詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドアルド・ファルコーネ監督「神様の思し召し」(★★)

2016-08-31 18:16:43 | 映画
監督 エドアルド・ファルコーネ 出演 マルコ・ジャリーニ、アレッサンドロ・ガスマン

 これは、やっぱりイタリアならではの映画なのかなあ。「神(キリスト)」と言われても、私なんかはピンと来ない。
 むしろ、逆に、「神」の存在について神父が語るシーンなんかは、私は「禅宗」を感じてしまったりしたのだが。
 「朝、目が覚める。何かがさっと顔をなでる」「風だろう」「いや、神だ」「雲を見ると、いろいろ形を変える。……とかニンジンとか。あれも神だ」「神は教会にいるのじゃないのか」「あんな狭いところにはいない」というやりとりとか「梨がなっている。あれが落ちるのは、重力のせいだと思うだろう」「あれも神だというのかい?」なんてね。これなんかは、「仏はいたるところにいる。草木は仏であり、仏は草木だ」というのに似ているなあ。何かが存在するとき、その存在になって仏があらわれている、という思想。
 これって、「キリスト教」の考えなのかなあ。

 まあ、それは脇においておいて。
 神を信じなかった外科医が、息子が神父になるという。あわてた外科医が、息子に影響を与えた神父に接近し、神父のいかがわしさを証明しようとする。そうすることで、息子をもう一度、医学の世界へ引き戻そうとする、というのがこの映画のストーリー。
 このストーリーにはつねに「対」が登場する。
 外科医が「利己的(幅がない)」のに対して、神父が「うさんくさい(肉体に幅がある)」。この対比を、主演の二人が巧みに演じているのだが、そうしてみると、「うさんくさい」と感じる人間というのは、「利己/どんな利益を得ようとしているか」が明確に見えないということなのかなあ、なんていう思いがふとわいてきたりする。
 対比はつねに外科医と誰かとの対比になってしまう。「利己的/理知的」な外科医は「神」を信じないが、「理知的」とは言えない息子(医学部の授業に苦労している)は「神」を信じる。「愛(セックス)に対して冷淡」な外科医(夫)に対し、妻は「愛(セックス)に飢える」、そして、かわりに愛をそそぐ相手を求めて養子を増やす。妻は、自分の「愛を受け入れてくれる」ひとを求めている。「聡明」な外科医に対し、娘の夫は「利己的(あくどい不動産屋)」であるけれど「愚か」。「贅肉のない/規律正しく自己を律している」外科医に対して、彼のもとで学んでいる女性医師は「肥満/自分の欲望をあまやかしている/だらしない」感じである。数えあげるときりがないのだが、要約(?)すると、
 「利己的」とは「理知的(聡明)/冷淡/痩身」、「うさんくさい」は「理知的ではない(愚か)/愛情/肥満/だらしない」というような感じ。「神父」は外科医以外のすべての人間の要素を「肉体」のなかに抱え込んでいる
 外科医は、神父を「媒介」にして、自分が排除してきた「うさんくさい」ものと直接触れ合う。拒絶していたものと「対話」する。そうして「うさいくい」を少しずつ「人間」の「要素」として受け入れていく。「人間らしく」なっていく。
 こんなふうに書いてしまうと、うーん、いやあな「道徳の教科書」みたい。
 あ、これが問題なんだなあ。
 おかしくて、どうしても笑いながら見てしまうのだけれど、こういう「人間性」を回復するというテーマの映画は、どうしても「道徳的」になってしまう。
 悪くはないけれど、「これがいい」という感じにはなれない。
 ラストシーンというか、ラストのエピソードなんかも、まるで「教科書」みたい。人は自分ひとりで何かをするのではない。他人に任せることも必要だ。他人の力を借りることも必要だ。それは他人を認め、受け入れること。そして、そうやって他人を受け入れることが、人間を「神」に近づける、という「主張」は、とくに、私は「感動的だからこそ、いやだなあ」と思ってしまう。教会の床に落ちたペンキを剥がすことで、神父の手術が成功するように、と祈る、なんて、うーん、こんな道徳は押しつけられたくない。
 それから、梨が落ちるのを見て、「神は存在する」と、半分笑いながら受け入れるなんていうのも、映画のストーリーとしてはそうなるしかないのだろうけれど(喜劇だから、それでいいのかもしれないけれど)、なんとなく、いや。

 ということと、関係があるかないか、よくわからないのだが。
 この映画には、はっと飲み込まれてしまうシーンがない。この演技、真似してみたい、と思う部分がない。
 先日見た「後妻業の女」。大竹しのぶが「財産は全部私が相続します」と言うときの、「喜び」が肉体の奥からわきあがり、口元がゆるむ顔なんて、あ、これ、やれるかなあ、やってみたいなあ、と思わせるでしょ? 「善」とか「悪」というような「倫理的」な基準を忘れて、その「肉体」を自分のものにしてみたい。そう感じさせるシーンがないと「芸術」とは言えない。「芸術」というのは、いま、世界に流布して、世界を律している基準を破壊し、人間の欲望を解き放つ経路。
 そういうシーンがないと、「映画を見た」という感じにはなれない。「教訓を聞かされた」という感じが残ってしまう。
                     (KBCシネマ2、2016年08月31日)



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北原千代『真珠川 Barroco』

2016-08-30 10:53:20 | 詩集
北原千代『真珠川 Barroco』(思潮社、2016年07月31日発行)

 北原千代『真珠川 Barroco』には、不思議な「わかりにくさ」がある。「わかりにくい」というのは、言いなおすと、何かが「わかる」のだけれど、それがうまくつかみきれないということ。「わかる」と「わからない」のあいだに誘い込まれるようにして読み進むのだが……。

エウロパ
という木星第二衛星のあかい地肌を図鑑に見ながら
果てないところからひかりはどのように
傾き欠けた図書室に届くのだろう
書架にもたれかかり 私は訝る                 (「聖母子」)

 「わかりにくさ」の原因は、文体の「長さ」にある。この一連目は「届くのだろう」でいったん句点「。」をつけて、ふたつの文章にわけることができるが、「届くのだろう」のあとに「と」という「助詞」を補って「訝る」につなぎひとつの文章にもできる。「意味」としては「と、訝る」の方が「論理的」である。つまり「私は、訝る」という「主語+動詞(述語)」が完結する。「訝る」の「内容」は別個に言うことができる。
 で、この「主語+述語(動詞)」が、実は、いま書いたように単純ではない。
 言いなおすと、「私は+訝る」とは別に「私は+見る(見ながら)」という「私」を主語にした文章もある。「私は+もたれかかる」という文章も、いっしょに動いている。「私」の「動詞」は、「分散」して存在している。
 それとは別に「ひかりは+届く(のだろう)」という文章があり、その「ひかり」という「主語」は、実際には「エウロパ(のひかり)」であり、「木星第二衛星(のひかり)」である。修飾語(修飾節)が、複数の行に「分散」している。
 この「分散する」文体が北原の特徴かもしれない。
 「分散」しているのだけれど、その「分散」には、一種の「定型」がある。「私は(図鑑を)見ながら(見て)訝る。」(見ないことには、訝る、という動きは生まれない)。「私は、(書架に)もたれかかり、訝る」というとき、「訝る」はちょっと「真剣」から離れる。「軽く」訝るという感じがする。真剣に、答えを求めるというよりは、軽くことばを動かしてみるという感じ。「訝る」は「疑う」とか「悩む」とは違う。それが「(書架に)もたれかかる」という動詞で、静かにつながる。
 この静かなつながりという「定型」は、「図鑑」「図書館」「書架」という「場」のつながりにも、それから「エウロパ」を「図鑑に見る」、「果てない/ひかり」「傾きかけた/図書館」というつながりにも共通する。「論理的」である。そしてその「論理」は翻訳というか、西洋風の「論理」を感じさせる。
 「分散」するけれど、そこには静かなつながりがあり、「論理的」な統一があり、深い「断絶」や「飛躍」はないので、「わかりやすい」。しかし、「わかりやすい」というのは、その瞬間の「誤解」であって、実は「わからない」と言うしかない。「わかりやすさ」が次に「わかりにくさ」を生み出していく。
 二連目は、こうつづく。文体が突然変化する。変化したように、私には感じられる。

エウロパを巡る血管欠陥が窓に浮かびあがる
放課のこどもらが
魚がいるよ! と喚きたて
天体図鑑はわたしの手から 若者の温かい手へ
やわらかい湿った幼い手へ ついに
夏服を着たあおじろい妊婦の下腹に睡る児へ 渡され
さらに傾く図書室

 一連目の「あかい地肌」が「血管」につながり、「衛星」が「妊婦の下腹」につながり、「血管」はそのとき「胎児」へとつながる。ここには「強い」つながりがある。「見る」という動詞が「目」を離れ、「肉体」のなかにもぐり込んで、「見えない」ものを「見る」、遠くにあるものを見るのではなく、内部にあるものを見るという具合に内向する。
 それは「わかる」のだが、一連目のことばの「つながり」の静かさ(外的な論理の整合性)と、二連目のことばの「つながり」の強さ、「静かさ/外的関係」から「強さ/内的関係」への変化が、「わかりにくい」。ことばをつないでいた「論理」のあり方が違ってしまった感じがする。そのため、私には、まったく違った文体という感じになり、そこに「わかりにくさ」を感じてしまう。
 「わかりにくさ」のなかに、北原の「肉体」がある。私の「肉体」とは別の、断絶した「肉体」があると言ってしまうと、それはそうなのかもしれないが。私は、ここに、つまずくのである。
 言いなおすと、「主語」と「動詞」が、大きく変わってしまったと感じ、ついていけなくなる。
 動詞の変化を印象づけるのは、「渡され」という「受け身」で書かれたことば。いったい「だれ(主語)」が「渡す(述語)」のか。この省略された(?)「主語」、不明の「主語」のために、「強引さ」(強さ)を感じるのかもしれないなあ。「訝る」という動詞を生きていた肉体と違う肉体が動いていると感じて、そこに戸惑う。

 あ、何を書いているのか、だんだんわからなくなってきた。
 違うことを、書こう。
 「Barroco」の一連目。

川べりに
毀された真珠が息をひそめ
かすかなところにすまいしているものらが
水を曲げている
名まえを呼ぶと
おどろいたように水はふりむく

 「かすかなところにすまいしているものらが/水を曲げている」がとてもおもしろい。「かすかなところにすまいしているもの」とは「毀された真珠」だろうか。それが何の「比喩」なのか、あるいはそれは「ほんものの真珠」なのかわからないが、「毀された」ものが「受け身」のままにいるのではなく、そこから「能動」的に動き「水を曲げる」というのが、「息をひそめる」という静かな力の反逆のようで、ぐいっと迫ってくる。
 「名まえを呼ぶと/おどろいたように水はふりむく」も魅力的だ。呼ばれることで、水は「曲げられた」ことに気がついたのか。振り向いたのは「水」であるはずなのに、何か、水を曲げたもの、息をひそめているものも、いっしょに反応しているように感じてしまう。その反応が水に影響し、そのために水はさらに「驚き」「振り向く」ように感じられる。
 またこの一連目で、人間ではなく「もの」「水」が「主語」になっているのも、西洋もの、翻訳物という感じで、その「文体」の一貫性が美しいとも思う。
 「聖母子」の一連目と同じように、静かなつながりが文体を美しいものにしているのを感じる。けれど、この詩でも、私は二連目からの変化がよくわからない。誘われて進むけれど、そこでつまずいてしまう。

真珠川 Barroco
北原 千代
思潮社
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鶴橋康夫監督「後妻業の女」(★★★★)

2016-08-29 10:38:18 | 映画
監督 鶴橋康夫 出演 大竹しのぶ、豊川悦司、尾野真千子

 予告編で見た大竹しのぶの顔が忘れられない。遺言状を見せ「遺産はすべて私が相続します」と言う。それに対して、尾野真千子姉妹が、「なんで?」という感じ。それを見ながら、うれしさを隠しきれない。葬儀の直後なので、喪主なので、いちおう悲しい素振りをしているが、その「嘘」の悲しみを突き破ってあらわれる喜び。いやあ、「場違い」な感情があふれてくるということは、だれにでもあることだけれど。そういうことは私も体験したことがあるけれど。これを「演技」でやってしまうところが、すごい。というか、こういうことって、「演技」でできること? それは「表情」の演技? つまり、顔を動かしている? それとも「感情」の演技? 感情を動かしている?
 大竹しのぶを見ていると、そういう不思議に引き込まれることがよくある。映画は「肉体」を映し出しているのだが、ふいに「肉体」を忘れてしまう。「肉体」を見ているのに、それが「肉体」であることを忘れてしまう。言い方をかえると、そのとき大竹しのぶの「肉体」を見ているのではなく、自分の「肉体」が大竹しのぶの「肉体」になってしまうって、その表情の変化が、「肉体」の奥から「感情」を引き出してくる。あ、この感じ、わかる。この感情、「おぼえている」と、そのおぼえていることを思い出してしまう。
 それにしても。
 大竹しのぶは、こういう映画、感情が激変する女の演技がうまいなあ。こびたり、怒ったり、ひらきなおったり。一貫していないというか、持続した「感情」の演技ではなく、瞬間的に変わる、その変化のスピードがすごい。ワンテンポ、観客の感情よりも早い。だから、その感情が「正しい(?)」かどうか感じている暇がない。そこに噴出してくる「感情」にぐいと引っ張られてしまって、その瞬間を生きてしまう。
 で、遅れて、笑ってしまう。
 何度、笑ったかなあ。思い出せないが、そこにあらわれる「あからさま」な感情(隠しておかなければならない感情なのに、ぱっと動いてしまう感情)に驚き、納得して、笑うのである。「納得して」というのは、一種の逆説なんだけれどね。つまり、そんな「感情」、そういう「生き方」を肯定すると変なことになるので、その「変」を笑ってごまかしてしまう、ということなんだけれどね。私は、大竹しのぶの生き方を肯定しません。笑うことで否定しているのです、という自分自身への「言い聞かせ」みたいなものだ。
 いろいろおもしろいシーンがあって、話題の、尾野真千子との焼き肉屋での取っ組み合いは、話題になっている通り、おもしろい。思わず、ほんとうに「脚本」を読んで芝居をしているのか、ストーリーがどう展開していくか、結末を知って演技しているのかと「突っ込み」を入れたくなる。次はこうする、という「演技」のスピードを越えている。こうなる、とわかるまえに大竹のからだが動き、それに尾野の肉体がひきずられていく。けんかを止めに入るはずの人が、一瞬ためらってしまう。そういう「現実」を越えるスピードがある。
 豊川悦司に偽物のバッグをプレゼントされ、偽物の時計を買わされるシーンも、妙におかしい。「おいおい、脚本読んだのか? 読んだなら、それが偽物ってわかるだろう。どうして、脚本に書かれていること、観客がみんな知っているのに自分だけが何も知らないなんて、そんな演技がよくでくきるなあ」ほんとうの、ばか? 時計の売値を値切って、やっぱり、そうか。豊川悦司はマージンをとって、儲けているのか。そんなことは知ってるぞ、と少し得意気になれ合う。そこが、妙に、かわいい。私も豊川になって大竹をだましてみたい、偽物のブランド品をふっかけて、金をだまし取ってみたい、という気持ちになる。
 で、ひとつ不満。予告編にもあったシーンだが、鶴瓶とラブホテルへゆく。そこで大竹が鶴瓶の巨根に驚くシーン。「通天閣どころじゃない、スカイツリーや」というのだが、その顔が、あんまり巨根に驚いている感じじゃない。スピード感がない。思わず、鶴瓶のペニスは小さいんだ。大竹は鶴瓶に取り入るために、巨根だとおだて、驚くという演技をしているのだ、と「裏の心理」を想像してしまう。余分なことを考えてしまう。ここの「演技」は他の「演技」に比べてスピードが遅い。「間」のテンポが狂っている。
 鶴瓶との絡みでは、最後の、殴られて「あかん、涙も出ない」というときの「顔」が、自分自身を見つめることもあるという「人間性(?)」をとらえていて、とてもよかった。そうか、人間は自分自身をみつめるときは、こういう顔になるのか、と思った。
 で、このシーンが印象的なのは、先に書いた「間」のテンポとの関係で言うと、この「あかん、涙も出ない」ということばを受ける「相手」が観客だけということがある。そこでは共演者との「間」がない、というか、無関係なのだ。この表情にもういちど鶴瓶がからんでくると、こういう顔をしていられない。「相手」がいないだけに、そこに「地」が出てくるというのか、あ、こういう悲しみを大竹は生きているのか、と妙に共感してしまうのである。(ここは監督の工夫というか、腕の見せどころか。)
 死期が近い男に近づき、結婚し、財産を横取りするという「後妻業」というとんでもない「生き方」をしているのだが、そうすることしかできないエネルギーのからまわりと悲しさみたいなものが、「嘘」ではなく、「現実」としてみえてくる。
 こんな女に出会うのはいやだが、横から見ていて「笑う」にはいいかもなあ、なんて思う。ついでに「大竹しのぶ、好き」って言ってみたくなる。何か「嫌い」と拒絶することができないものを感じてしまうのである。
                       (天神東宝6、2016年08月28日)



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颯木あやこ「耳鳴り」

2016-08-28 09:35:02 | 詩集
颯木あやこ「耳鳴り」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 颯木あやこ「耳鳴り」は、「耳鳴り」が出てこない部分が、私にはおもしろかった。

わたしは 海を探している

見て、
この胸をまっすぐ貫く
竜骨

三度 抱かれ
三度 溺れ
三度 沈んだが

そのたび
わたしのからだは 船へと進化
ついに まっ白な帆が生え 金の竜骨が張りだした

波が逆巻く あなたの心
しずけさ 横たわる あなたのからだ
ふかく冷たく青い あなたの思想
ああ
ときにあたたかな海流が わたしを抱いて放さない

 恋をするとは、自分をすっぽりと受け入れてくれる海のような広大なものを求めることなのか。
 引用一行目の「海」は具体的な(実物の)海かもしれないが、二連目の「この胸をまっすぐ貫く/竜骨」によって比喩になる。「竜骨」という比喩が海を比喩にしてしまう。
 この、ことばが影響し合って動いていくすぴドに、とても強い詩を感じる。
 特に「まっすぐに貫く」。ここに「強いもの」がある。「貫く」は、突き通す。「貫通する」だが、そのとき「貫通する」のは「もの」だけではない。「意思」のようなものが「貫通する」。「初心を貫く」ということばがある。「こころ」が「胸」を貫く、「こころ」が何かをやり遂げる。「竜骨」は、その「貫通する」を「名詞化した比喩」であり、「貫く」そのものなのである。
 その比喩のあとの、「三度」の三行が、「動詞」だけで構成されているのも強い。「胸」ということばに影響されて「意思/思い」から書き始めてしまったが、「思い」など、どうでもいいのだ。「胸」は「思い」の「比喩」ではなく、まず「胸」という「肉体」そのものなのだ。みなぎる乳房なのだ。その「肉体」が最短距離で動いている。「感情(思い)」も「感覚」も描写しているひまなどない。ただ、「動詞」だけを書く。この「神話的」なスピードそのもののなかに「恋」の強さがある。「本能/欲望」の、まじりけのない輝きがある。
 このあと、「こころ」ではなく、「肉体」そのものが、かわる。この「変化」を颯木は「進化」と呼んでいる。「船へと進化」。この「進化」は「名詞」だが、実は「進化する(した)」というの「動詞」である。「動詞」なのだけれど、「進化する(した)」というと「ことば数」が多くなり、スピードがもたもたする。だから「進化」と「体言止め」にしてしまうのだ。ことばを省略して、さらに先へ先へと進む。「胸」を「貫く」激情に身を任せ、疾走する。
 「竜骨」にすぎなかったものが「船」(これはボート型のもの)になり、それから「帆船」へと変わっていく。このときの「動詞」、「生え」も強いあ。「肉体」を突き破って「肉体」のなかから「帆」が生まれてくる。颯木が、いろいろなものを集めて帆をつくるのではない。「肉体」が帆を(当然、マストも)「生み出す」。それは「肉体」が「帆」に「なる」という「自動詞」でもあるのだ。さらに「竜骨」は成長し、「金色」に輝きながら、ぐいっと胸の先に張り出していく。その「竜骨」を追いかけるように、颯木の「肉体」は恋を追いかけていく。

 「肉体」が「帆船」に変化してしまったあとで、やっと「こころ」とか「思想」とかというものがやってくる。そこに「逆巻く」「しずか」「よこたわる」「ふかく」「つめたく」「青い」などのさまざまな「形容詞」があつまってくる。「恋」が「見つけ出す」いろいろなものがあつまってくる。
 これは、すべて「まっすぐ」な「肉体」が磁力で引き寄せる世界である。
 若い肉体の、傲慢な(?)強さが、美しく、まぶしい。

 颯木の書きたいのは「耳鳴り」のなかもしれないが、私は「耳鳴り」以外の部分を、ひたすら自分の読みたいように「誤読」するのである。きのうは岡島弘子の詩を通した「女子中学生のどきどき」にどきどきしたが、きょうは颯木のはち切れそうな「肉体」に「恋する女の自信」を感じ、あ、この若い肉体になって恋したいと思うのだった。
七番目の鉱石―seventh ore
颯木 あやこ
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外12(沖縄県公安委資料)

2016-08-27 12:53:35 | 自民党憲法改正草案を読む
 フェイスブックの「気になることを動画で伝える」https://www.facebook.com/gomizeromirai/
で、以下の記事を読んだ。(2016年08月26日)

沖縄県公安委資料 高江ヘリパッド反対市民を「犯罪勢力」
2016年8 月25日 18 時42分
琉球朝日放送 http://www.qab.co.jp/news/2016082582945.html

県公安委資料 反対市民を「犯罪勢力」

県公安委員会が高江で反対する市民について「犯罪勢力」と表現していたことがわかりました。これは沖縄平和市民連絡会が県公安委員会に情報公開請求を行い明らかになりました。

文書では警視庁と5つの県警から派遣されている警察官の人数や派遣期間が非開示として黒塗りにされていました。その理由として
「犯罪を敢行しようとする勢力がこれに応じた措置をとり警備実施に支障を及ぼす恐れがある」などと書かれていました。
(略)
また文書からは今回の機動隊の派遣について、公安委員会の会議すら開かれず、沖縄県警が正式に要請する前日に警察庁が根回ししていたこともわかっていて、改めて政府の強行姿勢が浮き彫りになっています。


 高江ヘリパッド反対市民を「犯罪を敢行しようとする勢力」と呼んでいる。「敢行しようとしている」というのは「まだ敢行されていない」ということである。したがって、反対市民は、この段階では「犯罪者」ではない。それなのに、機動隊は市民を排除しようとしている。
 高江ヘリパッド反対市民は実際にはどんな行動をとっているか。私は現地で確認したわけではないのだが、ヘリパッド予定地の近くにあつまり「反対」と叫んでいる、強行に工事をしようとすることに対して身をていして阻止しているのではないだろうか。
 「同じ考えを持っている人間が集まって行動する」を「集会」と考えることができる。こういうことに対して、現行憲法と自民党の憲法改正草案はどんなふうにとらえているだろうか。

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
(改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 改正草案の「第二十一条第二項」に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い」という文言がある。(第二項は、現行憲法にはない。)
 高江ヘリパッド反対市民の反対行動は「公益及び公の秩序を害する」ととらえられているのだろう。しかし、実際には「犯罪」になっていないい。「害する」でも「がいした」でもなく、「害しようとしている」という「予想」である。「予想」に基づき、機動隊が活動している。ここに、問題なひとつがある。
 そして、もうひとつの問題。このときの「公益」「公の秩序」とは具体的にはどういうものか。高江の住民の利益は、そこに含まれているか。高江の住民の利益、秩序を含んでいないのではないか。自分たちの利益、秩序にがっちするのなら、住民は「反対」しない。合致しないからこそ「反対」と言っている。とすると、このときの「公益」とか「公の秩序」というのは、高江住民以外の「利益」「秩序」を指していることになる。
 さらに、「今回の機動隊の派遣について、公安委員会の会議すら開かれず、沖縄県警が正式に要請する前日に警察庁が根回ししていた」ものであるなら、それは沖縄の利益、沖縄の秩序とも無関係である。
 「国の利益/安倍の利益」「国の秩序/安倍の理想とする秩序」のために、「警察庁」がやったことであり、そこには安倍(政府)の意向が働いているということになる。

 現行憲法の「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」は何度も書いたが、「思想及び良心の自由(について)は、(国は)これを侵してはならない。」という意味であり、「国に対して禁止」を申し渡している。そして、もし国がそういうことをするなら、「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」というのである。これをかみ砕いて言うと、「国がさまざまな思想に関する自由を侵害するならば、憲法は、国民を保障する(守る)後ろ楯となる。国に対して、そういうことをしてはいけない(禁止する)と言い渡す」ということなのだ。
 これに対して、改正草案の方は、国に対してどのようなことも「禁止」していない。逆に「公益及び公の秩序を害する」という文言を挿入することで、国民に対して「公益及び公の秩序を害することをしてはいけない」と、禁止している。国民を拘束している。
 したがって、改正草案の「第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。」も、「公益及び公の秩序を害しない(政府が理想とする)思想及び良心の自由は、(国が)保証する(守る)。」ということなのだ。
 国は高江にヘリパッドをつくろうとしている。そのとき、国の意向にそう「思想」ならば、それを保障する(守る/助ける)。言い換えると、高江にヘリパッドをつくるならば、沖縄の振興策を助ける。沖縄県民の経済を守る。しかし、そうでないなら、新興予算を減らす、沖縄の経済を守るようなことはしない。
 これは、「アメとムチ」のように非難されるけれど、自民党の憲法改正草案に従えば、当然のことなのだ。安倍は改正草案を先取りする形で「実施」しているのだ。「現実」には改正草案にしたがって行動している。現行憲法を無視して行動していることになる。

 いまは、高江だけで起きているようにみえることが、これから次々と全国に広がる。安倍の政策に対して批判する人間は「犯罪者」は定義され、拘束される。自由を奪われる。そのとき必ず「公益及び公の秩序」ということばが持ち出される。
 この「公益及び公の秩序」は改正草案では第十二条に最初に登場し、第十三条で繰り返されている。
 現行憲法と比較してみる。

(現行憲法)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 現行憲法で、国民に禁止されているのは「これ(自由及び権利)を濫用してはならない」ということだけだが、これは乱用すると「公共の福祉」と相いれないときがあるからだ。「公共の福祉」とは「国民みんなの福祉」であって「国の福祉」ではない。「国の福祉」ということばなど、ない。「公共の福祉」は「生きている人間の福祉」と言い換えることができる。
 これに対して改正草案では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と「生きている人間(ひとりひとりの人間のあつまり)」よりも「公益及び公の秩序」という「個人」とは関係のないものが優先される。個人が無視され、「国の利益/国の秩序」が優先される。「ひとりひとりの利益」という言い方はできても「ひとりひとりの秩序」とは言わないから、改正草案が「公益/公の秩序」というときは「個人」ではなく「国」が想定されていて、「国」というかわりに「公」ということばがつかわれている。「国」と言ってしまうと「政権」とか「首相」ということばと強く結びつきすぎるために、「公」とごまかしているのである。(わかりにくいようにしているのである。)
 この「個人」の軽視が、そのまま第十三条に引き継がれ、現行憲法では「個人」と表現されていた国民が、「人」という抽象的な存在になってしまう。ひとりひとりではなく、「人」という概念になる。様々な個人の存在、つまり多様性は否定される。多様性は「多数決」によって否定される。そして、そこにふたたび「公益及び公の秩序に反しない限り」で尊重されるということばが出てくる。これは「国の利益/国の秩序」に反するなら、その人間を尊重しないということである。
 これは、いま、高江で起きていることである。ヘリパッド反対と叫んでいる人たちは「個人」として尊重されていない。「もの」のように機動隊によって取り扱われている。
 これは、すべて自民党憲法改正草案の先取り実施なのだ。

*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」

2016-08-27 10:27:48 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」はタイトルが魅力的だ。なんだか、わからない。わからないから、ちょっと身構える。その瞬間に、ことばが新しくなるのかもしれない。タイトルは重要だ。

先生を好きになっても装うことを知らず
受け持ちの理科と数学を勉強した
クラブ活動は先生の顧問の化学部に友達を誘って入部
女子は二人だけだった
先生の指導の下アミノ酸しょうゆやクリームをつくった
実験をおえて帰る家路はあたたかい闇

 中学時代(?)の思い出が、散文のリズムで語られる。このときのつかず、離れず、という感じがおもしろい。思い出すことはいろいろあるのだろうけれど、そこにのめりこまずに、一行目から五行目まで、淡々とことばを動かしている。そのあとの、「実験をおえて帰る家路はあたたかい闇」の「あたたかい」がほーっと思う。誘い込まれる。誰かを好きになって、そのために夢中になって、何かをやっている。そのときの「体温」の上昇。外に出ると、その「体温」のために、ふつうは空気が「冷たく」感じる。でも、岡島は逆に「あたたかい」と書く。あ、そうなのか。好きになって、何かをしていたときの「体温」が一瞬にして外に広がり、外の空気の温度を上昇させるのだ。それほど「夢中」になっていたのだ。
 ここで、私は、岡島のことばにのめりこんでしまう。つまり、岡島になってしまう。

夏でも朝は肌寒い
天井にはこごえたハエがじっとしている
ジャムの空きビンに水を入れビンの口でおおうとポトポト残らず落ちてきた
観察すると 水中のハエの体にびっしりと泡がついている
皮膚呼吸しているのだろうか

「ハエの皮膚呼吸」と題した自由研究が選ばれ
発表会に出品されることになった

 ふーん、ここからタイトルがとられているか、と思うと同時に、うーん、とうなってしまう。私は、「岡島」になってしまっているので、「水中のハエの体にびっしりと泡がついている/皮膚呼吸しているのだろうか」とハエを観察する岡島に、「実験をおえて帰る家路はあたたかい闇」の「あたたかい」を感じた「皮膚感覚」を重ねてしまうのだ。あ、いま「岡島」は「ハエ」になって自分を観察し直している、と感じてしまうのだ。「あたたかい闇」と感じたとき、岡島(私)は、闇を「皮膚呼吸」していたのだ。皮膚で闇を吸い込み、皮膚から吐き出す。そうすると体の中の熱が闇をあたため、あたたかくする。そのあたたかい闇をまた岡島は皮膚呼吸して体のなかに取り入れる。

発表会の会場の学校まで先生の自転車のうしろにのせてもらって出発する日
「うらやましい」といいながらクラスの女子全員が見送りに来た
あこがれの先生が目当てだったのだ

 ここには「皮膚感覚」は出てこない、ようにみえる。しかし、やっぱり「皮膚感覚」があるなあ。自転車のうしろに乗る。そのとき、自転車から落ちないように先生の体にしがみついていないといけない。「皮膚」が直接触れ合うわけではないが、好きな先生の体に手をまわすのだから、それは「皮膚」がふれるのと同じ。直接触れないだけに、よけいに、もっと触れている感じがするかもしれない。

「ブドウが実っているね」 話しかけてくる先生に私は黙っていた
真っ赤になって固まっていたのだ
息もできず ハエのように皮膚呼吸していた
「どうしたの」とふりかえる先生

 「皮膚呼吸」がハエと一緒に、もう一度出てくる。「ハエのように」という直喩は「ハエ」にひきずられてしまうが、「皮膚呼吸する」という「動詞」が、ほんとうの「比喩」。実際に人間が皮膚呼吸するわけではないから、この「皮膚呼吸する」が、見逃してはいけない「比喩」なのだ。いまあることば(日常のことば)では伝えることのできない「ほんとう/正直」があふれている。
 このことばは、繰り返しになるが、一連目の「あたたかい闇」の「あたたかい」から始まっている。
 「息もできず ハエのように皮膚呼吸していた」岡島は、何を感じていたか。先生の「あたたかい」体温を皮膚で感じていたのだ。皮膚が岡島の体温を吐き出し、皮膚が吐き出した体温にそまった空気を吸う。そこには先生の体温もまじっている。
 私は、女子中学生になって、なんだか、どきどきしてしまうのだった。

 このあと、詩は(あるいは、岡島と先生は、と言ってしまった方がいいのかもしれないが)、どうなるのだろう。

おもいきって
友達を誘って先生の家をたずねた
美しい奥さまに迎えられ めずらしいお菓子をごちそうになった
先生はるすだった

若葉が光に痛む 青く固いブドウのまま
卒業式を迎えてしまった

 「好き」とも言えずに終わってしまった初恋。しずかに閉じられる詩だが、遠い日の「皮膚呼吸/皮膚感覚」が、まだ初恋をおぼえている。「皮膚」ということばといっしょに、生きている。

ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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八木幹夫「声のない木」

2016-08-26 09:29:21 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「声のない木」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 八木幹夫「声のない木」も「声」をテーマにしている。「声」が出しにくい、自分の思いを「声」にすることが困難な時代なのか。

目の前になる木が
木であることを
声に出して言えない
遅れてやってくるものが
目の前の木を表そうとしない
発語の
ことばが出てこないのだ

 八木だけの「木」。それは「木」ということばでは表せない。「木」について語りたいという思いがあふれてくる。だが、どう語っていいかわからない。「木」と言ってしまうと違うということだけがわかる。そのために、ことばにならない。
 そういうことだろうか。

(ちがう この声ではない
(ちがう このコトバではない

 この苦しみは、さらにこんなふうに言いなおされる。

裏切る
言葉と
目の前の木
かぎりない遅延に
なみだを流す

やっと届いたものが
木そのものから
遠いものになっている
(木は何処へいってしまったのか
(本当のコトバはドコへ
すでに言葉が「木」に貼りついて
剥がすことができない

 そして、「すでに言葉が「木」に貼りついて/剥がすことができない」、他人のことばが「木」を占領してしまっている(?)ということに気づき、そうことばにすることができたときに、ふっと八木は解放される。
 最初に「木」を発見したときの、少年の記憶を取り戻す。

みずうみに
きがうつっている
ゆれてゆがんでゆっくりと
みずうみにきがたちあがる
ゆめのように
じゆうに

あれがほんとうのきだ
あれがほんもののきだ

 この「ひらがな」で書かれた二連が、とてもうつくしい。
 八木の詩は、このあともつづいていて、前半部分を反対側からというか、この「みずうみにきがたちあがる」という部分から言いなおしている。それを読むと、八木のいいたいことは、とてもよくわかる。(わかった気持ちになる。)
 そして、とてもよくわかる、「意味」が納得できるのだけれど。
 不思議なことに、それでは、その「結論」のようなものを読み返すか、というと、そうではない。
 私は、何度も何度も、「ひらがな」の二連を読み返す。ここがいいなあ。他の部分は、この二連のためにあるのだなあ、と思ってしまう。
 「意味」は後半に書かれているのだが、「意味」にはなっていない「イメージ」の方に引きつけられてしまう。
 詩は不思議なものだなあ、と思う。
八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外11(08月18日NHK報道)

2016-08-25 12:33:17 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外11(08月18日NHK報道)

 08月18日NHKの報道された「家庭の経済的事情で進学を断念」がさまざまなところで話題になっている。私は仕事中に偶然、「パソコンが買えないので、練習用のキーボードだけ買ってもらった」と少女が語っているところ、「進学の夢をもっている子供を助けてほしい」というようなことを語っている部分を見ただけなのだが。
 その後の、ネットでのバッシングが強烈である。
 発言した少女の部屋には高額のイラスト用のセットがあるという指摘から始まり、報道されなかった部分をネット(ツイッターの書き込み)から探し出し、「1000円以上のランチを食べている」「アニメのグッズを買っている」「コンサートに行っている」、だから「貧乏じゃない」。
 さらに、これに自民党の片山さつきが加わり、少女の生活ぶりに皮肉を言ったあと、「NHKに説明を求める」とも言ったらしい。(伝聞で読んでいるだけで、片山の発言を直接読んだわけではない。)

 これは、なんだか、とても気持ちが悪い。
 少女が入学金(50万円だったかな?)を工面できなくて進学を断念したというのは「事実」としてある。そのことを少女は訴えた。
 それに対して、「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買うなら、貧乏ではないとネットの書き込み社は言うのだが、こういう論理は「感情的」であって、「論理」そのものとしては成り立たない。書き込み者が指摘しているものはどれも「50万円」以下である。少女が訴えたのは「50万円が工面できない」ということであって、何かが買えないと訴えたのではない。
 少女を批判した人は、いろいろ節約すれば50万円は工面できるのではないか、ということかもしれない。他の人はそうしている、と言いたいのかもしれない。そういう「論理」は成り立つかもしれないけれど、それは人に対して「生き方」を強要することにはならないか。
 「貧困」を訴え、「助け」をもとめるなら、「貧困者らしくしていろ」と言っているように聞こえる。
 それは何といえばいいのか、「理想の貧困者象」の押し付けのように聞こえる。自分が定義する「貧困者」に合致するなら助けてやる。そうでないなら、助けない、と言っているように聞こえる。
 そして、それは私には、自民党憲法改正草案の「先取り」に見える。
 改正草案には「保障する」ということばがたくさん出てくる。「保障する」とは「社会保障」「安全保障」ということばから考えると、困っているとき「助ける」、困っているひとを「守る」ということだと思うが、改正草案の「保障する」はただ「守る」「助ける」とは言っていない。
 貧困ではなく、思想、良心に触れた部分を読む。(すでに書いてきたことの繰り返しだが)

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。

 現行憲法の「侵してはならない」は「国は侵してはならない」という意味。国に対して「禁止」している。改正草案では、この国に対する禁止がない。ただ「保障する(守る)」と言っている。でも、どんな「思想」でも「守る」ということは、どうみてもおかしい。「守る」ことのできない「思想」というものもある。
 安倍内閣は、3月22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定したが、これなどは「共産党の思想は保障しない(守らない/何をするか監視し続ける)」ということだろう。
 改正草案が「保障する」のは、政権が「理想とする思想」のみを「保障する」のである。相反する思想は「保障しない」ということ。

 「貧困」についても同じなのだ。政府が「貧困」と認定する「理想の貧困」なら助けるが、「理想としない貧困」は助けない。「保障しない」。
 「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買えるなら「貧困ではない」。だから、「助けない」。「貧困」を訴えるなら、あらゆる個人的な楽しみを放棄しろ、と言っているように聞こえる。イラスト用セットも、1000円ランチも、アニメグッズも、コンサートも、少女が、専門学校にいけないならせめて自分でアニメキャラクターのデザインを勉強しようとして出資したものかもしれないのに、なぜ、それを買ったのかも訪ねないで、「貧困の定義にあわない」(理想の貧困者ではない)と否定している。
 こういう不思議なバッシングは、もちろん「個人」がおこなっているのだが、その背後には「理想の人間像」だけを育てる、保障するという自民党の憲法改正草案の「先取り」行動が反映されているように、私は感じる。
 春先、子供が幼稚園に落ちた女性が、「日本死ね」とネットで発言した。このままじゃ、働けない。助けてという悲鳴なのだが、これに対して安倍は「匿名発言で事実かどうかわからない」と言った。自民党議員は「死ね」という言い方はよくない、というようなことを言った。「困っているなら政府を乱暴なことばで批判するのではなく、ていねいにへりくだって頼みなさい」ということだろう。批判するのではなく、丁寧に、「お願いします」というのなら保障する(助けてやる)と言っているように、私には聞こえた。
 政府に対して批判するのではなく、お願いするのが国民の「正しい姿である」というのが改正草案に書かれていることなのだ。
 そういう風潮は、じわりじわりと国民を縛りつけている。そして、政府のそういう「理想像」にあわせるように、政府に気に入られるように、ふるまう国民が増えてきているということだろう。政府に気に入られるように動けば、自分にもいいことがあるのではないだろうか、という「期待」をしているようにも思える。

 ここにはさらに、自分よりも貧困な人間をつくりだすことで(貧困層を定義することで)、自分はまだ貧困ではないという「幻想」をもとうとしている人間もいるように私は感じてしまう。「一億総中流」と言われた時代は終わった。なんとか「中流」にとどまっているという「幻想」のために、「貧困層」を求めているひとがいるというのが、いまの「現実」なのではないのか。
 「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買って、そのうえでデザイン専門学校に進学したいと「貧困者」は思ってはいけないのか。「貧困者」は「理想の貧困者」にならないかぎり、あらゆる「保障」は受けられないのか。

 さらにギョッとするのが片山さつきの行動である。
 国会議員は国民を助けるためにいるはずである。国民の生活を「保証する」のが国会議員であるはずだ。それが逆に動いている。(片山は、「偽装貧困者」を許すことは、ほんとうの貧困者の助けるとき、資金不足になる恐れがある、というかもしれないが。)
 国会議員がそんなことをしていては、貧困者はますます「声」をあげられなくなる。「助けて」と言えなくなる。
 さらに、さらに問題なのが「NHKに説明を求める」ということ。これは放送への「圧力」ではないのか。片山が考えている「貧困」とは違うものを貧困問題として取り扱っている、どうしてなのか、と説明を求めるのだろうか。「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買っても「貧困」ととらえるのは間違っているというつもりなのだろうか。あるいは「政府批判」や「権利の要求」につながることは放送するなと言うつもりなのか。
 これは「事後検閲」にならないのか。
 「検閲」については、改正草案で

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 とあり、「禁止」されているように見える。しかし、このときの「してはならない」の「禁止されている対象」は「国」ではなく「国民」である。
 それは改正草案の

第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 と関連づけて読まないといけない。「第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。」は現行憲法にはない文言である。
 ここで注意しなければならないのは「してはならない」の「主語」が「何人」であることだ。禁止されているのは「国民」であって、「国」ではない。(現行憲法は、国に対して「禁止」を設けているが、国民に対しては何も禁止していない。国民に対する禁止は「法律」で決められている。)
 これは逆に言えば、国民は「他人の情報を不当に取得し、利用する」、あるいは「検閲する」ことや「通信の秘密を侵す」ことは禁じているが、国はしていもいいと言ってるのである。
 そして、実際に片山は「事後」ではあるが、それをやろうとしている。
 「事後」だからいいのでは、という意見もあるかもしれないが、一度「事後」を許してしまえば、それはすぐに「事前」の「自粛」につながる。こういうことを放送すれば、また「苦情」がきて、「検閲」がおこなわれる。それは面倒だ。ということになってしまう。
 「事後」を当然のことのようにしておこなうことで、「事前」をやるぞと、「先取り」する形で動いているのである。
 いま起きていることを、改正草案と結びつけて読むことで、憲法が改正されてしまったらどうなるか、それに注目しなければならないと思う。



*

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松岡政則「こえがれ」

2016-08-25 10:35:22 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「こえがれ」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 松岡政正則「こえがれ」には、わからないところがある。そして、それが魅力的だ。「わからない」ところへ誘われてしまうのだ。

忍耐はない
性癖は治らない
ともだちはいない起立しない
「声帯萎縮です」と医者はいう
「しゃべらないでいると退化するのです」という
誰かのことをみなでうすく笑っている
わたしもお國も取り返しのつかないところにいるらしい
錆びたトタン波板の外壁
みかんの花咲く島で暮らすことになりました。

 「声帯萎縮」というものがあるかどうか、私は知らない。声帯が縮んで、声が出にくくなる。それが「こえがれ」(声嗄れ)だろうか。実際の「声」ではなく、「ことば(もの)」が言いにくい、という状況かもしれない。何かを言おうとすると(あるいは言ってしまうと/行動すると)、誰かが(ひとが)冷笑している。
 たとえば、「君が代」をみんなが起立して歌うとき、歌うことを拒否して椅子に座ったままでいる。そういうことをひとが「うすく笑っている」。
 以前は言えたこと(主張できたこと)が、主張できなくなっている。「声が嗄れた」ようになっている。
 「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」とは、現代の日本の状況か。何かを言おうとすると、言えない。それは「わたし」にとっても取り返しのつかない状況だろうが、「国(松岡は、正字で「國」と古めかしく書いている)」にとっても取り返しのつかないことなのではないか。
 そんなことを思いながら、ひとから離れて「みかんの花咲く島」に引っ越したというのだろうか。
 少し唐突な、そしてだからこそ、何か切羽詰まった感じのする「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」は二連目で言いなおされている。

過剰な接続で
誰しもが疲れている
くろいフレコンバッグと貧困世代
わたしらは知っている
知っていてなにもしないでいる
ひとがひとを信じるとはどういう刹那をいうのだったか
モノになっていくわたしら、
「正気」が保てなくわたしら、
憲法にまもられた時代は終わりました。
もうどんな顔でいたらいいのかわかりません。

 「知っていてなにもしないでいる」とは「知っていて何も言わないでいる」だろう。「しない」は「言わない」なのだ。
 いや、「言わない」でも「言う」ことができる。たとえば、「君が代斉唱」のとき「起立しない」ということができる。そういう「ことば」を発しない瞬間にも、「ひとがひとを信じるとはどういう刹那」というものがある。「行動」が「信じる」に繋がっていく。そういう「行動」の「ことば(声)も失くしている。
 いま、ひとは「声(ことば)」を失くし、「正気」を失くし、「モノになっていく」。
 もう、ひとが「憲法にまもられた時代は終わりました。」と感じている。これは「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」をもっと直接的に言いなおしたものだろう。
 これを松岡はさらに言いなおす。

いみには約めない
歩くの成熟はもとめない
ない、という力
しらない、という歓び
所有する、がひとをダメにする
爆心地の方からなにかくるいっぱいくる
雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい
わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい
しぐさ振る舞いにも感情はあるのです。

 「いみには約めない」は「意味には縮めない(要約しない)」ということか。
 私のこの感想は「意味」に「要約」してしまっているので、松岡の書いていることに反してしまうが、「意味」に要約してしまってはいけないことがある。
 詩は、その「要約してはいけない」もののひとつである。
 「意味」は解放したままにしておかなければならない。
 わかっているつもりだが、もうしばらく、「要約」をつづけよう。わからないものを、わかったふうに装って、近づいていこう。「誤読」をつづけよう。
 「歩くの成熟はもとめない」とは「成長は求めない」と言いなおすことができるかもしれない。「成長」とは「経済成長」のことである。「モノを大量に所有できる」という形での「成長」も求めない、ということかもしれない。「成長」が強いてくる何かを「拒絶する」ということかもしれない。
 「ない」には、たしかに力がある。
 「起立しない」の「ない」は「意思」の力である。
 「爆心地の方からなにかくるいっぱいくる」の「なにか」はことばにできないなにか、ではない。ことばにする「必要がない」何かである。二連目に書かれていた「わたしらは知っている」の「知っている」何かである。「知っている」は自分の「肉体」になっている何かである。そして、そういう「知っている」が出会うとき、「ひとがひとを信じる」ということが起きる。これは、ことばにする必要は「ない」。
 「雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい」の「こわれて」は、ことばを持たないまま、「意味」に要約しないで、「肉体」そのものになって、ということだろう。
 「わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい」は「意味」を放棄して、拒絶して、「無意味の肉体/意味に汚染されない純粋な肉体」になって、ただ動きたいということだろう。
 「ことば/声」だけに「意味」、あるいは「感情」があるのではない。「肉体」そのものにも「感情(意味に要約できないこころの動き)」というものがある。

 最近の松岡は、台湾を旅行し、そこに暮らすひとの「肉体」を反復し、「声」に寄り添う詩を書いてきた、という印象が、私にはある。そうすることで「声帯の領域」を広げてきた。「声」そのものを魅力的にしてきた。
 いま、広島で、「国家」が求める「声」とは違う「声」を鍛えようとしている、と感じた。こういう「誤読(要約)」は松岡の詩の深みをないがしろにするものかもしれないが……。
艸の、息
クリエーター情報なし
思潮社
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樋口武二『拾遺譚』

2016-08-24 12:57:13 | 詩集
樋口武二『拾遺譚』(詩的現代叢書18、2016年07月27日発行)

 樋口武二『拾遺譚』は感想を書くのがむずかしい。
 「本日は治療中」は、こんな感じ。

 雨が降ってきたよ、と言われてから、はじめて眠っていたのに気がついた。窓ガラスは濡れていて、路地を歩いている人も足早である 風も、すこし出てきた様子で、植え込みのプラタナスの葉が細かくふるえていた

 引用が長くなるので先取りして書いてしまうと、歯科治療中である。局部麻酔をかけらさて治療を受けているのだが、どうやら眠ってしまったらしい。で、「雨が降ってきたよ」と言われて、眠っていたことに気づく。
 歯の治療中に眠ってしまうなんてことがあるか、と思う人がいるかもしれないが、私は樋口と同じように眠ってしまう人間なので、これは自然に受け入れられる。(私は脳のMRTIの検査を受けたときも眠ってしまい、終わってから起こされた経験がある。目をつむると、いつでもどこでも、激しい騒音のなかでも眠ってしまう。)
 で。
 私は、この「気づいた」がとてもおもしろいと思った。他者からの働きかけがあって、「はじめて」「気づいた」。そして「気づいた」あと、言われたことを少しずつ確かめていく過程が、区切りがなくて、おもしろいと思う。直接、雨が「風景」として目に飛び込んでくるのではなく、「窓ガラスが濡れていて」と「手前」の光景があり、その向こう側に「路地を歩いている人」が見え、その人が「足早である」と気づく。「気づく」とは、そのときには書かれていないのだが、気づいたのである。「気づく」が省略されている。そのあとの「風も、すこし出てきた様子で、植え込みのプラタナスの葉が細かくふるえていた」も「気づいた」のである。そこに書かれているのは、「事実」だが、その「事実」は「気づかれ」、その結果「ことば」になるのことで「事実」になる。
 で。
 この「気づく」。そこに「気」がある。「気」とは、しかし、何だろう。何かを「気」と呼んでいるだけで、それを「取り出して」みせるわけにはいかないのが「気」であろう。そういう「気」は、「物理的なもの」ではないので、「気」どうしが区切りなくまざってしまう。

傘は貸してあげますからね、やさしいことばとしぐさが何とも可愛いのだが、これは、たぶん夢であって、ほんとうの私は、まだ目覚めてはいないのであろう 麻酔を打たれた歯茎の痺れが頭蓋一杯に広がってきた やはり、これは、夢のなかのことなのか

 夢と現実が区別なくつづいていく。「ほんとうの私は、まだ目覚めてはいないのであろう」と気づく。「麻酔を打たれた歯茎の痺れが頭蓋一杯に広がってきた」と気づく。「夢のなかのことなのか」と気づく。
 これは「自分の内部」のことに「気づく」でもある。さっきは、「自分の外部」の変化に「気づいた」。「気づく」という「動詞」を中心にして、「外部」と「内部」が交錯する。

それにしても外は雨らしい 誰かが、小さな声をあげはじめた 私の破れかけた夢の小窓からは、白衣がふらふらと揺れているのが見えた 夢だというのには無理がある 口内に指が入れられて、 

 「破れかけた夢の小窓」というのは、うーん、樋口の「詩」なのか。こういうことばに「詩」を感じて、挿入しているのか、とちらりと考える。
 でも、私の関心は、すぐにそこを離れ、

 口内に指が入れられて、

 という具体的な「肉体」の関係に移っていく。「気づく」を「気づかされる」と言いなおしてみると、「気」のなかに何かが入ってくることが「気づく」なのである。「外部」が「内部」に入ってくることが「気づく」。
 で、「口内に指が入」ってくると……。
 樋口は、「入れられて、」のあとにことばを直接つづけず、そこでいったん切断し、連を変えて、二連目へ飛躍する。

 隣の席で治療をはじめると、私の頭の中にまで音が入ってくる。

 「入る」が引き継がれ、接続していく。
 「気づく」はここでは「頭の中に入る」と言いなおされていると考えることができる。そうであるなら、「気」とは「頭」なのだ。

 違うかもしれない。

 違うかもしれないが、「気づく」から「入る」という動詞を経て「頭の中」ということばに出会うと、「気」とは「頭」にあるのか、という感じが強くなる。「頭」のなかに何かが入ってきて、「頭」が動き始める。それを「気づく」という。

 こんなことばを書きつらねて、それが「感想」になるかどうかわからないが、私は、樋口の「区切りのない」気づくの連鎖、あるいは一連目から二連目への不思議な飛躍/接続のありかたに、私のことばの何かがつまずくのを感じたのだ。
 あ、このあたりに樋口がいるなあと思ったのだ。
 その樋口がいる、その「場」(ことばが生まれてくる瞬間の領域)を、もっとぴったりと代弁してくれることばがどこかにあるのかもしれないが、今の私にはよくわからない。「気づく」ということが、樋口を動かしているのだな、という「予感」のようなものを、きょうはメモにしておく。





呼ぶひと、手をふるひと (詩的現代叢書)
樋口武二
書肆山住
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荻悦子『樫の火』

2016-08-23 10:43:58 | 詩集
荻悦子『樫の火』(思潮社、07月31日発行)

 荻悦子『樫の火』を読みながら、なんだか遠いなあ、という感じがした。描かれていることが、身近に迫った来ない。なぜなんだろう。
 特徴的なのが「徴(しるし)」である。「徴」は「徴候」の「徴」。これから起きることの「しるし」。「兆候」とも書く。こちらは「きざし」。
 そういうものは、とても「身近」。近すぎる、という感じがするものである。しかし、荻は、逆に書いている。

夕ぐれ
空に仄白い光が瞬いた
金木犀の香りが漂ってくる

彼方にはもうない源

徴を目にしたとき
ことは
既に終わっていた
橙色の細かな花がこぼれる

 金木犀の香りをかぐとき、その香りの源である花自身は既に終わっている(散っている)。何かが起きるのではなく、何かが終わった。終わったのに、それを「きざし」のように感じる。
 だから、もし何かが始まるとしたら、それは「源」においてではなく、「私(荻)」において起きる。
 けれど、荻は、その「私」に起きることを書かずに、「源」において何かが起きたという「徴(しるし)」だけを書く。これは、暗示。あるいは「暗喩」。遠い「源」でほんとうにそれが起きたかどうか荻は確かめるわけではない。かつて、その「源」(たとえば散ってしまった金木犀)を見たことがある。体験したことがある。その「源」を想像しているのである。起きたことは、起きたように起こる。それは、かわらない。
 だから、こう書く。

無くなった
失くしたすべて
落ちた花が樹の下に円く広がり

空に残滓が光って走り抜ける

ことは私たちの外にあり
そのように
初めから私たちは組み込まれ

 「空に残滓が光って走り抜ける」は一連目の「空に仄白い光が瞬いた」の言い直し。そのことからわかるように、ここに書かれていることは、前に書いたことの「言い直し」である。反復である。
 「ことは/既に終わっていた」は「ことは私たちの外にあり」と言いなおされている。
 すべては「外(私たちの力が及ばないところ)」にあり、それに対して、「私たち」は変更を迫ることができない。これが、荻の詩が「遠い」という印象を呼び起こすのである。
 近くにあるのは「組み込まれている」という感覚だけ。
 すべて「こと」は「遠く」で起こり、何か起きたか気づいたとき(徴=しるしをつかんだとき、「徴候/兆候」を感じたとき)、その「こと」は終わっている。「こと」をやりなおすことはできない。
 ここには一種の「あきらめ」がある。

 「わかる」けれど、私は、こういう感覚が好きではない。「あきらめ」てもらっては困る、と反発したくなる。
 とは言いながら、次のような行は美しいと感じてしまう。

私は車輪梅の枝を手にしていた
黒い小さい実を棚に飾ろうとしていた
部屋の明るさ
椅子の綻び
実の枝を飾る位置
心にあったことが飛び去り
手近なものの形や色が遠退いてしまう               (「冬の星」)

 「組み込まれる」ということが、ここでは丁寧に語り直されている。「心にあったことが飛び去り/手近なものの形や色が遠退いてしまう」。「遠く」「源」で起きたことが、いま/ここに影響してきて、その結果、近くにあるもの(手近)の形や色が変わってしまう。「遠退く」という形で、たぶん「源」へ帰っていく。そのとき、「私」自身(地下血を把握する人間)が「遠い/源」そのものと「暗喩」となる。
 「彼方にはもうない源//徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」「徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」という「過去形」が

手近なものの形や色が遠退いてしまう

 と「現在形」で書かれる。
 ここが、美しい。
 と書いて、思い出すのだが…。

徴を目にしたとき
ことは
既に終わっていた
橙色の細かな花がこぼれる

 と、ここでも「橙色の細かな花がこぼれる」と「現在形」が書かれていた。「終わっていた」だから、その「時制」にしたがうならば「花がこぼれた/こぼれてしまっていた」なのだが、「こぼれる」と「現在形」。
 これは「こぼれる」というところから荻が世界を反復しているということである。
 これは、世界を取り戻そうとすることばの運動かもしれない。

 ことばが「なんだか遠いなあ」と感じながらも、なぜか読んでしまうのは、単に遠い世界を書いているからではなく、あるいは終わったことを書いているからではなく、もう一度、それを取り戻そうとして書いているからかもしれない。どこかに、そういう「欲望」(生きる本能)があるからかもしれない。

 「比率」という作品。

その木の根元から幹へ
幹から枝へ
木が伸びる方向にそって
鉛筆を動かし
木を描いてみた

幹と枝
葉を付ける細い枝
それらの大きさの比率
分かれ方
予め比率があり
木はそのように枝葉を広げる
五月が来れば
白い細い総状の花を垂らす

 木における変化、これらは、すでに「起きたこと」であり、「起きたように起きること」である。つまり「決まったこと/終わったこと」である。しかし、それを「描く」という動詞でもういちどやりなおす。そのとき「私(荻)」は木として行き始める。木として生きながら、「決まっていること(終わっていること)」のなかにある運動をたしかめ、そこから何かを探ろうとしているようにも見える。そこに新しい何かを追加しようとしているからでもある。
 「比率」「分かれ方」。その「分析」は「決まっていること/終わったこと」の追認ではあるが、そういう追認ができるのは「人間」だけである。木は、そういうことを追認しない。「比率」ということばとともに動いているものが、「追認」を越える形で「追加」されているとも言えるだろう。

 ことばが「なんだか遠いなあ」と感じるのは、そこのことばが「追認」だからである。そして、追認なのに読んでしまうのは、その「追認」が分かりきってることであっても、丁寧だからである。「追認」しながら、「追認」を点検しているからだとも言いなおすことができるかもしれない
 「初めから私たちは組み込まれ」ているのなら、せめて、その「組み込まれている」状態を丁寧に見つめなおすことで、いのちを美しくととのえようとしているのかもしれない。あるいは、丁寧「追認」することでしか見えないものを探り出し、そこから「構造」(組み込まれている形)をこじ開けようとしているのかもしれない。
 (暑くて頭がぼーっとするので、それ以上は考える気力がわかない。申し訳ないが。「日記」だから、こんなことも書いておく。)

樫の火
荻悦子
思潮社
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マリー・カスティーユ・マンシオン・シャー監督「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」(★★)

2016-08-22 09:34:26 | 映画
マリー・カスティーユ・マンシオン・シャー監督「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」(★★)

監督 マリー・カスティーユ・マンシオン・シャール 出演 アリアンヌ・アスカリッド、アハメッド・ドゥラメ

 パリの「おちこぼれ高校一年生」がアウシュビッツの歴史を学ぶことで成長する姿を描いている。
 「おちこぼれ」ぶりというか、どうせ自分はダメなんだと投げやりな感じ、その一方で自尊心が強い高校生の姿は、とてもおもしろい。パリの学校ものは何本か映画を見たが、「人生の縮図」のようでおもしろい。生徒の「わがまま」加減が、なんともいえない。
 で、肝心の(感動の)、成長の姿だけれど。
 一か所、とてもおもしろかった。
 アウシュビッツのガス室。そこではみんな裸で、髪も切られで坊主頭。そういう写真を見て、あるいは文章を生徒たちは読む。その一方、「マンガ」も見つける。そのマンガは、アウシュビッツの写真を下敷きにしている。同じ構図である。しかし、マンガの中のユダヤ人は裸ではないし、頭も剃っていない。
 なぜなのか。
 生徒は考える。「髪形や服装は、そのひとの個性。ひとりひとりが違っている。裸にして、頭を剃ってしまえば、そこから個性が消える。ひとりひとりではなくなる。漫画家は、死んでいったユダヤ人を、生きているときと同じように、ひとりひとりとして描きたかった。」
 これは、誰かから聞いたことばの繰り返しではない。生徒が自分で考えたことばだ。身近なマンガから、自分のことばを動かしている。
 アウシュビッツを生き抜いた老人から、体験を聴くシーンもいいが、私は、このマンガのシーンに生徒の「正直」を感じて、とてもうれしくなった。

 映画の後半は、生徒たちが「まとも」すぎて、少し物足りない。実際のコンクールの発表のシーンがないのも残念だ。

 しかし、フランスは「大きな」国だと思う。多種多様な民族(宗教)を受け入れ、共存している。「いま」を生きている。その一方で、「歴史」を引き継ぐという「方法」を確立している。映画で描かれているコンクールは、そのひとつ。そのコンクールに全員が参加するわけではないから、すべての高校生が同じように歴史に向き合っているとは言えないのだけれど、少なくとも何人かは必ず歴史に向き合っている。そういう人間を育てようとしている。表彰式が「士官学校」でおこなわれるということは、「軍」が歴史をきちんと受け継いでいるということでもある。
 日本はどうだろうか。防衛大では、歴史は、どう教えているのだろうか。加害者としての日本の問題だけではなく、たとえば広島、長崎の原爆は、どう教えているのだろうか。たとえば被爆者の「語り部」を招いて、その体験を聴くというようなことをやっているだろうか。
 そんなことも考えさせられる映画だった。
                     (KBCシネマ2、2016年08月21日)




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自民党憲法改正草案を読む/番外10(永六輔追悼番組)

2016-08-21 17:17:12 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外10(永六輔追悼番組)

「LITERA」(2016年08月21日)
 http://lite-ra.com/2016/08/post-2512.html
に「ピーコがNHK に戦争批判コメントをカットされたと告白!「放送を見て力が抜けた」…永六輔追悼番組で」という記事が掲載されている。

 ハイライト部分を引用する。

「インタビューでピーコは、現在の放送界で進行する“もの言えぬ空気”をもあきらかにしている。それは、NHK が7 月17日に放送した永の追悼番組『永六輔さんが遺したメッセージ』に出演したときのことだった。
「「永さんは戦争が嫌だって思っている。戦争はしちゃいけないと。世の中がそっちのほうに向かっているので、それを言いたいんでしょうね」と言ったら、そこがばっさり抜かれていた。放送を見て力が抜けちゃって……。永さんが言いたいことを伝えられないふがいなさがありますね」(朝日新聞8 月20日付)」


 これは編集というよりも、「検閲」である。

(現行憲法)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(自民党憲法改正草案)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 ピーコの発言を、改正草案が追加している「公益及び公の秩序を害する」ものと判断し、籾井NHKが「検閲」で削除した、ということだろう。
 改正草案でも「検閲は、してはならない」とあるが、ここには「してはならない」の「主語」が省略されている。改正草案の「禁止」の対象は国民であるから、「国民は、検閲はしてはならない。しかし、国は(権力は)検閲はしてもいい」というのが「改正草案」の意図である。そして、それがすでに実行されているということになる。
 (現行憲法は、つねに「国(権力)」に対して「……してはならない」と禁止し、そのうえで「憲法は……を保障する」という文体で構成されているが、改正草案は国民に対して「……してはらない」といい、それを守るならば「国は……を保障する」という言い方をしている。)
 「検閲」の事実を積み上げることで、安倍はそれを「既成」のものにしてしまう。国(権力)は検閲をしてもいい。国民が検閲をするのはダメだが、国はいい。
 この論理を展開すると、たとえば、こうやって書いている私の文章や、ピーコの発言も、籾井NHK(安倍のいいなり)の行動をチェックすることだから、「検閲」にあたるかもしれない。そして、こういう批判をすることは「検閲である」と決めつけられ、禁止されてしまうかもしれない。
 それは、まあ、すこし脇に置いておいて。
 安倍のやろうとしていることは、「既成事実」を増やし、国民の抵抗感を弱めるということである。籾井NHKは、それに協力している。ピーコの発言は削除された。だれだもの発言も削除された、ということがつづき、それに対してだれも抗議しないというこことがつづくと、そういう「削除(検閲)」は是認されたということになる。「正しい」ということになってしまう。
 こういうことに対して、私は、抵抗したい。

 いま起きていることを、自民党憲法改正草案と結びつけながら見ていくと、安倍の狙いがより鮮明になる。
 今回起きたことは、どういうことか。
 戦争を批判することは、籾井NHKによって、「公益(国の利益=安倍の利益)」を「害する」と判断されたということだ。さらに、「公の秩序」を「害する」と判断されたということだ。
 この場合、「公の秩序」とは憲法改正(戦争放棄の廃止)へ向けて動いている「改憲運動の秩序」を「害する」という意味でもある。
 「公の秩序」とは「国の(安倍の)考えている秩序」である。
 すでに書いてきたことだが、何度でも書こう。(永六輔も、大事なことは何度はでも書く、何度でも言う、と繰り返しを気にしなかった。)

(現行憲法)
第十三条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
すべて国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 改正草案は、「個人」を「人」とすることで「多様性」を否定し、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言いかえることで、「国」を前面に押し出している。
 「改正草案」の「公益」「公の秩序」は「国の利益(国益)」「国の秩序」と言いかえることができる。
 一方、「公共(ひとびとの)の福祉」ということばはあっても「公の福祉/国(組織)の福祉」ということばはない。「国(組織)の福祉」という言い方がないからこそ、これを「公益及び公の秩序」と言い換えることで、「国(組織)」を優先させる、「ひとびと(国民)」を「国(組織)」の下におしとどめることができるよう、文言が練られている。

 そういうことと、連動させながら、いま起きていることをみていく必要がある。
 永六輔という個人の生き方、ピーコの永六輔に対する個人的な評価、それを削除することは「多様性」の排除である。「公共(ひとびと)」というのは「多様」からななりたっているが、その「多様」を排除し、「国(組織)」という「統一」(統一ということばのなかには、「一」という「多」とは反対のことばがある)を推進しようとする動きがある。
 安倍の(籾井NHKの)やっていることを、改正草案と結びつけながら、批判し続けることが、改正草案の問題点を浮かび上がらせることになるはずだ。しっかりと目を凝らしたい。
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大木潤子『石の花』

2016-08-21 09:53:36 | 詩集
大木潤子『石の花』(思潮社、2016年08月05日発行)

 大木潤子『石の花』はタイトルなしで断片が散らばっている。最初の方は後半に比べると幾分長い。

闇が、
寄せたり引いたりする、
思いがけない方角から、
別の闇も寄せて、
複数の闇が、
網目の模様を描く向こう側から、
音楽が、                            (13ページ)

 幾分長くて、少し意味ありげである。「思いがけない」「別の」「向こう側」というような、「いま/ここ」とは違うもののあり方が「意味」を感じさせる。「意味」とは「いま/ここ」が否定されて、「いま/ここ」ではなくなる瞬間の、その再構築のことだと、ここから「定義」することができる。
 で、その「再構築」が、ではいったい何かというと、しかし、明確にはわからない。ここでは「音楽」という「名詞」で提示されているものが「意味」に輪郭を与えている。ただし、そこには「動詞」がないので、はっきりと「意味」になっているかどうか、私には判断しかねる。
 これを「暗示」と言いなおすことができるかもしれない。
 なんと言いなおしても、それは単なる言い直しかもしれないが。
 それよりも、やはり「思いがけない」「別の」「向こう側」ということばが抱え込んでいるものを見つめなおした方がいいだろう。それらのことばは「いま/ここ」から「いま/ここ」ではないところをめざして動いている。その動きの、ベクトルの先に、何かを描き出そうとしている。その「何か」へ向かって収斂しようとしている。あるいは凝縮しようとしている。

石を結ぶ




石を結んでゆく
わたしは結ばれた石。                        (19ページ)

 この「結ぶ」が「収斂/凝縮」ということでもある。「収斂/凝縮」と私が呼んだものを大木は「結ぶ」という動詞で言いなおしている。

石のなかに
また
石がある


重さを
増して

 「増す」という動詞は「結ぶ」に通じるかもしれない。「結ぶ」ことにより、たしかなものになる。そのたしかさを「重さ」と言いなおしている。(「軽い」は不安定に通じる。)それが「増す」、「増える」、いっそうたしかになる。
 「収斂/凝縮」は「結晶化」と言いなおすこともできるし、純粋化ともいうことができる。
 これが、

石を読む                             (61ページ)

 という一行だけの断片のあたりから、少し様子が違ってくる。「いま/ここ」ではないどこかが「石のなかに」という「内部/結晶/凝縮」とは違った動きが出てくる。

石の鳥、
石の羽毛、
石の鼓動
石の
花が開く、

石の名前                             (73ページ)

 「開く」は「結ぶ」とは逆の動きである。「石の鳥、/石の羽毛、/石の鼓動」はまだ「収斂/凝縮」である。「石の花」も「収斂/凝縮」であると言うことができる。「収斂/凝縮(結晶)」は、こういうとき「象徴」と呼ばれたりする。つまり「意味」が、まだここでは動いているのだが。(先に引用した「わたしは結ばれた石」というのは「石」が「わたし」の「象徴」である、ということだ。「意味」だ。)
 そこに「開く」という動詞が新たに加わることで、ベクトルが、まったく違ったものになっている。
 何かに向かって「収斂/凝縮/結晶」するのではなく、それを「開く」、つまり「開放する」ことになる。
 「いま/ここ」からどこかへ動いていくのではなく、「いま/ここ」にいて、「いま/ここ」そものが動くのである。
 ここからが、この詩集のハイライトである。

目覚めても、                           (81ページ)

石が
語る                               (83ページ)

石の
言葉                               (85ページ)

 何も言っていない。何も言っていないというと大木に申し訳ないが、ここでは、ベクトルが「収斂」していかない。収斂(凝縮していたもの)が、ただ開放され、それがどこへゆくかは、読者に任されている。

ほ、とける                           ( 113ページ)

 という不安定な「音」を通って、「凝縮/収斂」が「ほどかれていく」。「ほどかれる」だけではなく、それは「とける(溶ける/解ける/融ける)」。「融合」へまで動いていく。
 
 何と「融合する」のか。
 それは一番大事な問題だが、それに対する「答え」はない。なぜないかというと、「答え」というのは、ひとつの「収斂/結晶」だらかである。それを書いてしまうと、「ほどいた」ことが何にもならなくなる。

座標が
ない                              ( 143ページ)

石の花                             ( 147ページ)

咲く                              ( 149ページ)

 「座標が/ない」の「ない」という「動詞」(というか、用言)がすべてであり、そこで「開く」は「咲く」と言いなおされている。


石の花
大木潤子
思潮社
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植木信子『田園からの幸福についての便り』

2016-08-20 09:25:57 | 詩集
植木信子『田園からの幸福についての便り』(思潮社、2016年07月31日発行)

 植木信子『田園からの幸福についての便り』は、タイトルにある通り、田園で感じ取った「幸福」についての報告なのだろう。
 こんな具合だ。

朝遅く 野鳩の鳴く声がした
藤の花のにおいに混じり                  (「追いかけても」)

 この二行には聴覚と嗅覚の出会いと融合があって、肉体が目覚める感じがする。
 でも、この感覚の融合はつづかない。そのために、どうにも植木のことばのなかへ肉体がはいっていけない。
 「絵」を、しかも「描いた絵」を見ている感じ。「描いた絵」というのは、表現として重複しているが、その「重複感」というか「既視感」というか、そういうものが、まとわりついてくる。
 「追いかけても」のつづき。

冬の間 倒れていた幹を食い破り蝶が舞い上がる
光ふりそそぐ幻影
そんな日には色とりどりの花咲く野へ車を押していく
被せた紅の帽子にヒラヒラ羽毛が散ってきて
 メタボの猫の手 絡まる羽とじゃれている
追いかけても春

 ことばが「肉体」に集中していかない。「肉体」をくぐって出てきている感じがしない。
 こういうことばよりも、「行動」を書いたことばの方がしっかりと響いてくる。
 「象の目」。

象に乗る
象は大きな足で大地を踏み
わたしは象の背で踏む

 この「象の背で踏む」というのは、ちょっと体験した人間でないと出てこないことばかもしれない。ほおっと、思った。

象は黙々と大地を踏んだ
分厚い皮膚には悲しみがあって
それはこの国の尊厳にも希望にも見えた
(それに触れることはできない)
夕日が落ちてゆき
象の涙が光って消える

 象の背は、植木が触れる「大地」でもある。「分厚い皮膚」は「大地」だろう。ただ、それは「比喩」になってしまう。ほんとうの「大地」や「大地(この国)」がもつ「尊厳」「希望」には直接触れるのではなく、「比喩」をとおして間接的にふれることしかできない。
 そのことを確かめている「肉体」がここにある。
 夕日の中で象の目が光るのも印象的だ。

 もっと直接的に「肉体」を描いたものもある。「穏やかな日より」。父の納骨に言ったときのことを描いている。

葉山には夜遅くに着いた
夕食を食べて早々に眠った
早朝に浜辺にいった
霧のかかる浜から富士が海を抱くようにそびえ美しく見えた
帰ってまた眠った
納骨を済ませてきたばかりだったから眠っていたかった

二度目に目が覚めたときには日が高く
部屋中に金屏風を開いたように陽が明るく差していた
のどかだった
父が近くにいる気がした

 眠って目を覚ますの繰り返し。それをただ報告しているのだが、「正直」がそのままことばになって動いている。その「正直」が父を呼び寄せるところが、とてもいい。
 他の詩も、こんなふうにことばが動くといいと思う。ことばを探すのではなく、ことばを捨てると、もっと詩が動くと思う。


田園からの幸福についての便り
植木信子
思潮社
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