詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤信一「夏の夜」

2006-10-31 22:09:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 伊藤信一「夏の夜」(「東国」134 )。
 夢と気づいていて見る夢がある。こうした夢をことばにするのは難しい。伊藤はそれに成功している。

本を読んでいる
三段組の活字が踊っている
恋愛小説だ
男と女の姿だけがほのかに明るい

気づいている
文字と文字との余白がくっきり見えている
これは夢の中だ
ぱりぱりに乾いたシーツの感触が
この本を読む場面の枠組みなのだろう
ページの端をつまんでいるざらざらした指が
視界に入ってくる

なんだかもどかしいのは
二人の若さのせいか
行儀よく並んでいた文字列がぽろぽろ欠け落ちてゆく
はやく左の行に移らなくてはと思った瞬間
ストンときりがはれて
女が男に口づけする
とたんにぱらぱらめくれていくページたち

ほのかな月明かりにぼくの恋愛小説は溶けてしまう
網戸からすこし冷めた風がしみ込んでくる

 2連目と3連目が特に夢と気づいてみる夢の感じをリアルに伝えていると思う。「気づいている/文字と文字との余白がくっきり見えている/これは夢の中だ」という覚醒と夢との交互の動きが、夢だと気づいてみる夢の、いらいらというか、どうにもならない感じ、完全に冷めてしまうことも夢のなかに没入してしまうこともできない感じを再現している。もどかしさがリアルに再現している。
 夢をそのままストレートに、つまり時間列にそって描くのではなく、これは夢なのだという意識で分断しながら描写することで、夢の、時間列を無視した動き、とんでもない飛躍を自在に呼び寄せ、それが3連目につながっていく。

行儀よく並んでいた文字列がぽろぽろ欠け落ちてゆく
はやく左の行に移らなくてはと思った瞬間

 このナンセンスな、夢の描写と、夢だと気づいてあせる描写が特にすばらしく、まるで自分自身の夢の体験、夢だと気づいてみる夢の体験を呼び起こさせられる。
 夢には、現実ではありえないこと、たとえば本の活字がぽろぽろと欠け落ちていくというようなことが起きるし、そうした現実ではあり得ないことに対して、意識もまた現実ではありえない動きをする。「はやく左の行に移らなくては」というような、これ以上リアルには考えられないような意識が生まれる。
 そして、この「リアルさ」を支えているのは「左」「移る」という肉体感覚である。
 本を読む。活字を読む。日本語の場合(翻訳も含むけれど)、それはたいてい縦書きであり、右から左へ1行ずつ読む。普通は右、左を意識しないけれど、追い詰められると「次」の行というような抽象的な概念ではなく、「左」という肉体が立ち上がってくるのだと思う。「次」でも「先」でもなく、「左」。目だけではなく、肉体全体で、「左」へおおきく動いていく感じ。「移る」という動きも、それにぴったりしている。はやく移らないと、ぽろぽろ欠け落ちていく文字(活字)と一緒に、若い二人も、そしてそれを読んでいる伊藤自身も、文字の抱え込んでいる世界から奈落へ落ちてしまうようではないか。
 肉体に裏打ちされたことばは、肉体を刺激する。そして肉体のなかでリアルになる。それは夢の中でも(夢の描写でも)同じである。
 とてもいい詩だと思った。
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中尾太一「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」

2006-10-30 23:11:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 中尾太一「ファルコン、君と二人で写った写真を僕は今日もってきた」(「現代詩手帖」11月号)。
 「現代詩新人賞受賞作」である。14篇からなる作品集。その冒頭の「聖エルモのながく、あかるい遺言」の冒頭。(本文は横書き。私がインターネットで引用している作品はほとんどが縦書きを便宜上横書きにしているが、この作品はもともと横書き。)

望遠鏡でのぞいた草原のむかしを小さな鯨が群れをなして飛躍し、人の場合、その光景を伝達することなく両手で、ただ高く翳していくことが忍耐だった
おそらくは満ちていくための、つまりあなたと完全に離別するための努力を人という境界に残しその、途中まで描かれた「弧」で引き絞る「文」を天狼に向けていた

 こうした作品を読むと、詩とはけっきょくことばなのだ、と詩人たちのあいだで判断されていることがわかる。意味(論理)でも思想でもなく、ただことばであること。意味や思想を排除し、ことばが単独にことばとしてそこに存在すること。ことばから意味・思想を排除し、ナンセンスなことばそのものを屹立させることが詩である。なぜなら、詩は作者の側にあるのではなく、書かれた瞬間から、それは読者の側にあるものだからである。
 詩は、それが何語で書かれていようが「外国語」である。どこの国にも属さない、つまり集団に属さず、ただ個人にのみ属するという意味で、完全な「外国語」である。
 どういう外国語であっても、そのことばのなかには必ずわかることばが存在する。特に日常というか、実際に人と人とが接する場所では、どんな外国語であっても意味がわかることば、翻訳可能なことばがある。「わたし」とか「あなた」とか「みず」とかである。「わたし」に対応する存在があり、「あなた」に対応する存在があり、「みず」に対応する存在がある。そういうものを肉眼で見て、手で触って、つまり肉体で接して、私たちは「外国語」を「母国語」に翻訳する。たいがいの場合は、「翻訳」という意識もないまま、ことばと存在を「外国語」のまま肉体に取り込んでいく。
 そういう原始的な(?)ことばと肉体の出会い--そのなかでの肉体と意識の生成の瞬間。そういうものをめざしているのが詩である。たぶん、これが現在の詩人たちに共有されている「詩意識」のひとつであるだろう。そういう「詩意識」の網に、中尾の作品は、たしかにひっかかるものを持っていると思う。

 そういう意識の上に立って書くのだが、この作品の冒頭の部分を読んだとき、私が最初に感じたのは「短歌」のうねりである。中尾のことばによって覚醒される私の意識があるとすれば、それは、このことばのリズム、うねりが、俳句でもなければ、漢文でもない。翻訳調の文体でもない。日常の会話の文体でもない。科学論文の文体でもない。
 短歌(和歌)は私の印象(私は短歌を実のところ知っているわけではない)では、ことばがうねる。どこか寄り道をしながら、その寄り道をするところに「私」というものを出していく。ただしその「私」は完全に孤立した「私」ではなく、読者となんらかな共通認識をもった「私」である。共通認識を土台にしながら、その土台からはみだしていくものを「私」として表現していく。そのときの「うねり」の構造が「短歌」というものだろうと私は思っている。
 それに似たものを中尾のことばには感じるのだ。

 いい例が思いつかないのだが、とりあえず強引に私の印象を書いてみる。
 私が犬と散歩する公園に万葉の石碑がある。その歌。「今よりは秋づきぬらしあしびきの山松かげにひぐらしの鳴く」。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。私が「寄り道」というのは、この「あしびきの」という枕詞である。それが「山」にかかるということは万葉人の共通認識である。そこを寄り道するからこそ、その後のことばが無意識に(たぶん無意識に)動く。単に動くだけではなく、加速して動く。その「寄り道」と加速の加減に似たものが、中尾のことばに感じられる。
 たとえば冒頭の1行目。そのなかほどにある、「人の場合」。「人」とは何か。私たちは日常特別意識的には考えない。しかし、人が「両手」を持っていることを知っている。肉体を持っていることを知っている。目を持っていて、何かを見るということを日常的にしていることを知っている。ときには忍耐する存在であることを知っている。「山」の枕詞の「あしびきの」ではないけれど、「人間」ということばには何か共有された認識がある。だからこそ、そのことばを中尾は経由する。「人間」を「寄り道」として活用する。
 そして2行目で加速する。「あなた」という「人」にとっての必然的なものを引き寄せながら、「別離」という短歌的抒情へ突き進む。そして、その短歌的抒情がつぎつぎに「あなた」に付随するものを、人間に付随する「両手」のように繰り広げ、そこに時間と空間をつくっていく。加速し、拡大する。たとえば、先の2行のすぐ先には「部屋」に「婚姻」というルビがふられたことばがあったりする。
 そのことばは中尾が選択したものもあれば、ことばが中尾を選択したものもあるだろうと思う。ことばの運動が自律的に呼び寄せてしまったことばもあるだろうと思う。そういう意味から言えば、中尾の「詩」は21世紀の清水昶といえるかもしれない。「寄り道」しながら詩人がことばを選ぶのか、寄り道が抱え込んでいることばが詩人をひっぱっていくのか……たぶん、その両方なのだと思う。両方だからこそ、加速するのだろう。

 中尾の詩はどれもおもしろい。たしかにおもしろいと思う。しかし、私が、きのう藤井五月の詩がいちばんおもしろいと感じたのは、実は、中尾のことばには「くじら設計集団」というような不透明なことばが見当たらないからだ。
 中尾がことばを選ぶのか、ことばが中尾を選ぶのか、と書いたが、その、ことばが中尾を選ぶ部分が「透明」なのである。「あしびきの」ということばと同じように、そのことばをうまくは説明できないけれど(説明する必要もないけれど)、あることばが別のことばを選ぶ幅が「透明」すぎるような気がするのである。「あなた」が「部屋」(婚姻)を選ぶのは、ごく自然的でありすぎて、そこには人を知らないあいだに引き込んでしまう抒情はあるけれど、人をつまずかせる違和感がない。抒情は気分よく酔わせてくれる。二日酔いのような不愉快なものがない。しかし、二日酔いのような不愉快なものがない酔いがほんとうの酔いなのかどうかというと、なんだか違う気もするのである。

 時代にあった、うまい詩を読んでしまったなあ、読まされてしまったなあ、という気持ちがどこかに残る。

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デイヴィッド・エリス監督「スネーク・フライト」

2006-10-30 22:55:17 | 映画
監督 デイヴィッド・エリス 出演 蛇、サミュエル・L・ジャクソン

 映画にはいろいろな種類がある。芸術をめざしたもの、政治的プロパガンダをめざしたもの、性的興奮をめざしたもの(簡単に言えば「ポルノ」のことだけれど)……。芸術を拒否したものをときどきB級映画と言った(今も言うのかどうかは知らない)が、これはなつかしいなつかしいB級映画をめざし、一片の芸術性もまじえずにおわる正真正銘のB級映画である。
 毒蛇によるハイジャックという発想の奇抜さ。そして、それを彩るパニックの、あくまでありきたりな描き方。乗客のなかの悪役と善人の描きわけ方。セックスのちらつかせ方……。
 そうしたことは、たぶん映画好きな人ならだれでも書いているだろうから、私は別なことを書こうと思う。
 私は2か所で笑いをこらえることができなかった。どちらもそのシーンそのものがおかしいというよりも、そのシーンを見た瞬間に、それに先立つ「伏線」を思い出して噴き出しそうになったのである。この映画はとてもとてもとても(3回繰り返してもまだ足りないくらい)「伏線」が丁寧に丁寧に張りめぐらされている。
 私が笑いをこらえることができなかった最初のシーンは、サミュエル・L・ジャクソンが銃弾をぶっぱなし窓を破るシーン。空気圧の関係で、なかにいるものが空中へ吸い出されていく。蛇は何かにしがみつくことができずに全部(でもないのだが)、空中へ吸い出されていく。「凶器」がなくなる。--これの「伏線」は乗務員が乗客にシートベルトを絞めるだの、酸素マスクがおりてくるだのの説明をするシーン。こんなことは誰もが知っていてわざわざ映画でみせなくてもいい。しかし、それをわざわざみせているのは、その説明のなかに、はっきりとは記憶していないのだが「窓が破れたら云々」という説明が含まれているからである。もちろん、そういう説明抜きでも、窓が破れたときどうなるかは誰もが知っている。知っているのに、わざわざ「伏線」として、そういうことを映像化してしまうご丁寧さに、思わず笑ってしまうのである。
 もう一つは、ラストのサーフィンのシーン。なんのためにこんなシーンがある? それは最初のシーンが海だからである。どうでもいいことをご丁寧に辻褄をあわせている。わざわざ「伏線」として完成させている。「伏線」を強調している。ハワイ、島、まわりは海だけ。飛行中に何かあっても緊急着陸できる場所はない、という全体のパニックの原因の、蛇以外の「伏線」を、海によってもういちど強調しているのである。
 「ね、いいでしょ、すごいでしょ。伏線だらけでしょ」という脚本家の声が聞こえそうである。
 ハワイならやっぱりレイ、匂いがついているといいでしょ。匂いといえばフェロモン。蛇をフェロモンで狂わせる--そしてそのフェロモンは蛇のフェロモンだから人間は気がつかない。飛行機のなかで空気が循環する。その流れにのってフェロモンはどこまでも広がり、蛇はどこまでもそれを追いかける。すごいアイデアでしょ? そんな声が聞こえてくる映画だ。
 そして、この映画をB級にしているのは、実は、その「声」である。見事な伏線でしょ、と自慢している「声」である。映画には作者の自慢話はいらない。作者の自慢話は映画をつまらなくするだけである。冒頭の海のシーン(付随する海辺のシーン)、乗務員の飛行前の説明シーン、ラストのサーフィンのシーンがなければ、かなりおもしろいB級映画になったと思う。
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藤井五月「ぬぐう、くじら設計集団の夢」

2006-10-29 23:53:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 藤井五月「ぬぐう、くじら設計集団の夢」(「現代詩手帖」11月号)。
 「現代詩新人賞奨励賞」の作品。受賞者は中尾太一で、長い長い作品が掲載されているが、私には藤井の作品の方がおもしろかった。

くじら設計集団による学校閉鎖によって帰路は断たれたと報道されました、
先生は授業中に刺殺したはずだったのにね、
押すのではなく引くのですというアドバイスのもと、
先生は後悔していると報道されましたが 私は後悔していません、
クジラ設計集団による十戒が発表されたと午前10時に放送されました、
先生は私の描いた曲線に興味を示してくれた、
私の顔のせいだと言い訳した後、
先生は血を流しながら私のおっぱいを揉んでいました私は泣きながら傷跡を押えて、
くじら設計集団による迷路が校庭に建設されたと名誉棄損で訴えるそうです。

 「くじら設計集団」とは何か。「クジラ設計集団」とどう違うのか。「報道」と「放送」はどう違うのか。何もわからない。わからないけれども、私はこの作品をおもしろいと思う。奇妙な集団の名前、その表記の乱れ、学校、先生、授業、刺殺、おっぱい。そうしたことばが引き寄せる「現実」(現実と信じている、今、私たちのまわりで起きていること)と藤井の向き合い方がおもしろいと感じたのである。
 訳知り顔の「解説」が藤井のことばにはない。「倫理」が藤井のことばにはない。「解説」や「倫理」、つまり「定義づけ」がないことがこの詩の魅力であると思う。「解説」や「倫理」を藤井が書けないということではないだろう。「解説」や「倫理」はだれでもが書ける。どこからでも「引用」できる。しかし、藤井はそういうことをしない。そういうことを拒否している。それは引用した部分の最後の行の「名誉棄損」ということばの脈絡のなさに象徴的にあらわれている。「だれが」「名誉棄損で訴える」のか、その「主語」がそこには書かれていない。「主語」が不在のまま、「名誉棄損」というような「倫理」につながるものが放り出されている。
 「解説」や「倫理」の「定義づけ」は、今起きていることを藤井から引き離してしまう。「解説」や「倫理」にはどうしても藤井以外の人間の作り上げてきた「常識」が侵入してきて、そのことばをつかう限り、今起きていることを、そういうことばで書いてしまえば、それは藤井の現実とは違ったもの、既成のだれそれの「解説」「倫理」になってしまうという感じがあるのだと思う。
 「私は後悔していません」「私の描いた曲線」「私の顔」。これらのことばの「私」はだれでもがつかうことばであるが、藤井にとっては切実なことばであると思う。「私」ということばだけが激しく屹立してくる感じがする。それは「くじら設計集団」(クジラ設計集団)という不透明なことばによって、いっそう屹立してくる。「くじら設計集団」について知っているのは「私」だけなのである。「私」だけが知っていることがここに書かれている。だれのことばに頼るのでもなく、ただ藤井だけのオリジナルなことばによって書かれているのである。このオリジナルを単なる思いつき、でたらめと批判することは簡単である。しかし、それがどんな思いつきであるにしろ、そのだれのことばでもないもの、藤井自身のことばで現実と向き合おうとする意志がここには明確に表明されている。そのとき「私」を特徴づけるもの(定義づけるもの、アイデンティファイするもの)が「おっぱい」だけだとしても、それを武器にして「私」と「現実」を向き合わせ、そこからことばを動かしていこうとする意志がここにはある。
 新人賞を受賞した中尾の作品にもなぜか「鯨」が登場するが、その「鯨」は藤井の鯨と違って、本物の「鯨」である。--藤井の「くじら」は「鯨」を指しているかどうか、ほんとうのところはわからない。世間をさわがせたあれこれの団体を揶揄的に描いたものかもしれない。少なくとも藤井は、読者の想像力が、そんなふうに藤井のことばを、どこかとんでもないところへひっぱっていくことを期待しながら書いているような感じもする。そういう思いの底には、藤井のことばをなんとか読者のことばと交差させ、そこで化学反応のようなものが起きることへの期待もあるのだと思う。
 そして私は、そのかすかな期待のようなものにかける藤井の意志、想像力がおもしろいと思う。
 ことばを動かしていくのは藤井である。しかし、ことばを読むのは藤井だけではない。藤井と無関係な人間(たとえば私)が読む。そのとき、その読み方は、藤井の意図したものとは違っているかもしれない。藤井は、むしろ違っていることを期待しているかもしれない。藤井の意図とはまったく違ったところへことばをひっぱっていって、そこでとんでもないことを感想として書くかもしれない。(たとえば、私がそうであるだろう。)
 そのときの藤井と、たとえば私のあいだの「ずれ」、「行き違い」こそが、たぶん「詩」なのである。藤井のことばを藤井の意図とは違って読んでしまったとき、そこに「詩」があらわれる。だれの意識にも支配されていない、突然のことばの運動がはじまる。だれの意識とも無関係に、ことばが、ことば自体のエネルギーで動いていってしまう瞬間、そこに「詩」があるのだと思う。

 藤井の今回の作品は「私からの手紙」(ここでも「私」が強調されている)でおわる。その手紙のことばは出だしのことばにくらべると力に欠ける。冒頭に引用したようなことばのスピードがない。イメージの飛躍がない。しかし、そのことが逆に不思議に私には何かわくわくしたものが残る。藤井はまだ藤井自身のことばを確立していない。これから藤井自身のことばを確立していくのだ。「私からの手紙」、その部分に書かれた文体は、これから先、どんなふうに変化していくだろうか、という期待が残る。それが私のわくわくである。



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クリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」

2006-10-29 23:39:01 | 映画
「父親たちの星条旗」

監督 クリント・イーストウッド 出演 ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ

 この映画のいちばんの驚きは戦争を描きながら、それも硫黄島の悲惨な戦いを描きながら「血の色」が出てこないことにある。たとえばスティーブン・スピルバーグの「プライベート・ライアン」の冒頭ではおびただしい血が鮮やかな色で描かれた。ところがイーストウッドの映画では、それは黒い濡れた光でしかなく、真っ赤な色が立ち上がってこない。この「血の色」の否定というか、隠蔽こそが、この映画が告発しているものである。この映画を映画として成立させている力である。

 この映画には大きくわけて3種類の映像がある。ひとつは硫黄島の戦場。もうひとつは星条旗を立てた「英雄」がヒーローとして国債売り込みツアーをするシーン。そしてのこりのもう一つが家庭、あるいは遺族のシーン。戦場のシーンは色調が独特である。ツアーや家庭のシーンとは色調加工に違いがある。それにもかかわらず、というか、色調加工してあるために、その3つのシーンが自然につながる。「血の色」が見えないがゆえに、遠い太平洋の島で戦いをアメリカ本土と区別するものが見えない。そして、その硫黄島とアメリカ本土を区別するものが見えないことを利用して、逆に硫黄島とアメリカ本土をつなぐものを浮かび上がらせる。
 何がかけはなれた世界を結びつけるのか。
 英雄(ヒーロー)伝説、英雄神話である。英雄などというものはどこにも存在しない。戦場では誰もが銃弾にあたり死んでいく。死なないのは一種の偶然にすぎない。手柄もほとんど幸運にすぎない。(偶然や幸運を味方にするのが英雄といえば英雄だろうけれど。)「血の色」が見えない--「血の色」を政治家や家族は実際には見はしない。だからこそ簡単に「英雄」を作り上げ、「英雄伝説」を作り上げ、その力で世界そのものを捏造してしまう。自分たちの都合のいいものにしてしまう。「国民」も「血の色」を直接見ないまま、自分たちの現実を忘れるために「英雄伝説」を信じてしまう。生き残ったものではなく、死んでしまった仲間こそが「英雄」であるという思い(実際に「血の色」を見てきた人間の思い)とは逆に、「血の色」を感じさせない人間が政治や家庭からは英雄に見えてしまう。死なずに、勝利をもって帰ってきてくれた人間が政治家、家庭にとっての「英雄」なのである。
 「血の色」を欠いた「英雄像」が、戦場、政治、家庭を結びつけ、同時に、生き残った3人の意識のなかに、戦場、政治、家庭の分断を引き起こす。戦場、政治、家庭を往復しながら、主人公の3人は苦悩を深めていく。「血の色」は3人の記憶のなかにしかない。3人の肉体のなかにしかない。それは死んでいった仲間の流した血の色そのものである。だれもそれをみつめようとしない--そこに3人の苦悩の深さがある。
 3人の苦悩を描くことで、イーストウッドの映画は「血の色」を直視しない政治を厳しく批判している。「血の色」を隠し、「英雄」を捏造する「想像力」を厳しく批判している。

 主役の3人は、アメリカの政治のなかで語られるような英雄ではない。しかし、別の意味では、やはり英雄である。血を流し、生き続ける人間にとっての英雄である。苦悩する人間にとっての英雄である。人間は苦悩しながら生きて行けるということを代弁する英雄である。生きるとは、苦悩していきることだと告げる英雄である。彼等の苦悩によりそうことでしか生きる方法はない。
 イーストウッドは「ミリオンダラー・ベイビー」にしろ「ミスティック・リバー」にしろ、苦悩の「血の色」を鮮やかに描いていた。それはもちろん映像として見える色ではない。映像としては見えないけれど、スクリーンに接し、主人公にこころを重ねるとき、観客の肉体のなかで動く「血の色」であった。
 この「父親たちの星条旗」には「血の色」は出てこない。だからこそ、私たちは、そこに「血の色」を見なければならない。政治家にあやつられ国債売り込みツアーにかけまわるとき、戦場で無残に死んでいった仲間を思い、主役の3人が流すこころの「血の色」を見なければならない。その「血の色」は、そのまま戦場に流れた肉体の「血の色」である。国債売り込みツアーを飾る虚飾の色を剥ぎ取り、イーストウッドが戦場を描いた「色」にしてしまう視力が求められている。日常にある「虚飾」、たとえば「英雄伝説」を剥ぎ取るとき、その奥から「血の色」はよみがえってくるのである。

 この映画で、イーストウッドは「血の色」は見えるか、と観客に問いかけているのである。たとえばアイスクリームでつくった星条旗を立てる「英雄像」。それにどんなソースをかける。ストロベリーソースをかけるとき、その色は「何色」に見えるか。カメラが捉える直接的な色を隠して、イーストウッドは観客に問いかけている。






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小島数子『明るむ石の糸』再読

2006-10-28 23:28:25 | 詩集
 小島数子『明るむ石の糸』(私家版)再読。
 きのう「酩酊」について書いた。その「酩酊」についての感想は変わらないけれど、何か、小島のほんとうの魅力を「酩酊」だけでは伝えきれない思いが残る。

見る現実を選ばず
見る現実の源である現実そのものを選ぶ
全く異なる方法
全く異なる内容
全く異なる光
見る目を使わず
目のある手を使う
見る現実はなく現実そのものがある
見る現実に関係する善を為さず
禅寺の千手観音のように
目のある手の力によって
光をめざし
現実そのもののもつ真実を浮かび上がらせる
見る現実の全く下にあるので
目のある手を使わないと届かず
現れてこない真実
手付かずのままの現実そのものに
縁ができる
ときには
見る現実そのものという方法を引き入れ用いて
自らの在り方を示す
この尽きない暗闇を捉える者
もどかしさを振り払いつつ
明かりになることを行く者

 「明かりになることを行く者」の全行である。きのう引用しなかった後半が不思議である。
 「縁ができる」。「ふち」ができる。「えん」ができる。どう読むのだろうか。私は「ふち」と読んだ。「ふち」は「淵」に通じる。深い深い「淵」。そこは暗い。何も見えない。そういうものが現実にはある。何も見えない現実の闇--そこでは見るかわりに手さぐりをする。手で、触覚で、見る。そのとき「光(明かり)」は自分の外にあるのではなく、自分の内部にある。触覚が何かを「照らす」。この「照らす」はもちろん比喩である。比喩でしか言えない何かである。
 「もどかしさ」ということばが小島の詩のなかに登場するが、比喩でしか言えない「もどかしさ」が、この「照らす」のなかにある。
 それでも、小島は、「目のある手」をつかい、現実に触れ、その手の力(触覚の力)で「光をめざす」。それは「光」を求めるということではなく、小島が書いているように「明かりになる」(光になる)ことを求めるということである。

 触覚は温かいが、とても危険である。危険は、触覚そのものが他のものを傷つけるということではない。触るということは、特に、見えないものに触るということは、その存在の危険を知らずに触るということである。それは刃物かも知れない。劇物かもしれない。火かもしれないし、氷かもしれない。触るということによって、肉体が傷つく危険性が潜んでいる。触覚は、常に、対象との「距離」がない。そのために、接肉体(たとえば手に)が直接危険にさらされる。(もちろん、手が、触るということが何者かを傷つけるということもあるにはあるが。)対象と離れている「視力」(視覚)とは、その点で違う。
 その危険と「酩酊」はどこかで通じ合っている。
 たとえば刃物、たとえば劇物--それに触ることによって傷つく。そのとき、それまでの「わたし」は「わたし」のままではないられない。何者かにかわってしまう。その変化のなかに、「酩酊」がある。苦痛と快楽がある。苦悩と愉悦がある。苦痛、苦悩が「闇」であり、快楽・愉悦が「光」なのか、あるいは苦痛・苦悩が自己を発見する「光」であり、快楽・愉悦が自己を見失ってしまう「闇」なのか。区別はつかない。この区別のなさが「酩酊」そのものである。何もわからない。わからないまま、存在していることが「酩酊」である。

 何もわからない。そして、そのわからなさのまま、それでも何かをみつめようとしている。みつめたいという強い意志が、小島のことばに満ちている。その強い意志が、あるいは強すぎる意志が先に立ち、ことばを未消化のままにしている。たとえば「縁ができる」の「縁」のように、どう読んでいいのかわからないことば(もちろん小島にはわかっているが、読者にはわからないことば)が噴出してくる。まるで激しい酩酊のなかでのと吐瀉物のように、それは小島の肉体のなかから噴出してきたものだろう。
 未消化の吐瀉物。そのことばゆえに、小島の詩は未完成であるということも可能かもしれない。
 しかし、その未消化の吐瀉物ゆえに、何か、貪欲なもの、世界を自分のなかで消化したいという強い欲望を感じさせられるということもある。
 私は、小島の、未消化なことばゆえに、そこに不思議な力を感じるのだ。消化できるかどうかなど気にしない。なんでも自分のなかに入れてしまおう。摂取することによって、自分そのものを変えていこうという貪欲な意志を感じる。
 「見る現実の源である現実そのものを選ぶ」というようなことばづかいを今の多くの詩人はしない。そういう誰もつかわないことばによって、それでも何かを捉えようとする意志、意志の力に、私は小島の「詩」を感じる。


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小島数子『明るむ石の糸』

2006-10-27 23:07:22 | 詩集
 小島数子『明るむ石の糸』(私家版)。
 小島の詩を読んでいると一種の酩酊に陥る。あ、ことばを読み違えたのかな? いや、やはり、そう書いてある。そして、たしかにそう感じるときがある。今、ではなくて、記憶のなかで……。そんなふうに思ってしまう「酔い」である。
 たとえば「ひそやかに屹立せよ」の2連目。

そこには
たくさんの蠅が飛んでいて
追い払いきれないので
蝉と思おうとしたことがあった
蝉の鳴き声を聞くと
鳴く姿も聞くことになり
土のような重みを感じる

 「鳴く姿も聞くことになり」の「聞く」に私の記憶は酔ってしまう。「見る」ではなく「聞く」。姿を「見る」ではなく、「聞く」。「聞く」にこういう使い方があるとは頭では思わないが、肉体は、そういう使い方があってもいいと思う。あってもいいと信じている。私は、無数の蝉が一斉に鳴いているのを見たことがあるが、そのことを思い出すと、私は、それを聞いたのか見たのかわからなくなる。頭のなかに夏の光に輝く木々があり、木々に降り注ぐ光を跳ね返して蝉が鳴いている。夏の強靱な光がその鳴き声から放射線状に広がっている。それは、見る、聞くが同時におこなわれ、体のなかでふたつの感覚がとけあったまま、区別がつかなくなるような酔い、酩酊の感覚である。
 私は、こういう酩酊の感覚、酩酊の一瞬が非常に好きである。なぜ好きなのかわからないが、こうした酩酊のなかでは、私が私でなくなるという気持ちがするからだ。私という存在がとけだして、世界と一体になる、という感じがするからだ。
 世界と一体となるからこそ、次の行もぐいと迫ってくる。

土のような重みを感じる

 小島が聞いているのは蝉だけではない。姿だけではない。小島がそのとき立っている「場」といしての「土」さえも感じるのである。それは「聞く」という動詞で把握できるのか、「見る」という動詞で把握できるのか、まだ、はっきりとはわからない。「感じる」としか掛けない何かである。

 小島は、あるいは小島のことばはといえばいいのだろうか。それは「酩酊」のなかでとどまらない。酩酊のなかで放心しない。自分がどうなってもかまわない、というふうに、酩酊に身を任せてしまうことがない。酩酊から、徐々に覚醒をめざして歩き始める。というよりも、酩酊を利用して、何かを探し出し、それにたどりついた瞬間に一気に覚醒することを願って歩き始めるといえばいいのだろうか。
 このとき小島が探しているものは、とても「重い」。「土のような重みを感じる」と小島は書いているが、たしかに、そんなふうに重いのだと思う。そして、それは何か、非常に奥深いところにあるものである。「見る」とか「聞く」とかいった自己を安全な場所において(対象と離れた場所にいて)把握できるものではないのだと思う。
 「明かりになることを行く者は」の冒頭。

見る現実を選ばず
見る現実の源である現実そのものを選ぶ
全く異なる方法
全く異なる内容
全く異なる光
見る目を使わず
目のある手を使う
見る現実はなく現実そのものがある
見る現実に関係する善を為さず
禅寺の千手観音のように
目のある手の力によって
光をめざし
現実そのもののもつ真実を浮かび上がらせる
見る現実の全く下にあるので
目のある手を使わないと届かず
現れてこない真実

 手と目の融合。その「酩酊」をとおして小島は何を見るのか。「見る現実の源である現実」「見る現実はなく現実そのもの」「現実そのもののもつ真実」ということばが、小島がとらえようとしているものを浮かび上がらせていると思う。
 覚醒した視力(見る)だけではとらえきれないものがある。それはたとえば手(触覚)と目が融合したときにつかむことのできる存在である。形である。「目」の記憶の蓄積、記憶でゆがんだ目を触覚が洗い流す。触覚がつかみだす真実。
 小島は、ひとつの感覚がとらえる世界が真実の世界とは思っていない。いくつかの感覚が融合して動いているのが世界の真実だと感じているのだろう。そして、既成概念で凝り固まった感覚をほぐすには、別の感覚の存在が必要なのだ。たとえば、「千手観音」は目に頼らない。手を目の変わりにして世界をつかむ。それは「目の感覚」を「触覚」で洗い直すことでもある。

 それにしても、この作品の第一行、

見る現実を選ばず

とはなんと強いことばだろう。「見る」-「見える」現実は、「目」でとらえた現実にすぎない。そこに「目」以外のもの(この作品では「手」)が加わって、「目」だけでみたものを洗い流していくとき、そこに「現実の源である現実」が姿をあらわす。それをつかむまで引き下がらないという強い決意が現れている。この決意が、「重い」ものを引き寄せるのだと思う。この「重い」ものを引き寄せようとする力は、今の現代詩にあっては非常に貴重なものだと思う。


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山本純子「俳句の朗読について」「満月」

2006-10-26 13:28:06 | 詩集
 山本純子「俳句の朗読について」「満月」(「息のダンス」7)。
 芭蕉の「庭掃いて出でばや寺に散る桜」という句を朗読する。そのときの練習についておもしろいことが書かれている。

 この句は挨拶句だから、ということで、増田先生は「御礼の挨拶の練習から始めましょう」とおっしゃる。それでわたしは、レッスンに集まっているメンバーに向かって、正座して三つ指をつきながら、「お世話になりました」「ありがとうございました」と、頭を下げた。そこからは、「ご飯もおいしゅうございました」「お布団も快適でございました」「本当によくしていただきました」などど、思いつくままに続けていって、からだのなかに感謝の息をふくらませる。
 その後「庭を掃いてから出たいのですが」「先を急いでおりまして」「本当に失礼します」と続けて、恐縮の息を付け加える。
 そして息がつかめたところで、改めて「お世話になりました」「本当に失礼します」と挨拶し、それと同じ息で「庭掃いて出ではや」と声に出す。そうすると、「庭掃いて出ではや」という表現で、間違いなく感謝と恐縮のメッセージを伝えることができる。ことばの奥の息がメッセージを伝えるのだ。

 ことばではなく、「ことばの奥の息」がメッセージを伝える。肉体がメッセージを伝える。
 これはちょっと怖い話である。いや、かなり怖い話である。
 意味、あるいは気持ちを伝えるのは「ことば」ではなくなるからである。「ことば」は息に「形」を与えるものにすぎない。極言すれば、ことばは音にすぎない。人は「ことば」を聞く前に「息」を聞いているのである。
 昔、「ラストワルツ」という映画があった。その1シーンに、少女が男の胸を叩きながら「I love you」を繰り返す。そのとき字幕は「ばかばかばか」。探していた男にめぐり合った喜びに「どこにいたの、ばかばかばか」というときの呼吸(息)が「I love you」と同じだと字幕の訳者は感じ取ったのだろう。なるほどなあ、と感心したのを覚えている。そして改めて思うのは、「書かれたことば」にも「息」があるということだ。あのとき字幕が「愛してる、愛してる」だったら、「息」があわない。少女のうれしさが肉体のなかに入ってこなかっただろうと思う。
 私は詩を読むとき、声には出さない。朗読はしない。黙読だけである。しかし、意味ではなく「息」を探して読んでいるということに、きょう、気がついた。私は詩の感想を書くのにしばしば「肉体」という表現をつかう。肉体が感じられるとき、私は安心する。私が「肉体」と書いているものが「息」に近いと思ったのだ。
 「息」が身近に感じられたとき、書かれた詩から、やはり気持ちが伝わってくる。「息」が感じられないとき、それはいったい何が書いてあるのかわからない。「意味」は理解できるが、これはいったい何?という印象しか残らない。
 ことばと「息」について思いめぐらしながら、「息のダンス」のなかの山本の詩を読み返してみると、どの詩からも「息」が伝わってくる。無理のない声が伝わってくる。頭で理解するというより、ことばのひとつひとつに肉体が反応していることがわかる。
 どの詩も簡潔で愉快だが、「満月」が特に印象に残った。エッセイを読んだせいもあるのだろうが、この詩は、朗読するととてもおもしろいだろうと思う。朗読するひとの「息」次第でさまざまな表情をみせるだろう。
 この詩だけはぜひとも山本の「息」で聞きたいと思った。特に最終行の「息」を聞きたいと思った。山本のひとがらがそこにくっきりと浮かび上がっているからだ。

あら、満月だわ
と思いながら
大通りへ向かって歩いていくと
向こうから
どこかのおじさんだわ
という輪郭の人が
やってくる

おじさん
ちょっと歩いて立ち止まり
道の端へよろけたり
また真ん中へもどったり
そんなことしながら
やってくるので

あら、いやだわ
変な人だわ
と、わたし
くっとあごを引いて
くっとかばんを握りしめて
歩いていくと

おじさん、突然
わたしに向かって手をさしのべ
勢いつけて、とととっと
やってくるので

あら、いやだわ
本格的にいやだわ
と、わたし、
もちろん、わきへ身をかわし

横目で見ると
おじさん
細いひもをつかんでて
その先
黒い小さな犬が
わたしの足に
くんくん駆け寄り
しっぽを振るので

こんな場合
やはり
わたしとしては
こう言った

いいお月さんですね

 どうですか? 美しい挨拶でしょ? 実際に聞きたくなるでしょ?
 こんな美しい挨拶に出会えるならば、月夜の晩は犬を連れて散歩しなければ、と黒い犬を飼っている私は思ってしまうのだ。


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新藤凉子『薔薇色のカモメ』

2006-10-25 23:18:38 | 詩集
 新藤凉子薔薇色のカモメ』(思潮社、2006年10月20日発行)。
 何篇かの追悼詩がある。どれも印象的だが、特に「どこへ」がいい。

もう これが限界 はっきりした口調で だから安心していた
明晰なエネルギーに満ちたまま あっさりと
この世のとりでを 乗り越えてしまったひとよ

なんでなの どうしてなの 置き去りりにされてしまったと
唇を真一文字に結んでしまったひとの傍らで
凝然と立ちつくした日のこと

いつも はつらつと笑っていた頬や声 光る歯
輪郭のすべて かたちあるものは なくなるとしても
ならば たましいは どのあたりに

残された時間は少ないと 聞かされてはいたけれど
本当には信じていなかった 娘とわたしに『遺言』と言って
「スープの作り方」というレシピを残して逝ったひと

「ぼくの美学に反する」と 止めるのも聞かず
酸素マスクを外したときに 気づくべきだったのに
なにを見て なにを悟って なにを見たくなくなって

どこへ 越えていったの と聞けば
あのひとは きっと言う
どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ。

 最終連の「あのひとは きっと言う」の「言う」がいい。「言うだろう」という推量ではなく「言う」という断定がいい。
 「あのひと」は亡くなっている。もうことば聞けない。しかし、聞こえる。その声はもしかすると遠いある日、どこかで聞いた声かもしれない。たとえばどこかへ旅をした。その目的地について新藤は不平をもらした。おもしろくない、とか、つまらない、とか。それに対して「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ったのかもしれない。新藤は、そのことばを思い出しているのかもしれない。どこへ行ったにしろ、「あのひと」は「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言う。それがこの世のある場所ではなく、死後にしか行けない場所であっても。
 その声が聞こえるとき、「あのひと」は死んではいない。今、ここにはない時間のなかから、今という時間のなかによみがえってきている。再生している。その強い実感が「言う」という現在形にあらわれている。「きっと」という強調語にあらわれている。
 死と生は不思議な関係にある。死んでしまうと、そのひとには会えない。しかし、死んでしまわないと会えないということもある。
 どんな場所へ行っても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってのける「あのひと」に、新藤は、今、詩のなかで出会っているが、もし「あのひと」が死ななければ、そのことばには会えなかっただろう。
 もちろん新藤が旅行先で不平をもらすたびに「あのひと」は同じことばを繰り返し新藤を慰めたかもしれない。しかし、それはあくまで新藤への慰めのことばである。「あのひと」の満足をあらわすことばではない。
 今、ここで、この詩のなかで、新藤は「あのひと」のことばを満足のことばとして聞いている。満足のことばとしてよみがえらせている。それは「死」が契機になって、満足のことばとして再生しているのである。死んで、その結果、生きるというものもあるのである。
 そのことばは、新藤を安心させることばである。同時にそれは新藤が「あの人」に対して祈ることばでもある。どこか理解を超えた場所へ旅立った「あのひと」、そしてたどりついたところがどんな場所であっても「どこにだって 行けば行っただけの 価値があるさ」と言ってほしい。そんないつもの「あのひと」であってほしい、という願いが、このことばにこめられている。「きっと言う」にこめられている。
 祈りとは、このとき愛の別の呼び方である。

 3連目。新藤は問いかけている。

ならば たましいは どのあたりに

 新藤は実はその答えを知っている。
 「あのひと」のたましいは、「あのひと」を思い出す今、新藤のそばにある。こころのなかに、というよりも、もっとたしかなところ、その前にある。肉体を持って、目の前にある。「どこへ 越えていったの」と「聞けば」、「あのひと」は「言う」。その声は耳にはっきり聞こえる。そう言うときの顔もはっきり見える。(こういうわかりきったことは、詩には書いてはいないが。)
 「たましい」はいつでも肉体に直接働きかけることができる肉体をもってあらわれる。たとえば、耳に聞こえる声をもってあらわれる。3連目の問いかけは、たましいを、そういう肉体としてよみがえらせるための「愛のまじない」のようなものである。そう問いかければ、かならず「たましい」は肉体となってよみがえる。

 新藤が生き続ける限り「あのひと」の死はない。死んでしまっても死んではいない。そして新藤も(こんなことを書くと不謹慎だと言われるかもしれないが)、もし新藤が亡くなったとしても、この詩を読むとき、多くのひとの目の前に、「あのひと」と一緒にあらわれるだろう。肉体を、声を、ことばを持って。
 愛の詩は、いつでも力強い。いつでも生き続ける。

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パトリス・ルコント監督「親密すぎるうちあけ話」

2006-10-25 20:35:41 | 映画
親密すぎるうちあけ話

監督 パトリス・ルコント 出演 サンドリーヌ・ボネールファブリス・ルキーニ

 女性がセラピストと勘違いして税理士の事務所を訪ねる。そして夫婦間の相談をし始める。そこから始まる中年男のメルヘン。ストーリーは誰もが想像するとおりに進んでいく。そして映像も誰もが想像するとおりの映像が積み重ねられてゆく。
 女性は事務所に入ったとたん、コートを脱ぐのではなく、少し下げてあったファスナーをきっちり上まで上げる。身をしっかり隠す。相談事をするにもかかわらず、身を硬くしている。隠せる部分はすべて隠している。彼女が緊張していることが、この最初の映像からわかる。(注意深い観客なら、それ以前のエレベーターを降りたあと、右左を間違えたところで彼女の緊張を読み取るかもしれない。ただし、これは緊張ではなく、彼女自身の癖であることがあとで彼女自身から語られる。)
 部屋の中で彼女は手袋をしたままたばこを吸う。手さえも彼女は隠している。2回目はきっと手袋を脱ぐ--と誰もが想像すると思う。そして実際に手袋を脱ぐ。女は少しだけ男に対してこころを許したのである。こころの緊張感と、服装のあり方、コートのファスナーをどこまでしめるか、手袋をはずすか、マフラーをはずし、コートを脱ぐかということが、きっちり正比例している。
 男の方も女から指摘されてネクタイをはずしたりする。上着を脱いでひとりでダンスを踊ってみたりもする。
 二人のあいだで語られることばよりも、そうした服装の変化をとおして(つまり、ことばではなく映像で)、ルコントは二人の関係の変化を丁寧に描き出す。それは単に二人のあいだの緊張感がほぐれていくという変化をあらわしているだけではない。女が服を変えてあらわれたとき、男は「服が変わったね」という。男は女のことばを聞いていただけではなく、女のすべて、彼女が何を着ていたか、という肉体にかかわることも丁寧に見ていたのである。「親密すぎるうちあけ話」というタイトルから、「ことば」だけにとらわれると(その打ち明け話の内容にばかり気をとられると)、この映画の楽しみは半減する。
 この映画は「聞く」と同時に「見る」ということ、視線のドラマなのである。それを象徴しているのが「服が変わったね」という男のせりふである。男は女の話を聞くだけではなく、女そのものを見ていたのである。「見る」ということが重要であるからこそ、女の緊張感の変化も、コートのファスナーをしめる、手袋を脱ぐ、マフラーをはずすというような目に見えるものをとおして描かれている。
 ことばではなく「見る」ことに重点があるというのは、たとえば男の秘書の女の描き方でもわかる。秘書は女の打ち明け話を知らない。知らないけれど、女と男のあいだに何が起きつつあるかを、女と男を見るということだけで判断する。人は、ことばではなく、視線だけで「事実」を知ることができる。さらに「のぞき」(?)や尾行でも強調されるのは「見る」という行為である。「見る」ことで人は何かを知るのである。(映画はなにより映像だ--という哲学をルコントは持っているのだと思う。)
 「打ち明け話」と同時に、見ることがこの映画のテーマであることは、男と女の描き方(映像)からもわかる。話を聞くとき、男はほとんど動かない。ただ男の顔、感情を隠して、隠しながらも一種の驚きで眉が少しあがり、目を見開いている顔が、映画というより写真のように固定されたまま映し出される。この映画のなかでは、男も女もほとんど動かない。カメラもほとんど動かない。動くのは、目の奥の感情だけである。感情が動いている(緊張して不自然に止まるということも、その動きのなかには入るのだが)ことが、固まった顔(表情)をとおして表現されている。
 ところが、この顔のアップの映像が最後の最後にきて動く。顔そのものは動かないのだが、フレームが動く。「あ、すごい。やられた」と私は映画監督ではないけれど、思わず叫んでしまいそうになった。同時にうれしくて笑いだしたくなってしまった。幸福になった。
 最後にフレームが揺れる顔--それは、カメラが客観的にとらえた映像ではなく、登場人物(男と女)の視線そのもので見た相手なのである。打ち明け話をする、打ち明け話を聞くという「役割」をはなれて、二人が、その瞬間から恋し始めたということを象徴する映像なのである。恋がはじまる瞬間、視線は相手にじーっとそそがれると同時に、不安ですこし揺らぐ。じーっとみつめながらもためらいもまじり、そのために視線が少しだけ揺れる。その揺れがそのままフレームの揺れとなって表現されている。
 いったん揺れ始めれば、もう大揺れになって、フレームが壊れてしまうまで、つまり自分が自分でなくなってしまうまで、恋のなかに突入していかなければならない。そして映画は実際に恋の成就でおわる。
 この恋が、恋のメルヘンが小説ではなく映画であるのは、二人の人間のこころの変化がことばではなく映像としてきちんと描かれているからである。
 最初の頃の固定された男と女の顔は、カメラが第三者的にとらえたストーリーのための映像ではなく、それはすべて男と女から見た、それぞれの顔だったのである。目の奥に浮かびあがる悲しみ、苦悩、ためらいも、第三者がみつめたものではなく、男と女が、それぞれみつめたものなのである。それが最後の最後になって揺れて、相手が消えてしまう。最後に空っぽのソファーが映し出されるが、それは、そのとき二人がみつめているのはそれまでの二人とは違っている(恋が成就した)ということをあらわしているのである。もう昔の二人ではない。男と女が知っている(そして観客が知っている)男と女ではない。恋のなかで別人に生まれ変わった存在である。生まれ変わった存在であるから、それを過去の二人の映像で表現できない。だから「透明」なのである。
 「打ち明け話」という「ことば」で誘っておいて、あくまで「視線」の物語にしてしまうルコント監督の、楽しい楽しいメルヘン映画であった。
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ガルシア・マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』

2006-10-24 14:11:33 | その他(音楽、小説etc)
 ガルシア・マルケスわが悲しき娼婦たちの思い出』(木村栄一訳、新潮社)。
 90歳の誕生日に処女と淫らな夜を過ごしたいと願う男の物語である。男は実際に14歳の少女を娼婦館の女主人から紹介してもらう。読者の好奇心をひっぱりまわすストーリーテリングの巧みさがガルシア・マルケスの特徴だが、そうしたストーリーの変化よりも、細部が楽しい。特に90歳の老人のこころの純粋さが美しい。その美しさをきわだたせる文章がすばらしい。

 私はそれまで、恋のために死ぬというのは詩の中の話しでしかないと思っていた。しかし、あの日の午後、猫だけでなくあの子まで失ってふたたび家にもどったが、そのときふと恋のために死ねるだけでなく、私のような老人で、しかも身よりのない人間でも恋わずらいで死ぬような苦しみを味わうことがあるのだということを思い当たった。けれども、同時にその逆、つまり恋わずらいがもたらしてくれる喜びが何ものにも代えがたいというのも真実だと気づいた。

 「けれども」以下の文章、そこに「真実」ということばで定義されていることがらの美しさには、思わず読みながら傍線を引き、このことばを覚えておかなければ……と思ってしまう。こうしたことばが、一種の波瀾含みのストーリーのなかに散りばめられている。そこに目を奪われるが、同時に私はほかの部分にもうなってしまった。心底感心してしまったのは、ちょっと違った部分だ。
 「私のような老人で、しかも身よりのない人間でも」の「しかも身よりのない人間でも」ということばに私は衝撃を受けた。その意味(内容)ではなく、こうした文章の流れで、ふいに「しかも身よりのない人間でも」ということばが出てくる唐突さに驚いた。このことばは唐突であると同時に、「しかも」(ガルシア・マルケスのつかっている)現実の否定的な部分を強調するだけでなく、ナンセンスである。恋にとって、身よりがあるかないかなど、彼が老人であるかどうかよりもっと無関係なことであるだろう--と私には思える。だが、そういう無関係なことを引き寄せる(書く)ことで、書かれていることがらが急にリアリティーを持つ。そのリアリティーの強さに感動してしまう。
 「しかも身よりのない人間でも」ということばは、ガルシア・マルケスの描く90歳の男以外には、たぶん思いつかないことばだろう。そして、そのことばがなくても、この小説は成り立つし、あいかわらず美しいのだが、そうしたそれがなくても成り立つものを、物語の邪魔にならない範囲でさっと挟み込む手際にガルシア・マルケスの魅力がある。
 「つまり恋わずらいがもたらしてくれる喜びが……」という文章がなければこの恋の物語は真実をひとつ欠くことになる。「しかも身よりのない人間でも」という唐突な挿入句はなくても物語の真実は成立する。だが、それがないと物語も真実も、空想になってしまう。空想になってしまう世界を現実へ引き戻すのが「しかも身よりのない人間でも」ということばだ。
 そして現実、そのリアリティーがいつでもすぐそばにあるからこそ、あらゆる夢が、ロマンチックなものが肉体となって出現してくる。つまり、動き回る。愛が空想ではなく、憎しみ、怒りとともに出現し、暴れ始める。こころを切り刻む。「真実」が「真実」以外のものになりながら、その「偽物」が真実よりも強くこころを支配するという「愛」が動きだす。現実というものがそうであるように、愛も憎しみも怒りも常に動いており、リアリティーというのは、その静止した存在を見るときに感じるのではなく、それが動くときに感じるものだ。リアリティーとはこころが受け止める「傷」のようなものかもしれない。

 そうした「傷」が「名言」のなかにあらわれているのが、娼婦館の女主人の次のことばだ。

つねづね言っているんだけれど、嫉妬というのは真実以上に知恵が回るものなのよ。

 そして、このことばは次のことばと対になっている。

嫉妬のあまりあなたが勘ぐったことが本当だっていいじゃない。

 もう「ほんとう」なんて自分の外にはないのだ。リアリティーというのは、こころが動くその動きそのものなのだ。
 そう思ったとき、また私は思い出すのだ。最初に引用した文章のなかの「しかも身よりのない人間でも」という文章のとてつもないリアリティーを。「身よりがない」からこそ恋をする。恋を愛に変えていこうとする。そこで生まれ変わろうとする。そして、その瞬間、それまで見てきた90歳の男が突然輝きだすのだ。
 その「変身」へのエネルギーが満ちた小説である。最後がとてもまばゆい小説である。

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清岡卓行『ひさしぶりのバッハ』

2006-10-23 23:58:33 | 詩集
 清岡卓行久しぶりのバッハ』(思潮社)。
 どんな詩人にも(作家にも)、そのことばがないと絶対に作品が書けないことばがある。そのことばがないと絶対に作品が成り立たないことばがある。「名言」の類ではなく、もっと簡単な、誰でもがつかうことば、しかしなくてはならないことばのことである。清岡の場合は「と」である。格助詞の「と」。岩波の国語辞典第六版(835 ページ)で「事物を並べ立てて言うのに使う」と定義されている「と」である。
 「樫の巨木に逢う」は入院した病院の窓から巨大な樫の木をみつめながら書かれた詩である。3連目に問題の「と」は登場する。

窓の内側の冷房にいるのはベッドに仰向けに寝たわたしだけ。
その右腕にはもう三十分も点滴注射がつづけられている。
澄みきった大きな窓ガラスを境に
巨木と細腕というこれはまたなんと奇怪なコントラスト。

 「巨木と細腕」のなかの「と」。この「と」がなければ清岡は詩を書けない。「と」こそが清岡の「思想」である。
 「と」はあるもの(存在)とあるもの(存在)が別のものであると告げる。巨木と細腕は同一のものではない、と告げる。同時に、その別個の存在が、今、ここに併存して存在することを告げる。そして、そのふたつの存在を同時に存在させているのが「わたし(清岡)」である。清岡が巨木と細腕を別個の存在と認識し、同時に、そのふたつが今、ここにあると認識している。その認識から、清岡の精神は、別個のふたつの存在が、清岡の精神を媒介にして出会い、やがて融合して一つになっていく世界へと動いていく。「と」はそうした運動の出発点である。
 この融合を清岡は「驚き」「酔い」などのことばであらわしている。そして、そのふたつのことばもまた「と」で結びつけられている。そこには「と」が今、ここに「同時に」存在することを強調する「同時に」という副詞もつかわれている。第4連。

まったく予想もしなかったその不意打ちの極端な図式に
わたしは驚きと酔いをほんの少しだが同時に覚えた。
そして見るものを圧倒してやまない常緑樹に
讃歎と嫉妬と脅威がやがて渦巻く気分を味わった。

 「驚き」「酔い」「讃歎」「嫉妬」「脅威」。これらのことばはすべて「と」で結びついている。「渦巻く」ということばも出てくるが、それは、それらの感情(感覚)が別個でありながら見分けがつかないものになっている、融合しているということをあらわしている。
 「と」で結びつけられるものは清岡にとっては必ず一つに融合していく存在なのである。そして、その別個の存在の融合こそが清岡の「思想」なのである。出会ったものは必ず融合して、それまでの存在を超えた世界へとかわっていく。その変化、運動の過程が清岡にとっての「詩」であり、そのことを端的にあらわしているのが「と」ということばなのである。

 「と」の用法は、この作品では、少しおもしろい形でもあらわれている。病室に電話がある。だが話し相手が見つからない。

結局は自宅に掛けて不在のはずの自分と話すほか
この奇妙な無言のどん底から生きかえる道はないのか。
自分の無意識とも連絡できそうに置かれている電話機。
わたしの頭のなかで舌たらずの幻想が早くも羽ばたく。

--あさってあたり退院するということにしたいよ。
--どうとでもやりたいようにやりな。
--家に着いたら蜆(しじみ)の味噌汁のついた食事をしたいね。
--冷蔵庫のなかにそのとき砂をぬいた蜆があったらね。

 「不在のはずの自分」「と」話す相手は誰か。病室にいる「わたし」である。「と」はひとりのはずの「わたし」を意識のなかで別個の存在にする。存在は「と」を媒介にして意識のなかで別個の存在になる。
 「と」は「わたし」と「わたし以外の存在」を結びつける働きもすれば、「わたし」と「もうひとりのわたし」を切り離す働きもする。この働きは、いずれにしろ「意識」のなかの運動である。意識のなかの現象である。
 「と」を中心にして、そのときどきに、意識にあわせて存在はひとつになったりふたつになったりする。あるいは「と」は「讃歎と嫉妬と脅威」という具合にみっつのもの(あるいはそれ以上のものを融合してしまうかもしれない。いずれにしろ、そうした運動のなかでは「ひとつ」ということが常に意識として残っている。「ひとつ」という感覚とともに、世界が「と」を中心にして動くのである。動きながら、世界を動いているものに変えていく。静止して存在するのではなく、動いていく世界・宇宙がそこに広がる。

 「と」は常にかけ離れたものを結びつける。あるいは対立したものを。たとえばこの作品の最後の行。「不在の自分」と電話で対話しようと空想していたとき突然電話が鳴る。電話をとろうとして起き上がったとき足元がふらつく。

だれがなにを掛けてきたかわからない期待と不安のなかで。

 「期待と不安」。その「と」。ふたつの感情のあいだには、最初に見た「巨木と細腕」のような距離がある。測りきれない距離がある。測りきれない広がりがある。「讃歎と嫉妬と脅威」にも同じく測りきれない距離がある。「感動と混乱」(「ピレネーのアカシア」より)、「怒りと怖れ」(「出発と到着」より)にも測れない距離がある。
 「と」でむすびつけられた存在には、あるいは感情、感覚には、いつでも測りきれない距離がある。そしてそれが測りきれないがゆえに、清岡は、その距離を想像力で、精神の力で結び合わせる。あるいは切り離す。それが清岡にとっての「詩」である。
 「と」で出会った存在が測れない距離を利用して(?)融合し、ひとつになる。ひとつの世界をつくり始める。そのとき「樫」は「樫」ではない。「細腕」は「細腕」ではない。まったく新しい感情(精神)である。たとえて言えば「讃歎と嫉妬と脅威」である。ひとことでは言えない感覚の生成--それが「詩」である。



 『ひさしぶりのバッハ』は清岡さんの遺稿詩集である。清潔な文体で感覚の生成を描き続けた詩人のご冥福をお祈りします。
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リチャード・ドナー監督「16ブロック」

2006-10-23 21:59:16 | 映画
監督 リチャード・ドナー 出演 ブルース・ウィリスモス・デフ、デヴィッド・モース

 ブルース・ウィリスが最初にスクリーンに現れたとき、その腹に驚かされる。でっぷりしている。シャツにたるみがなく、張りつめている。これはもちろん「やらせ」であろう。後半は、そんな中年太りの肉体をさらしていない。では、なぜ、こんな「やらせ」を映像化したのだろうか。ブルース・ウィリスの役どころが中年のしがないアル中刑事だからだろうか。私は、そんなふうには見なかった。そんな単純な人物造形をリチャード・ドナーもブルース・ウィリスもしないだろう。
 では、何を狙ったのか。
 観客の視線を肉体に引きつけるためである。もっと丁寧に言えば、肉体の周囲に引きつけるためである。
 この映画は非常に狭い場所を舞台にしている。ニューヨークの16ブロックス。1ブロックは約80メートルから 100メートルだから1500メートルもない。そして、描かれる時間も8時から10時までの2時間。すべて観客の身体に密着している範囲だ。(少なくともニューヨークの観客にとっては、そこに描かれる街、時間は、すぐそばにある空間と時間である。)そういう場所では、視線は遠くまで見ようとしない。遠くを見る必要がない。この映画で唯一(だと記憶しているが)、視線が肉眼でとらえられる距離を離れるのは、携帯電話からブルース・ウィリスの位置を特定する場面である。パソコンの画面(これにしたって肉眼で見るものだが)に街の地図、俯瞰図が登場する。それ以外は、スクリーンには肉眼がとらえる街、肉体しか登場しない。1500メートルを移動する肉体の、その肉眼が見るものが、この映画では主役である。それが主役であることを、スクリーンにはじめて登場するときのブルース・ウィリスの、ズボンからはみだした腹は告げているのである。
 肉体(自分の肉体、あるいは肉眼で見える他人の肉体)について、私たちはたいがいのことを知っている。何ができ、何ができないかを知っている。また自分が生活する街、その非常に狭い範囲、歩いていける範囲のことなら、たぶんどこに何があるかというようなことも知っている。熟知している世界で、熟知していないこと(実際には知っているけれど、知らないふりをしてきたこと)に直面したとき、そこで人間は何を見るのか。見ることができるのか。これが、この映画のテーマであろう。
 映画はいわば「汚れた警察もの」の定石通りに展開する。B級映画のストーリーを踏襲している。そのストーリーはストーリーとして完成されているが、この映画では、そういうストーリーよりも大胆な冒険がおこなわれている。映像を肉眼で見えるものに限定するという冒険である。肉眼が見るニューヨーク(風景写真を拒否しているノー・フレームのニューヨーク)を背景に、ひとりひとりの癖まで描き出すような濃密な肉体への把握。そうすることではじめて見えてくる精神や感情を、ことばではなく肉体で伝える。そういう冒険が、この映画では試みられている。肉体と肉体が接近し、同じ時間を濃密に生きることで共有される何か。ことばをこえたもの、肉眼がつかみとる真実のようなものを描き出すこと--そういう試みがこの映画ではおこなわれている。そして、それは実際に成功している。
 ラストシーンで、ブルース・ウィリスはケーキ屋になったモス・デフの写真を掲げて1枚の写真におさまる。このシーンも何気ないようでいて、実に興味深い。離れた場所にいる二人がカメラのフレームの中で一緒になる。それを観客は肉眼で見る。想像力で理解するのではなく、肉眼で理解する。肉眼へのこだわりが最後までつらぬかれている。
 リチャード・ドナー監督の作品は『リーサル・ウェポン』などおもしろいものが多いが、今回の映画で私は心底感心してしまった。映像が大好きで、映像で「思想」を語れる監督なのだと実感した。ブルース・ウィリスの演技もよかったが、モス・デフが非常にすばらしかった。スクリーンからはみだしつづける肉体を感じた。スクリーンにいるのではなく、その肉体が、直に肉眼に迫ってくる。
 こういう映画こそ、もっもともっと見たい。
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粒来哲蔵『穴』(その4)

2006-10-22 21:35:11 | 詩集
 粒来哲蔵』(書肆山田)。(その4)
 「齧歯(げっし)記」。その第一段落。

 進化論的生物生態学から考えるならば、種の進化が進むにつれて単純な形態は次第に複雑化し、それに付随する機能もまた多様化してくる--という理論は一見自明のこととも思えるが、実はにわかには首肯し難いものであるという。その理由として、単純から複雑へという一方通行的思考に反して、逆に複雑から単純へという甚だ面妖な非進化論的進化(?)も決して無視すべきではないのだという。

 これは一見すると科学論文か何かのように見える。詩には(あるいは、文学には)あまりつかわないような語彙と文章構造である。しかし、この作品を読んで詩だと感じるのはなぜだろうか。そこに書かれていることがらが科学的(?)ではないからだろうか。引用はしないが、2段落以降、テーマとなっているのは「陰茎骨」である。齧歯類の陰茎骨と膣との関係、交合の具合(?)などが延々と書かれている。いわば軽い、ふざけた(?)内容だから、それが詩なのか。
 内容は、詩であるかどうかとは関係がない、と私は思う。
 この作品を「詩」として成立させているのは「科学的論文」風の文体である。その文体の持続である。文体を維持して何かを描写すれば、そこにはかならず日常では見逃していたものが姿をあらわす。「新事実」というのではない。ある文体が、こんなふうに動いて行けるということばの運動が事実として見えてくる。
 齧歯類のセックス、その陰茎、膣のことなど、普通の人は語らない。あ、ネズミがセックスしている、と思って見るだけである。ことばにして語ってみようとはたいていの人は思わない。それは、いわばことばの「空白領域」である。粒来は、そうした「ことばの空白領域」でことばを動かしてみせる。ただ動かすだけではなく、ゆるぎのない文体で動かしてみせる。
 そこに「詩」がある。

 ことばがどんうなふうに、いったいどこまで動いていけるか、というようなことは、ほんとうは誰も知らない。だからこそ、誰も動かしたことのない領域でことばを動かしてみるという試みが楽しいのである。

 『穴』には26篇の作品が収録されている。どれも、いわばストーリーのようなものがある。「抒情詩」のように、そのときどきの気分が書かれているというより、「事件」というか、できごとが書かれている。しかし気分(感情)が書かれていないかというと、きちんと書かれていると感じる。奇妙な言い方しかできないが、「文体」が気分なのである。「文体」が感情なのである。

 私がこれから書くことは、たぶん抽象的すぎて正確ではないと思う。それを承知で書けば、たとえば数学には数学の文体があり、それが数学の感情であり、気分であると私は感じる。物理学には物理学の文体と感情がある。感情という言い方か不合理なら、「精神」があると言ってもいい。数学の精神、物理学の精神、数字と力学を踏まえたものしか採用しないという厳しい論理的精神--それがその厳しさのまま動くとき、美しい、と思うときがある。もっと卑近にいえば、その答えの出し方かっこいい、と思うときがある。その文体の底にはある種のインスピレーションがあり、そのインスピレーションを追いかけて、数字が理路整然と動く。文体をつくっていく。
 これに似たことばの動きが粒来のことばには存在する。文体として立ち上がってきている。

 粒来にとって「思想」とは考えたことではなく、「文体」である。考えをことばにして動かしていくときの方法(どんな「物差し」をつかうか)ということである。
 粒来に限ったことではないかもしれない。私が詩を読んでいて魅力的だと感じるのは、いつも書かれた内容よりも「文体」である。
 しかし「文体」の説明をするのは難しい。たとえば先に引用した第一段落。それを「科学論文的文体」と感じるのはなぜだろう。「考えるならば」(仮定)-「多様化していく」(結論)という構造だろうか。「進むにつれて」-「しだいに」という明確な呼応だろうか。あるいは「それに付随する」という文の「それに」という指示代名詞による繰り返し(論理の焦点を明確にする方法)だろうか。おそらくすべてなのである。というよりも、部分部分ではなく、全体の流れ、運動の変化量の一定さが、そう思わせるのだろう。
 これはたぶん感じるしかないものなのだろう。
 ある作家の文章、それが誰が書いたものであるか明示されていないくても、私たちは、それはきっと誰それが書いたものに違いないと感じるときがある。それは内容というよりも「文体」ゆえに、そう感じるのだ。作者の声、肉体が「文体」なのだ。そして、たぶん詩を読む(あるいは小説を読むでもいいけれど)とは、「文体」を読むことなのだと思う。ことばを動かしていくときの力のありようを読むことなのだと思う。

 粒来の詩は「文体」の正確さにある。いったん動きだした文体は最後まで一貫している。運動は一貫しているが、そこに取り込む内容は逸脱している。その「ずれ」のようなところに「おかしみ」が広がる。



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ベネット・ミラー監督「カポーティ」

2006-10-22 20:23:35 | 映画
監督 ベネット・ミラー 出演 フィリップ・シーモア・ホフマンキャサリン・キーナー

 これは書くことをめぐる映画である。書くとは、書くことによって自分自身がかわっていくことである。書くことをとおしてそれまでの自分を越えていくということである。カポーティをとおしてその過程が丁寧に描かれている。こういう変化は、ことばでは説明しやすいが、映像ではむずかしいと思う。しかし、この映画は、そのむずかしいことをなしとげている。

 カンザス州で一家4人が斬殺される事件が起きる。カポーティはその事件を書こうと思い立つ。取材のためカンザスを訪れ、捜査当局の人物と会い、被害者の知人と会う。犯人とも対話を繰り返す。犯人の孤独を知るにつれ、それが自分自身の孤独ともつながることを発見する。カポーティは、犯人のこころを描写する(書く)ことをとおして、しだいに犯人そのものになっていく。しかし、決定的な場面で犯人そのものになれない。彼が殺人の理由を語らないからである。それがわからないからである。
 しかし、ある日、ついに語る。隠されていたものが明らかになる。このときから、カポーティは、劇的にかわる。身動きがとれなくなる。犯人が殺人犯として処刑されてしまうことがこわくなる。それは孤独で傷つきやすいカポーティのこころそのものが犯人の肉体と一緒に処刑されることになるからだ。だが、同時に、どこかで犯人の処刑をも待ち望む そして、ついにその日はやってくる。カポーティは犯人の処刑に立ち会う。犯人は孤独で傷つきやすいこころのまま死んでいった。その犯人を描いたとき、カポーティの孤独と傷つきやすいこころも死んでしまった。
 映画のラストで、カポーティは、彼を支え続けた女性作家から「犯人の命をこころから救おうとはしなかったのではないか。そういうことを望んではいなかったのではないか」というようなことを指摘される。一家4人斬殺事件を描くことで犯人の孤独なこころを描こうとして、それを描いた瞬間、カポーティは犯人とこころを通い合わせるというよりも、その孤独なこころそのものになってしまい、結局のところ、犯人が4人を殺すようにカポーティは犯人を死刑に至らせてしまう。書きたいという欲望が勝手に動いていって、カポーティ自身でおさえきれなくなってしまう。
 書くことをとおしてカポーティ自身がそれまでのカポーティではなくなってしまったのである。(カポーティは「冷血」を書いたあと小説が書けなくなった。)

 この張りつめた変化を、カメラはとてつもなく静かな映像で表現する。
 冒頭、惨劇のあったカンザスの田舎が、朝の張りつめた空気とともに描かれる。空気すら微動だにしないという映像である。人が歩けば、空気そのものが、まるで鉱物のように、肌につきささってくるような硬質な映像である。その美しく静かな風景の奥に、実は無残な他殺体がある。他殺体があるまえと、殺人が起きてしまったあとでも、そういう「事件」とは無関係に、自然は整然としている。まるでなにもなかったかのようである。
 しかし、この静かな空気のなかに無残な死体があるのだと思ってみると、張りつめた空気、黒い木々のシルエット、草の深い色--そうしたものすべてが、死体があるがゆえの緊張した静けさなのだとわかる。殺された4人の声にならない悲鳴が空気そのものとなって世界を凍らせているようである。
 同じように、ニューヨークでは喧騒の中ではしゃぎ、犯人との対話のときはただただ静かに犯人に接近していくカポーティも、一見しただけでは、その姿勢がかわらないかのようにみえる。いつもとそっくりのカポーティにみえるかもしれない。しかし、犯人のこころに触れたと感じ、そのこころを書けるという歓喜が、ことばを書いているという不気味な歓喜が、その底に隠されているとわかれば、その喧騒も、その静けさも、またまったく違ったものになってみえる。
 カポーティは小説の完成した部分を出版社に渡し、朗読会も開く。しかし、犯人にはまだ書いていないと嘘をつく。捜査官にタイトルは「冷血」だと嬉々として告げる。そうした一瞬一瞬に、それが静かな、ほとんど動きのない映像であるにもかかわらずというか、動きなのない映像だからこそ、カポーティが人間として狂い始めているという姿が見える。隠された狂いが見え始める。狂いを映像化するのではなく、狂いを排除し、静かに、張りつめた映像を連続させることで、その奥にひそむ無残な血のようなものを感じさせる。
 とりわけ犯人との対話のシーンの静かな描写は、冒頭の張りつめたカンザスの風景を常に思い起こさせ、強烈である。張りつめて動かない映像が、その奥にひそむ劇的変化をつねに暗示するのである。

 この冷酷ともいえるカメラに対し、しっかり向き合ったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技はすばらしい。無邪気さと冷静さ、無邪気な好奇心と残酷さ、それが現実を深く暴き出し、そのことゆえに狂っていく(いままでの自分の領域をはみだしてしまう)人間をリアルに演じている。
 彼を支える女性作家を演じたキャサリン・キーナーもすばらしい。彼女はカポーティと違って書くことによって自分自身を逸脱してしまう人間ではない。常に自分というものがある。自分というよりも、世間と自分をつなぐものがある。世間の中で自分を定着させる力がある。彼女のそういう演技に支えられて、フィリップ・シヒモア・ホフマンの演技がよりいっそう陰影を獲得する。



コメント (2)
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