詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

芒克(マンク)「重量」

2008-07-31 11:38:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 芒克(マンク)「重量」(浅見洋二訳)(「現代詩手帖」2008年08月号)
 「現代詩手帖」08月号は四川大地震に寄せて書かれた詩を特集している。どの詩も胸に迫る。特に中国の詩人たちの書いた作品に心を打たれた。
 芒克の作品はとまどいから始まっている。「重量」の1連目。

痛みはないのに痛みを感じている
もし知覚がないならば
知覚があるかないかも知覚できない
重さが存在しないならば
重さを欠いた形とはどのようなものか
形が存在しないならば
形を欠いた重さとはもっも重いものなのか
それは一瞬にして
あまりにも突然の出来事
わたしは押しつぶされたまま視線を断たれた
しかしわたしはなおも見ることができる
あの見えないものを

 わたしたちは、阪神大震災を身近に体験している。そのときの体験を詩にまとめたものとしては、季村敏夫の『日々の、すみか』がとても印象に残っている。季村の作品では、体験したことの大きさのために、ことばがなかなか動かなかった。ことばがことばとして動きだすのは詩をいくつも書いたあとだった。ことばと出来事は、最初は一致しなかった。人間は、どうしても自分の知っていることばで何かを語ろうとする。ところが、自分の知っていることばでは、体験した出来事がうまく語れない。出来事は、ことばを何度も何度も動かしているうちに、ようやく、一致するようになる。その過程が生々しく、とてもいい詩集だと私は思った。
 芒克がどこで四川大地震を体験したのか知らないが、そのことばは最初から動いている。動いているけれど、とまどっている。崩壊したビル。その形。そこではどんな「重さ」が人間に加わるのか。そのビルの下にもがいているいのち、あるいは死。それは肉眼では見えない。しかし、肉眼を超越する心の目は見てしまうのだ。そのことに、とまどっている。
 季村は、ことばが動かないことにとまどった。芒克はことばが動くことにとまどっている。とまどいながらも、その動くことば、ことばの動きのままに、芒克の精神がどこまで四川にとどくかを誠実に書いている。追っている。追わずにいられないのだともいえる。そのとまどいは、別のことばで言えば、存在しないものを存在させようとしてことばが必死になっていることに対するとまどいである。芒克が動くのではなく、ことばが動き、芒克を駆り立てるのである。ことばでしかたどりつけない「真実」というものへ。

わたしはわたしの上方を見た
そこにはまだ天が存在するのだろうか
わたしはそれよりももっと高い場所を見た
だが高い場所よりももっと高い場所とはいったい何か

 それは、たぶん、いままでそこに存在したビルの高さであるだろう。それは何よりも高い。そして、何よりも重いものとなって、そこから消えたのだ。消えることによって、もっとも高い場所になったのだ。

わたしの下方
下方には更に下方がある
高い場所はこれまで高い場所であったことはない

 こわれたビルよりも、空はさらに高かった。「天」はさらに高かったはずである。ビルが高い場所であるはずはなかった。しかし、「真実」ではあっても「事実」ではない。「事実」はビルこそが一番高く、その高みのすべて、高みがもっている「重量」すべてが、「下方」をつくりだす力となっている。
 「事実」は、そう告げている。
 これは、もちろん、矛盾である。「事実」が告げることは、すべて「矛盾」である。「矛盾」だからこそ、そこには、たどりつけない「真理」がある。芒克が、ことばでたどりつく「真理」がある。そこから「真理」が生まれてくる。「真理」を生み出す「場」としての「矛盾」がここにある。
 「矛盾」を通って、芒克のことば、強く、美しくなる。

わたしは見た、そして聴いた
人間の心臓が脈打っているのを
この脈打つ心臓はわたしのもの、それとも誰か別の人のものか
わたしたちにとって誰が誰であるかはそんなに重要なことなのか
重要なのは
人間の心臓がまだ生きているということ
わたしたちの心臓はまだ脈打っている
わたしたちはみな自分の心臓で
廃墟のなか互いに互いを捜し求める

 「わたし」を超越し、「いのち」そのものになる。ことばは「出来事」を描写するのではなく、「いのち」を描写するのである。



 季村は阪神大震災を「出来事」として受け入れようとした。
 たぶん、これが日本人の感覚というものなのかもしれない。起きてしまったことを「受け入れる」という感受性の形が、ここには季村にはあるのだと思う。「受け入れ」、そこからどうやって自分たちをとりもどすか、というのが季村の思想であると思う。
 一方、芒克は四川大地震を「出来事」として受け入れることを拒絶し、拒絶した場所から人間の「いのち」を動かす。そして、そこで悲しみとなって、ひとを揺さぶる。ことばは感情をつかみとり、感情を生み出すための方法なのだ。
 季村の作品が「出来事」を確認することからはじめるのに対し、芒克は「いのち」を共有し、「感情」を共有することからはじめるのである。

痛みはないのに痛みを感じている
親しい人はいないはずなのにあたりはみな親しいひとばかり
おまえはどこにいるのか
わたしはどこにいるのか
音はしないはずなのにあたりは音に満ちている

 たぶん季村のことばは逆に動くと思う。「痛みがあるのに痛みを感じない/親しい人がいるはずなのにあたりはみな知らないひとばかり」と、「出来事」が「事実」にもならなければ「真実」にもならず、嘘のように、まず存在し、それを「出来事」としてとらえられるようになったとき、季村のなかでは、自分のものではない痛みが自分のものになり、親しくなかった人も親しい人になる。
 芒克は、そういう「経過」をたどらずに、直接、「いのち」に触れる。自分の肉体は痛みを感じていない。けれども多くの人の痛みを感じる。親しい人はいないのに、その痛みを通じてあらゆる人と親しくなる。

 季村と芒克。どちらがいいというのではない。しかし、そこには明らかな違いがある。芒克はことばの国のひとなのだ、と激しく意識させられた。





芒克詩集
芒克
書肆山田

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日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田

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宮崎駿監督「崖の上のポニョ」(★★)

2008-07-30 08:57:25 | 詩集
 私は宮崎駿のファンではない。「もののけ姫」以前の作品は見ていない。だから、見当違いの見方をしているかもしれないが、この作品はとてもつまらない。水中のシーンは美しい。出だしのファンタジックな世界もいいが、津波(?)に覆い尽くされたあとの街の風景がとてもいい。洗濯物が風になびく(水になびく?)シーンは、ほーっと溜め息が洩れるくらいである。しかし、つまらない。
 5歳の少年がおもちゃの舟(ろうそくを動力に動く)で母を探しにゆくシーンも、童心を刺激する。しかし、つまらない。
 原因はひとつである。
 5歳の少年が「海」に対して畏れを抱いていない。「海」の世界に驚嘆していない。少年は陸にいて、「海」の表面を見ているだけである。そして、また、少年は「海」に引き込まれて行かない。「海」のなかでいったい何が起きているのか。それを知らない。陸の上の知っている世界だけて生きている。おもちゃの舟も、それは陸のつづき、家のつづきである。5歳だからしょうがないといえばとしょうがないのかもしれないが、家出をしないこどもはつまらない。
 家出をして、見知らぬ世界をのぞく。それはほんとうは「家」とつながっているのだけれど、家でした瞬間から「家」が消えるので、違った姿をみせはじめるのである。そういう瞬間の、恐怖、どきどきした感じがこの映画にはまったくない。どきどきがないから、わくわくもない。
 視点を「ぽにょ」に移してみても同じである。「ぽにょ」は家出をする。家出し、好きになった少年・そうすけを追いかける。しかし、その家では、父親がわりの科学者と母が見守っている。見守るだけではなく、その家出が完全なものになるよう手助けをする。「見知らぬ世界」は「見知らぬ世界」だけがもっている不思議な力を発揮しない。主人公をこわがらせながら、同時に勇気を与える、という体験をさせない。「見知らぬ力」に対して懇親の力をふりしぼり、こどもは成長する。それが冒険というものだが、この映画には、それがまったくない。
 それに、この映画の少年と少女(人魚)は、ちっとも弱くない。少年は5歳なのにモールス信号が発信することも、受け取ることもできる。おもちゃの舟とはいえ、その動力の原理も知っている。少女の方には「魔法」をつかえる力がある。なんだって解決できてしまうのだ。
 少年も少女も冒険のしようがない。だから、興奮もしない。
 5歳の少年と少女の恋愛もつまらない。恋愛というのは、「邪魔」があってはじめて燃え盛るものである。これは大人もこどもも同じはずだ。少年と少女の恋愛を、この映画のなかの最大のパワーをもった海の女王が邪魔すれば、それなりにおもしろいことは起きたかもしれないが、じゃまするどころか、その成就を応援してしまう。少年の母親をさえ説得してしまう。
 これでは恋愛もありえない。

 この映画には、ようするに主人公はいないのである。観客が一体化してしまう主人公、あ、こんな冒険がしてみたいと感じさせる主人公がいないのである。
 この映画に存在するのは、アニメの技術だけである。たしかにいくつもの表情の水を描きわける技術はすばらしい。感心する。しかし、それは宮崎駿を初めとするスタッフの技術への感心である。そんなものが感動の全面に出てくるような映画は、観客向けの映画ではなく、映画をつくるひとのための映画である。「私はここまでアニメで表現できます」とおしつけがましく言われても、楽しくもなんともない。



 宮崎駿作品を見るなら、やっぱり「もののけ姫」。
 夏祭の真っ最中に、夜の部を見た。こどもたちがたくさん。満席だった。
 映画が終わる、クレジットが流れはじめると席を立つ客が多いのに、この映画では誰一人席を立たない。こどもさえも席を立とうとしない。
 観客みんなが打ちのめされた。
 感動で席を立てないのである。
この一瞬は、映画以上に感動的だった。


もののけ姫

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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石川逸子「来た 来た」

2008-07-29 13:31:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川逸子「来た 来た」(「兆」138 、2008年06月10日発行)

 新しいことばは、どうやって「詩」になるか。石川逸子の作品には、いまの、そしていつまで存在するのかわからないことばが登場する。

来た
来た 来た
チンコンカンと書留で
死への督促状
後期高齢者医療証が

日の光にすかしてみると
あぶり出てくる文字
「汝 本来ならば 即刻 深山に運びて
谷底に突き落とし カラスに食わせる年齢なれど
格別のお慈悲をもって 現在地にとどめ置き
医療費等補助おこなうもの也
芳恩を謝し 一刻も早く黄泉の国へ向かうべく
用意相整えるよう申し渡すもの也」

ハハアッ と平伏
横を向いてペロリと舌を出す
なかなか食えない じじばば ではあるのだ
と 木々をゆらす 歌あり
(いくつになろうと 心は乙女 ホイホイ
 白髪になろうと 心は少年 ホイホイ)

歌に連れて 一陣の突風吹き抜け
終ってみれば
アリャアリャ 後期高齢者の文字が
光輝高嶺者に変わっていた

 最後の2行。「文字」(ことば)が「変わっていた」。「ことば」を「かえる」ことが詩である。本来の「意味」を剥奪し、違う「意味」にしてしまう。詩は、その「かわる」運動、「かえる」運動のなかにある。
 「かわる」(かえる)ために、石川は「うば捨て山」を通り、「歌」を通る。「通る」とはいうものの、それにどっぷりひたって、それに染まってしまうわけではない。どこかで「わたし」を守りながら、通る。

横を向いてペロリと舌を出す

 この「横を向いて」に、石川の「思想」が凝縮している。どんなときにも「横」を向ける。「横」に自分をはみ出させる。そして、そのはみ出した部分で生きていく。「ペロリと舌を出す」は、そういう「知恵」の具体的な、肉体的な、「思想」の行動である。
 そして、この行動・知恵は石川が独自に編み出したものではなく、「うば捨て山」がそうであるように、庶民の歴史のなかで形成されてきたものである。石川は、そういう歴史・時間を、他人と簡単に共有できる時間をとりこみながら、いまのことば、うさんくさいことばを、別のことばに変える。そうやって、笑い飛ばす。笑い飛ばしたからといって、「制度」がなくなるわけではないかもしれない。けれども、笑い飛ばすことで、精神は解放される。新しくよみがえることができる。

 独自のことばを探し出すのも大切だが、歴史・時間を耕して、そこから新しくことばをひろいだす、ことばとともにあった暮らしの「知恵」(庶民の「思想」)を掬い出し、磨きをかける。
 笑いのなかに、小さな種がある。「知恵」がある。「思想」がある。それは、いまはまだ小さな種だが、きっと大きくなる。



定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房

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林嗣夫「雲」、小松弘愛「ぐじをくる」

2008-07-28 11:42:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「雲」、小松弘愛「ぐじをくる」(「兆」138 、2008年06月10日発行)

 林嗣夫「雲」は読み終えた瞬間にもう一度読み返したくなる詩である。

本に疲れて
座いすをすこし後ろに倒すと
窓の外に高くのびたケヤキの枝に
白い雲が一つ
静かに近づくところだった

--西高東低の気圧配置で
太平洋沿岸は晴れだと
今朝のテレビが言っていた

雲は大きな枝を通過し
枝と枝との間でしばらく逡巡し
ゆっくりと
もう一本の枝を出て行った
その間 ケヤキは
なにごともないように雲を抱き
それから 放してやった
時間だけがきらめいていた

離れていく雲を見送ったのち
もう一段
座椅子を後ろに倒した

目をつむると
私と意志一本の枝がのびている
風もないのにすこし揺らいでいる
すると
はるかかなたから 一つの雲の輝きが
ゆっくり近づいてくる気配がした
うまく枝分かれできない
心もとなさに向かって

 3連目が非常に美しい。「その間」が美しさの秘密、林の「思想」である。
 3連目の前半は肉眼で見える風景である。「逡巡し」が肉眼の領域を超えているかもしれないが、それでもなんとか肉眼でとらえられる風景である。だれのめにも(このときの目は想像力の目だが)、ケヤキと雲の位置関係がわかる。絵に描いて説明することができる。
 ところが「その間」から以後は、絵に描くことはできない。肉眼に見えるようには描けない。ことばのなかの世界なのである。ことばでしか描けないものを林は描いている。
 「ケヤキは/なにごともないように雲を抱き/それから 放してやった」とは、林のそう想像である。「なにごともないように」は実際のケヤキの気持ちとは無関係である。ケヤキには気持ちはない。そのない気持ちを林はことばでつくりだす。「雲を抱き/それから 放してやった」も同じである。ケヤキには雲を抱くことも放すこともできない。それは「みせかけ」のことがらであり、その「みせかけ」はことばがあるからこそ表現できることなのである。
 「みせかけ」。「うそ」。
 詩は「みせかけ」であり、「うそ」である。ことばをつかって「わざと」つくりだす世界である。

時間だけがきらめいていた

 時間は見えない。ほんとうにきらめいたのが時間かどうかはだれにもわからない。それは林のことばが、林の「みせかけ」が、「うそ」が到達したひとつの到達点である。そういう到達点が、詩なのである。
 「その間」を「時間」と言い換える。意識を深める。そうして、その瞬間に、ことばが「肉眼」を超越し、「心眼」になる。「みせかけ」「うそ」は、そういう「心眼」に至るための方便(補助線、助走期間)でもある。
 その出発点に「その間」ということばがある。「その間」を発見した林だけが、「時間」という目に見えないもののきらめきを発見できたのである。

 「心眼」を林は、最後にゆっくりと解き放つ。放り出す。「心眼」で見た世界をそのまま、ただ自分だけが見た幻に過ぎませんとでもいうかのように、すーっとかき消してゆく。最終連のことばは、そういう不思議な動きをしている。
 肉眼で見える風景をではなく、肉眼で見ることのできない「わたし」(鏡をつかって見ることができるのは一種の像であり、「わたし」そのものではない)そのものを見つめなおす。「わたし」はことばをとおして「ケヤキ」になることができる。ことばをとおして「ケヤキ」になった「わたし」が、同じように「時間」を「きらめ」かせることができるだろうか、と見つめている。
 「心もとない」。
 「時間」を「きらめ」かせることができるかどうか、そんなことが「わたし」にできるかどうかわからない。だからこそ、寸前に見た「心眼」の風景がいっそう鮮烈になる。



 小松弘愛「ぐじをくる」は「何かに不満で拗ねてみたり、文句や苦情を言うこと」をあらわす土佐方言である。こういうことばは、ふつうは「ぐじをくらんように」というふうに、否定の命令形でつかう。「文句や苦情を言わないように」。それはたぶん、長い間の人間の知恵なのである。文句や苦情を言って、人間関係をややこしくしないようにする、という知恵がそのことばのなかに含まれている。
 「ぐじをくらんように」と小松は俳句の選を依頼してきたひとに対して言い、「それはどういう意味?」と質問されて「文句や苦情をいわないように」と説明しなおす。ちょっと回り道をする。
 そして、その回り道をすることで、30年前の訴訟のことを思い出す。「くじ」は「公事」であり、「訴訟」でもある。ときには、何かを受け入れるだけではなく、強く拒否し、自己主張をする必要もあるのだ、ということを思い出す。
 他人の質問が、ここでは「心眼」の働きをしている。新しいものを発見する動きをうながしている。
 小松は土佐方言を題材に繰り返し詩を書いている。ことばを対象とすることは、ことばがもっているものの「内部」の「時間」をとりだし、それを「肉眼」でみつめなおすことである。ことばを動かすことによってはじめて見えてくるものを明らかにすることでもある。

 どんなことばも「肉眼」に到達すれば、そこに詩があらわれてくる。詩は「心眼」を発見し、それを定着させる仕事である。



風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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小松弘愛詩集 (日本現代詩文庫)
小松 弘愛
土曜美術社

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松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」、長嶋南子「散歩」

2008-07-27 14:54:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」、長嶋南子「散歩」(「すてむ」41、2008年07月25日発行)

 松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」は、いのちが生々しい。その書き出し。

不意の、喉、
誰かの喉を
すぐそばに感じる
何も語らない喉を
いいやおのれが詰まって語ろうにも語れない喉を
その顫えているのを確かに感じる
喉は行路病者のそれだろうか
道ばたのイタチガヤ、ネズミノオ、
喉、は誰なのか

 「喉」を「声」、あるいは「ことば」と置き換えると、この作品の伝えようとしている「意味」はわかりやすくなるかもしれない。しかし、「声」「ことば」では松岡が感じた生々しさはつたわらないのだ。「声」「ことば」に反応して動くのは、意識である。頭である。意識、頭も大切なものではあるけれど、松岡は、意識、頭をつつみこんで存在する肉体そのもを感じている。
 「声」「ことば」は他者によって共有される。複数の人間がひとつの「声」を、ひとつの「ことば」を共有することができる。共有は、この場合、力そのものになる。「主張」は共有されることで、集団の「意志」になる。
 ところが肉体は共有できない。人間はそれぞれが肉体をもっていて、それはそのひとだけが占有できるものである。そして、一回かぎりのものである。
 松岡は、「声」や「ことば」が否定されたのではなく、ひとりの人間の肉体そのものが否定されたと感じる。そのときの、「喉」を感じている。自分の肉体のうちにではなく、

すぐそばに感じる

 この距離感の正直さ。そのことに、私は、とても感動した。最初から一体感があるのではなく、少し距離がある。そして、その「すぐそば」という距離が、肉体そのものをはっきり感じさせる。そうなのだ。一体感ではだめなのだ。一体感ではなく、一体ではないがゆえに、感じる「他人」、その生々しい肉体。一体ではないと感じるがゆえに、他者に対する尊敬、畏怖というものが生まれる。ここには正直な人間だけがつかみとることのできるいのちの重さがある。

不意の、喉、

 この1行目の、読点「、」による、ぶつぶつとした途切れ。一種の断絶というか、不連続性。不連続であることによって、連続を誘い出す意識の動き。ほんとうに正直な感覚だ。
 この正直さがあって、

いいやおのれが詰まって語ろうにも語れない喉を
その顫えているのを確かに感じる

 の一体感が動きだす。
 さて、だれの「喉」なのか。そのことは、「すてむ」で松岡の詩を読んで確かめてください。



 長嶋南子「散歩」は、「わたし」の「裏側」を思い返す詩である。散歩の日々。家々の裏側が見える遊歩道を歩く。裏側に積み重ねられたさまざまなもの。そこには「表」からは見えない「歴史」がある。と、書くと、とたんに「意味」が立ち上がってしまう。この「意味」を長嶋は軽やかに蹴飛ばしている。

仕事をやめた
まいにち散歩するしかない
家々の裏側沿いの遊歩道を歩いている
どこの家にも裏側はある
積み重ねられている
箱や植木鉢 こわれた自転車 たくさんの空きビン
すきまに咲いている
どくだみ ひめおどりこそう いぬのふぐり
羊がつながれて草を食べている

歩き疲れて草の上にねころぶ
わたしの裏側に陽があたる
 仕事のかえりよその夫に
 こっそり会っていた
 友だちはねたみながらほめたおし
 親を捨て
 生まれなかった子の年をかぞえ
羊がわたしのから他を食べはじめる
草食なのにね

羊はおいしそうに食べている
いいことをたくさんしてきたので
わたしのからだは味がいい
いぬのふぐり
風がわたしのからだを
吹きぬけていく
いぬのふぐり

 ここには肉体だけになった「わたし」がいる。「意味」なんか、関係ない。「意味」戸は、この場合、「わたし」と「他人」との関係である。ひとは、他人との「関係」によって、社会のなかである「意味」をになわされる。そして「意味」によって、「わたし」は傷つけられる。逆もある、かもしれないけれど。でも、いまは「仕事をやめた」ので、そういう「意味」から解放されている。「意味」はどうでもいい。大切なのは、「肉体」、ここにこうして生きているいのち。

いいことをたくさんしてきたので
わたしのからだは味がいい

 ああ、とても気持ちがいいことばだ。
 「いいこと」というのは「他人に対してのいいこと」ではない。「わたし」にとって「いいこと」をたくさんしてきた。そうなのだ。「わたし」を大切にしてこなかったら、肉体は「いい味」をためこむことはできないのだ。
 よその夫に会うことも、友達にねたまれることも、なにもかもが「いいこと」。長嶋を豊かにする何かであった。そんなふうにすべてを受け入れる。そのとき「いい味」の肉体そのものが残る。そんな肉体だけを羊が食べる。
 でも、羊って何?
 ことばでは説明できない。長嶋のように「いいこと」をたくさんすれば、自然に、そのひとのまえに姿をあらわす何かである。「意味」なんか気にしない、ただ目の前にあるものを食べる存在である。それは人間を超越している。だから、説明はできない。その説明のできないものと、長嶋は向き合って、幸福を感じている。そこに、「意味」ではなく、肉体の幸福、愉悦がある。
 いいなあ、この詩。





草の人
松岡 政則
思潮社

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高柳誠『鉱石譜』(4)

2008-07-26 08:18:33 | 詩集
 高柳誠『鉱石譜』(4)(書肆山田、2008年07月20日発行)

 逆説や矛盾はことばに緊張感をもたらす。そして緊張感は強い構造の存在を意識させる。詩の定義して、そのことばの運動を「わざと」にあるといったのは西脇順三郎だが、高柳も「わざと」逆説や矛盾をことばの運動のなかに持ち込み、ことばに緊張感をつくりあげている。そしてその緊張感は、繰り返しになるが、対立するものの間に「構造」(空間)をつくりあげる。むりやり、わざと、つくりあげる。この詩集で高柳は「石」をテーマにしている。「石」には「内部」はない、というか、「石」の「内部」には「構造」はなく、そこにはびっしりと「石」が密着している。それが自然である。しかし、そのひとかたまりになっている「石」の内部に、ことばでもって、わざと、構造をつくりあげ、ドラマを仕立て上げる。それが、この詩集である。
 「逆説」あるいは「矛盾」と私が呼ぶのは、たとえば、次のような行のことである。

死者といえども(いやむしろ、死者だからこそ)
                   (「王族の仮面--Jadeite 翡翠輝いし」)

生きているものがみな/身内に抱え込んだ死を反芻するかのように/

自らのうちを裏返しても裏返しても/もはや内部など何処にも見つからない/

眠れない眠りのうちにいるものたちが/目覚めた後の傷ついた体を起こそうと/
                     (「瓦礫の風景--Diamond 金剛石」)

 これらのことばは、むりやり、意識の内部に「構造」をつくる。存在しなかった「間」をつくる。
 「間」はいつでも「魔」に通じる。
 むりやりつくりだされた「間」がはまるでブラックホールである。逆説・矛盾をつくりあげる存在の、その存在がもっている何かを強烈に吸引する。引きずり込む。「死者といえども(いやむしろ、死者だからこそ)」という行では、「死者」からというよりも、「といえども」「だからこそ」ということばの運動そのものから、ことばは運動するものだという意識そのものを吸引する。吸引して、結晶しようとする。ただし、結晶といっても、それは塊ではなく、「組成」する運動そのものである。高柳にとって、「運動」こそが「結晶」である。

 「運動」そのものが「結晶」である。--この定義は「矛盾」している。

 だからこそ、私は、この定義が正しいと思う。(自画自賛のような文で、申し訳ないが。)
 高柳はいつでも「意識」の運動を、流動するままに描くのではなく、つまり不定形でたどれないような形で描くのではなく、正確にたどれるように記録する。あまりに正確すぎて、それは度の強すぎる眼鏡(近眼用)をかけたときのように、意識のなかに、運動の細部を刻印し、そしてその刻印が強烈すぎて一種のめまいを起こす。

「私は初めに知っていたこと以外は何一つ学ばなかった」
                 (「大陸を疾駆する嵐--Carnelian 紅玉髄」)

 このことばを流用すれば、高柳の書くことは、初めから存在していることば(文学として書かれてしまっていることば)以外は何一つ書かない。そうすることで、書かれていることばのすべての既視感を利用し、ことばそのものの「度」(眼鏡の「度」)を強くする。網膜に、脳髄に、エッジの強いことばを刻印する。見えなくていいところまで、むりやり見せつけることで、めまい、錯乱を起こさせる。
 「石」が内部に抱え込んでいるものなど、その「出自」や「来歴」など、ほんとうはどうでもいい。どんな「来歴」をたどろうが「石」にかわりはない。その構成物質がかわるょけではない。硬度がかわるわけではない。色がかわるわけではない。--物理的には。
 物理的にはかわらない。たしかに、かわらない。しかし、心理的、精神的、意識としてはかわってしまう。
 ことばは、文学は、詩は、現実の「物理」の世界を変えることはないが、意識を変えてしまう。意識が変わる、ということは、人間そのものが変わる、たとえば高柳は高柳でなくなってしまう、ということでもある。
 その劇的な動きを、高柳は、あくまで活版活字の世界、きっちりとした「枠」のなかで、エッジをたてたまま表現する。






日本の現代詩
那珂 太郎,高柳 誠,時里 二郎
玉川大学出版部

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高柳誠『鉱石譜』(3)

2008-07-25 11:13:14 | 詩集
 高柳誠『鉱石譜』(3)(書肆山田、2008年07月20日発行)

 「沈黙の舞踏--Xylophonite  木琴石」はとても美しい詩だ。その書き出し。

沈黙にふける石の舞踏 あるいは
石を離脱しようとする音の形
一瞬の打擲(ちょうちゃく)によって溢れ出る気韻に
己の出自と来歴のすべてをさらし
形象をふりほどく波動のかたち
強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋とひきかえに
析出してゆく沈黙の叫び
沈殿してゆく静寂の祈り

 4行目「出自と来歴」ということば、その「と」。「と」に高柳の特徴がある。「と」は「ひろがり」をつくりだす。「出自」と「来歴」。そこに自然に「時間」という「間」が生じる。そして、その「間」は必然である。「出自」なしに「来歴」はない。
 この「間」を高柳は別のことばで言い換えている。
 「組成」。「組成」は「存在」の「来歴」である。あらゆる「存在」に「出自」はある。そして、「出自」のあと独自の「来歴」をへて、存在は確固とした存在になりかわる。たとえば「木琴石」はたたかれるという「来歴」をへて、音を出すという「来歴」をへてこそ「木琴石」になる。たたかれ、音を出すという時間をへなければ、それは「木琴石」ではないのだ。
 たたかれ、音を出す。ただそれだけのことだが、そのたたかれ方、音の出方によって、「木琴石」は、またそれぞれの場に振り分けられ、新たな「来歴」を築き上げることになる。より強固な「組成」のなかに組み込まれていく。

 「組成」の過程で起きていることの描写にも高柳の独自性がある。

強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋

 「波紋」。そのりゅうどうせい。動き。「組成」はもとより、動かないものである。「組成」される過程では、あらゆるものがその場を求めて動くが、いったん組成されてしまえば、組成そのものは動かない。「強固な組成」なら、なおさらである。
 しかし、高柳は、その「強固な組成」が「澄明な波紋」をもつという。強固なものと流動的なものの結合。しかも、そのとき表に出てくるのは「澄明な」という形容詞である。「にごった」「よごれた」「ゆるんだ」「なまあたたかい」というような、一種の、肉体的なやわらかさを拒絶した何か、「澄明な」という、この世界では「まれ」な、純粋な何か。
 高柳は、あらゆる強固な構造物に、澄明な揺らぎを見ているのである。

 最初にこの詩集にふれたとき、私は活字活版のことを書いた。文学の歴史のことを書いた。活版活字によって伝達される文学。その強固なことばの組成のなかに、高柳は、「澄明な波紋」を見ているのである。「澄明な波紋」は、そういう強固な組成のなかにしかないと信じている。それを追求しているのである。
 ことばとことばが出会い、組み合わさり、ひとつの作品となる。ことばが作品に「組成」される。そのとき、そのことばの構造のなかで「清澄な波紋」があるのだ。「清澄な波紋」が起きるのだ。--そういう「波紋」を高柳は、高柳の特権として(詩人の特権として)目撃し、それを報告する。それが高柳の詩である。

 詩のつづき。

強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋とひきかえに
析出してゆく沈黙の叫び
沈殿してゆく静寂の祈り
闇の充溢が凝る結晶から
硬質の音の放射がきらめいて
沈黙と静寂の劇を産み落とす

 この、

硬質の音の放射がきらめいて
沈黙と静寂の劇を産み落とす

 の2行の激しい矛盾。
 「音」が存在するなら、そこには「沈黙」と「静寂」は存在しない。「音」と「沈黙」「静寂」は同じものではない。そして「沈黙」と「静寂」はほとんどの場合、同じものである。ひとが黙っている。それが沈黙だと定義できるが、そのときの沈黙は、その場の静寂そのものと同じである。そこには差異はない。したがって「劇」もない。「劇」は異質なものが出会い、何かが(どちらかが)変わってしまうことである。
 ここには「矛盾」がある。そして「矛盾」がある、ということは、ここには「思想」があるということだ。「思想」になりきれていない「思想」があるということだ。
 最初に「出自と来歴」の「と」について書いた。ここにも「沈黙と静寂」という形で「と」がつかわれている。「と」は「ひろがり」をつくりだすものである。「沈黙」と「静寂」は普通はほとんど同じものだが、その「同じもの」の間に「と」を挿入することで、そこに大きな「ひろがり」、つまり「隔たり」(間)を高柳はむりやりつくりだし、「隔たり」(間)が存在しうるから、「劇」も存在しうると、ことばを動かしてゆくのである。
 現実へ、ではなく、「意識」そのものの方向へ。
 高柳のことばは現実世界へ向けては動いて行かない。「意識」そのものの世界へ動いてゆく。「意識」のなかでは「沈黙」と「静寂」はまったく別のものである。ことばが違うということは、その存在が「意識」にとっては別個の存在である、ということである。

 高柳は「意識」の「組成」のなかで「詩」を動かしている。「詩」を輝かせている。活版活字の「枠」は「意識」の「枠」でもある。ことばが文字になり、しっかりと「1ページ」という「枠」のなかに入る。活字が「組成」する「1ページ」のなかに。
 「意識」と「ことば」がしっかりと対応しながら、ひとつの独自空間(言語空間)を「組成」する。そこでは現実を超越した現象、つまり「詩」が起きる。それは、「強固な組成のみがもちうる/澄明な波紋」のようなものである。それは「意識」にしか認識されない。肉眼とか触覚では認識されない。「頭脳」の、その奥の奥の「純粋意識」によってのみ認識されるものである。それは肉体とか現実とかを拒絶して存在する独自の世界なのである。

沈黙から飛び立つ気韻
静寂から簇生(そうせい)する石韻
それら対立葛藤し相克する
透明な祈りと叫びの戦いを
耳にすることはできない
耳にしてはいけない
耳に入り込んだら最後
石韻の静寂によって
気韻の沈黙によって
鼓膜の薄絹は引き裂かれ
魂の奥底に埋め込まれた
あなた自身の沈黙の石と
幾夜もの静寂の祈りとが
一挙に覆ってしまうから

 ここにも「対立」「葛藤」「相克」という「矛盾」そのものが生み出す「現象」がある。そして、そういう「矛盾」のもっとも大きなものは、「耳にしてはいけない」。「耳にしてはいけない」と高柳は書くが、ほんとうは「耳にしたい」のである。「耳にし」なければ生きている価値はない。

あなた自身の沈黙の石と
幾夜もの静寂の祈りとが
一挙に覆ってしまうから

 「あなた自身」(つまり、詩人自身、あるいは私自身)が、完全に覆って「あなた」「詩人」「私」でなくてしまう。それが文学の一番の目的(?)だからである。高柳は、そういうことばの運動を、現実へ向けてではなく、「文学」へ向けて動かしている。「活版活字」の「枠」のなかへ向けて動かしている。
 「文学」を「文学」するために「詩」を書いている。




廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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ビレ・アウグスト監督「マンデラの名もない看守」

2008-07-24 09:23:51 | 映画
監督 ビレ・アウグスト 出演 ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイス・バード、ダイアン・クルーガー

 小説、詩を批評するときに「文体のしっかりした」という表現をつかうことがある。映像についても同じことばをつかいたい。ビレ・アウグスト監督の作品は「映像の文体」がとても強固である。しっかりしている。ゆるぎがない。
 あるシーンが特別美しいわけではない。一瞬の映像美によって引き込む、という世界ではない。そこにあるものを、しっかりと映像にする力がある。そして、その映像は対象を写し取るだけではなく、「空気」を写し取る。それが美しい。
 冒頭、主人公がマンデラのいる刑務所へ向かう。その船旅。とてもひんやりした空気が流れている。鳥瞰で撮られた島の姿もひんやりしている。何か、人間のぬくもりがない。この空気が、最後には、温かいものにかわる。マンデラが刑務所から出てくる。それを迎える人々。人々にこたえ、手をあげるマンデラ。そのマンデラから、温かいものがあふれだす。空気がかわる。
 そういう変化を、この映画は、とてもしっかりした、ゆるぎがないという表現しか私は思いつかないが、ほんとうに安定感のある映像でとらえている。

 私がもっともひかれたのは、マンデラが最初に登場するシーンだ。その目だ。デニス・ヘイスバートの目は非常に透明だ。ただ理想だけをしっかりみつめている。ほかのものは目に入らない。そういう純粋な透明さがある。その目の輝きに、ジョセフ・ファインズは驚く。黒人のテロリスト、凶悪な犯罪者という印象がしないからである。
 この二つの目、二つの目の違いを、カメラはどんなふうにとらえるか。どんなふうに「空気」として描き出すか。
 ジョセフ・ファインズは懲罰房にいるマンデラを監視窓からのぞく。その目は鉄の窓といっしょに映し出される。スクリーンには、白い鉄の扉のなかの「窓」(のぞき穴)が映し出されており、その「窓」の向こうにジョセフ・ファインズの目だけが見える。顔の全体は見えない。もちろん姿も見えない。ジョセフ・ファインズは「のぞいて」いるのだが、この「のぞく」という行為は、自分を守りながら何かを見るということである。ここに、マンデラと看守、当時の黒人と白人の意識が象徴されている。暗示されている。
 鉄の扉はマンデラを閉じ込めるものであるけれど、それは単に閉じ込めるのではなく、マンデラが看守を襲わないようにするものである。鉄の扉によって守られているのは看守なのである。こういうことは看守には意識されていない。看守はマンデラを監禁しているという意識しかない。その意識されていない事実(「空気」のようなもの)を、カメラは一瞬にしてとらえる。堅く堅く、自己防御している看守、そして、白人たち。不安におびえる目。不安を隠すために、張りめぐらした硬い扉。
 マンデラたちからみれば、白人たち、看守たちは、ようするに硬い防御の中にいて、身の安全を確保しながら、黒人を見ている人間なのである。
 一方、マンデラの目はどうか。それはスクリーン全体に映し出される。なんの防御もない。無防備に、自分をのぞく看守をみつめかえす。顔は見えない。姿は見えない。ただ、目だけを見つめ返す。
 その目の純粋さ。透明さ。野蛮とは無縁の、崇高な輝き。
 それが看守のこころの何かを動かしたことが、この瞬間にわかる。
 マンデラは看守を見つめ返したあと、最初の姿勢に戻る。看守に背を向けて、独房の窓の方を向く。看守からは、もうマンデラの背中しか見えない。このシーンも美しい。暗示的だ。象徴的だ。看守は、マンデラが何を見ているか知らないのである。同じ視点で現実を見つめていないのである。看守が見ているのはマンデラの背中であって、マンデラの透明な目が何を見つめているのか知らないのである。

 この映画はマンデラを描いているというよりも、マンデラが見つめているものを自分の目で見つめるようになるまでの過程を描いた映画である。マンデラが投獄・監禁から開放されるまでを描いたというより、マンデラを監禁していた人間が、監禁、あるいは差別の誤りに気づき、魂を取り戻す過程を描いた映画である。
 硬い扉で防御するのをやめ、こころを開いて行くまでの映画である。

 象徴的なシーンがもうひとつある。
 マンデラと看守が棒術で戦うシーン。二人がもっているのは同じ2本の棒である。対等である。あとは、それぞれの肉体と、棒術の技術。童心に帰って、二人は戦う。戦うといっても、それはプレイである。ほんとうに相手を叩きのめすためではない。自分に何ができるかを発見するためのプレイである。勝っても、負けても、そのことで他人より自分が優れているとは思わない。劣っているとは思わない。たしかに勝った方はすぐれているが、それは武術がすぐれているということであって、人間性としてすぐれているということではない。叩きのめすことはできるが叩きのめさない。危害を加えることはできるが加えない。相手を傷つけずに、同時に力を競い、互いをたたえあう。そのとき、すぐれているのは勝った方でも負けた方でもなく、互いをたたえあえる二人なのである。
 囚人と看守。対立する二人が、こころを開いて一体になる一瞬が、そこに象徴されている。

 こうした看守が存在しこことが、たしかにマンデラのいのちを守ったかもしれない。マンデラの理想を、そのまま体現してくれる白人の存在がマンデラの理想を守ったかもしれない。
 そんなこころの交流を、静かに静かに、この映画は伝えてくる。二人の間に存在する「空気」の手触りとして伝えてくる。棒術で戦うシーンは、戦いなのに、暴力的なところがまったくない。二人が自分たちの肉体の動きを楽しんでいる、その喜びだけが、きらきらは伝わってくる。

 もうひとつ、胸があつくなるシーン。
 マンデラが開放される日。二人がわかれる日。看守はマンデラに「お守り」を渡す。それは看守が幼いころいっしょに遊んだ黒人の少年からもらった「しっぽのお守り」である。それは、幼なじみの友達に再会して、互いが元気で生きているのを確認して喜び、「このお守りのおかげで元気だよ。こんどはきみに上げるよ」というような感じだ。このとき、幼なじみは、ほんとうに親友になる。そんなふうにして、マンデラと看守は親友になるのだ。二人は幼なじみではないが、この瞬間、親友であり、幼なじみでもあるのだ。
 看守の目は、このとき、きっと最初のマンデラのように透明に輝いているだろう。

 純粋な目と目。その最後の一瞬から、世界が広がる。あたたかい空気が、刑務所の壁を超え、世界へと広がっていく。

 これは、人間の美しさを描いた、まれにみる傑作である。



ペレ

東北新社

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高柳誠『鉱石譜』(2)

2008-07-23 15:10:30 | 詩集
 「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」

 これは「大陸を疾駆する嵐--canelian 紅玉髄」の書き出しである。括弧付きのことば。高柳自身のことばではない。つまり多くの普通の詩に出てくるような「私」の発言ではない。誰かの発言。作品のなかの「主人公」のことばである。
 高柳は、「私」を語っていない。単に「私」が登場しないというだけではなく、作品のなかの「主人公」と高柳は重なり合わない。「主人公」の生き方(?)に高柳の思いが託されている、虚構をとおして高柳が自己の考えを表現しているのではない。自己を語ることを放棄している。
 では、何を語るのか。
 「ことば」そのものを語る。「ことば」そのものが、どんなふうにして他のことばと共存し、そうすることでどんな劇を生み出すことができるか、を語る。高柳にとって、テーマは「私」ではなく、「ことば」なのである。
 高柳以外の詩人もまた「ことば」を語るが、そのときの「ことば」は高柳のことばとはずいぶん違う。「ことば」の動き方が違う。たとえば三井葉子のことばは、三井の肉体を通ることでことばの「たが」が外れる。それまでの「文学」のことばとは違った動きをする。ところが高柳のことばはあくまで「たが」の中なのである。「文学」のなかのことばなのである。「文学」のまま、あたらしい「文学」へと変質していく。そういう可能性を高柳は語るのである。

「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」
大陸から押し寄せる嵐が島のすべてを蹂躙(じゅうりん)する
花崗岩の荒地に群れるヤギの背を吹き分けて
山腹に自生するコルクガシの葉裏に吸収され
ようやく跳梁を収める風の 最後のむせび泣き
頬に残るその感触も遠い日々のうちに霞んだままだ

 この6行は、「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」が、他のどんなことばを呼び寄せることができるかを試している。「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」という行自体が、もしかすると何かからの引用かもしれないが、他のことばもまた一種の「引用」である。高柳が見た風景、実際に感じた風が書かれているわけではなく、すでに誰かによって書かれたことばである。「誰かによって」と書いたが、もっと正確にいえば「文学として成立してしまった」ことばである。
 ことばは個人によってつくりだされるものではない。ことばはすでに書かれてしまっている。書かれなかったことばは存在しない。あらゆる「文学」のことばは、すでに誰かによって語られたことば、書かれたことばである。新しいのは「ことば」そのものではなく、ことばの組み合わせ方なのである。
 この「ことばの組み合わせ方」も、実は、すでに存在している。ときどき、そこに手術台とこうもり傘の出会いがあるが、その出会いさえも、もうすでに存在している。
 何が残されているか。何も残されていない。残されているのは「文学」という蓄積だけである。

 高柳はことばを語る--と書いたが、より正確には、高柳という人間のなかにある「文学」の「蓄積」を語る。「ことばの伝統・歴史」を語る。あらゆることばのなかから、ことばの血筋をさぐる。血統をさぐる。そして、いわば「家系図」のようなものをつくるのである。

「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」

 ということばは、どういうことばの血を引き継いでいるか。そして、それはどんなことばを生み出して行くことができるのか--その膨大な絵巻を試みる。そして、そこからはじまるのは「物語」ではなく、ことばの緊密な連絡のあり方そのものなのである。
 きのう活字活版のことを書いたが、活字活版の組版の特徴のひとつに、本文の文字の大きさが同じ、という性質がある。不揃いの大きさでは活版活字は組み上げることができない。
 高柳のおこなっている作業は、これに非常に似ている。あらゆることばはすでに書かれてしまっている。書かれていなことばは世界に存在しない。けれども、その書かれ方は様々である。そのさまざまな書かれ方の中から、高柳は、正確に、同じ「大きさ」の、そして同じ「高さ」(活字は、おおざっぱにいえば、文字の面積と、文字を支える土台--「高さ」を持っている)の「ことば」を収集する。そして、組み合わせる。高柳の、ことばへの愛は、驚くべき正確さで、その作業をやってのける。
 この正確な「愛」が、高柳にとっての「詩」である。

「私の宿命は永続的に戦い続けることに他ならない」
戦のさなかにも肌身離さず内隠しの中にあって
鼓動に感応し続けてきたこの紅玉髄のみが
私の体温のかすかな変化を逐一知っている

 高柳の書く多くのことばのなかにも、この「紅玉髄」に匹敵することばがあるかもしれない。そのことばは、あらゆる詩が書かれる瞬間に、高柳の鼓動に反応している。高柳の体温を初めとするかすかな変化を全部知っている。それを探し当てるのが、批評の仕事かもしれない。だが、私には、それが何であるかはわからない。私には批評が向いていない、ということだろう。

 「予感」のようなもの、として書いておけば、たぶん、この詩の最後の行が、高柳にとっての「紅玉髄」である。

「私は初めに知っていたこと以外は何一つ学ばなかった」

 人間は知っていることしか学べない。知らないことは学べない。知っていることをのみ学びつづけ、知っていることをのみ、少しずつひろげてゆく。高柳が知っていることとは、世界はことばでできている、ということだろう。そして、あらゆるものがことばにならないかぎり存在しないということだろう。
 高柳は知っていることばのみを収集する。そして知っている組み立て方ばかりで組み立てる。しかし、それはいつでも高柳の「夢」を裏切るように、「知らなかったもの」、つまりいままで存在していなかったもの--独立した詩になってしまう。詩が誕生してしまう。
 ことばには、何か、そういうものがある。すべて既存のはずなのに、その既存を踏み破っていく力を持っている。その力に誘われ、誘われるままに、ことばを正確に、美しく組み立てていく。--ことばに見入られてしまった詩人がいる。職人がいる。

 職人。いまは、すっかり少なくなってしまった。あらゆるものが職人の知恵(思想)を欠いたままあふれている。職人の技、匠の技に鍛えられぬまま、ことばがあふれている。そうしたことばへの、対極にある。高柳のことばと詩は。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『鉱石譜』(1)

2008-07-22 12:11:44 | 詩集
 高柳誠『鉱石譜』(1)(書肆山田、2008年07月20日発行)

 詩集を開いてすぐ私は一種のめまいを感じた。詩はことばでできている。そしてことばは文字で記される。あたりまえのことだが、その事実にはっとさせられた。高柳の詩集はことば、そして文字からできている。さらにいえば、その文字は「活字」からできている。その印象が強烈に襲ってくる。
 本は(本に限らずあらゆる出版物は)最近は「活字」をつかっていない。正確にいえば「活版活字」をつかっていない。きのう取り上げた北沢栄・紫圭子『ナショナル・セキュリティ』(思潮社)も「活版活字」ではない。コンピューターでつくられている。
 ところが書肆山田の方針なのだろうけれど、財部鳥子の『胡桃を割る人』も活版活字をつかっている。この高柳誠の詩集も同じである。
 不思議なことに、財部の詩集を読んだときは、それに気がつかなかった。それなのに高柳の詩集は開いた瞬間、強烈な印象で活字のエッジが目に飛び込んできた。活字と活字を、文字と文字を組み合わせ、枠でしっかりと固定化して組み上げていく。行間にはインテルがきっちりとおさまっている。その様子が、まぼろしのように、目の前に浮かび、あ、詩は、こういうことばからできている。鉛の(?)活字からできている。そのことをはっきりとは感じた。

 コンピューター製版と活字製版の大きな違いは、変更(修正)の簡便さ、難度の違いである。コンピューター製版は修正が簡単である。私のようなしろうとにでもできる。組みの変更もとしも簡単である。これも私のようなしろうとでもできる。活字製版はそんな具合にはいかない。熟練がいる。正確な技術がいる。

 高柳の詩は、そういう「技術」を要求しているのだ。高柳のことばは、コンピューター製版の簡便な文字、ことばではなく、ひとつひつとつ組み上げていく「物質」と「技術」の出会いを要求している。そのことが、詩集を開いた瞬間に、ぱっと肉眼を貫く。文字のエッジが(と先にも書いたが、正確な表現ではないかもしれない)、「頭」ではなく、肉体を刺激してくる。ことばを、その「意味」や「音楽」に触れる前に、肉眼にぶつかってくる。一瞬、目をそらしたくなるような、そして一瞬目をそらしたあと、今度は目を凝らしたくなるような印象がある。
 財部の詩集のときには感じなくて、高柳の詩集のとき、それを感じるのは、たぶん高柳のことばの方が「活版活字」「活版製版」を強く要求し、そこには不思議な格闘があるからだろう。格闘するもの同士が、格闘しながらも、互いをたたえあうような不思議な「愛」のようなものがあるからだろう。

 私の書いている感想は、これまで私が詩について書いてきた感想とまったく違っているかもしれない。私は、ことばがどこに書かれていようが、どんなふうに書かれていようが気にしない人間である。ことばを読んで、そのとき私のなかで動く何か。それだけが私の関心なので、1枚の噛みに手書きで書かれたものでも、あるいはコピーをノートに張り付けたものでも、それが私のなかで動きはじめればそれが詩であり、紙の質や活字の大きさなどにこだわっているひとの感覚がはっきりいって、よくわからなかった。単行本で読もが、全集で読もうが、文庫本で読もうが、ことばはことばであって、その意味や音楽がかわるわけではないからだ。
 高柳のこの詩集も、たとえばそれがコンピューター製版されていたとしても、その意味、その音楽にはなんのかわりもないだろう。全集におさめられても、文庫本になっても、それはかわらないだろう。
 だが、かわるものがあるのだ。
 ことばへの愛。活字、文字、余白。それが組みあわさって出来上がる「ことば」の世界への愛がかわる。高柳は心底、ことばを愛している。ことばを表す手段としての「活字」「活字製版」「紙への印刷」というものを愛している。ことばと、そのことばをつかって形成されてきたものを愛しているのだ。

 「憂愁のアンダンテ--Moonstone 月長石」の冒頭。

すみわたる紺碧のしじまのうちに
うかびあがるうすい青い球体
夜のかたい闇をつらぬいて
月光がななめにさしこみ
光がしたたり したたり
地表にあふれ みなぎり こぼれ
大気にふれて存在の核へと向かい
月のうす青い光がゆっくり凝り
酷薄にそぎ落とす月の光をあびて
水のきらめきを妖しく放って
正長石と曹長石との
うすい光を形成し

 「しじま」ということばは、今では、だれがつかうだろうか。日常はつかわない。けれども存在している。そういうことばに対する愛が高柳を動かしている。「夜のかたい闇をつらぬいて」や「大気にふれて存在の核へと向かい」という運動のなかに、高柳の、一種の「方向」があらわれているが、そういう運動よりも、ことばが出会いながらつくりあげるもの、ことばが何かをつくりあげようとするときの「愛」そのものが、高柳は好きなのである。ことばが何かをつくろうとして結びつき、ひとつになる瞬間の「愛」--それに同化したいという強い欲望がここにはある。
 ことばがことばと結びつき、何かをつくりあげる。そのつくりあげるを、高柳は「形成」と呼ぶ。引用した最後の行に出てくる。
 高柳は、ことばが「形成」するものが好きである。そして、その「形成」されたものは、「うすい光」ということばが象徴的だが、とても繊細である。そういう繊細なものを、繊細なまま、強固にする(矛盾だろうか--たしかに矛盾だからこそ、そこに「思想」がある)ために、活版製版のような、強固なものが必要なのだ。活版製版のような、強固な印象のあるものにことばを預け、その強固さを頼りにしながらことばを動かす必要があるのだ。





万象のメテオール
高柳 誠
思潮社

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北沢栄・紫圭子『ナショナル・セキュリティ』

2008-07-21 09:13:21 | 詩集
ナショナル・セキュリティ―連詩
北沢 栄,紫 圭子
思潮社、2008年06月30日発行

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 それぞれの詩に日付が入っている。北沢栄と紫圭子が交互に書かいている。一種の対話である。「ナショナル・セキュリティ」というタイトルが象徴的だが、こうした対話の場合、どうしても「流通言語」にひきずられてしまう。すでに存在する「意味」にひっぱられてしまう。そして、そこに一種の共通概念があるために、何か、対話が成り立ったような気がしてしまう。ほんとうに対話があったのか、ことばをかわすことで、北沢と紫が北沢ではない人間、紫ではない人間になってしまったのか。--対話とは、相手と向き合うことで自分をつくりかえ、自分自身でなくなってしまうことである。(と、プラトンが大好きな私は考えている。)
 どうも、そんな感じはしない。
 「世界」について、私はこれだけ「知識」を持っている、とい主張が随所に出てくる。「世界」についていろいろ知っていることは重要なことではあるけれど、「知識」の疲労は「対話」とはいわないのではないか、と私は思う。

 「対話」がどうしても「意味」に流れてしまうのに対して、紫がいっしょうけんめい抵抗している。その部分が、詩として輝いている。

雨はちぎれた夢のしっぽ
そっと戸口をたたく
雨は
戸口を守る神さまだろうか
                 (36ページ)

わたし スーパーで買い物する
自分の姿をモニターテレビに映して
ポーズする
(鏡って植物的ね
      (谷内注、「鏡」には「モニター」とルビがついている)
                  (66ページ)

 詩集の「帯」にも引用されているが、66ページの4行は美しい。特に、「(鏡って植物的ね」と開かれた状態でほうりだされたことばが美しい。
 なんの説明もない。説明のしようがないのである。ことばがふいにやってきて、紫の肉体を切り開いてしまったのである。
 こうしたことばに出会ったとき、そこで対話するというのは、それまでの自分を完全に捨て去らないとできない。そういう対応を、残念ながら、北沢はしていない。



わたし スーパーで買い物する
自分の姿をモニターテレビに映して
ポーズする
(鏡って植物的ね

 この4行で、紫は何が書きたかったのか。--ということをつきつめていくのは、実は、詩を読んでいて、私はそんなに大切なことではない。それは詩を読むときの私の姿勢ではない。紫の書きたかったことを無視して、そこから私自身の考えを見つめなおす。そういうことが、私にとっては詩を読むということだ。
 紫の4行は、それに先行する「愛人」「水仙」ということばが引き起こす乱気流のようなものによって生まれている。「水仙」とはもちろん「ナルシス」のことである。自己愛の象徴である。
 何かを愛する。その結果、自分が自分ではなくなってしまう。(ナルシスがその典型。)それが人間の欲望である。
 これに対して「鏡」はなんだろう。どういうものだろう。

(鏡って植物的ね

 このことばを発したとき(このことばがやってきたとき)、紫はどんなふうに変質したのか。紫ではなくなったのか。
 紫は、人間ではなく、モニターになってしまっている。モニターのなかにいる紫が紫であって、ポーズをとっている紫は紫ではなくなっている。一種の逆転が、ここにある。そして、モニターに欲望があるとすれば、そんなふうにして他人をモニターにしてしまうという欲望である。そこには、たぶん、いままでのことばでは定義できないような、不思議なパワー、エネルギーがある。
 「世界」で何かが起きているとすれば、そういうモニターの引き起こす錯乱である。

 それはほんとうは「植物的」ではないかもしれない。たぶん、「植物的」と呼ばれるものの対極にある。それでも、それを紫は「植物的」と呼ぶ。
 そこに何とも言えない「祈り」あるいは「絶望」のようなものを感じる。めまいのようなものを感じる。死の喜びのようなものを感じる。エロスを感じる。矛盾した何もかもを感じる。

 紫はこれから何を書いていくのか。ふいに、新しい、次の詩を読みたくなった。紫の変化を追ってみたくなった。







受胎告知
紫 圭子
思潮社

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石田比呂志「万愚節」

2008-07-20 08:49:20 | その他(音楽、小説etc)
 石田比呂志「万愚節」(「燭台」4、2008年06月20日発行)
 10首の短歌。その冒頭と最後の歌。

<木がらしやわが朝まらの頼りなさ>冬の噴水高く上がらず

乏しらの香母酸の花に来る蜂の止まらんとしてその距離保つ

 一瞬、その「距離」に驚く。たぶん<木がらしやわが朝まらの頼りなさ>の笑いにひきずられて、「冬の噴水」の写実から私の目がそれてしまったためである。
 「冬の噴水」は「高く上がらず」の「高く」がていねいな描写だ。写実だ。そして、写実であることによって、つまり「高く上がらず」という変化を見る視力があってこその「頼りなさ」がある。「視力」は単に外形を見るだけのものではないのだ。内面を、内部の充実を見てこそ視力なのだ。
 短歌にしろ、俳句にしろ、伝統的な定型詩には、こういう外部と内部を結びつけるが感覚ある。視力、聴力、触覚、味覚……。それが融合して外部と内部をつなぎ、その結び目に「宇宙」が出現する。
 「香母酸」(かぼす、と読むのだろうか。きっと、そう読むのだろう)の歌。「止まらんとしてその距離保つ」の視力の正確さ。その停止したような「距離」を石田が見つめ、ことばにするとき、たぶん石田の内部にも何かとの「距離」を保つ意識が動いているのだ。そして、その「距離」に対する意識は、「乏しらの」ということばと通い合うことで、石田の精神を描写する。暗示する。そういう「場」へ私を誘って行く。

 1首とても気に入った歌がある。

夜な夜なを雄(お)を率て路地を徘徊の界隈一の美形の雌猫

 「お」(「を」を含む)と「の」の繰り返し。「路地」の「ろ」と「じ」の音の不思議な結びつきをくぐり抜け、「か行」の変化。短歌の音楽として、歌人は、こういう音をどう評価するのかわからないが、私は、途中の「路地を」にちょっと酔ったような感じを覚えるのである。





萍泛歌篇―石田比呂志歌集 (角川短歌叢書)
石田 比呂志
角川書店

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北川透「亀裂についてのノート--アフォリズムの稽古⑯」

2008-07-19 09:21:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川透「亀裂についてのノート--アフォリズムの稽古⑯」(「燭台」4、2008年06月20日発行)
 ことばはどこまで自由になれるのだろうか。北川透のことばを読むときまってそう考えてしまう。どうすれば、ことばは自由になれるのだろうか、とも。
 「亀裂について」は関門海峡を題材にしている。いや、こういう言い方は正しくはないかもしれない。題材というより、出発点にしていると言うべきなのかもしれない。どんなことばも何らかの具体的な「もの」と向き合ってはじまる。「亀裂について」は関門海峡と向き合ってはじまる。

濃霧を切り裂いていく汽笛で目覚めた。
傾斜の激しい石の階段を降りると、
海沿いの道路に出る。夜の開けきらない大気の中に
ぼんやりと現れた巨体は、幽霊船のようだった。

 この書き出しはとても平凡である。海峡、濃霧、汽笛。特に1行目にあらわれた「切り裂いていく」という汽笛を修飾することばは、まるで古い歌謡曲のようでさえある。さらに、傾斜の激しい石の階段、夜の開けきらない、ぼんやり現れた、幽霊船。あらゆることばが、どこかにしばられている。何かからしばられている。何かとは、たとえば「抒情」かもしれない。
 ここから北川はどんなふうにことばの自由を獲得できるだろうか。
 2連目の書き出しは、とてもおもしろい。

海でもない。

 関門海峡は、もちろん海である。だれが見ても海である。海ではない、という断定は、矛盾である。だからこそ、北川は「海ではない」と書く。矛盾の力を借りて、1連目に押し寄せてきた「流通言語」を否定しようとする。そこから離れようとする。

海でもない。河でもない。湖でもない。

 「ない」という否定を重ねる。
 この重ねつづける「ない」という否定が、また、私にはとてもおもしろく感じられる。ここに北川の悪戦苦闘(?)を見て(見てしまって?)、ほんとうのことを言うと、笑ってしまった。おかしい。絶対的に、おかしい。
 「海でもない」は、1連目の、通俗的な海峡のイメージを拒絶するために持ち込まれた絶対的な矛盾である。ところが、「河でもない。湖でもない」は、現実とつきあわせると絶対的矛盾とはならない。関門海峡は、だれが見たって「河でもない。湖でもない」。それは「事実」である。
 「海でもない」ということばだけの絶対矛盾につづいて、「事実」が描写されてしまう。事実に、ひっぱられてしまう。「海ではない」という、ことばの絶対自由を手に入れたと思ったのに、その自由は育つまもなく、「事実」にまみれた(?)ことばにひきずりおろされる。
 ここには関門海峡を「海でもない」と断定する以上に、奇妙な、不思議な、おかしいとしかいいようなのないことばの運動がある。
 北川は何をしたいのか。

海でもない。河でもない。湖でもない。

 「ない」と3回繰り返し、繰り返すことで、ひたすら1連目のイメージを消し去ろうとするのである。そのイメージからとおく離れようとするである。その離れようとする意識が強すぎて、「河でもない。湖でもない」という「矛盾」ではなく、「事実・真実」がまぎれこんでしまう。まぎれこんできたことに気がつかない。いや、気がつかない、ということはない。最初は気がつかなくても、書いた瞬間に、気づいてしまう。
 気がつけば、やりなおせばいいのだろうか?
 北川はやりなおさない。まちがい(?)を次の行で、次のことばでねじふせてゆく。まちがいを「踏み台」にして、さらに動きを進めていく。たとえば走り幅跳びや走り高跳びの選手がスタートする前、一瞬、体を後ろにひいて反動を利用して走り出すのに似ている。「河でもない。湖でもない」は、そういう反動(反作用)を引き出すための、無意識の思想(肉体としての思想)である。ことばにも「肉体」というのは、あるのだ。
 反動をつけて、ことばは、どう動くか。

海でもない。河でもない。湖でもない。
この細長い、深く豊かな亀裂の中を、
生き永えた潮の時間は、今朝も激しく流れている。

 「亀裂」。このことばの登場によって、「河でもない。湖でもない」の絶対的事実・真実が、「海でもない」に吸収され、1連目の完全否定がはじまる。
 「海でもない。河でもない。湖でもない」は「外見」の否定であり、「外見」から「内面」(内部)を視線を(意識を)方向転換させるための定義なのである。関門海峡は「外見」としては「海」に見える。巨大な「水」の塊が見える。だが、北川は、その「外見」ではなく、「内面・内部」へとことばを向ける。
 ことばの自由とは、内部(内面)を語るときにこそ力を発揮する。内部(内面)は見えない。だからこそ、そこでは何が起きているかを語ることは、語った方が「勝ち」なのである。
 
 とはいいながら、北川が目を向けた「内面」が「時間」というのは、これもまた、現代では「流通言語」である。存在を内面の時間によって描くというのは基本的な文学の常識である。いつでもことばは北川の足元をすくうようにしてやってくる。押し寄せてくる。それと、どう戦うか。どうやって自由を獲得するか。

海なら沖から岸に向かって波は押し寄せる。
河なら上方から下方へ水は流れる。
湖なら水面下は騒ぎ立っていても、表面は穏やかである。
東から西へ、西から東へと繰り返し転換するダイナミックな流れ。この急斜面の険しい知性が身体を開いた亀裂。それを満たす豊かな時間の方向や速度は一定しない。

 2連目の1行を、書き直すことで、否定しようとするもの、否定という反作用を利用して突き進む方向を修正する。あるいは、あらたに発見する。「身体」と「時間」。目の前にある関門海峡。それを目にしながら、そこから、どこまで自由にことばを動かして行けるか。
 ここまで読んでしまえば、あとは、もう北川の悪戦苦闘を楽しむだけである。申し訳ないが、他人が悪戦苦闘している瞬間ほど、見ていて楽しいものはない。無理なことをしているひとは、みんな美しい。おかしくて、笑いながら、けれども、あ、そうか、と思う瞬間が、他人の悪戦苦闘を見ているときには、かならずある。そういう楽しさが、このあと6ページつづく。そして、その途中には、

すべての亀裂は痛みにあえいでいる。

いま、おまえが自分の前に横たわっている、
やわらかい亀裂に、世界を抗争する男根を挿入できれば、
苦痛は市場の快楽に転化する。

というような、それこそ「アフォリズム」に満ちた行も登場するが、その行までのあいだに、ことばがどんなふうに動いたか、気になりません? 1連目が、途中でそんなことばに変わってしまっているというのは、おかしくないですか? 楽しくて、笑いが込み上げてきませんか? (このことばの過程は、ぜひ、北川の作品そのもので体験してください。作品が長いので、ここでは引用を省略します。)

 動きはじめたことばは、どこへでも動いて行くことができる。そして、その動いて行けるということこそが「詩」である。動きだすときのエネルギーが「詩」である。
 この作品の場合、それは2連目の1行目、

海でもない。河でもない。湖でもない。

 からはじまっている。




続・北川透詩集 (現代詩文庫)
北川 透
思潮社

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豊原清明「ワイルド・ラブズ(朝の唄)」

2008-07-18 13:09:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「ワイルド・ラブズ(朝の唄)」(「白黒目」12、2008年07月発行)
 豊原の詩はいつ読んでも不思議である。「ワイルド・ラブズ」という作品は「夕の唄」「朝の唄」「昼の唄」と三つあるが、その「朝の唄」。その書き出し。

ゆううつになりそうな
日のはじまりだ
湿っぽい枕を手に持って
冷茶をあおる
父はパンを焼いている
ふたり分の
昨夕は 家族四人分の
魚を焼いていた
今晩も魚だろう
何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている

 朝の父との食卓の風景を描いている。それだけかもしれない。それでも不思議に感じる。「パン」も「魚」も見慣れたものである。それなのに、なぜだろうか。一回かぎりのものに感じる。そして、矛盾しているが、一回かぎりだからこそ、永遠に同じだとも感じる。永遠に同じだからこそ、一回ずつのことが一回かぎりに感じられるのかもしれない。その一回を逃すと、永遠に「永遠」はやってこない。
 見なれていないものに目を向けると、そのことが鮮明になるかもしれない。

何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている

 食卓と2階にある自分の部屋(?)を結びつける「階段」。「階段」が結びつけるものは「常識的に」考えれば1階の食卓と2階の部屋である。しかし、豊原は「朝の希望」と「夕べのがっくり」を結びつけると書いている。しかも「共に」。
 それはたぶん父がふたり分のパンを焼いていることを見て、思い浮かんだことがらである。今夜食べるものについて考えたとき、思い浮かんだことがらである。
 非常に極限的なところから出発している考えである。
 そして、その極限的であるところ、一回かぎりであることが、逆に、こういう「結びつき」は豊原にとっては、「永遠」なのだということを浮かび上がらせる。一回気がついてしまうと、すべてがその一回のなかに含まれてしまう。もう、この階段は消えない。
 こうした結びつきは「俳句」に似ている。俳句の「一期一会」に似ている。階段は「存在感」を持って、いま、目の前に出現している。階段でないもの「朝の希望」「夕べのがっくり」が階段となって、そこに立ち現れている。



 同じ号に載っている俳句4句。

歩き疲れて鳥渡りけりわたりけり

冷房車幼いひとのころこんこ

朝曇青を見つめて肩車

淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立

 「歩き疲れて」が好きだ。2度の「けり」は反則(?)なのだろうけれど、歩き疲れて放心したこころが繰り返しのなかで休んでいる。切れ字はおもしろいなあ、と思った。






夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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財部鳥子『胡桃を割る人』(2)

2008-07-17 11:33:07 | 詩集
 財部鳥子『胡桃を割る人』(2)(書肆山田、2008年06月30日発行)
 詩集におさめられている作品はどれも短い。短くて、ちょっと無造作にほうりだした印象がある。その無造作の感じが、閉じている、不親切というのではなく、他者に対して開かれているというか、なじんだ挨拶、すれ違うときにかわす「こんにちは」という感じがしてとてもいい。なじんだ人に対しては、すれちがうとき、特別挨拶をするという意識もなく、簡単に「こんにちは」というけれど、その「こんにちは」が気取りがなくて、ふっとこころを誘われる。笑顔にも、ほんの少しのいつもと違うかげりにも、あ、こんなぐないにこころを許しているのかというような、安心が漂う。
 「新緑」という作品。

ストローの夏帽子のかげで
かばんいの紐が喘いでいた


四十雀が遅咲きの山桜を
ついばんでは茶店のベンチへと落としていた
花は完全な五弁のまま落ちている
峠の奥からはもうれつな緑のあいさつ


わたしはもう樹の息をつくしかない
汗染みをのこして胸から羽化していくものがあり
じぶんが
どんな游魂になってしまうのか
言うにいえないのだった


冷し飴を飲んでも
お茶をすすっても樹の味がした

 3連目の「じぶんが/どんな游魂になってしまうのか/言うにいえないのだった」というような表現は「詩」というよりは「説明」である。「言うにいえない」ことをなんとかことばにするのが文学なのに、簡単にほうりだされては困る--と苦情を言いたくなるのだが、このほうりだし、あきらめた、という印象があって、最後の2行が、すーっと収縮する。
 「じぶんが/どんな游魂になってしまうのか/言うにいえないのだった」は、いわば「放心」である。こころを自分にしばりつけず、もう何になってもかまわないと思う。「どんな游魂になってしまうのか」という1行のなかに、その「なる」という動詞が出てくるが、何になってもかまわないという無防備な自己解放があるからこそ、世界が、その一瞬を狙ったように、財部に押し寄せてくる。そして、全方向に放され、散らばっていくこころを一気に集めてしまう。
 求心。
 財部は、ひとつに「なる」。そしてそのときは、財部は財部ではなく、別の存在である。

冷し飴を飲んでも
お茶をすすっても樹の味がした

 財部は「樹」を全身で味わう「味覚」である。ひとつの「感覚」である。純粋な(といっても、とぎすまされた、はりつめたというのではなく)、限りのない感覚である。この限りのなさを「無限」と言い換えると、この詩集の財部のこころのありようがわかりやすくなるかもしれない。
 放心→求心→無限。
 財部は無防備になり、財部を開放する。そうすると、その開放されて「無」になったこころに世界がおしよせてくる。そして、そこで新しい財部をつくりあげる。いままで存在しなかった財部をつくりあげる。その新しい財部は、財部という「枠」を超越している。「無限」へとつながっている。「無限」とは「永遠」とも言い換えることができる。「永遠」は「真」とも言い換えることができる。

 放心→求心→無限=永遠=真

 この運動が短い詩篇のなかに凝縮している。





衰耄する女詩人の日々
財部 鳥子
書肆山田

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