詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ネタばれ、その2

2024-08-03 21:55:06 | 考える日記

 映画、あるいは芝居において、監督+出演者と観客とは、どう違うのか。何が違うのか。
 いちばんの違いは、監督+出演者は「結末」を知っている。(ネタばれ、を承知である。)一方、観客は「結末」を知らない。
 しかし、「結末」を知らなくても、対外の場合は「予測」がつくし、こんな奇妙な例もある。男と女が恋に陥る。ふたりはほんとうは兄弟なのだが、幼いときに生き別れになっていて、それを知らない。しかし、観客は、それを知っている。そして、ふたりはいつ自分たちが兄弟であると知るのだろう、とはらはらしながら見守るということもある。
 で、ここで問題。
 兄弟であることを知らない男女という設定でも、役者は(そして監督は)脚本を読んでその事実を知っている。だから、ほんとうに大事なのは、役者や監督が「結末」を知っているにもかかわらず、まるで知らない、初めての「できごと」を体験しているという具合に演じ、演出しなければならないということである。
 いい映画、いい芝居というのは、それが演じられる瞬間において、それを演じる役者(演出する監督)が「結末を知らない」と感じさせるものなのだ。観客は、すべてを知っている。しかし、役者、監督は何も知らない。その「結末」がどうなるか知らない(いましか存在しない)と感じさせなければならない。
 観客が「結末」を知っているのだけれど、もしかしたら、それとは違う「結末」があらわれるかもしれないと感じさせる、あるいは「結末」を忘れさせる演技、シーンが、いちばんいい演技であり、シーンなのだ。観客の知っている「結末」を忘れさせてしまうような「現在」を噴出させる演技、芝居がいい演技、いいシーンというものなのだ。
 こういうことは、非常にむずかしい。だからこそ、ある何人かの監督は、脚本なしに、即興であるシーンを撮ることがある。何が起きるか、だれもわからない。その瞬間、その「いま」がとてもリアルになるからだ。

 ちまたでよく言われている「ネタばれ禁止」問題というのは、結局のところ、役者が下手くそになった(魅力的ではなくなった)、監督が下手くそになったという「証拠」にすぎない。
 また観客の多くが、役者の演技を見なくなったという「証拠」にすぎない。
 だからなのだと思うが、いわゆる「完璧な脚本」の映画が、ただ、それだけでいい映画として評価される傾向が生まれてきている。そんなものは、映画にせずに、ただ「脚本」として発表すればいいのではないのか。映画である以上、あるいは芝居である以上「脚本のでき具合、結末」を忘れさせる充実した「いま」が必要なのである。
 役者や監督に「ネタばれ」を叩き壊してみせる「肉体」の力がなくなったからこそ、「ネタばれ禁止」などということが言われるのだろう。

 具体例なしで書いてきたので、わかりにくいかもしれない。最後に、いい役者の具体例を書いておこう。「さゆり」という映画。役所広司が、たしか足の悪い男を演じていた。彼は、もてない。しかし、渡辺謙に近づきたい女がいて、役所を出汁につかおうとする。ちょっかいを出す。それを役所は、女が自分に気があると勘違いする。そして、その女にとても親切にする。つまり、すこし恋仲の男が見せるようなコビをふる。そのシーンを見た瞬間、ほんとうに役所が振られるかどうか知らないはずなのに、私は「おいおい、役所、お前は振られるんだぞ。出汁につかわれてるんだぞ。脚本を読んでいないのか」と、笑いだしてしまった。役所は、「パーフェクトデイズ」でも、おもしろかった。トイレ掃除のとき、三目並べの紙をみつける。いったん、それを捨てる。しかし、もういちどそれを最初にあった壁の隙間に戻す。それがどうなるか知っているはずなのに、まるで何も知らない。ただ、もしかしたら誰かが三目並べのつづきを書き込むかもしれないと、ふっと予想する感じで肉体が動く。それが、とてもよかった。きっと三目並べをはじめた誰かが書く。役所が期待してるとわかるから。一度もスクリーンに登場しない人間の感じている「見なくても(あわなくても)わかる」という意識の動きさえ引き出して見せる演技だった。 

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ネタばれ

2024-07-29 18:13:14 | 考える日記

 「ネタばれ」ということばは、私は、どうにも好きになれない。何か「下品」な響きがある。その「ネタばれ」について、どう思うか、とある映画ファンから聞かれた。私は、最近は映画を見ていないので、映画について語るのはむずかしいのだが。
 私は、いわゆる「ネタばれ」というものを気にしたことがない。
 映画の結末を言わないでくれ、というのだが、結末がわかっていると何か不都合なことがあるのだろうか。
 映画にかぎらないが、多くの芸術・芸能は、未知の「結末」を知るために見たり、聞いたりするものではないだろう。多くの場合は「結末」を知っていて、その上で見たり、聞いたりする。これはギリシャ悲劇にはじまり、シェークスピア、近松も同じ。歌舞伎も同じだろう。「忠臣蔵」のストーリーを知らずに「忠臣蔵」を題材にした歌舞伎を見に行った江戸時代の人間なんて、いたんだろうか。知っているからこそ、見に行くのである。「映画」だけ、「結末」がわかっているとおもしろくない、ということはありえない。
 私は音楽ファンではないが、コンサートを聞きにいくとき、「予習」としてCDを聞く人もいるだろう。バレエも同じ。ジャズも同じ。ロックコンサートだって、みんなと一緒に歌うために、家で練習する人だっているだろう。みんな、それが何であるか、あることがどう展開するか知っていて、その場へ行く。
 どんなものでも「結末」というか、ストーリー(音楽ならば、旋律か)は同じだが、その「表現方法」が違う。その違いを味わうために見たり聞いたりするのだろう。「結末/展開」がはっきりわかっていた方が、その到達点へ向けて、出演者が(指揮者が、監督が)どんな工夫をしているか、それを見たり聞いたりするのがおもしろいのである。
 こういう言い方は好きではないが、「ネタばれ」はルール違反だとか何とか言うひとは、映画にかぎらず、楽しみ方を知らないのだろう。映画会社の「宣伝」に、頭の動きをにぶらされた人間なのかもしれない。「ストーリー」以外の「情報」を味わう能力を奪われた人間なのかもしれない。
 「ネタばれ」はルール違反と言いながら、映画会社の宣伝を受け売りしている「批評家」めいた人間が、私は、好きになれない。そうした強欲な宣伝マンに比べると、いわゆるミーハーの方が映画をよく知っている。よく見ている。
 何年か前、私は永島慎司(だったかな?)の漫画を原作にした映画を見に行ったことがある。映画館に到着するとロビーは、若い女性でいっぱい。彼女たちが、原作の漫画を知っているはずがない。なぜ?と思ったら。主演が、嵐の二宮なんとかが主役なのだった。彼が見たくて見に来ている。いいなあ。映画は、そういうものである。(芝居も、クラシックコンサートも、何もかも)。知っているものの、それでも知らない何かを見つけるために、見る、聞く。「私は、きょう、これを新しく見つけた」というために、見たり聞いたりする。いや、そんな面倒なことはしなくて、ただ「二宮、かっこいい、大好き」という自分の気持ちを確認するために見る、聞く。
 そのさらに昔、オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」という映画。劇場の灯が全部消される。真っ暗になる。しかし、ある瞬間、ぱっとスクリーンが明るくなり、「キャー」という悲鳴が響きわたる。その悲鳴が大好きで、何度も何度も「暗くなるまで待って」を見たという男がいた。当時は入れ替え制ではなかったから、朝から晩まで、映画館にいる。ずーっと映画を見続けるのではなく、「キャーッ」という悲鳴が聞こえることを見計らって、劇場に入るのである。この楽しみは「ネタばれ」あっての楽しみである。私は意地悪な人間だから、こういうときは「ネタばれ」しない。知らないあなたは、映画ファンではない。そういう人には、私が書いた「楽しみ」がわかるはずがない。
 これは、映画や芸術だけではない。いまパリでオリンピックが開かれている。私は関心がないからテレビを見ないが、好きなひとはテレビを見、新聞を読み、さらにはネットで「記録」を検索して見るだろう。「結果」は知っている。けれど、見る。さらには、その「感想」を誰かに言ったりもする。
 小説も、詩も、哲学も同じ。すでに読んだことがあるものを、繰り返し読む。繰り返し読むことができるものだけが、おもしろい。「ネタばれ」してもしても、それでもなおかつ語りたいことがあるというものが、おもしろい。「ネタばれ」したらおもしろくなくなるものなど、最初からおもしろくないものなのだ。

 

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「資源」ということば(読売新聞の「書き方」、あるいは「罠」)

2024-06-08 21:08:00 | 考える日記

 最近、読売新聞でつづけて「資源」ということばに出合った。いずれも「安保問題」に関してのアメリカ人の発言である。とても奇妙なつかい方をしている。
 ひとつは2024年6月6日の、欧州各国がインド太平洋で「安保を強化している」というもの。アジア安保会議に出席した米調査研究期間ジャーマン・マーシャル財団の中国専門家、ボニー・グレーザー。
 南シナ海、台湾海峡で欧州の艦艇が活動しているのは「(この地域の)安定維持に欧州が貢献する意志があるという中国へのシグナルになっている」と語った上で、こう言っている。

もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう。

 もうひとつは、6月8日の記事。元国防次官補代理、エルブリッジ・コルビー。「中国の侵略 今すぐ備えよ」という見出しの記事のなかで、台湾が「アメリカがウクライナ支援を継続すべきだ」と訴えていることに関しての発言である。

 台湾は可能な限り、武装する必要がある。米国の資源には限りがあり、やるべきことを選ばなければならない。

 ふたりが語っている「資源」とは何か。ふつうは、資源というと石油とか水とかを思い浮かべるが、もちろんそうした意味ではない。
 「軍事資源」であり、それは言い換えると「軍備(艦船やミサイル)」であり、もっと言い換えると「軍事費(予算)」である。
 アメリカの予算(あるいはアメリカに同調している欧州の予算)には限りがある。アメリカが単独で世界の安全を守るわけにはいかない。それぞれの国がそれぞれの国を守るために軍事費を増やし(アメリカから軍備を購入し)、アメリカの「仮想敵国」と対応すべきである、と言っているのである。
 「資源」を先のふたりのアメリカ人が、英語で何と言っているのか、私には想像もつかないが、「資源」という同じことばで翻訳されているところをみると、たぶん同じことばだろう。同じ読売新聞の記事なのだから。そして、それがふたりに共有されていることばならば、そのことばはアメリカでは(政治家、軍事関係者のあいだでは)、認識の共有を示すことばでもあるだろう。台湾や日本は(また欧州も)、もっと軍事費を使え。アメリカの負担を軽くしろ、という認識が共有されているのである。

 さて、ここからである。
 ロシアのウクライナ侵攻。もちろん侵攻したロシアが悪いのだが、その背後には、アメリカの「思惑」が動いているのではないか。もし、ロシアとウクライナのあいだで紛争が起きたとき、欧州はどれだけ「軍事費」をつぎ込む決意があるか、それを見てみようとして「裏で」仕組んだ結果、紛争が起きたのではないのか。
 いま、アメリカではウクライナ支援が以前ほどではなくなっている。そして、欧州では武器の供与などが積極的になっている。よくわからないが、その武器にもアメリカの技術や部品がつかわれているだろう。アメリカはヨーロッパで金を稼ぎ、ヨーロッパに金をつぎ込ませている。
 同じことが、これから「台湾」をめぐって行われようとしている。アメリカの「資源」には限りがある。しかし、もし、日本や台湾がアメリカの「資源(軍備)」を購入するならば、その金はアメリカの「資源(予算の増額)」につながるだろう。軍需産業からの「税金」が増えるからね。同時に日本や台湾が軍備を増強した分、アメリカは軍備を減らすことができる。一石二鳥だ。

 ふたりのアメリカ人が「資源」ということばをつかったにしろ、それをそのまま「資源」と翻訳するのではなく、日常的に私たちがつかっていることばに翻訳して記事にすれば、ふたりの発言は違ったものに見えてくる。そうしないのは、読売新聞が、アメリカの戦略にそのまま加担するということである。

 軍隊というのは、基本的に「自分の国を守る」組織だろう。しかし、アメリカがやっているのは「自分の国を守る」ということではない。「警察」となって、世界を支配しようとしている。アメリカが金もうけしやすい国にするために、動いている。アメリカの金もうけに反対する国は許さない、取り締まるという「警察」として動いている。
 その「旗印」として「自由主義」とか「グローバル化」ということばがつかわれている。アメリカの言う「グローバル」は各国の独自性を認めた多様な社会ではなく、アメリカの資本主義によって支配された「単一」の世界である。アメリカの金もうけ各国が協力する世界である。
 アメリカが豊かになれば、その豊かさは世界に還元されるというひともいるかもしれない。安倍政権のときに流行した「トリクルダウン」だが、そんなものは実際には起きなかった。金持ちがより金持ちになり、貧乏人がより貧乏人になった。同じことが起きるだけである。
 実際、同じことが世界で起きたではないか。
 ロシア・ウクライナ戦争の影響で世界中のインフレが進んだ。物価が上がったのは、企業が「利潤」を上げようとしたためである。庶民の給料が物価にあわせてどれだけ上がろうが、その「増加分」は、企業がインフレによって確保する利益の「増加分」には及ばない。企業は企業の利益を確保した上で(露骨に言えば、増やした上で)、労働者の賃金を上げているにすぎない。トヨタが賃上げの結果、利益が激減した、というようなことは絶対に起きないのである。
 さらに軍事費にまわす「予算」が足りないというのなら、国民の税金を増やせ。賃金を上げれば必然的に「所得税」も上がる。それを軍事予算に回せばいいじゃないか。そういう「議論」も、きっとどこかで行われているはずである。トヨタは、たしか組合要求を上回る賃上げを行ったが、これなんかも、私からみると従業員のためというよりは、「国策」(軍事予算増額)に協力することで、政府からの「見返り」を期待してのことだろうなあ。
 だれも言わないが。
 ロシア・ウクライナ戦争にしろ、イスラエル・パレスチナ戦争にしろ、その支援によって、アメリカの軍需産業が大赤字になったというようなことは絶対に起きない。アメリカの軍需産業がウクライナ支援のために武器を無償で提供し、そのために大赤字になった、そして倒産した、というようなことは絶対に起きない。
 いま起きていることと同時に、絶対に起きないことにも目を向けて、ことばを動かしていく必要がある。そして、そのとき、ことばを常に自分の知っている範囲の意味でつかうことが大切なのだ。
 アメリカの軍事専門家が「米国の資源」ということばをつかうなら、「それは、たとえばアメリカの石油のことですか? 電力のことですか? あるいはアップルなどの新商品をつくりだす能力のことですか?」と尋ね、意味を明確にする必要がある。
 かつて、(いまでも)、日本では、何か新しい「概念」で国民をごまかすとき「カタカナ語」がつかわれたが、最近は手が込んできて「漢字熟語」、「既成のことば」もつかうようになってきたようだ。
 
 「新聞用語」(ジャーナリズム用語)には、気をつけよう。

 

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イタリアの青年と「論語」を読みながら

2024-04-04 21:24:51 | 考える日記

 いま、イタリアの青年といっしょに「論語」を読んでいる。中国語ではなく、日本語で。テキストは岩波文庫(金谷治訳注、和辻哲郎が「孔子」を書くときにつかったテキスト)。私は中国の歴史をまったく知らないので彼からいろいろ教えてもらうことが多い。日本語は私の方が彼よりも詳しいので、日本語教師としていっしょに読んでいるのだが、きょう、とてもおもしろいことを体験した。
 イタリアの青年は「論語」を読むくらいなのだから、ふつうの日本語はほとんど問題がない。会話は、博多弁(福岡弁)が得意で、私よりも上手だ。その彼が、つぎの文章でつまずいた。

子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
先生がいわれた、「おしまいだなあ。わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」

 イタリアの青年は「現代語訳」の「わたし」は孔子ですね、と念を押す。正しい。しかし、つづきを、「わたし(孔子)は色を好む」と読み、変だなあ、と混乱したのである。「論語」を読み進んで、孔子が好色ではないことを知っている。もう一度「わたしは孔子だよね」と問い返してくる。この「わたし(孔子)」は「わたしは/見たことがない」とつづくのだが、この主語と動詞の距離の遠さが誤読の原因だった。
 多くの外国語の場合、「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」というような「構文」になる。主語と動詞が密接である。
 外国語文体のような倒置法(の文体)を避けるときに、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」と現代語訳すれば、誤解はされなくなる。しかし、直前に「おしまいだなあ(已んぬるかな)」という心情の吐露があるので、日本人の感覚では、直後に「わたしは」と言いたくなる。「おしまいだなあ」という気持ちが強いから、「わたしは」とつづいてしまう。これが、日本語の特徴なので、「おしまいだなあ。美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ。」にすると、なんというか「理屈っぽい」感じになる。「うるさいなあ」という感じになる。(このニュアンスは、なかなか説明しにくい)。「おしまいだなあ。わたしは、美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」と主語の後に読点「、」を挿入する方法もあるが、これもちょっと「うるさい」。ことばのスピード感がなくなる。
 金谷は「日本語教材(テキスト)」を書いているわけではなく、日本人向けに書いているから、どうしてもこうなるのだが、この「日本語の問題点」を理解できるようになれば、私は彼に何も教えることがなくなるなあ、と後から思った。
 と、書いて、少し脱線するのだが。
 このことを書く気になったのは、実は、ほかに事情がある。私は、私が通っているスペイン語教室の先生だった人の短編を翻訳を試みているのだが、その過程で、これに類似したことにぶつかったのである。
  「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」のような文体に出会って、はた、と悩んだのである。英語で言えば「that」以下の文が長い。そして、長くなるに連れて、その長い部分が「装飾的」に感じられて、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」とはしにくいのである。するならば「わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ」にするしかないのだが、今度は、それがまたややこしい。このまま日本語で例を書けば、「その美人というのはクレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちなのである」というような具合に長いのである。つまり、あえて書けば、「私は見たことがないよ、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を」が原文のスタイルである。これを「私は、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を、見たことがないよ」にすると、うーん、昔の大江健三郎みたいな入り組んだ文体になってしまう。そういう文体だと思って、なれてしまえば理解できるが、なれるまでに気が滅入るかもしれない。
 で。
 「おしまいだなあ(已んぬるかな)」と書いたら(言ったら)、どうしてもその直後に「わたしは」とつづけたくなるというような「文体論(感情論?)」は、日本語検定試験なんかでは問題になることもないし、文学や哲学の奥深くにまではいりこまないかぎり、まあ、どうでもいいことじゃないかと処理されてしまう問題なのだが、こういう問題があるから、実は文学、哲学はおもしろい。
 ちなみに。原文では、問題の部分は、「已矣乎、吾未見好徳如好色者也」。「やんぬるかな、わたしは見たことがないよ、徳を好む人を、まるで(徳を)美人を好むように(好む人を)」になる。主語(わたし)と動詞(見る/見たことがない)が直接結びつき、それから「徳を好む」という大事なことが語られ、追加して「美人を好むように」がつづく。エッセンスは「私は、見たことがないよ、徳を好む人を」であり、「美人を好むように」は「補足」である。これが「日本語」になると、順序がまるで逆だから、それはやっぱり日本語学習者には、たいへんな「つまずき」の原因になる。

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江戸時代は、いつまでか

2024-02-19 23:16:42 | 考える日記

 私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。
 何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。
 この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。
 たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。
 (1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「あんなに白いはずがない」は想像でしかない。
 (2)は、糞尿のつまった樽(桶)に実際に接したことがない人のことばである。それはたしかに汚い。しかし、農民にとって、樽(桶)はとても貴重。足で蹴って、その弾みで樽(桶)が壊れたらどうなるのか。いまの暮らしから見て、どんなに汚い(不衛生)に見えたとしても、それだけで農民が糞尿の樽(桶)を手で触るはずがないと判断してはいけない。貴重な道具を、農民が足で蹴ったりするはずがない。けんかをするときでも、道具は大切にする。

 こんなことを書いてもだれも信じないかもしれないが。
 私の子供時代は、糞尿のつまった樽や桶を担いで、山の畑、山の田んぼまで運ぶというのは、子供もする仕事だった。服が汚れたり、体が汚れたりするが、それは洗えばきれいになる。服にしみついたものは、なかなかとれないが、だからこそ、そういうときは汚れてもいい服で仕事をする。だれもが、それくらいの「工夫」をする。
 糞尿で汚れるのも、泥で汚れるのも、同じ汚れである。友達が肥え壺に落ちたりしたら、みんな笑ってからかったりするが、仕事で汚れているときはからかったりはしない。両親や兄弟、あるいは子供たちがが汚れた体で野良仕事から帰って来たと、彼らに対して、家族の誰が「汚い」と言うだろうか。糞尿は汚いかもしれないが、仕事で、それにまみれるとき、それは汚くはない。生きるために、必要なことなのだ。
 そういうことは、「江戸時代」でおわりではなく、昭和、しかも戦後もそうだったのである。

 「世界のおきく」から離れてしまうが。
 私の生まれ故郷の集落は、みんな貧しかった。いまでこそ、どの家でも畳を敷いているが、私の子供時代は畳を敷くのは、葬式だとか結婚式だとか、特別なときだけであり、ふつうは「板の間」だった。畳が傷まないように、畳を積み上げておく台のようなものも、どの家にもあった。雪国なので、冬はさすがに板の間は寒い。どうするか。筵を敷くのである。その筵は、どうやってつくるか。機織り機のようなものがあって、それでつくる。これも、たいていは子供の仕事である。私もしたことがある。ついでいいえば、縄をなうのも、もちろん大人もするが、たいていは子供に割り振られる。みんなが手を動かして仕事をしていた。それは東京オリンピックのころまでは、どこでも当たり前だった。
 さらに。
 ドン・キホーテに、旅籠屋では、藁の上に毛布をかけてベッドを急ごしらえする描写があるが、薄い布団の下に藁を敷いてクッションにするということも、ごく日常的だった。藁だから、すぐにへたる。これを新しいものに取り替えると、日向の温かい匂いとやわらかい感触につつまれ、なんだか豊かになった気持ちになる。
 そういう時代が、つい先日まであったのだ。100年前のことではないのだ。「江戸時代」の生活は、東京オリンピックのころまでは、まだ日本の隅々に残っていたのだ。

 誰に言うべきことでもないのだが、ふと、書いておく気になった。

 

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池田佳隆って、知ってる?(読売新聞から見えてくること)

2024-01-08 21:02:50 | 考える日記

 自民党安倍派の裏金問題。池田佳隆が逮捕された。そこで私が思ったことは、ただひとつ。池田佳隆って、誰? なぜ、池田が逮捕された? 誰が情報を流した?
 池田佳隆は読売新聞(2024年1月8日)の情報によれば

日本青年会議所会頭などを経て12年衆院選愛知3区で初当選。21年衆院選は小選挙区で敗れたが比例復活し、4回目の当選を果たした。文部科学副大臣などを歴任した。

 政治に強い関心があれば「文部科学副大臣」で記憶している人がいるかもしれないが、ふつうは知らないだろう。そのとき、だれが文科相だった? ほら、言えないでしょ? だいたい小選挙区で敗れ、比例復活する人である。支援者だって「限度」があるのだろう。つまり、知らない人は投票しない、という感じの人なのだと思う。
 で、これからである。
 私は邪推が好きな人間というか、なんでも想像してしまう人間なのだが。
 この逮捕劇の裏には、たぶん、こう思う人間がいるのだ。つまり、

お前は下っぱ議員のくせして、金をネコババしすぎるぞ。

 だって、そうでしょ? 小選挙区で当選できない(支持者が少ない)人が、どうやってパーティー券を「ノルマ」以上に売りさばける? 誰が買う? きっとパーティー券を大量に買った人(買わされた人)がいる。そして、その人はパーティー券の売り上げがどういう風に動いているかを知っている。キックバックされることを知っている。そして、そのキックバックは、私の推定だが、きっとパーティー券を買った人へとさらに「還流」していくはずである。
 つまり。
 選挙のときの「買収費用」となって、返ってくる。
 みんな言ってるでしょ? 選挙には金がかかる。言いなおすと、買収しないと当選できない。
 きっと「買収」の金が少なかったのだ。だから、パーティー券を買った人は怒っている。もっと「還元」しろ。(もっと金をよこせ)。お前が当選できたのは、おれが支えてやったからだぞ。いろいろ手を回したからだぞ。お前なんか、お前だけの力では小選挙区では絶対当選できないんだぞ。キックバックされた金はネコババせず、みんなよこせ。

 ここで思い出すのが、統一教会。安倍と親密な関係にあった。
 統一教会が信者をだましてあつめた金が、どうつかわれたか私は知らないが、きっと「選挙対策」にもつかわれたはずだ。統一教会は、統一教会の力(組織力)で議員を当選させ、その議員を操るということを試みていた。きっと池田もその「標的」のひとりだろう。それは「文部科学副大臣」という肩書にもうかがうことができる。統一教会は、「教育」を通しての「洗脳」も狙っていた。

 パーティー券の売り上げのキックバックというのは、たぶん、他の派閥でもやっている。それなのに、なぜ安倍派が標的になっているのか。統一教会と関係があるのではないか。それは、今回の問題が表面化したときからあちこちでささやかれていた。でも、その糸口が見つからなかった。(私には、見つけられなかった。)
 今回、池田の「経歴」というか、過去の肩書を読売新聞で読んだとたん、私には以上のようなことがぱっと閃いたのである。
 これは、やっぱり、統一教会からの「反撃」なのである。
 誰もが知っている「大物議員」ならパーティー券の売り上げも多いかもしれない。したがってキックバックされる金額も多いかもしれない。しかし、私のような政治に疎い人間には、池田佳隆というような「下っぱ」の議員がそんなにたくさんパーティー券を売りさばけるとは思えない。安倍派のキックバック総額は5億円といわれる。池田が受け取った金額は4800万円。約1割弱。信じられないね、池田がそんなにたくさんのキックバックを受け取るほど「集金能力」があるとは。きっと「集金」を支える影のシステムがあったのだ。その「影のシステム」が、いま、自分たちが冷遇されていることに対して起こっている。反撃し始めたのだ。正義の名を借りて「情報」を流すことで。

 しかし、新聞はおもしろいね。いろんな情報が「無意識」に書かれている。その「無意識」を掘り起こすと、いろんなものが見えてくる。

 

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プラトン「饗宴」

2024-01-01 16:51:57 | 考える日記

プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)

 2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。

正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にある

 ここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。
 「中間」としての「思いなし」。
 中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無知)との間にあって、何かを感じ、それを動かす。その動いていく力を信じる。動いていく力を信じて、ことばを追いかけていく。そのとき、何かとシンクロする形で、一つのものが姿をあらわす。
 「思いなし」という表現が象徴的だが、それは「絶対的真実(真理)」ではないかもしれない。それでも、その「思いなし」がなければ、人間は生きていけない。何かを「正しい」と「思いなし」て「中間」を生きていく。

 こんなふうに「要約」してはいけないのかもしれないが、好きな本を(その著述家のことばを)読みながら、私は自分が何が「好き」なのかを探している。私の読み方は、もちろん「誤読」だろうけれど、その「誤読」を通して、好きな著述家のことばが少しずつ重なってくるのを感じるのは、とても楽しい。
 広いことばの世界の「中間」で、少しだけれど、「正しい」ものがどこにあるのか、その「方角」が見えてくるように感じられる。もちろん、それは錯覚で、結局、何もわからなかったなあと思いながら死んでいくのだろうけれど、ソクラテスではないが「無知」を自覚できて死ぬのが私の理想だ。
 まだまだ、「私は何かがわかっている(これからも何かがわかる)」と思ってしまう。そこから、抜け出すことは、できない。それでいいのかもしれないが。

 私の家は貧乏だった。小学校、中学校時代、私の家には、教科書以外の本は一冊もなかった。高校生のとき、岩波文庫の「ソクラテスの弁明」を買った。とてもうれしかった。からだも健康とはいえないし、目も悪い。残された時間で何冊、どれだけ本を読むことができるかわからないが、ともかく読みたい。
 読めば読むほど「中間」が広がり、どこへもたどり着けないのだけれど、でも読みたい。まだ私は生と死の「中間」にいる、とあらためて気がついた。

 

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デジタル化という罠

2023-12-18 20:00:49 | 考える日記

 パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。
 ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。
 しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。
 そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。
 私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。
 しかし、そういうものがいったん故障したら? 動かなくなったら?
 情報から完全に取り残されてしまう。「苦情」も、いまは電話ではなく、メール対応だ。だれに助けを求めるにも、デジタルをとおしてでしかつながらない。
 もし、それが不安なら。
 ここからだね、私がいいたいほんとうのことは。
 常にデジタル危機を「生きた」状態にしておかないといけない。しかも、デジタル情報はどんどん拡大していて、それに対応するためには「新しい機器」が必要である。私は「初代」のiPadをもっているが、それはもう目覚ましにつかっているだけだ。得たい情報は、「初代」では入手できない。アプリが更新されていて、そのアプリに「初代」は対応していない。だから、私は泣く泣く別のiPadを買ったが、これにしたっていつまで「最新アプリ」に対応できるかわからない。
 スマートフォンも同じだ。私は2年前、スペインへ旅行したが、旅行するためにアプリが必要だった。それは古いスマートフォンでは対応しない。しかたなく、新しいスマートフォンを買った。それも、いまでは「旧式」だ。
 つまり、デジタル情報社会を生きていくためには、実は、常に新しい機器を買わないといけない。
 これって、強欲な資本主義のひとつの形ではないのか。新しい製品を買わせ続けるための「方便」なのではないのか。
 なんにでも寿命はある。それは知っている。洗濯機だって冷蔵庫だって、いつかは故障する。しかし、デジタル機器ほどのスピードで「更新」を強要されるものはないだろう。
 いつだったか、老後(60歳以降)をそれなりに生活するためには、夫婦二人で2000万円の貯蓄が必要といわれたことがあったが、その2000万円に、この「デジタル機器の更新費」は含まれているか。きっと、想定されていないだろう。

 貧乏になって、初めて見えてくる「社会の罠」というものがある。そのひとつが、このデジタル機器の寿命(更新の必要性)だ。もし政府が本気で「デジタル化社会」の推進を考えているのなら(つまり、メーカーの言いなりになって、デジタル機器の売り上げで景気回復を狙っているのでないなら)、老人がどうやって「デジタル機器を更新するか」ということを明示しないといけない。
 今後、私が体験したようなことは、どんどん起きてくる。パソコンやスマートフォンはもっている。しかし、それが動かない。そうすると、故障したパソコンやスマートフォンをもっているひとは、情報を手に入れることができないし、情報の交換もできない。これは、考えてみれば、高齢者に「政府批判/政治批判」をさせないための、新しい方法なのだ。
 新しいデジタル機器を買えない老人は、政治に文句を言えない。「苦情はメールで受け付けています」と、ひとことで拒否されてしまう。そういう世の中が、すぐそこまで来ている。「デジタル格差」というのは、デジタル情報に対応できる「知識/知的能力」があるかどうかだけの問題ではなく、「経済能力」があるかどうかも含めているということを思い出さなければならない。

 

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和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)

2023-12-10 21:44:04 | 考える日記

 和辻哲郎『日本古代文化』の「初版序」におもしろいことが書いてある。和辻はこの本を書くまで日本の古代文化のことを研究してきたわけではない。それでも書かずにはいられなかった。どういう立場で、書くか。

自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもって材料に向かった。

 この文章をどう読むかはひとによって違うだろうが、私は「公平」ということばにつきうごかされた。一個の人間として公平とはどういうことか。古代文化の研究をしている人間と、それをしてこなかった人間は「学問的」には「公平」ではない。前者は「知識」をもっている。後者は「知識」をもっていない。しかし、同じ人間だから「公平」に「眼」をもっている。その「公平である眼」をたよりに、つまり「知識」にたよらずに、古代文化に向き合った、というのである。
 人間はだれでも眼をもっている。これは「公平」である。その「公平」をたよりに、和辻は考える。この眼を肉体と言い換えると、私がいつも書いていることに通じるのだが、あ、そうか、私は知らないうち和辻に影響されてそう考えるようになっていたのだと、あらためて気がつくのである。

 和辻が「序」で書いた「眼」は「目」という表記にかわって、次のような強く、美しい文章になる。古代の日本人が漢に渡り、その生活を見て日本に戻ってくる。そのときの日本人を想像して、和辻は、こう書いている。

自ら海を渡って自らの目をもって漢人の生活を見て来たものは、いかに多く新しい知識を、いかに強く新しい情熱を、得て来たことであろう。

 自分の「目で見る」、すると「情熱」が生まれる。目から情熱への変化。いったんは「知識」と書きながら、「情熱」と書き直さずにはいられない和辻。
 私が和辻の文章が好きなのは、そこに「知識」が書かれているからではなく「情熱」が書かれているからだとあらためて思う。たとえば『ニイチェ研究』を読む、そうするとそこにはニイチェに関することが書かれている。そこから「知識」を得ることができる。でも、そこで得る「知識」を頼りにするくらいなら、ニイチェの本を直接読んだ方が早いだろう。しかし、和辻を読んでしまう。それは、そこに和辻のニイチェへの「情熱」が書かれているからだ。私はいつでも「知識」ではなく、「情熱」を読んでいるのだと思う。

 脱線するが。

 私はいまイタリアの青年と一緒に向田邦子の『父の詫び状』を読んでいる。そのなかの「隣の神様」に、こんな一行がある。

私は四十年にわたって、欠点の多い父の姿を娘の目で眺めてきた。

 ここにも「目」がある。向田は「公平な目」とは書かずに「娘の目」と書いているのだが、私はやっぱり「一個の人間として公平な目」だと思う。このとき「公平」とは「客観的」といういう意味ではない。人間ならだれでも肉親を愛してしまう。そういう「必然」を「公平」と、私は呼びたいのである。
 そして人間の「必然」というのは「愛情」のことなのだ。愛してしまう、ということなのだ。

 ここから強引にひるがえって言えば。
 和辻は「日本の古代文化」を愛してしまったのだ。だから本を書かずにいられなかったのだ。「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「正しさ」がある。

 

 


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和辻哲郎の「正直」

2023-12-08 22:59:26 | 考える日記

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ、好きか。『桂離宮』のなかで、和辻はこう釈明している。さまざまなことを和辻は書いているが、

専門家の所説に基づいたところもあるが、主としてわたくしの現状から受けた印象によったのであって、歴史的に確証があったわけではない。

 林達夫なら絶対に書かないことを和辻は書いていることになる。
 「確証がない」ことを書く、というのは、著述家にとっては間違ったことかもしれない。しかし、「印象」には、「歴史的事実」とは別の真実があるだろう。生きている人間の真実、そのひとが生きてきた仮定で身につけてきた、そのひとの真実(事実)である。和辻は、客観的な歴史よりも、彼自身の歴史(個人の歴史)を優先する。そこから「歴史」へ近づいていく。和辻自身の「いのち」をひきずって、「歴史」へ近づいていく。
 「印象」は「推測(憶測)」に、つまり、思考へと変化する。その変化は「自ずから」起きるのである。そして、和辻は、この「自ずから」に対して正直である。
 そこに和辻の「自然」が滲んでいる。
 この「自然」を「道」と言い換えていいかどうかわからないが、私は言い換えたいと思っている。
 和辻のことばが「自ずからの力」で動いた瞬間、ことばが輝きだす。「ここが好き」というときの「好き」の感情に、嘘というものがいっさいまじっていない。だから「道」と言い換えたくもなるのである。

 『桂離宮』で和辻が書いていることは、「歴史(建築の過程)」的視点から見ると間違っているのかもしれない。しかし、そこに書かれている「印象」はとても鮮やかで説得力がある。「歴史的視点」からもおなじような「美の定義」に到達できるかもしれないが、それは無意識に動いてしまう「印象」の強さを持ちうるかどうかわからない。
 「間違い」があっても、私はかまわないと思う。私は「歴史家」ではないから、そういうことは気にしない。「間違う」ことでしかたどりつけない「真実」というものがあっても、私はかまわないと思っている。「正直」なら、それでいいと思っている。

 

 

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「教養」とは何か(和辻哲郎と向田邦子)

2023-12-07 13:13:00 | 考える日記

 

 

 和辻哲郎『桂離宮』を読んでいると、八条宮という人物が出てくる。「教養」のある人間だ。その「定義」のようなものとして「源氏物語」「古今集」などの「古典」精通というようなことが書いてある。このときの精通とは単に熟読している、知識を持っているということではないだろう。「味わうことができる」ということだろうと思う。
 「味わう」ということは、どういうことか。その「ことば」の世界を、生きて動いていくことだろう。それは、「ことば」の動きのなかにある「自然に動き出してくる力」にあわせて、自分を動かすということだろう。世界は「ことば」に満ちている。世界に満ちている「ことば」のなかにはむだなもの、余分なものもある。それを適切に切り捨てれば、「ことば」は自然に美しく輝き出す。この「切り捨て」のことを和辻は「精神の否定的な働き」と呼んでいる。
 この「精神の否定的な働き」という文章に出合った瞬間、私は、ふと向田邦子の『父の詫び状』を思い出した。そのエッセイは、向田邦子が体験した昭和の家庭のことが詳しく書かれている。人は何を大事にし、何を整理し(切り捨て)、生活を整えたか。その「整え方」も「教養」である。それを昔は「しつけ」と言ったのだが。
 本のタイトルにもなった「父の詫び状」には、父の客が家のなかで酔っぱらって嘔吐した。それが障子だったか襖だったか何か忘れたが、敷居の溝にはさまっている。それを楊枝(だったかな?)をつかって掘り出すようにして掃除する。それを読みながら、なんというのだろう。読んでいて美しいシーンが思い浮かぶのではないのだが、なんともいえず「美しい」と感じてしまった。この「美しさ」に対して、父がぎごちない「詫び状」を書くのだが、その「ぎごちなさ」がおかしくて、うつくしい。この「おかしい」は清少納言の書いている「をかし」かなあ……。
 脱線したが。
 生活のなかで鍛えられる「教養」がある。それは「生活の味わい方」なのだ。吐瀉物の掃除は、それ自体は「味わいたくないもの」かもしれない。しかし、そのあとに生活が整えられ、「美しさ」が味わえる。それは、たんに家が美しく掃除されていてきもちがいいという味わいではない。父が侘びたように、思わず侘びたくなるような何かである。そういう「味わい」を向田邦子のエッセイは、とても自然に輝き出す形で表現している。
 和辻のことばをつかって強引に言い直せば、向田は肉体をつかって吐瀉物を生活から「切り捨てた」。そのとき、そこにはやはり「否定する精神」が強く働いている。汚れを否定する精神。そして、それが日常を輝かせている。向田自身を輝かせている。そのまぶしさに、父は思わず「詫び状」を書かずにはいられなかった。
 その「詫び状」はぎごちないが、そこにも父の「教養」が滲んでいて、私は読みながら思わず泣いてしまった。「教養」とは人間を「嬉し泣き」させるものかもしれない。「自然に動き出すいのち」が輝く瞬間、そこには「教養」が動いている。

 『父の詫び状』は、これから日本語を学んでいるイタリアの青年と一緒に読み進めるのだが、日本語の知識だけではなく、そこに書かれている「日本の生活の教養」のようなものにも触れてほしいと思っている。

 

 

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和辻哲郎と林達夫

2023-12-02 21:51:57 | 考える日記


 人はどんなふうにしてあることばと出会い、それを好きになり、その「好き」が広がっていくのか。自分のことであっても、よくわからない。私は、いろんな著述家のいろんな文体が好きだが、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでいて、ふと林達夫を思い出した。
 薬師寺の薬師如来の作者が誰なのかわからないが、そのことについて、和辻は、あれこれ想像している。(岩波版、全集、123ページ)

 当時の文化はむしろ書紀に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見られるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令が下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこには盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の厨子や橘夫人の厨子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そしてその数も、少なくてすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を造った様なすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな書紀と関わるところがない。

 林達夫は、こうした文章、文献的裏付けのない「想像力」だけがことばを動かしていくような文章は絶対に書かないだろう。そういう意味では、これは林達夫とは無縁の文章なのだが、私は、あ、林達夫はここから学んだに違いない、と私は思うのだ。
 ある「事実(現象)」がある。そのとき、そこには「社会」がある。「社会」の動きが、その社会で起きた「事実」と関係がある。
 和辻は「想像力」で、それを考える。林達夫は、「文献」を探し出して社会を浮かび上がらせる。どちらも「社会」を必要としている。「背景」を必要としている。「背景」(社会)があって、はじめて「事件」が起きる。

 私は学校で習う「歴史」が大嫌いだった。年号だとか、人の名前だとか、事件とか、やたらは記憶しないといけない。そんなものは必要なときに本で見ればいいのであって、覚える必要はない、と考えていたからだ。
 だから和辻の『鎖国』を読んだときは、非常に驚いた。「事件」ではなく、「社会」が描写されていたからだ。そこにはたとえば、世界一周をしたスペインの船が、大西洋にふたたび帰って来て、スペイン(だったと思う)の船と出合う。そのとき「航海日誌」の日付が違っていることに気がつく。日付変更線がまだ「存在」していなかった時代にも、時間はある。そして正確に「航海日誌」をつけていれば、必然的に日付が違ってしまう。つまり、世界一周した船の「航海日誌」をつけていた人は、無意識のうちに「日付変更線」を発見してしまったのだ。……これは「社会」というよりも、物理(あるいは数学科何か)の問題かもしれないが、「事件」の背後には、誰も意識していなかったような不思議な広がりがあり、それは「絶対的」なものなのだ。
 年号や人名、その他の「固有名詞」は、偶然のものにすぎない。必然的なものは、なかなてか記録されない。その記録されない必然こそが大事なのだ。

 私が林達夫、和辻哲郎の文章(ことば)に惹かれるのは、ふたりのことばの奥に、「学校教育」では無視される必然に気づかされてくれるからかもしれない。そうした必然は、なかなかことばにされない。しかし、そうした必然こそが、人間を「正しく」している。「日付変更線」に戻って言えば、間違いなく毎日「航海日誌」を書き続けるというような、地道な行為、そこに「正しさ」があるのだ。それは「人間の正しさ」につながる何かだと思う。

 

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林達夫と「勉強」

2023-10-18 22:55:22 | 考える日記

 ようやく「林達夫著作集」の再読を終えた。これから読み始める本(中井久夫や林達夫より古い本)のための、なんというか、「ウォーミングアップ」のつもりで、中井久夫のエッセイ、中井久夫著作集、林達夫著作集と読み進んできたのだが、正月から10か月もかかってしまった。このままでは、死ぬまでに読みたい本を読み終えることができない、とかなしくなる。
 福大病院の検診には、診察券もマスクも忘れてしまった。物忘れが激しくなったし、検査の結果も、予想はしていたがつらいものがあった。
 でも。
 林達夫には励まされる。晩年になってから、ロルカに出会い、スペイン語の勉強をはじめている。NHKのラジオ講座で。かつて勉強したことがあるロシア語もラジオ講座で復習している。何歳になっても、勉強している。
 そういえば。
 林達夫の文章には、よく「勉強」ということばが出てくる。生涯、勉強をつづけた人なのだ。林達夫からはいろいろ学んだが、この「勉強」ということばは、林達夫の思想をとてもよくあらわしていると思う。
 林達夫は、いろいろなことに対して、異論・反論を書いている。ある「学問」に対して、別の視点を提供している。それは、多くの「学問」が何ごとかを整理・要約するのに対して、その整理・要約された「学問の周辺」を勉強して、領域をひろげるという作業のように思える。
 「山」には頂点がある。そして、山にはすそ野がある。それだけではなく、山には「周辺」がある。山は、思いもかけないところから始まっている。どこから山へ上りはじめるか。それは、「きり」がない。「きり」がないとわかっているのに、林達夫は、そんなことはない、と信じて「周辺」をひろげ、そのために勉強している。
 「勉強」ということばに触れるたびに、私は、林達夫の書いているあれこれを思い出し、自然と、それをまねしたくなる。

 

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林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」

2023-10-01 11:54:26 | 考える日記

林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」(林達夫著作集5)(平凡社、1982年3月23日、初版第12刷発行)

 林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」を読んでいて、次の文章に出会う。昔は気がつかなかった。読み落としていた。

 ファシスト教育はあらゆる手段を以て資本主義体制を防衛し、ブルジョアジーの階級的支配を確保することに重点を置いている(30ページ)

 ここでいう「ブルジョアジー」とはいわゆる「資本家」のことである。

 労働者階級の地位を徹底的に劣悪化することによって(賃金値下げ、労働時間延長、合理化強行)辛うじて命脈を保ってきたイタリア資本主義は、今日、深刻な経済恐慌の渦中にあって気息奄々としている。(35ページ)

 「イタリア資本主義」を「アベノミクス」に変えれば、日本の現状にぴったり合致する。
 いま岸田は、「賃上げ」によって方針転換をしているように装っているが、賃上げは物価高によって相殺される。そして、そのとき労働者に還元される金よりも、資本家が確保する金の方が「大きい」だろう。だから「賃上げ」はみかけにすぎず、労働者の生活は一向に改善しない。私のような年金生活者は物価高によって年金が目減りするだけである。

 ここからひるがえって(?)思うのだが。

 いま世界で進行しているのは、ファシズムである。アメリカ資本主義(アメリカの資本家)が資本を独占しようとする動きである。それを戦争で遂行しようとしている。
 私が念頭に置いているのは、ロシア・ウクライナ問題である。ロシアがウクライナに侵攻したことは、もちろん悪い。そして、最終的に、アメリカがベトナムやアフガニスタンから撤退したように、ロシアは撤退するだろうと思うが、これを、アメリカ資本主義(強欲資本家)から見つめなおせば、こういうことだろう。
 つまり、ロシアがウクライナに侵攻する前は、EUとロシアの経済関係はとてもよかった。EUとロシアは経済的に相互依存の関係にあった。言い直せば、アメリカの資本家はEUでの「利益」をロシアに奪われていた。それを取り戻す必要があった。ロシアの経済を「封じ込める」必要があった。そのためにウクライナを利用したということだろう。
 もちろん、こんなことをアメリカ資本主義(その傀儡のバイデン)が言うはずがない。ウクライナに侵攻したロシアが悪い、民主主義、法の支配を破壊する行為だという。そのほかのことを考えさせないために、懸命に宣伝している。マスコミが(マスコミもまた資本主義のブルジョアであるから)、一生懸命、その片棒を担いでいる。
 林達夫は自分のことばではなく、ムソリーニが「反ファシスト新聞」を禁止したときの、新聞『イムペロ』から次のことばを引用している。(パシュカーニスからの「孫引き」らしい。)

「何人も自分の頭を以て考える権利を有するというが如き愚かな空想は、今晩から絶滅されなければならぬ。イタリアは唯一の頭を有する。ファシズムは、唯一の頭を有する。それは『指導者』の頭であり、脳髄である。裏切り者のすべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない。」(39ページ)

 「自分の頭で考える」人間は「裏切り者である」。ここでいう「裏切り者」のことを、日本の右翼は「反日」と呼んでいる。安倍-岸田の言うことを批判する人間は「反日」である。そういう「反日」の「すべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない」。これが、いわゆるインターネットの世界で起きていることでもある。

 読みながら、林達夫が生きていたら、いまの日本の社会を見たなら、形をかえた「日本ファシズム」論を書いたかもしれないと思う。
 書かれていることが、あまりにもいまの日本(あるいは世界の動き)と重なる。
 だから、こんなけとも思う。
 日本では、見かけの「賃上げ」「物価上昇」(好景気)の影で、資本家の利潤だけが拡大し、さらにその利潤に労働者の視線が向かないようにするために、いわば誘導策戦として戦争がつぎつぎに引き起こされるだろう。ロシア・ウクライナのあとは、中国・台湾である。アメリカは、すでにロシア・ウクライナで十分な利益を上げたと判断したのか(あるいは、厭きたのか)、ウクライな支援予算について不満をもらし始めている。ヨーロッパのいくつかの国でもウクライナ支援を手控える動きが出ている。このことは、アメリカの視線が中国・台湾へと向かっていること、世界の視線を中国・台湾に向けさせようとしている動きといえるだろう。実際に「台湾有事」が起きるかどうかは別にして、危険だと大騒ぎすれば日本はアメリカの軍需産業から武器を買う。それだけでもアメリカの資本家は大喜びをするだろう。

 

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林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)

2023-08-24 12:14:30 | 考える日記

林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)(平凡社、1979年12月01日、
初版第7刷発行)

 林達夫「三つの指輪の話」には、林達夫の「文体(思想)」の特徴があらわれている。
 林達夫は、彼自身の考えを彼自身のことばでは書かない。他者の考え、他者のことばを紹介することで、自分の考えを語る方法(文体)をつくりだした。「三つの指輪の話」には、それが美しい形で実現している。
 林達夫は、読者を迷路に誘い込む。この世界、この世界に存在するものは、迷路という規則(理性)をもっていることを明るみに出す。その迷路をつくりために林は妥協を知らない。迷路の設計図を、正確に描くのである。
 その設計図ができあがったとき、それは迷路ではない。つまり設計図がわかれば、迷路は存在しないのだが、その設計図を林は「完成図」としては提示しない。
 「結論」はない。いつでも「仮説」というか、未解決のものを残している。「結論」を解放している。
 逆に言えば、林がやろうとしていることは、閉ざされた「解決」を徹底的に拒み、つねにことばを「未知(わからない)」へ向けて解き放つことなのだ。

 もし真理というものがあるとすれば、それは「何かを探す」という行為(思考)のなかにのみあるのだ。「三つの指輪の話」は、信仰(宗教)をめぐる話だが、その「結論」として林が書いているのは、彼自身の「信仰告白=何かを探すことのなかに探しているものがある」ということだろう。


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