山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」ほか(あるいは、「好き」ということ)
監督・脚本 山中瑶子 出演 河合優実
山中瑶子監督「ナミビアの砂漠」は、たいへんな評判らしい。カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことも、その「好評」を後押ししているようだ。河合優実が主演した「あんのこと」、あるいはグー・シャオガン監督、ジアン・チンチン主演「西湖畔に生きる」もそうだが、「好きになれる人物」が登場しない映画、あ、この役者が演じたこの瞬間をまねして演じてみたいと感じさせてくれるシーンがないと、私は、その作品が好きになれない。
「好き」ということばは誰でもがつかうが、その定義はむずかしい。私は「好き」というのは、その瞬間に、自分自身が消えてしまうことだと定義している。たとえば「ぼくのお日さま」の主人公は、少女がアイススケートをしているのを見て、フィギュアスケートが瞬間的に「好き」になる。そして、コーチが少女に指導していたことを耳にして、ふとその回転をまねしてみる。あるいは「リトル・ダンサー(ビリー・エオット、だったけっけ?)」でふと見てしまったバレエにひきつけられ、ボクシングをしているのに、ピアノのリズムで動いてしまう。さらに、彼は入学試験の面接で、踊っているとはどういう気持ちかと聞かれて「好き」というかわりに「自分が透明になる」と答える。この「透明」は私が言う「自分が消えること=好き」と同じだと私は感じている。「自分」というものがいなくなる、「自分」が消えて、「自分」では制御できない「肉体」が動き始める。そこには「感情」も「理性」もない。ただ「世界」だけが存在する。「世界と一体になる」という感じである。「好き」とは「世界との一体化」と言いなおすことができる。
で、ここから「ナミビアの砂漠」を見直す。
主人公(名前は忘れた)の河合優実は、一緒に暮らしている男(前半と後半は別の人間、つまりふたり)に対して、突然「暴力的」になる。いったん男の存在を否定し始めると、抑えが利かなくなる。徹底的に暴れる。これは、どうしてなのか。私の定義では、その瞬間が「好き」だからだ。男に対して暴言を吐き、暴力を振るう。その瞬間が「好き」なのだ。女は怒っているが、怒っている自覚はないだろう。「夢中」になっている。「無我」になっている。それしか「無我/自分が消え世界と一体化する瞬間」が存在しないのだ。
それ以前は(それ以外の時間は)、どう「世界」のなかで存在しているのか。女が「暴力的」になる前には伏線がある。最初の伏線は、最初の男に対する伏線は、喫茶店で聞いた「ノーパンしゃぶしゃぶ」の会話である。こんな話題を、いまの若者が知っているのというのは私には驚きだったが、その「ノーパンしゃぶしゃぶ」で女が感じているのは、女は男の欲望の対象だ、という不満である。これが札幌出張の男が風俗店へ行ったことを知り、「怒り」となって爆発する。もしかすると、彼女は、その風俗の女であったかもしれないのだ。いま一緒に暮らしているが、それはほんとうに愛しているからなのか。それとも、セックスの対象とみなされているのか。これは、男が否定しようがしまいが、関係ない。彼女は、そう信じ、傷つくのである。そして、その傷に耐えられず、暴力的に反抗する。男の行為を否定する瞬間、彼女は「無我」になる。あるいは、「ほかの女と一体になる」と言えばいいか。風俗店で男とセックスをした女になる。「世界」になる。男が女を傷つけている世界そのものに向かって「無我」になる。暴力的になっているときだけ、彼女は男の世界から「解放」されるのである。それは世界を解放したい欲望と言いなおすことができる。
もうひとりの男に対する暴力は、男が前につきあっていた女の「胎児のエコー写真」を見つけたところからはじまる。こどもはどうなったのか。堕胎した/堕胎させたのだろう。つきあっていた女は傷ついただろう。その傷を、男は、どうやってつぐなうのか。男は「小説」を書いている。きっと「小説」のなかで、自分の気持ちを「清算」するのだろう。そう思った瞬間から、暴力的になる。ここでも、女は、男の前の女、妊娠し、堕胎させられた女そのものになる。「無我」になっている。彼女が怒るのではなく、男の前の女になって怒る。
ふたりの男は、女が「無我」になっていることに気がつかない。自分の目の前にいる、一個の「肉体を持った女」しか見えていない。女と「和解」するには、男も「無我」になるしかないのだが、それは、できない。男(ふたり)が女と暮らし始めたとき、暮らし始めようとしたとき、たぶん男にも「無我」の一瞬があったはずであるが、いまは、それを「再現」できない。男の行為が徹底的に否定されているわけだから、「無我」になれない。「無我」の「無」と「否定」の結果たどりつく世界ではなく、「肯定」のゆえに、自然とたどりついてしまう世界だからである。
女が「安定」する、つまり世界が「好き」で満たされるのは、セラピーを受けているときではなく、スマートフォンで「ナミビアの砂漠」のシーンを見ているときである。オアシス(?)にシマウマが水を飲みにやってくる。こないときもあるが、くるときもある。それを「無我」になって見ている。「目的」もなく、ぼんやりと。この「無我」は「肯定」の結果ではないが、すくなくとも「否定」のゆえの世界ではない。
「西湖畔に生きる」には、マルチ商法にのめりこむ女(母)が登場するが、彼女は息子から説得されても、そこから抜け出せない。家も売り払い、商法にのめり込む。言われるままに、大量の商品を買い込まされる。彼女は「買い物をしているときの自分が好き」というようなことを言う。「好き」とは、やはり「無我」なのだ。夫に逃げられ、新しい男との仲も引き裂かれ、彼女が「無我」になれるのは「金を使っているとき」だけなのだ。
「好き」の結果、たどりつく世界は、たしかにおもしろくはある。山中瑶子は脚本を書き、映画を撮っているとき、たしかに「好き」なことをしているのだと思う。だから、その「無我」の充実感がスクリーンにあふれている。河合優実は、演技をしているときが「無我」なのだろう。だが、これは「頭」で整理した感想であって、無意識に書いてしまう感想ではない。「反感」の方がはるかに強い。
私は「無我」を見るのが、ほんとうに大好きである。
たとえば、私がいちばん好きな「木靴の樹」には、ミネクの両親が、ミネクのノートを開き、学校で習って書いた「L」を見ながら、「これはエルという字だ」という。そのとき、父親は字を読んでいることを忘れ、「無我」になって、ミネクになってノートにエルの字を書き続けている。ああ、ノートに「L」を書きたい、と私は思う。
そういう瞬間が、「ナミビアの砂漠」を見ているとき、私には訪れない。「ぼくのお日さま」でも「リトル・ダンサー」にも、そういう瞬間はある。ビリーの父が、スト破りをする瞬間、あるいはビリーの合格を知って、道を書けていくシーン、仲間に自慢しに行くシーンは、私自身がバスに乗っているし、道を走っている。
カンヌの「批評家」がどういう評価をしたのか、私は知らない。「評判」をあおっている日本の批評家(?)の意見も、私は調べたわけではない。ただ、二、三、ネットで見かけた記事(動画)では、彼らは「登場人物が好き」とは言っていなかった。あのシーンを自分でもやってみたいと言っていなかった。私は、そういう批評は嫌い。「マトリックス」を見たあとは、弾丸を身を反らして避けるシーンをしてみたり、やくざ映画を見たあとは肩をいからして映画館を出るという人の「行為」(肉体の変化)が好き。
「頭」では、私は何かを好きになれない。
「好き」の補足。
私は和辻哲郎の文章が好きである。何度も書いたことだが「鎖国」には、世界一周をしてきた船がスペイン沖でスペインの船と出合う。そして、そのとき航海日誌をつけていた男が「日付が一日違う」ということに気がつく。この文章を読むとき、私は、和辻なのか、航海日誌をつけていた男なのか、それとも航海日誌をつけていた男に「きょうは○日だ」と告げた男になっているのかわからない。ただ「あ、日付変更線は、この発見があったからできたのだ」と思う。そして、そう思ったのは、私なのか、和辻なのか、あるいは航海日誌をつけていた男なのかもわからない。人間の区別がなくなる。全員が「無我」になる。そして「事実」が「真実」になる。そういう瞬間へ導いてくれることばが、私は好きである。
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