詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

早坂類「ゆきが幻の花になった朝」ほか

2013-10-31 10:10:52 | 詩(雑誌・同人誌)
早坂類「ゆきが幻の花になった朝」ほか(「鶺鴒通信」π秋号、2013年10月10日発行)

 早坂類「ゆきが幻の花になった朝--K氏死す」は、タイトル通り故人を思い出す詩である。

冬、梅の枝にやわらかなゆきがふって
幻の花になった朝
北の海から訃報が届く
君の時間が止まったという

 このあと、故人の思い出(早坂と故人とのかかわり)が書かれ、3、4連目。季節は冬から一気に飛んで、

夏、君の編んだ本に古本屋で出会った
死後もつづく不意打ちのトラップ
著者から君への謝辞がうつくしい
このようにしてこの夏にまだひとつのいのちは生きのびている

私はそしてその先をゆかなくてもならないから
またねと君を棚へ押し戻し
風の先を見ながら、ちょっと汗を拭う

 3連目が非常に美しいと思う。その美しさをなんといえばいいのか。私はしばらく考えた。いまも、わからないまま考えている。
 ここには「著者から君への謝辞」ということばはあっても、実際に、著者が語ったことばが引用されていない。だから、それがほんとうに「うつくしい」かどうか、私には判断できない。それなのに、その「うつくしい」を信じてしまう。
 「君の編んだ本」というのも、タイトルが書かれていない。それがほんとうかどうか、読者はたしかめる方法がない。それなのに、それを「事実」と信じてしまう。
 ここに、ある鍵がありそうな気配がする。
 具体的な謝辞がない、本のタイトルがない--というのは、「ことば」がないということである。ことばがなくて、それでは何があるのだろうか。
 奇妙な言い方になるが、「君がある」。「君がいる」。それは「ひとつのいのち」という具合に早坂は言うのだけれど、まあ、「いのち」としか言いようのないものなのだろうけれど……。
 私は「君」に会ったことがないのに、突然、K氏がふいにそこにいるように感じたのである。見たことのない人が、そこに見えた。ただその人が見えただけではなく、早坂がいて同時に「君」がいるときの、「場」というのか、「空気」というのか、あたたかい光のようなものが見えたのである。「君」の「いのち」というよりも「生き方」が見えたのである。
 「生き方」なんていうのは--でも、見えないよね。
 死んでしまった「君」だけではなく、たとえば早坂の「生き方」だって、それを「見える」とはいえない。なぜ見えないかというと……。きっと、それは動いているから。固定していない。「もの」ではなく、「こと」だからだ。動くことによって、「生き方」になる。そして「生き方」というのは、そのひとひとりというより、相手をまきこんでの「生き方」である。相手がかわれば、そのとき向き合っている人の動きもかわる。一度として同じものはないかもしれない。それでも、「同じ」と感じる何かが生き方である。
 これは、ことばにしようとするとむずかしい。また、ことばにする必要のないものかもしれない。ことばではなく、動きなのだから。
 「ひとつのいのちは生きのびている」と早坂は書いている。私はそれを「生き方」がまだ動いていると感じたのだ。「生き方」に触れて、早坂が「生き方」におされて、動きはじめる--その瞬間を見たように感じたのである。
 「またねと君を棚へ押し戻」すのは、「生きる」のは早坂だからである。「君」は「生き方」を教えてくれた。その「方」を動かして「生きる」にするのは、実際に「肉体」をもっている早坂にしかできない。
 早坂と「君」は、ことばをつかわずに、すばやくそんな交流をしたのだ。ことばをつかわずに--というのは、ことばにする必要がないからだ。ことばにしなくても、早坂には「生き方」がわかっているからだ。
 この「わかっている」が美しいんだなあ、と思った。



 馬慶珍「蟻」(財部鳥子訳)は、ある意味では、早坂の書いている世界と正反対である。公園を歩いていて、蟻を見かけ、「観察し、同時にいくばくかの事情を連想した」。その「連想」を「ことば」でどこまでも追いつづける。
 早坂は実際にあるはずのことば(謝辞、タイトル)を書かなかったが、馬は実際にはないはずのことばを動かす。ことばで、そこにあるかないかわからないものを動かす。そうすると、そこに「生き方」につながるような変なものが見えてくる。ことばは、それが「ある」ことか「ない」ことかは無視して、どこまでも動く。その「動き」だけが見えてきて、「動き」が見えるのと、ほんとうは「ない」ものが「ある」に見えてしまう。
 「意味」が見えてくる、といってもいいかもしれない。

蟻を見つめて人に踏まれるなと念じた。蟻には人がどう見えるだろうか。もし仔細に見たらおそらく天よりも高い怪物だろうか? 万一、人に踏まれて死んだら、同類の蟻たちは天災だから定められた運命だと思うだろう。

 自分の力ではどうすることもできない災害--天災というものがある。そういうものは人間にもあるね。で、この重なり合いのなかに「意味」があるんだけれど。それが「意味」だけだと、なんだかつまらない説教になる。
 この作品が説教で終わらないのは、ことばが自分勝手に動きながら「意味」をこわす瞬間を取り込んでいるからだ。

もし仔細に見たらおそらく天よりも高い怪物だろうか?

 何これ。「天より高い」って、どういうこと? 矛盾してるでしょ。その瞬間、私は、その無意味に笑ってしまう。
 馬は蟻など観察していない。いや、観察したかもしれないけれど、ことばの運動に「限界」を設けていない。「観察」をはみだすことをことばに許している。ことばを観察をはみだしてまで動かしている。
 だから、「観察」から「意味」が引き出されるかわりに、「観察」を突き破って、アナーキーな「無意味」が暴走する。
 この瞬間が、詩、だね。

 そして思うのだ。こういうアナーキーな「無意味」は単にことばで終わるはずがない。どうしたって、そのことばを動かしている馬に跳ね返ってくる。ことばが「肉体」になって、馬の「肉体」を動かしはじめる。「生き方」になる。詩は、詩人をつくりだすのである。
 ということを感じた。そして、そのことをこそもっとていねいに書かなければいけないのだとも思うのだが、これは書きはじめるととても長くなる。まあ、そんなようなことなのだなあ、と思って「蟻」を読んでもらうしかないなあ。
 とても楽しいことばの運動である。


まぼろしの庭 (ポエム・アイランド)
早坂 類
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小林坩堝『でらしね』

2013-10-30 09:01:31 | 詩集
小林坩堝『でらしね』(思潮社、2013年10月20日発行)

 小林坩堝『でらしね』の詩は、乱暴にわけてしまうと散文詩風のものと行分け詩とがある。私は散文詩の方がすきである。リズムが自然に感じられる。
 「叙景--黒く塗り潰された「われわれ」の為の」の書き出し「※暮らしのあった風景」の部分。

 その朝、雨が降った。その朝、生活は終わった。アパートの扉の外側に、立っている男たち。光っている革靴。遠く、遠く、黒光りする列車の、鉄橋を渡ってゆく音を聞いたような気がして、シアン化カリウム、それきり生活は終わった。

 「シアン化カリウム」が唐突である。唐突だけれど(唐突だから?)、音が美しい。音の美しさは書き出しの「その朝、雨が降った。その朝、生活は終わった。」からはじまっている。「その朝」の繰り返しがリズムをつくり、「あ」さ、「あ」めの頭韻(?)が繰り返しにとてもなじんでいる。「あ」が「お」わった、と「お」に引き継がれて文が終わるのも気持ちがいい。そのあとも、歯切れのいい文がつづき、「遠く、」から長い文になるのだが、その長さ(遠さ?)を「列車」「鉄橋」「音」という具合に切断しながら(独立させながら)、唐突に「シアン化カリウム」。「いま/ここ」の切断が、「いま/ここ」を超えて深い裂け目から「もの」をつかみ取る。
 シアン化カリウムって何?
 何かわからない。わからないけれど、音がそこにあり、音であることによって、それまでの「切断」をさらに鋭くする。それまでの「切断」は「切断」というより「分解」だったかもしれない。「いま/ここ」を感覚で把握し直す。黒光りする列車を「見る」、鉄橋を渡ってゆく音を「聞く」。それは「現実」のなかでも「ひとつ」のものだが、「肉体」のなかでは視覚/聴覚が絡み合って、やはり「ひとつ」になっている。そこには「連続」がある。
 でも、シアン化カリウムは? ない。「連続」がない。いや、「意味」を強引にもってくることもできるが、そんなことをしたって現実はどうにもならない。
 それよりも「意味」を捨て去ることが大事なのだ。
 シアン化カリウムって何? 前の文章とどうつながっている? わからない。わからないものはわからないまま、何がわかるかを考える。私にはそれが「シアン化カリウム」という音をもっているということ以外はわからない。音があることがわかる。そしてその音を、私の「感覚の意見」は「美しい」と言う。なぜ、その音が特別に美しいか。理由は簡単だ。ほかのことばとは違って「意味」になっていないからである。ほかのことばと脈絡がないからである。「意味」を拒絶して、ただ音である。
 あ、こういう「音」だけの存在というものが「現実」に存在するのである。
 この音の美しさ(無意味)を持続するのはむずかしい。特に「散文」では、とてもむずかしい。ことばというものはいい加減なもので、どんなことばでもつないでしまうと「意味」を捏造してしまう。

 ちくたくの時計は炸裂するときを待っている。刻まれているのは時間ではない、すくなくとも時計はおれを前進させない。

 ね、「意味」が動いているでしょ? 時計は時間を刻むが、だからといって「おれが前進する」わけではない。時計とおれの「肉体」は別のものである。別のものだから「連結」して「意味」になる。ここだけではわかりにくいかもしれないが、このつづき。

おれは広場でおまえが待っているのを知っている。おまえはおれが永遠に現れないことを知っている。

 「時間」と「肉体」は別の存在である。そして「時間」が「肉体」を、あるときには測る(?)基準になる。「肉体」が「時間」を分断するのではなく、「時間」が「肉体」を分断し、「時間」どおりにあらわれないという「肉体」を出現させる。待っている-来ないという関係は、そうやって「必然」になる。「意味」になる。
 そこにないのに、その「ない」を出現させる。「ない」に「意味」をつけくわえてしまう。そこから「意味」が逆流して「待っている」を引き出すと言いなおすこともできる。(これが、ことばがいい加減という理由。)。そして、その「ない」ことの「意味」を増幅させて(?)、「永遠」までもでっちあげる。(ことばは、ここまでいい加減になることができる。)
 おれがこないことと「永遠」なんて、何の関係もない。そこには「普遍」はない。「こない」という事実があるだけである。こういう事実にすぎないことを「永遠」というもの強引に結びつけ、そこにセンチメンタルな「意味」を捏造するとき、それは抒情というものになったりするのだけれど。
 あ、これでは、私の書きたかったことからどんどん離れて行ってしまう。離れて行ってしまってもいいのかもしれないけれど。(いま書いたことは小林の詩の否定ではなく、単にことばの運動の「性質」の一般を語っただけ。)

 音にもどりたい。
 音から、この部分「ちくたく時計は炸裂するときを待っている」にもどると。この部分には、残念ながら「シアン化カリウム」のような絶対的断絶をもったことばがない。音の無意味がない。そのために、ことばが「意味」に引っぱられて行ってしまうとも言えるかもしれない。
 音がほしいなあ、と思わず思ってしまう。

 失くしたものの数だけ、前進してきたつもりでいた。だがおれは畢竟佇むことで精一杯の己の姿を発見しただけだった。

 この「意味」の苦しさは、つらい。「意味(抒情)」はわかるけれど、そのわかるは「頭」でわかるのであって、私の肉体には響いてこない。「畢竟」というような、ごちゃごちゃした漢字(私は日常的にこんな漢字は書かない--私だけの問題かもしれないが)が「音」ではなく「意味」をいっそう強調する。「畢竟」が呼び出す「意味」が「肉体」をさらに遠ざける。「畢竟」なんてことばを私は「頭」でしか知らない。「畢竟」の瞬間、自分の「肉体」がどんな感じなのか、さっぱりわからない。実感がない。(これも、私の問題であって、小林に実感がないと言っているわけではない。--実感がないから、そこから肉体の触れ合い、人間の直接の触れ合い、セックスがはじまるという感じがしない。つまり、この瞬間に、私は小林を「遠く」感じる。)
 あ、「わからない」だけでいえば「シアン化カリウム」という音の前でも私は、それが私の「肉体」とどういう関係があるのかわからないのだけれど、「音」が耳から「肉体」の内部へ入り込んで、その「音」だけを浮かびあがらせる。「声」になって、喉や口蓋や舌を動かす。「畢竟」のように「頭」に入り込んで、「畢竟の意味は……」というような具合に何かが動くわけではない。ただ「音」だけがそこにあって、あ、その音を言ってみたい、つかってみたいという気持ちにさせる。そのときの無責任な感じが、アナーキーな感じが、自由でいいなあと思う。こういう瞬間、私は、私であって私ではない。無防備になっている。無防備だから、直接、小林と触れる感じがする。--私は、私を無防備にさせてくれることばが好きなのだ。

 ことばが「音」を求めて、もっとアナーキーになれば、小林の詩はもっともっと楽しくなると思う。「視覚」ではなく「聴覚」のなかで「パースペクティヴ」が動くといいのかなあ、動かせるはずだと思うんだけれどなあ。
 こんな感想では何も書いたことにならないのかもしれないけれど……。「シアン化カリウム」という音の美しさ、文脈(意味)を離れて独立する音の輝き--そういうものを増やしていくと、小林の詩がもっと好きになれそうな予感がする。あ、これいいなあ、と書きたいなのに、書こうとすると「畢竟」のようなことばが邪魔する。そこにつまずいてしまう。



でらしね
小林坩堝
思潮社
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安水稔和『記憶の目印』

2013-10-29 09:25:18 | 詩集
安水稔和『記憶の目印』(編集工房ノア、2013年10月31日発行)

 安水稔和『記憶の目印』の前半に、ひらがなで書かれた短い詩がある。「九階南病棟」というタイトルでまとめられているので入院生活をかいたものと推測できる。

わたしはここにいるが
わたしはここにいるか

わたしはきれている
どこから

わたしはとぎれる
いつまで



わたしはつながれているが
いまも

わたしはつながれているか
いつも

いきがきれる
とぎれる                         (「ねる」の部分)

 ことばをほんの少し動かしただけで、「意味」ががらりとかわる。--と、書いて、こういう書き方は何かが違うぞと感じる。安水はことばをほんの少し動かしただけなのか。たとえば「わたしはここにいるが/わたしはここにいるか」の「が」と「か」の違いはほんとうに少ししか違わないのか。
 濁音が濁音でなくなっただけなのか。
 濁音、清音と区別してしまうと、そのあいだにあるものが消えてしまう感じがする。
 「きれる」「とぎれる」も「と」の存在の違いだけと考えると、そのあいだに横たわっているものが消えてしまう感じがする。
 「いまも」と「いつも」も、「文字の違い」だけではない。
 もちろん「文字」も違うけれど、それを「文字の違い」だけでとらえると、「合理主義(ことばの流通経済の整理の仕方)」にのみこまれてしまう。ここにかかれている詩が、ことばを「頭」で動かして、ちょっと頭脳に「刺戟」を与えるだけのものになってしまう。
 この詩は、そういう詩ではない。
 「文字の違い」を「頭」で整理して知的にことばを動かしているのではない。文字がかわるまでのあいだに動いているのは「頭」ではなく、「肉体(からだ)」そのものである。
 「が」から「か」までの動いていくとき、「頭」では濁音か清音かの違いに明確に区別すると同時に、その移行は一瞬である。でも「肉体」はそんな具合には明瞭に区別することもできないし、すばやく動くこともできない。
 この詩は全部ひらがなでかかれているが、ことばをひとつひとつ「音」にして、ゆっくりたどっていく。次のことばが「肉体」のなからか出てくるまで、それが「が」になるか、「か」になるかは、わからない。「肉体」のそのときの「調子」がそれを突然決めてしまう。「頭」で整えようとしても、それは、むり。
 「むり」が見えないように安水は書いているが、ひらがな、そしてほとんど同じことばを繰り返しながら、少し動く。そしてその動きが、動いた瞬間、少しではなく、大きな違い。--ちょうど、歩けなくなった人がリハビリで新しい一歩を踏み出すような、他人からみれば何でもないことであっても、そのひとの「肉体」のなかでは大変な違いが起きている、というのに似ている。そのときの、そのひとの「肉体」のなかでのうごめきが見えるような詩である。
 少しのことばの違い、ずれに、ぐいと引き込まれていく。そこに「肉体」を感じてしまう。

 「たべる」の後半が大好きだ。

めのまえの
たべものをすこしずつ
くちにいれて
やっとのみこんで
おおいきついて

たべるのは
ひとしごと
ひとのしごと

 どんなことでも「ひとしごと」である。「ひとしごと」の「ひと」は「ひとつ」。それは「すこし」であるけれど、「おおいき(大息)」の「大きい」とぴったりかさなる。なぜか。それはすべて「ひとのしごと」だからである。「ひと」が「肉体」を動かしてすることだからである。小さいことでも大きいことでも、ひとは、そのことにかかりきりになる。全身でそれに対応する。
 安水は、この詩では「全身」を書いている。「肉体」を「全身」として書いている。健康なとき「全身」という感じはなかなかわからない。何かがあって、どんな小さなことでも「全身」がかかわっていることがわかる。「全身(肉体のすべて)」をつぎこんでいることがわかる。

 この「全身」という「肉体感覚」は病気(病院)を離れたときでも動いている。「街で心屈したときなど」という作品。

私は道を歩くのがすきだが。
人が道を歩くのを見るのもすきだ。

男でもいい 女でもいい こどもでもいい
わきめもふらずに ゆっくりと 下をむいて。
立ちどまったり ひきかえしたり。
横切ったり 追いかけたり。
ぶつかったり しゃがみこんだり。
それでも わきめもふらずに ゆっくりと。

人が道を歩くのを見ていると。
自分が道を歩くように。
やがて ゆっくりと。
確かなものが。

 最終連、「人」と「私」の区別がつかなくなる。
 道に倒れて誰かが腹を抱えて呻いている。こういう場面に直面すると、とっさに、あ、あのひとは腹が痛いんだと思う。自分の肉体ではないのに、他人の痛みを感じる。「肉体」が「痛み」を共有してしまう。ほんとうは痛くないけれど、痛みが「わかる」。
 あの感じ。
 それを安水は、人の歩く姿を見て感じる。人の歩き方が、安水の「肉体」がおぼえている何か、安水のあるときはああやって歩いた、あのときはあんなことを感じてはしゃぐように歩いた……というようなことを思い出させるのである。そのときの「感じ」そのものは他人と完全に合致しないかもしれないけれど、「肉体」は、それをつかみとってしまう。
 「肉体」というのは、なんというのだろう。ことばにならない。たとえば、悲しいとかうれしいとか、こころが屈しているとか……。こころ(精神)は「ことば」をとおして、その「ことば」のなかでひとつになるのに、「肉体」はいつでも「私」と「人」。切り離されている。切り離されて、孤立しているのに、いったんその「肉体」が動くと、動きそのものはいっしょに動かなくても重なってしまう。
 百メートルをボルトが9秒台で走る。それをみる時、観客は「速い」と思うと同時に、その速さを「肉体」でつかみ取る。9秒台だから速いのではない。10秒台になったとしても速いし、肉離れで途中で棄権してしまっても、ころんでしまっても、速いのだ。いや、速くはないかもしれないが--見ていて肉体がボルトになって反応してしまう。
 こういう「肉体感覚」がしずかに滲んでくる詩はいいなあ。

 もうひとつ、とてもおもしろい作品。「のように」。

夏のように暑い
夏だ

  石のように冷えた
  石を撃つ

    太陽のように立派な
    太陽を抱く

      骨のように清らかな
      骨を拒否する

意思のように垂直な
意志だ

 繰り返される「のように」。つまり「比喩」。
 「比喩」というのは「肉体」だとわかる。「肉体」を重ねるのだ。この詩ではうまく説明ができないが、たとえば美女を薔薇に譬える。そのとき美女の肉体と薔薇の肉体が、作者の肉体のなかで重なる。作者は美女に肉体をあわせたのか、薔薇に肉体をあわせたのかわからないけれど(区別がつかないけれど)、肉体として融合してしまう。
 「夏のように暑い/夏だ」という1連目は、同義反復の、変なことばに見えるが、同義ではないのである。「頭」で考えると、同義反復になるが、そこにはことばにならない何か、比喩として言うしかない何か(ことば以前のもの)があって、そのことば以前の「肉体」を安水は「のように」ということばで引っ張りだしてきている。
 これは「肉体」の力業なのである。
 こういう強引な「肉体」の動きは、いいなあ。私は安水に会ったことがないが、まるで、目の前に安水がいるように感じる。「肉体」の感触を感じる。思わず、「安水さん」と肩を叩きなくなる感じ。知っている人に突然出合ったときのような感じ。
 うれしいなあ。




安水稔和全詩集
安水 稔和
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田中清光『夕暮れの地球から』(3)

2013-10-28 08:37:15 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(3)(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中清光『夕暮れの地球から』を読んでいて、不思議な「しっくりこない感じ」を受ける。特に「外国」が出てこない(?)ことばが、どうもしっくりこない。
 「生命(いのち)」。

見えなかったもの
見えずにいたもの
不可逆とされていた時の流れを遡ること

未知から未知へ 人間の発生の秘密をこじ開け
どこまでも突き進もうとする人が現われたこの世
東洋人のはしくれの自分も
どうしてここに来たのか
ここに居るのか と考えさせられている

 日本語で書かれているのだけれど、日本語という感じがしない。「不可逆」とか「未知」ということばが外国語のように聞こえる。言い換えると、「意味」はわかるけれど、その「意味」が「頭」のなかでとどまってしまう。
 これは田中の問題ではなく、私の問題なのだと思う。私は「未知」とか「不可逆」ということばをつかって考えないのだと気がついた。
 変な言い方になるが、たぶん、「不可逆」だとか「未知」ということばが「名詞」であることが、私にはなじめない(しっくりこない)のだ。
 きのう読んだ

梨畑から這い出してきたトカゲが舌を出す

 この1行はとてもしっくりきたが、それは「舌を出す」という動詞(動作)のなかに「肉体」を感じたからである。
 「不可逆」「未知」も「動詞」として書かれていたなら、私は、ぐいと引き込まれたかもしれない。
 「名詞」で情報(?)を整理すると、とても「便利」である。「合理的」である。てきぱきと「こと」がかたづく。でも、それがなんといえばいいのか、「頭」で「肉体」をむりやり整えている感じがして、何か抵抗を感じる。
 あ、これは「感覚の意見」なので、ちょっとそれ以上は説明できないのであるが。
 「動詞」で語れる部分は「動詞」で語る--ということ。語ってほしいなあ、と思うる。そうすると、田中のことばは私にはもっとわかりやすいものになる。
 で。
 いま書いたことと、微妙な関係にあるのだけれど、「一滴の水」のなかに井筒俊彦のことばが引用されている。

阿頼耶識(あらやしき)の
「「無」の境位を離れて、これから百花繚乱たる
経験的事物事象の形に乱れ散ろうとする境位」の
蔵する双面性 背反性に
言葉も出たり入ったりする
その深淵とどこで通底するのか

 井筒俊彦のことばは「「無」の……」の2行なのだけれど。
 何が書いてあるかというと、私にはわからないのだけれど、それでも引きつけられる。それは「離れて」「乱れ散ろうとする」という「動詞(動作)」がきちんと書かれているからだと思う。ほかの部分は「漢語(名詞)」なのだけれど、動きは日本語。そのために、そこにひきつけられて、何が書いてあるかわからないにもかかわらず、「わかる」。
 一方、田中のことばは「動詞」であっても、「通底する」という具合に「名詞派生」の動詞であるため、
 うーん、
 「頭」では「意味」を追いかけることはできる。「意味」は「存在の底(基本)を通う(通じる)」くらいのことだろう。でも、それが「通底する」となると、「肉体」が離れていくんだなあ。「通底する」ということばは「流通言語」であって、誰でも知っていることばなんだろうけれど。(私も知っているのだけれど……。)
 で、私の「感覚的意見」は、「通底する」という便利なことばは、「阿頼耶識」というような複雑な「概念」を理解するときにはとても有効だけれど、それを「肉体」でつかみ取るのはむずかしいんじゃないかなあ、と主張するのである。私は井筒哲学を勉強したわけではないので、あくまで「感覚的意見」なのだけれど、そういう「未分化」の領域へ踏み込んでいくには、もっと、「肉体」そのものの、ねばっこい動きじゃないと、「未分化」は「分化(分節)」してしまって、なくなってしまうのではと、なんとなく思うのである。
 あ、田中はなんでも知っているんだ、「頭」でいろいろなことが整理されているのだと感じる--その感じが、なんとなく「違和感」を呼び覚ます。
 これは言い換えると、私が無知、何も知らないだけということになるのだけれど。

 で、その無知な読者からみると、「裂傷」という詩は、好きだなあ。

ヴォルスがこの世に置いて行った言葉がある
「人間は自然にとっては無用のもの」

彼の手が生み出した銅版画をみると
どこにでも繊毛が拡がりつづけ
そのつぐむ網の目には
ひとの頭の細部から 痛む神経 植物のからみあう根
存在にまつわるおびただしい根毛が蠢いている

 ヴォルスを私は知らないけれど、その銅版画を見たことがないけれど(あるかもしれないけれど、肉体がおぼえていない)、その銅版画が「見える」。つまり、「肉体」が「おぼえている」何かが、かってに動き、「いま/ここ」に存在しない版画を「思い出させる」。細かい繊毛のような線が拡がり、絡み合っている。蠢いている。ヴォルスは、そのちょっと不気味なような、暗いような何かで、整理されえない何かを具体的にあらわそうとしたのだな、と感じる。「もの」であると同時に「感じ」である、何か。「もの」と「感じ」がいっしょになっている何か、切り離せない何か。それが、「わかる」。
 これは「拡がる(拡がりつづける)」「つむぐ」「痛む」「からむ(からみあう)」「蠢く」という動詞が「肉体」を刺戟し、「肉体」が「おぼえていること」を引き出すからだね。そして、その動詞は「名詞」のように明瞭にはなりきれない何かをつかんで、「肉体」へ引き入れる。
 これは「危険」なことなのだけれど、その「危険」のなかに、美しい詩がある。--と、私の「感覚の意見」は主張する。

 田中のことばが、もっと「動詞」に近づくとき、この詩集の作品群はとても音楽的になる--とも思う。
夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
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田中清光『夕暮れの地球から』(2)

2013-10-27 12:12:56 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(2)(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中の「精神至上主義(教養主義)」は少し西脇順三郎に似ている。「永劫」ということばなんかが出てくるから余計にそう感じるのかもしれないが。そういう「精神的(抽象的?)」なことばのほかにも、たとえば、行の転換の仕方が西脇を感じさせる。
 「夕暮れの地球から」の2連目。

弔辞を読みに武蔵野へ帰ろうとする
もう秋は深いがいつまでも悲歌を書いているわけにもゆくまい
凋落のながれの止まらないなかを
近代人は犬のように走っきた
亡びる前なのか
もうおそい ということばかりの
この世なのに
ケヤキの枝葉の音
自然は人間を作り人間を亡ぼす

 「ケヤキ(自然)」を導入し、非情の美を刻み込む。このことばの運動が西脇を感じさせるのだけれど、ちょっと違う。この「ちょっとの違い」を「感覚の意見」で言いなおすと、「音楽」が違う。
 西脇のことばには「音楽」があり、その「音楽」が「肉体」を感じさせる。ことばを発する喜び、喉なのか、舌なのか、口蓋なのか、鼻腔なのか、あるいは耳の螺旋階段なのかわからないけれど、何かしら「肉体」を喜ばせるものがあって、私は「意味」を忘れてしまうのだけれど、田中の詩の場合、どうも「意味」が残る。
 3連目。

自然の法則に人間は苦しむ
古代人にはじまる隔世遺伝をかかえて
実験のまぼろしに憑かれた人びとよ
地獄の季節もいつのまにか過ぎゆき
ボードレールの亡霊はどの辺りに立っているのか
フォートリエの苦苦しい不安な顔の絵にも前世紀の清算をできずにいる

 「地獄の季節」(ランボー)とボードレールが近すぎる。近いなら近いで「近く」をもっと濃密にすれば違ってくるかもしれないけれど、そこからフォートリエ(絵画)へ移行し「苦苦しい不安」とつないでしまうと、ランボーもボードレールも「意味」になってしまう。
 ことばは「意味」を書くものなのかもしれないけれど。
 うーん、と私は立ち止まってしまう。
 でも、その次の連は、私は好きなのだ。

梨畑から這い出してきたトカゲが舌を出す
江戸川の崖のほとり
白秋も荷風も寝ころんでいたろう
芳醇な江戸の酒に酔ってしまったまま--
セザンヌのくるしみは何よりも山と樹に向けられた
植物的な植物の隠語を調べていて八幡の藪知らずに迷い込む
デカルトがいつもおそれた時間に
手紙が届けられてくるが
女たちから
接ぎ木してもらって生きてきたわれら

 まず「トカゲ」。これがおもしろいのは、その爬虫類という生き物の存在自体を超えて、「舌を出す」という動詞があるからだ。動詞/動作によって、トカゲが「人間」の肉体を刺戟する。トカゲなのにトカゲを超える。人間の動きが重なる。そこへ白秋、荷風が現れるのだけれど、そこにも「寝ころんで」という動詞(動作)がある。
 「意味」ではなく、「運動」があるのだ。運動というのはリズムがある。リズムがあるところには「音楽」の始まりがある。
 セザンヌの行も「向けられた」という動詞(動作)によって、それはセザンヌだけのものではなく、セザンヌを見た人のものになる。私たちは「意味」に自分を重ねるのではない。そこに生きて動いている人に、自分の「肉体」を重ねる。
 「苦しみを」「山と樹に向けられた(向けた)」ということばも「苦しみ」が感情(精神?)であるにもかかわらず「向ける」という別の動詞(苦しみを苦しむ、という動詞とは別なもの)のなかで動かすとき、感情(精神)以外のものも動いて、それが人間を救うのだ。「意味」ではなく、「運動」。
 で、そういう「運動」がはじまると、ことばも知らず知らず「運動」のなかに音楽がしのびこんでくる。音楽を生み出してしまうのかもしれない。「植物的な植物」というのはあまりにも西脇的音韻だが、「八幡の藪知らず」の「や」の繰り返しは、「声」が笑うね。うれしいなあ。
 「デカルト」以後は、また「意味」になるので、ちょっと窮屈だなあ、と感じるけれど。

 あ、感想がばらばらだね。
 田中のことばには「精神」が主導になって動く部分と、それを「肉体」がぐいと押さえ込む部分があって、私は、その「肉体」がもっと前に出てくるとおもしろいのになあ、と思う。
 (きょうは中途半端な書き方になったので、あす、もう少し書くかも……。)




夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
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「千人のオフィーリア」(21-40 )

2013-10-26 10:43:22 | 連詩「千人のオフィーリア」
                            矢ヶ崎 正
はらはらと落ち葉が舞ったようでいて
よく見ればそれは紙吹雪だった
「おめでとうございます。
あなたは地球百兆回転目の訪問者です!」
わたしは訪問者なんかじゃないと
オフィーリアは思ったが
くす玉を割って迎えられ戸惑うばかり

                            谷内修三
折鶴をほどいて平たい紙にしているのは誰?
残った折れ線を手のひらに重ね合わせているのは誰?

                            市堀 玉宗
水を売る女淋しき月の路地

                           小田 千代子
晩秋はつるべ落としにこぼれ萩 決して太らぬ月を観ている

                          キタダヒロヒコ
千人のオフィーリアは月の裏に住む王を想ふ
膝まで覆ふ草ぐさの吐く真昼のエゴイズム
彼女たちの腰骨で螺旋のやうに死ねば本望
ほそいほそい光合成が遠い手紙のなかで繰り返す
ただ千人のピカソだけが信頼を得て肖像(にがほ)を描き
はるかな場所で暴かれる日を待つてゐる

                           坂多 瑩子
恋夢見まっさらな十月抱きしめて

                           小田 千代子
箸あらう女にあたる幻夢の月の
蒼き光は胸絞るだけ

                          キタダヒロヒコ
真水で描いた月のにほひは消えやすく
うたごゑなびく女子感化院

                            山下 晴代
「尼寺って、どちらの尼寺ですの?」

                             谷内修三
瀬戸内寂聴のところだけはいやだわ。
誰にでも過去はあるけれど、
過去は物語じゃないんだもの。
ことばにとじこめられるのは、
死ぬより悲しいわ。
ことば、ことば、ことば、
word word wors
ことばはみんな嘘つきよ。

                             茸地 寒  
菜切り包丁買ひ来し夜の流星 

ロマの娘たちにまじって
その子は 浮かんでいる。それは
南禅寺の水道橋の上だったり

モネの睡蓮の池だっりした。

                               市堀玉宗
いはれたるまゝに一文字買ひしのみ

                                金子忠政
尽くそうとして過剰になる
言葉の応酬が
じとじとのうつろを編み上げる


                                田島安江
路地を抜けてすぎる
あなたの後ろ姿を
明るい陽が追っていく
明るい言葉が
あなたの影を染める

                                市堀玉宗
木漏れ日に浮かび出でたる秋の蝶

                                谷内修三
それはきのうのオフィーリア、あしたのオフィーリア
そして五年前の、百年前のオフィーリア、
十億年前は誰もいない草原で光と風に酔い、
千年先には異国の街でジュリエットになると信じていた。
それは一万日あとの憧れいづる泉式部、
三日目の雲居にかくれる紫式部のあまたある女御、

                           橋本 正秀
とめどなく落ち続ける星屑に埋もれる千人のオフィーリア。彼女らの光る眼に星屑がきらめき覆う。

                           金子忠政
かっ、と眼を見ひらいたまま
くるくる落ちていく
落ちていく
「哀しき狂乱のひと」、それも類?
すべてのオフィーリアたち
音もなく襲いかかる大気に
心砕かれ深い淵に投身していく
硬雪のようなしんたいたち
冷たくまばゆい白に輝いて
迷宮を描き降下していく
忘却の河、そう、歴史の真っ只中を

                             市堀玉宗
まぐはひの女落ちゆく銀河かな

                             矢ヶ崎 正
千人のオフィーリアには千の星
それらはみな遠い宇宙の隅々にあって
誰かしらを見守っているようだ
だがそれは ひとから見た風景であり
本当のオフィーリアを知ったことにはならない
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田中清光『夕暮れの地球から』

2013-10-26 10:33:11 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中清光『夕暮れの地球から』を開いて読みはじめた瞬間、あ、詩なんだ、詩集なんだ、と思う。詩集なのだから、それがあたりまえなのだけれど……。
 ことばそのものが、詩、をしている。
 現実と向き合い、現実と交差していることば、というよりも、現実は現実でも「精神の現実」とことばが向き合っている。ことばが「精神」を反映している。「詩は志を書くもの」という定義に通じるような潔癖さがある。
 巻頭の「永劫」の書き出し。

手弱女(たおやめ)の衣もさびれ
アンドロメダをおもいうかべる夕べ
岩にしがみつくやさしいすみれよ

 「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」がいっしょに存在する「場」を私は「日常」のなかでは知らない。「手弱女の衣」の「さびれ」というものを、私は肉眼で見たこともない。
 「現実(世界)」が何かの力で内部から破壊され、その散らばった断片を見るような感じがする。--あくまで「感じ」であって、実際にそういうものを見たわけではないのだから、まあ、いいかげんな感想なのだけれど。
 で、その破壊と、さらに断片をつないでいるもの(いくつもの断片のなかから「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を選んでくるもの)は何なのかと考えたら、そこに田中の「精神」というものがふと浮かんでくる。
 田中の精神が「現実世界」を内部から破壊し、新しく世界を造り替えようとしている。こういうことは2行目の「おもいうかべ」ということばが象徴的だが、実際にできるわけではなく、あくまで「思い浮かべ(想起)」のなかで起きることなのだが、その「想起」ということを思うと、そこに「精神」が浮かび上がってくる。
 「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を射程とする精神。
 うーん。精神を「教養」と呼んでもいいのかもしれない。蓄積された教養がつくりだすひとつの「理想郷」と「現実」がぶつかり、「現実」を破壊し、「いま/ここ」にない新しい「宇宙」をつくろうとしている。その想像のエネルギーというもの、充満する精神の力というものを感じる。
 「教養」というものは2連目へ行くともっと前面に出てくる。

プラトンの饗宴をひらくと
そこにはソクラテスが座っていた
荒れ果てた季節のいまは
ダンテの地獄篇の丘にいるようだ
なぜダンテを読みながら
現世を徘徊しなければならないのか
問いつめれば問いつめる程
変わりつづけるものがうかぶ

 「現世」は私のことばでは「日常(現実)」になるかな?
 そういうものが一方にある。そして他方に、それとは切り離されたプラトン(ソクラテス)、ダンテのことばの世界がある。その確立されたことばは、いわば「世界」である。「ことばが世界」なのだ。それが「精神」なのだ。「確立されたことばとしての世界」が「精神」。めれは「確立されている」から「変わらない」。「現世」は「変わりつづける」が「確立された精神」は「変わらない」。
 その「精神」が「現世」と向き合うとき、「現世」は切断というより、内部から破壊されるという感じ。「変わる」ものを怒って、精神が「変わる」を中断させる。そして、新たに「確立」するのだ、世界を。
 そして、そんなふうに破壊され散らばっていく断片は、いわば破壊された内部に存在する「精神」を映す「鏡」のようなものである。

 ここには精神があるのか、精神を映す鏡があるのか--ということを、少し考えるが、うーん、脱線して、取りかえしがつかなくなってしまいそうなので、きょうは「メモ」として残しておくだけにする。

 新しく構築される世界は「精神」そのものを内部にもっていて、それが世界を統合するのだ。その荒々しい「構造」としての世界、空間をいたることろに抱え込んだ世界--いいかえると、「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」の「接続」はべったりとくっついていない。離れたままつながっている。--その「空間」の自由のようなものが詩の自由と重なるのかもしれない。だから、詩、を感じるのかもしれない。(あ、飛躍の多い、非・論理的な文章だねえ……。)

 でも、精神はなぜ、そんなことをするのだろう。「現世」を破壊して、世界を造り替えるとき、その世界は「現世」とはどう違うのか……。
 考えるとややこしいので、さらに飛躍してしまう。
 最終連。

人間の終わるところに永劫が始まる
永劫は永劫のなかにある
樹も立ったまま灰になることができるが
神神のあるく風土記から
失楽園までの道のりは長い
文人墨客に逢うのはその涯てだ

 「精神」は「永劫」と向き合うのである。「永劫」をつくりだしていくものが「精神」なのである。「永劫」とは「ことばで確立する世界」である。
 すると「現世」は「ことばで確立する世界」とは違ったもの?

 そうかもしれない。

 うーん、そういう世界、そういう世界をつくろうとする「精神(至上主義?)」は、私のいつも考えていることとは違うので、賛成したくないのだが、強いことばに引きずられるなあ。
 これは手ごわい詩だぞ、と私の「感覚の意見」は主張している。
 あしたまた考えてみよう。






夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
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季村敏夫「ひとつかみの風」

2013-10-25 10:12:56 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫「ひとつかみの風」(「纜」4、2013年08月31日発行)

 季村敏夫「ひとつかみの風」は不思議なかなしさがある。「におい」のかなしさがある。

ゆうぐれの運河は臭い
すれちがう息は酒臭い

自転車の微笑み
のこされた息が転がる

くずやの金さんがガラスの向こう
もうペケや
指で合図
頭には放射線照射のためのバツ印し

それからゆらいだ五月
ひとつかみの風となり
金本英一は旅立った

あっけなくくずれる
くず鉄ひとふさ

キロなんぽやねん
ありやなしやの
風の挨拶

息子に先立たれたじいさん
ひん曲がったくちびるを突き出し
隣りの塀に立小便

工場にトイレはあるのに
体温体臭
出るはでるは臭い湯気

 たとえ工場にトイレがあったとしても、ひとは時には立ち小便がしたい。隣の塀に小便をかけてみたい。それは「生理現象」ではなくて、むしろ「かなしみ」の現象である。
 「におい」がかなしいのは、そこに「体温」があるからだ。「肉体」があたためた何か、あたためずにはいられない「肉体」の力。それがあるからだとわかる。
 そして、それは防ぎようがない。鼻をふさぐことはできるが、ふさいだままではいられないからね。なんだか、無防備な肉体に入り込んでくる。それも「頭」ではなく、違った部分に入り込んでくる。
 「かなしい」のは、だから「頭」とは違った部分である。
 立ち小便をする「じいさん」のかなしみは、「頭」ではなく、「肉体」で感じる何かである。それは、あるいは息子が死んだというかなしみではなく、息子は死んだのに自分は生きているというかなしみである。
 その「生きている」を、長々とでる(でてしまう)小便、その温かい「におい」で感じてしまうかなしさ。
 それに対してひとは何ができるか。
 何もできない。
 季村はただそれを見つめている。見つめるとき、それをことばにするとき、季村は「じいさん」になり、立ち小便をしているのである。重なってしまう。そして「肉体」で「かなしみ」を感じる。「におい」がそのかなしみのなかに入ってくる。



 辛夕汀「登高」という作品の訳詩が同じ号にある。

山には白く雪が積もっていた。

白帆ほのかに黄海に浮かび
あたたかい陽ざしが秀麗な蘆嶺山脈に照り映える
午後--

私は岩に腰かけて
香ばしい松の実を
一つ
二つ
一つ 二つ
剥いては食べた。

私は急に山鳥のように身が軽くなり
私は急に山鳥のように飛びたくなった。

あの平穏な青い空を--
耐えがたいまでに平穏なあの空の下を--

 最後の2連が、どう説明していいのかわからないが、気持ちがいい。「急に」が「わかる」。二回「急に」と言いたい感じがわかる。そして、「あの空の下を」の「下を」が美しいなあ。空ではなく、「空の下」を飛びたい。舞い上がるのではなく、飛びながら、なつかしい街に近づいてゆくのだ。視線が、いままで自分がいた街に近づいていく感じがとてもいい。
 こんな比較というか結びつけは変かもしれないが……。
 なんとなく、あ、これは「じいさんの立ち小便」を見ている季村の視点に似ているなあ、近いものがあるなあ、共通のものがあるなあ、と感じる。離れているのだけれど、離れたままではない、近づいていく感じが似ている。距離が縮む感じが似ている。

豆手帖から
季村 敏夫
書肆山田
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連詩「千人のオフィーリア」(1-20)

2013-10-25 09:56:55 | 連詩「千人のオフィーリア」
千人のオフィーリア(連詩の試み)
https://www.facebook.com/groups/170080153191549/

                           谷内修三
千人のオフィーリアが流れてくる川がある。
ひとりは水道の蛇口から身を投げて、
高層マンションの長い排水管を潜り抜けてきた人形。

                           金子 忠政
彼女は残りの999人をみつめようと
まばたきしないひとみを声にしている
ひとりの臓腑に声が突き刺さって
最上階の窓から応答のピアノ

                           山下 晴代
ぽろん、ぽろん。
2000年前のアルゴリズム。

                           坂多 瑩子
それは月曜日の朝 
あたしは生ゴミのなかで拾われた 
片腕のない人形をだきしめたまま

                           岡野 絵里子
呑み込まれていった
「時」が始まる夢の淵へ
川は見る者の目を流れ
信号の多い街を浸し続けた

                           谷内修三
水に映る街と過去はシンメトリー
ビルを映す水の奥には過去が流れていく、そして
水面のビルの色は流れないけれど私の
オフィーリアは流れてさまよう

                           金子 忠政
まどろみゆれる水草のような
ビルの直線にからまれ
仰向けに青空をみつめ
あるはずのない血を脈打たせて
水面をただよっていく

                           田島安江
水面にゆれる影が
ビルの隙間をするりとぬけて
もう一つの影を追う
ああ、ここは明るすぎる。

                           坂多 瑩子
水に映る街と水底の街がクロスするとき 
時間はとまる 
さあお行き 
熱いスープが冷めぬまに

                           矢ヶ崎 正
時間はいつもさみしがって
空間にしがみつく
サラダもワインも遅れてきたけれど
それを 怒りも笑いもするなと
光源の奥から言うものがある

                           谷内修三
千人のオフィーリアが流れてくる、
冬の中世のヨーロッパからドライフラワーを抱えて、
アマゾンから極彩色の蝶に口づけされたまま、
大気汚染の中国からは金瓶梅の纏足をマッサージしながら、
ああやかましい。

                           金子 忠政
君らはひしめいて流れてくる
いっせいに流れていく
大陸から大陸へ
いまだ難民に似ていて
恐怖に渇いた口をあけたまま
置き去りにされた地の首筋から足首まで
濡れた星座をしるしづけ
何度も行って帰ってくる
石を食って頭かかえた空にも

                           坂多 瑩子
おまえが飲みこんだオフィーリア
腹のなかで増殖していくオフィーリアの
そのひとりひとりをおまえは知っているというのか
古ぼけた靴をはかされて
インクの染みのついたスカートをひるがえして
たったひとりのオフィーリアさえ
おまえはその手に抱きしめたことがあるのか

                           田島 安江
おお、かわいそうなオフィーリア
お前を抱きしめてくれるものなどいない
お前はどこまでもひとりぼっち
ああ、愛しのオフィーリア
さあ、どこまでも
地の果てまでも流れていくがいい

                           坂多 瑩子
あたしはヴァンパイアーが好き
何万年も生きるその哀しさが好き
小さなわなをしかけて
人間たちを眺めながら
地の果ての
暗くて深い森で
その身の上話を聞くのが好き

                           山下 晴代
"You! hypocrite lecteur!___mon semblable,___mon frere!

                           市堀 玉宗
血塗られしこの世に月を仰ぐかな

                           谷内 修三
血のなかで騒ぐことばよ、
ことばのなかで騒ぐ血よ、
おまえの名は女、
女の名はおまえ、

                           田島 安江
月満ちて刃沈める水かがみ

                           永田 満徳
訳ありて深山に籠る紅葉かな
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新井高子『ベットと織機』

2013-10-24 10:29:05 | 詩集
新井高子『ベットと織機』(未知谷、2013年10月15日発行)

 詩には詩集にならないとわからないものがある--と新井高子『ベットと織機』を読みながら思った。収録されている詩の多くは詩誌「ミて」に発表された作品である。発表時に読んでいる作品もある。でも、そのときは他の作品との対比(?)で読んでしまうので、印象がまったく違ってしまう。生々しく、泥臭く、あ、感想は書きたくないなあと、敬遠してきたのだが。
 うーん。
 一冊になると、とたんにことばの手触りが違ってくる。新井の詩は新井のことばが重なり合って動く場でこそ読むべきものなのだとわかる。
 ほかの人の作品といっしょだと、どうしても比較ということが起きて、新井のことばの強さが散らばってしまう。新井の作品よりも、ほかの作品の方がとっつきやすい。感想がいいやすい。
 私は書きやすい方の感想を書いてしまう。どうしても書きにくい、書こうとすると自分をつくりかえないことにはことばが動かない作品は、わきに置いてしまう。
 で、いま、一冊のことばを読みはじめて。
 いやあ、やっぱり書きにくいなあ。
 「ベットと織機」というのは、標準語で言うと「ベッドと織機」になると思う。織機工場が舞台。そこで働く女性が描かれている。子供をおぶって、あるいはベビーベッド(新井は「ベビーベット」と書いている)にねかせて働いている女性たち。その姿が活写されている。
 その活写は。
 「ベット」という表記が象徴しているように、「口語」そのもの。
 言い方を変えると、「頭」で整えたことばではなく、口語、肉体で発せられたことばそのままの「間違い」を含んでいる。
 「間違い」といっても、それは「頭」で考える「常識」と比較して間違っているということであって、「肉体」のやりとりだけにかぎれば「間違い」なんかはない。「ベット」と言って、それできちんとみんなに通じる。少なくとも同じ工場で働いている女性には通じる。
 ほかにも通じることはたくさんある。

糸繰り場には、カレンダーのポルノ写真が、目ェ流しておりました
機械なおしの二人のほかは、みィんな女の工場(こうじょう)に
銭湯のよう、
丸出しおっぱいは
こぼれます、ホンマモンも
泣きじゃくれば、飲まサァなんねェ
赤ンぼオブって、通っておったんです、女工さんらは
ベビーベットさ持ち込んで、稼(かせ)ェでおったんです
機械油と髪油と乳臭さが、工場(コーバ)のにおい
吸いたかねェ、そんなモン
ベビーベットと力織機、ベビーベットに力織機、ベビーベットが力織機、
ジャンガンジャンガン、ジャンガンジャンガン

 乳飲み子に乳を飲ませるという「肉体」が同じ、そしてそれは乳飲み子を産んだ「肉体」が同じということでもある。そして、そうなれば、これからも赤ん坊を産むという「肉体」、産む以前の「ポルノ」につながる「肉体」が同じということ。セックスする「肉体」が同じ、ということ。
 工場はたしかに働くところだけれど、そこにはセックスだって入り込んでくる。
 これは、だれがやっても間違えっこないこと。間違いなく同じことが繰り返される。そこに「真実」の力がある。

おらんのです、
機織り工場のマリア観音、おりません、立っとりません
寝ております、ベットです
 ダブルベットば 担(かつ)ぎ込んだヨ!
  ヤイちゃんは、
   しておった! お昼休みを、機械なおしの正(ショー)やんと
ギギギギィーッと
大腿骨の、
   観音扉が

     (ベビーはえぇが、ダブルはいかん、
    と言えますか
   女のなかの女、
  のなかに、秘仏さんがおンならば、
 開帳ならん、
と言えますか)

 仕事場にセックスを持ち込むな--というのは「頭」の「正論」。持ち込んではいけなくても、したいものはしたいし、する時間が昼休みしかないなら昼休みにしてしまう。それは「頭」は禁止しているが、そこで働く女性たちの「肉体」は禁止していない。
 「頭」で労働を整えていない。労働環境を整えていない。
 そういう「肉体」の力、「肉体」が「肉体」を整えて、自給自足(?)する力があふれている。「肉体」の正直がある。
 それを、新井は、ことばを整えずに、「肉体」に任せて動かしている。
 「ベット」という表記は、その「肉体」の正直をそのまま反映している--というのは強引な言い方だけれど、私の感じるのはそういうことだ。

 あ、こんなことを書いても感想にはならないだろうなあ、批評にはならないだろうなあと思うのだけれど。
 私のことばなどはねのけて、新井のことばは動いていく。
 もしかすると、そういうことも予感していて、私は「ミて」で読んだときは、目をそらしていたのかもしれないなあ。
 これは、負けてしまう。新井のことばに負けてしまう。
 いや、負けたっていいんだけれどね。
 でも、ちょっと悔しいよね。あ、すごい--と言ってしまったら、ほかにはなにも言えないというのは、感想を書く方としてはつらい。
 何かかっこいいことも言ってみたい。こんなふうに評価しています、と「意味」だってつけくわえたくなる。

 でも(でも、ばっかり、書いている)。
 でも、一冊になってしまうと、もう同人誌のときとは「量」が違うから、「負けた」と言うことが苦にならない。新井のことばに対抗して、何か「意味」なんて書いてもしようがない。もう、読めばそれでいい。
 少しだけつけくわえるなら、この「頭」を拒んで(?)、あくまでも「肉体」のことばで動くとき、そのことばの射程というものが限られてくるかというと、そうではない、ということ。
 「ねんねんころりよ」という作品は、

神秘でありました、おがむのが
日課でありました、朝の
しんぶんで、
ぴちゃぴちゃと 愛液たたえる大釜へ
口しめ抜いた男茎が、ムンズと
つッこみ、掻きまわし

 と、まるでポルノみたいにはじまるのだが、

化ケモノでありました、淫ヨクの
火ばしらの、燃料ボーが
原シ炉という子宮、ゼツリンを
びちゃびちゃびちゃびちゃ
とけて、漏れてもおりました、っけ

 福島第一原発の事故をも克明に描けるのである。「肉体」にひきつけ、「わかる」ことができるである。
 「頭」で「理解」するのではなく、「肉体」で「わかる」。
 どうすべきなのか、何ができるか。
 新井の「肉体」は「わかっている」。

原発に、けっきょくお盛んですぞ
赤ん坊の半減期に
わーんと生まれる、デン子たち
ねんねん、ころりよ

 「ねんねん、ころりよ」では解決にならないと「頭」は言うだろう。もちろん、そんなことでは解決しない。だからこそ、その「ねんねん、ころりよ」が答えなのである。「ねんねん、ころりよ」で収まりがつかないものなど、いらないのだ。
 「肉体」は「肉体」でなだめることができるものを完全にわかっている。知っている。そして、わかっているから、それを使うことができる。
 その「わかっている」(つかえる)範囲で、新井のことばは動く。ほかへははみださない。これは、とても強い決意だ。



ベットと織機
新井 高子
未知谷
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テーブルの上に--飯島耕一氏死去を新聞で読んだ日に

2013-10-23 20:34:15 | 
テーブルの上に--飯島耕一氏死去を新聞で読んだ日に


テーブルの上にコーヒーカップが二つ。
ショパンのピアノ曲が終わったとき、
一つには黒い水たまりが残っていてカップの縁を映している、
三日月の形に白が揺れる。
一つは干上がった底に薄焦げ茶の輪郭がはりついている。
二人だけの暮らしにもこんな違いがあるのだと知る秋

--ということばを定型詩にするにはどうすればいいだろう。

窓を開けると雨が止んだあとの空気が入ってきて
(空気を修飾することばは見つからなくて
からだのどこかが冷えていく気がした。
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ミゲル・ゴメス監督「熱波」(★★★★★)

2013-10-23 10:59:30 | 映画
ミゲル・ゴメス監督「熱波」(★★★★★)

監督 ミゲル・ゴメス 出演 テレーザ・マドルーガ、ラウラ・ソベラル、アナ・モレイラ、カルロト・コタ

 映画がはじまって数分後だろうか、不思議な映像があらわれる。老女がカジノで金を使い果たし、帰れなくなる。それを隣人の女性が迎えにゆく。「だめじゃないの」とかなんとかたしなめるのだが、それに対して老女が「夢のお告げがあった」と反論する。そのときの映像。
 テーブルに座っている。正面を向いて、老女はたんたんと語る。その背後。画面が固定しない。ぐるーっと回る。まるで老女の座っているテーブルが丸い回転床の上にある感じ。回転式展望レストランのような感じ。ほんとうは床は回っていないのだが、そういう具合に撮っている。ただし、この背景はくっきりとは見えず、ぼんやりと焦点がぼけていて、ほんとうに映し出されるのは老女の顔だけ。
 うーん、
 老女と現実がうまくかみあっていないのだが、では、どんな具合にかみあっていないのかと説明しようとするとむずかしい。「いま/ここ」に老女はいる。けれども、彼女は「いま/ここ」を生きていない。彼女が生きている「いま/ここ」と老女を迎えにきか女性の「いま/ここ」は違うのだ。
 その違いを、この不思議な映像がとらえている。
 老女を迎えに来た女性は老女話をじーっと聞いている(ふりをしている?)。カメラが正面からとらえる老女の姿が女性の視線が老女に向いていることを明確に語る。同時に、別の目で女性はカジノ全体をみまわしている。それが背景になってゆっくり動く。
 あ、私は、どっちを見たんだろうか……。
 夢のお告げを真剣に語る老女の「こころ(精神)」を見たんだろうか。それとも、「こんな与太話なんかして……」と思いながら、カジノをぼんやり見渡してしまう女性のこころを見たんだろうか。焦点は老女の顔にぴったりあっているのだが、私の意識はゆっくりまわる背景に奪われている。
 かみあわない。
 かみあわないものが、「いま/ここ」にある。かみあわないことが「いま/ここ」のすべてであるのかもしれない。
 というようなことが、その後も、たとえば隣の女性と、同僚の男性、あるいは隣の女性と老女のメイド(あるいは老女の娘)とのあいだで起きる。それを、どんな「解決」ものなしに、カメラはたんたんと映している。たんたんと--と書いたあとで、私は実は迷っている。あ、違うと感じている。映像があまりにも「がっちり」している。ゆるがない。たたいても壊れない。まるでオリベイラ監督の映像のようである。(ポルトガル映画の特徴かもしれない。がっしりとカメラは固定されていて、それに向かって役者が自分をむき出しにしてゆく--カメラは役者が闘っている。)
 で、そういうことが「第一部」で「第二部」は老女の思い出が語られる。これが、また実に不思議である。老女にはむかし、燃える恋があった。燃える恋だから、まあ、簡単に言うと不倫である。それをこの映画は役者の台詞なしで展開する。台詞がないのだけれどナレーションがある。ただし、そのナレーションは女性の声ではない。男の声である。老女の昔の恋なのに、それを語っているのは女性のはずなのに、声は男。
 カジノの老女の独白(?)のように、なにかがずれている。どちらが「ほんもの」なのか、よくわからない。どちらも「ほんもの」には違いないのだが、「ほんもの」なら、それが直接、まるごと観客(私)にぶつかってきてもいいのに、ぐい、と引き止められる。映画と私のあいだに信じられない「裂け目」がある。
 で、「裂け目」があることが、一方で、激しく私の意識を揺さぶる。「裂け目」によって気づくものがある。
 あ、これは存在しないのだ。
 これは、というのは、たとえばカジノで独白する老女の語っていることがら、たとえば激しく燃えた昔の恋。それは老女のなかにさえ存在しないのかもしれない。ただ語るということがあるだけなのだ。思い出そうとしても語れない。語ったところで、それが「いま/ここ」に存在してくれるわけではない。カジノで勝利するという夢のお告げが現実にならなかったように、過去の恋はどれだけ語っても現実には「存在」としてあらわれない。でも、その現実には存在しないもの(いま/ここに存在しないもの)が人間を動かすのである。
 この矛盾というか、この「裂け目」にはびっくりするなあ。
 まるで、悪夢である。

 まだ、私のことばにはならないのだが、そういうものがこの映画に動いている。しかも、その映画はモノクロである。現実には存在しない色。しかし、その現実には存在しない色が、現実のカラーの色よりもなまなましく肉体にせまってくる。輝かしく肉体の内部に入り込んでくる。
 「第二部」の男のナレーションにも同じような効果がある。女の思い出なのに、その思い出のなかから「女」が消えて、逆に、なまなましい「肉体」そのものが噴出してくる感じ。男の声を突き破って、「いのち」そのものの肉体が発火して動く感じ。
 あ、このことから書きはじめればよかったのかなあ。

 うーん。
 「塀の中のジュリアス・シーザー」「パルヴィス」「熱波」の3本が、私の今年のベスト3だな、と思うのだった。順序は、そのときそのときで変わるだろうけれど、見逃してはならない3本だね。
                      (2013年10月20日、KBCシネマ1)

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浦歌無子『イバラ交』(2)

2013-10-22 11:03:25 | 詩集
浦歌無子『イバラ交』(2)(思潮社、2013年10月07日発行)

 きのう「さけめについて書いた。書きながら、どうも私はまちがったことを書いているという感じが「肉体」のなかに残りつづけた。「裂け目」というと「切断」だけれど、浦の書く「裂け目」は「切断」ではない。むしろ「接続」である。「切断」と「接続」が区切りなくつづいている。
 あ、変な言い方だね。
 「雨遣いのRの話」のなかほど。

無数の白い糸をずるずるひきずる指で
Rがわたしの手のひらに文字を書く
「もう僕の糸は雨にはならない」
糸はいくらでも吐きだされ
あなたの指はしらみつく糸にきりきり引っ張られひきつっている
雲のはずのあなたが蜘蛛の巣に捕らえられた虫みたいになっちゃうなんて
そんなのおかしすぎるわってほんとは笑ってしまいたかった
糸はもつれあいながらみるみるうちにあなたを包み込んでゆく
わたしは糸を切ろうとするけれど
わたしの持っているハサミではどうしてもその糸は切れない

絡みついた糸の透き間からあなたの腕が伸びてきて
かつてわたしの耳があったところを触る
わずかにあなたの指の体温が伝わってくる
「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」
あなたはなくした耳のことを知っている

 少し無意味な長い引用になったような気がするが……。「無意味な」というのは、私が書きたいことは引用したあとの部分であって、その前の部分はあまり関係ないのだが、という意味である。それなのになぜ引用したかというと。
 今回の裏の詩集の詩は、どの詩も不思議な「長さ」をもっている。だらだらと長いのである。ずるずるとつづいている感じがするのである。「裂け目」どころが、「裂け目」がないまま、いったいなぜこんな具合にずるずるとつながるのかというくらいにつながっていく。「ハサミ」が何回か出てくるが、そのハサミはこの詩に書いてあるようにぜんぜん切れない。切れないならハサミを書いてもしようがないのに、そのハサミが出てくるように、ことばが「無意味」につながっていく。
 で、その「ずるずるとした連続(接続)」がつづいて行って、引用した「あなたの腕が」「かつてわたしの耳があったところをさわる」につながる。
 この瞬間、

触る

 と「接続」のことばがそこに動いているにもかかわらず、私の「肉体」は「裂け目」に触ってしまう。
 耳のあったところ、とは、「耳のないところ」である。「不在」あるいは「非・在」、どういっていいかわからないが、ないものに触る。
 --ないものには、触れない。けれど、それは「肉体」にとってそうなのではなくて、「精神(意識)」にとってそうなのである。
 むちゃくちゃというか、矛盾というか、非論理的なことを書いてしまっているようだが、実際に、非在(不在)に触るのは、意識ではなく、本物の手である。手で触って、そこにあるべきものがない(非在)を「肉体」で確かめるのである。
 接続(触る)だけが、「裂け目」(非在)に触ることができる。
 触って確かめたことを、「意識」にする。つまり「おぼえる」。

 それは逆の言い方をした方がわかりやすいのかも。
 「肉体」は「おぼえている」ことを「思い出す」。
 「かつて私の耳があったところ」というのは、意識(精神)がおぼえているのではない。それはあくまで「肉体」がおぼえていることである。で、「肉体」はいつでもおぼえているので、そのことに対して「意識(精神)」が「違和感」をおぼえ、その「連続」に「裂け目」を持ち込む。

「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」

 でも、それは「裂け目」を見せるのではなく、「あったはずだ」の「はずだ」が語るように、「確認」である。
 うーん、うまく言えない。
 私が言いたいのは、その「確認(はずだ)」こそが「裂け目」を浮かび上がらせる「接続」であるということ。
 非在(不在)を非在(不在)としてことばで証明するとき、意識は接続し(つまり連続した「物語」として成立し)、その「物語」が「裂け目」を浮かび上がらせる。

 あ、変だね。ことばのどこかが、何かが乱れているね。

 強引に整えてもしようがないので、そのまま書き残しておくしかないのだが、この非在(不在)とそれを浮かび上がらせることばの運動、そのときによみがえる何か(思い出される何か/肉体がおぼえていること)が「生々しい」とき、私は、それを詩と呼ぶ。そこに詩を感じる。
 そこでは「主客」が入り乱れる。「主客」が一体になる。

「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」

 というのは「あなた」だが、「あなた」が「わたしの肉体」(耳の内側)で起きていることをどうして「わかる」のか。そんなことはありえない、はずである。
 と、いいたいけれど。
 そうではなくて、ありうるのだ。
 ひとが道に倒れて呻いていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ように、ひとは他人のことが「わかる」のである。他人に容易に自分の「肉体」を重ねて、自己同一化してしまう。一体になってしまう。
 それが腹の痛みであろうと、「耳の内側に響く雨音」であろうと、同じなのだ。
 そして、こういう「肉体の一体化」を呼び起こすことが可能な場合、それを「知っている」という。
 「肉体」は何事かを「おぼえる」。そして、それを「思い出す」。「思い出す」ことができたとき、思い出し、再現できたとき、それを「知っている」という。「肉体」でおぼえたことは、忘れない。知っている、は使える(思い出すことができる)ということである。
 このとき「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」は連続するのだが、その連続が、矛盾した言い方になるが「裂け目」を強烈に浮かび上がらせる。
 「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」が運動として成立するのは、その運動を必要とする「切断」があるからなのだ。「切断」があるから、「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」という接続によって、その「裂け目」をわたるのだ。
 あ、ごちゃごちゃしてきたなあ。
 区別して書こうとすると、とてもめんどうだなあ。
 というのが、まあ、思想(肉体)の基本的なあり方なんだろうなあ。
 このごちゃごちゃにつきあえるなら、浦の詩が好きになれる。
 ごちゃごちゃ、ながながと書いているのは、私が浦の詩が好き、ということなのだ。

イバラ交
浦 歌無子
思潮社
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浦歌無子『イバラ交』

2013-10-21 10:22:15 | 詩集
浦歌無子『イバラ交』(思潮社、2013年10月07日発行)

 水嶋きょうこの『繭の丘。(光の泡)』について感想を書いたとき、どこかに「裂け目」ということばがあったはずなのに見つからない--と書いた。その「裂け目」は浦歌無子『イバラ交』の中にあった。
 「サヨナラココロガチルヨウニ」の最後の方に、

やっと見つけた裂け目
やっと見つけた裂け目
やっと見つけた裂け目から落ちてゆけるわ

 という行が出てくる。
 なぜこの行が水嶋の詩集の中にまで割り込んでくるくらいに印象に残っているのか。今回の浦の詩集には、実は私には「裂け目」が見えなかったからである。「裂け目」が見えないからこそ、あ、浦は「裂け目」を見ているのだと思い、びっくりしたのである。
 水嶋の詩は「猿飛 Ⅰ」がそうであるように、現実を描きながらも、そこに突然猿が出てくるところに「裂け目」がある。ふつう、オフィスには猿はいない。「人間」が猿になってしまうことはない。そういう「非・現実」がいわば「裂け目」としてあるのに対し、浦の場合の「裂け目」は違う。
 「やっと見つけた」というように、それはなかなか見つからない。その見つからない「裂け目」と浦は向き合っている。「裂け目」を「やっと」つくりだしている。その「やっと」に浦の詩がある。
 「裂け目」よりも「やっと」こそ、浦が書きたかったものだろうと思う。
 いや、「やっと」なんか書きたくなかったというかもしれない。「仕方なく」書いたというかもしれない。
 そうなんだよね。でも、だからこそ「やっと」が今回の詩集のキーワードである。浦の「肉体」にしっかりしみついていて、「やっと」は書かなくても浦にはわかっていることがらである。ほんとうは書く必要がない。でも、思わず書いてしまった。しかも3回も繰り返している。
 「やっと」がなくても「見つけた裂け目」がなくなるわけではないし、たぶん、詩の展開(ことばの意味)を追っていくときは「やっと」を省略して読んだ方が、「意味」がすっきりするだろうなあ。
 いわば、余分。
 でも、その「余分(余剰)」のなかに、詩がある。「肉体」と「思想」がある。

 浦の詩を私が初めて読んだのは「骨シリーズ」の詩である。私がかってに「骨シリーズ」と呼んでいるのであって、浦がそう言ったわけではないのだが。その一連の作品では「骨」の名前が次々に出てきて、それがそのまま「裂け目」だった。浦と私の「裂け目」だった。私は骨の名前なんか知らない。その知らない名前にこだわってことばを動かしていく--そのときに見える「光景」がとても新鮮だった。
 その「裂け目」は、しかし浦も「裂け目」として感じていたかどうかはわからない。皮膚と筋肉(脂肪も?)に包まれた「裂け目」からいちばん遠いものだったかもしれない。いまから思うと、そんな気がする。(これは、私の「感覚の意見」。つまり、テキトウなことを書いているのであって、論理的には説明できないことがら。) 

 「裂け目」と書きながら、その「裂け目」はとても見えにくい。「サヨナラココロガチルヨウニ」の書き出し。

地下鉄の駅まで送ってもらって
降り口の階段の前であなたとわたしは
闇にも光にも行き着くことができないで
ずっと立ち話をしている
あなたは煙草が値上がりするから
禁煙をしようかどうか迷ってるとか
わたしはずっと使えるちゃんとしたバッグを買いたいんだけど
どんなのがいいかなとか
話をしているあいだじゅうわたしは街に視線をさまよわせ

 「裂け目」なんて、ないなあ。
 むしろ、だらだらとどこまでもつづいている。何も考えずに書かれた学校の作文(仕方なしに原稿用紙を埋めていく作文)のようにさえ見える。
 「闇にも光にも行き着くことができない」という行はちょっと「日常的」ではない、つまり「詩っぽい」けれど、ほかはまるで友達にこんなことがあったとずるずると語っているようなリズムである。
 このあと詩は、

目にはいったお店にかたっぱしから火をつけてゆく

 という「裂け目」のような、つまり「驚き」のある行をはさんで動いていく。
 でも、

マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋
燃え上がる店内を目で追いながら
逃げまどう人々の悲鳴を耳で聴きながら
どうしてこの男はわたしの耳を切り取ってくれないのだろうと
ぼんやり考えている

 「裂け目」が見えない。少なくとも、私には見えない。
 「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」がどこでもあり、それが浦が見ている街かどうかわからないということもある。固有名詞が出てくるが街は固有ではない。それが「裂け目」を見えにくくする。
 放火もそこから逃げる人々というのも、現実に存在すれば、「裂け目」を通り越して、もっと危険なのだけれど、そういう感じがしない。「危険」がない。どうせ、想像なのだ、空想なのだ、と安心して読んでしまっている。
 「裂け目」が「裂け目」として機能していないのだ。
 「どうしてこの男はわたしの耳を切り取ってくれないのだろう」という驚いていいはずのことばも、次の「ぼんやり考えている」の「ぼんやり」の中にのみこまれ、ほんとうに「ぼんやり」としたもの、衝撃のないものになってしまう。
 その「ぼんやり」は読者にとってと同様、浦自身にとっても「ぼんやり」である。
 私たちは(浦と私は)、まず、この

ぼんやり

 をとおして「一体」になる。同一化してしまう。「裂け目」はぜんぜん見えてこない。禁煙を考える「あなた」と買うべきバッグを考える「わたし」のあいだに「裂け目」は存在するのに、それさえも「ぼんやり」してしまう。「対象」を見失い、「考え」という運動のなかでとけあってしまう。禁煙を考えることとバッグをどれにしようかと考えること、あなたとわたしには、違いが存在しないのである。
 いや、違いは、いま書いたことば通りに存在しているはずなのだが、それは、

マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋

 が違った店であるはずなのに、全部集まって「街」になり、街になったとたんに「違い」がのみこまれて「ひとつ」のものになってしまうのに似ている。
 どれだけ固有名詞を並べても、それは単なる「区別」の「記号」。ものが存在するのではなく、「記号」が存在するだけだから、そこには「裂け目」はない。「記号」は、思考を簡便化する(合理化する/資本主義化する)方便だからね。

ベーコンレタスバーガーがマックフライポテトMサイズが
キャラメルマキアートガモカフラペチーノが
バファリンA八十錠が新ロート目薬十五ミリリットルが
鶏なんこつのから揚げが刺身五種盛り合わせが
次々と炎につつまれてゆく

 ね、「裂け目」がないでしょ?
 あ、「裂け目」って、つまり「現実との境目」のこと。
 そこに書かれていることばは、全部「現実」として「流通」していること--ということが、このあたりまで読んでくるとわかる。
 だから。
 煙草が値上がりするから禁煙するかどうか、というのも「流通思考」、「ずっと使えるバッグ」というのも「流通商品」。そこには「個性」(あなた、わたし=浦)の刻印がない。みんな「流通」してしまっている。
 人間の存在そのものが「流通」商品みたい。

 うーん、どうしよう。
 ぜんぜん「裂け目」につながらないね。
 ここから、さらに浦はことばを動かす。

ハサミを渡さなければいけないんだろうか
ハサミを渡すところまでしなければわかってもらえないんだろうか
ハサミを渡したところではたしてわかってもらえるんだろうか
あなたは大きなあくびをした目に涙をためている
燃え上がるモノたちにざんぶり水をかける
少し海の匂いのする水だ
つけた火を消してゆくのもわたしの水
そんなことを繰り返しているうちに
濡れてつかなくなったマッチを持ち右のてのひらいっぱいに
穴が空いていることに気づく
                             黒く黒く
                             深い穴だ

 えっ、何これ?
 わからないものに私はぶつかる。「黒く黒く/深い穴だ」。それは「手のひらいっぱい」に空いている。
 わからないけれど、これが「固有」の存在だね。これが「裂け目」だね。
 わからないことは、私はわからないとしか書かない。
 でも、この「わからない」のなかに「わかる」もある。それは浦がその「穴」を「手のひら」に見つけているということ。
 「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」ではなく、自分自身の「手のひら」。「肉体」。
 目で火をつける--という想像のときは、何も起きない。でも、目ではなく、実際に火をつけるとなると、マッチがいる。(ライターかもしれないが。)そして、手が動く。その瞬間にこそ、「裂け目」ができる。

 「裂け目」とは浦自身の「肉体」のことなのだ。
 「肉体」はだれにでもある--と思っているかもしれないけれど、そうではない。「流通する肉体」(資本主義にとって都合のいい肉体)は、そこに存在するように見えるだけ。実際に、詩人そのものの「肉体」ではない。
 そういうものを見つけはじめている(やっと、見つける、という行為の中に詩を感じている)浦が、この詩集とともに生まれている、といえる。

               (書き切れないので、あしたつづきを書くつもり。)





イバラ交
浦 歌無子
思潮社
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田島安江「半島の向こうに」

2013-10-20 15:33:21 | 現代詩講座
田島安江「半島の向こうに」(「現代詩講座」@リードカフェ、2013年10月16日)

 「蛇口」という今日テーマで作品を持ち寄った。田島安江の「半島の向こうに」が相互評でも好評だった。

半島の向うに        田島安江

異国の言葉が行き交う市場
おばさんが素手でつかむ魚がまな板の上ではねる
魚は理不尽に横たえられ
抵抗むなしくぐさりと包丁を突き立てられる
たしかに先ほどまではあの海で泳いでいた
海はどこまでも海で
広げた手のひらに水のぬくもりも受けていて
魚は死に、わたしは生きる

秋はそこまで来ている

魚は鱗をはぎ取られてもまだ生きていて
魚の目がまっすぐ私を見る
それをわたしは正視していて
魚の最後の言葉を聞こうとしていて
わたしだっていつかは
魚がいるその場所に
寝かせられているかもしれなくて

半島の向うに湾が広がっている
その巨大な蛇口から噴き出す水が
すべてを消し去ろうとしている
魚が生きた証も
わたしが生きてここに立っていることも

魚吐いた何かがが
蛇口から滴る水滴のように
魚のその泣き声が
今はまだわたしの心に届いている
次の一瞬にはきっと声も消える
魚は切り刻まれて
無惨に目の前に並ぶ
その潔さをわたしは一切れずつ口にする
魚はもう声を出さないけれど
わたしのなかにすっきりと収まっていく

秋はもうすぐそこだ

 そのとき出た感想は
<受講生1>最初から最後まで魚と私ことがていねいに書かれている。
      生き物に対する畏れ、敬意があらわれていてすごい。
<受講生2>半島の歴史が横たわっているので魚の世界に奥行きがある。
      4連目が印象的。
<受講生3>5連目が好き。
      魚ということばが多いのだけれど気にならなかった。それが不思議。
<受講生4>題名がいい。半島を自分の眼で見ている。
<受講生5>こころの底にことばがしっかり落ちてくる。
      ことばの魔術師なのだけれど、技巧に走らないのがいい。

 この感想のなかで私が注目したのは「魚ということばが多いのだけれど気にならなかった」というもの。
 なぜ、気にならなかったのだろう。
<受講生4>魚の「述語」が違う。魚は魚ではないのかなあ、と思う。
      魚と自分が重なってくる。
<受講生3>ずーっと魚と対峙している。向き合っている。
谷内    魚という対象と私がどこかで「同一化」している。
      魚と自分が重なるというのは、そういうことだと思うけれど、
      その関係を田島さんはどんなことばで言っているかなあ。
<受講生2>「魚のその泣き声が
      今はまだわたしの心に届いている」
      この「心に届いている」。心に届くから自分と重なる。
谷内    ほかにはない?
      田島さんは書くときに気づいていないけれど、ここが田島さんらしい、
      そういうことばはないかな。

 なかなか私のもとめている(?)ことばが出てこなかったのだけれど。
 私は、

魚の目がまっすぐ私を見る
それをわたしは正視していて

 この2行に出てくる「まっすぐに私を見る」「正視して」が田島らしいと思う。田島の肉体(思想)だと思う。「まっすぐ」は「正」ということばで繰り返され、「見る」は「視」で繰り返される。ただ「まっすぐ」に「見る」なら「直視」ということばもあるが、田島は「正視」をいう。「直(じか)に」というより「正しく」見ることをこころがけているのだろう。大事なことを、ひとは繰り返していうものである。それだけはつたえたいという思いがことばを繰り返させるのである。
 受講生の感想のなかに「技巧的ではない」というものがあったが、「まっすぐ」だから「技巧」と感じないのだと思う。
 この「まっすぐ」「正しく」はいま書いたように「直に」とも似通うところがある。で、そう思って読み返すと。

おばさんが素手でつかむ魚がまな板の上ではねる

 の「素手で」が「直に」である。手袋をはめて間接的に、ではなく「素手で」直につかむ。「直に」ということばせ書かれていないけれど、田島はそれを無意識に動かしていると私は感じる。
 「直に」魚に触れると、その触れた魚と手が結びついて、区別が一瞬、つかなくなる。そういう「一体感」のようなものがあるから、

抵抗むなしくぐさりと包丁を突き立てられる

 という魚の様子が、魚ではなくまるで「自分」のことのように感じられる。自分の「肉体」に包丁が突きたてられたように痛みを感じる。
 おばさんと魚が「直に(素手で)」接するのを見たとき、田島はおばさんにもなれば魚にもなっている。おばさんになって素手で魚をつかんで、その魚に突きたてられる包丁の痛みを魚になって感じている。
 「直に」対象に接してしまうとこういう「混乱(混沌/矛盾)」が起きる。だからこそ、それを「まっすぐ」に見つめなおそう、「正視」しようとするのだが、そうすればそうするほど一体感が強くなる。ますます矛盾して、論理的に説明しようとすると、さっき魚をつかんだのはおばさんといったじゃないか、なぜおばさんと魚が一体にならなずに魚と田島が一体になってしまうのか、おかしいじゃないか--という「反論」が成り立つのだけれど。
 あ、そういう混乱が、詩なのだ、としか私には言えない。
 おばさん、魚、田島の関係は「頭」で整理すると面倒くさくなるが、実際に魚をさばくひとを見ていて、自分が魚をさばく人なのか、さばかれる魚なのかわからないまま、その両方を「肉体」で感じてしまうということは、確かにあるのだ。
 こういう不思議な一体感があるから、

魚のその泣き声が
今はまだわたしの心に届いている

 という行も生まれる。
 ね、「魚の泣き声」って聞いたことある? 私はないのだけれど、聞いたことがないけれど、そのことばが動きだすまでに、田島と魚が一体になっていしまっていると感じているので、泣き声が聞こえてしまう。人間が泣くように、魚も泣くのだと信じてしまっている。そして、その泣き声が聞こえたような気がする。


詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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