監督 サム・ペキンパー 出演 ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン
サム・ペキンパーの描写の特徴は、バイオレンスをスローモーションで描いたことだ。普通は見えないものを見えるようにする。普通見えないものが見えると、それが美しく見える。ペキンパーの暴力は美しい。
それは、肉体の発見と言っていいかもしれない。
暴力はその荒々しさのために多くのものを見えなくする。暴力は肉体に対して振るわれるが、その暴力を受けた肉体がどんな風に動くかということは意外と知られていない。「痛み」は誰もが知っているが、その痛みを感じる瞬間の肉体の動きを知っている人は少ない。
スローモーションで明らかになった肉体の動き、それを見るとき、あ、人間は死んでゆくときも動くのだとわかる。その発見は、悲しい。その破壊は、だからこそ美しい。
そしてそれが、肉体に疲れが出てきた男たちをとおして描かれるとき、そこにさびしさも漂う。あるいは、それは疲れ切った肉体の表現できる最後の美しさなのかもしれない。破壊され、破滅していくとき、あふれでる肉体のもっているものの蓄積。
主役のウィリアム・ホールデンは左足に古傷をかかえているが、そういう傷をもった肉体もまた滅びるとき、破壊されるとき、古傷の存在を超越して、「いのち」として噴出してくる。
同じ犯罪者の破滅でも、「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」の若い肉体の死は、華麗で、かっこいい。「あたたかい」ではなく「さわやか」。逆に、もっと高齢の2人の犯罪を描いた「人生に乾杯!」では、それが年金受給者という高齢ゆえに、またかっこいい。そして潔い。
「ワイルドバンチ」はその中間にあって、ともかく無様である。
無様であること、敗北を承知で、それでも無様に肉体をさらして踏ん張ること。そういう生き方への郷愁に満ちた映画。その郷愁を引き出すための、スローモーション・バイオレンスだったんだなあ、と今思う。
だから、その血の描き方にしろ、それは「迫真」のものではない。「血」はあくまで、つくりものであることがわかる。(当時の技術はそれまでだったのかもしれないが……。)血よりも、血を吹き出す「肉体」、まだ温みのある肉体の悲しさを感じさせるためのものだったのだと、今見えかえしてみて、そう感じる。
肉体というものが、なつかしく、なつかしく、ただひたすらなつかしく感じられる映画である
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それにしても、映画の暴力描写、スピード感はずいぶん違ってしまったものだ。いまはもう、ペキンパーの描いたような暴力の郷愁は存在しない。
映画のスローモーションのつかい方、肉体の表現の仕方は、ずいぶん変わってしまった。
「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸を身を反らして避けるシーンがあるが、このスローモーションが「ワイルドバンチ」が違う点は、「マトリックス」のそれが可能性としての肉体である点だ。「マトリックス」のスローモーションは、あくまでスピードを見せるものである。ほんとうは速くて見えない。だから、ゆっくり再現しなおして、それを見えるようにする。ゆっくりであればあるほど、それは速さの証明なのだ。「ワイルドバンチ」は、速さを認識させるためにスローモーションをつかっていたわけではない。
また、カットの切り替えにしても、ペキンパーは、いまから思えばカットが少ない。アップのつかい方が、ペキンパーの場合は、あるシーンをはっきり見せるためにつかう。けれど、いまは、そのシーンを見せるということよりも、そのシーンに視覚を集中させることで他の部分を強烈に印象づけたり、逆に省略するという方に力点が置かれているように思う。「ボーンアルティメイタム」のアップ、カットの切り替えは、映し出しているものを見せるというより、それを「見ている」視線の主体、ありかを強く感じさせ、画面を映し出されているカットより広い空間に広げていく。アップの瞬間こそ、「もの」が映し出されるのではなく、その「もの」が存在する空間の複雑性が浮かび上がるように作られている。
逆の言い方をしよう。たとえば、ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインは銃弾を浴びて血まみれである。そのアップは、あくまで「肉体」のアップである。けれど、「ボーン・アルティメイタム」のさまざまなアップは、その「肉体」を見るというよりも、その「肉体」がある空間の複雑性を印象づける。あるときは見え、あるときは見えない駅の雑踏。その空間をくっきりと浮かび上がらせる。ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインの血まみれを見ても、戦いの現場の広さ、地形のあれこれは見えて来ない。
映像のつかい方がまったく違ってきているのだ。
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