詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(27)

2015-02-28 10:44:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
50 鯉のぼり

遠浅の海をどこまでもどこまでも歩いて
ついにどこの岸にもたどりつかなかつたときに
わたしはただ一つの眼差しでみることしかできない
それはもつと大きな眼差しにみいつているのだ
そしてほんとうはそれがある日の岸なのだ

 この書き出しは眩暈を感じさせる。「一つの眼差し」と「大きな眼差し」。「一つの眼差し」が「大きな眼差し」に見入る。そのとき見ているのは「眼」だろうか。「眼」ではない。「眼差し」。眼が指し示すものを感じ取り、それに見入る。大きな眼は何を見ているか。その視線は何を指しているか。だが、その指している「対象」ではなく、その「指し示し」が問題なのだ。
 「ある日の岸」。明確に特定していないが、それが「ある日の」とあいまいだからこそ、「眼差し」の「指し示す」行為が、肉体を刺戟する。「大きな眼差し」と「わたし」の「一つの眼差し」が「一体」になる。「眼差し」が「一体」であるから、その「対象」が明確でなくても、なまなましく感じる。「眼差し」が「一体」になることで「肉体/感情」が「一体」になる。「同じ気持ち/同じ肉体」で「何か」を見る。
 「ある日」は、しかし、「未来」ではない--と私は直観する。
 「歩いて/たどりつけなかつたた」という「肉体」の体験(過去)が刺戟する「ある日」。だれかが「歩いた」。歩きながら、何かを見た。そのだれかの体験としての「眼差し」が、しかし、「過去」のものとしてではなく、「過去」から自分の視線をつきやぶって、目の前にあらわれる感じだ。だから、よけいに眩暈を覚える。「既視感」というのとも、すこし違う。「既視感」というのは自分の記憶。けれど「大きな眼差し」と「一体」になって見るのは、あくまで「大きな眼差し」が見てきたもの--他人の、「わたし」を超える大きな存在の「過去」を「いま」、さらには「未来」として見ていくということだ。
 「いま」を突き破ってひとりの人間の存在を超える大きな「過去」が動き、それが「未来」になる。

よくみるとそこにもここにも同じような兎のあし跡がのこつている
いそいでかけあがつた小さな兎のあし跡もある

 「兎」は小さな人間(わたし)の象徴(比喩)だ。小さなものが大きなものの視線(眼差し)に導かれるようにして歩いてきた。--「わたし」もそのひとり。「いそいでかけあがつた」は「大きな眼差し」と「一体」になって、「大きな眼差し」を追いかける「一つの眼差し」の、激しく「肉体」をつきうごかされたときの動きをあらわしている。嵯峨は、「人間全体の歴史」を象徴的に書いている。

 これでは、しかし、抽象的すぎる。抽象的でもいいのかもしれないが、よくわからない。いや、よくわからないという感じを、「いまわたしはなにかに答えられそうにおもう」という一行を挟んで、後半に登場するタイトルの「鯉のぼり」があおりたてる。なぜ、「鯉のぼり」が出てくるのだろう。
 わからないことは、わからないまま、そこに置いておこう。いつか、なにかをきっかけにわかるかもしれない。きょうは、前半の眩暈を感じさせる行の展開だけで、詩の悦びは充分だ。

51 野火

 静かにうねるようにして動いていく比喩--その音楽のような響き。それが嵯峨の詩のなかにある。

孤独
それはたしかにみごとな吊橋だ
あらゆるひとの心のなかにむなしくかかつていて
死と生との遠い国境へゆちびいてゆく

 「吊橋」は「孤独」の比喩なのか、「孤独」が「吊橋」の比喩なのか。わからない。二つを同時に感じてしまう。「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」というようなことばは、直接比喩とは関係がないようにも思えるが、その一種の比喩の経済学(比喩を強く印象づけるなら、ふたつのことばの関係は距離が短い方が効果的だろう)を否定するような「ゆらぎ」が、「孤独」「吊橋」そのもののようにも感じられる。ゆっくりと、おそるおそる「孤独」と「吊橋」のあいだをわたっていく感じがする。
 「たしかに」「みごとな」「あらゆる」「むなしく」はどれも四音節で、その統一されたリズムが不思議と「肉体」に残る。
 この「孤独」と「吊橋」は二連目で「蝋燭」と「野火」に、「みちびいてゆく」という動詞は「照らす」と書き換えられている。

一本の蝋燭がふるえながら燭台の上で消える
もし孤独のうえでとぼしい光りを放つて死ぬのが人間のさだめなら
その光りはたれを照らしているのだろう
あの遠い野火のように
ひとしれぬ野のはてで燃え
そしていつとなく消えてしまう火

 一連目で「孤独」と「吊橋」が同じものだったように、「蝋燭の火」と「野火」もまた同じものである。それはだれかを照らす。そして照らしたということも知られずに消えていく。
 これを嵯峨はさらに詩と人間(読者?)の関係に重ね合わせているように、私には感じられる。

時はどこにもそれを記していない
時もまた一つの大きな孤独だ
たれに記されることもなく燃えさかり
そして消えてしまうものは尊い

 嵯峨は「詩」ではなく「時」と書いているのだが「記されることもなく」の「記す」という動詞を手がかりに「時」を「詩」と読み直すと、嵯峨の祈りが聞こえてくる。
 ひとは「孤独」を吊橋や蝋燭や野火に託して考える。そうやって「ことば」を充実させる。それを書けば詩。けれど、その詩は、必ずしもだれかに読まれるとは限らない。書いたものの読まれないまま消えていく詩もある。けれど、その詩は、書かれること(書くことによって)、だれかの「孤独」をたしかにしっかりと結晶させたのだ。またその詩を読んだ人のこころをそっと照らしたのだ。読んだ人は書いた人と同じ人物かもしれない。そのとき「孤独」と「詩」は同じものになる。「詩」と「孤独」は同じものになる。--それでいい、と嵯峨は言っているように思う。

 私のような、テキストをかってに書き換えて読むということを「誤読」というのだが、私は「誤読」をすることが好きだ。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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前を歩いている男

2015-02-28 01:27:33 | 
前を歩いている男

「前を歩いている男」ということばが暗い行頭にあった。「雨」ということばが横から降ってきて、「靴のなかがぬれた」ということばは、あとから「靴下がぬれた」と書き直された。坂になった舗道には、「降る雨の上を、筋をつくって流れる水があった」ということばが落ちていたが、それを落としたのは「前を歩いている男」なのか「後ろから歩いている男か」なのか、もう、ことばが入り乱れてよくわからなかった。ウィンドーの明かりや車のライトが「滲んでいた」ということばといっしょに宙に浮いていた方がよかっただろうに……。

「前を歩いている男の頭のなかには」という聞いたことのあることばがあった。その後ろを「わかりたいとは思わない」という、これも聞いたことのあることばが、聞いたばかりのことばを「踏み潰すように」歩いている。そんなふうにして、「前を歩いている男」になってしまうことばがあるのだが、「何の役目をしようとしているのかわからない」という憤りのことばは、「きのうきょうの生活のなかから出てきたのではなく、積みかさなった日々の奥の、押しつぶされた時間のなかから出てきた」に変わるために、あと二時間は歩かないといけない。



*

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高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(4)

2015-02-27 11:59:40 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(4)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」について、その高橋のことばについて、もう少し書いてみる。私の書いていることは詩の感想ではないかもしれないが……。
 最後の断章。

そこ 目の国と呼ばれる地では
しかし 最もよく見るのは眼球のない窩

 「見る」とは「日常のことば(流通言語)」では「目」をつかって「見る」「目で見る」ことを意味する。しかし、高橋はそれを否定して「眼球のない窩」で「見る」という。「最もよく見る」とは「もっとも正しく見る」というくらいの意味だと思う。
 こういうことは「日常」の常識にあわない。あわないが、常識にあわなくてもいいのが詩であり、また高橋は「日常」を描いているわけでもないので、常識にあわなくてもあたりまえなのだ。。高橋はあくまで「指し示し」をしているだけである。
 「指し示し」を追いかけるときに必要なことは、その「指し示し」が指し示している「対象」を見ること(理解すること)で「指し示し」を理解したと勘違いしないことだ。「最もよく見るのは眼球のない窩」ということばの場合「眼球のない窩」(名詞)を想像し、それを思い浮かべることができたからここに書いてあることが「わかった」と思い込んではいけない。
 「眼球のない窩」では何も見えない。見えないはずなのに、それが「最もよく見(え)る」と、高橋は、ことばでそういう「事態」をむりやり(わざと)つくり出そうとしている。(「わざと」書くのが「現代詩」である、というのは西脇順三郎の定義だが、そういう意味では高橋の詩は「現代詩」そのものである。)「指し示し」によって「もの(名詞)」ではなく、「見る/見える」という「動詞」の「本質(哲学)」を探ろうとしている。「見る」という「動詞」そのものになろうとしている。
 「眼球のない窩」で「見る」とは、どういうことか。そのとき、そこに何が動くのか。どう動くのか。その「動き」を追いかける必要がある。「動き」に「肉体」を重ねて、ことばをとらえなおす(体験し直す)必要がある。
 高橋の指し示す動詞にしたがって、「見る」を解体し、再構築しなくてはいけない。(解体、再構築というようなことばは、もう古いかもしれないし、こういうことばは借り物なのであまり好きではないのだが、便利なので借りておく。)

窩に詰まった闇は 光の領域を超えて
影の国の傾斜の濃いどんづまりまで届く

 「目で見る」は「視線」が対象に「届く」ということである。目と対象との距離(あいだ/領域)を「超えて」対象に「届く」ということである。
 「見る」という「動詞」のなかにある「超える」「届く」という動きを高橋は「指し示し」、その「指し示し」に「闇」を重ねる。そうすると「闇」が「見る」という運動のありようがわかる。
 「闇」は日常の目が見る「光の領域」を「超える」。つまり「光」が照らし出さない部分にまで入ってゆく。そこへ「届く」。それは「光」には見えないものまで見るということでもある。そこで「闇」が「一体」に「なる」。
 「光」は「対象」の表面で反射し、それを目に像として届けるが、闇はそんなことをしない。闇は「目」による識別をしない。「目」による識別を否定し、「闇」そのものになること、「一体化」することを「見る」と定義する。(闇のなかで手で何かに触り、それが何かを理解するときは、触覚と対象が「一体(同一)」になるということ。それを「手で見る」などというが、ここでは省略。高橋は「手」については最初の断章で別のことを書いていた。もちろん、それは「闇」とつながるというか、循環、往復するのだが、長くなるので省略する。)

見るとはつまることろ闇が闇を見ること
光の中の目たちはそれを知っている

 「見る」とは見えないもの(闇)と見なないもの(闇)が重なり合うこと。「一体」になること。
 「見る」は「わかる」ということばと、ときどき同じ意味になる、闇は闇に届き、「一体」になることで、そこに起きていることを「わかる」。受け入れる。闇のなかで、闇として生まれ変わる。その愉悦。
 光の中の目は、その愉悦に嫉妬する。あるいは、驚怖する。--そうわかっているからこそ、高橋は「目のない窩」としての目(闇)になって世界を解体し、再構築する。そして、その再構築の過程を、詩として指し示す。
 ただし、高橋はそのとき「解体」を省略して、いきなり「無/空(混沌/解体が終わったあとの場/存在が不定形のエネルギーとしての場)」から「指し示す」という形でことばを書きはじめる。「ことば=もの」という「流通言語」をすてたところから「指し示す」という運動をはじめる。だから「難解」なのだが、「無/空」というのは「形になる前のエネルギーの場」なのだから、そのエネルギーがどんな「動詞」を通るかを手がかりにすれば、そこに「肉体」を重ね合わせ、高橋のことばを追うことができる。「動詞」に「肉体」を重ね、高橋に接近していける、と思う。
 その具体例を、今回の感想で書いたつもり。

続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
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嵯峨信之を読む(26)

2015-02-27 10:48:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
48 赤江村

 「静けさについて語るのをきこう」という一行からはじまる。だれが語るのか。「静けさ」が自分自身で語っているのを、「静かに」聞いている感じがする。そのとき「静けさ」が交錯する。その交錯は、詩人が自分で「静けさ」について語り、それを詩人自身が聞きながら反芻する姿にも見える。
 「ここ」にない「「静けさ」がどこかから、ことばといっしょに「ここ」あらわれてきて、「ここ」にある「静けさ」をさらに深くする。

汐のみちている河口の方を考えよう
そこはすでに一つの静けさだ
静けさはそうしてひとしれぬ遠いところでみのるのだ

 静かな河口を考える、思い浮かべる。そうするとそこに河口の「静けさ」があらわれてくる。河口が「静けさ」になる。そういうことを、嵯峨は「みのる」ということばで表現している。
 「静けさ」というものが、だんだんわかってくる。その「わかる」という感じが「みのる」。それは「頭」で「わかる」のではなく、「肉体」で「わかる」。
 嵯峨は、言い換えている。

時の内部は見えなくても
あなたの手はそれをじかに感じる

 「静けさ」と「時の内部」と言い換えられている。「時」は流れる。ときには激流になって流れる。「時」という川は流れ終わって、河口でたゆたっている。激しく流れるときも、ゆったりとたゆたっているときも、その「内部」にあるものは「外部」の姿とは違っているかもしれない。嵯峨が感じているのは「静かな」姿である。「静か」が実って(大きくなって)、そこに「存在している」。それを「じかに」感じている。

たわわにみのる静けさと
暗やみに刻まれている 一つの浄らかな彫姿(レリイフ)に触れることができる

 「たわわ」は「豊かさ」を言い換えたもの。「静けさ」が果実のように充実して重くなっている。その充実した彫姿に「触れる」。「手」で「触れる」。
 「触れる」というのは、手があって、その外側に彫姿があって、それが接触することだが、この詩の場合、外にある何かに触れる、という感じはしない。
 自分自身の内部に触れる、という感じがする。
 「時の内部」の「内部」ということばが、視線を「内部」に誘い込む。「見えなくても(見えない)」「暗闇」ということばも、意識を「内部」に誘い込む。「内部の暗闇」「見えない内部」。そこで「静けさ」が「みのる」。
 「暗やみに刻まれている」ということばが印象的だ。「暗やみ」のなかにある何か(大理石とか、木とか)ではなく、「暗やみ」そのものが刻まれている。詩人の「肉体の内部」にある「暗やみ」が刻まれて、「暗やみ」なのだけれど「浄らかな」ものになる。透明なものになる。透明だから、見えない。暗やみのなかだから、透明はなおさら見えない。そういう詩人の内部の、変化。
 「じかに感じる」の「じか」は、そういう「肉体の内部」の変化の感触だ。「手」で感じるというよりも「いのち」で感じる。
 嵯峨は「肉体内部」の「いのち」が直接感じたことを書いている。「静けさ」は自分の内部にある。それが満潮の河口の姿を思い浮かべるとき、その姿のなかにあらわれてくる。その「あらわれてくる」感じを「じかに」感じる。自分の内部で起きているから「じかに」しかありえないことである。
 「いのち」が「じかに」感じている。そのためだろうか、嵯峨の書いている「静けさ」は「かなしさ」にもつながっているように思える。何かを愛したときに動く静かな動きを感じさせる。

 「じかに」としか言えないことがある。「じかに」は詩人が感じていること。それを、「間接的に」触れることができる形にしたのが、詩。

49 純粋の流れ

 「純粋の流れ」からは「野火」という「章」の作品。

そのままじつと黙つていよう
ながれはじめた純粋の流れにこの身を浸すために
それを注意ぶかくみつめているきらめける白い星星
音楽はそれに刻んでいる
落葉のように無数の手で

 抽象的な詩だ。「純粋の流れ」というのは何のことだろう。よくわからない。
 私が思わず傍線を引いたのは「音楽はそれを刻んでいる」という行。
 音楽は何を何に刻んでいるのか。音楽に「純粋の流れ」が刻まれているようにも感じられる。嵯峨が書いている「文法」では、そんなふうに読むことはできないのだが、詩のことばは文法とは無関係に、何かをつきやぶって動く。動いた瞬間に、あるいは「誤読」した瞬間に感じ取るものが詩なのかもしれない。
 嵯峨の詩は、「きらめける白い星星」とか「落葉のように無数の手」というような表現のために「視覚の詩」という印象がある。嵯峨は視覚の詩人である、といいたくなるところがある。
 しかし、一方、この詩に書かれている「音楽」ということばが隠れた意識をあらわしているように、聴覚の詩人、音の詩人でもある。
 「ながれはじめた純粋の流れ」ということばのなかには「ながれ/流れ」が重複している。ことばの経済学からいうと「不経済」。「そのままじつと黙つていよう」の「そのまま」と「じつと」は同じ。「じつと」と「黙る」も意味的に重複している。不経済だ。でも、嵯峨は重複して書いてしまう。重複するときイメージが明確になると同時に、単なる「音」ではなく、重複がつくりだすリズム、音楽が生まれるからだ。
 詩の「音楽」というと、音の響きあいが問題になるが、音の響きあい以外にも、無意識の意味の反復のリズム、無意識の逸脱(?)のリズムにも耳を傾けないといけないと思う。
 「きらめける白い星星」というのは過剰な美しさで、視覚的にはうるさいかもしれない。けれど「きらめける」という暴走が「白い星星」という「音の連なり」には必要なのだ。「七五調」になって耳のなかをかけぬける軽さが、ここでは「音楽」のひとつだ。
(全体が「七五調」という意味ではない。)
 




嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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探していた

2015-02-27 00:50:21 | 
探していた

 「探していた」ということばが、「引き出しのなか」にあった。影に封筒からはみ出た便箋があった。折り畳まれているので、そこにどんなことばがあったのかわからないが、本のなかのことばは「探すふりをして時間稼ぎをしていたのかもしれない」という具合に動いた。「本のなかのことば」ということば、そこにはなかったので、つけたした。

 「写真のなかに一本の綱」ということばがあった。「知らない」ということばが、遠くから帰って来たとき、「写真」ということばは「鏡」にかわって、引き出しのなかの手紙から抜け出し、直訴をこころみた。鏡の木枠と、写真立てのフレームはたしかに「似ている」。「似ている」ということばが、とんでもない方向から飛んできて、飛び去った。

 追いかけてはいけない。「追いかけてはいけない」ということばがあったが、否定形のあまい誘いにのってはいけない。追いかけてはいけないのだ。

 「探していた」ということばに戻っていく。「半開きのドアの蝶番」ということばを開けて、錆びた金属の粉を差し込んできた光のなかに散らす。床に足跡が「暗い水のように」ということばになって、存在していた。「裸足」ということばが、ぶらさがっていた。「鏡のなかに」。動かないので鏡ではなく「写真だと思った」と、ことばは主張するのだ。「ほんとうだろうか」。








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高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(3)

2015-02-26 10:52:10 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(3)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」について、その高橋のことばについて、さらにどんなことが言えるだろうか。すでに言いすぎているのか、言い足りないのか。三つ目の6行について書いてみる。

そこ 目の国と呼ばれる地では
目たちはけっして幻を見ることがない

 この2行は先行する二つの断章の2行と構造が同じである。1行目は、そっくりそのままである。2行目は「……ない」と非定型で終わる。指し示しがあって、次にその指し示しは「ある」ではなく「ない」を提示する。
 2行目に触れる前に、この繰り返される2行の「意味」について考えてみたい。なぜ各断章のはじまりを「そこ 目の国と呼ばれる地では」と繰り返さなければならなかったのか。繰り返さなくてもタイトルが「目の国で」なのだから、そこに書かれていることは「目の国」で起きていることというのは「わかる」。ことばの経済学からいうと、書き出しの1行の繰り返しは「むだ」である。
 でも、繰り返す。繰り返さざるを得ない。それは、なぜか。
 最初の断章に出てくる「目の国」と次に出てくる「目の国」は違うのだ。同じ「目の国」と呼ばれるが、まったく違うものである。「指し示し」はそのつど行なわれている。最初の「指し示し」によって「目」ではなく「手」で「見る」ということが指し示された。手、その肉体でなにかに触れる、つかむ、そういう「こと」が、高橋のことばとともに、「事実」としてそこに存在した。それは「真実」でもある。
 しかし、それは「手」ということばで指し示すときの「事実/真実」であって、それ以外にも「指し示し方」はある。そのことを明らかにするために、高橋は、何度でも「指し示す」ということから初め直すのである。
 仮に「目の国」を海の上に浮かんでいる島であると考えてみる。南の方向から島を指し示す。そのとき見えるものと、北から指し示すときに見えるものは違っている。晴れたときに西から指し示すとき見えてるものと、雨のときに東から指し示し見えるものも違う。違うけれど「ひとつの島」。しかし、その「島」を「ひとつ」にするのは「島」の存在であると同時に、指し示すという「行為」が「ひとつ」にするのだ。「指し示し」がないかぎり、それは存在しない。「指し示し」という「動詞」のなかで「島」が「島になる」。最初の「指し示し」によってあらわれたものは、そのときの「事実/真実」であって、別な「指し示し方」をすれば違った「事実/真実」があらわれてくる。そのとき「真実/事実」が複数になるのではなく、「指し示すと、そこから存在があらわれる」という「ひとつの事実」が生まれてくるのである。「指し示す」という「動詞」、そういうふうにして世界を出会うという「方法」が「事実/真実」になってくる。
 高橋は「指し示し」によってあらわれる「世界」と同時に、なによりも「指し示す」という「ことばの運動」そのものを「詩」として提示しているのだ。そのことを明らかにするために、1行目は繰り返されなければならないし、2行目は「……ない」という非定型にならないといけない。

 2行目の「目たちはけっして幻を見ることがない」は、何を指し示しているのか。「幻を見る」ということばは常套句であり、そこに「見る」ということばがつかわれているために、「目で見る」という常套句を思い出してしまうが、もし幻があったとして、それはほんとうに「目」で見るものなのか。
 そうではないかもしれない。「目」がとらえた何かを、既成の情報ではつかみきれずに錯覚したとき、それが「幻」になるのかもしれない。「目」で見た何かをととのえ直す(情報として処理し直す)ときの混乱が「幻」と呼ばれるものかもしれない。

迷宮は正確な計算によって地下を巡り
怪物は具体的に牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)から成る

 「迷宮」は一種の「幻」か。つかみきれない幻、つかみきれない迷宮(なぞ)は「つかみきれない」という「動詞」のなかで重なり合うが、もし迷宮というものがあるとすれば、それは通常の通路とは違う形で通路がつくられているということ。通常とは違うという「法則(計算/理性)」によってつくり出されたもの。「幻」とは裏腹に、正確な理性が存在しないことには「迷宮」はつくることができない。通常の理性を上回るとき、そこに存在するものが「謎(迷宮)」になる。迷宮は「理性」がつくり出し(指し示し)、それを「迷宮」と受け止めてしまうのも「理性」である。
 「目」が、それを把握しているわけではない。
 「怪物」というものが存在するとして、それが「怪物」になるのは、その「頭」を「牛の頭」ということばで指し示し、一方陰部を「人の陰部」ということばで指し示すから、その何かが「怪物」になる。「頭」と「陰部」はあらゆる「肉体」に共通するものだが、それを統合するものは一般的には「ひとつ」である。「牛」か「人」か。けれど、ここに登場する生き物は「牛」ではない。「人」でもない。その別個のものが「統合(合体)」しているから「怪物」と呼ばれる。そういう指し示し方をされる。目ではなく、ある存在を指し示すときの、それを解体し、統合するときの仕方が「怪物」をつくりだすのである。
 別な言い方をすれば。牛には「角」があっても、それは鬼ではない。「角」を「人」を指し示すときの方法で何かに結びつけるとき、それは「鬼」になる。結びつけるのは「目」の仕事ではない。目はものを見るが、それを「ことば」でととのえ直すわけではない。

幻という言葉じたい 音節に分断され
目はその音価を視覚的に計量する

 この2行は抽象的すぎて、どう把握すればいいのか、よくわからない。「ことば」は「音」。それは「わかる」。「音」だから、それは「音」に分断(分解?)される。ひとつながりの音は、それぞれの「音」としてとらえ直すことができる。その「音価(このことばを、私は知らない)」を「視覚的に計算する」というのは、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、

牛の頭(かしら)と人の陰部(かくしどころ)

 のことを指し示しているのかな、と思う。牛の「あたま」と人の「いんぶ」と言ったときには、「頭」と「陰部」がかけはなれるが、「かしら」「かくしどころ」と頭韻を踏むと「か」という音のなかで、かってに結びついてしまう。その「か」の音の重なりが、牛と人をも重ねてしまう。
 このとき、この「か」をどう考えるか。「音」なのだが、「音」を表記方法でとらえなおすとどうなるのか。「か」を表に出さず「頭」「陰部」と漢字に隠してしまうと、どうしても「あたま」「いんぶ」と読んでしまって、「か」が重ならない。そのためにルビで「音」を指し示している。その「ルビ」をふるという操作のことを「音価を視覚的に」とらえるといっているのではないか。

 何が書かれているか(意味)ではなく、どんなふうに指し示しているか、その差し示しによって世界がどんなふうにあらわれてくるか。それを問うのが詩なのである。指し示しは、それが「目の国」であろうと、「耳の国」であろうと、ことばによっておこなわれる。その指し示しが「もの=ことば」の関係を解体し、無意味をくぐりぬけて、もう一度「運動」としておこなわれ、そこに「もの」が新しくあらわれてくるとき、それが詩なのである。
 逆に言えば、そこに書かれていることばが、既成の「もの=ことば」の関係を解体し、別なものを指し示すとき、それが詩なのである。詩が難解であるといわれるなら、それは既成の「もの=ことば」の関係を解体し、もういちど「指し示す」という過程を経ているためである。そういう「過程」を思い描かずに、「ことば=もの」の関係を追うと、「難解」というより「わけのわからないもの」になる。

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嵯峨信之を読む(25)

2015-02-26 10:34:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
46 時雨

 「住吉海岸」の注釈。

少しの時雨を 吸取紙のように 暗い松林が吸い込んでいる

 時雨に濡れながら暗くなる(黒くなる)松林が目に浮かぶ。時雨の水分の量だけ暗く、黒くなる。吸取紙が水をすって暗くなるように。
 この書き出しは、三行目から少し別な形で言い換えられている。

心をそそぎこんで
かなしく外にあふれてしまう
まもなく信じられないほどの広いしずけさがやつてくる

 「吸取紙」は基本的に水をあふれさせない。しかし水の量が多ければ、紙だけでは吸収できず、あふれてしまう。心はどうなのだろう。悲しみの雫が心に落ちてくる。それが次第に増えて、水を注ぎこむように注がれると、それはあふれてしまう。
 最初は松林だけがぬれて見える。松の葉と幹がぬれて色を変える。時雨がさらに降り続くと、その「暗い」変化は松林だけではおさまらない。松林の周囲にもひろがっていく。周囲も徐々に暗くなる。
 その変化を「信じられないほどの広いしずけさ」と嵯峨は書く。
 「やつてくる」は松林のなかから外へあふるれ感じ、それを見つめている詩人の方にあふれてくる感じ。その「あふれる」が心のなかで動き、かなしみがあふれるにかわる。嵯峨は「かなしく」と書いているが、副詞ではなく「かなしい」という名詞として感じてしまう。そして、「しずけさ」と「かなしさ」が、「あふれる(やつてくる)」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっているように感じられる。「しずけれ「ではなく「かなしみ」がやってくる。

47 少年哀歌

 「かつて音丸という妓あり」という注釈。嵯峨の初恋だろうか。悲恋に終わった恋なのだろうか。

ぼくはふと手くびに重みを感じる
あのひとの心からなにか去りゆくしずけさが
いまぼくの手につたわつてくるのだろう

 「あのひとの心」から去っていく(消えていく)のは嵯峨への恋かもしれない。あきらめるしかない恋が、「しずけさ」を感じさせる。
 「しずけさ」は「時雨」では「かなしく(かなしみ)」と言い換えられていた。この詩でも「しずけさ」は「かなしみ」と言い換えられるだろう。嵯峨の言語感覚では「しずけさ(しずかに)」「かなしさ(かなしく)」は通い合っている。
 静かな風景が描写されるとき、それは「かなしい風景」を象徴する。
 そう思うとき、引用した行の直前の一行がおもしろい。

蜜蜂の唸りが線を描いて消えていつた

 「唸り(音)」を「線」に変換してとらえるところは嵯峨が「視覚の詩人」であることを象徴している。「音」が消えていったのだが、そのとき「唸り」は「音」ではなく「線」という視覚でとられるものに変わっている。
 それが一義的なおもしろさだが、もうひとつ、「音」が消える、静かになるということが、「ぼくはふと手くびに重みを感じる」という感覚の引き金になっていることが非常におもしろい。その「重み」は次の行で「しずけさ」と書き換えられ、「かなしみ」につながっていく。蜜蜂の翅の音が消えて、しずかになるから、かなしみがみちてくるのである。かなしみが、手首を重くする。

 心から手首へ(肉体へ)、「かなしみ」が伝わるというのは、そこに断絶(飛躍)があるから、余計に鮮烈に感じられる。ふつうのことばでは表現できないことが起きているという印象となって、そこにある。


OB抒情歌
嵯峨 信之
詩学社
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展覧会の絵

2015-02-26 01:05:42 | 
展覧会の絵

三階の窓から身を乗り出して一階の庭をみおろしたとき、展覧会で見た「絵」がよみがえり、「テーブル」ということばになった。その上には「広げられた新聞紙」ということばがあり、「無防備」ということばが四階の窓から降ってきたような気がした。

だれが、見ているのか。

背後で「彼女の髪のぬれた匂い」ということばが、ドライヤーの音に隠れて動いていた。「無防備」とは、そういう意味であったような気がする。「鏡の中の女は、鏡の外の左右反対の女を見ている」ということばの方が「無防備」の定義にふさわしいが、それは次の詩に書くために考えたことだ。

だれが、見ているのか。

「展覧会の絵」には、一階の庭の向こう、樹の奥に家の窓があった。「昼間隠れていた」ということばは、「明かりが窓の形を教えてくれる」という警告にかわり、それままた別の「無防備」を指摘する。星を見るふりをして「深い井戸をのぞく」ように空を見るが、「絵」がそうであったように、そこには「星」ということばは、なかった。

だれが、見てしまったのか。





*

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高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(2)

2015-02-25 15:16:23 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(2)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「目の国で」の最初の6行を取り上げて、きのう、私は奇妙なことを書いた。その「奇妙」をきょうもつづけて書いてみる。二つ目の断章の6行。

そこ 目の国と呼ばれる地では
絵筆による遠近法は存在しない

 最初の一行は、きのう呼んだ部分と同じ。高橋は、「そこ」ということばで「ここ」でも「あこ」でも「ない」どこか、「どこ」ともわからない「地」を指し示す。指し示しであるから、「そこ」は「ここ」とは関係がない。そして、「ここ」がどこであろうと、「そこ」は存在する。「指し示す」という「動詞」そのものがなくなることはない。指し示しによって生まれた「場」が「そこ」である。
 「そこ」がなくても「指し示す」という「動詞」は存在するということもできるかもしれないが、そういってしまうと「そこ」と「指し示す」の関係そのものもなくなってしまうので、「そこ」は指し示しによって「生まれる(あらわれる)」と私は考える。。
 で、その「そこ」というのは「どこ」かわからないが、「そこ」には何かが存在する。するはずなのだが、高橋は、何かが存在するとはいわずに、まず、

絵筆による遠近法は存在しない

 と言う。
 このとき「存在しない」の主語は「遠近法」だが、「絵筆」は何だろう。なぜ「絵筆」なのだろう。「そこ」には「絵筆」は存在するのか。「絵」は存在するのか。「絵筆」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」と同じものだろうか。「(絵による)遠近法」は「ここ(高橋の存在する場)」の「絵筆」によって描かれるものと同じものだろうか。どうにも、わからない。
 「そこ」には「絵筆」も「遠近法」も存在しない。そこにある「何か」をあらわすとしたら、「ここ(高橋の存在する場)」にある何かを借りて「指し示す」としたら、「絵筆による遠近法は存在しない」ということばにするしかない。そうやって指し示すしかない、ということだろう。
 しかし、これは「指し示し」なのだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」から何かを指し示しているのだろうか。そうではなくて、「そこ」の何かを指し示そうとするとき、その指し示すという動詞を通して、逆に「ここ(高橋の存在する場)」が指し示されるのではないだろうか。「ここ(高橋の存在する場)」には「絵筆」がある。「遠近法」がある。「ある」と私たちは思っている。それは、しかし、いったい何なのだろう。
 「そこ」を「指し示す」ときにつかわれる「ここ(高橋の存在する場)」のことば、その「ことば」と「もの」の「関係」は、どうなっているのだろう。そのことが問われているような気がする。

遠くに動く木と近くに坐る岩とは
色彩の濃淡で段階づけられるわけではない

 「そこ」として指し示される何かを思い描くとき、どうしても私は「ここ(高橋の存在する場)」にあるものを借りて想像する。「遠くにある木」「近くにある岩」、「遠い」と「近い」、「木」と「岩」を借りて考えるのだが、そういうものを考えるとき、私は「色彩の濃淡で段階づけ」て考えるわけではない。考えたことがなかった。だから「色彩の濃淡で段階づけられるわけではない」ということばを読むとき、「そこ」に「ある」はずの「遠い」「近い」「木」「岩」ではなく、「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみるということを迫られる。「ここ(高橋の存在する場)」にあるそれらを「色彩の濃淡で段階づけ」てみないことには、それが「ない」ということがわからない。「ある」を「現実」の場で確かめないことには「ない」がほんとうに「ない」かどうかは、わからない。「ある」があって初めて「ない」が存在する。
 何かを、「遠近法」を、だろうか--それを「色彩の濃淡で段階づけ」るという「動詞」、そういう「指し示し」方を、私はしているか。そもそも「遠近法」とは「色彩の濃淡」かどうか。明確にはわからないが、色彩の濃淡で浮かび上がる「遠近法」というものもあるにはある。存在の大きさの大小ではなく(透視図)ではなく、色彩によっても、それはあらわせうる。手前の山は緑、その背後の山は青、その背後はあわい藍色というような感じの「遠近法」はたしかに見たことはある。高橋が想定しているものがどのようなものかわからないが、私は、そういうものを思い出しながら、「色彩の濃淡で段階づけ」るという描き方(運動、動詞)を感じ取る。
 「そこ」ではどうなのかわからないが、「ここ(高橋の存在する場)」ある「こと」が、いつも逆に「指し示される」。その「指し示し」が「ここ」を活性化する。「そこ」を「鏡」のようにして、「ここ(高橋のいる場)」が映し出される。
 だから、その4行を受けて、

遠い木は近い岩と同じ線上に並んでいる
視線の舌は同時に二つを舐めねばならぬ

 と詩が展開されたとき、私は問われている気持ちになる。「遠い木」「近い岩」を「同じ線上に並んでいる」と把握しなおしてみたことがあるか。「遠い」「近い」は存在しないと把握しなおしたことはあるか。
 「遠い」「近い」をつくりだしているのは、木や岩ではなく、「私」である。木も岩も、ただそこに「ある」。私とは無関係である。(私には「遠い」が高橋には「近い」という遠近が逆転することもあるのだから。)「遠近」は木や岩には関係がない。「遠い」を思うとき、何かを「遠い」と指し示すとき、そこに「遠い」があらわれる。「近い」を思うとき「近い」があらわれる。そして、その「あらわれ」は、「私」をとおって、「私」のなかにあらわれることである。
 「視線の舌」とは何か。「視線」はわかる。「舌」もわかる。でも「視線の舌」はわからない。日常的にそういうことばをつかわない。ここでは日常のことばが否定されている。
 「遠い」「近い」も日常の感覚が否定されていた。
 日常の感覚で知っているものをいったん否定して、視線とは何か、舌とは何か、視線のなかにある「動詞(動き方)」、「舌」のなかにある「動詞(動き方)」を手がかりにして、もう一度「肉体」を動かし直さなければならない。「視線で舐める」「舌で舐める」「舐めるような視線」。それは「視線」を突き破って動く何かだ。「遠い/近い」という「遠近感」ではなく、そのとき別の「遠近感」が「肉体」のなかで動く。「舐める」ときの「快感の遠近法」。「舐められるときの快感の遠近法」が浮かび上がる。じれったさと悦びが「肉体」の奥からあらわれてくる。「舌」よりももっと「肉体」全体をつきうごかすものとしてあらわれてくる。
 「目の国」であればこそ、そこでは日常の「目」を超えて、目が「舌」にもなる。最初の断章では「目」が「手」になったように、この章では目が「舌」になって、それが「遠近法」をつくる。--そういうことは、「目の国」にだけあるのではなく、まず「ここ(高橋のいる場)」でも「ある」。「視線で舐める、目で舐める、舐めるような目つき」というようなことばのなかに、それはすでに存在している。目で舐めながら、快感の濃淡を段階づけるということが、「ある」。

 「そこ」--どこかわからない場を指し示しながら、その指し示しが、「ここ(高橋のいる場)」の「あり方」を指し示す。その指し示しは、「ここ(高橋のいる場)」をいったん解体したあとの指し示しである。いったん解体したあとの、というのは、直接「ここ(高橋のいる場)」を指し示しているわけではなく、「そこ」を指し示すことによって、それが「ここ(高橋のいる場)」を明らかにするからである。指し示された「ここ」は、そのときすでにかつての「ここ」ではない。新しい「ここ」に生まれ変わっている。
 高橋は「ここ」の再生を「ことば」の運動のなかで展開している。
 その「ことば」は、「ここ」にある「もの」とは無関係である。「ここ」にある「もの」の関係(日常の定義、流通言語?)を否定して、ここにはない「そこ」を指し示すという運動を経たあとで、「ここ」にあらわれなおした「新しいことば」である。「新しい定義」である。
 そういう「ことば」、「ことばの運動」として高橋の詩を読む必要がある。
続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社
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嵯峨信之を読む(24)

2015-02-25 12:14:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
44 一つの島

 「一つの島」は架空の島なのだろう。注釈で特定していない。

あなたの想うことが湖から吹いてきます

 という不思議な一行からはじまる。「あなたの想うこと」とは何か。あなた「が」想うこととは違うのか。「ぼく」があなた「を」想うときにあふれる何かだろうか。「あなた」と「ぼく」と「想う」が交錯する。
 たしかなことは「想う」という「動詞」がそこにあるということ。ほかのことは、わからない。ゆらいでいる。
 そう思っていると、あるいはそう思うからなのか……

あなたは遠い島のようにすべての憧れをあつめ
雨の日や霧の日は姿をかくします

 「島」は「比喩」。「あなた」は「島のよう」。けれど「島」ということばが動いた瞬間から、「島」が「あなた」をのみこんでしまう。雨や霧が隠すのは「あなた」ではなく、「島」である。「あなた」は「島」になってしまっている。もう、そこには「あなた」はいない。
 「島」が「あなた」の比喩なのではなく、「あなた」が「島」の比喩のように思える。「島」を「あなた」と呼んでいるように思える。そう考えると「あなたは遠い島のように」という比喩が、比喩ではなく混乱になってしまうが、「比喩する(比喩にする?)」という「動詞」のなかでは、何が「現実」であり、何が「比喩」なのかという問題は消えてしまうのかもしれない。「比喩にする」という「動詞」が重要なのかもしれない。二つの存在をつなぐことで二つが交錯して「ひとつ」になる。「ひとつ」としてこの世界にあらわれてくる。
 「あなた」と「ぼく」が交錯したように、ここでは「あなた」と「島」が交錯する。そして、そのときわかるのはあこがれを「あつめる」、姿を「隠す」という「動詞」である。何かを「あつめ」、また「かくす/かくれる」。大事なものを「かくす/かくれる」。かくされる(視線が届かない/遠い)ので、その何かがいっそう大切なもの、「あこがれ」になる。ことばは振り返りながらさらに交錯し、渾然一体となる。

 「主語」といえばいいのか「対象」といえばいいのか、この詩に出てくる「もの(人、物/存在)」は、何か、はっきりした輪郭(個別性)を欠いている。
 これは詩が進むとさらに激しくなる。

ぼくは時おりその島に向つて
たれか声ながくさけぶのをきくことがあります

 瞬間的に「たれか」とは「ぼく」に違いないと思う。「ぼく」と「たれか」が交錯して見分けがつかなくなっているのだと思う。
 そうすると、ほら、

ぼくをたちこめている霧の中のどこかで
ちょうどぼくがさけびたくなると
ふしぎにその声はきこえはじめるのです

 「ぼくがさけびたくなるとき」聞こえるなら、それは「ぼく」の代弁者、いや「ぼく」そのものだ。いや、「霧の中」に隠れたのが「島/あなた(あこがれ)」であったはずなのに、それはいつのまにか「ぼく」にかわっているのだから、それは「あなた(あこがれ)」の叫びであり、「あこがれ(あなた)」の叫びであるからこそ「ぼく」の叫びでもある。「あこがれ/あなた」以外のだれかの叫びなら「ぼく」は「ぼくの叫び」とは勘違いしないだろう。
 これを、嵯峨はさらに言いなおしている。

その声をじつときいていると
それはだんだんぼくの声に似てきます

 嵯峨は、「あなた」ではなく「ぼく」を発見する。「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あこがれが何であるかわかる人)」。それを「あなた」と呼び、「島」と呼んでいたのだ。それらは「似る」という「動詞」を通ることで、別個のものなのに「ひとつ」になる。
 それは、さらに変化していく。

やがてまた父の切ない声のようにも
いやもつと奥深い永劫のはてからぼくのなかにつづいている なにものかの声に

 「なにものか」としか言えない何か。特定できない何か。
 特定できないのだけれど、「つづく」という動詞でつながっていることがわかる。「似る」ことによって「つづく」になる。「つづく」は「つながる」であり、「つながる」は「ひとつになる」でもある。
 「ぼく」のなかにある「ほんとうのぼく(あなた)」は、父とつながり、父を超えてさらにその父(祖父)という感じでつながり「永劫」につながる。人間がむかしから感じていた「あこがれ」、何かにあこがれる(動詞)ということに、つながる。
 「永劫」といっても、それは遠くにある何かではなく「いま」が「永劫」になるのだ。自分を超えて、何かにつながると感じる瞬間、そこに「永劫」がある。「あこがれる」という「動詞」が、「いま」を「永遠」にする。
 この「あこがれる」は「あなたの想う」の「想う」という動詞でもある。「想う」のなかに「いま」と「永遠」が「ひとつ」になる。
 「ぼく」のなかの「ほんとうのぼく」を「あなた」と呼んだ瞬間(いま)、あるいはその「あなた」を「一つの島」という比喩にした瞬間(いま)、島が霧に隠れる、だれかが叫びをあげると感じた瞬間(いま)、「肉体」のなかで動いた「いま」こそが「永劫(永遠)」なのだ。
 こういうことは「論理的」には説明できない。「比喩」の錯乱(混乱)のなかで、ぱっと爆発して消えていくものである。そして、それが詩なのだ。

45 美少年

 「大淀川河口」の注釈。

きゆうにぼくが起きあがると
つづいて傍らのひとりも立ちあがつた

 この「傍らのひとり」は「比喩」。「ぼく」の「比喩」としての姿だろう。「美少年」になって、大淀川河口を歩いている。ナルシズムかもしれないが、ナルシズムは青春の特権である。
 その「特権」をとおって、感覚はいきいきと動く。そして「風景」に出会い、美しいことばに結晶する。

奥の繁みに射しこんでいた川明かりがみるみる消えはじめる

 「奥の繁みに射しこんでいた川明かり」にびっくりする。視力が強く、透明である。「奥」にある「明かり(光)」を一瞬の内にとらえる強い目を嵯峨はもっている。

汐くさい獣のように満潮の入江が膨らんでいる

 満潮で河口が膨れる。その変化をとらえる視力が鋭敏だ。そして、それを「獣のように」と感じる野性的な感覚。そこには野性に対する共感のようなものがある。嵯峨のことばは繊細な印象を与えるものが多いが、肉感的なものにも触れていることがわかる。その「肉感」の奥に、「くさい」(嗅覚)がうごめいている。
 視覚で風景を描写しているのだが、その奥から嗅覚が視覚を刺戟している。視覚のなかに嗅覚が融合している。

詩集 土地の名~人間の名
嵯峨 信之
詩学社
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2015-02-25 01:17:26 | 


「橋を眺めた」ということばがあった。「別の橋から」ということばのあいだで、「両腕」ということばは、さびしそうに風にちぎれていた。
「さまたげるものは何もない」というのは「美しい」ことか、「残酷」なことか、あるいは「さびしい」ことか、ことばは考えあぐねていた。

その二行は、「あの橋はなかった」、あるいは「あの橋は見つからなかった」という、葉書に書かれたことばとは遠いところにある。
そして「雪が積もっているせいだろうか、違っているのに、逆に似たところがあるように思えた」ということばの近くにある。

それは「水の流れ」を描写した青い文字の余白をぐるりとまわりながら、宛て名が書かれた表にかけて書かれていたことばだ。
「私は間違っていない」ということばが間違っていることはわかるが、認めることはできないと主張しているように見えた。

そうであるなら、「橋が間違えたのだ」。
「風を映して流れる川」ということばは、川は似ていないが「水は同じ海へつづいている」ということばになりたがった。

*

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高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』

2015-02-24 12:21:32 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(思潮社、2015年01月15日発行)

 高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』は現代詩文庫シリーズの一冊。高橋「続続」からわかるように三冊目の選集である。おもしろいのは、それまでの選集が「詩集」の形を基本にしていたのに、今回の選集は「詩集」を解体し「目、生、旅、讃、悼、倣」の6章に編みなおしたものであることだ。「詩集」とはちがった形で読み直してほしいという「意思」があるのだろう。同時に現代詩文庫シリーズの『高橋睦郎詩集』(1969年03月15日初版)『続・高橋睦郎詩集』(1995年12月25日初版)も再版されているのも、その高橋の思いを反映している。
 詩を読むことは常にその瞬間の「事件」であり、どの作品がどの詩集に掲載されていたかは私にとっては関係がない。--とは言うものの、うーん、なんだかテストされているような感じでもある。いま、この一篇をどう読むか。それを問われているような気持ちになる。
 しかし、気にすまい。忘れよう。ただ書いてあることばを読み、それを私はどう読むか、それだけを書こう。

 最初の作品は「目」という章の「目の国で」

そこ 目の国と呼ばれる地では
人人は私たちが見るようには見ない
彼等の目の中には 手があって
指頭で 遠い木や近い岩にさわる
ときには 五つの指を開いた手を伸ばして
太陽を負うた鷲の飛翔をがっしと掴みとる

 ここには私の知らないことばはない。しかし、ここに書かれている「国」が実際にあるかどうか知らない。「ない」と思っている。これは高橋がことばを組み合わせて作り上げた「空想」のようなものだと考える。
 言いかえると、まず「もの」があって、それに対応して「ことば」があるという世界ではない。「もの=ことば」の世界ではない。実際に「ある(存在する)」国のことを高橋が描写しているわけではない。まず「ことば」があって、その「ことば」にあわせて「もの/私が知っているもの」を結びつけ、私は「世界」を想像する。「ことば=もの」の世界である。「ことば」によって存在しない国を「ある」にしてしまう。
 「もの=ことば」と「ことば=もの」と、どこが違うのか、等記号で書き直してしまうとわからなくなる。等記号で結びつけられたものは入れ換えても同じであるというのが等記号の「意味」だからである。
 だから(と、私は、うまく言えないから/自分でもよくわかっていないから、私は論理を飛躍させるのだが)、「もの=ことば」は「ことば=もの」でもないということを意識しながら読まないといけない。高橋はここでは「ない」ものを、ことばによって「ある」にしようとしている。いや、これでは正確ではない。高橋はことばを書くことで「ある」をそくりだしている。そのとき「ない」は存在しなくなるという言うべきなのかもしれない。
 どういうことか。最初の「そこ」というあいまいなことばから読み直さないといけない。
 「そこ」とは何か。「そこ」ということばは日常では、まず何かを指し示す。「机がある。そこに本がある」という場合、「そこ」は机(の上)である。高橋は、「そこ」に先行して何も書いていない。「そこ」は「ここ」ではない、「あこ」でもない、ということになる。「どこ」か。たぶん、「どこ」でもない。つまり「場」ではない。日常のことばでいう「場」をあらわしてはいない。
 何をあわらわしているか。「指し示す」という運動(行為)をあらわしている。高橋は何かを指し示そうとしている。指し示すために「ことば」を動かしている。「もの」があるのではなく「指し示す」という運動がある。高橋は「もの(存在)」ではなく、「指し示す」を書いてる。「動詞」を書いているのだ。
 「目の国と呼ばれる地では」もおもしろい。「呼ばれる」は、やはり「指し示し」である。「呼ぶ」ことによって、「もの」が何であるかがわかる。「目の国」があって、それが「名前」として流通するのではなく、「目の国」と呼ぶことが、その「地」を「目の国」にする。
 ここでおもしろいのは、冒頭の「そこ」が「ここ」でも「あこ」でも「ない」ということによって初めて成り立っていたように、その「目の国」も否定によって「目の国」になっている点である。「人人は私たちが見るようには見ない」。「目」は日常では「見る」ための「もの/器官」である。けれど、高橋はその日常の「目」を否定した上で、「目の国」と呼ぶ(呼ばれていることを肯定する)。目は「見る」のではなく「さわる」。つまり「手」と同じ働きをする。
 ここからがさらに「動詞(指し示す)」の世界になる。
 「手」は、それでは「比喩」なのか。「比喩」かもしれない。たしかに日常でも目で何かにさわることがある。綿のセーター。ふつうのウールのセーター。カシミアのセーター。その光沢や形の滑らかさを見て、肌触りを感じる。手で触る前に、触ったように感じる。手で、その感触をたしかめ、目の判断は間違っていなかったという具合に思うことがある。だから「目」は「見えない手」で「さわる」ということもできる。「比喩」は、そうやって成り立っている。
 この問題は、もう一度、別な言い方で考え直さないといけないかもしれない。「目」が「手」という「比喩」になるとき、目は「見る」という「動詞」から解放される。「見る」ではなく「たしかめる」という精神的(?)な行為、認識するという「動詞(精神の動き)という領域にまで引き戻される。そして、「たしかめる」「認識する」という動詞をとおって、「手」になっている。「見る」という限定的な「動詞」が、否定され、「見る」というこだわりをなくして、「たしかめる」「認識する」あるいは「知る」という動詞として動きまわる(この動きも限定されたものではない。私は語彙が少ないのでたまたま便宜上「たしかめる」云々と書いているだけである)。そして「手」に生まれ変わる。「比喩」はあるものの「死(否定)」と「再生」の運動である。そして、その運動の奥底には、日常の観念とはちがった別の運動がある。目で「見る」ではなく、目で「たしかめる」というような運動をとおって、「手」で「さわって」たしかめるという具合に動いている。そういう動詞の世界のあり方、世界の動詞的あり方を高橋は指し示している。
 「目の国」と「目」、「手」の関係をそう考えたあとも、高橋のことばを追うのはむずかしい。何度も何度も、いま考えたことを即座に否定して、また新しい「運動」をくぐらなければならない。
 「手」は「私の肉体の一部」である。手は肉体につながっている。そのつながったもので「遠い木」に「さわる」というのは、どういうことか。「ここ」にいては「遠い」はさわれない。日常の定義では、そうなってしまう。「さわる」ためには、手は肉体から自在にならないといけない。肉体の限定を受けていては、遠くはさわれない。そういう限定を否定、拒絶して、高橋は「さわる」という動詞と、その動詞が動いたときにいっしょに動いた感覚を解放する。感覚を自在に動かす。
 「さわる」は「手」と「もの」との直接関係だけをあらわしているのではない。「さわる」は先に書いてしまったが「たしかめる」「知る」「認識する」という「精神的(?)動詞」とどこかで融合している。区別できないものとなっている。この動詞の融合した領域を私は「無(混沌)」と呼んでいるのだが、その「無(混沌)」をとおって動き直すときに、感覚が世界としてあらわれる。鷲(鳥)をつかんだときの、鳥の肉体からつたわってくる人間の肉体にはない躍動が、太陽までを引き込んで動く。
 遠くは「手」では直接さわれない。飛んでいる鷲は直接はつかめない。けれど、想像力でさわることはできる。いままで肉体で体験したきたこと、覚えていることを、動かしながら、さわる。「木」を肉体は覚えている。さわったことがある。鳥にもさわったことがある。だから、その覚えていることをつかって、木にさわる。鷲にさわる。つかむ。想像するとは「肉体を動かすこと」なのである。手が覚えていることが、遠くにさわる。そして、手が覚えていることを確かめる。そして、人間は自分にできないこと、鳥の飛翔さえも、肉体の夢として夢見ることができる。ことばが、それを手助けする。
 高橋のことばは想像力のスピードが速く、つかみにくいことが多いが、わかりやすい動きもきちんと書いて読者を誘い込む。
 たとえば「五つの開いた指を伸ばす」という運動もある。高橋は、ことばのなかで「肉体」を動かしている。そして、その「肉体の動き」があるから、高橋のことばは、ことばだけで動く非現実(想像)の世界なのに、「肉体」を刺戟してくる。そこに書かれていることが「わかる」。ことばを通して肉体が動き、その肉体の動きが指し示すものが「わかる」。何よりも、「指し示している」ということが「わかる」。
続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(23)

2015-02-24 10:10:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
42 帰郷2

 「関の尾の滝」の注釈。

青い林檎のように燃える一つの星が
すぐそこの低い空に大きく重く垂れさがる
ぼくはかがんで湧き水を飲んだ
つめたく濡れた草地に立つていると

 透明な空気を感じさせる描写ではじまる。あまりに透明なので空との距離がわからない。星との距離もわからない。「青い林檎」は若さ、青春の象徴である。
 その透明さは三行目の「湧き水」につながる。
 湧き水は透明でつめたい。その「つめたい」が4行目で「つめたく濡れた草地」につながる。夜露で濡れている。「湧き水」が、ここでは草をびっしりと覆うこまかい水滴になっているのだが、それは地上の青い星のようにも感じられる。
 各行のことばは、前のことばを引き継ぎながら、全体をひろげていく。呼びかけあい、往復しながら、少しずつ世界をひろげていく。
 五行目から、その世界のひろがり方が微妙に変化する。

滝の音が暗がりの向うでしている
葡萄ばたけのほのぬくい匂いが漂う

 「滝」は「湧き水」を引き継いでいる。「湧き水」が「立つ」と滝になる。「滝」は草地に足元を濡らして立つ「ぼく」でもある。
 そういう意味では世界はつながっているし、より緊密に、立体的になっている。その変化と感覚のありようの変化が重なる。
 四行目までは目で見ることのできる世界。視覚が動いて「透明」を感じ取り、「透明」を集めている。しかし、五行目では「音」、つまり聴覚が動いている。目は「暗がり」にさえぎられて見えない。この視覚の休止から聴覚への感覚の移動が、さらに嗅覚を呼び覚まし、葡萄畑の「匂い」をとらえる。
 世界が「足元」から「故郷全体」へひろがり、それが「視覚、聴覚、嗅覚」のひろげがりと重なる。読み返してみると、「濡れる」ということばには「触覚」があり、「葡萄」には「味覚」があることもわかる。「五感」のすべてを動員して、嵯峨は「故郷」を描写していることになる。
 この描写のあとの、最後の二行。

いまぼくのなかを通りすぎるものが
かつてぼくを故郷から遠くつれさつたのだ

 前半の六行は「いま」の故郷である。しかし、それはかつての「故郷」の姿そのままである。嵯峨は「いまの故郷」のなかにいて、「過去の故郷」を反芻している。そのとき、「過去」が嵯峨のなかを「通りすぎる」。それは「時間」というよりも、「五感」そのものが通りすぎる。いや、よみがえる。
 若い時代の(これを書いたときも若かっただろうけれど)新鮮で、敏感な感覚が肉体をなかに復活してくる。
 その「鮮烈な感覚」、世界を新しく美しく透明なものとしてとらえてしまう「五感」が嵯峨を故郷から引き離した。故郷から、遠くへ「つれさつた」。「故郷」の外には、故郷にはないもっと新鮮で美しいものがあると予感する「五感」が嵯峨を突き動かしたのだ。
 その衝動の原点を、嵯峨は帰郷して、実感している。五感の再生、五感の覚醒として。

43 大淀川

ぼくの中に
ぼくの中にどこまでも長く突き出ている堤防
朝焼けの大淀川

 書き出しで「ぼくの中に」が繰り返される。大淀川の堤防は、現実の風景であると同時に、「心象風景」になってしまっている。「ぼくの中に」がくり返されるのは、強調である。
 四行目で

そのすべてを静かに消そう

 と書かれるが、「心象風景」は消せない。消そうとしても、必ず思い出してしまう。肉体は故郷を離れるとなかなか帰郷できないが、こころはいつでも「心象風景」へ帰郷できる。
 この拮抗、あるいは矛盾のなかで、ことばは詩になる。
嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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午後四時、

2015-02-24 00:50:42 | 
午後四時、

「午後四時」ということばがそこにあったのは、午後四時ではなく、それよりも前のことであった。ことばはいつでも予感となってあらわれてしまう。「ため息をつく必要がある」ということばは、きのうからテーブルの上に影を落としていた。
「午後四時」ということばの隣には「コップ」ということばがあり、そのなかで「ぬるくなった水」ということばが、ゆっくりと光を反射させている。反抗するように、「生の倦怠」ということばが、水の入ったコップに差し込まれた鉛筆のように「屈折」ということばを引き寄せている。

午後四時。「言おうとしていたことばを先に言われてしまうと、怒り出す癖がある」ということばが階段を上っている。


*

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崔龍源「虹色ペンギン」

2015-02-23 10:59:08 | 詩(雑誌・同人誌)
崔龍源「虹色ペンギン」(「サラン橋」2015年冬号、2015年01月31日発行)

 崔龍源「虹色ペンギン」は、ちょっととまどう。何かわけのわからない強烈な音が聞こえる。

空を翔けている
虹色ペンギンが 母の日に
買ってきた白いカーネーション
母は施設に入って 深夜
おかあさん おかあさーんと呼んでは 廊下を
徘徊しているという たぶん七歳にかえった母は
夢を見たのだろう 祖母に捨てられた夢を

 これは1連目だが、意味として、わかることころとわからないところがある。「わかる」のは、母は介護施設にいる。認知症である、ということ。「わからない」のは「虹色ペンギン」。これ、何? 崔の詩には何度か出てくることばなのだろうか。崔の詩を読み慣れているひとにはわかることばなのだろうか。私は崔の詩をあまり読んだことがないので、わからない。「ぼく(崔)」のことなのだろうか。また「白いカーネーション」もわからない。母の日のカーネーション。ふつうは赤を贈る。母が亡くなったひとは白いカーネーションを捧げる--と私は記憶しているが……。
 2連目で、崔は1連目を書き直しているように感じた。

虹色ペンギンは どこへ
飛び去ったのだろう 幻視者となった
ぼくは 母をひとり施設に入れているうしろめたさに
耐えられないまま 白いカーネーションを
運んでゆく 空はあくまでも青く
空のひとひらが 雪のように降りてきて
もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た

 「虹色ペンギン」は「ぼく」が「幻視」した鳥。いや、それが見えなくなったので、「ぼく」は「ぼくが幻視者ある(あった)」と気づいたということか。幻を見ていて、現実を見ていなかった。「現実」に戻れば介護を必要とする母がいて、その母を介護するのではなく、施設に入れている「ぼく」がいる。うしろめたく感じる「ぼく」がいる。
 では、「うしろめたさ」が「現実」なのか。それに「耐えられない」とき、現実はどうなるのか。
 「空のひとひらが 雪のように降りてきて/もうすぐ咲くあじさいの花びらになるのを見た」というのは、「見た」と「現実」のように書かれているが、「現実」ではない。あじさいはまだ咲いていない。咲いていないから、空が「雪のように降りてきて」あじさいの花びらになるということが可能なのである。
 この「比喩」は美しいが、奇妙でもある。奇妙というのは、カーネーションとまだ咲かないあじさいは「時間」として同時期に存在するのが、雪はその季節にはあわない。とてもかけ離れている。比喩はかけ離れたものをつかうと新鮮だが、かけ離れすぎると、どきまぎしてしまう。
 ことばというのは、自分ひとりでは動かせない。ことばにはそれを動かしてきた先人の意識がしみついていて、ことばを動かすとき、それが無意識に反映してくる。その無意識のつながり(文化)を、崔のことばはどこかで断ち切っている。断ち切って比喩を動かしている。どこで断ち切っているのかわからないが、そういう断絶を感じてしまう。

ああ母のいる施設にゆくよりは
虹色ペンギンを どこまでも追いかけてゆこうか
きっと母の生まれ故郷の海岸へ
翔け去ってゆくのだろうから
内部のない人間になったような気がするのだ
母の面倒を看て倒れるにしても
そちらを選ぶべきではなかったか と

 この部分を読むと「虹色ペンギン」は母のようにも見える。認知症の母こそ「幻視者」であり、もうこの世にいない祖母を見ている。母を施設に入れるのではなく、母の故郷へ母といっしょに帰り、そこで母を看護すべきなのではないのか。そう思っているのか。
 あるいは、現実には母の故郷へ帰り、母を介護するということはできないのに、そう思っている(幻を思い描いている)から、やっぱり「ぼく」が「虹色ペンギン」なのか。
 よくわからないのだが、その思いのなかに突然わりこんでくる

内部のない人間になったような気がするのだ

 が強烈である。
 「内部がない」を、私は「崔自身の内部、こころ(精神)がない」というよりは、
「外部」との無意識の連絡が断絶した状態と感じた。
 先に、ことばは無意識に先人のことばの動かし方を引き継ぐ、影響を受けるというような意味のことを書いたが、そういう無意識のようなものを受け継げない状態になっている、と感じた。
 先人がととのえたことばの動き、ことばによって暮らしをととのえなおすという生き方が、何か、うまく機能しない。認知症の母を目の前にして、どう自分の暮らしをことばのようにととのえることができるか。それがわからない--そう叫んでいるように聞こえた。

だが何を変えられるのいうのだろう
絶望よりは希望を
死者よりは生者を恋うたにしても
何を贖い 償えるというのだろう
ぼくの日常は どこかぽっかりと深い穴があいたまま
その穴を見入ることを避けて過ぎてゆく
今が狂うべき時だとしたら 狂うべきではないか

 このことばはだれにも向かっていない。崔自身にしか向かっていない。それが強烈だ。自分自身に語りかけるとき、ひとはどんなふうに声を出すだろうか。しずかに、ひっそりか。ぼそぼそと、自分だけに聞こえる感じか。
 崔は違う。大声だ。自分にしか語らない。ほかのひとには聞こえない声なのだから、どこまでも大声を出す。大声のなかに入っていく感じだ。声そのものになって、それ以外を忘れてしまう。叫びそのものになってしまいたい。意味ではなく、叫ぶという「動詞」になってしまいたいのかもしれない。
 ことばが先人のことばの動きを引き継ぐというのなら、そのことばの「意味」ではなく、ことばを発するときの「肉体」を引き継ぐというあり方もあるはずだ。語り方を引き継ぐという「形式」があってもいいはずだ。
 崔は、ことばの意味ではなく、ことばを「叫ぶ」という「動詞」を引き継いで、ことばを書いている。「叫び」は、「意味」よりも叫んでいるという肉体を表現するためのものである。だから「意味」はどうでもいい(と言うと言い過ぎかもしれないが)。「虹色ペンギン」が何かわからなくてもいい。わからないことを叫ぶしかない状況に崔がいるということが伝わればいい。
 崔はこんな「声」をしているということが伝わればいい。私はたしかに崔の「声」を聞いた。意味は私にはわからないところがあるが、「声」の強さ、「強い声」を出すことができる「ことばの肉体」を感じた。
 昔、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聞いてびっくりしたときのような感じだ。失恋の歌のなのに大声で歌う。意味(情感)をていねいに伝えるという歌謡曲の常識を打ち破って、声の強さでびっくりさせて聴衆の耳を引っぱる。声に耳をひっぱりこむ輝かしい歌唱力。
 そういうものが崔のことばのなかにある。「虹色ペンギン」ということば(音)は、そういうものを凝縮させているように思えた。この詩は大声で叫びとして朗読すると、きっとおもしろいと感じた。

遊行―詩集
崔 竜源
書肆青樹社

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