高橋順子「砂漠の国ナミビア」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「神奈川大学評論」56、2007年03月発行)
旅行記である。ことばが自在に動いてゆく。自然と共鳴することば(そのなかには日本の感性が生きている)、そこで会ったひとのことば、そしてそのことばは日本人とアフリカの人の視力の違いを浮き彫りし、その視力の違いに触発されて動き始める高橋のことば。
雨と霧の区別。砂漠ではしないかもしれない。雨にいくつもの表情を読み取る感性が「レイニー」と「フォギー」の違いを気にする。そしてその視力が「小石はしんから濡れていた」という繊細な世界を描き出す。
一方、ナミビアのひとの視力はどうか。
「よく見える目」は単に視力の問題ではない。視力は歴史を、つまり時間をも見るのである。風景は風景であると同時に歴史なのだ。
これはいわば当たり前のことかもしれないが、その当たり前のことを自然に描いてゆく。そこに高橋のこころの、ものごとへのこだわりのなさというか、広がり、寛容の力がある。
そして次のようなことばにたどりつく。
砂漠が「黙っていようとしても/黙っていることができない」ように、高橋も黙っていようとしてもことばが動いてしまう。その動きがとても自然で、深みがある。そして、その深みを抱えてことばはゆっくり浮上する。それがまた非常に自然だ。
近くと遠くを見る目。その視力の背後で動く精神。そのとき見えている大西洋は砂漠を横断してきた(横断しながらアフリカの人と会話する)という体験によって初めて見える大西洋だ。
何も説明せず、ただ読者に放り出している。「自由に想像して」というように。これは、砂漠を横断し、新しいものを見た高橋の自信だ。それが、とても頼もしい。
と書いて気づくのだが、高橋のことばにはいつも事実を通り抜けてきたものの頼もしさがある。
旅行記である。ことばが自在に動いてゆく。自然と共鳴することば(そのなかには日本の感性が生きている)、そこで会ったひとのことば、そしてそのことばは日本人とアフリカの人の視力の違いを浮き彫りし、その視力の違いに触発されて動き始める高橋のことば。
いまはレイニー・シーズンだというが
フォギー・シーズンといったほうがよくはないか
ナミビア砂漠には霧が降っていて小石はしんから濡れていた
雨と霧の区別。砂漠ではしないかもしれない。雨にいくつもの表情を読み取る感性が「レイニー」と「フォギー」の違いを気にする。そしてその視力が「小石はしんから濡れていた」という繊細な世界を描き出す。
一方、ナミビアのひとの視力はどうか。
小動物のまるい糞がかたまって落ちていて
タクシー・ドライバーの青年はわたしたちの手帖に
「英語では」と言って「springbok」と書いてくれた
砂漠の中に生き物がいるようには見えないが
彼らはちゃんと生存の証しを置いているのだ
アフリカの人はよく見える目をもっている
また彼の指さす地面を見ると
錆びた薬莢があった
「南アフリカと戦ったときのものだ
ぼくらはその戦いに勝って独立した」
「よく見える目」は単に視力の問題ではない。視力は歴史を、つまり時間をも見るのである。風景は風景であると同時に歴史なのだ。
これはいわば当たり前のことかもしれないが、その当たり前のことを自然に描いてゆく。そこに高橋のこころの、ものごとへのこだわりのなさというか、広がり、寛容の力がある。
そして次のようなことばにたどりつく。
砂漠では何も起こらなかったかのように見えるが
戦いがあったことの証拠をとどめている
砂漠は黙っていようとしても
黙っていることができない
息が凝(こご)ったような物たちを漏らしてしまうのだ
砂漠が「黙っていようとしても/黙っていることができない」ように、高橋も黙っていようとしてもことばが動いてしまう。その動きがとても自然で、深みがある。そして、その深みを抱えてことばはゆっくり浮上する。それがまた非常に自然だ。
道なき道を
といってもドライバーには見えるんだろうが
走りに走ると
ゴミの集積場と
水の製造工場があって
砂丘にのぼると遠くに大西洋が見えた
近くと遠くを見る目。その視力の背後で動く精神。そのとき見えている大西洋は砂漠を横断してきた(横断しながらアフリカの人と会話する)という体験によって初めて見える大西洋だ。
何も説明せず、ただ読者に放り出している。「自由に想像して」というように。これは、砂漠を横断し、新しいものを見た高橋の自信だ。それが、とても頼もしい。
と書いて気づくのだが、高橋のことばにはいつも事実を通り抜けてきたものの頼もしさがある。