詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木陽子『金色のねこ』(2)

2011-02-28 23:59:59 | 詩集
鈴木陽子『金色のねこ』(2)(私家版、2010年10月06日発行)

 詩をどんなふうにして好きになるか。わたしの場合は単純である。その作品に好きな行が1行あればいい。あ、これをまねしてみたい、これを盗んでつかいたいと思う行があれば、それだけでいい。
 「あてどない歩み」には、それがある。

わたしの歩行は斜めである
それでかしいだホテルを好む
かしいだ部屋のかしいだ椅子にすわり
かしいだ机でノートをかしだせて
かしいだ文字をかきつける
かしいだ道でかしいだ女の後をつける

斜めにつがれた水をのみほす
斜めにひきちぎる細長のパン
目蓋に付着するバターを斜めに拭って
じゃむを斜めに塗りたくる
斜めに傾くコーヒーカップ
斜めに飲み干し
顎から斜めに滴り落ちる

 「斜めにつがれた水」。これが気に入った。
 鈴木はどういう水を思い描いているかは、まあ、関係ない。私は、垂直に立っているコップの中で、水だけが斜めになっている状態を思い描いたのである。
 それまでに書かれていることばをきちんと踏まえれば、コップが斜めになっている(かしいでいる)。そして、そこに水が注がれると、水の体積(容積)、水を横から見たときの姿がコップの傾きのために斜めになっている、ということなのかもしれないけれど。
 それでは、つまらない。
 だから私は「誤読」し、その上で、この部分が好き、というのである。
 なぜ、コップが傾いていて、それを横から見ると水そのものが斜めの形に見えるというのがつまらないかというと、そういう形の水は、水が傾いているのではない。コップが傾いているので、それにあわせて体積が傾いているにすぎない。ものの形にあわせて形を変えていくというのは水の基本的な性質である。傾いたコップの中で傾いている水は、水そのものの「性質」(本質)が傾いていない。重力にしたがって、水面を水平にしたら、断面が傾いただけである。これでは詩にならない。
 まっすぐなコップの中で、水だけが傾く。--そのとき、水は水自身の「肉体」をもつ。あ、いいなあ。重力に逆らう水。どこにもなかった水が、「かしいだ」(斜めになった)ということばの連続の中で、水の肉体に作用してくるのだ。
 ことばは繰り返していると、その対象(描かれたもの)の性質さえ変えてしまうのだ。そのとき、世界は変わるのだ。ことばによって変わるのだ。ことばによって、世界を変える--そのときのことばが詩なのである。

 あ、間違えたかな?
 ことばを繰り返す。そうすると、ことばが次第に「もの」のように手触りのあるものになってくる。ことばなんて、嘘にすぎないのに、その嘘がほんとうになって、この世(ほんとうの世界)をねじ曲げる。
 そして、次に動いた瞬間、そのことばが、いままでとは違った「いきもの」になる。それが、とてもおもしろいのだ。「斜め」(かしいだ)ということばを繰り返しているうちに、水そのものが斜めになってしまう。それがおもしろいのだ。(斜めのコップに注がれた水--というのでは、世界はねじ曲がらない。逆に、正しい?世界に逆戻りしてしまう。)

 「空虚が笑う」という作品もとても気に入っている。

朝 起きたら
部屋のスミに
空虚がすわっていました
それが るあるい顔で
にんまりと笑っているのです
そうして
「今日は何をするんだ」
と 聞いてくるのです
空虚なんか無視しましょ
気がつかないふりして
普段どおりにしようと決めたのです
顔を洗って 歯を磨き
コーヒーをいれて トーストを焼き
一口食べようと口をあけると
「わしにもくれんかな」
と 空虚が言うのです
空虚にも食欲があるのねと思いながら
しらんぷりして一口頬ばると
「ほほう!」
と 空虚は声をあげたのです
なおも無視すると
空虚はじりっじりっとにじり寄ってくるので
「あなたのは ありません」
と 思わず口にしてしまいました
すると 空虚は
「それ、そーれあそぼうぞ」
と言って
一段とうれしそうに笑うのでした

 「わしにもくれんかな」がおかしい。「空虚」にすでに「人格」があたえられている。口癖があたえられている。そのときから、もう空虚は空虚ではなく、何かしらの「もの」(実存)である。「ほほう!」もいいし、「それ、それ!あそぼうぞ」もいい。
 なにも存在しないのが「空虚」であるはずなのに、その「空虚」が何かあるものにかわるのがいい。「空虚」の意味が無効になり、それまで存在しなかったものが、ことばといっしょに誕生してくるのである。



2月のお薦め。
朝吹真理子「きことわ」
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」
中山直子「牛の瞳」


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教えてください

2011-02-28 09:22:05 | その他(音楽、小説etc)
現在IEがつかえません。以下の表記がでます。

アドオンで問題が発生したためIEを閉じる必要があります。
この問題の発生時には次のアドオンが実行されていました。
ファイル SpeeDial.dll
会社名 Jword.inc
説明 Jwordプラグイン

この問題の解決方法は? だれか知りません?

panchan@mars.dti.ne.jp
へ、メールをいただけると助かります。
winXPをつかっています。
Jwordのバージョンはわかりません。

コントロールパネル→インターネットオプション→プロパティ→プログラム→アドオンの管理→アドオン無効→OKと進みますが、解決しません。
アドオンを確認すると、削除されないまま、残っています。
削除そのものができません。
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ジョン・スタージェス監督「荒野の七人」(★★)

2011-02-28 09:01:03 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・スタージェス 出演 ユル・ブリンナー、スティーヴ・マックイーン、イーライ・ウォラック

 うーん。黒沢の「七人の侍」のよさばかりがよみがえるなあ。リメイク(盗作?)とは言いながら、肝心の雨のシーンがない。荒野では雨が降らないといってしまえばそれまでだが、雨にかわる自然現象がないとねえ。砂嵐とかね。そこに住んでいるひとの、地の利、土地の感覚がないと、こういう「抵抗もの」(ゲリラもの)は生きてこない。最後に「勝つのはいつも農民」という「七人の侍」のセリフがそのままつかわれるけれど、この「農民」というのは農業をやる人という意味だけではない。土地に根差して生きているひと。ね、ベトナム戦争でもアメリカが負けたのは、結局、その土地に生きていない侵略者だから。フィリップ・ノワレ主演の「追想」(だったかな?)も、結局、彼が暮らした家が戦場だから一人でドイツ軍に勝てた。土地を知っている人が勝つ――というのが、抵抗の本質。雨で(砂嵐で)視界が利かない。けれど、その土地のありようが分かっていれば、視界が利かない分だけ、有利になる。これは、ほら、「暗くなるまで待って」では、オードリー・ヘップバーンが電気が消えると有利になるのも同じ。そして冷蔵庫の室内灯?がつくと不利になるというのにもつながる。誰にでも不利、有利があり、それをどう生かすかが弱者が勝つための条件。「荒野の七人」は凄腕の七人だが、相手は多人数という意味では「弱者」だよねえ・・・。その「弱者」が「負けない」ための条件がねえ・・・。
 だからさあ、最後がとっても変だよねえ。七人は捕まって、追放され、そこから村へ引き返して戦うなんて、むちゃくちゃ。勝てるはずがないのに、ただ戦う。そして映画だから善が悪に勝つ――あら、馬鹿らしい。黒沢映画のいいところをまったく生かしていない。盗まれた黒沢が怒るはずだね。
 演技もみんな下手糞だね。特に農民がひどい。主演陣も、人間描写の掘り下げがぜんぜんない。薄っぺらい。そんななか、ユル・ブリンナーが変に光っている。なぜだろう。はげ頭の光? いいや、セリフ回しだ。声だ。映画役者の声ではなく、舞台役者の声、発音だな、これは。「Y」の音なんか、異様にくっきり響いてくる。スティーヴ・マックイーンのしゃべり方とぜんぜん違う。ユル・ブリンナーが「王様と私」が代表作になってしまう(他にいい作品に恵まれない)という理由はこのあたり?
 あ、映画そのもののことからずいぶん離れてしまったなあ。そういう感想しか思いつかないのが、この映画ってことだね。
                    (「午前十時の映画祭」青シリーズ4 本目)




2月のベスト3
「英国王のスピーチ」
「冷たい熱帯魚」
「ザ・タウン」

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鈴木陽子『金色のねこ』

2011-02-27 23:59:59 | 詩集
鈴木陽子『金色のねこ』(私家版、2010年10月06日発行)

 鈴木陽子『金色のねこ』の文体はとてもすっきりしている。変なこと(?)を書いているのに、変ではない。
 「地下鉄のホームにて」の書き出し。

いつものように階段を下りて
地下鉄のホームに立つと
鼓膜が裏返り
構内がオブラートに包まれる

 これはたぶん地下鉄にもぐったとき、鼓膜に感じる気圧の変化のことを書いている。たしかに耳に違和感を感じることがある。私はあまり地下鉄に乗らないので、気圧の変化になれないのかもしれない。でも、そのとき、鼓膜が裏返るってほんとう? そんなことないよねえ。鼓膜は裏返らない。--とわかっていても、あ、あの感じ、あれは鼓膜が裏返ったのか、と納得してしまう。
 「構内がオブラートにつつまれる」はそういう耳の異変(?)の影響で視覚も変になり、構内がオブラート越し(半透明の幕越し)に見たように見えてくる、ということだろう。
 肉体が感じた違和感が、まず耳に影響し、それが自然に目にも広がっていく。
 この自然な広がり方を、鈴木は簡潔に、しかし、とても正確に書いている。書いていること、「鼓膜が裏返」る、「構内がオブラートに包まれ」る、というのは変なことである。そんなことは、ありえない。変で、ありえないことなのだが、そういうことが起きる順序、肉体の変化の仕方そのものは変ではない。
 「鼓膜が裏返り」だけでは、変である。「構内がオブラートに包まれる」だけでも変である。けれど、それが繋がると、そこにはっきりとした「肉体」が見えてくる。その「肉体」が、鈴木の「文体」は正確である、そこではことばは正確に動いていく、と教えてくれるのである。
 だから、詩が、

深海色の背広をきた男が
ホームの狭くなっているあたりから歩いてくる
ふと見ると
男の頭は馬なのだ

 とつづいていくとき、「男の頭は馬なのだ」なんてありえない、という気持ちにならない。鼓膜から始まった肉体の変化が視覚に及んでいる。男の頭が馬に見えたって変ではない。男の頭は馬に見えなければならないのだ。肉体が変わってしまったのだから、それに合わせて世界が変わるのは当然なのだ。肉体がかわっているのに、世界がもとのまま、ということの方が変である。

しっかりした頬骨
心持ち眼は飛び出しかげんで
よく手入れされたビロードの皮膚は光沢を帯び
ひきしまった筋肉の首を白いカラーから斜め前方につきだし
プルルンと鼻を鳴らす
だらしなく開かれた口から
正四角形の琺瑯質の白い歯がのぞいている

 変わっていく世界を鈴木は、とても正確に描いていく。男の頭が馬であることを、変とは思っていない。あたりまえであると感じている。これは、鼓膜からはじまり視覚に影響した肉体の変化が、ことばを支配している精神にも影響しているということである。精神は、新しい世界と向き合えるよう、自己変革してしまったのだ。
 とても変だけれど、とても納得がゆく。
 何かがかわるということは、全部が変わるということなのだ。

 この変化は、次にもう一度大激変する。

一瞬、体がふうわり浮きあがり
唾をゴクリと飲みこむと
オブラートは消え
あたりは電燈の光度を上げたごとく
すみずみまでくっきりする
見まわすと
ホームには何人かの男たちがたたずんでいて
どの男も馬の頭を持つ
わたしは自分の頭が馬の頭でないことに気がつくと
恥ずかしさで体がカッとほてり
身を隠そうとまわりを見まわすが
男達はわたしの異常に気づく様子もなく
耳をプルルと振ったり
歯を剥き出したりしながら
地下鉄の電車がくるのを
静かに待っているのだった

 「唾をゴクリと飲みこむ」と、それは鼓膜にも影響する。飛行機が高度を下げるとき、耳がつんとする。鼓膜が裏返る。それを解消するために唾をゴクリと飲む。そうすると鼓膜がもとに戻る。音がすっきり聞こえるようになる。この肉体の変化は、当然、最初のときと同じように眼にも影響する。「オブラートは消え」「すみずみまでくっきり」と見えるようになる。
 でも。
 精神は、最後に影響を受けた精神は、肉体のように瞬間的にもとにはもどれない。馬を正確に描写してしまった精神は、すぐにはもとにもどれない。一度ついた嘘の軌道修正がむずかしいのと同じである。精神は、肉体と違って、間違ってしまっても、それを間違いとは認めたがらないものなのかもしれない。
 だから、あいかわらず、男の頭は馬に見える。
 そして、肉体の変化に即応できなかった精神は、今度はさらに精神に影響する。精神をたたきはじめる。いじめはじめる。

わたしは自分の頭が馬の頭でないことに気がつくと
恥ずかしさで体がカッとほてり

 男達が馬の頭を持っているのではなく、鈴木(わたし)が持っていない--そういう論理(?)が成り立つことに気がつく。この「気づき」はほんとうは「体がふうわり浮きあが」る前からはじまっていたかもしれない。男の頭を描写しはじめたときからはじまっていたかもしれない。正確に描写するのは、「わたし」馬の頭を持たないがゆえなのだ。もし、「わたし」も馬の頭をもっているのなら、「わたし」が見ているものは特別なものではない。正確に描写する必要のないものだ。でも、「わたし」は正確に描写してしまう。それは、精神がどこかで、無意識的に「わたし」の頭は馬の頭ではないと気づいていたからなのだ。
 そして、この「気づき」(精神の運動)が、肉体を変化させる。「気づき」は「恥ずかしさ」になる。認識(知性?精神?)が感情になる。そして、その感情が肉体を「カッとほて」らせる。
 うーん。
 肉体(鼓膜)の変化(裏返り)→視覚の変化(オブラートにつつまれた構内)→世界そのものの変化(馬の頭を持つ男)→その認識(正確な描写)と進んできたものが、一瞬の中断を挟み、
 肉体の変化の逆戻り(唾をゴクリと飲むことで鼓膜の裏返りが解消する)→私宅の変化(すみずみまでくっきり見える)→精神の酩酊(精神は急には逆にもどれない。わたしの頭は馬ではないという発見)→感情への作用(恥ずかしい)→肉体への影響(カッとほてる)→
 でも。
 あ、精神はまだうろうろしていて、男達は馬の頭のまま電車を待っている。

 おもしろいなあ。正確に書かれたことばはおもしろいなあ。
 きのう私は森鴎外論のメモを、豊原清明のことばの運動の補記として書いたが、そのことの関連で言えば、鈴木のことばも正確に人間を押す。森鴎外が他人(たとえば渋江抽斎)を押したのに対し、鈴木は「わたし」自身をしっかりと押している。正確なことばに押されて、「わたし」がついに動き出してしまう。恥ずかしさで体がカッとほてる、というようなことろまで動かしてしまう。
 そういうときも、精神は、やっぱり、うまい具合に対応できない。--その精神をふくめて、鈴木は、あくまで正確を貫き、ことばを書きとおす。
 これは、ほんとうにおもしろい。


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豊原清明「本能だけが仁王立ち」ほか

2011-02-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「本能だけが仁王立ち」ほか(「火曜日」105 、2011年02月28日発行)

 豊原清明「本能だけが仁王立ち」は、一篇の作品のなかでことばが動いていく。小説の主人公が作品のなかで成長するように、ことばが動いていく。

声を荒げて海に言う
なぜお前は、真実の海ではないのか
愚かな若者を泳がせて
汚されて、一体なんの得があるか?
僕は海に呟いた
いやぁ、ごめん 苛々していてね
君に言って、初めて心が和んだよ
平和が好い…
と、
言えない現実が、胸を駆り立てる

中年と意識したのは、最近さ
三十四歳か
胸が痛む
どうしようか
迷うので、これでいこうか
この先は
春袷
本能だけが
仁王立ち
清明

 最後の「春袷/本能だけが/仁王立ち」は改行されているが「春袷本能だけが仁王立ち」という俳句である。俳句である証拠として「清明」という署名(?)がついている。最初は荒々しかった「声」(声を荒らげて、と豊原は書いている)が、こではどっしりと落ち着いている。それこそ「仁王立ち」している。そして、その「仁王立ち」している「本能」と「清明」という署名(人間)が、ことばの構造の上では向き合っているのだが、最初から読んでくると、「本能」と「清明」が完全に合体し、合体することで「人間」の領域を超えているのを感じる。
 あ、変な言い方になってしまったなあ。言いなおそう。
 冒頭、豊原は海と向き合っている。海があって、豊原がいる。そして、豊原が一方的に海に向かって怒っている。そういう状況から、豊原のことばは動きはじめる。
 怒るだけ怒って、豊原はすこし反省する。「いやぁ、ごめん」と海に対して謝る。このときも海があり、豊原がいる。向き合っている。ただし、その「距離」は怒っていたときに比べるとずいぶん近づいている。
 そして、近づいていると感じたとき、実は、怒っていたときも、そんなに離れていたわけではないということがわかる。海に向かって海に怒りながら、豊原は自分に怒っている。海はいわば豊原の分身なのである。どこかでつながるものがあるから、怒ったままではすまない。どこかで和解しなければならない。だから「ごめん」と呟く。
 この変化のなかで、豊原は半分海であり、半分清明なのである。
 この半分海、半分清明という状態から、どうするか。
 うまく説明はできない。うまく説明できないからこそ、1連目と2連目のあいだに空白--断絶があるのだと思う。それをどうやって超えたのか、これはまあ、豊原にもわからないことかもしれない。

どうしようか
迷うので、これでいこうか

 わからないまま、ともかく踏ん切るのだ。そうすると、そこに「本能」ということばが浮かび上がり、「仁王立ち」ということばが浮かび上がり、豊原をつつみこんでしまう。豊原がことばをつつみこむのかもしれないけれど。
 そのきっかけとして「春袷」がある。春の袷。私は俳句にはうといので、よくわからないことが多いのだが、この「春袷」がぽんと放り出されて、それと向き合った瞬間、豊原が素っ裸になる。剥き出しになる。声を荒らげて怒るのでもなく、また呟くのでもなく、「声」を発しないまま、「本能」として「仁王立ち」になる。
 よし、「これでいこう」と決めるのである。
 このときの「春袷」の効果。季語(?)の効果。俳句の「切れ」の効果--それは、日本語の「本能」としてあるものかもしれない。俳句の「本能」と豊原のことばの「本能」が、ぴったり合致するのである。
 豊原は、そういうことばの変化、運動の変化を、書いている。それは意識して書いたものか、無意識に書いたものか、はっきりしないが、そうか、「俳句」はこんなふうなことばの動きの果てに、突然出現するものなのか、と思うのである。
 「しいたげられなかった、蚊」も「俳句」が生まれるまでの過程を描いている。

その女性の顔を識別しなかった
恥ずかしくて
顔が見られなくて
おどおどして
ちらり、横目でみただけだった
「私、クロスワード好きなの。
あなたも買わない?」
その時、顔を直視した
黒眼鏡で
ショートヘア
ニキビと黒子
細い唇
小さな顎
大きな目
つまり、若かった
若さ・マインド・病気
呟きながら
ページを閉じる
そう、真っ黒な、どす黒い山

夢を観ている
ゆっくりと、目を開けて
言葉を傾ける
僕は、僕を、コップに注ぐ
僕を、傾ける、新年

 「もの」があって、その「もの」と向き合う。直視する。そして「もの」をことばにする。そこからことばが動きはじめ、「僕」がめざめる。「恥ずかしくて/顔が見られなくて/おどおどして/ちらり、横目でみただけだった」と書く正直さが、ものとことばを、純粋な形で出会わせるのかもしれない。
 ことばは、その結果、自在な動きへ向け、動いている。

言葉を傾ける
僕は、僕を、コップに注ぐ
僕を、傾ける、新年

 これは、まだ「俳句」にはなってはいない。けれど、これから「俳句」になるはずのことばである。

 黒住考子「見るということは」。

木と 丘と そのうえにひろがり
あるいはひいていく 濃い うすい 青
今 鳥の群れが飛び立って
雲の切れ間からまっすぐ差し込む日
私は流れる空気を見ているのかもしれない

名づけようとしているのではなく
名づけられたさものを見ているのでもなく
風景 あるいはその残像を
見つづけている

 これは、豊原の詩と関連づけて感想を書けば、いわゆる「俳句」の世界である。黒住がいて、風景があり、風景をみつめているうちに風景と一体になる。自然と自己の融合、統一した世界--俳句。
 どこが違うのか。
 豊原の詩には(そして俳句には)、強靱な「肉体」がある。「僕」が「肉体」をもって存在している。黒住の場合、詩のなかに「私」という主語は出てくるが、その主語は透明になる。透明になることで「私」と「世界」を一体化する。豊原は彼自身を透明にはしない。不透明にする。不透明のなかへ世界を招き入れてしまう。「僕」という主語が書かれなくても、それは「僕」を主語とした詩(俳句)なのである。実際に、「俳句」では「僕」という主語は詩のようには頻繁には出てこない。
 --俳句にまで到達しなかったとき、豊原の詩が書かれる、ということになる。



 唐突につけくわえる補記。
 ことばの運動は不思議である。豊原のことばは、いろいろな現実にぶつかりながら軌道修正(?)し、俳句にたどりつく。俳句という「遠心・求心」の世界へと達する。
 ということを、思ったとき、私はふいに森鴎外を思い出したのだ。
 森鴎外のことばは、あちこちにぶつからない。とても正確である。真っ正直である。鴎外のことばは、そのまっすぐな力で、対象を(人間を)押す。そうすると、少しずつ人間が動きはじめる。ことばが動くのではなく、人間が動きはじめる。「渋江抽斎」を思い出しながら、私は書いているのだが、森鴎外のことばには、そういう力がある。
 --これは、いつか書いてみたい森鴎外論のテーマなのだが。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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トム・フーパー監督「英国王のスピーチ」(★★★★★)

2011-02-26 23:28:45 | 映画
監督 トム・フーパー 出演 コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター

 おもしろいシーンがいくつもある。いちばん印象に残るのは、コリン・ファースが吃音を直すために、ジェフリー・ラッシュの家に行き、そこで会話するシーンである。二人が対話するシーンというのは、顔がスクリーンの中央にこない、視線がまっすぐにカメラをみない(少しずらしたところから映す)というのが基本だと思うが、この映画では、その基本をさらに拡大している。コリン・ファースが語るとき、スクリーンの右半分は完全に空いている。壁が大半を占めている。そのスクリーンの構造が、そのまま治療を受けるときのコリン・ファースのこころそのものなのである。片隅にとじこもっている。感情がおしつぶされている。窮屈なところに自分を閉じ込めている。
 それは彼が怒りを爆発させるシーンと比較するとはっきりする。そのときスクリーンには空白がない。アップというわけではないが、スクリーンからコリン・ファースが飛び出してくる感じである。怒るとき、コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュの距離が、ぐいと縮む。怒りをとおして(感情の爆発をとおして)、二人の距離が縮むとき、コリン・ファースの吃音が直っている、というところが非常におもしろい。
 その「距離の変化」に注目すると、映画は、英国王が吃音を克服するということがテーマになっているのだが、そういう見かけのテーマとは別に、この映画は人間と人間の「距離」のありかたをこそテーマにしていることがわかる。
 コリン・ファースの演じる英国王は、相手との「距離」がうまくとれないときに吃音になる。距離がないときは、吃音ははげしくはならない。王の緊張は、自分の感情を自分自身の奥に閉じ込め、自分と他者とのあいだに不必要な「距離」をかかえこむときに生まれる。そして、それが吃音となる。
 そして、この吃音が、さらに距離を増幅させる。
 この距離が、単に個人的な「場」において存在するだけなら、問題ではない。王が「家庭内」で吃音である分には、問題はない。家庭内でどんな「距離」をかかえこんでいても、それは家庭の事情というものだろう。しかし、この距離が国民と王という場に入り込むと、非常に困るときがある。ふつうは、困らない。王と国民は、一緒に生活などしないからである。
 けれど。
 この映画で描かれている「戦時」の場合は、困る。戦争するとき、国民は団結しなければならない。国民と国民のあいだに距離があってはならない。同じように、王と国民とのあいだにも距離があってはならない。人間として団結しなければ、ナチスとは戦えないだろう。
 この映画が感動的なのは、単に吃音の王が吃音を克服し、国民に「戦争スピーチ」をしたというところにあるのではない。王が自分の抱えている距離の問題を克服し、その克服した結果生まれたあたらしい距離のなかへ国民を引き込み、団結するからである。
 この映画は、そういう距離の変化をきちんと映像として表現している。
 クライマックスのコリン・ファースのスピーチ。そのとき、コリン・ファースはマイク越しにジェフリー・ラッシュと真っ正面で向き合っている。このとき、冒頭に書いたような余分な「空白」はない。変な空白を排除することで、コリン・ファースがジェフリー・ラッシュと正面で向き合うだけではなく、その距離を縮めていることがわかる。それを補うように、ジェフリー・ラッシュの台詞がある。「わたしに向かって語りかけなさい」。スピーチは国民に向けたものである。けれど、国民というラジオ越しの遠い(距離のある)相手にではなく、いちばん近い相手にだけ向かって語れという。「声」から距離が消えるとき、それは王と国民との距離をも消してしまうのである。
 この距離を印象づけるためだと思うのだが、映画には随所におもしろい距離が出てくる。コリン・ファースがジェフリー・ラッシュと喧嘩別れ(?)をするシーン。コリン・ファースはどんどん道を歩いていく。ジェフリー・ラッシュは立ち止まったまま。距離がどんどん開いていくのだ。この広げた距離を、コリン・ファースは直接出向いて謝罪するということで縮めてみせるというのも、非常におもしろい。王が庶民に謝罪しにやってくるというのは、それだけで特別なことだが、その距離をつくりだしたのがコリン・ファースであることを、コリン・ファースの「歩き」としてきちんと映像化していたからこそ、それが効果的になるのだ。
 ジェフリー・ラッシュの家での、彼と妻の会話のシーンもおもしろい。妻はスクリーンの左側、ジェフリー・ラッシュは右側。ただし、このとき二人は会話をするにもかかわらず、互いに背を向けている。背を向けたまま、体をひねるようにして、話す。その距離と、角度。離れているけれど、接近する--どこかで接しようとするこころの動き。コリン・ファースの治療中の映像の構造とは対照的である。
 ストーリーが、映像、その構図そのものとしてスクリーンに定着している。コリン・ファースの演技そのものも非常にすばらしいけれど、映像の構図、そのカメラそのものも演技している(役者の演技を演出している)。構図だけではなく、映像自体もとても美しい。落ち着いている。映画を見た--という気持ちが、ずん、とこころの奥にたまる映画である。



 補記。
 「間」の問題を、空間ではなく「ことば」に置き換えると、「吃音」が見えてくる。そういう意味では、この映画は「吃音」を映像化(空間化)した作品とも言える。





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笹井宏之『てんとろり』

2011-02-25 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年01月24日発行)

 私は歌集というものをめったに読まない。笹井宏之という歌人も知らなかった。読みはじめてすぐに気がつくが、笹井の短歌は乱調の美学で構成されている。

ともだちを一匹抱いて夕焼けに消えてしまいそうな私のうで
                            
 ともだちを「一匹」と数えることばの破壊、出会ってはいけないことばの出会い、出会うはずのないことばの衝突--その乱調の音楽が笹井のいちばんの特徴である。
 ふつうはともだちを「一匹」とは数えない。「ひとり」と数える。それを承知で、わざと「一匹」と数える。そうすると、肉体とこころ(精神)が微妙に乱れる。肉体が乱れたのか、こころが乱れたのかわからないが、何かが乱れる。不思議な亀裂が入るのだ。亀裂は跳び越えなければならない。亀裂は歩いてはわたれない。亀裂にわたす橋は、とりあえずは、存在しない。だから、その深い亀裂を笹井は飛び越すのである。その跳躍は、ときに跳躍を通り越して飛翔になる。軽やかに明るく飛んでしまう。
 その亀裂と橋をもたない貧しさに青春のかなしみが近づいてくる。そして、その亀裂を飛び越す跳躍力・飛翔力(豊かな力)にことばの若さが輝く。必要なものがないという「貧しさ」、けれどそれを克服できる「豊かさ」。その矛盾したものが笹井のことばを輝かせる。
 こういうことは、たぶん多くのひとが語るだろうし、もう語ってしまっていることかもしれない。だから、私は少し違うことを書こうと思う。
 私が笹井の短歌で非常におもしろいと思ったのは、「Ⅱ」(63ページ以降)の部分に収録されている歌である。

おそらくは腕であるその一本へむぎわら帽を掛ける。夕立

そのみずが私であるかどうかなど些細なことで、熟れてゆく桃

てのひらの浅いくぼみでひと休みしているとてもやさしいたにし

内圧に耐えられそうにないときは手紙の端を軽く折ること

 ある抒情的なこころ(精神)と、それとは無関係な「もの」との出会い(特に、「たにし」がその例になるだろう)は、笹井の特徴である。そういう異質な出会いが乱調の輝かしさの源である。--という性質は、この一群の短歌でもかわらない。
 しかし、リズムがまったくかわってしまっている。軽さが消えてしまっている。
 「おそらくは」の歌は、句点「。」まで登場して、前半と後半に大きな断絶がある。それは、その断絶を超えて(跳躍して、飛翔して)ことばが運動したということを示しているが、「跳んだ、飛んだ」という感じがしないのである。そこにあらわれる抒情も青春の透明さがない。
 そのかわりに、不透明で重い暗さがある。
 それは、跳躍(飛翔)するときは、踏み切る足が大地にもぐりこむ感じに似ている。跳躍・飛翔するとき、足は硬い大地の反動を利用して大地から離れるのだが、この一群の作品では、跳躍・飛翔するするためにふんばった足が、大地に沈み込んでいく。そのときの、つらい悲しみがある。あ、ほんとうはもっと高く跳べる(飛べる)のに、という絶望が、そこにまとわりつく。
 そしてそれは、なんといえばいいのだろう、絶望なのだけれど、絶望しながら、暗い部分へ踏み込むことで、そこにあるものをつたえようとしているようでもある。
 ことばの方向(ベクトル)がここでは完全に変わっているのである。
 自分の悲しみ・絶望から飛翔するのではなく、自分の悲しみ・絶望をえぐるのである。掘り進むのである。

こころにも手や足がありねむるまえしずかに屈伸運動をする

 この歌は「Ⅰ」の3首目の歌だが、自分をしずかになだめながらみつめるというような視線から、さらに深く、何か、突き刺さるような感じでことばは動いていく。

うっとりと私の耳にかみついたうすももいろの洗濯ばさみ

 というような、不思議なかなしみ、不思議なわらいの歌もあるのだが……。

死んだことありますかってきいてくるティッシュ配りのおとこを殴る

感傷のまぶたにそっとゆびをおく 救われるのはいつも私だ

おくびょうな私を一羽飼っているから大声は出さないように

 ひと(他人)との距離が、どこかで絶対的に変わってきてしまっている。自分自身への距離のとりかたが違ってきているのを感じるのだ。
 この絶望を掘り進み、その絶望の底に深い亀裂を入れることができたら、笹井はもういちど絶対的な飛翔をなし遂げたに違いないと思う。けれど、もう、そのことばの運動を私たちはみることができない。読むことができない。とても残念である。とても悔しい気持ちになる。




てんとろり 笹井宏之第二歌集
笹井 宏之
書肆侃侃房
コメント (3)
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左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』

2011-02-24 23:59:59 | 詩集
左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』(竹林館、2010年12月24日発行)

 左子真由美『Mon Dico*愛の動詞』のそれぞれの詩のタイトルはフランス語の動詞である。そして、その動詞を、左子は日本語の動詞ではなく「名詞」として訳している。たとえば巻頭の作品は「Transfomer」だが、「形を変えること」という具合である。
 これは、とても変である。
 たしかに外国語を読んでいると、動詞を名詞として訳出したり、逆に名詞を動詞として訳出した方が日本語にぴったりくるときがあるが、それは「文脈」の問題である。単語だけを取り出して訳するとき、動詞を名詞にかえる理由が私にはわからない。
 わからないことだらけの詩集なのだが、この「Transfomer」は、私は一部、気に入っているところがある。

形を変えること。水のように、細くなったりくねくねしたり、静かな器に入ってお月さまを映したりすること。おばけのように家と家の隙間へすうっと消える。もし思いがトランスフォルメできるなら、こんなに都合のいいものはない。

 「もし思いがトランスフォルメできるなら、」というこの部分だけが私は好きである。この詩集では、このことばだけが「真実」である。「真実」にふれている。つまり、ここには、詩としての「矛盾」がある。
 思い、思う、想像力。
 「思い」はたしかに形を変えることができない。どんなふうに想像を押し広げても、どんなふうに思いがけないことを想像したつもりになっても、限界がある。ちっとも変わりようがないのが「思い」なのである。「矛盾」しているのが「思い」なのである。
 和泉式部は「きみ思うこころはちぢに砕けれどひとつも失せぬものにぞありける」というようなことを歌ったけれど、砕けても消えないという「矛盾」がこころであるように、思いはいつだって人の自由にはならない。その、和泉式部の歌につながるような「真実」を左子は書いているのだが、すぐにその「真実」はねじ曲げられ、嘘に傾いていく。
 「思い」は「トランスフォルメ」できない、と書いたはずなのに、詩は、次のようにつづいていくのだ。

それにはかたくなでないこと。変幻自在にあなたのうしろにいる影。まげるとどんな形でもなるねじり飴。わたしはトランスフォルメ。形を変える自由な液体。

 なんだ、これは。「思い」は「トランスフォルメ」できないけれど、「わたしはトランスフォルメ。形を変える自由な液体」って、どういうこと? これは「矛盾」ではなくて、単なる「間違い」である。そして、その「間違い」に気づいていないのが、なんとも醜い。
 私は左子の出自を知らないから間違っているかもしれないのだが、たぶん左子は日本人であろう。そして日本語で育ってきた人間だろう。そういう人間が、あることを書くに当たって、突然一部だけ「フランス語」に頼る。そこからとんでもない間違いがはじまる。(左子が日本語とフランス語に、同じように精通しているなら、私が書いていることはまったくの誤解になるのだが。)
 突然のフランス語。それは、「肉体」ではなく「頭」で知ったことばである。あることを、別のことばで言えば、こうなる。ということを左子は「頭」で知っている。そして、その知っているとおりにことばを「頭」で動かす。
 そうすると、それは一瞬、新鮮なことばの運動に見える。その新鮮という印象が詩につながる。
 でも、そんなふうに「頭」で書いたものは、嘘にしかならない。
 せっかく「思い」は「トランスフォルメ(変形、形を変えること)」ができないと書きながら、「形を変える自由な液体」と「間違ったこと」を書いてしまう。でも、「頭」で書いているから、「間違い」に気がつかない。「頭」は「頭」に対して、いつでも嘘をつく。
 似たようなことが「Melanger」でも起きる。「混ぜること」と左子は訳している。

混ぜること。たとえばコーヒーにミルクを。二つのものが合わさってやさしく融ける。別々のものであったのというのに。いさぎよく一つになる。どんな後悔もなく。午後の陽差しの中に香りが立ち、香りはテーブルの木の香りに、初夏の草の匂いに混じる。メランジェ。なのに不思議。こんなに愛しているのに、あなたとわたしは混じらない。

 「あなたとわたしは混じらない」とは、どんなに愛していても、それぞれの「肉体」があり、それはコーヒーとミルクのようには溶け合わない、ということを「説明」しているのだが、そういう説明は「頭」のつくりだしたもの。そんなことが言えるのは「愛している」からではなく、愛してないからだ。混じってしまって、どうしようもなくなるのが「愛している」という状態である。私の「肉体」は、いま、ここにある。けれど、私の「こころ(思い)」はあなたの「肉体」のなかにあって、自分では動かすこともできない。あなたの「肉体」が私の「こころ」を私の願いとは無関係に、好き勝手に動かしてしまう。それは、とてもつらい。けれど、それでいいのだ。それがうれしいのだ--と、まあ、「頭」で考えるとばかばかしいような、矛盾だらけの状態が「愛」というものだろう。
 この詩でも左子は「どんな後悔もなく」という「真実」につながる「矛盾」を書きながら、フランス語をカタカナで書いたあと、「矛盾」を整理して(?)、「間違い」として広げてみせる。「こんなに愛しているのに、あなたとわたしは混じらない。」なんて、「愛」の瞬間ではなく、「別れ」の状態じゃないか。「未練」じゃないか。
 なぜなんだろうなあ、なぜこうなるんだろうなあ。

 あ、ほんとうはこんなことを書くつもりはなかったのだが、もう書きはじめてしまったので、最後まで書いてしまおう。
 なぜ、こんなばかげたことばの運動になるのか。理由はひとつである。日本語もフランス語も左子の「肉体」にはなっていないからである。「音」として左子の「肉体」に入っていないからである。「音」のもっていることばのつながりを切断して、単なる「意味」として動いているだけだからである。
 「意味」なんて、どういう「意味」にしろ「間違っている」、というのが私の考えである。「矛盾」を排除して、機能を優先させているのが「意味」であり、そこでは「肉体」はないがしろにされる。だから、私は「意味」を間違っている、というのだ。
 きのう読んだ廿楽順治のことばが、どんなにでたらめに見えても「肉体」をひきつれてくるので、間違えずに「矛盾」の豊かさを展開するのとは正反対である。「意味」が切り捨てる「肉体」を常に引き受けるのとは正反対である。

 「意味」だけをととのえたことばはつまらない。たとえば「Devenir 」。あれこれ書くのは面倒だから省略するが「Devenir 」ということばを書くなら、そこには「Venir 」が入ってくるべきだろう。「de」の存在がひびかせる「肉体」があるべきだろう。「くらし」があり、「他者」がいるべきだろう。
 この詩集には「Signer(署名する)」「Enseigner (教える)」という詩がある。その「音」は完全には一致しないが、類似の響きがあり、通い合うものがある。フランス語を生きている人間なら、そこから「肉体」を指し示すことができるだろうけれど、それを日本語に置き換えてしまうと、肝心の「肉体」が洗い流されてしまう。フランス語にふれて、何かを知る。そして、その知ったことを武器にして日本語の「肉体」を破壊しているだけなのに、何か新しいことをしているつもりになっている--こういう詩はつまらない。「肉体」をくぐりぬけてこないことばはつまらない。




Mon Dico*愛の動詞―左子真由美詩集
左子 真由美
竹林館

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誰も書かなかった西脇順三郎(186 )

2011-02-24 11:30:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』。
 西脇の詩にはいくつもの層のことばがあらわれる。それは地層の断面をみるような印象がある。
 「コップの黄昏」。

あさのウルトラマリンに
もえる睡蓮のアポロンに
目を魚のように細くする
バスを待つビルのニムフの
前をかすつてヘラヘラと
失楽の車が走る……

 これは「コップの黄昏」というタイトルに反して、朝の町の風景だろう。朝の町でみかけたものを、そのままの(名づけられているままの)ことばではなく、別のことばで書いている。「比喩」ではなく、比喩であることを拒絶して、「いま」「ここ」を破る「もの」として書いている。西脇の詩は、比喩を超越して、ことばそのものになろうとしている。
 こういう部分は、私の場合、精神状態が安定しているとき、とてもここちよく響いてくる。しかし、いろいろ忙しかったり、きょうのように、これから用事があるときには、ちょっといらいらする。(いま11時20分で12時前には家を出なければいけない。)ことばがうるさく感じる。
 こういうときでも、あ、おもしろいと思うのは、どこか。

あの深川のおねいさんは小さい鏡を出して
あの湿地と足もなくなつたことを
紅を漬け菜から嘆いている
人間はトカゲに近づいてくる
女神はやせて貝殻になる
真珠の耳飾りがゆれる時は
男への手紙を書いて切手をなめる時だ

 「切手をなめる」。このことばにはっとする。気持ちがよくなる。ふいにあらわれた「俗」。その前にも「おねいさんが小さな鏡を出して(略)紅をつけながら嘆いている」という女の描写が出てくるが、そうした「気取り」ではなく、生の「肉体」がふいにあらわれる瞬間、あ、おもしろい、と思うのだ。
 それは地層をあれこれ見ていて、あ、これは自分のつかっていた茶碗だ(そんなことはあるわけはないのだが)というような発見をするようなものだ。
 ふいに自分の生活が引っ張りだされるのである。

 こういうとき、どっちが「ノイズ」なのだろうか。
 「女神」や「真珠の耳飾り」がノイズなのか、「切手をなめる」がノイズなのか。
 「切手をなめる」という「俗」なもの(芸術からするとノイズになると思う)が、「真珠の首飾り」のなかにある高貴(高尚?)なもののノイズとぶつかり、目障りなものを吹き飛ばすような快感がある。
 こういうノイズを挟んで、詩はふたたび、

脳髄の重さはたえがたい
運命の女神の祈祷書を一巻
ほりつけた李の種子ほどの庭に
ソケイの花が咲いて
石の上に蝶がとまる頃

 とつづいていく。
 あ、もう一度、あの「切手をなめる時」ということばを読みたくなる。そういう欲望が私には湧いてくる。
 こういう瞬間が私は好きだ。あの「切手をなめる時」というのは透明なイメージであったなあ、「脳髄」とは無関係な「暮らし」の透明さがあるなあ、と感じるのである。



ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫
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廿楽順治「明治のできごと」

2011-02-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「明治のできごと」(「八景」2、2011年02月05日発行)

 廿楽順治の文体は口語の肉体とあそぶような感じである。ときに、「どう?」とストリップのようにちらりと肉体を奥をのぞかせたり、「ここは、どう?」と相手の手のとどかないところを撫でて反応をみる感じである。「いやん、だめ!」とぴしゃりと手をたたいて拒絶しているのか、誘っているのか悩ませるようなところもある。簡単に言うと、すけべで、色っぽいところがある。
 「明治のできごと」は尻揃えで書かれている詩なのだが、頭揃えの形で引用する。

もうしわけていどに言語がおかれている
(しかるがゆえにぬばたまの)
男子のみたまがしかめっつらでお茶をのんでいる
すき焼きじゃあるまいに
なまいきに言語をよっているのさ

 (しかるがゆえにぬばたまの)という1行の唐突さ。何が「しかるがゆえ」? どうして「ぬばたま」? 意味などない。意味の文脈はない。けれど、「しかるがゆえにぬばたまの」と次の行の「男子のみたまがしかめっつら」には、不思議な「音」の脈絡がある。「音楽」がある。(「が」は、ぜひ、鼻濁音で読んでもらいたい。そうしないと「ま」の音と響きあわない。)意味はどうでもよくて、ここでは、ことばの音の肉体が「過去」の肉体と「ねんごろ」になっているのだ。
 「ぬばたま」と「みたま」が、なにやらあやしげにつながり、その両側を「しか」のがゆえに、「しか」めっつらが挟んで、音の連絡そのものを笑っている。
 そして、こういう音の遊びさえも、「すき焼き」で「肉」をよりわけて食べているように、「言語をよっている」と笑ってしまう。
 --と、自己批判(?)しながら、まあ、ことばをよりわける、その敏感な舌を廿楽は見せつけているのかも。 それは、あくまで舌。あるいは、口蓋とか、歯とか、鼻腔とか、のど(声帯)とかも含むかもしれないけれど、ようするにことばを発するときの「肉体」の敏感な反応、しなやかな動きを廿楽は「芸」として見せてくれる。(意味として考えさせてくれる、のではなく、と補足しておく。)
 ことばとともに肉体があるということは、ことばとともに暮らしがあるということでもあるのだが、それは、ほら「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」というような暮らしなのである。そして、そこに「暮らし」があるということは、同時に他人の肉体と暮らしがあり、常にその批判にさらされながらことばが動くということである。

 あ、別なふうに言い換えるべきか。

 廿楽の書いていることは、いったい何?と問われたら、ちょっと答えに困る。たとえば「もうしわけていどに言語がおかれている」というときの「言語」って何? 具体的には何? その言語は何を語っている? 答えられないねえ。廿楽だって、きっと答えをもたない。
 けれど、そういう「わけのわからないもの」を口語のリズム、音のなかで、ぐいっと押して動かしてしまう。わからなくたっていいじゃない。「しかるがゆえにぬばたまの」って、何かしかるがゆえ? 「ぬばたま」って「黒」とか「夜」とか、なんだか暗いものと関係したものにかかる「枕詞」じゃない? というのは、どうでもいい。まあ、あやしい何かをちらりと思い浮かべればいいのだ。「ぬばたま」って声に出すと肉体のなかに「真昼」の明るさとは違う何かがよぎるでしょ? それって、私たち日本人が「肉体」のなかに抱えている何かなのだ。繰り返し繰り返し「ぬばたま」ということばを聞くことで、あれは、こんな感じのことばだったなあ、というくらいの印象--けれど、印象だから変にしつこくて、肉体にしみこんで、とりだせなくなっている変なもの……。それを廿楽は、その指先で、つんっ、とつついてみせる。ぐいっと押してみせる。
 「すき焼きじゃあるまいに/なまいきに言語をよっているのさ」にしても、ふいに、肉ばっかり選んで食べていて、「そんなことするんじゃない、行儀が悪い」なんて叱られた記憶が肉体の奥からわいてくるでしょ? ことばを選ぶこととすき焼きの肉を選ぶことは、違うことなのかもしれないけれど、その違うことが「肉体」(暮らし、他人)をとおして重なってしまう。
 こういうときの、「肉体」の重なり--あ、ね、色っぽいでしょ?
 それとも、こんなふうに反応するのは変態?
 でも、いいんだ。変態、と誰かに言われてみたいなあ。それって、変態って呼んだひとがしたくてもできないことを私がしてるから、嫉妬していうんでしょ? したくないことだったら知らん顔するだけ。無関係でいるだけ。変態って批判するってことは、その批判の対象とどこかで一体化することだからねえ。
 なんて、余分なことを書いてしまった。書いてしまったが、ようするに、こういうことを書かせることば、誘い出すことばなのだ、廿楽の文体は。

 さらに別な言い方をしてみる。
 廿楽の書いていることはわからない。わからないけれど、そのわからなさのなかに、とってもよくわかることばがある。そのよくわかることばは「肉体」に直接ふれてくる。セックスするとき触れあう肉体のように。

べに鮭のはらみたいに
わたしたちはどれだけうつくしく裂けているのだろうか
というとくるしんでいるようですが
きょうはにちようび
びらびらと
うまそうな腹をみせあってよろこんでいるのです

 「びらびら」とか「うまそうな腹」とか、これは「頭」でつかまえることばじゃないね。「肉体」がかってに納得してしまうことばである。

野菜はちゃんと庭にそだっているでしょうか
やがてわたしもいっぱしの
びらびらの学士さまになって
ゴシック体のうんこをばらまいてやるのです

 「ゴシック体のうんこ」ってわかる? わかんないよなあ。なんだ、これ。「おい、廿楽、ちゃんと日本語を書け」と「学校教科書的な作文」なら叱られるかもしれないなあ。そういうとき、どうする? 廿楽が先生から怒られているのを見たら、どうする? 何か楽しくない? 「うんこ、うんこ、ゴシック体のうんこ」ってはやしたてたくならない?そういう欲望、「頭」のなかにあるのではなく、「肉体」のなかにある欲望を誘い出すよなあ。

 何が「明治のできごと」なのか、わからないのだけれど、そういうことは私は気にしないのだ。「意味」はどうでもよくて、「意味」を壊すようにして動く「肉体」そのものとしての「口語」が楽しいのだ。




すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(185 )

2011-02-23 12:07:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡのつづき。

 この詩には「哲学的」なことば、「永遠」をめぐることばがいろいろ書かれている。そこに「意味」はたしかにあるし、そうしたことばについて考えるのは楽しい。けれど、それと同様に、「無意味」なことば、「意味」を拒絶していることばも楽しい。

旅人のあとを
犬がふらふら
歩いている
夕陽は
シヤツをバラ色に
いろどる
町のはずれで
もなかと
するめを
買つた
がまぐちのしまる音は
風とともに
野原の中へ去つた

 「もなかと/するめを/買つた」がおかしい。どういうとりあわせ? それを一緒に売っている店ってどういう店? などということは、どうでもいい。もなかとするめというとりあわせが予想外でおかしい。予想外なので、読んでいて、私のなかで何かが壊れる。西脇のことばは乱調、ことばの破壊の音楽の楽しさがあるが、それはこんな短いことばでもできるのだ。もなかとするめはとりあわせがおもしろいと同時に、音も不思議と印象に残る。両方とも滑らかに動く。音がなめらかなので、そのとりあわせが不自然(?)なことを一瞬忘れてしまうほどだ。
 次の「がまぐちのしまる音は/風とともに/野原の中へ去つた」もやはり音がおもしろい。ここには「意味」など、ない。だいたいがまぐちのしまる音など、風が運ぶ前に、そのあたりに散らばって消えてしまう。それが「野原の中」まで「去る」ということなど、論理的にはありえないだろう。
 「わざと」そう書くのだ。
 そうすると、そのことばとともに「もの」が動く。意識のなかで「もの」が動く。「野原の中へ」の「中」さえも、まるで「もの」のように出現してくる。「野原へ去つた」と書いたとき(読んだとき)とはまるっきり違ったものが出現してくる。
 「意味」を追い、それが正しいかどうかというようなことを考えているときは見えてこない「もの」が突然あらわれて、私を驚かす。
 その瞬間に、詩を感じる。

もうレンゲソウも
なのはなもない
また川べりに来た
遠くにバスが通る
ひとりの男が
猫色の帽子をかぶつて
魚をつつている
それを
見ている男の顔は
スカンポのように
青い
のいばらの
えだの首環の下から
エッケー!








 この詩の終わり方。「エッケー、ホーモー」に「意味」はあるだろう。「日本語」に訳せば「意味」が生まれてくるだろう。だが、西脇は、そうしていない。「ホモ」(人間)に関することばが「意味」としてあらわれてくるだろう。けれど、西脇は、そうしない。ただ、その「音」を「音」のまま書いている。音引き「ー」や無音「・」を書くことで、ことばを「音」そのものにしてしまっている。
 「意味」は「意味」なりに、有効な何かなのだが、西脇は「意味」よりも「音」そのものを解放するために、音引きや無音だけの行を書いているのだ。
 「意味」ではない「音」が放り出されているのである。

 西脇は、いつでも「音」を詩の中に放り出しているのだと思う。「意味」はどこかに捨ててしまって、そこにある「音」の響きだけを楽しんでいる。こういう遊びが私はとても好きである。「意味」はわからなくてもいい。そのうち、ふいに「意味」を「誤読」する瞬間がくるかもしれない。こなくても、私は、気にしない。
 最後の「エッケー!ホーモー」ということばの前の「スカンポ」の突然の出現もうれしい。茎の中が空洞になった植物。私の田舎では、なにも食べるものがないとき、道端のスカンポをかじって歩いた。そういうようなことも思い出すのだ。西脇が書いていることと関係するかしないかわからないことを、かってに感じるのだ。スカンポというかわいた音とともに。





最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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永沢幸治「おばあさんの坂」

2011-02-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
永沢幸治「おばあさんの坂」(「ネット21」22、2010年12月10日発行)

 詩でも小説でも、私は1か所好きなところがあれば、それだけでうれしい。永沢幸治「おばあさんの坂--夕陽ケ丘(大阪)で」は前半がとても魅力的である。

坂が のぼりおりして
孤りで 夕陽とあそんでいる
空を見上げると
丸くなったおばあさんお背中の
うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 書き出しの2行、その擬人化が楽しい。擬人化--と書いたけれど、まあ、これは「学校教科書」風の言い方。擬人化といってしまうと全然おもしろくない。「ひと」のようにあそんでいるのではなく、坂そのものがあそんでいる。坂そのものが、のぼりおりの長さや傾斜の度合いを変えてあそんでいる。まがりくねったり、まっすぐになったり、いろんな形になって、坂自身がどこまでかわれるか(変身できるか)、それを楽しんでいる。
 そこにおばあさんがひとり。
 あそぶ坂をみつめ、その自分とは無関係な元気な姿をみて、ぼんやりしている。まあまあ、あんなにあそんじゃって、くらいは思うけれど、あとはぼんやり。ちょうど公園であそぶ孫でもみる感じかなあ。
 そのあとの、

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 ここが傑作だなあ。
 おばあさんは、特になにをするわけではない。坂を、あれまあ、どうしてこんなに、なんて思いながらのぼりおりしているのかもしれない。そして、その瞬間、「さびしさ」がなくなってしまう。
 うーん。
 これ、いいこと? 悪いこと?
 おばあさんにとって、うれしいこと? 悲しいこと?
 わからないねえ。
 この「わからない」が詩なのだ。
 おばあさんが夕陽の坂道を歩いている。坂道はおばあさんと一緒にいるのが楽しくて、懸命にあそんでいる。それを見ているおばあさんのまわり(オーラのなか?)から、「さびしさ」がなくなる。なくなって、おばあさんが楽しい気持ちになったとする。それって、いいこと? その反動で、もっともっとつらいさびしさがやってくるとしたら、それでも、それはいいこと? おばあさんの平穏はどうなる? おばあさんって、ああ、人生って(きょうは)さびしいなあ、と思っている方がいいのでは? さびしさを相手に話し合っているのが、それはそれで楽しいのでは? こんなことは考えなくていいのだが、なぜか、私は考えてしまう。余分なことを考え、「誤読」をしたくなる。
 その行の周辺で、私はうろうろしてしまう。道草をしてしまう。この考えがまとまらず、うろうろしている時間が詩そのものなのだ。

 詩は、つづいていく。

と 不安になり
うねる壁になって
むこうの空に倒れこんでいく
(手をつないでいきたかったのに)
坂も くたびれたのだろう
ひらたくなって
おばあさんの下で
(ようやく たどりつけたね)
土の布団だけれど
やさしい傾斜になって

 ここにも楽しい行がある。(手をつないでいきたかったのに)、「ひらたくなって」。とてもいいなあ、と思う。坂の気持ちと、おばあさんの気持ちが、まるで目の前に坂とおばあさんがいるみたいにリアルに感じる。
 わからない部分というか、「論理的」には変なのだけれど(坂と手をつなぐ、とか、坂が平たくなるというのは「論理的」にはありえないのだけれど)、それが変であるから、リアルなのだ。論理ではなく、肉体が、そのことばに反応して、「そうだね」と肯定してしまうのだ。そういう「頭」ではわからない部分が、詩を豊かにする。

 で、最後。「布団」。この比喩が比喩ではない。どうもつまらない。「布団」が、いろんな「意味」を誘っている。それが、とても「いやだなあ」という感覚を呼び覚ます。私の場合は。瞬間的に、私は考えたくなくなる。感じたくなくなる。

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 この3行で感じた「わからなさ」(意味のなさ)が、最後の「布団」で意味に押しつぶされそうで、楽しさが消える。
 こういう瞬間、とても悔しいね。
 あんなに楽しかったのに、たった一語で楽しさが消されてしまうなんて、と思うのだ。


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クリント・イーストウッド監督「ヒアアフター」(★★★+★)

2011-02-22 09:31:21 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 マット・デイモン、セシル・ド・フランス、フランキー・マクラレン、ジョージ・マクラレン

 この映画はとても変わっている。「臨死体験」と「死後(あの世、彼岸)」を題材にしているのだが、どうみてもクリント・イーストウッドが「あの世」というものを信じているとは感じられないのである。「あの世」の描き方に熱意が感じられないのである。マット・デイモンの「霊」との交流などは、まあ、実際の交流がどういうものか私は知らないが、単に他人と一瞬手を触れあっただけで、その人のではなく、その人とゆかりのある人の霊と交流できるというのだから、あまりにも非現実的である。(憑依状態になったり、霊に呼び掛けたりというのが「現実的」というわけではないのだけれど。--でも、これまでの「常套的」な映画なら、そういうシーンを撮っただろう。)
 では、なぜ、こんな映画を撮ったのか。
 「臨死」や「あの世」がテーマではないのではないのか。ひとには誰でも「過去」がある。そして、過去が違うと、ひとは他人とうまく「いま」を生きることができない。一緒に生きることができない。それをどうやって乗り越えるか。そのことがテーマであり、「臨死」(あの世)は、いわば「特異な過去」なのだ。肉体が衝撃的なダメージを受ける。それは精神にも影響してくるだろう。「現実」の見え方が、当然違ってくる。それを、ひとはどうやって乗り切って(修正して)、他人と出会い、交流して行けるか、そのことを描いているのではないのだろうか。
 だから、というわけでもないのかもしれないが、「臨死」が一様ではないのがとてもおもしろい。ここにイーストウッドの独創性というか、工夫がある。「臨死」のあり方が一様ではないということは、「いま」の見え方が一様ではないということでもある。
 実際に映像として描かれているのはセシル・ド・フランスの津波での「臨死」だけである。彼女は、その後、現実に集中できなくなる。かといって、「霊」と交信できるわけでもない。ふと、「あの世」をかいま見た瞬間を思い出し、引きずられてしまう。マット・デイモンの場合は子供時代のこととして「ことば」で語られる。彼は「臨死」を体験することで、他の霊と交信することができるようになり、他のひとから、交信してくれるよう頼まれる。現実に生きている人間としてマット・デイモンが他人と交流するのではなく、生きているひとと死者の仲介者としての「現実」しか生きられなくなる。彼は、そういう生き方が嫌になっている。双子の兄弟の場合は、兄が「臨死」ではなく実際に死んでしまう。それがなぜ「臨死」かといえば、残された一卵性双生児の弟にしてみれば、「同じ肉体(遺伝子学的に同じ)」が消えるわけだから、遺伝子の立場からすれば「半分の死=半死=臨死」になるのだ。弟は、そして、やはり死んでしまった兄の精神(こころ)が気になってしようがないのである。
 で、実際に、どうやって「現実」を「現実」として回復させるか。ふつうの「現実」を取り戻し、「いま」「ここ」を生きることができるか。
 「ことば」が、ここでテーマとして浮かび上がってくる。
 マット・デイモンの登場するシーンの描き方が、特にそのこと鮮明に語る。マット・デイモンは霊と交信するのだが、その交信はひたすら「聞く」ことである。マットは霊には質問しない。質問するのは霊と交信したがっている生きている人間に対してだけである。ただし、その質問は「イエス・ノー」だけをもとめるものであって、マットは生きているひととは実際に対話せず、ただ霊の「ことば」を伝達するのである。ふつうのひとが聞くことのできない声を聞き、それを誰かにつたえる。そういうことをするために「ことば」がある。映画なのだから、本来ならば霊は映像となってスクリーンに登場してもかまわないのだが、イーストウッドはそういう演出をとらず、ただ「ことば」として霊を登場させる。「ことば」だけが霊の存在を語っている。
 セシル・ド・フランスの場合も「ことば」が問題となる。彼女は最初はニュースキャスターである。「現実」をことばと映像でつたえる職業である。「臨死」体験後は、彼女だけが知っている世界を「ことば」で明確にする。映像は採用しない。彼女自身見たものがあるのだが、それは彼女の記憶として彼女にだけ見える形で存在する。他人が(映画の観客以外が)見えるように絵にしてみるというようなことはしない。あくまで「ことば」で語る。書くことで、「ことば」を確立しようとする。
 双子の弟の場合はもっと極端である。彼が出会うのは地下鉄の帽子以外では、いつでも「ことば」である。「ことば」だけである。そして、彼は「ことば」を聞くことで、その「ことば」が語ることがほんとうかどうかを正確に判断する。マット・デイモン以外の霊媒者の「ことば」に嘘を感じ、信じない。死んでしまった兄と出会うのもマットの語る「ことば」として出会うだけである。
 あ、これでは映画ではなく、「小説」だ。「ことば」と向き合う世界だ。
 ところが……。こうやって感想を書いていると「小説」向きとしか思えないテーマであり、またストーリーの展開なのだが、映画を見ているときはたしかに映画だと思ってみている。不思議な違和感を感じながらも、映画だなあ、と思ってみている。
 なぜだろう。映画の作り方がイーストウッドは天才的にうまいのだ。「ことば」をテーマにかかげながら、ことばを映像にもぐりこませてしまうのだ。たとえばマット・デイモンは不眠症(?)のため、夜中にラジオを聞いている。なんだかよくわからない物語がそこでは語られている。「ことば」が現実にただ散らばっているという状態を、ふつうに映画にしてしまう。そのラジオの朗読のことばのあり方のようにして、霊との交信のことばをスクリーンに繰り広げるのだ。マット・デイモンがラジオを聞いているシーンがなかったら、マットの語る「霊のことば」は「捏造」になってしまうが、ラジオの存在が「霊のことば」を遠くからやってくることばに変えてしまうのだ。あ、うまい、うまいなあ。
 セシル・ド・フランスが巻き込まれる津波のシーンもうまい。なにがうまいといって、出してくるタイミングがうまい。映画がはじまってすぐに、いわばクライマックスがある。スペクタクルがある。観客の目はまだ映像に慣れていない。慣れる前に「嘘」を見せてしまうのだ。華々しいシーンは最初でつかいきって、封印し、あとは地味に「ことば」に関心が向かうように派手な映像をつかいきってしまうのだ。
 ごくふつうの処理といえばふつうの処理なのだが、双子の弟が多くの霊媒者のことばに嘘を感じ、がっかりするというのも、少年の肉体の動き、顔の表情で引き受け、ことばを否定してしまうのも、あ、きちんとできているなあと感心してしまう。

 たぶんイーストウッドが霊とか死後というものを信じていないせいだと思うのだが、霊や死後の世界の描き方はそっけなく、おもしろみに欠けるのだが、映画のなかにおける映像とことばの処理の仕方というか、映画技術としては、すごいなあ、とうなってしまう映画である。映画を楽しむ、とういより、映画の作り方を学ぶ、イーストウッドの映画技術を吸収するという意味では非常にいい作品である。


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今井好子「忘れられたかばん」

2011-02-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
今井好子「忘れられたかばん」(「橄欖」89、2010年12月01日発行)

 今井好子「忘れられたかばん」の1連目が印象に残る。感想をまとめられないのだが、ずっーと気がかりだった。

忘れられたかばんは北へ
網だなの上で北へ
電車は北の町をめざします
忘れられたかばんの下を
くたびれた男の人や
妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや
いろんな人が入れ代わってすわり
いっとき忘れられたかばんと
すれちがっていくのですが
だれひとり
忘れられたかばんに
気づくひとはありません

 私がずーっと気がかりだったのは、「いっとき忘れられたかばんと」という行である。この行の「いっとき(一時)」は次の行の「すれちがっていく」と意味の上ではつながっている。前後の行のことばの順序を入れ換えると、「いろんな人が忘れられたかばんと、いっときすれちがっていく」ということになる。そして、「すれちがっていく」は「いっしょにいる」という「すれちがう」とは反対のことを指しているのだが、つまり、いろんな人は忘れられたかばんと一時的に「いっしょにいる」、いくつかの駅をすぎる間、「いっしょにいる」ということをあらわしている。
 それを承知の上で、私は一瞬、夢をみるのである。
 忘れられたかばんは、ずーっと忘れられているのではない。「いっとき」忘れられているのだ、と。誰かが、網棚の下、かばんが置かれている網棚の下にすわる。その「いっとき」、かばんはその人から忘れられている--そう夢に見てしまうのである。そのかばんは「妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや/いろんな人」のかばんではない。だから、それをいろんな人が「忘れる」というのはほんとうは違うことなのだけれど、それでも、そのときかばんが「忘れられている」、その人たちの意識にのぼらない、その人たちから無視されている--そういう夢を見るのである。
 かばんは、誰からも見られず(注目、注意されず)、旅をしているのだ。かばんは「忘れられた」のではない。逆に、そのかばんの持ち主こそ、どこかの駅で忘れられたままになっていて、かばんが人間のように北へ旅しているのだ。
 ひとりで北へ旅するかばん。そのかばんがどこかの駅で「持ち主」を忘れてきたのには理由がある。もしかすると、捨てて、置き去りにしてきたのかもしれない。
 でも、その列車に乗り合わせた「いろんな人」は、そういうかばんの「思い」など気にしない。無視する。--「忘れる」。そう、いろんな人の間では、かばんは「忘れられた」存在なのだ。
 あ、かばんになって、小さな、誰も知らない北の町へ行ってみたい--そういう夢を私は見るのである。
 「いっとき」のかかることばをあえて「誤読」して、そんな夢を見るのである。
 そして、もしかすると今井もそういう夢を見ていたのではないか、とも思うのである。なぜって、もしほんとうに「いっとき」が「すれちがっていく」にかかることばならば、それは「いっときすれちがっていく」とつづけて書かれるべきなのである。そうせずに、「いっとき忘れられた」と書くかぎりは、どこかに私が書いたような思いが動いているからなのだ--と、私は強引に考える。

 それはもしかすると今井の考えではないかもしれない。

 では、誰の? 私のでもない。それは、ことば自身の考え、ことばの自律した動きがつかみとる夢なのだ。それは今井さえも裏切っていく。(だって、今井の書いている「学校教科書的な意味」はあくまで「いっときすれちがっていく」なのだから。)
 こういうことばの運動が、私は、とても好きである。

 詩は、つづく。

いよいよ電車にも
北の町のにおいがぷんぷんしてきて
乗っている人も北の町のヒトデ
もうすぐ終点というころ
いろなん顔を
つかれた顔やねむった顔さびしい顔
それらをうつした窓から
夕日がさしこんで
北の町をのみこんでしまいそうな
赤い大きな夕日が
忘れられたかばんをてらしています

 ほら、かばんが、人間そのものに見えてきませんか? どこかで「持ち主」を置き去りにして北の町までふらりとやってきた人間そのものに見えてきませんか?
 あ、「私」そのものを置き去りにして、そのかばんのようにどこか知らない町へと旅をしてみたい、誰からも「忘れられた」人となって、どこかへ行ってみたいと思いませんか?




佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス

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誰も書かなかった西脇順三郎(184 )

2011-02-21 23:05:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅡ。

永遠を象徴しようとしない時に
初めて永遠が象徴される

 この詩には、この2行のような「矛盾」したことばが何度も出てくる。詩は矛盾のなかにしかないからだ。
 この2行を引き継いで、詩は、動いていく。

パナマ帽をかぶつて
喋つている
あの男の肩ごしに
みえる若い男の顔は永遠を
呼びおこす
永遠を追わないほど
永遠は近づく

 「若い男」は「永遠」を追わず「いま」を生きるだけである。その瞬間に永遠があらわれる--というような意味よりも。
 「パナマ帽をかぶつて」という2行に、私は「永遠」を感じる。なぜ、パナマ帽? 説明はない。「意味」がない。ただ、その「もの」だけがある。だから、そこに永遠がある。永遠とは、なんでも(どんな考えでも--どんな説明でも)受け入れることのできるもの--ではなく、どんな考えも、どんな説明も拒絶して存在するものなのだ。
 次の「喋つている」も楽しい。話しているではなく、「喋つている」。「意味」は同じだが、「喋る」の方が「むだ」を連想させる。無意味を連想させる。そこにも「意味」の拒絶がある。

太陽が地平に近づく時
青いマントをひつかけ
ガスタンクの長びく影をふんで
どこかへ帰ろう
明日はまた
新しい崖
新しい水たまりを
発見しなければならない

 なぜ、「青いマント」? ここにも説明はない。けれど、「青い」が美しい。説明がないから美しい。「ガスタンクの長びく影をふんで」も意味がない。「どこへ帰ろう」というのだから「目的地」がない。ただガスタンクの影とそれを踏むという行為だけがある。こういう意味を拒絶したことばはいつでも美しい。拒絶のなかに、永遠がある--と言ってみたくなる。
 「新しい崖/新しい水たまりを/発見しなければならない」。これも理由はない。新しい崖を発見する、新しい水たまりを発見する、ということばのつながりが美しい。「発見する」ということばは、そういう具合にはふつうはつかわない。ふつうと違ったつかわれかたをしているから、美しい。「音」としてのみ、響いてくるから楽しいのだ。「新しい崖/新しい水たまり」の「新しい」という形容詞のつかいかたもとても変わっている。意味が消えて「新しい」という音の響きだけが強く浮かび上がる。「新しい」という音はこんなに美しい音だったのか、と思ってしまうのだ。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会


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