詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「そのミツバチとまれ」

2013-01-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「そのミツバチとまれ」(「gaga」11、2012年12月10日発行)

 きのう読んだ石毛拓郎「渚の情欲」。そのなかで、私はちょっとめんどうくさいことを書いたが、書けなかったことを大雑把に補っておくと。
 社会批判の詩がある。「渚の情欲」も馬鹿貝の大量死と原発を含む自然破壊(私がきのう引用した部分には原発は出てこないが、後半に出てくる)の関係から、人間の社会経済行動に対する批判を書いている。こうした詩、多くのの場合、何だかめんどうくさい気持ちが私にはする。「頭」では「わかる」のだが、それを自分の「肉体」にひきつけて、書いているひとの気持ちになれるかというとなかなかそうはなれない。書いていることを「わかる」瞬間、「肉体」がどこかへ隠れてしまう。まあ、私は、そういう人間である。
 ところが石毛の詩の場合、そうではなかった。なぜかというと、そこに「肉体」があったからである。--というのは、わけのわからない説明になってしまうが。たぶん、逆のことを考えるといいのだと思う。
 何かに対して憤りを覚える。そのとき「肉体」のなかに、論理にはなりきれない「いらいら」のようなものが湧いてくる。「何を怒っている?」などと質問されると、もうだめ。ことばで説明し、その怒りをことばにできるなら、いらいらしない。そういう「ことば以前」の何か、「肉体」のなかにしか存在しない何か--それは「肉体」が描写されるとき、「共感」になる。
 石毛の「肉体」が砂浜や大量に死んでいる馬鹿貝、それに群がる蠅、その全体としての「自然」そのものと何かを共有する。石毛の「肉体」が「自然」のなかに分有され、「自然の肉体」を石毛の「肉体」が共有する。--それは「動詞」の動きによって混ざり合い、溶け合い、識別できないものになるのだけれど、その「識別できない」というところに私の「肉体」が「識別されない」まま触れる。そういう「共感」の形が、私にとっては大事、というか、信頼できる。
 これは道端でうずくまって呻いている誰かの「肉体」を見ると、ことばで説明を聞いたわけでもないのに、そしてそれが自分の痛みでもないのに、「あ、この人は腹が痛いのだ」と「肉体」が「共感」してしまうようなものである。
 もちろん道端のひとの「痛み」が芝居であり、それにだまされるということもあるかもしれないが、こういうことにだまされたとしても、そういうときだまされた人を「ばかだねえ」というひとはほとんどいない。--これも私にとっては大事なこと。「頭」でだまされたとき、そのひとは「ばか」。けれど「肉体」でだまされたとき、そのひとは「ばか」ではない。「肉体」の「共感」以上に信頼していいなにごとかがあるとは私には思えない。

 で、「そのミツバチとまれ」。これは桃を食べようとしていたら……。

腐っていく水蜜桃が
あまったるい喉の奥をすべっていく
けだるい白昼の夢をみた
まっさかりの、夏
庭にはびこるいちめんの陰花植物が
縁側めがけていっせいに笑った
かぶりつこうとしていたおまえのくちびるが
一瞬、うろたえる
ひと口、おれが齧ったところから
ミツバチが飛び立ったのだ

  そのミツバチとまれ
  そのミツバチとまれ

 この詩には実は「片山健に、敬意をこめて捧ぐ。」というサブタイトルがついている。で、それを踏まえていうのだが、最初の3行の「主語」はだれ? あるいは何?
 (1)石毛が水蜜桃が喉を通過するという夢を見たのか。水蜜桃を食べたというのは実際の体験だけれど、水蜜桃が「喉の奥をすべっていく」ということばにすること--それが「白昼夢」なのか。
 (2)その桃を食べているのは片山なのか。
 (3)あるいは、これは誰かに食べられた水蜜桃が、自分はいま誰かの喉の奥をすべっていくという白昼夢をみているか。
 (3)のように考えるひとは少ないかもしれないが、私は(3)が実はいちばん気に入っている。ずーっと水蜜桃を「主語(主役)」にして書いていけばおもしろいのに。石毛が書かないなら、これを利用して書き直そうかな、と思うくらいである。
 で、そういう「脱線」はそのままにして。
 「主語」が「石毛」「片山」「水蜜桃」のどれかわからないのに、そこに書いてあることはわかる--たぶんだれでもわかると思う。
 そうだとしたら、それはどういうこと? 主語がわからないのに何がわかったことになる?
 「肉体」が出合っている「こと」がわかるのだ。腐る寸前の「あまったるい」水蜜桃。そういうものが「喉の奥をすべる」。その「あまったるい」や「すべる」という用言のなかに動く、動き--「こと」が「肉体」でわかる。「こと」が「肉体」に触れてくる。
 「けだるい」も「肉体」が感じる「こと」である。「肉体」をもつものが感じる「こと」だからこそ、その「肉体」が石毛のものであろうと、片山のものであろうと、水蜜桃のものであろうと関係なく、読者(私)の「肉体」と「こと」を共有してしまう。「こと」を共有することで、他者の「肉体」を共有してしまう。「感じ」に触れてしまう。自分の「感じ」と勘違いしてしまう。
 で、こういう「肉体」の「共有」があればこそなのだが、

かぶりつこうとしていたおまえのくちびるが
一瞬、うろたえる
ひと口、おれが齧ったところから
ミツバチが飛び立ったのだ

 おーい、石毛! 主語が「おまえ」と「おれ」と乱れているぞ。学校の先生だろう(もう定年で教えていない?)。小学生がこんな作文を書いてきたら、○をつけるのか、×をつけるのか。どっちなんだ、答えろ!
 というようなことは冗談なのだが。
 ね、「おまえ」と「おれ」が混同している。それは「混同」ではなく、識別できない状態で融合しているということなのだ。「肉体」はいつでも「識別できない融合」にたどりついて何かをつかむ。つまり、おのれがおのれではなくなる。エクスタシー。自分が自分でなくなるというのは、何でこんなに気持ちがいいんだろう。もう、どうなってもいい。そういうもんだね。
 そうじゃない?

そうだな、清らかな水蜜桃にわれらは寄りつかぬ
逃げたミツバチは囁く

 あれ? 私は石毛に質問したのに、ミツバチが答えてきた。
 でも、いいんです。「ミツバチ」というのは、「仮の主語」。そのときの「方便」。そうじゃない?という私の質問に、石毛が答えようが、片山が答えようが、そんな「主語」はどうでもいい。「答える」という「こと」、そして「答えたこと(その内容が含む動詞)」が大事。
 私はもう、「主語」を識別しようとはしていない。
 「主語」はいうべき「こと」にふさわしい誰かが「主語」になればいいのであって、そんなものはそのとき次第。

そうだな、清らかな水蜜桃にわれらは寄りつかぬ
逃げたミツバチは囁く
おれの魂胆に、清らかな蜜が棲まぬことを
かれは、想いもつかなかったのだ
腐っていく桃の柔肌を剥ぐ
すると、粘膜はねばつきながら身もだえする
桃源郷での、甘く新鮮な果肉は
そこのいきものを狂わせるだろうが……

 「おれ」はだれ? 「かれ」はだれ? もう気にかからないでしょ?
 「腐っていく桃の柔肌を剥ぐ」って「桃」だけれど、そうじゃないかもしれない。「粘膜はねばつきながら身もだえする」って、何が? あれ? 何ががわからないなんて、とんだカマトトだなあ。「桃源郷」なんだろう? --って、変な「妄想」の「暴走」だけれど、「肉体」が暴走しないことにはエクスタシーなんてないからね。
 と、私は石毛を「清純な学校の先生(聖職者)」ではなく、いやらしい熟年の男にして楽しむのだ。--というのは冗談だけれど。

   そのミツバチとまれ
   そのミツバチとまれ

仮に、清らかな水蜜に
われらが棲んでいたとしたら……
にわかに信じがたい気配を
けだるい午後の
水蜜桃のにおいのなかにみつけて
おれは、憮然とする
頻りに、ミツバチが囁きはじめる
熟れていく果肉の、ただれた官能のなかに
おれは、こそりと
悪意のミツバチを、棲まわせる

 「悪意」は人間を覚醒させる最良の「善意」である。ソクラテスがそうであったように、それは天からの「贈り物(ギフト)」に違いないと思う。




石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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石毛拓郎「渚の情欲」

2013-01-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「渚の情欲」(「gaga」11、2012年12月10日発行)

 石毛拓郎「渚の情欲」は馬鹿貝の集団自殺を描いている。ほんとうかどうか知らないが、馬鹿貝は跳んで集団自殺をするのだという。そのことを書いているだが「助走」が長い。なかなか詩が始まらない。

渚の硬い黒砂を選んで、車の轍が二筋
くっきり黯々と陽炎立つ、鹿島灘南部州鼻の方へと延びていた。
べろを出していた。
べろを出して、渚に群れをなして打ち上がっていた。
死臭が、蠅を呼んだのか。
群れて黒くなった、死骸に近づくと
うあっと、いっせいに群れが舞い上がる。
貝殻は、綺麗な縞を正確に描いている。
それは生来、おのれの臆病のせいで描いた痕跡だ。
(引導を渡す蠅は、かれらを見捨てやしない)
馬鹿貝が跳ぶって知ってるかい?
不意の、質問に
興味がなさそうに連れの級友が、気のない対応をした。
ああ、馬鹿貝ね。
いかにも不味い喰い物だと、軽蔑するように笑いだした。

 中心のテーマである「馬鹿貝の集団自殺」になかなかたどりつけない。--と、書いて気づくのだが、実は馬鹿貝の集団自殺がテーマであるということは、その問題が馬鹿貝の集団自殺だけを描けばいいということではないということでもある。馬鹿貝の集団自殺はあくまで「中心」。
 そして中心があれば「周辺」がある。この「周辺」の概念というか、感覚というのはちょっとややこしい。「中心」と「周辺」をつなぐ半径(?)の糸があると仮定して、その糸に、私のことばで言うと「肉体」が絡んでくる。特に石毛の場合は、石毛の肉体を「中心」と「周辺」を結び合わせる強靱な糸にする。
 で、その糸が強靱であるというのは。(ここから、私のことばは、どんどん「飛躍」する。--まあ、これから書くことが、ぱっとひらめいたということである。論理的な考察ではない。)
 その糸が強靱であるということは--石毛が「肉体」を、「人間の肉体」として描くだけではなく、いや、そうではなくて。石毛は自分以外のものにも「肉体」を感じ、その「他者の肉体」を自分のもののようにして、「中心」と「周辺」をつなぐ。そうすると、その「つなぐ」ということが、「肉体」そのものに「なる」。
 あ、何のことかわからないね。(実は、私もどう書いていいか、考え中なのである。)
 詩にもどって具体的にことばを点検すると。たとえば……。

渚の硬い黒砂を選んで、車の轍が二筋
くっきり黯々と陽炎立つ、鹿島灘南部州鼻の方へと延びていた。

 この2行のおわりの「延びていた」という動詞(述語)の主語は「車の轍」なのだが、それを「延びていた」というとき、石毛は、それを「肉体」と感じている。車の轍が二筋の線になり浜辺に残っている--その存在を「延びていた」というある方向を含みながら動くものとして表現するとき、その轍は実際に「延びる」のである。そこには「延びる」という「こと」がある。その「延びる」は単に「ここ」から「あそこ」へ延びるだけではなく、たとえば「硬い黒砂を選ぶ」ということもする。黒砂を選ばなければ、延びないのである。で、このときに、主語「車の轍」が黒砂を「選ぶ」という「こと」をするために、主語である「車の轍」は「車の轍」というだけではすまなくなる。そこに「土地」が「見えない主語」、車の轍をささえる場としての主語としてあらわれてくる。
 この「見えない主語」として何かが「肉体」になる--というのが石毛の「肉体(思想)」の特徴だね。見えるものの背後に(内部に)見えないものの「つながり」がある。それが見えるものといっしょに動くとき、それはまさに「肉体」そのもの。なまなましくなる。
 書いていると長くなる予感がする。端折ることにする。

 「土地」を「いま/ここ」の「見えない肉体」として浮かび上がらせる--そのことばの運動のために、石毛のことばは長い長い運動になるのだが……。それはそれとして。
 その「土地=肉体」は、そこに土地以外の「肉体」を受け入れ「つながり」をもつのだが、「土地以外の肉体」の登場の仕方も、なまなましく「肉体」なのである。

べろを出していた。
べろを出して、渚に群れをなして打ち上がっていた。

 これは馬鹿貝の死骸の描写だが、「べろを出して」と書くことで、そこに「人間の肉体の死」が露骨に重なる。「べろ」はほんとうは貝の「舌」ではない。人間の「肉体」がそれを「べろ」と呼んでいるのだ。そして、そう呼ぶときに人間は自分の「肉体」を貝に分け与えている。「肉体」が共有されるのだ。(車の轍が延びる--その延びるにも、石毛は自分の肉体を分け与え、動きを共有していたのだ、とつけくわえておこう。)
 だから「群れをなして」というようなことばも、単に貝の死骸がそこにあるというより、それは「人間の死体」がそこにあるという感覚なのである。
 そういう感覚が「馬鹿貝が跳ぶ」「馬鹿貝は集団自殺する」ということばに「肉体」を与える。つまり、貝の大量死を自然の現象ではなく、人間の肉体が「共有された何か」として見てしまうのである。石毛の側から言えば、石毛(人間)の肉体を貝に分与し、そうすることで石毛と貝は「肉体」を共有するのだが、その瞬間から、貝に共有された「肉体」の動き(運動)が石毛の「肉体」のなかの運動(動き)の可能性を刺戟し、貝の運動が石毛の「肉体」によって共有されるのである。
 (途中の省略した蠅と貝の部分では、その両方に「肉体」が共有され、そこに「死ぬ」ということが、同時に激しいいのちの活性と「肉体」を共有する姿が描かれているのだが、書くと長くなる--私は目が悪いので、40分で感想を書いてしまうことにしている。だから、面倒なところはすっ飛ばして「飛躍」する。)

いやね、跳んで集団自殺するんだ。
人目を、避けて。
その砂鉄を、たらふく喰らい込んだ黯々とした渚と
花綵列島の、何千何百の半島洲鼻で行われた
馬鹿貝の自死との、奇妙な取り合わせに
おれは、心筋がちぢむ圧力を感じた。

 大量の貝と共に石毛の「人間としての肉体」がやはり「集団自殺」するとき、他方、最初に見た石毛の「肉体」を共有した「土地」はどうなるのか。砂鉄を含んだ海岸、その砂鉄を利用して発展する産業--そこに「死」は共有されないのか。そこに「死」の影響はないのか。
 そんなことはない。
 石毛の「肉体」はそれをことばにできないまま感じ取る。そして「心筋がちぢむ」という具体的な「肉体の反応」としてそこにあらわれてくる。その反応が、「いま/ここ」、つまり「現代」に対する「批評」としての詩、ということになる。

 石毛の肉体(思想)は、土地にも貝にも蠅にも共有され、共有されるたびに、ねばねばと粘着力を増していく。異質なものをひとまとめにするには、どうしたって「ねばねば」が必要だ。数珠つなぎにしようにも、硬すぎて「糸」がとおらないものがある。「つなぐ」ことができないときは、くっつけるしかないのである。
 という具合に石毛のことばは動くので、なかなかテーマがはっきりしない。多くのことが書かれすぎている。けれど、その「ごたごた」の「ねばねば」が、その「つながり」が石毛の「肉体」そのものなのである。だから、これは馬鹿貝の集団自殺がテーマというより、それに出会った石毛の「肉体」の反応こそがテーマと言い換えた方がいいかもしれない。

 あと三分の二くらい書きたいことが残っているが、それは別の機会にする。時間がなくなった。







子がえしの鮫―よみもの詩集 (1981年)
石毛 拓郎
れんが書房新社
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秋山基夫『二十八星宿』

2013-01-29 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『二十八星宿』(和光出版、2013年01月06日発行)

 秋山基夫『二十八星宿』は岡山で開かれた曾我英丘の書展にあわせて書かれたものである。曾我が追求している書による「宇宙」に秋山が「詩の宇宙」を対話させる。そういう企画のための作品であると「編集ノート(福田淳子)」に書いてある。
 私は曾我の書を見ていないので、秋山の詩についてだけ感想を書く。
 秋山は私にとっては「饒舌」な詩人という印象があるが、長々しい詩は書と向き合わせることがむずかしかったのか(それとも企画者からの要請か)、すべてが非常に短い。すべて4行である。この制約がことばにどう影響するか。
 おもしろかったのは4篇。



星の舟が暗黒の海を行く
帆柱に赤いランプを灯し
厨房でコックは食べ続け
光年の波にますます太る

 「宇宙」に対して「星」はあまりに正直すぎるのだが、それを裏切るように動く後半の2行がおもしろい。食べ続け太るコック。それでどうなる? そんなことはどうでもいいのである。この、何か「結論」をほうりだしたような、ぶっきらぼうなところが気持ちがいい。このあとを書きつづけると「説明」になり、うるさくなる。
 「ますます太る」の「ますます」も健やかでいいなあ。なんとなく、この「ますます太る」で秋山の「肉体」を私は思い出すのだが(一度だけ会ったことがある)、この「ますます」はやっぱりああいう「肉体」でないと出てこない。同じ岡山の詩人、瀬崎祐では、「ますます」は出てこないだろうなあ、と思う。



牛が歩く牛と共に歩く
百万年が一日で過ぎる
昨日の道を今日過ぎて
明日にはまた牛と歩く

 後半2行が「説明的」すぎて窮屈なのだけれど、前半の2行がおもしろい。特に1行目がいいなあ。「牛が歩く」「牛と共に歩く」というふたつの文でできているのだが、句読点がなく、そのままつながっている。この句読点なしの「つながり」がまさに「百万年」と「一日」が一致してしまう「つながり」である。
 私たちは何かと何かを「つなぐ」ことで「生きている」。「つなぐ」ことで、そこに「広がり(宇宙)」をつくりだし、その「広がり」のなかを動く。そこには「意識的」なつながりもあるけれど、「無意識」のつながりもある。そしてそのときの「無意識」というのは、あまりにも「肉体」になっているために「意識できない」ということであって、「意識がない」というのとは違う。
 こういうことは、定義するというか、説明するというか……、言いなおしてしまうとおもしろくない。「百万年が一日で過ぎる」は、その瞬間の「方便」である。その場での「断言」である。そこで成立し、そこで終わるものである。
 それを「昨日の道を……」と言いなおすと、「宇宙」の「構造(時間の感覚)」は論理的に説明されるようであって、それが論理的であることによって、それが嘘(虚言)になる。「宇宙」を凝縮させていたパワーが雲散霧消する。
 「房」の「ますます太る」が「ますます」という動きによって、逆に結晶する、あるいは凝縮するような感じ--矛盾を引き起こす何かであるのに対し、「昨日の道を……」は説明的すぎておもしろくない。論理的であろうとする意識が強すぎて窮屈である。矛盾しているけれどそれでいいという「納得」を誘わない。「頭」で一生懸命考えなければいけないので、なんだか疲れてしまう。
 前半の呼吸が狂ってしまう。
 向き合うべき書の宇宙があるのだから、詩は、詩自身のことばと向き合う必要はないのかもしれない。4行は長すぎたかのかもしれない。4行にすら「長すぎる」という印象を誘うところが秋山の「饒舌」のゆえんなのかもしれない。



俺たちは大陸から馬できた
俺たちは鞍で眠り鞍で死ぬ
天空を飛ぶ危ない夢を見た
目覚めると海を越えていた

 これは「論理的」なことばの運動に見える。夢だと思っていたが、それは夢ではなく現実で、眠っている間(夢見ている間)に馬は天空飛び海を飛び越えていた--という幻想の「論理」を引き出すことができる。
 でも、その「論理」を優先すると、そこから抜け落ちていくことばがある。「死ぬ」と「危ない」。
 そもそも天空を飛ぶことはなぜ「危ない」なのか。
 何かを「つなぐ」とき、何かが「欠落する」。そしてその「欠落」したものは、「無意識」のなかで深く深く「つながる」。その「つながり」の方が、「論理」の運動よりも魅力的である。そこに「肉体」と「ことば」が生まれてくるときの「秘密」のようなものを感じる。幻想の「論理」の美しさよりも、「論理」からこぼれ落ちながら居すわっている「危ない」と「死ぬ」によって4行が詩になっている。(これは、いつもの私の「感覚の意見」であって、うまく説明できない。)



ぱんぱんに張った
腸詰のような内臓
溜め込みつづけて
夏は膨らむ一方だ

 夏に内臓はあるか。まあ、わからないけれど、突然でてきた「夏」、そしてそれが「膨らむ一方」というのがいい。「房」の「ますます太る」に似ているが、「ますます」よりも「一方」の方が過激だ。加速した感じがする。その加速のなかには、何か輝かしいものがある。あふれるエネルギーがある。




秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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井崎外枝子「身体調書」

2013-01-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
井崎外枝子「身体調書」(「笛」262 、2013年01月発行)

 井崎外枝子「身体調書」を読んで少し考え込んでしまった。

 さあ、これが今日のスケジュール、急ぐんだ。そろそろ立ち上がってくれ、といくらいっても右足Aはぐったりと休みの姿勢だし、左足Bが前へ出ようとすれば、腰骨Cのあたりが突っ張り、締めつけてくる。お前たちは朝からこれか。こうなれば頭を下げてお願いするしか道はないようだと内心つぶやくが、季節もよくなったことだし、そろそろ目を覚ましてくれるのではと、一日延ばし。

 考え込んだのは、あ、おもしろいと思ったあと、なぜそれがおもしろい、と自問したせいである。
 瞬間的におもしろいと思ったのは、なかなか動こうとしないからだを、部位をとりあげて、「右足A」「左足B」「腰骨C」と呼んでいるところである。A、B、Cという具合に書かれると、何だか自分のからだなのに自分から離れた存在のように見える。客観的というか、抽象的というか。まあ、どっちでもいいのだけれど。
 あれ、でもねえ。
 ここに書かれていることって、A、B、Cという表記がなかったら、何か違ってくる? からだが思うように動いてくれない、からだが反乱を起こしているように感じるというのは、A、B、Cがなくて、右足、左足、腰骨だけでも十分だね。A、B、Cは文章のなかでは「意味」をもっていない。「無意味」。
 ふーん。
 でも、そうすると、私の感じたことは、いったい何だったのだろう。
 「意味」とは無関係な表記? 表記がなぜおもしろい?
 いやいや、「詩は無意味」であるということからいうなら、A、B、Cは「無意味」だからおもしろいのだ。
 でも。
 たぶんそうではない。きっと。

 A、B、Cは「無意味」ではなく、むしろ「意味の過剰」。A、B、Cがなくても右足は右足、左足は左足、腰骨は腰骨であることに違いはないのだから、A、B、Cは「意味」としては余分(過剰)。
 過剰なものは、過剰というだけではおさまらない。肉体にA、B、Cをくっつけることで、右足は右足とは別のものになる。肉体から切り離されて「もの」になる。新しい「もの」の誕生は、新しい意味、新しい意識の誕生であり--それは「意味の過剰」であり、「意識の過剰」である。たぶん、「意味の過剰」よりも「意識の過剰」の方が正確かもしれない。「過剰」のなかに私が感じるのは「意味」ではなく、井崎という詩人の「意識」だからである。井崎は「肉体」を書くふりをして「意識」を書いている。そう気づいて、私はこの詩をおもしろいと思ったのだ。

 過剰なものは常に暴走する。「もと」の存在から離れて暴走する。からだの部位を名称だけではなく記号で呼ぶと、記号が独立してそれ自体が「もの」から一個の単位(?)になる。その別の独立した単位は最初の「右足」「左足」という肉体を離れて「意識」の「象徴」のように、身軽に存在しはじめる。思うように動いてくれない何かとして、肉体を離れて、肉体の重みをのがれて軽快に運動する。--そういう変化がここにはある。
 まあ、そこまでは書いていないのだけれど、記号化された肉体が「もの」から「単位」になり、「単位」を統合する抽象力によって暴走するという具合に書き進めると、この詩はもっとおもしろくなる。もっと「意識」が濃密に浮かび上がってくると思う。

 井崎の詩は、そういうところまでは行かないのだが(そういうところへは行かないのだが)、「意識の暴走」の予感が誘い水になって動かしたと思われることばもある。
 からだがうごかない理由は、「だるい」でも「いたい」でも何でもいいのだけれど、そう書いてしまえばそれですんでおしまいだけれど、そう書かずに具体的描写で「過剰」になっていくこともある。

右足Aはぐったりと休みの姿勢だし、

 この「休み」は何かな? 体育のときの整列の「休め」につながる「やすみ」かな? 「休みの姿勢」だから、たぶんそうだろうなあ。
 しかし、これは「右足はぐったりしているし」で十分だよね。それで意味が通じる。けれど井崎はさらに「休みの姿勢」という「過剰」なことばを結びつける。この「過剰」はA、B、Cがなくても可能だけれど、A、B、Cがあるから動いたことばに思える。「意識の過剰」が記憶を過剰に刺戟し、子供のときの体育の姿勢を呼び出したのである。
 そうやって考えてみると、「意識の過剰」をとおして、私は井崎の「体験」というものを読んでいるらしいということがわかってくる。(もちろんこれは正確には、井崎のことばをとおして私が私の体験を読んでいることなのだけれど。)で、そうか、「意識」というもの、ことばそのものとは違って何やら「抽象的」なものではないということがわかってくる。どんな意識にも(ことばにも)体験がひそんでいる。A、B、Cには井崎が数学が好き(得意)だったとか、抽象的な論理を動かすのに苦労しなかったということも関係しているのかもしれない。
 --これは、この詩のおもしろさに対する感想ではなく、私の、ちょっとした「想像」と「思いつき」(メモ)なのだけれど。

 どこかへ行きたいのだけれどからだが思うように動かないという「意味」ではなく、そういうからだに対する「意識の過剰」がこの詩のテーマなんだな、と思って読むと。
 あら不思議。

仕事を放棄しているのは手や足だけではない。内臓部では真っ先に胃腸が赤信号を出した。しかもここはSOSをダイレクトに脳に送るから、このごろは脳も混乱気味。ときどき間違った指令を出して赤恥を書いている。

 右足、左足、腰骨にはA、B、Cと記号が過剰についていたのに、胃腸や脳にはその過剰に付加された意識がない。
 ほう。
 井崎にとっては目で見える(あるいは手で触れる)ものには意識が過剰に働くが、目に見えないものにはそういう動きは反映されない。(このあと、右手C、左手D、右腕E、左腕F、背筋G、頸部筋肉Hという表現も出てくる。Cの重複は井崎のミスだろう。)ここから井崎のことばが「視覚」を中心に動いているということが推定できる。「視覚」の詩人ということになる。書いて、文字にして、そこで意識が動く--そのために詩を書いているということもわかる。
 これはさっき書いた、ことばの動きには「体験(からだ)」がひそんでいるということの補足。からだがひそんでいるということは--何かを「覚える」ときにからだをどう動かしたかということ。その無意識の記憶。手や足を井崎は目でとらえている。動かしてみなくても、そこに手足が見えれば、井崎にとってそれが手足。ほんとうはそうではないのだけれど、そうとらえてしまう「視力優先」の「覚え方」がA、B、Cという記号の付加を呼び出し、それに誘われるようにして動いたのがこの詩なんだなあ、と思う。

 私は詩そのものを読むというより、こういうことを読む方が好きなんだなあ、としきりに思うようになった。


金沢駅に侏羅紀の恐竜を見た
井崎 外枝子
思潮社
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谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』

2013-01-27 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫、2013年01月16日発行)

 谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』には、私の大好きな「父の死」が収録されていない。日本の詩のなかで、いや世界の詩のなかで1篇選ぶとしたら、私は「父の死」を選ぶ。それくらい大好きなのだが。
 なぜ、収録されていないのかなあ……。
 「文庫版の選詩集がもう何冊も出ているから、それらと重複する本にはしたくない。」と谷川は「まえがき」に書いている。うーん、それなら自分なりの「谷川詩集」をつくってみるしかないか、と思う。つくるなら厳選して10篇。谷川は二千数百篇(概略というところがすごい)の詩を書いているそうだから、10篇というのは乱暴な選択かもしれないけれど、どうせならそれくらいの方が私の好みをはっきりあらわすことができる。
 でも、「父の詩」「かなしみ」「かっぱ」「鉄腕アトム」「臨死船」と数え上げて、あとがむずかしい。「臨死船」は最近読んだために印象が強いのかもしれない。読んでいない詩集もあるし、読んだけれど読み落としている詩もある。だいたい、詩は、その日の気分によって印象が違ってくるからなあ。生き物だからなあ……。
 10篇選ぶのは私自身への「宿題」として。
 「かなしみ」の感想を書いてみる。

あの青い空の波の音の聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 この詩にはわからないところがある。2連目の読み方である。
 「透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら」。これは、「おとし物」をしました、と届けに行ったのか。それとも「おとし物」を受け取りに行ったのか。それがわからない。「おとし物」をしましたと届けたら、おとし物をした「らしい」が「らしい」ではなく「事実」になってしまって、そのために悲しみが強くなるのか。あるいは受け取りに行ったら、こんなに大事なものを一瞬でもおとしてしまうなんてと悲しくなるのか。どちらとも読めるのである。
 どっち?
 これは谷川に問いかけてもわからないだろう。どっちでもいいのである。読む人の勝手である。
 そして、それが読者の勝手にまかせている点が谷川の詩の一番いいところであると思う。
 詩にはもともと「意味」はない。「意味」を否定するところに詩の魅力がある。
 そのことば、わかるけれど、どういう「意味」?
 ああ、けれど、これはとても愚かしい質問である。そう質問するとき、ひとはだれでも自分の中にすでに「答え」をもっている。予感している。それはなかなかことばにならない。ことばにできない。だからついつい質問してしまうのだが、こういうときひとは「答え(正解)」を期待していない。質問することで、自分のことばがどこへ動いていくのか、それを確かめている。そうすることで、そこに書かれている「詩」そのものの中へ動いていく。詩そのものを「体験」する。自分の「肉体」のなかへ取り込んでしまう。
 「透明な過去の駅」--それは具体的にはいつの、どの駅なのか書かれていないけれど、だれでも透明な過去の駅をもっている。「思い出の駅」といいかえてしまうと何かが違ってきてしまう駅。「ふるさとの駅」でも「あなたと別れた駅」でもだめである。ああ、あれは「透明な過去の駅」と呼ぶべきものだったのだ、そのときにわかる。「思い出」とか「ふるさと」とか「あなたと別れた」というようなことをすべて洗い流して、ことばが新しく誕生してくる。その誕生--それは谷川が生み出したものであるけれど、自分の肉体の中から生み出したもののように感じる一瞬。自分の中から生まれてくる「もの」--それは何かわからなくても生まれてくる「こと」はわかる。そしてそのとき、つまりうまれてくるという「こと」を感じるとき、私の「肉体」と谷川の「肉体」が重なる。ひとつになる。私が谷川になってしまう一瞬、そこに詩の不思議な喜びがある。
 「透明な過去の駅」の具体的な「意味」はわからない。そして、それが何であるか言えないからこそ、私たちは「わかる」。それが、いま/ここで新しく生まれてくる「こと」を。--それは「それは何?」という質問ではほんとうは「答え」を導き出せない。「何」であると指し示すことのできる「もの」ではなく、「誕生する」という「動詞」としての「こと」だからである。

 「かなしみ」には「かなしみ」という「もの」が描かれているのではない。「かなしみ」という「こと」が描かれている。
 「おとし物」ということばが出てくるけれど、そのおとした「物」はここには書かれていない。「おとした」という「こと」、そういう気になった(してきてしまったらしい)という「こと」が書かれているのである。
 「もの」ではなく「こと」を書き、その「こと」の中へ読者を誘い込む。そして「一体」になる。それが谷川の詩である。
 だから、書き出しの「あの青い空の波の音が聞えるあたりに」の「あたり」もそれが「場所」をあらわすことばであっても、ほんとうは「場所」をこえた「こと」の現場なのである。そこでは「場」が動かずにあるのではなく、何かが起きている、動いている、ようするに「こと」が起きているのである。
 で、その「こと」とは?
 「波の音が聞こえる」ということ。「青い空」に「波の音が聞こえる」ということは「現実」にはありえないかもしれない。しかし、それが聞こえるような気がするという「こと」はある。その「こと」のなかへ自分の肉体を運び、その音を聞く--そのとき、谷川の肉体と私(読者)の肉体が重なる。
 「こと」というのは「動詞」である。「動詞」だから、動く。動きは「もの」のようには「存在」として特定できない。その「動き」にあわせるしかない。そういうものである。
 この詩でおもしろいのは、もうひとつ。
 「波の音の聞えるあたりに」という表現のなかにある「音(聞こえる)」。谷川は「耳」で詩を書いている。聴覚の詩人である。その「証拠」のようなものがここにある。「波が白く輝くあたり(きらきら光るあたり)」というような「視覚」で「こと」を把握するのではなく「耳」で「こと」をつかまえている。「耳」が谷川の「肉体」の中心になって、ことばを動かしている。
 それはたとえば、「二十億光年の孤独」の有名な、

(或はネリリし キルルし ハララしているか)

 という行の「ら行」の音の繰り返しのなかにもある。どんな「動詞」をあてはめてもいいのだけれど、そういうことをせずにただ「ネリリ」「キルル」「ハララ」という音を声にする--そのとき動く肉体の喜び、のどや鼻腔や舌や、そして耳の喜びのなかで、ただ音が音であることが楽しくなる--そういう「こと」を求めて谷川のことばは動いてもいる。

 --というようなことを10篇の詩をとおして書いてみたいなあ。






自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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河邉由紀恵「すのうドーム」

2013-01-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「すのうドーム」(「どぅるかまら」13、2013年01月10日発行)

 河邉由紀恵「すのうドーム」はガラスの玉の中に建物や人形があって、ひっくりかえすと内部の白い粉が雪のように舞うおもちゃのことを書いているのだと思う。

歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景
ゆすると白い雪が舞いあがり上へうえへしたへ下へま
わるまわるまちの音がとおざかる近いようでとおいは
るかなきょ離かんに胸をしめつけるようなせつなさと
こちらにはとどかないはずの水のにおいのなつかしさ

 句読点がなく、漢字熟語としてなじみのあることばが漢字とひらがなの交ぜ書きで書かれている。
 「歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景」は「同じような風景よく(良く)」と読んでしまって、あ、ことばがつづかない。「同じような風景(、)抑圧の風景」と読み直して、私のなかで「意味」が育つ。
 スノーボールのおもちゃの風景は閉じ込められている。そして「いつも同じ」。こういうことを指して「抑圧の風景(抑圧された風景)」と読んでいるのだとわかる。
 なぜ、わかりやすいように(読みやすいように)書かないのか。
 「上へうえへしたへ下へ」はなぜ「上へ上へ下へ下へ」ではないのか、「きょ離かん」はなぜ「距離感」ではないのか。
 この説明を河邉に求めても答えは返って来ないだろう。そう書きたいからそう書くのである。
 また何らかの答えが返ってきたとしても、それで私が納得するかどうかわからない。
 だから、私は私が感じたことを書く。「誤読」してみる。
 私は河邉のこうした書き方に「肉体」を感じる。そして、それが好きなのだが、その「肉体」というのは、「歩いても歩いてもいつも同じような風景よく圧の風景」について書いたことと重複するが、何かをことばを優先させて理解しようとして、それがつまずく、そしてもう一度ことばを動かし直す--「風景よく、」から「風景、抑圧の風景」と読み返すときの呼吸(句読点の位置)と、ことばが「肉体(のどや舌、耳)」を動かすときの一瞬の「ずれ(ゆがみ)」の瞬間に、自分の「肉体」が河邉の「肉体」に触れられた感じがする。あるいは逆に河邉の「肉体」に触っている感じがする。
 ことばは「精神的」なのものであり、「頭」で理解するのが基本なのかもしれないけれど、その「頭」の動きをぐいと脇へおしよけ、そこに「肉体」が侵入してくる感じ--そこに不思議な感触がある。
 「抑圧」「上/下」「距離感」を私はどんなふうにとらえていただろうか。そのことばを(というのは正確ではないか……)、「よく圧」「上へうえへしたへ下へ」「きょ離かん」を私のことばでいいなおすとどうなるか。一瞬、言いなおせない。「よく圧」「上へうえへしたへ下へ」「きょ離かん」が、そのままぐいっと「肉体」のなかに入ってきて、「抑圧」「上/下」「距離感」を「肉体」から押し出してしまう。私の「肉体」のなかでことばが新しくなったような感じがする。知らないことばに出会い、なおかつそのことばがわかった、というような気持ちになる。
 このときの私の「肉体」の変化というのは、ちょっと女の「肉体」に触って、そこから跳ね返ってくる感触で、「あ、この女、私を嫌っている(悪いとは思っていない)」と感じるのに似ている。そういうことはもちろん私の「誤解」なのだが、まあ、そういう感じ。こういうことは直感の意見なので、いいかげんなものであるが。

すのうドームのふくらみのなか泳いでくるこおりうお
の目玉はなにを見たのかわすれやすいくちびるの人形
が青い水藻をくわえたまま水底へおちてゆくほうら底
の方で口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形
はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく

 この3連目では、私は「水底へおちてゆくほうら」にびっくりした。「水底へおちてゆく方ら」???? わからない。「よく圧」「きょ離かん」はまだわかりやすい。「頭」が拒絶されるけれど、それに対向するように「頭」が復活してくる。「抑圧」「距離感」とわりと短い時間で「意味」になる。
 でも、これはなに?
 「水底へおちてゆく方、ら底」? 「ら底」の「ら」にあてはまる漢字がわからない。私はまだまだ「頭」で詩を読む人間なので、こういう瞬間には、かなりとまどう。
 句読点(呼吸の位置)を何度かかえながら、ことばを肉体をくぐらせてみる。声に出すわけではないが、のどや耳をつかって動かしてみる。そうすると、

水底へおちてゆく、ほうら、底の方で……

 という形に落ち着く。あ、「ほうら」は「感動詞」、誰かに注意を促すときなどにつかうことばなのだ。(これが正しいかどうかは、まあ、私は知らない。--私はそう読んだというだけのことである。)
 で、こういうとき、私の「現代詩講座」では受講生にとっても意地悪な質問をする。

<質問>河邉の書いている「ほうら」を自分のことばで言いなおすとどうなる?
<受講生>……

 だれも言いなおすことができない。
 で、ここで、私は「飛躍」のだが……。
 この言いなおすことのできないことば、それが詩人の(河邉の)「肉体」であり「思想」なのである。それは「意味」として「理解」できるものではなく、「肉体」の動きとして(呼吸やことばのリズムの変化として)、そこにそれが「ある」ということを「実感」することしか許されていないものなのである。
 そして、その次には、その「肉体(思想)」と読者が「共存」するかどうかだけが問題になる。
 これは現実の暮らしのなかでも起きることだが、誰かがいる。そこに肉体がある。それが好きであれ嫌いであれ、それと「共存」するしかない。そのときの「共存」と関係している。「共存」をとおして「私」の「肉体」をかえていく--そういうことが問われている。
 あ、ちょっとことばが急ぎすぎて抽象的になってしまったが。(私はここ2、3日、ノロウィルスにやられてダウンしている。頭が働かない。頭が肉体として動かないと、どうしても書いていることが抽象的になる。頭が、ずぼらを決め込む--というようなことは書かなくてもいいことなのだけれど、まあ、書いておく。)
 で。
 もう一度「飛躍」すると。
 この「ほうら」という「肉体」そのものの「呼吸」をいったん「理解する」--つまり、それをそれとして受け入れると、うーん、

   口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形
はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく

 この、なんといえばいいのか「美しいおもちゃ」にはふさわしくないような「もの」をそこにある「こと」として受け入れるしかなくなる。そこにかかれている「こと」が、「ほうら」見えてくるでしょ?
 ああ、これがおもしろいなあ、と思う。
 「口をあける貝たちぼうふらかえるの子らと人形/はりょう足をとじたままくるしみながらしずんでゆく」なんていう「風景」は見たいと望んだものではないけれど、私にはそれが見えてしまう。
 こういうことが詩なのだと思う。
 自分の予想もしなかったものを、詩人のことば(肉体)をくぐりぬけることで見てしまう。触れてしまう。聞いてしまう。--それは、その瞬間、その詩人の「肉体」になることだね。言い換えると、「一体」になる。「セックスする」。
 河邉には一度だけ実際にあったことがあるので、こんなことを書くと、うーん、セクハラになるのかなあ。でも、まあ、私は女の詩人であれ、男の詩人であれ、そんなふうにして詩を読む。

 脱線してしまった。
 河邉のことばの書き方(表記方法)は、「作為的」といえば「作為的」かもしれない。けれど、こういう「作為」は単発でなら可能でも持続するのはとてもむずかしい。何よりもつづけているうちに変化していくし、その変化を「頭」は暴走してしまう。それをおさえながら「肉体」の領域にとどめておくのがむずかしい。
 河邉は、それを「ことばの肉体」にまで鍛え上げている。そのことを「ほうら」ということばの動かし方に感じた。



桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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斎藤恵子「百日草」

2013-01-25 18:22:55 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「百日草」(「どぅるかまら」13、2013年01月10日発行)

 斎藤恵子「百日草」は取り壊されるアパートのそばに咲いている百日草を描いている。それまで気がつかなかったけれど、アパートが取り壊されるその日に偶然見かけたのだろう。

造り花になる
かわいた細い花弁は埃をうすく載せ固くなっていく

赤紅色の長い匙形の花弁が重なり半球を拵える
ちいさな紡錘形の葉は対生し細い茎は直立する

地上には茶碗の欠片や犬の糞や食べかすや髪の毛
埋められた骨の上にいたいと思う
ささげるために
茎を伸ばし金のひかりを吸い
まばゆさを束ねふくらむ
紅を濃くする

 描写が連を変えるごとにかわっていくのがとてもおもしろい。壊されるアパートが撒き散らす埃。それが花の上に積もる。それは造花を思い起こさせる。たしたに造花には埃が積もっているものである。
 それから花弁の形、葉の形、茎の形--見えるものをできるかぎり客観的に(?)描く。そういうことを踏まえた上で、想像力が、いま/ここにないものを描きはじめる。見えないものを見る。
 「地上には茶碗の欠片や犬の糞や食べかすや髪の毛」は解体途中に見えたものかもしれない。けれど、

埋められた骨の上にいたいと思う

 これは、見えない。これは「百日草」の「思い(思うこと、思っていること)」だからである。けれど、それが斎藤には見える。斎藤はこのとき「百日草」になっているからである。前の2連できちんと描写することで、斎藤は「百日草」に「なる」。そして、「百日草」として思うのである。
 このとき、この「思い」に斎藤が溶け込む。「百日草」の「思い」なのだけれど、どうしても斎藤の肉体(人生/思想)がそこに入り込む。

ささげるために
茎を伸ばし金のひかりを吸い
まばゆさを束ねふくらむ
紅を濃くする

 これは、地上に散らかるいろいろな暮らしのあと、地下に埋もれてしまうさまざまな暮らしのあと--たとえば「茶碗の欠片(埋められた暮らしの骨)」など、捨てられていくものへ何かをささげたいということだろう。
 花はふつう大地の中に眠っているものを地上にもってきて、私たちにその宝を見せてくれるという具合に「比喩」化されることが多いが、斎藤はここでは逆に描いている。捨てていくものたちは、地上の「ひかり」を届ける。地上の「ひかり」を吸収し、それを茎をくだり、細く張り巡らされた根に、さらにその根が触れている「暮らし」にとどける。
 斎藤は、いま、このアパートでつづいてきた「暮らし」に感謝している。それをなんとか伝えたいとは思っている。
 その感じが花の描写の変化そのものとなって動いている。

デジカメを向け撮る長い髪の少女は
瀕死のようなしろいかおをしていたけれど
位置を凝視し哀しく思ってくれた

哀しみって耳がそよぐことよね
ひとりごとを言う少女は
かおも忘れたひとをしのんでいる
退(ひ)いていくものは
モルタルの壁に沿うから
あざやかな色を増す

 そこには解体現場を、そしてけなげに咲いている花の位置を撮影する少女もいる。その少女とも斎藤は「一体」になる。「哀しみって耳がそよぐことよね」は少女のひとりごととして書かれているが、そのひとりごとが斎藤にとどくのは、斎藤が少女だからである。「耳がそよぐ」とはどういうことか、斎藤は説明はしていないのだが、耳がそよいだ結果(?)、それまで聞こえなかった「声(ひとりごと)」を聞いてしまうということだろう。そして、斎藤は少女のひとりごとの中に、やはり斎藤と同じように「百日草」の「声」に共鳴している「声」を聞く。少女もきっと、「百日草」は地上のひかりを埋もれていく暮らしにとどけているのだと感じている。
 肉体の変化とことばの変化が一致した詩だと思った。




海と夜祭
斎藤 恵子
思潮社
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野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」ほか

2013-01-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」ほか(「現代詩手帖」2013年01月号)

 野村喜和夫「正午 パロディ中原中也」は文字通り中原中也「正午」のパロディである。

ああ、十二時のサイレンスだ、サイレンスだサイレンスだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
老人たちの永い生、ぷらりぷらり手を振って
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きな病院のまっさらな、ひるがえるひるがえる回転扉
空では雲がもふもふ笑って、地にはさざ波
銀色のさざ波のように、なおも欲望の流れに乗って
ああ、十二時のサイレンスだ、サイレンスだサイレンスだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
胆石破砕室を抜け、青汁スタンドを抜け
自身きらきらしいまでの抜け殻となって
大きな病院のまっさらな、ひるがえるひるがえる回転扉
空吹く風にサイレンスは、皺より皺よって舞い上がりゆくかな

 「サイレン」が「サイレンス」にかわる。この音の洪水であふれている現代にはサイレンよりもサイレンスがはっきりと聞こえる。
 昔、私は野村喜和夫の詩が嫌いだった。私が野村のことばになれていなかっただけなのかもしれないが、ことばが「頭」から出てくるようで、それにつまずいていた。私にはつまずいてその詩が好きになる場合と、つまずいてその詩が嫌いになる場合があるが、野村のことばは嫌いになる方だった。どこから変わったのかわからないけれど、私はいまは野村のことばがとても好きである。
 理由はとても簡単で、ことばにリズムがあるからだ。ここに書かれていることばはパロディなので野村独自のものではないといえるかもしれないけれど、中原中也のリズムを借りているだけということかもしれないけれど、それがとても肉体的だ。肉体で追いかけるのにむりを感じない。むしろ、肉体をうまい具合に誘ってくれる感じがする。ああ、そうか、中原のリズムを現代に取り込むとこういう感じになるのか……。
 「こういう感じ」では、ちょっと感想としていいかげんなのだけれど。
 むりして(わざと?)言いなおすと、中也は「サイレン」と書いた。野村は「サイレンス」と書いた。野村のことばは中也のことばよりも少し長い。音が多い。ただし、この音の多さはとても微妙だ。
 昔の人なら「サイレンス」を5音節と数えるかもしれない。でも、いまはだれも5音節に発音しないと思う。「ン」の音の問題ではなく、最後の「ス」。この「ス」を母音をはっきりと音にして声にする人は少ないだろう。ほとんどのひとが子音だけで発音してしまうだろう。文字の情報量ほど音の情報量は増えていないのである。
 そして、その増えた音の情報は、中也の時代といまの時代を比較した場合、もっと微妙な問題を含む。音の情報量は増えていないと私は書いたのだけれど、実は、逆のいい方もできる。昔は子音だけの音などなかった。日本語は子音+母音が原則である。そこに子音だけの音があらわれると、それを聞き取るため肉体はちょっと苦労しないといけない。すぐには子音だけの音を聞き取れない。--これは、昔の人から言わせると「ことば」が持っている「音」の情報がはるかに増えたということである。それを聞き取るには自分の肉体の中に音を聞き取るための情報を蓄えないといけない。情報量を増やさないといけない。
 でも、いまは違う。いつごろからかはっきりしないけれど、私たちは子音だけの音になれてしまっている。映画が日本語の中にたくさん入ってきて、それが根付いたということかもしれない。まあ、そういう環境で私たちの肉体は(耳は)必然的に変化してしまっていて、「サイレン」が「サイレンス」にかわっても、肉体が違和感を感じない。違和感を感じないで、それを受け取ってしまう。
 この、不思議な「境界線」のようなものを、野村のことばはすっーと乗り越えたというか、つかんだのだと思う。つかんでいるように、私には感じられる。長々と書いているけれど、こういうことは「感覚の意見」なので、当てにならないし、(あるいは逆に当てになるかもしれないけれど)、ほかに言いようがないのだが……。
 ええっと。
 「サイレンス」に似たことばに「サイレント」がある。「サイレント映画」というときの「サイレント」。サイレンス(名詞)サイレント(形容詞)と違うのだから、野村の書いている「サイレンス」を「サイレント」と書き換えることはできないのだけれど、
 もし、

ああ、十二時のサイレントだ、サイレントだサイレントだ

 と1行目が始まってたらどうなっていただろうか。英語ではサイレンスもサイレントも最後の音は子音だけなのだが、日本語の場合は違うね。
 これは、耳と発音の両方の問題なので、個人差があるかもしれないが、私の場合は、日本語の文脈の中で「サイレント」と言った場合、「ト」には「お」の音がはっきり残る。「サイレンス」の場合「ス」に「う」の音は残らない。英語の発音で「サイレント」と言う人が、

ああ、十二時のサイレントだ、サイレントだサイレントだ

 という行を朗読したとき、私はたぶんそれを「サイレン」と聞き間違えるだろう。そうすると、それは「パロディ」にはならない。
 こういう違いを、野村の肉体は識別していると思う。

 あ、書こうとしていることにてかなかたどりつけないなあ。私の感じていることは、どこか間違えているのかもしれないが、まあ、強引につづけると。

 詩を私は音読はしない。音読はしないけれど、詩を読むとき、のどや耳をつかっているような気がする。活字を眼でおっているだけなのに、のどが乾くし、耳がうるさいなあと拒絶反応を起こすことがある。で、のどが乾くのはいいのだが、耳がうるさいなあ、と感じると私の場合、読書をつづけられない。むりをしないと読めない。昔の野村の詩はうるさかった。でも最近は違う。耳に非常によくなじむ。「頭」のことばではなく、「肉体」のことばになっているのだと思う。

 で。
 「朝鮮女 現代語訳中原中也」を読むと、その「肉体」の感じ、現代の肉体の感じを野村がしっかり生きていることがわかる。--と、私には感じられる。

朝鮮女(をんな)の服の紐
秋の風にや縒(よ)れたらん

 これを野村はどう現代語訳するかというと、

朝鮮のひとだな服の紐がよれて
たぶん吹く秋の風のせいだろう

 うーん。これはすごいなあ。1行目が、まさに「肉体」のことば。このリズムは「肉体」でことばを動かさないとこうはならない。中也のことばは肉体的だけれど、その中也でさえ野村ほど「肉体的」ではない--とはいっても、これは「現代」からの感想だから、当てにならないかもしれないけれど。
 どこが、すごいか。
 中也は「朝鮮女の服の紐」と言っている。主語(テーマ?)は「紐」。ところが野村は主語を「紐」ではなく「朝鮮」にしてしまう。「朝鮮のひとだな」と「服の紐」と切り離して「朝鮮のひと」だけでひとつの文章にしている。句読点がないから、ちょっとあいまいなのだが、句読点なんて「肉体」にはない。あくまで「頭」で何かを整理するときのためのものだからなくていいのだが……。
 ああ、そうなのか。
 「朝鮮女の服の紐」と中也は書いているが、関心は「紐」なんかではない。「おんな」でもない。中也の「肉体」は「朝鮮」に反応している。その「肉体」の反応をそのまま「肉体」で引き継いで「朝鮮のひとだな」と引き受けてしまう。
 この「肉体」と「意識」のより直接的な結びつき。この呼吸。
 中也が突然目の前にあらわれたかのように、私はびっくりしてしまった。そうか、中也の「肉体」はこういうものだったのか。現代に呼び戻すとこうなるのか。
 私ははじめて中也がわかったような気がした。

 野村の「肉体」と、野村の「ことばの肉体」がぴったり重なって、とても自然に動いている。最近の詩を読むと、そういう感じが非常に強い。だから、とても野村の詩が最近は好きである。どれを読んでもおもしろく感じてしまう。




ヌードな日
野村 喜和夫
思潮社
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中尾太一「MからFへの手紙(抄)」

2013-01-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

中尾太一「MからFへの手紙(抄)」(「現代詩手帖」2013年01月号)

 中尾太一「MからFへの手紙(抄)」はとても長い作品である。そのため、私は感想を書くのをちょっとためらっている。私は目が非常に悪く、この小さい活字の詩を引用するとき、どうしても間違えるためである。引用せずに感想書いてもいいのだけれど、私は、そういうことが苦手なのである。書き写しながらでないと、私のことばが動かない。
 なので、というのはとても変な言い訳になるが、最初の部分だけの感想を書くことにする。

「かつて二人で過ごしたこの家から」と僕は心をこめて書き始めるだろう
この家はかけがえのない「二人」によって作られたものなのだから
その家の中で僕は今日君に伝えることのできる比喩を少しくらいは持ってきているだろう

 読み始めてすぐ、私はこの詩をどう分析したがっているか、それがわかった。中尾の書こうとしていることとは無関係かもしれない。私が一方的に、あ、このことを書きたいと思う--そういうことばが突然でてきた。
 「二」である。「二人」という形で出てきているが、そしてこの「二人」はM(僕)とF(君)ということになるのだが、この詩に出てくる「二」はそれだけではない。僕と君が向き合うように、他のものも向き合っている。向き合うことによって「ひとつ」の何かをあらわそうとしている。
 「書く」と「読む」、「この家」と「別の場所」、「比喩」と「現実(?)」。この書き出しの3行からだけでも、そのことを指摘できる。そしてさらに、私はいま「二」を取り上げたのだが、これは「正確」ではない。言い換えると、中尾は「書く」「この家」「比喩」は明確に言語化しているが「読む」「別の場所」「現実」ということばは書いていない。だから、それは私がかってに「誤読」したものである。かってに「誤読」したものではあるけれど、中尾のことばはそういう「誤読」を誘い込むように「論理的」に動いている。そこに中尾のことば(思想)の特徴がある。この「論理的」に「誤読」を誘うということばの力は、中尾が「論理」を踏み外さずにことばを動かす、つまり「散文」に精通していることを意味するかもしれない。
 で、そういう特徴を踏まえた上で言うと、この書き出しの3行には、とても不思議な部分がある。3行目の「その家の中で」の「その」である。私は実は、この「その」につまずいた。言い換えると中尾の「肉体(思想)」の核心を感じたのである。
 私は(私なら)、こういう場合「その」とは書かない。「この」と書く。「この家は」は書き、そして「この家」のことを繰り返しているのだから、「その」ということばで「この家」を対象化しない。客観化(?)しない。あくまで「この家」ということばで自分の近くに置いておく。家が自分の意識に非常に近い存在であるということを強調する。「この(近い)」「その(この、と、その、の間、つまり中間)」「あの(遠い)というのが、私の「この/その/あの」ということばをつかうときの基準である。
 ちょっと例を書いてみると。私は親指シフトのキーボードをつかって文章を書いている。このキーボードは富士通独特のものである。このキーボードはしかしもう古くなってときどき反応がにぶい。--このような文書を書くとき、最初は「この」、次は「その」という具合には絶対に書かない。
 でも、中尾は3行目で「その家の中で」と書いている。私とは「ことばの肉体」がまったく違うのである。そのことにつまずき、そのことから私は中尾のことば(肉体)に接近していく。接近していきたい。
 長々と書いたが。
 実は、3行目の「その」が、まとこに不思議な「二」なのである、と私は思う。「この」で通せば「ひとつ」ですむのに(?)、中尾はここでは「ひとつ」ですませずに、「わざと」ふたつにしている。そしてその「この家」「その家」という「ふたつ」のあり方は、たぶん、見すごされやすいものである。論理的には正確だからである。矛盾がないからである。現実には(?)、「この家」「その家」は「二人で過ごした」一軒の「家」だからである。現実にはひとつ。けれど、ことばのうえで「ふたつ」になっている。こういうことを、私たちは見落としやすい。
 でも、よくよく考えれば、この意識化された「ふたつ」というのは、たとえば「書く」と「読む」、「比喩」と「現実」という組み合わせの中で考え直すと何か逆転するようなものを含んでいる。「書く-読む」は「ことば」のなかで「ひとつのこと」になる。「比喩-現実」も「ことば」のなかで「ひとつのこと」になる。それぞれが別のものを指しているわけではない。
 で、もし、そうであるなら。(というのは、たぶんに飛躍した論理なのだが。)
 たとえば「僕」と「君」も「二人で過ごす」という「こと」のなかで「ひとつのこと」になる。そうであるなら(これは、もっと飛躍した論理、「誤読」の論理になるが)、「この家(僕のいる場所)」と「別の家(場所/君のいる場所)」というのは、「ふたつ」ではなくて「ひとつ」なのかもしれない。「ひとつ」なのに「ふたつ」と錯覚しているのかもしれない。
 だから、「この家」「その家」という学校文法では否定されるようなことばの運動も起きてしまう。
 中尾は、「いま/ここ」にある「こと」が「ふたつ」なのか「ひとつ」なのかということをめぐってことばを動かしている。それも独特の、つまり「わざと」書いていることばで動かしている。そうすることで何かを見ようとしていることが書き出しの3行から伝わってくる。
 で、その結論は?
 あ、それは意味がないね。詩なのだから「結論」はない。私はだから「結論」などは書かない。そんなものを想定もしない。ただ、「ふたつ」と「ひとつ」を指摘するだけにする。

君はこの部屋の錆ついた窓から見える松林の中で激しい雨に濡れていた二つの人影を覚えているだろうか
おそらく「師弟」として長い旅を続けてきた彼らの、あれは最後の時間だった

 「この部屋(内)」と「窓から見える松林(外)」。しかし、この「内」と「外」は「この部屋(内)」と「窓から見える松林(外)の中(内)」という風にもとらえることができ、「この部屋(内)」と「松林の中(内)」が奇妙に重なることで「距離」をなくす。これは「この家」「その家」ということばで意識的な「距離」をつくりだしたのとはまったく逆の動きである。
 「二つの人影」、つまり「師/弟」。それは「二つ」であるけれど「師弟」という「ひとつの関係(こと)」でもある。

その時間に共に居合わせながら僕たちの言葉は、あの「師弟」の歴史について訊ねることができなかった

 「時間」は「この家(この部屋)」と「松林の中」という「二つ」のものに共有される「ひとつ」である。「師弟の歴史」があると同時に「僕たちの歴史」もあるはずである。ここには書かれていない「僕たちの歴史」が対比されている。
 で、おもしろいのは。
 そういう「こと」をつなぐものがことばであることが、「言葉」という表記で明確に表現されていることである。
 「言葉」が「ふたつ」と「ひとつ」の問題にとても深くかかわっていることを中尾は問題にしている。

僕たちの言葉はある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく
自分たちの冬の発見によって巡り来る季節を凍らせた
あの「師弟」の最期の網膜に映ったものの一つがその凍てついた寒さだったとしたら
僕たちは僕たちの言葉の責任について考えなければいけないだろう

 ここは、書き出しの3行目の「その」と同じくらいにおもしろいなあ。
 ここに書かれているのは一種の「比喩」のようなものである。「比喩」というのは「いま/ここ」を「いま/ここ」にはないものを借りて語ることなのだが。
 あ、私のことばが急いでいるね。
 1行ずつ見ていく。

僕たちの言葉はある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく

 このことばの運動は正しい? つまり学校文法でも、こういう表現になる? 「知る」の「主語」は? 「言葉」だね。「言葉」が何かを「知る」ということはあるだろうか。「知る」のはあくまで人間、この詩の中では「僕たち」である。そうすると、この1行は

僕たちはある恐怖のゆえに彼らの旅を知ることはなく

 ということなのだが、では、その「知る」ということを別のことばで言いなおすと、「知る」とは「あることがらをことばにしてとらえること」とも言えるわけで、そうすると何かをことばにすることが「知る」なら、「ことばが/知る」でもいいような……。なんとなく、わかったような、だまされたような、そのくせ「論理的」なのような、そういう「いらいら」が襲ってくるねえ。
 こういうことを中尾は、とても整然と書きつなぐことができる。つまり超論理的なことばの肉体で動いていくんだね。
 次の、

自分たちの冬の発見によって巡り来る季節を凍らせた

 この「発見」は何だろう。見つけ出す、ということだが、別な表現で「知る」とも言えないだろうか。発見することによって「知る」。
 「僕たちの言葉」は「師弟の旅」を「知らない」、「師弟」を「知らない」。でも僕たちは「冬」を発見し、つまり「冬」を「知る」。そして、それを「冬」と「言葉」にしてしまう。すると、その「言葉」は「言葉」のままではとどまらず、

あの「師弟」の最期の網膜に映ったものの一つがその凍てついた寒さだったとしたら

 「師弟」の「肉体」に影響してしまう。
 えっ、でも、どうやって「言葉」を師弟に届けた?
 書かれていないね。
 二人は師弟に「言葉」を届けたりはしていない。「僕たち」は「師弟」とは会話していない。それでもそういうことが影響するのは、「師弟」が実は「僕たち」そのものだからである。それは「意識」のなかにおいてのことではあるのだけれど。
 そしてそれは、すべてがそうのなのだけれど。
 つまり「意識」のなかにおいて「ふたつ」と「ひとつ」は交錯し、「ふたつ」であると同時に「ひとつ」であり、「ひとつ」であるからこそ「ふたつ」なのである。
 この問題を、この詩は何度も何度もことばを変えながらぐるぐるまわる。ぐるぐるまわるだけなのだが、何かとても遠いところまで行ってしまったような感じになる。それは中尾のことばにとても論理力がある、推進力があるからだ。こういう詩は、さっき書いたことだが、結論ではなく、その推進力に乗って、ただ楽しむのがいいのだと思う。



数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社
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伊藤悠子「今日会った人」ほか

2013-01-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)

伊藤悠子「今日会った人」ほか(「左庭」24、2013年01月25日発行)

 伊藤悠子「今日会った人」はとても変わった詩である。どこが変わっているかをわかってもらうには全行を引用するしかない。

奥さん、ありがとう
とポストに投函してからお辞儀をしてその人は言った
なんのことだろう
その人が投函するのを待っていたからか
私も手紙を投函した
でも
ポストに着いたのはその人が先であった
忘れるところでした
奥さんが思い出させてくれました
私が手紙を手に持っているのを見て
自分も手紙を出すつもりだったと思い出したらしい
その人はスーパー三和の方に行った
私もスーパー三和に行くつもりだったが
東急ストアに行くことにした
あの人はスーパー三和に行くのではなく
あるいは行ったあと
海に行くのだ きっと
海からはとおい土地であるというのに
海に行くのだ
いくど礼を言い
なんど謝り
なお舗石を辿るという視線を保ち 海までの
東急ストアの広場を横切っていると
海の匂いがする
海からはとおい土地であるというのに
いつか
海辺で会うだろう
今日の日のことなど忘れて
とおく離れて会うだろう
あそこに人がいる
そんな会い方で


 ポストの前の不思議な出会い、スーパー三和へ行く、ということのあとに、突然「あの人」は「海に行くのだ」と思う。これが、とても不思議。しかも海から遠いのに「東急ストアの広場を横切っていると/海の匂いがする」と感じる。「海に行く」と思った瞬間から「海」が伊藤の肉体から溢れてくるみたいだ。東急ストアの広場へ行けばだれでも海の匂いを感じるかというと、そうではない。そして逆のことも考えられるのである。つまり東急ストアの広場ではなくても、どこでも伊藤には海の匂いがするはずである。肉体から海が溢れてくるとはそういう意味である。
 「肉体」が「海」になる。
 このときの「なる」は、また別の「なる」を引き寄せる。

いくど礼を言い
なんど謝り
なお舗石を辿るという視線を保ち

 というのは、頭を下げて(礼を言い、謝り)、そのまま頭を(視線を)上げずに舗石を辿るというのは、ようするに俯いて歩くということだろう。誰かと視線をあわせるのを避け、自分自身と対話するように、自分の内部を覗くようにしていると、肉体から海が溢れてくる。
 で、問題は。
 この俯いて歩いている人はだれ?
 「あの人」だろうか。私は「あの人」だと思って読んだ。そして、その俯いて歩く「あの人」を見てしまったあと、伊藤自身が「あの人」のようにやはり俯いて歩いているのだ。伊藤が「あの人」に「なる」。そして、その「なる」が「海」と重なる。「あの人」は「海」になって、伊藤の肉体から溢れてくる。
 そこに不思議な「一体感」がある。ちょっと、なんといえばいいのか、のがれることのできない「一体感」がある。--あるように、感じる。私はそういう経験をしたことがないので、これは「空想/妄想/誤読」の類なのだが、それがすーっと伝わってくる。あ、伊藤と「あの人」が一体になってしまったのだと私の肉体が感じる。
 で、そういう「あの人」と「いつか/海辺で会うだろう」と伊藤は想像するのだが、このときの「会う」はまたまた不思議である。伊藤は「今日の日のことなど忘れて」と書いているが、その「忘れて」には「海の匂いがする」ということまで含めて「忘れて」なのだろうか。「海」を「忘れて」なのだろうか。
 私は直感的に違う、と思う。
 「今日の日のこと」というのはポストの前で会って「ありがとう」と言った/言われたということは忘れてだと思う。そのとき伊藤は「あの人」とはまだ「一体」ではなかった。「肉体」は別々だった。だから、それは「忘れる」ことができる。しかし、一度「肉体」で「一体」であることを「覚えてしまった」ら、それは「忘れる」ことができない。「肉体」が「海」になったことをしっかり覚えていて、そのためにそれ以外のことは忘れてしまうということだと思う。
 私がいま書いていることは、一種の「感覚の意見」であり、それが正しいかどうかはまったくわからないのだが、そんなふうに思う。
 そして、その「一体感」から、いま伊藤は「あの人」と出会ったこと(過去)と、いつか海で出会うこと(未来)を、伊藤という「肉体」のなかでつないでいる。あ、もしかすると「あの人」は「私」だったかもしれない。「私」は「あの人」だったかもしれない。「奥さん、ありがとう」と言ったのはほんとうは「あの人」ではなく「私」だったのだ。それは区別する必要のない「こと」なのである。「私」と「あの人」が会った「こと」、そして不思議な会話をした「こと」という「事実」があるとき、だれが「私」でありだれが「あの人」であっても、「こと」はかわらない。
 「こと」の不思議さが、突然「海」を伊藤にもたらしたのである。もしかしたら、海で「あの人」に会った「こと」が過去であり、今日ポストの前で会話した「こと」が「いつか(未来)」であるかもしれない。それはどっちでもいいのだ。

 どう書いても「説明」にはならないなあ。
 私は、どうやら伊藤の書いている「こと」のなかに、肉体ごと迷い込んでしまったらしい。
 説明にならないけれど、うーん、これはいい詩だなあ、悲しくてなつかしい詩だなあと思うのである。(いつかまた、この詩について書くことがあるかもしれない。)



 山口賀代子「霜月の月」もおもしろかった。

高層マンションの東の空に
ふわっと
なめれば
舌の上で
さらりと溶けてしまいそうな
しろい
やわらかい
レースで編んだ綿菓子みたいなのが
浮かんでいる
こんなにやさしい容をしているのに
昼の月は怖い
蒼い空のかなたは無限の夜だということをおもいだしてしまうから

 「ふわっと/なめれば/舌のうえで」という短いことばのリズムが最後に突然長くなる。(その前にも少しずつ長い行はあるけれど)。
 で、長いのだけれど、その長さはほんとうは「ふわっと」「なめれば」「舌のうえで」と同じ「意識」なの長さなのである。ことばの、音の数は違うけれど、それが「肉体」のなかを通る「時間」は同じなのだ。
 で、それが「怖い」。
 その「怖さ」のために、山口が書いている「怖さ」に私は感染してしまう。
 なぜ、短い行と長い行があるのか、特に最後だけなぜ飛び抜けて長いのか--それは山口には「説明」できないだろうと思う。もちろん説明しなくていい。できないからこそ、そこに「事実」がある。
 そういうことを感じさせてくれる詩である。


詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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村尾暉子『金の生まれる字』

2013-01-21 23:59:59 | 詩集
村尾暉子『金の生まれる字』(iga、2012年08月30日発行)

 村尾暉子『金の生まれる字』は、きのう読んだ尾川の詩の対極にある。
 「お店」という作品。

東大だのケイオーだの ワセダだのを出て
一流企業へ行って 良家(?)の子女と
結婚するムスコは親孝行にちがいないけれど
その正反対だって一寸いいではないか
大学は七年かかってやっと出して頂いたが
すっごくハンサムで酒場のバーテンか何かをやって
女をたらし込むこと抜群で 新聞に出ない程度にワルで
女の子達をかなり泣かせる男
母親みたいな年増がチャカチャカやってきて
金くれたり ネクタイくれたりする
粋に着物を着た年上女が妙な甘え声で
「ねえ ねえ」とムスコにすりよってくる
私はそんな息子と ランプのついた喫茶店を
開いてみたいんだ

 「暮らし(生活)」をととのえるという具合に働かない。「ととのった暮らし」はつまらないという。逆がいい。逆か。しかし、「ととのった暮らし」の逆は「乱れた暮らし」? そうではなくて、「暮らし」をととのえるかわりに、「暮らし」のもっと奥にあるもの、肉体に関係したもの、ことばにならないものを「解放」しようというのが村尾の願いなのだろう。
 都合のいいことばで言いなおせば、「いのち」を「解放」しようとしている。「解放されたいのち」こそが美しい。しつけなんかではなくて、ね。
 うーん、わからないでもないが、疑問が残る。
 なぜかというと、そこにはほんとうの「いのち」の「解放」が描かれているわけではないからだ。
 引用の最後の行の「みたいんだ」。これは願望だね。
 他人の「願望」なんか読んでもぜんぜんおもしろくない。
 他人の「願望」ではなく、何をしたか--その具体的な「こと」でないと、魅了されない。「放蕩」は「放蕩の願望」のままでは絵空事。私にできないような「放蕩」の中で肉体が解放されてこそ、その肉体の奥から輝きだす「いのち」が美しいのだ。そしてその「輝き」はつかいつくされて、跡形もなくなるから美しいのだ。
 村尾は、そういう肉体が燃えつき、根源の「いのち」さえ燃えつきる「こと」を書いていない。単なる「願望」を書いている。
 「肉体」はどうやら安全なところにいる。
 つまり、ここに書かれていることは肉体にとっては「嘘」ということだ。
 私はこういう詩は嫌いだなあ。

似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり
イヤーなおふくろが傍にいても
どうしても結婚してくれなきゃ死んじゃう
と大さわぎさせるような男の子とお店をやってみたい

 この詩のうさんくささは、詩の最後に「思う」をつけてみるとはっきりする。魅力的な男の子と(息子と)お店をやってみたい「と思う」。
 「思う」ことならだれにでもできる。
 だれにでもできないのは、「思う」ことではなく、それを「肉体」で実際に「する」ことだ。何かを「する」。そのとき人は何かに「なる」。つまり、自分ではなくなる。「思う」だけでは「私」はかわらない。何にも「ならない」。「思い」だけが動いて変わっていく。
 まあ、デカルトなら、そうは言わないだろう。「思う」--思うことが人間を変えていく、願望をことばにすれば、精神はそのなかで「解放」される。まあ、そう読んでもいいのだろうけれど、私はあいにく、そういう「二元論」が嫌い。肉体と精神という「二元論」が大嫌い。
 村尾の詩がずるいのは、「思う」を省略することで、ここに書かれていることが「真実の欲望(いのちの声)」のように装っていることだ。
 「思っていること」を「思う」といわずに省略すると、それが「肉体」に見えてくる。まるで「丸裸の自分」(自分の丸裸)を差し出しているように読者に見えることだ。あ、村尾ってこんな恥ずかしくなるような本音を平気でいう人間なんだ。いいなあ、本音を言える人は。魅力的だなあ。
 でも、私はそんなふうには感じないのだ。
 単に「思う」を省略して、「精神性」を隠しているだけ。それが証拠に、「思う」をつけると、それが「精神」に見えてつまらなくなる。そんな「思い」ならだれだって一度や二度は抱いたことがある。だって、それが楽ちんでおもしろそうなんだから。「精神」を隠すと、なんだかわくわくするねえ。--ああ、でも、それが退屈。単なる空想なのに、そこには「肉体」がないのに、それを「肉体」であるかのようによそおうなんて、ばかばかしい。

似合いもしないのに流行のドレスを
着込んだミーハー達が 下手な化粧一杯で
埼玉の奥から横浜までやって来て 長っちり

 この、長尾が嘲笑している(?)女たちの方がはるかに「肉体」を解放している。「いのち」を解放している。長尾がばかにしようが、そんなことは関係ない。いい男がちらっとこっちを見て笑った。うれしいなあ。からだの芯がとろけてしまう--そういう「こと」を女たちは実際にしているのだから。
 そこには「放蕩」と「消尽」がある。「事実」がある。
 そんな「こと」の前で「……をやってみたい(と思う)」なんて、ばかばかしい。

 これは欲望をことばにすることで解放し、「暮らし」を「ことば」が乱してしまわないようにしている--つまり「ことば」を逆説的につかって「暮らし」をととのえている詩なのである。
 欺瞞なのである。
 書いているうちにだんだん腹が立ってきた。



金の生まれる字
村尾 暉子
iga
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セス・マクファーレン監督「テッド」(★★★★)

2013-01-21 10:29:28 | 映画

監督 セス・マクファーレン 出演 マーク・ウォールバーグ、ミラ・クニス、セス・マクファーレン

 うまいなあ、マーク・ウォールバーグはとてもうまい。
 昔、「ビッグ」を見て、トム・ハンクスはなんとうまいのだろうと大感激したが、それを上回る興奮。
 マーク・ウォールバーグの目がいい。子供のまま。子供時代を演じた子役の目よりも中年のマーク・ウォールバーグの目の方が子供っぽい。純真。
 この目をテディ・ベアのテッドにむけるだけではなく、ミラ・ニクスといるときも同じ目をする。これはすごいなあ。
 映画は2時間くらいのものだから、そういう目を2時間持続しろというのなら、うまい役者ならできるかもしれない。けれど、映画は2時間といっても撮影は2時間じゃないからねえ。とぎれとぎれに撮影するし、撮影の順序だってストーリーとは関係がない。いやあ、どうやって「間」の時間を過ごしたんだろう。心配になるくらい、うまい。
 いつまでたっても縫いぐるみと「友だち」というのは、まあ、ヘンタイだね。正常じゃないね。その正常じゃない人間を正常にしてしまうのが、マーク・ウォールバーグの目。目の演技。自分の信じているものを、ただまっすぐに見つめる。ほかのひとがマーク・ウォールバーグをどう見ているかよりも、自分が何を見たいか、ということに夢中になっている。その純真な感じがいいねえ。まあ、自分に閉じこもっている、ジコチューと言えば言えるのだけれど。
 で、そういう純真だけでは実はおもしろくない。人間はいつでも純真なだけじゃないからね。
 その純真じゃない部分、不純、いいかげんなところ--それをなんとテディベアが引き受けてしまう。リアルに全部引き受けてしまう。マリフアナに夢中だし、デリヘル嬢を家に呼んで羽目を外し、スーパーで働きはじめても上司に無礼な口をきき、仕事中にレジの恋人とセックスし、やりたい放題。生きているテディベアとして一時期セレブだったので人脈(クマ脈?)もあり、パーティを開けばあこがれのスターもやってくる。そこでもコカインをやりながら羽目を外す。働く苦労も知らず、好き放題に遊び呆けている。
 あれ?
 あ、そうだよねえ。「純真」と「不純(?)」、子供の世界と音なの世界がが逆転している。
 人間は中年になれば純真さを失う。縫いぐるみ(子供)はいつまでたっても純真、というのが普通の常識。それが、この映画では逆転している。マーク・ウォールバーグはいつまでたっても自立できない。働いているけれど、そして恋人もいるけれど、さらには縫いぐるみのテッドにも手をやいているけれど、どこかでテッドに頼っている。テッドがいるので、うだつのあがらない生活もやっていけている。出世街道を突っ走るでもなく、ホームレスになるでもなく、まあ、それなりに生活している。上司に叱られながら。
 その鬱屈を、テッドがかわりに解放している、とも受け取れるね。
 でも、こんなことは考えるとつまらない。ただ、マーク・ウォールバーグの純真な演技に夢中になればいい。(ついでに、テディベアの下品な演技も楽しめばいい。)
 いろいろいいシーンがあるけれど、私が好きなのは、テッドの恋人の名前を当てるシーン。いや、当たらないんだけれど、マシンガンのように名前を連発するから当たったら「ピンポーン」と言え、と言って 100人くらい(もっと多い?)の名前をよどみなく言い放つシーン。いやあ、女の名前を日本語でもいいから 100人よどみなく言える? 重複せずにだよ? できないねえ。それを演技とは言え、真剣にやってしまう。そして、その真剣さがねえ……不思議なことに、あ、こいつらいつもこんなふうなことを繰り返していたんだという「実感」というか「暮らしの存在感」として浮かび上がってくる。「オタク」の遊びのようなものなのだけれど、それが「遊び」ではなく(遊びだからなのかもしれないけれど)、「暮らし」をきちんとととのえている。ささえている。そういうのが見えてくる。感激してしまったなあ。
 それから、屋外ステージでミラ・ニクスのために歌を歌うシーン。実にへたくそに歌う。そのへたくそさかげんが、とってもうまい。こんなにへたには歌えまいというくらい、音痴の常識通りに音を外す。音痴というのはひとつの和音(コード)から次の和音に移行するときの、そのつなぎ目の最初の音がうまくとれなくて、音がズレていく。つまり、最初の和音のキーと次の和音のキーが違ってきてしまうために音が暴走するのだけれど、それをまるで素人のど自慢でもめったに聞くことができないくらいに上手に「音痴」を演じる。マーク・ウォールバーグはたしかバンドももっているくらい音楽通のはず。それがこういう歌い方を、それも素人の純真さのまま表現できる。爆笑のシーンなのだけれど、感激するなあ。「音痴」なのにそれでも気にせず自分の気持ちをつたえる、その純真さが、すーっと浮かび上がる。
 そして、その歌をミラ・ニクスの上司がばかにするのだけれど、このときミラ・ニクスが抗議する--この瞬間に、ほら、マーク・ウォールバーグがどんなに女心をつかみ取っているかがわかる。「純真」が好きでミラ・ニクスはマーク・ウォールバーグを捨ててしまうことができない。そのせつなさがいいねえ。
 まあ、しかしこんなことは気にしないで、つまりマーク・ウォールバーグの純真な演技は無視して、テディベア・テッドの下品さに大笑いすればいい映画なのかもしれないけれど、それが大笑いできるのはマーク・ウォールバーグの純真さが要点をおさえているからということは忘れないでね。(これは、下品さに大笑いしながら、自分の純真さを発見する、ということになるのかもしれないけれど。)
                        (2013年01月20日、天神東宝3)

 



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尾川義雄『影泥棒』

2013-01-20 23:59:59 | 詩集
尾川義雄『影泥棒』(能登印刷出版部、2012年12月20日発行)

 尾川義雄『影泥棒』のことばは「想像力」を刺戟しない。読んでいて、ことばに触発されて「妄想」が広がっていく、ことばが肉体をもって暴走していくということがない。つまり「現代詩」と定義されているものからは遠い。
 では、そこにはことばの魅力はないのか、というと、そうとはかぎらない。
 「養蚕暮らし」のなかほどを引用する。

蚕棚がずらーつと並び
食い盛り 肥り盛りの桑を噛む音は
早瀬を奔るさざなみの響き
玄関や納屋にも摘んで来た桑葉が拡げられ
親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を
辛うじて残す養蚕作業所となった

黒点のある頭部を前後左右に振って食い続け
鋸状の桑の葉が二・三時間で骨だけとなり
桑葉の補給と蚕糞で汚れた蚕棚の差し替えに
早朝から深夜まで父母は掛かり切り
学校から帰る子供も手伝わされた
やがて蚕は脱皮前の睡眠に入る
食育と脱皮を数回繰り返し
白い体躯が じょじょに透明になり
絵の具のチューブを押し出すように白い液体を
体をくねらせ口先から 吐き出し吐き出し
蚕は真っ白な繭の中で動き止まり
体躯が縮み茶色の蛹に

 ていねいに蚕の生涯が描かれる。そのていねいさのなかにまた尾川の暮らしが折り込まれる。蚕を育てるのがどんなにたいへんだったか、それを肉体は忘れることがあっても、そのときの「ていねいさ」を肉体は忘れることができない。「ていねいさ」を肉体は「覚えている」。それがそのまま描写となって動いている。
 このていねいな描写、ことばの動きを読むと、ことばによって養蚕の「事実」がととのえられ、それにあわせて「暮らし」そのものがととのえられていく感じがする。尾川は「事実」を書いただけではなく、そう書くことで「暮らしの事実」を「暮らしの真実」にまで高めたのである。
 肉体が覚えている暮らしは「親子六人が住む茅葺家屋は 寝所と食事場を/辛うじて残す養蚕作業所となった」というような、思い出すとつらいようなことなのだけれど、ああ、美しいと思わず声が漏れる。つらい、苦しい暮らしの中にも思いがけないものが入ってくる。

早瀬を奔るさざなみの響き

 蚕が桑の葉を食べるときの音を、そんなふうに表現するとき、それは「比喩」にとどまらない。そのことばが動くとき、それは「比喩」ではなく、実際の風景なのだ。蚕を飼う山の中の集落。そこには山があると同時に川がある。川の水は音をたてて流れている。その音が聞こえる暮らし。それが「比喩」の形で肉体のなかによみがえる。ふるさとがその瞬間、美しく「なる」。つらく、苦しい養蚕の暮らしも、その早瀬のせせらぎの響きに洗われて美しい「こと」に「なる」。
 この正直な肉体の反応は、ことばを「ていねいに」動かすところから必然のようにして生まれてきている。蚕が桑を食べる音にも耳をすませ、その音の変化のなかに蚕の生涯を見ている。その耳の記憶に、川で遊んだ記憶も生きている。
 それは「学校から帰る子供も手伝わされた」という記憶に、

絵の具のチューブを押し出すように白い液体を

 という1行が結びつくところにも見ることができる。
 「絵の具のチューブを押し出すように」は単なる「比喩」ではない。それは尾川が子供時代に絵を描いたときの肉体の記憶、肉体が覚えていることなのである。「絵の具のチューブを押し出すように」ということばが動くとき、原田は蚕になって、絵を描くようにして白い繭をつくっている。こういう「正直」は得難いものである。
 この詩には「現代詩」の定義にあてはまるようなことばはない。だれもこの詩を「現代詩」とは呼ばないだろう。
 しかし、そのことばの運動のなかには、詩そのものが失ってはならない「比喩の肉体」がある。「ことばの肉体」がある。「ことばの肉体」と自分自身の「肉体」を「ひとつ」にして動いていく力がある。
 これは大事にしたい。








三昧の莚―詩集
尾川義雄
能登印刷出版部
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フョードル・ボンダルチュク監督「プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星」(★)

2013-01-20 09:49:53 | 映画
監督 フョードル・ボンダルチュク 出演 ワシリー・ステパノフ、ピョートル・フョードロフ、ユーリヤ・スニギーリ

 ロシアのSF映画。地球から戦争がなくなり、人間もほとんど不死になった未来。若者はひとりで宇宙旅行に出かける。で、ある惑星に不時着する。そこでは「匿名の父」が社会を支配していた。
 というようなことなんだけれど。
 まったくおもしろくありません。ある惑星というのが何やらソ連時代のソ連(変な言い方だね)、というかソ連に支配されている国を思わせる。ソ連に支配されているとは、別な言い方をするとソ連に安全を守られている、というのだけれどね。「匿名の父」のことばで言いなおすと。で、大半の市民は「匿名の父たち」の政治によって暮らしを守られていると思っているけれど、そこには「自由」がない。で、その「自由」をもとめて主人公が立ち上がる。
 あらら。
 「匿名の父」の独裁ぶりは、しかし、ていねいに描かれていない。つまり、魅力的に描かれていない。悪人が魅力的でないと、こういう映画はだめだねえ。紋切り型。「匿名の父」という「ことば」による説明からして「映画」を踏み外している。それって、「小説」でも許せないようなことだけれど。--まあ、原作は漫画らしい。漫画を否定するわけではないけれど(実際に私はその漫画を読んでいないので否定しようもないのだけれど)、漫画も「ことば」が主役になってしまってはおしまい。
 ロシアではヒットしたというのだけれど、なぜかなあ。長い長い共産党時代の感覚がまだ残っているのかな? あ、ソ連みたい、というのではなく、ソ連だとしてもいいのだけれど、それを批判するときはこんな感じに……という「教科書的」な展開。そのことにこそ問題があると気づかずにヒットしているのだとしたら、なんだかさびしい。
 最後に「匿名の父」が実は地球から不時着した地球人だったというオチ(?)は、ロシアのソ連からの解放は見せ掛けのものである、という「告発」のつもりなのかなあ? でも、その見せ掛けの解放から真の「自由」を獲得するというのも地球からやってきた若者というのではなあ。
 「自由」というのは、やはり、「いま/ここ」を生きている人間が自分の力で獲得するものではないのかなあ--とは、これもまた「教科書的」な哲学か。うーん。この映画は人間を「教科書的」に洗脳する力をもった新しい宣伝映画かもしれないぞ。
 気をつけよう。
                      (2013年01月17日、KBCシネマ2)

 


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原田もも代『自画像によく似た肖像画』

2013-01-19 23:59:59 | 詩集
原田もも代『自画像によく似た肖像画』(七月堂、2012年11月19日発行)


 原田もも代『自画像によく似た肖像画』には確かに「自画像」に似たものが描かれているのだろう。「自画像(肖像画)」を見るとなんとなく「安心」する。そこにはその人がいる。似ている、似ていないではなく、そこには「なろうとする自分」がいる。そのときの「なる」はきっと自分を否定するではなく、自分を肯定するということだろう。生きてきた「過程」を肯定する。
 そういう視線の動きは「自分」だけに向けられるものではない。「新しい畳」という作品を読むと、そういう気持ちになる。

家中が
新しくなったように かぐわしい
たった一部屋の畳が
新しくなっただけだけれど

うれしくて
寝そべって本を読む
突いた肘が痛くて起き上がる
赤く食い込んだ畳の目の痕
畳はまだ畳ではなく
藺(い)草はまだ藺(い)草だったのだ
織られて 打ち込まれてなお屈せず
敷かれることにも歯向かう
したたかな草の力 その根性に敬服し正座する
むこう脛が痛い
足の甲が痛い

 新しい畳にふれて、畳ではなく、畳の「生きてきた過去」に触れる。触れてしまう。それも「頭」ではなく「肉体」で直接に触れる。
 畳に「なる」前、畳の面は「藺草」だった。そしてその藺草にも「生きてきた過去」がある。畳に触れたつもりが、畳を通り越して「藺草」の「生きてきた過去」に触れてしまう。そして「過去」は「いま生きている」ものであることを感じる。感じてしまう。このときの「感じる」は自分の肉体のなかから「覚えていること」を呼び覚ますことである。「生きている」に触れて「生きている」が目覚める。それは藺草が「生きている」であると同時に原田も「生きている」。
 原田は直接藺草を見たことがあるか。触ったことがあるか。それはわからないが、原田が触らなくても藺草を育てた人は触っている。藺草を刈った人は触っている。その「肉体」の「覚えていること」が原田の「肉体」の奥からよみがえる。原田の「肉体」と藺草を育て刈った人の「肉体」は別々で離れていても、それはつながる。草の強さ、強い葉っぱや茎に触れたり見たりした記憶が、草のいのちのつながりのなかで藺草と出会い、その「覚えていること」を原田の肉体に思い出させる。それに触発されて「生きている」原田が目覚める。
 新しい畳の目が原田の「肉体」に痕となって残る。それは原田の肉体がやわらかく「生きている」からである。そのとき原田はまた思い出すのである。自分の肉体がこんなふうに「柔らかい」のと同じように、藺草もまたほんとうは柔らかい肉体を持っていた。それを風にそよがせていた。そして濃い緑を空中に反射させていた。もっともっとまぶしい時代があった。--そういうものと、原田は出会っている。
 この「覚えていること(記憶)」を原田は「根性」と呼んでいる。これがおもしろいなあ。藺草の根性と向き合う。--これは原田が原田の根性と向き合うということだと思う。肉体の中の芯となって原田をささえている力を原田は根性と呼んでいるのだと思うが、それと向き合うということだと思う。「生きていこう」と決意すると言い換えてもいいかもしれない。「根性」を出して「生きる」。
 そのとき原田は「正座」をする。
 おおっ、いいなあ、と思う。こういう「肉体」の出てき方は気持ちがいい。原田は何かときちんと向き合うとき「正座」する。「肉体」に無理な形をとらせる。「精神(頭)」で何かと対面するというのなら、そのとき人間はどういう姿勢をとっていてもいいはずである。どんな姿勢をしていようが1+1=2というような「数学的事実」はかわらない。でもね、人間はそんなふうにしては何かとは向き合えない。正しく何かと向き合おうとすると「正座する」。これが原田の「生き方(思想、肉体)」なのである。「生きる」と向き合うとき正座しかない。そういう「しつけ」を生きている。
 「正座」のなかには原田が書いているように「敬服」も含まれる。敬服というのは、自分の傲慢をおさえるということである。「むこう脛が痛い/足の甲が痛い」ということを受け入れ我慢する。そういうことを肉体で受け入れないことには何かと真剣に向き合い、何かを受け入れたことにはならない。一種の痛みのなかで共生する。その痛みを覚えることが「しつけ」(体のうちから自分をととのえる)なのだが、この「痛み」なのかで藺草と原田はひとつになっている。共生している。つまりいっしょに「生きる」になる。
 あ、もちろん違う生き方もある。あるのだけれど、原田が実践しているのはそういう生き方である。「肉体」をまっすぐにととのえる生き方である。
 それがこの詩ではきちんと書かれている。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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