詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「樹海」ほか

2019-09-30 18:29:29 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「樹海」ほか(「生き事」14、2019年2019年秋発行)

 詩を読む(楽しむ)のには、何かリズムのようなものがある。リズムがあわないと、ぜんぜんおもしろくない。--という言い方は、たぶん抽象的すぎるが。たとえばモーツァルトの曲がある。繰り返し、繰り返し、繰り返す。これは、私が元気なときは気持ちがいいが、疲れているときなどげんなりしてしまう。という比喩もまた抽象的だが、そういう感じ。
 「生き事」という同人誌は、昔は薄かった。ぱっと読めた。いまは分厚い。その厚さに、私はちょっとひるんでしまう。昔の三人(?)でやっていたときは読みやすかったのになあ。
 その巻頭に、岩佐なを「樹海」がある。昔は大嫌いだった。そのあと大好きになった。それから、しばらく読むのがつらくなった。最近、また楽しくなった。岩佐がかわったのか、私がかわったのか、わからない。たまたまの「リズム」かもしれない。

うたたねのなかにも
樹海はひろがっていて
深く遠くへ分け入れば
なつかしいひとたちが
樹のかげからでたりかくれたり
よくきたね、なんてうら若い記憶の兄が
かすれた語り口で包みにくる
応えてはいけない
とり返しのつかいないことになるからね
目ざめたとき
あちらだったりさ

 「うら若い」の「うら」という音がやわらかい。そのあとの「包む」という動詞につながっていく。「意味」を超えて。こういうことばの動きは好きだなあ。ぞくっとして、気持ち悪いのだけれど、この気持ち悪さが快感だと、いつのころからかわかるようになった。間にはさまれた「かすれた」という切断感(?)が、「うら」と「包む」をより強く結びつけるところなんかも。
 「とり返しのつかいないことになるからね」「あちらだったりさ」の「ね」と「さ」のずるさ。感情の押しつけ。「意味」ではなくて、あくまで感情という、ずるさ。「うまいなあ」ということばが、ふっと私の肉体の中からもれてくる。
 まあ、昼寝か何かのときに見た夢(樹海の夢、自殺者の夢)を書いているのだけれど、「読ませている」のは「意味」ではなく「語り口」だね。「意味」なんて、読者がすでにもっているから、わざわざ詩人がつけくわえることはない。「語り口」で揺さぶれば、勝手に動いていくさ、ということなのだろう。(「ほ」と「さ」を真似てつかってみました。でも、ぜんぜん似ていない。私は物真似がへたくそだ。)

うそつききつつきに指摘され
青くさい心身に
深手を負った
若気の至り
の至ったところはどこ
ぬけられません
ぬけられます
ぬけますか

 ああ、いいなあ。「樹海」と「路地」が重なる。「夢」が「現実」になって、「おはよう」という九官鳥の声で起こされる。「ぬけられません」「ぬけられます」は、路地によって(暮らしによって)共有された「声」であり「肉体」だ。ここに、何とも言えない時間の健康さがある。
 先に「ずるい」と書いた「ね」とか「さ」も、そうか「時間」だったのか、とここで読み返すのである。

 廿楽順治の「ゆうれい飴」にもすこし似たところがある。(原文は尻揃え)

戦争で
こどもらはカっと眼をひらいているのに
昨日から
どうしても学校へいかないという
(舐められたもんだな)

 (舐められたもんだな)は実際に口に出されたことばか、こころのなかで言ったことばか。口に出している方がおもしろい。「な」にもれてしまう「肉声」がある。

 安倍恭久の俳句では、

夏場所の遠藤けふは寄切つた

 が、さっぱりしていて気持ち良かった。遠藤という相撲取りは知らないのだけれど。





*

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「表現の自由」と「憲法」

2019-09-30 11:05:18 | 自民党憲法改正草案を読む

「表現の自由」と「憲法」
             自民党憲法改正草案を読む/番外290(情報の読み方)


 「表現の自由は憲法に保障されている」ということは誰もが口にする。そして「表現」も「自由」も「憲法」も「保障」も誰もが知っていることばだから、「表現の自由は憲法に保障されている」がどういう意味であるか、知っているつもりになっている。「個人が何を言うかは、表現の自由だ。他人が、個人の表現について口を挟む権利はない」と。

 たとえば、こんな具合。ある人が、あるところで発言をしていた。
 室井佑月があいちトリエンナーレについて、「表現の自由だから、補助金交付中止の決定について、中止はおかしい」と書く一方、「アイコンに国旗とか紹介文で愛国者とか書くのやめなよ。あなた達のレベルがこの国の愛国者みたいですごく不愉快」とも書いている。(らしい。私は直接読んでいるわけではなく、引用された部分を読んだだけだ。)
 これに対して、このひとは「何をどう表現するかは他人の自由な訳です。これ、彼女がどなたかに忠告出来る権利など一切ない話ですよね」「表現の自由を語るなら、他人が国旗を掲げようが、他人が愛国者を語ろうが、それも他人の自由であるはずです」

 この論理には、とんでもない誤解がある。
 憲法が「表現の自由を保障する」というのは、国民の権利を国が侵害してはならないという規定であって、個人が何を表現するかということには一歩も踏み込んでいない。何を表現してはいけないか、については何も書いていない。国民が何かを表現したとき、国(権力)はそれを守らなければならないとだけ書いてある。その表現が国にとって不都合なものであっても(権力者の気に食わないものであっても、つまり権力者を批判したものであっても)、国はそれが表現されることを保障しなければならないとだけ書いてあるのだ。
 個人の表現を、他の個人がどう判断するか。気に食わないと批判するか、気に入ったというか。これは国の管轄外のことである。個人間の問題を調停するのは、国家の仕事ではない。
 「アイコンに国旗とか紹介文で愛国者とか書く」のは個人の問題。それを「すごく不愉快」と書くのは室井の自由。批判である。これに対して、「他人が国旗を掲げようが、他人が愛国者を語ろうが、それも他人の自由であるはずです」というのもまったく問題がない。
 個人が何を書くかは(表現するか)は、「表現の自由」の問題ではない。「表現の自由」を適用し、その批判が妥当かどうか判断する問題ではない。室井も、室井に批判するひとも「権力」ではないし、できるのは「批判」だけてあり、それを強制的に削除したりはできないということを見ただけでもわかる。
 あいちトリエンナーレで起きたのは、そういう「個人対個人」の意見の衝突ではない。名古屋市長(権力者)が「少女像(慰安婦像)」が気に食わないと展示を中止させ、さらに文化庁(権力者)が予定していた予算を支払わないと決めたのだ。ここには「表現者(複数の個人)」と「権力」の対立がある。「権力」が「個人の表現の自由」を侵害したのだ。
 憲法は、こういう「権力の行動」に一定の「枠」を与え、それを禁止するためのものである。つまり「憲法」の「表現の自由は、これを保障する」は、権力(国家)の行為を禁止しているだけであって、そこに書かれている「文言」が自分の知っていることばだからといって、他人を批判したり、自分を弁護するためにつかおうとしても、無意味なのだ。「表現の自由」という規定を持ち出してきて、室井を批判するのは批判になっていない。

 個人の「表現」は、では、どうやって規制、取り締まるのか。
 個別の「法律」で取り締まる。「カネを出せ、出さないと殺すぞ」と言うのはその人の「自由」だが、それは「脅迫罪」ということで罰せられる。誰かを誹謗・中傷したり、差別すれば「名誉棄損罪」か何かで罰せられる。他人の文書をコピーしてつかえば「著作権法違反」で罰せられる。個人の行為は、「憲法」ではなく「法律」で取り締まられる。
 「カネを出せ、出さないと殺すぞ」と言っても「憲法違反」にはならない。誰かを誹謗・中傷しても「憲法違反」にはならない。個人は「憲法違反」などできないのだ。
 個人を取り締まる(規制する)のは「法律」。
 国家を規制するのが「憲法」。
 この「憲法」と「法律」の区別を無視して、個人の行為に「憲法」をあてはめようとするから、論理がむちゃくちゃになるのだ。
 「法律」からではなく、「憲法」から見ていくとわかる。「憲法」は国民に何を要求しているか。憲法を読み、そこに書かれている国民の「義務」を果たさなかったらどうなるか、それを考えてみるだけでいい。
 憲法は国民の義務として、教育、勤労、納税の三つを規定しているが、納税の義務を果たさなかったときどうなるか。「憲法違反」に問われるか。「憲法違反」ではなく、納税に関する法律が適用される。憲法は国民を取り締まらないのだ。つまり、個人は憲法違反などできないのだ。
 殺人は、人間が犯してはならないもっとも重い犯罪だと思うが、その殺人さえ、憲法違反ではない。あくまでも「殺人罪」を定めた別の「法律」が適用される。個人は憲法違反など、したくてもできない。憲法は、国籍離脱の自由さえ認めている。日本を捨てても、国民は「憲法違反」をしたことにはならないのだ。
 「憲法違反」ができるのは「権力者」だけなのである。「権力者」に、こういうことはしてはいけないと規定しているのが「憲法」なのである。その一つに「表現の自由は、これを保障する(侵してはならない)」がある。
 
 だから、個人が個人に何を言おうと「憲法違反」ではないし、個人は個人の表現に直接介入はできない。気に食わないときは、たとえば「名誉棄損」で訴えるというようなことをするのだ。

 あいちトリエンナーレにもどって言えば、「少女像(慰安婦像)」を批判したければ、だれでも自由に批判できる。名古屋市長も個人的な意見として「気に食わない」と言うことはできる。しかし、気に食わないから展示を中止させるということは「憲法違反」になる。名古屋市長は、「慰安婦像は気に食わない。だが、名古屋市長としては、この像を展示する国民の権利は保障する」と言わなければならないのだ。
 「少女像(慰安婦像」が気に食わないひとが、それを延々と語り続ける。しかし、その人は展覧会を中止させることはできない。
 名古屋市長は「慰安婦像が気に食わない」と言うことができると同時に、その展示を中止させることができる。ここが、個人とは違う。
 この「違い」をもっと丁寧にみつめないといけない。
 「表現の自由」が保障され、そのうえで、さまざまな意見が飛び交う。それが芸術にとって重要なことなのだ。ただし、今回起きたようなこと、「放火するぞ」と脅すようなことは「表現の自由」の問題ではなく、「脅迫」あるいは「威力業務妨害」に関する法律で取り締まられるだろう。

 「表現の自由は憲法に保障されている」。このことばについて疑問をもつひとはいないだろう。表現も自由も憲法も保障も、誰もが知っていることばである。だが、その知っているはずのことばが何を指し示すためにつかわれているかは、ことばを知っているだけではわからない。
 ことばには、それが何を示すためにつかわれているか、という重大な問題があるのだ。
 「表現の自由」に関する誤解は、「集団的自衛権」に対する誤解に非常に似ている。
 「集団的自衛権」を、「日本だけでは外国からの攻撃に耐えられない。アメリカや他の諸国と『集団』をつくり、日本を『自衛』する必要がある。つまり『集団的自衛権』が必要だ」と解釈する見方が非常に多くのひとに共有された。
 「集団的自衛権」は「日本が攻撃されたら」ではなく、アメリカが外国から攻撃されたら(その戦闘の場が日本からかけ離れた地域であっても)、そのアメリカへの攻撃を日本への攻撃と認識し、日本を守るため、つまり自衛という「名目」で外国でアメリカ軍と一緒に戦闘に参加するという権利のことなのだが、多くのひとは、そんなふうには考えなかった。そんなくどくどしい「解釈」よりも、「集団で(アメリカと協力して)日本を守る」の方が簡便だし、「日本を守る」ということでは一致してしまうからだ。
 ここに「罠」がある。
 「新しいことば」にひとが出会ったとき、その知らないことばのなかに「知っている」ことばがあれば、それを自分なりにつなぎ合わせて考えてしまう。そしてたどりついた「答え」(自分なりの解釈)を点検することを忘れてしまう。
 「表現の自由は憲法に保障されている」は「新しいことば」には見えないけれど、見えないからこそ、テキトウに「自己解釈」のなかにとじこもるのかもしれないが、これはとても危険である。もう一度、憲法は何かから考え、その規定が誰に対して向けられているのかを見つめないといけない。

 「憲法」が誰に向けられてものであるかを認識すれば、安倍がやろうとしている憲法改正(2012年の自民党改憲草案)が、いかにむちゃくちゃなものであるかがわかる。安倍は憲法で権力を拘束するのではなく、逆に国民を拘束しようとしている。国民を安倍に服従させるための「法律」に格下げしようとしている。
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トルーマン・カポーティ初期短篇集

2019-09-29 10:47:08 | 詩集
トルーマン・カポーティ『トルーマン・カポーティ初期短篇集』(小川高義訳)(新潮社、2019年2019年02月25日発行)

 もう50年近く前になるが、私はカポーティに夢中だった。だが、いまは私の本棚にはない。引っ越しのとき処分してしまった。偶然、書店でカポーティの名前を見つけて、思わず買ってしまった。
 カポーティのどこに夢中になったのか。読みふけったはずなのに、カポーティの文章を思い出せない。いま、この短編集を読んで気に入る部分を、昔読んだとしたら気に入ったか、よくわからない。でも、どこか共通するものがあるだろう。
 たとえば「水車場の店」の書き出し。

 その女は水車場の売店にいて、裏窓から外を見ていた。明るい川水に分け入って楽しげに遊ぶ子供らに、じっと目を凝らしている。空に雲一つなく、地上には南部の太陽が照りつけていた。女は赤いハンカチで額の汗をぬぐった。水は明るい小石の川底を走り抜けて、気持ち良く冷たそうだ。ああいうピクニックの連中がいなかったら、と女は思った。あっちへ出ていって、自分が川水にしゃがみ込み、一人で涼んでいられるのに--。ふう!

 女の描写。外(子供)の描写。空と大地の描写。女の描写。川の描写。女の気持ち。女の空想。--女と外の描写が交互に繰り返され、それが「一つ」の世界に溶け合っていく。こういう「手法」に私は惹かれたのだと思う。
 「地上には南部の太陽が照りつけていた」という非情な描写と、「水は明るい小石の川底を走り抜けて、気持ち良く冷たそうだ」という繊細な描写が同居しているのも楽しい。特に、後者の文章の「走り抜けて」という動詞が、まるで女が走り抜けるような(女が水になってしまうような)肉体感覚を引き起し、それがそのまま「冷たさ」につながるときの清らかな美しさがとてもいい。
 相いれないものがあるのに、それは相いれないものを「補色」にして、より鮮やかになる感じがする。
 そしてそれは、「感じ」というよりも、「ことば」なのだ。「感じ」が「ことば」になって、そこに動いている。
 ストーリーというよりも、私は、「ことば」がストーリーの中から立ち上がって輝いていると感じ、それに魅了されていたのだと思う。
 女の子の目を見ながら男を思い出す部分も好きだ。

青いガラスを吹いて玉にしたような、明るい目をしていた。薄い空色。髪の毛はウエーブしながら肩まで届きそうだ。はちみつ色の、いい髪だった。肌の色は、脚も、顔も、腕も、濃い茶色である。濃すぎるかもしれない。さんざん日なたに出ていたのだ、と女は思った。

 やはり描写が、一続きではなく、切断されながらつづいていく。その切断と連続の緊張感が好きだ。リズムが好きだ。そして、そういうことばの動きの奥には、「青いガラスを吹いて玉にしたような」の「ガラスを吹く」というような肉体の動きがある。肉体がぐいっとことばを押し出してくる。

 また、突然、こんなことも思い出した。
 私は昔「詩学」という雑誌に投稿していた。飯島耕一らが選者の時代はぜんぜん入選しない。入選したと思ったら、飯島に「谷内の詩は、トンボが飛んでいる詩だ」というように批判された。私は田舎に住んでいて、トンボは飛んでいるだけではなく、家の中にまで入ってくる状況だったので、うーん、どう書けばいいんだろうと思ってしまった。しかし、途中から選者が、藤富保男らに変わった。嵯峨信之(編集者)以外は「英文学者」だった。その選者を見た瞬間、「あ、私の詩は入選するかもしれない」と感じた。そして実際に入選がつづいた。私のことばは、どこか「英文学」と「好み」が共通しているみたいなのだ。(北日本新聞に投稿していた時代の選者は高島順吾という英語の教師だった。)
 福岡に来てから、唯一親しく交流できた詩人に柴田基典がいるが、彼もまた「英文学」に通じていた。
 フランス文学やドイツ文学とは「相性」があわない。リズムがあわない。当時私の知っていた外国語が英語だけだったからかもしれないが、そういうことも感じた。ことばの動かし方には、英語流、フランス流、ドイツ流というようなものがあるのかもしれない。そして、それは日本語にも影響しているかもしれない。
 奇妙な言い方にあるかもしれないが。
 当時の詩の仲間である池井昌樹には「英語(外国語、と言った方がいいかも)」の影響を感じることはまったくない。リズムが、どっぷり「日本語」そのものである。秋亜綺羅は池井とは逆に「日本語」には縁がない。日本語で書いているが、池井の書いている日本語とはまったく別のものである。どちらかといえば「英語」だろう。日原正彦は、いくぶん池井に似ていて「日本語」なのだが妙に「エッジ」がない。テキトウな感じで言えば「フランス語」。本庄ひろしは日原とはまた違った「論理的フランス語」という感じがした。

 私は英語をぜんぜん読まないのだが、好きな作家はジョイス、詩人はエリオット。さらに西脇も好き。共通項は「英語」だ。ベケットも好きだ。ベケットはフランス語でも書いているが、英語でも書いている。ジョイスト同郷だからね。
 などと思いながら、もう一度カポーティを読み返してみたい気持ちにもなった。どこかから「全集」か「選集」が出ないかなあ。




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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」補助金不交付

2019-09-28 15:38:46 | 自民党憲法改正草案を読む
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」補助金不交付
             自民党憲法改正草案を読む/番外289(情報の読み方)

 「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、文化庁は、芸術祭への採択済みの補助金約7800万円について、県からの申請手続きに不備があったとして全額不交付を決めた。このことについては、フェイスブックのあちこちのコメント欄で書いてきたが、そこでは書かなかったことを書いておきたい。

 私は2016年の参院選の直後に『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)という本を出した。
 私は他人の詩について好き勝手な感想を書いているだけだが、「表現の自由」がどうなるか、それが気がかりで(他人の悪口を書き続けることができるかどうか心配で)、2012年の自民党改憲草案を読んでみた。「改憲」の仕方が非常に微妙で、そこに危険なものを感じた。
 第19条は、こう言う具合。
(現行)思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改憲案)思想及び良心の自由は、保障する。
 似ているが、違う。現行憲法は、「これを侵してはならない」と国に対して「禁止」を明言している。改憲案は、国に対してどういう「禁止」を明言してるのかわからない。
 憲法は国に対する禁止事項を明示したものであるはずなのに(国の行為を拘束するはずのものなのに)、それが具体的に書かれていない。
 現行憲法は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と国に対して禁止を申し渡した後、補足として(追加として)21条に「表現の自由は、これを保障する」と書いている。この「保障する」は「これを侵してはならない」を簡略に言いなおしたものである。
 改憲草案に「侵してはならない」の文言がないこと、抽象的に「保障する」と行っていることに危険を感じた。だから、そういうことを書いた。ここでは繰り返さない。

 「あいちトリエンナーレ」の問題でいちばん問題なのは、「慰安婦像(少女像)」を名古屋市長が強制的に撤去させたこと、企画展を中止に追い込んだことである。これは検閲に当たる。許されることではない。
 今回の文化庁の決定は、それを追認したものといえる。
 いずれも「後出しジャンケン」である。展覧会に行ってみたら、そこに自分の気に食わない作品がある。だから撤去しろ、だから補助金を払わない。「事前に、そういう作品のことを知らなかったから許可した」と言う。
 これを私は、憲法に規定してある「検閲の禁止」に違反すると考えるが、一部のひとは、「事前に検閲していない(事前に禁止していない)」から検閲にならないという。しかし、検閲というのは、いつでも「作品」が完成してからしかできない。「事後の禁止は検閲にならない」というのは、とても奇妙な論理である。
 さらに重要なことがある。
 「慰安婦像(少女像)」は、今回展示されたものが唯一のものではない。同じ作者によってつくられた、同じ「鋳型」からつくられたものであるかどうかは私は知らないが、世界にいくつもある。ソウルにもあるし、アメリカにもある。今回の企画展で展示されようが、されまいが、それは存在している。そしてその展示(公開)は、世界では認められている。
 こうした作品の展示(公開)を禁止するとは、どういうことなのか。世界初公開の作品、その存在を誰も知らず、公開されてみると、とても鑑賞にたえないものであるとわかったという作品ではない。世界初公開の作品であっても、権力が「検閲」し、その公開を禁止するというのはおかしな話だと思うが、すでに存在し、多くの人が知っている作品の公開を禁止するというのは、権力の恣意的行為(作為)以外の何ものでもない。
 「権力者として、その作品を許すことができない。その作品は権力を批判している、そういう批判は許さない」と明言しているに等しい。こういう行為は、現行憲法で禁止している「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「表現の自由は、これを保障する(これを侵してはならない)」という規定を破るものである。しかも、すでに存在し、多くの人が知っているものを「気に食わない、公開を禁止する」と言うのである。
 これがいったん通ってしまえば、あらゆることにこの「やり方」が適用される。権力は、権力にとって不都合なもの(気に食わないもの)を、次々に葬り去ることができる。しかも、公開された後なので、その禁止は「検閲には当たらない」と主張できる。
 権力が、権力が気に入ったものだけを「芸術(表現)」と認め、それ以外を排除するということがおこなわれてしまう。
 このわたしの文書も、「この文章は権力批判を含んでいる。そういうものは日本の国益には反する」という理由で公開を禁止することができるようになる。
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「侵してはならない」という禁止規定を隠し、「思想及び良心の自由は、保障する」と言いなおしている、この「罠」について、私たちはもっと厳しい点検をしないといけない。「侵してはならない」という禁止外しは、今回の「事件」で実際におこなわれた。そして、それは2012年の自民党改憲草案の先取り実施なのである。
 すでに何度か、改憲案の先取り実施がおこなわれていることを書いてきたが、今回も問題も、文化庁の補助金行政の問題としてではなく、改憲の動きの一環として見つめる必要がある。




 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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水下暢也「秋のつもり」

2019-09-28 10:59:26 | 詩(雑誌・同人誌)
水下暢也「秋のつもり」(読売新聞2019年2019年09月27日夕刊=西部版)

 水下暢也「秋のつもり」を読みながら、私はとまどう。
 水下暢也という名前がなければ、私はこの詩を「いま」書かれたものとは思わない。私には書けない、読めない漢字がある。(引用ではルビを省略した。)そういうことばは、だいたい、私の日常にはかかわりがない。つかわない、ということだ。つまり、そういうことばをつかって、私は世界を見つめない。考えない。

逃げ水の上を辷る船の舳先から
末広がりになる
軽い波立ちが畳まれ
その後方に
といっても見定め難いが
熟した艶がつくのも
淡い蟠りの上面に
鈴生りの藍が集まるのも
いまひとつ狂いきらない

 書き出しは、繊細である。「逃げ水」は何度も見たことがあるが、水下が書いているように、目を凝らしてみたことはない。そうか、目を凝らせば、その「凝らす」という動きの中に(肉体のなかに)船の幻も呼び込むものなのかと、その集中力に驚いてしまう。「逃げ水」が、遠い水平線の波の動きにも見えてくる。
 「狂いきらない」とはよく書いたものだ。
 「見定めがたい」ものを見定め、ことばにする。こんなに集中し、ことばにしてしまうのは、私から見るとすでにそれだけで「狂っている(常軌を逸している/過剰な精神の運動がある)」が、そして「漢字」と「読み」の選択に「狂っている」証拠を感じるが、水下はそれを「狂いきらない(狂わない)」と言いきる。この精神力が水下のことばを動かしていることになる。驚くしかない。
 しかし、ここに書かれていることばを、水下はいったい誰と共有しているのか。だれと語り合うとき、こういうことば(漢字)をつかうのか。それが、わたしにはさっぱりわからない。少なくとも、私は、こういうことばを共有できない。
 とはいしうものの。

そんなふうだからか
逃げるほどにも
追うほどにも
思う秋を持てず

 この四行のリズム、それからことばそのものは、非常に迫ってくるものがある。「逃げ水」を見たときの不思議さ、あれはほんとうに存在するのか(誰にも見えるものなのか)、それとも私の目の錯覚なのかという奇妙な気持ちがぴったり重なる。「そんなふうだから」という「論理的」なようで、いいかげん(?)な飛躍の仕方も、そういう気分に重なる。
 でも。

逃げ水の面を乱す
棹さしがつづいて
片岸は遠のくばかりで

 あ、このとき水下は、どこにいるのだろうか。
 「逃げ水」の見える場所? それとも「船」の上? 船の上で、棹で船を動かしている?
 わからない。

なだれ込んだ葉が
逃げ水を埋め
たちこめるめる匂いだけ
俄かに秋づくか

 うーん。「逃げ水を埋め」の葉か。ここでは「逃げ水」は、ほとんど現実の「水」になっている。水に埋もれ(水を埋め)、葉が匂う。その匂いが「たちこめる」は生々しくて、肉体にぐいと迫ってくるが、私は自分の「位置」を見失ってしまう。「匂い」を感じるのは、私の肉体感覚では対象の近くにいるとき。遠くの「匂い」を嗅ぎ取るほど、わたしの嗅覚は鋭くはない。書き出しのように、「逃げ水」を遠くから見ているかぎりは、「匂い」はしない。集中力で「逃げ水」を見る位置から、「逃げ水」のただなかへワープしてきたのか。
 まあ、そういう混乱が詩を体験することだといえば、そうなるのかもしれないが。
 ちょっと苦しい。
 私の肉体がついていけなくなる。「幻想」だとしても、それを追いかけるには肉体が必要だが、動かなくなる。

せつかれた陽炎は
ひとたび失せてゆくものの
春と佯る初冬がわらえば
またの日の逃げ水が遊び
またの日の目眩ともなる
水棹を手放した水手は
艫でへたばり
もえそめた葉陰に覆われ
遠目には少し暗い
季節の水合へ入ってゆく

 よくわからない。いや、ぜんぜんわからない、と書いた方が正直だな。
 「春と佯る初冬がわらえば」を手がかりに言えば、この詩の舞台は「小春日和」ということになるが、「秋のつもり」は、それでは「晩秋」のこと? 私は秋になったばかりの日のことかと思って読んでいたから、(福岡では、まだ「夏」だ。私はこの文章を下着姿でクーラーをかけながら書いている)、「時間」そのものも見失ってしまう。
 私の読めない漢字、書けない漢字を読みながら(見ながら)、ああ、これは遠い昔の詩だなあ、明治から昭和の初めにかけてのことばであって、いまのことばではないなあ、という思いにもどってしまう。
 こういうことばが、いまの若い人には新鮮なのか、詩なのか、と驚いてしまう。
 若い人の書いている詩は、私のような老人にはほとんどわからないが、わからなくても古いことば(漢字?)ではなく、いまつかわれていることばを読みたいと思う。






*

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ジェームズ・グレイ監督「アド・アストラ」(★★)

2019-09-27 22:14:39 | 映画
ジェームズ・グレイ監督「アド・アストラ」(★★)

監督 ジェームズ・グレイ 出演 ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ

 宇宙映画が傑作になるか駄作になるかの分岐点は、とても単純なことを土台にしている。「宇宙の果て」については誰も何も知らない。死と同じように、いろいろ語られるが、それ実際に体験した人はいない。
 で。
 その何にもわからないところで、何が起きるか。ここにもう一つ大事なポイントがある。人は知っていることしか考えることができない。「宇宙の果て」なんだから何があってもいいはずなのに、ドラマはいつも知っていることを繰り返すしかないのだ。
 つまり、人を愛する、人を憎む、人を殺す。人を「父」に変えると、この映画のストーリーになるし、よく知らないがギリシャ悲劇にもなる。宇宙という舞台を借りた父親殺しの悲劇が展開されるだけなのだ。この悲劇は、逆読みすれば、権力者は暴君(独裁者)になり、暴君はこどもによって否定されることで新世界がはじまるということになる。どう読むかは、まあ、読者次第だ。読者が、どっちを「知っているか」ということにかかる。
 この映画の最初のクライマックスシーン。トミー・リー・ジョーンズあてのメッセージを読むブラッド・ピット。初めは、組織が用意した手紙を読む。返事が返って来ない。また繰り返す、でも返って来ない。そして何度目か、ブラッド・ピットは用意されたメッセージをそばにおいて、自分自身のことばを語り始める。よく覚えていないが「父さん、愛している」というようなことを語る。この瞬間、この映画は終わる。要約すれば、ブラッド・ピットはトミー・リー・ジョーンズ(父)を愛していたし、トミー・リー・ジョーンズもまたブラッド・ピットを愛していた。だからこそ、その愛は、父が死ぬこと(父殺し)によって完結する。父を殺さないかぎり、ブラッド・ピットは「人類の父」にはなれないのである。
 こういうことは「文学」では何度も何度も形を変えながら語られていることだと思う。人間は同じこと(知っていること)しか語れないから、そうなってしまうのだ。問題は、どんなふうにそれを語るかである。「語る」ということに限定して言えば、これはもう「ことば」の方がはるかに「自在」である。どこまでも「でたらめ」を言うことができる。どんな「でたらめ」でも「ことばの論理」は「論理の完結性」を実現できる。いざとなれば、これまで書いてきたことは間違いで、新たな事実をもとに語りなおせば、こういう結果になるというようなどんでん返しも簡単にできてしまう。これは、裏を返せば、こういう「宇宙を舞台にした父殺しのギリシャ悲劇」は、ことばで表現してこそ「宇宙の果て」まで行き着くことができる。映像では無理なのだ。
 映像は、どうしても具体的である。映像もことば(声)と同じように消えていくが、瞬間的な情報量は映像の方が多い。すべての情報を「嘘」で統一することはできない。ことば(声)は情報量が少ないから「嘘」をひとつひとつ消しながら「嘘」を積み重ねていくことができるが、そういうことが映像にはできない。
 だから、私は声を上げて笑ってしまった。最後の見せ場で。
 父を殺した後(父が死んでゆくのを、死んでゆくのにまかせた後)、ブラット・ピットは地球へ帰るために、「宇宙遊泳」しながら母船に帰る。このとき母船とブラッド・ピットとの間には砕けた岩のような障害物が散らばっている。ぶつからずに帰船するために、ブラット・ピットは捨てていくステーションの一部を剥がし、それを「楯」にする。宇宙の浮遊岩石は「楯」にはぶつかるがブラット・ピットにはぶつからない。このとき、ブラット・ピットの質量の方が大きいから、はじき返されるのは浮遊岩石だけであって、ブラット・ピットの側には「反作用」はないということになるのかどうか、私は知らないが、見ていて変に感じるのだ。一方で、浮遊している岩石にぶつかれば宇宙服(船外活動着)が破れる、ヘルメットが破れる)と状況設定しておき、他方で「楯」で防御すれば衝突していても作用・反作用は起きない。まっすぐに目的へ向かって遊泳できるということが、私には理解できないのだ。もちろん私が無知だから理解できないのであって、そこで起きていることは物理学としては正しいことなのかもしれないけれど、何といえばいいのか、私の「知っていること」とそこで起きていることが「合致しない」。つまり「知らないこと」を信じろと求められていると感じ、私は、つい笑いだしてしまったのだ。「真実」であるにしろ(真実だからこそ)、荒唐無稽。
 もし最後のクライマックスシーンが「宇宙物理学(?)」的に見て「真実」だとしても、それを「真実」と直感できなかったということは、それまでの映像の積み重ねの随所に、嘘がいっぱいあったということだろうなあ。映像の「嘘」を消してしまうほど、ことばが「ドラマ」になっていなかったということだろうなあ。
 ついでに言えば。
 父のトミー・リー・ジョーンズにあわせたのだろうが、ダークヘアーのブラット・ピットというのは奇妙だった。目にもコンタクトを入れているのか、妙な色をしていた。私の偏見かもしれないが、ブラット・ピットは「軽さ」が魅力なのに、それを発揮できないときは、もう別人である。前に見た「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、私は好きではないが、ブラッド・ピットには、ああいう「ノータリン」的ムードがよく似合う。ノータリンだけれど、足が地についているというのが、なかなかおもしろかった。高望みしないというのが、逆にかわいらしかった。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン13、2019年09月25日)
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草野理恵子『世界の終わりの日』

2019-09-26 10:07:30 | 詩集
世界の終わりの日 (ブックレット詩集16)
モノクローム・プロジェクト発行
らんか社


草野理恵子『世界の終わりの日』(モノクローム・プロジェクト、2019年09月20日発行)

 草野理恵子『世界の終わりの日』は、物語から詩がはみ出してゆくのか、詩から物語がはみ出してゆくのか。読む人の好みによって判断が分かれるだろう。
 「孤島の水族館」の書き出し。

湾の中に浮かぶ孤島の水族館には客が一人もいなかった
空は寒々と墨色を深くし紐のような雨を降らせ
魚たちは鰓を使って手繰り寄せ昇っていった
足元に落ちている輪ゴムは湿り気を帯びて白く変色していた

 これは小説の書き出しにもなりうると思う。四行目の「輪ゴム」には「過去(来歴)」があり、そこに物語が隠れている。輪ゴムの「湿り気を帯びて白く変色していた」は、そこにしかない「事実」であり、それは詩であると同時に物語である。

飼育員は嗚咽のような声を出した
吃音だったのかもしれない
私の目を見つめ続け
片肺を取ったためなのか体が傾いたまま

 ここでは「吃音」「片肺」が世界を動かしている。しかも、急だ。過去はゆっくりとあらわれてくるとき効果的だが、あまり早いと「わざとらしさ」が気になる。「わざと」は詩のためのものである。散文は「わざと」をつけくわえるときは、どこか一か所でいい。つまり、泣かせどころ。ふたつの過去が急に出てくると、物語が強引に動かされている感じがする。それは逆に言うと「吃音」「片肺をとったためなのか体が傾いた」の両方を詩にしたいという草野の「欲望」が見える、ということ。
 物語(引用しなかった部分)を奥へ引っ込めた方が、作品として強固になると思う。
 「黄色いアヒル」にも同じことを感じた。

私はずっと病気だったので風呂というものにあまり入ったことがなかった
その頃もまだ歩けなかったが
なぜか一人で風呂に入ったことがあった
窓からは山々が見え陽の光がまっすぐに差しこんできた
湯に当たったその光線があまりにきつく
私の腹を刺すかに思えた
湯に浮かんだプラスチックのアヒルが遮り
アヒルはゲコとカエルのような声をだした

 「ゲコとカエルのような声をだした」が強い。そこには草野しか知らない「事実」がある。誰もが聞いたことがあるかもしれない。けれどことばにしてこなかった「事実」、その音を「ゲコ」と聞き取ったという正直がある。
 次の連も印象的だ。

深い色の沼の水面に黄色いアヒルが揺れている
湯船のような沼に雨が降り注ぎアヒルを叩き続けている
決してアヒルは沈むことなく水面によみがえる
私は首まで沼に浸かりアヒルに手を差しだした
アヒルがじっと見ていた
風呂のアヒルに美しい黒い目がついていることをはじめて知った

 「黒い目」の発見がとても強い。
 でも、私は途中にはさまれた物語にはあまり感心しない。物語を土台にしないと詩が動きにくいのかもしれないが、詩が動いたら物語を消す(削除する)ということを試みてもいいのではないか、と思った。そうした方が、物語が「読者」のものになる。「意味」というのは誰もがもっている。でも、詩は、誰もがもっているのものではなく、ある瞬間に発見されて、そのとき突然存在するものだ。

 一方、草野には、こういう文体もある。「孤島」の一連目。

歯に似た小さな花が足元に咲き乱れている
足を取られて何度も転んでしまう
その度に少しずつ小さな花に噛まれていった
それは恩寵のような至福の痛みだった

 「恩寵のような至福の/痛み」という二重修飾がうるさいが、「歯に似た小さな花」と「小さな花に噛まれていった」の論理は、その過剰な論理ゆえにとても楽しい。ちょっとイタロ・カルビーノを思い出した。詩を捨てて、散文に徹底してみるのもおもしろいかもしれない。

 詩と散文。どちらが草野の本質なのか、よくわからない。







*

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水出みどり『泰子』

2019-09-25 09:54:03 | 詩集
泰子
水出 みどり
思潮社


水出みどり『泰子』(思潮社、2019年08月31日発行)

 水出みどり『泰子』を読みながら、詩集は、昔はこんな感じだったなあ、ということを思った。「こんな感じ」というのは、作品が短い、活字が少ない、厚くない。とはいっても、水出の詩集はかなり厚い。 100ページ近くある。私の理想(?)を言えば、半分でいいか。作品も10篇くらい。その方が集中して読むことができる。いまの詩集は、厚くて、長くて、文字がぎっしりつまっているので、読むのにかなりつかれる。

 私は、ふらふらと読み進む。そして立ち止まる。

半音階に
ふるえる波が
ひかりを
屈折させている                       (屈折)

真昼を
音のない川が流れる
ゆたかさに深さを増してゆく                (一つの声が)

 立ち止まって、さて、何を語ることができるか。別に語らなくてもいい。ただ、そこにあることばに立ち止まる。そういうとき、私は詩を感じている。それで充分である。
 こうやって引用して並べてみると、そこに「音」と「水(波/川)」が動いていることがわかる。
 水出が「音」と「水」が好きなのか、私が「音」と「水」が好きなのか。
 どっちでもいいが、私は、そういうことばを通して水出と出会っていることがわかる。詩は、たぶん、こういう感じ、誰かと出会った、そして目が合ったという感じなのだと思う。「目」というのはもちろん比喩で、実際は「耳」なのかもしれない。あるいは「ことば」なのかもしれない。こういうことは、厳密には考えない。


ひそかに
音階をひろうものがある
毀れた音階を                         (ことば)

 ことばは壊れることで詩になる。「毀れた音階」は「半音階」を想像させる。「半分」になってしまった音階。それはなくしてしまった半分を探しているだろうか。半分のまま生きていくことを決意しているだろうか。

こんな夜
樹が立っている
ゆれる黒い影になって
ゆれ動く記憶になって                   (記憶について)

 「黒い影」は「記憶」と言いなおされているが、それは実は「樹」を言い換えたものであり、その「樹」の述語(動詞)の「立つ」は「ゆれる/ゆれ動く」と言いなおされている。
 あるいは、それは「夜」の言いなおしである、とも言える。
 ここでも厳密に考えてはいけないのだ。論理になってはいけないのだ。

稚魚の
ひかる鱗が
夜明けをはじいている                    (はるかなものを)

 ここには「樹」の対極にあるものが書かれてるのかもしれない。対極といっても、意識されない対極であり、対極と呼んだ瞬間に対極ではなくなるものだが。
 夜のなかには光の記憶があり、ゆれ動くことで、内部から記憶をにじみださせる。光の記憶が光をはじく。
 「はるか」はいちばん近い記憶を言いなおしたものである、と私はことばを「矛盾」のなかへ返す。

 一方、こんなことばもある。

お茶といっても
緑茶 ほうじ茶 ウーロン茶 そば茶
カナの文字盤からこぼれた言葉が
散らばっている                         (水の棺)

 このことばの動きは、水出のなかでは少し変わっているが、私はこういう具体的なことばの方が好きだ。
 抽象はときに美しくなりすぎる。手触りが消えてしまうと、消えていくスピードが速い。ノイズがあった方が、いつまでもどこかにひっかかっている。






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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(2)(★★★★)

2019-09-24 10:17:47 | 映画
ベニスに死す [DVD]
ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ
ワーナー・ホーム・ビデオ


ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(2)(★★★★)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ

 (きのう書いた感想のつづきです。)

 「タージオ」のオーディションフィルムを見た。ルキノ・ビスコンティがビヨルン・アンデレセンに横を向いて、笑って、セーターを脱いで、とかいろいろ指示をしている。その中に「立って」という指示がある。そして、ビヨルン・アンデレセンが立ち上がるのだが、
 「背が高いなあ。驚いた」
 と思わず声をもらす。
 この瞬間、私は、この映画のすべてが決まったと感じた。
 ビィスコンティは採用しようかどうしようか迷うのだが、この「迷い」の中に映画の決定するものがある。「背が高いなあ」と驚いたのは、ビィスコンティはタージオ役に背の高くない美少年を考えていたからだ。ダーク・ボガードは、そんなに背が高くない。体つきががっしりしていない。中背というよりも低い方かもしれない。「恋人」としてはビヨルン・アンデレセンは背が高すぎる。一緒に並んだとき、釣り合わない。別に、年上の男の方が背が高く、少年は背が低くなければならないという決まりはないのだが、背が低い方が「少年」のイメージに近いだろう。背が高いと「青年」、あるいは「大人」になってしまう。
 でも、ビィスコンティはビヨルン・アンデレセンを選ぶ。この瞬間、この映画は男色に目覚め、苦悩する初老の男のうじゃうじゃした「抒情」から、美少年が初老の男をたたきのめす「神話」(悲劇)に変わったのだ。
 ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに会う前から男色だったかもしれない。秘書か同僚かわからない若い男がすでにダーク・ボガードのそばにいて、「芸術論」を戦わしている。この男はダーク・ボガードを批判し、刺戟を与えるが、インスピレーションは与えない。もうすでに「関係」は終わっているのだろう。
 一方、ビヨルン・アンデレセンは「議論」などしない。ただ、見つめられ、そしてときどき見つめ返す。ほんとうに見つめているのか、ただダーク・ボガードの周辺を視線が動いていっただけなのかわからないが、わからないからこそ、ダーク・ボガードには、それが強烈に感じられる。ふいに音楽が浮かんできて、五線譜に音符を書き始めたりする。いわば、音楽のミューズだ。予想していなかった「美」をダーク・ボガードはつかまえたのだ。
 同じことがビィスコンティにも起きたのだ。背の高い美少年は、ビィスコンティの「予想」を裏切った。「予想」を裏切られて、そこからいままでビィスコンティの表現してこなかった「美」の可能性があふれてきたのだ。ビィスコンティが即座にビヨルン・アンデレセンに決めかねたのは、ビィスコンティの予想していなかった「新しい美」にビィスコンティ自身が追いつけるかどうか、わからなかった、確信がなかったからだろう。しかし、確信がないからこそ、可能性に欠けるという喜びがある。興奮がある。これからつくる映画が、「現実(事実)」の再現ではなく「神話」の創造になるという予感がビィスコンティを突き動かす。その衝動にビスコンティは身を委ねる。
 実際、これは「神話」である。ラストシーン近く、ビヨルン・アンデレセンは海の中に進み、片手をのばし遥か遠くを指し示す。それは「永遠」のありかを指し示しているように見える。この逆光のシルエットは、確かに、長身の、痩せた少年でないと「絵」にならないだろう。「神話」には「神話」にふさわしい「形」というものがあるのだ。
 このラストシーンの前に、一つ、とても生々しいシーンがある。ビヨルン・アンデレセンが砂まみれで汚れている。それを保母(?)みたいな女性がバスタオルで吹き清める。砂をぬぐい取ると、その下から完璧な美があらわれる。現実の不純物をとりはらうと、その奥から美があらわれるというのは、美を生み出すためには現実の汚れ(事実)を振り落とし、清めるということが必要なのだ。
 オーディションにやってきたビヨルン・アンデレセンは、さまざまな「現実」を身にまとっている。それをビィスコンティはセーターを脱がせるように払い落とし、立ち上がらせ、「神話」にふさわしい「肉体」に変えたのだといえる。
 このときビスコンティはダーク・ボガードになったのだ。
 トーマス・マンの原作を私は読んでいないのだが、最後の「永遠」を指さすシルエットと、砂まみれの少年の砂をぬぐい取るシーンはビィスコンティの「創作」ではないだろうかと想像した。
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

2019-09-23 07:42:54 | 午前十時の映画祭
ベニスに死す [DVD]
ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ

 この映画の見どころは、三つ。
 ①ビヨルン・アンデレセンの美少年ぶり。確かに切れ長の目、細面の顔、透明な肌と美少年(少女マンガ風)なのだけれど、よく見ると口角が下がり気味。ソフィア・ローレンタイプ。つまり完璧ではない。それが逆に美少年という感じを作り上げている。つまり、観客の目は少年の口元を避けて、あの切れ長の目に集中する。流れるようにカールした髪が、それを隠そうと揺れ動くから、なおさら神経が少年の目に集中する。その切れ長の目で、ダーク・ボガードに流し目をする。どこまで意識しているのかわからないが、ダーク・ボガードが見つめているということ、その視線だけはしっかり意識している。それで、海水浴場へつづく通路のポールに手をかけて、くるり、くるり、くるり。三回もダーク・ボガードを誘うのだ。
 ②ダーク・ボガードの表情の変化。これはもう、なんというか。よくまあカメラの前でこんなあからさまな表情ができるものだ、と感心する。私が特に気に入っているのが、ビヨルン・アンデレセンの誘惑(?)を振り切ってドイツに帰るつもりが、駅に着いてみると荷物が手違いで別の場所へ行っている。それを口実に帰国するのをやめてホテルに引き返すときの表情の変化。駅の係員たちに怒りをぶちまけながらも、「よかった、これでドイツに帰らなくてもいい。ホテルにもどれる」と思う。「どいつに帰ったのでは?」と人に聞かれても「いや、荷物の手違いで」と言える。「少年に会いたくて」と言わずにすむ。その「ことば」にならない欲望、いや、ことばにしたいあれこれ、喜びが顔に表れてくるところ。実際、何も語らないのだけれど、ダーク・ボガードが頭の中で繰り返している「ことば」が聞こえてくる。「顔に書いてある」というのは、こういうことを言う。
 こういう相手のいないところで、相手がいないからこそ見せてしまう感情の輝きというのは、まあ、誰でもしてしまう顔なのだろうけれど、それをカメラの前でできるということがすごい。人と目をあわせて、人の力を借りてこころを動かすのではなく、カメラに向けてこころをさらけだすんだからねえ。こういう顔を見ると、この表情(その一部)を、ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンと目が合うたびに見せていたんだろうなあ、とも思う。それは、スクリーンには映し出されないのだけれど、そうであったに違いないと感じさせる。ひとつの「顔」が、「いま」だけではなく「過去」にさかのぼるようにしてスクリーンの奥で輝くのだ。
 砂浜でビヨルン・アンデレセンが少年と砂じゃれ合うのを見たあと、ダーク・ボガードが自分の頬を指で触るシーンもすごいなあ。セックスをしているわけではないのだが、ものすごくエロチックだ。そこではダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに触っているというよりも、少年に触られたビヨルン・アンデレセンになっている。そして同時にダーク・ボガードに触られたビヨルン・アンデレセンにもなるのだ。そうか、恋をするというのは、その瞬間に自分が恋する相手になってしまうということなのだ。「君の名でぼくを呼んで、ぼくの名で君を呼んで」だったか、奇妙なタイトルの映画があったが、「あ、あれは、こういうことだったのか」と今になって思い返すのだった。
 で、この自他の区別がなくなる統帥感覚が、後々まで尾を引いてしまう。ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンではありえない。「美形」の度合いも違うが、何よりも「年齢」が違う。おそろしいほどの隔たりがある。深淵がふたりの間に横たわっている。「老い」は残酷である。知っているくせに、床屋で髪を染められ、ヒゲをととのえられ、化粧する。口紅と頬紅、アイシャドー(?)までつける。旗から見れば醜悪(悪趣味)なのだけれど、ふっと、見せ掛けの「若返り」酔ってしまう。そのときの陶酔が、あ、これは怖いなあ。淀川長治なら「こわいですね、こわいですね、こわいですね」と言うだろうなあ。もう引き返すことのできない「悲劇」へ進むしかない。
 そのあとのあれこれは省略して。
 ③ビスコンティと言えば、豪華な映像美。貴族にしか出せない味。それは最初の方、ホテルの夕食前の、客がラウンジに集まっているシーンに象徴される。みんな着飾っている。女性陣は豪華な帽子をかぶっている。(いまなら、食事中にあんな帽子はかぶらないだろうなあ。)一人一人は豪華なのだろうけれど、集まるとうるさい。ごちゃごちゃして「汚く」なるはずなのに、妙に競合しない。おしゃべりの雑音とか、一人一人のくつろぎ方とかが、個を守っている。豪華なまま独立している。美しい花瓶や花が、人間の固まりを区切る仕切りのような働きをしている。これはシスティナ礼拝堂の壁画と同じ。なぜ、こんなことが可能なのか。和辻哲郎の受け売りだが、ローマ帝国は「分割自治」によって世界を支配した。「自治」をそれぞれの都市にまかせてしまった。だからこそ、フィレンツェのようなとんでもない都市が誕生するのだけれど、その歴史が「芸術」に反映している。ばらばらでありながら、争いあわないのだ。どこかで「区切り」をつくり、その「区切り」のなかに「ひとかたまり」をおさえてしまう。こういう感覚というのは、きっと「生まれつき」というか、民族の「血」なのだろうなあ。日本人には、あういうシーンは撮れないと思う。「空気」を読んでしまう日本人は「区切り/枠」を抱え込みながら「世界」になることができない。「シンプル」にはなれても「豪華」にはなれない。

 不満は。
 これは映画館のせいなのかもしれないが、デジタル版のはずなのに、映像がシャキッとしない。色も記憶の方が鮮やかで、スクリーンに映し出されたものは、どうもよろしくない。音も、妙に「雑音」っぽい。マーラーの、いつ終わるともない音楽が、あ、早く終わってくれないかなあと思うくらい、ざわざわしている。
 他の映画館で見れば違う印象になるだろうと思う。
 (中洲大洋スクリーン2、2019年09月22日)
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添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」

2019-09-22 14:05:27 | 詩(雑誌・同人誌)
添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」(「Nemesis 」創刊号、2019年09月01日発行)

 添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」には「安久」と「令和」のあいだ」という副題がついている。「元号」をめぐる騒動(?)分析している。
 ハイライトは、27ページの次の一段落か。

 〈文化/culture 〉に対して〈偽=文化/false culture 〉と私が言うとき、前者を後者に媒介するものは一般的に政治的な権力意志に他ならない。分かりやすくいうなら、〈偽=文化〉とは権力意志が〈文化〉を大衆統治の手段として政治利用する際に、人々の目に可視化されるに至った一見〈文化〉のようではあるが実はまったく似て非なる(false )得たいの知れない何らかの記号、あるいはその表象群の全般を指す。従って、あの「元号は、政令で定める」との元号法の第一項条文は、いかにそれがシンプルかつドライに見えようとも、いまや元号が法的権威をバックにもつ権力的な時間記号であることを、みずからドラスティックに宣言してしまっているのだ。

 こういう面倒くさい言い方は、私は苦手で、正確に理解できない。だから「誤解」を交えて言いなおすと、添田は、安倍は「元号騒動」を利用して「偽文化」をつくりあげた。それは同時に「偽文化」を利用して国民を支配する方法を手に入れた。実現した、ということになるだろう。
 で、そのとき「偽文化」を受け入れ、それによって支配される国民とはどういうものななのか。
 26ページに、こういう文章がある。

かつて〈国体〉として観念されたはずの共同幻想が、現在ではこうした“ろくでもない興味の集合体”に取って代わられたことを意味している。

 ここでは〈文化〉はまず「共同幻想」と呼ばれ、さらに「国体」言いなおされている。そのうえで〈偽=文化〉は「ろくでもない興味の集合体」と言いなおされていることになると思う。このとき、「国民」は「ろくでもない興味の集合体である偽=文化」を支える「ろくでもない集団」ということになるかもしれない。

 なるほどね。

 私は、ここで一呼吸置く。
 添田の書いていることは、「理解できる」。もちろんこのときの「理解できる」というのは、私なりに「誤読できる」ということなのだが。そして「誤読」しておいて、こういうことを言うのは変なのかもしれないが。私は添田の書いていることは「理解はできる」が「納得はできない」。
 「国民がろくでもない」以上に、「国会」が、だらしない。
 以前、ブログで書いたことだが、「元号法」を今回の「改元」に適用するところからして、だらしない。安倍にふりまわされているのが、だらしない。
 「元号法」は天皇が急死したとき(いつ死ぬかわからないとき)のためのものだろう。今回のように、天皇がいつ退位するか(退位させられるか)わかっているときに、昭和から平成に切り替わるときと同じ方法をとる必要があるのか、というところから考え始めないといけないだろう。そういう「時間的余裕」はたっぷりあった。それなのに、国会はそれを放置した。政治の動きはよくわからないが、共産党でさえ、元号を内閣(安倍)がかってに決めるのはおかしいとは言っていないと思う。「元号法」があるというかもしれないが、天皇の生前(強制)退位ということが「異常」なのだから、「異常事態」に「元号法」を適用するのではなく、別の形で、つまり国民に開かれた議論を通して元号を決定するという方法がとられてもいいはずである。しかし、誰も、そういうことを主張していない。もし国会で、今回の改元は天皇の死によって突然起きることではなく、予定を立てておこなわれるのだから(国会の承認を得て退位/即位の日も決まるのだから)、改元も国会の議論を経て決めよう、ということになれば、一連の「ろくでもない」あれこれは起きなかっただろう。つまり、安倍にふりまわされるということがなかっただろう。
 安倍は、国会で元号について議論すべきかどうかということが問題になる前に、マスコミを利用して様々な「元号案」をリークさせ、あたかも「元号議論」が社会でおこなわれたかのように装ったのだ。ほんとうなら国会で、国民の代表である国会議員が「元号案」を持ち寄り、議論すべきだったのにそれをさせないために、「憶測(推測)ゲーム」を安倍は展開したのだ。いや、展開させたのだ。「安倍」の文字が含まれるかどうか。「安倍」の文字を入れるなら、それは権力の濫用だ、というような意見さえ招き入れ、あたかも「議論」しているかのような「雰囲気」をつくりあげたのだ。その雰囲気に、野党の国会議員ものみこまれてしまった。
 私は「共同幻想」(吉本隆明)を読んでいないので、テキトウなことを書くのだが、議論・討論の場である国会、その担い手である国会議員さえも、簡単に「共同幻想」にのみこまれてしまうほど、この国の「共同幻想」は根強いということかもしれない。「元号」とはなんなのか。なぜ内閣が勝手に決めてしまうのか。「国民主権」はどこへいったのか。民主主義の時代に、元号の選択を安倍ひとりにまかせていいのか、という議論も起きないほど「元号」というものの「威力(幻想)」は強いのか。
 私は「元号」と「西暦」をきちんと結びつけられるのは自分の生まれた年だけだ。ほかは西暦何年が、元号では何年になるのかわからない。いまは、さすがに「2019年は令和元年」と言えるが、「平成元年」が西暦何年かわからない。「平成元年」が「昭和何年」なのかもわからない。数年もすれば「令和元年」が西暦何年かもわからなくなるだろう。そういう私から見て、今回の「騒動」でいちばんわからないのは、なぜ国会で「元号を何にするか」という議論が起きなかったのか、ということ。とても奇妙だ。私は「令和」を自分からつかうことはないのだが、つかわないからこそそれをつかっている人の思っていることが気にかかる。「元号」って、そんなに大事? ないと、困るときって何?
 また、添田が、そのことを問題にすることもなく、「騒動」を巧みに分析しているのも、よくわからない。何のために、この分析をしたのか。書かれていることは、私なりに「理解」できる。でも、「納得」できない。




*

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伊藤菜乃香「約束」

2019-09-21 12:38:49 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤菜乃香「約束」(「Nemesis 」創刊号、2019年09月01日発行)

 伊藤菜乃香「約束」を読んでいて、ふと立ち止まる。

「私は愛されているのか
わからない
このままでは
ひどくつかれて
あんまりにもからっぽで
なんのために
ここにいるのか
いないのか
わからない」

 水たまり(正確には「傷たまりの水たまり」)に映った自分に語りかけることばである。「ここにいるのか/いないのか」の「いないのか」がうるさいが、この部分は他の部分と違って非常に生々しい。「ことば」になる前の「声」が動いている。
 「いないのか」という行は「声」を「意味」が壊している。伊藤の書きたいのは、この「声」を破っていく「意味」の強さなのかもしれないが、私は「意味」に反抗する「声」の方に魅力を感じる。

 「声」と「意味」。
 説明するのはちょっとめんどうくさいが(どこまで私の考えていることがことばとして動いていくか見当がつかないが)、私はこんなふうに考えている。
 詩の冒頭の部分。

情動ほろびた部屋の
最小単位になる私
点?疑問符?
ただの記号と化したまま
今日を呼吸で縫いとめる

雨が降るごと涙して
雨音の気配が共鳴する
ガラス瓶の折れ針は
散らばって
ふたたび血のにほひ

 ここには「意味」がひしめいている。「情動」は「私」と同義であり、同義であることによって「私」を「情動」と定義する。そしてそれはたぶん「記号」のように「頭」で整理されたものの対極にある。対極にあると告げることで、「頭(知性/理性)」と「情動」を対比するのだが、対比されたとき「情動」は最小単位(一番小さいもの)になる。つまり巨大な(かどうかはわからないが、少なくとも情動よりは大きい)「知性という枠組み」のなかに「情」は組み込まれる。これを「縫いとめる」という比喩で伊藤は言いなおす。
 この「縫いとめる」(縫う)という動詞が二連目の「針」を誘い出す。その「針」は「折れ針」、つまり折れている。なぜ折れたのか。折れるように、不自然な仕方でつかったからだ。「血」を吹き出させるためにつかったのだ。「血」は「情(動)」でもある。これはそのまま最初に引用した「愛されているのか」ということばへとつながる構造になっている。
 ほかにも「呼応」を探し出せば、もっといろいろ言えるだろう。
 見方次第では、とてもしっかりと構成されたことばの運動、和音のつくりになっている。しかし、それが「構成」されすぎていて、私には窮屈に感じられる。
 最初の引用部分のつづきは、こうなっている。

存在と不在の区別さえつかず
映じる姿見て
初めて安堵する
郵便受とスマホを
日に何度もカクニンするように
私宛の便りがあれば
自分を認識する

 自分を「認識する」ときさえ、自分以外のものを必要とする。それは現代の流儀なのかもしれないが、そうであるからこそ、私は「他人」に頼らずに、どこへ届けるという当てもなく、ただもらした「ひらがなの声」の方に、「生身の存在」を感じる。
 「存在と不在」からはじまる行には「意味」はあるが、「声」がない。「カクニン」と一部をカタカナで書き、そこを読んでくれと言われても、私は身構えてしまう。
 詩を読むとき、私はつまずくことは苦にならないし、むしろその瞬間が好きだが、身構えるのはどうもおもしろくない。
 後半の部分。

まっさかさま
私は落ちた
落ちる落ちる
地球の底の底、闇の闇まで
滑る水底は底なしで
考えることを
止められて
苦しかったわ
悲しかったわ
死んでいくのかと
思ったわ

 「考えることを」から以降が特に楽しい。ここにも「声」がある、と私は感じる。「リズム」が「声」を感じさせるのかもしれない。
 でも、伊藤が書きたいのは、私が「おもしろい」と感じる部分ではないだろうなあとも思う。
 これはこれで、仕方がないことなのだ。






*

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中井ひさ子『そらいろあぶりだし』

2019-09-20 10:55:29 | 詩集
中井ひさ子『そらいろあぶりだし』(土曜美術社出版販売、2019年09月09日発行)

 中井ひさ子『そらいろあぶりだし』の感想を書くのはむずかしい。装丁を担当した司修が帯に「これって ほんとは あなたの 青春をうたったのでしょ?」と書いている。これにつきる。
 中井は中井の青春を書いている。実際の年齢は知らないが、たぶん「青春」という範疇の年代ではないと思うが、それでも青春を書いている。つまり、いまが中井の青春なのだ。
 でも、「若者の青春」とは少し違う。どこが違うか。
 詩集は「散文詩」で構成されているのだが、「あとがきふうに」書かれた最後の詩は行分けである。「ひさしぶり」というタイトル。

羽音がした
ごきげんさんと声がかかった

カラスのごときに知り合いはない

耳の底がうごく
奇妙な懐かしさが
にじんでくる

 「奇妙な懐かしさが/にじんでくる」のが中井の今回の詩集であり、「奇妙な懐かしさ」を青春と呼ぶことができる。重要なのは、しかし、「にじんでくる」という動詞である。噴出してくるでも、あふれてくるでもない。それは「隠すことができない」と言いなおした方がいいかもしれない。「隠しながら、見てね」と誘いかける「罠」のようなものでもある。
 「懐中時計」は古道具屋で見かけ、買った懐中時計について書いている。気まぐれで、早く進んだり、ゆっくり進んだり、もちろん突然止まったりする。

 一度などデートの時間に時計がとまった。
 彼は笑顔で言った。
「楽しい時間のはずなのに、まるで時間が止まったようで不思議だな」
 その時話したこと、はっきり覚えている。

 「時間が止まった(時計が止まった)」が比喩と現実とによって「共有」される。そのとき、比喩と現実は入れ替わる。中井にとって、そのときほんとうに「時間は止まった」。そして「懐中時計だけが動いていた」。時間は止まることで、「一瞬」ではなく「永遠」になった。中井が覚えているのは、そういう激しい変化である。
 どの部分にも、ほんとうは激しい変化がある。しかし、それを中井は、まるで何も動いていないかのように静かに描く。そのことばの奥から「永遠」がにじみだしてくる。それを私は読むのだ。
 詩のつづき。

 絵を描くことが好きだったと彼は、夜、佐保川のコンクリートの土手にどうしようもなく絵を描きたくなって一晩がかりで描いたこと。
 山の上から海を見ようとしたら、いつの間にか木が茂っていて見えないので、のこぎりで数本切り倒し海を自分のものにしたことなどなど。
「そうなことしたらだめだよ」といいながら私は心の内で手をたたいていた。顔がほころんでいた。



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新井啓子「羽音」

2019-09-19 20:55:23 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「羽音」(「かねこと」16、2019年08月30日発行)

 新井啓子「羽音」を読みながら、私は考える。

部屋を閉め切って
鳥籠から出すと
インコは天井へ飛んでいった

鴨居にへばりつてい
片言で母を呼んでいる
もういなくなったから返事はない

 「母」ということばで、私は新井の母を思い浮かべた。そして、それでいいのか、と考えたのだ。なぜインコの母と思わなかったのか。新井が書いていることばが「親」ではなく「母」だからだろう。私は鳥のことを想像するとき「親」を「母」と「父」とにわけてみたことがない。だから、「母」につまずき、新井の「母」にすがって立ち上がったことになる。
 「天井」とか「鴨居」とか「家」をつくっていることばも影響しているかもしれない。天井とか鴨居とかは、めったに掃除しない。つまり人の手のゆきとどかないところだが、やはり人の「気配」が漂っている。そういうことも「母」を新井の母に違いないと思わせる力になっている。
 「もういなくなったから返事はない」というのも「母」を失った新井の実感として迫ってくる。インコに自分自身を託している。「母」はいなくなった。でも、この「家」を出て行くわけにはいかない。

畳にそそうしながら
小首をかしげて部屋中歩き回る
もういないのだから見つからない

いつでも
よく鳴いた
よく啄んだ
よくおしゃべりした
緑の 黄色の 青色のちいさな鳥たち

 これはインコのこども姿であり、またインコの母親とこどもの姿なのかもしれないが、ふと、母と新井の姿にも見える。そして、「畳にそそうしながら」はこどもの新井ではなく、老いた新井の母にも見える。
 「探す」のは、こどもが親をとはかぎらない。親がこどもを探すこともある。そこにいるのに見つからないときもある。いなくても、そこにみつかるときもある。そのとき「いつでも」こんな具合にしたね、ということが思い出される。「いつでも」は「過去」なのだけれど、「いま」、そこにある。

わからないのかな
ふくふく頬毛をたてている
おかあさんが餌をくれるのを
待っている

 「わからないのかな」。もちろん「わからない」ときもある。そして、わかっていてもわからないふりをするときもある。わかっていること(事実)を信じたくなくて。さらに、わからないのかな、と思ってもらいたくて。甘えたくて。
 「おかあさん」とことばが変わっている。
 そこで、私は、また立ち止まる。

遊び疲れて止まる丸い肩はないんだよ

 新井はインコになって、母を思い出している。
 そうとしか読めない。





*

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長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』

2019-09-18 20:11:24 | 詩集
ニューヨーク・ディグ・ダグ
長田 典子
思潮社


長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(思潮社、2019年09月10日発行)

 長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』は、ニューヨークで自分を見つめなおした詩集。「ズーム・アウト、ズーム・イン、そしてチェリー味のコカ・コーラ」にはニューヨークから見た「3・11(東日本大震災)」と、そのときに思い出した「9・11(ツインタワービルへのテロ)」が重ね合わせられるように書かれている。

リアリティ、ってなんなんだ!

 ということばが繰り返される。自分の想像力を超えるものを見たとき、それをリアルに受け止めるというのはむずかしい。私たちはすべてを自分の知っている範囲内でしか理解できないのだろう。実際に「体験」すれば、「リアリティ、ってなんなんだ!」と言っている暇はない。ことばで疑問をととのえ、答えを探すということはできない。遠く離れているからこそ「リアリティ、ってなんなんだ!」と思ってしまう。
 これはこれで長田の体験したことを正直に書いているのだと思うし、そこに人間の真実が描かれていると思うのだが、私は感動はしなかった。書きたいことが多すぎて、その「多さ」をことばが追いかけることで精一杯な感じがする。立ち止まる感じがない。立ち止まる、というのは、読者を(私を)立ち止まらせるということでもある。私は、どの行にも立ち止まることはなかった。
 逆に言えば、それこそ、「リアリティ」を感じなかったということである。もちろんこれは、長田が「現実」を書いていないという意味ではない。「現実」を書いているのだが、「リアリティ」に到達していない、ということ。「リアリティ」をことばを通して発見させてくれないということである。私が発見できないだけなのかもしれないが。

 私が「リアリティ」を感じたのは、「蛙の卵管、もしくはたくさんの眼について」である。蛙の卵、オタマジャクシ、蛙を描いている。それは長田が「現実」に蛙の卵を見ながら書いているわけではない。蛙の卵を見たことがある、そして、そのとき「知った」ことを書いている。その「知っている」ことのなかに「リアリティ」がある。人は(私だけかもしれないが)、「知っている」ことしか「知ること」ができない。何かを「体験」しても、それが「知る」になるまでには時間がかかるのだ。
 私は、ここでふいに阪神大震災を書いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「ものごとは遅れてやってくる」というようなことが書いてあった。「遅れ」て、私たちは「知る」のだ。「体験」しているときは、ことばは動かない。
 長田が蛙の卵を見たのはいつのことか。それから何年もたって、しかもニューヨークで、「蛙の卵」がことばになって「やってくる」(遅れてやってくる)のに出会う。「体験」が「知る」になるまでの時間、そして「知る」になるときに「変形」してしまう何かが、「リアリティ」だ。想像力とはものを歪める力だというようなことをバシュラールは言ったと思うが、「現実」が歪められることで「真実」となって「知る」に組み込まれていく。そういうことを、読みながら思った。
 そして、その詩の中に、ちょうどいま私が書いたことが繰り返されている。

生まれてから僕はたくさんの兄弟たちと繋がっていたんだ。僕たちは自分が孵化する日のことを話し合っていた静かに。その後何が起こるのか僕たちにはわからなかった。僕たちのママが蛙だってことは知っていたけど。
僕たちは覚えている滑り台みたいな卵巣にも似た温かい風船みたいなママの卵管を。

 「わからなかった」「知っていた」「覚えている」。ことばは、「知る」「わかる」「覚える」という動詞のなかで「リアリティ」をつかむ。「知る」だけではリアリティにならない。それを「わかる」。そして「覚える」とリアリティになる。「覚える」は「思い出す」でもある。
 この「思い出す」という動詞のなかに「遅れやってくる」がある。「思い出す」ためには「距離」が必要であり、その「距離」を超えて「知っていること」「わかっていること」が「覚えていること」としてやってくる。
 このとき、何が起きるか。

ねぇ、僕と兄弟たちはゼリー状の管の中で手を繋いでいたんだ蛙ってどんなものなんだろうなんて話しながら誰もそんなもの知らなかったけど。

 「知らなかったもの」(知らないこと)を、語ることができるのだ。「知る」「わかる」「覚える」「思い出す」ということばの運動が、そこに存在しないものをつくりだしてしまう。まだ起きていないことを「知っている」かのように浮かび上がらせてしまう。
 リアリティとは、そんな具合に、存在がまだ「知られていない」にもかかわらず、「知っている」ものとして「発見」されてしまうことなのだ。

誰かが言ってた僕たちは通り抜けて去っていく紡錘形みたいなものになるって。
誰かが言ってた僕たちは水の中で揺れる青草になるって。
誰かが言ってた僕たちは水の中を出て飛ぶ黒い形のものになるって。
でも誰も僕たちがどんなふうになるのかは知らなかったんだ。

 しかし、その「発見」は、いつでも「個別」のものである。つまり、どんなに「知っている」「わかっている」「覚えている」をつなぎ合わせても、これから起きることは一回かぎりのことなので「知らなかった」ことしか起きないのだ。
 この不思議な認識の運動から、「9・11」と「3・11」を読み直す必要があるのだと思う。
 長田は、こんな具合に書いている。

ヨコハマは震度五弱 我が家は大丈夫だろうか
ホドガヤの妹はどうしているだろうかサガミハラの父は
夫は今どこにいるのか
国際電話は誰とも通じない
眠ったのか眠らなかったのかよくわからないけどたぶんぐっすり眠った

 すべては「わからなかった」。「知った」けれど「わからなかった」。いまは、それを「覚えている」としか書けない。
 否定的なことばを並べたが、ここには、長田の「正直」が書かれている。「わからなかった」を「覚えている」ときちんと書いている。これが、「わかった」をくぐり抜けて生まれ変わる詩を読みたい。蛙が何度も変身するように、長田のことばも何度も変身すると「リアリティ」を生み出すと思う。








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