢えがはげしく、常に舌を刺激する。これなら、「許されない」の理由がわかる。理由というより、この場合は原因である。
 あるいは直前の「あかるい空」だろうか。あるいは、「海」だろうか。「眠ってしまうことが許されない」ので「震動する」。「眠ってしまうことが許されない」ので「緑色に墜落する」。この場合、「眠ってしまうことが許されない」の方が理由や原因になる。
 斎藤は、眠ってしまうこと「が」許されないではなく、眠ってしまうこと「は」許されないと書いているのだから、私の感想は、完全な「誤読」なのだが、何かしら「誤読」を誘うものが斎藤の文体にある。
 いや、何かしらというあいまいなものではないね。斎藤のことばは「主語」を切断している。あるいは「動詞」を切断している。たとえば「ビロードのような水滴。」には「動詞」がない。つまり「述語」がない。「述語」がない、という点からみれば「緑色に墜落する海。」にも「述語」がない。このために、文書を「正確」に読むことができない。
 「主語」「動詞(述語)」を切断してしまっているから、読者は(私は)何かしらのことばを補う必要がある。もし、この詩を理解しようとすれば。勝手にことばを補うわけだから、それは「誤読」でしかない。
 一方、切り捨てられた「主語」「動詞」のかわりに、何かが強引に「接続」される。句点「。」である。すべてを、そのことばだけで終わらせてしまう。閉じ込めてしまう。
 この瞬間、ことばの「孤独」と「誤読」が韻を踏む形で交錯する。
 斎藤が書くことば自身の「孤独」に「誤読」が重なり、その瞬間、それは斎藤のことばではなくなる--私のことばになってしまう。
 これは、一種の錯乱のようなものだが、読みながら、このことばは斎藤のことばではない、私のことばだと思ってしまうのである。
 「舌はひりつく。」舌がひりつく渇きを私は知っている。
 「あかるい空が震動する。」あかるい空がふるえるように感じられることがある。私はそれを知っている。
 「眠ってしまうことは許されないのである。」そう、許されないことがあるということを私は知っている。
 「緑色に墜落する海。」私はそれを見たことがある。
 「ビロードのような水滴。」これも知っている。
 「湾が見わたせる。」湾を見わたしたことがある。
 全部知っている。それだけではなく、覚えている。だから、これは斎藤のことばであっても、斎藤のことばではない。私のことばだ。私はそのことばを全部自分なりに「接続」し、そこで世界をつくることができる。
 「正解」はどうでもいいのだ。そこにあることばに向かって、私の知っていること、覚えていることが結晶していく。そこに私の「感覚」がある。そう思える。
 これでは感想を書いたことにはならない。しかし、そういうふうにしか感想が描けない。

 「失念」という作品。

足はむきだしである。上昇の飛行機。金属の光が降る。
而して海の揺籃へ傾きながら滑り込む。熱くこめかみが
脈打つ。つめたい突きでた頬骨だ。直進するぼく。歯。
屈曲する陸。空気の航跡が白い花をひらく。少しずつ水
につかってゆくのだ。歩行に努力を認める。疲労と汗に
まみれる。梨の枝。音は沸かずに蒼ざめる。ざわめき。
みちる沈黙。知らぬ半身を折る。近視の硝子を拭うのだ。

 ふたつの詩を重ね合わせると、斎藤が「ぜんそく(喘ぐからの連想)」かなにかで病院に入院している。病院は海に面したところにあり、斎藤はときどき海辺を散歩する。そして、その光景のなかで肉体を解放している、という姿が浮かんでくる。斎藤は眼鏡をかけている--ということも想像できる。
 で、そういう一種の強引な連想のあいだに、

梨の枝。

 唐突にとびこむことばがある。梨は、「空気の航跡が白い花をひらく。」の「白い花」と関係しているかもしれないが、「梨の花」ではなく「梨の枝」であるから、違っているかもしれない。
 この突然の「切断」というか、「わりこみ」というか、「飛躍」。
 その瞬間、やはり、私は「孤独」と「誤読」に引きつけられるのだ。何かわからない。わからないけれど、ぐいっと引きつけられる。
 いいなあ、と思う。
 この「いいなあ」という印象の奥に、私は、ひそかに「音楽」を感じている。
 斎藤の書いていることばは、私にはモンクのピアノの音のように、むだをそぎ落とした音となって響いている。
 「蒼ざめる」「ざわめき」--こういう音のつながりのなかに、「意味」ではないもの、何か不思議な感覚のつながりを感じる。それは句点「。」によって切断されることによって、より深くなる。強くなる。切断されているから、そこには存在しないはずなのに、切断することによって、逆に意識化されるつながりを感じるのである。
 
 きょう書いたことは、全部、私の「感覚の意見」である。



 夏目美和子「微睡(まどろ)みの中で」は列車に乗って海を見にゆく詩である。その2連目。

駅を出た列車は、町を抜けると、それまでの用心深さを捨
てスピードをあげる。あとはひたすら秋の野と山である。
起伏の激しい地形のそここににある僅かな荒涼。
一心に走る列車が急に穏やかになったことで解った。差し
かかったあたりで微睡んだらしい。目を閉じたまま、私は
大きくカーヴする車体の動きを感じている。

 (略)

列車は私を運んでいく。見なくてもいい。その必要はない。
私は微睡みの中で既に放棄していた。外には輝く美しい海。
片側の紅葉。目を瞑ったままでも感じる。あれ程見たかっ
た景色の中を、私は包まれるようにして、黙って運ばれて
行ったのだ。

 「解った」は「感じる」ことである。「感じる」ことは「解る」ことである。この「解る」はあたらしく何かがわかるのではなく、いままでに夏目が肉体の中に蓄積してきたものが、しっかり意識として再現されるということである。だから「見なくてもいい。」肉体がすべてを覚えている。
 ここには、何か斎藤の書いている「孤独」とつながるものがある。
 私が引用しなかった3連目には、その「孤独」を説明する「人事」が書かれているが、その3連目をていねいに書いていくと小説になる。夏目が書いているだけでは思わせぶりで、あまりおもしろくない。「孤独」が同情を必要とする「センチメンタル」になってしまう。「抒情」になってしまう。
 あ、これも私の「感覚の意見」だけれどね。



 みえのふみあき「泊まり木にて」。ムクドリを飼っている。その後半。

ある朝 家人が悲鳴をあげた
ムクドリは止まり木からおちて
鳥かごの床で固まっていた
きっと風のような大きな手が
ムクドリの背をやさしく押したのよ
野鳥が自分の力で
あちらの床に転がることはないわ

あちらにねえ

 凡人なら、「きっと風のような大きな手が/ムクドリの背をやさしく押したのよ」という2行に、神の意思(?)のような「意味」を読み取り(みえのの連れ合いは、そういう「意味」をこめて言ったのだと思うが)、そこに詩を感じるのだが。
 うーん。
 みえのは、そんな「意味」よりも、「あちら」ということばに反応している。
 おもしろいねえ。
 そうか、「あちら」は「彼岸」、「こちら」は「此岸」。死ぬというのは「あちら」か。なんでもないような具合に、日常的につかうことばだけれど、そのなんでもない日常的なことばが、こんなかたちでふいにあらわれてくる。その瞬間に、みえのは、ことばの運動の不思議を感じている。
 みえのの連れ合いは「あちら」に意味をこめていない。無意識だろう。その無意識のなかに、みえのは連れ合いの肉体(思想)をはっきりと感じ、思わず反応してしまった。
 みえのの「現実」がふいにあらわれた、とてもおもしろい詩である。






春2004―詩集
みえの ふみあき
鉱脈社
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大橋政人『26個の風船』

2012-10-19 11:26:03 | 詩集
大橋政人『26個の風船』(榛名まほろば出版、2012年09月01日発行)

 大橋政人『26個の風船』の詩篇は最後まで読まないとおもしろくろい。言い換えると書き出しにひかれて、そのままぐいぐいとことばにひっぱられ、どこか知らない世界へ迷い込んで行くという感じではない。ことばそのものが新しいわけではない。
 最後まで読んで、そうか、と思うのは、実はストーリーに対する感想である。ストーリーのなかで、「私(大橋)」のこころが少しずつ形をとっていく。その変化をことばで定着させる。
 「現代詩」は、いわばことばの冒険。ことばにはこんなことができるのだという実験言語のおもしろさがあるが、大橋の詩は、そういう運動とは違っている。ことばは新しくなるというより、なにか古くなる。知っているものへと帰っていく。知っていることばが、どこか遠い昔からやってくる。甦ってくる。
 変わっていくのは、あくまで大橋のこころである。こころが何かを見つける。
 大橋は詩の形にして書いているが、短編小説の形にした方がもっとおもしろくなるかもしれない。
 抽象的なことをくりかえしてもしようがないか。
 「ナマズを見ていた」はフリーマッケット(昔なら縁日の屋台というところか)で、メダカや金魚を売っている店がある。そこにはナマズも売っていた。「私(大橋)」はそれを見ている。メダカは売れるがナマズは売れない。その詩の最後。

私は結局、何も買わなかった
パッチワーク用の古布を探しに行った女房が戻るまで
私はナマズをじっと見ていた
全然動かないし
面白くもなんともないけど
見なければ悪いような気がしてずっと見ていた

 この最後の最後に大橋の肉体(思想)がある。
 で、私の「現代詩講座」では、こういう部分で、受講生に質問してみる。

<質問>書かれていることばで知らないことば、わからないことば、ってある?
<受講生>ありません。
<質問>書いてある「気持ち」、大橋の気持ちって、どう?
<受講生>わかる、そういう気持ちになるのはよくわかる。
<質問>では、ここからがほんとうの質問。「見なければ悪いような気がしてずっと見て
    いた」の「悪いような気がして」って、だれに対して?
<受講生1>えっ、ナマズに対して、でしょ?
<質問>ナマズに対して「悪い気がした」ってこと、体験したことある?
<受講生2>ないなあ。
<質問>そうすると、みなさんが「悪い気がして」ということばに共感したとするなら、
   それは大橋がナマズに対して「悪い気がした」って思った、ということじゃないの
   じゃないのかな? あ、なんだか、ごちごちゃしたね。
   自分も感じたことがある、というのが共感、それ、わかる、ということだからね。

 私はいじわるでしょ? みんなが「わかっている」ということを、わざと「わらかなくさせる」。
 この「質問ごっこ」は、ことばを変えていえば、自分の「体験」探し。自分が体験しながら、きちんとことばにしてこなかったものを探してみること。ほんとうは何に共感したのかを、丁寧に調べてみること。それを探しあてるというか、その自分の体験してきたことと大橋のことばの重なりを探す--そうしてそこから大橋を見つめなおし、同時に自分を見つめなおすこと。
 いつもは、「それじゃあ、これを自分のことばで言いなおしてみて」と質問する。
 で、先の質問で浮かび上がったことを踏まえてさらに質問をするなら。

<質問>「悪い気がして」を自分のことばで言いなおしてみて。

 これはきっとだれも答えられない。わかりすぎていて、ほかに言いようがない。
 それはたぶん大橋についても言えることだと思う。「悪い気がして」としか言いようがない。ほかにいいかきかない。言い換えがきかないことば--それを私は「思想(肉体)」と定義している。キーワードと呼ぶこともある。
 ここに大橋の詩を読むときのポイントのようなものがある。それを確かめて上で。

 質問を変える。答えが出てこないことを確認した上で、次のようにつづける。

<質問>「悪い気がして」って、どういうときにつかう?
<受講生3>だれかに迷惑をかけたときとか、お世話になったときとか。何か自分がしな    ければならないのに、何もできないときに、そういうふうに感じる。
<質問>それって、「見なければ」とうまいぐあいにつながる? 悪い気がするなら、大    橋が買えば?
<受講生1>あ、それは違う。
<質問>どう違うんだろう。
<受講生>……。

 わかっているのに、というか、大橋の書いていることに「共感」するのに、その「共感」を自分のことばで、ナマズをつかって言おうとするとうまくいえない。うまくいえないのは、そこに書かれていることが「受講生」の「思想」ではなく大橋の「思想」であり、大橋のものでしかないからだね。大橋のものでしかないのに、共感する--そこが、人間の不思議なところ。
 道でだれかが腹を抱えて倒れてうなっている。あ、腹が痛いんだ。自分の体ではないのに、その痛みを感じる(共感する)。そういう不思議な能力が人間にはある。大橋の詩を読んで感じる「共感」はそれに似ている。

 ナマズ、にとらわれるからいけないんじゃないかな? 違う見方が必要なんじゃないかな、と私は思う。
 と、困らせるだけ困らせて、私は自分の考えを言う。困っているあいだに、受講生のこころのなかで、ことばを求める気持ちが強くなる。こういうとき、「飛躍」しても大丈夫。ことばが欠落した状態(ことばの酸欠状態)だから、どんなことばにも飛びついてくる。そういう力を借りて、私は強引にことばを飛躍させる。つまり、説明を省いて(説明を拒否して)、勝手なことを言うのである。
 こんなふうに。

 大橋が「悪いような気がして」というとき、その相手は「ナマズをみつめてしまった自分」に対してじゃないかなあ。
 というより、大橋は「ナマズに対して悪い」ということを書きたいのではなく、もしかしたら「気がして」ということを書きたいのじゃないのかなあ。「気」の存在じゃないかなあ。

<質問>「気がして」って、自分のことばで言い換えると、どうなる?
<受講生1>……と思って、……と感じて。
<質問>「気」「思う」「感じる」に共通することって何かなあ。
<受講生2>気持ち、こころ……。

 そうだね。同じことばでしか言いあらわもないけれど、何かしら「こころ」につながるものだね。体のなかで動いている何かだね。体を動かしているものだね。
 大橋は、たぶん、人間にはそういう「こころ」があるということを書きたかったんだと思う。こころはどんなときにもある。それは何か立派な哲学や人生について考えているときにだけ動くのではなく、何にもしていないようなときにも「こころ」はある。
 そういうことが書きたかった。
 そういうこころは、ふつうはほおっておくのだけれど、ほおっておいたままでは「悪い気がする」。その「こころ」に対して。「こころ」はいつでも何かを感じたがっている。でも、うまくその感じたがっているこころに対して、こころを感じるように差し向けることができない。
 そういう視点から詩を読み直すといいんじゃないかな?
 フリーマーケットへ行った。そこにはメダカを売っている店があった。ナマズも売っている。珍しいね。珍しいから、その珍しいという「気(感じ)」から何かをもっと感じてみたかった。もしかしたら面白い詩でも書けるんじゃないかと、ちょっとよくも働いた。でも、うまくいかない。面白いことは起きない。
 ナマズだから、それについて描けば面白いことばが動き詩になる、と考えたことはナマズに対して「悪い」ことかな? まあ、そういうこともあるかもしれないけれど、書きたいのは、きっとそういう「気」があるということ。そういう「気」を見つけた、ということだろうと思う。
 「気」を発見するために、「こころ」を発見するために、大橋は詩を書いている。「こころ」がどんなときでも存在するという発見が大橋の「思想」なのだと思う。
 言い換えると、大橋は「悪い気がして」ということばを書きたいからこの詩を書いた。そして、その「悪い気がして」ということばのなかでも「気」ということばを書きたくて、この詩を書いたのだと思う。

 「気」を発見し、それをことばにする、ということを大橋はしている。だから、そのことばは「発見」の過程をていねいにたどるということもする。どんな具合に、それを発見したか。ストーリーが必然的に、大橋の詩には組み込まれる。

 ちょっと、前半が長くなりすぎた。「気の発見」と「ストーリー」の関係は、「水仙」にとてもわかりやすい形で結晶している。
 水仙の花を孫といっしょに見ている。(えっ、大橋って孫がいる世代なの、と私は驚いたのだが……。)その途中から。

なんで
水仙のお花は
みんな下向いて
ゴメンナサイ
してるの?
と質問されてしまった

うん?
と思って
横にまわって
よく見たら
どの水仙も
首のところで
ほぼ九十度
ガクッと曲がっている

四歳に負けてくやしいが
言われるまで
まったく気がつかなかった

 「気」が出てくる。
 この「気がつかない」は「悪い気がして」の「気」とは違う。違うのだけれど同じ「気」ということばがつかわれる。
 ここに大橋の「思想(肉体)」のあり方がいちばんよく出ている。
 水仙の花が九十度首が折れているというのは「事実」であり、それに「気がつく」というのは目で見て事実を確認するという客観的なことがらである。ところがナマズの詩の「悪い気がして」の「気」は客観的ではない。あくまで主観的である。
 客観と主観が同じ「気」であらわされる。大橋にとっては、詩のなかに書かれていることは、客観と主観の区別がないということである。
 だから、

なんと答えようか
なんとも言葉が出てこないが
私は大人なんだから
その不思議を
擬人法を使わないで
なんとか正確に表現しなければならない

 ここは、水仙が九十度首を折れているということを「ゴメンナサイ」している、という擬人法ではないことばで説明したいということ、客観的な表現を目指している、という思う(気持ち)を告白していることになるが……。
 大橋は、ほら、やっぱり「気(持ち)」を書いていることになる。「気」があるということを書いている。「なんとか表現しなければならない」という「気持ち」ではなく、実際に客観的な表現をしてしまえばいいのかもしれないけれど--そいういう表現をしてしまっては、「気(持ち)」の存在を描けない。あくまで「しなければならない」という「気」の存在を明確にする。
 こうの矛盾のなかで、大橋は「客観」ではなく「主観」の存在を選び取り、それが「ある」と書く。
 「客観」と「主観」を区別しないのだが、それは大橋の場合「主観」が「客観」をつつみこむ形で統合した場合、まあ、落ち着くんだろうなあ。その過程、「主観」が「客観」をつつみこむ過程を描いたのが大橋の詩である。「主観」を何よりも重視する、「主観」を人間存在の奥底からひっぱりだしてくる--それがあまりにも「基本的」な文学の運動に感じられるから、そこに「古い」という感じも、私は、感じとってしまう。主観・客観の二元論を主観のなかで統合する(一元論化する)というのは、何といえばいいのか、うーん、一種の「精神論」のように思えてしまう。そういう印象がどうしても残る。
 ここまで書いてしまうのは、私がひねくれているからなのかもしれないなあ。大橋の詩を紹介するには、私のような正確の人間には適していないのかもしれない。



26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版
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田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅶ』

2012-10-18 10:55:13 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅶ』(書肆山田、2012年10月15日発行)

 読まなくても書ける感想というものがある。というこ、いいかげんな話になってしまうが、読んだところで読んだことにはならないから、読まなかったことにして書いてしまう感想といいかえればいいのか。まあ、どっちにしたって、いいかげんであることにかわりはないのだが。
 田中宏輔『The Easteless Land. Ⅶ』が、そういう詩集である。
 私はこの詩集をいいかげんに読んだ。いいかげんにしか読むことができない。だから、この感想はいいかげんなものである。私は田中の詩は好きだが、ときどき手に負えないものがある。たとえば今回の「引用」でつくられた詩集である。
 「Interlude 」という作品の冒頭。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
小波(さざなみ)の渦が
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ハンカチを巻いて
                (コクトー『恐るべき子供たち』1、東郷清児訳)
すうっと消える。
                 (リルケ『まる手の手記』第一部、大山定一訳)

 すべての行が「引用」なのだが、ほんとう? それを確かめる方法は? まあ、「出典」にあたり、その部分を探しながら読めばいいのだろうけれど、私にはそんなことをする気持ちはさらさらない。
 だいたい「たしかに、」というようなことばは、『肉体の悪魔』だけにしかないのか。ナボコフやコクトー、リルケはつかっていないのか。そんなことはないだろう。ほかにも多くの作家がつかっている。私だってつかっている。つまり、この詩に対して、「たしかに、」は私(谷内)の文章から引用されたものであってラディゲとは関係がないと主張しようとすれば主張できる。ラディゲのことば(新庄嘉章のことば)であるという刻印はどこにもない。それなのに、なぜ?
 田中は『肉体の悪魔』で「たしかに、」ということばを初めて知った? そんなことはないだろう。知っていることばしかひとは読むことはできないし、知っていることばしか引用できない。それはすでに田中自身のことばであったはずだ。
 それなのに、なぜ?
 もし、「たしかに、」に特別な意味があるのなら、それは「たしかに、」だけで成り立っている特別ではなく、そのことばの前後、文脈と関係している。文脈を省略して田中は引用している。この1行からだけでは、どういう特徴があるのがわからない。
 もし、それがわかるひとがいるとしたら、それは田中だけである。
 よろしい。田中が、その特別な理由を知っているとしよう。で、その田中に、では「この引用された『たしかに、』とほかのページにある『たしかに、』--もし、それがあると仮定した上での話だが--と、どこが違うのか、と質問したら、田中は何と答えるだろうか。克明に違いを語るだろうか。まあ、語るかもしれないけれどね、その説明が、それでは質問した相手に届くかというと、届かないね。質問者は説明が聞きたくて聞いたわけではなく、こんなむちゃくちゃな方法があるか、と抗議している。その抗議をつたえることが質問するということだからね。
 簡単に言うと、ここではどんな質疑応答も成り立たない。何を聞いたって、何を答えたって、それは「自分」を語るだけであって、しかもそれは自分が納得するだけのことばだからだ。
 こうやって、いま、私が書いていることばも、ね。

 「引用」というか、「出典」の明示は無意味なのだ。別な言い方をしみよう。
 たとえば最初の部分を、

何か落としたぞ、
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

 と書き換えてみよう。何が変わった? 「本文(?)」の「意味」はかわらない。だれかが何かを落とし、それに対しあるひとが「何か落としたぞ、ほら、きみのだ。」と指摘し、それに対してもうひとりが「たしかに、僕のものだった。」と答えたことに変わりはない。
 でも、ほんとうに何も変わらない?
 これは、実は、答えることがとてもむずかしい。
 実は、大きく変わっている。
 「何が?」ということではこたえられない「こと」が変わっている。「何が」ではなく「どのように」と考えれば少しはそのことがわかるかもしれない。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)

 これはひとつづきのことばである。つまり「1行」のことばであり、もしかするとそれはページの関係で2ページにまたがっているかもしれないが、まあ、1ページのなかにあると読んでも差し支えがない。
 ところが、

たしかに、
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

 これは、どうだろうか。「1行」のものではない、とふつうは考えるだろうと思う。「たしかに、」は3ページ目にあり、「僕のものだった。」はそれから離れた75ページ目にある。そんなに離れていなくても、少なくとも「たしかに、」と「僕のものだった。」のあいだには別のことばが入っている。そこには「切断」がある。「切断」というか「断絶」があるのに、田中はそれをないかのようにして引用している。
 その「切断(断絶)」と「接続」の感じが、ある行をどのように引用するかによって変わってくる。
 つまり、中田は、ことばの「切断」と「接続」を「どのように」組み合わせるか、ということのなかに詩を見つけ、それをここで再現しているということなのだ。

 詩とは「たしかに、」(これは、だれからの引用?)切断と接続なのである。
 詩を手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと定義したひとがいるが、そこに言い表されていることも「切断」と「接続」である。本来(?)的な「接続」からいえばミシンは家庭の一部屋に属し(接続し)、こうもり傘は玄関かくつ箱か、あるいは雨の日の戸外に属し(接続し)、手術台とは「切断」されている。無関係である。それが、手術台を含めて、まったく無関係であるにもかかわらず、手術台を「場」として出合ってしまう、接続してしまうと、そこに一種の意識の混乱、ショートのようなものが起きる。これを固定観念からの意識の解放と呼ぶこともできる。自由な意識・精神ということもできる。
 そういう解放・自由を感じさせることばの運動が、詩、である。
 というわけだ。

 で、ね。(と、私は、ここで「飛躍」する。つまり、それまでの説明をいったん放棄し、またいいかげんなことを言いはじめる。そして、このことに対しては説明を求められても、そんなことはわかんないよ、と答えを拒絶するということなのだが……。)

 で、ね。
 この、田中のやっている「切断」と「接続」の関係は、実は、読んでいるだけでは「快感」にならない。ちっともおもしろくない。
 これは、私の「感覚の意見」であって、ほかのひとは違うかもしれないけれど、私の感じていることを書いてしまうと。
 田中の詩が「快感」になるのは、実は、読んでいるときではなく、書いているときである。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
たしかに、
僕のものだった。
小波の渦が
ハンカチを巻いて
すうっと消える。

 と書いてしまうと、ぜんぜんおもしろくない。何か古くさいセンチメンタルな感じがしてしまう。書いていて、田中には悪いが、ぎょっとしてしまう気持ち悪さがある。
 ところがこれを、 1行書く度に「出典」を明記すると、そのたびに、いったん意識が本文から離れる。別の世界へ行く。そして、さらに「本文」に戻ってくる。それからまた別の世界へ行く。また戻る。そういうことをしていると、「本文」とは別の世界を行き来する不思議な「自由」があふれてくる。それが気持ちがいい。
 「本文」の「意味」なんか、どうでもいい。「意味」を無視して、どこかをふらつく。そうしているうちに、あ、これは「本文」とつながるかもしれない、と瞬間的に思う。インスピレーションがやってくる。それをつないでみる。その楽しさ。
 
 読んでも楽しくない。でも、これを書いてみると楽しい。
 ということは、と、また私は得意を飛躍をする。
 田中は、あるテーマというか「結論」を想定して詩を書きはじめているのではない。とりあえず、ある1行、あることばにひかれ、それを書いてみる。それから、そのつづきを懸命に探すというよりはなんとなくどこかへ行けるかなくらいの気持ちでいろいろ本を読む。そうすると、ふと別のことばが最初に引用したことばと結びつくような感じがする。その「結びつく感じ(接続の予感)」を信じて2行目を書く。書き終わったら、またほかの何かを探しはじめる……。
 そんな感じでことばを楽しんでいる、そう思えてくるのだ。
 そうやってできあがる詩--それはどこへ行くのか。それはわからない。わからないから詩なのだ。わからなくてもどこかへ行ってしまう。そうして、それを追いかけると田中自身もそれまでの自分から切り離された別人になる。それが楽しいのだ。
 人間だから、別人になるといっても肉体は切断されず、接続してるんだけれどね。

 ここで突然「肉体」ということばを持ち出したのは、あまりにも唐突かもしれないけれど、それは私がこれから書くことに比べたら唐突ではないだろうなあ、と思う。
 私が思わず「肉体」ということばを持ち出したのは、先に書いたように、あれこれ「引用」にふさわしいことばを探していると、その探すという動き・運動のなかに、何かしら「ことばの肉体」のようなものがあるなあ、と実感する。本をめくり、ことばを探すのは生身の「肉体」なのだが(精神、意識というひともいるかもしれないけれど)、それに似たもの、ことば自身の「肉体」というものがあって、「ことばの肉体」は「ことばの肉体」でもって、自分の「肉体」となじんでくれる「肉体」をこそ探しているという感じがしてくる。私(ここからは、私の体験になる)がことばを探しているのではなく、引用されたことば(の肉体)が、自分にふさわしいことば(の肉体)を探しているという感じがし、もう「私」なんか、どうでもいいのだ。あとは、ことばの肉体の運動にまかせればいいのだ、という気持ちになる。

 あ、ほんとうに「いいかげん」な感想になってしまったなあ。
 でも、「いいかんげん」だから、そこには「うそ」はないよ。何か「正しいこと」を言おうとすると、どうしたってどこかで「うそ」をつかないと結論らしくならないからね。--って、この詩集のどこかにもそんなことが書いてなかった?
 探してみてください。そうして、私のようないいかげんな感想ではなく、きちんとした感想をだれか書いてください。




The Wasteless Land. 6
田中宏輔
書肆山田
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苅田日出美『あれやこれや猫車』

2012-10-17 11:54:39 | 詩集
苅田日出美『あれやこれや猫車』(花神社、2012年10月18日発行)

 苅田日出美『あれやこれや猫車』は、ことばの動きがとてもすっきりしている。何の抵抗もなく読むことができる。

若い医師に診てもらう日なので
念入りに化粧する

全身のMRIを受けたあと
診察室に入ったら
胴体の輪切りだけではなくて
裸の体もならべてある
ジーンパンもつけたままでいいですよといわれたのに
下半身もヘアまでも写っている
                        (「階段を昇り降りする裸体」)

 どこにもわからないことばはない。体を調べるのに化粧は関係ないのだが、化粧をしてしまう--その気持ちも、とてもよくわかる。気持ちさえも「事実」のようにわかる。「わかる」は、まあ、「誤解」かもしれないけれどね。
 「下半身もヘアまでも写っている」の「も」の繰り返しなんか、あ、いいなあ、と思う。「下半身も写っている」で十分なのだが、「ヘアまでも」と念押ししているところに、苅田の気持ちが噴出している。「ヘア」ということばも、うーん、慎み深くて(?)、思わず笑ってしまう。
 苅田の驚きというか、いかりというか、そうなんだという諦めというか、そういうものすべてに「共感」してしまう。
 「わかる」というのは「共感」ということだね。
 で、このままでは詩なのか。少しも詩らしい表現、いわゆる「わざと」がない。ありのままを書いているだけだ……。
 私は、詩、だと思うが、苅田は少し違ったふうに感じているかもしれない。この詩にはあと2連つづきがある。

心電図を撮るために
コードにつながれ
五分ほど階段を昇り降りする

負荷運動をくりかえしている
そこにはもはや私ではなく
デュシャンのモデルがいるのだった

 「わざと」が出てくる。「デュシャンのモデル」--MRIによって衣服をはぎ取られた裸体はデュシャンのモデルのようである。私はいまデュシャンのモデルになっている--というのが苅田の気持ちだが、ここにデュシャンのモデルという、いっしゅの「気取り」が出てくる。
 それ何?
 あ、現代の風景として抽象的な裸体の女をデュシャンは登場させています。絵のなかの女性のことです。
 うーん、デュシャンの絵を見たことがないひとが、苅田のこの詩を読んだら、わかるかな? わからないね。苅田の「わざと」は、同じ教養(?)を要求してくる性質のものである。
 苅田のことばがすっきりしているのは、苅田のことばが「同じ教養」をもっているひとに向けて書かれているからだ。「同じ趣味」(好み)と言ってもいいかもしれない。絵が好きでもデュシャンの絵が好きなひとばかりとは限らないからね。
 あくまで現代を象徴する病院という風景、MRIを初めとする器機と裸体という組み合わせ--そこではデュシャンでなければならない理由があるのだが、その理由を「共通感覚」としてもっている人を対象に苅田のことばは動いている。
 読者を限定しているからこそ、すっきりしとした形でことばを提出できるのだといえるかもしれない。
 そうすると、苅田のことばには一見「わざと」が感じられないようだけれど、ほんとうは存在することになる。

 「わざと」をもう少し別な形で読んでみる。詩のなかから浮き彫りにしてみよう。「長谷川●二郎が愛した猫の」(●はサンズイに「隣」のつくり)。長谷川の描いた猫について書いている。猫の絵を見ているのに、絵であることをはなれて、そこに猫そのものをみている。そのときの、見方がちょっとおもしろい。猫の名前はタローである。

タローには履歴書がある
寝てばかりいるので職業は
睡眠研究株式会社社長
万国なまけもの協会名誉顧問 となっている
サティを聴き
《賢き猫は摂生をもって飲食す》
というフランス語に造詣が深いという
その体重は「ずっしりと重し」
身長は「不明 時により変化す」と記されている

 苅田は長谷川の記したタローの「履歴」を読む。そして、それが苅田のタローの理解の仕方である。タローの履歴というものは、ほんとうはそこには記されていない。それは長谷川がでっちあげた架空の履歴である。いわば、それは、「芸術」である。現実を離れ、架空をいきるとき、そこに芸術が生まれる。というべきか、あるいは架空を現実にまきこむとき、現実が浮遊して芸術に変わるというべきか。どっちでもいいが、そこにも「わざと」がある。「わざと」があるけれど、その「わざと」は、そういうことを理解してくれるひとにだけ向けて書かれた「わざと」である。
 長谷川は、簡潔な絵を画家だが、その簡潔のなかには、こういう「遊び」としての「わざと」がある。それは、その絵自体にもある。タローの髭は片方しかない。写生している内に同じポーズをとらなくなり、老衰で死んでしまったから描けなくなったというのが表向きの理由である。
 で、この「わざと」なのだが……。なかなかくせものである。
 猫の髭が片方しかないと書いている詩の前半部分(引用しなかった部分)を振り返って引用すると、

ひたすらに
猫を見つめている
見ることで生まれる内なる感想を描いているから
タローの髭は描けなかった

 わかったようで、わからない。というか、私は「矛盾」を感じる。実際の外観をリアルに描く場合は、猫が違ったポーズをとればたしかに絵は描けない。けれど「見ることが生まれる内なる感想」ならば、その猫がいようがいまいが描かれるのではないのか。描く対象は猫ではなく「内なる感想」なのだから。
 でも、長谷川は描けなかった。外観(客観的に見えるもの)と「内なる感想」は一致していたからである。このことは、長谷川が描いていたのは、いつでも長谷川の「内なるもの」ということになる。
 で、というか、だとすると。
 タローの履歴も、実は、長谷川の「内なる感想」である。その「内なる感想」としてのタローの履歴を受け入れるとき、苅田は長谷川の「内なる感想」を共有することになる。長谷川の「内なる感想」は別なことばで言えば、長谷川の猫に対する「秘密の思い入れ」、「秘密の感情」でもある。「秘密」は「人柄」でもある。
 「人柄」と書いたのは……。たとえば寝てばかりいる猫を「睡眠研究株式会社社長」という具合に定義するときに、そこに「好み」が入ってくるからである。何を好むか。それが知らず知らずにまぎれこむ。サティが登場する部分にいちばん「好み」が濃厚にでている。なぜ、サティ? なぜモーツァルトではない? この区別のありようは、「好み」としたいいようがない。そして、その「好み」こそ、実は「履歴」というものかもしれない。過去にどんな音楽を聞いたか、その音楽に対してどういう印象を持ったか。それが複雑につみかさなって「人柄」をつくりだす。「人柄」の背景には、その人の秘密の履歴がある。
 苅田は、いわば長谷川の「秘密」(人柄)を共有する。
 「猫」の絵を見るのではなく、苅田は長谷川の人柄を見て、それを自分のなかに受け入れる。自分の「内なる感情」(履歴)にする。そうして長谷川自身になる。
 苅田は、そういうこと以外は目指していない。(ように、私には感じられる。)
 余分なものは省き、自分の「履歴(好み)」を大切にし、それに合うものだけを最小限のことばで提出している。そしてそのとき、それをすべてのひとにわかってほしいとは言わない。苅田と同じ「履歴(好みの積み重ね)」を生きてきたひとにだけ向けてことばを発している。
 この排除の構造が苅田の強みである。苅田のことばを、しっかりと受け止めてくれているひとがすでに苅田のまわりには何人も存在する。それを突き破ってまでことばを動かそうとは思っていないのだと思う。


空き家について―詩集 (1982年)
苅田 日出美
手帖舎
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