詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(2)

2016-04-30 08:46:38 | 詩集
野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(2)(水声社、2016年04月15日発行)

 04月28日の野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』の感想で「共犯」について書いた。30ページまで読んで、この詩集のなかで「共犯」ということばが出てくるのは一回だけだろうと書いたのだが、32ページにも出てきた。
 あ、びっくり。

私と彼とは、これもすべて述べたように、いわば物語ることの共犯性を軸に際限もなく渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、

 でもこれは先に引用した9ページそのままだね。
 「際限もなく」繰り返すのが、この詩集だ。「際限のなさ」はモーツァルトみたいだ。モーツァルトの喜びのように際限がない。だから、楽しいときに読むと楽しいが(それこそ、脳がよろこびそうだが)、つらいときに読むと耐えられないだろうなあ、と思う。
 
 際限のない繰り返しは「半球全誌」という作品に特徴的にあらわれている。この詩は(この章は?)、「1(左半球前部)」「2(左半球後部)」という具合につづいていくのだが、そのなかで音が少しずつずれていく部分がある。

模様の同じ皿と皿がならんでいるんだよ、(1)

模様の似た皿と皿がなやんでいるんだよ、(2)

模様の地味な皿と皿がにらんでいるんだよ、(3)

模様の燃え上がった皿と皿がはらんでいるんだよ、(4)

模様の立ち騒ぐ皿と皿がなごんでいるんだよ、(5)

模様に模様を重ねた皿と皿がさらんでいるんだよ、(6)

 「皿と皿」も次々にずれていくのだけれど、それは「名詞」。ちょっと、わきにおいておく。
 動詞が「ならぶ」「なやむ」「にらむ」「はらむ」「なごむ」と変わる。ここまでは、あ、同じことをやっているなあ、とほとんど惰性で読んでしまう。一字一字、「意味」を考えたり「イメージ」を追いかけたりしない。「速読術」みたいに、ぱっぱっぱっとページをめくってしまう。
 で、「さらんでいるんだよ、」。
 えっ、「さらむ」なんて、「動詞」ある?
 私は辞書を引かないので、そんなことばがあるかどうか知らないが、私は、「さらむ」ということばをつかわない。「さらむ」でいいのかどうかも、わからない。
 わからないのだけれど、「1」から「5」まで、しつこく同じことを繰り返しているのだから、「6」の部分もその繰り返しであり、なんらかの「動詞」が動いているのだと考えてしまう。
 「繰り返し」のなかに「論理」を見出し、勝手に納得してしまう。
 これがねえ、
 「論理」の罠である。
 「論理」なんていうものは、嘘っぱち。「論理」ではないことも「繰り返す」と、そこに「論理」のようなものが見えてきてしまう。「論理」は、一種の惰性なのである。「論理」は「脳」が考えるようだが、「脳」などというのは人間の「肉体」のなかでいちばんずぼらな器官なのだと思う。すぐ手抜きをする。同じことを繰り返して、それでごまかしてしまう。
 変な言い方だが、(そして変な「比喩」だが、野村の詩を読んでいると、どうしても次のような「比喩」を考えたくなる)、セックスなんていうものは、もし「脳」がなければ、きっと大変なことになる。「脳」が「気持ちいい」と勝手に「ことば」を繰り返して、欲望をごまかしているところがあると思う。ほんとうはもっと気持ちがいいこと、信じられないことがあるのかもしれないけれど、テキトウに「気持ちがいい」で終わらせてしまうところがある。「脳」はテキトウに「よろこんで」、それでおしまいにしてしまうのだ。「真実」なんて、追求しない。それが証拠に、ひとは他人のセックスを知りたがる。読みたがる。自分で工夫するのが面倒くさいから、他人から「方法」を借用してしまう。「盗作」のように。ずるいでしょ? 自分の欲望、自分の官能なのに、自分では追求しないなんて、「脳」が「ずぼらがいいよ」とそそのかすからだ。

 あ、脱線したかな?

 「論理」は嘘っぱち。なんでも繰り返せば「論理」になる。そして、その「でたらめ論理」が「でたらめ」であればあるほど、「うーん、これが詩なんだ」と「よろこぶ脳」も出てくる。
 横書きの詩の「代数学」シリーズがそれ。


の4乗に
女の影の3乗をかけ
さらに女の2乗で割ると
女の影の5乗
に等しい
あるいは
身を細めては漕ぐこの世の果て
墓めく水よ
水めく墓よ

 前半の変な数学。ここでの「野村の論理」は「掛け算、割り算」というよりも「等しい」ということばに集約される。何かが何かに「等しい」。「等しい」に、人間は「論理」の「正しさ」を求めてしまう。そういう「癖」を野村は利用している。
 「等しい」ものなんて、ほんとうはないかもしれない。けれど「脳」はずぼら。個別性を識別するのはめんどう。配慮するのはめんどう。だから「テキトウなところで「等しい」にしてしまう。
 それに「あるいは」という「追加」で装飾してしまう。
 こんなことろに「真実」はない。そして「真実はない」という「真実」がある。
 「論理」とは、こういう同義反復のような「ごまかし」でできている。
 「脳」はめんどうくさがりやだから、その「ごまかし」を「論理」と呼んで、さらに「ごまかす」。「うーん、難しい論理だ、よくわからない。けれど、よくわからないから、きっと正しいんだ」と思ったり、あえて難しいことばをつかって「このことばの意味がわからないなら、私の論理がわかるはずがない。ゆえに、私の論理をわからないひとは間違っている」と威圧的になったりする。
 「論理」というのは、他人との関係をどう説明するかの「ゲーム」のひとつにすぎない。「ゲーム」だから、それが楽しければ、それでいい。「脳」がよろこぶなら、それでいい。
 という具合に、気楽に野村の詩集を読むといいのだと思う。
 私は目が悪いし、超論理的な人間なので(つまり、とてもめんどうくさがり屋やなので)、そんなふうに考えている。わからないことは、わからないままで、ぜんぜんかまわない。詩、なのだから。

 この詩集には、もうひとつ(もうふたつ?)、変な詩がある。縦書き、横書きともに「正午」というタイトル。サブタイトルもついているのだが、面倒なので省略。
 縦書きの方を引用する。

きみって
字と絵と

部ら 背 老ブデ  手

裏 ヤンぬ 無事へ
あん 子織る オフ    ろんで 腫れ

炉へ 手
盛ると
劣化ん 雲ぶる  ぬ 切って 葉らんルート
寿 ぼわっ

 何これ?
 わからない。わからないけれど、私は、ところどころに「フランス語」を感じた。「裏 ヤンぬ」とか「あん 子織る」「ぬ 切って 葉」「寿 ぼわっ」とか。「文字」ではなく「音」がフランス語っぽく聞こえる。「じゅすゅいじゃぽん、たこえあしゅはぽん、いかえあしゅじゅぽん(私は日本人です。蛸は足が八本、烏賊は足が十本です)」みたいな「日本語依存フランス語」ではなく、ここに書かれているのは逆の「フランス語依存の日本語」なのかな。
 「意味の論理」ではなく「音の論理」が動いていて、私のいいかげんな耳は(黙読なのに)、「フランス語だ」と判断して「ずぼら」を決め込むのである。フランス語を漢字とひらがなにして遊んでいると思って、それから先へとは進まないことにするのである。「おにば」と言われたら節分でもないのに「福は内」と日本語で言い返し、おしまい。

よろこべ午後も脳だ
野村 喜和夫
水声社
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伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』

2016-04-29 09:07:47 | 詩集
伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』(思潮社、2016年04月30日発行)

 伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』を読みながら、思わず棒線を引いた行が二か所。

菜の花は私と同じ丈だ     (「湖岸」)

私のいない坂道は    (「滔々と坂道」)

 ともに「私」を含んでいる。
 なぜ、気になったのか。

 「湖岸」から読み直してみる。

銅版のような湖がある
岸辺の菜の花の群れのなかにいて
菜の花は私と同じ丈だ
おかしいのか
うれしいのか
菜の花は交差しながら笑いかけてくる

 「銅版」は「銅版画」を彫る前の無傷の銅のことだろうか。その「無傷」が「無人」を感じさせる。その「無人」の風景にふいに「私」が入ってくる。
 二行目の「花の群れのなかにいて」の「いて」は「私」という主語を含んでいるのだが、「風景(菜の花の群れ)」の方が「主語」のように思える。「私」が省略されているせいもあるが、「私」を見落としてしまう。
 そこへ「私」が突然入ってくる。それで印象的なのか。いや、少し違う。「私」は入ってくるのだが、あいかわらず「菜の花は」と「菜の花」の方が主語である。「私」は控えめに引き下がっていく。この「控えめ」、私の不在、私がいるのに私がいない感じがなぜか、印象に残る。
 現代詩が「私は、私は、私は」と「私」を押しつけてくるからだろうか。

 「滔々と坂道」の方はどうか。後半部分。

のろのろと坂道を下っていく
バス停に着いたらやってきたバスに私をしまう
私のいない坂道は
なぜか明るい

 「私のいない坂道」は、「私が下ってきた坂道」。なぜ、そこにいないかといえば「私はバスに乗っている」からである。そして、「そこにいない」とわかるのは、「そこにいた」からでもある。
 ほんとうは「いる」。
 文法的には「いた」(過去形)なのだが、「いない」と現在形で書いてしまうのは、ひとはいつでも「現在」を生きているからである。「現在」から世界をみるからである。
 「いない」は「いた」ではなく、「いない私がいる」のである。

いないわたしがいる坂道は

 と書いてしまうと、文法的におかしいが、「いない私」が「坂道にいて」、その「いない私」が「バスに乗っている私」を見ている。
 現実的に言いなおすと、「バスに乗っている私」が「私が歩いてきた坂道」を見ているのだが、この「時系列」というか、「主語」のあり方が、どこかで交錯している。入れ替わっている。入れ替えて読むことを求めてくる。

 奇妙な言い方しかできないが、この詩集の「主語」は「いない私」なのだと思った。「いた私」、「いま思い出すかつての私」という「あり方」が「主語」なのである。
 「思い出す私」は「いま/ここ」にいる。けれど、それは「主語」ではない。「主語」は、「かつて/そこにいた私」であり、それが「いま/ここにはいない」という形で「私」を揺さぶってくる。
 そのときの「動揺」というとおおげさすぎるが、そのときの「揺さぶられる」感じが「主語」となって動いている。
 「いない私」を見ることで、「いま/ここに私がいる」のだが、「主観」の方は「いない私」といっしょに動いている。
 「いま/ここにはいない私」が「いま/ここにいる私」に対して、「いま/ここにいる私」もいつかは「いま/ここにいない私になる」と語りかけてくる詩、といえばいいのだろうか。

 「まだ空はじゅうぶん明るいのに」の全行。

まだ空はじゅうぶん明るいのに
フェニックスも松も
影をなくしている
それでこんなに景色はしずか
海沿いのホテルの庭の
遊具の動物たち
ライオン、パンダ、ウサギ、カメ、イルカがみえる
五つでゆるやかな弧をえがいている
このしずけさにふさわしいものはこうしたもの
小さいひとを驚かさないようにいつも先にぼんやり驚いているような
ライオン、パンダ、ウサギ、カメ、イルカ
いちども命がなかったもののおだやかさで
この星にいて

 「しずか」と「いま/ここにいる私」は、実は「いま/ここにいない」という「悟り」のような形で立ち止まっている。
 「影をなくしている」は「命をなくしている」、「命がなかったもののおだやかさ」になっている、ということだろうか。
 遊具の動物たちは、「いちども命がなかったもの」と呼ばれているが、わざわざそう呼ばれているのは、動物たち自身には「命がある」からである。「命がある」のだけれど、そういう「命」を否定して、ないものとして、「いま/ここ」にある。「命がある」のを知っていて「命がない」と呼んでいる。そしてそれを「おだやか」と結びつけてとらえている。「おだやか」は四行目の「しずか」と重なるだろう。

 うーん。

 でも、それでは「私」が詩を書くのはどうしてなのだろう。伊藤は何を主張したくてことばを書いているのだろう。

この星にいて

 この最後の一行が伊藤の書きたいことかもしれない。
 「いま/ここにいる私」はやがて「いま/ここにいない私」になる。そのときも、しかし「この星」はある。「この星」があり、それがあるかぎり、そこには「いま/ここにいない私」が「いる」のだ。
 どこかで時間を超越した「永遠(普遍)」を見ている視線がある。そういう視線が詩集全体を貫いている。




まだ空はじゅうぶん明るいのに
伊藤 悠子
思潮社
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野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』

2016-04-28 08:55:20 | 詩集
野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(水声社、2016年04月15日発行)

 野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』も縦書きと横書きの詩で構成されている。縦書きの方は「AM:」、横書きの方は「PM:」でまとめられている。
 縦書きの方は30ページまで、横書きの方は40ページまで読んだところ。
 途中だが、思いついた感想を書いておく。
 私は目が悪いので、最後まで読むかどうかわからない。
 一度、ある人の詩集について、こんなふうに途中まで呼んで感想を書いたところ、「途中で読むのをやめて感想を書くのは許せない」と叱られたことがある。そのひとからは、別の短い詩について感想を書いたところ「読むのは勝手だが、感想は書くな」とさらに叱られた。
 ふーん。
 「論文」や何か「結論」のあるものならば、最後まで読まないと「感想」がとんちんかんになるかもしれない。前半の部分は否定するための「材料」ということがあるかもしれない。しかし、詩は、(あるいは他の文学、小説なども)、最初から最後まで読まないといけないということはないだろう。途中途中を読んで、あれこれ思えば、それで充分だろう。だいたい最後まで読んだときの「感想」が正しくて、途中までの「感想」が間違っているというのも、奇妙な考え方だ。途中まで読んで書いた感想がいちばんいきいきしている。最後まで読んでしまうと、読み疲れで「感想」がいいかげんになるということだってある。
 
 余分なことを書いてしまったが。
 
 「AM:」を30ページまで読んで思ったことは、前の詩集『久美泥日記』(書肆山田)について書いた「あるいは」ということばをつかった多様性がここでもおこなわれているということ。(23ページから24ページにかけて。)
 同じことを書いてもしようがないと思うが、また書く。書いているうちに、少しは違ったことが書けるかもしれないと思う。なるべく、前回書かなかったことを書きたい。
 「第一パート(彼あるいは私)」の最後の部分。

シセツに静かに無脊椎が降る、

あるいはこうだ、

シセツに静かに無脊椎が降る、
シセツに無脊椎に静かが降る、
静かに無脊椎にシセツが降る、
静かにシセツに無脊椎が降る、
無脊椎に静かにシセツが降る、
無脊椎にシセツに静かが降る、

 「あるいは」は各行のあいだに省略された形で存在する。「あるいは」によって、それが増殖していく。でも、ここには何が書いてある? 「意味」を特定できることが書いてあるだろうか。そもそも、「シセツ」「静かに」「無脊椎」ということばが「降る」という動詞の前で入れ替わることで、「意味」や「内容」が「変わる」ということはあるのか。
 この「問い」の立て方は、「正しい」とは言えないなあ。何が「正しい」ということが問題かもしれないけれど。「多々示唆」を求めることが間違いということもあるかもしれないし。
 だいたい「あるいは」ということばをつかったときから、「正しい」ということは、もう存在しない。「あるいは」は「どっちでもいい」といういいかげんを含む同時に、「どっちでもなければならない」という必然をも要求してくるものなのである。入れ替えが可能なのではなく、入れ替えを必然として読み直さなければならないのが「あるいは」なのである。
 「あるいは」を「あるいは」をつかわずに書くとどうなるか。
 8ページから9ページにかけての部分。

巌がみえた、巌がみえた、

その話をたどたどしくととのえ、訂正し、省略し、つけ加え、その結果いくぶんかは否められ、またいくぶんかはなまなましさを失ったものとして彼に送り返していった私と、それを聞いてあるときは頷き、あるときは拒み、またあるときは笑いやあくびや無表情でそれをつつみ隠そうとした彼とが、いわば物語ることを共犯性を軸に際限もなく渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、場合によっては軸に沿ってのぼりつめ、突きたち捩れ、絡みあいつつスパイラルを成しさえしたのだった、
 
 「ととのえ、訂正し、省略し、つけ加え、」は「ととのえ、あるいは訂正し、あるいは省略し、あるいはつけ加え、」であるし、「渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、」は「渡りあい、あるいはかさなりあい、あるいは転化しあい、あるいは帰還しあい、あるいはあとずさりしあい、」である。ここには「あるいは」は省略されている。
 別のことばというのは「あるときは頷き、あるときは拒み、またあるときは笑い」の「あるとき」のことであり、その「あるとき」は「あるいは頷き、あるいは拒み、あるいは笑い」であると言い換えが可能である。言い換えると「あるとき」が「あるいは」であることが明確になる。
 と、いいたいのではない。
 こういう「目先」の「多様性」は、どうでもいい。

いわば物語ることを共犯性を軸に際限もなく渡りあい、

 ここに出てくる「共犯性」、あるいは「共犯」ということばこそが、「あるいは」なのである。
 ひとつの視点でとらえた「世界」へ、そのまま入っていくのではなく、さまざまな言い直しで語られる「世界」へ、読者は入っていく。そのときどのことばを通って入っていくかは読者に任されている。どのことばを通ろうが、そのことばを「通る」ということが「共犯」なのである。
 「世界」を分け持ってしまう。
 「あるいは」と言い換えるときから「共犯」が始まる。「あるいは」を通って「一つ」が「複数」になり、この「複数」が「他者」を要求する。「ひとり」が同時に「複数」のことをできない。「複数」のことを同時にするには「複数の人間(他者)」が必要である。その「複数」が「ことば」を通して「共犯関係」をもつ。言い換えると、野村のことばは「共犯者」になることを要求してくる。その要求が「あるいは」に含まれている。
 「シセツに静かに無脊椎が降る、」のさまざまな言い換えは、単なる言い換えではなく、言い換えることで「共犯」を広げているのである。「どっちでもいい」のではなく「どっちか」を選ぶことで、そのままことばの犯罪(詩)に組み込まれ、加担してしまうことになる。
 「論文」ではないから、そこには「結論」はない。「結論」はないかわりに、「共犯」(犯罪への加担)がある。犯罪者になりたくなかったら、ことばを読まないという方法をとるしかない。ことばを書かないという方法をとるしかない。
 30ページ以降「共犯」ということばが出てくるかどうかわからないが、たぶん出て来ないだろう。「キーワード」というのは筆者の「肉体」のなかに深く組み込まれていて、ほんとうは表に出て来ない。何かの拍子に、あることがうまくいえないときに、しかたなしに出てくるのが「キーワード」である。
 で、共犯であるから、

シセツに静かに無脊椎が降る、
シセツに無脊椎に静かが降る、
静かに無脊椎にシセツが降る、
静かにシセツに無脊椎が降る、
無脊椎に静かにシセツが降る、
無脊椎にシセツに静かが降る、

 誰が(何が)主語、誰が(何が)述語であるかは、関係なくなる。「静かに」という「形容動詞」さえ「主語」の位置にくることもある。
 ここで私の「欲」を言えば「静かに」は「形容動詞」なのだから「静か」という「名詞」に変化するのではなく、「動詞」に変化する方がもっと「共犯」関係が複雑になって楽しくなる。
 だから、私はひそかに「静かに」を動詞にしながら別のバージョンも考えるのである。さらに「シセツ」や「無脊椎」を「動詞」に言い換えるとどうなるかを含めて、「共犯」を楽しむ。具体的にどうなるか……というのは、これは、まあ、私の秘密。「共犯」のふりをして、夢想のなかで「主犯」になって楽しむ。

 「PM:」の方では

「午後の/脳/の/蝋の」が「「午後の/脳/の/牢の」「午後の/脳/の/聾の」「午後の/脳/の/雹の」「午後の/脳/の/塔の」という具合に「韻」を踏んで共犯関係をつくっている。
 「あるいは」は、どちらかというと「論理的」。「韻」の方は「論理」を無視した「飛躍/切断」。「切断/飛躍」が鮮明という点では「韻」の方法の方が詩なのだろう。しかし、私は「あるいは」の方が野村のエネルギーが充満しているようで好きである。
 それに、私は「韻」というものが、とても苦手で、あることばがあることばと「韻」を踏んでいると考えることが嫌いなのである。「韻」が好きなひとは、「PM:」がおもしろいかもしれない。






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野村 喜和夫
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最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

2016-04-27 12:30:23 | 詩集
最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア、2014年05月17日発行)

 最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』には縦書きの詩と横書きの詩が混在している。私のブログでは、どちらも横書き表示、紙媒体(限定4部)では縦書きにしか表示できないので、原文は書籍で確かめてください。

 「星」という作品のなかほどから後半にかけて。

きみが大切って気持ちにどれぐらいの意味があるんだろう
好き 終わったあとでその気持ちだけ残ったら きっと夕日に吸収されて
地球の上をまわるだろう
ときどき私やきみという存在が無駄で あいだの気持ちだけが本当に世界に必
要だったものなんじゃないかと思うよ 土が空気を吸っている 町から少し離
れた川べりで きみのあの日の言葉がいまも、ころがって、水をなでている

 「気持ち」ということばが出てくる。
 この詩の書き出しは「好きと嫌いと優しいかっこいいと素敵とまたねで出来上がった私たちに」。「好きと嫌いと優しいかっこいいと素敵とまたね」を要約(?)したことばが「気持ち」ということになるかな。
 この詩に限らず、この詩集全体に、そういうことばがしきりと出てくるのだが。
 その「気持ち」はこの作品のなかだけでいうと、

あいだの気持ちだけが本当に世界に必要だったものなんじゃないか

 という形で出てくる。「あいだ」というのは「私やきみという存在のあいだ」である。そうすると、ちょっとややこしくなるが、「あいだ」は「存在」ではない、ことになる。「存在」が「存在しない」ところが「あいだ」。「存在しない」から「無」と読み替えてもいいかな?
 しかし、もし、その「無」に「気持ち」が存在してしまうと、それでは「あいだ」はどうなってしまうのか。
 「無」のまま?
 それとも「存在」の「私やきみ」とは違う何か?

 ちょっと読み返してみる。「気持ち」は、どう、つかわれているか。

きみが大切って気持ちにどれぐらいの意味があるんだろう。

 「気持ち」は「意味」と同義になるのだろうか。「意味がある」が同義になるのか。
 そうだとすると、「世界に必要だった」ものというのは「意味」になるかもしれない。「私やきみ」ではなく、「存在」ではなく、「意味」が必要だった。
 この「意味」の反対(対極)にあるものは「無駄」ということになるのかな? 「私やきみ」は「存在」であり、「無駄」である。「無駄」であるから「必要はない」。必要なのは「意味」だということになる。

 「意味」というのは、どういう形で存在しうるのかな?
 「私やきみ」を否定して存在する。「私やきみ」を超越して存在する。
 これを考えることは、ちょっと難しい。

 でも。
 ここで「意味」をもう一度「気持ち」と言い直して見るとどうだろう。
 「気持ち」は「私やきみ」を否定して存在する。「私やきみ」を超越して存在する。「私やきみ」を裏切って存在する。「気持ち」は「私やきみ」を否定する。超越する。裏切る。
 これは、意外と、ありうるのでは。
 あるいは、ありうるではなく、「気持ち」は「私やきみ」を否定し、超越し、裏切るという形が、いちばん「なまなましい」のではないだろうか。
 「好き」なのに、「好き」なはずなのに、「嫌い」になってしまう。「嫌い」と言ったくせに「好き」になってしまう。別れたくないのに別れてしまう。別れたいのに別れられない。
 この「矛盾」が「気持ち」。

 そうすると「矛盾」が「意味」になってしまう。
 「矛盾」はまた「無駄」とも言い換えうる。「矛盾したことをしていては、時間の無駄」。どっちかに決めて進まないことには「意味がない」「意味」は「矛盾」しないもの、「論理」であること。

 何か、おかしいね。
 どこで間違えたのかな?

 まったく逆に考えてみることもできるかもしれない。「私やきみ」が「存在」しているのではなく、「あいだ」だけが「存在」と呼べるたしかなものであって、そのほかは、つかみどころのない「不確かなもの」。
 あらゆるものは「不確か」なのだが、それが「あいだ」という「場」で「確かなもの」に変化しながら、瞬間瞬間にあらわれてくる。「好き」とか「嫌い」とかいう「気持ち」が「あいだ」にあらわれてきて、その「気持ち」といっしょに「私やきみ」が「存在する」。「好き/嫌い」が「私やきみ」に「なる」。「私/きみ」を生み出す。存在させる。そうとも読み直すことができる。
 「私/きみ」を「生み出す」という「運動」だけがある。「あいだ」に存在するのは、その「運動」だけである。「生み出す」は「生まれ出る」。「生まれ出る」には「生まれ出る場」が必要。「生み出し」を邪魔しない「場」、「無」としての「場」が必要。それが「あいだ」。

 わからないね。

 わからないけれど、わかることがある。
 「私/きみ」「気持ち」は衝突しながら「無駄」や「無」になったり、「存在」になったり「大切」になったり「意味」になったりする。
 それは「ひとつ」に断定できない。「意味がある」と言ってしまうこともできない。「無駄である」と言ってしまうこともできない。

きみのあの日の言葉がいまも、ころがって、水をなでている

 ここに書かれている「いまも」が重要かもしれない。「あの日」は「過去」。「過去」であるものが「いまも」存在する。存在するとき、それは「過去」ではない。「いま」である。「ころがって、水をなでている」というのは「比喩」だが、その比喩は「現在形」で語られる。「過去」は「いま」、ここに呼び出されている。あるいは、「生み出されている」。「生まれている」。
 こういう言い方は「矛盾」してしまうが、その「矛盾」を受け入れる「場」が「世界」なのだろう。
 ことばは、いつでも、何かを「生み出す」。「生まれ出る場」が詩かもしれない。

 あ、何を書いているか、わからないね。

 詩集のタイトルとなっていることばを含んだ詩「青色の詩」を読んでみる。巻頭の作品。そこへ、もどってみる。

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 最初の二行がとても刺激的だ。
 「都会を」と書かれているが、「都会」は代替可能な「比喩」だろう。「誰か」でもいいし、猫でも、河でもいいかもしれない。「好きになる」というのは「生きている」から。つまり「気持ち」が動くのは「生きている」から。しかし、「気持ちが動く」ことを最果ては「自殺したようなもの」という。
 なぜだろう。
 「気持ち」は「私」を裏切って動くからだ。「好きになった」の「なった」が問題。それまでは「好きではなかった」。つまり「好き」という「気持ち」が生まれてきてしまった。それは、「好き」という「気持ち」が、生まれた瞬間から「主導権」をにぎって「私」を動かしていく。「好き」という気持ちが生まれるまえの、それまでの「私」はそれに翻弄される。もうついていくしかない。それまでの「私」は何もできずに、つまり死人になって、新しい「私」に引きずり回される。
 「塗った爪の色」というのは、「いままでとは違った爪の色」。「新しい爪の色になった」と読み替えると「好きになった」と重なる。「新しい気持ち/好きになったときの好きという気持ち」。それは「生まれてきてしまった」。だから「体の内側に探してもみつかりやしない」。もう体の「外側」を動いている。
 そうなのだ。「気持ち」は「体の内側」にあるのではない。「体の外側」、「私やきみ」の「内側」にあるのではなく、「私やきみ」の「あいだ」にある。「あいだ」を動いている。そして、その動きが「世界」を集めてくるのである。まわりに「必要」なものをあつめて「世界」にしてしまうのだ。
 「好きになった」「気持ちを生み出した」その瞬間、最果ては「世界」の秘密に触れたのだ。「あいだ」が「世界」だと知ったのだ。
 その「あいだ」とは、どんなものだろう。
 最果は詩人の直観で瞬間的につかみ取る。

夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 「夜空」の「青色」が「あいだ」を象徴するものである。いや、「夜空」や「青色」は「あいだ」を明らかにするための「比喩」であって、「あいだ」とは「最高密度」のことである。「あいだ」というのは、そこに何もないから「あいだ」なのだが、それが「密度」として生まれてくる。「気持ち」が「最高密度」になったとき「世界」は最果と一体になる。「最高密度」に最果は「ほんとう」を感じるということだ。
 「あいだ」は、この詩ではもう一度言い直される。「間」という漢字で書かれているが……。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

 ここでの「間」は「夜空」とは違って「空間」ではなく「時間」である。
 「かわいそう」「愛さない」「嫌い」「恋愛」ということばが衝突している。「気持ち」の衝突によって、「間」はどんどん広がる。「一体感」がない。
 しかし、そうとも言えない。
 愛する誰かといっしょにいる、一体感がある、という形で「世界」はあらわれてこないが、それでもそこに「きみ」はいて、その「きみ」の気持ちは「最高密度」でぶつかりあい、「間」を広げる。広がっていくときの、その「最高密度」こそが「世界」なのだから、それが「愛」ではなく、「嫌い」であってもいい。「嫌い」のなかに「最高密度」があるなら、それはそれで「最高密度」の「一体」なのだ。
 「気持ち」が生まれ、それが動いていく。「気持ち」の動きが「時間」をつくっていく。濃密にしていく。その濃密のなかを生きている。

夜空はいつでも最高密度の青色だ
最果 タヒ
リトル・モア
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利岡正人『危うい夢』

2016-04-26 09:15:22 | 詩集
利岡正人『危うい夢』(ふらんす堂、2016年03月24日発行)

 利岡正人『危うい夢』は何を恐れ、何を回避しようとしているのか。
 「夜に滲む」の書き出し。

タンクいっぱいに水を張って
不安定な眩しさが充溢する

 この二行は魅力的だ。タンクから水がこぼれそうなくらい、水がいっぱいに張ってある。こぼれそう(充溢しそう)。それを「不安定」と言い、さらに「眩しさ」と言い直す。この「眩しさ」が魅力である。言い直すことでまぎれこむ「肉体」が生々しい。
 タイトルに「夜に滲む」とある。タイトルとは無関係に「昼」の光景と読んでもいいのだが、タイトルにしたがって「夜」の光景と読むとき、「眩しさ」が「矛盾」してくるのだが、その「矛盾」が意識をひっかきまわす。暗闇のなかで、水がかすかな光をあつめて光っている。反射なのだが、水の内部から「充溢」してあふれてくるもののようにも感じられる。それをつかみ取る「肉体」が生々しい。
 しかし、この二行が、

水位に無関心な
首筋の脂汚れ

 とつづいていくとき「眩しさ」が消えてしまう。「肉体」が消える。「水位」は「不安定」「いっぱい」「充溢する」を含むのだが……。
 ここでは「動詞」があいまいになっている。「無関心な」という形容動詞は「関心を持たない」という動詞に、「汚れ」は「汚れる」という動詞として読み直すことができるかもしれないが、どうもおかしい。「脂汚れ」ということばから「脂」が「肉体(首筋)の内部から充溢してきて、汚れる」という具合に読むこともできるが、私の「直観の意見」では、ことばが「異質」なものに変わってしまったように思えるのだ。
 「夜の水の眩しさ(不安定さ)」に目をとめたということは、それに「関心」があるということ。その「関心」へ向かって、ことばにならないもの(肉体そのもの)が動いていくのが詩だと思うのだが、その肝心のことばにならない何かに対して「無関心」と拒絶してしまっている。いや、拒絶という積極的な感じではないね。積極的ならいいのだけれど、「無関心」。どうも、何かを避けている、回避している。かかわりになりたくない、という感じ。「頭(精神)」をつかって、肉体を遠ざけている感じ。
 「首筋」という「肉体」が出てくるのだが、ぜんぜん、「肉体」を感じることができない。「わたし(話者/利岡)」を感じない。

夢の包布は一夜漬け
漂白する
そのたびに繊維を損傷させて

 この二連目も、不思議な魅力を持っている。「一夜漬け」というのは一晩、タンクの水につけておく、ということだろうか。タンクの水はただの水ではなく「漂白液」なのだろう。「夢の包布」は「包布」が「夢」なのか、「夢」をつつむ布なのか、よくわからない。両方に読んでみる必要があるだろう。
 「漂白」は「美しくする」ことだが、それは「繊維を損傷させること」と、ここにふたたび「眩しい」に似た「矛盾」が登場し、そこがおもしろい。 「繊維」は「包布」の言い直しであり、それが「損傷させる(損傷する)」という動詞と結びつくとき、遠くから「肉体」の「損傷」が近づいてきて、重なる。
 この「肉体」の動きが先に書いた、「夢」と「包布」の、断定できないことばを刺戟する。どう読んでいいのか、いっそう、わからない感じにする。
 ことばの関係を「未連絡(こんなことば、あるかなあ)」にする。(はやりのことばなら、「分節以前」にする、ということか。「未生」の状態にするということになるかな?)
 ここから、いままで存在しなかった「ことば」を「ことば」として生み出していくためには、私は「肉体」が必要だと思う。
 しかし、利岡は「肉体」を書かない。

濁り水が排出される
明るい時間帯に我を忘れ
ブラシでこすり上げた側溝に

「タンクの水」は「漂白した汚れ」でいっぱいになり、「充溢する」ではなく「排出される」になる。その「排出される」という表現には「排出する」ときの「主語」があるはずだが、利岡は、受け身の「排出される」という形のなかへ「主語(肉体)」を隠してしまう。
 こういう手法(ことばの運動)は、それはそれで徹底すればいいのかもしれないけれど。そうであるなら「我を忘れ」のように形で「我」を出すことはないだろう。「我」を「忘れる」という形であるにしろ、ことばとして登場させるなら「我」の「肉体」と、その運動を、もっとことばに組み込まないと何が動いているかわからない。

 私は読み方を間違えているのかもしれない。だから、「誤読」さえできない。

 もう一篇、「計測中」という作品に、少しだけ触れてみる。

朝靄のなか寸法を測る

深い眠りについている
無防備な家々の窓に
板を打ちつけ
目張りをする

 この書き出しは「寸法を測る」が「板を打ちつけ/目張りをする」へと移行しながら、とても美しい生活を描きだす。整えられた暮らしの力、「肉体」でつかみとる「思想」の強さを感じさせる。「肉体」の運動が、そのまま「思想」になる強さがある。
 そのあと、

折れ曲がった釘とは別に
目の前の壁に近づき過ぎて

 と、とても魅力的な行があらわれる。折れ曲がった釘を引き抜いて、伸ばして、もう一度釘を打つという「行為」を想像させる。釘を抜くときは釘を打つときよりも顔が釘に近づく。目が釘に近づく。その「近づく」という動詞が「壁」を呼び込むところは、とてもリアルだ。ほんとうに板で目張りをしたことがあるんだろうと感じさせる。
 そういうリアルな「肉体」の運動のあと、詩は最終連で、一気に転調する。

まるで沖合いを漂う
言葉を計測中の
半開きの唇

 嵐の日、陸では家の目張りをしている。あるいは補強をしている。沖の舟では誰かが何かを叫んでいる。その姿(手振り)や大声を出していることはわかるが、声は聞こえない。唇が、ことばを探している。まるで夢のなかで、叫んでいるときのように、「肉体」はあるのに声だけが存在しない。
 こういうときは、叫ぶので、その「叫ぶ」という動詞は「唇」を「半開き」ではなく、「全開」にするとは思うのだが……。
 で。
 こういう具合に、奇妙な「印象」がふいにあらわれて、どうもはぐらかされたような気持ちになる。
 何か書きたいものがあるはずなのに、「肉体」をあらわすことを避けているために、ことばが「精神/抽象」のなかだけを動いているように感じてしまうのだ。
 ときどきおもしろいのに、全部読むと、妙にしらけた退屈さのなかにいる感じがするのである。利岡に「会えた」という感じがしない。もっと「肉体」を大切にすると「会えた!」という感じの詩になるのになあ、と思う。

危うい夢
利岡 正人
ふらんす堂
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夏木久の俳句、中島行矢の短歌

2016-04-25 09:41:32 | 詩(雑誌・同人誌)
夏木久の俳句、中島行矢の短歌(「福岡市文学賞受賞記念作品集」2016年03月19日発行)

 夏木久の俳句は音がおもしろい。

ガンダムが六方ふめばはなふぶき

 「ガンダムが」は五音か。「六方ふめば」七音か。「文字(ひらがな)」で書けば五文字、七文字になるかもしれないが、私の感覚では四音、六音である。「ん」や「っ」は音には含まれない。含むとしても「半音」の感覚かなあ。
 音が短い分だけ、スピードが出る。これが「現代的」。何と言えばいいのか、音のひとつひとつを「味わう」という感じとは違う。「一音の響き」を肉体のなかに拡げる感じではない。むしろ「音」のぶつかりあい、衝突の瞬間に輝く「和音」のようなものを感じさせる。その「和音」はぱっとあらわれて、ぱっと消えていく。そこが「現代的」。
 「濁音」が効果的なのかもしれない。

ああこれが炬燵の作用反作用

 「ああこれが」の「が」の音が、とても「現代的」。私は古い人間なので助詞の「が」は「鼻濁音」で読んでしまうが、夏木は違うだろう。破裂の濁音だろう。「肉体」の内部へ吸収されていく「音」がなく、全部、「肉体」の外へ出る。「ああ」という音の解放が「が」で頂点に達する。「これ」という「あ」を含まない音を経たあとで「が」のなかの「あ」を破裂される。
 ここも文字では五音だが「ああ」の重複があるために「四・五音」くらいの印象だが、それがいっそう「が」を輝くしく炸裂させているかもしれない。
 「作用反作用」と同じ音がつづくところ、さらに「ん」の音「う」の音を含む部分が「音」そのものの数え方を難しくさせている。短くさせている。それがおもしろい。
 全体を「あ」の音が貫いているのも、おもしろい。特に「炬燵」が効果的だなあと思う。「こたつ」の「た」のなかの「あ」。破裂する子音にはさまれているのだが、その窮屈感が「が」の強い輝きと響きあっている。凝縮された「あ」の力が輝いている。
 ついでに書いておくと、「炬燵/こたつ」の読み方。「つ」の音は、普通のひとはどう読むだろうか。夏木はどう読むだろうか。私は「つ」のなかの「う」の音は声にしない。子音しか発音しない。そういうことも、「こたつ」の「た」の「あ」を強調する。

小春日を輪護謨の円のゆるさほど

 この句でも濁音が効果的だ。「円」は「えん」と読ませるのだと思うが、その「ん」の無音の効果は、もう何度書いたこと。促音、撥音、拗音などは、どこか「半端」な感じがする。それが濁音の半端とぶつかりながら、不思議な音楽になる。
 「ん」「っ」「う」は他の音よりちょっと短い感じ。「濁音」は「が」の「濁点」が追加されている分だけちょっと長い感じ。その「半分短い+半分長い」感じのバランスがおもしろいのかなあ。
 この句では、それとは別に「輪護謨」がおもしろいなあ。「わごむ」と読ませるのかな? 「わごむ」と私は読んだが、あえて漢字に即してひらがなかすれば「わごも」になる。「む」ではなく「も」。でも、この「も」「む」は、「炬燵(こたつ)」の「つ」と同じで子音は発音されない。発音されてもほとんど聞こえない。子音が発音されないことで「も」「む」は同じ音になる。
 昔、「うま」を「んま」と書いたのに似ているかも。「うま」の「う」はほとんと発音されないから「ん」と聞き間違える耳のいいひとがいたのだ、昔は。「意味」からことばをとらえるのではなく、「音」を直接文字にしてしまう耳のいいひとが昔はいたのだと思う。「意味」という「情報」でことばを整理せずに、音のままことばをつかみとるひとがいたのだ。
 夏木の肉体のなかには、そういう音が生きているのだろう。



 中島行矢の短歌は、リズムが古典的である。「読みごたえ」がある。私は俳句も短歌も(他の文学作品も)、声に出して読むわけではない。黙読派なのだが、中島の短歌を読むと、ひとつひとつの音が音を主張しているのを感じる。「声」となって空間に広がっていく、広がりながら自己主張していると言うか、存在を告げている。ことばのうねりも、その自己主張を支えている。

あんぐりと口あけながら口中に雪ふらしめしとほき日のこと

 「口」ということばが重複している。昔なら、こういう重複は避けたかもしれない。けれど、いまは忙しい時代なので、逆に反復することで「音」をはっきり存在させるしかないのかもしれない。反復することで「うねり」の輝きが見えるのである。

ひとつだけまづ放たれし野辺の火の風吹けば風に隊列をくむ

 この「風」も同じ。

につぽんの壷に嵌りし蛸といふ蛸はかなしゑモーリタニアの蛸

 この「蛸」も同じ。いや、同じ以上か。「蛸といふ蛸」がとてもいい。多くの蛸という意味、複数の蛸というよりも、これは反復だな。「蛸」という名詞がただ反復されているのではなく、「壷に嵌まる」という動詞そのものが反復されている。
 最初に紹介した「口」も単なる名詞ではなく、「口をあける」という動詞、肉体を含んでいる。「風」も「風が吹く」の「吹く」を含んでいる。つまり、いつも動詞として肉体を刺戟している。その刺戟(肉体感覚)が音を押し広げている。ゆったりさせているのだろう。
 「蛸」にもどると。
 「につぽん」ではじまり「モーリタニア」で終わる。その蛸は、「壷に嵌まる」という動詞で結びつく。かけ離れたものが「ひとつの動詞」でつながる。ここに、「いのち」の不思議さも、私は感じる。「いのち」と書いてしまうのは、「動詞」は人間を理解するだけではなく、生きているものすべてを理解するときの「通路」のように感じるからでもある。

歌集 モーリタニアの蛸 (ポトナム叢書)
中島 行矢
本阿弥書店
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アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「レヴェナント 蘇えりし者」(★★)

2016-04-24 22:54:12 | 映画
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 アメリカの自然と光 レオナルド・ディカプリオ

 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」から一転、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは人口の光(舞台)から屋外(自然)へとカメラを移し、そこで長回しをしている。
 冒頭、水が流れている。この水が、しかし、どこへ流れているのかよくわからない。手前(観客席)に向かって流れているのか、左へ流れているのか、奥へ流れているのか。見方によって水の流れは変わるし、自然は広いから、方向を「どこ」と決めてみたって始まらないのかもしれないが。その水の流れだけでさえも、光はさまざまに揺れ動く。変化が、激しくて、なおかつどこまでも連続しているので、目の悪い私は、その動きを見ているだけで酔ったように気持ち悪くなる。
 あ、困った。
 冬の山岳地帯なので、色は少ない。もっぱら「灰色」のグラデーションの変化がつづく。現実にはもっと暗い色なのだと思うけれど、映画になるように、いくらか明るくなっているかもしれない。それでも、暗い。暗い光の変化が、この映画の「主役」といっていいくらいだが。
 あ、困った。目が悪い私は、ほんとうに疲れてしまった。
 日本の都会では見ることのできない「本物の雪の色」の変化、山の空気(空気に含まれる水分の濃淡)、それがつくり出す遠近感は美しいし、下から見え出る樹木の美しさ(日本の木々のようにねじ曲がっていない)にうっとりしてしまうし、空の変化にも思わず感嘆の声を上げそうになるが。
 あ、困った。
 こんな「本物」の自然のなかでは、人間のやっていることはたかが知れている。人間のドラマが描かれているはずなのに、ぜんぜん、人間に目が行かないのである。レオナルド・ディカプリオは念願のアカデミー賞(主演男優賞)を受賞しているが、「演技」に対してというよりも、まるで「功労賞」のようなものだね。ここでやっているのは「演技」ではない。
 だいたい「演技」というのは「嘘」であり、その「嘘」の魅力は「真似したい」という欲望を刺戟するかどうかである。
 たとえば「ゴッドファザー」のマーロン・ブランド。口に綿をつめこんで、何やらあいまいな発音でしゃべり、手をゆっくり動かす。猫の背中をなでる。その姿が、漆黒の暗闇のなかでかすかに浮かぶ。そういうシーンで、家でやってみたくなるでしょ? あるいは「セッション」の教授。「リズム/テンポ」を厳しく数えながら、「遅い」「速い」とかなんとかわめきながら平手打ちをバシッバシッ。かっこいいよなあ。
 女優で言えば、そうだなあ。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。「印象的な都市は?」と記者に質問されて「どの都市も……」といつもどおり言おうとして「ローマ」と言い直す瞬間とか、スクーターに乗ってはしゃぐシーンとか、椅子をふりまわすシーンとか。
 子役だって、そう。「木靴の樹」のミネクの「水のなかには生き物がいっぱいいるよ」と父親に話すシーン、一生懸命「L」の文字を書くシーン。「みつばちのささやき」のアナが浮浪者に「ほら」と林檎を差し出すシーン、朝の食卓で父親が懐中時計のオルゴールを鳴らしたとき、はっと顔をあげるシーン。
 そういうのって、やってみたいよなあ。自分で真似して、そのとき役者のなかで動いていた感情を体験しなおす。ストーリーのなかに入り込む。それがないと「演技賞」とは言えない。
 この映画で、ディカプリオのどの「演技」を真似したい? 死にかけて、生き延びて、匍匐前進するところ? 馬のはらわたを取り出して、そのなかで寒さからのがれるシーン? 咽の傷を焼いてふさぐシーン? うーん、真似したい気持ちになれないなあ。瀕死の状態だったのに、食べ物もなく、冷たい川のなかにも飛び込んで、こんな具合に生き延びられるわけがないなあ、嘘だなあ。「映画」とはいえ、あまりにも嘘っぽい。
 本当の話、らしいけれど。(どこかで、ちょっと聞いたことだけれど。)
 だいたい明るさと軽さ、あるいは透明感がディカプリオの「本質」なのに、こんな暗い映画は、どうも似合わない。これは私の偏見かもしれないが、「ブラッド・ダイアモンド」あたりから、ディカプリオは「演技」をしすぎて、つまらない。
 アメリカの山岳地帯の冬の空気と光を知りたいひとは見てください。
 あ、一か所、銃を撃ったあと、その音の影響で雪崩が起きるシーンがあって、ここはすごいね。それをそのまま撮っている。遠くではあるんだけれど、その雪崩に動じずに演技も撮影もつづいているシーンは、「わっ、リアル」と叫んでしまういそうだった。
                        (天神東宝5、2016年04月24日)





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小池昌代編著『恋愛詩集』

2016-04-24 09:17:28 | 詩集
小池昌代編著『恋愛詩集』(NHK出版新書、2016年03月10日発行)

 他人の書いた詩の批評、感想に驚くことがある。
 ヤニス・リッツオス「井戸のまわりで」(中井久夫訳)が『恋愛詩集』に含まれていることに、私はまず驚いたが……。

女が三人、壷を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも止まっている。
スズカケの樹の後ろに誰か隠れている。
石を投げた。壷が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が一面に輝いて我々の隠れているほうを見つめた。

 これが、リッツオスの詩。

なんて不思議な明るい詩か。こんな水、見たことない。見つめるこちらを見つめているなんて。疑うことを知らない「瞳」のようではあませんか。奇跡と呼ぶにはあまりに素朴でユーモラス。同時にわたしたちを深く驚かす、おごそかで綺麗な水。井戸のまわりで起こった「事件」。

 これが小池の感想。
 「見つめるこちらを見つめているなんて。」この「感想」が「恋愛」を語っている。「瞳」が「恋愛」を語っている。
 そうか。「壷」は「比喩」だったのか。

 季節は、秋だな。「大きな赤い葉っぱ」は「スズカケ」の枯れ葉だろう。その枯れ葉が女の髪、肩に落ちてきて、止まっている。スズカゲの後ろに「誰か」が隠れているのだが、このスズカケと井戸の距離、女たちとの距離は、そんなに遠くないだろう。どちらかというと、「手の届く」感じ。遠く離れていたらスズカケの葉は女の髪に降りかからない。
 隠れている「誰か」とは誰だろう。もちろん、男だろう。その誰かが石を投げた。壷にあたって、壊れた。
 これをどう読むかは、難しい。壷は、本物の壷か。比喩か。
 井戸があるのだから、水を入れる壷と見るのは自然。一方、石を投げて、その石で壷か壊れるのは、自然のようで、自然ではない。大きな石、力をこめて投げた石なら、そういうことは、当然起きる。けれど、誰か(男)がすぐそばのスズカケの木に隠れていて、そこから合図として石を投げるなら、その石は大きな石ではないだろう。力一杯投げつけるということもないだろう。
 夜の窓の下で、恋人が小石を二階の窓に投げる感じ。なるべく小さな音。しかし、気づいてもらえる音。そういう感じの投げ方、そういうときにふさわしい小石だろう。「割る」のが目的ではないのだから。
 ここでも同じだろう。
 そうすると「壷」は「壷」ではないのかもしれない。「壷」は「比喩」。「壷」と呼ばれているのは、三人の女のうちのひとりだろう。ひとりの体に小石があたる。はっと驚いて、小石の飛んできた方向をふりかえる。スズカケの方をふりかえる。そのふりかえった「瞳」が「水」になるのか。清らかな輝き。
 不思議なのは、最終行に出てくる「我々」。
 スズカケに隠れていたのは「ひとり」ではない。小石を投げた「誰か」は「ひとり」かもしれないが、そこには複数のひとがいる。
 なぜ、隠れていたのかな? なぜ、複数なのかな? ここにも「恋愛」の手がかりがあるかもしれない。
 男には思いを寄せる女がいる。その女は決まった時間に井戸に水を汲みにくる。それがひとりでくるのならいいけれど、たいてい複数(今回は三人)でくる。なかなか、ふたりきりで会えない。それがなやましい。そんなことを聞かされた友人が、「誰か」といっしょにやってきたのかもしれない。そして、ここから小石で合図をおくればいい、とそそのかしたのかもしれない。言われた通りに、思いを寄せる女の方に小石を投げる。見事に的中。そして、振り向く。その顔の、その「瞳」の美しさ。
 そそのかした男の方が、突然、恋をしたのかもしれない。えっ、こんなに美しいのか。「誰か(友人)」の「隠れているほうを見つめた」てはなく「我々の」と言ってしまっているところに、この詩のいちばんの「秘密」があるのかもしれない。
 書き出しの「女が三人」の「三人」も微妙だなあ。「我々」の人数は明確には書いてないが、女が「三」人、壷が「一つ」なら、我々は「二人」になるだろうなあ、と思う。そして、女は「三人」だけれど、恋愛の対象が「一人(一つの壷)」だとすると、男「二人」というは、「三人」にもどってしまう。いわゆる「三角関係」になりかねない。
 いや、女が「三人」、男が「二人」なら、そこからもっと複雑な変化も始まるかもしれないなあ。「水面が一面に輝いて」というのは、「一人」の女の瞳が輝いて、というよりも「六つの瞳(三人の女の瞳)」が輝いたということかもしれない。それは「いつもの男が、ほら、来てるわよ、見てるわよ」というからかい(女の友達へのからかい)、からかいという「団結」を一瞬、ほぐしたかもしれない。そんなことも感じさせる。

 私はリッツオスの詩を、小池の書いているよう「明るい」感じで読んだことがないので、とてもびっくりした。小池の「ユーモラス」のひとことで、リッツオスがシェークスピアの喜劇か、モーツァルトの音楽(オペラ)に一瞬にして変わるのを感じた。

恋愛詩集 (NHK出版新書 483)
小池昌代
NHK出版
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記事吉田文憲「滞留」

2016-04-23 12:04:03 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「滞留」(「午前」9、2016年04月15日発行)

 吉田文憲「滞留」の作品にも繰り返しがある。原文は行の末尾が揃えられているもの、行頭が途中からのものが混在している。行と行の間も1行空き、2行あるいは3行空き(どちらか、よくわからない)とふぞろいである。ネットでは正確に再現できないので、引用は行頭を揃え、行間も1行にした。印象が違ってしまうかもしれない。(原文を参照してください。)

「リノリウムの床を動くものがある」

テーブルの上で跳ねかえる雨のばりばりいう音。

「リノリウムの床を動くものがある」

おそらくは、こうして近づいているのだろう。

「呼吸を整えようとして…」

「呼吸を整えようとして…」  「雨を待った」

「目に見えぬ灰の襲来…」「そのくるしい息の音と、暁方になく山鳩の咽を鳴らす声」

「それからその人の唇がゆっくり開いてゆくのを、わたしは、息を詰めて見つめていた」

 ことばにはカッコ「 」がついているものとついていないものがある。どう区別しているのか、わからない。わからないものは、私は無視してしまう。「わかる」、あるいは「わかる」と思い込んでいるものについて、書いてみる。
 まず「リノリウムの床を動くものがある」が繰り返される。ただ繰り返されるのではなく、間に「テーブルの上で跳ねかえる雨のばりばりいう音。」という行がある。間に別の行があることによって、繰り返しがより鮮明になる。もどってきた、という感じ。
 しかし、「もどってきた」は違う。
 そのあとは、すぐに「おそらくは、こうして近づいているのだろう。」ということばがある。
 「近づいている。」
 この動詞は、とても複雑だ。「近づいてくる」なら「主語」は「誰か/私以外のもの/私以外の存在」になる。「近づいてゆく」なら、「主語」は「私/詩のことばを発している話者(吉田)」になるだろう。けれど吉田は「主語」を消して、「近づいている」という「状態」そのものを書いている。「状態」が「主語」。
 「接近している」は「接近」という名詞に似ている。名詞化して考えた方がいいのだろう。
 この「動詞」の「名詞化」というのが、吉田の「繰り返し」の特徴かもしれない。 「動くものがある」は「動いている」。何が動いているのか、ここでは書かれていない。「動く」が「状態」として、そこに提示されるだけである。
 間にはさまった「雨のばりばりいう音」を手がかりにすれば、雨の影がリノリウムの床に動いているのかもしれない。しかし、何がとは吉田は書かず、ただ「動くもの」が「ある」と書く。
 この「ある」は「動詞」だけれど、「名詞」に似ている。「状態」全体を、「状態」として「ひとつ」につかみとっている。「ある」ということばに触れるとき、私たちは「ある」そのものを「見る」のではなく、そこに「ある」何かを見る。この「ものがある」から「ある(存在する)もの」への変化、意識の移行が、同じことばの繰り返しによって促されているように、私には感じられる。
 床の上を何かが動く。動くものがある。その動きを見ていると、動きではなく、何かが見えてくる。あれは、雨の影。いや、これは逆にも考えることができるのだが。つまり、雨の影が動いている。動きがあるだけで、雨の影はその瞬間瞬間にあらわれてくる幻のようなものにすぎない。--しかし、これは、どちらかに特定してはいけない。両方の読み方をしなければいけない、ということなのかもしれないのだが、そういう思い方の揺らぎを引き起こすのが吉田の「繰り返し」の力なのだと思う。
 繰り返すことで「リノリウムの床を動くものがある」ということばそのものが、別のものになってしまうのである。
 この変化には、また「ものがある」と「音」の衝突も影響している。「ものがある」というとき、私は先に「見る」という動詞をつかってしまったが、「動くものがある」ことを「聞く」とも言うことはできる。私が「見る」という動詞をつかってしまったのは、私が「視覚型」の人間だからかもしれない。「聴覚型」の人間なら「動く音を聞く」と言い直すだろう。「触覚型」の人間なら「動きを肌で感じる(振動を感じる)」と言い直すだろうし、「嗅覚型」の人間なら「匂いが動いた」と言い直すだろう。
 吉田は「音」を挟むことで「ある」という「状態」を細分化する。分節化する。「ある」ものが、別なものに「近づいている」。そこに「ある」ものから別なものに「なる(分節する)」という動きをとりはじめていると感じている。変化を呼び込んでいる。
 「音」は「声」であり、「声」は「呼吸」でもある。
 何に近づいているか、何を「分節しよう」として動いているのか。「音」は「呼吸」ということばを、まずつかみ取る。
 床を動く雨の影を見ながら(あるいは床を動く雨の影に、そこにはない雨の音を聞きながら)、誰かが、呼吸を整えようとしている。何かを言おうとしている。言えずに、ただ呼吸を整えている。
 「雨を待った」は、どういうことだろう。雨雲が崩れる。崩壊する。そういうことを「待った」のかもしれない。「状態」が膠着したまま、タイトルに従えば「何かが滞留しているような状態」が、雨でもいいから、とにかく破壊/変化してほしいと思っているのかもしれない。「ばりばりという音」の激しさ。それは、求めていた「破壊/崩壊」かもしれない。
 こういうことは、もちろん、書いていない。書いていないから、私の「誤読/捏造」なのだが。「(雨の)襲来」ということばの印象が、「滞留」という状態の「破壊」を望んでいるように感じさせるのである。
 何かが「近づいて」、だんだん「濃密」になり、「濃密」になりながら、「ビッグバン」の瞬間を待っている感じかなあ。
 で、そのあとの、

そのくるしい息の音と、暁方になく山鳩の咽を鳴らす声

 ここに、私は、「繰り返し」の「凝縮」を見る。
 「なく」は「啼く/鳴く」であり、それは山鳩の「咽を鳴らす声」である。「なく」を「咽を鳴らす」と言い直していることになる。つまり別のことばで「繰り返し」ていることになる。
 そして、それはまた「苦しい息の音」の言い直しでもある。「咽の音」と「苦しい息の音」は「咽」という「肉体」で交錯している。
 このとき「くるしい息の音」を発している「主語」は、しかし、「鳩」ではない。「誰か」である。「鳩」は書かれていない「誰か」の「比喩」なのである。誰かが、この「滞留した状況」のなかで「くるしい息をしている」(あるいは、状況のくるしさに息を殺している)。そのかすかに「動くもの」は「誰かのなく声」であり、それは「山鳩」の「声」のようだ。「誰か」を「山鳩」のような生き物として見ている(把握している/理解している)ということでもある。
 これがさらに、次の行で変化していく。「繰り返し」が「同じことば」ではなく「比喩」によって変化しながら「状況/状態/ある」を、いくつのもの「存在」に「分節」していく。
 「山鳩」と比喩で語られた誰かは「その人」となってあらわれる。「くるしい息/なく/咽を鳴らす声」は「咽」から「唇」へと移動しながら「ゆっくり開いていく」という「動詞」になり、繰り返される。
 行をまたぎこして、「待った」は「息を詰めて見つめていた」と繰り返される。
 このとき、「その人」は唇(さらには咽)は開き、動くが、「わたし」の方は唇も咽も閉ざし「息を詰めている」。「その人」は「声(音)」が発する。一方、「わたし」はそれを「聞く」のではなく(もちろん、聞こえるけれど)、「見つめていた」。視覚の人間として、そこにいる。
 「リノリウムの床を動くものがある」というのは、「視覚」でとらえられた世界であり、そこに「音」が入り込んできた、「視覚」と「聴覚」がぶつかり、「滞留」した世界を動かした、ということが、「繰り返し」の変奏によって描かれている。

 このあと作品は「わなないている」「音もなく破裂する」「崩れ去り」「消えた」「接近不能」というようなことばでさらに「ある/状況」(男女の関係/いさかい?)を浮き彫りにする形で繰り返すのだが、その部分に関する感想は省略する。

生誕
吉田 文憲
思潮社
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鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」

2016-04-22 11:06:04 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」(「モーアシビ」31、2016年04月15日発行)

 鈴木志郎康「とっかかりは見つけてみれば夢の残り」は詩を書こうとする詩。

とっかかり
とっかかり
とっかかり
詩を書くとっかかりって
それを求めて、
とん、
とん。

 書きたいことがあって、それを書く。という具合には、なかかなかならない。書かなければ、書きたい、という気持ちがあるけれど、書きはじめられない。
 「とっかかり」を三回繰り返している。それをさらに「詩を書くとっかかりって」ともう一度言い直し、「それを求めて」とまた言い直す。「とっかかり」ということばのなかには「求める」という「述語(動詞)」が無意識の形で含まれているので、そう感じてしまう。
 で、読み返すと。
 何にも書いていないなあ。「意味」は書いていないなあ、と感じる。でも、何かが書いてある。「意味」ではなく、「リズム」が書いている。繰り返してしまう「リズム」。ひとは何かをすぐにやれるわけではない。何かをするまでには「時間」がかかる。その「時間」をととのえている。その「呼吸」が「わかる」。この「わかる」は、あ、こういう具合に、同じことばを繰り返して、次のことばが出てくるのを待っていたことがあるなあ、と自分の「経験」を思い出してしまう、ということ。私の「肉体」は、こんな具合に同じことばを繰り返しながら、何かを探したことを覚えている。
 私が今書いている文章も、ほとんどが「繰り返し」。「繰り返し」ていると、繰り返しのなかに、何かが少しずつ、ずれて動いている。「隙間」のようなものができて、そこから別のことばが動いている。
 「それを求めて」の「求める」という「動詞」は、そうしたものだ。先に「とっかかり」ということばには「求める」という動詞が無意識に含まれていると書いたが、「とっかかり」のあとにことばをつづけようとすると、「求める」とか「探す」ということばがどこからともなくあらわれてくる。「とっかかり」ということばといっしょに、そういう動詞をつかったことが思い出され、それが表に出てくるのだ。
 無意識の、したがって「必然」の動詞が動いて、そこから、ことばが新しくなる。

とん、
とん。

 何なのだろう。「意味」はわからないね。わからないけれど、あ、いままでと、ことばが違ってきた。違ったことばが突然あらわれた、ということは「わかる」。私に「意味」が「わからない」のは、「とん、とん。」が鈴木の「肉体」に深く絡みついていて、鈴木の「肉体」のなかに、まだほとんどをうもれさせたままだからだ。
 こういうとき、私は「意味」を求めない。そのままにしておく。

とっかかり
みつけましたよ。
夜中にトイレの便器に座って、
この世にひとり、
取り残されたなって、
不図、
思っちまったってこと、
それで、どうしたって
こともない。
とん、
とん。

 「とっかかり/みつけましたよ。」は一連目の繰り返し。繰り返しだけれど、切断と飛躍がある。「求めて」が「見つけた」にかわっている。その「変わり/変化」を明確にするために「とっかかり」ということばが繰り返されている。「同じことば」があるから「違い」が明確になる。「求める」と「見つける」が明確になる。
 その「みつけた」ことが、「夜中にトイレの便器に座って、/この世にひとり、/取り残されたなって、/不図、/思っちまったってこと、」というのは、鈴木が書いているように「それで、どうした」と問われると困るようなこと、返事のしようがないこと、どうでもいいようなことなのだが。
 だから(というのは変なのだが)、私が、あ、おもしろいと思ったのは、ここでも「意味」ではない。つまり「内容」ではない。トイレで「この世にひとり取り残されたな」と思うのは、老人の、つまらない思いつきである。そんなものに「意味」などない。あるかもしれないが、私は「ない」と言ってしまう。それよりも「不図、」ということばがおもしろからい。
 何かを思うのは、たいてい「ふと」である。意図しないときに、「ふと」思う。「とっかかり」が「求める」とか「探す」という動詞を無意識的にひきつれて動くように、「ふと」は「思う」という動詞を無意識的にひっぱり出している。「肉体」の奥から。鈴木の「無意識」から。
 鈴木の詩のことばは、「プアプア」の印象が強いせいか、「正しい日本語」というよりも、「破壊的な日本語」というイメージをどこかでひきずってしまうが、とても「粘着的」なのだと思う。「暴走」などしない。「暴走」しようにも、「日本語の粘着力」にからみつかれ、もがく、という感じで読んだ方がいいのだと私は思っている。鈴木のことばの「粘着力」は、「とっかかり/求める」「不図、/思う」という動詞の無意識の動きにくっきりと出ている。
 この二連目の、最後にも「とん、/とん。」が繰り返される。
 それはトイレのドアを叩く音のようでもあるが、まあ、意識の「切断」を促すリズムなのだと私は思っている。トイレの最中に「とん、とん。」とやられると、ちょっと気分がとぎれる。そういう「とぎれ」を暗示している、と読むと、これは「深読み」を通り越してひどい「誤読」になるかもしれないけれど。
 三連目。

とっかかり
とっかかり
とっかかりは、
夢の残り、
私は若くて放送局員、
畑の中の斜めがかった土の道を、
窮屈なボロタクシーで、
地方の放送局に帰ろうとしている、
タクシーに乗る前に、
ビル裏で、
足を掛けて、
よいしょって、
登って入ったトイレが、
トラックに積まれたコンテナの改造トイレで、
汚くて、
運転席に女がいて、
おしっこが出なくて困っちゃてた。
とん、
とん。

 「夜中のトイレ」から「若い時代」の「トイレ」の思い出に呼び出される。
 このときも「とっかかり」が繰り返されている。リズムをととのえると、リズムに刺戟されて何かが動き出すのだ。トイレの近くの、「運転席に女がいて、/おしっこが出なくて」という生理反応がくすぐったくて、とてもおもしろいが。
 それよりも。

夢の残り

 タイトルにも出てくることばだが、ここで「夢の残り」ということばが出てくるのはなぜ? 「夢の残り」って何?
 詩を読み進んできて思うのは、夜中にトイレに入って、ふと「ひとり」を感じた。そのとき、昔、汚いトイレで、しかも近くに女がいるのでしっこが出なくて困った、ということを思い出したという「時系列」になるのだが。
 もしかすると、違うのかもしれない。
 二連目の

不図、

 このことばの「奥(内部)」に三連目全体が入っているのかもしれない。
 「不図、」若い時代の、あのトイレのことを思い出した。その瞬間、「この世にひとり、/取り残された」と感じたのかもしれない。
 「時系列」が逆というより、そこには「時系列」がない。
 「一瞬」のうちに「過去(思い出/トラックのトイレ)」と「現在(夜中のトイレ)」が出合い、それぞれに刺戟しあうかたちで鮮明になる。
 もしかすると、あの汚いトイレで、鈴木は、老人になって夜中にひとりでトイレに入り、「この世にひとり、/取り残された」と思ったかもしれない。そんな姿が、デジャビュのようによぎったかもしれない。
 若い時代の思い出が「夢の残り」なのか、若い時代の「夢の残り」がいまの現実なのか。
 どちらにも読むことができる。
 ではなく、そのどちらの読み方もしなくてはならないのだと思う。「意味」を限定するのではなく、「意味」を限定せず、むしろ「意味」を解放する。ことばがととのえられる前のところにもどる。そういうことが、この詩を読むときには大切な気がする。
 「とっかかり」、「とん、/とん。」ということばを繰り返し繰り返し、鈴木はリズムをつくりことばを先へ動かしているが、その動きを逆にたどるようにして、リズムの奥にあるものへと帰りながらことばを読む。
 そうすると、

とっかかり
とっかかり
ああ、
ただ、わけも無く、
泣きたいちゃあ。
とん、
とん。

とっかかり
とっかかり
春先の日向だなあ。
春先の日向だよ。
とん、
とん。

 「わけも無く」に出合う。
 「わけ」は「意味」でもあるだろう。「意味も無く」。そこに「泣きたい」という感情が動いている。「泣きたい」というのは「欲望」、「泣きたい」のに「泣けない」。ここにも「決められない」というか「限定」を拒むものがある。
 「無限定」。
 「わけも無く」は「わけ」が「ない」と読むと同時に、「ない」ことが「わけ」なのだと読む必要がある。そう読むと、「わけも無く」は「無」そのものが「存在」の「理由」になる。
 この「無」そのものが「存在理由」は、最終連の、

春先の日向だなあ。
春先の日向だよ。

 の自問自答のような「繰り返し」のなかに結晶する。
 「夢の残り」は「無」。「無の境地」。
 とっかかりは、とっかかりではなく「結論」のようなものかもしれないなあ。
どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた
鈴木 志郎康
書肆山田
コメント (1)
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エルマンノ・オルミ監督「木靴の樹」(★★★★★)

2016-04-21 00:20:52 | 映画
監督 エルマンノ・オルミ 出演 ベルガモの農民たち

 日本の初公開は1979年。もう40年近く前だ。この映画のラストシーンでは、それが映画とわかっていながら、「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまった。あれから約40年、思い出すたびに、やっぱり「ミネク、幸せになれよ」と祈りつづけた。再上映されると聞いて、40年たった今、ミネクは幸せになっているだろうか、と思った。幸せになったミネクを見たいと思った。幸せになったミネクを確かめたい、と思って映画を見に行った。
 「映画なんだから、そのまんまなんじゃない?」とひとは笑うのだが。逆に、映画なんだから、そういう変化が起きていてもいいんじゃないか、と私は思う。40年後のミネクが幸せになってスクリーンにいたらどんなにうれしいだろう。そう願いながら、映画館へ行った。



 映画なんだから、やっぱり昔の映画のまま。そして、見たときの気持ちも昔のまま。ラストシーンでは、ただただ「ミネク、幸せになれよ」と、また祈ってしまう。映画であることを忘れ、力いっぱい、祈ってしまう。私自身が貧農のこどもだからかもしれない。いまは「限界集落」をとおりこして、消滅するのを待っているだけの集落だが、私がこどものころは、それでも同級生が6人いた。ただし、高校へ進学したのは2人。4人は中学を卒業すると就職した。4人の兄、姉も中卒で就職した。私も、実は、進学を半分あきらめていた。父親は高齢で、しかも病弱だった。貧しかった。中学の担任教諭が父親を説得してくれた。しぶしぶ、進学することを認めてくれた。そういう体験があるので、どうしてもミネクに感情移入してしまう。
 過去に一回見ただけだが、映画は、どのシーンも、びっくりするくらい覚えていた。繰り返し繰り返し、思い出していたのだと思う。
 冒頭の、神父がミネクの両親に「ミネクを学校にやるように」勧めるシーンから、胸が痛くなる。中学の担任を思い出してしまう。父親が「学校は遠い」という。神父は「こどもは慣れるものだ」と答える。両親もそうだが、神父もミネクを愛している、そういうことが伝わってくる。それが、うれしくて、かなしい。
 好きなシーンは数えきれない。ミネクが学校へ行く前日、風呂に入っている。(体を洗ってもらっている)。そうすると、弟が「ぼくも、お風呂に入りたい」という。お湯で体を洗うことは、「ぜいたく」なのだ。それが、忘れられない。
 ミネクが学校で「水のなかには生き物がいっぱいいる」というと父が「知ってるよ、魚だろう」「魚じゃなくて、もっと小さい」「見えないよ」「見えなくても、いるんだ。一滴の水のなかにも」という具合にやりとりするところ。あるいは父親がミネクのノートを拡げて「これはLかな」と母親に問いかけるシーン。(今回映画で見たら「L」ではなく「Eかな」だった。)
 さらには、ミネクがはしゃいで学校の帰りに、学校の出口でジャンプしたために木靴が割れるシーン。それをズボンのベルトがわりの縄でまいて修理するところ。うまく修理できず、裸足になって道を歩きはじめるシーン。ミネクが帰ってくるのが遅い。それを心配して父親が「まだミネクはこないのかなあ」と道を眺めるシーンも好きだなあ。一瞬一瞬に、嘘がない。
 内気な青年が、若い女を追いかけるようにして歩く。女は男が追いかけてきているのに気付きながら歩く。やっと、男があいさつする。嘘がない。
 嘘がないのは、そうした美しいシーンだけではない。
 地主に農作物を収めにいくとき、重さをごまかすために馬車に石を隠すという農民のずるさもきちんと描いている。自分の家の薪を取りにでた少女が、だれも見ていないのを確かめて他人の家の薪をくすねる、というシーンもある。貧しい農民の、ずるさもありのままに描いている。この「ずるさ」がいやらしさにならないのは、それが「真剣」だからだ。
 貧しい農民は、まず、自分のことを考える。「みんなの幸福(利益)」を考える前に、自分の幸福(利益)を考える。その「自分のこと」が「真剣」につながる。これはあたりまえのことなのだが、そのあたりまえを描きつくすことで、かなしみが深くなる。
 「真剣」の美しい例は、おじいさんのトマト栽培。いち早く芽が出て、早く実るように肥料に工夫する。種蒔きにも、苗の植え付けにも工夫する。そこに「真剣」が出ている。その方法を他の仲間の農民には教えない。孫娘にだけ、こっそりと教える。いちばん早く熟れたトマトを街へ売りにゆく。高い金で売れる。自分だけの「利益」だ。
 牛が病気になった洗濯女は「聖水」を飲ませ、祈りの力で牛を治してしまう。これは「偶然」なのかもしれないが、その「祈り」と「行動」が「真剣」である。
 おろかな「真剣」もある。街で金貨を拾った男。どこに隠そうか。馬の足裏に隠すことを思いつく。蹄鉄の間の泥。それをはがして、金貨を隠し、また泥で蓋をする。そんなことろに金を隠すひとはいない。だから、盗まれる心配はないと思う。ところが、馬が歩けば、泥は剥がれ落ちる。新しい泥に変わってしまう。ぬかるんだ道を歩いてきたあと、ふっと気づいて足裏調べると、やっぱり、ない。
 生きる「工夫」で、びっくりするのは新婚の夫婦が「里子」をもらいに、修道院へ行くエピソードである。こどもにめぐまれないから「里子」をもらいにいくのではない。「里子」には養育費がついてくる。それを生活費にするために「里親」になる。貧しい若者が新しい家庭を築くためにはそうするしかない。
 このエピソードは、もしかするとミネクもそういう「里子」のひとりなのか、と考えさせる。ただ養育費が修道院から届くのなら、ミネクの一家は「無一文」ということはないだろうから、そうだとラストシーンは違ってきてしまう。また、話し上手の父親を見ていると、ミネクは父親の利発さを引き継いでいるのだという感じがする。「里子」ではなく、本当の息子なのだろう。いや、「里子」であって、ミネクにも養育費のようなものがいくらかでも届くのなら、彼らは生きて行ける。無事に生き抜いてほしいという気持ちが、そんなことを考えさせる。
 「事実」はどうであれ、ともかく、祈ってしまう。なんとか生きて幸せになってほしい、あのミネクの将来の姿がエルマンノ・オルミ自身であってほしい、と思わず願ってしまう。
 それにしても、木靴用に木を一本切っただけで、小作ができなくなる、農場を追い出されるとは過酷である。映画のなかには社会主義者(?)の運動のようなものが少し描かれているが、もう少し遅く生まれてきたらこのミネクの人生はまた違ってきたのだろうなあ、この一家の運命も違っていただろうなあ、と思う。



 79年に見たのは、岩波ホール。今回はKBCシネマ1。スクリーンの大きさ、明るさがまったく違う。大きなスクリーン、鮮明な好きリーンで見られるひとは幸せだと思った。
                      (KBCシネマ1、2016年04月20日)

木靴の樹 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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松岡政則「とおい曠野」

2016-04-20 09:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「とおい曠野」(「交野が原」80、2016年04月01日発行)

 松岡政則「とおい曠野」は、ことばが激しく動く。

日本資本の黄燐燐寸工場はない
「満蒙開拓青少年義勇軍」の
まだどこかおさない聲もきこえてこない。
粛静の痕跡も
改革開放へのとまどいも
ない。そんなものはどこにもない

 「満州」を尋ねて旅行したときのことを書いているだと思う。知らない土地なのだが、知っていることもある。しかし、そこには「知っていること」が「ない」。「知」の否定。ここから松岡のことばは動きはじめる。

朝から歩きまわっているともうどっちが北なのかもわからない

 「知」の否定。「ない」は「知」を「失う」ことでもある。「わからない」は「知っているものがない」ということ、「知っている」ことを「失う」こと。
 そうすると、人間には何が残るか。

リラの花、リラの花
あしもとで迷っているひかり。

 「知」ではなく、「現実」が残る。「現実」が残るといっても、まあ、そこには「知」もあるのだけれど。花が咲いている。「リラ」とわかる。「リラの花」と言って、もう一度「リラの花」とことばで確かめなおす。「知」の取り戻しと言えるかもしれない。しかし、この「知」は「日本資本の黄燐燐寸工場」と比較すると、少し意味合いが違う。「日本資本の黄燐燐寸工場」は「歴史」。「リラの花」は「歴史」とは無関係の「現実」。「リラの花」は「自然」。
 その「自然/現実」と結びついた「知」が松岡の「肉体」を目覚めさせる。「知」ではなく「肉体」が動きはじめる。
 「あしもと」ということばのなかに「肉体」がある。その「肉体」のそばで「迷っている」のは「ひかり」なのか、それとも松岡自身の「思想」なのか。

ずっと異語の声調ばかり聞いていると
なんでか辛いものが喰いたくなる
その土地のことはその土地のものを喰って
まずは舌で知るのが信条だ
 
 「聞いている」という動詞のなかには「耳」がある。「リラの花」を見たのは「目」。それから「喰う」という動詞がでてきて「口/舌」が加わる。それが「知る」という動詞へと変化していく。「頭」が失った「知(歴史的知識)」はそのまま捨てて、「肉体」が「肉体」でつかみとれることをつかみとる。「舌で知る」というのは慣用句だけれど、ここには、慣用句だけが持っている「強い」ものがある。「肉体」の共有がある。
 それがとても魅力なのだが。
 ここではもうひとつ、別のことをつけくわえておきたい。

なんでか辛いものが喰いたくなる

 この「なる」がとても強い。
 「ない」「ない」「ない」とつづけて読んできて、「わからない」にたどりついた。「わからない」は「わからなくなる」でもあるのだが、その「知」を「失う」という変化のあとで、「喰いたくなる」。この「なる」は「失う」とは逆。何かが「生まれてくる」感じ。
 これが、この詩の、松岡の「思想」だ。「肉体」にしみついた「本能」だ。何もかも失った、それでもそこからなおも動きはじめる「欲望/本能」。それを「なる」ということばでとらえる。

その土地のことはその土地のものを喰って
まず舌で知るのが信条だ

 これは、「その土地のものを喰って」「その土地の肉体(舌)になる」ということである。その土地の「肉体」の動きを自分のものにするということである。まずいか、うまいか。うまい、と喰いつづけることができたとき、松岡の「肉体(舌)」はその土地で暮らすひとの「肉体(舌)」と一つになっている。肉体の共有。

「不辣不革命(唐辛子なくして革命ならず)」だ
やかましいのに静かな午後で
あそぶまねぶもひとつのことで
ひとはみなさみしい犬もさみしい
つけとどけの顔社会
消費に蝕まれた官僚資本主義
いちいち誤訳したくなる

 「肉体」は「やかましさ」と「静かさ」が同居していることを瞬時につかみとる。ものには二面性がある。様々な要素がからみあって「世界」ができている。それを「喰って」人間は生きている。両方喰わないと生きていけない「さみしい」生き物である。と、わかったような「要約」をしたくなるが……。
 そんなことより。
 「いちいち誤訳したくなる」の「なる」。ここにも「なる」が出てくる。この「なる」は「喰いたくなる」とそっくりだが、ちょっと違う。
 「喰いたくなる」は「肉体」が「喰いたくなる」。「誤訳したくなる」は「頭/知識」が「誤訳したくなる」。
 「肉体」が「土地のひと」になってしまったあと、そのあとで「頭/知識」は「その土地で暮らしているひとの頭」になる。「頭/知識」が動かすことばが、やっと聞こえてくる。「黄燐燐寸工場」ではないことばが聞こえてくる。
 「いま」が動きはじめる。

(党のいうことなどだれも信じちゃいない!
(便利になったけどそのぶん生活に金がかかるようになった!
農民工(出稼ぎ労働者)のボヤキも聞こえてきそうだ
あすは北間島の明東村へいく
星星の痛みはどうだろう
路面電車がくる
なんかかんかくる
もう当事者みたいなものだ

 その土地のひと(当事者)になっているから、その土地の「声」が聞こえてくる。これはもちろん「正確」ではないかもしれない。だから「聞こえてきそう」と仮定形で書かれているのだが、想像できるということは、それは存在する証拠でもある。「声」が聞こえている証拠である。
 その「ボヤキ」はただ「聞こえる」のではなく、松岡が「肉体」で「覚えている」から聞こえるのでもある。日本も、そうだった時代がある。そのことを松岡は「肉体」で知っている。そういうことばを周りの人から聞いたことがある。それが、いま「聞こえてくる」。このとき、松岡の「肉体」を通して、その土地の人と、松岡の知っている「日本の肉体/歴史の肉体」が重なる。
 最後も、とってもいいなあ。
 「星星の痛みはどうだろう」という抒情が鮮烈。さっぱりしていて、あ、大陸と感じさせる。
 それ以上に。

路面電車がくる
なんかかんかくる

 この繰り返される「くる」がいい。「ない」から始まって「なる」になって、そのあとは「なる」をつづけるのだろうけれど、それは「受けとめながら」、松岡が変わっていくこと。「土地の人」になって、どんと構えている。なんでも「こい」という感じ。
 「くる」の前に「いく」という動詞があるのだけれど、それは単に「いく」のではなく、「いく」というのは自分一人の行動ではなく、向こう側から誰か(何か)が「くる」ということでもある。ぶつかるのである。
 一方的に「いく」とき、向こう側は衝突をさける。身をかわす。よける。知らない土地では、土地の人が旅行者を避けるでしょ? けれど、土地の人なら、避けはしない。「くる」。来て、衝突する。それは「触れあう」ということなのだが。「ほっといてくれ」と言いたいときも「ほっておかない」。どうしたってやって「くる」のが、その土地で暮らすことなのだ。
 わずか30行ほどの詩のなかで、松岡はここまで変わってしまう。激しくて、強い「肉体/思想」がここにある。

艸の、息
松岡政則
思潮社
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山本純子「いもむし」ほか

2016-04-19 10:03:07 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「いもむし」ほか(「息のダンス」12、2016年04月10日発行)

 山本純子「いもむし」は、子供がイモムシの真似をしている詩。イモムシになっている詩。というようなことを書いてもしようがないのだが、ほかに書くことがない。

いま
いもむし

いもむしになって
さなぎのなかにいる

そとはみえない
おとがきこえる

わたしをよぶ
おかあさんの
こえがするけど

わたしはいない
はねがはえるまで
いない
とおくで
なのはなばたけが
よぶまで
いない

カーテンに
てるまっていると
あしだけが さむい

 カーテンにくるまって、さなぎになったつもり。「さなぎのなかにいる」。そのあと、おかあさんに呼ばれるが、

わたしはいない

 と「返事」をしてしまう。
 あ、いいなあ。「さなぎのなか」に「いる」けれど、ここ(おかあさんのいる世界)には「いない」。ここににいる(ある)のは「いもむしのさなぎ」。「わたし」ではない。しかし、わたしではないといわずに、「わたしはいない」という。この「いない」を、どう説明すればいいのだろう。どう感じていると言えばいいのだろう。
 なかなか、思い出せない。こどものとき、こんなふうに「うそ」をついたことがある。けれど、そのとき、どんな気持ちだったのか、うーん、なかなか思い出せない。思い出せないので、思い出すまでの時間稼ぎに、私はこんなことを書いている。私は、何かがわかっていて書くのではなく、書きながら考え、感じながら書くので、それがことばになるまでは、こうやってごまかすのである。
 「それはいもむしであって、わたしではない」と言えば、そのことばは完全な「うそ」になる。「わたし」が分裂してしまう。でも、こどもの「うそ」は「分裂」を含まないのだ、きっと。どんなときでも「わたし」を感じていたい。それがこどもの「うそ」。あるいは「空想」。
 「わたしはいない」というとき、それは「わたしは、ここにはいない」という意味である。「別の世界にいる」という意味である。そしてまた、「人間のわたしはいない」けれど「いもむしのわたしはいる」。「ここ」と「人間」、「別な場所」と「いもむし」が「わたし」を中心にして、瞬間的に入れ替わり、融合し、区別がなくなる。そのとき、ことばでは「わたしはいない」と言っているが、「わたしは、いる」と言いたい。「いる」ということは、「うそ」ではなく「ほんとう」なのだ。「いる」から「いない」と言える。「いる」ことに対する「絶対的な信頼」のようなものが、ここにある。「わたしは存在するのか、存在するといえのはなぜなのか」というようなことは考えない。「いる」は「絶対的な事実」なのだ。こどもにとって。
 この絶対的な自己存在の自身というのは、たぶん、こどもの特権だ。こどもの自己存在を「おかあさん」は全体的に受け入れ、それを守ってくれる。自己は否定されないし、自分で自己を否定することもない。そういう特権ののびやかな「自由」がこどもの「自由」なのだ。

わたしはいない、けれど
いもむしになって、わたしは、「別世界に」いる

 そして、これは、少しことばの順序を変えて、

わたしは「別世界で」、いもむしになっている

 なのである。

はねがはえるまで
いない

 は、

はねがはえたら、
わたしは蝶になっている
蝶になって、わたしは、「別世界に」いる

なのはなばたけが
よぶまで
いない

 は、

なのはなばたけが呼べば
わたしは蝶になっている
蝶になって、わたしは、「別世界に」いる

 このとき「別の世界」は、「わたし」が何かを思うとき、そこに必然的に、自然にあらわれてくる世界。
 「我思う、ゆえに我あり」と似ているようで、まったく違う。「わたしがいる/ある」とき、そこに「わたしの世界(別世界)がある/そこにわたしはいる」。「世界」と「わたし」は完全に一体化している。分裂しない。「ゆえに」という「論理」が入り込む余地はない。
 「わたし」はいつでも何かになって「いる」。そこにかならず「ひとつの世界がある」。これはまた、何かになって、わたしはいつでも「ひとつの世界」に「いる」という具合に言い直すこともできる。そのとき「何か」と「ひとつの世界」は完全に一体化している。
 「いる」という「動詞」のなかで、いくつものことがしっかり結びついている。わたしは「いない」というときさえ、わたしは「いる」。
 だから、

カーテンに
くるまって「いる」と
あしだけが さむい

 と「いる」ということばが出てきてしまう。カーテンにくるまって、いもむしのさなぎになって「いる」と、「わたし」の足が寒い。
 「いる」のは「いもむいし」のつもりだったが、「いる」と言った瞬間から、それは「わたし」をも「主語」にしてしまう。「いる」という動詞が「主語」の区別をなくしてしまう。

 うーん、私の感じていることが書けたのかどうか、よくわからないが、「わたしはいない」は「わたしはいる」をもっと「強く」言い換えたもののように思う。「わたしは、いる」だからこそ「いない」と「うそ/空想」が言える。「うそ」のなかで「わたしは何かになっている」。「なる」がそのまま「なっている」という状態になる。



 「とびばこよりも」は「とびばこ/よりも/馬とびがすき」というこどもの詩。何度も何度も「馬とび」をする。そして、

がっこうじゅうを
ひとあるき
みんな
せなかをかしてくれて
ありがとう
と つぶやけば

がっこうは
いちめん
あおくさのにおいに
みちていて

てのひらは
せなかのきおくで
いっぱいだ

 てのひらが「馬とび」の「馬」になった友達の背中を覚えている。「肉体」で友達を覚えている。そのとき「てのひら」は「わたしのてのひら」であるだけではなく、「ともだちの背中」。区別がない。ここにも独特の「一体感」がある。
 この「区別のなさ」は、きっと「いもむし」の「わたしはいない」が「わたしは、いもむしに、なって、いる」の「なる」「いる」の融合に似ている。「なる」と「いる」がかたく結びついて、区別できないように、てのひらと背中の区別はない。その「区別」のなさを「いっぱい」ということばであらわしているのがいいなあ。「いっぱい」は充実/充満。いや、それ以上。「いっぱい」は「肉体」を突き破って、別なものになる。「てのひら」はそのまま「背中」になる。そして、そのとき「背中」は「友達のてのひら」で「いっぱい」になっている。
 この「いっぱい」が肉体を突き破って、こどもを「馬」にしてしまう。こどもは馬になる。馬になってしまえば、そこは馬が草を食べている草原になる。「別世界」が「わたしの肉体/馬になった肉体」といっしょに、そこにあらわれる。
 「わたし」が「いる」とき、いつでも「世界」は「ある」。「わたし」と「世界」は「一体」であり、それは「思い」のまま。
 あえて言えば、「我思う、ゆえに世界はある」。これがこどもの「思想」だ。世界の見え方だ。こどもはそれぞれが「一つの世界」なのである。おとなは「一つの世界」にそれぞれの「思い」を抱いて生きているが、こどもは違う。こどもは「一人ひとり」が「それぞれの世界」を生きている。
 このこどもの感覚、こどもの呼吸の仕方、息づかいを山本は書いている。

ふふふ ジュニアポエム
山本 純子
銀の鈴社
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田島安江「揺れる」、陶山エリ「ヤード」

2016-04-18 09:02:39 | 現代詩講座
田島安江「揺れる」、陶山エリ「ヤード」(「現代詩講座」@リードカフェ、2016年04月13日)

揺れる    田島安江

揺れるものがいつもついてくる
昨日は電線が揺れはじめ
今日は橋が揺れる
鳥がついてくるからか

幼いときから
ただ、揺れるものが怖かった
風鈴、鐘、吊り橋、電球の笠、ハエ取り紙
鴨居からぶらさがっていた蛇、杢目の浮き出た天井
揺れるものはなんでも怖い
橋の上から川の水の流れをみていると
だんだん自分のからだが揺れはじめる
流れていくものすべてが揺れはじめる
一度揺れはじめたら止められない

自分は揺れていないのに
相手が揺れるとわかって
わたしはじわじわと追いつめられていく
どこにでもいたはずのわたしはもうどこにもいなくなる
揺れながらいなくなる

いつになったら、揺れなくなるのだろう
揺れることは止められない
船の上で電車のなかで飛行機や車のなかで
わたしはいつも揺れている
揺れることで安定している
揺れるものは美しく
揺れないと安心できなくなる

水も花も風も雨さえ揺れながら落ちる
いつか揺れることさえ忘れてしまったら
鳥がついてこなくなったら
わたしも相手も揺れなくなったら

わたしはきっともういない
      
 受講者の感想。

<受講者1>「揺れる」は不安定さにつながる。
      しかし、四連目で「揺れることで安定している」と出てくる。
      そこがおもしろい。
<受講者2>四連目の「揺れることで安定している」からの三行が不思議。
      最後の、相手がいた上での「揺れる」が、哀しいような
      怖いような気がする。
<受講者3>揺れるものが怖いというのは特異感覚かなあ。
      一連目「ついてくる」では怖がっていない。二連目で怖がっている。
      三連目には揺れる「もの」が書いていない。
      「橋が揺れる」がわからない。「橋」は揺れない。吊橋なら揺れるけど。
      だから「揺れる」のは心理だろうか。
      「揺れることで安定している」は心臓のことだろうか。
      心臓が動いて、体が揺れる。
      慧眼だなあ。目を開かされた。
<受講者4>「揺れる」ということを考察している。
      巨木が揺れているのを見たことがある。それを思い出した。
      三連目だけ、ことばが違う。
      「揺れながらいなくなる」が最後で
      「揺れなくなったら//わたしはきっともういない」と矛盾する。
      この落差がおもしろい。
<受講者5>恐怖が書いてある。
      二、三連目で、揺れに巻き込まれて、いなくなる。
      そこが印象に残る。
      三連目は、心理というより、生きていこうとしている。
      生きていく感覚を身につけている。

 「橋は揺れない」という感想が、私にはとても新鮮だった。一連目の「橋が揺れる」は二連目の「橋の上から川の水をみていると」からつづく行で言い直されていると思う。橋そのものは揺れないが、川の流れ(揺れ)を見ることで、自分が揺れはじめる。それを橋の揺れと錯覚する。自己と対象の「一体化」が引き起こす錯覚。
 同じものが、二連目の「杢目の浮き出た天井」。木目が川の流れのように見え、それが「揺れる」感覚を肉体のなかにつくりだすのだろう。
 見ている対象(揺れている対象/揺れを感じさせる対象)に自分が重なってしまう。自分が重なり、自分ではなくなる。自分がいなくなる。それが三連目ということになる。これを「心理」と呼ぶか、あるいは「肉体感覚」と呼ぶかは、意見がわかれると思う。
 私は「心理」とか「精神」というものがあるとは考えていないので、「肉体感覚」と受けとめた。
 揺れるものを見ていて、揺れそのものにのみこまれ、自分が揺れになる。そのあとで、

揺れることで安定している
揺れるものは美しく
揺れないと安心できなくなる

 「揺れ」が「安定」にかわる。ただし、この「安定」は「静止」ではない。「揺れている」。「安定」は「安定した同調」である。「同調」だから、それからすぐに「美しく」に変わる。「同調」が「美しい」というのは、まあ、「和音」だね。「同調/和音」というのは複数が支えあうこと。だから、それはさらに「安心」にかわる。
 動きがなく、止まっていたら「同調」は生まれない。「和音(音の振動/ゆらぎ)」は生まれない。
 「わたしも相手も揺れなくなったら//わたしはきっともういない」というのは、読んだ瞬間は、たしかに「揺れながら私はいなくなる」と矛盾しているように見えるが、それは矛盾というよりも、揺れといっしょに生きていく過程の「進化」のようなものだろう。ここに書かれていることが「心理というよりも生きていこうとして身につけたもの」という指摘は、とても強い。また、最後の部分に「哀しさ」を感じるという感想も、誰か(相手)といっしょに生きて変化していく人間のあり方を語ろうとした意見だと思う。
 私が、これは何だろうなあと感じるのは、

鳥がついてくるからか

鳥がついてこなくなったら

 繰り返される。「鳥」と「ついてくる」という動詞。「鳥」は「揺れる」か。わからない。鳥は、この詩のなかに出てくることばで言えば「落ちる」という動詞が不気味な形で結びつく。鳥は落ちて死ぬ。あるいは、死んで落ちる。
 「揺れる/動く」は生きている証。「死ぬ(落ちる)」は「動かない(動かなくなる)」ということか。
 「鳥がついてくる」は生きているもの(いのちのあるもの)がいっしょにいる、人生を同行するということか。「鳥」は「わたし」から離れた「肉体」、「相手」のことかもしれない。



陶山エリ「ヤード」は、Tokyo No.1 Soul Set の曲のタイトル。「アルバムの10曲目に収録されている」という。「ヤード」の意味がわからない、と書き出されている。その三、四連目。

ヤードのイントロは盛大すぎて
いつもビクッとする
9 曲目の
インストゥルメンタルの静けさに
身を委ね
安心していてはいけない
そろそろくるのわかっている
わかっていて必ずビクッとする
トランペットかなにか管楽器の洗礼に
瞳孔も海馬も容赦なくビクッとする
いきなりわかっていて必ず
いきなりビクッとして少し笑う

それは静電気に出くわしたときの
悲しさに似ているのでは?
だから少し笑うのでは?

 受講者からも感想が出たが「静電気に出くわしたときの/悲しさ」がとてもおもしろい。静電気に「ビクッとする」反応は「肉体」として「わかる」。しかし、それが「悲しさ」とは感じたことがなかったので、とても新鮮に感じた。
 最終連。

ヤードって何のこと
どうしてヤードってタイトルなのか知りたくて
ヤフー知恵袋に質問しても
誰も答えてくれなかった

 この「ヤフー知恵袋」ということばに対して「それまでのことばと違っている。俗っぽい」という批判が出たが、私は、ここはおもしろいと思った。「現実」に存在することば。それが詩になるまでには少し時間がかかる。「ヤフー知恵袋」が詩のことばとしてつかわれるようになったのだ、と私は感じた。


詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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トム・マッカーシー監督「スポットライト 世紀のスクープ」(★★★★)

2016-04-17 21:33:20 | 映画
トム・マッカーシー監督「スポットライト 世紀のスクープ」(★★★★)

監督 トム・マッカーシー 出演 マーク・ラファロ、マイケル・キートン、レイチェル・マクアダムス

 マーク・ラファロを除いて、誰も演技しない、というと語弊があるかもしれない。マーク・ラファロはポケットに手を突っ込んで、前かがみになり、下から相手を見つめるようにしてインタビューするという、ちょっと「癖」を出しているが、これは彼が演じている「記者」をコピーしているのかもしれない。ほかの役者たちは、そういう「特徴的」な肉体の動かし方をしない。まるで誰が演じているのかわからない感じで動いている。
 で、それが、とっても効果的。
 新聞記者であるマーク・ラファロたちは、神父による幼児虐待事件を追っている。被害者をインタビューし、関係する弁護士をインタビューし、加害者だった元神父にもインタビューする。そうして少しずつ「実態」に迫っていくのだが、「実態」と記者は実は無関係。記者が前面に出てしまえば、「実態」がわからなくなる。そういうことを心得ていて、全員が演技することをぐっと抑えている。被害者や弁護士に、「事実」を語らせる。「ことば」で語らせると同時に、「肉体(演技)」で語らせる。彼らの困惑と動揺を引き出す。その揺らぎが明確に浮き彫りになるように、マーク・ラファロたちは「演技」しないのである。
 特に被害者が語る「事実」が、華やかなものでもなく、どちらかといえば隠しておきたいことがら、忘れてしまいたいことがらなので、その「語り」はどうしても抑え目になる。抑え目だけれど、それがくっきりと見えないといけない。だからこそ、マーク・ラファロたちは、まるでそこにいないかのように、姿を消す演技をしている。あるのは「語りにくい事実」だけ。「語りにくさ」のなかにある「事実」、「語りにくさ」こそが「事実」であるということを、全員で支えている。
 とはいっても映画なので、マーク・ラファロたちも「演技」する。しかし、そのクライマックス(見せどころ)の演技というが、なんと「神父目録(名簿?)」の本をひたすらめくり、そこに「休職」と書かれている人物を抜き出すという、とても地味なもの。みんな定規を持って、左の名前、右端の「休職」という項目を抜き書きする。短いシーンなのだけれど、「スクープ」に取り組むチーム全員が同じことを、様々な場所で繰り広げる。省略してもよさそうだが、省略せずに一生懸命やっている。「演技」ではなく、本気で調べている感じだなあ。同じ肉体の動きが、気持ちをさらに「ひとつ」にまとめあげる。強固にする。
 これが、ほんとうにいい。
 「真実の追求」なんて言ってしまうとかっこよすぎて、うさんくさい。名簿から「休職」という項目をもつ神父を抜き書きしているとき、彼らは「真実」など追っていない。単なる「事実」を追っている。それも「肉体」で追いかけ、「肉体」で共有している。そこにあるのは「事実」だけ。
 「肉体」で「事実」をつかんだあと、それを「ことば」で「真実」に昇華させる。
 うーん、うなってしまうなあ。
 それにしても、アメリカの新聞記者はすごい。「事実」をひたすら追いつづける。その「持続力」がすばらしい。映画の途中に、9・11のテロ事件も挿入されるが、それは時代のエピソード。大事件があっても、追いかけている「事件」を手放さない。このしつこさ(?)がおもしろい。警察などの「発表」に頼らず、しつこく「事実」を発掘する。人に直接会って、しかも何度もしつこく会って、ことばを聞き出し、そのことばの向こう側にある「事実」をひっぱり出す。「守秘義務」のある弁護士にさえ、しつこく迫っていく。「言えない」ことは「言えない」と言わせることで、その「言えない」の奥に「事実」が隠れていることをつかみとる。最後には、そのしつこさで「事実」を隠しているひとのこころまで動かしてしまう。「事実」を明らかにすることで、自分の生まれ育ったボストンの街に貢献したいんだ、と。かっこいいなあ。
 「事件」を追う新聞記者と、現在日本で起きている「安倍政権」べったりのジャーナリズムを比較しても、それは比較にならないと思いながらも、日本のジャーナリズムに、こういう「気迫」はあるかな、と思わずため息の出る映画でもある。マーク・ラファロたちは単に神父の犯罪を明るみに出すのではなく、教会の組織的な犯罪を暴く。いわば、組織に立ち向かう。こういう「気迫」はいまの日本のジャーナリズムにはない。「組織」を批判すると「つぶされる」と弱腰になっている。かなしいね。あ、だんだん映画の感想ではなくなってしまう……。
                   (天神東宝スクリーン5、2016年04月17日)




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