詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良勉「打ち捨てられたヒモ」

2017-02-28 07:39:51 | 詩(雑誌・同人誌)
 高良勉「打ち捨てられたヒモ」は、こんな作品。

ムラサキ露草に
朝露がまだ残るあかとき
サトウキビ畑の広がる
いつものウォーキングコースに
おびただしい紐が
打ち捨てられている
赤、青、黄、黒、白のヒモたち

砂糖キビの枯れ葉を
束ねていた黄色いヒモ
パソコンのコードであったか黒いヒモ
若い娘の腰巻きの残りか赤いヒモ
路傍に無造作に捨てられた
現代のヒモたち ハライ

好みの紐を拾って帰っても
ヒモのゴミは増えるばかり
一度切られたヒモは
再び結ばれることは無いのか

ATCG ATCG
二重ラセンのヒモは
太陽の糸に焼かれ
車道の風に吹かれ
反り返っている

切断されるばかりで
結ばれることのないヒモ
捨てられたママでいいのか青いヒモ

私の身体の宇宙も
十次元の超ヒモで
できているというのに
ハライ ハライ

 ふと見かけた風景(もの)を書いているうちに、ことばが少しずつ変わっていく。一連目では、紐には色がついている。色が紐を乗っ取っている。二連目では、色を足場にヒモではないものがあらわれてくる。サトウキビの枯れ葉、パソコンのコード、腰巻き。切断された紐が高良によって、紐ではないものと結ばれる。三連目は、いわば逆説的説明である。「再び結ばれることは無い」ということばを挟んで、さらに遠くのものと結ばれる。四連目に登場するのは遺伝子であり、宇宙である。
 この連想のスピードが詩である。
 ある瞬間、ことばが何と結びつくか、これはよくわからない。インスピレーションといってしまえばそれまでだが、どこからともなくやってくるインスピレーションにまかせてしまうことが詩なのかもしれない。
 腰巻きの赤、遺伝子の二重螺旋の紐、さらに「宇宙」のなぞを謎を解く「超ひも理論」。それはみんな高良によって結びつけられる。高良は、ひとが知っているのことを結びつけているだけといえば結びつけているだけなのだが、このちょっと「気楽」な感じの飛躍がスムーズで無理がない。
 「頭」で「論理」をつくってしまうのではなく、どこかで見聞きしおぼえていることを、軽い感じでつないでゆく。宇宙の「超ヒモ論理」は、数式をつかって説明しろといわれても、たぶん説明できないだろう。だから「知っている」とは言えないのだが、そういうものもひとはことばで渡っていくことができる。
 この軽さを支えているのが「ハライ」ということば。
 どこの地方のことばか知らないが、まつりの「囃ことば」のように感じられる。「ハレ」のことばである。「ハレ」の気持ちがつかみとる「異次元」。

 そこにどんな「意味」があるのか。
 そう問われたとき、私は答えに困るけれど、「結論としての意味」ではなく、こんなふうに自在に動けることの方に「意味にならない何か」がある。「意味」を否定して存在しうるものの「美しさ」がある。「美しさ」というのは「意味」にはならない「秘密」なのだと思う。



言振り: 琉球からの詩・文学論
高良 勉
未来社
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デイミアン・チャゼル監督「ラ・ラ・ランド」(★★★★)

2017-02-27 10:05:51 | 映画
監督 デイミアン・チャゼル 出演 ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン

 前評判の高い映画は、どうも苦手だ。ほんとうにおもしろいのか、と構えてみてしまう。
 で。
 この映画、冒頭の高速道路のシーンがすばらしくて、「あ、これはほんとうに傑作なんだ」と思い込んでしまう。よく撮ったなあ。これだけ見れば、あとは見なくてもいいかなあ、と思うくらい。
 そして、そうなのかもしれない、と思う。
 ミュージカルが全盛のころは、私は子供でほとんど映画を見ていない。最初に記憶しているミュージカルはリバイバルで見た「ウエストサイド物語」か「屋根の上のバイオリン弾き」か。思い出せない。この二本はどちらも舞台が先にあり、それを映画化したもの。ダンスの動きが早い。
 「ザッツ・エンター・テインメント」に登場する映画はリバイバルか特別上映でしか知らない。リアルタイムで見ているものがない。
 だから、まあ、いい加減な感想になるのだが。
 この映画の「ミュージカル」部分、特にダンスシーンは「ザッツ・エンター・テインメント」時代のダンスにとても似ている。私は、あまりなつかしいという気持ちにはならないが、リアルタイムで「ザッツ・エンター・テインメント」時代の作品を見ているひとなら、とてもなつかしいだろうなあ。フレッド・アステア、ジーン・ケリーなどが出ていた時代のダンスの感じにとても似ている。
 ライアン・ゴズリング、エマ・ストーンが天文台のプラネタリウム(宇宙)でダンスするシーンは「ザッツ・エンター・テインメント」時代の「セット」の感じに非常に近い。
 ただ、この「近い」も、リアルタイムの体験がないので、どうしても「頭」で整理した感想にすぎない。
 これが、どうも困る。
 なつかしいというよりも、ファンタジー感が強すぎる。感情がリアルに感じられない。「昔の方がよかった」という感じの方が強くなる。
 特に、二人が最初に歌って踊る夜景の見える丘の道路のシーンは、エマ・ストーンがせっかく靴を履き替えるのに、「ダンスの競争」という感じにならない。フレッド・アステアと女優の場合は、ダンスを踊るということを超えて、ダンスの自己主張があったと思う。この映画のなかでジャズが重要な位置を占めているが、ジャズの演奏者の自己主張のぶつかり合い、ぶつかり合いながらひとりでは到達できない高みに行ってしまうという高揚感がない。あ、あんなふうに自分の感情が「肉体」の動きになって、相手と「感情」を呼吸し合えればいいなあ、という気持ちに離れない。どこか遠くを見ている気持ちになってしまう。
 まあ、今のダンスに比べると昔のダンスは簡単なので(あるいは見慣れている感じがするので)、そう思うのかなあ。ダンスそのものにのみこまれるという感じがしない。
 歌も、ライアン・ゴズリングがふつうの感じ。引き込まれない。歌手の役ではないから、これくらいの方が「リアル」なのかもしれないけれど。
 でも、ミュージカルというのは、やっぱり歌とダンスに引き込まれてこそミュージカルだと思うので、「なつかしい」という実感がない私には、なんとなくもの足りない。「ザッツ・エンター・テインメント」の時代も、観客はあんなふうに踊れるようになりたいと思いながら見たのではないだろうか。
 ファンタジーと先に書いたけれど、「絵本」を見ているような、妙な気持ち。リアルな欲望が湧いてこない。この映画を見て、あ、あんなふうに踊りたいと思うひとはいるのだろうか。(冒頭の高速道路のシーンは、あんなふうに高速道路でみんなで踊れたら楽しいだろうなあ、やってみたいなあという欲望を刺戟されるが、それ以外は欲望を刺戟されない。)

 でも。

 最後のエピソードはよかったなあ。予告編にあったライアン・ゴズリング、エマ・ストーンのキスシーンにつづく再会とその後。「空想」なのだが、空想だからこその「リアル」があふれている。主人公のふたりになりきって、どきどき、わくわくしてしまう。あんなプライベートフィルムが自分にもあったらうれしいなあと思う。「幸福」はなんと美しいんだろう、と信じ込んでしまう。幸福なとき、ひとは歌を歌い、踊りたしてしまう。人生がミュージカルになる。ああ、いいなあ。
 冒頭と、このラストだけなら、私は★5個をつける。
 「空想でした」と告げるのも、この映画の場合、不思議と美しい。
                        (天神東宝5、2017年02月25日)



 
 *

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八木忠栄「やあ、詩人たち」

2017-02-26 16:20:03 | 詩(雑誌・同人誌)
八木忠栄「やあ、詩人たち」(「現代詩手帖」2017年02月号)

 八木忠栄「やあ、詩人たち」は「折句の試み」。詩人の名前を行頭に組み込んでいる。「しみずあきら」は、こんなふうに。

死花咲きみだれる風情嵐山。
水たまりに隠れてさわぐ激情から
ずらかれ! という秘かな声。
アメリカが燃える。
きみの長いのども、燃えて
乱世をどこまで駆け抜けていくつもり?

 ただ名前を読み込んでいるだけではなく、清水昶が書きそうなことばが並んでいるところがおもしろい。「死花」ということばのまがまがしさ。否定が含むことばの強さ。
 福岡にはかつて「親不孝通り」という通りがあった。大学受験に失敗し、予備校に通う学生がたむろする街。親のすねかじりがたむろする街。しかし、「親不孝」はイメージがよくないというので「親富孝通り」という名前に変えられた。すると、一気に街に活気がなくなった。それで、また「親不孝通り」に戻った。
 ことばは不思議なもので、「否定的」な意味を持っている方がひとを惹きつける。「悪の匂い」というのは魅力的なものである。ひとはだれでも、できることなら「悪」をまっとうしてみたいという欲望をもっているのかもしれない。魯迅の作品にも、悪人が処刑される芝居を見て、「こんど生まれてきたときは、必ず悪事をやりとげてみせる」というようなことをいうシーンにぞくぞくするというようなことを書いてあったと記憶している。「悪」は自分にはできない可能性を教えてくれる。
 清水昶は、そういうものを「呼吸」するのが得意だった。私には、そういう印象がある。実際に「悪」は実行できないから、ことばで「悪」をまき散らす。未消化の嘔吐の華々しさ。吐瀉物の、強烈な匂いと、まだ形を保っている食べたものの色。そのぶつかり合い。
 「激情」の「激」は、そういうものを象徴している。
 しかも、これを前面に押し出すのではない。
 清水昶はあらわしつつ、隠す。「隠れて」「秘かな」ということばが折り込まれているが、半分は「隠す」。読者に想像させる。で、何によって隠すかというと……。

長いのど

 ということばに象徴される「弱い肉体」によって、隠す。表面的には「弱い肉体」しか見せない。けれど、「弱い肉体」の奥に「激情(強い感情)」が動いている。
 これが「短いのど」だと「猪首」になり、「弱く」なくなる。「長いのど」ならどこでも絞められる。どこでも切ることができる。「短いのど」だと絞めようにも絞められない。切ろうとしても「肩」の骨がぶつかる。
 この「肉体のことば」のつかい方が、清水昶の「肉体そのもの」をあらわしている。
 痩せて、うつむき加減の顔。長い髪が、片目を隠すように流れている。詩のことばのあり方と、清水昶の風貌そのものが一致する。

 私は詩人という人間を実際に会ったことはほとんどない。清水昶は「ちらっ」と見かけたことがある。詩と詩人は似ていると思う。
 池井昌樹は、いまは三木のり平みたいに痩せているが、昔、私が一度だけ清水昶を見たころは、ラーメンを食べるとラーメンの丼がそのまま腹におさまったように腹が膨れた。太っている腹がさらに太くなる。これが池井の詩の形に似ていた。書くことで膨らむ(豊になる)肉体。書かないと衰える肉体、というあり方を具現化していた。
 清水昶のことばは「毒」を含んでいて、その「毒」が感情を刺戟し、暴走させる。しかし「毒」は「肉体」をむしばみ、痩せたままだ。そういうことを思った。

 だんだん八木忠栄から離れていく。八木の詩の感想ではなく、清水昶の詩と清水昶について書いているような気持ちになってくる。しかし、これはこれでいいのかもしれない。そういうことを書きたくなるくらい、八木の詩は清水昶を取り込んでいるということなのだから。
 で、ふと、一度だけ会ったことがある八木忠栄と、この「折句」は「肉体」として似ているか、と考えようとして。どうもあまり似ていないなあ、と感じるのはなぜなのか、と書こうとして……。
 あ、私が会ったことがあるのは八木忠栄ではなく、八木幹夫だった。池井昌樹と一緒に飲んだことがあるのだが、あれは八木幹夫だった、と思い出し、呆然とする。そうか、八木幹夫が書けば、こんな具合にはならないかもしれないなあ、というようなことも思う。

 こういうことは、詩の感想、詩の評価と、関係があるのかないのか、よくわからない。でも、会ったことがない人よりは、会ったことがある人の詩の方が納得しやすいということはあるかもしれないなあ。
 八木忠栄は詩集を読むだけではなく、実際に詩人と会ったことがあるのだろうなあ。どの詩を読んでも、ことばだけではなく、「肉体」を思い起こさせるものがある。私は、そこに登場する詩人を「写真」でしか知らないが。
雪、おんおん
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星野元一「カニになった日」、長嶋南子「生きている」

2017-02-25 08:54:27 | 詩(雑誌・同人誌)
星野元一「カニになった日」、長嶋南子「生きている」(「蝸牛」54、2017年01月30日発行)

 星野元一「カニになった日」は、戦後、サワガニを食べたときの記憶から書き始めている。「かんべんしてよ!/カニは両手を上げ/岩の穴に逃げていった」という描写のあと、

秋を挟んで

 という美しい一行があって、世界が転調する。

カニになったことがある
穂高連峰を渡った
青春の
真っただ中
体がボール紙になって
岩壁に貼りつけられた

谷は口を開け
遥か下にかすんでいた
お日さまは黙っていた
腹のあたりを風が吹きぬけ
雲が横切った
剥がれ落ちないように
しっかりとくっついていた

その時見た
千切れたボール紙の脇のあたりから
手足のようなものが出ていた
千手観音 にはならなかったが
一本一本が亀裂をさぐり
ゆっくりとわたしを横に運んだ
遠くに
垂直に登る影を見た
甲羅をつけていた

 岩壁、絶壁にはりついて動いていく。そのときの姿を「カニ」という比喩にしているのだが、妙におもしろい。
 この「妙に」という感じはどこから来ているか。
 「ボール紙」という比喩かなあ。頼りない。風が吹けば飛んで行ってしまいそう。「お日さま」ということばもいいなあ。「太陽」よりも、なにか、「肉体」に近いものがある。「宇宙」というよりも身近。「腹のあたり」ということばが「肉体」そのもの。「ボール紙」になりながら、「腹」を実感する。
 「腹」は次の連で「脇」にかわる。「脇腹」だね。より具体的になる。「手足」が生まれ、そこからまた「千手観音」という比喩が動く。飛躍があるのだが、とても自然だ。いきいきしている。
 「カニ」から「千手観音」に比喩が変わっている。一方は小さな生き物。一方は偉大な仏様。それを「肉体」の実感がつないでいる。「肉体」が動いているから、比喩から比喩への飛躍が自然なのだろうなあ。
 「妙に」感じるのは、最近はこういう比喩を読まないからだろうなあ。「妙」だけれど、懐かしい。「お日さま」ということばみたいになつかしい。

 *

 長嶋南子「生きている」は、九十九歳の母を介護する詩。

連れてってといいながら
アイスクリームを食べさせてもらっている
食べ終わってもまた口を開ける
開いた口の奥に暗い穴がぽっかり
級長の兄と知恵の遅れた弟が
出たり入ったりしている

脳が干からびても
海馬が走り去っても
胃腸が強いイデンシ

口を開けてアイスクリームを待っているのは
母ではありません
イデンシです
まだ母のからだを捨てないのです

 「海馬」とか「イデンシ」とか。以前は「日常のことば」ではなかったが、いまは日常のことばになっている。なってはいるが、ちょっと「違和感」があるかもしれない。まだどこか「借り物(頭で理解しているだけ)」という感じがあるかもしれない。
 これを長嶋は、ぐいっとつかみとって、そのことばが生まれてきたところへ押し戻す。これが、すごい。長嶋のものにしてしまう。

イデンシです
まだ母のからだを捨てないのです

 「生きている」のは「イデンシ」。「生きつづける」のは「イデンシ」。「肉体」で感じていることが、突然、最先端の「科学」になる。「哲学」になる。縁起でもないことを書くようで申し訳ないが、母が死んでも「イデンシ」は生きていく。その力を、長嶋は母を介護しながら自分自身の「肉体」でつかみ取っている。
 「絶対的真実」とでもいうようなものを、「日常のことば」を動かしてつかみとる。その「文体」の力に圧倒される。

 「妙」なものは、おもしろい。



星野元一詩集 (新・日本現代詩文庫)
星野 元一
土曜美術社出版販売
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小林坩堝「エンド・ロール #3」

2017-02-24 10:30:28 | 詩(雑誌・同人誌)
小林坩堝「エンド・ロール #3」(「現代詩手帖」2017年02月号)

 私は最近、若い世代の日本語に違和感を覚える。たとえば小林坩堝「エンド・ロール #3」

なにかを匿すかの如くに
街に雨が降りしきる
視えるか
無数の瞳が瞬くのが
おれでおまえでおれたちおまえたちわれわれであるところの
オモイデの数だけ伝説は生まれ
滅び
やがて都市の赤子として転生する

 「意味」はわかる、いや、わかったつもりになる。「オモイデ」とカタカナで書くことで「抒情」を排除している。「思い出」という「流通言語」ではないものを書こうとしている。そこに「あせり」のようなものがある。それを「青春」と呼ぶこともできるだろうけれど。
 それが「伝説」「都市」「赤子」「転生」という具合に漢字熟語のなかを動いていく(疾走していく、と言った方がいいかなあ)。こういうことばの運動を見ると(黙読すると)、私は1970年代(あるいは60年代かもしれない)の「現代詩」を思い出してしまう。
 「新しい」という感じがしない。

おれでおまえでおれたちおまえたちわれわれであるところの

 まるで「全共闘」の叫び声のよう。「意味」もそうだが、なによりもことばの調子が古くさい。「……であるところの」という「翻訳調」に驚いてしまう。こんな「翻訳調」は、いまでも「学校教育」に残っているのだろうか。これも非常に疑問。「翻訳」もずいぶん変わっていると思う。もっと「楽」な感じの文体になっていると思う。
 いまは誰もこんなふうに話していないので、それが「新しい」のかもしれないが、私には、昔に逆戻りしたような感じがしてしまう。
 詩の書き出しは、もっと古く感じられる。「如く」ということば、小林は、いつ、つかうんだろう。(私は自分がいつつかったか思い出すことができない。つかったことがないかもしれない。)いま、だれもつかわないから「新しい」と言えるのか、という疑問を感じてしまう。
 まるで、明治。

爆ぜて無残な人称の彼方から
懐かしい声がする
或いは産声であるのかも知れなかった
--やあ、もう帰らないよ
おれたちに似合いの雨だ
バラバラ、
散って
かき消して
核心はいつでも
往く路にあるのだから

 うーん。清水昶を思い出してしまう。

<いま>これが
出来事を象徴していく生臭く鮮やかな
花束--
根を絶たれ咲くだけ咲いて風に攫われ
生のかぎりを死にさらせ

 とか

おれたちは
最期の挨拶を交わす

 なども。
 「死にさらせ」は「死に晒せ、曝せ」か。「ひらがな」では、私は、わからない。言い換えると「聞いても」わからない、ということ。
 こういう「聞いてわからない」というのは清水昶をはじめ、1970年代の詩にはないと思うけれど。

 清水昶の詩は、私は大好きだから、こんなふうに清水昶がよみがえってくることはうれしいけれど、半面、うれしがってていいのかなあとも自分で疑問に感じてしまうのである。純粋に「共感」できない。そういう違和感がある。
 こういうことばで、いま、小林のまわりにいるひとのことばの中へ入って行き、会話を刺戟するということがあるのだろうか、という疑問でもある。そのまま会話にならなくても、なにかのヒントになるということはあるのかなあ、という疑問。
 「全共闘」の時代は、現代詩は、それなりに影響力を持っていたと思う。

 (目の調子がおかしいので、最近、批判ばかり書いている気がするなあ。)


 文章のいたるところに、他人の声に耳を傾けることで豊かにした中井の「もとで」が感じられる。中井の「もとで」は「生きているひと」そのものの「もとで」、「いのちのもとで」。
 これを整理することは難しい。たぶん、整理してしまうと違ったものになる。だから、思いついたまま、書いておく。私は勝手な読者なので、「誤読」を誤読のままにしておく。


でらしね
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中井久夫『中井久夫集1 働く患者』

2017-02-23 10:25:43 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫『中井久夫集1 働く患者』(みすず書房、2017年01月16日発行)

 私が中井久夫を初めて読んだのは『カヴァフィス詩集』だった。そのあと、リッツォスの詩を知った。それ以後、エッセイも読むようになったが、『カヴァフィス』以前については何も知らなかった。今度の著作集には、私の知らなかった時代の中井久夫がいる。知らなかった時代の中井久夫なのだけれど、ふと、あっ、知っていると感じるものがある。

 私にとって中井久夫は「他人の声」を生きることができる人である。「他人の声」を聞き取り、ただ再現するのではなく、その声を伝えるとき、中井自身がその声の持ち主になる。声の中に動いている「感情」を生きて、声を動かす。
 「ことば(意味)」を動かすというのではなく「感情」を動かす。
 そのとき、なんといえばいいのか、「感情」を支えるというか、「感情」が動きやすいように、「縁の下の力持ち」のような感じでよりそう。そのよりそい方が自然なので、「感情を生きている」という印象になるのかもしれない。
 中井がサリヴァンを翻訳するようになった経緯を書いた文章を読むと、これは私だけの印象ではなく、他の人の印象でもあるかもしれない。翻訳が単に「意味」を伝えるだけではなく、「ことば」そのものを伝える。「ことば」の強さを伝える。「感情」のなかにある「強弱」、あるいは「リズム」というものを中井は呼吸し、一種の「和音」という形で表に出すことができるのかもしれない。「和音」によって音が安定するというと変かもしれないが、「強さ」が生まれる。

 「統合失調症者における『焦燥』と『余裕』」という文章の中に「あせり」「ゆとり」さとり」ということばが出てくる。「あせり」は「焦燥」を言い換えたもの。「ゆとり」は「余裕」を言い換えたもの。では、「さとり」は? ここからは、中井のことばをていねいに追いかけるというよりも、私は、中井に誘われて自分で「誤読」をはじめる。
 「焦燥」「余裕」ということばだけを読んでいたときは聞こえなかった「音」が「肉体」のなかから「あせり」「ゆとり」ということばになって動き始める。それが「さとり」を揺さぶる。そうか、「さとり」とは「あせり」と「ゆとり」という「区別」を超えるものなのか、と直感する。「さとり」というものを私自身は体験したことがないが、「予感」として「さとり」がわかった気がする。
 中井は「統合失調症者」について書いているのだが、限定しなくてもいいと思う。私は、「あせり」も「ゆとり」も誰もが経験することと思って読み、「さとり」も誰もが経験できるものだと、はげまされたような気持ちになる。この「はげまされたような気持ち」というのは「誤読」だね。「誤読」とわかっているが、私は「誤読」のなかにとどまる。

 「思春期患者とその治療者」「ある教育の帰結」という文章も刺戟的だった。
 高度成長期の教育を「知を知る喜びを追求する教育ではなく、新しいやり方を迅速に身につけるものが勝ちという訓練であった」と批判し、同時に「それは、日本の失業者、とくに青年失業者が非常に少ないことに大きな貢献をしている」と指摘している。この指摘にはびっくりた。1978年、1979年に書かれた文章なのだが、そのまま「現在」を語っている。
 青年の失業を、親が雇っているのである。江戸時代は、青年は家の金を持ちだし遊び、刃傷ざたを引き起こした。そうやって親に苦労をかけた。いまは家の金を盗み出しはしないが、同じように親の金を浪費している。子が働き、給料を稼ぐということの代わりに、子供が大学に行き、勉学という「労働」に対して親が金を払っている。そのために「失業者」が少ない。「もし、戦前のように大半が小学校卒で就職したとすれば、不況のときには相当の失業者が発生したであろう。青年の九割が高校へ、過半数が大学へ進むということは、失業保険を払うどころか、家族の負担で膨大な潜在失業者のプールを維持していることになる」と指摘している。「このプールはかなり効果的な弾力性がある。不況のために、今、就職すればあまりよい展望がもてそうになければ、その代わりに一段階上の学校に進学して、次のチャンスに賭けるという選択に傾く。しかもその間は父兄負担である。失業手当の支払いを政府はする必要がない」とも。
 (中井が指摘したときから約40年たって、状況は少し変わってきている。「父兄負担」ではまかないきれず、学生は奨学金を借りる。卒業したあとは奨学金の返済に追われる。政府は「奨学金」を手当てする必要もない。これについては、批判が高まり、「完全給付型奨学金」というものをつくろうとしているようだが。)
 こういう指摘は、患者治療の「本筋」ではないのだが、そこに私は中井の「耳」を感じる。中井は「複数の声」を広い領域から聞き取り、その「複数の声」で具体的な患者の姿をとらえようとしている。「複数の声」のなかに、患者といっしょに生きている「声」があると予感している。それを探そうとしている。(私は医者ではないので、治療がどういう姿であるべきかといいうことは考えられないので、どうしても脱線し、「誤読」するのかもしれないが……。)

発達期は、現在の課題に対応しながら別の成長のための分をとっておかねばならない時期である。その分までも食い込むとは、それは成人になる資本(もとで)をつぶしていることになる。

 これは「ある教育の帰結」のなかの、ひとつの「結論」として書かれた部分。この「結論の意味」に共感すると同時に、私は「資本」を「もとで」と読ませているところに、はっとする。「あせり」「ゆとり」「さとり」に通じるものを感じる。「頭」で整理したことばではなく、「身振り」に近いもので納得していることばというものがある。繰り返し聞くことでなんとなく「わかっている」感じのことば。その「なんとなく」を踏み外さないことば。
 「身振りでわかっていることば」というのは、ちょっと説明がしにくいが、こういうことばは詩にとってはとても強いことばである。「ほんもの」である。頭でつくったものではない、という意味で「ほんもの」。
 ここで「飛躍」してしまえば。
 中井の詩の翻訳のことばに感じるのは、この「身振りのことば」である。頭で理解し、整理したことばではなく、そこにいる人、その詩を書いた詩人の「身振り」をそのまま言いなおしたようなことば。「身振り」が動くことば。
 著作集1のタイトルになっている「働く患者」のなかに、患者は「治療という大仕事」をしている、ということばがあるが、この言い回しが「身振りのことば」そのものである。患者のいのちの内側から動いていることばだ。

 文章のいたるところに、他人の声に耳を傾けることで豊かにした中井の「もとで」が感じられる。中井の「もとで」は「生きているひと」そのものの「もとで」、「いのちのもとで」。
 これを整理することは難しい。たぶん、整理してしまうと違ったものになる。だから、思いついたまま、書いておく。私は勝手な読者なので、「誤読」を誤読のままにしておく。





中井久夫集 1 働く患者――1964-1983(全11巻・第1回)
中井 久夫
みすず書房
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石川慶監督「愚行録」(★★★★+★) 

2017-02-22 20:21:34 | 映画
監督 石川慶 出演 妻夫木聡、満島ひかり

 私は推理小説が嫌い。映画も「犯人探し」は大嫌い。すぐに「犯人」がわかってしまう。
 この映画の場合に、妻夫木聡がバスのなかで老人に席を譲れ、と他の客にからまれ、席を譲る。足をひきずるような感じで歩き、バスのなかで倒れる。降りてからも足をひきずって歩く。しかし、バスが行ってしまうとふつうに歩きだす。これは「ユージュアルサスペクツ」でケビン・スペーシーがラストシーンで見せたのと同じ「芝居」。この冒頭で、映画のすべてがわかってしまう。
 でも★4個+★。
 「犯人探し」は一種の狂言回し。「事件」の周辺で動いている複数の人間がていねいに描かれる。「人間」が描かれる。これが、なかなかいい感じだ。最初に妻夫木聡が取材する相手。テーブルの上に置いた妻夫木の名刺の上に、ビールのジョッキーがどすん。常識知らずだ。それをちらりとみつめる妻夫木の視線。細部がしっかりしている。これが★4個の理由。
 で、完成度の高い「短編」が組み合わさって「長編」になるという雰囲気。「長編」を「短編」に分割することで、「短編」ごとに「主人公」の姿を浮かび上がらせる、ともいえる。これは新しい作り方かもしれない。これで、私は★を1個追加する。
 さらに。
 こういうとき、「短編」をつらぬく主人公というのは控えめでありつづけなければいけない。「受け」というか「脇」というか。これを妻夫木聡がとても巧みに演じている。もともと「透明感」の強い役者だが、「透明感」を生かしている。「短編」ごとの「主役」に自己主張させている。妻夫木と、その場の「主役」が喧嘩しない。
 満島ひかりも、「自己完結的」な感じがおもしろかったなあ。
 それにしても。
 いまの大学生はたいへんだねえ。有名私立大学はたいへんだねえ。「未来」というものを、こんなふうに「現実的」にとらえているのか、と驚いてしまった。あんなに複雑に考えていて、生きることが面倒にならないのかなあ。
 「現実的な行為」を「愚行」と呼んでいいのかどうかわからないが、うーん、面倒くさい映画だぞ、という印象がなぜか残ってしまう。
                       (中洲大洋1、2017年02月22日)


 
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怒り DVD 豪華版
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荒木時彦『アライグマ、その他』

2017-02-21 10:33:57 | 詩集
荒木時彦『アライグマ、その他』(私家版、2017年02月10日)

 荒木時彦『アライグマ、その他』は反復の中で「時間論」を展開する。方法論としてはベケットに似ている。

今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、いつものように挨拶をした。彼も私の顔を見て、軽く会釈した。しかし、その挨拶は何かしっくりとこないものだった。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。見たところ、彼は確かにいつもの彼だった。一昨日の彼は、一昨日の彼らしかった。昨日の彼は、昨日の彼らしかった。しかし、今日の彼は、今日の彼という感じがしなかったのだ。今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた。
仕事から帰っても、今朝、バス停で会った彼に対する違和感が気になっていた。何故、今日の彼には<四月十一日的性質>が欠落していたのか。あるいは、彼に欠けていた<四月十一日的性質>とは何だったのか。日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない。               (「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」)

今朝、バス停で彼と会った。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。私は彼に軽く会釈した。私は、その日の仕事の段取りを考えながらバスに乗った。
夜、家に帰ってビールを飲みながら、<四月十一日的性質>について考える。四月十一日は、朝、目覚めた時からはじまっていた。彼とバス停で会った時、私は彼について少し違和感を覚えた。彼には<四月十一日的性質>と呼ぶべきものが欠落していた。その違和感は、日が経つにつれ、私自身にもわからないくらい少しずつ大きくなっていった。私は、彼がその日に失った<四月十一日的性質>は、一つの兆候だったのではないかと思っている。たとえば、腕時計が止まったことも、今日、バスが遅れたことも。兆候とは常に何かの兆候だが、それが何なのか、私には分からない。
                     (「ショッピングモールに行った。」)

 「今日の彼は、今日の彼という感じがしなかった」から、「今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた」という「欠落」の発見への飛躍はとてもおもしろいと思う。しかし、「<四月十一日的性質>とは何だったのか」という問いから、「日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない」という結論(?)へ進むのは、抽象的すぎて興奮が冷めてしまう。「形式」という「抽象」が追加されたからかもしれない。この動きが、どうも私にはもの足りない。主語が「私」から「彼」へと転換するのも、「私」の感覚を半分放棄しているように思える。集中力が途切れたように感じられる。

 「抽象」の追加は、反復される部分では、「違和感」を経てさらに「兆候」ということばに動いていく。「抽象」が加速する。
 「抽象」は「抽象」へと動いていくと、「時間」そのものが「抽象」になる。「<四月十一日的性質>の欠落」という「抽象」のあとは、「事実」のみを積み重ねないとおもしろくない。すでにベケットは「<●●的性質>の欠落」ということばをつかわずに、「事実」のみを反復することで「欠落」という「時間の重力」を描いているから、それを反復してもしようがないということかもしれないが。

彼は四月十四日が日曜日であることを知っていた。昼過ぎに妻と一緒に近所の公園に散歩に行くと、彼は六歳になる子供とサッカーボールで遊んでいた。もし、彼が、四月十一日が木曜日であることを知らなければ、今日が日曜日であることを知り得ないのだ。もちろん、彼に<四月十一日的性質>が欠落していたことと、彼が、今日が日曜日であることを知っていることは関係がない。

 さて、クイズ。
 この「部分」は「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」だろうか。「ショッピングモールに行った。」だろう。
 答えは「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」である。それも、実は、私の興奮が冷めた一つの理由である。「私」から「彼」への移行についてはすでに書いたが、この部分で「主役」は完全に「彼」になってしまっている。「欠落していた」と感じたのは「私」であるのに、「私」の感覚は問題にされず、「彼」の問題になってしまう。
 もちろんこの部分から「私」と「彼」は同一人物であるという形で、ことば全体を反復する(比喩にしてしまう)ということもできるし、そうしたい欲望に誘われるのだが。どうも、つまずく。
 「日付という形式」が「曜日という形式」へと簡単に転換してしまうときの反復のありかたに私は覚めてしまう。ことばの対象を指し示す働きと、対象を意味に変えていく時の運動が軽すぎるように思える。「日付(形式)」と「曜日(形式)」の関係は「比喩」になりえていない。「四月十一日の欠落」のような「暗喩」の力がない。ことばに「論理」を要求する力がない。
 流行りのことばで言えば、「換喩」が動き出してしまう。「日付」と「曜日」を結びつけた瞬間に「暗喩」が消えてしまう。「換喩」は単なる言い換え。僧侶を「袈裟を着た男」というようなもの。飛躍がない。そのかわりに「僧侶=袈裟」という「共有された論理」がある。
 「比喩」は「独創」であり、そこから「論理」が捏造され、それを読む時読者は「暗喩」の「共犯者」になるが、「換喩」には「独創」は入り込めない。
 「袈裟」を来ているのが僧侶であるということが「共有」されることで、「袈裟を着た男」が「僧侶」になる。「認識の共有」が「換喩」を成り立たせている。
 別の「換喩」を例にしてみようか。たとえば「早稲田の学生」は「角帽をかぶった男」。角帽をかぶった早稲田の学生を見たことがない人、早稲田の学生帽が角帽であることを知らない人には「換喩」は通じない。どこかの大学生らしい、というところでとどまってしまう。
 そういう「共有された論理」へ入り込むことで、「抽象」を否定しようとしているのかもしれないが、どうだろうか。
 「四月十四日が日曜日」なら「四月十一日は木曜日」。この「論理」を成り立たせているのは何だろう。「共有されている論理」だが、それは「論理」というよりは「常識」であって、味気ない。荒木のつかっていることばを借りれば、「論理」というよりも「関係」というものかもしれない。
 荒木は「関係がない」と「ない」という否定を持ち出してくるのだが、どうも、この「ない」は「欠落」とは違う。「欠落」をむしろ否定してしまうように思える。

 とてもおもしろいことを書こうとしているだが、おもしろくなりきれていない、という不満の方が動いてしまう。たとえば広田修なら、「<四月十一日的性質>の欠落」から、どうやって論理を動かしていくだろうか、というようなこともちらりと考えてしまう。


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深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」

2017-02-20 10:21:54 | 詩(雑誌・同人誌)
深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」(「ぷらとりあむ」1、2017年01月21日発行)

 深沢レナ「神経症のレッサーパンダ」は動物園でレッサーパンダをみたときの詩。同じところをまわり続けている。「僕たちはその様子を長い間眺めていたが/もしかしたら神経症なのかもしれないね、という結論に達した」と書いたあと、

硬い雨が透明な薄いカーテンとなって
僕たちと彼を一つの空間の中に閉ざした

 「一つ」ということばに引き込まれた。これは、すぐにこう言いなおされる。

ガラス一枚を隔てて
見られているのは僕たちなのか彼なのか
回っているのは彼なのか本当は僕たちなのか
そんなことを考えながら
僕たちはずいぶん長いあいだ彼の前に立っていた

 「一枚」ということば、「一つ」につながることばが出てくるが、これは「一つの空間」を否定する。「一枚のガラス」がレッサーパンダと僕たちを隔てる。しかし、そこに「否定」が入ることで、逆に直前の「一つ」が強くなる。
 そして「僕たち」と「彼(レッサーパンダ)」の区別がなくなる。「空間」ではなく「僕たち」と「彼」が「一つ」になる。
 この変化が、「隔てる」という「矛盾」を含んでいるために、とても「自然」になる。こういう書き方では「説明」したことにならないのだが、私はそこに「自然」を感じた。「論理」的には矛盾しているというが、矛盾を含むのだけれど、その矛盾を「解消する」のではなく、「飛び越す」。あるいは矛盾そのもののなかに「入っていく」と言えばいいのか。
 「一つ」ではないものが「一つ」になってしまう。
 そこから、「一つ」を離れ、人間に戻っていく。人間に戻っていく、というのは変な言い方かもしれないが。

指先が冷たく痛みはじめ
少しあたたまろうと
小さな食堂に入ってコーンポタージュを頼んだ
それは粉っぽくて、薄くて
そしてなによりあたたかかった

 「粉っぽくて、薄くて」はまずい。まずいのだけれど、逆に温かさが強調される。いや、温かさを発見し、そこに集中していく。この矛盾(いやなもの)の飛び越え方もおもしろい。「人間に戻る」と書いたけれど、ここはレッサーパンダが「人間になる」と読んだ方が楽しいかもしれない。

 で。
 その最後。

僕たちはコーンポタージュを飲みながら
神経症のレッサーパンダのことを思い出し
あの尻尾を首に巻いてみたらきっとあたたかいだろうね、という結論に達した

 「思い出し」で完全に「人間(僕たち)」に戻って「結論」を出す。「結論に達した」というのは、前にも出てきた。
 あ、深沢はいつも「結論」を求めてことばを動かしているのか、と私はこのときになって、やっと気づく。
 「結論に達した」が反復されることで、前半と後半が「二部構成」で重なり合う。「前半」の散文的な部分はまさに散文であり「事実」を外側から「客観的」に描いたもの。「後半」は「心情(心理)」風景を描いたもの、ということになるのか。
 「事実」(客観)から出発し、心情(主観)をくぐり、それを統合することで「結論」にする。その動きを「詩」と考えているのかもしれない。

 うーん。
 しかし「結論」は深沢ひとりが抱え込むことにして、詩では「結論」を書かない方がおもしろいかもしれないなあ。この詩の場合、最後の三行がない方が、寂しくて、レッサーパンダになった気持ちになれる。
 深沢は人間に戻ってきたいのかもしれないけれど、私はレッサーパンダのままコーンスープを飲んだ方が「あったかい」と思う。「神経症」からときはなたれて、ゆったりした気持ちになれる。私は、その「人間になったレッサーパンダ」になってみたいなあと思うのである。首巻きにはなりたくないなあ、とも。

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千人のオフィーリア(メモ29)

2017-02-20 09:28:03 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ29)

水は見ていた、水をみつめるオフィーリアを。
水は晴れ上がった空を映す水の色。

梢から雨の名残が落ちてくる。水面に小さな輪を描いては消えていく。
水は聞いていた、その音楽に耳をすませるオフィーリア。

高いところで知らない小鳥が鳴いた。
さえずりは鋭くちらばる光になった。

水は見ていた。
オフィーリアが水を踏むのを。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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溝口健二監督「山椒大夫」(★★★★)

2017-02-19 20:32:12 | 映画
監督 溝口健二 出演 田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎

 田中絹代は不思議な俳優だ。「楢山節考」もそうだが、この「山椒大夫」も一種の「物語」である。実際にありうることかもしれないが、架空の話。それなのに田中絹代が出てくると、それがリアリズムにかわる。「肉体」が物語をのみこんでしまう。ただしリアリズムといっても、「現実」の押し売りではない。「悲惨」の押し売りではない。なにか「ゆとり」がある。「形式」がある。「生きている」人間という「形式」が。
 「サンダカン八番娼館望郷」も、何か人間が「純粋」ないのちに昇華して、そこに生きているという美しさがあふれている。
 この映画のとき、田中絹代が何歳なのか知らない。まだ若いはずだ。実際、最後の「老婆」のシーンでは、張りつめた肌が「若く」て、顔に注目してしまうと「老婆」ではないのだが、「動き」が「老婆」である。「間合い」と言った方がいいかもしれない。「肉体」が動いて、それを「ことば」が追いかける。「肉体」の小さな動きのなかに「感情」がつまっていて、それが動くと、そのあとをおそるおそることばが追いかける。ことばはなくてもいい。ことばは、たぶん「追認」である。ことばによって、観客は「感情」を再確認するのだが、これはあくまで再確認。「押しつけ」ではない。「感情」の押し売りではない。だから美しい。
 田中絹代、花柳喜章の再会のあと、そんな再会の感動など知らない、という感じて老人が浜辺で仕事をしているシーンで映画は終わるのだが、このシーンが信じられないくらいに輝かしいのは、直前の田中絹代の演技があるからだなあ、と思う。
 この映画は、田中絹代以外にも見どころがある。ススキのシーンは、ロケなのかセットなのか、よくわからないが、ススキの輝きが美しい。(「警察日記」で三国連太郎がススキをかき分けて走るシーンのススキも美しいが。)花柳喜章が山を降りる寸前の、山から見た麓のシーン、そこへ駆け下りていくシーンも、とても美しい。
 国分寺や関白の館はセットなのか、実際にある寺や建物でロケしたのかわからないが不思議な美しさがある。リアルを超越している。他のシーンもそうだが、「形式」に到達している。ススキのシーンや、山を駆け下りる瞬間のシーンも、ひとつの「形式」である。整えられている。
 これが、この「物語」にぴったりあっている。虚構のなかでしか確認できない何か、そういうものを静かに浮かび上がらせている。
 溝口健二の代表作というわけではないと思うが、森鴎外が大好きなので、この映画を見てしまった。ほかにも溝口監督シリーズで上演していたのだが。
                        (中洲大洋、2017年02月18日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

山椒大夫 [DVD]
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倉橋健一「胎内遊泳」

2017-02-18 10:54:12 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「胎内遊泳」(「イリプスⅡ」21、2017年02月10日発行)

 倉橋健一「胎内遊泳」は、倉橋が「胎内」にいるときのことを書いたのだと思うのだが。

わけ知らずわたしのいちばん好みの灯明は
なんといっても明治の初期銀座にはじまった
青白いガス燈の放つあの色調に尽きるが
その原因もどうやら母親の胎内で見た暁暗からはじまっている

 「胎内で見た」と書いているから、倉橋は「胎内」にいる生まれる前の「胎児」なのだろう。ここまでは、まあ、そう思って読むのだが。

とんでもない生き物の胎内に物象などあるはずがないのだ
だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく
ちょうどおむつをつけたままの幼ごがおむつ遊び人形に夢中になるように
身妊る前から共犯関係をしいたのだった

 「論理的」に何かを書こうとしている。その「論理」のなかに、奇妙なものがあり、それが私を混乱させる。。
 「わたしのなかの幼い母親」というのは、「わたし」が思う(想像する)母親という意味(論理)なのだが、つまり「母親」は「想像の母親」なのだが、ここで私はつまずく。
 私は、「論理」とは逆に、あ、倉橋はこのとき「母親」になっている、と感じた。「母親」になって、「母親」から「胎児」を感じていると。
 「胎児」から「母親」を想像しているのではなく、「母親」から「胎児」を想像している、と。

 倉橋は男なのだから、「母親」は「肉体」で思い出すというよりも、想像力で描き出すものなのだが。

 「わたしのなかの」の「なか」が、どうも、私に「誤読」せよ、と呼びかけてくるである。「わたしのなか」は「わたしのあたま(論理)のなか」であり、また「わたしの想像のなか」ということなのだが、私はこれを「わたしの肉体のなか」と読んでしまう。「わたしの肉体がおぼえている」と感じてしまう。「胎児のわたし」は包まれているのだが、この未生の肉体に比べると「母親の肉体」の方が存在感が強くて、そのために「胎児を包んでいる肉体(母親)」の方が前面に出てくる。私は「頭」で考えられたものよりも、実際にそこにあるものの方を信じてしまう癖があるのだろう。この私の「感じ」は明らかに「誤読」なのだが、「わたしのなかの」の「なか」ということばが気になって、「誤読」に誘われるのだ。

 何かを想像するということは、その「対象」になってしまうこと。いれかわること。これを「共犯」と呼ぶと言いなおせるかもしれない。

 基本的には倉橋が「胎児」になり、そこから「母親」を想像するという構造なのだが、読んでいると「母親」が「胎内」の「胎児」を想像しているという具合に、逆転が起きている。倉橋は「母親」になって「胎児」の倉橋を想像している。それも「頭」ではなく、「肉体」で。
 「肉体で」というのは、「頭で」というのとは違って、「想像する」というよりも、「思い出す」とい感じ。覚えているものを「思い出す」。知らないものを「想像する」のではない。

そういえば母親の胎内には深い樹液もあった
広々とした樹冠(クローネ)に抱かれてひっそりと揺られながら
孤独(ひとり)をかこつために睡り
孤独をかこつ自由もこんなふうにあるのだと
とおいとおいところからの声で
未生以前にすでに聞かされていた気がする

 これは「胎児の倉橋」の「記憶」として書かれているのだが、私は「母親になった倉橋」が「想像」していると読んでしまう。「胎児」は「胎内」で「孤独」を生きている。「孤独」を学んでいる。この子は「孤独」が好きな子になるかもしれない、などと想像している。あるいは「孤独」になれ、と呼びかけているとも感じる。
 想像というよりも「予感」かなあ。「直感」かなあ。「予感」とか「直感」というのは「頭」で考え出すものではなく、「肉体」の反応だから、ここに書かれていることばが「男性の文体」であるにもかかわらず、女の声(女の肉体)として、迫ってくる。
 どうにもうまく説明できないのだが、この詩を読むと、「胎児」になったという感じではなく、「母親」になった感じがしてしまう。
 「母親」が「胎児」を感じている。「わたし」が「母親」になるためには「胎児」が必要なのだ。「胎児」によって「母親」にかわっていくのだ。「胎児」によって「母親」として生まれる。生まれ変われるのだ、と感じている女。
 初めて「母親」になる「女」になった感じて、読んでしまうのである。

だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく

 というの「男の論理」で「母親」を想像していることばなのだが、「女の初めての記憶」のようになまなましく響いてくる。
 変な詩だなあ、と思う。「変」というのは、何度でも読み返したい。もっと考えたいという意味なのだけれど。

化身
倉橋 健一
思潮社
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山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』

2017-02-17 09:56:33 | 詩集
山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』(Editions Hechima、2016年11月28日発行)

 山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』にも「意味」というか、「文学」が出てくる。ただしそれは伊藤浩子『未知への逸脱のために』とは全く異なる。「e fango e il mondo」の全行。

そして世界は泥である

夢のなかで泳いでいた
夢の空間を
夢の文法があり
夢の論理があった
そこでは、
レオポルディと三島由紀夫が
ひそかに笑い合っていた
ボルヘスとホイジンガが
高い塔を見上げていた
ジョブズとラカンはともに
座禅を組んでいた
春の雪が降り
薔薇色の虎がゆき
ありとあらゆるスイッチは消えた
どこから「そこ」へ入っていけばいいのか?
姉たちよ! と、シャールはとなえる
見知らぬ魚たちに祈りを捧げる
そして世界は泥である

 複数の「固有名詞」が出てくる。それは「芝居」で言えば「役者」である。「役者」が「肉体」という「過去」をもっているように、それぞれの「固有名詞」は「ことば」の「過去」をもっている。芝居を見るとき、ストーリーとは無関係に「役者自身の肉体の過去」を見る。「存在感」を見る。もっとも、その「見る」というのは大半が「誤解」である。ほんとうにその役者の「過去」を知っているわけではない。なんとなく感じてしまう「過去」である。「女たらし」とか「子煩悩」とか。サドだとか、マゾだとか。偏執狂だとか。それは自分の肉体の中の、かなえられない欲望の姿かもしれない。
 で。
 それが「ほんとう」かどうかは知らないが、私たちは好き勝手な「過去」を選んで、役者の「芝居」を膨らませる。役者自身も膨らませるのだけれど、観客の方でもかってに想像力を暴走させる。
 三島由紀夫が「春の雪」を書いた。ボルヘスは薔薇色かどうか知らないが「虎」を書いた。ジョブズは禅に惹かれていた。「固有名詞」の「事情」など気にしないで、そこから勝手に暴走する。それは「正しい」こともあれば「間違っている」こともある。そして、どちらかというと「間違っている」ことの方が多い。山下晴代は「間違い」の方を選ぶ。つまり、山下の「好み」を優先させる。そこが、いわゆる「頭脳派」と違う。「頭脳派」は「正しさ」にこだわってしまう。「固有名詞」を「正しく」理解するかもしれないが、自分自身に「嘘」をつく。自分自身を「間違える」。
 ひとはだれでも間違える。しかし、間違えるには間違えるだけの原因がある。その原因が「個性」であり、それがおもしろいのである。西脇に百人一首をテキトウに現代語訳した詩があったが、あの訳というか解釈は「でたらめ」である。しかし、それはわざとやっている「でたらめ」であり、その「でたらめ」のなかに、どうしても出てきてしまう西脇の「本質」があり、それがおもしろい。山下のやっていることは、それに近い。どうしても出てきてしまう「本質」が「本物」であるから、表面的な「間違い」はどうでもいい。表面的に「間違い」を犯さないことには語れない「本質」というものがある。

 詩集のタイトルになっている作品の第一連。

しなの町の文学座アトリエに行くと
まだ開演前で
年配の女優たちがアトリエ前の敷地で
たき火を囲んでいた
杉村センセイ! と
北村和夫も江守徹も
抱かせていただきます! と、尊敬しながら
看板女優を抱いた

 ここに書かれているのはゴシップである。「ほんとう」かどうかは、北村和夫、江守徹、杉村春子に聞いてみないとわからない。三人がそのとき「ほんとう」を語るかどうかわからない。ゴシップが「嘘」であっても、演劇ファンには「ほんとう」である。それが「ほんとう」であってほしいと、ファンは欲望する。ファンの「本能」がゴシップのなかで「事実」になる。人間の「欲望(本質)」をすくいあげて、「事実」として「結晶化」させるときの「ことば」。それは「間違い」であっても「真実」。「間違う」ことでしかつかみとれない「真実」。
 露骨に書けば、杉村春子がセックスしてみたい女であるかどうかは関係ない。セックスして、気に入られれば引き立ててもらえる。俳優として成功する道がひらけると思えば、北村和夫は杉村春子を抱くだろう。「抱かせていただきます!」といいながら。それは、こっけいである。惨めである。しかし、人間はそういうことをするかもしれない。そういうことを「してみたい」かもしれない。否定と肯定が、区別がつかない。その「混沌」から、どっちへ踏み出すか。どっちへ踏み出そうが、「混沌」をくぐりぬけることが何かを生み出す。
 そうやって「生み出されたもの」が詩である。あるいは、「生まれる瞬間」を描き出すのが詩である。
 この作品は、途中で小林秀雄の杉村春子批判のことばを挟んで(批評バネに)、「間違いだらけの真実」を批評に転換してみせる。(小林秀雄のことばを引用した方がわかりやすいのだが、省略)

そう、技巧だけで何かになれると
思われていた時代
シング! などといってみても
誰もアイルランドなどに
行ったことがなかった
杉村春子は
広島の出身だったか
演劇ハンドブックにある
日本標準アクセントではなく
東京下町のアクセント
を、正しいと思って
身につけていた
だからテレビドラマでも
「よその人」という時、
「よ」の上にアクセントを持ってきていた
 さういふ時代
 が日本にもあった、だが
 もう誰も、杉村春子など
 思い出しはしない

 「過去」の存在、「過去」を覚えている。けれど、「思い出さない」。その「思い出さない」ものを「思い出させる」。「過去」はどんなに間違っていても「過去」という真実になる。間違っているからこそ「真実」になると言えばいいか。
 この批評性の強さが、山下の力である。批評のあらわし方が山下の個性である。

 「頭脳派」は間違いをおかさないようにことばを整え続ける。「普遍」をめざしながら「自分」という「事実」を忘れてしまう。何も「思い出さない」こと、「覚えていること」を「否定」することで「普遍」を目指すという、奇妙な「間違い」をしつづけている。そういう視点から山下のことばを読むと、その強さが際立っていることがわかると思う。

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伊藤浩子『未知への逸脱のために』

2017-02-16 10:00:29 | 詩集
伊藤浩子『未知への逸脱のために』(思潮社、2016年10月30日発行)

 伊藤浩子『未知への逸脱のために』は「意味」が先走る。タイトルもそうだが、「未知」「逸脱」ということばにはすでに「意味」が存在し、しかもその「意味」は伊藤のなかで完結している。まるで「翻訳」を読んでいる気持ちになる。「意味」は「原典」(伊藤の頭のなか)に存在していて、その「解説」を「日本語(読者に理解できることば)」で聞かされてる感じ。伊藤の「肉体」が直接ことばをつかみとっている、「肉体」とことばがぶつかっているという感じがしない。

沈黙を纏ったひと
霊歌よりも深く奏でるひと
物語りにこまやかに自由を編むひと
その肩を抱いてもいい?
星座と 流された血と 記されなかった文字とで
黝い波の果てに訊ねている            (「日々の痕跡」《モード》10)

 「意味」は「過去」と言ってもいい。「沈黙」と「霊歌」、「霊歌」と「物語」をつなぐ「過去」、「星座」と「血」をつなぐ「過去」というものがある。ただし、それは伊藤の「肉体」というよりも伊藤の「頭」のなかに「意味」として存在している。
 「意味」が確立している、ととらえればいいのかもしれないが、確立してしまっている「意味」なら詩にする必要はないだろうと思う。「意味」以前のものを「ことば」そのものとして生み出していくのが詩だと私は思っている。
 「In The Room 」の部分。

日常がいくらかでも遠ざかっているうちに、からだの部位をなぞり、
影の吐息を映し出している、ほどけたのは、曇り硝子だったか、波
の記憶だったか、それとも。

 「ほどけたのは、曇り硝子だったか」ということばは、その直前の「影の吐息」と重なることで「肉体」にかわる。ほどけたのは「肉体(吐息)」だったか、「曇り硝子」だったか。断定をこばむことで、それが「ひとつ」に融合する。
 こういう部分はおもしろいと思うが、「からだの部位」の「部位」が「意味」でありすぎる。「なぞる」とき、「からだ」は「部位」なのか。「部位」としてとらえてしまう「頭脳」の強さが、私は嫌い。言い換えると、私はこういう「頭脳の強さ」というものを信用していない。
 「In The Room 」に通じることだが、「予兆、そしてエロチシズムという不安の」の書き出し。

海の見えるホテルのひとつめの部屋に浮かぶ岩は悲哀。
親殺しの無色の薔薇に由来する、夏だったかもしれない、嵐だった
かもしれない。あるいは裕福な庭園の外れなのかもしれなかったが。

 「岩」は「悲哀」の象徴か、「悲哀」の象徴が「岩」か。どっちでもいいが(どっちでもいいということはない、と「頭脳派」伊藤は言うだろうが)、この相互が断定が、とても「翻訳」っぽい。「肉体」ではなく「知識」が入り込んでいる。「翻訳」っぽく感じるのは、こういう断定が西欧の文体の特徴だからかもしれない。「もの」と「概念(感情というよりも、悲哀とは何か、という概念)」の結合。そこに詩を感じるためには、まず「概念の歴史」というものを持たなければならない。私は「概念の歴史」というものには興味がないので、どうしても「遠い世界」に思えてしまう。ついていけない。
 「エロチシズム」というのは「肉体」で感じるものだと思っているが、伊藤は「頭脳」で「理解」しているのだろうか。
 繰り返される「かもしれない」は「頭脳」の揺らぎである。「肉体」は揺らいでいない。「親殺し」も実際に親を殺すという「動詞」ではなく、「親殺し」という「名詞」になってしまっている。「名詞」だから、平然と「無色の薔薇」という比喩と結びつく。あ、「無色の薔薇」は「親殺し」の「象徴」として働いていると言うべきなのかな?
 「岩」の変遷を見ていくと、伊藤の「翻訳」好みがさらにわかりやすいかもしれない。
ふたつめの部屋の岩は愉悦。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。

 「悲哀」「愉悦」「未来」。この熟語を、私の「肉体」は繋ぐことができない。「悲哀(感情)」「愉悦(官能)」は、まだ「肉体」のなかに「ある」といえるかもしれない。「悲哀」「愉悦」は「肉体」であると言えるかもしれない。しかし「未来(存在しない時間)」を「肉体」であると呼ぶのは、私にはできない。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。
欠落を見落とした不機嫌な妖精がつくる、夜と昼とを無知と智慧と
で跋扈せよ。
そして断絶も境界も拒みながら光のように、

 私は「妖精」を見たことがないから、そんなものが何かを「つくる」とは思わない。むしろ「無知と智慧」というものが「妖精」をつくりだしているのと思う。「頭脳」がつくりだしているのだと思う。
 それはそれで、いいのかもしれないが。
 この詩の最終行。

あなたはますますかるくすばやく生まれ変わる。

 「妖精」は「かるく」「すばやく」ということばになって動いている。「生まれ変わる」とは「エクスタシー」、自分の外へ出て行ってしまう、自分でありながら自分ではなくなるということであり、それが「エロチシズム」の力と言うことになるのだが。
 うーん。
 「結論」だけ整えられてもなあ、と思う。

 「結論」をこわす、「意味」をこわすのが詩ではないだろうか。
 「頭脳派」の詩人の作品を読むたびに、私は苦しくなる。「頭脳派」のひとが悪いのではなく、私の頭が悪いだけなのだが、頭の悪い人間というのは自分は頭が悪いということを認めたくないので、頭のいい人に文句を言うのである。
 まあ、そう思ってください、はい。

未知への逸脱のために
伊藤 浩子
思潮社
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峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』

2017-02-15 16:57:05 | 詩集
峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』(七月堂、2017年02月01日発行)

 峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』は外国を旅行したときの詩を集めているのだろうか。

バスに揺られているあいだは
息が吸える気がした
遠ざかってゆく、のか
近づいて行くのか
もう誰にもわからなくなっていたから          (「パリ、16時55分着」)

 「わからない」こと、決定しないことによって、「肉体」が解放される。新しく生き始める。不安があるかもしれないが、それが逆に「生きている」を静かに刺戟する。「遠ざかってゆく、のか/近づいて行くのか」という反対のことが、そのまま「いのち」になってゆく。「息が吸える」のなかで生きている「肉体」が強い。

ゆく、も
帰る、も
いちどに見失い                          (「夜行」)

 というような行も見える。
 そういうことばのなかにあって、

動かない回転店木馬のそばで
雨がつづいていることに
ひとり 安心している                       (「滞在」)

 の「雨がつづいている」と「安心」の結びつきが、とても印象に残る。「時間」がたしかにそこに存在する。「時間」が「つづいている」ということのなかで、自分が「つづいている」を呼び覚ます。
 これは「冬祭り」という詩のなかで、美しく結晶する。

まだ暗い部屋で目をさます
ぱちぱちと 古い本が燃える匂い
雨か それとも
はぐれた鹿が枯れた枝を踏む音
みずうみか 森が近いのだろうか
方角やことばがわからないぶんだけ
旅の空はくもってしまうのだから
カーテンはいくら開いても
何も見ないためにここまで来たと
信じてもいいほどの霧

あれは雨でも けものでもなく
見る、という時間が
この霧に許されて
少しずつ燃え落ちてゆく合図だとしたら

昨日 車窓を流れていた駅の名や
数年前に離れていったひとの頬
そうした目に焼きついたもののすべてが
いつかすれ違った冬祭りの少女たちのように
白い息だけを
どこまでもまとって
閉ざされた冬を抜け
みずうみをまわり
森の緑へと放たれてゆく

 「見る」は「見た」という「過去」となり、これから新しく「見る」という「未来」を生み出していく。「時間」そのものを再生させる。
 「古い本」あるいは「枯れ木」を「燃やす(燃える)」から始まり、「森の緑」へと動いていく自然な強さ。それを峯澤は読者を誘い込む静かさで書いている。

 後半の「桃」「校庭」は日本でのことを書いていると思うが、この二篇も美しい。桃を買って帰る、そのことが

そのことが
帰り道を明るくした
やっと迷わなくなった道で
顔をあげてもいい明るさだった

 この「発見」が特に美しい。「発見」は、この場合、最初からそこにあったものをみつけるというよりも、峯澤が「生み出した」もの。「発明」といったほうがいい「明るさ」である。


ひかりの途上で
クリエーター情報なし
七月堂
コメント (1)
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