芒克(マンク)「重量」(浅見洋二訳)(「現代詩手帖」2008年08月号)
「現代詩手帖」08月号は四川大地震に寄せて書かれた詩を特集している。どの詩も胸に迫る。特に中国の詩人たちの書いた作品に心を打たれた。
芒克の作品はとまどいから始まっている。「重量」の1連目。
わたしたちは、阪神大震災を身近に体験している。そのときの体験を詩にまとめたものとしては、季村敏夫の『日々の、すみか』がとても印象に残っている。季村の作品では、体験したことの大きさのために、ことばがなかなか動かなかった。ことばがことばとして動きだすのは詩をいくつも書いたあとだった。ことばと出来事は、最初は一致しなかった。人間は、どうしても自分の知っていることばで何かを語ろうとする。ところが、自分の知っていることばでは、体験した出来事がうまく語れない。出来事は、ことばを何度も何度も動かしているうちに、ようやく、一致するようになる。その過程が生々しく、とてもいい詩集だと私は思った。
芒克がどこで四川大地震を体験したのか知らないが、そのことばは最初から動いている。動いているけれど、とまどっている。崩壊したビル。その形。そこではどんな「重さ」が人間に加わるのか。そのビルの下にもがいているいのち、あるいは死。それは肉眼では見えない。しかし、肉眼を超越する心の目は見てしまうのだ。そのことに、とまどっている。
季村は、ことばが動かないことにとまどった。芒克はことばが動くことにとまどっている。とまどいながらも、その動くことば、ことばの動きのままに、芒克の精神がどこまで四川にとどくかを誠実に書いている。追っている。追わずにいられないのだともいえる。そのとまどいは、別のことばで言えば、存在しないものを存在させようとしてことばが必死になっていることに対するとまどいである。芒克が動くのではなく、ことばが動き、芒克を駆り立てるのである。ことばでしかたどりつけない「真実」というものへ。
それは、たぶん、いままでそこに存在したビルの高さであるだろう。それは何よりも高い。そして、何よりも重いものとなって、そこから消えたのだ。消えることによって、もっとも高い場所になったのだ。
こわれたビルよりも、空はさらに高かった。「天」はさらに高かったはずである。ビルが高い場所であるはずはなかった。しかし、「真実」ではあっても「事実」ではない。「事実」はビルこそが一番高く、その高みのすべて、高みがもっている「重量」すべてが、「下方」をつくりだす力となっている。
「事実」は、そう告げている。
これは、もちろん、矛盾である。「事実」が告げることは、すべて「矛盾」である。「矛盾」だからこそ、そこには、たどりつけない「真理」がある。芒克が、ことばでたどりつく「真理」がある。そこから「真理」が生まれてくる。「真理」を生み出す「場」としての「矛盾」がここにある。
「矛盾」を通って、芒克のことば、強く、美しくなる。
「わたし」を超越し、「いのち」そのものになる。ことばは「出来事」を描写するのではなく、「いのち」を描写するのである。
*
季村は阪神大震災を「出来事」として受け入れようとした。
たぶん、これが日本人の感覚というものなのかもしれない。起きてしまったことを「受け入れる」という感受性の形が、ここには季村にはあるのだと思う。「受け入れ」、そこからどうやって自分たちをとりもどすか、というのが季村の思想であると思う。
一方、芒克は四川大地震を「出来事」として受け入れることを拒絶し、拒絶した場所から人間の「いのち」を動かす。そして、そこで悲しみとなって、ひとを揺さぶる。ことばは感情をつかみとり、感情を生み出すための方法なのだ。
季村の作品が「出来事」を確認することからはじめるのに対し、芒克は「いのち」を共有し、「感情」を共有することからはじめるのである。
たぶん季村のことばは逆に動くと思う。「痛みがあるのに痛みを感じない/親しい人がいるはずなのにあたりはみな知らないひとばかり」と、「出来事」が「事実」にもならなければ「真実」にもならず、嘘のように、まず存在し、それを「出来事」としてとらえられるようになったとき、季村のなかでは、自分のものではない痛みが自分のものになり、親しくなかった人も親しい人になる。
芒克は、そういう「経過」をたどらずに、直接、「いのち」に触れる。自分の肉体は痛みを感じていない。けれども多くの人の痛みを感じる。親しい人はいないのに、その痛みを通じてあらゆる人と親しくなる。
季村と芒克。どちらがいいというのではない。しかし、そこには明らかな違いがある。芒克はことばの国のひとなのだ、と激しく意識させられた。
「現代詩手帖」08月号は四川大地震に寄せて書かれた詩を特集している。どの詩も胸に迫る。特に中国の詩人たちの書いた作品に心を打たれた。
芒克の作品はとまどいから始まっている。「重量」の1連目。
痛みはないのに痛みを感じている
もし知覚がないならば
知覚があるかないかも知覚できない
重さが存在しないならば
重さを欠いた形とはどのようなものか
形が存在しないならば
形を欠いた重さとはもっも重いものなのか
それは一瞬にして
あまりにも突然の出来事
わたしは押しつぶされたまま視線を断たれた
しかしわたしはなおも見ることができる
あの見えないものを
わたしたちは、阪神大震災を身近に体験している。そのときの体験を詩にまとめたものとしては、季村敏夫の『日々の、すみか』がとても印象に残っている。季村の作品では、体験したことの大きさのために、ことばがなかなか動かなかった。ことばがことばとして動きだすのは詩をいくつも書いたあとだった。ことばと出来事は、最初は一致しなかった。人間は、どうしても自分の知っていることばで何かを語ろうとする。ところが、自分の知っていることばでは、体験した出来事がうまく語れない。出来事は、ことばを何度も何度も動かしているうちに、ようやく、一致するようになる。その過程が生々しく、とてもいい詩集だと私は思った。
芒克がどこで四川大地震を体験したのか知らないが、そのことばは最初から動いている。動いているけれど、とまどっている。崩壊したビル。その形。そこではどんな「重さ」が人間に加わるのか。そのビルの下にもがいているいのち、あるいは死。それは肉眼では見えない。しかし、肉眼を超越する心の目は見てしまうのだ。そのことに、とまどっている。
季村は、ことばが動かないことにとまどった。芒克はことばが動くことにとまどっている。とまどいながらも、その動くことば、ことばの動きのままに、芒克の精神がどこまで四川にとどくかを誠実に書いている。追っている。追わずにいられないのだともいえる。そのとまどいは、別のことばで言えば、存在しないものを存在させようとしてことばが必死になっていることに対するとまどいである。芒克が動くのではなく、ことばが動き、芒克を駆り立てるのである。ことばでしかたどりつけない「真実」というものへ。
わたしはわたしの上方を見た
そこにはまだ天が存在するのだろうか
わたしはそれよりももっと高い場所を見た
だが高い場所よりももっと高い場所とはいったい何か
それは、たぶん、いままでそこに存在したビルの高さであるだろう。それは何よりも高い。そして、何よりも重いものとなって、そこから消えたのだ。消えることによって、もっとも高い場所になったのだ。
わたしの下方
下方には更に下方がある
高い場所はこれまで高い場所であったことはない
こわれたビルよりも、空はさらに高かった。「天」はさらに高かったはずである。ビルが高い場所であるはずはなかった。しかし、「真実」ではあっても「事実」ではない。「事実」はビルこそが一番高く、その高みのすべて、高みがもっている「重量」すべてが、「下方」をつくりだす力となっている。
「事実」は、そう告げている。
これは、もちろん、矛盾である。「事実」が告げることは、すべて「矛盾」である。「矛盾」だからこそ、そこには、たどりつけない「真理」がある。芒克が、ことばでたどりつく「真理」がある。そこから「真理」が生まれてくる。「真理」を生み出す「場」としての「矛盾」がここにある。
「矛盾」を通って、芒克のことば、強く、美しくなる。
わたしは見た、そして聴いた
人間の心臓が脈打っているのを
この脈打つ心臓はわたしのもの、それとも誰か別の人のものか
わたしたちにとって誰が誰であるかはそんなに重要なことなのか
重要なのは
人間の心臓がまだ生きているということ
わたしたちの心臓はまだ脈打っている
わたしたちはみな自分の心臓で
廃墟のなか互いに互いを捜し求める
「わたし」を超越し、「いのち」そのものになる。ことばは「出来事」を描写するのではなく、「いのち」を描写するのである。
*
季村は阪神大震災を「出来事」として受け入れようとした。
たぶん、これが日本人の感覚というものなのかもしれない。起きてしまったことを「受け入れる」という感受性の形が、ここには季村にはあるのだと思う。「受け入れ」、そこからどうやって自分たちをとりもどすか、というのが季村の思想であると思う。
一方、芒克は四川大地震を「出来事」として受け入れることを拒絶し、拒絶した場所から人間の「いのち」を動かす。そして、そこで悲しみとなって、ひとを揺さぶる。ことばは感情をつかみとり、感情を生み出すための方法なのだ。
季村の作品が「出来事」を確認することからはじめるのに対し、芒克は「いのち」を共有し、「感情」を共有することからはじめるのである。
痛みはないのに痛みを感じている
親しい人はいないはずなのにあたりはみな親しいひとばかり
おまえはどこにいるのか
わたしはどこにいるのか
音はしないはずなのにあたりは音に満ちている
たぶん季村のことばは逆に動くと思う。「痛みがあるのに痛みを感じない/親しい人がいるはずなのにあたりはみな知らないひとばかり」と、「出来事」が「事実」にもならなければ「真実」にもならず、嘘のように、まず存在し、それを「出来事」としてとらえられるようになったとき、季村のなかでは、自分のものではない痛みが自分のものになり、親しくなかった人も親しい人になる。
芒克は、そういう「経過」をたどらずに、直接、「いのち」に触れる。自分の肉体は痛みを感じていない。けれども多くの人の痛みを感じる。親しい人はいないのに、その痛みを通じてあらゆる人と親しくなる。
季村と芒克。どちらがいいというのではない。しかし、そこには明らかな違いがある。芒克はことばの国のひとなのだ、と激しく意識させられた。
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