詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トランプ演説から思うこと

2025-01-21 17:52:13 | 考える日記

 トランプの米大統領就任演説要旨を読んだ。(読売新聞、2025年1月21日夕刊、西部版・4版)。いろいろ言っているが、私がいちばん注目したのは、次の部分。

米国はパナマ運河の建設に多額の資金を費やし、人命を失った。パナマによって約束は破られ、米国の船舶はひどい過大請求を受けている。何よりも中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す。

 これは、「領土拡張主義」である。
 「アメリカ」は、もともとヨーロッパから侵略したひとが、勝手に「建国」したものであり、もともと「拡張主義」の「強欲者」の国である。トランプは、メキシコ湾をアメリカ湾と解消することも主張しているが、いまでこそカリフォルニアやテキサス、フロリダは「アメリカ」だが、それはメキシコから戦争で奪い取ったものだ。テキサスの油田地帯がメキシコのままだったら、アメリカ経済は違ったものになっていただろう。(メキシコも、アメリカと同様、ヨーロッパから侵略してきたひとが力づくでつくったものだが。)
 なぜ、とりわけ「パナマ運河」に注目するのかというと。
 「アメリカ建国」はヨーロッパ人が西へ西へと進んできた結果、つくられた国である。最初は東海岸だけだったが、その「強欲主義者」はアメリカ大陸を横断し、西海岸まで「領土」にし、それだけでは満足せず、いま、それは太平洋を横断し、アジアにまで手を伸ばしている。
 日本はすでに、その支配下にあるし、台湾も「独立」という名目で支配下に置こうとしている。台湾を足場に中国大陸にまで「強欲主義(資本主義とも言う)」を侵略しようというのが狙いだろう。
 この西向きの「領土拡大」の背後では、東向きの「領土拡大」もあって、それはNATOの拡大という形で実現されてきた。トランプはNATO加盟国に軍事費の増大を要求しているが、これはアメリカの軍需産業に金を払えという「強欲主義」の主張である。その主張を隠すためにウクライナを刺戟し、ロシアと戦争をさせた、というのは私の見方だが……。ともかく、東からも西からも、アメリカの「強欲主義」を「自由主義」と言い換えて「侵略(領土拡大)を正当化しようというのが、トランプの狙いである。(バイデンも、この東西からの両挟みを推進していた。やはりアメリカの軍需産業によってコントロールされていたということだろう。)
 で、パナマ運河。
 トランプはすでに、東西両方向からの「強欲帝国」は完成されつつあると考えているのだろう。次は、南へ。南も「強欲主義」で支配すれば、アメリカは「世界帝国」になれる、ということだ。支配の矛先を南へ向けた。
 これは、象徴的な転換である。
 そして、ここでもトランプは「中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す」と中国を引き合いに出しているのだが、何がなんでも中国を支配してしまおう、中国の影響力を最小限にして、つまり、できれば中国経済を中国国内に封じ込めてしまおうということだろう。
 ここで、私が思うのは、このアメリカの「強欲主義」に立ち向かい、それぞれの国が「独立」を守るためには、アメリカがまだ手を伸ばしていないアフリカの諸国とどうやって連携を築くかということだ。これが、たぶん、唯一の可能性だ。(そういうことを理解しているからこそ、中国は、アフリカの諸国と連携しようとしているように、私には思える。)
 ちょっと脱線したがというか、先走りすぎたが。
 「対南」政策について言えば。
 中南米の諸国は、すでに冷戦時代に、アメリカの政治によってさまざまな支配を受けている。だからこそ、トランプは、パナマを支配することは簡単だと思い、パナマ運河を取り戻すと言ったのだろう。かつての米政権がCIAと軍を利用しながら、南アメリカの政権を自由にあやつった記憶は、トランプにははっきり記憶されているだろう。
 「民主主義」と言えば、聞こえはいいが、冷戦時代に、アメリカが「民主主義を守る」という名目で、南アメリカ諸国で何をしてきたか、その歴史を振り返れば、これから何がおきるか予測できるだろう。
 パナマは「序の口」。中南米には、「親アメリカ」ではない国(政権)もある。そうした国への「工作」もこれから再びはじまるだろう。
 だからこそ。
 アフリカが問題になる。世界を自由で開かれてたものにするためには、まだアメリカが「強欲主義」の手を伸ばしていない地域・国民の活動が重要になる。いや、アメリカには、すでに「奴隷」としてアフリカのひとびとを搾取してきた時代があるのだが、だから、トランプはアフリカに関しては「みくびっている」のかもしれないが。

 ともかく。
 パナマ運河の行方が、今後の世界の行方の「指針」になる。私は、そう思った。


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大岡昇平「レイテ戦記」とスティーブ・マックイーン「占領都市」

2025-01-04 21:23:39 | 考える日記

 大岡昇平の「レイテ戦記」を読み始めて、すぐに思い浮かんだのはスティーブ・マックイーン監督「占領都市」である。
 私はレイテ島がフィリピンにあること、フィリピンの本島(?)のルソン島の南にあること、レイテ島は大激戦地であったこと(大岡昇平がその戦いに参加したこと)くらいしか知らない。レイテ島はもちろんだがフィリピンにも行ったことはない。アムステルダムについていえばオランダにあること、「アンネの日記」のアンネが住んでいたところくらいしか知らない。アムステルダムには一度観光で行ったこと、レンブラントの「夜警」を見たこと、フェルメールのいくつかの作品を見たことを思い出すことができる。ほかは、なにもわからない。
 「レイテ戦記」を読むと、知らない地名がたくさん出てくる。登場人物も、私には覚えきれないくらい登場する。日本軍もそうだし、アメリカ軍もそうである。さらにフィリピンのゲリラも登場する。彼らは、大岡昇平が書いている地名はもちろん知っている(知らない地名もあるだろうけれど、少なくとも彼ら自身が戦った場所の名前は知っているだろう)。ほんとうの名前(昔からある名前)とは別に、日本軍がつけた名前、アメリカ軍がつけた名前さえある。そして、彼らは、さらにそこにはどんな木が生えているか。その海岸はどんなものか。砂の色はどんなぐあいか。いろいろなことを「肉体」で知っている。「肉体」はある場に存在するとき、その場のなかに広がっていく。拡大していく。そして、他の「肉体」と交わる。「名前」をとおして、その「場」そのもの、空気、時間を共有していく。それはたいていの場合、明確な全体像として意識されないが、「肉体」で触れることのできるものとして、そこにたしかなものとして生きている。山も川も海も、水も風も、台風も。あらゆるものが、大げさに言えば死を否定しながら、生きている。死んでいくときさえ、その死を否定するように、もがき、苦しみ、生きている。
 それはアムステルダムでも同じである。私は映画の中に登場する地名、建物の名前、そしてそこに生きていた人たちの名前を知らない。それがほんとうであるかどうかさえ、私には確認のしようがない。しかし、そこには私の知らない土地の名前、建物の名前、何階であるか、どの部屋であるかを自分の世界の中心として生きていたひとがいた。彼らにとっては、世界の中心であり、世界のすべてだったときもあるはずだ。
 そういうものは、抽象化してはいけないのだ。ストーリーにして、要約してしまってはいけないのだ。レイテ島では大激戦があった、無残に死んでいたひとがいた、あるいはアムステルダムでは何人ものユダヤ人が強制移送されいのちを奪われた、という具合に「要約」してはいけないのだ。一つの場所、ひとりのひと、一つの時間(何をしていたか)をむすびつけ、具体的にしていけないといけない。人間は、いつでも具体的な存在であり、具体をはなれて存在し得ないからである。
  「レイテ戦記」も「占領都市」も、大岡昇平やスティーブ・マックイーンにとっては、まだまだ「具体的」とは呼べないものかもしれない。ことば、映像にはかぎりがある。両方とも長い作品だが、どれだけ長くしてみても、そのことば、その映像からこぼれおちたものは限りなくあるだろう。記録すればするほど、記録できなかったものの「量」が逆に増えてくるように思えるかもしれない。
 そして、たぶん、その「増えてくる」ということが大事なのだ。
 私はレイテの惨劇、アムステルダムの惨劇とは無関係であると思っているが、その無関係であると思っているものがどこかでつながっているかもしれない。そのつながりはとても小さいかもしれない。しかし、同じ地球で起きたことであり、それが起きてから百年もたっていない。
 何もレイテ島やアムステルダムに限ったことではない。いま、まさに、世界でいろいろなことが起きている。そして、それを要約されたニュースとして私は知っているが、その要約からはみ出しているものは数限りなくある。それを全部知ることはもちろんできない。しかし、そうした「個別」の「具体」を意識しないといけないのだ。
 映画の中に、虐殺されたユダヤ人の名前を刻んだ壁が登場するが、その名前だけがすべてではないだろう。もっと多くの記録されていない名前があるだろう。だれも、そのすべてのひとを具体的に知ることはできない。しかし、その何人かを具体的に知っているひとがいる。その「具体性」を、どうやって引き受けることができるか。そのことを、観客は問われていることになる。
 大岡昇平は、死者によりそうだけではなく、批判すべきこと(ひと)は批判し、評価できるものは評価し、体験したことをできる限り「具体的」に記録しようとしている。その「具体」のなかに、私がどれだけ入っていけるか、たぶん一毫もはいっていけないだろう。それでも、私は読む。「具体」を忘れない、忘れてはいけないという大岡昇平の意志に触れるために。映画も同じである。二つの作品に描かれているのは悲劇であり、絶望だが、それが悲劇である、絶望であると意識することのなかにこそ「希望」があるのだと思う。

 

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「豊かさ」について

2024-12-13 15:33:50 | 考える日記

  あるインターネットのサイトでAIと労働が問題になったことがある。AIロボットの社会進出と社会的人間の関係がテーマである。労働が奪われると、人間はどうなるか、と簡単に要約できる問題ではないが、簡単に言えば、そういうことがテーマである。このテーマを最初に持ち出したひとは、「AIロボットが人間の労働を奪うと、人間に影響を与える」ということを懸念していた。私も、人間の本質そのものに影響を与えると考えている。人間は労働をとおして社会を(世界を)認識するからである。
 これに対して、あるひとが、こんなことを言った。
 「AIは人間を労働から解放する。労働に拘束されない人間は感性を楽しむことができる、人生の喜びを味わうことができる」
 この楽観主義に対して私は疑問を持った。だから、こう書いた。
 「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」

 これ対するそのひとの反応は、
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」
 というものであった。そのひとの言う「人生を豊かにする行動」というのは、全体の文脈のなかでとらえると、「人間の感性を楽しむ」「人生の喜びを味わう」ということだろう。そして、その具体例として、
 「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」
 と書いている。「人生の喜び=人生の豊かさ=感性を楽しむ」であり、その具体例として、たとえば「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる」があげられているのだが、「人生の豊かさ」とは、はたして、そういうものだけだろうか。そのことについて、私は疑問に思っている。

 たとえば。

 佐多稲子「キャラメル工場から」の少女は、キャラメル工場で働く少女を描いているが、その少女がトイレで学校の先生からの手紙を読む。そのシーンで、思わず涙が込み上げてこないか。少女はとても「不幸」である。しかし、彼女が「不幸」であることを理解した上で、なおかつ、少女と教師とのあいだにかわされている「人間の交流」に触れ、こみあげてくるものがないか。こらえてもこらえても、涙が出てくる。
 あるいは、その少女が初めて工場へ行くとき電車に乗る。そうすると、その電車の中に、乗り合わせたひとの「息の匂い」がする。味噌汁の匂い。それぞれのひとが食べてきた味噌汁の匂い。ひとりひとりが違う。そのひとりひとりがみんな働きに出ている。その背後にひとりひとりの家庭、事情がある。それを瞬間的に悟る。その描写に、胸を打たれないか。はっとする。その「はっ」は抑えることのできない驚きである。
 あるいは歌舞伎(あるいは森鴎外の小説の)「じいさんばあさん」。ふとしたことから夫が知人を切ってしまう。そのためにふたりは四十年近く別れて暮らす。四十年後、やっと昔住んでいた家にもどり、再会する。苦しくて、つらい人生である。しかし、そのふたりが桜の花を身ながら過去を振り返ることばを聞くとき、胸にあふれてくる思いはないか。思わずすすり泣いてしまわないか。歌舞伎ならば、まわりにひと(観客)がいるだろう。そのひとたちにすすり泣いていることを知られても、それでも泣いてしまうだろう。こらえきれない。
 こうした、こらえきれない感情。そこにあるのは感情の「豊かさ」である。感情が豊かでなければ、その感情は、肉体を突き破る嗚咽や涙にはならない。こらえてもこらえてもあふれてくるものが「豊かさ」というものなのだ。
 野の花の美しさに感動したり、風のさわやかさを感じるだけが「感性の豊かさ」ではない。
 そして、どんな「感性/感情」にしろ、それは「ひとり」で育てることができるものではない。ひととの触れないのなかで、教えられ、学ぶものである。ひとに接しない限り、自分がどういう人間であるか、人間は理解できない。本(ことば)を読まない限り、自画像をことばで描き出すことはできない。他人(生きていく過程で接したひと)や本(他人のことば)に触れない限り、ひとは自分を豊かにすることはできない。ひとに接するいちばんの方法は、働くことである。どんな仕事をするにしろ、そこには他人との接触がある。
 冬の朝、仕事のために駆け込んだ電車のなかで、同じように電車に乗り込んでいるひとの息に気がついた体験、だれかから自分のことを気にかけている手紙を(ことばを)もらったことのない人間、それに通じることを体験したことのない人間には「キャラメル工場から」のことばの切実な美しさはわかりにくいだろう。想像しにくいだろう。そこに書かれていることばが、どんなに美しいか感じることはむずかしいだろう。

 さらに、こう付け足すこともできる。
 「キャラメル工場から」も「じいさんばあさん」も、どちらかというと「不幸なひと」の話である。働かずにすむひとの話ではない。恵まれた人生を歩いてきたひとの話ではない。しかし、多くのひとは、それを何度も読み返す。何度も同じ芝居を見る。もう知っている話なのに、どうしても読み返してしまう。見直してしまう。それは、「読み返したい」「見直したい」からである。それは「泣きたい」からである。「泣くこと」のなかにも「豊かさ」があるのだ。「共感」という「豊かさ」がある。「豊かさ」は「共感」をとおして、さらに大きくなっていくものなのである。
 さらに言えば、この「共感」のためには、「他人」が必要である。知っているひとだけではなく、「知らない他人」ともつながっていく「共感」。その「知らない他人」とつながるためには、どうしても「働く」ということ、「仕事」をとおして「知らないひと」の存在を認識できる能力を身につける必要がある。

 さらに書いておこう。
 たとえば「ロミオとジュリエット」「曽根崎心中」でも何でもが、不幸な恋人の話、死んでしまう恋人の話。ひとは何度でも読み、見る。ストーリーもわかっているし、泣いてしまうこともわかっているのに、読んで、見て、泣く。そのとき、多くのひとは知るのだ。その「結末」は悲しい。それは、できれば否定したい結末である。しかし、その「結末」までに描かれている「ふたりの感情」は、とても充実している。愛に満ちている。ふたりの感情は「豊か」である。多くのひとは、その「豊かさ」にひたり(共感し)、自分の感性を「豊か」にする。
 「豊か」は、いろいろな形をとるのである。その「いろいろな形の豊かさ」を実感するためには、いろいろ他人と出会わないといけない。「働く」というのは、その第一歩である。

 

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やっぱり、脅迫か。

2024-12-09 17:07:22 | 考える日記
 Facebookのあるサイトで、私のコメントに対して「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言ったビジターがいる。その発言を含め、そのビジターの発言に対し、私が意見を書くと、最初は反論があったが、突然「私のことば(ビジターのことば)を無断転写するのは著作権違反だ、削除しろ」というようなことを言ってきた。私は、ビジターのことばを引用するとき、出典を明記している。どうして著作権違反になりますか?というようなことを問いかけた。
 これに対して、こう書いている。
 
出典を明記しようが何だろうが、著作権者の僕がダメだと言ってるんだからダメです。そんなこともわからないの??
ならば削除の意思ないわけね?ならばすぐに強行手段に出ます。
…全く左翼はどこまでも人間のクズだわ。
 
 手元に「民法」の本がないので確認できないが、「引用するとき、著作権者の許諾を得ること」という条項はあったかなあ。よく覚えていない。また、インターネット上の対話(やりとり)は、「著作権上の著作物」なのかなあ。これも、よく覚えていない。
 それにしても、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」というような、私の人生を否定するような批判をインターネット上で書き、それを削除もしないまま、私の反論だけを削除しろと要求する。さらに、私のことを「左翼」と呼び、「人間のクズ」と断定している。これは、あまりにも乱暴な行為ではないだろうか。
 もし、こうしたことが許されるなら、インターネットの世界は、このビジターのような人間が横行する世界になるだろう。
 不思議なのは、実際に会ったこともない人間に対して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかった」「左翼」「人間のクズ」と断定して躊躇わないビジターが、一方で「人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」と書いている。このビジターの知っている「人生の喜び」とは何なのだろう。
 ビジターの言う「強行手段」が何を指しているのか。警察への告発か。訴訟か。プロバイダーに訴えて、私の投稿を削除することか、私のアカウントを停止させ、私の活動を強制的に封じることか。
 これは、とんでもない暴力だ。
 私はインターネット(facebookやブログ)をつかって、「仕事」を含め、いろいろな活動をしているので、つかえないととても困る。私からの連絡がとだえた、あるいは私の書いたものが削除されたりしたら、問題のビジター(名前は書きませんが、これまでの文章を読んでいるひとには想像できると思います)が「著作権」をたてに、私の活動を妨害したと判断してください。あらかじめお知らせしておきます。
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表現の自由と著作権

2024-12-09 10:19:17 | 考える日記

 Facebookのあるサイトで、AIの登場と、労働、社会的人間の関係が話題になった。そのとき、私は「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」というようなことを書いた。
 私のコメントに、あるビジターが「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」とコメントを寄せてきた。私は、そのビジターの名前には見覚えがなかった。知り合いではない。接触したことはもちろんないし、知人をとおしてその人のことを聞いたこともない。私は、そのひとを知らない。だから、私は、そのひとは私のことを知らないだろうと考えた。何を根拠に、そのビジターは「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言っているのか、わからなかった。もしそのビジターが私とは何の接触もないひとならば、なぜそんな批判をされなければならないのか、理由もわからなかった。(いまでも、わからない。)
 たしかに私は貧乏な家で生まれ育ったが、それだからといって「豊かではない」と見知らぬひとに、インターネット上で言われる必然性もない。だから、どうしてそういう批判をするのか、私の人生に対してなぜそう判断するのかを問いながら、同時に、そのビジターが書いていることに対する疑問も書いた。
 すると突然、「無断転載だ。著作権侵害だ。削除しろ」という要求をしてきた。
 だれが何を言うか(書くか)は、表現の自由の問題。そのビジターは、「表現の自由」の権利を行使して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と批判している。このことに対して、私が質問すると(付随反論を含む)、私のコメントを引用するな。著作権侵害だ」と言う。
 この論理は、おかしくないか。
 そのビジターには「表現の自由」と「著作権保護」の権利がある。しかし、私には質問する、反論する「表現の自由」はない、ということにならないか。一方的に、自分の「表現の自由」を主張し、他人にその権利を認めないのは「独裁」というものではないのか。
 もし気に食わない意見(批評)に対して、それを封じるために「著作権侵害」を主張するのだとすれば、それは「表現の自由」への圧力をかけるというものだろう。だから「独裁」と私は言うのである。

 著作権についていえば、私は、他人の文章(ことば)を引用するときは、必ず「出典」を明記している。(今回の文章には、それを省略しているが、それはこの文章を読んでいるひとには自明のことであるからだ。何回か、書いてきた文章のつづきだからだ。)
 著作権法にも、たしか「引用」にあたっては、それが引用であることがわかるようにすべきであるという規定があったと思う。それは逆に言えば、引用であることを明記していれば、著作権法には違反しないということである。もちろん、ただ引用するだけでは、盗作・剽窃になる。引用に対する意見が必要である。引用は従、私の主張が主になるように書いている。これも法に従っている。

 著作権の問題に関しては、私は、かつて次のようなことを体験したことがある。
 ある掲示板(「表現の自由」に関することがテーマだった)の、あるグループから崇拝されているひとの意見について批判した。すると、そのグループのメンバーが「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」とメールに書いてきた。これは、脅迫である。それ以外にも、会社の人事部に電話をかけてきて、私が書いてもいないことを、「こんなことを書いている」と主張し、処分を訴えた。電話については、私は記録を持っていないが、メールは私宛に来たので、持っている。そこでそのメール「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」を公開し、表現の自由を標榜するひとが、表現を殺人によって封じようとしている。脅迫ではないか、と書いた。
 すると、なんと「メール(私信)を公開するのは著作権の侵害だ」と主張し始めた。
 「脅迫状」を公開するのは、私の自由を守るため。私は「証拠」もなしに批判しているわけではないと主張しているわけではないことを明らかにするためだ。

 私は、私の考えに対する批判は、どれもすべて受け止める。反論するときもあれば、しないときもある。求められても反論しないときもある。反論しない自由というものもある。すべてのひとと対話している時間がないからでもある。

 私は、あらためて書いておきたい。
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書くとき、そのビジターは何を根拠に、そう批判しているのか。だいたい、だれかがだれかかの人生を「豊か」かどうか判断する権利を持っているか。「人生」が「豊か」かどうかを判断するのは、そのひとの権利である。その権利と自由を抜きにしては、「社会」は存在しない。それぞれが、それぞれの「豊かさ」を求めて生きる権利を持っている。

 

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働く、ということ(3)

2024-12-07 22:22:48 | 考える日記

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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

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働く、ということ(1)で書いた「あるビジター」から、Facebookに反論が届いた(同じ文章をFacebookに書いているため)。そこに書かれている批判について、答えておきたい。前回は省略した部分があるが、今回は省略なしで書いておく。途中、行空きや*マークがあるが、これは読みやすくするためのものであって、本文には存在しない。また、だれのことばなのかわかりやすくするために、文章の冒頭に(あるビジター)(谷内)の表記を付け加えた。

(あるビジター)>「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして>来なかったからですよ」は私への批判だと言っている
。(この部分は、谷内の文章の引用)
それはあなた自身が「働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる」と書いてるからですよ。
これは「お金を受け取る仕事をやっている時は感じていた『人間関係の充実、生きがい』のようなものが、年金生活になってからは失われてしまった」…ということですよね?
そのことに対する僕の意見が「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」です。あなたが自分でそう言ったので、それに対してコメントしたのです。

(谷内)私は「お金を受け取る仕事をやっている時は」とは書いていない。単純に「働いているときは」と書いている。金は問題にしていない。金をもらう仕事なら、いまでも細々と仕事はしている。しかし、それは「働いている」という実感からは遠い。なぜかといえば、その仕事をとおして触れ合う人間が少ない。私の「仕事」が、その触れ合った人間をとおして、どこまで広がっていくものかわかりかねる。会社で働いていたときは、会社内でもひととの接触があったし、私が関係した「商品」がどういう形で社会のなかを動いていくか、その結果、何が起きるか(何が起きているか)は、かなりの強度で実感できた」という意味です。
 あるビジターは意見として「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書いているけれど、私が会社の仕事以外にどんな活動をしてきたか知っているようなので、もっと具体的に指摘してほしい。私は、少なくとも、会社の仕事以外でもいろいろなひとと接し、いろいろな活動をしています。私の活動の、どの部分が、「人生を豊かにする」ことに反しているのですか? 具体的に教えてください。

(あるビジター)すると今度は「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる…云々」と、前の発言とはほとんど逆のことを言い出した。なので「???」となってしまった。発言ごとにスタンスが全く変わっているのです。前の発言では「お金を受け取る仕事があってこそ、人間関係や生きがいの充実がある。年金生活になってそれが薄れた」と読めるスタンスだったのに、次の発言では「金を受け取るか、受け取らないかの問題ではない」と言ってる。

(谷内)あるビジターが私の書いていることがわからなくなったのは、あるビジターが、私が「働いているときは」と書いているのに、その文章を「お金を受け取る仕事をやっている時は」と読み替えたからでしょう。「年金生活になって」というのは、「収入が減って」という意味ではなく、「働く機会が減って」という意味です。私は定期的ではないけれど、少しは仕事をして、ひととの関係を保っています。社会とのつながりを持っています。年金生活になったからといって、まったく仕事をしていないわけではありません。

(あるビジター)なので、僕としては谷内さんが結局何をいいたいのかよくわからなくなった。なので「???」となり、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ、というなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。AIに仕事を奪われることを恐れる必要もありません」と書きました。

(谷内)私は、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ」とも言っていません。「仕事」というのは、報酬の有無の問題ではない。それを言い換えて、「働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う」と書いています。働かないことには、社会と私の関係を具体的に考え続けるのがむずかしい。私は働くということをとおして人間関係を築いてきた。社会がどうなっているかを考えてきた。社会がどうなっているかを考えるとき、私は、自分のしている仕事をとおして考えてきた、という意味です。もちろん仕事をしなくても考えることはできる。しかし、それは「空論」になってしまう。具体的に考えるには、仕事をとおしてでないと、「空論」になるというのが私の基本的な考えです。

(あるビジター)その後の付け加えられているコメントを読むと、結局「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる」の方があなたの本音なんですね?
ならば繰返しになりますが、僕との意見の相違は最初からないですよ。僕が言っているのは「AIによって人間が奴隷労働から解放されることは歓迎すべきこと。人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」ということです。だからAIが発達するのは基本的に理想社会に近づくことだ、と思います。

(谷内)私はあるビジターのようには考えません。「金が少なくても有意義に生きることはできる」は、金が少なくても、仕事をしていれば(働いていれば)有意義に生きることはできる」という意味です。そして、このときの「有意義」とは、「意味がある」、つまり「具体的に考えることができる」(具体的に社会を考えるきっかけ(問題点)を仕事をとおして(働くことをとおして)つかみ取ることができるという意味です。ことばが具体的なものを土台にして動くように、人間の考えは、仕事をとおして具体的に動きます。「働く」というのは「奴隷労働」とは違います。また、「奴隷」にしろ、彼らは「考える」ことをしているでしょう。そして、その「考え」のなかには、奴隷として働かされているからこそ到達する「考え」もあるでしょう。たとえば、「奴隷として働かされるのは不本意である。私を奴隷としてこきつかうひとを許すことができない」などは、そういうものでしょう。「奴隷制度反対」というひとつの考えでも、奴隷として働かされたひとの考えと、奴隷として働かされたことのない人では、「意味の大きさ」が違うでしょう。
 「人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」というあるビジターの意見のなかの「生きがい」とは何なのか。それが問題です。「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」とあるビジターは書くけれど、それは働いていても感じることができます。私はそう信じています。私の両親は、貧しい農夫だった。「働いてお金を稼ぐ」ことは、ほとんどできないまま、病気になるまで田畑で働き続け、日雇い労働もしていた。私は高校進学も諦めようかと思うくらいに、私の家は貧しかった。私の兄、姉はみんな中学を卒業すると就職した。そういう貧しいくらいだった。けれど、私は、両親が毎日懸命に働いていたからこそ、「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」を感じていたと信じている。山の畑で汗を拭きながら、「いい風だなあ」と言ったり、野良仕事の帰りに見かけた花を根っこから引き抜いて持ってきて軒下に植えたりした両親が「愛する人と生きる喜び」を知らなかったとは考えることができない。「いっしょに働いた。いっしょに休もう」と呼びかけるときの「喜び」を知らなかったと考えることはできない。一生懸命働いたから、疲れた、相手も疲れているに違いないと思い、声を掛け合うということを思いつかなかったとは、考えることはできない。

(あるビジター)僕の「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたたった1行の文章を拡大解釈して「金子は金の亡者」と言わんばかりの批判を展開されているが、全く的外れです。「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたのは、Hayaseさんやあなたがそういう趣旨の発言をしていた(AIによって仕事が奪われるのは脅威…云々)ので、それに合わせたまで。そうしたら今度は真逆の「金を受け取る、受け取らないの問題じゃない」といい出したのでわけがわからなくなった。


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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

(谷内)「AIによって仕事が奪われるのは脅威」というのは、金を稼ぐ機会を奪われる脅威という意味ではないでしょう。仕事を奪われるというのは、働くこと(労働すること)をとおして、社会とのつながり、ひととのつながりをもつ機会を奪われる、仕事をとおして考える機会を奪われるということです。そのことに対して私は脅威を感じているし、HAYASEさんも、そう書いていると私は読みました。
 また私はあるビジターのことを「金の亡者」とは書いてません。
 私が疑問に思うのは、あるビジターの仕事とボランティアの定義「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」は、はたしてボランティア活動をしているひとの考えと同じでしょうか。ボランティア活動をしているひとも「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と考えているでしょうか。私には、とてもそんなふうには考えられない。彼らは、「この仕事は私にしかできない」という考えでボランティア活動をしているのではないでしょうか。自分で「仕事」をつくりだして、その「仕事」をとおして社会と、ひととつながりをつくっているのではないでしょうか。そうすることが「ひとになる」ことだと考えて行動しているのではないでしょうか。
 自分で「仕事」をつくりだし、それをとおして社会とつながりをつくっていけるひとを私は尊敬しています。

(あるビジター)お分かりいただけましたか?反論する前に、相手の言ってることをちゃんと理解しましょう。

(谷内)わかったのは、金子さんが私の文章を読むとき、あるいはHAYASEさんの文章を読んだとき、そこに「書かれていないことば」を金子さんが補って読んでいるということだけです。

 

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働く、ということ(2)

2024-12-07 14:29:41 | 考える日記

 AIが人間にかわって労働するとき、どんな影響が出るか。「働く」ということの問題には、どうしても個人的体験、個人的環境が影響してくるから、見落としてしまうことも多い。
 きのう書いた文章について知人と話していたとき、いま低賃金で働いている障害者らへの影響はどうなるか、ということが話題になった。私が働いていた職場、いまときどき働いている職場では障害者の同僚と接する機会がなかったので気づかなかったが、知人が指摘したように、AIロボットの進出によって真っ先に影響を受けるのは、彼らだろう。
 たとえばホテルのベッドメーキング、トイレの掃除、あるいはレストランなどでの給仕。(給仕のことは、すでにきのうファミリーレストランについて書いたときに触れた。)恵まれているとは言えない賃金で働いている人たちこそ、真っ先に「労働」を奪われるだろう。(ベッドメーキングやトイレ掃除のAIロボットは、いまの技術からすればすぐにでもつくることができるだろう。)そしてそれは、単に「賃金」を受け取ることができない(金を稼げない)ということを超える問題を含んでいる。
 障害者がさまざまな場所で働いているのは、金を稼ぐということだけではなく、「社会参加」という意味を持っている。働くことをとおして社会とつながる。そして、そういうひとたちの社会参加を促すためにもバリアフリーが推進されてきたはずだ。社会には、いろいろなひとがいる。様々なひとと共存できる社会が理想の社会であるはずだ。その「共存社会」の広がりを拒むもの、後退させるものとしてAIロボットは動き始めるかもしれない。
 いまでも政治家の一部には「生産性優先」と考えるひとがいる。AI導入も「生産性優先」(合理化優先)の一環かもしれない。それを推進するものかもしれない。労働(特に単純な肉体労働)からの解放は、一見、人間に自由な時間を与えるように見える。しかし、それは社会に参加し、ともに生きる機会を奪うことになるかもしれない。
 自分が生きているだけではなく、いっしょにいろいろなひとと生きているという感覚(意識)を奪うことになるかもしれない。そして、ここから「新しい差別」がはじまるかもしれない。「生産性向上」に関与できない人間は必要がない(邪魔だ)という意見が出てくるかもしれない。実際、いまでも何人かの政治家は、そういう発言をしている。それに拍車がかかるだろう。

 影響は、外国人にも及ぶだろう。いま多くのコンビニエンスストアでは外国人が働いている。レジが無人化すれば、彼らは仕事を失う。懸命に学んだ日本語を活用し、日本の社会で生きている彼らは、しだいしだいに日本の社会から締め出されていく。低賃金で雇い、AIの導入(AIとまでいかずとも、ネットワーク網の構築)で、そういうひとたちを解雇する。より「合理化」(生産性の向上)のための、「使い捨て」である。
 企業が(資本家が)、そうした「使い捨て」を押し進めるとき、その感覚は市民のあいだにも広がっていくだろう。
 一方で、多様な文化の共存といいながら、他方で多様性を切り捨てるような動きを推進する。それはAIロボットによってさらに推進されるだろう。

 何のために働くのか。もちろん金を稼ぎ、その金をもとに生活するためである。金がなければ何もできないのが現実である。しかし、それ以外に、働くことをとおして社会の仕組みを知る。いろいろなひとと出合い、いっしょに生きるためにはどうすべきかを考える。その視点が欠落しては、働いたことにならないのではないか。
 「働く」という行動を、「社会参加」という視点からとらえ直し続けることが大事だと思う。「社会参加」の可能性を、どうやって広げていくか。この視点を踏み外すと、とても生きにくい世界になると思う。

 

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働く、ということ

2024-12-06 13:08:24 | 考える日記

(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

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 Face bookの知人、Hayaseさん(https://www.facebook.com/akira.hayase.9)が、こんなことを書いていた。

AIが人間の頭脳を上回り、AIロボットが人間の身体を上回り、人間の働く場所が失われた時に、果たして労働以外に人間の社会的存在理由を見出し得るのであろうか。

 これは重大な問題提起だと思う。ビジターとの対話のなかで、

人間の社会性を根拠づけ得るものが、労働以外にあり得るのでしょうか。それが問題。

 とも補足していた。私は、Hayaseさんの考え方に賛成である。人間を根拠づけるものに、労働(働くこと)はとても重要である。
 これに対し、「あるビジター」が、こう反論していた。

労働以外でも人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び…まさに「生きてるだけで丸儲け」って感じですw なんでそんなに起こってもいないことを想像して、悪い方に悪い方に考えるのか、僕には理解できませんが、「考えるな、感じろ!」と言いたいですね。

 私は、彼の考え方には同意できず、こう書いた。

働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う。

 以後、こういうやりとりがつづいた。(改行は省略)

あるビジター「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ。仕事中毒で、それ以外が空っぽ。よく「濡れ落ち葉」などと揶揄されたりしますが、仕事を引退したら妻の後をついて回るか、テレビを見るぐらいしかすることがない。確かにそうなったらあわれかもしれません。その点は一般に女性の方が逞しいですね。そういう個人の体験を「誰もがそうであるはずだ」と一般化するのは、あまりにも視野が狭すぎるのではありませんか?」
谷内「そうですか? 私のことをよくご存知なんですね。私は妻のあとをついて回ってもいませんし、テレビも見ません。「濡れ落ち葉」と言われたこともありません。いろいろなことをしていますが、仕事をしていたときとは印象が違います。出会う人との、接触の形が違います。」
あるビジター「ああ、失礼。前の文章は「仕事中毒で…」以降は谷内さんのことを言ってるんじゃなくて、一般論です。「このようなパターンに陥ってる人を『濡れ落ち葉』などといいますよね」と言うことで、あなたがそうだと言ってるんじゃありません。あなたのことを言ってるのは「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」までです。だいたい、あなたに会った事もないのにそんなことまでわかるはずもないですよね(^^;; ですが誤解されても仕方のない書き方だったと思います。その点は失礼しました。「お金のやり取りがある仕事じゃなくても、人生を豊かにする方法なんていくらでもある」と言う僕の基本的な意見は変わりません。この世界からお金というものが消滅したらどんなにいいだろう、とすら思いますよ。
参考:https://www.youtube.com/watch?v=yq4_FgHbu4U」
谷内「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。
金が少なくても有意義に生きることはできると思いますが、仕事をしない(仕事がない、働かない)で有意義に生きることができるかどうか、私は疑問に思っています。」
あるビジター「???一般に「働いてお金をもらうのが仕事」ですよね?「お金を受け取らずに働く」のは仕事ではなく奉仕活動、ボランティア、または趣味ですよね?もしかして「ボランティア、趣味の活動」も含めて「仕事」と言ってます?「仕事」の定義が違うんじゃ、話が噛みあうわけないよw 僕は「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という定義で話をしています。そうでなく「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事」だというなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。僕が言ったことに対して「疑問に思う」必要もないでしょう? また「AIに仕事を奪われる」ことを恐れる必要もありません。報酬がなくてもいいなら、たとえ効率が悪くても、AIがやったほうが出来が良くても、自分がやりたいことをなんでも勝手にやれば、それが生きがいになる。何か問題がありますか? 考えれば考えるほど、「AIが普及すればするほど理想社会に近づく」としか思えませんが。「誰もやりたがらないけど、誰かがやらなければならない仕事」はAIやロボットに任せればいいですし。嘆く必要などどこにもないでしょう?」

 「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」は私への批判だと言っている。何を知っていて、私が仕事以外のことをしてこなかったと言っているのか、私はやはり知ることはできないが。こういう批判的発言を根拠も示さず言ってしまうのは、人間観の違いといえば違いですむのだけれど……。
 私への批判は別にして(特に反論したいとも思わないけれど)、私は、あるビジターの発言、ボランティアについてふれた部分は、活動をしている人に対してたいへん失礼だと思う。ボランティア活動をするということと、そのひとが日常どういう仕事をしているか、どんなふうにして仕事をとおして「ひと」をつくっているかということに対して、具体的に何も触れずに書いているのは、とても失礼だと思う。そういうことについて書いておきたい。
 最初に書いたように、あるビジターは「『お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない』という定義で話をしています」とことわっているが、Hayaseさんはそうした考え方で問題を提起したのではない。だから、かみ合うはずがないのだけれど、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではな」という言い方に、私は、人間として許せないものを感じる。金を得る「仕事」であろうが、無給の「ボラティア」であろうが、それは「ひと」の「働き」である。「ひと」は「肉体」と「時間」をつかっている。どうつかっているか、それに目を向けないといけない。
 ひとは働く(労働する)。その対価として金を手に入れるかどうか(その額の大小)よりも考えなければならないことがある。働くとき、それがどんな仕事であれ、ひとは「もの」に向き合う。あるいは「ひと」に向き合う。そして、その「向き方」をととのえる。自分の「生き方」をととのえる、ということである。自分の生き方をととのえることを、簡単に私は「思想をととのえる」(思想をつくる/人間をつくる)と言いなおしている。
 ボランティア活動をしているひとは、「人間をつくる」ことを実践してきたひとであり、活動をとうしてさらにその「人間を成長させている」ひとである。もちろんボランティア活動をしているひとは、「私は私を成長させるために活動している」とは言わない。それは、すでに「ひと」ができている(完成している)からである。ひとは、だれでも困っているひとに出会ったら(その存在を知ったら)、そのひとのために自分のできることをするというのが、私には、当たり前のことであってほしいと思っている。その当たり前のことを、当たり前のこととも言わずに実践しているひとに対し、私は感謝する以外に何もできない。
 私は、たとえば、水害にあったひとたちのためにどんな活動ができるか。何も知らない。私の肉体の動かし方を知らない。それは、私が、これまで仕事をとおして学んできたものと、災害復旧のために何をすべきかということを結びつけることができないということである。何もできない、だから寄り添って被害者の声に耳を傾け、「私はあなたのそばにいます」ということさえ、実は、私にはできるかどうかわからない。私は、そんなふうに見知らぬひとに「寄り添う」ということを仕事で身につけてこなかった。仕事以外でも、そういうことのために時間を割いてこなかった。簡単に言えば、私はボランティア活動をしているひとのように、「ひと」にはなっていないのである。私は、自然に、そういう振る舞いができる人間ではない。ボランティア活動をしているひとより、はるかに劣った人間である。
 「ひと」になるための方法はひとつではない。そして「ひと」の形もいろいろあるだろう。それは「金を稼ぐ」こととは、基本的に別問題である。
 東日本大震災のとき、たとえば山本リンダが、慰問に行った。彼女は歌を歌う。「狙い撃ち」のリクエストが来た。「えっ、ここでこんな歌を歌っていいのか」。彼女は悩んだ。けれどみんなに求められて歌った。それがひとを元気づけた。そこには、山本リンダの「ひと」が実践されている。歌う仕事、歌をとおしてひとと触れ合う。長い間つちかった「ひととの向き合い方」。学んできたもの(彼女の肉体になっている思想)を、そのまま実践し、ほんとうに「ひと」になっている。仕事とは、そんなふうにして、「ひと」をつくるのである。それぞれの人間が「ひと」になり、そうして「ひと」に出合う。そのとき、「ひと」と「ひと」のあいだには、「もの(山本リンダの場合歌)」があり、その「もの」だけではなく「ひと」との接触の仕方がある。
 ボランティアとは外れるが、山本リンダには、もうひとつ忘れられないことがある。「どうにも止まらない」がヒットしたとき、NHKはへそだしルックでは出演させなかった。しかし、生放送の紅白歌合戦のとき、彼女はへそだしルックで出場し歌った。生放送だから禁止している暇がない。それを承知で、彼女は、彼女のへそだしルックと歌を応援してくれたファンに応えた。このNHKへの反逆には、彼女の「思想」が実践されている。彼女を支えてくれたのはNHKではなくファンだという思いがある。「仕事」を「思想」を鍛えるのである。
 これは、どんな「仕事」にもある。そして、その「仕事」が様々であればあるほど、「社会(ひととのつながり)」はしなやかで、生きやすいものになるだろう。複数の「思想」が共存する土台は、複数の仕事にこそある。
 AIの「仕事」への進出。私は、具体的にいろいろ知っているわけではないが、たとえばファミリーレストランへ行くと、ロボットが注文した料理を運んでくる。いや、店に入ったときから、番号(席)を指定され、料理を注文し、支払うときも、かつてのように「生きている人間」に出合うことはほとんどない。私は、そのとき、ああ、こんなふうにして私は誰かと接することを忘れていくのか、忘れさせられるのかと感じる。「ありがとう」というとき、あるいは「お願いします」というとき、相手の目を見る。そういう肉体の動かし方を忘れさせられるのかと思う。それは、それまでウェイターとして、あるいはレジの担当者として働いていたひとも同じだろう。仕事をとおして身につけた何か、仕事をとおして何かを身につけるということができなくなる。そんなことを知らなくても「ひと」としての「感性」の鍛え方はあるから、人生の楽しみ方もあるというかもしれないが、私はそういうことは信じられない。自分の肉体をとおして身につけた何かをとおしてしか、「ひと」に接することはできない。
 自然を見ても、ひとがつくった芸術を見ても、そのときの「見方」には、ひとが経験してきたことが含まれる。自分が経験しなくても、他人が経験してきた「仕事」の向き合い方も、そこに反映される。
 谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひはつ作ってください」のなかに、親子で野菜を作っているひとが登場する。息子は「父は仕事が早いが雑だ、私は遅いがていねいだ。それでしょっちゅうけんかをする」ということばがある。同じ野菜をつくるにしても、肉体の動かし方が違う。野菜への向き合い方が違う。そうした違いが、明確に意識できないけれど、野菜ひとつ買うときの私の「態度」にも反映される。こっちの方が形がいい。これは形が不格好だが、色が充実している。どちらを選ぶにしても、そこには、それをつくったひとがいて、私は野菜を選ぶだけではなく、その「見えないひと(会ったことのないひと)」を選び、そういうひとがもっと増える社会を無意識に望んでいる。どんな「感性」も「仕事」をとおしてつくられる。
 もちろん、それは「金の儲け方(どれだけ儲けるか)」にも反映されるかもしれない。しかしAIの問題は、「金の儲け方」ではなく「ひとの働き方」と、労働の変化によって、ひとのつくられ方(ひとの作り方)の違いでもある。
 こういう問題を語るときに、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という「基準」を持ち出すのは、持ち出されたボランティアに対して、たいへん非礼なことをしていると私は感じる。「お金」以外の基準で、ボランティア活動をするひとたちは働いている。「金を稼ぐ労働」ではなく「ひととしての仕事(はたらき)」をしている。いったい「お金をもらう仕事」というとき、あるビジターは、どんな「仕事」を想定し、その「仕事」の意味を何を基準にして区別しているのだろうか。
 そのことが、あるビジターのことばの背後に隠れていると思う。

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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

 

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谷川俊太郎の死(4)

2024-11-30 00:44:17 | 考える日記

 谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画が完成したとき、そのパンフレットにおさめる「紹介文(コメント)」の依頼が来た。映画そのものを見ているひとも少ないだろうし、私のコメントを読んでいるひともほとんどいないだろうから、全文を引用しておく。

 相馬の高校生が津波被害にあった自分の家を訪ねる。「最初は風呂があったんだけれど、今はもうなくなった。残っているのはこれだけ」と家の土台を示す。また「こっち側が畑、こっちは家」とか「ここに小さいときの机があって、大きくなったらこっち」と、空き地で間取りを説明する。その瞬間、私は「今、詩が生まれている」と感じた。彼女が体で覚えていることが、ことばになって彼女のなかから出てきている。そこにないものに向かって、ことばが生まれている。
 あ、こんなことばを聞いたあと、詩を作るのは大変だなあ、と私は谷川俊太郎に同情してしまった。谷川がどんな詩を書いたとしても、私は谷川のことばよりも聞いたばかりの少女の声に感動してしまう。
 有機野菜をつくっている農家の男性が野菜を引き抜きながら「親父の仕事は早いが雑なところがある。私の仕事は遅いが丁寧だ。だからけんかする」と笑う。男の人が言いたかったというより、ことばがことばになりたくて彼を突き破って出てくる感じ。諫早湾の漁師が、不漁に苦しむにもかかわらず「季節によって取れる魚が違うから漁はおもしろい」というのも同じだ。ほんとうのことばが男性の肉体のなかから飛び出してくる。
 こういうことばに、詩は勝てない。詩はどうしたって嘘だから。嘘だから、感じていることを格好よくみせるためにととのえなおしたことばだから。どんな形になっているか気にしないで、あふれてしまう日常のことばには負ける。
 うーん、谷川さんは、そういうことを承知でこの映画にでているんだな。詩はいつでも実際の暮らしに「負ける」ために存在する。暮らしのことばは、詩や文学から、ことばを奪い取って、独自の力で暮らしをととのえる。そのとき暮らしのなかでどこかで読んだ詩がふと鳴り響く。そういう交流を谷川は夢みてこの仕事をしたのか。最後の詩に谷川の祈りが聞こえる。

 一か所、「谷川」と呼び捨てではなく、「谷川さん」になっている。ふいに、谷川に面と向かって話している気持ちになったのかもしれない。
 ということは別にして。
 いまでも、私は谷川は、他人に「負ける」ために詩を書いているように思える。書いていたように思える。「負ける」ことによって、だれかを支える。「ほんとうのことば」を話したひとを支える。そういう仕事を谷川はしてきたのである。こういう仕事をしてきたひとがほかにいるかどうかは知らないが、谷川は「負ける」ことで相手を応援する。
 それは、詩についても言える。
 詩の戦いといえば、詩のボクシングがある。谷川は、ねじめ正一と対戦したことがある。私はテレビを見ないのだが、偶然、その放送を見た。全部見たわけではないから、私の書いていることは間違っているかもしれないが、私がテレビを見るまでは、谷川は負けていた。最後のラウンドは「即興詩」で、ねじめが引いたカードには「テレビ」というタイトルが、谷川のカードには「ラジオ」というタイトルが書かれていた。ねじめは「テレビ」を詩にすることができない。マットにのたうち回って、「テレちゃん、ビーちゃん」というようなことばを口走っただけである。谷川は「ラジオ」が声(音)だけを伝達するという性質に目を向け「音は聞いた先から消えてしまう。存在しなくなる。でも、それは記憶に残る。この記憶を持って、聴衆のみなさんは家に帰ってください」というような詩を朗読した。それまでのラウンドがどちらが優勢だったか知らないが、最終ラウンドで谷川はねじめをノックアウトした形だ。谷川は勝った。
 しかし、私には、そういう「印象」は残らなかった。谷川の「勝った」は形式的なもの。あるいは、そのときボクシングを見ていた観客の判断。私から見ると谷川は完全に「負けている」。谷川のことばは、詩を「意味」にしてしまった。そして、ことばの自在さ(新しい可能性)ではなく、「意味」が聴衆に受け入れられたということに過ぎない。それでいいのか。「詩は意味ではない」ということをアピールするために「詩のボクシング」が行われていたと思う。谷川は、それを裏切って、「意味」を語ることで聴衆を引きつけてしまった。
 そういうことを含めて、私は、一度だけ会う機会があったねじめに、そのことを話した。同じことを谷川にも話した。「あの勝ち方は、ずるい。意味で観客を誘導しただけだ」。あのボクシングでは、谷川は「負けた」のである。そして谷川が負けたからこそ、あのボクシングは語り種になっているのだと思う。「負ける」ことで、詩を残したのだ。詩の可能性を、詩のこれからをねじめに託したのである。あれが本当に谷川の「勝ち」だったとしたら、「意味」の勝ちだったとしたら、現代詩は、あの瞬間に終わっている。こんなふうに意味で詩を終わらせてはいけないという意識がだれかによって声高に主張されたわけではないが、そいういう意識が多くの詩人のなかに生き始めたと思う。(詩人ではない、テレビの視聴者のことは、私はここでは問題にしない。)
 谷川は「負ける」ことで、自分のことばではなく、他人のことばを支える。応援する。そういうことができるひとだった。だからこそ、詩人のなかにも谷川のファンが多いのだと思う。
 「負ける」ことで他人のことばを支えるという、ほかの例では現代詩文庫の解説がある。本棚の奥に隠れていて探し出せないのだが、たしか佐野洋子が谷川の日常を書いている。ぐずぐずしている佐野洋子に耐えながら、朝御飯をつくってベッドまで運んでいる。そういう谷川を、佐野は、叱りつけている。叱られっぱなしの私生活が、谷川の日常に見えてくる。ジョン・レノンとヨーコ・オノの「ベッド・イン」があったが、あれの「現代詩版」という感じか。なんというか、おもしろいが、おもしろいを通り越して「覗き見」している感じにもなる。多くの詩人なら、こういう「解説文」を書かれたらいやだろうなあ。そのまま掲載するのに抵抗があるかもしれないなあ。しかし、谷川はそのまま受け入れている。これが、すごいと思う。この「覗き見好奇心」を上回る作品が、あの現代詩文庫におさめられているとは思えない。どの作品がその文庫におさめられていたかを忘れても、佐野の解説文を忘れるひとはいないだろう。いや、客観的に見れば、谷川の作品は詩であり、佐野の解説は詩ではないし、「文学」ではないかもしれないが、そういうものに詩は「負ける」のである。そして、「負ける」ことを通して、同時に「勝つ」とも言える。なぜといって、もし谷川の作品がなかったら、佐野の文章をおもしろいと思って読むひとはいない。有名な詩人が女にやっつけられている。谷川をやっつけることばが、佐野のの口からどんどん飛び出していて、それがおもしろいのは谷川が詩人だからである。
 こういうことが谷川にはできるのである。
 そしてまた、こうも思うのである。私は、谷川は「負ける」ことで生きている詩人であると言いたいのだが、そういうことができるのは、谷川のことば(詩)が、私のつかっていることば、あるいは他のひとが書いている詩(ことば)とは、まったく次元が違うものだからかもしれない。「勝つ/負ける」という基準ではとらえれらない何か別のものがあるのだと思う。その「別のもの」をあらわすことばを持っていないから、私は、とりあえず、谷川を「負ける」ことを承知で世界と向き合い、「負ける」ことを通してだれも手に入れることのできない「勝ち」を手に入れることができる詩人だといいたい。
 これは、きっと「死ぬことによって、より長く生きる詩人」ということにつながっていくのだと思う。

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谷川俊太郎の死(3)

2024-11-25 23:50:33 | 考える日記

 

 

 『女に』が谷川俊太郎との「最初の出合い」だとすれば、『こころ』は「二度目の出合い」である。朝日新聞に「こころ」が連載されていたとき、何度かブログに感想を書いていた。連載が一冊になったとき、全部の感想書き直してみようと思った。ただし、「書き直す」(整え直す)という感覚ではなく、「初めて読む感覚」で書き直してみようと思った。最初は数篇をまとめてとりあげたが、そのあとは一日一篇、書く時間は15分、長くても30分と決めて書き始めた。「評論」でなく、「評論以前」を目指していた。詩を読むとき、だれも評論を書こうとは思わずに読み始めるだろう。その感じを、ことばにしてみたいと思った。詩に限らないが、どんなことばでも、それを読んだときの状況によって印象が違う。その「違う」ということを大切にしてみたいと思った。

 前回、ことばは鏡のように自分を映し出す。ことばを読まないと、自分の姿が確かめられないというようなことを書いたが、毎日鏡を見ても、その鏡に映しだす顔が違って見えるように、詩を読むたびに自分が違って見える。しかし、その「違い」はほかのひとから見れば「違い」ではないかもしれない。同じ「私の顔」かもしれない。また逆に「きょうの私の顔はいつもと同じだ」と私が思っても、他人から見れば「いつもと違う谷内の顔」ということもあるだろう。
 「違い」なんて、あってないも同然なのだが、それでも何らかの「私の変化」が誘い出されてくるだろう、そんなことを思った。

 これは、私には、想像以上におもしろい体験だった。何かを書くとき、どうしても、何かかっこいいことを書こう、ひとを驚かすような新しい視点を書こう、結論を書こうと身構えてしまうところがある。私には。
 『女に』を読んで「キーワード」を見つけ、そこから詩を読み直したというのも、まあ、気取っているといえば気取っている。
 ひとを驚かす、読者を驚かすのではなく、ただ自分の驚きを書くというのは、とても楽しい。書いていて、あ、これはさっき書いたことと矛盾するなあ、さっき書いたことが間違っているのかなあ、いま書いたことの方が間違っているのかなあ。どっちだっていい。間違えるには間違えるだけの「根拠」のようなものが、どこかにあるのだ。私の「読み違い」か、谷川の「書き違い」か、はたまたは、さっき食べた目玉焼きが原因か、隣の家で名吠えている犬の声が原因か。
 もし、さっき書いたことがはっきり「間違い」だとわかれば、そのとき「さっき書いたことは間違い」と言って書き続ければいいだけである。そう思った。

 私は「自由になる方法(自由になる、そのなり方)」を、『こころ』を読み、それについて書くことで学んだのである。きっと毎日一篇ずつ、30分以内という「制約」が逆自由になる方法を後押ししてくれたのかもしれない。そういえば、谷川は若いときから詩だけで食っているから、画板のようなカレンダーに締め切りを書き込んで、せっせと詩を書いたというようなことをどこかで読んだ記憶があるが、締め切りが迫っていると、どこかで「ことば」を手放さないといけない。もっと修正する時間が知ればと思いながら、一種の「あきらめ」と同時にほうりだし、書いてきたことばから解放される。そういうことかもしれないなあ、と思う。
 どんなに「でたらめ」を書こうとしても、どこかに自分が信じていることがまぎれこむし(そういうものを土台にしないとことばは動いてくれないし)、どんなに「ほんとうのこと」を書こうとしても、どうしても正直ではないものが紛れ込む。あっ、これはかっこよく書けたなあ、よし、これを「結論」にしよう、とか。
 この方法を、谷川自身がおもしろいと言ってくれたことが、私にはいちばんの収穫だった。
 打ち合わせのとき、私が「私はずいぶん失礼なことも書いていると思うけれど」というと、
 「いや、ほかのひとはみんな私(谷川)のことをほめよう、ほめようと身構えて書いているからつまらない」
 ということばが即座に返ってきた。
 そういえば、谷川と親しい田原が、「私は中国人で、敬語がうまくつかえない。だから、谷川先生となかよくしている」と言うようなことを、私に教えてくれた。
 そうか。

 それは別にして。
 このあと、私は不思議なことを体験した。
 『心を読む』と同じ方法をほかの谷川の詩集、あるいはほかの詩人の詩集でもやってみるのだが、どうもうまくいかない。自由に書けない。あれは田中角栄がやった「日本列島改造」と同じように、一度やったら二度とできない何かなのである。
 一冊の詩集の全編に対する感想、あるいは批評を書くときは、何かもっと新しい方法でやり始めないとだめなのである。自分のなかに新たな基準をつくり、同時にその基準を読んでいる作品を通して、壊しながら進むということばの運動をしないといけないのだろう。
 どういうことができるかわからないが、いつか、『世間知ラズ』の全篇について感想を書いてみたい。「父の死」は、私の好きな詩だし、それを書くことで「谷川俊太郎の死」を書けたらなあ、と思う。

(「谷川俊太郎の『こころ』を読む」出版の経緯は、「往復書簡」の形で本に書いてあるので、ここでは省略した。)


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「一読者」を叱る(谷川俊太郎の死とその報道その2)

2024-11-24 18:10:35 | 考える日記

 「谷川俊太郎の死とその報道」という文章を11月20日に書いた。この文章に対して、「一読者」というひとから、コメントがあった。22日の午前3時12分という、たいていのひとが眠っている時間に書き込まれていた。

新聞が違います (一読者)2024-11-22 03:12:53
東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。読売は19日の朝刊にも簡単な情報が出てました。あなたが住んでいる地域とは新聞の発行事情が違っています。そうことも考えた上で書いたほうがいいと思いますよ。谷川賢作さんの19日朝のfacebookの書き込みを読みましたか。葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。あなたが怒る理由が何かありますか。

 私は新聞発行事情が違うことは知っている。だからこそ、私が最初に知ったのは19日の読売新聞朝刊(西部版・14版)だと明記し、「証拠」の写真も載せている。「一読者」は

東京では「20日の朝刊」ではなく、朝日、毎日、日経、読売の「19日の夕刊」で谷川さんの事が詳しく報道されていました。

 と書いているが、これはほんとうだろうか。私は確認していないのだが、あの記事は西部版14版だけに掲載されたものなのか。「一読者」が、東京のどこに住んでいるか知らないが、東京で発行される新聞は一種類ではないだろう。東京といっても広くて、地域によって発行されている新聞の内容が違うのではないか。「14版」の新聞と「13S版」の新聞、もしかすると「13版」も一部地域には配布されているかもしれない。これは福岡県内でも「14版」と「13S版」があり、同じ新聞が配布されているわけではないことから推測して書いているので、間違っているかもしれないが。
 (新聞の「○版」というのは、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞では、欄外のページ番号の近くに印刷されている。一面なら、左上の「1」の近く、その右側に印刷されている。数字が大きくなるほど、最新のニュースになる。)-
 新聞は、同じ新聞でも、地域によって原稿の締め切り時間が違うかもしれないだろうから簡単に推測はできないが、谷川俊太郎の死亡記事が読売新聞西部版(14版)だけに掲載されているとは信じられない。一面に掲載されるような特ダネ記事が、西部で発行される新聞だけに、先に掲載されるとは信じられない。東京で発行されている14版にも、大阪発行の14版にも、きっと掲載されているはずである。西部管内の読売新聞の記者が谷川俊太郎死亡の事実を知り、それを西部の新聞だけに掲載したということは、多分あり得ない。それに、もし西部の記者がつかんだ特ダネであるにしろ、あの記事は不完全すぎる。そういうあいまいな記事を西部の編集部が独自の判断で紙面化できるとは私には理解できない。これも推測でしかないので間違っているかもしれないが、「一読者」が読んだ読売新聞は「14版」ではなかったのではないか。
 「一読者」は新聞事情に詳しいようだから、何かを隠しているのかもしれない。「一読者」が東京で発行されている読売新聞の何版を読んだかを書いていないことに、私は疑問を持っている。もし、東京で発行されている19日の読売新聞14版に谷川俊太郎死亡の記事が載っていないというのなら、その「証拠写真」を見たいものである。私は、19日の西部版・14版を掲載した上で、読売新聞の姿勢を批判している。批判には「証拠(根拠)」が必要だと私は考えている。
 朝日、毎日、日経の「19日の夕刊」に谷川死亡の記事がのったのは、これはいわゆる「追いかけ」というものである。読売新聞の記事を読み、あわてて取材して夕刊に掲載したのだろう。読売新聞が夕刊でもその記事を載せているのは、朝刊の記事に不備があったからだ。その不備というのは、前のブログにも書いたが、死亡日時が不明(遺族が明かさないこともあるから、必ずしも間違いではないが)、死因がない(これも遺族が明かさないことがあるから、間違いではない)、一般に書かれている喪主が誰なのか書いていない(これも遺族が明かしたくないときは書かないだろう、書けないだろう)。それを補うために、すでに報道したニュースだけれど、夕刊で「補足」するために掲載したのだろう。新聞事情に詳しい「一読者」がどう判断しているのか知らないが、私はそう推測している。

 私が読売新聞の「初報」で問題にしたのは、いま、書いたことである。どうしても、記者が遺族に(「一読者」が書いている文章に則して言えば、谷川賢作に)、谷川俊太郎の死亡を確認して書いた記事とは思えない。もし谷川賢作に取材しているのなら、何日に死んだか、死因は何か、喪主はだれかは書けるはずである。確認していないから書けない。そして、夕刊では、それを確認したから記事にし、「死亡記事」を「完成」させたのだ。新聞事情に詳しい「一読者」なら、新聞の死亡記事がどういうスタイルで書かれているか知っているだろう。名前、年齢、肩書(ときには簡単な略歴)、死亡した日、死因、喪主(ときには住所を含む)、葬儀の日程(時には会場名を含む)などは必須事項であり、遺族が公表を拒んでいるときは、たとえば「死因は明らかにしていない」「住所は公開していない」などと補足する新聞もある。
 繰り返しになるが、そうした事実を遺族を通して確認したからこそ、「追いかけ」の形で書いている朝日新聞などには、それが明記されている。(読売新聞も、それを追加している。)不備な記事と完全な記事を比較するために、私は「証拠」として朝日新聞の記事も引用している。

 「一読者」が書いているように、谷川賢作がFacebookで谷川俊太郎の死を公表したのは、19日の朝である。つまり、読売新聞の報道のあとである。(朝のニュースのあとかどうかまでは、私は知らない。)遺族が公表する前に、どうして読売新聞は谷川俊太郎死亡の記事を書くことができたのか。
 新聞事情にくわしい「一読者」がほかに何を知っているか(何を隠そうとしているか)知らないが、私が推測する限り、谷川俊太郎の死を知りうるひと、谷川に親しいひとが、その情報を読売新聞の記者に「リーク」したのである。私は邪推が好きな人間だから思うのだが、こういう「リーク」をするのは読売新聞からの何らかの「見返り」を期待してのことだろう。(たとえば読売新聞に寄稿し、原稿料をもらうとか。)
 遺族が公表しないなら、公表されるまで待っていてもいいだろう。いったい、その「リーク」したひとは何が目的で「リーク」したのか。
 さらに。
 谷川俊太郎は、「感謝」という詩が朝日新聞に掲載されたように、朝日新聞と強いつながりがある。もし「リーク」するなら、なぜ朝日新聞の記者に「リーク」しなかったのか。これも考えてみる必要があるだろう。
 遺族がいつ公表するつもりだったか知らないが、谷川俊太郎の詩は毎月連載されている。少なくとも朝日新聞は、その締め切り日までには必ずその事実を知ることになるだろう。原稿が来なければ問い合わせるだろう。隠したくても、隠せないだろう。そういう関係のある朝日新聞ではなく、読売新聞なのは、なぜなのか。
 私は、「リーク」しただれかに対して怒っているのである。遺族が発表するまで、静かに待っていて、いったい何の不都合があるのだろう。黙っていると、そのひとは、何か損害でも受けるのか。さらに、そのひとは谷川俊太郎の死を知らせてくれたひとから「口止め」はされなかったのか。「遺族が○日に公表するから、それまでは多言しないように」と言われなかったのか。ふつう、「秘密」を語るとき、たいていのひとは「多言しないように」と付け加える。もちろん、言いふらしてほしくてわざと「多言しないように」ということもあるだろうが、谷川俊太郎の死は、そういう類のものではないだろう。
 いったい、遺族に確認せず(無断で)、その家族の死を公表する(報道する)権利が新聞にあるのだろうか。そんな非礼なことを、新聞に限らず、人間がひととしてしていいことなのか。私がいちばん怒っているのは、ここである。

 「一読者」の文章では、私は、次の部分にも非常に驚いた。

葬儀は18日だったそうで、この時点では読売の報道はされていません。当然、静かに家族で見送ったことでしょう。

 葬儀がすめば、それで遺族が「静かに家族で見送った」ことになるのか。遺族は、葬儀がすめば、もうさっぱりと谷川俊太郎の死を忘れて、日常生活にもどるのだろうか。葬儀のあとも、こころは揺れ動いているだろう。遺族がこころを落ち着けて、谷川俊太郎の死を公表する、ということがどうして待てないのか。
 読売新聞の報道が19日、つまり葬儀の18日のあとなので、何も問題がないとどうして言えるのだろうか。
 「一読者」はネットの情報にも詳しいようだが、谷川賢作以外のひともいろいろ谷川について書いている。そのなかには、「コメントをもとめられて忙しかった」というようなことを書いているひともいる。遺族でなくてさえ、そういうことに引き込まれ、「静か」ではいられなくなるひとがいる。遺族であるなら、たぶん、同じような対応に終われるだろう。だからこそ、たとえば谷川賢作も「コメント欄は「記帳コーナー」のようにあけておきますが、個々への返信はできません。お許しください。メッセージも同様です。」と「一読者」が読んだFacebookに書いている。なかなか「静か」にはなれないのである。そういうことがわかっている(想像できる)からこそ、遺族はすぐに谷川俊太郎の死を公表しなかった。

 「一読者」は新聞事情に詳しすぎて、こうした、ごく一般的な人間の動きを見落としているのだろう。「情報通」にはなりたくないものである。

*
この記事を読んだあと、東京と大阪で発行されている読売新聞の14版の紙面を送ってくれた。
私が推定して書いているように、14版の四面には載っている。「一読者」がどこに住んでいるか知らないが、「一読者」が住んでいるのが東京だとしても、そこは14版の配布地域ではないのだろう。
谷川俊太郎が住んでいるところに14版が配布されているかどうか知らないが、東京や大阪でも配布されている。
「一読者」は「事情通」であるけれど、私以上に「推定」だけで私の書いていることが間違いのように書いている。
「推定」だけでは間違えることがある。「伝聞」だけでは、それが正しいかどうかわからない。
だからこそ、私は読売新聞の記事が許せないと書いたのだ。
もし読売新聞に「リーク」したひとの情報が間違っていたら、どうなるのか。生きている人を「死者」にしてしまう。
最低限、家族に「事実」を確認すべきなのだ。「事実」を確認したら、そのときその家族は「喪主」がだれか、いつ死んだかくらいは正直に話してくれると思う。
そういうことを読売新聞の記者はしていない。

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谷川俊太郎の死(2)

2024-11-23 23:22:00 | 考える日記

 

 谷川俊太郎の「ことば」に初めて出合ったのは、いつか。私の場合、はっきり言うことができる。『女に』(マガジンハウス、1991年)を読んだときである。もちろん、「鉄腕アトム」は、それよりもはるか以前に知っている。しかし、それは「谷川俊太郎のことば」という意識とは関係がない。何も知らずに出合っている。『二十億年の孤独』も、その他の詩集も、『女に』以前に読んでいる。いや、読んでいるは正しくない。目を通している。しかし、それは「出合い」ではない。私のまわりに、偶然存在していたにすぎない。『旅』にしろ、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』にしろ、あるいは『定義』『コカコーラ・レッスン』にしろ、読んでも感想を書くことはなかった。ラジオやテレビから聞こえる「流行歌」のような感じで、それが「ある」という印象だった。
 『女に』も、最初は、そこに偶然にあった一冊にすぎなかった。
 雑誌「詩学」から原稿の注文が来た。テーマは自由。詩について思っていることを書けばいい、というものだった。ちょうど谷川俊太郎が『女に』で、第一回丸山豊賞を受賞したあとだった。すでにいくつもの賞を受けている谷川の詩集に賞を与えることもないだろう。もっと若い人に譲ればいいのに、などということを知人と話したりした。「地方の市が主催する賞、その初めての作品だから、権威あるひとに与えることで、賞の権威を高めたいのだろう」というような「政治的」な感想を交わしたりもした。そういうことを含め、谷川批判を書くつもりで読み始めた。薄い詩集だし、どの詩も短いから、すぐに感想が書けるだろうと思って選んだのだった。
 詩集のテーマは、佐野洋子との愛。佐野洋子の絵もついている、おとなの絵本、という感じの一冊である。一読すると、非常に「軽い」。当時、私は中上健次の小説が好きでいろいろ読んでいた。中上健次の小説には、どの作品か忘れたが、主人公が「長々と射精した」ということばがある。そういう力みなぎる野蛮な(?)愛と比べると、なんとも弱々しい。吉行淳之介の、主人公が「弱々しく射精した」(だったかな?)というような、かなしいような切実さとも縁がない。中上とも吉行とも違う何か、中途半端な、簡単に言うと「男」を感じさせないことばである。そんなことを中心に批判を書くつもりでいた。ここに、どんな「新しいことば」があるのか。何もないのではないか。
 そして、実際にそう書き始めた。批評を書くときには、特に批判を書くときには、絶対に「引用」が必要である。その「引用」をしていたとき、私のなかで、突然、変なことが起きた。「少しずつ」ということばを含む「会う」を書き写しているとき、それは起きた。

始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 「私は少しずつあなたに会っていった」。意味はわかるが、どうも変である。「少しずつ」のつかい方が、いわゆる「学校教科書」のつかい方と違う。「会う」ことを繰り返して、私とあなたの関係は「少しずつ」かわって「いった」。私はあなたのことを「少しずつ」わかるようになった。わかるようになって「いった」。こうした書き方の方が「自然」だろう。そして、そういう「自然な」ことばの動きを谷川は熟知しているはずである。しかし、それを、あえて踏み外して、「私は少しずつあなたに会っていった」と書いている。なぜなんだろうか。何が書きたかったのだろうか。
 次の瞬間。あるいは、同時に。いや、そんなことを思う以前に。
 あ、「少しずつ」が書きたかったのだ、と私は直覚した。(先に書いた文章は、あとから「意識」を整理し直したものにすぎない。)
 ふたりの関係が「少しずつ」変化していく。そのときの「少しずつ」ということ、それを書きたかったのだと直覚した。愛には、出合った瞬間に、突然燃え上がるものもあれば、出合いがあったはずなのに愛にはならないものもある。谷川と佐野の場合、それは「少しずつ」愛になっていった。会うたびに、少しずつ愛が生まれてきた。愛が生まれた、愛が実った、ということよりも、そのときの「少しずつ」という変化、そのことを書きたかったのだ、と私は瞬間的に「悟った」。そして、それは私が先に書いたように、「学校文法」で整えてしまうと違ったものになってしまうのだった。「私は少しずつあなたに会っていった」と書くしかないのである。
 あるいは、こういうべきか。「少しずつ」と書いたために、そのあとの「ことばの運動」が「学校文法」からはみ出していくしかなかったのである。「少しずつ」をつかわなければ、きっともっとすっきりした形で書けたはずである。しかし、ほかのことばをおしのけて、谷川の肉体に隠れていた「少しずつ」が、「ことばの肉体」を突き破ってあらわれ、新しい「ことばの肉体」となって動いたのだ。「少しずつ」ということばが、ほかのことばをかえてしまったのだ。
 そして詩集を読み返すと、それぞれの詩に「少しずつ」が隠れている。書かれていないけれど、いくつもの詩に「少しずつ」を補うことができると気がついた。そういうことを私は「詩学」の文章なのかで書いた。
 同時に私は、こういう「どこにでも隠れていることば」、ほんとうは書かなくてもいいことばが、どうしても自己主張してあらわれてしまうことばを「キーワード」と名づけた。筆者にとって、わかりきっていることば、書かなくていいのだけれど、あるとき、そのことばがないとどうしても納得できずに書いてしまう、肉体となってしまっていることば。そうしたことばのなかに、作者そのものがいると感じる。それを「キーワード」と名づけ、詩を読んでみよう。私の、詩への向き合い方が決まった瞬間だった。
 谷川の詩を読みながら、私は私の「読み方」を発見したのだといえる。そのとき、私は初めて谷川のことばに出合ったのだと確信した。そして、それまで書いていた文章を全部破棄して、新たに書き直したのが、「詩学」に発表した文章である。

 (「キーワード」が何か特別なことばではなく、ふつうは省略してしまうけれど、あるときどうしても書かなければならないことばとしてあらわれてくるもの、ととらえたのは今村仁司か、井筒俊彦か、わたしははっきりとは覚えていない。あるアラビア圏の経済学者が書いた「マルクス論」は、ほかの国の誰それの書いたものとそっくりである。違うのは、アラビア圏のひとが書いた文章のなかに「直接」ということばが差し挟まれている。それはなくても意味が通じるが、彼は、それを書かざるを得なかった。「直接」ということばがイスラム教の「キーワード」である、というようなことを指摘していた。その意味を、私は谷川の「少しずつ」を読んだときに感じ取ったのである。だから、その谷川論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』の批評を今村仁司が詩なの信濃毎日新聞に書いてくれた、そこに「キーワード」をつかった詩の読み方を紹介してくれたとき、私はとてもうれしかった。)

 「少しずつ」を各詩篇に補いながら詩集を読んでいくとき、私は、なんともいえず興奮してしまった。あ、ここにも、またここにも、「少しずつ」が隠れている。ときには別のことばになっている。しかし、それは「少しずつ」と書き換えても、なにもかわらない。それを見つけることは、隠れている谷川の肉体を隠れん坊で見つけるときのような喜びであり、変ないい方になるが、セックスしている感じでもある。あるところに触れたら、相手の肉体が反応して動く。予想もしていなかった動きがはじまる。動いたのは相手の肉体なのに、自分の肉体がそれに刺戟されて動いてしまう。私が書きたいと思っていたことが、次々に変わっていく。私が動いているのか、相手が動いているのか、わからない。新しい相手が生まれ、新しい私が生まれる。切り離せない。切り離すと死んでしまう。それを私は「ことばの肉体」の動きとして味わっている。興奮して、もう、どうなってもいい、と感じ始める。私のしていること(こうした読み方)が、正しいのか間違っているか、そんなことはどうでもいい。楽しい。私のやっていることは、はたから見れば、きっとみっともない。しかし、セックスというものはそういうものだろう。どんなに上手にやっても、それは不格好なカッコウに見える。見てはいけないカッコウにしか見えないだろう。それでもいい。変だ、みっともない、と批判されてもかまわない。楽しいから。快感があるから。変なことをしないと、新しい快感は生まれないのだ。
 私が谷川俊太郎を発見したのではなく、私が谷川俊太郎によって発見されたのだ。
 「ことば」を読むということは、相手(筆者)の真実を見ることではない。「ことば」は鏡であり、「ことば」を通してでしか(「ことば」を読むことによってでしか)、私は私を確認できない。「ことば」は私がだれなのか、どういう姿をしているかを映し出してくれる鏡なのだ、私がだれであるかを気づかさせてくれるものなのである。そういうことを、私は『女に』を通して知った。
 『女に』は、右ページに谷川のことば、左ページに佐野の絵がある。佐野にとって「ことば」は絵(線)なのだろう。詩集のなかで、ふたりは互いにふたりを発見し、発見することでつぎつぎに、しかし「少しずつ」変わっていく。この「少しずつ」は「確実に」でもある。そんなことをも感じさせてくれる。

 谷川のことば。それは、私の最初の「邪心」を打ち砕いた。谷川を批判してやろうという思いを、あっさりと打ち砕いた。谷川のことばには、何か、そういうくだらない「野心」を打ち砕き、そういう邪心をもった人間さえも受け入れ、変えてしまう力があるということだろう。
 この『女に』以降、私は谷川の詩を読むのが好きになった。今度はどんなセックス(ことばの肉体のセックス)ができるだろう、と思ってしまうのである。そのあと、どんなふうに私は変わっていけるだろうと、詩を書くときのように興奮してしまう。

  この文章もまた、カッコウ悪く、みっともないものだろう。つまり、他人に見せるための「体裁」をもっていないだろう。私はいつでも、私の書いている「相手」のことしか気にしていない。「他人」なんか、どうでもいい。谷川はもうこの文章を読むことはないのだが、それでも私は谷川にだけ向けて、この文章を書いている。それなら公表するな、とひとはいうかもしれない。しかし、谷川は谷川の詩を読んだひとのなかにきっと生きている。私のことばのなかにも生きている。だから、その谷川のことばとセックスするために書くのである。あるひとにとっては、それは「オナニー」にしか見えないだろう。しかし、そんなことは関係ない。「あんたの知ったことではない」と私は思っている。嫌いならひとのセックスを覗くな、というだけである。

 (『女に』論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』は、1999年思潮社刊。古書店でなら手に入るかもしれません。)


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谷川俊太郎の死とその報道

2024-11-20 22:31:05 | 考える日記

 

 谷川俊太郎が死んだ。(私は、敬称もつけないし、「死亡した/亡くなった」とも書かない。敬称つけたり、「死亡した/死去した」というようなことばをつかうと、谷川が遠い存在になってしまうと感じるからだ。)
 私がその報道に、最初に触れたのは11月19日読売新聞朝刊(西部版、14版)だった。谷川俊太郎の死以上に、その「報道」に私は衝撃を受けた。ふつうの「死亡記事」とはまったく違っていたからだ。
 こう書いてある。

 日本の現代詩を代表する詩人で、「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など数多くの親しみやすい詩が人々に愛された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが、18日までに死去した。92歳だった。

 ふつうは、こうは書かない。どう書くか。朝日新聞(11月20日朝刊、西部版、14版)は、こう書いている。

 「朝のリレー」「二十億光年の孤独」など、易しくも大胆な言語感覚で幅広く愛された、戦後現代詩を代表する詩人の谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日、老衰のため死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行った。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は長男の音楽家賢作さん。

 どこが違うか。朝日新聞は、死んだ日にち、原因を明記している。さらに葬儀が近親者だけで行われたこと、「お別れの会」が予定されていること、喪主がだれなのかを書いている。読売新聞には、これが書いていないばかりか、死んだ日を「18日まで」と不明確なまま書いている。
 なぜなのか。
 読売新聞は、谷川俊太郎の死を、遺族から確認していないのだ。葬儀が行われたかどうか、喪主が誰なのかも確認していないのだ。つまり、読売新聞は「だれかからの伝聞」を信用して、「裏付け」をとらずに記事にしている。
 たぶん読売新聞の記者のだれかと懇意のひとが、記者に「情報」を漏らしたのである。記者は、谷川と親しい複数の「関係者」に接触、情報を確認はしたかもしれない。しかし、肉親(遺族)には確認していない。
 こんな失礼なことがあるだろうか。

 谷川賢作が、父の死をすぐに公表しなかったのには、それなりの理由があるだろう。静かに家族で見送りたい。十分に、家族で父のことをしのび、こころが落ち着いたあとで公表したいという気持ちがあったのかもしれない。
 その静かに父をしのぶ気持ちを、読売新聞は叩き壊したのである。読売新聞の報道を見て、多くのマスコミが問い合わせをしただろう。その対応に、遺族は大忙しではなかったか。もし、遺族が考えたように(というのは私の推測だけれど)、落ち着いてから公表するなら、あちこちからの「問い合わせ」にこたえるというようなことをしなくてすむだろ。もちろん公表したあとにも「問い合わせ」はあるだろうが、公表したあとなら、少しはこころの準備もできているだろう。
 
 読売新聞の対応もひどいが、その「情報」を漏らしただれかも、ほんとうにむごいことをする。谷川俊太郎と親しい人間なら、谷川俊太郎の意志を尊重するだろう。まさか、「私が死んだら、読売新聞に真っ先に知らせて、特ダネを書かせてやってくれ」と、そのだれかは頼まれたわけではないだろう。第一、そういうことなら、谷川俊太郎は、そのだれかにではなく、賢作や、その他の家族に伝えていることだろう。どう考えても、そのだれかが、谷川自身や、遺族から頼まれて読売新聞に知らせたわけではないだろう。
 これは完全な邪推のたぐいだが。
 その情報をリークしただれかは、「情報を教えたんだから、お礼に読売新聞に書かせて」とでも言ったのだろうか。言わなくても、情報を教えられた記者は、そのだれそれに原稿を書かせる手配をするかもしれない。原稿を書けば、「謝礼(原稿料)」は出る。谷川俊太郎の死を、その人たちは「商売」にしている。
 このことに、私は、激しい怒りを覚えたのである。

 11月17日の朝日新聞に掲載された「感謝」は、谷川の「最後の詩(絶筆)」かもしれない。その最終行。

感謝の念だけは残る

 谷川は、そう書いている。私は、この一行を読みながら、谷川が書いてきたことばはすべて「感謝」だったのだと気がついた。
 谷川の代表作は何か。「父の死」か、「鉄腕アトム」か「かっぱ」か。さらに、谷川は戦後現代詩のトップランナーか。谷川の作品は、歴史に残るか。そんなことは、どうでもいい。谷川のことばのなかには「感謝」が存在する。「生きている」ことに対するはてしない「感謝」が存在する。それは、残るのだ。
 私は、それと向き合う。
 谷川俊太郎が「ありがとう」と感謝のこころをあらわす、私はそれに対して「ありがとう」と答える。その対話、そのあいさつだけで、私はうれしい気持ちになる。

 その気持ちがあるなら、こんな文章など書かず、谷川俊太郎に対して「ありがとう」とつぶやいていろ、というひとがいるかもしれない。
 しかし、その「ありがとう」を交わすためには、なによりもまず、谷川俊太郎の「ありがとう」という声を聞き取らず、自分の「金儲け」を優先したひとがいたということを批判しておきたいのである。そうした、あまりにも人間的な(?)生き方は、谷川のことばの対極にあるものだろう。谷川を取り巻いていたひとのなかには、そうした人間的な(?)欲望を生きていたひともいることになる。寛大な谷川俊太郎は、そういうひとをも受け入れているのかもしれないが、私は、そこまで寛大になれない。

 怒りがおさまったら、谷川の詩について、また書いてみたい。「ありがとう」の気持ちをこめて。

 

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山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

2024-10-13 12:33:25 | 考える日記

山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)

監督・脚本 山中瑶子 出演 河合優実

 山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」は、たいへんな評判らしい。カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことも、その「好評」を後押ししているようだ。河合優実が主演した「あんのこと」、あるいはグー・シャオガン監督、ジアン・チンチン主演「西湖畔に生きる」もそうだが、「好きになれる人物」が登場しない映画、あ、この役者が演じたこの瞬間をまねして演じてみたいと感じさせてくれるシーンがないと、私は、その作品が好きになれない。
 「好き」ということばは誰でもがつかうが、その定義はむずかしい。私は「好き」というのは、その瞬間に、自分自身が消えてしまうことだと定義している。たとえば「ぼくのお日さま」の主人公は、少女がアイススケートをしているのを見て、フィギュアスケートが瞬間的に「好き」になる。そして、コーチが少女に指導していたことを耳にして、ふとその回転をまねしてみる。あるいは「リトル・ダンサー(ビリー・エオット、だったけっけ?)」でふと見てしまったバレエにひきつけられ、ボクシングをしているのに、ピアノのリズムで動いてしまう。さらに、彼は入学試験の面接で、踊っているとはどういう気持ちかと聞かれて「好き」というかわりに「自分が透明になる」と答える。この「透明」は私が言う「自分が消えること=好き」と同じだと私は感じている。「自分」というものがいなくなる、「自分」が消えて、「自分」では制御できない「肉体」が動き始める。そこには「感情」も「理性」もない。ただ「世界」だけが存在する。「世界と一体になる」という感じである。「好き」とは「世界との一体化」と言いなおすことができる。
 で、ここから「ナミビアの砂漠」を見直す。
 主人公(名前は忘れた)の河合優実は、一緒に暮らしている男(前半と後半は別の人間、つまりふたり)に対して、突然「暴力的」になる。いったん男の存在を否定し始めると、抑えが利かなくなる。徹底的に暴れる。これは、どうしてなのか。私の定義では、その瞬間が「好き」だからだ。男に対して暴言を吐き、暴力を振るう。その瞬間が「好き」なのだ。女は怒っているが、怒っている自覚はないだろう。「夢中」になっている。「無我」になっている。それしか「無我/自分が消え世界と一体化する瞬間」が存在しないのだ。
 それ以前は(それ以外の時間は)、どう「世界」のなかで存在しているのか。女が「暴力的」になる前には伏線がある。最初の伏線は、最初の男に対する伏線は、喫茶店で聞いた「ノーパンしゃぶしゃぶ」の会話である。こんな話題を、いまの若者が知っているのというのは私には驚きだったが、その「ノーパンしゃぶしゃぶ」で女が感じているのは、女は男の欲望の対象だ、という不満である。これが札幌出張の男が風俗店へ行ったことを知り、「怒り」となって爆発する。もしかすると、彼女は、その風俗の女であったかもしれないのだ。いま一緒に暮らしているが、それはほんとうに愛しているからなのか。それとも、セックスの対象とみなされているのか。これは、男が否定しようがしまいが、関係ない。彼女は、そう信じ、傷つくのである。そして、その傷に耐えられず、暴力的に反抗する。男の行為を否定する瞬間、彼女は「無我」になる。あるいは、「ほかの女と一体になる」と言えばいいか。風俗店で男とセックスをした女になる。「世界」になる。男が女を傷つけている世界そのものに向かって「無我」になる。暴力的になっているときだけ、彼女は男の世界から「解放」されるのである。それは世界を解放したい欲望と言いなおすことができる。
 もうひとりの男に対する暴力は、男が前につきあっていた女の「胎児のエコー写真」を見つけたところからはじまる。こどもはどうなったのか。堕胎した/堕胎させたのだろう。つきあっていた女は傷ついただろう。その傷を、男は、どうやってつぐなうのか。男は「小説」を書いている。きっと「小説」のなかで、自分の気持ちを「清算」するのだろう。そう思った瞬間から、暴力的になる。ここでも、女は、男の前の女、妊娠し、堕胎させられた女そのものになる。「無我」になっている。彼女が怒るのではなく、男の前の女になって怒る。
 ふたりの男は、女が「無我」になっていることに気がつかない。自分の目の前にいる、一個の「肉体を持った女」しか見えていない。女と「和解」するには、男も「無我」になるしかないのだが、それは、できない。男(ふたり)が女と暮らし始めたとき、暮らし始めようとしたとき、たぶん男にも「無我」の一瞬があったはずであるが、いまは、それを「再現」できない。男の行為が徹底的に否定されているわけだから、「無我」になれない。「無我」の「無」と「否定」の結果たどりつく世界ではなく、「肯定」のゆえに、自然とたどりついてしまう世界だからである。
 女が「安定」する、つまり世界が「好き」で満たされるのは、セラピーを受けているときではなく、スマートフォンで「ナミビアの砂漠」のシーンを見ているときである。オアシス(?)にシマウマが水を飲みにやってくる。こないときもあるが、くるときもある。それを「無我」になって見ている。「目的」もなく、ぼんやりと。この「無我」は「肯定」の結果ではないが、すくなくとも「否定」のゆえの世界ではない。
 「西湖畔に生きる」には、マルチ商法にのめりこむ女(母)が登場するが、彼女は息子から説得されても、そこから抜け出せない。家も売り払い、商法にのめり込む。言われるままに、大量の商品を買い込まされる。彼女は「買い物をしているときの自分が好き」というようなことを言う。「好き」とは、やはり「無我」なのだ。夫に逃げられ、新しい男との仲も引き裂かれ、彼女が「無我」になれるのは「金を使っているとき」だけなのだ。


 「好き」の結果、たどりつく世界は、たしかにおもしろくはある。山中瑶子は脚本を書き、映画を撮っているとき、たしかに「好き」なことをしているのだと思う。だから、その「無我」の充実感がスクリーンにあふれている。河合優実は、演技をしているときが「無我」なのだろう。だが、これは「頭」で整理した感想であって、無意識に書いてしまう感想ではない。「反感」の方がはるかに強い。
 私は「無我」を見るのが、ほんとうに大好きである。
 たとえば、私がいちばん好きな「木靴の樹」には、ミネクの両親が、ミネクのノートを開き、学校で習って書いた「L」を見ながら、「これはエルという字だ」という。そのとき、父親は字を読んでいることを忘れ、「無我」になって、ミネクになってノートにエルの字を書き続けている。ああ、ノートに「L」を書きたい、と私は思う。
 そういう瞬間が、「ナミビアの砂漠」を見ているとき、私には訪れない。「ぼくのお日さま」でも「リトル・ダンサー」にも、そういう瞬間はある。ビリーの父が、スト破りをする瞬間、あるいはビリーの合格を知って、道を書けていくシーン、仲間に自慢しに行くシーンは、私自身がバスに乗っているし、道を走っている。

 カンヌの「批評家」がどういう評価をしたのか、私は知らない。「評判」をあおっている日本の批評家(?)の意見も、私は調べたわけではない。ただ、二、三、ネットで見かけた記事(動画)では、彼らは「登場人物が好き」とは言っていなかった。あのシーンを自分でもやってみたいと言っていなかった。私は、そういう批評は嫌い。「マトリックス」を見たあとは、弾丸を身を反らして避けるシーンをしてみたり、やくざ映画を見たあとは肩をいからして映画館を出るという人の「行為」(肉体の変化)が好き。
 「頭」では、私は何かを好きになれない。

 「好き」の補足。
 私は和辻哲郎の文章が好きである。何度も書いたことだが「鎖国」には、世界一周をしてきた船がスペイン沖でスペインの船と出合う。そして、そのとき航海日誌をつけていた男が「日付が一日違う」ということに気がつく。この文章を読むとき、私は、和辻なのか、航海日誌をつけていた男なのか、それとも航海日誌をつけていた男に「きょうは○日だ」と告げた男になっているのかわからない。ただ「あ、日付変更線は、この発見があったからできたのだ」と思う。そして、そう思ったのは、私なのか、和辻なのか、あるいは航海日誌をつけていた男なのかもわからない。人間の区別がなくなる。全員が「無我」になる。そして「事実」が「真実」になる。そういう瞬間へ導いてくれることばが、私は好きである。

 

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ネタばれ、その2

2024-08-03 21:55:06 | 考える日記

 映画、あるいは芝居において、監督+出演者と観客とは、どう違うのか。何が違うのか。
 いちばんの違いは、監督+出演者は「結末」を知っている。(ネタばれ、を承知である。)一方、観客は「結末」を知らない。
 しかし、「結末」を知らなくても、対外の場合は「予測」がつくし、こんな奇妙な例もある。男と女が恋に陥る。ふたりはほんとうは兄弟なのだが、幼いときに生き別れになっていて、それを知らない。しかし、観客は、それを知っている。そして、ふたりはいつ自分たちが兄弟であると知るのだろう、とはらはらしながら見守るということもある。
 で、ここで問題。
 兄弟であることを知らない男女という設定でも、役者は(そして監督は)脚本を読んでその事実を知っている。だから、ほんとうに大事なのは、役者や監督が「結末」を知っているにもかかわらず、まるで知らない、初めての「できごと」を体験しているという具合に演じ、演出しなければならないということである。
 いい映画、いい芝居というのは、それが演じられる瞬間において、それを演じる役者(演出する監督)が「結末を知らない」と感じさせるものなのだ。観客は、すべてを知っている。しかし、役者、監督は何も知らない。その「結末」がどうなるか知らない(いましか存在しない)と感じさせなければならない。
 観客が「結末」を知っているのだけれど、もしかしたら、それとは違う「結末」があらわれるかもしれないと感じさせる、あるいは「結末」を忘れさせる演技、シーンが、いちばんいい演技であり、シーンなのだ。観客の知っている「結末」を忘れさせてしまうような「現在」を噴出させる演技、芝居がいい演技、いいシーンというものなのだ。
 こういうことは、非常にむずかしい。だからこそ、ある何人かの監督は、脚本なしに、即興であるシーンを撮ることがある。何が起きるか、だれもわからない。その瞬間、その「いま」がとてもリアルになるからだ。

 ちまたでよく言われている「ネタばれ禁止」問題というのは、結局のところ、役者が下手くそになった(魅力的ではなくなった)、監督が下手くそになったという「証拠」にすぎない。
 また観客の多くが、役者の演技を見なくなったという「証拠」にすぎない。
 だからなのだと思うが、いわゆる「完璧な脚本」の映画が、ただ、それだけでいい映画として評価される傾向が生まれてきている。そんなものは、映画にせずに、ただ「脚本」として発表すればいいのではないのか。映画である以上、あるいは芝居である以上「脚本のでき具合、結末」を忘れさせる充実した「いま」が必要なのである。
 役者や監督に「ネタばれ」を叩き壊してみせる「肉体」の力がなくなったからこそ、「ネタばれ禁止」などということが言われるのだろう。

 具体例なしで書いてきたので、わかりにくいかもしれない。最後に、いい役者の具体例を書いておこう。「さゆり」という映画。役所広司が、たしか足の悪い男を演じていた。彼は、もてない。しかし、渡辺謙に近づきたい女がいて、役所を出汁につかおうとする。ちょっかいを出す。それを役所は、女が自分に気があると勘違いする。そして、その女にとても親切にする。つまり、すこし恋仲の男が見せるようなコビをふる。そのシーンを見た瞬間、ほんとうに役所が振られるかどうか知らないはずなのに、私は「おいおい、役所、お前は振られるんだぞ。出汁につかわれてるんだぞ。脚本を読んでいないのか」と、笑いだしてしまった。役所は、「パーフェクトデイズ」でも、おもしろかった。トイレ掃除のとき、三目並べの紙をみつける。いったん、それを捨てる。しかし、もういちどそれを最初にあった壁の隙間に戻す。それがどうなるか知っているはずなのに、まるで何も知らない。ただ、もしかしたら誰かが三目並べのつづきを書き込むかもしれないと、ふっと予想する感じで肉体が動く。それが、とてもよかった。きっと三目並べをはじめた誰かが書く。役所が期待してるとわかるから。一度もスクリーンに登場しない人間の感じている「見なくても(あわなくても)わかる」という意識の動きさえ引き出して見せる演技だった。 

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