野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』(2)(水声社、2016年04月15日発行)
04月28日の野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』の感想で「共犯」について書いた。30ページまで読んで、この詩集のなかで「共犯」ということばが出てくるのは一回だけだろうと書いたのだが、32ページにも出てきた。
あ、びっくり。
でもこれは先に引用した9ページそのままだね。
「際限もなく」繰り返すのが、この詩集だ。「際限のなさ」はモーツァルトみたいだ。モーツァルトの喜びのように際限がない。だから、楽しいときに読むと楽しいが(それこそ、脳がよろこびそうだが)、つらいときに読むと耐えられないだろうなあ、と思う。
際限のない繰り返しは「半球全誌」という作品に特徴的にあらわれている。この詩は(この章は?)、「1(左半球前部)」「2(左半球後部)」という具合につづいていくのだが、そのなかで音が少しずつずれていく部分がある。
「皿と皿」も次々にずれていくのだけれど、それは「名詞」。ちょっと、わきにおいておく。
動詞が「ならぶ」「なやむ」「にらむ」「はらむ」「なごむ」と変わる。ここまでは、あ、同じことをやっているなあ、とほとんど惰性で読んでしまう。一字一字、「意味」を考えたり「イメージ」を追いかけたりしない。「速読術」みたいに、ぱっぱっぱっとページをめくってしまう。
で、「さらんでいるんだよ、」。
えっ、「さらむ」なんて、「動詞」ある?
私は辞書を引かないので、そんなことばがあるかどうか知らないが、私は、「さらむ」ということばをつかわない。「さらむ」でいいのかどうかも、わからない。
わからないのだけれど、「1」から「5」まで、しつこく同じことを繰り返しているのだから、「6」の部分もその繰り返しであり、なんらかの「動詞」が動いているのだと考えてしまう。
「繰り返し」のなかに「論理」を見出し、勝手に納得してしまう。
これがねえ、
「論理」の罠である。
「論理」なんていうものは、嘘っぱち。「論理」ではないことも「繰り返す」と、そこに「論理」のようなものが見えてきてしまう。「論理」は、一種の惰性なのである。「論理」は「脳」が考えるようだが、「脳」などというのは人間の「肉体」のなかでいちばんずぼらな器官なのだと思う。すぐ手抜きをする。同じことを繰り返して、それでごまかしてしまう。
変な言い方だが、(そして変な「比喩」だが、野村の詩を読んでいると、どうしても次のような「比喩」を考えたくなる)、セックスなんていうものは、もし「脳」がなければ、きっと大変なことになる。「脳」が「気持ちいい」と勝手に「ことば」を繰り返して、欲望をごまかしているところがあると思う。ほんとうはもっと気持ちがいいこと、信じられないことがあるのかもしれないけれど、テキトウに「気持ちがいい」で終わらせてしまうところがある。「脳」はテキトウに「よろこんで」、それでおしまいにしてしまうのだ。「真実」なんて、追求しない。それが証拠に、ひとは他人のセックスを知りたがる。読みたがる。自分で工夫するのが面倒くさいから、他人から「方法」を借用してしまう。「盗作」のように。ずるいでしょ? 自分の欲望、自分の官能なのに、自分では追求しないなんて、「脳」が「ずぼらがいいよ」とそそのかすからだ。
あ、脱線したかな?
「論理」は嘘っぱち。なんでも繰り返せば「論理」になる。そして、その「でたらめ論理」が「でたらめ」であればあるほど、「うーん、これが詩なんだ」と「よろこぶ脳」も出てくる。
横書きの詩の「代数学」シリーズがそれ。
前半の変な数学。ここでの「野村の論理」は「掛け算、割り算」というよりも「等しい」ということばに集約される。何かが何かに「等しい」。「等しい」に、人間は「論理」の「正しさ」を求めてしまう。そういう「癖」を野村は利用している。
「等しい」ものなんて、ほんとうはないかもしれない。けれど「脳」はずぼら。個別性を識別するのはめんどう。配慮するのはめんどう。だから「テキトウなところで「等しい」にしてしまう。
それに「あるいは」という「追加」で装飾してしまう。
こんなことろに「真実」はない。そして「真実はない」という「真実」がある。
「論理」とは、こういう同義反復のような「ごまかし」でできている。
「脳」はめんどうくさがりやだから、その「ごまかし」を「論理」と呼んで、さらに「ごまかす」。「うーん、難しい論理だ、よくわからない。けれど、よくわからないから、きっと正しいんだ」と思ったり、あえて難しいことばをつかって「このことばの意味がわからないなら、私の論理がわかるはずがない。ゆえに、私の論理をわからないひとは間違っている」と威圧的になったりする。
「論理」というのは、他人との関係をどう説明するかの「ゲーム」のひとつにすぎない。「ゲーム」だから、それが楽しければ、それでいい。「脳」がよろこぶなら、それでいい。
という具合に、気楽に野村の詩集を読むといいのだと思う。
私は目が悪いし、超論理的な人間なので(つまり、とてもめんどうくさがり屋やなので)、そんなふうに考えている。わからないことは、わからないままで、ぜんぜんかまわない。詩、なのだから。
この詩集には、もうひとつ(もうふたつ?)、変な詩がある。縦書き、横書きともに「正午」というタイトル。サブタイトルもついているのだが、面倒なので省略。
縦書きの方を引用する。
何これ?
わからない。わからないけれど、私は、ところどころに「フランス語」を感じた。「裏 ヤンぬ」とか「あん 子織る」「ぬ 切って 葉」「寿 ぼわっ」とか。「文字」ではなく「音」がフランス語っぽく聞こえる。「じゅすゅいじゃぽん、たこえあしゅはぽん、いかえあしゅじゅぽん(私は日本人です。蛸は足が八本、烏賊は足が十本です)」みたいな「日本語依存フランス語」ではなく、ここに書かれているのは逆の「フランス語依存の日本語」なのかな。
「意味の論理」ではなく「音の論理」が動いていて、私のいいかげんな耳は(黙読なのに)、「フランス語だ」と判断して「ずぼら」を決め込むのである。フランス語を漢字とひらがなにして遊んでいると思って、それから先へとは進まないことにするのである。「おにば」と言われたら節分でもないのに「福は内」と日本語で言い返し、おしまい。
04月28日の野村喜和夫『よろこべ午後も脳だ』の感想で「共犯」について書いた。30ページまで読んで、この詩集のなかで「共犯」ということばが出てくるのは一回だけだろうと書いたのだが、32ページにも出てきた。
あ、びっくり。
私と彼とは、これもすべて述べたように、いわば物語ることの共犯性を軸に際限もなく渡りあい、かさなりあい、転化しあい、帰還しあい、あとずさりしあい、
でもこれは先に引用した9ページそのままだね。
「際限もなく」繰り返すのが、この詩集だ。「際限のなさ」はモーツァルトみたいだ。モーツァルトの喜びのように際限がない。だから、楽しいときに読むと楽しいが(それこそ、脳がよろこびそうだが)、つらいときに読むと耐えられないだろうなあ、と思う。
際限のない繰り返しは「半球全誌」という作品に特徴的にあらわれている。この詩は(この章は?)、「1(左半球前部)」「2(左半球後部)」という具合につづいていくのだが、そのなかで音が少しずつずれていく部分がある。
模様の同じ皿と皿がならんでいるんだよ、(1)
模様の似た皿と皿がなやんでいるんだよ、(2)
模様の地味な皿と皿がにらんでいるんだよ、(3)
模様の燃え上がった皿と皿がはらんでいるんだよ、(4)
模様の立ち騒ぐ皿と皿がなごんでいるんだよ、(5)
模様に模様を重ねた皿と皿がさらんでいるんだよ、(6)
「皿と皿」も次々にずれていくのだけれど、それは「名詞」。ちょっと、わきにおいておく。
動詞が「ならぶ」「なやむ」「にらむ」「はらむ」「なごむ」と変わる。ここまでは、あ、同じことをやっているなあ、とほとんど惰性で読んでしまう。一字一字、「意味」を考えたり「イメージ」を追いかけたりしない。「速読術」みたいに、ぱっぱっぱっとページをめくってしまう。
で、「さらんでいるんだよ、」。
えっ、「さらむ」なんて、「動詞」ある?
私は辞書を引かないので、そんなことばがあるかどうか知らないが、私は、「さらむ」ということばをつかわない。「さらむ」でいいのかどうかも、わからない。
わからないのだけれど、「1」から「5」まで、しつこく同じことを繰り返しているのだから、「6」の部分もその繰り返しであり、なんらかの「動詞」が動いているのだと考えてしまう。
「繰り返し」のなかに「論理」を見出し、勝手に納得してしまう。
これがねえ、
「論理」の罠である。
「論理」なんていうものは、嘘っぱち。「論理」ではないことも「繰り返す」と、そこに「論理」のようなものが見えてきてしまう。「論理」は、一種の惰性なのである。「論理」は「脳」が考えるようだが、「脳」などというのは人間の「肉体」のなかでいちばんずぼらな器官なのだと思う。すぐ手抜きをする。同じことを繰り返して、それでごまかしてしまう。
変な言い方だが、(そして変な「比喩」だが、野村の詩を読んでいると、どうしても次のような「比喩」を考えたくなる)、セックスなんていうものは、もし「脳」がなければ、きっと大変なことになる。「脳」が「気持ちいい」と勝手に「ことば」を繰り返して、欲望をごまかしているところがあると思う。ほんとうはもっと気持ちがいいこと、信じられないことがあるのかもしれないけれど、テキトウに「気持ちがいい」で終わらせてしまうところがある。「脳」はテキトウに「よろこんで」、それでおしまいにしてしまうのだ。「真実」なんて、追求しない。それが証拠に、ひとは他人のセックスを知りたがる。読みたがる。自分で工夫するのが面倒くさいから、他人から「方法」を借用してしまう。「盗作」のように。ずるいでしょ? 自分の欲望、自分の官能なのに、自分では追求しないなんて、「脳」が「ずぼらがいいよ」とそそのかすからだ。
あ、脱線したかな?
「論理」は嘘っぱち。なんでも繰り返せば「論理」になる。そして、その「でたらめ論理」が「でたらめ」であればあるほど、「うーん、これが詩なんだ」と「よろこぶ脳」も出てくる。
横書きの詩の「代数学」シリーズがそれ。
女
の4乗に
女の影の3乗をかけ
さらに女の2乗で割ると
女の影の5乗
に等しい
あるいは
身を細めては漕ぐこの世の果て
墓めく水よ
水めく墓よ
前半の変な数学。ここでの「野村の論理」は「掛け算、割り算」というよりも「等しい」ということばに集約される。何かが何かに「等しい」。「等しい」に、人間は「論理」の「正しさ」を求めてしまう。そういう「癖」を野村は利用している。
「等しい」ものなんて、ほんとうはないかもしれない。けれど「脳」はずぼら。個別性を識別するのはめんどう。配慮するのはめんどう。だから「テキトウなところで「等しい」にしてしまう。
それに「あるいは」という「追加」で装飾してしまう。
こんなことろに「真実」はない。そして「真実はない」という「真実」がある。
「論理」とは、こういう同義反復のような「ごまかし」でできている。
「脳」はめんどうくさがりやだから、その「ごまかし」を「論理」と呼んで、さらに「ごまかす」。「うーん、難しい論理だ、よくわからない。けれど、よくわからないから、きっと正しいんだ」と思ったり、あえて難しいことばをつかって「このことばの意味がわからないなら、私の論理がわかるはずがない。ゆえに、私の論理をわからないひとは間違っている」と威圧的になったりする。
「論理」というのは、他人との関係をどう説明するかの「ゲーム」のひとつにすぎない。「ゲーム」だから、それが楽しければ、それでいい。「脳」がよろこぶなら、それでいい。
という具合に、気楽に野村の詩集を読むといいのだと思う。
私は目が悪いし、超論理的な人間なので(つまり、とてもめんどうくさがり屋やなので)、そんなふうに考えている。わからないことは、わからないままで、ぜんぜんかまわない。詩、なのだから。
この詩集には、もうひとつ(もうふたつ?)、変な詩がある。縦書き、横書きともに「正午」というタイトル。サブタイトルもついているのだが、面倒なので省略。
縦書きの方を引用する。
きみって
字と絵と
暗
部ら 背 老ブデ 手
裏 ヤンぬ 無事へ
あん 子織る オフ ろんで 腫れ
炉へ 手
盛ると
劣化ん 雲ぶる ぬ 切って 葉らんルート
寿 ぼわっ
何これ?
わからない。わからないけれど、私は、ところどころに「フランス語」を感じた。「裏 ヤンぬ」とか「あん 子織る」「ぬ 切って 葉」「寿 ぼわっ」とか。「文字」ではなく「音」がフランス語っぽく聞こえる。「じゅすゅいじゃぽん、たこえあしゅはぽん、いかえあしゅじゅぽん(私は日本人です。蛸は足が八本、烏賊は足が十本です)」みたいな「日本語依存フランス語」ではなく、ここに書かれているのは逆の「フランス語依存の日本語」なのかな。
「意味の論理」ではなく「音の論理」が動いていて、私のいいかげんな耳は(黙読なのに)、「フランス語だ」と判断して「ずぼら」を決め込むのである。フランス語を漢字とひらがなにして遊んでいると思って、それから先へとは進まないことにするのである。「おにば」と言われたら節分でもないのに「福は内」と日本語で言い返し、おしまい。
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