秋山基夫「消滅」(「ドッグマン・ソース」4、2008年04月25日発行)
1連が20字4行。そのスタイルで11連つづいている。形式が固定されている。その固定された文字のなかで、ことばに緩急が出てくる。その「急」よりも「緩」の方に、詩人の「本質」のようなものが出てくる。「肉体」ののようなものが出てくる。「急」の方は、言いたいことがつまっている。「急」の方は「頭」である。
「ちくちく」「キョトキョト」「のろのろ」。繰り返されることば。それは「肉体」を停滞させる。どんなに速度のある擬態語であっても、繰り返されるとき、それはスローモーションになる。「びゅんびゅん」ということばはこの作品には出てこないが、たとえ出てきたとしても、やはり繰り返されることでスローになる。目に見えるものになる。というか、「他人の肉体」なのに、それをあたかも「自分の肉体」であるかのように、追認できる。単なる動きではなく、その動きにともなう感情(思い)とからみあったものとして感じるようになる。
この作品では、それが効果的である。
詩の登場人物たちはカラスとなって「ガリ版刷りのビラ」を配るという任務を帯びている。それは最初は任務だった。そして最初はカラスもその任務に真剣だったかもしれない。しかし、だんだん疲れてくる。「頭」で考えていた任務は「肉体」にまみれてしまっている。(「羽の裏にかかえたビラの束が汗で湿っている」)
この、「頭」の敗北(「理想」の敗北と言い換えてもいいかもしれない)、「肉体」として書かれているところが、この作品のいちばん「正直」な部分だと、私は感じる。そういう部分、そういうことばが、私は好きである。
伝える「意味」は何もない。ただ、そこに「肉体」があるという、そのことだけを表明することば。「だらしないことば」と書くと、秋山の意図とは違うかもしれないけれど、停滞したまま、ただそこにあることによって自己主張するしかない「だらしないことば」。言い換えると他者を説得する「意味」にはならないことば。それが、作品のなかで少しずつたまってくる。その瞬間が、私はなぜか好きである。
「お屋敷」の「お」、「大きな実」「大きな門」の「大きな」の繰り返し。
「敗北」がそんな「だらしないことば」として具体化されている。「敗北」をセンチメンタルな「頭」のなかに閉じ込めていない。そこが、この詩の魅力だ。
1連が20字4行。そのスタイルで11連つづいている。形式が固定されている。その固定された文字のなかで、ことばに緩急が出てくる。その「急」よりも「緩」の方に、詩人の「本質」のようなものが出てくる。「肉体」ののようなものが出てくる。「急」の方は、言いたいことがつまっている。「急」の方は「頭」である。
彼らは自分らの使命をぼんやり知っていたが
さっきから後悔がちくちく首筋を刺していた
どれだけ進むのかわからず帰るには遠すぎた
羽の裏にかかえたビラの束が汗で湿っている
二羽のカラスは学生服も靴も土埃で白くなり
目ばかりキョトキョト動かしてのろのろ動く
急に道が平らになって広々とした高原に出た
なだらかに続く丘陵は見渡すかぎり煙草畑だ
「ちくちく」「キョトキョト」「のろのろ」。繰り返されることば。それは「肉体」を停滞させる。どんなに速度のある擬態語であっても、繰り返されるとき、それはスローモーションになる。「びゅんびゅん」ということばはこの作品には出てこないが、たとえ出てきたとしても、やはり繰り返されることでスローになる。目に見えるものになる。というか、「他人の肉体」なのに、それをあたかも「自分の肉体」であるかのように、追認できる。単なる動きではなく、その動きにともなう感情(思い)とからみあったものとして感じるようになる。
この作品では、それが効果的である。
詩の登場人物たちはカラスとなって「ガリ版刷りのビラ」を配るという任務を帯びている。それは最初は任務だった。そして最初はカラスもその任務に真剣だったかもしれない。しかし、だんだん疲れてくる。「頭」で考えていた任務は「肉体」にまみれてしまっている。(「羽の裏にかかえたビラの束が汗で湿っている」)
この、「頭」の敗北(「理想」の敗北と言い換えてもいいかもしれない)、「肉体」として書かれているところが、この作品のいちばん「正直」な部分だと、私は感じる。そういう部分、そういうことばが、私は好きである。
伝える「意味」は何もない。ただ、そこに「肉体」があるという、そのことだけを表明することば。「だらしないことば」と書くと、秋山の意図とは違うかもしれないけれど、停滞したまま、ただそこにあることによって自己主張するしかない「だらしないことば」。言い換えると他者を説得する「意味」にはならないことば。それが、作品のなかで少しずつたまってくる。その瞬間が、私はなぜか好きである。
白い土塀をめぐらした立派なお屋敷が見える
春には桃の花が咲き夏には大きな実もみのる
二羽のカラスはおずおずと大きな門をくぐる
それっきり二度と彼らの姿を見た者はいない
「お屋敷」の「お」、「大きな実」「大きな門」の「大きな」の繰り返し。
「敗北」がそんな「だらしないことば」として具体化されている。「敗北」をセンチメンタルな「頭」のなかに閉じ込めていない。そこが、この詩の魅力だ。
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