詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「鼠年最初の注釈(スコリア)」

2008-01-31 09:57:35 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]

思潮社

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 岡井隆「鼠年最初の注釈(スコリア)」(「現代詩手帖」2008年02月号)
 ほんとうにあったことなのか、それとも創作なのかわからないが、岡井の書いていることがらはいつもおもしろい。ある「結末」へ向けてことばが動くのではなく、どこへゆくかわからないまま動く。どこへ行こうとかまわない、という感じである。こういう精神を私は「散文精神」と呼んでいるのだが、そうした「散文精神」が詩になっていることがおもしろいのである。なぜ詩になるかというと、「寄り道」があるからである。どこへ行こうとかまわないとはいいながらも、岡井の精神は瞬間瞬間に立ち止まり「寄り道」をし、また動く。一直線には進まない。(この違いは、岡井が引用している鴎外の文章と比較するとわかりやすいが、ここでは省略。)たとえば、次のように。

今年はじめての注釈の場は寒い雨の降る午過ぎの昔風の旅館の一室で障子の向かうのちよつとした庭の池にも雨は降りそそぎ藤棚がそれを黒々と覆ふのを見ながら話せといふことであつた。  (谷内注・引用にあたってルビは省略した。以下同じ)

 「注釈」(和歌の注釈である)を岡井はするのだが、そのときたとえ岡井の視野に雨や池や藤棚が見えたからといって、それを「見ながら話せ」とは「注釈」の講師に岡井を招いたひとは考えてはいないだろう。しかし、そういう状況を、岡井はあえて「見ながら話せといふことであつた」と書く。ビデオで「注釈」を撮影しているから、その撮影者から、「風景」として雨、池、藤棚も映します、と聞かされていたということかもしれないが、「注釈」の内容そのものとは関係のない「風景」が「寄り道」として、ひとつの文章のなかに溶け込んでしまうところがおもしろい。
 そして、ここからは私の「誤読」になるのだが、実は、私はこの部分を引用するまで、1か所間違って読んでいた。(最近、引用の間違いを指摘するメールを複数のひとからいただいたので、読み返して、あ、また間違えたと気づき、直した。)どこを間違えて読んだかというと「見ながら話せ」である。「見せながら話せ」と読み、あ、これはおもしろい、とほんとうは思った。そう思って書きはじめたのである。
 したがって、これから書くこと(これまで書いてきたこともそうかもしれないが)、最初に書こうとしていたこととは、少し(かなり?)違ったことなのであるけれど、それはそれでひとつの感想になると思うので、このままつづける。



 「見ながら話せ」を私は「見せながら話せ」と思い込んで読んだ。そして、どういうわけかわからないが、岡井はちゃんと「見せながら」話しているのである。

注釈者が選んだ歌は
 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ
                   (万葉集巻一 志貴皇子)
であって「葦べ行く」はふつう飛ぶ鴨を思ひ画くらしいが冗談ではないぜ葦原をかき分けて泳ぐ一対の鴨を予想することなしに注釈は完成しない。ではなぜ翼の上に霜が降るのか。霜が降るほど寒いとメタフォアにうけとるのはまだ浅い見解だろう。夕暮れの鴨(複数)の「羽がひ」はうす光りして(ほら君眼前の夕暮れの藤の幹だったさきほどまでの午後の光とはちがつて来たじやないか)いかにも寒い。

 「藤」が唐突に再登場してくる。「君」は岡井が岡井自身を納得させるために呼びかけているのだろうが、それを聴講者に呼びかけているとも受け取れるだろう。そして、「君」を聴講者として受け止めるなら、ここで岡井は「藤」を「見ながら」ではなく「見せながら」注釈をしていることになる。
 また、実際には、この括弧内のことばは語られず、「君」が岡井自身であるとしても、そのとき岡井のことばは一度「藤」をくぐり抜けているわけだから、間接的に聴講者に「藤」を「見せながら」話していることになるだろう。「藤」を見ることで強まった意識、その意識にそうことばを岡井が語るとき、それは「藤」を見せることである。これは、実際に岡井の詩を読んでいる読者を想定するともっとはっきりする。いま、私も(そして、この文章を読んでいるひとも)、「藤」の変化を「見ている」、岡井によって「見せられている」。これは、「寄り道」をさせられている、ということでもある。
 「寄り道」は「結論」を引き延ばす。しかし、引き延ばされることで、逆に「近道」にもなる。人間は気分屋だからである。ある「結論」というものがあると仮定して、そこへたどりつくためにかかる「時間」は時計の計測どおりではない。「気分」でかわる。「気分」でとても長く感じたり、逆に短く感じたりする。「寄り道」(藤の幹の色)が結論を遠ざけながらも、気分的には結論を先取りするというか、結論を把握するときのショートカットになることもあるのだ。
 ようするに、人間は気まぐれである。
 岡井は、この、気まぐれをそのままことばとして定着させる。そこが非常におもしろいのである。(「誤読」について書きながら、なぜか、書こうとしていたことに、私は戻ってきてしまった。)
 岡井は、このあとビデオカメラマンの指示で休憩したり、聴講者の質問にこたえたりしたことを書き綴る。それらは岡井にしてみれば、他者によって「寄り道」させられた瞬間ということになるかもしれない。人間は自分でする「寄り道」は気にならないし、必要だと思っているが、他人によってさせられる「寄り道」にはいらだったりする。そんな気分の調子が、たとえば「志貴皇子の人柄をどう思ひますか」という質問にこたえる岡井のことばにあらわれる。

作者は難波へ旅してきて家郷を思つてゐる壮年の歌人といふところまででいいじやありませんか。

 「いいじやありませんか」。ほら、岡井のいらだちがあらわれているでしょ?
 もちろん、こうした気分の色は岡井が意識的に「見せて」いるのもなのだが、その意識的に見せている「気分の色」があるから、岡井の書いている日記ともエッセーともつかないことばが詩になるのである。
 詩とは「寄り道」と、その「寄り道」をするときの「気分の色」のことなのである。そういう「色」がくっきりと出ているものはおもしろい。「気分の色」が出ていないことばはおもしろくない。「色」がないと、単なる「意味」になってしまう。

 岡井の「気分の色」の出し方、その手法を見ていると、あ、歌人は熟練の度合いが違うなあ、とも思う。歌については私はほとんど知らないが、たとえば俳句に比べるとずいぶんと叙情的というか、感情のきめのこまかさを特徴にしていると思う。そういう感情の動きのきめのこまかさをあらわすことば、ことばの動かし方の熟練した力が詩にも働いていて、他の詩人とは違った味(色)になっているのかもしれない。

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池井昌樹「花影抄」

2008-01-30 10:07:24 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「花影抄」(「歴程」546 、2007年12月31日発行)
 「ふたり」という作品が、しみじみしていて、同時に不気味である。しみじみと不気味というのは対立した概念というか、一種、とけあわない何事かを含んでいるのだが、そういう矛盾(対立)を飲み込んで動くのが池井のことばである。
 その全行。

あなたはひとりまどべにもたれ
いつもだまってそとをみていた
わたしはあなたのとなりにすわり
やはりだまってそとをみていた
まどのそとではきれいなそらが
きれいなまちやもりがすぎ
ひとはのりおりくりかえし
はながさきまたはながちり
こんなにとおくはこばれて
わたしはようやくきづくのだ
わたしのしらないまどのこと
あなたのみているまどのこと
ほしひとつない
こんなやみよのまどべにふたり
よりそって

 「こんなにとおくはこばれて」の「とおく」と「はこばれて」に池井の「思想」がある。池井のことばはいつでも「とおく」と交信する。そして、その「とおく」はいつでも、自分の意思でつかみとった「とおく」ではなく、何者かによってもたらされた「とおく」である。「はこばれて」が、そのことを明らかにしている。なにものかによってもたらされたものであるがゆえに、それはいつでも池井にとっては「いま」「ここ」である。「とおく」は「近く」と重なるのである。そこに特徴がある。
 「とおく」は「近く」、「近く」は「とおい」。つまり、そのふたつが溶け合って、宇宙そのものになる。
 「とおく」「近く」は距離ではないのだ。たとえば「家からとおく」でも、「家の近く」でもないのだ。池井と女がいて、そのいっしょにいることが「とおく」であり「近く」なのである。
 「とおい」とは「しらない」ということと同じである。(遠い町について知らないように、遠くにあるものについては私たちは何も知らない。)「しらない」ことはいつでも「とおい」。それを、いま、ここに、女といっしょにいて、気がつく。「いま」「ここ」に「とおさ」があることに気がつく。それは、「いま」「ここ」が無限大になること(宇宙になること)と同じである。
 「いま」「ここ」に「しらない」ことがある、というのは不気味である。よりそっているのに女が何をみつめている(女に何が見えるのか)を「しらない」(わからない)というのは不気味である。同じ窓なのに、その窓が女にとってどう見えるのか「しらない」(わからない」というのは不気味である。不気味であるけれど、たしかに、それは現実である。誰も他人が(それが連れ添っている女であっても)、彼女が何を見ているか、世界がどう見えているかということは正確にはわからない。その「しらない」(わからない)というのは、そのとき「感情」(思い)であるかもしれない。
 しかし、そういうことを「しらない」(わからないまま)であっても、私たちは生きてゆける。あるいは、しらない(わからない)から生きてゆけるのかもしれないが。
 そして、「しらない」(わからない)ことがつくりだす広がり(遠さ)が、私たちを真摯にする。正直にする。まじめにする。「しらない」(わからない)ことを頼りにするわけにはゆかない。「しっている」(わかってい)こと--つまり、自分に対して正直になり、自分を押し開いてひとと接する、ひとと寄り添うしかないのである。そうするとき「とおく」は「とおく」でありながら「近く」(いま、ここ)とゆったりと混じり合う。融合する。
 「遠さ」のなかへ、自分自身を放心するのである。そして、「近く」(たとえば寄り添う女)に身をゆだねる。そのとき、「安心」というものがやってくる。「しみじみ」という感じがひろがるのである。

 この「安心」にたどりついて、それからこの詩を読み返すと、たぶん、ふしぎなことが起きる。

まどのそとではきれいなそらが
きれいなまちやもりがすぎ
ひとはのりおりくりかえし
はながさきまたはながちり

 この4行に登場する「きれい」や「花」が違ったふうに見えてくる。「きれい」なものを「きれい」ということばをつかわずに表現するのが「文学」であるという定義(?)めいたものが一般に流布しているが、そんな定義などどうでもよくなる。「きれい」を別なことばで表現するということなど、こざかしい「文学ごっこ」に見えてしまうのである。「きれい」は「きれい」でいいのだ。「はな」は「はな」でいいのだ。「文学ごっこ」(文学技法)など、すっかり捨て去って、ただ放心して世界と一体となる、宇宙と一体となる。世界や宇宙と一体になるためには、「ことば」は捨ててしまうにかぎるのだ。
 池井は、ことばを捨て続けているである。「漢字」を捨てた。「漢字」が呼び覚ます「意味」を捨てた。「ひらがな」のなかに残っている「おと」そのものになって、「とおく」と「近く」を融合させる。池井自身を正直に押し開きながら。

 「花影抄」の作品群は、女が家を空けたときの寂しさを書き綴っている甘ったれ男の詩のように見えるけれど、そんなふうに見えてもかまわないと、池井は正直に彼自身を押し開いている。そうすることで、また新しい宇宙との交信をしているのである。
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野村喜和夫「森にひかれる」

2008-01-29 10:03:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 野村喜和夫「森にひかれる」(「歴程」546 、2007年12月31日発行)
 ちょっと退屈な感じで詩がはじまる。

森にひかれる
それはなぜだろう

たとえば熱帯雨林
と聞いただけで興奮してしまうのだ
いつだったかシンガポールを訪れたとき
町全体がきれいな公園のようですこしがっかりしたけれど
ナイトサファリなる場所にタクシーで駆けつけると
そこはほぼ自然のままで
生まれてはじめて
熱帯雨林を肌で感じることができた
トラムに乗って夜のジャングルを行くのだが
生い茂る厚い葉むらの奥に
名も知らない珍獣が身をひそめていたりして
童心を大いに呼び覚まされたものだ

 つづきを読んでもどうしようもない、という気持ちにさせられる。「興奮」とはなんだろうか、と期待して(?)読み進んでいるのに「童心」か。熱帯雨林を「肌で感じ」ながら、浮かび上がってくるのが「童心」か……。
 「興奮」というのは知っていることを超越して、「知らない」ものを「肌で感じ」ることだと思うのだが、「知らない」ものの対象が「名も知らない」「珍獣」では、ちょっとがっかりする。さらに、その結果として浮かび上がってくるのが「童心」では、どうしようもない。「童心」を「童心」と呼べるのは「童」だった記憶(知っている)があるからである。野村は「知らない」ものを発見していない。
 「興奮」とは書いてあるが、読んでいて、まったく「興奮」しないのである。勝手に「興奮」していたら? と興ざめしてしまう。
 行わけしただけの、学校の宿題の作文のような、あるいは定年退職した男の初めて書いた文章のような、味気ない文体が、その興ざめに拍車をかける。

 ところが。

森から出てくると
私は内奥を
さみどりにうがたれたまま
そのなかをあたりまえに鳥たちが飛び交い
さながらわが身は
一枚のルネ・マグリットの絵として差し出されている
ような気がする

森にひかれる
森にひかれる

 突然、転調して「歌」に変わるのである。この瞬間が、とても美しい。特に、

さみどりにうがたれたまま
そのなかをあたりまえに鳥たちが飛び交い
さながらわが身は

 という3行は、歌謡曲でいえば「サビ」へかけのぼっていくメロディーのようにぞくぞくさせる。冒頭の「さ」「そ」「さ」というさ行の響きあいが絶妙だ。途中に混じる濁音が豊かな音を感じさせるし、「さながらわが身は」という「文語調」が、ここの部分は特別仕立てなんですよ、とささやきかけるようで、ほんとうに美しい。「さながらわが身は」の「が」の音の繰り返しが特に美しい。
 そうしおいて、「サビ」。

一枚のルネ・マグリットの絵として差し出されている

 「俗」といえば「俗」(スノブ)かもしれないが、「サビ」とはもともとそういうものであるだろう。だれもが知っていること。「知らない」ではなく、「知っている」けれど普通は言わないことをあえて言う。わざと言う。「サビ」であることを利用して、わざと言ってしまうのである。
 そのあと、その「興奮」を静め、さらにゆったりと、リフレインがある。

 以前、私は、野村のこうした「俗」が大嫌いであった。「俗」まみれのことばの動きが大嫌いであった。
 ところが、この詩のように、その「俗」が全編に散らばるのではなく、一か所に集まっているのを読むと、あ、いいなあ、美しいなあ、と思ってしまうのである。
 冒頭の、つまらない「散文」くずれのことばから、歌謡曲(昭和歌謡曲だね)への転調は野村が狙って仕組んだものなのかどうか、この一編だけではわかりかねるけれど、意図的につくりあげたものだとしたら、すごい。


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斎藤健一「二月」、みえのふみあき「空き巣にて」

2008-01-28 09:14:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 斎藤健一「二月」、みえのふみあき「空き巣にて」(「乾河」51、2008年02月01日発行)
 「乾河」の同人たちはみなことばに対して禁欲的である。そして、その禁欲的なところに詩をひそませる。
 斎藤健一の「二月」。全行。

雪の中を歩いてゆく。その暗いひびきがぼくを生むのだ。
みあげる空はいつも寒い。歯ブラシを咥え、ひかる窓硝
子をあける。包帯の厚く巻かれた左膝。コップの水。夜
明け。蛇口をねじる。しかし、ぼくのみが立っている。

 最後の「のみ」にひきつけられる。ばらばらに存在したものが、「のみ」という一点に集中してゆく。そして、一点に集中したあと、そこからぱーっと世界へひろがってゆく。この詩はこれ以上長いと、この求心と遠心の感じが出ないであろう。
 1行目の「その」、2行目の「いつも」という粘着力のあることばも、それにつづく短い文章をつなぎとめるのに効果的だと思う。3行目の「厚く」も簡潔で気持ちがいいし、「左膝」の「ひ」の繰り返し、濁音の繰り返しも美しい。
 「窓硝子」と「蛇口をねじる」の「ねじる」に私はつまずいた。「硝子窓」「ひねる」と私はついつい読んでしまうが、私のリズムとは違うリズムを斎藤は生きている、ということだろう。
 「台所」の全行。

あくびを噛み殺し、朝刊をひろげる。電燈の淡い橙色が
かえって影をつくる。ぼくは左半身を労りながら椅子に
坐る。皿におかれたパンをかじる。唾液は歯茎と舌をぬ
らす。両腕を突きしかも全身がぐらぐらしている。テー
ブルの端による。街のむこう。火災が起こる。消防車が
何台となく走るのだ。海は荒れている。

 2行目の「かえって」の自己主張が「淡い」と「影」の対比のなかで美しい。「かえって」によってことばの運動がすっきりする。「二月」の「のみ」にも感じたが、こういうことばの細部が斎藤の詩をつくっているのだと思う。「電燈」「橙」という文字へのこだわり、繰り返される漢字のツクリがひきよせる印象へのめくばりも斎藤にとっては詩なのだと思う。
 最終行の「走るのだ。」の「のだ」もとても好きだ。「のだ」という強いことばが、「海は荒れている」という飛躍を生む。そして、その飛躍の中に詩を呼び込む。その直前の「街のむこう。火災が起こる。」の「むこう」のあとの句点「。」の美しさとひびきあって、とても魅力的だ。
 この詩でも、私は「火災が起こる」の「起こる」につまずいた。私は「起きる」と読んでしまう。
 しかし、この少しずつ感じる違和感が、なぜか、斎藤の詩を読むときは、もしかするととても効果的かもしれないと思う。ふしぎなつまずきが、詩をゆっくりと読ませる工夫になっているかもしれないと思う。
 意図的なのか、斎藤の地声なのか、ちょっと判断できないが。



 みえのふみあきの「空き巣にて」は「赤」の変化が美しい。詩のなかで「赤」が少しずつ色を変える。それが、とても自然で、とてもおもしろい。

高い梢に雛が去ったあとの空き巣が残っている
小枝で編まれた巣の粗い空無を
夕日が一瞬だが茜色に染める
分岐する枝の混迷
ぼくの内臓に凝集する血管腫
どこかでとれたぼくの袖のボタン
いつか遠い野茨の茂みにボタンが
そのぼくの失われた秘事を赤く繋留するだろう
その時だ
雛鳥が空き巣に帰ってくるのは
枝に時に赤い実が復活するのは

 袖の赤いボタン。なくしたボタン。それがある日、鳥の巣をつくる枝にまぎれている。落としたボタンが枝にからみつき、その枝をつかって鳥が巣をつくる。それを発見する。--それは現実にあったことか、それともみえのの夢か。
 たぶん夢である。
 夢であるからこそ、それが壊れないように禁欲的にことばを積み重ねてゆく。「高い(梢)」「粗い(空無)」「一瞬」。そういうことばにこめられた、視線を限定し、現実の奥へ奥へと引き込むようなことば積み重ねながら、「分岐する枝の混迷」という抽象へ入り込む。描写は「事実」(実在)を出発点として抽象へ進む。そして、反転する。

ぼくの内臓に凝集する血管腫

 空の茜色、宇宙の赤い色が、「血管腫」ということばとともに変色する。
 「事実」から「抽象」へ、そして「抽象」から「肉体」へ。
 それにあわせて、記憶も「肉体」になるのだ。「袖のボタン」はほんとうは「肉体」ではないが、まるで「肉体」の一部として、みえのの詩のなかで動き回る。
 「血管腫」の「赤」はほんうとに赤かどうかはわからない。見えない。だからこそ、「赤」を求めて、ことばは動くのだ。「記憶」を「内臓」でもあるかのようにさまようのだ。へめぐるのだ。

ぼくの失われた秘事を赤く繋留する

 ここの行の「赤」がいちばんおもしろい。「繋留する」と修飾するのに「赤く」ということばは、文法的に不適切である。ふつうは「強く」とか「しっかりと」繋留するの。しかし、みえのは「赤く」と書く。
 これは不在の「赤」を呼び出すための、わざと書かれた「赤」である。そして、ここに詩が存在する。赤への希求という、みえのの思想がある。
 不在の「赤」を、ことばとしてむりやり出現させることで、「赤い実」が、文字通り「復活」する。
 みえのの書いている世界は「情景」としても魅力的だが、その「情景」を浮かび上がらせるための、ことばの運動そのものの方が、それよりはるかにおもしろい。「茜色」「血」「赤く(繋留する」「赤い(実)」につらなることばの運動が、みえのにとっての、ほんとうの詩であると思う。

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たかぎたかよし「甕」

2008-01-27 10:19:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 たかぎたかよし「甕」(「乾河」51、2008年02月01日発行)
 文字がとても美しい。詩を読む--というより文字を読んでいる、そんな感じがする。文字のなかにある美しさが詩になっている。ことばが好き、とりわけ文字が好き--そういう気持ちがつたわってくる。
 
 どさっと大束の花首が投げ入れられる。

 この書き出しの「花首」。もし「花」と「首」がいっしょになっていることばがなかったらたかぎがこの詩を書いたかどうかわからない。「花」のはかなさ。「首」の危うさ。そして、そこに「投げ入れられる」ということばが結びつくとき、私はふいに「死」を思い浮かべる。身を水のなかに投げ入れる--入水自殺。そのまがまがしいイメージが「花」ということばで華麗に彩られる。ことばの魔術である。
 詩のイメージは、その後も次々とあらわれる。

 どさっと大束の花首が投げ入れられる。かっと瞠かれた幾多の目。
何を汲み上げてなのか、血色くっきりと縞を見せる一つに見覚えが
ある。

 「かっと瞠かれた幾多の目」。目を開いたままのまがまがしい死。それを強調する「血」ということば。この、あらあらしいことばをどうやって静めてゆくか。深い詩にしてゆくか。たかぎは、美しいことば、美しい文字を探し続ける。

 甕覗。淡い青が、もはや静まるしかないように、底に溜められて
いる。

 もし「甕覗」ということばがなかったら。もし「甕」という文字がなかったら。もし「覗」という文字がなかったなら。そして、それにつづく「淡」という文字がなかったら。あるいは「静まる」の「静」という文字が、それに先立つ「青」という文字をふくまなかったら。あるいは「静」のつくりが「争」という文字でなかったら。
 この詩は存在しないのである。
 「静」のなかにある「青」と「争」は、先に登場した「赤」とまじりながら、紫色になって甕の底にたまっている。覗くと、赤と青の争いのあとの紫のなかから、ただ淡い青が静かに静かに目にとどく。
 ことば、文字のなかにあるものが、矛盾しながら(対立しながら--争いながら)、生と死が交錯する。

 文字、文字、文字。その美しさ。それが、ついには、次のようなことばさえ引き寄せる。

 夏に向かって、水草を浮かせたことがあった。どこからか孑孑が
湧いた。とりどりの書字のように、全身をハネ、ハライとしている
それら。

 「文字」ではなく、たかぎは「書字」と書く。その文字の美しさ。孑孑にさえ、高木は「書字」の「ハネ」「ハライ」を見ている。たかぎには、すべてが「文字」(ことば)に見えるのである。
 ここにあることばはすべて、「意味」ではなく「文字」ゆえに選ばれているのである。そしてその文字の美しさがことばを互いに選びあい、そこに共通する「詩」を浮かび上がらせる。

 夜が爛けると、甕の膚の液状の漆黒へ、私は墨のように溶け入る。

 「漆黒」と「墨」の文字の通い合い。そして、その前後に登場するサンズイの文字。それが引き起こす重力のような魅力。
 最後の行。

 甕はある日割れて砕けるに違いない。裂けた天穹に、花が、撒かれ
て。

 もし「穹」という文字がなかったら、たかぎは、この詩をどうやって終えたのだろうか。あるいは「て」という文字がなかったち、この詩は「余韻」をどこにつるしておくことができただろうか。


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岩切正一郎『おだやかな微光』

2008-01-26 10:46:07 | 詩集
 岩切正一郎『おだやかな微光』(私家版、2008年01月23日発行)
 しおりに、家庭用のプリンターを利用してつくった、と書いてあった。美しい詩集である。用紙の選択にもこころを配っていることがよくわかる。そして、そのこころ配りは、詩にもあらわれている。いい意味と悪い意味と、二通りに。
 冒頭の「木の越境」。

はじめて、鳥がきたよ。
ふしぎな重さが枝に乗ってさ。その日は、いままでとは違うふうに
景色がかわった日だった。
木はじっと鳥の声をきいた。じっと。(ほら、きいてごらん。鳥の声を)
いっぱい繁った葉を揺さぶるよろこびが
あたらしいいのちのように木のなかを流れたんだ。
じぶんじゃ動けないだろう、木はね、
だからこのときくらい風が木のなかを深く吹きぬけたことはなかった。

 鳥と木の交歓。そのときの木のよろこび。木にはもちろん「こころ」などないだろう。だが、その存在しないこころを、こころとして浮かび上がらせる岩切。そこには、「こころ」というのは他者のなかにあるというより自分のなかにあるものが他者に反映しているだけなのだという「哲学」がある。他人のなかにあると想像できるものは、実は自分のものである。他人にこころ配りをするということは自分自身にこころ配りをすることである。自分を大切にすることである。--こうした「哲学」が、説教にならず、自然にあふれている。特に「だからこのときくらい風が木のなかを深く吹きぬけたことはなかった。」の「深く」に。この「深く」は、こころのなかまで「深く」ということである。木の、こころのなかまで「深く」。ことばにすることで、はじめて存在する「深さ」。それがとても美しい。
 木に鳥がきてとまる。そのときの「枝」の感じた「ふしぎな重さ」。その「ふしぎ」からはじまるていねいなことばの動きが、ていねいさの果てにたどりついた美しさである。ていねいさによって、岩切は木と一体になる。そしてその木には鳥も一体になっている。風も一体になっている。風景も一体になっている。つまり、宇宙と一体になっている、ということである。
 ここまでのこころ配りはとても美しい。しかし、そのあとが私にはこころ配りのしすぎに思える。

木は、風にふかれながら、風とひとつになって、いやいやをするようないじらしい身振りで、
うれしそうに身をゆすってた。
この日からさ、木は時のなかを越境してる、
あたしら人間とはべつの旅をしてるんだ。
歌を呼吸しながらね。
はにかむように揺れながらね。

 これは読者に向けたこころ配りである。「解説」である。「解説」を作品のなかに書いていけないということではないが、その「解説」が詩を「越境」してしまっている。
 岩切の詩はすでに木の、存在しないこころへと「越境」してしまっている。木にこころを読み取ったときから、人間と木のありふれた関係を「越境」し、「越境」することで木と一体になるという美しい体験をことばにしているのだが、そこから、どんなうふうにもう一度「越境」するか。その「越境」の仕方に問題がある。
 木と一体になるということは、すでに岩切は岩切ではない。「人間」ではない。こういう「変身」は詩にとってとても美しいものであるし、文学のすべては、ことばといっしょに動きながら自分が自分でなくなる体験をすることなのだが、そこからもう一度「越境」すのことは、とても難しい。
 岩切は、木へと「越境」し、岩切ではなくなってしまったのに、そこからなぜか、もう一度「人間」(岩切)に逆に「越境」してきてしまう。読者に対して「解説」するために、である。
 木と一体であるいわきりを振り切って、もう一度岩切にもどり、「木は、……」と「解説」しはじめる。「木は時のなかを越境している」というような、抽象的なことばで。このとき、「鳥」は消えてしまう。「風」も消えてしまう。「人間とはべつの旅」によって、その消去はいっそう強まる。
 「べつの」? 「べつ」って、何?
 人間と木の「区別」である。人間と木とは違う、という区別である。
 人間と木は別の存在であることはだれもが知っている。しかし、その別の存在であるはずの木と人間は交感できる。そして一体になることができる、というのが岩切が前半で書いたことばの運動である。
 それを、こんどは裏返すようにして、実は人間と木とは別の存在なんですよ、と念押しをするとき、詩は、どこかへ消えてしまう。
 読者にこころ配りをしすぎたために、詩が詩ではなくなってしまう。

 詩は、わからなければわからないでかまわない存在なのである。10円玉と1万円札がどう違うかわからないと生活に困ってしまうが、詩がわからなくても何も困ることはない。わからないまま、あ、何か美しい(日常とは違ったこと)ことを言っているみたいだな、という印象が残れば、それでいい。日常は時間をかけて、そのことばを、そのうちになっとくするようになる。わからなくても、あ、そうだったのか、と思うようになるときがくる。(もちろん、永遠にこないこともある。)人間は、そういう瞬間を待つことができる。そういう瞬間を待つ能力を持っている。
 岩切にもう必要なものがあるとすれば、この「待つ」というこころ配りかもしれない。「教える」のではなく、気がつくまで「待つ」。--と、こんなことを書いてしまう私も、待つことができない人間なのかもしれないが。


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マルジャン・サトラビ監督「ペルセポリス」

2008-01-25 20:21:46 | 映画
監督 マルジャン・サトラビ 声 キアラ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーブ

 黒く、太い線。その強さが美しいアニメである。そして、そこには「手」の美しさ、肉体の美しさがあふれている。
 好きなシーンが二つある。ひとつは少女のおじさんが「白鳥」をくれるシーンである。「白鳥」は2個ある。1個目の「白鳥」は刑務所でつくったとしか説明がなかったので素材が何かはわからない。2個目はやはり刑務所でつくったものだが「パンでつくった」とおじさんが説明している。
 もうひとつは、おばあさんのブラジャーからジャスミンの花びらが散るシーン。「おばあさんは、いいにおいがする。どうして?」「ジャスミンを朝摘んで、ブラジャーのなかに入れているからだよ」。
 このふたつに共通するのは「手」である。自分の「手」。人間には「手」がある。あたりまえである。そしてその「手」はいろんな魔法を引き起こすことができる。パンから「白鳥」を作り出すことができる。ジャスミンから素敵なにおいを引き出すことができる。ただし、そこには人間の「智恵」が加わらなければならない。肉体(手)と智恵。それが組み合わさったとき、そこに「奇跡」が起きる。
 その「奇跡」は世界を変えるような奇跡ではない。ただただ人間のこころの奥深くにのこりつづる奇跡である。あるひとりの人間をこころに永遠に刻みつけるという奇跡である。そのひとが大好きになる、そのひとを忘れられなくなるという奇跡である。
 この映画の監督、マルジャン・サトラビは、そのおじさんと、おばさんの「奇跡」をそっくり引き継いでいる。彼女自身の手で書かれた「線」、その線が作り出すアニメの主人公。手で描くことによってはじめて可能な「乱れ」。しかし、乱れながらも、きちんと形をつくっていく強さ。そして、乱れが引き起こす美しさ。
 この映画は、CGでは不可能な美しさに満ちている。人間のぬくもりに満ちている。「手」のぬくもりに満ちている。
 激動のイランを脱出し、ひとりで生きる少女(女性)という題材もそうだが、それを便利な道具(たとえばコンピュータ)をつかって表現するのではなく、あくまで「手」で再現する。あらゆる対象を「そっくり」に描くのではなく、何を強調し、何を省略するか--という工夫のなかに、彼女自身の「視線」をもぐりこませ、それを「手」で再現する。こういう作業は、現代では、力業である。それをやりとおす。そのやりとおすための「線の太さ」なのである。線は「太い」からこそ、そこにさまざまなニュアンスを含むことができる。
 モノクロの映像も、そうした「手」の仕事の延長である。おじさんのつくった「白鳥」もおばあさんの「香水(?)」も、それは本物ではない。そして「本物」ではないからこそ、本物以上に、ひとを「本物」へとひきずりこむ。存在が「本物」になるのは、そこに受け手の想像力が加わったときである。
 映画であるなら、その映画が「本物」になるのは、監督がそれをつくったときではなく、観客がその映画に対して、自分なりの想像力を加え、その作品を動かしたときである。この映画は、観客の想像力を、モノクロの映像で引っ張りだす。そして、そのとき、実はマルジャン・サトラビは単に観客を誘っているのではない。観客と勝負しているのである。色が見えるか、と挑戦しているのである。
 この挑戦に、私は、実はこたえることができない。イランの激動。そこで流された血。その色を私は漠然と想像することはできる。だが、それが見えるとはこたえられない。私は、その実際を知らない。その苦悩を知らない。この映画のなかにも、そうした苦悩は描かれているが、それを私自身の苦悩として感じるとはいえない。私は、この挑戦に対しては、負け続けることしかできない。
 --こうしたことは、書かなくてもいいことかもしれない。しかし、書かずにはいられない。アニメの絵の線の強さ、美しさが、そうさせるのである。私はこの映画から「手」(肉体)と智恵で人間は何でもつくれる、ということはしっかり学んだとだけしか書けない。
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松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(追加)

2008-01-25 19:28:04 | 詩(雑誌・同人誌)
 松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(追加)(「something 」6、2007年12月23日発行)

 松尾の詩の形は少し特徴がある。1行の形が最初は短く、それから徐々に長くなる。そしてあるところまでゆくと徐々に短くなる。さらに短くなるところまで短くなると再びまた長くなる。逆三角形をいくつかつらねた形になる。
 長くなるときが、私にはおもしろく感じられる。逸脱が、逸脱することで加速する。そして思わぬことばを引き出す。
 たとえば、

気づかぬうちに丘からころがる臓の内部の変転に

 「臓の内部」は「内臓」ということばを思い起こさせる。そのさらに「内部」。そして、「ころがる 臓の内部の」、さらなる「変転」。「変転」のなかにある「転がる」という文字。
 つづく行。

ひそやかな唖者の痛みをきりきりと重ねていき

 その末尾の「重ねていき」。単に「重ね」ではなく、それを念押しするように「重ねていき」の「いき」。こういう加速が、次の行を誘い出す。

逸脱の野はすでに点火しない涸れた花火に満ちていて

 「点火しない涸れた花火」の「涸れた」は何を指すのか。どういうことを意味するのか。何も「意味」しない。「点火しない」「花火」というすでに「花火」ではないものを「花火」として復活させるための「わざと」挿入された「無意味」なのである。「無意味」が唐突に挿入されることによって、「意味」が攪拌され、ことばが「意味」から解放されて「ことば」そのものになる。
 この運動をスムーズにするため、あるいは隠蔽するための「方法」が、逆三角形の形なのである。
 水のように、ただ「重力」にひかれて動いていくことばを、視覚的に再現することで、そのなかにあることばの運動、ことばの「無意味」に一定の位置を与える。「涸れた」ということば書かなければ、この逆三角形の詩の形は崩れてしまう。ことばの解放と同時に、詩の形にとっても必要なことばなのである。



 いま、私が書いたことは、たぶん詩の鑑賞にはあまり意味がないかもしれない。だから、どうしたの? といわれると、私には次のことばがない。ただ、私はこんなふうにして詩を読んでいる。ふいにあらわれる「無意味」--そこに、なまなましく詩人の個性を感じるのである。
 あ、松尾は「涸れた」ということば、特にその「涸」という文字が書きたくてしかたがなかったんだな、と感じてうれしくなるのである。
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松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」

2008-01-25 11:50:47 | 詩(雑誌・同人誌)
something 6
鈴木ユリイカ
書肆侃侃房、2007年12月23日発行

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 松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(「something 」6、2007年12月23日発行)
 松尾のリズム過剰に逸脱しながらも、というか、逸脱することで「散文」であることを拒絶するリズムである。

それから
もう遠い日の影
飲みこめない氷の欠片を
そっといだいてかがんいでいる
慣らされた地はゆるやかに下降して
気づかぬうちに丘からころがる臓の内部の変転に
ひそやかな唖者の痛みをきりきりと重ねていき
逸脱の野はすでに点火しない涸れた花火に満ちていて
行き場のない荒野のようにさかしらな悪徳をかくまいつつ
こうしてひろがる不穏な地理を
背から胸へと受けとめる

 何が書いてある? 主語は? 動詞は?
 私にはまったくわからない。
 これは「改行」の形式で書かれているから読めるのであって、「散文」の形式であればまったく読むことができない。3行目の「いだいてかがんでいる」という二つの動作の主語がまず不明である。次に「慣らされた地」という主語がでてくるが、これは「格助詞」の「は」によって主語と推測されるだけでのことであって、ほんとうに主語であるかどうかわからない。「いだいてかがんでいる」の主語と共通の主語なのかどうかもわからない。わからないまま、すぐにまた「逸脱の野」という主語も出てくる。これも「格助詞・は」によって主語と推測できるだけである。「慣らされた地」と「逸脱の野」は共通のもの中のか、対立するものなのか、それもよくわからない。「慣らされた地」と「逸脱の野」が「対句」になっているのかどうかもわからない。
 そして、この作品は、そういうものがわからないことによって「詩」になっている。「詩」としてとどまっているのである。
 ある一点に水をこぼす。するとその水は低い方へ流れていくが、その低い方が1か所とはかぎらない。そうすると水は四方八方へ広がりながら流れていくことになる。その流れは水の意思によるものか。そうではない。単なる偶然である。重力の働く場に身をゆだねているだけである。水はその方向を選んでいるのではなく、意思を欠いたまま流れていく。
 それと同じように松尾のことばは、一種の重力にひかれるように動いていく。そこには意思というか、目的がない。目的があるとすれば、そうやって「重力」というものが世の中には存在するということを知らせる、ということだけである。
 目的がなくて(あらわすべきものを最初から内包していなくて)、それでも「詩」なのか。目的がないからこそ、詩なのである。目的を拒絶し、その一瞬一瞬、純粋にことばであろうとする。そのことが詩なのである。
 あふれつづける水を見る。流れても流れても尽きることのない水を見る。そのとき、あ、水は美しいなあ、と思う。(私は、思う。)その瞬間が詩なのである。松尾のことばは、水のように流れる。どこへ行くのか、さっぱりわからない。いつ終わるのかさっぱりわからない。だから詩なのである。
 わからないまま、流れ、うねる。長く長くそのことばがのびるとき、水の腹がつややかに太陽の光を帯びてゆったりとなまめくのに似て、ことばの奥から不思議な艶が出てくる。それが輝いたり、輝くことで逆に目つぶしのように暗さを感じさせたりする。ようするに、きらきらする。

 こうした作品は、私が引用した一部や、あるいは一編では、ほんとうの魅力を発揮しない。したがって、とても批評がしにくい。感想が書きにくい。水が知らず知らずに海にたどり着くように、松尾のことばは方々にさまよいながら、そのときどきで輝きながら、そのとぎどきでさまざまなものを映し、映すことで他者を内部にとりこみながら、最終的にひとつの場をつくりあげる。海、ではなく、「詩集」である。そのとき、あ、松尾のことばはここへ向かっていたのだ、ということがわかる。
 ただし、それは、あ、ここへ向かっていたのだということがわかるだけであって、何のために? それで? と、問いはじめると、何も答えはでない。ひとが海をみても何も答えがでないのとおなじである。
 ただ、そこに、そんなふうにことばを動かす力がある、ということを受け入れるか受け入れないかだけである。意味を拒絶することばを受け入れるか受け入れないかだけである。
 私は、海を見ると泳ぎたくなる。松尾のことばのなかでも、ただ適当に泳ぎたくなる。泳ぎに目的はない。どこかへ行くために泳ぐのではない。ただ泳ぐ楽しさを味わうために泳ぐ。泳ぐとき、私は「意味」を拒絶している。「意味」を拒絶するとき、海はやさしく穏やかになる。松尾の詩もおなじである。「意味」を求めないとき、ことばがきらきらと輝く。「散文」では、ない、のである。

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仲山清「雪送り」ほか

2008-01-24 10:43:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 仲山清「雪送り」ほか(「鰐組」226 、2008年02月01日発行)
 リズムがとても美しい。そのリズムは演歌のリズムである。美空ひばりに読ませてみたい、歌わせてみたいというリズムである。

見送られて
雨となった
見送るひとの無口が
季節はずれにひらきかけた
雨がみぞれにかわり
みぞれがあらくれの
雪となった
川岸のもやい舟も
雪を太くかぶって
ゆるい流れの島となった
むこう岸へ
こいでくれないか
亡霊のような船頭へ
最後のたのみごとをした
墨絵の墨もかすれるへさきに
見送られて
島は劫火につつまれ
見送るひとの手ゆびも
風をさそった
いそぎ
桜のにおいをさせていた

 改行がとてもいい感じなのである。呼吸を整え、ことばを誘う。特に

むこう岸へ
こいでくれないか

 この2行の、改行、改行が作り出すリズムがいい。此岸から彼岸へ。そのとき、ふっきらなければならないものがある。それはことばにはならない。「呼吸」にしかならない。「呼吸」をこそ、船頭に伝えるのである。船頭はその「呼吸」から何事かを理解して舟をこぎはじめるのである。
 ひばりなら、この「呼吸」をどんな間合いで表現するだろうか、声のトーンをどうかえるだろうか、と深く深く思った。
 この一種の古くさい(?)情景、「呼吸」の色と、その前の「雪を太くかぶって」の「太く」が深いところで響き合うのもいい。「太い」ということばはこんな具合につかうのだと、しみじみと思った。日本の風景の美しさと、それを伝える日本語の美しさを思った。私は外国語を話せないからわからないが、この「太く」をたとえば英語やフランス語、ロシア語でどういうんだろうか。水分を含んだ雪の降る国ならば、「太く」に通じることばがあるかもしれないが……。

見送るひとの手ゆびも
風をさそった
いそぎ
桜のにおいをさせていた

 の4行のリズムにもうっとりしてしまう。特に「いそぎ」、ことばとは逆のゆったりしたリズムに「未練」を感じ、ぞくぞくしてしまう。(それぞれの1行を、おなじ時間で読むと、「いそぎの」に込められた情感がくっきりと浮かび上がるはずである。)

 リズムをほめたあとで申し訳ないが、注文が2か所。「島は劫火につつまれ」の「劫火」が「雪を太くかぶって」の「太く」のリズムとは相いれない。「太く」につながるいくつものことばのリズムとは相いれない。
 また、「雨がみぞれにかわり」の「かわり」がとてもうるさい。

雨がみぞれに
みぞれがあらくれの
雪となった

 と「にかわり」を省略するほうが、つやっぽいスピードが出る。
 「にかわり」があった方が散文的な意味の通りはよくなるが、そういう散文のリズムはこの詩にはそぐわない。散文は「呼吸」では読まない。「呼吸」で読む「演歌」に「散文」が侵入してくると興ざめである。
 仲山は散文も書いているので、そのリズムがどうしても紛れ込むのかもしれないけれど、そのリズムを洗い落とすと、ことばが魅力的になると思う。



 おなじ号に載っている「からまれて」は、逆に散文で追っていくと明確になる世界を、わざと改行のある詩にしたてたもので、その「雑」というか「俗」の取り込み方かおもしろい。

やまぶどうのつるがからまって
身うごきならない
つめを立てたり
ツノを出したりするが
らちがあかない
すっかりみくびられて
黒いのや白いのが
またぐらを
平気な顔をしてくぐっていく
ときには魚くさいのや
冷たいものをかついだやつが
とおりすぎる

 「黒いのや白いのが」の「の」。その口語のつかい方が、つぎの「またぐら」の「俗」とぴったり響きあって楽しい。ただし

またぐらを
平気な顔をしてくぐっていく

 というリズムは、私には、あまりおもしろいものには感じられない。

またぐらを平気な顔をして
くぐっていく

 の方が、つぎの「とおりすぎる」とリズムがいっしょになり、楽しく読むことができる。西脇順三郎なら、

またぐらを平気な
顔をしてくぐっていく

にしただろうか。あるいは

またぐらを平気な顔を
してくぐっていく

にしただろうか。というようなことも考えた。リズム、音楽は、詩のことばを独立させる。独立してこないことばは詩としてはおもしろくない。

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ティム・バートン監督「スウィニー・トッド」

2008-01-23 10:10:50 | 映画
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・ディップ、ヘレナ・ボトム・カーター

 ミュージカルの映画化。
 ティム・バートンがあいかわらず映像に凝っている。画面の色調を濡れたような黒で統一している。ボイラーというか、巨大なオーブンといった鉄でできているものさえ、冷たい冷たい水分を含んでいて、触るとその濡れたような感触が、触れた指先から、手、肘、肩、心臓へと浸食してくるような、そういう色である。窓ガラスも壁も石畳も下水道の暗渠も、空も。そして、そういう黒を拒絶して剃刀の白い輝きだけが異質である。水分を含んだ色には違いないのだが、その水分は体とはなじまない。不思議な輝きをしている。
 そこに赤い血が流れる。この血の色は、赤くはあるけれど実際の血の色ではない。わざと赤が目立つようにしている。
 何度も何度も赤い血が流される。流れる。そのたびに、ティム・バートンはこの赤い色が何色に見えますか? と問いかけてくる。剃刀に浮き上がる立体的な膨らみ、血の噴出、あるいはさーっと首の切れ目から流れ落ちる血。さまざまに形をかえ、その流れるスピードにもさまざまな動きがある。そういう赤を登場させながら、ティム・バートンは問いかける。何色に見えますか? 狂気の赤? 感激の赤? 激情の赤? 純愛の赤? 怨念の赤?
 ティム・バートンは狂気を描くことで、純愛(劇愛)の純度と激しさをいっそう鮮烈にしたかったのだと思う。
 だが、私には、それが純愛の赤には見えない。それどころか、「赤」さえが見えない。狂気の純粋さが見えない。たしかにそこに登場する「赤」は「赤」としか表現できない色なのだが、引き込まれない。魅力的に感じられない。ようするに「赤」とは感じられない。「血」にしかすぎない。感情がない。
 赤を登場させることで、逆に「赤」が見えなくなってしまっている。先に「赤」を見せられるために、「赤」が見えなくなってしまっている。映画の中の「赤」はとても人工的な赤であり、ほんとうの血の色とは違っている。そして、その人工的であることによって、なんだか感情そのものさえも人工的に動かされているようで、それが「赤」の魅力を消してしまっているのだと思う。「血」のなかにあるものをゆがめてしまっているのだと思う。
 「赤」ではなく、全体の黒になじみ、同時に異質であるような「黒」なら、血の色はもっと鮮烈に見えたかもしれないと思う。

 この映画ではティム・バートンとヘレナ・ボトム・カーターが実際に歌っている。へたではない。だが魅力的でもない。一昨年、私はニューヨークでこの芝居を見たが、声がとても魅力的だった。声に引きずられて劇のなかへ入ってゆく。ミュージカルの魅力はそこにある。この映画は映像を優先させてしまっていて、声で観客を引きずり込むという努力にも欠けている。
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時里二郎「ふるとり」

2008-01-22 09:58:38 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「ふるとり」(「ロッジア」1、2008年01月31日発行)
 「あとがき」に次のように書かれている。

 「ふるどり」は、「『歌稿ノオト』注釈」の一編として書かれた。自分の生まれた村への行商をつづけながら、「アララギ」に歌を贈り続けた父の遺した「歌稿ノオト」と、それについての注釈というスタイルの作品群で、主に書肆山田の「るしおる」に書き継いできた。

 この「あとがき」をどう読むべきか。ほんとうのことが書いてあるのか。それとも、そう読んでもらいたいと思って書いた仕掛けなのか。ほんとうのことであったにしろ、私は「仕掛け」として読む。「仕掛け」でなければおもしろくないのである。
 「ふるどり」は行商の柳行李にまつわることがらが書かれている。柳行李は「入れ子」になっている。その「入れ子」構造のように、「ふるとり」もまた「入れ子」になっている。そして、その最後の(最初の?)「入れ子」が「あとがき」なのである。
 時里はもともと「入れ子」という構造が好きな詩人である。何かのなかに、それに似た何かがまた存在する--という繰り返しが好きである。それはほんとうは「入れ子」という構造への愛着というよりも「繰り返す」ことが好きな性向をあらわしているように思える。
 「ふるとり」という作品は、父の遺した(?)歌を「物語」として繰り返し、さらに物語のなかに出てくる事物についての注釈によって繰り返す。ただ、繰り返すといっても、おなじことばを繰り返すのではなく、言い換えるので、そこにはおのずと「隙間」というか「差」が出でくる。つまり「大小」が出てくる。この「大小」が「入れ子」を誘い込むのである。
 繰り返すということは、おなじことが起きるのではなく、かならずちがったものを含んでしまう。それが時里の基本的な思想であるように私には思える。繰り返すことが違いを生み続ける。ずれを生み続ける。そしてそのことは何を意味するかといえば、世界で存在するのは「ずれ」(隙間)だけである、ということである。
 この「ずれ」(隙間)は「ふるとり」では、一番下の行李の「わずかなふくらみ」である。さらにいえば「わずかな」である。時里はいつも「わずか」に拘泥する。「わずか」こそが「ずれ」であり「隙間」だからである。「わずか」ではなく「大きな」だったら「ずれ」や「隙間」ではない。「わずか」だからこそ、そこには何でも入り込むのである。この何でも、というのは、実は想像力のことである。「わずか」なところに入り込むことは普通は困難である。しかし、想像力は困難であるからこそ、いきいきと動き回る。なんとかその困難をこじ開けようとする。その「わずか」な「隙間」に入り込もうと、想像力自身をねじ曲げ(ゆがめ)、いっそう生々しい想像力になる。そして、そこでゆがみながら「ふくらむ」、つまり拡大する。生々しく成長する。
 たとえば、次のように。

なかでも行李のいちばん下の嵩高い匣のわづかなふくらみが、どういふ理由からか唐突に、そのころ弟を宿していた母のわづかにふくらんだ腹を連想させたのだ。

 想像力はゆがみながら「ずれ」(隙間)に入り込み、そこでふくらむ(拡大する)。いっそう成長する、というのは、次のようなことばの運動のことである。いったんゆがみはじめると、それは止まらないのである。

 薬売りがつぎつぎに入れ子の行李を開いていくのをもうわたしは見てゐない。わたしはそのあひだに、一番下の嵩のあるふくらんだ行李が孕んでいる生きものの気配のやうなものに耳を澄ますことに夢中だつた。その行李のわづかなふくらみ具合が、母のしろいとろりとしたおなかに重ねられる理不尽が、何か生きもののやうなかたちを欲してゐるやうに思はれた。

 「わたしは見てゐない」は直接的には薬売りの動作を指し示しているが、実際は、行李そのものをも見ていないのだ。もう見ることを止めて、「わたし」はひたすら想像している。「見る」(目をつかう)かわりに、「耳を澄ます」(聞く)ことに神経を傾けている。想像力のなかで視覚と聴覚がいりまじる。いっしょになる。感覚の融合・複合が起きて、それがそのまま肉体となる。人間そのものになってしまう。いや、人間という具体的なものをも超越して、時里のつかっていることばを借りていえば「生きもの」になる。「わたし」と行李が「生きもの」とし融合してしまい、その融合のなかに「宇宙」が誕生するのである。
 時里のことばの運動の真骨頂(詩の頂点)がここにある。



 詩の後半に、行李が、今では「生きもの」のように見えなくなってしまった、と書いている。そして、次のようにも。

 それでは、幼年の頃の未熟さゆゑに失語した想像力の膨満を、ことばが解いてみせた所為なのか。いや、今も若井の市で覚えた総毛立つ恐ろしさの余韻は辿らうと思へばたどれる。それはことばを介してではなく、むしろことばの後ろ側に回り込むことによつて可能な試みではある。

 「ことばの後ろ側」。ことばを書きながら、時里はことばそのものを信じてはいない。この不信感が、ことばを「詩」に高めている。すべては「わざと」なのである。仕掛けなのである。仕掛けをつくり、その仕掛けの後ろ側に回り込む。時里にとって「ことば」と「しかけ」は同じものである。
 だからこそ、私は、時里が「あとがき」で書いていることばを、それが「事実」を書いていたとしても、「仕掛け」として読むのである。ほんとうのことというよりは、時里が仕組んだものだと思って読むのである。--そう読まれることを狙って書かれたものでもあるかもしれないが、そうだとしたら、それに積極的にだまされるようにして、その仕掛け(仕組み)のなかへ入って行って、そこで遊ぶのである。

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田中宏輔『The Wasteless LandⅢ』

2008-01-21 10:42:08 | 詩集
The Wasteless Land.Ⅲ
田中 宏輔
書肆山田、2007年12月20日発行

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 とてもおもしろい詩集である。そして、その詩集よりもおもしろいのが「帯」である。誰が書いたのかわからないが「詩人の内に滾る未生の言葉の噴出。これらのこれらのこれらの言葉がたったひとつの単語として複雑で遠大な意味にむかう。」あ、そうなのか、と思う。
 「そうなのか」というのは、田中の詩への感想ではない。
 そうなのか、詩は「意味へ向かう」ものなのか。そんなふうにして読まれるものなのか、ということである。そして、そうか、と思いながら、その「そうか」のなかにはなんだかがっかりした、という気持ちに含まれてしまう。
 私ももちろんことばを読むときは「意味」をさぐりながら読むのだけれど、実際に「意味」ということばに出合ってしまうと、何かちがうなあ、と思ってしまうのである。読者である私は「意味」を求めてしまうけれど(凡人だから)、作者である詩人のことばせ「意味」へ向かわないでほしいと願うのである。そのことばが「意味へむかう」ならば詩の価値(意味?)がなくなってしまうと思うのである。天才のことばを読む楽しみがなくなってしまう。意味を求める思いをひっくり返してくれる--それが詩である、と私はひそかに思っている。天才のことばは凡人のことばをかきまぜてしまう。意味をとおらなくさせてしまう。意味を破壊してしまう。意味が破壊されて、ことばがことば以前--「未生」になる瞬間、そこにこそ詩があると思うからである。

 田中のこの詩集には、この詩集のことばには「意味」などない。ことばは「意味」へなどむかっていない。それが私にはおもしろく感じられる。

●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね●行けなさそうな顔をしてる●道路の上の赤い円錐がジャマだ●百の赤い円錐●スイ●きのう●ジミーちゃんと電話で話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通の言葉でも●なんだか●いやな言葉があるねって●そんなことばをぷつぷつと●つぷやきながら●本屋のなかをうろうろする●ってのは●どうよ●笑

 「意味」というか、「ストーリー」は自然に私の頭の中に浮かんでくる。ジミーちゃんか、それともだれかほかのひとか、それはどうでもいいのだが、ある人間に「愛を告白する」(ぼくの金魚鉢になってください)。「金魚鉢になってください」という言い方は普通の日本語ではないし、愛の告白とは考えられないかもしれないが、それは比喩であり、比喩で限りにおいて、それはどんなものであってもいい。その比喩が他人に気に入るかどうかは、直接、愛を告白されたひと以外にはなんの関係もないことだからである。
 そして、実際に愛を告白されたひと(たとえばジミーちゃん)と、愛を告白したひと(たとえば田中)の、その後の会話がつづく。
 (田中が「ぼくの金魚鉢になってくれる」と告白されたほうである仮定することも可能だけれど、めんどうくさいので省略する。)
 「金魚鉢になってくれる」というような奇妙な比喩での愛の告白が可能な関係になってしまえば、(そんな比喩が通じる間柄になってしまえば)、もう、どんなことばをまき散らしても会話になる。どうでもいいことばが、それぞれにあいての肉体に届いてしまう。あいての肉体のなかから、それこそ恋人同士にしか意味のない(価値のない)快感を引き出してしまう。どうして、そんなところが感じる? と、愛しあっている人間に問いかけることほど馬鹿げたことはないだろう。どこだって、感じるのである。快感なのである。それが「恋人」というものだろう。
 指や舌で体中をまさぐるように、ことばをまきちらしながら、指や舌や性器では触れることのできなかった肉体の奥、肉体の記憶をかきぜる。「笑」「そだね」といったような、相槌がときどきはじける。破壊と肯定。肉体を破りながら、新しい肉体(快感)を求めて動き続けることば。
 どんなことばにも「意味」はない。ただ、それを使ってみたいだけなのである。たとえば指で体のどこかに触る。舌で触る。性器で触る。意味はない。したいだけなのである。それとおなじである。
 「意味」というものが、歴史のなかで蓄積され、共有されてきた流通する何かだとすれば、愛とは、そういう流通が隠してきたものをあばくために、流通そのものを破壊することである。詩もおなじである。歴史のなかで蓄積され、洗練されてきた何か、流通に便利な感覚(感情--たとえば抒情)を破壊し、そういう抒情の形式が隠してきた「もの」(ものとしかいえない何か)を出現させる力が詩なのである。そして、そのとき詩のことばは、そういうことを狙っているというより、ただ、そんなふうにことばを動かしたいから動かしただけのことにすぎず、なにかが噴出するとしても、それは単なる結果である。
 なにが噴出してくるか、ということは詩には無関係である。その後の「意味」は詩には無関係である。
 ただ、いままであるものを破壊する--そのために、わざと、いままでとはちがったことばの動かし方をする。そういう動かし方を、「瞬間芸」としてではなく、あきもせずに延々と繰り返す--それが芸術なのだ。詩なのだ。

 田中はこの作品のなかでは「●」を多用している。それは読点「、」であったり句点「。」であったりする。会話の始まり、終わりを示す括弧だったりもする。簡単に言ってしまえば、声にならないもの。ことばにならないもの。ことばを際立たせるための意識の存在を浮かび上がらせるための技法。
 田中は一方で、どうでもいいような(他人にはなんの「意味」もない恋人の睦言)を垂れ流し、他方でその垂れ流しの睦言のなかに、ことばにならない(日本語として「声」に出せない)意識があることを浮かび上がらせる。そして、そのことばにならないかったもの、●でしかあらわせないものが、ありとあらゆる瞬間に存在していることを明示する。どのページを開いてみてもおなじである。そこにあるのは●の洪水である。
 田中の手柄は、そういう●でしかないものが世界にあふれていることを●を書き散らすことではっきりと浮かび上がらせたことである。●にぶつかり、●にさえぎられ、めんどうだなあ、●なんか飛ばしちゃえ、なんて思いながら●を笑いながら読む、というのがこの詩集にはふさわしい態度だと思う。
 「意味」なんかに向かってはだめ。1ページから最後まで順序よく読む、なんていうのもだめ。秘蔵の(?)ポルノ映画(まだ、あるんだろうか)を見るみたいに、気分次第で好きなページを開いて●(あるところを愛撫していて、つぎの場所へ移るための呼吸のようなものだね)を、あ、ここにも、あそこにも、この瞬間かあ、いや、この瞬間だな、と思いながら読むしかないのだと思う。
 こんなふうに読むことができる詩集が誕生した、ということがおもしろい。

 田中のことばは「意味」へ向かうのではなく、「意味」からどこまでもどこまでも遠ざかる。「意味」を破壊し尽くし、肉体になる。私は「帯」に書いてあることとはまったちちがう世界を楽しんだ。
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永富和子「お父さんお母ちゃんと呼ぶ夫婦来て球根つらねし彼岸花植う」

2008-01-20 05:46:20 | その他(音楽、小説etc)
 永富和子「お父さんお母ちゃんと呼ぶ夫婦来て球根つらねし彼岸花植う」(読売新聞1月20日朝刊、佐賀県版「文芸欄」) 
 偶然読んだ一首なのだが、忘れられない。

お父さんお母ちゃんと呼ぶ夫婦来て球根つらねし彼岸花植う

 実際に体験したことをていねいに描いている。夫婦がいる。一方は「お父さん」と呼び、他方は「お母ちゃん」と呼ぶ。「さん」と「ちゃん」。この違いに作者はなにかを感じ取っている。そして、そのなにかを説明はしない。ただ違いのまま、ことばのなかに定着させる。読者がなにかを感じてくれるならそれでいい。作者の感じたことと読者の感じたことが違ったら違ったでかまわない。そういうゆったりした感じである。自分が感じたことをなにがなんでも正確に伝えよう、感動を呼び起こそうというわけではない。
 このゆったりした感じが、そのまま歌の世界と重なる。「お父さん」と呼ぶ。「お母ちゃん」とこたえる。二人のあいだには微妙なこころの動きがある。たとえばそれを「尊敬」「甘え」と呼んでもいいかもしれない。しかし、わざわざ、それをことばに出して説明するようなことではない。ただ、あっ、と思うだけで十分である。その「あっ」のなかに行き来する思いは、たぶん、夫婦というものを体験したことのある人ならだれでもが感じるなにかである。「尊敬」「甘え」などとことばにしてしまうと、「あっ」そのものが変質してしまう。違ったものになってしまう。だから、そういうことはいわずに、そっと見たまま、聞いたままをことばにする。
 この見たまま、聞いたままをことばにするというのはなかなか難しい。ひとは、どうしても自分の考えていることを説明してしまいがちである。(たとえば、私のこの文章。)
 永富和子は、そういう「間違い」をおかさない。説明することで、自分の気持ちをおしつけない。そのかわりに、読者が感じてくれるのをただ待っている。
 この姿勢は「お父さん」「お母ちゃん」と呼び合う夫婦の姿そのものにも見えてくる。そして、また「球根つらねし彼岸花」のようにも見えてくる。「球根」ではなく、どこかで、たとえばこころの根っこ、暮らしの根っこでつながっている姿そのものにみえてくる。そういう二人だからこそ、いっしょに花を植える姿がしっくりくるのだ。

 永富和子の作品を私はほかに知らない。ほかに知らないのだけれど、たいへんすばらしい歌人だと感じた。もっと多くのを歌を読んでみたいと思った。

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小松弘愛「おおきに」

2008-01-19 10:28:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「おおきに」(「兆」136 、2007年11月05日発行)
 ことばはいつ「詩語」になるか、ということを考えた。小松は失われてゆく高知方言をていねいに記録しているのだが、ことばには失われていくことばと同時に新しく誕生してくる(登場してくる)ことばがある。そういう「新しいことば」はいつ「詩」のことばとしてつかわれるか。
 「おおきに」の冒頭の3連。

「ありがとう」
子供の頃には使った記憶がない
いつも「おおきに」だった

蜜柑畑の多い村の中学校を出て
高知市内の簿記学校に通い
貸借対照表(バランスシート)の作り方などを習った後
繁華街でマネキンなんか置いて
洋装店を開いていた伯母の店へ
住込店員として入り--

「おおきに」は消えてゆくことになった
「ありがとうございます」
「ありがとうございました」

 「おおきに」と「ありがとう」の「バランスシート」。「バランスシート」はたしかに「貸借対照表」だが、最近は「貸借対照表」ということばはつかわれず「バランスシート」という。政治家がこういうことばを好むのは、なにかを隠したいからである。「貸借対照表」というと「借金」の残高、赤字がよくわかる。貸し借りにこれだけの差がある、どうする? でも、「バランスシート」というと「バランス」(均衡、つりあい)くらいのイメージしか普通の市民は思わない。「バランス」はたまたま崩れているだけ。すぐ取り戻せる。転んだって、人間なんかすぐ立ち上がれる--というようなイメージだ。しかし、それが何兆円の「差」だった場合は? ほんとうのことを知らせないためにつかわれることばというものもある。
 こういうことばが「詩」のなかで消化されるまでには時間がかかる。詩のことばというのは、そこでつかわれていることばそのものへの批評を含んでいる。批評の姿勢がきちんとつかう人のなかで確立されない限り、それは詩にはならない。
 小松ははっきりそのことを自覚している。
 詩の最後の方。

きょう
『新解さん』と呼ばれたりする辞書
を手にして
たまたま目にすることになったのは

おおきに(感)
[各地の方言。特に関西で好んで使う]ありがとう。

せっかく
国語辞典に入れてくれてあるのに
「各地」の一つである高知では
「好んで使う」ことにはならず
言葉のバランスシートは崩れてしまった

 政治家のつかう「バランスシート」ということばが、ここでは洗い直されている。
 古いことばとしての(?)方言「おおきに」と、共通語としての「ありがとう」の「出入り」が高知ではおかしくなってしまった。どちらが「貸す」でありどちらが「借りる」なのか。そんなことは、ことばのなかではわからない。
 でも、借金の場合は? たとえば住宅ローンを借りている場合。毎月いくらかの金額を支払っているとする。そのとき、どちらが「貸す」でありどちらが「借りる」であるか、勘違いするひとは誰もいない。(できるなら、勘違いしてしまいたいし、さらには「貸す」「借りる」の立場が逆転してほしいものだが。)
 「バランスシート」ということばのつかい方には「罠」があるのである。その「罠」を小松はここでは「ありがとう」と「おおきに」を例に具体的に再現している。そこに批評がある。そして、批評からはじまる詩がある。新しいことば「バランスシート」が「詩」になったといえる。

 小松は「俗・土佐方言の語彙をめぐって」という連作で、土佐方言をとりあげつづけているが、ここでは土佐方言の失われていく味わい(ことばにならない肉体のようなもの)をすくい取るといういつもの方法ではなく、新しいことばを批評してみせている。そして、その姿勢は、土佐方言を消し去っていくものへの厳しい批評ともなっている。
 方言の「バランスシート」を正しいものにしないと、すべてはごまかされてしまう。肉体からの批評(生活からの批評)を確立しないと、すべてはごまかされてしまう。--そんなふうに「露骨」に書いてはいないが、そういう声が、ことばの奥底から聞こえてくる詩である。
 新しいことば--それはいつでも生活に根付いた視線をはぐらかすためにつかわれる。日常の生活は見ていた風景が、新しいことばが突然持ち込まれた瞬間から、一瞬はぐらかされてしまう。新しいことばを知らない人間が劣っている(?)ような印象を引き起し、日常(暮らし)の視線が築いてきた世界をはぐらかしてしまう。そういうものにはぐらかささてはならない。
 なんだがアジテーションのようなことを書いてしまったが、そんなことを改めて考えた。
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