詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇362)Obra, Joan LLuis Belsa

2023-05-31 17:50:43 | estoy loco por espana

Obra, Joan LLuis Belsa

  El tiempo desaparece. Sin dejar rastro, el tiempo desaparece en el tiempo. Desearía que mis pensamientos también desaparecieran siguiendo al tiempo que sólo puedo ver por un momento.
  En cuanto puse estos pensamientos en palabras, las palabras que deberían haber desaparecido volvieron del tiempo que desaparece y se convirtieron en sombras negras. Pero el tiempo y el tiempo no podían chocar, pasaban uno junto al otro, causando un frío terror, como si estuvieran cosiendo un desgarro en el tiempo, escribió el viajero del tiempo.
  La frase continúa, tal y como yo la recuerdo (intercaladas con las palabras de un dramaturgo con cara de pájaro): 
  El tiempo desaparece. Sin dejar rastro, el tiempo desaparece en el tiempo. El pensamiento negro camina hacia atrás a través del tiempo que desaparece. El tiempo nunca puede chocar con el tiempo. Ni pueden cruzarse. Sólo puede crear una ilusión. Es como pensar que no tengo nada que pensar, pero que puedo pensar que no tengo nada que pensar.

 時間は消えていく。あてもなく時間は時間の中へ消えていく。その一瞬だけ見える時間を追いかけながら、私の考えも消えていくことができればいいのだが。
  その考えをことばにしたとたん、消えたはずのことばが、消えていく時間のなかから引き返してきて、黒い影になった。しかし、時間と時間はぶつかりあうことができず、すれ違っていくのだが、時間の裂け目を縫い合わせてしまうような、冷たい恐怖を引き起こした、と、その時間の旅人は書いている。
  その文章は、こうつづいていた、と私は記憶している。(そのことばには、鳥の顔をした劇作家のことばがまじっている。)
  時間は消えていく。あてもなく時間は時間の中へ消えていく。その黒い思考は、消ええていく時間の中を、逆向きに歩いている。時間は時間とぶつかりあうこと絶対にできない。すれ違うこともできない。ただ、錯覚することだけができる。それは、私は何も考えることがないのだが、考えることがないと考えることはできると考えるようなものだ。

 

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木谷明「つつじの森」ほか

2023-05-29 21:18:10 | 現代詩講座

木谷明「つつじの森」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年05月15日)

 受講生の作品。

つつじの森  木谷明

空き地があるでしょ

ほっとするでしょ

その向こう

緋色、紫、白に零(こぼ)れて

つつじの森の住人は姿を見せることはないのです

ただ

育て

往き来し

見せず

ひとの背丈ほどになりながら

ただ

籠り

往き来し

立ちどまられようと

その川を

橋で歩くひとなどに

姿を見せることはないのです


その向こう
つつじの森に見えるのは
空き地から
届かない
歩いても
隠れてる
緋色、紫、白に零れて

 

つつじの森の囀りに

 「つつじの森の住人」は具体的に書かれていないが、秘められた感じがいい。全体の調子(音)、行間の取り方、全体がやわらかく反響し、後半転調しいくのがいい。朗読を聞いて、共感の秋とテンポが合っているのを感じた。「零れる」「囀る」というむずかしい感じが印象的。山つつじのさわやかさを感じる。「つつじの森の囀りに」という最終行が印象に残った。空気感、膨らみを感じた。
 という声。

 行空きは、1行では足りなくて、最後は3行になった、と作者。
 「散文」にならないように工夫した文体と、行間(ことば、イメージの飛躍飛躍)に工夫があるし、受講生が指摘しているように、ときどきまじる日常的には見ない漢字も視覚を刺戟する。
 詩は論理ではないし、結論もなくてもかまわない。ことばの飛躍のなかに詩がある。その飛躍を強引に綿密なことばで埋める手法もあるし、木谷のように断絶を空白(行間)でつくりだす手法もある。
 江戸期のだれかだと思うけれど、「空白も絵の内なのだから、こころして見なければならない」と言った人がいたと思う。ことばの「空白」は論理の飛躍、あるいは行間ということになるかもしれない。
 

みどり  杉惠美子

ガラス窓越しに見る
5月の宵は
思っていたより暗くない

私は私だからと
思えた瞬間に
生乾きだったシャツが
ピンと乾いた

時空が少しずれて
少しゆがんだような
温度差もあれば
吸う息が揺れているような感じがある

反応する私と
吸い込まれる私がいて
少し遠くまで行けそうな気がする

トンネルを抜けて
新緑に包まれて
私はみどりになる

 二連目の表現がおもしろい。最終連の新緑が鮮やか。「みどりになる」に共感する。実際は部屋の中にいて、トンネルは空想と思って読んだ。空気の揺らぎのようなものを感じた。「シャツが/ピンと乾いた」「時空が少しずれて」「吸い込まれる私」という動きに(意識の)流れの一貫性を感じる。心象と物理が重なる。
 二連目については、杉は、「ひらめいた」から書いたと言った。詩は、意図して書くというよりも、ことばに書かせられるものかもしれない。

 この詩でおもしろいのは、二連目のことばが、他の連と違うから見落としてしまいそうになるが、ここに実は「キーワード」がある。
 「思えた」(思う)という動詞。一連目「思っていた」、三連目「感じがある」、四連目「気がする」。「思う」「感じる」「気がする」は「客観的事実」というよりも、「主観的事実」。この「思う」(感じる/気がする)は、実は書かれていい長最終連にも存在する。
 私はみどりになる「と思う/と感じる/気がする」。しかし、杉は最終連には、それを書かない。そのため、最終連の印象が非常に「さっぱり」する。作者が「みどりになる」のだが、読んでいる読者が「私」になって「みどりになる」と錯覚する。
 静かな「飛躍」がここにある。そして、それをつくっているのが「思う/感じる/気がする」の省略である。

森のアトリエ  池田清子

思い切って
一人旅をしてみようか
大丈夫
ロシナンテと一緒だから

山道を折れて折れて
細い道を進むと
緑の中に
しんと立つホテル

巨大な天体望遠鏡
小さなプラネタリウム
木星がくっきり見える
解説が熱い

ヴァイオリンとピアノの生演奏
食事中 記念の写真を撮ってくれる
浴衣姿で二人とも微笑んでいた
ホテルの名は
勝手に「星の美術館」

宇宙の定規も二人で選んだ
ロシナンテ
やっぱり 思い出のつまってない所に行こうか

ドン・キホーテは
父と 痩せ方がよく似ている

モモンガは飛び去って行った

 「宇宙の定規も二人で選んだ」が印象的。「ロシナンテ」「ドン・キホーテ」は、比喩。それが「宇宙の定規」の比喩と響きあう。素敵な詩。「森のアトリエ」に対する思いを描いたのだと思って読んだ。

 「食事中 記念の写真を撮ってくれる/浴衣姿で二人とも微笑んでいた」という二行は、これまでの池田の詩の世界につうじるが(思い出を正確に書いていると思うが)、受講生が感想のなかで指摘したが、ロシナンテ、ドン・キホーテなど、池田の具体的な生活(体験)そのものではないことば(受講生が「比喩」と呼んだのは、そのためだと思う)が登場し、世界を動かしていることである。「現実」をそれに対応することばで書くのではなく、「ことば」をつかって「現実」を耕して、「現実」を豊かにしていくという動きがここにある。
 「宇宙の定規」を「ことば」でつくりだすとき、「現実」は違った風に見えてくるはずである。見えなかったものが見える。それは、たとえば「モモンガ」かもしれない。この「モモンガ」はほんものか、作者があらわそうとした何か別のものか、ということは読者が考えればいいことである。それが作者の「意図」と合致しているかどうかは、問題ではない。学校のテストの「答え」ではないのだから、それはどれだけ違っていてもいい。何かを「ことば」に誘われて、感じ、考えれば、それでいいのだと私は思う。

フジツボ  青柳俊哉

鏡のなかの安息日

種を撒き 藻を刈ることさえ 
罪と思うとき 
非・エデンの方へ  

高い枝へのぼり
生まれたばかりの蛙
空の水面へ 宇宙的な琵音をはなつ
樫の木と磐 ヴィーナスの閑さで 
潮の気圏にまう うしなわれる
もののない 原子の時間の方へ

鏡がとじて 水のうえの 
フジツボにふれるとき

 「鏡のなかの安息日」はイメージが大きくて考え込んだ。「鏡のなかの安息日」からはじまり、「うしなわれる/もののない 原子の時間の方へ」へ動いていくが、それと「フジツボ」との関係がわからない。「罪と思うとき」の「罪」にぐっときた。「宇宙的」ということばが出てくるが、人間のレベルを超えた何かを感じる。

 私は「非・エデンの方へ」の「非」ということばに注目した。池田が「現実」を書くのだとしたら、青柳は最初から「現実(具体)」ではなく「非具体(現実)=抽象」を書く。そして、その「抽象」ははっきりと確立された存在ではない。「……とき」「……の方へ」ということばが象徴的だが、ある瞬間(とき)に見える「方(ベクトル)」へ動いていく。「ことば」はどこへたどりつくかわからない。
 池田の「ももんが」がそうであるように、「フジツボ」も、どういう必然があって出てきたのかは、作者にもわからない。それは、どこかからか、やってくるものなのだ。杉が、二連目は「ひらめいた」と言ったが、そんなふうにやってくることばがある。木谷の「零れる」や「囀り」も。「ことば」が先に何かを見つけ、それを作者が「追認する」。

 


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(13)

2023-05-29 15:56:27 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(13)

  「総督領」は「総督領」をもらう(だろう)ひとの友人が、彼に語りかける形でことばが動く。気持ちを推し量っている。そんなもの、ほしくはないだろ? ほしいのは、もっとほかのものだろう?

だが、やけくそのきみはどうせ同じさと押し頂く

 「やけくそ」と「押し頂く」の組み合わせが強烈だ。それは相いれない組み合わせだ。そして、相いれないからこそ、そこに「激情」が動いていることがわかる。矛盾のなかには、いつも激しい感情がある。
 そして、私は、こんなことも思う。これは「友人」が語りかけているスタイルをとっているが、ほんとうは「総督領」のことばだろう。「激情」を隠すために、友人に語らせているのだ。
 この「語りの構造」はカヴァフィスのものか。中井の翻案か。私は原文を読んでいないのでわからないが、中井の翻案のような気がしてならない。もし翻案ではないとしても、「やけくそ」と「押し頂く」を組み合わせたのは、とてもすごい翻訳だと思う。

 

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇361)Obra, Miguel González Díaz

2023-05-28 13:54:20 | estoy loco por espana

Obra, Miguel González Díaz

 Las dos formas de la parte superior, que parecen una G, su movimiento y la forma que las conecta son interesantes: la parte del semicírculo que parece una G pero no es una C, es decir, una T ( G =C + T pequeña), también puede tener forma de G. Sin embargo, parece una línea recta porque se ve desde un lado. 
 ¿Es esta G un círculo roto, o un intento de convertirse en círculo? A mí me parece que intenta atravesar un círculo y convertirse en una "esfera".
 La parte que conecta las dos partes intenta convertirse en una "esfera" más alta levantando la G que hay debajo. La forma en forma de sierra que hay debajo busca la altura. Si los dos cuatro G giran y se convierten en una esfera, se convertirá en un nuevo sol, flotando en el aire. Y creará una nueva galaxia.
 He aquí un movimiento intenso comparable a la creación del universo.

 上部の、Gのように見える二つの形、その動き、そしてその二つをつなぐ形がおもしろい。Gに見える半円の、Cではない部分、つまりTのような部分(GをCと小さなTが組み合わさったものと見た場合)もGの形をしているかもしれない。横から見ているので、直線にしか見えないが。
 このGは、円が割れたものか、それとも円になろうとするものか。私には円を通り越して「球体」になろうとしているように見える。
 二つをつなぐ部分は、下にあるGを持ち上げて、より高いところで「球」をつくろうとしている。その下にある金きり鋸のような形が、高さをめざしている。もし、二つの4つのGが回転しながら球になれば、それは新しい太陽になって、宙に浮かぶだろう。そして新しい銀河をつくりだすだろう。
 ここには、宇宙創造に匹敵する激しい運動がある。

 

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小網恵子『不可解な帽子』

2023-05-26 16:52:43 | 詩集

小網恵子『不可解な帽子』(水仁舎、2023年05月22日発行)

 小網恵子『不可解な帽子』のタイトルは、詩の一篇ではなく、「帽子」というタイトルの詩の「帽子は不可解なものになって」という一行からとられている。「要約」というか、「象徴」というか。これが、なかなかいい感じである。詩のタイトルは「帽子」がいいが、詩集のタイトルは『不可解な帽子』がいい。「不可解な」は必要かな、いらないかな? ちょっと悩ませる、そのちょっとのなかに「たのしみ」がある。
 詩は、電車の中に置き忘れられている「帽子」をめぐる客の反応。

駅に到着するたびに
数人が乗って来て 遠巻きにする
帽子は不可解なものになって
危険なものになって

終着駅まで行くかもしれない
そこでヒョイと帽子を持ち上げたのは
ふくよかなお婆さん
自分の頭にのせてみる

そう想像して 今日をおしまいにしたいけど
帽子はもっと大きく膨らんで
この夜を渡っていくかもしれない

 これは、詩の後半。もしかすると、最後の一連はなくてもいいかもしれない。しかし、そこで終わらずに、「そう想像して」というかなり散文的な(言い換えると、詩から遠い)表現からあとの部分が、なかなか「詩的」なのである。
 この場合の「詩的」というのは、小網の独自語、「小網語」になっているという意味である。特に、その最後の二行ではなく、最終連の「そう想像して 今日をおしまいにしたいけど」が、書けそうで書けない。
 とても、すばらしい。
 「じっくりと」と書くと語弊があるが、しっかり自分の思いを追いかけて、それを逃さずにことばにしている。
 たぶん、似た発想の詩は、これまでも書かれていると思う。しかし、その詩の中に、あえて「詩」とは思われない「散文的」なことばを組み込んで、「詩的」であることを避けている。その、いわゆる「詩的」であることを避けた部分が、とても新鮮で、しかも作為的ではない。
 小網は、「考えること」(考えたことをことばにすること)を、詩、そのものにする。そのとき「詩的」ではなく「散文的」になることを恐れない。

 「下山」は、「石の上に止まる蝶」(書き出しの一行)を描いたもの。そのなかほどに、こういう二行がある。

蝶は成虫になって二週間ほどしか生きられないと聞くから
この五分ほどは長い休息

 ああ、いいなあ。
 「帽子」のなかに出てきたことばを借りて言えば、小網は、そう「想像」したのである。ほんとうに「長い休息」であるかどうかは、蝶の認識ではない。あくまで小網の考え、「ことば」である。小網の「論理(思考)」がつかみとった(産み出した)真実である。
 そして、ここから思うのである。
 「帽子」の行方を想像した時間は、どれほどか。「五分」か。電車に乗っていいた時間すべてをあわせれば「五分」ではないだろうが、最終連の三行は「一分」もかからない想像だろう。しかし、その短い想像は、小網の人生(いのち)において、物理的は「短い」かもれないが、何か「永遠の休息」を感じさせるものがある。そして、何らかの「真実」を含んでいる。そのときの、

短いけれど永遠

 これが、詩の本質かもしれない。
 「短い」を産み出すために、小網は「論理(散文)」を利用している。「散文」の緒戦的に、ぐい、と進む時間をつかっている。(冒頭に書いた「要約」に通じることばの運動が隠れている。)
 飛躍した論理になるかもしれないが(印象だからね)、これは、ちょっと鴎外の「散文の力」を感じさせることばの力である。

 

 

 

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佐々木洋一『でんげん』

2023-05-25 20:37:55 | 詩集

 

佐々木洋一『でんげん』(思潮社、2023年05月25日発行)

 佐々木洋一『でんげん』の「シャバシャバシャバシャバ」。「娑婆」なのだが「バシャバシャ」と聞こえる。ことば(音)は、意味を裏切ることがある。裏切るのではなく、広げる、と考えた方がいいのかもしれない。

川の底に足を突っ込んで
泳ぎもはしゃぎもせず
ただシャバシャバ泥の底をこぐ
何がどうした
現は川の流れを必要としない
川面の浮き沈みも関係ない
ただむかしの思いのぬめりした川の底に足を入れ
シャバシャバシャバシャバ
何事か思うわけじゃなく
夕陽にもたれるわけじゃなく
シャバシャバシャバシャバ

 この展開のなかでは「シャバシャバシャバシャバ」はもちろんなのだけれど、「ただむかしの思いのぬめりとした川の底に足を入れ」の「ぬめり」という音がいいなあ。「シャバ(娑婆)」の「ぬめり」か。ほかの音では、きっと間に合わない。
 引用しなかったが、前半には「泥だらけ」「泥まみれ」ということばがあるが、「ぬめり」は、ちょっと違う。

この澱みにへばりつこうとしている

 このあとに出てくる「へばりつく」とも少し違う。似ているが。
 あれこれ思い返すと、引用部分にある「もたれる」が何か似ている。「夕陽にもたれるわけじゃなく」は、あえて主語を書き加えると、佐々木が、ということになる。「ぬめり」は佐々木が発生源であるよりも、他者(社会、娑婆)が発生源なのだろうけれど、それにしたって、どこかに「依存関係」がある。
 一方だけが原因ではない。
 あ、これだね、「音」と「意味」の交錯は。「音」でけではない。「意味」だけでもない。「一方」だけではない。こういう「一方だけではない」ものと向き合うのは、それこそ「シャバ(娑婆)」の「処世術」というものか。
 説明したってしようがない。だから、私も、これ以上は書かない。

 でも、書きたい。

 たとえば、こんなことを。「あたらしい夜」という詩がある。

新しい朝が在るなら
あたらしい夜があるはずだ

 これは、たぶん「明けない夜はない」ということばと「対」になる「一方」である。こんな連がある。

あたらしい夜にはあたらしい絶望が生まれるはずだ
絶望には目のない幼鳥や引き裂かれた獣や溺れる鮟鱇の叫びが
気休めと慰めと孤高が
解放されているのだ

 「明けない夜はない」と主張するひと、そのことばを「希望」として信じるひとには申し訳ないが、その反対のものもあるのだ。そして、それは、なんというか、とても私を温かく受けとめてくれると感じてしまう。「溺れる鮟鱇」がいるかどうか知らないが、鮟鱇さえ溺れるというのは、何か安心してしまうなあ。鮟鱇が溺れるなら、人間が溺れたって何の不思議もない。

あたらしい夜には虫が這う
ぞろぞろ闇の方へ這っていく
あたらしい夜には闇の方へめしべがぞろぞろなびき
楽しくないか美しくないか 咲き競う

新しい朝が来るなら
あたらしい夜もくるはずだ

そこではあたらしい呻きがうまれているはずだ
これまでのいきものがいとしいいとしいと呻いているはずだ
いとしいいとしいと呻いては
いまわしい夜のしじまを生き抜いているのだ

 ふいにあらわれる「生き抜いている」という強い動詞。
 ひとのこころは、どんなことにも共感してしまう。そういう錯誤は、けっして整えてしまってはいけない何かなのだと思う。
 「シャバシャバシャバシャバ」は「バシャバシャバシャバシャ」とがんばって洗ってみても、きっと「ぬめり」を残している。それがないと、きっと、つらい。

 「骨骨骨」には「こつこつこつ」とルビがついている。「骨骨」は別の詩でも出てきたが、巻末の「骨骨骨」がいい。

夜な夜なハイヒールの骨骨骨が消えた
骨は女の乳房を支えた骨だ
骨は女の踵を煽った骨だ

という行を挟んで、最後。

今日も骨骨骨 骨骨骨
女のハイヒールの骨を舐める音がする

 「舐める」か、ここで「舐めるか」と、私は、うなる。私は、「ぬめり」を思い出してしまうのだ。そして、それは、ただ「なめる」ではない、「舐める音」が「骨骨骨(コツコツコツ)」なのだ。耳の螺旋階段を舌が「なめながら」「ぬめり」をひきずりながら、肉体の奥まで這ってくる。「あたらしい夜」がはじまる。
 と、佐々木は書いているわけではないが。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇360)Obra, Joaquín Llorens

2023-05-25 09:59:53 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 El escultor de hierro contó la historia de cómo surgió la escultura: cómo apareció en la ciudad, de pie, de una forma diferente a todos los demás. Tenía un extraño "grieta" a su alrededor porque llevaba palabras que no podía decir a nadie. A veces fingía mirar fijamente la ropa de escaparate, preguntándose si podría traducir sus palabras pasando del atras. "Tengo un defecto en mi cuerpo". No eran palabras pronunciadas por el hombre, pero añadió que pudo oir la voz del pensamiento. Hay una extraña grieta en alguna parte, por donde entran las palabras. Mi cuerpo tiene la oscuridad del paso por la estación. Sale como una palabra, rezumando el olor de un hombre con un pequeño escondite. Al acercarme, la soledad que debería haber dejado se conjugaba profundamente en el cuerpo del hombre. La soledad y la otra soledad hablaban en un idioma de un país que yo no conocía: "Mi cuerpo tiene una grieta, una grieta de soledad". Comprendí el significado sin traducción, que no es el lenguaje del escultor, sino mi fabricación, para esta obra.

 この街にどうやってあらわれたのか、その男は、ほかの誰とも違う形で立っていた、とその彫刻が生まれたきっかけを、鉄の彫刻家は語った。だれにも言えないことばを抱えているために、彼の周りには不思議な「隙間」が生まれていた。ときどき、ショーウインドーの服をみつめるふりをして、通りすぎていくことばにあわせて、自分のことばを翻訳できないか考えているようだった。「私の体には欠陥があるのだ。」それは、男が発したことばではなかったが、思考の声が聞こえ、とつけくわえた。どこかに不思議な亀裂があって、そこからことばが侵入してくる。私の体には、駅の通り抜けの通路の暗さがある。小さな隠れ家を持っている男のにおいがにじみ出てしまう、ということばになって出て行ってしまう。近づくと、出て行ったはずの孤独が、男の体の中に深く組み合わさっていた。孤独と孤独が、「私の体には孤独の亀裂という欠陥がある」と私の知らない国のことばで話していた。翻訳しなくても、意味がわかった、というのは彫刻家のことばではなく、この作品のための、私の捏造である。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(12)

2023-05-24 16:25:51 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(12)

  「市」はタイトルに鉤括弧がついている。まち、とルビが振ってある。ここではなく、よその土地へゆく。

「別の海がいい」「いつか、おれは行くんだ」と。

 そう男が言っている。このことばのなかの「別の海」が強烈だ。「海」はつながっている。もちろん大地もつながっているが。しかし、そのつながっている海、ひとつの海が、やはり別の場所では違って見える、という以上の意味がある。
 「街」の違いは「ひと」の違いである。でも、「海」は「ひと」抜きで違う。「別の海がいい」というとき、そこには「ひと」はいない。「ひと」を振り切りたい、というこころがここに動いている。
 もちろん「ひと」とは、ひとが呼び寄せるものだから、どこへ行っても「ひと」にであう。自分に出会う。だから「別の海がいい」というときは、自分を「別の自分」にしたいという意味が含まれている。その「孤独」の声がいい。「別の海」、ひとに汚れていない海。この、きっぱりした音。

 

 

 

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「死」について

2023-05-24 09:07:00 | 考える日記

 見知らぬ人からメールが届く。ふと気になってメールを開く。友人の友人と名乗る人からのメールで「友人は3年前に死んだ」と言う。突然メールが途絶えた理由は、それだったのか。
 私自身の年齢とも関係するのだろうけれど、近年、訃報に接する機会が増えた。友人、友人の家族、あるいは愛犬。

 死は、ほんとうに不思議だ。私は、「一元論者」である。ただし、「一元論」の定義は、ふつうに言われているものとは違うかもしれない。私は、私の意識が及んだところまでが世界であると考えている。私の意識が「世界」という「一元論」。そういう私にとって、死とは何か。
 「世界」が突然、そこで終わるのだ。
 ある人と一緒に見ていた世界から、その人が消えると、その向こう側がなくる。父が死んだとき、はっきり、それを感じた。「世界」の見え方がぱっと変わった。父が隠していたもの、父だけが知っているかもしれないことが存在しなくなり、目の前に突然「壁」ができた感じなのである。
 私の家の前の道から、碁石が峰という山が見える。いちばん高い山だ。父が死んだあと、姉が「父が死ぬ前、碁石が峰を見ていた」と言った。父が立っていただろう道から碁石が峰を見てみた。巨大な大きさで山が迫ってきて、そのあとぱっと消えた。元の位置にある。だが、その山の向こうに何があるか、それが一瞬、思い描けなくなったのである。山の向こうには、何もない。碁石が峰が世界の果だ、という感じ。もちろん、私はその向こうに何があるか知っているし、その向こう側を歩いたこともある。向こう側の海まで泳ぎに行ったこともある。それなのに、あの瞬間、それはすべて消えた。そのあとにあらわれてのは、父が見ていた碁石が峰と父が知っていた碁石が峰ではなく、私が別の人といっしょに(たとえば友だちといっしょに)知っている「別の世界」なのだ。ひとつの「世界=父の世界」は存在しなくなったのだ。

 この衝撃は大きい。ある詩人が死んだとき、私は、私の書いてきた詩が消えてしまったと感じた。ある翻訳家が死んだとき、やはり、そのことばの世界が消えてしまったと感じた。この「消えた」は、ほんとうは正しくない。「動かなくなった」と言い直せばいいだろう。
 しかし、まだ「ことば」が残されているときは、いい。
 「ことば」を読み返すとき、何かが動く。動き始める。まだ、いっしょに歩き始めることができる。まだ「世界」を広げていくことができる。
 それを頼りに、私はまた動き始める。つまり「世界」を少しずつ広げることができる。

 とはいうものの、「ことば」があれば、それでいいというものでもない。三島由紀夫が死んだとき、私はやりは「三島の世界が動かなくなった」と感じたが、それをもう一度動かして、私が見ることができな何か(三島だけが知っている何か)を見てみたいという気持ちは起きなかった。三島の死後、何冊か本を読んだが、やはり、その「世界」は動かなかった。そこに存在するが、それは存在とは言えないような何かだった。

 なぜ、こんなことを書いているのだろうか。書く気になったのか。よくわからない。友人の死を知ったことがきっかけであるには違いないのだが。死が近いのかなあ、死の準備をして始めているのかなあ、と感じる。
 私には何か「離人症」のようなものがある。(「離人症」を誤解しているかもしれない。)「死んだかもしれない体験」を私は二度している。一度は15メートルほどの高さから、下の田んぼに落ちたとき。落ちながら、このままでは頭をぶつける。体を回転させれば尻から落ちる。田んぼだから、やわらかくて助かるかもしれない。小学5年のときだ。そして、実際にそのとおりにして、私はケガをしなかった。もう一度は、中学1年のとき。雨の日、傘を差して自転車で学校へ向かった。風が吹いてきた。あおられて5メートルほど下の川に転落した。私は泳げない。(病弱だったので、泳ぐことは禁じられていた。)川は増水している。どうするか。川底に着いたら、川底を蹴ればいい。そうすれば浮き上がるだろう。そして、実際にそうした。その結果、助かった。後ろを走っていた上級生が、大慌てで近くの家に「(私が)川に落ちた」と知らせに言った。だから、人もやってきた。私は、そのときの自分の動きを、まるで「映画」でも見ているように、「外」から見ていた。
 最近、いろいろな訃報を聞くためだと思うが、「死ぬまであと〇年あるなあ、その間に、この本とこの本は読むことができるなあ」と思い、実際に、読み始めている。まるで崖から落ちたとき、増水した川に落ちたときのように。今度は、はたして助かるのかどうかわからない。「こうすれば助かる」ではなくて、「ここまでは読める(だろう)」という「予感」だけだから。

 

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G7でのアメリカの狙いはなんだったか

2023-05-22 22:20:37 | 読売新聞を読む

 2023年05月22日の読売新聞(西部版・14版)の広島サミットに関する記事で、私が注目したのは「中国問題」である。ゼレンスキーもやってきて、ウクライナに焦点が当たっているのはたしかだが、それは表面的なこと。実際は、中国がいちばんの課題なのだ。ウクライナ(ロシア侵攻)に関しては、すでにロシアが悪い、ウクライナを支援していくということでG7は結束している。
 読売新聞の「首脳声明の要旨」をみると、おもしろいことに気づく。(読売新聞の「要旨」なので、他紙は違うかもしれない。つまり、ここには読売新聞の意向=岸田、バイデンの意向が反映しているかもしれない。いや、反映していると思って、私は読んだ。)
 要旨は「前文」「ウクライナ」「軍縮・不拡散」「インド太平洋」「世界経済」とつづいていく。広島で開かれたのに「核不拡散問題」よりも「ウクライナ」を先に言及しているのはゼレンスキーを利用してG7をアピールするためだろうし、「世界経済」よりも「インド・太平洋」を先に言及するのは、中国含みと、インドを招待しているからだろう。(書き方の順序に、すでにさまざまな配慮が働いていることに気をつけないといけない。)
 で、「インド太平洋」といったん書いているのに、最後にまた「地域情勢」という項目があり、そこに中国のことが長々と書いている。他の項目が20行くらいなのに、「地域情勢」は60行もある。個別に、「軍縮に関する広島ビジョン」「ウクライナに関する声明」というのもあるから、これだけでは何とも言えないのだが、中国を含む「地域情勢」に非常に力点を置いていることがわかる。
 これは「国際面」の報道の仕方をみると、もっとよくわかる。見出しは、

米、対中協調に手応え/バイデン氏 議論リード

 アメリカは、中国に狙いを移している。(すでにロシアたたきは成果を上げている。ウクライナがどれだけ苦しむかは気にかけていない。)
 記事にこう書いてある。(読売新聞は、ほんとうに「正直」である。)
↓↓↓
 バイデン氏はアジアで唯一のG7メンバーである日本でのサミットで、インド太平洋地域への欧州の関心を高めようと努力した。フランスのマクロン大統領が4月に「台湾問題に加勢して欧州に利益はない」などと発言し、温度差が露呈していたためだ。
 バイデン氏が議論をリードし、中国を念頭に置いた経済安全保障分野での協力拡大に努力した。重要鉱物のサプライチェーン(供給網)の構築や対立国への貿易に制限をかける「経済的威圧」に対抗するための協力などが首脳声明に盛り込まれた。
↑↑↑
 バイデンは、デフォルト問題をアメリカ国内で抱え、G7はリモート出席になるかもと報道されたが、やってきた。なんとしても中国問題でリードしたかったのだ。
 ウクライナと違って、「台湾」はヨーロッパにとっては、世界の果。陸続きではない。マクロンが言うように、そんなところに「欧州の利益はない」。
 言い直そう。
 マクロンは「フランスにとって需要なのは中国であって、台湾ではない」と言っている。なぜかといえば、中国の方が人口が多く、経済力も大きいからである。台湾が中国になってしまおうが、台湾のままであろうが、そんなことは気にしない。共産党政権であろうが、そうでなかろうが、経済関係が変わるわけではない。物が売れる、物が買えるという関係はかわらない。
 ところが、アメリカは違う。アメリカは台湾をアメリカの支配下において、中国を抑圧し続けたいのだ。台湾に米軍基地をつくり、いつでも中国大陸を攻撃でするぞ、破壊できるぞという圧力をかけたいのだ。「地勢学的」にアメリカは台湾を手放したくない。それだけなのだ。そして、台湾から圧力をかけ続ける限り、中国は軍事費にも金を注ぎこまなければならない。経済発展が阻害されかもしれない。それも、狙いだ。
 考えてみなければならないのは、台湾とは、どういうところなのか。ウクライナとどう違うのか、ということである。
 ウクライナには、陸つづきであるためにロシア系のひともいた。台湾はどうか、もともと中国人が住んでいた。そして、大陸に共産党政権ができると、金持ちが台湾に逃げてきた。台湾は、いわば中国大陸の縮図のようになっているのではないのか。中国大陸各地にいた金持ちが住んでいる。それは「侵略」ではなく、逃亡だった。多くのひとは、中国大陸を逃れてきた。そのひとたちのなかには、「故郷」へかえりたいと思っている人もいるかもしれない。彼らが、「金儲け」だけのために、台湾の独立を望むだろうか。彼らが「共産主義」と戦わなければならない理由はどこにあるか。
 「自由を守るために?」
 違うだろうなあ。
 香港を見ればわかる。中国に返還されて、政治体制が変わり、自由がなくなった。しかし、それで住民が「戦争」を起こしたか。そんなことでは、戦争は起きないのだ。戦争は、住民が起こすのではなく、政治家が起こすものだからだ。
 アメリカが守ろうとしているのは、台湾のひとたちの「自由」ではない。(香港のひとたちの「自由」を守るために、アメリカは何か軍事的な行動をしただろうか。)アメリカが守ろうとしているのは、アメリカの「経済」だけである。アメリカが金儲けをつづけるためには、台湾が必要なのだ。台湾から、いつでも中国を攻撃できるぞ、とおどし続けることが必要なのだ。
 ヨーロッパでは「国境」をなくしてしまうという動きがすでにおこなわれている。パスポートコントロールなしで自由に他の国にいける。フランス・スペインの国境のバスク民族のすむ地域では、「国境を越えた行政地域」の試みも起きている。そういう「政策」を生きているヨーロッパが、同じ民族の中国・台湾の「分離」を支持するというのは、ヨーロッパの理念にも反する。
 こういうことは、たとえば中南米でも、重要な問題のひとつである。「国境」は政治的なものであって、国境を越えて先住の人々が生活しており、そこには同じことば、同じ文化がある。
 「国家」は作為的なものなのだ。
 「作為」に注目し、そこから、いったい誰が「台湾」を必要としているか。なぜ「台湾」が中国から独立していないいけないのか、を考えないといけない。
 もし台湾の中に、ぜったいに台湾は独立しなければならないと考える人がいるとしたら、それは自分の金をほかの人には指一本も触れさせたくないという人だろう。彼らにとっての「自由」とは金を自分の好きなようにつかう、ということである。
 台湾に住んでいるのは、最初からそこに住んでいた人だけではない。中国大陸から移住してきた人がたくさんいる「中国隊陸の縮図」が台湾なのだという認識から、「台湾有事」を見つめなおさないといけない。
 ほかの国が、台湾に「作為」を持ち込んではけない。

 別の視点も、付け加えておく。
 日本はほんとうに「島国」を生きている。海の向こうには「違う人間」が住んでいるとかってに思っているひとが多い、と私は感じる。同じ感覚で、台湾は島だから、中国とは別のひとたちが住んでいると考えていはしないか。
 少し脱線するが、最近ちょっとおもしろい会話を、ある外国人としたことがある。違う民毒と結婚した場合、生まれてきた子どもは「混血」とか「ハーフ」かは呼ばれることがある。いまは、こういうことばはつかわないのだが、便宜上、つかっておく。日本人の場合、たとえばイタリア人と結婚すれば、日本人とイタリア人の「混血」「ハーフ」。日本人と中国人、あるいは日本人と韓国人の場合は? 露骨に「混血」「ハーフ」という呼び方はしないが、「差別」は根強く残っていないか。で、問題は。では、イタリア人がフランス人と結婚したら、それは「混血」「ハーフ」? イタリア人、フランス人は、それをどう呼ぶ? 日本人は、それをどう呼ぶ?
 そこからひるがえって。
 中国隊陸の人と台湾に住む人が結婚し、子供が産まれた場合、それは「混血」「ハーフ」? ばかげた疑問(質問)と思うかもしれない。それをばかげた疑問と思うなら、台湾の「独立(自由)」を各国が協力して守らなければならないというのも、ばかげた「理想」に見えないか。
 なぜ、そんなものが「理想」なのか。
 ベルリンの壁がなくなったとき、西ドイツと東ドイツはあっというまに融合した。一方で、むりやり統合されていた民族が分離し、いくつもの新しい国が生まれた。こういう問題に、当事者ではないよその国の人が口を挟んで、いったいどうなるのか。

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岸田のことば

2023-05-21 10:09:47 | 読売新聞を読む

 2023年05月21日の読売新聞(西部版・14版)が広島サミットでの、各国首脳が広島平和記念資料館を訪問したときの「芳名録」について書いている。
 これが、非常につまらない。
↓↓↓
 G7首脳は、初日の19日に同資料館を訪れた。同省の発表によると、岸田首相は「歴史に残るG7サミットの機会に議長として、各国首脳と共に『核兵器のない世界』をめざすためにここに集う」と記した。
↑↑↑
 鉤括弧の中は「要約」かと思ったが、そうではない。それ以外に芳名録に書いてあるのは、「日本国内閣総理大臣岸田文雄」だけである。全文を読売新聞は紹介し、写真まで掲載している。
 何がつまらないか。
 「広島」が出てこない。「ここに集う」では、「ここ」がどこかわからない。もちろん広島平和記念資料館の芳名録なので「ここ」が広島であることはわかるが、もし、その芳名録がどこか別の場所で展示・公開されたときには、「ここ」がどこであるかわからない。「議長として」ということばがあるから、(開催国が議長をつとめるから)、日本だとはわかるが、それ以外はわからない。いや、ここからわかるのは「議長として」岸田が平和記念館へやってきたという「自慢話」だけとさえ言える。
 岸田は、外相時代から「自分のことば」で語ることができない。唯一、自分のことばで語ったと思われるのは、日露首脳会談が山口で開かれる前の、ラブロフとの会談だろうか。詳細は報道されていないが、会談のあと、ラブロフが怒って「経済支援(援助?)は日本が持ちかけてきたもの」と暴露し、安倍プーチン会談では北方領土問題は四島返還どころか、二島返還さえ、完全に拒否されている。きっと「日本が金を出すんだから、二島くらい見返りに返せ」と言ったんだろう。当時の読売新聞の記事は、そういう「ニュアンス」を伝えている。
 脱線したが。
 バイデンでさえ平和祈念資料館に触れている。
↓↓↓
資料館で語られる物語が、平和な未来を築くことへの私たち全員の義務を思いださせてくれますように。
↑↑↑
 写真の文字はよく見えないが、英文は「May the stories of the Museum 」とはじまっている。ただし、「広島(hiroshima )」は書かれていない。
 私は、英語話者ではないので「stories 」に、まず違和感を覚える。「story 」はある視点から構成された世界である。広島は「story 」ではなく、「事実(fact)」であり「証拠(evidence)」である。アメリカは、「広島」が「事実」「証拠」であることを認めたくはないのだろう。そういう「配慮」が滲む。「広島」と書くと、きっと、アメリカ国内で反発が起きる。
 一方、ほかの国の首相(大統領)はどうか。スナク、マクロン、トルドーの「要約」には「広島」が見える。スナク、トルドーは「長崎」にも触れている。
↓↓↓
広島と長崎の人々の恐怖と苦しみ(スナク)
広島で犠牲になった方々を追悼する(マクロン)
広島と長崎の人々の計り知れない苦悩に(トルドー)
↑↑↑
 核保有国であるスナク、マクロンの政策が、これからどう変わるか。核兵器廃絶にむけて、どう動くか、どう働きかけることになるのか、そのことに私は期待する。
 私は「ことばを信じる」。
 だからこそ、岸田、バイデンの「広島」という表現を避けたことばに、非常に危険なものを感じる。岸田もバイデンも、ロシアや北朝鮮(さらに中国)が核兵器をつかうことに対しては(あるいは、それを「脅し」につかうことに対しては)批判するが、イスラエルについてはどうなのか。(もちろん、「つかえ」とは言わないだろうが。)

 ことばは、いろいろなものをあらわしている。それは「語られなかったこと」、つまり「隠していること」をもあらわしている。
 ことばをつかうことで、何を隠そうとしているか、そのことを見つめないといけない。「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」とか「現状変更に反対」も同じである。
 三面の「スキャナー」というページには、こんなおもしろい「分析」が載っている。
 今回のG7にはグローバル・サウスと呼ばれる国々が招待されているが、その目的は、そうした国々を、中国、ロシアから争奪する(?)ことに目的があると、きちんと書いている。見出しに「新興国 中露と争奪」と書いてある。G7が新興国を中国、ロシアから奪い返すことが目的であると「要約」している。
 その記事だが……。
↓↓↓
 ロシアによるウクライナ侵略を巡っては、G7は対露制裁が必要だとの認識を共有しているが、限界がある。G7はかつて世界の国内総生産(GDP)の6割以上を占めたが、2021年には約4割に低下した。実効性を高めるにはグローバル・サウスの協力も得ることが欠かせない。
↑↑↑ 
 私が注目したのは「G7はかつて世界の国内総生産(GDP)の6割以上を占めたが、2021年には約4割に低下した。」である。ここには具体的に書いていないが、問題はアメリカの占める割合だろう。アメリカは、なんとして1位の立場を維持したい。アメリカの資本主義が世界を支配することを望んでいる。経済の国際秩序の変更に反対している。(G7は経済対策を協議することが出発点だった。最初はカナダは含まれずG7だった。いまでも、経済問題がいちばんの課題だろう。いまは、ロシアのウクライナ侵攻が主要議題になっているが、これも「経済」から見つめないといけない。G7では「軍事協議」はテーマではない。)
 つまり。
 世界が平和で豊かであるだけでは、アメリカは「満足」できないのである。
 たとえば中国のGDPが世界一になり、さらには3割とか4割を占めてしまう。経済の中心が中国になってしまう、ということが我慢できないのだ。
 ただそれだけなのだ。
 ヨーロッパとロシアは、天然ガスの売買で深い結びつきを持っていた。新しいパイプラインの建設で、その絆はさらに強まろうとしていた。それはアメリカとヨーロッパの経済関係の占める割合を小さくしてしまう。それが我慢できずに、いくつかの「仕掛け」をしたのだと私は考えている。
 最近は、ヨーロッパのなかに中国との関係を深める国も増えている。この関係も、アメリカは断ち切りたい。そのための「仕掛け」が「台湾有事」という形で進められている。すべては「アメリカ経済(強欲主義)」に原因がある。
 かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて浮かれた時代があったが、どこの国が、どこの国の製品がいちばん売れていようが、そんなことはどうでもいいだろう。

 どうしても脱線してしまう。
 「共同声明」が隠していること、岸田、バイデンが「追悼」の記帳のときでさえ「広島」と言わなかったこと、このことからサミットの狙いが何かを見つめなおすことが必要だ。
 アメリカの核の力で世界を支配する。それがアメリカの考える「世界」、アメリカ以外が核兵器を持たないことで確立される「平和」。それを実現するために、壮大な「芝居」が展開されている。アメリカは核兵器で世界を支配し、その軍事力を背景に経済活動を支配しようとしている。

 

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Estoy Loco por España(番外篇359)Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

2023-05-20 18:14:36 | estoy loco por espana

Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

 Una luz que cae del cielo encuentra un color sobre la mesa. El color se ve sorprendido por la luz, y cambia su color como los ojos de Julieta, sorprendidos por la mirada de Romeo. O como sus mejillas. O como los labios. Cunado la luz sube y baja, los colores suben y bajan tambien, y ellos comienzan a bailar. Una danza flexible y oscilante de miradas. Los susurros del entorno advertido se convierten en música. Un pequeño festival que no se encontraba en ninguna parte, pero que se veía en alguna parte. Los colores tocándose, tiñéndose, cambiando y ascendiendo con la luz. El éxtasis de empujar con fuerza, para abrazar con fuerza. Una noche de sábado diferente a la de mañana. La oscuridad, el tiempo hasta abrirse como una flor.

 天から降ってきた光がテーブルの上にひとつの色を見つけた。光に照らされた色は驚き、変化する。ロミオの視線に驚くジュリエットの目のように。頬のように。唇のように。光が上ったり降りたりすると、色は舞い始める。しなやかに揺れる視線のダンス。気づいた周囲のささやきが音楽に変わる。どこにもなかった、しかしどこかで見たような小さな祝祭。触れ合う色が、互いに互いを染め、変化しながら光を昇っていく。強く抱きしめるために、強く突き放すときの恍惚。あすとは違う土曜の夜。闇が、花になって開くまでの時間。

 

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金子敦『金子敦句集』

2023-05-20 14:20:32 | 詩集

 

金子敦『金子敦句集』(現代俳句文庫88)(ふらんす堂、2023年04月21日発行)

 金子敦『金子敦句集』に収録されている『音符』『シーグラス』については書いた記憶がある。読んだことはあるかもしれないが、たぶん,書いたことのない初期(?)の作品の印象を書くことにする。

ものの芽や絆創膏の跡真白

書棚より栞紐垂れ花ぐもり

梨に刺す楊枝の先のしぶきかな

重箱の蓋裏くもる冬紅葉

 小さなものに視線を向けている。小さなものの発見が、詩の発見、ということになる。ちょっとおもしろいのは、句のなかにかならず「濁音」が含まれることである。その濁音が、何か、印象を強くしている。
 「絆創膏」の句は、しかし、私は「真白」の音が何かなじめない。「まっしろ」ではなく「ましろ」と読ませるのだと思うが、どう読んでみても、あのふやけたような白とは違う感じがする。
 どこか、ことばのリズムにひっかかる。音よりも「イメージ」が優先している感じだ。そうしたなかにあっては「重箱」の句は、とても落ち着いている。「くもる」という静かな音が句を支えているのかもしれない。
 私は、こうしたちょっと「古典的」な句よりも、若々しい句が好き。高校生が書いたのかなあ、と感じさせる句が好き。たとえば

明日逢ふ噴水のまへ通りけり

もう来ないかもマフラーを巻き直す

 濁音がないかわりに、一句のなかに同じ音が繰り返し出てくる。それが不思議に句を立体的にしていると思う。俳句の理想の形(?)として「遠心求心」ということばがあるが、なんというか、それはちょっと窮屈。凝縮感が、いまの時代には、厳しい感じになるのかもしれない。(そう感じるのは、私だけかもしれないが。)金子の、この二つの句は、「遠心求心」の結合というよりも、解放されて広がっていくときの立体感が強い。反復される音のあいだの「距離」が「遠心求心」をつくりだしている感じがする。

林檎むく寝癖の髪をそのままに

石鹸に残る砂粒海の家

 こういう句は、「わざと」美しくないものに目を向け、世界を活性化させる手法。芭蕉の「のみしらみ」みたいな、「俗」がもっている真実の強さが効果的で楽しい。

歩道橋に砂の溜まれる海開き

 この句は、しかし、「俗」ねらいの作為がない。いいなあ。

夕焼けの中へボールを取りにゆく

ぶらんこの向こうの海の暮れてをり

紙雛にクレヨンの香の残りけり

 私は、ふと、あ、私も昔は俳句を書いていたなあ、とちょっと思い出した。私は、「自由律」の句。季語も気にしない。こんな感じ。

合歓の故郷折れたクレパスを拾いにゆく

夕焼けの貨車が駆け抜け海がある

あした天気になあれ靴の中に夕暮れ

 金子の句とは関係ないが、個人的な思い出として書いておく。金子の句には、私も昔は句を書いていたなあ、ということを思い出させてくれる、なんとはなしの「なつかしさ」のようなものがある。

水たまり飛び越えバレンタインデー

初蝶がト音記号を乗せてくる

白息のはみ出してゐるかくれんぼ

 のような句を読んでも、なにか、なつかしい。新しい驚きというよりも。

それはもう大きな栗のモンブラン

 になると、そうか、と思う。私は、モンブランとは縁のない暮らしだったなあと、思ったりするのだ。たしかにこれはモンブランの栗の大きさが話題になる「現代」の句なのだ。庶民的(?)な食べ物では、これが、いい。

湯豆腐に湯加減をちと訊いてみる

 「笑い」はけっして古びない、ということか。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇358)Obra, Calo Carratalá

2023-05-20 08:57:47 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá

 El paisaje salta a mis ojos. La ribera horizontal y los árboles en vertical. La intersección de ambos amplía el techo del cráneo, de izquierda a derecha y de arriba abajo. El techo del cráneo se expande sin fin. Luces y sombras se multiplican en el inmenso espacio. Todavía hay muchos tiempos para que el verde brille aquí, para que el viento sople, para que los pájaros vuelen, para que la gente los siga. No, yo digo que aquí todavía no hay ningun tiempo. Claramente y con convicción, yo digo. Lo que aquí hay es espacio absoluto, espacio puro, que rechaza el tiempo. ¿Es de día, de noche, de mañana o de tarde? Puedes llamarlo como quieras. Sólo hay espacio, que rechaza los nombres autocomplacientes. ¿Está fuera de tu cabeza o dentro de tu cabeza ? Oh! tú, no hagas una pregunta tan estúpida.

 目のなかに飛びこんできた水平に広がる川岸と、垂直に立ち上がる木の交錯が、頭蓋骨の天井を、左右と上下にぐいぐい広げていく。どこまでも拡大していく。巨大な空間のなかに光と影が増殖する。ここに緑が輝き、風が吹き、鳥が飛び、それを追いかけ人間が現れるまでには、まだ時間がある。いや、ここには、まだ時間がない、と私は言う。ここには時間を拒絶した絶対的な空間、純粋空間がある。昼か、夜か、朝か、夕暮れか。好きな風に名づければいい。勝手な命名を拒絶して、ただ空間がある。それは、頭の外にあるのか、頭のなかにあるのか、君よ、そんな馬鹿な質問はするな。

 

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Estoy Loco por España(番外篇357)Obra, Jesus del Peso

2023-05-18 09:24:00 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso

 Al contemplar la obra de Jesús, tengo la ilusión de que el hierro es transparente.
 He aquí una escultura transparente. La escultura transparente crea sombras para demostrar que la escultura existe.
 Las sombras creadas por esta obra son tan transparentes y misteriosas como la luz cambiante a través del cristal. Más que sombras creadas por la luz bloqueada por el hierro, parecen sombras creadas por la luz que pasa a través de un objeto transparente, un proceso de refracción.
 Lo extraño de la obra me hace pensar que no se trata en absoluto de una escultura, sino de una pintura de una imagen que surgió en los pensamientos de Jesús. Es la pintura de un sueño en el que la luz se descompone en sombras de hierro, y las formas se proyectan en la pared.


 Jesus の作品を見ていると、鉄は透明なのだと錯覚してしまう。
 その透明な存在が、存在していることを証明するために、影をつくる。
 この作品がつくりだした影は、ガラス越しの光の変化のように透明で不思議だ。光が鉄に遮られててできた影というよりも、透明な物体を通過することでうまれた影、屈折の過程のように見える。
 あまりの不思議さに、これは彫刻ではなく、Jesus の思念のなかに浮かび上がったイメージを絵に描いたもののようにも見えてしまう。鉄のなかで光が影に分解し、その形を壁に映し出すという夢を描いた絵だ。

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