監督 宮藤官九郎 出演 長瀬智也、神木隆之介、宮沢りえ
「TOO YOUNG TO DIE! 」を「若くして死ぬ」と、いまは、訳すのかな? 「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」と思っていたけれど、英語も日本語も、ことばなので「意味」は時代にあわせてかわっていくのだろう。
でも、この映画の中身(?)は「若くして死ぬ」というよりも、やっぱり「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」だろうなあ。高校生が死んでしまって、死んだのだけれど「現世」にやり残したことがありすぎて、死ねない。やり残したことといっても、好きな女の子にキスできなかった、ということなのだけれど。
で、「地獄」と「この世」を行ったり来たり。
おもしろいのは、これは「映画」なのだけれど、やっていることが全部「芝居」。それをもっとも特徴的にあらわしているのが「セット」。「映画」なのに、ぜんぜん「リアル」ではない。「セット」であることが、ひと目でわかる。
あ、「地獄」を私はまだ見たことがないので、意外とこの「セット」のようなものが「ほんものの地獄/リアルな地獄」ということもあるかもしれないけれど。
しかし、この「セット」がとても効果的。
「芝居」というのは、「想像力」でできている。役者の想像力も大事だが、見ている観客の「想像力」が何よりも大事。偽物、作り物を見ながら、それを「現実」へと変えていく「想像力」が大事。芝居の劇場では、役者は観客の反応を見ながら、少しずつ演技が変わっていく。役者と観客が阿吽の呼吸で反応し、世界が動いていく。
「映画」には、この観客と役者の呼吸の行き交いはないのだが、宮藤官九郎は「セット」を前面に出すことで、「映画館」を「芝居小屋の客席」に変えてしまう。観客の「想像力」を引き出し、「映画」の世界へひっぱり込む。ふつうの映画のように「リアル」を押しつけるのではなく、観客のなかから「リアルな想像力」、「想像力というリアル」を引き出す。
「セット(嘘/つくりもの)」にひっぱられ、観客が「嘘」を呼吸し、「嘘」を共有し、「嘘」を育ててる。「嘘」だけが「ほんとう」になっていく。想像力を動かす「リアル」(肉体が、ことばにしないままおぼえていること)が動きはじめる。
「地獄」のロックバンドの厚化粧と「この世」の貸しスタジオのチープ、キッチュな感じがまじりあい、不思議な官能になる。「地獄」の人間と、「転生」して「この世」の「畜生(昆虫や精子まで含む)」を往復することで、何かいままで見えなかったものが「想像力」のなかで花開いてくる。
オナニーで放出された精子が「死ぬ」なんて、想像力がつかむ「リアル」だ。「嘘」のはずなのに、その「嘘」のなかで「想像力」がみているものが、「現実」そのものだとわかり、おかしくなる。
傑作なのは、さの「精子の死」と、カマキリ。
少年は「転生」し、カマキリになる。カマキリというのは交尾したあとオスはメスに食われてしまう、というようなことなどは「知識」として知っているのだが、それが「芝居/想像力」のなかで実際に動く。それが「ほんとう」になる。「ついに童貞じゃなくなったんだな」「いや、あれは単なる交尾(セックスではない)」。そんなやりとりが、とてもおかしくて、かなしくて、どこか官能の奥の淋しさもくすぐる。
などと書きながら、私は何か「脱線」してしまった気になる。
どうしてここで「官能」ということばが出てくるのかな。出てきてしまったかのかな。それが気になり、さらに「脱線」していく。
たぶん、ここからが「ほんとう」の感想になるのだろう。
なぜ、「官能」という「ことば」が無意識のうちに出てきて、その無意識のうちに出てきたことばが気になるかというと、この「官能」こそが、この映画の「本質」と重なるからだ。
「官能」は、きっと、「地獄」「この世」の「往復」と関係がある。
「官能」あるいは「セックス」というのは、「往復運動」なのだ。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。そして、その往復に、摩擦(接触)がくわわり、どっちがどっちなのかわからなくなる。それは「生理現象」なのか、それとも「想像力」のなかで起きていること(事実)なのか。
あ、こんなことは、考えなくていい。
「官能」に身を任せればいい。
考えずに、ただ、「声」をあげればいい。そうすると、その「声」が「音楽」になる。たぶん、ね。
私は音痴なので、音楽もほとんど聞かない。音楽を聞かないから音痴なのかもしれないが。しかし、この映画を見ていると「音楽」が「声」になる前の「ことば」なのだとわかる。だれもが「言いたい何か」を持っている。しかし、それは「ことば」にととえるところまでいかない。「ことば/意味」にならないまま、「肉体」を突き破って、その場限りの、どうでもいいことになっていく。
「音楽」だけは、すこし違う。
「音」にも意味はあるかもしれないが、ことばのような「意味」ではない。むしろ「ことば」になる前の「感覚/感性」のようなものだ。「意味」をかかえずに「音」が「肉体」を破っていく。「官能」が「肉体」を破っていくように、「音」が「肉体」を破っていく。そのとき、そこに「音楽」がある。
「意味」がない。その、わけのわからなさ。そのなかに「音楽」が動いている。
ギターでコードを弾きながら、顔を「ぶっとんだ顔」に変えていく。顔の造作を内部から破壊していく。「そうじゃない、こんな顔だ」と地獄のロックバンドのリーダーが少年に教えるシーンがあるが、あれだね。自分の「肉体」を内部から破壊しないと、「音」は「音楽」にならない。「ととのえている何か」(自分を抑制している何か)を破壊しないと「音楽」ははじまらない。「感覚」は「官能」にならない。
そして、この「音」を「ことば」に、「音楽」を「芝居」にかえると、宮藤官九郎がやっていることがよくわかる。「ことば」で「肉体」を破壊する。「ことば」を発することは、いままであった「肉体」を破壊して、新しい「肉体」そのものを生み出すこと。「芝居」の瞬間、そこにいるのは「役者」でもなければ「役柄」でもない。まったく「新しい人間/肉体」であり、それはその場(劇場)に居合わせた観客の「想像力」のなかで暴れ回るものなのだ。
私は「芝居」は好きだが、地方に住んでいると「芝居」というものをなかなか見ることができない。長い間、役者の「肉体」そのものを見ていない。で、この映画の出演者も、宮沢えりくらいしかわからず、残念なのだが、芝居を見なれたひとなら、この映画はとても楽しいだろうと思う。あ、役者を知らなくても楽しいのだが、知っていれば、もっと楽しいだろうと思う。
ただひとつ「注文」をつけたい。少年が「地獄」から「天国」へ行くシーン。空を上昇していく。あれは、映画ではダメ。芝居小屋で見たい。唐十郎の赤テントだったらテントが裂けて、役者がクレーンか何かで宙へひっぱりあげられる。そういうシーンは「肉眼」と「肉体」がリアルにであって「ワーッ」となる。「芝居小屋」が一気に「劇」のなかに吸い込まれる。映画では、そうならない。スクリーンが裂けて、裏側のスクリーンに映画がつづいていくくらいでないと、驚かない。
で、あえて★4個。
あそこだけが、見ていて、悔しい。
(天神東宝1、2016年06月27日)
*
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「TOO YOUNG TO DIE! 」を「若くして死ぬ」と、いまは、訳すのかな? 「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」と思っていたけれど、英語も日本語も、ことばなので「意味」は時代にあわせてかわっていくのだろう。
でも、この映画の中身(?)は「若くして死ぬ」というよりも、やっぱり「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」だろうなあ。高校生が死んでしまって、死んだのだけれど「現世」にやり残したことがありすぎて、死ねない。やり残したことといっても、好きな女の子にキスできなかった、ということなのだけれど。
で、「地獄」と「この世」を行ったり来たり。
おもしろいのは、これは「映画」なのだけれど、やっていることが全部「芝居」。それをもっとも特徴的にあらわしているのが「セット」。「映画」なのに、ぜんぜん「リアル」ではない。「セット」であることが、ひと目でわかる。
あ、「地獄」を私はまだ見たことがないので、意外とこの「セット」のようなものが「ほんものの地獄/リアルな地獄」ということもあるかもしれないけれど。
しかし、この「セット」がとても効果的。
「芝居」というのは、「想像力」でできている。役者の想像力も大事だが、見ている観客の「想像力」が何よりも大事。偽物、作り物を見ながら、それを「現実」へと変えていく「想像力」が大事。芝居の劇場では、役者は観客の反応を見ながら、少しずつ演技が変わっていく。役者と観客が阿吽の呼吸で反応し、世界が動いていく。
「映画」には、この観客と役者の呼吸の行き交いはないのだが、宮藤官九郎は「セット」を前面に出すことで、「映画館」を「芝居小屋の客席」に変えてしまう。観客の「想像力」を引き出し、「映画」の世界へひっぱり込む。ふつうの映画のように「リアル」を押しつけるのではなく、観客のなかから「リアルな想像力」、「想像力というリアル」を引き出す。
「セット(嘘/つくりもの)」にひっぱられ、観客が「嘘」を呼吸し、「嘘」を共有し、「嘘」を育ててる。「嘘」だけが「ほんとう」になっていく。想像力を動かす「リアル」(肉体が、ことばにしないままおぼえていること)が動きはじめる。
「地獄」のロックバンドの厚化粧と「この世」の貸しスタジオのチープ、キッチュな感じがまじりあい、不思議な官能になる。「地獄」の人間と、「転生」して「この世」の「畜生(昆虫や精子まで含む)」を往復することで、何かいままで見えなかったものが「想像力」のなかで花開いてくる。
オナニーで放出された精子が「死ぬ」なんて、想像力がつかむ「リアル」だ。「嘘」のはずなのに、その「嘘」のなかで「想像力」がみているものが、「現実」そのものだとわかり、おかしくなる。
傑作なのは、さの「精子の死」と、カマキリ。
少年は「転生」し、カマキリになる。カマキリというのは交尾したあとオスはメスに食われてしまう、というようなことなどは「知識」として知っているのだが、それが「芝居/想像力」のなかで実際に動く。それが「ほんとう」になる。「ついに童貞じゃなくなったんだな」「いや、あれは単なる交尾(セックスではない)」。そんなやりとりが、とてもおかしくて、かなしくて、どこか官能の奥の淋しさもくすぐる。
などと書きながら、私は何か「脱線」してしまった気になる。
どうしてここで「官能」ということばが出てくるのかな。出てきてしまったかのかな。それが気になり、さらに「脱線」していく。
たぶん、ここからが「ほんとう」の感想になるのだろう。
なぜ、「官能」という「ことば」が無意識のうちに出てきて、その無意識のうちに出てきたことばが気になるかというと、この「官能」こそが、この映画の「本質」と重なるからだ。
「官能」は、きっと、「地獄」「この世」の「往復」と関係がある。
「官能」あるいは「セックス」というのは、「往復運動」なのだ。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。そして、その往復に、摩擦(接触)がくわわり、どっちがどっちなのかわからなくなる。それは「生理現象」なのか、それとも「想像力」のなかで起きていること(事実)なのか。
あ、こんなことは、考えなくていい。
「官能」に身を任せればいい。
考えずに、ただ、「声」をあげればいい。そうすると、その「声」が「音楽」になる。たぶん、ね。
私は音痴なので、音楽もほとんど聞かない。音楽を聞かないから音痴なのかもしれないが。しかし、この映画を見ていると「音楽」が「声」になる前の「ことば」なのだとわかる。だれもが「言いたい何か」を持っている。しかし、それは「ことば」にととえるところまでいかない。「ことば/意味」にならないまま、「肉体」を突き破って、その場限りの、どうでもいいことになっていく。
「音楽」だけは、すこし違う。
「音」にも意味はあるかもしれないが、ことばのような「意味」ではない。むしろ「ことば」になる前の「感覚/感性」のようなものだ。「意味」をかかえずに「音」が「肉体」を破っていく。「官能」が「肉体」を破っていくように、「音」が「肉体」を破っていく。そのとき、そこに「音楽」がある。
「意味」がない。その、わけのわからなさ。そのなかに「音楽」が動いている。
ギターでコードを弾きながら、顔を「ぶっとんだ顔」に変えていく。顔の造作を内部から破壊していく。「そうじゃない、こんな顔だ」と地獄のロックバンドのリーダーが少年に教えるシーンがあるが、あれだね。自分の「肉体」を内部から破壊しないと、「音」は「音楽」にならない。「ととのえている何か」(自分を抑制している何か)を破壊しないと「音楽」ははじまらない。「感覚」は「官能」にならない。
そして、この「音」を「ことば」に、「音楽」を「芝居」にかえると、宮藤官九郎がやっていることがよくわかる。「ことば」で「肉体」を破壊する。「ことば」を発することは、いままであった「肉体」を破壊して、新しい「肉体」そのものを生み出すこと。「芝居」の瞬間、そこにいるのは「役者」でもなければ「役柄」でもない。まったく「新しい人間/肉体」であり、それはその場(劇場)に居合わせた観客の「想像力」のなかで暴れ回るものなのだ。
私は「芝居」は好きだが、地方に住んでいると「芝居」というものをなかなか見ることができない。長い間、役者の「肉体」そのものを見ていない。で、この映画の出演者も、宮沢えりくらいしかわからず、残念なのだが、芝居を見なれたひとなら、この映画はとても楽しいだろうと思う。あ、役者を知らなくても楽しいのだが、知っていれば、もっと楽しいだろうと思う。
ただひとつ「注文」をつけたい。少年が「地獄」から「天国」へ行くシーン。空を上昇していく。あれは、映画ではダメ。芝居小屋で見たい。唐十郎の赤テントだったらテントが裂けて、役者がクレーンか何かで宙へひっぱりあげられる。そういうシーンは「肉眼」と「肉体」がリアルにであって「ワーッ」となる。「芝居小屋」が一気に「劇」のなかに吸い込まれる。映画では、そうならない。スクリーンが裂けて、裏側のスクリーンに映画がつづいていくくらいでないと、驚かない。
で、あえて★4個。
あそこだけが、見ていて、悔しい。
(天神東宝1、2016年06月27日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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