詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮藤官九郎監督「TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ」(★★★★)

2016-06-30 10:18:49 | 映画
監督 宮藤官九郎 出演 長瀬智也、神木隆之介、宮沢りえ

 「TOO YOUNG TO DIE! 」を「若くして死ぬ」と、いまは、訳すのかな? 「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」と思っていたけれど、英語も日本語も、ことばなので「意味」は時代にあわせてかわっていくのだろう。
 でも、この映画の中身(?)は「若くして死ぬ」というよりも、やっぱり「死ぬには若すぎる/若すぎて死ねない」だろうなあ。高校生が死んでしまって、死んだのだけれど「現世」にやり残したことがありすぎて、死ねない。やり残したことといっても、好きな女の子にキスできなかった、ということなのだけれど。
 で、「地獄」と「この世」を行ったり来たり。
 おもしろいのは、これは「映画」なのだけれど、やっていることが全部「芝居」。それをもっとも特徴的にあらわしているのが「セット」。「映画」なのに、ぜんぜん「リアル」ではない。「セット」であることが、ひと目でわかる。
 あ、「地獄」を私はまだ見たことがないので、意外とこの「セット」のようなものが「ほんものの地獄/リアルな地獄」ということもあるかもしれないけれど。
 しかし、この「セット」がとても効果的。
 「芝居」というのは、「想像力」でできている。役者の想像力も大事だが、見ている観客の「想像力」が何よりも大事。偽物、作り物を見ながら、それを「現実」へと変えていく「想像力」が大事。芝居の劇場では、役者は観客の反応を見ながら、少しずつ演技が変わっていく。役者と観客が阿吽の呼吸で反応し、世界が動いていく。
 「映画」には、この観客と役者の呼吸の行き交いはないのだが、宮藤官九郎は「セット」を前面に出すことで、「映画館」を「芝居小屋の客席」に変えてしまう。観客の「想像力」を引き出し、「映画」の世界へひっぱり込む。ふつうの映画のように「リアル」を押しつけるのではなく、観客のなかから「リアルな想像力」、「想像力というリアル」を引き出す。
 「セット(嘘/つくりもの)」にひっぱられ、観客が「嘘」を呼吸し、「嘘」を共有し、「嘘」を育ててる。「嘘」だけが「ほんとう」になっていく。想像力を動かす「リアル」(肉体が、ことばにしないままおぼえていること)が動きはじめる。
 「地獄」のロックバンドの厚化粧と「この世」の貸しスタジオのチープ、キッチュな感じがまじりあい、不思議な官能になる。「地獄」の人間と、「転生」して「この世」の「畜生(昆虫や精子まで含む)」を往復することで、何かいままで見えなかったものが「想像力」のなかで花開いてくる。
 オナニーで放出された精子が「死ぬ」なんて、想像力がつかむ「リアル」だ。「嘘」のはずなのに、その「嘘」のなかで「想像力」がみているものが、「現実」そのものだとわかり、おかしくなる。
 傑作なのは、さの「精子の死」と、カマキリ。
 少年は「転生」し、カマキリになる。カマキリというのは交尾したあとオスはメスに食われてしまう、というようなことなどは「知識」として知っているのだが、それが「芝居/想像力」のなかで実際に動く。それが「ほんとう」になる。「ついに童貞じゃなくなったんだな」「いや、あれは単なる交尾(セックスではない)」。そんなやりとりが、とてもおかしくて、かなしくて、どこか官能の奥の淋しさもくすぐる。
 などと書きながら、私は何か「脱線」してしまった気になる。
 どうしてここで「官能」ということばが出てくるのかな。出てきてしまったかのかな。それが気になり、さらに「脱線」していく。
 たぶん、ここからが「ほんとう」の感想になるのだろう。
 なぜ、「官能」という「ことば」が無意識のうちに出てきて、その無意識のうちに出てきたことばが気になるかというと、この「官能」こそが、この映画の「本質」と重なるからだ。
 「官能」は、きっと、「地獄」「この世」の「往復」と関係がある。
 「官能」あるいは「セックス」というのは、「往復運動」なのだ。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。そして、その往復に、摩擦(接触)がくわわり、どっちがどっちなのかわからなくなる。それは「生理現象」なのか、それとも「想像力」のなかで起きていること(事実)なのか。
 あ、こんなことは、考えなくていい。
 「官能」に身を任せればいい。
 考えずに、ただ、「声」をあげればいい。そうすると、その「声」が「音楽」になる。たぶん、ね。
 私は音痴なので、音楽もほとんど聞かない。音楽を聞かないから音痴なのかもしれないが。しかし、この映画を見ていると「音楽」が「声」になる前の「ことば」なのだとわかる。だれもが「言いたい何か」を持っている。しかし、それは「ことば」にととえるところまでいかない。「ことば/意味」にならないまま、「肉体」を突き破って、その場限りの、どうでもいいことになっていく。
 「音楽」だけは、すこし違う。
 「音」にも意味はあるかもしれないが、ことばのような「意味」ではない。むしろ「ことば」になる前の「感覚/感性」のようなものだ。「意味」をかかえずに「音」が「肉体」を破っていく。「官能」が「肉体」を破っていくように、「音」が「肉体」を破っていく。そのとき、そこに「音楽」がある。
 「意味」がない。その、わけのわからなさ。そのなかに「音楽」が動いている。
 ギターでコードを弾きながら、顔を「ぶっとんだ顔」に変えていく。顔の造作を内部から破壊していく。「そうじゃない、こんな顔だ」と地獄のロックバンドのリーダーが少年に教えるシーンがあるが、あれだね。自分の「肉体」を内部から破壊しないと、「音」は「音楽」にならない。「ととのえている何か」(自分を抑制している何か)を破壊しないと「音楽」ははじまらない。「感覚」は「官能」にならない。
 そして、この「音」を「ことば」に、「音楽」を「芝居」にかえると、宮藤官九郎がやっていることがよくわかる。「ことば」で「肉体」を破壊する。「ことば」を発することは、いままであった「肉体」を破壊して、新しい「肉体」そのものを生み出すこと。「芝居」の瞬間、そこにいるのは「役者」でもなければ「役柄」でもない。まったく「新しい人間/肉体」であり、それはその場(劇場)に居合わせた観客の「想像力」のなかで暴れ回るものなのだ。

 私は「芝居」は好きだが、地方に住んでいると「芝居」というものをなかなか見ることができない。長い間、役者の「肉体」そのものを見ていない。で、この映画の出演者も、宮沢えりくらいしかわからず、残念なのだが、芝居を見なれたひとなら、この映画はとても楽しいだろうと思う。あ、役者を知らなくても楽しいのだが、知っていれば、もっと楽しいだろうと思う。

 ただひとつ「注文」をつけたい。少年が「地獄」から「天国」へ行くシーン。空を上昇していく。あれは、映画ではダメ。芝居小屋で見たい。唐十郎の赤テントだったらテントが裂けて、役者がクレーンか何かで宙へひっぱりあげられる。そういうシーンは「肉眼」と「肉体」がリアルにであって「ワーッ」となる。「芝居小屋」が一気に「劇」のなかに吸い込まれる。映画では、そうならない。スクリーンが裂けて、裏側のスクリーンに映画がつづいていくくらいでないと、驚かない。
 で、あえて★4個。
 あそこだけが、見ていて、悔しい。
                        (天神東宝1、2016年06月27日)






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クワイエットルームにようこそ [内田有紀/宮藤官九郎/蒼井優] [レンタル落ち]
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林嗣夫『解体へ』

2016-06-29 07:44:43 | 詩集
林嗣夫『解体へ』(ふたば工房、2016年06月19日発行)

 林嗣夫『解体へ』を読み進んでいって、26ページ「2、庭先で」という詩に出合う。

それは生臭い光景だった
立ち上がった大きな木が
自分の樹皮を
ひっそりと脱ぎ落としているところを
見てしまったのだ

 この五行を読んだ瞬間、この詩について感想を書いてみたい、と思った。
 と、書いてしまうと正確ではないかもしれない。
 私は、読んだ瞬間に、一本の木を思い出した。それは私の故郷の神社の欅の木である。幹まわりは八メートルくらいあるかもしれない。その幹は、樹皮がかさぶたのようになっている。それをはがしたことがある。それを思い出し、なぜか「はっ」とした。
 そのとき、欅の木は「自分の樹皮」を「脱ぎ落としている」わけではない。私がむりやりはがしたのだが。
 なぜ、そうしたんだろう。
 私は、もしかすると、木の内部をのぞいてみたかったのかもしれない。樹皮をはがしたくらいで木の内部が見えるわけではない。しかし、何かが見たかった。
 林の詩を読んだとき、その「何かを見たいと思った」私を「見られてしまった」と感じた。林から見られてしまったのではなく、あの欅の木から「見られてしまった」と、思い出したのである。木は、私を見ていた。その私はきっと「生臭い」思春期の少年だった。
 私は「ひっそり」と、思春期未満の少年を「脱ぎ捨て」、男になるところだったのだ。その過渡期、変化を、どうやって通り抜ければいいのか、よくわからない。わからないまま、そこにある木、そのかさぶたのような樹皮をはがしてみたかった。

 その欅の木は、私が「何か」を感じた最初の木だった。いまでも忘れることができない木である。その木に触れると、落ち着く。その木を思うと、落ち着く。あれは、私の木だ、といつも思う。
 あれは、私。だから、私は、その内部をのぞいてみたかった。そして、かさぶたのような樹皮をはがした。そうしていることろを、木そのものから、見られたと思う。
 私は「ひっそり」と樹皮のかさぶたをはがした。木は「ひっそり」と私を見ていた。

 と、ここまで書いてきて、あ、そうか、私は「樹皮をはがす/樹皮を脱ぎ落とす」という「行為」ではなく、その「行為」を特徴づける「ひっそり」に反応していたのだと気がつく。
 「ひっそり」のなかにある「生臭い」というものに反応して、それについて書きたいと思ったのだと、ふいに、気がつく。

 でも。

 こういうことを林は書いているわけではない。詩を最後まで読むと、

幹から伸びたあちこちの枝先には
春 ピンクの花をつけていたのに

 という行が出てくる。だから、林の書いている木は「桜」なのかもしれない。私が思い出す「欅」とは関係がない。
 しかし、詩とはそういうものではないだろうか、とも思う。
 そういうもの、というのは、いいかげんなことばだが、つまり、作者が何を書いているかではなく、読者というのはいつでも「自分のおぼえていること」を詩のなかから読み取るものなのだ。
 「自分のおぼえていること」を言い表すのに、私の場合、「ひっそり」「生臭い」ということばが必要だったのだ。「ひっそり」「なまぐさい」ということばが、私のなかから「過去」を「いま」としてひっぱり出している。
 そういうことを経験するのが、詩を経験するということなのだ、と思う。

 私の「読み方」は間違っている。学校の「解釈のテスト」だったら、間違いなく零点である。
 それでも、私は、私の「解釈」を捨てきれない。
 林は「それは」と書きはじめている。
 「それは」とはじめるしかないこと、「わかっている」のに「それ」を直接名指すことができない何か、「それ」としか呼べないものがあって、「それ」に動かされること、「それ」に動かされてことばを少しずつ見つけることが、たぶん、詩。
 その感覚が、ふっと「肉体」をよぎっていくときが、「詩」。

 あ、これでは林の詩を紹介したことにならないか。
 それでも、私は、その何にもならないことを、きょうは書いておきたい。
詩集 花ものがたり (林嗣夫  詩集)
林嗣夫
ふたば工房
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自民党憲法改正草案を読む(6)

2016-06-28 11:23:44 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(6)(2016年06月27日)


 「第二章 安全保障」。

 「第一章 天皇」の文章は、とても奇妙だった。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(自民党改正案)

 天皇は「日本国の元首である」、天皇は「日本国及び日本国民統合の象徴である」と「ひとつ」の「主語」が「ふたつの述語」を持っている。このとき、その「述語」が必ずしも一致しなくてもいいのかもしれないが。
 たとえば、「私の恋人は美人であり、聡明である」というとき「美人」と「聡明」は一致する(等しい)ものではない。「私の恋人は美人であり、短気である」というとき「美人」と「短気」は一致するものではない。こういうときは「私の恋人は美人である、しかし、短気である」と、「しかし」という「接続詞」で違うものを結びつけるということを「明示」することが多い。「しかし」がないときは、ふたつの「述語」は、暗黙のうちに「共通」のものとみなされる。「美人(長所)」と「聡明(長所)」は「長所」が共通する。イコールになる。「美人(長所)」と「短気(短所)」は「長所」「短所」が反対だから、「しかし」という「逆説」の「接続詞」が必要になる。
 天皇の「定義(?)」には「接続詞」がないから、「元首である」と「象徴である」は「暗黙」のうちにイコールになっていなければならない。
 でも、「元首」と「象徴」はイコール? 違うなあ。「元首」というのは「権力」という実行力をもった現実の人間。「象徴」というのは「現実」ではなく「方便」というか「虚構」に属する。「実」と「虚」が並列して結びつけられている。
 「元首」という肩書が「虚構」のものであるなら、どこかに「影の(ほんとうの)権力者」がいることになる。「虚構の元首」を「象徴」として存在させ、その影でほんとうの「権力者」が何かしようとしている。だれかがほんとうの権力者になろうとしている。そのために天皇を利用しようとしている。
 私は、そんなことを考えたのだった。
 しかも、その「天皇は」という書き出しは、後半「その地位は」と言い直されることで「主語」から「主題(テーマ)」に変更させられている。「天皇=元首=象徴」という「虚構のテーマ」は「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定義されている。「天皇=元首」という「虚構」を「象徴」として受け入れ、「実際の権力」はここに書かれていないだれかに託すことを、日本国民は「総意」として受け入れる、と「定義」しているように感じてしまう。
 私は「法律家」ではないから、「法律的」にはどう読むのかわからないが、そう読んでしまう。

 「第二章 安全保障」も、「改正」部分が、とても奇妙である。
 第九条は「二項目」から構成されている。現行憲法と改正案を比較してみる。

第二章 戦争の放棄(現行憲法)
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二章 安全保障(改正草案)
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。

 いちばん大きな違いは「放棄する」という「動詞」の位置の変化。
 現行憲法は、「日本国民は、戦争と、武力の行使は、放棄する」と要約できる。「これを」と書いているが「戦争と、武力の行使」というふたつのことを指しているので、「これら」と読むことができる。それを複数形ではなく「これ」と単数形で書いているのは、「これ」が指し示す内容が「補語」ではなく、「テーマ」だからである。「テーマ」は、この場合、最初に書かれている「戦争(放棄)」である。「戦争を放棄する」と最後に念を押しているのである。
 現行憲法は、「テーマ(主題)」と「主語」を明確に区別しながら書かれている。
 改正草案は、「日本国民は、戦争を放棄し、武力の行使は、用いない」。完全にふたつの文にわけることができる。改正案では「日本国民は」というの「主語」が一貫しているが、そこには現行憲法を貫いていた「テーマ」が「縮小」されている。「これ」という「テーマ」を指し示すことばを省くことで、「テーマ」そのものを変更している。
 そして、改正草案は、「テーマ」を省略し、「主語」だけを明記することで、ずるいことをやっている。
 「日本国民は戦争を放棄し、武力の行使は、用いない」。しかし「日本国」が「武力を行使する(結果的に戦争をする)」ことを憲法では禁じていない、と読み直すことができる。

 現行憲法も、主語は「日本国民」なのだから、「国民は戦争を放棄するが、国が戦争を放棄することを禁じていない」と読むことができる、という意見も成り立つかもしれない。
 だからこそ、「第二項」がつけくわえられている。

(現行憲法)
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 ここには「日本国民は」という「主語」は書かれていないが、「日本国民は、国の交戦権は、これを認めない」という意味である。「テーマ」は「日本の交戦権」である。それに先立つ「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」というのも、「これを保持しない」と「これ」と言い直されていることからわかるように「テーマ」である。
 また現行憲法が「武力による威嚇又は武力の行使は」と「又は」という接続詞がつかわれていることにも注目したい。「又は」は反対のことというか、違った概念を導くときにつかわれる。ここからは、私の推測になるのだが、「武力による威嚇」とは日本から外国への行為であり、「武力の行使」とは「防戦」のことではないのか。日本から外国へ武力で威嚇はしない、また、外国から武力で威嚇されても武力で防戦しない、と言っているように感じる。改正案の「及び」では「外国から威嚇されても」という感じが抜け落ちる。
 日本国民は「国」に対して、何があっても「国の権力(交戦権)」を認めない、と宣言している。「国」に主権があるのではなく、国民に主権があるから、国民は国に対して命令することができるのである。
 「第二章 戦争の放棄」で「主語」を明確に「日本国民は」と書いている理由は、そこにある。

 改正草案はどうか。

2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

 「国の交戦権」がすっぽり落ちている。そして「自衛権」という概念が持ち出されている。つけくわえられている。いや、すりかえられている。「自分を守る」というのは、「肉体」にぐいっと迫ってくることばである。だれでも死にたくはない。ましてや殺されたくはない。だから「自衛権」と言われると、それに反対する「根拠」がなかなか見つけにくい。「又は」と「及び」の違いにもどって言えば、「外国から武力で威嚇されたら」、「防戦に武力をつかわざるを得ない」「武力で自衛する(自衛権を発動する)しかない」と言われると、反論はむずかしい。「言論で交渉をつづける」と反論すれば「空想論だ」と言われるだろう。「外国から武力で威嚇されたら」という論自体が「空想」なのだけれど。
 しかし、それ以上に、重要な変更がここにある。
 「主語」はどうなったか。
 「日本国民は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と読み直すことができるかもしれないが、改正草案は、

前項の規定は

 と書いている。「規定」は「妨げない」。これは、私のような素人にはわかりにくいが、単なる「解釈」だ。「解釈」を書いている。「意味」を説明しなおしている。その意味の説明のし直しを「日本国民」がしている、と改正草案を書いた自民党は言いたいのかもしれないが、そうではない。
 それは現行憲法にはない「第九条の二」を読むと、はっきりする。改正草案は、次のように書いている。

第九条の二
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。


 第一項の「主語」は何か。わからない。「日本国民」と読めないことはない。「日本国民は、国防軍を保持する」という文章は成り立つ。
 しかし、そのあとはどうか。第二項はどうか。
 「国防軍は」と書き出される。「主語」が「日本国民」から「国防軍」にすりかえられている。「日本国民」の意志は、以下では完全に無視される。
 それを決定づけるのが、改正草案の「第九条の三」である。

国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 「国防軍」という「主語」がいきなり「国は」と変わっている。
 現行憲法では、「戦争の放棄」についての「主語」は「日本国民」で一貫していたが、改正草案では「日本国民→国防軍→国」へと変化している。
 なぜ、「国防軍」から「国」へ「主語」を変化させなければならなかったのか。

国民と協力して、

 ここに突然復活してくる「国民」に意味がある。「軍隊」というのは「ひとり」では構成できない。人間が必要になる。そして、その人間というのは「最高指揮官/内閣総理大臣」という要職についている少数の人間のことではなく、実際に兵隊となり、戦場で人を殺し、殺される多数の人間である。
 そういう兵隊を確保するために、どうするのか。
 「徴兵制」である。
 「国民と協力して」というのは「徴兵制」によって国民を兵隊にして、という意味である。
 「内閣総理大臣が最高責任者なのだから、内閣の閣僚と戦争に賛成した与党の国会議員だけで日本を守ってくれよ。高い金を出して立派な武器を買ったんだから、庶民が兵隊になんかならなくても大丈夫でしょ? 日本を守ってくれると言ったから投票したんであって、兵隊になるために投票したんじゃないよ」
 こういう「論理」は、まあ、通じない。
「国」が「国民」を支配する、という自民党の「思想」が、「主語」を変更することであらわれている、ここに自民党の「思想」を読み取るべきだと、私は思う。

 と、ここまで書いてきて、突然、気がついたことがある。
 「第一章 天皇」「第二章 戦争の放棄」(改正草案では「安全保障」)。まだ「国民」が「主題(テーマ)」になっていない。
 「国民主権」なのに「主役」の「国民」がテーマになっていない。「国民」がテーマになるのは「第三章 国民の権利及び義務」である。
 第一章が「天皇」なのは、たぶん、日本の特殊事情。明治憲法を一気に書き直すことができなかったということだろう。現行憲法を「押しつけ憲法」と自民党は言っているが、ほんとうに「押しつける」気持ちがあるなら、「天皇」から憲法をはじめないだろうなあ、と私は感じる。日本が「天皇」のことをまず「定義」するように要請したのだろう。
 「第二章 戦争の放棄」というのも、「国民の実感」が優先されたのだろう。「国民とは何か」という定義よりも、「戦争は、もう絶対にいや」という気持ちが「国民」のあいだに「天皇への敬意」と同じように、みちあふれていたのだろう。もろちん「日本に戦争をさせたくない」という連合国側の思いも反映されているだろうが、「国民」の「定義」の前に「戦争の放棄」があることを、忘れてはならないと思う。
 いちばん大事なことは最後に言う、というひともいるが、たいていはいちばん大切なことから言いはじめるのが人間だ。
 「意味」とか「思想」は、ことば(用語)のなかにだけあるのではない。どういう順序で語るか、どう言い直すか、というところにもあるのだ。

 (詩を読むのと同じ方法で、「自民党憲法改正草案」を読んで、思ったことを書いています。私の「感想」は間違いだらけかもしれないけれど、間違いのなかでしか語れないものもあると思う。間違うというのは、ひとつの必然なのだと思う。
 だから、というと変だけれど。
 多くのひとが、それぞれの自分のことばで「憲法改正草案」を読んで、思っていることを語ってほしいと思う。
 音楽が好きなひとには音楽が好きなひとにしかみえない何かがあるだろう。美術が好きなひとには、また美術が好きなひとにしかみえない問題点が見えると思うし、エッチが好きなひとにはエッチが好きなひとにしかみえない問題点がある。実感から生まれることばは、すべて「思想」だ。)

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田中紀子「プリズム」

2016-06-28 08:53:58 | 詩集
田中紀子「プリズム」(「豹樹Ⅲ」26、2016年06月20日発行)

 田中紀子「プリズム」は、いま生きている母を描いているか、生きていた母を描いているのか、よくわからない。どちらとも読むことができる。生きていた母だとしても、記憶の母だとしても、田中のなかにいま生きているからだろう。

母は
リビングのソファに身を沈ませて
鶴を折りつづけていた

私は
台所で
廊下で
リビングで
庭で
立ち働いて

母は
折りつづけ

私は
立ち働いて

母は
時折手を休め
深々と溜息をつくとき
身体中が瞬きながら
光の粒に分解されて
煌めいた

私は
ああそこにいたのね
とその度ごとに
驚くのだった

溜息と共に
少しずつ零れおちた
光の粒は
静かに
音も立てずに
消えていった

 六連目の「そこにいたのね」の「そこ」が、わからない。
 わからないのに、この「そこ」が美しいと感じる。

 「そこ」とは「リビング」「ソファ」か。そうかもしれないが「場所」とは思えない。
 そこは「溜息」を指しているのか。「光の粒」か。あるいは「煌めいた」という「動詞」か。
 あるいは「深々と溜息をつく」の「深々」かもしれない。「つく」という「動詞」かもしれない。「身体中が瞬きながら」の「瞬く」という「動詞」かもしれない。
 「身体中」の「身体」かもしれない。
 いや、「時折手を休め」の「手」かもしれないし、「休める」という「動詞」かもしれない。
 書かれている「全部」が「そこ」。「母」という存在が「そこ」かもしれない。

 どれかを特定して「そこ」と指し示すことができないのは、そのすべてが「ひとつ」になっているからだろう。

 「そこ」とは別に、六連目にはもうひとつわからないことばがある。「その度ごとに」の「その度」。(ここにも「その」という形で「そこ」に通じるものが書かれている。指し示すという田中の、ことばの肉体が動いている。)
 「その度」とは、母が「手を休めるとき」か、「溜息をつくとき」か、「瞬くとき」か、「分解されるとき」か、「煌めいたとき」か。これも、特定することはできない。やはり「ひとつ」になっているからである。どれかの「とき」をとりだして、「それ」と特定すると何か違ったものになる。あらゆるものが「特定できない」かたちで、深く結びついている。関係し合っている。

 「その度」ではなく、「その度ごとに」の、「ごとに」目を向けるといいのかもしれない。
 「ごと」は「毎」。「毎日」の「毎」。「繰り返し」である。
 五連目のなかに書かれている「動詞」、「動詞/述語」の「主語」となっている「名詞」。それは、一回きりのことではなく、繰り返されているのである。(繰り返しは「母は/折りつづけ」「私は/立ち働いて」という形で先にあり、ここでは「繰り返し」そのものが凝縮されている感じがする。)
 だからそれがたとえ一回きりであったとしても、その一回のなかにそれまでにあったことがすべて存在し、繰り返されている感じがする。
 言い換えると、「手を休める」「溜息をつく」「身体中が瞬く」「光の粒に分解される」「煌めく」ということが一回だけだったとしても、「手を休める」のなかに「溜息をつく」ということが繰り返されている。「身体中が瞬く」ということも、「光の粒に分解される」「煌めく」も繰り返されている。
 「ひとつ」の「そこ」から、瞬間瞬間に、あることが「ことば」になって生まれる瞬間瞬間に、その「ことば」を「生む」別の「動詞」として存在している。すべてのことがつながりながら、「その度ごとに」姿を変えて、動いている。繋がって、生きている。

 この「繋がり」は「ことば以前」の、まだ名づけられていない「ひとかたまりの状態/エネルギー」かもしれない。
 「ことば以前」の「名づけられない」何かが、瞬間瞬間、「ことば」になって生み出されている。生み出されて「ことば」になる。

 同時に。

 この瞬間、「そこ」にいるのは「母」ではなく、「私」でもある。
 「そこ」「その」が特定されていないように、「いた/いる」の「主語」も特定されていない。
 「母はそこにいたのね」と気づく(驚く)のではなく、「私」そのものが「そこ」にいたのだ。「母」となって、「そこ」にいた。「そこ」に
いる。
 生み出される(生まれる前の)私であり、生まれたあとの私であり(こども時代の私であり)、それから母となった(こどもを持った)私、あるいは(こんなことを書いてはいけないのかもしれないが)死んで行く私。「いのち」の繋がりとしての「私」がそこにいる。
 そこにいるのは「母」でもなく「私」でもなく、「いのちの繋がり」そのものであり、それがある瞬間には母になり、また「私」になる。

 タイトルの「プリズム」は、「ひとつ」光を「いくつか」に分けてみせる。「ひとつ」の「光」が「プリズム」を通ることによって、「いくつもの」光に分かれて生み出される。
 それに似たことが、ここでは「起きている」のである。「生まれている」のである。
 (プリズムは光を「分光する」。その「分光」の「分」をつかって「分節」ということもできるのだが、「分節する」ではなく、私は「生み出す/生まれる」と考えたい。)

*

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自民党憲法改正草案を読む(5)

2016-06-27 12:07:41 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(5)(2016年06月26日)


 「第一章 天皇」。

第一条
天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。(現行憲法)

第一条
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(自民党改正案)

 どこが違うか。「象徴」は同じ。「日本国民の総意に基づく」も同じ(仮名遣いは考慮に入れない)。「元首」が改正案でつけくわえられたことばである。
 「元首」は、とてもひっかかるが、私は「名詞」ではなく「動詞」を中心にことばを読むところからはじめたい。
 詩を読むとき、私は「動詞/述語」に注目して、そこに書かれていることをつかみ取る。同時に、ひとは大事なことを繰り返すということに注目し、同じことをどんなふうに繰り返しているか、そのことにも注目している。その、詩を読む方法を憲法にもあてはめて読んでみる。
 私が最初に注目するのは、現行憲法の、

天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、

 という部分。「象徴である」という「述語」が二回繰り返されている。改正案は、

天皇は、(略)、日本国及び日本国民統合の象徴であって、

 と一回ですませている。
 「意味」は同じであるように思える。同じことばを繰り返しつかうのは、「へたくそ」な日本語かもしれない。学校作文なら一回でいいと「添削」されるかもしれない。
 なぜ、二回繰り返したのだろう。
 私は、ここから考えはじめる。「法律家」ではないので、あくまで、そういうことばをつかうとき、ひとは何を考えているか。詩にこういう表現があったとき、私はどう読むかというところからはじめる。

天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、

 これは、

天皇は、国民統合の象徴であり日本国の象徴であつて、

 と、ことばを入れ替えても、意味は変わらないと思う。「象徴である」という「述語」は「天皇」という「主語」としっかり結びついている。そして、この「入れ替えが可能」ということは、裏を返せば「日本国」と「国民の統合」が同じものであるという証明だと思う。「日本国」とは何か、と問われたら、ここから「国民統合」(国民を統合したもの)であると答えることができる。「日本国=国民統合」という対等の構図が「日本」という国の定義になる。
 図式化すると「天皇=日本国の象徴」「天皇=国民統合の象徴」というふたつの「等式」から「日本国=国民のあつまり(統合)」が導き出され、さらにここから「天皇=日本国=国民統合(国民のあつまり)」という関係が浮かび上がる。「天皇」「日本国」「国民」は「象徴」ということばで、すべてイコール(等しいもの/対等なもの)になる。
 改正憲法ではどうか。

天皇は、(略)、日本国及び日本国民統合の象徴であって、

 「及び」ということばの「意味」がむずかしい。現行憲法をわざわざ書き直しているのだから「違う」という視点に立って見るべきだろう。「日本国」の象徴であり「国民統合」の象徴ではなく、あくまで「日本国及び国民統合」の象徴なのだ。「日本国」と「国民統合(国民のあつまり)」はイコールではない。「日本国」と「国民統合」を改正憲法は「入れ替えたくない」のである。イコールにしたくないのである。「日本国」が最初にきて「国民統合」があとにくる。その「日本国→国民統合」という構図が「日本国」の定義になっている。国民がいて国があるのではなく、国があり、その下に国民がいる。この「国→国民」という関係を天皇が「象徴する」。「天皇→日本国→国民」という関係が、ここから浮かび上がるかなあ。

 ここから、改正案に挿入された「元首であり」にもどってみる。

天皇は、日本国の元首であり、

 これは、

天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首であり、

また

天皇は、日本国及び日本国民の元首であり、

 ということになる。
 
 ここに「国→国民」という構図をあてはめると、「元首」はどこに入るだろうか。「元首→国→国民」とならないだろうか。そして、それは「天皇=元首→国→国民」ということにもなるのだが、「国民」がいちばん下にきてしまう。改正憲法の「前文」に「国民主権の下」という文言があるが、「主権をもつ人間」がいちばん下にくるのは、まずい。矛盾している。だから、その矛盾、主権者の国民がいちばん下の位置にくるという関係を隠すために、「国民統合の象徴=天皇」を持ち出し、「天皇=元首→国→国民=天皇」という奇妙な「幻(=循環構造)」に仕立ててしまう。「幻」のなかで「国民」がいちばん下(支配される人間)であることがあいまいになる。
 改正憲法では「国民」が支配される人間になるのだが、その「事実」を奇妙な言い回しで、意識的に隠しているように思える。

 少しことばが先走りすぎたかもしれない。
 「元首」の「意味」をもうすこしていねいに考えてみたいのだが、その前に「象徴」ということばを振り返ってみる。
 たとえば「赤い薔薇」は「美の象徴」である、という言い方がある。愛している女性を「赤い薔薇」と呼ぶとき、それは「恋人=赤い薔薇(比喩)」であり、「赤い薔薇=美(象徴)」ということになる。「赤い薔薇」と「美」は「具体的存在」と「抽象的概念」と区別して言うことができるから「同じもの」ではないが、ことばを動かしている人間にとっては(ことばを聞いている人間にとっては)、「同じもの(イコール)」である。(「比喩」は、具体的なものを別な具体的なものでいいなおすこと、「象徴」は具体的なものを抽象的なものと結びつけて同じであるということ、と考えることができる。)
 「象徴である」は「同じものである(イコールである)」という「意味」としてとらえなおすことができる。厳密には違うだろうけれど、通い合うものがある。「同じもの」は抽象的に言い直すと「同等のもの/対等のもの」ということになるかもしれない。恋人を「赤い薔薇」と呼ぶとき、「赤い薔薇」は「美」という概念と「同等のもの/対等のもの」である。
  だから、現行憲法の、

天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、

 というのは、

天皇は、日本国と「同等のもの/対等のもの」であり国民統合の「同等のもの/対等のもの」であつて、

 と「強引に」言い直すことができる。天皇は別に偉くないのである。「象徴/意味の目印」なのである。
 さて。「元首」。改正憲法は「元首」を「定義」していないし、そのことばが出てくるのも一回だけなので、「主語/述語」の関係から「内容」を特定することがむずかしい。だから「常識」から判断するしかないのだが……。
 「元首」というのは「ひとり」である。ひとつの国に「元首」が一億人いたら、それは「元首」ではない。「特別な存在」である。「特別な存在(ひと)」という意味では「天皇」と似ている。「象徴」というのも「特別なひと」に通じるかもしれない。だれもが「象徴」になれるわけではない。
 この「元首」と呼ばれるひとは、ほかのひととどう違うか。私の知っていることをつなぎあわせると、「元首」は多くの人を代表するほかに、多くの人を支配する。たとえば北朝鮮の金総書記。「代表する」ときは「対等/同等」かもしれないが、「支配する」ときは「対等/同等」ではない。「支配者」である。
 この「元首=他とは対等/同等ではない存在/支配者」と、先に見た「象徴=他とは対等/同等のものである」ということばを、改正草案にあてはめて読み直すとどうなるか。

天皇は、日本国の元首であり(つまりたったひとりの特別なひとであり/支配者であり)、日本国及び日本国民統合の象徴であって(つまり対等/同等な意味をもつひとであって)、

 ということになる。
 「国民とは違う特別なひと/支配者」であると「国民と対等の意味をもつひと」であるというのは相いれない。矛盾する。
 この「矛盾」を解消するために、

その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 という文を改正憲法はつづけるのだろうか。
 このとき「総意に基づく」は「国民の了解を得た」という意味である。「矛盾」していても、それでいい「国民が認めた」と、その「矛盾」を押しつけている。「国民」のせいにしている。
 現行憲法にも「総意に基づく」という同じ文章があるが、「対等/同等である」のだから、別に反対する必要はないだろう。
 それに「この地位は」の「この」にも注目しよう。「この」は自分の身近にあのものをさすときにつかう。「対等/同等」の感覚があるから、それは「身近」なのだ。
 「この地位」は「天皇は象徴であるという地位」はであると同時に、「天皇と国民は支配/被支配の関係にない(対等である)」という意味でもあるだろう。
 「この」のなかには「国民」が含まれる。
 改正草案は、「この地位は」と言わずに、「その地位は」と言っている。少し「離れた」ものとして「天皇の地位」を考えている。なぜ、離れるかといえば「対等/同等」ではないからである。「国民」と一緒にしてはいけないから、「その」ということばで距離をつくりだす。「特別な存在」だから、「特別」を強調するために「その」ということばで切り離すのである。「その」には「国民」が含まれない。

 で、もう一度、

天皇は、日本国の元首であり

 にもどる。
 これは、

天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首であり、

 ということになるのはすでにみてきた。「日本国民」がいなければ「日本国」の「元首」にはなりえない。「国民」を必要としている。
 「元首である」を「支配する」と言い換えると、

天皇は、日本国を支配し日本国民を支配する

 あ、これでは、何か「まずい」ものがあるね。それが「まずい(露骨)」ものだからこそ、

その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 と現行憲法にあったことばをそのまま借用して「まずい」部分を隠す。現行憲法と「同じ」を装う。さらに「総意に基づく」とだめ押しすることで、「国民はそうなることを選んだ」と言うのである。

 うーん。

 でも、天皇がほんとうに「元首」になってしまったら、「政治」はどうなる? 天皇がすべてを決める? だいたい、天皇が「元首=支配するひと」になりたがるかなあ。なってくれるかなあ。「特別な人間ではない=人間宣言」をした天皇(の子孫)が再び「特別なひと」をそのまま受け入れるとは思えない。
 だからだろう。改正憲法は、第五条で、

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。

 と、つけくわえる。この文言を読むと「元首=何でもできる偉いひと」というイメージは消える。
 「元首」なので憲法に従い「国事」は行うが、「元首」なのに「政治(国政)」には関与しない。「元首」であるけれど、「政治」は行わない。
 じゃあ、だれが「政治(国政)」を行うのか。そう考えるとき、ここから違う風景が見えてくる。
 改正憲法の「天皇」の部分には書いていない。常識(あるいは現実)に即して考えると「内閣(行政府)」であり、その長である「内閣総理大臣」だね。
 何だかよくわからないが、これは「虎の威をかる」という感じだなあ。天皇を「元首」という地位に置いておいて、その天皇には権限を与えず、内閣がかわりに「政治」をするということかな。

天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首である(日本国を支配、統治する権限をもっている)。「天皇というのは」日本国及び日本国民統合の象徴であって、実際には政治をしないし、特別な権力も発揮しない。そういう「お飾り」的な地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
 (行政は、あくまで「内閣/内閣総理大臣」が行う。)

 そうは書いていないのだが、思わず、そういうふうに読み直してしまう。(行政は……のくだりがないのは、「第一章」のテーマが「行政」ではなく「天皇」だからである。そこに書くことができないから、書いていないのである。)

 このとき、

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、

 は、

天皇は、日本国の元首という象徴であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、

 というふうに読めてしまう。「元首」としての権力を行使するわけではない、つまり実体がないのだから「象徴」というしかなくなる。
 このとき、

日本国の元首という象徴であり、

 は、どういうことになるのだろうか。繰り返しになるが「実権をもたない」ということになる。「象徴」とは「実体」ではない。「実」を含まない。いわば「虚」である。
 これを「実」にかえるためには、どうしても「実行者」が必要になる。
 「元首」のかわりに「首相」が必要になるということを意味する。「元首」の仕事を誰かにまかせなければならなくなる。
 「天皇(元首=象徴)→国→国民」ではなく、

元首(=首相=実体)→国→国民

 という形にならざるを得ない。
 でも「元首」を「象徴」と言い直し、それを「首相」が代行し、権力をふるうと、「象徴」ということばを媒介にして、「天皇=首相」という「算数」が成り立ってしまう。

天皇は元首という地位の象徴であり、天皇は実際の行政をおこなうことはなく、内閣が行政をおこなうのだから天皇は内閣の象徴である、ということになる。このとき「日本国」は「内閣」の象徴(等しい存在)になる。内閣の実施する「行政」が「日本」を形作る。「日本」を決定する。

 ここから「内閣総理大臣→天皇(元首)→国→国民」という図式が見えてきてしまう。内閣は天皇という存在を象徴として利用し、国と国民に権力をふるうということが見えてきてしまう。でも、これでは「まずい」ので、なんとか「天皇→内閣総理大臣→国→国民」という形を「幻想」として国民にみせようとしているのではないか。しかも、その「幻想」は「国民が求めたもの」という形にしたいのではない。
 そういうことを感じさせるのは、改正案の第六条があるからだ。

天皇は、国民のために、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命し、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長である裁判官を任命する。

 現行憲法では、第六条は

天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 現行憲法には存在しない「国民のために」という文言が、改正案では、わざとらしく挿入されている。これは「内閣総理大臣が国民を支配するぞ」という意志を隠すための「嘘」だ。「国会」が「選挙によって選ばれた議員」によって構成され、その議員が総理大臣を選ぶなら、それは国民の選んだ総理大臣ということになるのだから、わざわざ「国民のために」ということばなどいらない。
 必要な部分に「国民」ということばを省略し、不要な部分に「国民」ということばを補っている。これは天皇がわざわざ国民のためにしていること、天皇がお墨付きであるといいたいのだ。天皇を利用しているのだ。
 「国民のための」憲法を装いながら、「国民を支配するための」憲法をつくろうとしている姿勢が、天皇について触れた部分からもうかがえる。「国民」とか「主権」とかいうことばを、なんだか国民をごまかすためにつかっているような気がしてならない。
 「象徴」ということばを引き継ぎながら、「象徴天皇」を隠れ蓑にしようとしている。

 (ほかにも書きたいことがあったのだが、目が痛くなって、忘れてしまった。)
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有働薫『モーツァルトカレンダー』

2016-06-26 10:47:20 | 詩集
有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行)

 有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。
 「岩たばこの栽培」。その途中の部分。

正午の鐘が鳴った
はじめいくつかは一つずつ鳴り
やがて連続して激しく鳴り
はげしくしばらく鳴りつづけ
やがて低く
遠ざかるように消えていった

 ここがとてもおもしろいと思った。
 「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。
 これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。
 にぎやかで、とても楽しい。
 そのあとの、

日差しが強い
 セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ
 カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね
連れがあるつもりになる

 と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。
 でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。
 全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。
 で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。
 「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。
 音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。
 「他人」は、このとき「連れ」になる。
 そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。

 こういうことばのあとに、さらに

教会堂の柵のねもとで
サンドイッチをたべた

 あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。
 ほかは、よくわからないのだけれど。



詩人のラブレター
クリエーター情報なし
ふらんす堂
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自民党憲法改正草案を読む(4)

2016-06-25 12:06:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(4)


 自民党憲法改正草案「前文」のつづき。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

 「我が国は、……世界の平和と繁栄に貢献する。」と要約することができる。これだけ読むと、「正しい」ことを主張しているように見える。いや、「正しい」のだと思う。
 でも、なんとなく嘘っぽい。いいことばかりが書かれているように思う。
 いや、「嘘っぽい」ではなく、ここには「嘘」が書かれている。
 それは、

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、

 この部分である。
 「大戦による荒廃」や「幾多の大災害」ということばのつなぎ方が奇妙である。「大戦」と「大災害」は同列のものなのか。「大戦(戦争)」は国が引き起こすもの。人為的なもの。「大災害」には人為的なものもあるが「自然」が原因のものもある。たとえば「大地震」。もちろん「大地震」も人知をつくし予知し、災害規模を減らすことはできるだろうけれど、地震そのものを発生させないというのは困難だろう。それは「戦争」と同列にあつかってはいけないものなのだ。別のものなのだ。
 しかし、自民党は、それを別のものと考えない。
 「大戦による荒廃や幾多の大災害」とことばをつなげるとき、「大戦」もまた、不可抗力で起きたかのように見えてしまう。そこに「ごまかし/嘘」がある。
 「先の大戦」は地震のように、人間の支配できないところで発生したのではない。「先の大戦」の「震源」は「政府」にある。だから現行憲法では、きのう触れたが、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、

 という一文があった。
 自民党の憲法改正草案には、この「反省」がない。まるで日本が他国の戦争に巻き込まれ(あるいは他国から戦争をしかけられ)、その結果「荒廃」したように読めてしまう。いや、「反省」をわざわざ省略し、「先の大戦」を「大災害」と同等に扱うとき、そこには「先の大戦」を「大災害」と見る視点が隠されている。
 (この「大災害」を前面に出し、「戦争」を背後に隠して「論理」を展開する方法は、現実に起きている。たとえば、地震災害。直近の熊本地震のとき、自衛隊が救助活動に活躍した。そのことを取り上げて自民党は「自衛隊は貴重な仕事をしている。それなのに共産党は自衛隊を違憲だと主張している、廃止しようとしている」云々。しかし、共産党は「自衛隊」が災害救助に活躍することを批判しているわけではないだろう。「戦争」に駆り出すことに反対している。だから、自民党の論理を逆に言い直せば、「なぜ災害救助に重要な役割を果たしている自衛隊を戦場に行かせ、死ぬ危険にさらさなければならないのか。災害救助に必要な存在なら、戦場に行かせるような法律はつくるな」ということになる。「戦争法」をつくって自衛隊員を戦場に行かせるのは、おかしい。「戦場」は「自然災害の現場」ではないのだから。だが自民党(安倍)はそうは考えない。--ここからも、自民党は「戦争」と「災害」を区別しないでいることが指摘できる。「戦争」を「災害」と呼ぶことで、自衛隊を戦場に行かせることを当然だと考えていることがわかる。)
 自民党の憲法改正案には、「先の大戦」の責任(敗戦の責任)は「政府」にはない、という思いが隠されている。他の国が悪いのだという思いが隠されている。「反省」のないところ、「反省」をせずに、責任を他者に転嫁したところから、自民党の憲法改正草案は書かれている。

 改正草案の前文のつづき。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 私は、ここにもつまずく。
 「日本国民は、……国家を形成する。」「我々は、……国を成長させる。」「日本国民は、国家を末永く子孫に継承するため、」
 これは、「国民」と「国家」の関係が逆ではないだろうか。
 「国」が「国民」を守るとき、そこに「国家」が生まれる。「国が、国民を成長させるとき(充分な教育の機会を提供し、国民のひとりひとりが成長するとき)、国家は必然的に成長する」。「国が、老人もこどもも大切にするとき、国民のいのち、文化は、おのずと継承されていく。人間のいのちそのものが継承されていく。」
 「国」はそれを助けるもの。「国」は国民を守るもの。「国」が国民を大切にするとき、国民はおのずと「国」の重要性に気がつき、「国」を大切にするだろう。
 それに。
 「国」と「人間」の関係は、「国」は「国民」を選べないのに対し(その「国」で生まれてきて、そのひとがその「国」で生きることを選んだとき、「国」はそれを拒めない)、「人間」は「国」を選べる。「亡命」とか「移住」とか。あるいは、選挙によって「政府」を選ぶことができる。
 こういう「選択権」を自民党の憲法改正草案は否定している。憲法を「政府」を拘束するものであるはずなのに、自民党は、憲法を「国民」を縛るものとする「定義」によってつくられている。逆の「思想」でつくられている。

 「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」は「美しいことば」だが、奇妙である。「和」というものは最初からあるものではない。「家族」「社会」のなかには、さまざまな人間が生きていて、それぞれに考え方が違う。ときには、激しい議論も必要である。「ことを荒立てる」ことも必要である。「家族」を解消しないことには生きていけない場合もある。
 ここにも、「国/枠組み」が最優先し、「国民」はそれにしたがう、「国/枠組み」が「国民」を支配するという姿勢が隠されている。

 それにしても。
 「日本国民は、」からはじまる文章は非常に気持ちが悪い。そこには「世界」というものが認識されていない。「日本国民は、」と国民をおだてておいて、「日本」は特別な国であると言おうとしているように思える。
 現行憲法と比較するとはっきりする。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 現行憲法も「日本国民は、」と書き出されているが、そのことばの先には「国(日本)」があるのではない。「日本国民」の先には「諸国民(他の国の国民)」「全世界の国民」ということばがある。「国(日本)」か「国民(全世界の国民)」かという違いはとても大きい。
 「国民」というのは「仮の呼称」であって、ほんとうは「人間」。「人間」は「人間」とつきあう。向き合う。それが「何国人」であれ、「人間」は「何国」と向き合うわけではなく、「人間」と向き合う。「国」は関係がないのである。「政府関係者」か何か、特別な仕事についていないかぎりは、「人間」は「人間」と出合うのであって、「国」と交流/交渉するわけではない。
 「国」が「国民」を縛る(拘束する/決定する)のではなく、「国民」が「国」を拘束し、すべてを決定する。それが「国」と「国民」の基本的なあり方だから、現行の憲法は、「日本国は」といわずに「日本国民は」と書いている。
 それは「ひとりひとりの日本国民」に代わって、「世界の国民」に向かっての呼びかけなのだ。「私はこうします」と言っているのだ。
 「国民」が「国」をつくる(拘束する)ものであるからこそ、最後の「国家」についての部分でも、主語は「われら(国民)」なのである。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 ここに書かれている「自国」は「日本」ではない。「国」という「概念」そのものである。「他国」も特定の国を指しているのでなく「概念」である。「自国/他国」は「各国」と言い直されている。「国」を「概念」として提示したあとで「われらは」と言っている。
 これは世界に向けた宣言である。
 自民党の改憲草案にも「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」ということばはあるのだが、最後は「諸外国」「世界」を脇に押しやって、「日本国」のことだけを言っている。
 だから「理念」として、気持ちが悪い。他者を排斥しているから、ぞっとする。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。(自民党憲法改正草案)

自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。(現行憲法)

 「日本」に焦点をあてた「視野狭窄」の自民党憲法改正草案には、「対等」という思想が欠けている。これは裏を返せば「日本が優秀である」という「独断」によってつくられた「改憲草案」であることがわかる。「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」というのは、「ドイツ民族のよく伝統を末永く子孫に継承する」という「理念」のためにユダヤ人を抹殺したヒトラーの思想そのものではないか。
 「先の大戦」に負けたが、日本は「正しい」。負けたのは「間違っていた」からではなく「大災害」だったのだという「声」が隠れている。

 自民党の改憲草案では、もっぱら「第九章 緊急事態」が取り上げられるが、細部のひとつひとつの「改変」を見落としてはならない。
 「緊急事態条項」でも、

我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、

 と、「外部からの武力攻撃(戦争)」と「自然災害」が同列に書かれているが、これはすでに「前文」に書かれていることである。「前文」に書かれているからこそ、そこで書き足りないものが補足されているのである。
 「内乱等による社会秩序の混乱」ということばは「前文」になかったものであり、「こっそり」とつけくわえられているとも言える。そして、その「こっそり」に注目するなら、これこそが自民党憲法改正草案の「いちばん重要な部分」ということができる。
 「外国が攻めてきた、大変だ、戦争だ。自衛隊の皆さん、助けて。」というのは、わかりやすく、きっとだれも反対しない。「大地震だ。自衛隊の皆さん、助けて。自衛隊がいてほんとうに助かった。」も受け入れられるだろう。
 けれど「社会秩序の混乱」って、何?
 たとえば、私がこうやって自民党の憲法改正草案を取り上げて、これはおかしい。日本だけが特別な国であって、その国を守るために国民は国(安倍)の独裁を受け入れないといけないというような憲法はおかしいと言い続けると、それは「社会秩序を混乱させる」ということで、自衛隊を派遣して拘束しろ、ネットを切断しろ、パソコンを奪え(文書を抹消しろ)ということにだって、なりかねないのだ。私の発言のどこに問題がある? 誰かが疑問に思って問い合わせても「秘密保護法」の対象で答えられないということになるかもしれない。
 すでに「改正しやすいところ/受け入れられやすいところから改正する」云々という「方法」が聞こえてくるが、「細部」を見逃してはいけない。

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上原和恵『ひなのかよいじ』

2016-06-25 08:40:29 | 詩集
上原和恵『ひなのかよいじ』(Bee出版、2016年05月23日発行)

 上原和恵『ひなのかよいじ』の巻頭の「はさみとの同化」。

冬の冷気を吸い込めるだけ吸い込み
錆びついた黒い取っ手は剥げ落ち
裁縫箱に眠り続ける裁ちはさみ
糸を切ると重たく擦れあい
握りしめたはさみの冷やかさは
私から熱を奪い去り
私の心まで冷やかになる

炉をくぐり抜けたときは
まっかに燃えさかっただろう
鋳型に嵌められ
身動きも出来なくなったのだろう
世の中の移り変わりには
目もくれず
同じスタイルを守り
じっとうずくまっている

冷たさを握りしめ
毎日毎日温めてやり
少しずつ心を開いていく
空気を切ると
空振りの音を出す
新聞の活字を軽やかに
さくさくと切り抜いていく
古くなったシーツも
ひとたちで切り裂く
私の心をどんな風に
切り裂いてくれるのだろうか

 二連目は、おもしろいな、と思う。鉄がはさみになる過程が描かれ、はさみになったあとも書いてある。特別新しいことが書かれているわけではないが、読んでいて、なんとなく落ち着く。
 一連目、三連目もおもしろいところがあるのだけれど、

私から熱を奪い去り
私の心まで冷やかになる

私の心をどんな風に
切り裂いてくれるのだろうか

 この、それぞれの最後の二行がつまらない。なぜつまらないかというと「心」が出てくるからである。詩はたいてい「心」を描いている。「心」と書かれてしまうと、何だか「心」を押しつけられた気持ちになる。
 もう一か所、

少しずつ心を開いていく

 と「心」が出てくるが、これは気にならない。
 どこが違うか。
 この「心」は「はさみの心」だからである。
 それに対して、先に引用した二か所の「心」は「私の心」。
 うーん、人間というのは「他人の心」というものを気にしないものなのだ。特に、本を読むというような、自分にとじこもりがちな人間は「他人の心」を無視する。「自分の心」のことだけを考えている。
 だから。
 そこに書かれていることばに感動したとき、ひとは「あっ、これこそ自分の言いたかったこと」と思う。こういうことを、「同化」という。作者と自分(読者)の「同化」。それも、作者をのっとる形での「同化」であって、作者にのみ込まれて「同化」するのではない。
 けっして「これは、このひとが言いたかったこと。感動した」とは思わない。
 他人のことばを読んで、「他人の心」を発見するのではなく、「自分の心」を発見したとき、ひとは感動する。
 で、「私の心」と言われると、「はい、わかりました」と気持ちが冷めてしまう。
 「私の心」と言ってしまうと、その瞬間に、詩は寸断され、詩のいのちは終わってしまう。

 ただ、はさみを書く。はさみになってしまう。そのとき、読者は作者の「心」を無視して、「はさみの心」に触れる。作者が「はさみと同化」したように、読者も「はさみと同化」できる。作者が「はさみと同化しました」と言ってしまうと、読者は「私ははさみなんかになりたくない」と思ってしまう。そこにはさみだけがあるとき、そのはさみが自分(読者)に見えてくる。
 二連目で「もの」としてのはさみになり、三連目で「もの」を「自分の道具」にする。「道具」とは「肉体」の延長である。「肉体」だけではなできない動きを「道具」を借りて実現する。この「もの」を「道具」に生まれ変わらせるときの「肉体」と「もの」との関係が、

冷たさを握りしめ
毎日毎日温めてやり

 ということばのなかに、正確に、しっかりと動いている。「冷たさ」が「肉体」の体温を受けとめて「温かくなる」ように、「もの」は「はさみ」になって、「肉体」のかわりに何かを切ってくれる。開いてくれる。そのとき、「私の心」は「はさみの肉体/心」になって、動いている。つまり、何かを切ったり、開いたりしている。

空気を切ると
空振りの音を出す
新聞の活字を軽やかに
さくさくと切り抜いていく
古くなったシーツも

 この六行は、すばやくて、明確で、とてもいいと思う。「詩」がある。
 ほかの詩でもそうだが、「私はこう思っているんです」と「念押し」すると詩が閉じ込められ、後退する。そうなる前に、ことばを動かすのをやめてみる「度胸」が必要なのだ。「心」を説明するのではなく、「心」は語らない。「事実」だけ書いて、あとは、ことばが勝手に動いていって、「私の心」ではなく「読者の心」になってくれるのを待つ。そうすると、詩が動く。
 そういう意味でくりかえすと、タイトルの「はさみとの同化」は、とてもまずい。これでは「論文」である。「はさみ」だけでいい。「同化」は読者の仕事であって、上原が「同化」してしまうと、「親身」になることができない。

*

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詩を読む方法で「自民党憲法改正草案」を読む(3)

2016-06-24 12:41:25 | 自民党憲法改正草案を読む
日本国憲法改正草案(自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定))

 その前文、

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

 この最初の文章の「主語」は何か。
 書き出しを読むと「日本国」である。しかし、途中から「日本国」は主語ではなくなる。
 国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

 この文章の主語は書かれていない。「日本国」は主語ではなく、「テーマ」である。「主題」である。
 書き出しのふたつの文についても「日本国」は主語ではなく、「テーマ」と読み返す必要がある。「日本国というのは……である」と「というのは」を補うと「テーマ」であることがはっきりする。そう読み返さないと、文章として不統一(主語の乱れ)が生じることになる。
 もちろんすべての文で「日本国」が主語であるとして読むこともできるが、そのとき主語の性質が違ってくる。(これが、実はとても大切。)「動詞」に注目して読み直す。

(1)日本国は、長い歴史と固有の文化を「持つ」。
(2)日本国は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家で「ある」。
(3)日本国は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて「統治される」。

 (3)の部分で、突然「受け身」になる。「受け身」の主語になる。ということは、そこには「能動/働きかける」主語があるはずだ。
 それは何か。
 書いていない。
 いろいろ考えながら読むと「立法、行政及び司法の三権」の「三権」が「日本国」を「統治する」という具合に読むことができる。
 でも、「三権」というのは「実態」がよく見えない。それは「人間」ではない。「人間」を補うと、その「三権の立場についた人間」ということになる。
 ここに、たとえば、私は「参加」することができる。その「一員」になることができるか。むずかしいなあ。
 でも、逆は簡単。
 「三権」に「統治される、日本国民」になることは簡単だねえ。
 「統治するひと」(三権につくひと)は少数であり、その少数のひとが多数の国民を統治するというのが、自民党草案の「意図」なのである。

 現行の憲法と比較すると、わかりやすい。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 ここでは主語は常に「日本国民」である。「正当に選挙された」という「受け身」の動詞は、国民が「正当に選挙して、選んだ」という意味である。「日本国民」は「われら」と言い直されている。「国民」が「行動する」のである。「行動させられる/統治される」のではない。
 さらに、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し

 この部分に、わざわざ「政府の行為によって」という一文があることに注目すべきである。「政府」が「国民」を支配し「戦争を起こす」ようなことがあってはいけない、と書いている。「政府」が主語になることを禁じている。「政府」の行動を縛っている。そのために憲法をつくったのである。
 「政府」が「国民」を統治するのではなく、「国民」が「政府」を「統治する」のである。「統治される」ということばの「テーマ」となっているのは「政府」である。
 ここが、自民党の改正案とまったく違う。
 このことを明確にするために、

ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 と言い直している。「主権」は「国民」にある。あくまで「国民」が主語(主役)であって、「政府」はそれに従うもの。憲法は政府を拘束するもの、と宣言している。
 これを

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 と言い直している。この書き出しの「政府は」は主語ではなく「テーマ」。これから「政府のことについて語ります」という主題の明示。「国民に由来し」「国民の代表者がこれを行使し」「国民がこれを享受する」と、しつこいくらいに「国民」ということばを補っている。「政府」は独立して「主語」にはなりえない、と語っているのである。

 自民党の改正草案は、「国民」は「主語」ではない、と言っているのである。
 さらに注目すべきことは、自民党改正草案に出てくる「人間」である。「天皇」が「国民」よりも前に出てくる。「天皇」というのは「人間」というよりも「地位」かもしれないが、「立法/行政/司法」の「三権」に比べると、「変動(?)」の少ない「地位」である。だれでも「天皇」になれるわけではない。選挙によってえらばれるのではなく、出産/誕生によって、自動的(必然的?)に「天皇」に「なる」。
 この一種の「普遍」の「地位」(血筋?)と「三権」の関係をみていくと、どうなるか。「変化するもの」は「あてにできない」。「変化しないもの」は「あてにできる」。つぎつぎにかわる人間が「統治する」よりも、かわらない「人間/地位」が「統治する」という方が、統治のあり方としては安定するかもしれない。
 でも、自民党の改正草案には「天皇が統治する」とは書いていない。あくまで「三権」によって「統治される」(三権が統治する)と書いてある。
 しかし、片方に「絶対的」に普遍の「地位」があり、他方にひとが入れ替わる「権力」あるというのは、不安定だねえ。どうも、ぎくしゃくするねえ。これを解決するにはどうすればいいか。
 「統合の象徴」という便利なことばがある。
 「象徴」とは「実体」そのものではない。何かの代用。
 ということは、「三権」は、「象徴」を利用して、自分の意志で日本を「統治する」ということだね。

 ここで、「統治する」という動詞にもどってみる。
 自民党改正案では「三権」を主語にしているが、「三権」のうち、実際に「統治する」という行動ができるのは「立法/司法」ではない。「立法」は法律をつくること。「司法」は法が正しく反映されているか判断する。
 「行政」とは「政治を行う」こと。ここに「行う」という「動詞」がある。
 「政府」が「統治(政治)」を「行う」ということになる。
 「政府」が「天皇/象徴」を利用しながら「国民を統合する」というかたちで「統治する」ことを自民党の改正案はもくろんでいる。
 「統合する/統治する」には「統」という文字が共通している。

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し

 という現行憲法の文言が削除されているのは、

政府の行為によつて再び戦争おこすことを決意する

 が隠されていると読むべきである。「秘密保護法」「戦争法」と憲法の周辺から徐々に「統治しはじめている」のが安倍なのだ。
 そして、最初の文章を「政府」を主語として読み直すとどういうことになるか。

日本国「というの」は、長い歴史と固有の文化を持「っていると、政府は考える」、
日本国「というの」は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であ「ると政府は考える」、
日本国「というの」は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される「と政府は考える」。

 「政府」を「安倍」に置き換えてもいい。「考える」というのは、名詞化すると「思考」あるいは「思想」になるかもしれない。自民党憲法改正草案は、いわば「思想」の「押しつけ」なのである。これ以外の「思想」を持つことを許さない、と「政府(安倍)」が国民(私たち)に押しつけようとしているのである。


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ブライアン・ヘルゲランド監督「レジェンド 狂気の美学」(★★★)

2016-06-24 00:32:38 | 映画
ブライアン・ヘルゲランド監督「レジェンド 狂気の美学」(★★★)

監督 ブライアン・ヘルゲランド 出演 トム・ハーディ、エミリー・ブラウニング

 トム・ハーディの唇は女っぽくないか。上唇がめくれていて、下唇とおなじくらいの厚みがある。どうでもいいことなのかもしれないが、これが不気味。
 双子のギャングをひとりで演じているのだが、そのうちの弟(かな?)は眼鏡をかけていて、太っていて、男色家。その弟の方が、上唇のめくれかげんが大きくて、それが特に気持ちが悪い。兄の方は、いくぶん上唇を引き気味にしているのか、めくれてはいるんだけれど異様な厚みではない。で、その唇のめくれかげんというのは……。
 ことばの国(イギリス個人主義)のせいか、何と言えばいいのか、「ことば」を言う前から「内面」の声を剥き出しにしている感じがする。
 目は口ほどに物を言うというのは世界共通の感覚かもしれないが、この弟は眼鏡をかけていて、目を半分隠しているというか、間接的な「場」に遠ざけている。そのかわり、ひとが言わないようなことを「唇」で言ってしまう。「内面」の声を「唇」でさらけだしている。
 兄が、どちらかというと「内面」の声を押し隠し、「冷静」なのに対し、弟は「内面」の声をあからさまに出して「乱暴/強暴」なのだが、この正確が「唇」に出ていると、私は思う。声の出し方と言えばいいのか、発音の仕方と言えばいいのかわからないが、それも「唇」のめくれかげんを反映して、弟の方はイギリス英語なのにエッジが甘い。不明瞭。でも、その不明瞭なのに、「欲望」だけは、どろりと出ている。それが相手に伝わる。(観客に伝わる。)これが、不気味で、こわい。兄の方は、明瞭。その分、嘘っぽいものがある。「ことば」で「許した」というようなことを言いながら、殴りつける。弟はそんなことはしない。怒っているとつたえて殴る。あるいは殺す。
 唇とことばと人格。この関係がというか、こんな関係を具体的に映画にするのが、やっぱりシェークスピアの国、ことばの国、ことばと個人主義が硬く結びついているイギリスならではだなあと思う。
 映画なので。
 つまり芝居とは違って、顔をアップで見ることができるので、どうしても顔に反応して見てしまうのだが、ヒロインのエミリー・ブラウニング。この女優、キャメロン・ディアスを歪めたような顔していない? 美人なの? キャメロン・ディアスを思い出させるところをみれば、「美人」なのかもしれないけれど、「歪めている」という感じがするから「ブス(歪んでいる)」なんだろうなあ。兄の方のトム・ハーディを映画に出てくる人物が口をそろえて「ハンサム」というのだけれど、彼がギャングたちといっしょにいるときよりも、エミリー・ブラウニングといっしょのときの方が私には「ハンサム」に感じられる。
 と、いろいろ余分なことばかり書いてしまったが。
 映画は、何と言えばいいのか、シックだなあ。アメリカのギャング映画は「ゴッドファザー」を筆頭に豪華だが、(それに対抗してあえて抑制をきかせた映画もあるが)、この映画はイギリスそのもののシックさが全編を覆っている。トム・ハーディの顔もエミリー・ブラウニングの顔も、私は嫌いだが、ロンドンのシックな街並みは美しくていいなあ。貧乏なのに汚れていない、というか、「つかいこんだ」暮らしの落ち着きがある。
 貧乏な男たち(少年たち)のスポーツはボクシング。道具がなくても、できるからね。そうやってボクシングをして鍛えた「肉体」がギャングたちの「肉体」に共通するように、貧しい街並みには何か「暮らし」が鍛えた美しさが貫かれていて、それがギャングをしっかりと支えている感じがする。ときどきあらわれる「肉体」のアクションは、実に引き締まっていて、美しい映画を見るよう。かっこいい、超人的というのではなく、あくまで「現実の肉体」の完成されたアクションを見ている感じ。(ジェーソン・ボーンや最近のジェームズ・ボンドのアクションとは違うということ。)映画そのものも、この昔のつくり方を反映している。
 ということから、この映画を見直せば、たぶん★5個の映画。
 でも、私は、トム・ハーディ、エミリー・ブラウニングの「顔」にひきずられてこの映画を見てしまったので★3個どまり。
           (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ4、2016年06月23日)







「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
L.A.コンフィデンシャル [DVD]
クリエーター情報なし
日本ヘラルド映画(PCH)
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金井裕美子『ふゆのゆうれい』

2016-06-23 08:50:33 | 詩集
 金井裕美子『ふゆのゆうれい』(詩的現代叢書、2016年06月29日発行)

 金井裕美子『ふゆのゆうれい』のなかの「ふゆのゆうれい」。

古い宿場町で
『詩人の墓』という詩集を買って
中村屋という鰻屋で
来世の鰻を食べた
食べるまでに一時間を要し
とっぷりと日が暮れて
昔ながらの夕日を想いながら
ごまあえ
にこごり
エビスビール
詩じゃないことばかりしゃべりつづけ
ぽりぽりと音をたてて
お新香の胡瓜と大根を食べた

 四行目、「食べるまでに一時間を要し」。ここに思わず棒線を引いた。これについて書きたい、と思ったのだ。何が書きたいのかわからないが、「書きたい」という欲望が動いた。
 そして、こうやって詩を引用していると、どこまで引用していいのかわからなくなる。「お新香の胡瓜と大根を食べた」という行を転写しているころには、なんだか、「書きたい」という気持ちが消えかけている。
 どうしてかなあ。

食べるまでに一時間を要し

 これが印象的なのは、そこに「詩」というものがまったく感じられないからである。「散文」だからである。それも単にことばを動かしていくためのことばだからである。
 「意味」も、実はよくわからない。鰻が出てくるまでに一時間かかった、一時間待たされたということかな、と思う。あるいは食べ終わるまでに一時間かかったということかもしれない。どっちでもいいが、その「時間」をわざわざ「一時間」と言っているところに、そんなこと詩とは関係ないだろう、どうでもいいだろうというような気持ちが動き、はっとしたのである。
 あ、いま、想像したこととは違う感覚が動いている。詩を読んで感じるだろうなあと思っていたこととは違うことが動いている。この「裏切り」というのか、「突然の出会い」が詩なんだなあと思い、そしてそれがとてつもなくつまらない(?)散文のリズムであることに驚き、それについて書きたいと思ったのである。
 でも。
 その「散文」のことを考えていたら(散文のつくりだす「文脈」のことを考えていたら)、どこまで引用すれば「散文のストーリー」としてまとまるのかが気になりはじめた。さらに、「ごまえあ/にこごり/エビスビール」という詩的名詞(それぞれにイメージをもったことば)のあとにつづくことばが、何か「いやらしい」。
 「食べるまでに一時間要し(た)」という、無機質な感じではなく、何か「意味」がつきまとっている感じがするのである。「散文」になりきれていない。「詩」を指向している、という感じがして、そこが「いやらしいなあ」という印象になる。

 こういう感想は、単なる「感覚の意見」であって、金井にとってはめいわくなことかもしれないが。

 「ごまあえ/にこごり/エビスビール」との関係でいうと「ぽりぽり音をたてて」という一行が「説明的」すぎるのかもしれない。「音をたてて」がなくて「ぽりぽり」だけだったら「お新香の胡瓜と大根を食べた」までのあいだに「切断」が生まれ、ことばが「さっぱり」した感じに聞こえてきたかもしれない。
 もし、そうであるなら。
 うーん、「散文」を詩に持ち込むというのは、なんだかむずかしいぞ。
 そのむずかしいことを「食べるまでに一時間を要し」は楽々とこなしているということかな。
 ふと、私は、その一行に、散文精神を突っ走った石川淳が「連歌」でみせる「句」の力に通じるものを見たのだ。

 「浅葱桜」の書き出しもとてもおもしろい。

死んだ男と連れ立ってお花見に来た
むかし行きたがっていた
文豪が愛した団子屋は見つからなかったけれど
乱歩という喫茶店でコーヒーとココアを注文した

 行替えをせずに、句点「。」でつないで行けば短編小説の書き出しになるかとも思った。「文豪」と「乱歩」が同じ人をさすのかどうかわからないが、ふたつのことばの衝突が意識を立ち止まらせる。このあたりが、「詩」なのだけれど。
 「ふゆのゆうれい」でも「詩人の墓」「中村屋」という固有名詞が、ことばの重しになって、ことばの歩み(リズム)がしっかりする。その感じ、「肉体」に響いてくる何かがおもしろい。

 「置き場」という詩は、とても好きな詩。一度感想を書いたかもしれない。死体置き場のプールのことを書いているのだと思う。

縁に頭がつかえると
鎖骨のくぼみに
ながいながい竿の先が差しこまれて
くいっと押されます

 「散文」なのだけれど、ここでは「鎖骨のくぼみ」とか「竿の先」とか「くいっ」が散文を突き破っている。
 「散文」と「詩」の出合い方が独特で、それがおもしろさの理由かもしれないなあ。


*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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詩を書くひとへ、詩を読むひとへ

2016-06-22 11:14:08 | その他(音楽、小説etc)
 2016年06月22日は参院選の公示日。
 この選挙で自民党・公明党が勝利し、参議院の議席が三分の二を超えたら、安倍はかならず憲法を改正するだろう。その結果、もう二度と公正な選挙はおこなわれなくなるだろう。政府を批判する意見は抹殺されるだけでなく、批判意見をいう人間は自由を奪われるだろう。

 朝日新聞06月20日朝刊(西部版・14版)一面に次の記事があった。
 改憲議論「次の国会から」(見出し)と報じたあと、

首相は現段階で憲法審査会の議論がまとまっていないことから、「(今回の)選挙で争点とすることは必ずしも必要がない」との考えを示した。

 「必ずしも必要はない」。これは微妙な言い方である。「必要だが、必ずしも必要ではない」。「必要である」ということを隠しているのか。「本来なら必要だが、争点にしてしまうと批判を浴びるので、争点にしたくない。だから、争点として取り上げない」ということだ。
 かわりに「経済」を争点とする。「アベノミクス」を「争点」の前面に押し出す、ということだ。
 「だまし討ち」をすると、自ら言っているのである。
 選挙が終われば、そして参議院の議席の三分の二をとれば、「憲法審査会の議論は終わった。憲法改正草案は何年も前から発表している。国民に知れ渡っている」と言い張るだろう。

 「秘密保護法」「戦争法(安保関連法)」は、いずれも「経済政策」を争点にした国政選挙後の国会で強引に可決された。「経済」をどうするかはそっちのけにして、憲法と相いれない法律を成立させた。
 今回も同じことを狙って行動している。

 さらに、2016年6月22日の読売新聞朝刊(西部版・14版)に、21日開かれた党首討論の記事よると。
 民主党の岡田が、憲法改正をめぐって、「しっかり参院選で議論すべきだ」と語っている。
 これに対して、安倍は

「憲法審査会で逐次的な議論を静かに行い、国民投票で問うべきだ」

 と答えている。
 「静かに」ということばに注目したい。
 これは、ほぼ「密室で」と同じ内容だろう。
 あるいは「結論が出るまで、情報公開は一切しないで」という意味でもあるだろう。
 「議論」に対して、国民から批判が殺到すると、その批判に「憲法審査会委員」の考えが左右される恐れがある。
 「秘密に」というのと同じである。
 もしかすると、「憲法審査会」の「議事録」は「秘密保護法」の対象に指定され、国民はどんな議論がおこなわれたのか知らされないまま、「国民投票」だけを求められるということになるかもしれない。

 もし、自民党の憲法改正草案のまま、憲法が改正されたらどうなるか。
 国民は「政府が保証する」ことしか言えなくなる。思想、言論の自由がなくなる。自由に書き、自由に読むということができなくなる。(「自民党憲法改正草案」をどう読むかは、すでに二回書いてきたので、今回は省略する。)
 あらゆる人権が政府の独自の判断で制限される。もちろん戦争も始まる。
 そうなったとき、「こうなることはわかっていた」とか「わかっていたから、私は自民党や公明党には投票しなかった」と「自己弁護」しても遅い。「野党に投票しなかった人たちが悪い。私はわかっていたが、ほかのひとはわからなかった。私は悪くない。私は犠牲者だ」と泣き言を言っても何にもならない。「安倍が間違っていることがわからないばかが多すぎる」と批判しても、その批判によって、あなたの「聡明さ」が証明されるわけではない。
 あなたが自民党、公明党の考えに賛成できない。自民党の憲法改正草案に賛成できない、というのであれば、そのことを「声」に出して言おう。ひとりでも多くのひとに語りかけよう。あなたの思っていることがどれだけ正しくても、それをひとにつたえないかぎり、それはひとりで思っていることにすぎない。ひとりで思っているだけの「正しい」は空論である。

 自民党の憲法改正草案に賛成、というひともいるだろう。そういうひとも発言してほしい。どうして賛成なのか。それを語ってほしい。語らずに、黙って自民党に投票し、憲法を改正してしまえばいい。その方が面倒がなくていい。勝ってしまえば、自分の正しさが証明される、と思っているかもしれない。
 でも、それでいいのか。
 ほんとうに「正しい」と思っているのなら、それをことばにして、反対するひとと対話し、意見の変更を促すというのが、民主主義というものだろう。
 ことばを書き、ことばを読むことが好きなら、その好きなことを実践してもらいたい。安倍のまねをして、「対話することは必ずしも必要ではない」という態度をとらないでもらいたい。

 私は「対話」がしたい。「対話」ができることが民主主だと思っている。「対話」のなかにしか、ことばの生きる場所はない。ことばが交流できなければ、どんな詩も、生きていけない。死んでしまう。




 (これから以下に書くことは、参院選とも憲法改正の動きとも「無関係」なのだが、もしかすると「安倍一強」に群がることで、生き抜こうとするひとたちの動きとどこか似ているかもしれない。)

 「現代詩手帖」2015年07月号に「ポスト戦後詩、20年」という特集が組まれている。その「鼎談」のなかで、三人の詩人が2000年ごろから詩のことばがかわったというようなことを語っている。私は、それぞれの作品を歴史と比較しながら詩を読むということはしないので、詩のことばがかわったかどうか、よくわからない。ただ、私自身の経験から、ことばの環境は変わったと感じている。詩のことばというよりも、詩の周辺のことばがかわった。
 私の個人的体験、個人的感想であるが。
 ある詩人が、当時の首相の「神の国」発言を肯定したとき、私はそれについて批判した。すると、その詩人からではなく、その周辺のひとたちから猛烈な抗議を受けた。それは抗議から、私の名前をつかっての発言の捏造、最後は「玄界灘に沈めてやる」というようなことまで言われた。
 またある詩人は、私がそのひとの書いた作品を誤読したとき、「詩壇から追放してやる」と言った。私は「詩壇」というものとつきあいがないから、そんなことはどうでもいいが、「詩壇」ということばを「権威」のように使い、その詩人が「権威」に寄りかかっていることに、とても驚いた。私は「詩壇」で発言しているのではなく、ブログで発言している。
 またある詩人は、私がそのひとの詩集の感想として「おもしろくない」と書いたことに対して、とても怒った。そして「谷内に詩集を送るのはやめよう。そうすれば詩集を読むことができず、その結果、現代詩手帖のアンケートにも答えることができなくなる」とネットで呼びかけているのを読んだ。「現代詩手帖」が「権威」であるかどうか、よくわからないが、「詩壇から追放する」という発言に似たものを感じた。批判者を除外することで、自分の「正しさ」を証明するという方法である。
 またある賞を受賞した詩人は、私がそのひとの詩集を全部読まずに感想を書いたところ(目が悪くて、全部読むのは肉体的に無理だった)、「全部読まずに感想を書くのは失礼だ」と怒った。まあ、確かにそうかもしれないが。「そう言わずに、また読ませてください」「読みたかったら買って読め」。買って読んで感想を書いたら「買うのは勝手だが、感想を書くな」と言われた。
 こういうことは、「ポスト戦後詩」で語られている「ことばの変化」とは関係がないかもしれない。しかし、どこかで関係しているかもしれない。自分は、これこれの「権威」に通じている。批判すると、あるいは気に入る感想を書かないなら、「権威」から追放してやる、というような奇妙な言い方は、かつてはなかったと思う。
 「権威主義」が増えてきていると感じる。
 そして、この「権威主義」というのは、安倍のめざしている「独裁」と、とても似ていると私は感じる。そういう「変化」が詩の書かれている場、読まれている場では始まっているように感じる。
 安倍の「独裁」が始まるとき、詩のことばをとりまく「独裁の雰囲気」はもっともっと強くなるだろうと感じる。

 そういうものと「没交渉」の場で詩を書けばいい、詩を読めばいいという意見もあるだろう。孤高の場で詩を守り抜くという生き方もあるとは思う。
 でも、私は、それはつまらないなあと思う。
 ことばは行き来してこそ楽しい。けなして、けなして、けなし抜いて、もうけなすことがなくなったとき、突然、その詩が絶対的なすばらしいものに見えてくるということもある。嫌いだ、気持ち悪いと書いている内に、なんだか好きになる、快感だなあ、と感じるときもある。私はそういうことを何度も経験している。そして、そのとき、「あ、昔の感想は間違っていた」とは少しも思わない。「批判」を書かなければ、けっして「快感」にはたどりつけなかっただろうと思う。
 ことばも気持ちも変化していくから楽しい。
 これが「政府の保証する思想(ことば)」という具合に決めつけられるというのは、とても変だ。私は、自分のことばを、誰かから「保証」されたなくない。誰の「保証」からも関係なく動かせるのが、「自由」だと考えている。

 戦争もいやだし、誰かに「思想/表現」を「保証」されるのもいや。だから自民党の憲法改正案には反対。自民党、公明党の争点隠しの選挙運動を批判しつづけたい。

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ジョディ・フォスター監督「マネーモンスター」(★★★)

2016-06-22 09:19:22 | 映画
監督 ジョディ・フォスター 出演 ジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ、ジャック・オコンネル

 株投資、投資の裏操作にからむストーリー。これをテレビという舞台で展開したところが目新しい。テレビを通すことで、「経済のブラックボックス」みたいなものが、家庭に(庶民に)開かれた。あ、開かれたといっても、そうなんだ、不正がおこなわれているのだということがわかるくらいで、実際にどうすれば、どうもうかるのか、というようなことは、私にはわからないのだが。やっぱり、経営者が自分の懐を膨らませるというのが現代の資本主義。庶民はどんなに貧乏になろうが知ったことじゃない、という安倍・麻生のような人間が蠢いているということなんだね。
 おもしろいのは、このテレビという媒体が、その情報操作に加担することもあれば、「真実」を暴くこともある。そして、それは常に視聴者と直結している、ということ。アメリカのテレビは、まだ、健在。日本の場合は、情報操作に加担するだけで、真実を明るみに出すということは、テレビメディアはしない。NHKの籾井は「公式発表されたもの以外は伝えない」とはっきり宣言している。と、書いていると映画から離れてしまうが……。
 と、書いてきてわかること。
 この映画のおもしろい点は、テレビを「昔のテレビ」に引き戻している点だ。「原点」で描いている点だ。生放送。しかせ、ここ(家庭の茶の間)ではないどこか遠くで起きていることを、リアルタイムに、家庭で起きているできごとのようにしてつたえる。ひとの知らないことを、表面を描きながら、内部にまで切り開いていく。えっ、現実って、こういうことだったのかと、テレビを見ていてだんだんわかっていく。
 おもしろいねえ。
 この「無樫のテレビ」に「いまのテレビ(情報社会)」が加わる。
 さまざまな映像資料は、いま起きていることの補足。内部にはどんな問題があるのか、隠れている事実とは何なのか、「過去」を暴くことで、「いま」をより鮮明にする。登場人物の「言い訳」を映像情報で否定する。「嘘」を暴く。「この映像は、あなたのことばの情報とは違う。あなたは嘘をついている」と迫る。ジャーナリズムの真骨頂。それを、そのままやっている。
 で。
 そういうことを、やると。そこに出ている「当事者」も変わっていく。「事実」が「わかる」と登場人物もそれにあわせて変わっていく。「内面」に深みが出てくる。何をやるべきかが、だんだんわかってきて、「事実」にもとづいて「真実」の姿を見せはじめる。「真実」をつたえることこそ、自分の仕事なのだと気づきはじめる。
 この変化の過程を、主役のジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ、ジャック・オコンネルの三人が三人三様の形で演じて見せる。ジョージ・クルーニーは、ひょうきんものから、「事実」をつたえるという仕事に目覚めていく。自分は何も考えずに「情報」をつたえていたということを反省しはじめる。ジュリア・ロバーツは「裏方」なのだが、「裏方」に徹することで「事実」を補強する。的確に指示を出し、ジョージ・クルーニーの変化を縁の下から支える。ジャック・オコンネルは、思わぬ変化(ストーリー展開)に驚きながら、徐々に、自分の怒りのほんとうの「対象」を見つけ出していく。テレビ番組(ジョージ・クルーニー)が庶民の敵なのではなく、資本家が敵なのだとわかっていく。資本家が自分の利益だけを考えて株を操作している。そのことをはっきりさせないといけないと気がつく。でも、庶民なので、「悪の構造を告発する」というよりも、「感情」を納得させようとする。株の暴落を引き起こした経営者(株操作で巨額の金を手に入れた)に、「悪かった」と言わせるしかないのだけれど。
 「放送」によって、テレビ局という内部と庶民という外部をつなぎ、さらにテレビ局からビルの外へ出ることで、「外部」そのものをドラマ化(?)し、さらに建物の内部にこもり、「肉眼」ではみえないものを「テレビ画像」をとおして庶民につたえる--この三段論法のような仕組みがなかなか効果的である。
 効果的すぎて、じっくりと考えるという具合にはいかない。それが欠点でもある。ひきこまれながらも、どこかでこれは映画(あるいは、これはテレビ)と思って安心してしまう。「やっぱり、経営者が悪いんだろう。わかっていたさ」と、「現実」ではなく「ドラマ」を見たような感じで終わってしまうのが、かなり残念。「テレビって、何んでも金儲けにするね」というところに、最後は落ち着いてしまうかもしれない。
 むずかしいね、「傑作」をつくるというのは。
                (天神東宝・ソラリアシネマ7、2016年06月19日)







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為平澪『盲目』

2016-06-21 10:14:57 | 詩集
為平澪『盲目』(土曜美術社出版販売、2016年07月24日発行)

 為平澪『盲目』。タイトルとなっている「盲目」については、雑誌で読んだとき、感想を書いたと思う。詩集のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。

目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言うので
うるさい手を切り落として 口に食わせた
口は満足そうに 黙ってくれた

足は突っ立て進むことしか能がないと
耳が教えるので
足を売って耳栓を買った
耳は都合のいいことしか 言わなくなった

 そのとき書いたかどうか記憶にないが、この作品が「肉体」に響いてくるのは、ことばにリズムがあるからだ。肉体部位(?)、手、口、足、耳が繰り返し出てくる。この繰り返しがリズムをつくる。同じことばを行き来することで、関係が緊密になる。その緊密感がリズムだ。
 で、たぶん、前回読んだときは気づかなかったのだが、このリズム、ことばとことばの往復が、為平の場合、実は「音楽」ではなく「論理」である。ことばに「リズム」があるのではなく、「論理」にリズムがある。
 どういうことかというと、

目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言う「ので」
うるさい手を切り落として 口に食わせた
(その結果)口は満足そうに 黙ってくれた

 二行目の「ので」は「理由」、四行目には「その結果」ということばは書かれていないが、ことばの奥で動いている。「……したので、……となった」という「構文」が隠れている。「……したので、……となった」は直結しているわけではなく、途中に「……して」という経過を含んでいるのだが。
 三連目、

足を失って 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて 腸を犬に与えた
犬は鼻が利いたので私が捜している
死体の所まで 私を乗せて運んでくれた

 ここには「鼻が利いたので」と「ので」が出てくるほかに、

足を失って(失ったので) 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて(なりたくなったので) 腸を犬に与えた

 という形で「ので」が隠れている。「理由」があって「行動」するのだ。そして、「行動」は必然的に「結果」へとたどりつく。
 こういうとき、「詩」は「結果」にあるのではない。「……ので、……した、その結果……になった」でいちばんおもしろいのは、実は「……して」の部分、「経過」の部分である。その「経過するための行為」が思いがけないとき、そこに詩を感じる。驚いて、立ち止まり、えっ、どうして?と思う。
 「論理」の「意識」が揺さぶられる。
 為平の詩は、そうやって成立している。

 こういう場合。
 (これから先は、私の、わがままな注文、というか……。)
 「……して」の部分が、予想外ではないと、「論理」がとてもしつこくなり、読むのがめんどうくさくなる。
 たとえば、「レンタル長女」の場合、

 長女でしょ! しっかりしなさい! と言われる度に、長女なんだから、
長女なんだから、長女なんだから、長女なんだから…と、いいきかせたら
吐き気を催し、長女の羅列が、止まらないレシートのように繋がって、口
から出てきました。

 三行目の「吐き気を催し、」がしつこい。このことばによって、口から長女がレシートのように出てくるイメージがわかりやすくなるのだが、その「わかりやすい」が「予想外ではない」ということ。
 こういうときは、「わかりやすい」ではなく、えっ、どういうこと? わからない、と感じさせることが大切。
 「盲目」の場合、文句を言っているのは「口」。なのに、口ではなく「手」を「切り落として」いる。そして「口」に食わせている。文句を言っているのが「口」なら「口」を切り落とせばいいのに、「手」の方を切り落とす。そこに、一種の「論理」の飛躍があり、それが驚きを呼び覚まし、瞬間的に「現実」から意識が離脱する。
 これが「詩」だね。
 「レンタル長女」の場合、「吐き気を催し、」を省略すると、飛躍が生まれ、ことばがいきいきする。「詩」が強くなると思う。--試しに、省略して読んでみてください。

 「論理」の確かさが為平のことばの運動を支えているのだが、その「論理」をどこかで省略すると、為平のことばはもっとスピードが出てきて楽しくなるだろうなあ、と思う。






割れたトマト (現代詩の新鋭)
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福岡ポエイチ2016トークイベント

2016-06-20 00:28:23 | 詩(雑誌・同人誌)
福岡ポエイチ2016トークイベント(@福岡市・都久志会館、2016年06月19日)

 福岡ポエイチ2016トークイベントは谷川俊太郎を迎えておこなわれた。聞き手は渡辺玄英。詩に関して、意味、音楽など、いろいろな話が出たのだが、私は、渡辺の「さばき」に感心してしまった。事前にどういう展開にするか打ち合わせがあったのかもしれないが、とても要領がよくて、てきぱきしている。きっとみんな安心して谷川の話に耳を傾けることができたと思う。渡辺のことばを介することで、谷川のことばを反芻しなおし、確かめる。そういうことを繰り返しながら、谷川の話したことを、しっかり記憶して帰ったことだろう。
 でも、私は、もう少し、つまずいてほしいなあ、谷川のことばをつついて、暴走してほしいなあと思った。あんまりスムーズなので、これでは谷川の話を聞いた、ということしか思い出せないかもしれない、と私自身は不安になった。
 実際、こうして思い出しながら何か書こうとすると、谷川の話のほとんどを忘れてしまっている。

 あ、いけない。何を思い出せるだろうか。

 最初に、渡辺が、きのうの谷川の様子を話した。「リノベーションミュージアム冷泉荘」というところを谷川が訪れた。そこにはおもちゃのようなものがあった。谷川は、そのおもちゃのなかの仮面ライダーのベルトにとても興味をもっているように見えた、と語った。
 渡辺「おもちゃが好きなんですか?」
 谷川「キッチュなものが好きなんです」
 この最初の発言が、いちばん正確に思い出せることである。しかし、ふたりの対話の中では、この「キッチュが好き」という発言は置き去りにされた。でも、私に思い出せるのはその「キッチュが好き」ということばなので、私は、その谷川の発言のあらゆる部分に復活させてみたい。
 「キッチュ」について深入りする前に、「おもちゃ」についても触れたい。
 おもちゃというのは、大人から見ると無意味なもの、役に立たないもの。「役に立たない」という意味では、詩に似ているかもしれない。
 けれど、こどもにとっておもちゃとは何だろう。私の記憶では「超現実的なもの」である。この「超現実」というのは「現実を超える」という意味ではない。「現実」そのもの、「現実の本質」のようなものである。それは、私を否定して(超越して)存在する何かである。私は貧乏だったのでおもちゃというものを持たなかったが、友達がわりと裕福でおもちゃをもっていた。それは私には絶対に手に入らない「現実」、ほしいもの、手に入らさないからこそ、「好き」という気持ちが暴走してしまう何か。それがあれば「世界」が変わってしまうものであった。もしおもちゃが手に入れば私は貧乏ではなく、とともだちがおもちゃをもっていなければ貧乏だという、世界の逆転(革命)さえも起きてしまうくらいの「絶対的事実」でもあった。
 この「私を超えて存在している現実(事実)」という何かは、ある意味で「詩」に似ている。私は、谷川のおもちゃに関する好奇心を、詩と結びつけて、あ、いま、詩のことを語った、と思ったのである。
 このおもちゃを谷川は「キッチュ」と読んだ。「キッチュ」とは何か。まがいもの、俗悪なもの、というような「定義」が辞書に載っているが、これは「大人の定義」だね。こどもはおもちゃをまがいものとも俗悪なものとも思わない。逆に絶対的な真実(崇高なもの)と思う。
 「大人の定義」と「こどもの実感」は違う。(こどもは「定義」しない。ただ実感する。)
 で、「こどもの実感」は少し脇に置いておいて、私は「大人の定義」を点検してみたい。
 「キッチュ」の反対は何だろう。「洗練」かもしれない。「洗練」は「スマート」と言い換えることができるかもしれない。そして、この「スマート」を大人は「便利、合理的、経済的」ということばに言い直すこともできるかもしれない。
 そして。
 この「便利、合理的、経済的」というのは、「共有された意味」(流通する意味)と言い直すこともでき、その「定義」を「ことば」にあてはめてみると、とてもおもしろいことが浮き彫りになる。
 世の中に流通していることばには「意味」があり、ことばを語るとき「ことば」が流通するのではなく、「意味」が流通する。より的確に「意味」をつたえることばが世の中では歓迎される。ことばの「意味」が限定されていれば、「意味」を考えなくてもすむ。説明しなくてもすむ。ことばの流通はより経済的、合理的になる。
 詩は、そういうものではないね。むしろ逆。無意味。「意味」を「合理的、経済的(より少ないことば)」で誰かに伝えるのに役に立たない。「好き」というかわりに「嫌いだ、嫌いだ、きみといると何もできない。殺してしまいたい」と言えば、「殺人者」になってしまう。また、そのことばに「ばか、ばか、ばか」と返事して、その瞬間に愛が成就するなら、そこには「辞書に書かれた意味」以外のものがあることになる。詩が、感情を独特の形で伝える詩が動いていることになる。
 そういう会話は不経済。非合理的。ばかばかしい。ときには「俗悪」と言われることもある。低級なメロドラマ、キッチュな歌謡曲。
 詩には「キッチュ」ということばと、どこかで通じるものがある。

 谷川の発言した順序とは無関係な展開になるが、こういうことをいくつかの発言とからめて見よう。
 谷川は、「ことば(日本語)の中に生き残っている何か」を引き出し、それを書くと詩になるというようなことを語った。この「生き残っている」を、古いおもちゃ(キッチュ)と結びつけのも楽しい。
 谷川は古いおもちゃのなかに、ただおもちゃを見たのではない。おもちゃのなかに生きている何かを見たのだ。それは、いまは見向きもされない。(いや、一部の人は、それを愛好しているのだが。)生き残っている何かが「キッチュ」なのだ。「現代の尺度」からみるとまがいもの、俗悪なのだが、「現代の尺度」を捨てると、きっと違うものとして動きはじめる。
 これを詩にあてはめて言い直すと、「現代に流通している意味」を捨てて、そこにある「ことば」を動かすと、詩が生まれる、ということになる。そのとき「ことば」はキッチュという定義から外れるが、「現代に流通している意味」を捨てるという運動の中で重なる。
 谷川は「荒れ地からことばをつかむ」というようなことを言った。この「荒れ地」とは捨てられた(忘れられた)おもちゃのようなことばと言い直すことができるだろう。「荒れ地/見捨てられたおもちゃ」のなかにも生きているものがある。その、いのちを引き出す。「荒れ地」というのは「合理主義から見放された土地/経済主義から捨てられた土地」と考えるならば、それは「キッチュな土地」と言い換えることもできるはずである。

 ことばと意味について、意味だけでは詩はおもしろくない。意味とは違う詩を書きたい。そういうことを思って「ことばあそび」の詩を書いた。戦後の「荒地派」の詩人たちとは違う「意味」の詩ではないものを書きたいと思った。そうやってできたのが「かっぱ」などの詩。ことば遊びの詩は、意味を重視する「現代詩」からみると、軽くて、くだらない、無意味(ナンセンス)なもの、つまり、まがいものということになるかもしれない。でも、谷川は、意味ではない何かを書きたくて、意味ではない何かを詩として存在させたくて、そういう詩を書いた。
 というような論の展開の中で、谷川は、ことばには「意味」のほかに「調べ」があると言った。(リズムという表現は、谷川の感じている「音楽」を伝えるには不適切で、谷川は「調べ」ということばをつかう、とも言った。)
 この発言を聞いた瞬間、私は「調べ」こそ「意味」なのだと思った。「肉体」を貫き、統一する「力」なのだと思った。どのことばをつかって語るか。それを「選択」しているのは「世間で流通している意味」ではなく、そのことばをつかうときに自分に響いてくる「音」だと私は感じている。自分の耳に聞こえない「音」は語れないし、嫌いな「音」は口にしたくない。知らずに、自分の「好み」の「音」を選んでいる。
 「かっぱらっぱかっぱらった」は「河童がラッパを盗んだ」というのと「意味」は同じだが、それを「声/音」にするときの「肉体」の反応が違う。「肉体」の何かわからないところの、動きが違う。「河童がラッパを盗んだ」と言えば簡単に「意味」が通じるのに、「かっぱらっぱかっぱらった」と言うと「意味」よりもほかのことに「肉体」が反応してしまう。あ、いま、おもしろい音を聞いた、と余分なことを考える。この余分なことを考える/感じるというのは、「意味」的には、とても不経済。合理的ではない。そんなことば遊びの手間をかけずに、「流通言語」のまま言ってしまえという批判がどこかから聞こえてきそうだが、でも「かっぱらっぱかっぱらった」と言ってしまう。
 非合理な何か、いまの合理主義にあわない何か、つまり「キッチュ」がここにもあるのだ。もちろん、これは「キッチュ」そのものではないのだが、キッチュに通じる何かなのだ。「意味」という「合理的、経済的」なことばについていくのではなく、「意味」のほかに変なものをくっつけていることば、その「調べ/音」そのものについていく快感。快感という自分だけのものを楽しむ。これが「好き」っていうことかなあ。

 「ことばあそび」に関連して、谷川は、こどもに「社会」ということばをどう教えるか、どう発見させるか、ということを頼まれたことがある、というようなことを語った。結局、こどにも「社会」を教えることはできなかったとも言ったと思うけれど。
 私はこのとき、「おなら」の詩が「社会」じゃないか、と勝手に思った。
 ひとりひとりが違うおならをする。ひとりひとりのおならの音が違う。それを聞いて、楽しくなる。あれは「社会」を語ったすごい詩だと私は思っている。
 おならの音の違いが「個人の違い」、その音の交錯が「ひととひとの交流」というのは「俗悪な比喩」、「まがいもの比喩」かもしれないね。「キッチュな比喩」かもしれない。でも、その「キッチュ」のなかに、だれでもが知っている「肉体」がある。「うんち」もそうだなあ。だれでもが知っている「ことばにしないつながり」がある。
 それが「社会」でいいのじゃないかな、と思う。
 おならのひとつひとつの音なんて、一回きりの、「流通させることのできないもの」。でも、その「流通させることができない」ということが、結局、詩なのだと思う。自分で勝手に、これが「好き」と思うしかないのが詩なのだと思う。
 おならやうんこの話、あるいは詩が好き、それを「社会の比喩」だと言うのは、俗悪な定義、まがいものの定義--そうだよね。確かに。しかし、そのまがいもの、俗悪なものが好き、そういうことばを語っていると「肉体」が安心する。だからやめられない。それに、おなら、うんこの話をすると、良識あるひとが顔をしかめる。それを見るのが、さらに楽しいなあ。

 あ、こんな感想で何か伝わるかな?
 伝わらなくてもいい。
 私が、谷川と渡辺の対話を聞きながら感じたのは、渡辺はせっかく、詩集や本では出合えないおもちゃ(仮面ライダーの変身ベルト)にこころを動かしている谷川に出会って、そのことに気付きもしたのだから、それをもっと対話のなかにしつこくからめてくれれば、ほかのところではあらわれなかった谷川が動いたかもしれないのになあ、と感じたのだ。
 ちょっと残念だったのだ。
ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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