詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党改憲草案(2012年)再読

2021-06-30 19:37:07 |  自民党改憲草案再読

自民党改憲草案(2012年)再読

 2016年、参院選のさなか、私は恐怖を感じた。私は新聞社に勤務していた。選挙は新聞社にとっては「一大イベント」である。編集局内も活気に満ちる。しかし、2016年参院選は違った。開票一週間前の「世論調査」の紙面づくりの日。世論調査の数字、分析に、だれも関心を示さない。まるで自民党が圧勝するのがわかっていて、機械的に紙面をつくっている。変更なんてありえない。そのシナリオは編集局全員に共有されている。シナリオを読んでいないのは私だけ、という感じがした。選挙後、憲法が改正される。安倍の思うがままに改正される。そのことについて、だれもなんにも思っていない。そういう「空気」が満ちていた。
 私は、自民党の2012年の改憲草案が危険なものであると、なんとしても声に出したかった。開票日まで一週間。何ができるか。思いついたことを、ブログに書き続けよう。読む人は少ない。けれど、一人にでも危険を知ってもらいたい。そう思って、大急ぎで思っていることを書いた。大急ぎだったから、書き間違えたところや、書き飛ばしたことがたくさんある。その反省を込めて、もう一度、「自民党改憲草案再読」という形で思っていることを書いておきたい。
 いま、なぜ、書くか。理由はひとつ。東京五輪がおわれば衆院選があり、自民党は「改憲」へ向けて突っ走ると思うからだ。東京五輪でコロナ感染が拡大すれば、菅は「緊急事態条項がなかったから、有効な政策を実施できなかった。緊急事態事項の新設は不可欠である」と訴えるだろう。コロナ感染が拡大せず、無事に大会が終了すれば、菅は「政策は正しかった。その正しい政権のもとで憲法改正を推し進め、よりいっそうすばらしい国にしていこう」と言うだろう。コロナ感染がどう展開しようと、菅は「憲法改正の根拠」に利用する。それが目に見えているからである。
 菅は、コロナ感染のことはまったく気にかけていない。オリンピックは「地元の利(なんといっても、慣れた環境で十分練習ができる)」で日本勢が金メダルをたくさんとるだろう。これを利用しないで何を利用するだろう。国民の健康も、日本の将来も関係ない。菅政権を維持し、強力にするためにも「憲法改正」は必須なのだ。「憲法を改正したときの首相」という名が残れば、菅は安倍を超えた政治家になれるのだ。
 それだけを狙っている。

 前置きが長くなったが、私は、そう思っている。私は私の予想が外れるのなら、それほどうれしいことはないと思っているので、思っていることを書く。平成の天皇強制生前退位について書いたとき、「予測が外れたら恥を掻くぞ」とある詩人に言われたが、私は専門家ではないから、予測が外れたって恥ずかしくもなんともない。オリンピック後の憲法改正の動きの予測が外れても、恥ずかしくもなんともない。外れてくれることを願いながら、それでも自民党憲法改正案について私が感じている疑問を書いておきたい。私の書いていることが間違っているという批判も、私は、平気である。私は憲法学者ではないし、法律も勉強したことはない。自分の思っている疑問を書くだけである。疑問に思っているのに、何も書かないことの方が恥ずかしいと、私は感じている。

 きょうは、「前文」。

 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 私が気になる点はいくつもある。
①日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家
「日本国(国家)」の定義である。「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」というのは、「長い歴史(文化)」なのか。私の知る限り「天皇=象徴」は現行憲法で登場した考え方であって、それまでの日本の歴史とは関係がない。文化とも関係がないだろう。
②国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 この文章は「受け身」である。だれが「統治する」のかあいまいである。「天皇」は象徴だから「統治する」という権能を持たないだろうと推測できる。「立法、行政及び司法の三権」が「統治する」のか。「三権分立」は「権力の分散」(相互抑制)だろう。とても「統治する」の主語にはなれない。「統治される」という表現で「統治する」主語を隠している。これでは「統治者」の責任を問うことが、できない。
 これは、とても大きな問題である。
 私は、どういう文章でも「主語」「動詞」に注目する。とくに「動詞」に注目する。動詞が「主語」を隠すのは、主語に「特権」を与えるためだろう。どういう「特権」かわからないが、ここには「危険な罠」があるはずだ。
③我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、
 ここには「先の大戦」がどうして起きたのか、原因が明記されていない。外国が侵入してきたときも戦争は起きる。しかし、「先の大戦」は、そうやって起きたわけではない。現行憲法では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と戦争責任が政府にあると断罪している。日本が侵略戦争を起こし、失敗し、敗戦したという「歴史」が自民党の改憲草案では隠されている。
 この隠蔽は、
④日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、
 と言いなおされている。「国と郷土を守る」とは美しいことばだが、先の大戦はそうではなかった。中国やアジアの諸国は彼らの国と郷土を守るために戦ったが、日本はそうではなかった。侵略戦争をした日本が、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という目標をかかげるのは、先の大戦(敗戦)の事実の歪曲である。反省が少しも感じられない。
 この前文の「天皇」「統治」「戦争」に関する部分からは、日本は先の大戦の「犠牲者」という認識しか感じられない。ふたたび「犠牲者」にならないために「主語不明」なものの「統治」によって「国家」を形成するという具合にしか読めない。その「主語不明者」は「天皇」を「国民統合の象徴」として前面に出すことで、さらに「責任回避」をしようとしているとも読むことができる。もしふたたび戦争が起きたとしても、きっと「政府」は責任をとらない。「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」のは「日本国民」の「自己責任」であると言っているだけである。
 これは逆に言えば、戦争を起こして金儲けをすれば「政府」は満足。国民が「自己責任」で敵と戦ってくれ、と言っているだけなのだ。
 こんなことを書くのも、
⑤活力ある経済活動を通じて国を成長させる
 とあるからだ。「経済活動」と「国の成長」と何の関係があるだろうか。いまの日本の現実を見ると、さらに疑問に思う。「経済活動」によって「為政者」や一部の「資本家」が豊かになっているだけであって、多くの国民は貧困に苦しんでいる。国民が低賃金で働けば、資本家はもうかる。資本家がもうかれば政治家に「献金」が転がり込む。成長するのは「国」ではなく、政治家の資産と資本家の資産である。
 「前文」の書き出しで「歴史と文化」を掲げながら、国家の目標が「経済成長」に限定されている。こんなばかばかしい「前文」はないだろう。

 いろいろ書いたが、私がいちばん気にしているのは②に書いた「統治される」ということばの問題である。
 自民党改憲草案の「前文」は五段落からなっている。主語と述語だけを取り出してみると、「日本国は、統治される」「我が国は、貢献する」「日本国民は、形成する」「我々は、成長させる」「日本国民は、制定する」。
 受け身の文章は「統治される」だけである。ほかは「主語」がはっきりしている。「統治される」では統治される「対象」が明記されているだけである。「日本国は(日本国民は)、統治される」。
 だれに?
 考えられる答えはひとつである。この「草案」をつくった「自民党」に統治されるのである。この「統治する」は「支配する」だろう。「統治する/支配する」という「意図」を隠すために、「統治される」と書いているのである。

これは、現行憲法の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と比較すると、さらによくわかる。現行憲法は「政府に戦争をさせない、主権は国民になる、政府の言いなりにならないために憲法を制定した(政府を拘束するために、国民が憲法を制定した)」と言っている。この文章を自民党憲法草案が削除したのは、国民が政府を拘束するのは許せない、という気持ちがあるからだ。国民は自民党の言うことを聞け、というのが自民党の憲法改正草案の狙いなのだ。

 そう読むと、各条項の「文言」の変更が明確に見えてくる。自民党が子組みを「統治する/支配する」ために文言を変更しているのである。

*(現行憲法の前文は、次の通り)
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 


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セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」

2021-06-29 09:58:28 | 映画

セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(★★★★)(2021年06月28日、KBCシネマ2)

監督 セルジュ・ゲンズブール 出演 ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ジェラール・ドパルデュー

 フランス人の肉体感覚(肉体のとらえ方)というのは、私には、独特なものに見える。なんとういか……修正なし、なのだ。
 ジェーン・バーキンの小さな胸(あまりにも小さい乳房)が象徴的だが、それをそのままさらけだす。その小さな胸は、それだけを取り出すと魅力的ではない。だが、体全体がそこにあるとき、それは別な働きをする。体のラインをすっきりと、透明感のある美しいものにかえる。欠点(?)を気にしていない。
 逆の肉体もある。ジェーン・バーキンの雇い主である店長の男は、太っていて、しきりにおならをする。それはそれで、ひとつの体なのである。汚く、醜い。ひとの体というものは、そういうものなのだ。批判はするが、その肉体をどうかしろ、とはだれも言わない。肉体とはそういうものだと受け入れている。
 象徴的なのが、店で開かれるダンスパーティーのクライマックス、素人ストリップである。美人でもなければ、若くもない。そういう女が舞台でストリップをしてみせる。官能をそそる動きをするわけでもない。「芸」なしで、ただストリップをする。
 しかし、見ている観客(男も女も)は、そのストリップを見ながらいろいろなことを考える。セックスの妄想もあるだろうが、なんというばかなことをしているのだろう、というようなさめた意識も漂っている。ストリップに対してあからさまな反応はしない。それぞれの場で、眼を動かす、手を動かす、あるいは表情をかえない。
 それぞれの肉体が、ただ「共存」する。
 この、ただ「共存する」(一緒にある)というところから、一歩踏み出すと「恋愛」になる。セックスになる。セックスは、ただ単に肉体の接触ではなく、官能を共有して、はじめて恋愛にかわる。修正なしの肉体が、修正なしのまま、手さぐりで「到達点」をまさぐり、到達した瞬間に、いままで存在しなかった恋愛が生まれてくる。ほかのだれにも手出しできない恋愛が。
 ジェーン・バーキンとジョー・ダレッサンドロが安いあいまい宿を追い出され、豪華なホテルも追い出され、荒野で、トラックの荷台で、だれもいないところで、ふたりだけでセックスし、エクスタシーを共有する。だれものでもない肉体が「相手」のものになる。「相手」をみつけることで、区別がなくなる。
 たぶん、恋愛があって、セックスがあるというのではない。フランス人にとってとは。セックスがあって、一緒にエクスタシーに達して、そのとき「恋愛」になる。「肉体」が恋愛の対象として生まれ変わる。
 この映画は、そういう過程を描いている。
 ちょっと変わった肉体(自分の知らない肉体)に出会う。どうすればいいんだろう。わからないけれど、セックスしてみるしかない。苦痛が生まれるのか、快楽が生まれるのか。それは、個々の肉体の問題である。当事者の問題である。他人が口を挟むことはできない。乳房が小さい。それがどうした? 相手はゲイであり、膣に挿入できない。それがどうした? フランス人は、肉体的欠点を持っていることをおそれない。むしろ、欠点があるからこそ、そこに生きている何かを感じるのかもしれない。
 余分なことを書きすぎたかもしれない。この映画は、そういうストーリーとは別に、奇妙な魅力を持っている。ジョー・ダレッサンドロはゴミの運搬をしているのだが、そのトラックのとらえ方(映像)、走る荒野のとらえ方が、孤独感をあおる。何もかもが汚い、というのが不思議に美しい。それも強調の美ではなく、あるがままの美。そこに存在するから、それでいいのだ、という感じの美。豚のように太った犬や、ゴミのなかから拾いだしたぬいぐるみ、得体のしれない肉の固まり。それはリアリティーという美しさである。修正しない美。と言いなおせば、最初に書いたジェーン・バーキンにつながる。
 この映画には、おまけがついている。おまけと感じるのは、私だけかもしれないが。のちに有名になるジェラール・ドパルデューがドラッグにおぼれているセックスアニマルとしてうす汚れた感じを体全体であらわしている。鞍なしの白い馬に乗って、我が道を行くという感じで紛れ込んでいる。
 変な映画だが、映画でしか到達できない「変な質感(肉体感覚)」を、観客の反応なんか知ったことか、という感じでスクリーンにぶっつけている。フランス人にしか撮れない、とてつもなくフランス的な映画だと思う。

 

 


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鈴木志郎康「1 詩」ほか

2021-06-27 08:56:45 | 詩(雑誌・同人誌)

 

鈴木志郎康「1 詩」ほか(「現代詩手帳」2021年07月号)

 鈴木志郎康は「五つの詩」を書いている。連作、ということになるのか。「1 詩」がいちばんおもしろい。

  詩って書いちゃって
  どうなるんだい。

  詩を書いてなくて、
  もう何年にも、
  なるぜ!

  ノートを買ってきてくれた
  ゆりにはげまされて、
  なんとかなるかって、
  始めたってわけ。

  それゆけ、ポエム。
  それゆけ、ポエム。

 何も書くことがない。書くつもりもなかった。でも、原稿依頼が来た。どうしようか。「ゆり」がノートを買ってきた。励ましてくれた。それじゃあ、書いてみるか。それだけのことであるが、ここには「嘘」がない。あるのかもしれないけれど、「嘘」がみえない。それが、とてもおもしろい。
 これが、詩か、と正面切って質問されたら、ちょっと困るなあ。
 でも、これでいいんだ、と思う。
 ことばを動かそうとしている。
 「それゆけ、ポエム。/それゆけ、ポエム。」というのは詩への励ましなのか、鈴木自身への励ましなのかわからないが、どっちでもいいだろう。もしかしたら鈴木のことばではなく「ゆり」のことばかもしれない。
 わかるのは、ことばが動いていけば、それが詩なのだ。
 「ゆけ」だけではなく「それゆけ」というのがいいなあ。
 その次の「2 85」というのも好きだなあ。これが「五つの詩」のなかではいちばん傑作かな。

  始まりの数字なのだ。
  それから1年が過ぎるとしだ、
  85は1年から85年が過ぎた数字だ。
  85を過ぎ、86、87、88へ進む。
  85は現在の私の年齢だ。
  それが86、87、88へ、
  進んで行くのか、
  進んで行くって、比喩だ。
  この比喩は闇だ。
  その闇に光を当てると、
  命が現れる。
  そして、85歳のわたし。
  何か、ほっとした心が浮かぶ。

 「85を過ぎ、86、87、88へ進む」のは、自然なこと。そこには「論理」(ことばの運動)はない。でも、ことばにすると、それがことばの運動になり、書いても書かなくても変わらないことが、書くことによって動きという「真実」になる。「事実」の方がいいかなあ。
 というのは、その「運動の事実」、鈴木は「進んで行く」と書いているのだが、そう書いたとたんにそれが「事実」であるはずなのに「比喩」になって成立し、比喩はさらに比喩を呼び出し、「自立して」動き始める。ここがすばらしい。詩のハイライト(さび? 泣かせどころ、きかせどころ)は、次の「その闇に光を当てると、/命が現れる。」にあるのだが、そこへもっていく(たどりつく)までの過程に「嘘」がない。こういう「正直」は、私は大好きだ。「その闇に光を当てると、/命が現れる。」というのは、意味が強すぎてうるさいといえばうるさいが、このうるささが鈴木の「自己拡張/自己増殖」のうるささなのだ。
 「そんなこと85にもなって言うなよ。命じゃなくて、死の方が近いだろう。死が現れる、と書けよ」と、巷のひとは言うかもしれない。
 ある百歳近い人の葬儀だったか通夜だったか。九十歳を過ぎた人が「私も後十年だなあ」と言ったら、近親者が「ばかいってもらっちゃ困る。さっさと死んでくれ」と影でぼそりと言ったが、そういう不躾なことばでないと対抗できない「強さ」が、鈴木の詩にはある。
 八十五歳になって、長い間詩を書いていないといいながら、書き始めるとことばがかってに「事実」をつかみとって、その向こうまで行ってしまう。鈴木の詩も、自分が自分ではなくなるところまで、ことばの勝手な「自己拡張」にひっぱられて行ってしまい、行ってしまって、もう自分ではないのに、それが「現在の自分(85歳のわたし)」と言い切ってしまう。
 こりゃあ、太刀打ちできないね。私なんかには。だから、こんなふうに乱暴な感想を書く。若者と向き合うよりも、白石や鈴木のような老人と闘う方が体力がいる。まいったね。
 「3 赤ちゃん」では赤ちゃんのかわいさ、生命力を讃美した後、「そしてわたしも生きのびて来た。」と書くのだが、これは「わたしはかわいいのだ」という声にしか聞こえない。すごいよ、これは。
 鈴木の詩は「1」「2」「3」「4」「5」と進むにしたがって長くなっている。書くことでだんだん元気になって行っている。詩が鈴木を元気にさせているのだ。当然のことなのかもしれないが、これも、すごいとしか言いようがない。この調子だと、鈴木は死なないね。死ねないね。私の方が確実に先に死んでしまうなあ、と思うのである。

 

 

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白石かずこ「詩をかいて とカンタンにいうが」

2021-06-26 08:24:52 | 詩(雑誌・同人誌)

 

白石かずこ「詩をかいて とカンタンにいうが」(「現代詩手帳」2021年07月号)

 「現代詩手帳」07月号を開いて、ぱらぱらとめくり、思わずギョッとした。このギョッの感じは、いまの若い人にはわからないかもしれない。そこには、私が青春時代に読んできた詩人が並び、新作を発表している。なにやらアンケートまでついている。そして、そのアンケートというのが、どうも「まだ生きているのか」というような問いかけに見える。みんな「まだ生きているさ」と恨み言のようにことばを並べている。「ははは、なかなか死ねなくてね」というような冗談めかした声ではないのである。全部読んだわけではないけれど。妙に真剣なのである。いや、真剣が悪いわけではなく、いつでも真剣でなければいけないとは思うが、ずらりと真剣が並ぶと、「凶器」が並んでいるようでギョッとするのだ。息が抜けない。笑いたいけれど、笑えない。「おじいちゃん、おじいちゃん。危ないから刀をふりまわすのはやめなさい」と声をかけることができないのだ。
 こんなことを書くと「失礼な!」と言われるだろうけれど、思ったことは書かずにいられない。なかには、ほんとうに「あ、この人まだ生きていたのだ」という形で思い出す人もいて、ほんとうにびっくりした。
 と書いている私も、もう高齢者だし、きっと若い人から見れば、まだ何か書いている、という印象しかないだろうなあ。「まだ生きているのか」と批判されそう。

 前置きが長くなったが、白石かずこ「詩をかいて とカンタンにいうが」がおもしろかった。

  詩はかけない。詩は魂をちぎってかく、

 この書き出しからして、あ、白石かずこだと思う。「魂」ということばからか。いや、「ちぎってかく」の「ちぎって」という音だな。生きている。「詩はかけない」といいながら、書いている。そのとき「魂をちぎってかく」。「切る」ではなく「ちぎって」。「凶器」は真剣(刀)ではなく、「素手」である。それが、かっこいい。私は実物(失礼!)は見たことがないが、もうすでに「おばあちゃん」だろう。最初の詩集が、私が生まれる前に発行されているくらいだから。そのおばあちゃんが、素手で、魂をちぎっている。だれも刀を貸してくれないから、素手で、力いっぱいちぎっている。しかも、「魂」を。私は「魂」というものを見たことがないから「ちぎれる」ものかどうか知らないが、ともかく力を込めていることだけは、最初の行からわかる。

  詩はかけない。詩は魂をちぎってかく、
  感覚を総動員してかく、その上に、
  イメージと才能、思想をもつ、
  詩はバケモノのように変化する。じっとしていない。

 私が「素手」と読んだものを、白石は「感覚」と読んでいる。「総動員」か。このことばに力がみなぎっている。どんな感覚も動かないでいることを許さないのだ。おばあちゃんになっても、「才能」と叫んでいる。「詩はバケモノのように変化する」ではなくて、「白石かずこはバケモノだ」。すぐに変化する、だろうなあ。
 私は「おばさんパレード」というタイトルで女性の詩人をまとめて批評したいと思ったことがある。いまでも思っている。そのなかには「バケ猫」ということばをつかっていた詩人がいるが、「バケモノ」の方がすごいなあ。
 「バケモノ」って、どういうもの? 白石はこう書いている。

  サッと逃げていく。ドロボーも悪党もマネができない。
  しかたがないから神を呼ぶ。タマシイとか、イメージとか、
  どこかで遊んで休養している心とかに きてもらう。

 「ドロボー」「悪党」「神」が同列なのだ。分け隔てがない。ギリシャ悲劇みたいだ。「タマシイ」「イメージ」は、共通項を持っているのか、それとも「悪党」「神様」のように対極にあるのか。いや、「泥棒」「神」こそが共通項をもった存在かもしれないなあ。
 白石のことばはどんどん加速する。

  乗り気でない心たち、魂たちにムチうって、あつまってもらう。
  心はイヤなやつだ。なんとか逃げ出そうとする。と、まちうけたやつがいて、
  心に水をかけ、火をみせ、たたきはじめる。

 わっ、すごい。もう目が離せない。「おばあちゃん」は限界を知らないから(きっと認知症で限界を認識できない)、「水」と「火」も水や火ではいられない。ことばではいられない。なんというのか、特権的な「もの」として「おばあちゃん」のいうがままである。
 そのとき、何が起きるか。

  たたかれると心は快楽を感じ、眼をさまし、走りだす。
  イメージも才能もフトンから飛びおきて シャワーをあび、アッ!

 「快楽」か。「眼をさまし」か。これは、こわい。「おばあちゃん」が快楽に目覚める。それは、若いときのエクスタシーなんかとはまったく違うだろうなあ。演技しているうちに、その気になってしまうというようなぼんやりしたものではない。ほんとうに自分の外に飛び出して、もう自分ではなくなるのだ。もう「寝たきり」なんかやってられない。ドラッグでも、ここまで「おばあちゃん」を変えることはできなだろう。
 詩の力だなあ。

  走り出したら安心。地球のハテまで、行ってくれ。
  いまは車の中、全員、集合! これから
  お茶を飲む

 あ、これでおしまい? なんだか妙な終わり方だなあ。死んじゃった? 「地球のハテ」ではなく「宇宙のハテ」、いや「いのちのハテ」まで行ってしまったのかな?
 もしかしたら最後の二行は、「現代詩手帖」の「特集」にあつまった同年代の「全員」に呼び掛けているのかな? いま、同じ車(現代詩手帖)に乗り込んで、出発進行。でも、まあ、詩を書いたから「それじゃあ、お茶にしようかねえ」と言っているのかも。

 詩は若い人のものだと思うけれど、いまの若者は、現代詩手帖の特集をどう読んだかなあ。白石の狂暴さに、どんなことばで立ち向かうのかなあ。感想を聞いてみたいものだ。

 

 

 

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(10)

2021-06-25 00:01:02 | 詩集

高柳誠『フランチェスカのスカート』(10)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「猫」。「ぼく」の部屋に猫が出入りしている。「ぼく」は猫を保護しているつもりだが、猫の方でも「ぼく」を守っている気でいるようだ。しようがなしに、つきあっていると言えばいいのか。

     ぼくの方でも「ネコ」と呼ぶだけで名前を付けていない。名
  前を付けたとたん、飼い主と飼い猫の関係になり、対等ではなくな
  ってしまう気がするからだ。

 名前をつけない、名前を呼ばない。それが「対等」の関係を意味する。そして「一般名詞」で呼ぶことは、「ぼく」をも一般名詞化/抽象化することなのだ。
 これは逆に言えば、この詩集の中に出てくる「フランチェスカ」は、それがたとえ偽名であろうとも固有名詞であり、その名前を知ってしまうことは「対等」の関係ではなくなるということだ。「特別な」関係になるということだ。
 すでに出てきた「親方」はやはり「親方」であり、固有名詞を持たない。「手紙」の相手も「きみ」であり、固有名詞を持たない。それは「記憶の轍」に出てきた「純粋記憶」のようなものかもしれない。「修道院」には「シスター・エリーザベト」が出てくるが、これは「シスター」の方に重きがある。「シスターA」とか「シスター1」と書くわけにはいかないから、かりそめの呼称である。なぜ「シスターA」「シスター1」と書けないかというと、そう書くと「シスター」という「記号」がさらに記号化してしまうからである。
 高柳のことばは、固有名詞を書いていても「記号」の印象があるが、なぜ記号を高柳は偏愛するのか。
 「関係」を描くことが高柳の目的だから、「関係」以外のものに視点がずれないようにするためである。詩のなかの「対等」はあくまでも「対等の関係」という意味である。直前に出てくる「関係」を補って読むと、いっそうわかりやすくなる。

 

 

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谷川俊太郎『どこからか言葉が』(4)

2021-06-24 09:19:09 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(4)(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 聞いたことはある。でも、つかい方が違う。つまり、意味が違う。でも、わからないわけではない。そういうことばがある。そういうことばに出会ったとき、私は非常にとまどう。どうしていいか、わからない。
 「まだ生まれない子ども」という作品がある。

  まだ生まれない子どもは
  ハハのおなかの中で
  まどろんでいる
  ハハは砂の上に立って
  海をみつめている

  まだ生まれない子どもは
  ハハのおなかの中で
  ほほえんでいる
  ハハは坂道を上る
  日々をたしかめながら

  まだ生まれない子どもが
  ハハのおなかの中で
  身じろぎする
  ハハは眠っている
  いのちを信じきって

  もう生まれてしまった子どもは
  それはつまりあなたですが
  ハハから遠く離れて
  未生から後生へと
  いのちを一筆書きしています

 「後生」に、私は驚いた。私は、「後生だから、お願いします」というようなつかい方しか知らない。これは聞いたことがある。ひとに何か頼むときにつかう。「慣用句」だ。自分では言ったことがない。聞いたのは、「時代劇」か何かの中であって、現実に「後生だから」を聞いたことはない。時代劇ではなく、いまの現実社会なら、「一生のお願い」と言うかもしれない。
 谷川は、もちろんそういう「慣用句」のつかい方をしているわけではない。「未生」に対して「後生」とつかっている。だから、意味は、死んで生まれ変わった後、ということはわかる。わかるけれど、やはり私はびっくりした。
 後生か、こういうつかい方があるのか。
 そう書いてしまえば、この詩の感想はおしまいなのだけれど。でも、おわらない。もやもやした何かが残る。つかみきれない何かが残る。
 前半の三連、「まだ生まれない子どもは/ハハのおなかの中で」という書き出しが繰り返され、子どもは「まどろんでいる」「ほほえんでいる」「身じろぎする」と変化する。成長しているのかな? それにあわせてハハも変化していく。「海をみつめている」「坂道を上る」「眠っている」。海をみつめる、は「遠くをみつめる」「未来をみつめる」かな? 「坂道を上る」には「肉体」の強さがある。「日々をたしかめながら」と書いているが、日々おなかの中で成長していく子どものいのちをたしかめながらと読むことができるし、元気な子どもを産むための自分の肉体の強さを確かめながらとも読むことができる。「きょうは何日、きょうは何をする日」という「予定」確認ではなく、自分の「肉体の充実」をたしかめながらという感じ。「眠っている」は安心して眠っている。安心は「命を信じる」ということである。子どものいのち、自分のいのち。区別なく、両方を信じている。生まれてくる子どもと、生まれてくるのを待っているハハ。
 そこには、「死」を感じさせるものが、いっさいない。
 この詩だったのか、それともほかの詩だったのか。谷川の「まだ生まれない子ども」という一行をめぐって、朝日カルチャーセンター福岡で語り合ったことがある。私は(そして、多くの男性は)、この一行を単純に「ハハの胎内にいる子ども」と受け止めたのだが、女性の受講生のなかから「もう生まれてもいいのに」という意味があるというような指摘があった。産む実感、生んだ実感が「まだ」の意味合いを変えるのだろう。「まだまだ、おなかの中にいたがっている」と感じるのだろうか。こういう母と子の「会話」は、体験者でないとわからない。すっと、ことばが動かない。
 こうした女性の反応でも、「死」は予感されていないように思う。どうして「後生」ということばが出てきたのか。
 もしかすると、「死」は予感されていないのではないか。というより、「死」は最初から存在していないのではないのか。
 「後生」というと、私はどうしても「死んだ後」の「生」と思うが、谷川は「死んだ後」のかわりに「生まれ変わった後」と感じているのかもしれない。「死」を意識しない(意識できない?)から、「未生から後生へ」が「一筆書き」になる。「死」という切断がない。それが「一筆書き」なのではないか。
 「輪廻」ということばがある。私は仏教のことはわからないのでテキトウに受け止めているが、「輪廻」とは生まれ変わり、死に変わる繰り返しのことだろう。そこにも「死」は存在する。
 谷川の「未生から後生へ」には、その「死」がない。
 最終連の「もう生まれてしまった子ども」は、「未生」ではない。「生」そのものである。そのことを意識すると、「未生から後生へ」というのは、「未生→生→後生」であって、「生→死→後生」ではない。
 たぶん、「未生→生→後生」という一つながり(一筆書き)が谷川の哲学/思想/肉体なのだろう。「一筆書き」と言わずにはいられない理由なのだろう。
 そしてこの「一筆書き」のなかには、「魂」とか「妖精/天使」も含まれているのだろう。「宇宙」も「孤独」も。つまり「生(いのち)の一筆書き」が「世界」であり、「死後」なんていうものは、存在しない。

 私も「死後」なんていうものは存在しないと考えているが、その考え方は谷川とはまったく違う。私は「生→死」でおしまい。肉体(いのち)がなくなれば何もない。魂というものはこの世にも、死後にも存在しない。もちろん「未生」も「後生」もないと思っているので(胎児は、未生ではなく、すでに生と思っている)ので、たいへん驚いた。
 『どこからか言葉が』を読んだとき、この「まだ生まれない子ども」、そのなかの「後生」について書きたいと即座に思ったが、それを書くまでに、かなり寄り道をした。すぐには書けなかった。そして、書いた今も、まだ「書いた」という気持ちににはなれない何かが残っているが、これは仕方がないことだとも思う。何回か思い出したときに書き続けるしかないことなのだと思う。何回か書いてみないことには、腑に落ちるということがない世界である。私には絶対にたどりつけない世界かもしれない。

 詩では、「もう生まれてしまった子どもは/それはつまりあなたですが」と書いてあるが、「あなた」は谷川であり、この詩は「いのちの一筆書き」をしている谷か輪の自画像であると思って、私は読んだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇98)Jose Manuel Belmonte Cortes

2021-06-23 17:06:04 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇98)Jose Manuel Belmonte Cortes
"MERCURIO"

バシュラールだっただろうか。

空を飛ぶ夢を見る。

そのとき羽はかかとに生えている。

私も空を飛ぶ夢は見たが、鳥のように(飛行機のように)手を広げてという感じではない。

いつも立ったまま飛んでいる。

それで、このバシュラールのことばを記憶している。

また、パゾリーニの何という映画だったか忘れたが、恋人が空を飛ぶシーンがある。

そのとき恋人たちはやはり立ったまま、かたく抱き合っている。

きっと羽はかかとに生えているのだろう。

 

Es Gaston Bachelard?

Tiene el sueno de volar.

En ese momento, las alas estan creciendo en el talon.

Sone con volar, pero no abri las manos como un pajaro o como un avion.

Siempre estoy de pie y volando.

Asi que recuerdo esta palabra de Bachelard.

Ademas, recuede una pelicula de Pasolini, en esa peli las parejas vuelaba por el cielo.

En ese momento, los amantes estan de pie y abrazandose.

Estoy seguro de que las alas crecen sobre los talones.

 

 

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フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』

2021-06-23 09:55:24 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)(集英社、1978年12月20日発行)

 フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)を再読した。入院中に読んだ短篇再読のつづき、という感じで。ただし、再読と言っても、前に読んだときは本のページにしたがって読んだだけ。今度はコルタサルが指示している順序(指定表)で読んだ。
 そして、あっ、と声を上げた。
 全部で155の断章から構成されているのだが、最後の方は131→58→131と同じ「131」が前後して出てくる。まあ、こういうのは映画のラストシーンなんかにはありそうだけれど、小説では珍しい。
 でも、あっ、と声を上げたのはそこではない。
 指示表にしたがって読んでいくと、「55」(296ページから300ページまで)を読み落とすことになるのである。
 冒頭の「指定表」以外に、各断章の末尾には、括弧で次に読むべき断章の番号が明記されているのだが、この末尾の番号も「55」に限っては書かれていない。指定表が間違っているわけではなく、意図的なのだ。
 そして、というか、ということは。
 コルタサルは、実は、この「55」をこそ書きたくて、『石蹴り遊び』を書いたのだ。ここにこの小説のすべてが書かれているのである。『石蹴り遊び』を「短篇」に書き直すと「55」になるのである。
 『石蹴り遊び』の主要な登場人物は、オラシオとラ・マーガ、トラベラーとタリタ。舞台はパリとブエノスアイレス。オラシオとラ・マーガはパリで暮らしていた。オラシオはブエノスアイレスに帰って来てトラベラーとタリタに会う。ラ・マーガはパリで自殺している(溺死)。オラシオはタリタをラ・マーガと見間違う、という感じでストーリーは展開する。タリタ(ラ・マーガ)を真ん中に、オラシオ、トラベラーの「三角関係」のようなものが動く。オラシオは最後は飛び下り自殺(?)をする(した)らしい。瀕死のベッドで、オラシオは自分の生涯を振り返っている、という風に私は全体を把握していたのだが……。
 で、それが「55」では、
<blockquote>
 しかしトラベラーは眠っていなかった。悪夢は一、二度襲来を企てたのち、彼の周囲を旋回しつづけ、結局彼はベッドの上に身を起こして明りをつけた。
</blockquote>
 ではじまり、
<blockquote>
 --ラ・マーガはわたしだったの--とタリタは言って、トラベラーに体を押しつけた--。あなた気がついていたかしら。
</blockquote>
 をはさみ、
<blockquote>
 タリタはベッドの上で少し体を滑らせてトラベラーに凭れかかった。彼女は実感していた、自分がふたたび彼のそばにいることを、彼女が溺れ死にはしなかったことを、(略)二人はそのことを同時に感じ取り、互いに相手の方へ滑り込んで言ったのだった(略)、二人を包みこむ共通の領域へ落ちこんで行くように。それらの心静まる比喩、いつもの存在に戻ることに満足する、風と潮に逆らって、呼びかけと下降に逆らって、浮かび漂いつづけること、浮かび漂ったままでいることに満足する、あの古い悲哀。
</blockquote>
 と終わる。
 重要なのは「同時」であり「共通」である。生と死は「同時」に存在し「共通」している。オラシオの夢のなかでラ・マーガは死に、トラベラーの夢のなかでオラシオが死ぬとき、タリタの夢のなかでラ・マーガはよみがえる。単によみがえるのではなく、タリタとなってよみがえる。そして、ラ・マーガがよみがえれば、オラシオもよみがえるはずであり、そのときオラシオはトラベラーになる。
 それは、だれの夢なのか。
 私は突然、ジョイスの『ユリシーズ』を思い出す。『ユリシーズ』の「主役」はだれなのか。「主役」を問うて、何かが解決するわけではないが、私はブルームに身を寄せて小説を読んでいる。しかし、その最後はモーリーの「イエス」の連続で終わる。そうであるなら(?)、『石蹴り遊び』も、自分がラ・マーガであることを受け入れた(イエス、と言った)タリタの夢かもしれない。
 男が(コルタサルが、ジョイスが)、自分では見ることのできない「夢」を女性を登場させることで(自分が女性になることで)、男には不可能な「夢」を見ているのかもしれない。絶対的現実、超越的現実の世界を手に入れようとしているのかもしれない。
 このとき、もうひとつ、「浮かび漂う」という動詞も重要になるだろうと思う。短篇を再読したとき、コルタサルは「意識の流れ」ではなく「思いの流れ」を書いている、と指摘した。「浮かび漂う」のは「思い」である。「結論」など求めていない。「結論」へとたどりつくことを放棄して、いま、ここで、二つのもの(複数のもの)が「同時」に出会い、「同時」に漂うとき、そこに生まれてくる「共通」の思い、思いを結びつける「共通」の何か。それを味わうことが「生きる」ということなのか。

 いつかは、自分の好きな順番に、私の「指定表」をつくらなければならない。それが完成したとき『石蹴り遊び』を読んだと言えるのかもしれない。
 小説も詩集と同じように、自分の好きなところを、自分の好きな時間に読んで味わうものなのだろう。そういうことを『ユリシーズ』も『石蹴り遊び』も教えてくる。


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谷川俊太郎『どこからか言葉が』(3)

2021-06-22 08:37:43 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(3)(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 朝日カルチャーセンター福岡の受講生といっしょに「夕闇」を読んだ。(6月21日)

  夕闇に向かって
  椅子に座っている
  隣の部屋から明りがもれているが
  そこにいた人たちは
  もうこの世界から立ち去っている
  私は十分に苦しんでいない

  私のからだの
  いちばん深い淵で
  誰かがチェロを練習している
  音楽以前の素の音が
  私のこころの琴線に触れる
  私はまだ十分に苦しんでいない

  ことばが先にたって
  こころがその後をたどってきた
  からだはことばを待たずにいつもそこにいた
  夕闇が濃くなって
  遠い空に光が残っている
  悲しむだけで私は十分に苦しんでいない

 「私は十分に苦しんでいない」と谷川は書いているが、「なぜ苦しまなければいけないのか」という、しごくまっとうな感想がまっさきに聞かれた。こういう疑問から始まるのは、とてもおもしろい。谷川の詩だからといって、感動する必要はない。おかしいとおもうところは、おかしいと言わないと、ことばは正直に動かない。
 私もわからない。
 私にわかることは、「私は十分に苦しんでいない」「私はまだ十分に苦しんでいない」「悲しむだけで私は十分に苦しんでいない」と、連がかわるごとにことばが少しずつかわっていること。「まだ」が追加され、「悲しむだけで」と言いなおされている。
 これは、どう思う?
 「悲しむも自分のことだけれど、苦しむには相手が必要」と、いきなり哲学的というか、形而上学的というか、考えさせられることばが飛び出した。「悲しみを生きているだけで、苦しみを生きていない」「亡くなったひとと対比が感じられる。悲しむは追悼の感じ。苦しんでいないは、死んでいない、ということを指すのでは」
 私は何を感じていたのだったっけ、と思うくらい、激烈なことば(感想)にふりまわされてしまった。何を感じていたのか、忘れてしまった。
 谷川は、死を感じている、死を待っている、ということ?
 「そう思う」
 そこから「なぜ、苦しまないといけないのか」「なぜ、死なないといけないのか」という最初の感想に戻るのだろうか。
 今回は、谷川の詩を読むだけではなく、受講生の詩の感想を語り合うことがメインだったので、時間が少なく、駆け足で谷川の詩を読むことになった。それで、この「私は十分に苦しんでいない」はそのまま保留しておいて、ほかに印象的なことばはないか、気になることはないかを聞いてみた。
 まず「そこにいた人たちは/もうこの世界から立ち去っている」の「そこにいた人たち」とはだれのことだろうか。聞いてみた。
 「現実のだれかというよりも、架空の人、概念、抽象的な人ではないだろうか。この世界から立ち去っているは死んだというよりも、時間の経過をあらわしているだけではないだろうか」
 私は、単純に、これは谷川の両親のことかなあ、椅子に座っているひとは谷川かなあと思って読んでいたので、とてもびっくりさせられた。
 では、二連目の「誰かがチェロを練習している」というのは、誰?
 「子ども時代の自分」
 「いや、「からだの/いちばん深い淵で」と書いているから、ことばが生まれる前、ことばになる前の抽象的な人間では」
 うーむ……。
 「私は、三連目の、ことば、こころ、からだという順番がわからなかった。からだがあんて、こころがあって、ことばがある、と思う」
 「意識を逆転させて書かれているのでは? 逆さまに時間を動かしている」
 時間の流れと、意識(認識の動き)を重ね、単純に過去から未来、というのではなく、今から過去を振り返るような動きを、ことば、こころ、からだ、ということばとの順番と重ねて読むのか。
 でも、二連目に、からだ、こころ、が出てくるよね。三連目だけ読むと、ことば、こころ、からだの順番だけれど、二連目を意識すると、からだがあって、こころがある。ことばのかわりにチェロがあるのかもしれない。
 「音楽以前の素の音、が谷川らしい」
 ことば以前のことば、未生のことば、という言い方が谷川の詩にはよく出てくるように思う。チェロの響きは、未生のことばのようなものかなあ。
 でも、よくわからない。
 わからないことは、わからないままにしておく。むりやり答えを出さず、気が向いたら考えてみることを「宿題」にして、講座はおしまい。「答え」をだすことではなく、考える、考えること、感じたことをことばにすることで詩に近づいていくことが講座の狙いなので。

 と、ここで打ち切っていいのだけれど、私が思ったことを少し追加しておく。
 三連目の、

  ことばが先にたって
  こころがその後をたどってきた
  からだはことばを待たずにいつもそこにいた

 というのは、谷川のこれまでの人生の「反省」なのかもしれないと思う。谷川が自分のいままでを振り返ってみると、まず「ことば」が先にあった。その「ことば」にあわせて「こころ」を整えてきた。ことばがつくった道をこころが歩いてきた。一方、「からだ」の方は、ことばとは無関係に(ことばつくった道を歩いていくというのではなく)、いつでも「そこに」いた。「そこ」というのは、どこかなあ、むずかしいなあ。たぶん、「ことば」が生まれるその「場」というものかなあ。
 フランス語に「y 」という不思議なことばがある。「il y a」「on y va 」「allons-y」というときの「y 」見たいな感じ。
 谷川が二連目でつかっていることばを借りて言えば、「からだの(人間の無意識の)いちばん深いところ」で思い描いている「場」。いちいち意識(ことば)にするのがややこしい「場」といえばいいのかなあ。
 「からだ」はたしかにそこに「いる」。だけど、からだは十分に生きていない。生きてきたのは「ことば」と、ことばを追いかけてきた「こころ」。「からだ」は「ことば」「こころ」に比べると、ほんとうに味わうべきものをまで味わっていないという感じがあるのだろうか。
 一人の受講生が言ったように、谷川は無意識に死を意識しているのだろうか。
 私は少し違うことを考えた。谷川は両親の死(不在)を苦しんでいない、と読んだ。それは、ふたりは生きているということだ。「からだ」はたしかに存在しない。けれど「こころ」と「ことば」は、まだこの世(世界)に生きている。「遠い空に光が残っている」ように、この世界に残っている。一緒に生きているから、苦しくはない(苦しんではいない)と言っているように思える。
 「悲しい」ことは悲しい。悲しむことはある。しかし、それは「苦しむ」にまでは達しない。それは、とても静かな「喜び」のように感じられる。
 「苦しんでいない」ことを反省(?)しているのだったら、ことばのトーンは違ったものになるだろうと思う。


 

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読売新聞は問題点を隠している。

2021-06-22 08:09:43 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞のニュースの伝え方。
オリンピックの入場者数の「上限」が発表された。
西部版(14版)の見出しは、
五輪上限1万人 合意 5者会談
見出しに嘘はない。
しかし、本文を読むと、疑問が浮かぶ。
こういう部分がある。
①子どもの観戦用に購入された「学校連携観戦チケット」は、教育上の意義などを考慮し、引率の教職員を含めて上限の対象から除く。組織委によると、五輪では59万枚が販売済みで、今月からキャンセルの受け付けが行われている。
↑↑↑↑
この59万枚(キャンセルは考慮しない)は、どれくらいの数字なのか。
別の記事には、「決定した観客数の上限を各会場に当てはめると、五輪のチケット販売枚数は272万枚になる見込みだ」とある。約5人に1人が子ども、ということ。逆に言うと、観客の上限は子どもを含めると「1万2000人」。それなのに「1万人」と組織委は発表している。
この「嘘」をあばかないで、何がジャーナリズムなのだ。
公表された情報を垂れ流しにしているだけではないか。
さらに、
②会場には観客とは別に、大会運営に必要なIOCの関係者らも入場する。関係者によると、五輪開会式に入る関係者は1万人を超える予定だったが、組織委の武藤敏郎事務総長は「(観客と合わせても2万人より)明らかに少ない数字になるだろう」と述べ、さらに削減に努める意向を示した。
↑↑↑↑
「上限」がさらに、わからなくなっている。「関係者は1万人」は削減するというが、ほんとうに「2万人以下」になるか。すでにある「子ども枠2000人」を考えると、「関係者枠」は8000人以下になる。そのうえ、「削減に努める意向を示した」というのだから、それは「意向」にすぎないかもしれない。
「子ども枠2000人」があるなら「関係者1万人」が入場しても、一般+子ども(1万2000人)より少なく見える。「1万人」で押し通せ、あるいは「1万2000人」で大丈夫、ということになるかもしれない。
関係者をより多く入場させるために「子ども枠」を「みせかけの緩和材」としてつかうおそれがある。
「上限」とは関係なく、こういうくだりもある。
③組織委は観客に求める行動などを盛り込んだガイドライン(指針)を今週中に公表する方針で、会場内の酒類の販売についても協議している。
↑↑↑↑
「酒類販売禁止について協議」ではなく「販売について協議」。これは、「販売する」ということだ。言いなおすと、販売の時間帯、販売の量について協議する。
飲食店に「酒類販売禁止」を押しつけておいて、五輪では「販売解禁」。これは、どうみたって「一般観客」の要望に応えるというよりも、「大会関係者」の要望に沿ったものだな。
なぜというに、日本の国民は「飲食店の飲酒禁止」をすでに受け入れている。「飲酒禁止」状態で競技を観戦することだって、すでに「折り込み済み」だろう。
「飲酒禁止」が折り込まれていないのは、五輪を楽しみにやってくる「大会関係者」以外に考えられない。
逆に言えば。
オリンピック会場で酒が飲めるなら、ぜったい入場券を手に入れたいという観客(飲み助)がいるはずだからである。一流選手の活躍が見られて、なおかつ酒も飲める。オリンピック観戦ほど楽しいものはない、ということになる。
こんな「上限枠」の発表なんて、単なる五輪関係者の「おもてなし」隠し。その隠蔽工作に酒を飲まない(飲めない)「子ども」までつかわれている。
こういう点こそ、ジャーナリズムは追及すべきだと思う。
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秋亜綺羅「H氏賞選評」

2021-06-21 10:15:54 | 詩(雑誌・同人誌)

 

秋亜綺羅「H氏賞選評」(「現代詩」2021、2021年06月15日発行)

 秋亜綺羅「H氏賞選評」に、こういう部分がある。

 『針葉樹林』には、わたしは最初から票を入れることはなかった。あまりにも古い手法だからだ。直喩の意味を成さない直喩の連発も、若い詩人たちに真似をしてほしくない。文法を齧って食べてしまった分は、自分で補わなければ詩ではない。五十年前にはこういった模索は氾濫していた。それでもロジックはあった。


 私は、秋亜綺羅の考え方には反発を感じることが多いのだが、同時に共感することも多い。
 この『針葉樹林』に関する批評については、完全に共感する。
 けちをつけるような詩集ではない。でも「あまりにも古い手法」である。この「古い」は、私の年代にはなじみがある、ということである。そして、私の年代になじみがあるからといって、いま活躍している多くの若い人になじみがあるとはかぎらない。若い人には「新しい手法」に見えるかもしれない。ここに、おおきな問題がある。
 ぼんやりとした記憶で言うのだが、H氏賞の作品には「新しい手法」の詩集もあるにはあるが、「古い手法」「あまりにも古い手法」の詩集が選ばれることが頻繁にある。
 たぶん「古い手法」「あまりにも古い手法」の作品を選んだ方が、「選考基準」を「他人」にまかせることができるからだと思う。自分で、なぜこの作品を選んだかを説明するのは「新しい手法」の場合、とても手間がかかる。「古い手法」「あまりに古い手法」の場合、「安定している」「完成している」と言えば、半分以上説明したことになる。「安定している」「完成している」は「私にはよくわかる」(私が読んできたもの、愛読してきたものに近い)ということである。そこには作品の「肯定」(支持)以上に、自分自身への「肯定(支持)」がある。つまり、その作品を選ぶことによって、自分が自分でなくなってしまうという危険性が少ないのである。「古い手法」「あまりにも古い手法」の作品を選んでいる限りは。
 それでは、おもしろくない。
 「文学」というのは恋愛と同じで、このままこのことばについていったらどうなってしまうのかなあと不安を抱えながら、そのことばについていくことである。自分が自分でなくなってもかまわない、という覚悟で、目の前にあらわれてことばの運動についていくことである。
 「古い作品」「あまりにも古い作品」を選ぶ限りは、それは恋愛ではなく、父母への寄りかかりのようなものである。父母というのはどういうときも最終的に「よく帰って来たね」と受け入れてくれる存在である。それに寄りかかっていては、せっかく身体をわけて生んでくれた父母に対して、私なんかは、何か申し訳ない気がする。やっぱり、生まれたら最後、あとは「帰らない」という覚悟が必要だと思う。
 「古い手法」「あまりに古い手法」と「文法」のくだりは、一見、矛盾するように見えるかもしれないが、私はそうは思わない。「文法」を破壊したという自覚があるなら、破壊しているという批判に対して答えられるだけの「文法」を明示しないといけない。ロジックということばが象徴的だが(私から見ると、秋亜綺羅はあくまでもロジックの詩人である。言いなおすと「文法」の詩人である)、五十年前のことばの運動の背後には、それぞれに「文法意識」が感じられた。その「文法」に与するかどうかは別問題として。一番わかりやすい例に鈴木志郎康の「プアプア」があげられるが。「プアプア」というのは、それだけでは何の意味もなさない。しかし、それをさまざまなことばのなかで展開していくとき、「プアプア語(文法)」が構築されてくる。それを理解する(翻訳する?)には読者は苦労しなければならない。でも、「翻訳」しなくても、そのことばに接し続ければ、当然のことながら「プアプア語(鈴木文法)」と「日本語」の「バイリンガル」になることができる。詩は、いわば「プアプア語(鈴木文法)」のような独自の言語の確立なのである。多くの詩人は、それぞれに「〇〇語」を生きているのであって、「日本語」で詩を書いているのではない。「日本語」に見えるが、それは「日本語」ではない。詩をつかむためには「マルチリンガル」ならないといけないのである。「マルチリンガル」になる過程で、ときどき「母国語」を喪失するときもある。他人の言語に(たとえば鈴木の言語に)自分の言語が乗っ取られるのである。つまり、「自己喪失」の危険性と向き合いながら、ことばと向き合うのが「詩を読む」ということである。「詩を読む」のは、だから、じぶんのことばの肉体を鍛えなおすということでもある。乗っ取られたら、乗っ取りかえせ、ということだ。
 『針葉樹林』を否定するわけではないが、『針葉樹林』には、そういう「危険な罠/罠にはまってしまう」という誘惑がない、と私は思う。闘う喜びがない、と私は感じる。

 秋亜綺羅の言いたいこととは違うかもしれないが、秋亜綺羅のことばに誘われて、私はそう考えた。

 

 

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(9)

2021-06-21 09:00:31 | 詩集

 

高柳誠『フランチェスカのスカート』(9)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「フランチェスカ」は娼婦だろうか。「酔っ払って上機嫌になると、ときどき胸をさわらせてくれる。」そして、胸にさわっていると、

                     指先に触れるそのひん
  やりとした湿り気がなんとも心地よくて小さいころによく夢に出
  てきた遠い見知らぬ土地を一人で旅しているような気持ちになる。

 思わず棒線を引いてしまう魅力的なことばがあらわれる。でも、なぜ魅力的なのか、まだわからない。ただ、強く惹かれる。
 読み進むと、フランチェスカの「身の上」が語られる。南から来たらしい。その彼女が南方の風を体の奥で感じるとき……。

      フランチェスカは妙にしんみりした口調になって、ぼうっ
  と遠くをながめる目つきをしたかと思うと、いきなりぼくの頭を抱
  えこんでその大きな乳房を押しつけ、「かあいそうな子、かあいそ
  うな子…」とぼろぼろ大粒の涙を流す。

 フランチェスカには、「ぼく」と同じような年頃の(あるいは、もっと若い)子どもがいるのだろうか。いたのだろうか。その子と離れて暮らしている。ときどき「ぼく」を見て、別れた子どものことを思うのかもしれない。
 そのあと、
  
                    こうなるとぼくにはさから
  うすべもなくて、頭を抱えられたままそのやわらかな乳房の感触を
  じっと味わうしかない。すると、胸の奥底から突然こみあげてくる
  なにかなつかしい感情に心ふるえて、わけもなくぼくまで泣きたく
  なってくる。

 あ、これが書き出しの部分で棒線を引いたところとつながっているのだ、と感じる。「遠い土地」なのになつかしい。それは「よく夢に出てきた」からである。
 ゆめのなかで「ぼく」はフランチェスカの子どもになってしまう。
 ここからは蛇足かもしれないが。
 私はこの最後の部の「頭を抱えられたまま」の「まま」に注目した。また棒線を引いた。身をまかせる。何もしない。それが「まま」だと思うが、そうすると、「ぼく」はフランチェスカと一体になってしまう。そして「わけもなく」ぼくまで泣きたくなってくる。この「わけもなく」と「まま」が連係している、呼応しているように感じられる。
 そして、最初に引用した部分に「まま」を補って読みたくなるのである。「フランチェスカの胸に触れたまま」を補いたくなるのである。もちろん、そのことばは不要である。しかし、補うと「まま」が最後の「まま」と呼応して、作品をひとつの世界に「完結」させていることがわかる。
 
      「胸に触れたままでいると」指先に触れるそのひん
やりとした湿り気がなんとも心地よくて小さいころによく夢に出
てきた遠い見知らぬ土地を一人で旅しているような気持ちになる。

 これは、

        「頭を抱えられたまま」指先に触れるそのひん
やりとした湿り気がなんとも心地よくて小さいころによく夢に出
てきた遠い見知らぬ土地を一人で旅しているような気持ちになる。

 と書き換えても、状況は同じ。「胸に触れたまま」の主語は「ぼく」、「頭を抱えられたまま」の主語も「ぼく」だが、「頭を抱える」の主語はフランチェスカ。「まま」を中心点にして、「ぼく」とフランチェスカが交錯し、ふたりは一緒に旅をするのである。ふたりで「一人旅」をするのだ。

 

 

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谷川俊太郎『どこからか言葉が』(2)

2021-06-20 09:59:51 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(2)(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 谷川俊太郎『どこからか言葉が』のなかでは、「からっぽ」が一番好き。きのう書いたように少し理屈っぽいのだけれど、「ひらがな」が理屈っぽさを遠ざけているのかな?

ふたをあけたら
なにもはいっていなかった
からっぽなら
なにをいれてもいいのか
それともみえないなにかが
もうはいっているのか


 「それとも」が、論理のなかへもう一度踏み込んでいく感じ。だから、「理屈っぽい」という印象になる。

ふたをとじても
からっぽはきえない
なにもないのにからっぽはある
はこのなかのからっぽは
そとのからっぽにつうじている
からっぽはおそろしい


 「ふたをとじても」の「も」はさらに論理へ踏み込んでいくためのことばだけれど、ふたを閉じたら、からっぽかどうか、わからない。わからないけれど、「想像」はできる。目に見える「事実」よりも、「想像」の方を信じている。ここがこの詩のポイントだね。
 「なにもないのにからっぽはある」は「哲学」だね。はっきり覚えていないが「ない」が「ある」ということに最初に気づいたのはギリシャの哲学者だそうである。「なにもないのにからっぽはある」は「なにもないのに、ないはある」と言いなおすことができるね。そして、それは「事実」ではなく、言いなおすことによる「想像」、ではなく、「創造」。つくりだしている。世界を。あるいは、世界の「見方」を。
 「哲学」というのは「世界の見方」なのである。そして、それは「ことば」によってつくりだされるものなのである。
 「はこのなかのからっぽは/そとのからっぽにつうじている」という二行は、この詩のなかでは一番むずかしい部分である。「難解」という表現の方が、この場合、適切かもしれない。
 谷川は、なぜ「はこのなかのからっぽ」と「そとのからっぽ」が「つうじている」と断言できるのか。
 だいたい、「そとのからっぽ」って、どこにある?
 そのことが書かれていない。
 たとえば、箱の外には、箱を見つめる谷川がいる。谷川がいれば「そと」は「からっぽ」ではない。谷川のまわりには机があるかもしれない。テレビがあるかもしれない。それから谷川が好きな「おもちゃ」があるかもしれない。何かがある。「からっぽ」ではない。しかし、何かがあっても「からっぽ」と感じることはある。
 つまり。
 「はこのなかのからっぽ」は「そとにある、見えないからっぽ」を感じさせるのである。「感じ」は、それを「ことば」にするとき、いっそう強くなる。「ことば」が「からっぽ」をつくりだす。「ない」のに「ある」にしてしまう。
 と、いうことだろうと思って、私は読む。
 このあと谷川は「からっぽはおそろしい」と書く。この「からっぽ」とは「はこのなかのからっぽ」か、それとも「そとのからっぽ」か。区別がない。だからおそろしい。区別がないものは、だれかれの区別なく迫ってくる。だから、おそろしい。概念(想像)なのに、ことばくぐりぬけて、実体になって谷川を襲う。
 おそろしいときは、どうする?

からっぽに
なにかいれなければ!
なくしてしまったもの
ほしいのにもっていないもの
みたこともないもの
どこにもないもの


 「ない」「ない」づくし。「ない」ものを「からっぽ(なにもない)」に入れる。そんなことは、現実にはできない。でも「ことば」は、そのできないことを語ることができる。
 ことばは、なぜ、そんなことをしてしまうのだろうか。

 これ以上書くと、ほんとうに「理屈」なってしまう。「理屈」というのは、やってみればだれでも体験することだけれど、どれだけでも捏造できる。「後出しじゃんけん」のように、いつでも「最後」のものが勝利をおさめる。だから、私は、そういうことを書かない。
 きょう書いたことも、あしたはそれを破壊するために書く。

 

 

 

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谷川俊太郎『どこからか言葉が』

2021-06-19 18:41:14 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 谷川俊太郎『どこからか言葉が』は朝日新聞に連載された詩。『こころ』の作品群に比べると若干長い。『こころ』が毎週掲載だったのに対し、『どこからか言葉が』が毎月だったことが影響しているのかなあ。そして、長くなった分だけ、少し理屈っぽくなっている。論理が目立っている気がする。

 最初の作品「私事」には「わたくしごと」というルビがある。

バッハが終わってヘッドフォンを外すと
木々をわたる風の音だけになった
チェンバロと風のあいだになんの違和もない
どこからか言葉が浮かんで来たので
ウェブを閉じてワードを開けたが
こんな始まり方でいいのだろうか 詩は


 この一連目は、新しい連載の始まりとしてとてもおもしろい。「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という一行は散文的だが、散文的であるところに、私は詩を感じる。これは「父の死」に通じる。精神が動いていることが、ことばの動きそのものとして、とてもくっきりとわかる。
 「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」には、それこそ「どこからか言葉が浮かんで来た(詩)」という印象があるが、それだけに「枠にはまった詩」という感じがする。すでにいまは存在しないチェンバロの音の記憶と、いま聞こえる風の音の「あいだ」にあるのは音そのものではなく、音に対する意識である。その意識は、谷川のことばを借りれば「私事」というものだろう。
 この「私事」に谷川は疑問を持っていない。
 けれども「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という意識(私事)は疑問の形を持っている。そして、疑問が疑問として書かれているところに、意識の動きがよりわかりやすく描かれている。
 それは別なことばで言いなおせば、谷川のことばが、私に強く働きかけてくるのを感じる。谷川のことばに対して、私のことばが動こうとしている、その瞬間の動きを感じる、ということだ。私は自己中心的な人間なので、他人のことばが動いているだけでは、そこに詩を感じない。他人のことばが動き、それにつられて私のことばが動き出そうとする瞬間に、詩を強く感じる。そして、その瞬間というのは、「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」というような、いわゆる「詩的」なことばよりも、「散文的」な動きのあることばに触れたときに感じることが多い。

これからしばらくこの紙面に月一回
何かを書かせてもらえることになった
詩として恥ずかしくないものを書きたいが
音楽と違って言葉には公私の別がある
非詩を恐れるほど臆病ではないが
独りよがりのみっともなさは避けたい


 この二連目は、著しく散文的である。ここまで散文的であると、私は詩を感じない。「私事」が書かれていないわけではないだろうが、「公にされた私事」という印象がある。言いなおすと、「言い訳」かなあ。
 そのなかにあって「音楽と違って言葉には公私の別がある」には驚かされた。私はそんなことを考えたことがない。だいたい、「音楽に公私の区別がない」と仮定して、それでは音楽は「公」なのか「私(事)」なのか。公の場で聞くか、個人的な場(たとえば自分の部屋)で聞くかの違いはあるが、音楽そのものに「公私」の別があるのか、ないのか、私にはわからない。そして、それはさらに、ことばも同じではないかという気がする。つまり「公の場」で発表されたか、公にされず「私事の場」で語られたかの違いがあるだけなのではないのか。「場」のありかたが「公私」を区別するだけで、ことばそのものに「公私」があるとは思えない。
 谷川は何を言いたかったのかなあ。
 この疑問は、さらに、では、この詩は「公」にされているので、「私事」ではないのか、というと、そうではない。「独りよがりのみっともなさは避けたい」はあくまでも谷川の「私事」の願いだろう。「公にされた私事」という変なものも、ことばにはあるのだ。音楽には、そういうものがあるかな? 誰かに個人的にささげた音楽が、いつかどこかで公開されたという場合は、それにあたるのかな?
 三連目。

今これを書いている小屋は私より年長
赤ん坊の頃から毎夏来ている
六十年前ここでこんな詩句を書いていた
「陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない」


 これも「公私」の問題でいえば「公にされた私事」である。そして、その「公にする」という動きは、きっとことばのどこかに影響しているはずである。
 どこかなあ。
 ややこしいことに「六十年前」のことばが「引用」されている。それは「公」にされたものか、未公表のものか。私のような中途半端な読者には判断がつかない。好きな詩ならば、あ、これは読んだことがあると記憶しているが、読んだときに強く印象に残らなければ記憶していない。私は、最後の四行に記憶がない。
 これが、私の書いていることをさらにややこしくする。
 「公にされた言葉」だからといって、それがほんとうに「公」のものであるかどうかはわからない。どんなに「公」にされたことばであっても私の意識のなかで「公事」にはならないものがある。そして、それはさらに複雑な問題を引き起こす。谷川の書いたことば(公にしたことば)のなかのどのことばを私(谷内/読者)が「私事/私のもの」として受け取るか、そんなことはだれにも決められないということである。
 私は詩を読むとき、いつでも「私事」を探して読む。その詩のなかに、どうしてもあらわれてこないければならなかった「個人的な肉体そのもの」のようなことばを探す。それを「キーワード」と読んでいる。『女に』という詩集では、一回だけ出てきた「少しずつ」がキーワードだった。そういう指摘は、谷川にどう届いたか、私にはわからない。谷川には「少しずつ」に「私事」という意識はないというかもしれない。「公にした」という意識もないかもしれない。でも、その「意識がない」ところに、私は「肉体」を感じ、どうしても何かを書きたくなるのである。

 さて。
 「言葉には公私の別がある」とは、どういうことだろうか。
 まあ、「答え」は出さすに、放置しておく。「結論」には意味がない。考えている途中、ことばが動くだけである。

 さて、と私はもう一度書く。考え直す。一連目の最後「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と谷川は書いていた。私は、それで「いい」と思う。
 でも、詩の終わり方は? 新しい詩の終わりが、旧作からの引用? そういう終わり方でいいのだろうか、詩は。
 書かれていない一行が、ふっと浮かびあがってくる。そのときの「こんな終わり方でいいのだろうか、詩は」という一行は、だれのものだろう。谷川は、そういうことを思いながら書いたかどうか。こんなことを思うのが私だけだとしたら、それは「私事」の疑問。そのことに気づくと、私は最初に戻って「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と対話していることになる。
 「対話」を誘ってくれるものが、私にとっては「詩」なのだ。というのは「私事」。あくまでも「私の定義」であって、ほかのひとが詩をどう定義するかは知らない。
 そして付け加えておけば、私は、いわゆる詩よりも、対話を誘ってくれることばの方に惹かれるのである。プラトンの対話篇。あれはたしかに「散文」と呼ばれるものだけれど、私にはかけがえのない詩。単独で、何にも頼らずに存在している一行の美しさは美しさとして、多くの詩が持っているが、そういう屹立した美しさとは別の、対話を誘い出すことばの方が、私は好き。
 「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」は、とても好きな一行である。

 

 

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読売新聞6月19日「編集手帳」

2021-06-19 18:35:10 | 自民党憲法改正草案を読む

読売新聞6月19日「編集手帳」(https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20210619-OYT8T50000/)

 6月19日の読売新聞「編集手帳」が、先のG7の復習(?)をしている。
 https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20210619-OYT8T50000/
 NATOがなぜ誕生したかを、架空のドラマに登場する米国務長官のことばを引用して説明している。「大戦を招いたのは近隣国間の軍事力の格差よ。強大な武器を持った国は何かが欲しくて弱い国を征服したくなる。NATOができるまではその繰り返し…」
 そのあとで、台湾問題に触れて、こう書くのである。

先頃の先進7か国首脳会議の宣言に台湾問題が初めて明記された。現状変更に向かう中国の動きを 牽制したものである。(略)海峡を挟んで位置する国が、「征服したくなる」欲求を抑える気もないことは言うまでもない。先々が不安だ。


 ドラマ(架空の話)と現実をごちゃまぜにするのは「論理」としておかしい。さらに、その論理のなかに「台湾=中国の隣国」といういままで採用して来なかった論理をすりこませて結論を展開するのはどうしたっておかしい。
 オリンピックにだって、台湾は「国」としては参加していない。「地域」として参加している。菅が強行開催する予定の東京オリンピックにだって、台湾が参加するとしたら「地域」として参加するだろう。けっして「台湾」という「国」として参加するわけではない。(他のジャーナリズムも同じはず。)
 いま、なぜ、台湾を「国」と定義するのか。
 台湾を「国」にしたがっているのは、だれなのか。日本か。アメリカか。
 アメリカである。
 台湾を「国」として認定し、台湾と国交を締結する。その後、アメリカ軍基地を台湾につくる。もし、台湾が独立した国であるなら、台湾がどこの国と国交を結ぼうが、他国はそれに干渉できないし、台湾がアメリカ軍基地を受け入れることについても干渉はできない。反発は表明できるが、阻止することはできない。
 アメリカは台湾を基地にして、中国(本土)に圧力をかけたいだけなのだ。「小国」を守るという口実で、「大国」との敵対をあからさまにしてみせるだけなのである。
 ケネディ・フルシチョフ時代のキューバを思い出す。
 そして、同時に、私は沖縄を思う。
 アメリカは台湾を沖縄のように利用しようとしている。
 菅がアメリカの姿勢に同調するのは、すでに沖縄をアメリカの支配下に置くことに同意しているからである。沖縄がアメリカの支配下になっても、何も感じていないからである。
 ここから逆に考えてみよう。
 日本は沖縄が日本の一部(領土)であることを認識しながら、沖縄がアメリカの基地となって、対中国政策に利用されることを、沖縄県民の(地本国民の)人権侵害ととらえていない、ということなのだ。沖縄がどうなろうが、日本本土(なんという、いやらしいことばだろう)さえ安全ならばそれでいい、という考えなのだ。
 こう考える菅政権が、台湾がどうなろうが、台湾にアメリカ軍基地ができれば、日本の安全はより高まる、と考えるのは当然である。
 こういう考えを、正面切って展開するのではなく、ドラマのなかの米国務長官のことばを引用しながら展開する。
 ここに、なんともいえない、むごたらしい暴力が潜んでいる。
 読者をあまりにもばかにしている。
 さらに。
 「小国」に対する「大国」の侵略という構造で問題にするなら、いま問題にしなければならないのはイスラエルとパレスチナであろう。イスラエルはパレスチナ人の住んでいる土地に移り住み、どんどん「国」を拡大していった。パレスチナ人は住むところを失い続けている。
 なぜ、パレスチナ人を支援しようという動きが、アメリカ・日本の連係として起きないのか。
 理由は簡単である。アメリカはイスラエルを「国」とは考えているが、パレスチナを「国」と認めていないからである。イスラエルとパレスチナの間で起きていることを「戦争」(人権侵害)と認めていないからである。
 そういう国が、台湾を「国」として支援し、中国という「国」に圧力をかけようとしている。
 こうした論理矛盾に目をつむり、知らん顔してドラマの中の米国務長官のことばを引用し、「正論」を展開しているつもりになっている。「正論」を装って、アメリカの暴力を蔓延させようとしている。
 引用で省略した部分を読むと、そのごまかしの「手口」の薄汚さがいっそう際立つ。

JR仙台駅の大型モニターに今、台湾の人たちの笑顔があふれているという。東日本大震災の際に届いた義援金や励ましへのお礼を伝えたところ、礼の礼として「東北が大好き」「東北を旅行したい」などの思いを紙に書いて掲げる人たちの映像が返ってきたそうだ


 台湾の人(国民?)は、こんなに日本人に親しみを感じている。台湾の安全を守るために日本も協力しよう。アメリカと一緒になって、中国に立ち向かおう。そう言いたいがために、台湾のひとたちの「笑顔」を利用している。
 国際政治の問題と、市民交流の問題をごちゃまぜにして、市民の味方をするふりをして、政治の暴力を隠している。
 悪辣極まる論理展開である。
 

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