詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇312)Obra, Luciano González Diaz

2023-02-28 12:18:43 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 Luciano es hermano gemelo de Miguel González Diaz, que escribí sobre su impresiones en "310". Hay algunas similitudes en sus estilos. He escrito sobre la obra de Luciano casi exactamente lo mismo que antes escribí sobre la de Miguel.
 ¿Cuáles son las similitudes? Los "movimientos de la mano" utilizados para crear las obras son probablemente similares. La forma en que utilizan las manos es similar.
 Las largas extremidades de los bailarines (o, en el caso de Miguel, de la mujer Coraje). Cuando las hacen, deben frotarse las manos. (Me recuerda a la sensación de hacer cuerdas de arcilla cuando era niño). Creo que las huellas de los movimientos de sus manos son similares.
 Los dos no reproducen el objeto con la fuerza de sus ojos, sino que lo reproducen con las memorias de sus palmas. La calidez de este sentimiento se extiende a cada detalle.  Hay una belleza delicada. La flexibilidad del cuerpo de la bailarina y el movimiento tranquilo de la fuerza, la me siento en mis manos.

 Luciano は、「310 」で感想を書いたMiguel González Diazと双子の兄弟。作風にもどこか似たところがある。以前、Miguelの作品について書いたこととほぼ同じことを、Luciano の作品について書いたことがある。
 どこが似ているのか。作品をつくるときの「手の動き」が似ているのだろう。手のつかい方が似ているのだろう。
 ダンサーの(Miguelの場合は戦士の)長い手足。それをつくるとき、ふたりはきっと手をすり合わせてつくる。(子どものとき、粘土で紐をつくった感じを私は思い出す。)その手の動きの痕跡が似ていると思う。
 対象を冷酷に、厳格に見つめるというよりも、手のひらが覚えているものを再現する感じ。その温かな感じが、細部にまで行き届いている。繊細な美しさがある。ダンサーの肉体のしなやかさと静かな力の動きが、私の手にも伝わってくるような作品。

 

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橘上『SUPREME has com』

2023-02-28 11:23:25 | 詩集

橘上『SUPREME has com』(いぬのせなか座、2023年01月31日発行)

 橘上『SUPREME has com』は、松村翔子、山田亮太と一緒に出版した4冊組の『TEXT BY NO TEXT』の1。
 それ以上、書くことはない。
 ことばは、私にとってはいちばん大切なものである。ことばがないと考えることができないからである。そしてことばで考えるということは「文体」を生きるということである。
 最近、私は、スペインの詩人と知り合い、彼といっしょにスペインの作家の文章を読んでいるのだが、スペイン語であっても、私は日本語を読むときと同じ読み方をしてしまう。いくつかの動詞、いくつかの名詞の呼応のなかから、そのことばのなかで動いている肉体を考える。つまりことばをとおして肉体を重ねる。そのなかで世界をつかむ。
 ときどき、それがまったくできないときがある。
 きのう送られてきたテキストは、子どもが、自分の持っている鞄の匂いを気にする内容だった。鞄が臭い。それは、動物の皮をなめしてつくるときのにおいである。日にさらされてにおいを持つ。想像はできるが、私は、そういう体験をしたことがない。
 つまり、そのにおいが持つ、生と死の交錯、それにかかわる人間の暴力というものを、頭で想像できるけれど、肉体として思い出せない。そういうものを出発点として、私は「考える」ということができない。まだ、ことばになっていないものを感じるということはできない。どこまでが、すでにことばになっていることか、わからないからだ。
 「においを感じる」「においからさまざまなことを知る」という「文体」を生きることはできるが、その「におい」が狩猟と関係づけられるとき、私はその「文体」を生きることはできない。単に、想像するだけだ。そして、私は「想像」を語ることを好まない。すっかり面倒くさくなってしまった。

 書くことはない、と書いたし、書いてもしようがないと思うが。たとえば、「現代はもう現代詩(NO シャブ NO LIFE EDIT)」のなかに、こんな行がある。

「同じことを知っているお友達と、お友達にしか通じない言葉で」
「死ぬまで会話のパーティーしてればいいじゃん(いいじゃん!)」

 私は、私のことばがだれかに通じるとは、もう考えていない。通じなくても、ぜんぜんかまわないと考えている。だれかに通じるように考えるのではなく、私には考えたいことがあるから考える。そして、私の考えていることがいったいどこにたどりつくのか私は知らない。だから、もし私のことばが通じたとしても、そんなことはもう私には関係ないこと、知らないこと、どうでもいいことである。
 だから、自分では何も書かなかった(ことばを残そうとはしなかった?)、ソクラテスは偉大だなあ、と私は心底思うのだが、そんなことを思っていると、こういう行が待ち受けている。

「アンタは何を知ってるの?」
「俺はなんにも知らねぇぜ」
「知らないふりするな!」
「俺が何を知ってて何を知らないか、アンタ知ってるの?」

 でも、ソクラテスは「俺が何を知ってて何を知らないか、アンタ知ってるの?」とは言わないだろうなあと感じる。「アンタは何でも知っている。しかし、俺は何にも知らない」とは言うかもしれない。
 そういう気持ちなのだ、私は。
 橘上は、橘上が書いていることはもちろん書いてないことも何でも知っているのだろう。しかし、私は橘上が書いていることは何にも知らない。
 橘上『SUPREME has com』は、松村翔子、山田亮太と一緒に出版した4冊組の『TEXT BY NO TEXT』の1。それ以上、書くことはない、とはそういう意味である。

 

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Estoy Loco por España(番外篇312)Obra, Javier Aranguren Ispizua

2023-02-27 09:20:17 | estoy loco por espana

Obra, Javier Aranguren Ispizua

     

 Unas fotos a veces me desconciertan mucho.
 Lo que Javier capta es la superficie del agua de la piscina, la superficie del cristal del edificio. Estas son las superficies del mundo, pero NO las superficies.
 No son los colores que refleja el agua, ni la luz que refleja el cristal.
 Me siento como algo de un mundo que ha sido despojado su superficie, un mundo en el que el mundo interior ha quedado al descubierto. Es más, me siento como algo que no estaba oculto en "el mundo", sino en "mi conciencia".
 Aunque las fotos son tomadas por Javier, me siento como si estuviera mirando dentro de mi propia mente.
 Es parecido a leer los escritos de un escritor y sentir que esto es lo que yo pensaba, esto es lo que quería decir.
 Lo sabía. Pero no podía expresarlo. Y, sin embargo, ahora lo tengo delante. Eso es lo que me desconcierta.
 
 写真は、ときどき私を非常に困惑させる。
 Javierがとらえているのは、プールの水の表面、建物のガラスの表面、つまり、世界の表面なのに、表面ではない。
 水が反射している色、ガラスが反射している光でもない。
 それは何か、表面を引き剥がされた世界、内面がむき出しになった世界という感じがする。しかも、それは「世界」に隠れていたのではなく、「私の意識」に隠れていた何かという気がする。
 Javierが撮った写真なのに、まるで自分のこころを覗く感じがする。
 それはある作家の文章を読んでいて、これは自分が考えていたことだ、自分が言いたかったのはこれだと感じるのに似ている。
 私はそれを知っている。しかし、私はそれを表現できない。それなのに、それがいま目の前にある。そのことが私を困惑させる。

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Estoy Loco por España(番外篇311)Obra, Joaquín Llorens

2023-02-27 08:32:32 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


 
 Hermosa sensación de movimiento.
 El corredor viene del extremo derecho y corre hacia el extremo izquierdo. Parece una abstracción del poderoso movimiento del corredor.
 La mano derecha extendida intenta agarrar la cinta de meta. La cabeza sigue este deseo. La mano izquierda empuja el aire hacia atrás, produciendo empuje.
 La luz reflejada en la superficie de la obra, la disposición de la obra y el equilibrio del espacio refuerzan también la impresión de la obra.
 Según el ángulo, la obra produce una impresión diferente. No sé quién es el fotógrafo, pero esta obra ha adquirido una vida especial al ser fotografiada.

 躍動感が美しい。
 右奥の方から駆けてきて、左手前へ駆け抜けていく。しなやかなランナーの動きを抽象化しているように感じる。
 伸ばされた右手は、ゴールテープをつかもうとしている。その欲望を頭が追いかけている。左手は空気を後ろに押し退け、推進力を産み出している。
 立体の表面で反射する光、さらに立体の配置、空間のバランスも、作品の印象を強めている。
 角度によっては、違った印象を産む作品。撮影者がだれかわからないが、写真に撮られることによって、特別ないのちを獲得している。

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Estoy Loco por España(番外篇310)Obra, Miguel González Díaz

2023-02-26 21:41:53 | estoy loco por espana

Obra, Miguel González Díaz
"mujer Coraje"

 El pie de la mujer, su peso desplazándose hacia el pie derecho al dar un paso adelante. El equilibrio entre el pie derecho y el izquierdo, la tensión en la mano izquierda con la lanza y la relajación en la derecha. Hay una fuerte sensación de músculos entrelazados en todo el cuerpo.
 También me da impresiona fuerte que el paso no se dé sobre suelo estable, sino sobre un valle en forma de V. La estructura habla de la importancia de cada uno de sus pasos.
 Pero lo que siento con más fuerza es otra cosa.
 He sentido las manos de Miguel haciendo esta estatua. Sus manos cubren todo el cuerpo de la mujer. Los restos del calor de sus manos están por todas partes. Son las manos que empujan a la mujer hacia adelante, diciendo: "Estoy de tu lado".
 Las manos de Miguel fortalecen a la mujer.

 女の足、踏み出した右足へ体重が移動していく。右足と左足のバランス、槍を持った左手の緊張と、右手の力を抜いた感じ。全身の筋肉の連動感も強い。
 踏みしめているのが安定した大地ではなく、V字の谷になっているのも印象的だ。その一歩の重要性を鮮明にする。
 しかし、それ以上に強く感じるのは、別のことだ。
 私は、この像をつくっているMiguelの手を感じた。女の体のすべてを手でつつんでいる。その手のあたたかさの名残が、全体にあふれている。「私はあなたの味方だ」と、女を後押しする手だ。
 Miguelの手が、女を強くしている。

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Estoy Loco por España(番外篇309)Obra, Carmen Zulueta

2023-02-26 12:26:45 | estoy loco por espana

Obra, Carmen Zulueta

 Escucho música sencilla, muy bien formada. En música, es un compás de cuatro cuartos, o una pieza musical en C mayor. Una pieza corta que puedo recordar una vez que la he escuchado.

 La barra superior, inclinado, cuando llegue abajo, tendrá el mismo grosor que las tres barras debajos. Y cuando los cuatro barras estén alineados, habrá una pausa, y luego aparecerán  nuevas barras (cuatro barras) que repetirá el mismo movimiento. Esta es mi impresión.
 Es la obra sencilla, pero si la ve en la exposición, querrá volver a mirarla. ¿Sigue ahí la barra superior? Tengo ganas de comprobarlo.

 シンプルで、とても整った音楽が聞こえてくる。音楽で言えば、四分の四拍子表紙、ハ長調の曲か。一度聞けば、覚えられるような短い曲。

 一番上の、斜めになったバーは、下まで降りてきたとき、その下にある3本のバーと同じ太さになるのだろう。4本のバーがそろったら、一呼吸おいて、また新しいバー(四本)があらわれ、同じ運動を繰り返すだろう。そういう印象がある。
 シンプルなのだけれど、展覧会会場で見たら、もう一度もどって見たい作品。あの一番上のバー、まだあのままかな? それを確かめたくなる感じ。

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Estoy Loco por España(番外篇308)Obra, Jesus Coyto Pablo y Xose Gomez Rivada

2023-02-26 11:22:57 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo y Xose Gomez Rivada

                                                                                                        Obra, Jesus Coyto Pablo

                                                                                                       Obra, Xose Gomez Rivada

 Obras de Jesús y Xose. Hay semejanza y diferencia. Lo común es que son pinturas abstractas. Las capas de color. Y los desniveles que quedan en el lino. Sin embargo, los desniveles comunes son al mismo tiempo diferencias.
 Escribiendo sólo a partir de impresiones vistas en Facebook, Jesus pinta sobre los colores y luego los arranca. Rorschach doblaba el papel para crear patrones simétricos, pero en lugar de doblar, Jesus pone capas de otra cosa y luego las despega. Es posible que pintara otros colores en lienzos separados, los superpusiera antes de que se secaran y luego los despegara. En algunos lugares, hay protuberancias en el lienzo que parecen como si se hubiera desprendido pintura al óleo.
 La obra de Xose está simplemente pintada de colores. Escribí simplemente, pero quizá sería mejor decirlo con fuerza. Los colores se enturbian cuando se pintan encima. Para rechazar ese enturbiamiento, se necesita una gran fuerza. Las crestas violentas son el resultado del movimiento de esa fuerza. No sólo los colores claros, sino también los oscuros se pintan con fuerza. Ahí se mueve la voluntad de pintar.

 Capas de color, arrancando capas de color. Además, coexisten. ¿Qué significa esto? ¿Qué quieren mostrar? ¿Qué quieren ocultar? La respuesta a esta pregunta, no hay. Mostrar algo es ocultar algo, y ocultar algo es mostrar algo.
 La expresión siempre será así. Cuando miramos algo, no podemos ver nada más. Siempre vemos sólo una parte del "mundo". Pero esa parte siempre está conectada con todo el "mundo". 
 Por extraño que parezca, hay "violencia" en la conectada. Y esa manifestación momentánea de "violencia" me parece hermosa. Es algo que ocurre una sola vez. Me parece hermosa su "unicidad".

 Esto no es tanto una opinión (crítica) como un apunte para mí mismo.

 Jesus とXoseの作品。共通性と異質性がある。共通しているのは、抽象画であること。色の塗り重ね。そして、画面に残る凹凸。だが、その共通している凹凸が、同時に違いにもなっている。
 Facebookで見た印象だけで書くのだが、jesus は色を塗り重ねたあと、それを引き剥がししている。ロールシャッハは紙を折って左右対称のパターンをつくりだしたが、Jesus は折るのではなく、別の何かを重ね、そのあと引き剥がす。別々のキャンバスで色を塗り、それを乾かないうちに重ね、引き剥がしたのかもしれない。画面の所々に、生乾きの油絵具を引き剥がしたような突起が見える。
 Xoseの作品は、単純に色を塗り重ねる。単純に、と書いたが、力を込めてと言い直した方がいいかもしれない。色は塗り重ねれば濁る。その濁りを拒むためには、強い力がいる。激しい隆起は、その力の動いたあとである。明るい色だけではなく、暗い色も力を込めて塗り重ねている。塗り重ねるという意思が、そこでは動いている。

 色を重ねる、重ねた色を引き剥がす。しかも、それを共存させる。これは、どういうことだろうか。何を見せたいのか。何を隠したいのか。この問いに対する答えは、あるようで、ない。何かを見せることは、何かを隠してしまうことであるし、何かを隠すことは何かを見せることになる。
 表現とは、常に、そういうものだろう。何かを見ているとき、それ以外のものは見えない。私たちはいつでも「世界」の一部を見ているだけである。だが、その一部は、いつでも「世界」全体とつながっている。どうつながっているかは、簡単には言えない。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、そこには「暴力」がある。そして、私はその瞬間的にあらわれた「暴力」を美しいと感じる。その「一回性」を美しいと感じる。Jesus の作品もXoseの作品も、同じものはつくれない。

 これは感想(批評)というより、私自身のためのメモである。

 

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木谷明「三苫海岸」ほか

2023-02-25 21:08:52 | 現代詩講座

木谷明「三苫海岸」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月20日)

三苫海岸 2023 2.8   木谷明

お宮の坂のてっぺんに
海があり

浜は引き潮
フグ 小さな フグ

何故 海と行かなかったのか
何匹も何匹も
白く砂に包まれたフグのこを撫でた

引く潮に
向かいながら逃げながら
飛ぶこともなく泳ぐこともなく
鳥は遊び続けている

ずっと遊んでいるというのに

 私がまず注目したのが「何故 海と行かなかったのか」の「と」である。「へ」ではない。「と」をつかって前後を言い直すと「満ち潮といっしょに浜へきた」「何故引き潮といっしょに沖(海)へ帰らないか」になるだろう。「と」のなかには、満ち潮、引き潮という潮の動き(海の動き)が隠されている。隠されている何かが、いつでも私を刺戟する。何かがあると気づかさせてくれる。もちろん、その隠れている何かがわからないときもあるが、それが、楽しい。
 「飛ぶこともなく泳ぐこともなく」という行を巡っては、「鳥は飛ぶこともなく、フグは泳ぐこともなく」と読む受講生もいたが、私は「鳥は飛ぶこともなく泳ぐこともなく」と読んだ。海鳥だから、飛ぶこともできるし泳ぐ(水に浮かぶ)こともできるが、そうしない。この瞬間、私には鳥の「足」が見える。ことばとして書かれていないが、足が見える。そして、足が見えた瞬間、それは作者の足に重なる。作者もまた引き潮の浜辺にいて、引き潮でできた濡れた砂の上を歩いている。だからこそ、フグも見えるのである。
 そして、この「足」は一連目とも関係する。
 高いところから見ると、海はお宮はもちろん街の上に見える。その高いところから、作者は浜辺まで降りてきた。そして、フグを見た。鳥を見た。浜辺まで降りてきた作者にどんな目的があったのかわからない。それは「無為の時間=遊び」と呼べるものかもしれない。
 そう思うと「遊ぶ」ということばのなかにも、作者の「いま」が重なって見える。
 詩に限らないが、文学はたいてい、人がいて、ストーリーがあって、それをことばで描写する。そのとき大事なのは何か。何を見て(発見して)、読者は感動するのか。わかりにくいかもしれないが、「人」である。そこに、確かに「人」がいると感じた時、その作品はおもしろい。
 この詩では作者が、それでいったい何をしたのか、何を考えたのか、ということは「要約」はできない。でも、坂の上(高いところ)から海辺まで行き、歩いたことがわかる。この「無為」(無意味)ともいえる行為をどう評価するかは、「文学」の問題ではない。「文学」の問題は、そのこと(事実)が、ことばとして実現されているかどうかである。

だけど  池田清子

玄関のドアを開けて入ってきた人が
「あたたかい!」と言う
外断熱だからね

隣に子供が遊びに来ていても気がつかない
高気密だからね

換気換気というけれど
各部屋二十四時間換気システム稼働中

ありがたいね

だけどねえ

 この詩では、便利(?)になった暮らしを「ありがたい」と思い、同時に「だけどねえ」とも感じている。この「抵抗」なのかに、作者がいる。
 そういうこととは別に、この詩には、その暮らしを「外断熱」とか「高気密」ということばで表現する作者がいる。「外断熱」「高気密」というような、「要約言語」が詩のなかで書かれることは、あまりないと思う。少なくとも、私はそういうことばを日常の暮らしを描写する時にはつかわない(そのことばと自分の気持ちを重ねて書くことはない)ので、そうしたことばづかいをおもしろいと思う。
 この「要約言語」は「各部屋二十四時間換気システム稼働中」と言う形で展開するのだが、そこでやめるのではなく、もっと過激に「要約言語」で日常生活を描写し続けると、その「文体(ことばの運動)」が新しい世界をつくりだすかもしれない。
 「ありがたいね/だけどね」という展開のなかに、池田という人間がいるのだけれど(それはそれでよくわかるけれど)、その人間をことばの力を借りて別の人間に変えてしまうところまで行くと、詩はおもしろくなる。
 書いているうちに、書き始めた時とは違った人間になる(生まれ変わる)というのも、おもしろい。詩は(文学は)、生まれ変わるためにある。
 それでは池田の考えていることと違うという意見もあると思う。しかし、だからこそ、なのである。現実ではできないことを、ことばで、やってみる。ことばを追いかけて、ことばの力を借りて、自分が自分でなくなる、という経験をしてみるチャンスなのだ。ことばの力を借りて、新しい自分を作り上げてみる。その新しい自分が気に食わなければ、次の死出また作り替えればいい。
 木谷の詩にもどって強引に言ってしまえば、三苫海岸で鳥になってみる(鳥と自分を重ねてみる)ということが、これから先の人生にどんな影響を与えるか。きっと、「無意味」にひとしい影響しか与えない。でも、その「無意味=無為」を体験するということが、実は、意味におわれて生きている日常からの「生まれ変わり」でもあるのだ。

わだつみ 鯨  青柳俊哉

水仙 浜木綿 アマリリス 
群生する花弁の噴水のむこう
天辺へ回遊する鯨の群れ

遠い雪原のリングワンデルング 
初めも終わりもない
白い円の謎めくもとの細部へ

クスノキのかげに憩う牡鹿 
湧水にいのちを繋ぐ
泉は像をうつさず渦巻く

めぐる大きな時間の海へ 
天にひらく
曼殊沙華

※ リングワンデルング:環状彷徨。濃霧や吹雪で方向を見失い、            同心円を描くように同じ場所をさまよい歩くこと。

 この詩から、どんな「人」を思い浮かべ、その人とどう向き合うか。「いのちの大きな巡りを感じる」という感想が受講生のあいだから聞かれた。いのちの大きな巡りを感じている(考えている)詩人を思い浮かべた、ということになる。
 そこから、私は、もう一歩、踏み込みたい。「いのちの大きな巡り」という「答え」を、答えが出てくる前の形に「因数分解」してみたい。「いのちの大きな巡り」を感じさせる(その印象を支える)ことばは、ないだろうか。
 「回遊する」「円」「渦巻く」「めぐる」と、円運動を連想させることばが書く連に書かれている、という指摘があった。
 青柳は、循環運動(円運動)を「論理」として基本に据え、その運動のなかに様々なイメージを引き込んで詩を展開していることなる。ここに青柳の「文体」の特徴がある。
 描かれている名詞(イメージ)ではなく、隠れている「動詞」を探し出して世界をとらえなおすと、その人がどんな動きをしているかが見えてくる。
 どんな作品にも「人」はあらわれる。「文体」が「人」そのものであるときもある。

冬日和  杉惠美子

昨日の音は消えた
あなたの足音も消えた

しんしんと冷えた空気と
小さな蕾が
動かずにいたことを
忘れずにいた朝

時を超えて
与えられる光に

つつまれて
つつまれて

冬日和

 「かっこいい」「ことばの響きがつながっている」。受講生のこの評価は、杉が「文体」を持っているという評価である。「消えていた」「消えていた」という畳みかけるリズムが、ことばを動かしていく。
 私が「かっこいい」と感じたのは「忘れずにいた」である。「覚えていた」ではなく「忘れずにいた」。ニュアンスはもちろん違うが、「忘れずにいた」が効果的なのは、その直前の「動かずにいた」と音が重なるからだ。音が重なることで、意味に深みが出る。意味が強くなったように感じる。音の重なりによる強調。それが、「隠れているこころ」を豊かにみせる。
 それは「隠れていた時間」かもしれない。「動かずにいた時間」「忘れずにいた時間」、その「時を超えて」と動いていく。
 杉には「ことばを整える」力がある。ことばを整えて、その整えることでできた世界を動いていく人間が見える。短い詩だが、時空間の広い詩である。

人権 婦人参政権実現75周年によせて  徳永孝

ずっと歩いてきた
一歩 一歩 前へ 前へ

くじけそうな時も有ったけれどなんとかがんばった
もうダメかと絶望しかけた時には
仲間が助けてくれた

時には疲れきって
休むこともした
それも必要な時間

理解しているという男も 助けてくれる男もいたが
つきつめてみると日常生活における
強者のおごりが見えてくるのだ

しかし苦労だけではない
何かを成しとげた達成感
新しい命を生み育てる喜び

友とすごす楽しみ
老人や幼い者達と遊ぶ
おだやかな日々

でも道は半ば
まだこんなものじゃない
可能性はさらに大きく広がっている

先人達はついに小さな翼を手に入れた
引き継ぐ我らは
より大きく力強い翼を持つ

地を踏みしめ歩んでいく者
空高く羽ばたく者
共に手をたずさえ進んで行こう

 この詩には「要約」はあるが、「個人」が見えない。人が「要約」されてしまっている。「でも道は半ば」という「要約」は、あまりにも乱暴であると私は感じる。100%が到達点だとして、いまその道程の何%まで来ていると徳永が感じているか、はっきりわからない。49%と50%は違う。そしてその1%の違いのために、どんな努力があったのか、どんな障害があったのか。私が読みたいのは、そういう「個別」の事件である。「個別」をどうことばにするか。言いにくいことがあるかもしれない。しかし、その言いにくいことのなかに、人間のいちのそのものが動いている。

 

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谷川俊太郎「音楽の事実」

2023-02-24 12:16:21 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎「音楽の事実」(「森羅」29、2023年03月09日発行)

 谷川俊太郎「音楽の事実」を読みながら。

その何小節かのピアノが私にもたらした感情は
悲しみという一つの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは私の奥深くには入って来なかった
曲名も作曲者も未知のまま何年かが過ぎた

 ここに出てくるの「私」を、私は「谷川俊太郎」と思って読む。「悲しみというひとつの名では呼べない」という一行、特に、ここで「悲しみ」ということばを選ぶのは「谷川印(谷川語)」のようなものである。
 ところが。

妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた

 この二連目の「私」はだれか。「谷川俊太郎」か。最後まで読むとわかるのだが、ここに出てくる「警察官」は小説の登場人物である。だから、ここで音楽を聴いているのは小説の主人公である。小説のなかだから、その音楽を実際に聞くことができるのは、小説の登場人物だけである。そうすると、この「私」は警官になる。
 一連目にさかのぼり、一連目の「私」も警官であるととらえれば、論理的には矛盾は亡くなる。谷川は警官に成り代わって、詩を書いている。
 しかし、そうなのか。
 三連目。

話はそれだけでエピソードにもならない
話しても伝わらないその数小節のピアノの
前世の思い出のような音の浮遊を
言葉に留めようとした私の慢心…

 この「私」は「警官」? 「谷川俊太郎」? もちろん、警官と考えることはできる。しかし、警官は、そんなことをことばにしようと思うだろうか。書き留めようと思うだろうか。予想外のことをするから、そこに詩が生まれる、といいえばそれはそうだが。
 名前を取り払って「私」を「心」と置き換えれば、どうなるか。

その何小節かのピアノが「心」にもたらした感情は
悲しみというひとつの名では呼べない
初めて聞いた時記憶には残ったが
それは「心」の奥深くには入って来なかった

その数小節の旋律と和音の動きが
突然「心」にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら「心」はそれを聞いた

言葉に留めようとした「心」の慢心…

 最後は「心の慢心」となり、座りは悪いが、「意味」は通じるだろう。だれの「心」であってもかまわない。「不変」に通じる「心」。音楽が「個人」の枠を超えてつたわるように、「ことば」もまた「個人」の枠を超えてつながる。これは「だれのものでもある(だれのものであってもかまわない=だれにでも共通する)こころ」が経験したことなのである。
 でもね。

この個人的でしかない経験に嘘はない
曲はブラームスの間奏曲変ホ長調作品117-1
警官の名はジェッシー・ストーン
ロバート・パーカー作の小説中の人物

 「だれのものでもない心」は否定され、「個人的経験」が強調される。
 つまり「私」は「谷川俊太郎」という個人に引き戻される。
 さて、どんな註釈、あるいは解釈をすれば、この作品は「論理的」な矛盾を克服できるか。
 「曲名も作曲者」も知らない「何小節」かの「ピアノの音」。それが曲名が小説のなかに書かれていたとして、曲名を知らないのに、どうしてその曲だと理解できるのか。小説なのだから、音は聞こえてこない。「妻に去られた」「悲しみ(という一つの名で呼べない感情)」がその小説のなかに書かれていたから、その曲だとわかったのか。 
 こんなことは、どこまでもテキトウに書きつづけることができるかもしれない。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、不都合が見つかれば、そのつど修正する。脳というのは、いつでも、一番都合がいいように考える癖がついている。
 「ことば」というのはとても便利なもので、「さっき言った(書いた)ことは間違いで、本当はこうだと気がついた」と言えば、何ごともなかったかのように「修正」がおわってしまう。さらに何ごとが「疑問」をつきつけられたりしたときには、その部分はまだ私にもよく理解できていないのでうまく言えないが、といってごまかすこともできる。
 こんなことを言ってしまっては何にもならないが。
 谷川だって、こんなふうに書いている。

どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった

 「言葉は所詮虚構」。虚構だから、いつでも変更できる。「こころ」みたいなものかもしれない。いや「脳」の「論理」みたいなものだ。
 だいたい「変」でしょ?

妻に去られた中年の警察官が
スコッチのグラス片手にレコードに針を落とした時
思いがけずテレビからそれが聞こえてきた
 
 警官がレコードに針を落としたのなら、レコードから音が聞こえるはず。しかし、テレビから聞こえてくる。この「矛盾(飛躍?)」を解消するためには、谷川が小説を読んでいて、その小説のなかで警官がレコードをかけたら、その曲が谷川のいる部屋の中のテレビから聞こえてきた(谷川は、テレビを見ながら?、小説を読んでいた。もちろん、テレビは隣の部屋にあって、音だけが聞こえてきたということもある)。あるいは、警官がレコードをかけるのにあわせて、同時に、テレビでもその曲を流した(警官はテレビをつけながら、レコードを聞くのである)。
 「脳」はいつでも脳自身が納得できる「論理」をでっちあげる。
 だから、「論理」を追及してもだめなのだ。
 むしろ、「論理」を超越しなければならない。

その数小節の旋律と和音の動きが
突然私にひそむ何かと共鳴したのだろうか
琴線に触れるとはこういうことか
他人事のように思いながら私はそれを聞いた

 「他人」ということばが出てくる。
 ある瞬間「私」は「他人」になる。「他人」を発見する。「他人」なのだから、「いまの私」と「矛盾」していて、あたりまえなのだ。「私」は変更できるが、「他人」は変更できない。自分の「意思」とは関係なく、そこに存在している。
 「他人」とは「事実」である。

どんな言葉も所詮虚構でしかないが
音楽は動きやまない事実だった


 「音楽」とは「変更できない他人=事実」である、と想えばいい。「音楽」を聞くことは「他人」を発見することなのだ。「他人」に出会うことなのだ。
 「音楽」を聞いた。その瞬間「こころ」が動いた。その「こころ」がどんな「感情」かわからない。「他人の感情」だからだ。いや、谷川が谷川でなくなった、つまり「他人」になって聞いた音楽である。だから、谷川は、その「他人になってしまった谷川のこころ」を探すのである。その過程で、警官になったり、また谷川自身に戻ってきたりするのである。

 谷川を「他人」にしたり、谷川自身にもどすというか、谷川の内部へもぐりこませてしまう音楽……谷川は音楽が好き、ということを書きたかった。ブラームスの曲について書きたかった。そのとき、ことばは、いろんな矛盾、あいまいなものを抱え込む。「私」もまた、動きやまない「事実」として存在する。「私」は「私」を思ったときにだけ存在するものなのだ。「他人」は思いがけないときにやってくる。

                      (引用の「117-1」は横書き。)

 


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Estoy Loco por España(番外篇307)Obra, Angel Castaño o Sol Perez

2023-02-24 10:39:42 | 詩集

Obra, Angel Castaño o Sol Perez

 El mundo de Sol Perez captado por Angel Castaño.
 Angel ve lo que yo no veo. Él puede verlo que yo no veo. Eso, de repente, aparece ante mis ojos en forma de foto.
 Angel no sólo ve la obra. Vive la obra. En sus fotos, la obra de Sol Pérez vive una segunda vida. Las fotos de Angel reproducen cómo nació y vivió las obras de Sol Pérez. Al ser reproducida, la realidad se convierte en un registro, viviendo una vez más una vida que nunca podrá perderse.
 Hay aquí una vida intensa, similar al "realismo mágico" de Gabriel García Márquez. La realidad se representa para establecer la realidad (realismo) de la representación (magia). No puedo distinguir si estoy en el mundo de Sol Perez o en el de Angel Castaño.

 Angel Castaño がとらえたSol Perez の世界。
 Angel は私の見ていないものを見ている。彼は、私には見えないものが見える。それが写真になって、突然、私の目の前にあらわれる。
 Angel はただ作品を見るだけではない。作品を生きるのだ。彼の写真の中で、Sol Perez の作品は二度目のいのちを生きる。どうやって作品が生まれ、生きてきたかを、Angel 写真は再現する。再現されることで、現実は、記録になり、決して失われることのないいのちを、もう一度生きる。
 ここにはガブリエル・ガルシア・マルケスの「魔術的リアリズム」に似た強烈ないのちがある。現実は表現されることで、表現(魔術)という現実(リアリズム)を確立する。私は、Sol Perez の世界にいるのか、Angel Castaño の世界にいるのか、区別することができなくなる。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇306)Obra, Joaquín Llorens

2023-02-23 09:47:38 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens 

 La tristeza aparece inesperadamente desde el espacio gris. Después del baile solitario, ¿volvere de nuevo al espacio gris? Esta obra me inspiró para escribir un poema.

¿Lo sabías? 
Que incluso la luz tiene una sombra.
Que tiene una sombra en el fondo de su mente.

Lo vi, aquel día, en aquella plaza.
Retira un pie y se gira en silencio.
La última luz del crepúsculo antes de alejarse.

Parecía bailar contra el corazón.
En ese momento, de la luz.
Una sombra se derramó con un último brillo.

Un sonido mas que pequeño, pequeñisimo.
"Estoy esperando, estoy aquí".
El sonido del llanto de su corazón rompiéndose.

¿Lo sabéis? 
Incluso la luz tiene su sombra.
Lo vi, aquel día, en aquella plaza.


灰色の空間から、不意にあらわれた悲しみ。孤独なダンスのあと、再び灰色の空間に帰るのだろうか。この作品に刺激され、詩を書いた。

君は知っているかい? 
光にも陰があることを。
こころの奥に陰を持っていることを。

私は見た、あの日、あの広場で。
片足を後ろに引いて、静かにターンする。
立ち去る前の、夕暮れの最後の光。

こころを相手に踊るようだった。
その瞬間、光のなかから
陰がしんしんとこぼれ落ちた。

小さな、とても小さな音。
「私は待っている、私はここにいる」
こころのなかの叫びが砕けた音。

君は知っているかい? 
光にも陰があることを。
私は見た。あの日、あの広場で。

 

 

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇305)Obra, Javier Messia

2023-02-23 00:00:00 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia 

 Dónde y cómo se ve el cuadro. Esta obra tendría un aspecto diferente según el color del fondo.
 Bajo la influencia del fondo negro, imaginé la pirámide de pie sobre la superficie del lago por la noche. La pirámide iluminada se refleja al revés en el agua. Sin embargo, la pirámide sobre el agua no es del color de la pirámide sobre el suelo. Es azul, como una sombra creada por la luz de las estrellas. Parece haber caído del espacio exterior y está ahí. La superficie del agua refleja el abismo del espacio. La pirámide azul en el abismo del espacio. Al verla, la pirámide del suelo toma su forma y apriende a brillar.
 Hay aquí un diálogo entre el universo y la tierra.
 El fondo negro ha borrado todo menos ese diálogo. Para que este diálogo dorado y azul cobre vida, se necesita el negro absoluto, la oscuridad del espacio. Si se expusiera en una pared blanca, sería una obra de arte completamente distinta.

 絵をどこで、どうやって見るか。この作品は背景の色によって違って見えるだろう。
 真っ暗な背景の影響を受け、私は夜の湖面に立つピラミッドを想像した。ライトアップされたピラミッドが水面に逆さまに映っている。しかし、水面のピラミッドは地上のピラミッドの色をしていない。星の光がつくりだした影のように青い。それは、宇宙空間から降ってきて、そこにあるように見える。水面は宇宙の深淵を映している。宇宙の深淵にある青いピラミッド。それを見て、地上のピラミッドは形を整え、形を整えることで、輝くことを知ったのだ。
 ここには、宇宙と地上との対話がある。
 真っ黒な背景が、その対話以外のものを消してしまった。この黄金と、青の対話を浮かび上がらせるには、絶対的な黒、宇宙の暗さが必要だ。白い壁に飾れば、全く違った作品になるだろう。

 

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Estoy Loco por España(番外篇304)Obra, Sergio Estevez

2023-02-22 09:25:53 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez 

 Hay obras que me atraen nada más verlas. Esta obra de Sergio ES ESO.  Está llena de poder en las todas partes. Al tocarla, me sentería como si pudiera recibir poder de ella.
 Esta obra no tiene cara (cabeza) ni brazos. Es muy impresionante. La ausencia de expresiones delicadas en la cara y las manos, me siento más fuerte las expresiones delicadas en las caderas, la espalda y las piernas. El poder se extiende por todo el cuerpo. Esta plenitud de poder, este poder en los detalles, debería transmitirse a mí a través del tacto, a través del sentido del tacto, más allá del sentido de la vista.
 Lo he visto en Facebook, así que no sé qué tamaño tiene, pero espero que sea lo bastante grande como para tenerlo en la mano. Quiero agarrarlo con todas mis fuerzas. Entonces se resistiría violentamente en el interior de mi mano.

 見た瞬間に、手が引きつけられる作品がある。触りたい欲望が湧いてくる作品がある。Sergioのこの作品もそうだ。全身に力がみなぎっている。触ると、その力が私につたわってきそうな気がする。力をわけてもらえそうな気がする。
 顔(頭)と腕がないのもいい。顔や手の繊細な表情がないことが、尻や背中、足に、繊細な表情があることを教えてくれる。こんな隅々にまで、力は広がっているのだ、ということを教えてくれる。その充実した力、細部にみなぎる力は、触ること、手で触ることで、視覚を超えて、触覚をとおして私につたわってくるはずだ。
 facebookで見たので、大きさはわからないが、手で握れる大きさだと嬉しい。ぎゅうっと力を込めて握ってみたい。握る私の手を受けとめながら、同時に跳ね返してくるだろう。

 

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池井昌樹「何処か」

2023-02-21 12:17:24 | 詩(雑誌・同人誌)

池井昌樹「何処か」(「森羅」29、2023年03月09日発行)

 池井昌樹「何処か」の全行。

このよのどこか
モーツァルトのほねがある
あるときそれをかんがえる
どんなかなしいこころより
かなしいほねが
このよのどこか
きっとある
こころがくらくしずむとき
どうしようもなくしずむとき
このよでも
あのよでもない
わたくしの
こころにもないどこからか
ほのぼのと
またたきかける
ほねがある

 「ほのぼのと」か……。
 前に出てくる「くらくしずむとき」の「くらく」に対して言えば、その反対の「明るさ」、うっすらした明かりになるし、「かなしい」「さびしい」を手がかりにして読めば「やわらかな温かさ」になるかもしれない。
 池井は、それを静かに結びつけている。
 静かな明るさ、静かな温かさ、かすかな明るさ、かすかな温かさと言ってもいいかもしれない。
 そうすると、それは、もしかすると「明るさ/温かさ」というよりも、「静かな/かすかな」の方が大切な要素かもしれない。
 「ままたき」に通じるのは、「明るい/温かな」ではなく、「静かな/かすかな」だろう。
 詩を貫いているのは、この「静かな(静かに)/かすかな(かすかに)」だろう。
 骨には、明るさ、温かさは、似合わないと私は感じる。だから、よけいに、そう思う。
 三行目にことばを補って読んでみる。

あるときそれを「静かに/かすかに」かんがえる

 そうすると

静かに/かすかに
またたきかける
ほねがある

 とつながる。
 この詩には、そういう、静けさ、かすかな感じがあふれている。同じことばが何度も繰り返され、激しく動いていかないところにも、「静かな/かすかな」ものを感じる。
 ピアニッシモもよりもっと小さな「音」。それは「聞こえてくる」のではなく、むしろ「聞き出す」音であり、音楽である。聞かない限り、聞こえない音が、この詩を貫いている。
 「モーツァルトのほね」という、非常に印象的な、鋭い音ではじまっているので、(また「ほねがある」という強い音でおわっているので)、この静けさ、かすかさは、その激しい音に隠されてしまいそうだが、だからこそ聞こえてくるのを待つのではなく、読者が聞きに行かなければならないのである。
 と書くと「書きすぎ」になるが、ぜひ、この静かな、かすかな音を多くの人に聞き取ってもらいたいので、ついつい書いてしまった。

 


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Estoy Loco por España(番外篇303)Obra, Fidel Vidal Pérez

2023-02-20 22:09:42 | estoy loco por espana

Obra, Fidel Vidal Pérez 

 El blanco del vestido de una mujer. Aún no hay forma. Sólo hay luz blanca. No llegaría a ser un color todavía.
 Me recuerdo.
 En pleno verano, en cuanto salgo de casa oscura, la luz me abruma y cierro los ojos involuntariamente. Justo antes de cerrar los ojos, veo colores dispersos, fragmentos de colores destrozados en mi campo de visión, sin perspectiva. Poco a poco, abro los ojos y reúno estos fragmentos de color, para que coincidan con mi memoria, para recrear la forma.
 Al ver el cuadro de Fidel, recuerdo ese momento. La sensación de reorganizar el mundo para que encaje con mi memoria. El mundo está ahí sin tener que hacerlo. Pero si no lo reordeno, el mundo podría seguir destrozado. Es una sensación como si estuviera intoxicado por la luz.
 Incluso el traje negro del hombre aún no se ha convertido en un color debido a la intensidad de la luz; tal vez sea la luz antes de convertirse en un color lo que Fidel retrata.

 女のドレスの白。そこには、まだ形がない。ただ白い光だけがある。それは色にさえなっていない。
 私は思い出す。
 夏の盛り、家から外に出た瞬間、光に圧倒されて思わず目をつぶる。その瞬間に、散らばった色、遠近感がないまま、視野に砕け散った色の断片を見る。少しずつ目を開き、その色の断片を、記憶に合わせるように少しずつ集めて、形を再現する。
 Fidel の絵を見て思い出すのは、その瞬間だ。記憶に合わせて、世界をもう一度整え直すという感覚。そんなことをしなくても、世界はそこにある。しかし、整えなおさないと世界は砕け散ったままかもしれないという酔ったような感覚。
 男の黒いスーツさえ、光の強さのために、まだ色になっていない。Fidel が描くのは、色になる前の光なのかもしれない。

 

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