詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇389)Obra, Paco Casal

2023-07-29 16:36:34 | estoy loco por espana

Obra, Paco Casal

 Cascada. El agua cae. No hay líneas claras en la naturaleza, no hay líneas que puedan reproducirse con exactitud. El agua, por supuesto, pero también las rocas y los árboles que rodean la cascada. Siempre están en movimiento. La luz y el color están siempre en movimiento.
 Desde mi clase de primaria podía ver una pequeña cascada. Me encantaba dibujarla. Pero no conseguía dibular la "forma".
 Ahora, que he visto los dibujos de Paco, puedo decir que allí no hay "formas", ni "líneas". La naturaleza siempre está en movimiento. Está viva. La luz y el color recorren el mundo y juegan. El ritmo del momento. Como la música, reverberación, imagen consectiva, ellos captan las emociones. Si hay algo ahí, es "algo que capta emociones", ese verbo  "captar".
 Recuerdo que esa cascada siempre me cautivó. Ahora me capta la cascada de Paco.

 滝。水が落ちてくる。自然には明確な線、正確に再現できる線はない。水はもちろんだが、滝の周囲の岩、木々も同じだ。常に動いている。光と色が永遠に動いている。
 小学校の教室から、小さな滝が見えた。私はその絵を描くことが好きだった。だが、どうしても「形」をデッサンできない。
 Pacoの絵を見たいまなら、そこに「形」はない、「線」はない、と言うことができる。自然は常に動いている。生きている。光と色が、世界を駆け抜け、遊んでいる。そのときのリズム。音楽のように反響し、残像になり、感情をとらえる。もし、そこに何かがあるとしたら、それは「感情をとらえる何か」、その「とらえる」という動きがあるのだ。
 私は、いつもいつも、あの滝にとらえられていた、と思い出す。

 

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チャットGPTの精度

2023-07-28 13:29:48 | 考える日記

 「チャットGPTの精度が落ちた」というニュース(見出し)を読売新聞で読んだ記憶があるが、検索しても出てこないので、テキトウな感想になるのだが。
 私は、これを当然だと思っている。
 世の中には「正確な情報」よりも「間違った情報」の方が多い。というか、「正確な情報」というものは、たいていの場合「修正」を重ねることで「正しい情報」にかわっていくものである。
 「情報」を「知識」と言い直して考えてみれば、すぐわかる。
 「天動説」が「地動説」にかわるまでに、どれだけ時間が必要だったか。「地動説」が登場して、すぐに「天動説」が修正されたわけではない。科学の世界でさえ、そうなのだから、「科学」ではない「人事」が動いている世界では、それがあたりまえだろう。
 さらに問題は、ひとは簡単には「間違い」を認めない、というか、「間違いを訂正して正しい情報に書き直す」ということをいちいちしない。たいてい、ほったらかしにしておく。
 ほんとうに正直な人間だけが、「あれは間違っていた、修正すます(訂正します)」と報告する。そして、そのとき、そのときの「情報」の大半が正しくて、ただ一点だけ間違っていたとしても、ひとは「やっぱり、あの情報は間違っていた」と間違いだけをとりあげて情報全体の価値を否定することが起きる。
 具体的偽は書かないが、「慰安婦問題(報道)」では、そういうことが頻繁に起きた。
 記者が責任をもって書いた「報道」では「訂正」がおこなわれるが、情報が匿名で発信され、拡散される世界では、「訂正」は拡散されず、「間違いの指摘」だけがひろがり、「正しい情報」が「間違った情報」になり、「間違った情報」が「正しい情報」にかわってしまうこともある。このときの「基準」が、その「情報の引用回数」で判断されると、それはとんでもないことになる。
 チャットGPTがどうやって情報を集めるのか知らないが、そしてそれが正しいか間違っているかどう判断するか知らないが、間違った情報を集めてしまう限り、どうしてもその「結論」は間違ったものになるだろう。
 いまはまだ「専門家」がチェックしている段階だから「精度が高い」のであって、だれもがつかい始めると精度はどんどん落ちるだろう。
 私がインターネットを始めたころ、「誰もが必ず一度はPLAYBOYを覗きに行く」と言われたが、いまはその手の情報は、PLAYBOYどころではなくなっている。PLAYBOYが掲載していた写真など、いまでは幼児向けの絵本みたいなものだろう。同じことが起きるだろう。

 私は情報と呼ばれるものが、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと変化してきた時代を生きてきたが、その変化に伴って「正しい情報」が広まると同時に、「間違った情報」が広がるもの目撃してきた。そして、思うことはただひとつ。「正しい情報」は確かに維持されるが、「間違った情報」はかぎりなく「拡散する」ということである。「正しい/間違っている」は機械的には判断できない。「間違い」を修正し「正しい」に変えていくことができるのは、「良心」だけである。「良心」の定義が難しいが。「倫理」が必要だというと、自民党の政策みたいになるが、あれは「良心」を失った強欲集団がつくったものだから、私は、いつも「少数派」のなかにこそ「倫理(良心)」の「基本」のようなものがあると考えることにしている。「多数派」にはつねに疑問を持つことが必要だ。
 最初に戻って言い直すと。
 「間違っている」ことを認識し、それを「正しい」に変えていくひとは少ないし、さらにそれを「記録」として残すひとはさらに少ない。情報社会では、そうやって確立された「正しさ」は非常に少ない。チャットGPT、それを見逃すだろう。そうしためだたない「正しさ」を収集しきれないだろう。
 
 チャットGPTが、「多数(派)」への疑問を持つことができるかどうか、「少数(派)」が維持する疑問を正確に認識できるかどうか。それが課題なのだが、強欲集団がつくりだしたものが、そういう基本的性質を持つとは考えることができない。10年後、私は生きてはいないだろうが、そのころはきっとチャットGPTの「誤作動」が大きな問題になっているだろうなあ。

 

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Pepe Jesús Sánchez Marín「Tal vez 」

2023-07-27 17:38:53 | 詩(雑誌・同人誌)

 Pepe Jesús Sánchez Marín「Tal vez 」をPepeと一緒に読んだ。そのとき、とてもおもしろい経験をした。詩の感想というよりも、これから私が書くのは、詩を読みながら(詩を読んだあとで)考えたことである。

Tal vez 

en el camino del faro, en las aguas profundas del Puerto o en la luz del mediodía
en la sombra del muro al amaparo del jazminero o en lo encarnado de la buganvilla

en el tiempo
 
el diáfano rebosante; en el olor o la humedad de la tierra, su sequeda,
la temperature del mar, en una mirada, en la peregrinación de auroras
y su sarta de colores, en los limones, el sol, la naranja del mundo,

en sus huesos o en sus gajos se perdiera.


 「直訳」ではどうにもおちつかなくて、私は、ことばを補って、こんなふうに訳した。

おそらく

おそらく、それはある。
灯台に向かう道や、港の深い水面、あるいは真昼の光のなかに。
ジャスミンに守られた壁の影のなかに、ブーゲンビリアが食い込む壁の影のなかに。

時のなかに。

あふれかえる透明さ。大地の匂い、湿めった大地に、乾いた大地に。
燃え上がる海よ、どこまでも届く視線よ、オーロラの巡礼と
ひとつづきの色、世界中のレモン、太陽、オレンジ。

その骨格のなかに、折れて失われた枝のなかに。
おそらく、永遠はある。

 「hay eso 」「hay eternidad 」と。
 これからが、ちょっとたいへんだった。Pepeがどうしても納得(?)しないのである。「失われたものは何か」と何度も聞く。それは、ここには書かれていない。その「書かれていないことばは何か」。私は、「永遠」を補った。そして、「永遠」を失われながら、同時に存在するもの(永遠に対する意識)としてことばにした。そのとき、私が手がかりにしたのは「en」である。いちばん重要なことばは、この詩のなかでは「en」である。その補足として「el tiempo 」を頼りにした。「en」が引き寄せるものとして「el tiempo 」がある。
 ところが、Pepeは「en」と関係するのは「lugar 」(場所)である、というのだ。失われたのは「lugar 」である。彼の説明は、理解できた。しかし、この「時」と「場」、あるいは「時間と空間」を巡っては、どうしても「合意」できない点が残った。
 時間と空間は一体のものであるが、それを認識するとき、どう表現するか。どうもPepeは「空間」を優先している。しかし、私は「時間」を優先して考える。まず、「時間」がある。「時間」は何かが「動く」ことによって生まれる。そして何かが「動く」ことは「時間」をつくると同時に「場(空間)」つくっていく。「時間」「場」は何かの動きによって生まれる「後天的」なのものであり、その誕生は「ビックバン」に似ている。そして、その「ビッグバン」によって誕生する世界は、「ことば」の動いて行ける(動いていく)「範囲」としてしか存在しない。「有限」である。これが私の考え方だ。
 極端にいうと、私が生まれ、ことばを学び、ことばをつかいはじめ、ことばで認識している世界が「存在する世界」であり、そのほかのものは存在しない。「お前が生まれる前も世界があり、歴史がある」とPepeはいう。私は、そういことは信じない。それは私が「ことば」をとおして学んだ世界であって、ことばの動く範囲で存在しているだけた。「歴史」についていえば、たとえばローマ帝国。それが「存在した」ことはローマの遺跡が証明しているかもしれないが、それはあとから発見し、そう認識したのものである。私の知らない「歴史」がたくさんあり、それはたくさんあるけれど、私にとってはこれからもずーと存在しつづけない。世界には、私の認識できないぽっかり開いた穴が無数にある。そして、世界はいつも一定ではなく(固定しているのではなく)、ことばが動くたびに流動変形している。私は、そういう考えにもとづいて、Pepeの詩(ことば)を読んでいる。「場」を優先する、つまり「時空間」を考えるとき「場」を優先して考えるのはむずかしい、と私は言った。(私のスペイン語が、どこまで通じたかわからない。日本語で書いている私の文章が、日本語を母国語にしている人の何人に通じるかも、私はわからない。だれにも通じないかもしれないと思いながら書いている。)

 その対話のあと、私は、ちょっといろいろなことを考えた。
 「hay eso 」「hay eternidad 」と私は、書いた。そのときの「y 」について考えたのである。
 フランス語では、何かがあるというとき、「il y a  」という。「かれ(それ)」は「持つ」というだけではなく、そこに「y 」という何だかわけのわからないことばが入ってくる。それはスペイン語の「hay 」の語尾の「y 」に共通しているように思われる。そして、この「y 」は、スペイン語の動詞では「hay 」のほかに「soy 」「estoy 」「voy 」という具合に、非常に基本的な動詞の、一人称の活用に登場する。そして、それは、どうも「場」の意識に関係しているように思えるのである。自己が存在するときの「場」の意識が「y 」のなかに含まれる、と感じてしまう。「y 」は何らかの空間的なひろがりを持ち、存在を包んでいる。
 これはフランス語にもどって考えるとき、よくわかる。「Est-il a Paris? Oui, il y est 」というときの「y 」には「à, en, dans 」が含まれる。そして、ほら。「en」が、ここに出てくる。Pepeの「en」はフランス語ではないのだけれどね。でも、それはどこか共通しているものがある。ヨーロッパ人は「存在」を考えるとき、まず「場」を考えるのだ。「空間」を考えるのだ。
 でも、私は「時間」を考えてしまう。「時間」から出発してしまう。
 「en el camino del faro 」とPepeは書きはじめる。それを私は、動詞をつかって「cuando camino al faro 」と読んでしまうのである。この思考の出発点が、詩の「解釈(理解)」を違ったものにするのである。

 Pepeは「lugar (場)」は失われた、と書く。しかし、私は「場」が失われただけではまだ「時間」があると感じてしまう。何もかも亡くなるとき「時間」がなくなるのである。そして、矛盾した言い方になるが、「時間」がないとき、それは「永遠」を意味する。だからこそ、私は逆説的に「永遠がある」と理解するのである。
 異なった「国語」で語り合うのは難しい。しかし、「異なった国語」で語り合うことは楽しい。そこには「異なった無意識」がある。根深い思想がある。さらにいえば、詩(文学)とは、それぞれの「異なった個人語(無意識)」の出会いである。

*

(以下は、DeepLをつかった翻訳である。)
A continuación se ofrece una traducción utilizando DeepL.

 Pepe Jesús Sánchez Marín 'Tal vez' se leyó con Pepe. Tuve entonces una experiencia muy interesante. Más que una impresión del poema, de lo que voy a escribir es de lo que pensé mientras leía el poema (y después de leer el poema).

Tal vez 

en el camino del faro, en las aguas profundas del Puerto o en la luz del mediodía
en la sombra del muro al amaparo del jazminero o en lo encarnado de la buganvilla

en el tiempo
 
el diáfano rebosante; en el olor o la humedad de la tierra, su sequeda,
la temperature del mar, en una mirada, en la peregrinación de auroras
y su sarta de colores, en los limones, el sol, la naranja del mundo,

en sus huesos o en sus gajos se perdiera.

 No podía acostumbrarme a la "traducción literal", así que añadí unas cuantas palabras más y lo traduje así.

おそらく

おそらく、それはある。
灯台に向かう道や、港の深い水面、あるいは真昼の光のなかに。
ジャスミンに守られた壁の影のなかに、ブーゲンビリアが食い込む壁の影のなかに。

時のなかに。

あふれかえる透明さ。大地の匂い、湿めった大地に、乾いた大地に。
燃え上がる海よ、どこまでも届く視線よ、オーロラの巡礼と
ひとつづきの色、世界中のレモン、太陽、オレンジ。

その骨格のなかに、折れて失われた枝のなかに。
おそらく、永遠はある。

'hay eso', 'hay eternidad' complementé.
 El siguiente paso fue un poco difícil: Pepe no estaba convencido. Pepe no estaba convencido. Seguía preguntando: "¿Qué se ha perdido?". ¿Cuáles son las palabras que no están escritas? ¿Cuál es la 'palabra no escrita'? Me inventé 'eternidad'. Y puse 'eternidad' en palabras como lo que está perdido y al mismo tiempo existe (conciencia de eternidad). En aquel momento, utilicé "en" como pista. La palabra más importante de este poema es "en". Me apoyé en "el tiempo" como complemento. El "en" atrae al "tiempo".
 Pepe, sin embargo, dice que es 'lugar' lo que está relacionado con 'en'. Es el lugar el que se pierde. Su explicación es comprensible. Sin embargo, quedaba un punto sobre este 'tiempo' y 'lugar' o 'tiempo y espacio' en el que no podíamos 'ponernos de acuerdo'.
 El tiempo y el espacio son una misma cosa, pero ¿cómo los describimos cuando los reconocemos? Al parecer, Pepe da prioridad al "espacio". Yo, en cambio, doy prioridad al "tiempo". En primer lugar, está el "tiempo". El tiempo se crea cuando algo se mueve. Y cuando algo se mueve, crea "tiempo" y al mismo tiempo crea "lugar (espacio)". El tiempo y el espacio son adquiridos, creados por el movimiento de algo, y su nacimiento es similar a un 'Big Bang'. El mundo creado por el "Big Bang" sólo existe como un "ámbito" dentro del cual la "palabra" puede moverse (y se mueve). Es finito. Esta es mi forma de pensar.
 En términos extremos, el mundo en el que nací, aprendí el lenguaje, empecé a utilizarlo y soy consciente de él a través del lenguaje es el "mundo que existe", y no existe nada más. Había un mundo y una historia antes de que nacieras", dice Pepe. No me lo creo. Es un mundo que he conocido a través del lenguaje, y sólo existe dentro del ámbito del lenguaje. En cuanto a la 'historia', el Imperio Romano, por ejemplo. Las ruinas romanas pueden demostrar que "existió", pero fue descubierto y reconocido como tal más tarde. Hay mucha 'historia' que no conozco, y es mucha, pero no seguirá existiendo para mí. Hay innumerables agujeros en el mundo que no reconozco. Y el mundo no es siempre constante (no es fijo), sino que está en flujo y transformación con cada movimiento de la palabra. Leí poemas (palabras) de Pepe basados en esta idea. Dije que es difícil dar prioridad al "lugar", es decir, dar prioridad al "lugar" cuando se piensa en el "espacio-tiempo". (No sé hasta dónde llegó mi español. No sé cuántas personas que hablan japonés como lengua materna pueden entender lo que escribo en japonés. Escribo con la esperanza de que nadie me entienda).

 Después de ese diálogo, pensé en algunas cosas.
 Hay eso', 'hay eternidad', escribí. Pensé en la 'y' en ese caso.
 En francés, cuando se dice que algo es, se dice "il y a". La palabra "eso" no es sólo "haber", sino también "y", que es una palabra que no entiendo. Parece tener algo en común con la "y" española al final de "hay". Además de "hay", esta "y" aparece en la conjugación en primera persona de verbos españoles muy básicos, como "soy", "estoy" y "voy". Y parece estar relacionada con el sentido de "lugar". Siento que la conciencia del "lugar" en el que existe el yo está contenida en la "y". La "y" tiene algún tipo de extensión espacial, y envuelve la existencia.
 Esto queda claro cuando volvemos a la lengua francesa. La "y" de "Est-il a Paris? Oui, il y est" contiene "à, en, dans". Y ya ves. La "en" aparece aquí, aunque la "en" de Pepe no es francesa. Pero tienen algo en común. Cuando los europeos piensan en "ser", primero piensan en "lugar". Piensan en el espacio.
 Pero yo pienso en el "tiempo". Parto del "tiempo".
 Pepe empieza "en el camino del faro". Yo lo leo como 'cuando camino al faro', utilizando un verbo. Este punto de partida del pensamiento hace que la 'interpretación' (comprensión) del poema sea diferente.

 Pepe escribe que el "lugar" se ha perdido. Sin embargo, creo que todavía hay "tiempo" cuando el "lugar" no sólo se ha perdido. Cuando todo muere, ya no hay "tiempo". Y, contradictoriamente, cuando no hay 'tiempo', significa 'eternidad'. Por eso entiendo, paradójicamente, que existe la eternidad.
 Es difícil hablar en diferentes "lenguas nacionales". Pero es divertido hablar en lenguas diferentes. Hay un "inconsciente diferente". Hay ideas muy arraigadas. La poesía (literatura) es el encuentro de diferentes lenguas personales (inconscientes).


Traducción realizada con la versión gratuita del traductor www.DeepL.com/Translator

 

 

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(21)

2023-07-26 23:18:17 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「アレクサンドリアの王たち」。クレオパトラの子ども(兄弟)がアレクサンドリアにやってくる。王になるために。市民は歓迎する。だが

これはみんな言葉、みんな芝居さ。

 新しい王に捧げられたことば、歓迎のことば。それはことばにすぎない。芝居だ。意味は、そうなるのだが。
 私には、その前に書かれた王の服装が「言葉」「芝居」に感じられる。ふたりには何の人間的魅力もない。だから服装を華麗なことばで語るしかないのである。市民の態度よりも、詩人の態度(詩の書き方)が、「真実」を雄弁に語っている。
 それにしても、不思議。
 最終行では「空っぽの言葉」という表現がつかわれているが、その「批判」が強ければ強いほど、私はなぜか、その「芝居(空っぽの言葉)」の美しさに惹かれてしまう。そこには、何か陶酔がある。それは二人の兄弟が味わった陶酔かもしれないと感じてしまう。権力者は陶酔のなかで失墜する、ということも思ってしまうのだった。陶酔を誘うことばは危険だ。それとも陶酔することが危険なのか。

 

 

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最相葉月『中井久夫 人と仕事』(宣伝です。)

2023-07-26 21:19:57 | 詩集
 

 

最相葉月『中井久夫 人と仕事』(みすず書房)が出版された。
『中井久夫集(全11巻)』の「解説」に加筆し、一冊にしたもの。
表紙に中井久夫の描いた病棟の設計図をつかっている。
中井の人柄を感じさせるスケッチだ。
中井はことばの達人だが、同時に絵もうまい。
ということは、別にして。
(ここから、宣伝です。)
『中井久夫 人と仕事』に、私の名前が出てくる。(著作集3の「解説」に出てきたからである。)
読みながら、私は中井久夫との出会いを思い出した。
人の出会いというのは、ほんとうに不思議だ。
中井の訳詩についてなら、私よりも詳しい人がたくさんいるはずだ。そういう人たちとも中井は出会っているはずである。実際、著作集が出版される前のPRチラシのようなものには、私の知っている詩人が「推薦コメント」を書いていた。それを読みながら、あ、中井久夫はこの人たちと交流があったのか、と思った。
私は「解説」などはめったに読まないので知らないのだが、他の人の「名前」も中井について書かれたいろいろな文章で出ているかもしれない。
私はたまたま自分の名前に出会って驚いたのだけれど、それは単に名前だけではなく、最相が聞いたからなのか、中井が語ったからなのかわからないが、中井がことばにしないかぎりわからないことも書かれていて、それがさらに私を驚かせた。
あ、私はほんとうに中井に会ったのだ、とあらためて思った。私の記憶のなかにあるだけではなく、中井の記憶のなかにも存在したのだ。
実際に会い、ことばを交わしたのは2回だけだが、ほんとうはもっと長い間会っていたのだと再認識したのだった。
本屋で見かけたら、読んでみてください。
『人と仕事』の第三章、著作集3巻の「解説」です。
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Estoy Loco por España(番外篇384)Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

2023-07-25 09:54:09 | estoy loco por espana

Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

 ¿Es una obra de arte viva que cambia continuamente de forma y color, una obra de arte que cambia continuamente como un ser humano? Me convertí en esta obra de arte y pensé en ello.

*
 No me reconozco. En el espejo, hay una sombra extraña. Un hombre vestido. El color azul pálido de su camisa, que ensombrece mi axila. El forro de su chaqueta, de color rojo. Está oculto en la sombra azul de mi axila. A veces no quiero que me veas, pero quiero que te fijes en mí. Aunque no me veas, me notas. Hoy, el dedo tuyo se ha movido de forma diferente a la habitual. Tocó algo oculto en lo más profundo de mi carne. Brotó como sangre y no pude matar mi voz. Ese recuerdo. No pude matar la voz, así que mató lo que yo había sido. Lo que debería haber sido tan duro como el hierro se movió tan flexiblemente como una tela de seda y se desmoronó sin hacer ruido. No me reconozco. ¿Era yo antes de que aquel dedo me tocara, o sea yo después? ¿Podré estar acostunbrado de mi mismo?

 私には私がわからない。鏡のなかに、不思議な陰がある。服を着ている男。そのシャツの、薄く青い色が私の脇腹の影になる。上着の裏地の、赤い色。それが脇の下の青い影に隠れている。見られたくないが、気づいてほしい、と思うときがある。見えなくても、気づくことがある。きょう、その指は、いつもと違った動きをした。私の肉体の奥に隠れているものに触れた。それが、血のように噴き出して、声を殺すことができなかった。その記憶。声を殺すことかできなかったので、それまでの私が殺された。鉄のよう硬かったはずのものが、絹の布のようにしなやかに動き、音もなくくずれた。私には、私がわからない。その指が触れる前が私だったのか、そのあとが私なのか。私は私になじむことができるだろうか。

 

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Estoy Loco por España(番外篇383)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

2023-07-23 12:03:23 | estoy loco por espana

Obra, Juancarlos Jimenez Sastre
ESCULTURA : SIN TÍTULO 
MADERA , HIERRO Y PIEDRA


 Una piedra, hay. ¿De dónde viene y adónde va? Esa era la única palabra. Hay una piedra. Lo había olvidado. Había olvidado que lo había olvidado. Hay una piedra. Si hay algo que no debo decirse, es esa frase. Hay una piedra.

 Como la encrucijada de una ciudad en la que nunca he estado. Como la encrucijada de una ciudad que he visitado una vez. O como una única carretera que nunca cruzará.

 Una obstinación que no conoce el libertinaje. Una simple soledad. Hay una piedra que se nega a ser respetada. Desapercibido, un hierro había llegado. Un árbol había llegado. ¿De dónde vino, dónde nació y adónde va? Hay una piedra.

(La madera me parecía piedra.


 石がある。どこから来たのか、どこへ行くのか。それだけのことばを持って、石がある。それだけしか、ことばはなかった。石が、ひとつある。忘れていた。忘れたことさえ忘れていた。石がある。言ってはならないことがあるとすればと、そのことばだ。石がある。

 行ったことのない街の十字路のように。かつて訪れたことがある街の十字路のように。あるいは、絶対に出会うことのない一本の道のように。

 放蕩を知らない強情。素朴な孤独。敬意を拒否した石がある。気づかない内に、鉄が来ていた。木が来ていた。どこから来たのか、どこから生まれたのか。石がある。

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伊藤悠子『白い着物の子どもたち』

2023-07-22 22:30:42 | 詩集

 

伊藤悠子『白い着物の子どもたち』(書肆子午線、2023年07月15日発行)

 伊藤悠子『白い着物の子どもたち』の詩には、全部ではないけれど、死の静かな影がさしている。それは生きているものにもさしている。どうすればいいのだろうか。
 表題作。

白いレースのカーテンが
写真の上に影をひろげている
影色のガーゼのようにひろがっている
いけない
カーテンを引かねば
写真の子どもたちはガーゼ伸ばし作業をしているのです

 おそらく自分でもつかうガーゼ(の包帯)。洗ったそれを、ていねいにのばしている。その写真のなかの子どもたちは、いま、どうしているのか。死んでしまっているかもしれない。それでも、

いけない

 と思う。そうして、カーテンがつくりだす影をおしやるようにして、カーテンを引く。影がさしてはガーゼが干せない。このとき、伊東のこころのなかで動く真実の力。写真のなかの子どもたちが伊藤を呼んだのかもしれない。
 「影色のガーゼ」と「ガーゼ伸ばし」。繰り返す「ガーゼ」のなかに、「ガーゼ」をつなぐもののなにか、伊藤は引き込まれていく。その引き込まれ方が、とても自然だ。

立って前かがみになりながら
伸ばしたガーゼを重ねている少女
どこかしら似ている
この少女はおそらくリーダー おねえさん格
テキパキとこなすので写真の前方にいる
豊かな髪が額に落ちないようになにかで留めているみたい
この作業がおわったらなにをするの?

 誰に似ているのか。伊藤自身かもしれない。伊藤は、その少女であり得たかもしれない。どんなことも、絶対にあり得ないということはない。誰だって病気をする。誰だって、死ぬ。
 「豊かな髪」と「豊かな」と書き加えずにはいられない何かがある。
 その少女が伊藤であり得たかもしれないと実感するからこそ、伊藤はカーテンを引いたのだ。影を「ガーゼ」の色だと感じたのだ。伊藤が見た「ガーゼ」の色ではなく、少女が(子どもたちが)見た「ガーゼ」の色。

この作業がおわったらなにをするの?

 この静かな声の、なんという悲しさ。子どもならば、することはなんでもある。何もすることがなければ、走ればいい。何もすることがなければ、けんかしたっていい。泣いたっていい。そうして子どもの時間は過ぎていく。それが、ふつう、だ。
 しかし、ここでは違うのだ。子どもたちは、自分がつかうかもしれない(つかったかもしれない)ガーゼを伸ばしている。たたんでいる。泣かずに。また、つかうために。世界が、することが、限られている。だからこそ、聞かずには、いられないのだ。「この作業がおわったらなにをするの?」
 なんと答えられるだろう。
 伊藤は、答えを出さない。
 詩のなかほど過ぎに、こういう三行がある。

ありえない
ありえない
ありえないつらさがあったよ

 伊藤は確認している。何もかもが「ありうる」。伊藤は、その写真のなかの子どもで「ありうる」し、その写真の子どものために、カーテンを引く女性でもありうる。
 子どもたちのつらさは、伊藤のつらさでも「ありうる」。
 ここには、やわらかなカーテンの影のような静かな共感力がある。それは、あらゆる死を、静かによみがえらせる。誰も死にはしないのだ。伊藤のことばのなかで、もう一度、生きるのである。ただ、静かに。静かさこそが、人が求めるのかもしれない。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇382)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-07-21 17:46:27 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Serie " lettres d'amour et de mal", Mixta sobre papel srtesano

 Han pasado varias interpretaciones.
 Por ejemplo, una de ellas.
 El alma se produjo para realizar algo imposible que el cuerpo no puede hacer. ¿Quién la dio a luz? Yo no. No quiero darme a ese alguien que no conozco. Tampoco quiero ser utilizado por otra persona. Quiero ser yo. Así que no uso la palabra alma.

 "Vete allí".

 いくつもの解釈が通りすぎた。
 たとえば、そのひとつ。
 魂は、肉体にはできない何か不可能なことを実現するために産み出された。誰が、産み出したのか。私ではない。私は、その私の知らない誰かに与したくない。また、私は誰かに利用されたくない。私は私でいたい。だから、魂ということばはつかわない。

 「あっちへ行って」

 Se han pasado varias interpretaciones y se ha quedo el silencio. Un silencio que se traga cualquier palabra.
 Mi corazón grita una palabra, pero no quiero decirlo con voz. Es sólo una palabra, pero mi corazón tema que muchas interpretaciones vuelvan para atacarla.

 Oh, los recuerdos de la belleza se están desgastando.
 Oh, si de repente alguien llamara a la puerta.

 Esta silenciosa habitación puedo oír cualquier golpe lejano. No sólo de habitaciones de la memoria, sino también del futuro. Sólo los golpes en la puerta de esta habitación no puedo oír.


 いくつもの解釈が通りすぎ、沈黙が残った。どんなことばも飲みこんでしまう沈黙が。
 こころは、たったひとつのことを叫んでいるのだが、それは声になろうとしない。たったひとつのことなのに、いくつもの解釈が再び押し寄せてくることを恐れて。

 ああ、美しかった記憶がすり減っていく。
 ああ、誰かがふいにドアをノックしてくれればいいのに。

 この沈黙の部屋は、どんな遠くのノックの音も聞こえてくる。過去の部屋だけではなく、未来の部屋からも。ただ、この部屋の扉をノックする音だけが聞こえない。

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Estoy Loco por España(番外篇381)Obra, Joaquín Llorens

2023-07-20 13:14:19 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 De la obrao de Joaquín, siempre siento las manos. Siento el calor de sus manos. El hierro no se ablanda sólo con el calor de la mano, pero hay cosas en su obra que me hacen pensar que el calor de la mano (el poder de la mano) es lo único que podría haber creado la forma.
 Esta forma me hace imaginar a dos personas. Lo que no puede hacer una persona, lo pueden hacer dos. Disfrutan de las posibilidades que se derivan de estar juntos. Esta alegría se desborda.
 Del mismo modo. Hay cosas que el hierro solo no puede hacer; hay cosas que Joaquín solo no puede hacer. Pero cuando el hierro y Joaquín se encuentran y trabajan juntos, hay cosas que pueden hacer. La alegría de trabajar mano a mano (mano de Joaquín a mano de hierro) para realizar lo que se puede hacer es desbordante.

 Joaquín の作品から、私はいつも手を感じる。手の温もりを感じる。鉄は、手の持っている熱だけで柔らかくなるわけではないが、彼の作品には、手の熱(手の力)だけで形をつくったのではないかと思わせるものがある。
 この形は、二人の人間を想像させる。一人ではできないことも、二人ならできる。二人がいっしょになることで生まれてきた可能性を楽しんでいる。その喜びがあふれている。
 同じように。きっと鉄だけではできないことがある。Joaquín だけではできないことがある。しかし、鉄とJoaquín が出会い、いっしょになればできることがある。手を取り合って、そのできることを実現している喜びがあふれている。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(17)

2023-07-20 10:59:54 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 中井久夫の訳語の魅力を、私は口語に感じている。貨幣かメダルかわからないが、何かのデザインについて書かれた「愛希家」も口語が生き生きしているが、この詩のなかに、突然「愛希家」という、聞いただけではわからないことばが出てくる。文字を読んではじめて理解できることばである。

「愛希家」と上品な字体で加えてくれ。

 「あいきか」と読む。ギリシャを愛したひと。ギリシャを、希臘と書いてあるのを見たことがあるが、いま、これを漢字で書けるひとはいないだろう。そういうことばが突然出てきて、世界を凝縮させる。「秘密」が隠される。
 「上品」という注文が、その秘密の匂いを強くする。多くのひとにわからなくて結構、「上品なひと」、つまりギリシャの「上品」を愛するひとにさえわかってもらえればいい、そういう「意図」が隠されている。逆に言えば、ローマの手先の「権力者」にわからなくてもいい、と言っているのである。
 ギリシャの「文化」を理解するひとこそギリシャ人なのだ、という矜持である。

 

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(16)

2023-07-19 15:57:41 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「イタカ」を目指す船。いったい何があるか。

「冒険がうんとあるように」

 「うん」という口語がおもしろい。「たくさん」よりも、もっと砕けている。ひらがなで書くと二音だが、口語ではほとんど一音だろう。この短さがとてもいい。こころが、そのまま声になって出てくる。ことばにする前の、あるいは、ことばが不要の欲望。さらにいえば、ことばとして整えられる前の欲望と夢。
 この反対の、とても長い行がある。
 一行だけの紹介という「ルール」を破って、書いておこう。邪魔者が来るとしたら……。

来るとしたらきみの心に棲んでいる奴。きみが自分の行く手に奴らを置くのさ。

 他人が語っているようにも読むことができるが、どちらも主人公が語っている。一人で対話している。だからこそ、「心」ということばもある。「こころの中の対話」。そのときの、ことばの「長短」がおもしろい。不安と期待と祈り。こころの揺れが、音、リズムとして動いている。

 


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Estoy Loco por España(番外篇380)Obra, Alfredo Bikondoa

2023-07-19 09:41:08 | estoy loco por espana

Obra, Alfredo Bikondoa
LIMITLESS SERIES

 En el momento en que vi esta obra, puedo ver la cara de un hombre, aunque no sé por qué. Sentí su mirada. Es una mirada que me está mirando, ocultando su rostro con las manos. Es una mirada que quiere hacerme saber que intenta ocultarse, mientras se niega a ser visto por mí.
 ¿Cuándo fue la última vez que sentí este tipo de mirada? ¿Fue una mujer o un hombre? ¿Fue un niño o un adulto? O tal vez fue un perro. Podría haber sido un pájaro. No lo recuerdo, pero sí recuerdo una mirada así. No puedo olvidar ese mirada.
 Beige y azul y negro. Es la voz de una mirada mixta: no mires, mira, no olvides, olvida. Tal vez no sea lo que vi, tal vez no sea lo que oí, tal vez sea mi retrato, mi grito. Por eso lo recuerdo. Nadie olvida su propio rostro.Como si me mirara en un espejo, me siento atraído por esta obra.

 この絵は見た瞬間、理由はわからないが、男の顔が見えた。視線を感じたのだ。それも手で顔を隠して、私を見ている視線だ。それは私に見られることを拒否しながら、隠れてみていることを知ってほしいという視線だ。
 こういう視線を最後に感じたのは、いつのことだった。女だったか、男だったか。子供だったか、大人だったか。あるいは、犬だったかもしれない。鳥だったかもしない。覚えていないが、そういう視線があることは覚えている。忘れることができない。
 ベージュと青と黒。それは、見ないで、見て、忘れないで、忘れろという交錯した視線の声だ。それは、もしかすると私が見たものではなく、私が聞いたのでもなく、私の肖像画であり、私の叫びかもしれない。だから覚えているのだ。自分の顔を忘れる人間はいない。鏡を見るように、私は、その絵に引き込まれていく。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(15)

2023-07-18 18:18:42 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(15)

 「神 アントニウスを見捨てたもう」。男の悲劇。それを自覚する男。

計画は全部駄目になった。一生の--な。

 「失敗した」ではなく「駄目になった」が、強い。まるで、庶民のような「口語」である。そして、それに追い打ちをかけるような、「な」の念押し。嘆きが、ぽつりと漏れる。そうか、偉人と呼ばれる男も、我々と同じように嘆き、諦め、自分に言い聞かせるとき、こんなふうに「な」と念押しをするのか。
 そして、この「な」は次々に否定の「な」となって繰り返される。「これは夢だと言うな」の「な」、「もたれかかるな」「祈るな」「口にすな」と動く。しかも、繰り返されるたびに、否定しないことには嘆いてしまう声が漏れるのだ。だから、それを殺すために「な」と否定していることがわかる。
 ひとは誰でも、こんなふうに後悔してみたことがあるだろう。偉人も、ふつうの人も、それは変わらないのだと共感を誘う「な」である。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇379)Obra, Paco Moraza

2023-07-17 17:02:35 | estoy loco por espana

Obra, Paco Moraza

 Me vino a la mente la palabra "perspectiva de soledad", sin ninguna perspectiva. No sé nada sobre cómo se relaciona la palabra "perspectiva de soledad" con otras palabras que conozco. ¿La palabra está lejos de mí o cerca de mí? Tampoco lo sé.
 Mientras miro laa obras de Paco, pienso.
 Un pájaro está volando. Quizá sobre la superficie del agua. Veo la vaga silueta de uns árboles a lo lejos. ¿Está lejos o cerca? ¿Hacia dónde vuela el pájaro? El pájaro sólo se acerca a su propia soledad.


 Cuatro personas en una habitación extraña. No se acercan a nadie. Sólo se acercan a su propia soledad. Y la vaga e interminable distancia que hay en sus mentes, en ese momento, se expande en un espacio a su alrededor, manteniendo alejados a los demás y al mismo tiempo atrapando a cada uno de ellos.
 Esto es "perspectiva de soledad". 

 

 孤独の遠近感、ということばが、遠近感がないままに、私の頭のなかに浮かんだ。孤独の遠近感ということばが、私の知っている他のことばとどうつながっているか、何もわからない。そのことばは私から遠いところにあるか、近いところにあるのか。それもわからない。
 Pacoの絵を見ながら思うのだ。
 鳥が飛んでいる。たぶん水面の上。遠くにぼんやりとした木の輪郭が見える。それは遠いところなのか、近いところなのか。鳥は、飛ぶことで何に近づくのか。鳥は、ただ自分自身の孤独に近づくだけなのだ。
 不思議な室内にいる4人の人間。彼らは、誰にも近づかない。ただ、自分自身の孤独に近づく。そして、そのときのこころのなかの、曖昧で、果てしない距離が、彼らの周りで空間になってひろがり、他者を遠ざけ、同時にひとりひとりを閉じ込める。
 それが孤独の遠近感だ。

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