詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャ・ジャンクー監督「長江哀歌」

2007-10-31 09:58:40 | 映画

監督 ジャ・ジャンクー 出演 シェン・ホン、ハン・サンミン、ワン・トンミン

 これは10年に1作の大傑作である。
 最初から最後まで映像がとてつもなく美しい。その美しさは、ほろびない美しさである。破壊される街を描き、瓦礫を描き、埃を描いているのに、そこから浮かびあがってくるのは不滅の美である。破壊される街の、埃が空気のなかに漂っていて、息苦しいくらいなのに、とてつもなく美しいのである。
 もっとも好きなシーンは、16年ぶりに会った男と女(夫婦)が壊れたビルのなかで飴を食べるシーンだ。壊れたビルの壁の向こうに、遠くに、取り壊し中のビルがある。そのビルがゆっくりゆっくり崩れ落ちる。重たい音。音に気がついて男と女が立ち上がり、身を寄せて、その崩れていくビルを見つめている。遠い遠いビルなのに、そこで巻きあがる埃が、男と女のいるビルにまで漂ってくる感じがする。実際、壊し続ける街の生み出す埃が、二人のいる壊れたビルのいたるところにあふれているのだが……。
 埃は、たぶん死んで行くもの、破壊されるものさえ、死んでしまったあと、破壊されたあとでさえ、それらは生きているという証拠かもしれない。その生き方は、普通の生き方とは違う。生きて、何かを動かすという生き方ではない。ただ、永遠に過ぎ去っていく時間を降り積もらさせる(降り積もる時間を受け止める)という生き方だ。
 ふいに、すべてがいとおしくなるのである。
 瓦礫が、取り壊しを告げる白いペンキの色、そしてその文字さえもが、いとおしくなるのである。そこに、どうすることもできず、ただ存在する時間がいとおしくなるのである。こんなところにも時間があったのだという驚きと、その時間というもの、それがいとおしくなるのである。
 二組の男女(夫婦)の姿が描かれるが、その二人の関係は、破壊される街のように、すでに破綻している。それでも、それが美しい。ハッピーエンドではないのに、美しい。女が、男と別れるために、「好きなひとがいる」と告げる嘘さえもが美しい。嘘をつくことで守ろうとする愛が美しい。劇的ではない。むしろ、くたびれた愛であるが、そのくたびれ具合が美しいのだ。
 あらゆるものが、くたびれることができる。そのことを静かに静かに教えてくれる。
 くたびれるというのは、何かをしようとするねばり強い意思、生きる強い意思があってこそのことなのだ、ということが、ずん、ずん、ずんと、それこそ破壊された街にただようほこりのように降り積もってくる。
 この映画のもうひとつの主役、長江。その水の色もまた、どこかくたびれている。ダムとなってせき止められて入いるからかもしれない。水もまた、くたびれている。くたびれた水の重さが、積み重ねられて苦しむ水の溜息が、重たい水蒸気となって吐き出され、あらゆるものがくたびれて行く。しかし、それが美しい。
 くたびれることができる、ということが一種の美しさなのである。くたびれることのなかに、永遠の生活がある。暮らしがある。生きて、金を稼いで、食べて、愛して、憎んで、泣いて、笑って、という時間の積み重ね。その日々は、永遠なのである。嘘も、頑固さもくたびれながら永遠につづいて行く。
 本当に美しい。この映画を見なかったら、10年間映画を見なかったのに等しい。大傑作としかいいようなのない傑作である。



 私はこの映画を福岡のシネテリエ天神で見た。この映画館は、この映画を見るのに適していない。スクリーンが汚れている。音も悪い。東京では銀座シャンテで上映されたようだが、これは東京まで行って見るべき映画だった。(11月 2日までなので、東京のひとは、ぜひ駆けつけてください。)シネテリエ天神のスクリーンは悲惨な状態だが、そういう悲惨なスクリーンでも、それを超えて、あふれてくる美しさがある。
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岬多可子「静かに、毀れている庭」

2007-10-30 09:59:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 岬多可子「静かに、毀れている庭」(「左庭」9、2007年09月25日発行)
 「静かに、毀れている庭」の「 敷石のあたり」がとてもおもしろい。

棲みついている小さな蜥蜴
金色を帯びた輝き

濡れた表面を思わせて
ですが 意外にも
乾いている皮膚の光です

わたしの名が刻まれている革
の 細身の筆入れにおさめると
鳴かないのをよいことに
じりじりとファスナーを閉める

すると 彼は諦念の筆
青黒い血を吐きますでしょう
青黒い血で書きますでしょう

わたしは代わってそこに棲み
まるごと 脱ぐのだ
何度も 皮を

そして
敷石と敷石のあいだを埋めている苔に
眠る

 蜥蜴から革の筆入れ、そして革の筆入れから蜥蜴になってしまう。その「変身」の過程と脱皮の関係がおもしろい。「じりじりとファスナーを閉める」という日常が気持ち悪く、その気持ち悪さにリアリティーがある。「じりじり」というのは単にファスナーの閉まる音(閉める音)というよりも、その感触をこころの奥底で、いやだいやだと思いながら、いやだいやだと思えることを楽しんでいる風がある。触覚と聴覚がいりまじりながら、その入り交じる感覚のなかで岬が「変身」する。
 この感覚の入り交じりは、突然、「筆入れ」で起きるのではなく、最初からはじまっている。「金色」という視覚が「濡れた」という触覚と視覚の入り交じった世界へかわり、「濡れた」が「乾いた」に変わる。「乾いた」から「焼いた」という「火」の連絡があり、「じりじり」という音には太陽の「じりじり」と空気を乾かせていく感覚も混じる。
 感覚の入り交じり、感覚の交代があるから、「彼」(とかげ)と「わたし」(岬)の入れ代わりも起きるのである。

青黒い血を吐きますでしょう
青黒い血で書きますでしょう

 ここでは、蜥蜴と岬が一体である。蜥蜴が青黒い血を吐くから岬がことばを書くのか、岬がことばを書こうとするから蜥蜴が青黒い血を吐くのか。蜥蜴が青くらい血を吐くから岬が奇怪なことを書くのか、岬が不気味なことを考え、書こうとするから蜥蜴がその世界にふさわしい青黒い血を吐くのか。
 どちらでもいいのだ。
 そんなふうにして、入れ代わる。入れ代わることで、岬は脱皮し、脱皮の果てに眠る。--この、真夏の感覚が、とてもいい。



 同じ号に、江里昭彦の「丸山真男『忠誠と反逆』を読む」という俳句が掲載されている。江里は、私の知らないあいだに伝統俳句(?)のような深さと落ち着きを身につけていた。

命綱もたぬけものが峰走る

狛犬の肛門さがす官弊社

みちのくや鮭に仏と鬼とあり

 凝縮しながら、ぱっと広がる。求心と遠心、遠心と求心の関係がとてもいい。漢字とひらがなのバランスも美しい。俳句はいいなあ、と思わず感嘆してしまう。文字のバランスが美しいなあ、と感嘆してしまう。こういう文字バランスの美しい世界は「現代詩」にあるだろうか。ちょっと思い出せない。

海にきて喪服吊るすべき崖さがす

 でも、これはいただけない。「べき」がうるさい。ふくよかさがない。と、俳句の門外漢である私には思える。


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三井喬子『紅の小箱』

2007-10-29 11:40:33 | 詩集
 三井喬子『紅の小箱』(思潮社、2007年10月31日発行)
 三井の詩は「物語」を必要としている。「物語」が思いつかないとき、そのことがより明確に浮かび上がる。たとえば「その向こう と」

その向こう 

と 女が指差したそこに
一本の木が生え。

傘を傾けた男が小走りに行き
紅殻格子に灯が点り
野良猫が軒端に跨がり。

一本の木の下に物語が生まれるころ
男はもう列車の窓際の席で夕刊を広げている。
お腹はいっぱいだから 煙草を吸うかも知れない。
今発ってきた駅の 街の 風景などは忘れてしまった。

 4連目の第1行。「物語」ということばが出てくるが、これはその前の3連では「物語」まだ生まれていないという意識が三井にあるからだ。そしてこの「物語」は三井の「物語」ではない。三井は詩のなかで自分の「物語」を語るわけではない。私小説・私詩、「自分史」という「物語」とは違うものを語る。「物語」とは三井にとっては、三井と読者が同じ時間を生きるための枠組みである。三井と、たとえば私は同じ2007年を生きているけれど、そういう時間は「枠組み」とはならないのだ。三井の場合は。架空の時間、架空の場所に、架空の人物が動く--そのときの時間の枠組みを三井は「物語」と読んでいるように思える。その枠組みが完全にできあがらないときは、「物語」ということばで、「これは物語ですよ」と読者にむけて、特別な時間の共有を迫る。ここでも同じである。「物語」という時間がある、ということを知らせて、ことばを動かしている。
 そして「物語」は架空であるけれど、そこに動いている感覚・精神は架空ではない、というのが三井の詩の特徴であると思う。だれでももちろん「物語」の細部は自分自身の感覚で埋めるしかないのだが、三井はとりわけ、そういうことにこころを砕いている。架空の「物語」という時間、そのなかで三井自身の感覚を繰り広げる。そのとき、三井の感覚、その変化そのものが「物語」にとってかわる。最初は「物語」といういわばストーリー(女と男がいて、女が木を指差し、男が列車に乗ってどこかへ行く)を必要とするが、それができてしまうと、「物語」は結論(エンディング)をめざして進むわけではない。「物語」ができると、ことばはそこで立ち止まり、ひたすら「物語」から逸脱することをめざす。そこにとどまり、感覚そのものになろうとする。 
 5連目はつぎのようにつづく。

でしょう そうでしょう
と言い募っても 戦争のニュースには適わないから
創世記から 地球の裏側の現在までを語り続けて
一本の木が枯れる。
その向こうに彷徨う湖の記憶が
かすかに苔の匂いを発し
猫も眠れない。

 「でしょう そうでしょう」。この、「その」を省略した口語の感覚。「かすか」な「苔の匂い」の嗅覚。ここに書かれているものは「物語」とは関係がない。関係がないぶぶんにこそ三井の生きてきた「時間」(自分史)というものが噴出する。
 自分の感覚、生きてうごめく感覚と、その奥にある三井自身の感覚の歴史(積み重ね)は「物語」がないと出てこない。「物語」を引き止め、それが結論へ突き進まないようにするために、つまり詩であることを願って、そこで自己主張する。それが三井の詩である。

 「物語」と三井自身の感覚のことを三井がどう考えているかよくわからないが、もっと自覚的に書くと、ことばは劇的に変化するかもしれないと感じた。
 たとえば巻頭の「牡丹」の「物語」の導入の2連は、まるで泉鏡花みたいで、あ、これが金沢の風土かな、などと思いながら読んでいると、本当に泉鏡花になってしまって……。

瓜をたべたい 蜜のしたたる白い瓜。
背中もたべたい
耳もたべたい
喉の奥の
魂なんぞもたべてみたい。


ふ ふ  ふ

という展開など、とてもおもしろい。「物語」のなかで時間は過去-現在-未来へと動くことをやめて、現在がそのままずぶずぶ深くなり、深くなったときに、過去と未来が溶け合って現在がだらりと崩れる。三井の積み重ねてきた「自分史」の時間が崩壊し、肉体が剥き出しになる。そこが非常におもしろいのに、

くちびるを
湿らせて
無明の指が紅をさす
ほうっ
 と 頬に刀傷。

と終わってしまうと、せっかくいきいきと動いた三井の感覚が、また「物語」に閉じ込められてしまう。「物語」はあくまで感覚を解放するための手段という意識があいまいで、「物語」が消えてしまうと「作品」にならないと心配なのかもしれない。「結末」を捨ててしまえばいいのだと思う。

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森山恵『エフェメール』

2007-10-28 14:52:36 | 詩集
 森山恵『エフェメール』(ふらんす堂、2007年10月15日発行)
 「雨」という作品にひかれた。

ものに触れたことがあるだろうか
たとえば雨に

本当に雨に触れたことがあるだろうか
徹底的に
雨が含んでいるすべてのものにすべての感覚で
本当に触れたことがあるだろうか

雨の中の一本の木のように立ち尽くして

本当に深く味わい尽くしたか
どこまでも見つめ 耳を澄ませたか
あらゆる匂いを吸い尽くしたか
あらゆる感覚を肌に刻んだか

雨は私が思っている雨だったろうか
昨日の雨と今日の雨は同じだろうか
同じに変わりなく空から落ちてくる水滴だろうか
触れもしないで思っているのではないだろうか

 一瞬、大岡信の「さわる」を思いだした。特に「どこまでも見つめ 耳を澄ませたか/あらゆる匂いを吸い尽くしたか」と視覚、聴覚、嗅覚を動員する部分は、あらゆる感覚がどこかでつながっているという大岡の触覚論と似ている。
 しかし、大岡の詩とはまったく違った部分がある。
 「本当に」「すべて」「どこまでも」「あらゆる」「尽くす」ということばが繰り返される。「徹底的に」ということばが2連2行目に孤立して置かれているが、「徹底的に」という思いが非常に強く、それが「本当に」などのことばを繰り返させるのだろう。そこには何か苛立ちのようなものがある。
 そこに私はひかれた。
 ことばにこめられた苛立ちに。

 なぜ苛立つのか。その理由は、引用した部分の最終行にある。「触れもしないで思っているのではないだろうか」。「思う」ことが先行しているのである。何かに対して「思う」。そしてその「思い」を書こうとしている。
 どの作品を読んでもそう感じるのだが、森山は、「思っている」ことを書いている。そんな感じがする。
 文学は「思っている」ことを書くもの、「思っている」ことを書いて何が悪いのだ、なぜ批判されなければならないのか、と反論されそうだが、私は「思っている」ことを書くのが文学だとは信じていない。私は「これこれと思っている」と客観視して言えることをことばにするのが文学だとは信じていない。
 むしろ「思っていない」ことを書くのが文学である。
 「思っていない」にもかかわらず、ことばが「思い」を作り上げていく。ことばが「思う」ことをつくりあげてしってしまい、人間があとからついて行くしかないことを書くのが文学である、と信じている。
 大岡の詩「さわる」を読むと感じるのだが、大岡は、本当はそんなことなど書きたくなかった--というと言い過ぎだが、ことばがそんなふうに動いていくという予測もないままに書き出している。ことばに書かされている。知らない間に、思いもかけず、ことばが動いていって作品になってしまっている。
 そういうスピード感がある。
 このスピード感は「思っていない」からこそ実現できるものである。ことばの「至福」は「思っていない」からこそ、かってに実現してしまうのだ。かってに大岡にやってきて、かってに大岡をつつみこんでしまう。そして、読者は、そのわけのわからない「至福」に巻き込まれる。大岡と一緒に、ことばの運動に巻き込まれ、酩酊する。その結果、「思っている」こととはぜんぜん違うことを「思わされる」。「思っていない」ことに出会って、驚く。
 森山の作品には、そういう「思っている」こととはぜんぜん違ったこと、「思ってもいないこと」が書かれていない。
 苛立ちは「思っている」ことしか書けない、という苛立ちである。「思っている」ことを超えて、「思っていない」ことにたどりつけない苛立ちである。

 森山は、どうしても「思っている」ことばかり書いてしまうのである。
 たとえば「蝶の翅」。

束ねられた光の中へ
蝶が流れていく 真珠色の翅を広げて
ゆらゆらと
真昼の夢のように

 この書き出しに、読者が「思っていない」ことが書かれているだろうか。明るい光の中を飛んで行く蝶。それは真珠のように美しい。急ぐことはなく、傷つくこともなく、ゆらゆら。時間を楽しんでいる。まるで真昼の夢だ。
 2連目以降、それが実際に「夢」であり、本当は「死」を背負っていることが描かれるが、その「死」さえ、美しさの対極にあるものとして、読者はすでに「思っている」。「思ってい」ながら、森山の「思っている」ことに従っている。「思いもかけないこと」ではなく、「思っている」ことを確認しながらことばを読んでいる。
 
 こんなふうに、いわば森山の詩を批判しながら、それでも「雨」にひかれたと私が書くのは、実は、問題の行の「思っている」ということばゆえである。
 「思っている」という自覚が森山にはある。そこからはじまる詩があるはずである。「思っている」ということを深く見つめて行く。
 たとえば「壁画」の次の2行。

蝋燭が
瞼の奥にある洞窟を照らしたのなら壁画は存在する

 これは「思っている」ことをつきつめて「思う」ことによってたどりつく世界である。「思っている」ことを「思い」、それを論理構造として定着させる--そういう運動が森山のことばには適しているのではないだろうか。そういうことをする詩人ではないのだろうか、と思った。



 この詩集には岩成達也の解説(?)しおりがついている。岩成が森山を高く評価しているのは、そこに岩成との共通点があるからだろう。「思っている」ことを「思い」、その「思っている」ことを「思う」という関係をことばで追って行く、「思っている」ことを「思う」とはどういうことかを追い詰めるときの感覚を、岩成は森山に感じているのだと思う。


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豊原清明「雲の間に間の恥かしさ」

2007-10-27 12:23:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「雲の間に間の恥かしさ」(「SPACE」76、2007年11月01日発行)
 豊原は豊原自身のなかにあるものと世間がうまく折り合いがつかないことを自覚している。そのことを私はいつも不思議に感じる。折り合いがつかないことを知っていて、そこから豊原自身の方へ身を寄せる、というと変だけれど、折り合いのつかないものをそのままの形でことばにしようとしている。豊原自身をいっさい修正(?)せずに、むしろ、修正しようとする世間、あるいは日本語自体の修正しようとする保守的な力を洗い流すようにして、「ぐい」と提出しようとする。既存のことばにあらがい、一種の反作用のようにして、力を獲得して噴出してくる。

僕は馬役だったので
まゆこさんの腰が
目前でゆらゆら。
もうドキドキ、息が詰まった。ドキドキが、
五・七・五・七・七、字足らずやったわ。

 「字足らず」ということばのなかに、世間と豊原との感情の違い、その自覚が噴出している。形式にあわせることのできないものがあることを、豊原は自覚し、逆に読者に、では「五・七・五・七・七」にできるか、と問いかけているようでもある。
 そんなことは、もちろんできない。あらゆる感情を定型で語ることなどできない。それでいて、日常は定型を求め、私たちは無意識に定型にあわせながら生きていることが多いのだ。
 その定型を、豊原のことばは突き破ろうとしている。

まゆこさんは僕の事が嫌いだったと思う。
話しかけたら「うーん、ちっと、ちっとね」
「うん、うん」「アハ。」何かが覚めていた。
幼稚園の頃から切り株のような生を過ごしていた。
だが。牛乳の空き瓶に草を入れ、舐めていると「キッチャナーイ」と
まゆこさんは言った。
(期待ないものが嫌われる)汚いもので汚いことを
心底好み、「アカン、これはアカンのだ。」
と、裁くことを恐れている。

 「アカン、これはアカンのだ。」と裁きながら、その「アカン」ものが豊原自身にあるということを受け入れ、それを提出する。まゆこさんの、たとえば「キッチャナーイ」ということばと一緒に。定型化されたことばと一緒に。どんなに定型化されたことばで語られても、豊原には、その定型にはおさまらないものがある。それが豊原だと、豊原のことばは語る。
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安藤郁子・柏木麻里展「斥力、遠さにふれる」

2007-10-26 11:59:03 | その他(音楽、小説etc)
 安藤郁子・柏木麻里展「斥力、遠さにふれる」(「斥力、遠さにふれる」編集室、2007年06月27日発行)
 青森市の国際芸術センター青森で2006年03月04日から21日まで開かれた展覧会の記録である。安藤の陶のオブジェと柏木の詩のコラボレーション。私は実際に会場へ行ったわけではないので、その作品の大きさ、詩の文字の大きさなどはよくわからない。光の陰影の感じも、たぶん時間によって違うだろうから、この記録集に関する私の感想は、ほとんど空想である。
 コラボレーションというものを私は試みたことがないのでよくわからないが、異質なものの出会い--その瞬間の「間」が大切なのだと思う。私は人間関係があまり得意ではない。人間関係というのは、ようするに「間」のことである。「間」とは二人の人間の間の「空気」のことである。「空気」が読めない、も「間」の感覚が悪いも、似たような感じのことをあらわすだろう。
 写真では実際の距離(間)が正確にはつかみきれないが、オブジェとことばが接近することはない。また、離れているが、離れていくという感じでもない。接近と離反の、拮抗する力を感じさせる場で、自己主張するというより、互いに他者を受け入れている。そして受け入れることによって、弱さではなく、強さを発揮している。詩は詩の、オブジェはオブジェの強さを発揮している。オブジェを、ことばを、受け入れながら、屹立して他者への向き合い方を確認できるという強さを発揮している。相手の主張のままに受け入れるのではなく、主張を消化し、そうすることで今までことば、オブジェがもたなかったものを獲得しつつ屹立している感じである。
 安藤の作品は床に置かれる一方だが、柏木のことばはあるときは床に置かれ、あるときは壁に掲げられる。そうすることで、ことばは普通はもち得ない「立体感」も獲得していて、これはちょっと不思議な印象である。
 写真で見るかぎり、安藤の垂直の葉っぱ(?)のようなオブジェに対して、壁のことばは

虹のために
空が         ものをおぼえはじめる

と語り、床のことばが

みたことのない 花びら


来たがっている
のに

やわらかな手のひらは
多くを思いすぎて
ひらくことができない

 空と手のひらが「間」をどこで構成するかで主張のあり方を変えている。変えてはいるが、そこには柏木のことばの呼吸はしっかり生きていて、あ、柏木のことばだ、とわかる。「間」はもとより立体的なものだが、こんなふうしに壁や床を利用してことばが展示されると、ことばが作り出しているものが「間」であること、「空気」であることがより鋭敏に伝わってくる。
 実際に会場を歩けば、その立体感覚に時間も加わるだろう。

 詩集で読んだ柏木のことばよりも、写真集で見たことば、オブジェと拮抗して存在することばを見たときの方が、ことばそのものに立体感、「空気」というものがしっかりそなわっているという感じがする。
 柏木は柏木のことばを輝かせ、深い呼吸をさせる方法を知っている。そして、確実にそれを実践している。パフォーマンスしている。

 
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辻和人「本当にあったこと」

2007-10-25 11:36:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「本当にあったこと」(「モーアシビ」11、2007年10月20日発行)
 スーパーでから揚げを買おうとしていて、おばさんに突然手をつかまれる。もうすぐ半額になるからしばらく待ちなさい、というのだ。

ぼーっとしていたぼくの姿は
おばさんの視覚システムを刺激した
標的として認識されると
おばさんの中で「親切心」がムクムクと起動し
鋭い切っ先を持つグニャグニャに成長する
にわかに「手」の形を取ると
一気に攻撃をしかけてきた、ということ

 おもしろいなあ。どんなことでもことばにしてしまえば、そしてそのことばがいままでに書かれたことばでなかったなら、それは「詩」なのである。ことばが初めて動いた領域--そこに「詩」がある。「心」が「手」に変わるまでの想像力(事実をゆがめて表現してしまう力、という定義がぴったりだね)がおもしろい。
 この詩はさらにつづく。

暗闇の中で徐々に準備されたその成長の過程に
ぼくは気づくことができなかった
もしも、もしもだよ
ぼくが来世、熱帯の昆虫に生まれ変わったとしたら
カメレオンに狙われて
その舌に巻き込まれる瞬間
あっ、この感触覚えがある、と
みるみる狭くなっていく知覚の野のどこかで
ぼーっと考えたことだろう

 ギアが切り替わって、一段スピードアップした感じだ。おもしろいなあ。「おばさんの手」をカメレオンの舌と直接的に言わず、ギアを切り換えてしまうところがいいなあ。
 最後の連、5行は、しかしいらないね。せっかくカメレオンでおもしろくなったのに、「恐い」(こわい、と読むのかな? おそろしい、と読むのかな?)と念押しされると、こわくなくなる。辻の想像力の「怖さ」が消えてしまう。



 泥3C(デイドロ・ドロシー)が同じ「モーアシビ」に「書いてみる とにかく何か」を書いている。

 とにかく書いてみる書いてみたい書かずにはいられない書いていないと不安がつのるどうしようもなく落ち着かなくなるから書いている。

 という感じで、あてもなく、ただ書きつらねている。この、一体何がはじまるかわからないまま書くことの繰り返しの果てに、辻の「カメレオン」の発想があるのだと思う。
 書くことで何かを捨て、何かをつかむ。それまでは、書くしかない。詩は、特別な場所にあるのではなく、いま、ここにあるのだが、それをあらわすことばが死んでいるだけなのだ。
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細見和之「メガネのミルズで調光機能付き度入りサングラスを買う」

2007-10-24 11:57:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 細見和之「メガネのミルズで調光機能付き度入りサングラスを買う」(「紙子」14、2007年10月10日発行)
 ことばを復唱する。そのとき、どんなことが起きるのだろうか。ことばを発した人のことがよくわかるようになるのだろうか。それとも逆にことばを復唱することで、自分自身のなかにあるものがひっぱりだされるのだろうか。
 細見の場合は、どうだろうか。

いきつけのメガネ屋の天守は一種独特の話し方をする。
「残酷なことを言うようですが」とか
「屁理屈に聞こえるかもしれませんが」とか
「誤解をまねく言い方をあえてしますと」などと
話のまえにそのつど枕言葉のように差し挟みながら
淀みなく語りつづけるのである。

 この店主のことばを引用し、細見は繰り返す。そして、そのことばがなぜ発せられたのか考えはじめる。そのときの、こころの動き。--それは「残酷なことを言うようですが」、そして「屁理屈に聞こえるかもしれませんが」、「誤解をまねく言い方をあえてしますと」、実は「店主の世界」とは無関係である。
 それがちょっとおもしろい。

そのうえきっと彼は
見たところ私よりもずっと若いにもかかわらず
言葉を介したコミュニケーションで
すでに何度か手痛い誤解に苦しめられたことがあるに違いない。

 この「あるに違いない」がいいなあ。「違いない」という念押しがいいなあ。念押しは細見自身が納得するためのものである。
 「違いない」がもし書かれていなかったら、これは「散文」というか、小説の文章である。「違いない」という念押しによって、そこからはじまる世界は、もう、店主の世界ではなくなる。
 いくら店主を描写してみても、それは対象が先にあってそれを描写するというよりも、まで思いがあって、それに合わせて対象の描写を選択することになってしまう。(散文、たとえば小説との違いがそこに出てくる。)「違いない」と念押ししてしまったために、それ以降は「色メガネ」でのぞいた世界になる。
 引用につづく行に、そのことが鮮明に出ている。

だから
ガラス張りの店舗の奥まった一角で
まるで無数の地雷の埋まった紛争地帯を歩くように
絶えず枕言葉の探知機を揺らしながら
彼は相手に言葉を差し出しつづけているのだ。

 「だから」と書いているが、「だから」の順序が普通の散文とは逆である。これこれの事実がある。「だから」これこれに違いない、というのが一般的な推測の仕方である。細見は逆に、これこれに「違いない」。「だから」これこれのことが観察される。これは「実証」ではなく、推測にあわせて「現実」を選択しているにすぎない。「違いない」という推測をもとに、「だから」ということばにつなげることができるものだけを選択しているにすぎない。
 細見は「違いない」と言ったときから、もうすでに現実を選びとっている。その現実は店主の現実というより、細見のこころの現実である。店主をこんなふうにとらえたい、というこころの現実である。
 「言語の暴力」とか「ディスクールのもつ浸透性」とかいうことばが出てくるから言うのではないが、細見はそういうものへのあこがれがあるのだろう。だから、やすやすと、その「浸透性」に身を任せてしまう。

これは屁理屈に聞こえるかもしれない。
あえて誤解をまねく言い方になるかもしれない。
けれど
彼こそはこの町にくらしているひとりの詩人ではないか、と私は思う。

 店主のことばに含まれる「詩人性」を細見は発見する(?)ふりをしながら、細見自身が「ひとりの詩人ではないか」と誰かに思われる瞬間を待っている。
 店主のことばを詩人と結びつけることで、細見は細見の書いたものを「詩」と密接に関連づけようとしている。もっと簡単に言えば、細見は、店主のことばをつかって「詩」というものを書きたかった、「詩」書くことによって「詩人」になりたかった、という細見の思いが、この瞬間にあふれだしている。
 これは悪いことではない。きっと、いいことだ。
 ことばに出会う。そのことばを対象から切り離し、自分自身のものにしてしまう。そして、もういちどことばを動かしはじめる。そのときに「詩」は誕生する。「詩」とは普通とは違ったことば、それまで持っていた意味のことばでなくなる瞬間のことである。普通の意味を失い、詩人独自の意味をになわされるとき、そのことばは「詩」になる。


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ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」

2007-10-23 11:21:02 | 映画
監督 ギレルモ・デル・トロ 出演 イバナ・バケロ、セルジ・ロペス、マリベル・ベルドゥ

 石にはいろいろな色がある。土にもいろいろな色がある。大地にはいろいろな色があり、森には(山には)いろいろな色がある。ギレルモ・デル・トロは湿ったというより濡れた黒をしっかりと貴重にして、暗さの持つやわらかさ、あたたかな哀しみを大事に秘めた映像を作り出している。「黒」とは、なにごとかを隠す色である。隠し方にはいろいろある。その隠し方によって、黒もいくつもの表情をみせる--その色の、繊細な美しさがこの映画の魅力だ。
 テオ・アンゲロプロスはギリシャの軍政を描くのに、雨、灰色で大地の哀しみ、大地に生きる人々(大衆)の哀しみ、その哀しみの美しさ(美しさ、と言ってはいけないのだろうけれど)を描いたが、ギレルモ・デル・トロはテオ・アンゲロプロスの灰色をさらに深くしたほとんど黒といっていい色で大地と、大地に生きる人の哀しみを象徴的に浮き彫りにした。隠すしかない存在があること、隠しながら守る何かがあることの強さと美しさを描いた。
 テオ・アンゲロプロスが灰色の湿気を含んだ空気と黄色(雨合羽)の対比の美しさで画面を引き締めたか、ギレルモ・デル・トロは濡れた黒に対して濡れた緑(少女が夜会で着る予定の緑の服)で哀しみの深さを美しく描いた。その緑は、森の奥深くへとつづく緑、森の奥にさえまだ存在しない深い深い緑であった。
 少女には、軍政のことはわからない。社会で何が起きているかはわからない。ただ、自分の母親が軍人と再婚した。そのことに対して不満を持っている。新しい父は父ではない、という強い感覚を持っている。その軍人の父は父ではないという思いが、反政府ゲリラの軍政は正しい国の指導者(父)ではないという思いと、微妙にシンクロする。そしてまた、この土地は自分の生きる土地ではないという思いともシンクロし、少女に、天上ではなく「地下」へと空想を導く。ゲリラが山の奥に隠れ、抵抗するように、少女は「地下」に隠れ、軍人の父に対して無意識に抵抗する。その無意識は、当然のことながら、現実にある軍政の息苦しさを反映し、暗さを併せ持っている。
 ファンタジーはただ軽やかでハッピーエンドで終わるものだけではない。現実が暗いなら、その暗さを反映し(というより、少女のように弱い人間には、そうしたことがらをわけのわからないまま反映させるしかないのだが)、暗く、グロテスクになる。グロテスクさを幼い少女は「試練」と受け止め、乗り越えようとする。そういう哀しい精神の動きも、この映画はしっかり見据えている。少女が自分自身を守るために「純粋さ」を武器にするしかないと悟り、それを実践するシーンは、激しく胸を打つ。
 そのとき流す血が、赤ではなく、やはり黒であることろに、この監督の黒を美しく描きたいという思いを強く感じた。血の、黒い色が守り通したものの美しさ、隠して生きるしかない哀しさへの共感を強く感じた。

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新川和江「Lethe--忘れ川」

2007-10-22 11:46:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 新川和江「Lethe--忘れ川」(「現代詩手帖」2007年10月号)
 生きるということはどういうことか--と書いてしまうと、何だか「哲学」のようになってしまうが、しかし詩は(あるいは文学を初めあらゆる芸術は)結局は哲学なのだと思う。「Lethe--忘れ川」で新川は「思い出す」ということについて書いている。思い出というよりも「思い出す」ということについて書いている。

あの黒牛を探さねばならない
聖者のように痩せて
ふるさとの川岸に佇んでいた黒牛
仰向けに流されてゆく幼いわたしを
じっと見ていた あの黒牛

 「思い出す」とき、人は何かを手がかりにする。その存在がないと「思い出せない」。新川の場合は「黒牛」である。「黒牛」は現在と過去とを一点に凝縮する。いわば「永遠」なのである。そこには「時間」があって、同時に「時間」がない。だからこそ、次のような行が可能なのである。

胃の中の草を反芻するでもなく
百年も前からそうしていたように
立っていた黒牛は
百年ののちもどこかの川岸に
佇んでいるはずであった

 新川が「黒牛」を探す場所は、実は「ふるさとの川」、そして「あのとき川岸」ではない。違った場所、現在、たとえば東京で「黒牛」を探すのだ。川を流れる新川をじーっと見つめていたように、今、ここにいきている新川をじーっと見つめているはずなのである。新川は、東京の、川のない場所で暮らしているかもしれないが、川がなくても、川を流れて生きる時間というものがあり、そうした時間があるからこそ、その時間と重なり合う形で存在した過去が蘇るのである。そして、そうした時間があるかぎり「黒牛」は存在するのである。それを探している。「百年」ということばが象徴的だが、その時間は新川の存在を超越する時間である。
 今では百歳まで生きる人も多いから「千年」くらいのことばをつかわないと実情を反映しないかもしれないが、ここに書かれている「百年」は具体的な百年ではなく、長い長い時間、人間を超越した時間の「比喩」である。
 そしてこのことは、逆に言えば、もし新川が「黒牛」を探し出すことができたら、新川は「永遠(人間の時間を超越した時間)」に触れることができる。
 新川の詩は「 1行あき」(連の転換)のあと、少しことばの調子も変わって、とても美しいことばを誕生させる。

網膜にインプットされたその映像を
ていねいにお願いして返して貰い
現在(いま)のわたしに重ね
旅支度をそろそろ調えようと思うのだ

 「ていねいにお願いして返して貰い」。この行が美しい。絶品である。
 「思い出」の「黒牛」は新川の「思い出」であっても、新川のものではないのだ。新川を超越する存在が新川にみせてくれた「永遠」なのである。それは「ていねいにお願いして返して貰」うことしかできない。
 「探す」というのは「ていねいにお願いして返して貰」うことなのである。自分自身ではどうすることもできないものなのである。それはあきらめというより、むしろ信頼である。「ていねいにお願い」すれば、それは返して貰えるものなのだ。
 「ていねいにお願い」することが、新川の哲学なのである。生きるということは、「ていねいにお願い」することなのだ。
 でも、どんなふうに?
 新川は、具体的な「ていねいなお願い」の仕方を書いている。実践している。

畑を耕す農夫が 手を休め腰を伸ばし
--今日もはあ ええ天気じゃったのう
空を見上げてとなりの畑の農夫に言う
わたしは微笑って金魚模様のたもとを振る
--なんか今 赤いもんが
  チラッと光ったんじゃないかい?
--夕焼けじゃろ
などと言い合い どちらもすぐに忘れてしまう
もうひと働き と鍬を持ち直す

 新川の周囲にいる人々の暮らしを「ていねい」に見つめる。耳を澄まして、そのことばを「ていねい」に聞く。「ていねい」を繰り返すことで、人々の時間と自分の時間をゆっくりと一つのものにする。そのとき「永遠」に触れるのだ。そのとき「百年」かわらない時間がそこに姿をあらわすのだ。そうすれば「黒牛」は、そのかたわらにあらわれるのである。
 「畑を耕す」の連を読むと、そこに「黒牛」の姿は書いてないけれど、「黒牛」がじーっと農夫を見つめている姿が見えるでしょ? 「黒牛」をその瞬間新川は探し当てている。探し当てているから、わざわざ「見つかった」と書く必要もなくなった。ああ、あそこにいる、そう自分自身に言い聞かせて、川を流れてゆくだけである。

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竹田朔歩『サムフランシスの恁麼』

2007-10-21 14:32:38 | 詩集
サム・フランシスの恁麼
竹田 朔歩
書肆山田、2007年09月30日発行

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 「門のない門」という作品が印象的だ。

夢の中
わたしは
遠い記憶の 雲の切れ間に
腰を掛けていて

いつの間にか
仁王門のところまで来ていた
劉 という少年と
息きって 走ってきた

その門を 潜ろう としたのか
その門には
門があり    と思いこみ
はたして その門には    門がなかった

 1連目と2連目をわける1行あき。この「あき」の大きさは、1連目、2連目がそれぞれさっとすばやく読める文体で書かれているので見逃してしまいそうだが、とんでもなく広くて深い「あき」である。「腰掛けていて」「いつの間にか」「走ってきた」。こういう動きは、書き出しの「夢の中」が的確にあらわしているが、夢の中ではありえても現実にはありえない。「いつの間にか」と簡単に言ってしまっている「間」は、夢の中では「いつの間にか」だが現実には「いつの間にか」ではありえない。その「間」のなかに起きたことは、とてつもなく大きい。しかし、実は、その大きさを的確にあらわすことばというのはなかなか見つからない。説明がしにくい。それはたぶん、現実すぎる問題なのだ。書くということは、たとえ現実を書くにしろ、現実のなかの一部分であり、現実のずるずるとつながった世界はどこかで切って捨ててしまわない書き表しようがない。書かずに捨ててしまった部分は、詩人のなかで、形を変えながらたまりつづけていくだけである。そして、それがある瞬間、「あき」そのものとして、詩人に復讐してくることがある。
 3連目の「あき」には、そういうものが噴出している。「仁王門」を潜ろうとして走ってきたが、そこには門がなかった。門があると思い込んでいたが、そこには門がなかった。散文形式で書いてしまえば、そのときの「こころのあき」(つまりは、「ことばのあき」)が消えてしまうが、詩ではそれをそのまま「あき」として書くことができるので、竹田は「あき」をいくつも書き込んでいるのだが、その「あき」には、ことばにしてこなかった現実がびっしりとつまっていて、竹田に復讐しているのである。
 「ことばにしろ」と。
 だが、ことばにはけっしてならないものが、「あき」なのである。復讐してくるものに対しては、「あき」で立ち向かうしかない。禅問答のようではあるが、現実の「呼吸」というものは、そういうものではある。この「呼吸」は、現実に人と対面しているときはそれなりに説得力を持つ。しかし、活字ではなかなかむずかしい。むずかしいけれど、それしかない、という感じで竹田は書いている。
 その七転八倒というとおおげさかもしれないが、苦しみの脂汗のようなものが、「あき」にあらわれていて、おもしろいと思う。



 この詩集にはいくつものタイプの詩がある。後半に収められた詩は「サム・フランシス」もそうだが、ある芸術家を念頭において書かれている。そこでは「あき」を現実の作品が埋めに来る、という変だけれど、向こう側にしっかりした「芸術作品」があり、その作品と竹田との「あいだ」にある「あき」を埋めるのを半分手伝ってくれる。そのために非常に読みやすい。どんなに「あき」があっても、向こう側が見える。
 「門のない門」ではそういうことがない。「門」はない。向こう側がない。向こう側がないのは、竹田の内部(精神の奥)にこそ向こう側があるからである。向き合うのは、「固有名詞」として存在する「門」ではなく、精神の内部の「門」だからである。そこで問われているのは現実のありようではなく、竹田自身が現実とどう向き合い、精神の内部で現実そのものをどう再生し、現実と一体になるか、ということである。(あ、これも禅問答みたいだね。)
 芸術作品を前に置き、それに対して感想を書くことは、ある意味で半分精神の内部と向き合う作業を中断している。どんなにあれこれ考えてみても、作品の半分は芸術家がつくってしまっており、竹田が何をいおうとサム・フランシスが作品をつくりかえるわけではない。そういう部分があるために、すーっと読むことができる。私が(あるいは他の読者が)竹田の視点に同意するにしろ、同意しないにしろ、そのときもサム・フランシスはサム・フランシスのままである。現実は、そういう具合にはいかない。同意するにしろ、同意しないにしろ、私は(読者は)それぞれの現実と向き合わなければならない。そして向き合うたびに姿を変えるのが現実というものである。
 「サム・フランシス」などの作品が「門のない門」に比べると読みやすいけれど、ちょっと物足りなく感じるのは、せっかく「門のない門」で向き合った「あき」が、ここでは半分簡単に埋まっていると感じるからかもしれない。



 もうひとつ、竹田の作品でこころをひかれるものがある。肉体をていねいにみつめた描写である。たとえば

土踏まずの白さにのこる土のにおい  (「震える耳」)

 というような1行。そこにも「あき」がひそかに隠れている。土踏まずは土と接しない。そのときの「空間」が「あき」そのものであり、その「あき」ゆえに土の汚れから解放されている。しかし、その「あき」がそれでは土から完全に断絶したものかというとそうではなく「におい」を身につけている。
 「あき」のなかで触覚(土に触れる)と嗅覚(におい)が絡み合い、存在している。
 この描写が美しいのは、そしてこの別々の感覚(触覚、嗅覚)が、そういう「あき」のなかでこそ融合することをしっかり描いているからである。「あき」がなかなかことばにならないのは、「あき」のなかで融合しているもの、たとえば触覚と嗅覚を分離して同時に共存させる形で表現することがむずかしいからである。
 「空の上 一本の太い幹」の次の3行もとても美しい。

土塊まじりの  多年草は
低く くぼんで
ざわざわ 風がぬぎ捨てていったものを 見つめる

 「低く くぼんで」がすばらしい。
 「サム・フランシス」のような完成した「芸術」ではなく、現実の空き地に見た草の動き、裸足であるいたときの肉体の感覚--そういうものの「あき」を、もっともっと書いてもらえたら、「門のない門」の世界がより充実して感じられるのになあ、と思った。

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鈴木志郎康「記憶の書き出し 焼け跡っ子」

2007-10-20 22:14:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴木志郎康「記憶の書き出し 焼け跡っ子」(「KO.KO.DAYS」2 、2007年09月10日発行)
 連作なのだが、最後の「スズメ掴み」が非常におもしろい。

焼け跡に低い灌木の茂みがあって
雀がねぐらにしていた。
暮れるころ、騒がしく鳴いて
枝の寝場所を決めていた。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅるじゅる、ちゅるじゅる
身を伏せて近づくこども。
わたし。

 他の連作の部分にも

手製の車に載せて引いて売りに行く十一歳のこども。
わたし。

 というスタイルの行が必ず出てくる。
 「……こども。」と「わたし。」の改行による接続には「それが」ということばが隠されている。指示代名詞が省略されている。指示代名詞による限定が隠されている。
 「わたし」を「……こども」に限定し、いわば対象としてみつめている。
 鈴木は、この詩では、「こども」だった時代の「わたし」をイメージというか、目の前に映し出された映像のように眺めている。
 
 ところが途中でこのスタイルが崩れる。「それが、わたし」といいたいのだが、そんなふうにことばが動いてゆかない部分が出てくる。

素手で、
寝ている雀の一羽を掴んだ。
柔らかくて暖かい感触は
一瞬の衝撃。
他の雀は一斉に飛び去った。
こどもはつられて、
掴んだ雀を逃がした。
わたしの手は
柔らかく暖かい
生きものを掴んだのだった。

 記憶が肉体を通してつながってしまう。「わたし」は記憶のスクリーン映し出される映像ではなく、「手」なのである。「手」が「わたし」なのである。
 鈴木のいまの手は、スズメをつかんだ手ではないが、その手はずーっと鈴木の体から離れたことはなく、「こども」のときから、いまもつながっている。「わたし」の肉体は「こども」の肉体そのものではないが、「こども」であった時代の肉体と分離して考えることができない。「それが」と対象化しようにも、切り離せない。対象化しようとしても対象化しきれない。
 そして、その切り離せない肉体、手は、また「柔らかく暖かい/生きもの」とつながっている。手は、鈴木の手であり、同時に「柔らかく暖かい/生きもの」であり、その「柔らかく暖かい/生きもの」は手と同じように対象化できない。鈴木自身なのである。
 「柔らかく暖かい/生きもの」をつかむことで、鈴木は同時に「人間」(こども)でありながら、「柔らかく暖かい/生きもの」になってしまったのだ。「人間」なのに、スズメになってしまったのだ。
 この「狂い」はきわめて人間的である。「狂い」のなかに、人間性がある。
 そして、一度狂った(?)文体は、最後まで影響する。

あと十年あと十年と思いつつわたしの脳味噌は灰になる。

 「脳味噌」はやはり「わたし」である。対象化できない。「わたし」を対象化しようとして、対象化しきれず、肉体の連続性へ帰ってきてしまう。そこに鈴木の変わらなさ、いつでも鈴木は「わたし」「わたし」「わたし」なのだ、と思い、安心(?)する。

 笑ってはいけないことなのかもしれないが、私は笑わずにはいられない。「わたしの脳味噌」とわざわざかくような人間が何人いるだろうか。「わたしの肉」「わたしの骨」ではなく「わたしの脳味噌」。
 ここには、「ことば」(思いを伝えることば)も肉体と地続きにする思想がある。手が「柔らかく暖かい/生きもの」をつかんだように、ことばは「柔らかく暖かい/生きもの」をつかむことで、「わたしの脳味噌」になる。
 その視点に立てば、「(それが)わたし。」という文も、対象化しようとする意図とは逆に、「わたしの脳味噌」を「こども」に結びつけるための方法のように思えてくる。
 そこから見えてくるのも、やはり「わたし」「わたし」「わたし」の自己拡張である。これは楽しいねえ。笑わずにはいられない。愉快だなあ。

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イ・ムジチ合奏団「赤とんぼ」

2007-10-19 22:53:57 | その他(音楽、小説etc)
 イ・ムジチ合奏団「赤とんぼ」(アクロス福岡シンフォニーホール)

 モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ビバルディ「四季」などの演奏のあと、アンコール2曲目に「赤とんぼ」の演奏があった。日本人むけのサービスなのだが、これにちょっと驚いた。
 前奏があって、主題をチェロがソロで弾く。その瞬間、藍色の夕焼けが見えた。藍色の夕焼けというのは、ちょっと矛盾したことばだけれど、夕焼けの赤い色が消えていくあとを追うように広がる晴れた日の深い深い藍色。その幻のようなものが、すーっと頭の中をよぎった。もう赤とんぼも家へ帰り(?)、誰もいない。ただ赤とんぼを追いかけた記憶だけが残っている一日の終わりの空。その色を思い出した。夕焼けと、赤とんぼを思い出しながら帰る家路を思い出していたかもしれない。夕焼けと赤とんぼを思い出せるということ、心の中で夕焼けと赤とんぼがいっしょにいて、孤独ではないんだと思うときの、冷たい哀しみに出会ったような感じ。
 あ、いいなあ、と思った。
 しかし、それは一瞬のことで、あとはバイオリンがどんなに切なくメロディーを歌いあげても、なぜか「やかましい」という感じがした。イタリアに孤独がないということはないだろうけれど、孤独の種類が違うのだろうか。
 「赤とんぼ」の孤独、哀しさは、孤独だけれど「家がある」という安心感のある孤独。そこにはやさしい「ねえや」はいなくなったけれど、「ねえや」の記憶があり、また母がいる、父がいるという孤独だ。両親につつまれて、孤独を夢みる孤独。夕焼けとともに消えてしまった赤とんぼを思い出す孤独、藍色の空を思い出す孤独--抒情たっぷりの孤独だね、日本の孤独は。
 イ・ムジチ合奏団の孤独は、かなり性質が違って、何かを必死に主張していた。声に出して「孤独だ」と叫んでいる感じがした。そういう孤独は、ちょっと「やかましい」。孤独が抱える「思い出」が、どこかに消えてしまっている感じがした。


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坂多瑩子「泥炭地」

2007-10-18 10:03:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「泥炭地」(「鰐組」224 、2007年10月01日発行)
 私はときどき、私は他人の詩の妙なところが好きになるなあ、と自分自身で疑問に思うことがある。たとえば、坂多瑩子の「泥炭地」。

ゆめが深くなっていくようだった
水ぎわまで
こんもりと茂る草にそって
母や妹たちに出会った
私は
よく働いた
ガラスを磨いたり
玄関を 時間をかけて掃除したり
手順どおり
きちんと仕事をやり終えたが
ゆめは
もっと深くなっていくようだった

 前半の3分の1だが、「ゆめは/もっと深くなっていくようだった」で、私はこの詩が突然好きになる。「ゆめは深くなっていくようだった」という最初の行を読んだときは何も感じなかったのに、「もっと」ということばが挿入され、改行がくわわった瞬間に、坂多の世界に引き込まれてゆく。
 ああ、そうなんだ。夢というのは「もっと」の世界なのだと納得する。怖いことも楽しいことも、そして理不尽なことも「もっと」と加速することで夢になってしまう。「もっと」がなければ夢にはならない。「もっと」に引きずり込まれて、私たちは夢から逃れられなくなる。
 読み返すと、坂多のこの詩には「副詞」が多いのだが、その副詞のそれぞれが肉体にぴったりあっていて、とても自然だ。「よく」働いた。「きちんと」仕事をやり終えた。そうしたことばが、たぶん坂多の肉体、そして人間性を浮かび上がらせるので、「もっと」もしっかり肉体を引き込むのである。坂多の夢の中へ、私は肉体ごと引きずり込まれ、まるで自分自身で夢を見ているような気持ちになる。

母の目はきつく
骨の山をみている
私にとっても
まったく知らない人たちではなさそうなので
みてみぬふりをすると
母は
ゆっくりとだがすばやく
私の目のなかに
入ってきた

 「まったく知らない人たちではなさそうなので/みてみぬふりをすると」。坂多は、副詞と同時に、こうした日常の肉体にしみついた動き、肉体で悟ってしまうこころの動きを、的確にことばにして、私を誘い込む。そうしたことばが的確なので、

ゆっくりだがすばやく

 といったような、矛盾したことばが、矛盾ではなく、それ以外の表現はありえないという感じで「もっと」私を引きずり込む。
 
 詩の内容(?)は、坂多が賽の河原(?)のようなところで母と妹たちに出会うというような夢を報告しているのだろうけれど、そうした内容・意味は、詩を味わうのに、私の場合はあまり関係がない。内容・意味には私はあまり(ほとんど)興味がない。
 内容・意味を語るときの口調(文体)に興味がある。
 「よく」「きちんと」「もっと」。そんな副詞の使い方に、坂多という人間を感じる。会ったことも話したこともないけれど、坂多がちゃんと肉体を持った人間だと感じられるので、そのことばにひかれるのである。信頼できるのである。
 この詩は坂多の作品のなかではとびぬけていい作品というわけではないかもしれないが、妙に好きなのである。
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岩佐なを『しましまの』(2)

2007-10-17 10:12:43 | 詩集
岩佐なをしましまの』(思潮社、2007年10月01日)
 岩佐なをの詩は私は大嫌いだった。いまでも好きかといわれると大嫌いと答えるしかないのだが、とてもおもしろい。そしてこのおもしろさはちょっと説明がしにくい。大嫌いの理由と同じように、非常に説明がしにくい。これは、ようするに「名人芸」というしかないのである。天沢退二郎、粒来哲蔵のことばの動きを「名人芸」と私は感じるが、同じように岩佐のことばの動きも「名人芸」になってきたのである。(昔からそうだったのかもしれないが……。)詩の「内容」とか「意味」とかは関係がない。ことばのていねいさが「名人芸」なのである。そして、そのていねいさというのは、いわゆる緻密さ、繊細さとはまた別のことなのである。
 「「人参考」手控」という詩の半分よりすこし前の部分、というより、これから山場へ昇っていくという感じの、歌謡曲でいうと「さわり」へ向かう部分。(「さわり」そのものではないよ。)

からだを丹念に拭ってやって
床に寝かせてながめていると
表と裏がわかってきたものだ
雄と雌の
表と裏ひげ根ぴろぴろ
見な。
<仰向けの姿勢>
<伏したる様子>

 「見な。」
 この行がすごい。句点「。」つきの1行。いかにも、これからいやらしくなるぞ、ほら、いやらしいことを想像しはじめているだろう、と誘っておいて、突然描写をやめて「見な。」と読者に肉眼に戻ることをもとめる。見るのは私(岩佐)じゃないよ、あんただよ、と、後ろに隠れてみていたのに、最前列へいきなりひっぱりだす感じ。余分なことは何も言わない。だだ「見な。」
 それも句点「。」つきである。この句点「。」の効果は、またまた、すごい。
 「見な。」とひっぱりだされて、その瞬間、読者は一瞬ひるむな。見たいんだけれど、そして実際に見えるんだけれど、ひるむ。ひるんだ瞬間、息を飲む。そういう人間の呼吸の動きを、岩佐はていねいに描いている。
 句点「。」のかわりに、その一呼吸を「1行あき」で表現するという方法もあるけれど、「1行あき」では、息を飲む呼吸の動きが間延びしてしまう。一呼吸あるんだけれど「1行あき」というほどでもない。その微妙さを、岩佐はていねいに描いている。
 一呼吸おいて、

<仰向けの姿勢>
<伏したる様子>

 この<>つきの転換もいいなあ。
 歌謡曲でいうなら「さび」に入ったぞ、ということを明確にする音質の変化だねえ。誘われるままに、ことばのあとについていってしまうしかない。

体毛を摘んで抜いてやったり
あらためて霧吹で水をあびせたり
うしろからうしろから雄人参を
責めたてたり
朝鮮人人参くすり(シロ系)
西洋人人参やさい(アカ系)
日本人人参どうぐ(エロ系)
だからどうした。

 「さび」が最高潮に達して、それから「だからどうした。」一気に、最初にもどる。何もなかったかのように。ここでも句点「。」が効果的だ。
 この句点「。」は、もう一度、最後の部分に出てくるが、その部分も、ほんとうにうっとりしてしまう。こんな呼吸のつかいわけをされてしまったら、あとから書くひとが困るじゃないか、というしかない「名人芸」である。

 どんなものにも、使い込んだものには「つや」がある。輝きではなく、しっとりとした「つや」、肉体を感じさせる何かがある。岩佐のことばにも「つや」がある。その「つや」は呼吸の「つや」である。そして、その「つや」は「見な。」という1行に特徴的にあらわれているが、「独唱」の「つや」ではない。常に他者が存在するときに効果のある「つや」である。だからこそ、よけいに「名人芸」という感じがするのだと思う。「名人」というのは自分自身の技をかってに独立させるのではなく、常に他者をまきこみながら「場」をつくりあげる人間のことだ。

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