不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(230 )

2011-09-09 10:14:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばと音楽について考えるとき、次の部分はとてもおもしろい。

さてさて農夫の仕事はつらいものだ
夏など洗濯する衣が沢山ある
雲の上からは声がきこえなくなつた
柿の木の下で長い夜をひとりでねむるとは
ヤマノベの細道からフジをみるとは
おく山で鹿の鳴くのをきくとかなしくなる

 これは「百人一首」である。
 「さてさて農夫の仕事はつらいものだ」は「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」、「夏など洗濯する衣が沢山ある」は「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」。
 少し前に「結局買ったのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばがあるが、これはほんとうのことだったのかしらねえ。(笑い)その註釈本をぱらぱらめくりながら、「現代語」で書き流している。50行くらいつづく。なかには「君に差上げようと野原に出て/若菜をつんでいると淡雪が降つて来て/私のそでにふりかかつた」というていねいな(?)「現代語訳」もあるが、たいていは一部を叩き切るようにしてほうりだしてある。
 私は、そのなかでも「夏など洗濯する衣が沢山ある」がとてもおもしろいと思う。持統天皇の歌は、とても絵画的である。白くはためく衣が印象的である。初夏の透明な光がみえる。「衣ほすてふ」の「てふ」から、蝶々のひらめきも見えてくる。そういう「視覚」の世界が消えて、かわりに「洗濯」「沢山」という「音」のおかしさが楽しい。
 「沢山」はたぶん、前の行の「農夫の仕事はつらい」の「つらい」がひっぱりだしたことばで、「沢山」という「音」が「衣」を「洗濯」という音を引っぱりだしたのだろう。 こういう操作は西脇の本能のようなものかもしれない。
 西脇は、日本語(日本人)が知らずに身につけてきたことばをリズム、音のつながりを、断ち切って「音楽」をつくろうとしているように感じる。
 「万葉」から「古今」にかわったとき(?)、日本語の「音」のひびきは劇的に変わった、口語が文語に変わったという印象が私にはあるのだけれど、その文語をもう一度口語にひっくりかえすような変化を西脇のことばに感じる。
 こういうことは、まあ、印象に過ぎないので、うまく説明できない。
 でも、私の「西脇論」は印象、ここが好き、ここが嫌いということを書いているだけなので、説明できないくてもいいのだと思っている。

柿の木の下で長い夜をひとりでねむるとは
ヤマノベの細道からフジをみるとは

 この2行というか、2首の口語訳というか……。笑いだしてしまうなあ。
 「柿の木の下」って、百人一首に柿の木が出てくる? 思い出せない。「洗濯(もの)」が「衣」なら「柿の木」は何を「現代語」にしたもの?
 あ、そうじゃないんですねえ。
 柿本人麻呂。あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む。
 「ヤマノベの細道からフジをみるとは」も似たような感じの「訳」である。
 山部赤人。田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪は降りつつ。
 フジは「藤」。「柿の木」を引き継いでいる。「富士(山)」でもいいのだろうけれど、「ヤマフジ」を思うと、山の中をさまよう感じがして、次の、

おく山で鹿の鳴くのをきくとかなしくなる

 が自然に感じられる。
 西脇は、ただ百人一首を「現代語訳」しているのではなく、百人一首をつないで長い長い1篇の詩にしようとしている。
 そのとき、たとえば「柿の木」から「フジ」への変化(移行?)が何によるものか--「肉体」のどの部分が反応してそういうことばが出てくるかを考えたとき、私には「視覚」ではなく「聴覚」が反応しているように思えるのである。
 私が読んでいるように「藤」ではなく「富士(山)」なら「視覚」だろうけれど、「藤」なら「聴覚」と思うのである。「柿本柿本人麻呂」→「山部赤人」→「富士」までは「肉体」は動かない。「富士」が「フジ」という「音」を媒介にして「藤」にかわるとき、そこに「耳」の「誤読」が入ってくる。
 どの「肉体」の器官をつかって「誤読」するか--その「誤読」の器官が、その詩人の本質(本能)のようなものだと、私は思っている。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(229 )

2011-09-06 09:59:37 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばは「哲学」を語るときも、とても軽い。

なんと言つても生物は生物だ
でも生物としての宿命もあるが
生物であるということは
センザイ一隅の瞬間的な存在である
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと
なにか神秘的な意識に襲われる
スモモをかじつてソバをたべているときも

 生物、つまりいのちのあるものは「宇宙(鉱物の永久的運動?)」からすると「瞬間的」なものである、というのだが「センザイ一隅」ということばがここに結びつけられるとき、一種の「文体の脱臼」のようなものを感じる。えっ、そういうとき、そう言うの? 違うんじゃない? 「千載一遇」というのは、もっと違うときにつかうんじゃない? 「センザイ一隅」とカタカナと漢字を組み合わせた表記にも驚かされる。
 驚き--これが、西脇のことばを軽くする。ことばの「重力」から解放される。「意味」の重力から解放される。
 そうした純粋な(?)意味的驚きとは別に、西脇のことばにはもうひとつ特徴がある。
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと

 改行の仕方が独特である。「太陽系では他にない」と言えばふつうの表現である。(「意味」を読むときは、西脇の改行をねじ伏せる形で「他にない」とつづけて読んでしまうのだが……。)
 そのふつうの「文体」を解体して、「ない」を独立させる。
 さらに「ない存在である」と、えっ、これって矛盾していない。「ない存在」が「ある」--って、ないの? あるの? いや、それは「ない」ということが「ある」ということなんですよ。えっ、「ない」が「ある」って、変じゃない? 「ない」なら「ない」だけでいいんじゃない? なぜ、「ない」が「ある」と言わないといけない?
 そんなふうに、論理的に考えると、論理的にならないんだよ。ことばをぱっと瞬間的につかんで、ぱっと消えていくものをつかんでしまえよ。

 まあ、いいのだけれど。

 と、いうような具合に、ことばが右往左往する。それは「重く」なってもかまわない、というより、重くならざるを得ないことばの運動なのだけれど、西脇の場合は、なぜか、とても軽い。
 「他にない存在である」という散文の形式ではなく、「他に/ない存在である」という改行の「呼吸(息継ぎ)」が、「頭」ではなく「肉体」を揺さぶって、「頭」で考えることなんか、適当なことだと思わせてくれる。
 この「呼吸(息継ぎ)」は「意味」から言うと「乱れ」だが、「肉体」からみると新しいリズムの刺激である。みだれを利用して新しいリズムのなかで、ことばが「意味」から自由になるのである。「意味」が「音」になって、飛び散るのである。
 そして、「スモモをかじつてソバをたべているときも」という、とても「俗(身近な)」で具体的なことばが、「頭」を完全に吹き飛ばし、人間を一個の「肉体」にしてしまう。
 こういうとき、まさに「天体」(宇宙)が「人間」と対峙する形であらわれる。そして、そこに「さびしい」があらわれる。
 「人間存在(生物)」について考えることと、スモモをかじること、ソバをたべることは、同じことなのである--というと「哲学」(思考すること)が軽くなるでしょ? そこに、とてもおもしろみがある。


西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(228 )

2011-09-05 12:42:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。

鉄砲うちがヤマドリを売りに来た
店先きには褐色のウサギや
眼から血を出したイノシシが
ぶらさがつている南天もニンニャクと
いつしよにたらいの中にかすんでいる
来年は幸いイノシシの年だから
ヒエイ山のふもとに住むサクライの
タダヒトにタノンデイノシシの
ひもろぎを送つてもらうか
トラ年でもトラの肉はたべられない
自転車のブレーキのにおいがする
ベドウズの自殺論を読んだのか
投身した男の橋を渡つてミヤマス坂を
いそいでのぼつてみる--
あの古本屋のを精細にのぞいてみた
結局買つたのは中学生の使つた百人一首の
註釈本とバークレイの「視覚の新原理その他」と
「スカンポと息子」という日本語の表題が
ついている英国の本

 いろいろなものが同居している。「ヤマドリ」「ウサギ」「イノシシ」は、山の風景を思い起こさせる。「褐色」「眼から血を出した」という荒々しい感じが風景をさっぱりした感じにさせる。「血を流した」だと、たぶん、「さっぱり」とは感じない。「眼から……流した」が涙を思い起こさせるからだ。「流した」ということばの抱え込んでいる「文体」が「涙」を呼び出してしまう。何気なく書かれているようだが、西脇は、そういうセンチメンタルな「文体」を破壊し、ことばを動かしている。センチメンタルな「文体」を破壊しているところから清潔さが生まれ、また新鮮な音楽が生まれる。センチメンタルが拒絶された「場」だから、南天、コンニャクとイノシシ、ウサギ、ヤマドリが同居できるのだ。この同居を西脇は「いつしよ」という簡単なことばであらわしている。この素朴さが美しい。
 この「いつしよ」に「ヒエイ」や「サクライのタダヒト」という固有名詞もひきこまれていく。人間も動物も植物も区別がなくなる。そういう世界ができあがる。
 で、そういう世界には、それでは何がある?
 音がある、ことばが音としてただそこにある--というのが私の感じなのだが、そのことばがただ音としてある状態が詩なのだ、と言ったとき、誰かの共感を得られるかどうか私にはわからないが、こういう瞬間に、私は詩をたしかに感じるのである。
 西脇のように、ことばが「意味」によごれていない状態でことばをつかってみたいと思うのである。

 途中「トラ年でもトラの肉はたべられない」という冗談(だじゃれ?)のようなことばがあって、その次、

自転車のブレーキのにおいがする

 うーん、びっくりする。はっとする。
 自転車のブレーキのにおい、自転車にブレーキをかけたときゴムと鉄(金属)がこすれあって、焦げるような瞬間的なにおいがある--というのはたしかだが、そんなことを私は忘れていた。忘れていたことが、何の脈絡もなく(あるのかな?)、突然、ことばとなってあらわれる。そのことに驚く。
 それだけではない。
 前の行の「たべられない」ということばのなかの「たべる」という動詞と「におい」が刺激し合うのだ。
 「たべる」ということばがあるために、ヤマドリにはじまりウサギ、イノシシ、コンニャクと食べ物が刺激する肉体の「感覚」に「におい」が飛び込んでくる。ブレーキは食べられるものではないが、そうか、食べるときは「におい」を食べることでもあるのだと急に思い出すのである。もしかすると、イノシシにはブレーキの匂いがするかもしれない。あるいはトラにブレーキの匂いがするのかもしれない。--そんなことはないかもしれないが、「におい」ということばが、それまで眠っていた「感覚」を一気にたたき起こす。そのとき「食べる」という肉体の動きが同時に新しく目覚める。
 「たべる-においがする」が、肉体そのものを、肉体の中から新しく甦らせる感じがする。
 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は、なぜ、ここにあるのかわからないが、わからないけれど、その1行に目が覚めるのである。

 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は「無意味」かもしれない。けれど、その「無意味」がいいのだ。「無意味」に出会ったとき、「肉体」が目覚める。たよるものは「肉体」しかない。その、驚き。

 「結局買つたのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばにも驚く。なんとも美しい。「自転車のブレーキ」のように、素朴な「肉体」を感じる。人間の「肉体」のなかにある素朴なものが刺激される感じがする。「肉体」のなかの「時間」を思い出すのである。
 西脇にとって中学生の使った註釈本など、意味がないだろう。そんなものを読む必要はないだろう。必要はない、ということろに、大切なものがある。「百人一首の/註釈本」ではなく「中学生の使つた」ということばのなかにある音楽と時間がおもしろいのである。
 「スカンポと息子」というタイトルの本がほんとうにあるかどうかわからないが、このことばもいいなあ。「スカンポ」という音がいい。野生の美しさがある。野生の「さびしさ」がある。

 振り返れば(?)、自転車のブレーキのにおいも、野生のさびしさだなあ。説明はできないのだが……。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(226 )

2011-07-04 11:57:01 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばは自在に動く。

やはりこの辺にパオという青年がいた
早くからエリオットを読んでいたが
いまはヒヨシの崖の上で
菊をつくつている
それは教会の祭壇を飾るのでなく
トーエンメイを憶うからであろう
そうでない彼はトーエンメイは
知らないと思うもしちがつていたら
ごめんなさいきみは正しい生物であるからだ
人間の思考はいつも
どこか遠い海から送られてくる
何か悲しい音調にひたされている
それは天体的宿命の音楽である

 「トーエンメイ」からつづく4行は、改行と句読点の関係が「ずれ」ている。句読点は行のなかにあり、そしてそれは書かれないまま、次にくることばと密着している。切断があるべきところに切断がない。そして、それが

ごめんなさいきみは正しい生物であるからだ

 という形に展開する。
 この「君」ってだれ? パオという青年?
 さらに、

人間の思考はいつも

 と飛躍する。
 句読点の乱れは、飛躍のための準備なのだ。乱調によって、ことばのあいだに不思議な「破れ目」ができ、そこからことばが噴出する。この、「破れ目」から噴出することばを西脇は「音楽」と呼んでいるように思う。

 君(パオという青年)は正しい植物である--ということばの意味を明確につかむためには、詩をさかのぼらなければならないのだが省略する。
 「意味」よりも、エリオットからトーエンメイ(陶淵明)への寄り道がおもしろい。そして、その寄り道には、パオ青年は関係がない。ただ西脇が寄り道をしただけなのだ。その寄り道の理由を、「遠い海から送られてくる/何か悲しい音調」のせいにしている。
 聞こえてしまうのである。陶淵明ではなく、「トーエンメイ」という「音」が。西脇はその音を思わず書き留め、それからその音に合わせて「和音」をつくっている。メロディー(音の揺れ)をつくっている。それが「トーエンメイ」からつづく句読点のみだれた(?)音の動きである。




西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(225 )

2011-07-01 22:37:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。
 西脇の詩には、高尚なこと(?)と俗なことが並列して出てくる。そこが私は好きだ。高尚なことばは窮屈である。その窮屈さを俗が破ってくれる。
 モナカ屋のおばあさんに、「人間は宇宙人だ」と言わせたあとの、つぎの部分。

三軒茶屋でつかれはて
ミョーガをにた汁をかけ
ウドンをたべるころは
桃色の夕暮が
野原のまん中におりていた

 実際に西脇がうどんの薬味にミョウガをつかったのかどうかわからないが、この「肉体」の感覚が私はとても気に入っている。
 私はミョウガが大好きである。
 そういうどうでもいいことが、ある詩を好きにさせるということもある。
 この部分の前には、「ソバの白い花」や「コホロギ」も出てくるのだが、私はこの「ミョーガ」だけで夏を感じるのだ。西脇の詩は「季節」を描いているわけではないが、この瞬間に「季節」がくっきりみえる。そうして私自身の「肉体」が目覚める。うどんをにミョーガのにた汁をかけるのだから、夏は夏でも、涼しくなりかけた晩夏--という感じがぱっと体のなかを洗っていく。
 そうすると、めんどうくさい「哲学」のことばは、まあ、いいか、別なときに考ええようという気持ちになる。
 「哲学」からの離脱が楽しいのである。

 そして、「肉体」がリフレッシュするから、「桃色の夕暮」が美しくなる。「精神」で見ているのではなく「肉眼」そのもので世界と出会っている感じがする。




西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(224 )

2011-06-12 09:18:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。

生存競争は自然の法則で
この生物のたたりは
ある朝ヒルガオの咲く時刻に
十字架につけられなければならない

 書き出しの4行。2行目の「たたり」がおもしろい。「法則」は科学的なことばだが「たたり」は宗教的というか、人間的なことばだ。ふたつのことばが出会うと、そこに違いと同時に何らかの共通性が浮かび上がってくる。この問題をことばをつくして書いていけば「哲学」になるかもしれない。西脇はそういう領域へは足を踏み込まない。実際はいろいろ考察しているかもしれないが、ことばのうえではさらりと駆け抜ける。この軽さがとても美しい。人は--まあ、私がそのいちばんの例かもしれないが、自分が気づいたとも思うことは延々と書きたがる。西脇は考えたいやつは考えればいい、という感じで「ヒント」だけ書くと、さっさと先へ進んでしまう。そこに軽さがある。
 それにしても、この「たたり」はいいなあ。「音」に深みがある。「法則」よりも「肉体」に迫ってくる。「法則」が「頭」に響いてくるのに対し、「たたり」は「肉体」に響いてくる。「法則」が「高尚/聖/純」に対し「たたり」は「低/俗/濁」である。まあ、こんな「分類」は、ようするに「流通言語」の問題にすぎないが……。

太陽は自然現象の一部に
すぎないがいまのところその領域で
人間の存在をたすけている
そういうことは昔セタで
アワモチとショウチュウを飲もうとする
瞬間に微風のようにうららかに
背中をかすつて行つた

 前半の「哲学的(?)」なことばの動きと後半の俗な感じのぶつかりあいが気持ちがいい。「高尚」なのものは窮屈である。「頭」に働きかけてくるからである。この窮屈を西脇は「俗」で叩きこわし、解放する。
 私の読み落としか--私が、無意識的にそうしているのかもしれないが、この逆はない。「俗」を「聖」がたたきこわすという楽しみ(?)は西脇のことばの運動にはない。必ず「聖」を「俗」がたたきこわし、窮屈なことばの運動をたのしい「音楽」に変えてしまう。

 「俗」を「聖」たたきこわす--は、「俗」を「聖」に高める、というのが一般的な言い方かもしれない。--もし、そうだとすると、私が「聖」を「俗」がたたきこわすと書いたことは、ほんとうは「聖」を「俗」に高めると言っていいかもしれない。
 実際、西脇の書いている「俗」は、私の知らない「俗」である。「俗」ととりええず私は書いているのだが、それは書かれた瞬間から「美」、それも「新しい美」になっている。「俗」が「美」に高められている。--この「高める」ということばを西脇が好むかどうかはわからないが、「俗」と思われていたものが、「俗」の範疇から超越して、新しい力を獲得しているのを感じる。
 誰も気がつかなかったその「新しさ」--そこに、西脇の詩がある。

 「セタ」というのは日本の地名である。瀬田か勢多か、もっとほかの文字か、私は東京(たぶん)の地名には詳しくないのでわからないが、西脇の住んでいた地名だろう。それをカタカナで書くことで、いったん「俗(現実、形而下)」から切り離して、ことばを軽くする。そのあと「アワモチとショウチュウを飲もうとする」という突然の飛躍がある。「俗」そのものの噴出がある。
 しかし、それよりもおもしろいのは、

瞬間に微風のようにうららかに

 この行の「うららか」だ。それは冒頭の「たたり」と同じように、「肉体」につよく働きかけてくる。「音」そのものがひとつの世界を持っている。
 その「うららか」の「か」の音の響きを引き継いで、せな「か」を「か」すつていつた、と音が動いていく。
 「太陽は……」のことばは、いわば「哲学」。つまりそれは「頭」のことば。もしそのことばが「肉体」をかすっていくとしたら、それは「頭」をかすっていくはずである。実際、「頭をかすめた」という表現があるくらいだ。ところが、「あたま」では「うららか」の「か」がない。だから、西脇は「あたま」ではなく「せなか」を選んでいるのだが、この「頭」から「背中」への移行が、不思議だねえ。「頭をかすつて行つた」だったらがっかりするくらいつまらないのに、「背中をかすつて行つた」だと途端にたのしくなる。そうか、「頭」も「背中」も同じ「肉体」なのか、「肉体」であることおいて同じなんだという当たり前のことにふっと気がつき、何かしら安心するのである。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(223 )

2011-06-10 11:18:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。
 西脇の音楽は乱調の音楽、異質なもののぶつかる音楽である。簡単に言うと「精神世界」と「物質世界」の衝突。あるいは西洋と東洋の衝突。聖と俗の衝突。こういう異質なものがぶつかると「文体」が乱れる。混乱する--というのが一般的である。収拾がつかなくなる。けれど、西脇の場合は違う。衝突は衝突として輝く。強い光を放つ。それだけである。乱れない。混乱しない。

記憶の喪失ほど
永遠という名の夏祭りにたべる
ナスのみそ汁とそれから
タデのテンプラとユバと
シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ

 「記憶の喪失」と「永遠」。ふたつのことばが並ぶと、あ、記憶を喪失することは永遠に触れることなのか、と直感的に思う。何かしら、ここには「哲学」がある。「精神世界」の「本質」に触れるものがある。
 そして、そういう「本質」の「場」は「祭り」なのである。「記憶の喪失」「永遠」「祭り」とつながれば、どうしたって「酔っぱらいの祝宴」「バッカスの永遠」というようなことを思い出すし、そこから「祭り」の「哲学」を考えてみたい気持ちに誘われるが……。
 これを、西脇は、さらに「精神的ことば」あるいは「哲学的なことば」で追いかけるというような窮屈なことをしない。「精神」が「精神」を追いかけると世界が閉じてしまって息苦しい。この息苦しさ(息が詰まる、息ができなくなる)が、精神を「死」のむこうの(息が詰まると死ぬでしょ?)、「死」の「愉悦」にまで人間を高めるのかもしれないけれど--そういう錯乱が「哲学」の魅力だよね--西脇は、ことばを閉鎖してそういう世界へ没入するのではなく、そういう動きを叩き壊す。
 「夏祭り」の「夏」の方に重心を移し、そこで「日常」(俗)で「哲学」を叩き壊す。「ナスのみそ汁」。ね、「哲学」とは関係ないでしょ? こういう関係ないものがぶつかった瞬間、そこに「無意味」というもうひとつの「新しい哲学」が誕生するともいえるけれど(この詩のⅠの後半に出てくることばを借りて言えば「本当の哲学は哲学を軽蔑することだ」)、そんなことは考えなくていいのだ。ただ、あ、「ナスのみそ汁」か、と夏の「もの」を思うだけでいいのだ。
 生姜を擦っていれるとおいしいよ、とかね。
 この瞬間、ことばの「リズム」が乱れるね。「精神」のことばを追い掛けるときの「緊張」がぱっと解放される。この差。そこに、私はいつも「音楽」を感じる。斬新すぎて、どう定義していいかわからないが、突然新しい「音」--しかも「音のない音」、「音以前の音」が入りんできた感じに驚き、笑いだしたくなるのだ。
 そして、さらにおもしろいと思うのは、

ナスのみそ汁とそれから

 この1行の「それから」。これ、何? 必要なことば?

ナスのみそ汁と
タデのテンプラとユバと
シイタケ

 この方がすっきりする。すばやくことばが動いていて気持ちがいい。「それから」なんて、変にもったりしている。
 のだけれど。
 この変にもったりしているところが、また、おもしろい。
 西脇はすぐに「タデのテンプラとユバと」ということばが出てきたわけではないのだ。考えているのである。「ナスのみそ汁」と「俗」をぶつけてみたけれど、さて、次はどうしよう。これから「音楽」をどんなふうに動かしていくか……。
 西脇の改行(行をわたることば)も、ある意味では、こうした「思考」の瞬間の揺らぎをそのまま反映している。そして、そこから独特の西脇調のリズムが生まれるのだが。
 悩んでいる。考えている。
 このときの「脳髄のリズム」、その痕跡が、私には楽しい。
 このつまずき(?)があるから、

シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ

 「思わせる」「考える」という「精神のことば」の、乱れたつながりが、乱れたまま説得力(?)をもつのだ。「それから」の「ことばの呼吸」の乱れが、「精神のことば」に引き継がれ、動いていく。
 西脇のことばは、意味ではなく「リズム」(音楽)で動いていくと強く感じるのはこういう瞬間である。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(222 )

2011-06-07 08:32:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。
 西脇の、どこが終わりかわからない長い詩を読んでいると「意味」はどうでもよくなる。あちこちの行に「意味」はあるだろうけれど(くっつけることはできるだろうけれど)、その「意味」のつらなりがどこへたどりつくのか--そういうことはさっぱりわからない。ただ、適当にページをめくってぶつかった行を読めばいいのだろう。

マクさんの夫人はいう
「どうしたしまして、私共のご奉公は
さいのかわらのざようにいくらつみましても
ご恩にくらべてはいくら積んでも
もとの河原になつて
果てしがないのでございます」
だがよくききれない傍白があつた
「ダダダンササンコココンバババンワ
アンタハンノイノチガナナナナククク
ナナナナルヨヨクオイデヤシタ」
市子のことばの足に花が咲く

 カタカナで書かれている部分。「旦那さん、こんばんは/あんたはんのいのちが亡く/なるよ/よくおいでやした」と考えればいいのかもしれない。」そうすると「意味」がりかいできる。「意味」が聞き取れるなら、それを再現する時、日本語のなじみのある「文体」にすればいいだけのことである。
 ことろが、この詩では、「意味」を聞かずに、音を聞き取っている。「聞き取れてい」のは、「意味」なのである。その「意味」を追跡せずに、谷川は「音」そのものを追い掛けている。
 「意味」が通るように書けば「音」がこわれる。「音」を正確にとれば「意味」がなくなる。こわれる。「意味」がこわれたときと、「音」がこわれたとき。どちらが楽しいだろうか。
 むずかしい。
 西脇は、しかし、この「よく聞き取れない」ことばを歓迎している。
「市子の言葉の蘆に花が咲く」とかきそえる。「花」は一種の「比喩」。でたらめな音、意味から解放された音を西脇は「花」と呼んでいるの。

 この「音」は、次のような展開もみせる。

太陽は去つたが
すべての女神の髪の毛の
浅黄色がまだ残つている
カツシカのホンソウする車の中で
記憶の喪失ははるかにみだれ
忘れがちのパナマの
帽子の破滅をいそぐ
うすぼけた思考のつらなりの中で
ヒルガオというラテン語のあの長い
音節がただまわるだけ
沈み深遠の中におぼれた
コンウォウルス!

 「カツシカ」は「葛飾」、「ホンソウ」は「奔走」。漢字で書いた方が「意味」が正確に伝わる。けれど、そのとき「意味」が強すぎて「音」を楽しむ余裕(?)がなくなる。こういうことを嫌って、西脇はカタカナをつかう。「意味」よりも(わかることよりも)音の自在さを楽しむ。
 音楽は西脇のことばの基本なのである。
 「ヒルガオ」のくだりは、もっと象徴的である。「意味」が問題なら、ラテン語などどうでもいい。何語であろうが、「ヒルガオ」は「ヒルガオ」以外の意味にはなれない。「ヒルガオ」という存在はすでに思い出されている。認識されている。ラテン語であろうがにほんごであろうが、その想起されているヒルガオがかわるわけではない。ピンクのアサガオのような花。地面を這う花。その名前である。
 でも「音」は違う。ヒルガオという花の存在は同じでも、それに対応することばが違う。
 そして、この「ことば」は音と同時に「長さ」をもっている。(「ヒルガオというラテン語のあの長い/音節」)--音に長さがあれば、そこから「時間」もうまれてくる。
 この「時間」の感覚。
 それは「女神」が導き出したのか、あるいは時間が女神を導き出したのか、「長さ」というひとことが「いま/ここ」と「古代」の「ギリシャ(?)」を呼び出したのか。
 わからない。どっちでもいいなあ。気分次第でどちらかを答えよう。(詩、なのだか、これくらいのいいかげんさは許されるだろう。)


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(221 )

2011-06-05 15:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。 
 私の書いていることは西脇の詩を理解する上で何の役にも立たない。私の感想には、何ひとつ「文学的事実」というか、「文献的」ことがらに関する考察がない。
 私は、ただ、どこをおもしろいと思って読んだか、ということを小学校の児童が口にするような感じで書きつらねたいのである。口の両端を指で引っ張って「岩波文庫」って言ってみろ、「いわなみうんこ」。あ、いまうんことっていなあ、きったっねえなあ、笑ってよろこぶような類のことを書いているにすぎない。
 なぜ「いわなみうんこ」がおかしいか、というようなことは理屈をいっても始まらない。ただ楽しいだけだ。友達が困った顔をするのが楽しいのか、うんこ、うんこと汚いといわれることばをしゃべることがうれしいのか、そんなことはつきつめてもどうしようもない。そういう「ことば」の遊びをへて、ことばが動いているだけなのである。

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた

 ええっ、石油会社がマクベスの悲劇(シェークスピアの本?)と梅干しの入ったにぎり飯を毎日くれる? そんなこと、あるの?
 ないよなあ。
 だから、詩は、次のようにつづいていくのだ。(詩にはつづきがあるのだ。)

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた
青いフロシキにつつんで
赤い実がなつているリンボクの一本の
樹と花が咲いているザクロの
一本の樹が垣根から頭を出している
アパートの前を通つて
ゾウシガヤへ用事に出かける

 「毎日のように」は「ゾウシガヤへ用事に出かける」へとつながるのである。マクベスとおにぎりは、そのときもっているだけのことである。「石油会社からもらつた」は「フロシキ」を説明しているのである。読み返せば、わかるが、前の方から順番に1行1行「意味」を考えながら読んでいくと、変な書き方としか言いようがない。学校の作文でこんな変な文章を書いたら「整理して書きなさい」と指導されるだろう。
 西脇は、しかし、もちろん「わざと」書いている。
 マクベスとおにぎりを石油会社からもらうというのは変--そのへんという感覚をわざと強調する。何かが強調されると「世界」のバランスがくずれる。「世界」をとらえている枠組みが少しだけど、ずれる。ずれると、その隙間から「何か」が見える。この何かは、説明ができない。
 岩波文庫がいわなみうんこにかわるときに見える何か(感じる何か)とは違うけれど、もしかすると同じものかもしれない。「あれっ」「どうして?」わからないけれど、何かが動く。
 リンボクとザクロの書き方も変である。

赤い実がなつているリンボクの一本の樹と
花が咲いているザクロの一本の樹が
垣根から頭を出している

 という行の展開なら、意味がとおりやすい。西脇は、その「意味の通り」をわざとぎくしゃくさせている。ぎくしゃくすることが、なにかしら、ことばを刺激するのである。
 「意味」はかわらない。
 「意味」と「ことば」の緊密な関係がくすぐられる。関節が外され、脱臼する。脱臼は、痛いが、はたからみると、そのぎくしゃくは変な具合に(変だから)楽しい。笑ってはいけないが、笑ってもかまわない。(詩、なのだから。)
 そして、このぎくしゃくした動きを読み通して思い返す時、あ、それはまるで垣根からはみだしているリンボクやザクロノあり方にも見えるねえ。リンボクやザクロは「形式」をはみだして自由に枝を伸ばし、花を咲かせている。西脇のことばも、その「形式」をはみだした運動をまねしているのである。
 「形式」というのは「枠」である。それを破るのは、まあ、子どもの楽しみである。してはいけない、というわれることをするときほど、子どもにとって胸がときめく瞬間はない。そんなことをしたって何になるわけでもない。ただ、それが「できる」ということが楽しいのである。
 西脇の、この奇妙な行をまたがったことばの動かし方--そういうことをしたからといって、特別何かが起きるわけではない。けれど、そういうことができる、そういうことをしても「意味」が生まれてくるし、勘違いの一瞬には何かくすぐられたような感覚になるという快感がある。ただそれだけのために、詩というものがあってもかまわないのだ。
 ゾウシガヤ(雑司ヶ谷)。カタカナで書いたら、突然、音がにぎやかになる。音のにぎやかさが浮き立ってくる。このことも、特に意味があるわけではない。ただ、そう書きたいから書くだけなのである。

 意味ではなく、ただ、そういうふうに書きたいだけ--という、その感じが楽しい。私は、どうしても「意味」を書いてしまう。音だけを動かして、けの音の動きおもしろくない?という具合には書けないなあ。
 だから、西脇の詩が好き。




最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(220 )

2011-06-04 08:40:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。

 詩は「意味」ではない--とわかっているけれど「意味」のあることばも私は好きである。

存在の絶望は
天体の音楽としてモトヨヨギの
青物屋のプラムの一つ一つに
なめらかに光つている
記憶の喪失は
新しい記憶だ

 「存在の絶望」「天体の音楽」。こういう強い「意味」を持ったことばに出会うと立ち止まってしまう。詩人が何を言いたいか--それを感じる前に、私は自分勝手にあれこれ考えてしまう。
 こういうことばを、西脇は、「意味」に引っ張られずに動かす。ことばから「意味」を引き剥がしてしまう。「意味」が動きだす前に、ことばを違う方向へ動かしていく。
 「モトヨヨギ」がふいにあらわれて「元代々木」を外国の地名か何かのようにしてしまう。「地名」が消える。その瞬間、「青物屋」もどこの土地の青物屋かわからなくなるし、プラムもどこのプラムかわからなくなる。抽象的になる。抽象的になることで、また逆に土俗的になる。「元代々木」という都会にしばられない。野の木になったままの野生のプラムさえ想像してしまう。野の木から直接もいできて店頭に並べられたプラムのように思えてくる。
 その瞬間。
 「存在の絶望」「天体の音楽」というものが、野生とぶつかる。自然とぶつかる。そうし、「存在の絶望」や「天体の音楽」から、なんといえばいいのだろう、洗練されたというか、アカデミックなものが消えて、「非情」が響いてくる。(非情というのは「情け」を考慮しない、つまり人間を考慮しない、ということである。)
 「存在の絶望」「天体の音楽」--ということばが「無意味」になる、といえばいいのかもしれない。「意味」が消え、ただプラムの丸い光が存在するだけになる。
  「存在の絶望」「天体の音楽」ということばのもっている「記憶」が消えてしまう。かわりに、新しい記憶「プラム」がやってくる。「存在の絶望」「天体の音楽」が「プラム」にとってかわられる。

 「もの」が「もの」としてただ存在する。そこにある、というのは美しい。





西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(219 )

2011-06-03 09:27:30 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。

今は溜息の橋の多い都に
ヴェネツィアのウドンを
たべている窮達をむしろ
よろこんでいるとは!

 「ヴェネツィアのウドン」。変だねえ。パスタ、スパゲティということばを西脇が知らないわけがない。けれど「わざと」書く。そして、その「わざと」の瞬間、イタリア-パスタ(スパゲティ)という「意味」が壊れる。

でも今日はサンデンで
マキアヴェリの王侯論と
シェイクスピアのトロイルスと
クレシデの中にあるユリスィーズの
王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは
宇宙神に向かつて
パンの笛のショパンの笛の
永遠の運行にすべては
流れ流れるのだ!

 ここに書かれているのも「王侯論」は、まあ、どうでもいいのだ。どうでもいいと書くと西脇の研究家から叱られそうだが、そこに「意味」があるとしても「意味」は重要ではない。詩なのだから、意味など、わかってもわからなくてもいい。意味がわかったからといって、そのことばの「音」がかわるわけではない。
 いくつもの固有名詞(カタカナ)が入り乱れた後、

王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは

 この文体の乱れたリズム--それが、とても引き立つ。というか、あ、こういう書き方をしていいの? まねしていい? そんな衝動に襲われない? 特に「ばかりだがなんとしても」という粘着力の強いねじれが気持ちがいい。(「パンの笛のショパンの笛の」というのは私にはうるさく感じられて好きにはなれないが……。)
 この不思議な、切断と、強引な接続の粘着力が呼び覚ます音楽は、次にも出てくる。

ここで思考の流れを中断しな
ければならないことはアンリー
ミショーノメスカリンの
御ふでさきの弾圧の
可憐なナデシコの花が
送られてきたからである

 ほとんど音楽の曲芸である。曲芸を曲芸として「わざと」見せているそのことばの運動が、私には楽しい。





西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(218 )

2011-06-02 10:03:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(218 )

 『壌歌』のつづき。

もうアスの神への祈りも
全くおくれてしまった
人間でないものは神々だけだ
死がないものは神々だけだ
苦しみのないものは神々だけだ

 「人間でないものは神々だけだ」以下の3行は、「意味」はわかるが、その「意味」を中心に考えると、「定義」として奇妙であることに気がつく。「人間でないもの」はほんとうに「神々」だけか。たとえば「動物」「植物」、あるいは水や光。音や匂い。それもみんな「神々」? そうでもいいけれど、ここはやっぱり「神々は人間ではない」を言い換えたもの(言い間違えたもの)と受け止めた方が「意味」として通るだろうなあ。動物は死ぬからね。動物が苦しんでいるのを、私はみたことがある。動物が苦しんでいると思うのは私の錯覚かもしれないけれど。
 で、もし、ここで書こうとしていることが「神々は人間ではない」という定義だとすると、なぜ、西脇はそういう書き方をしなかったか。それは「人間でないものは神々だけだ」という音が自然にでてきたからだ。そして、それにあわせて「……ないものは神々だけだ」という音が「音楽」となって繰り返されたのだ。音が「意味」に優先するのである。
 そして。
 この音が意味に優先するということは、「意味」が生まれはじめると、それを壊すという運動が続くことにもあらわれている。西脇は「意味」が独立して歩きはじめるのを好まない。その歩みを叩き折る。
 「神々だけだ」の後に、詩は、こうつづく。

葡萄のたねをナイル河の中へ
はきだしたあのせつない夏の
昔の旅もはるかにかすむ

 葡萄のたねをはきだすという「人間的な」行為。(私は、葡萄の種をはきだすことはしないのだけれど。)この、あまりにも「肉体的」な描写と「神々」定義--これは、なじまないね。そして、そのなじまないことろが、音楽としておもしろい。
 あ、このことばにはこんな音があったのだ、と驚く。葡萄の種をはきだす--そういうことばさえ、音楽として、詩の中に生きるのである。

またセタガヤのフイフイ教会の
ミナレットにムーエゼンと一緒にのぼり
太陽の沈む時
アラの神にぬかずく人たちを
呼ぶある夕暮れもあつた
それはその後の出来ごととして
よくおぼえている

 「世田谷」は漢字で書いてしまうと「意味」になる。「意味」を解体して、音にしてしまうために西脇は「セタガヤ」とカタカナにしている。
 「よぶある夕暮れもあつた」からの3行は、私はとても好きである。なぜ好きかというと--私は、そのことばを思いつかないからである。書いてあることはわかるし、偶然、そういうことばの順序で言うことがあるかもしれない。「それはその後の出来ごととして/よくおぼえている」というのは、何か聞かれて、そんな具合に説明することがあるかもしれない。でも、書く時、そのことばは出てこないなあ。あ、こういう言い方がある。あ、この言い回しの音のなんと美しいことだろう、と私はぼーっとしてみつめてしまう。あ、こういうことば、このことばそのものを、どこかで自分のものとして書いてしまいたい、とひそかに思ってしまうのだ。



Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社



人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(217 )

2011-06-01 09:03:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 長い中断をはさむことになった。東日本大震災があり、その後和合亮一の「詩の礫」を読んだ。「詩の礫」を読んでいるあいだ、私は和合のことばに夢中になった。ことばが徐々に変わっていく--というのがおもしろかった。
 和合のことばが徐々に変わっていくことと比較していいのかどうかわからないが、西脇のことばは変わらない。そのことに、びっくりして、ちょっとつまずいた時間だった。

 『壌歌』を読みはじめる。そして、西脇のことばがなぜ変わらないのかということをまず考えてしまった。

野原をさまよう神々のために
まずたのむ右や
左の椎の木立のダンナへ
椎の実の渋さは脳髄を
つき通すのだが
また「シュユ」の実は
あまりにもあますぎる!

 最初の3行は、この作品の「発句」のようなものである。これからはじまる「世界」へのあいさつである。--と、ふと書いて、ふと気づくのである。
 西脇は「いま/ここ」を書かない。いや「いま/ここ」を書くのだが、それは「いま/ここ」を「目的地」としていない。ことばは「いま/ここ」にある世界をめざしていない。
 和合の「詩の礫」のことばが「いま/ここ」にこだわり、「いま/ここ」をどうやってことばにするかということを考えつづけていたのに対し、西脇は「いま/ここ」にあいさつをして、そのあとはただ「ことば」の運動に身をまかせるのである。
 そこに「いま/ここ」がたまたま重なり合ったとしても、それは重要ではない。
 「いま/ここ」とは無関係に、ことばがことばを喚起しながら動きつづけること、「いま/ここ」から自由になって動くことが西脇にとっての詩なのだ。
 1行目「野原をさまよう神々のために」と西脇は書くが、その「神々」とは何か、だれか。だれでもない。何でもない。「無意味」である。野原をさまよう「無意味」。
 ことばから「意味」を取り去る。そのとき、何が残るか。音が残る。音は、音楽のはじまりである。西脇は、野原をさまよう「無意味」の「音楽」をつくりだしていくのである。「いま/ここ」の「意味」を「音楽」の「無意味」にかえる。「いま/ここ」にはしばられない。「いま/ここ」はことばの目的地ではないのだ。「いま/ここ」から離れた「音楽」が「目的地」なのだ。

まずたのむ右や
左の椎の木立のダンナへ

 これは、いわゆる物乞いの「あいさつ」の音楽である。「右や左のだんなさま」。その響きにあわせて、野原をさまよう「音楽」のために、何か音をください、「無意味」をくださいと呼び掛ける。
 西脇が書いていることが「無意味/意味」に関係してくることは、次の「脳髄」ということばからも窺い知ることができる。椎の実の「渋さ」、そしてシュユ(ごしゅゆ)の「あまさ」。それを西脇は「のど」や「舌」ではなく、「脳髄」で受け止めている。「意味」を判断する器官で受け止めている。
 味は「味覚」を離れる。肉体を離れる。あるいは西脇にとって「肉体」とは「脳髄」だけなのである、と言った方がわかりやすいかもしれない。西脇のことばは「脳髄」(脳)のなかで鳴り響く「音楽」が唯一の現実なのだ。
 それは、次の展開をみれば明らかである。

ああサラセンの都に
一夜をねむり
あの驢馬の鈴に
めをさまし市場を
窓からながめる時は
空はコンペキに遠く
光りは宝石を暗黒にする!

 1行目の「野原」がどこの「野原」であったのか、わからないが、しゅゆを「あまりにあますぎる!」ということばのなかに封印した後、ことばは「野原」とは遠くに来てしまっている。サラセンの「都」、「市場」をながめる窓。「いま/ここ」は「野原」とは違っている。
 さらにいえば「都」や「市場」すらも、すでにそこでは置き去りにされている。「渋さ」「あまさ」に狂った(?)脳髄は、「都」も「市場」も通り越して、空のコンペキの「遠さ」、光によって「暗黒」になった宝石の、その「暗黒」へと、ことばのすべてを「突き通す」(音楽を貫き通す)のである。
 私は便宜上、空のコンペキの「遠さ」、光によって「暗黒」になった宝石の、その「暗黒」--というような書き方をしたが、そのとき私の感じているのは、そこに書いた「意味」ではない。「コンペキに遠く」という、その言い方、「光りは宝石を暗黒にする!」という言い方、音の動きである。その音の中で「コンペキ」「遠く」「宝石」「暗黒」という音が、まるで「もの」そのもののように響き「個性」にひかれるのである。「コンペキ」と「暗黒(あんこく)」が響きあい、「とお」く、と「ほお」せきとが響きあうのも感じ、「意味」ではないものが動いていると感じるのである。

 この西脇の「音楽」と、和合の詩について一緒に考えることは、私にはむずかしかった。--そのことを、きょう、あらためて気がついた。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

2011-05-10 10:47:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(216 )

 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

ピー
紙のみどりの蛇ののびる音だ
プッスー
ゴムの風船玉がしぼむ音だ
ポウー
孔子やナポーレオンのメリケン粉の
人形やきの言葉だ

 この部分の「音」もとてもつまらない。即物的すぎて、イメージが破られない。イメージがかたまってくる。粘着力をもって、しつこくからみついてくる感じがする。
 西脇がこんな音を書くとは不思議でしようがない。
 唯一おもしろいと思うのは(私がこの部分について書く理由は)、「音」が「言葉」にかわっていることだ。「ピー」は「音」、「プッスー」も「音」、けれど「ポウー」は「言葉」。--これは、しかし「意味的」には同じなのである。私がおもしろいと思うのは、西脇が「音」をはっきりと「言葉」と同義につかっている「証拠」がここになるからだ。
 西脇にとって「音」とは「言葉」なのである。
 そして、「音」と「言葉」に何か違いがあるかといえば、「言葉」には「意味」があるということだろう。「音」は「無意味」であるのに対し、「言葉」は確実に「意味」をもっている。
 この「意味」を含んだ「言葉」という表現をつかったために、西脇のことばは次の行からびっくりするくらい変わってしまう。「意味」だからけになってしまう。「音」の軽さを失ってしまう。

プッスーンー
経水で呪文を書き杉林で
藁人形に釘をうちこむ
女の執念の山彦の
かすかな記憶の残りだ

 「経水」には広辞苑によればふたつの「意味」がある。ひとつは「山からまっすぐ一本の流れで海に入る水」。まあ、清らかな水ということ、純粋な水ということになるのかもしれない。それで「呪文」を書く--というのは、あってもいいかもしれない。
 けれど、もうひとつ意味「月経、月のさわり」がある。この詩の場合、どうも、これにあたる。女が執念で藁人形に釘を打ち込んでいる。しかも月経の血で呪文を書いている。これは、どうもおどろおどろしい。「神話」になりきれていない。「かすかな記憶の残り」というのが、また、執念深い。ギリシャ神話のように、激烈な運動にまで高まってしまえばおもしろいのかもしれないが、そんなふうにはならない。私には、そんなふうには感じられない。
 これもそれも、私には、書き出しにでてきた「たのみになるわ」という音が原因のような気がしてしようがない。このことばは、詩のなかほどにも出てくる。

苦痛を感ずる故にわれ存在すると
言つたとき天使は笑つた
「たのみになるわ」
この天使の存在は
永遠に夢見る夢だ
永遠は夢のかたまりだ

 ここも、私には非常につまらなく感じられる。「永遠は夢のかたまりだ」という結論(?)は、西脇のことばにしては「音楽」が欠如していて、気持ちが悪いくらいである。
 西脇の詩から嫌いな作品を選べといわれたら、私は間違いなくこの作品を選ぶだろう。

西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(215 )

2011-05-09 15:08:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「生物の夏」のつづき。

 好きな「音」をむりやり探せばないことはないが、やはりこの詩は変だと思う。「音」を題材にして書かれた数行。

日月の廻転と天体の音楽を知つている
ベトーヴェンの音楽などは
鉄砲の音とあまり違わない
ウァレリの詩なども女中さんが
花瓶を割つた音とあまり変りがない

 比喩が直接的すぎて、飛躍がない。「音」が広がっていたない。「音」が何かを破壊しない。逆に、何かを繋ぎ止めてしまう。

物質の存在も宇宙の存在も
人間には神秘の極限であるが
犬の脳髄にとつてはなんでもない
つまらない一つの匂いかもしれない

 ここにも飛躍がない。イメージの自由な飛翔がない。「意味」が強すぎる。

動物にとつては人間は諧謔の源泉だろう
主体と客体の区別は人間の妄想だ
犬にとつては犬がいちじくを食おうが
いちじくが犬を食おうが
どちらでも同じことだろう
最大なシュルレアリストだ

 ここにも「意味」しかない。--あ、それではその「意味」とは、と言われると、「意味」を書くことができないのだけれど(説明できないのだけれど)、「意味」が固まっているという感じがするのだ。ことばが響きあわない。解放されない。「いちじく」「いぬ」という音の組み合わせがいけないんじゃないか、とおもってしまうのである。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする