詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(7)

2022-04-30 13:29:14 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(7)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 7篇目「空から、蛇が」には、注がついている。「1997年8月、永山則夫の死刑が執行された。著書の印税は「永山子ども基金」となり、南米ペルーで働く子どもらの活動資金や学費として、活用されている。」このことを、どうとらえればいいのだろうか。 石毛は、ペルー、リマに、空から降ってきた蛇と子どもを対話させている。
 なぜ、空から降ってきたのか。

蛇は 応えていった
--秋の暮れ、もの憂いのついでに、子どもを噛んでしまった。
さらに 子どもらは 口々に言い放った
--手足のない、くねり歩きを馬鹿にされたのかい?
(略)
--おまえの無知のなせるわざが、そうさせたのか?
--おまえの歯牙は、事のついでに、噛むものではない!
苦境に立った蛇が 訴える
--さっきまで、きみらの仲間にも説教され、弱っているんだ。
  もう、勘弁、許してくれないか。

 「苦境」ということば、それにつながる「説教されて」ということば。「説教」は、もちろん「ことば」でおこなうものだけれど、この「ことば」が、なんともつらい。
 「説教のことば」は「論理的」である。つまり「正しい」。それに「論理」で反論することはできない。「勘弁、許してくれ」は反論ではなく、謝罪である。しかし、この謝罪が、とてもむずかしい。謝罪は「論理」ではないから、それを受け入れるには「論理」の側がかわらないといけない。「批判の論理」を組み立てなおし、「別の次元の論理」をつくりあげないと、「謝罪」は生きることができない。
 つまり。
 「謝罪することば」を受け入れる能力があるかどうか、その瞬間、「批判の論理」は「謝罪」から「読まれている」のである。蛇を断罪する(批判によって、蛇を「読み切る」)ことは、多くの人がすることである。だが、忘れてはならないのは、「断罪する人」は「謝罪する人」から「読まれている」ということである。「読む/相手を認識する」というのは一方的な行為ではなく、必ず相互的な行為なのである。
 だから、むずかしい。
 詩は、こうつづいていく。

そこで 空から墜ちる前に
通りかかったカラスに 絡まれたことを白状した
--おれに、おれには、手足がない。
蛇は 苦悶の中でさえ弁解してみせた
--おまえには手足がない
  それはね、他とは少し違った、個性というものだよ。
  口は、災いのもとだな。
カラスは 言い含めるように返した。

 何だろう。私の肉体は、ぞくっと震える。
 「個性」ということばの、非情な冷たさ。「個性の尊重」の一方で「協調」という概念がある。「おれには、手足がない」と認めることは、蛇にはむずかしい。それを「個性」と呼ばれてしまうのは、もっといやだ。それは、はたして「個性の尊重」か。「排除」かもしれない。「排除」するという行為を「美化」していうときに「個性」ということばが利用されるかもしれない。「あなたの個性を生かすには、ここでは不十分だ」とか。
 さらに、カラスは残酷である。

--おまえは もっと、もっと、生きたいか。
  生きることを許されたら、何をするか?
カラスは 引導を渡すように 蛇に詰問した

 詰問されれば、誰だって、困ってしまう。そのときの「答え」は「正解」であるかどうか、わからない。「正解」だから、すべてを「許す」ということになるかどうか、わからない。
 ここでもほんとうに「読まれている」(正解を求められている)のは、問い詰める方なのだが、こういうことを書いていると、わけがわからなくなる。
 すでに、私が書いていることは、詩への感想ではないかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

--だが、おれは、おれはね、
  今は、噛んでしまった子どもらの労働組合をつくりたい。
蛇は とっさに思いついたことを 言い募ってきた
--そうか、しかし、おまえのその毒は、死をまね---。
そうつぶやくと 蛇を くわえ直して
カラスは 天高く 舞い上がった
--無知からでた涙を、憎むわけじゃねえ。
  その、使い方を、もの言う術をまちがうな!

蛇は 天空で投げ出された
空から 毒蛇が---。
ありえぬことではあるまい。

 ここには「結論」はない。「結論」など、人間にはないのかもしれない。
 かわりに、ドラマがある。ドラマとは、人と人がぶつかり動くことである。人は、ときに蛇(毒蛇)であり、カラスである。そして、子どもでもある。現実というドラマでは、なんでも起きる。「予定調和」はない。つまり「結論」はない。
 動いていく。動きながら、何かを選択し続けるという「過程」だけがある。 
 このドラマの「蛇」を永山が、「カラス」を裁判官が演じれば、この詩は「現実」に近づくかどうか。さらに。もしこのドラマに私が出演するなら、私はどの役を演じたいか。カラスか、蛇か、子どもたちか。そのことを考える。どの役を演じたとき、私のこころは、石毛の書いていることばを自分の肉体の声として発することができるか。腹の底から発することができるか。
 納得するのは精神ではない。頭脳でもない。「腑に堕ちる」。内臓が納得し、消化し、それが肉体の隅々にまで広がっていく。そう言えるのは、どのことばか。それを考えるとき、私は「問われている/読まれている」と感じ、立ちすくむ。石毛のことばは、いつも私をぞくっとさせる。立ちすくませる。

 

 

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(2)

2022-04-29 11:53:55 | 詩集

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(2)(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「冬の薔薇」。

冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、

 この書き出しは、とても不思議だ。
 冬、薔薇の花が凍っている、凍った薔薇の花を冬に見る。どちらの場合も、私の視点は「凍った薔薇」に向かう。その「凍った薔薇」は、しかし、自然に凍ったのではない。急に気温が下がって凍ったのではない。「誰かが凍らせた」のだ。それは「第三者」かもしれないし、話者自身かもしれない。いずれにしろ、「凍った薔薇」よりも「誰か」(人間)がその背後にいるということが、わからないものを抱え込んだまま、迫ってくる。
 その不思議さを抱えながら私は読み続ける。

冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、
日差しの中で溶けていく、
ぼくは日光は全部幽霊だと思っていると、話した、
昼下がりの電車の中で、
日光は満ちていて、生きている人が皆黙って座っていた、
恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、
ぼくは誰とも話せないなら、簡単に傷つき、
死にたくなって死に、
そうしてこの電車のソファを明るく照らす光になるよ。

 凍った薔薇、日光、溶ける、までは論理的というが、そこに私の知っている論理が動いていることがわかる。つまり、何も考えないまま(あるいは、何も感じないまま、と言った方がいいかもしれない)、読むことができる。
 ところが「幽霊」があらわれてから、私は、わからなくなる。日光が幽霊、幽霊とはたぶん死んだひとを感じさせる何か。だから、反対の「生きている人」ということばも出で来るが、その人たちは「皆黙って座っている」。それは「生きている」ようで「死んでいる」。つまり、幽霊かもしれないが、その死に方は「日光=幽霊」よりは稀薄な死に方なのだろう。完全には死んでいない死に方なのだろう。
 ここから「恋」ということばが書かれるが、「黙っている」=「返事をしてくれない」と、その「恋」は関係があるのだ。「返事をしてくれない」=「話せない」、「傷つく」=「死ぬ」が交錯して、「ぼく」は「光になる」。その「光」が「日光」と同一のものかどうかはわからないが、たぶん同一だろう。
 しかし、こんなふうに、何がなんでも「論理」で理解しようとすると、きっと何もわからない。どんなことばにもかならず「論理」はある。あるいは捏造できる。それは、凍った花(あるい氷)が日光によって溶けるというようなわかりやすいもの(わかったと思っているもの)もあれば、よく見えないものもある。このして言えば「誰が」凍らせたのか。
 見えなくても、見えないながら存在している「論理」というものがある。ことばを動かす別の力がある。そして、これは「学校文法の論理」では明らかにすることができなない。だから、詩なのだ。

恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、

 どうして「恋ができる」のか。その理由は書いていない。だが、それは「理由」はいらない。そう感じたのだから。
 最果は、この「感じた」を書くのである。「感じた」には、いわゆる「錯覚」もある。「幽霊」という存在そのものがそうだろう。それは「感じる」かどうかであって、それ以上のことを言っては、何もはじまらない。「信じる人」には存在する。「感じない人」には存在しない。そういうものが、ごく普通に交錯して動いているのが、私たちの生活だろう。

 二連目で、この詩に、具体的な「誰か」が出てくる。「あなた」が出てくる。

私はきみが好きではない、とあなたは言った、
傷ついているのに、その傷口から芽が出て花が咲くとおもい、
ぼくはじっとしていた。

 「学校文法」的に読むと、「ぼく(話者)」は「あなた」と会った。「あなた」は「私(=あなた)はきみ(=ぼく)が好きではない」と言った。「ぼく」は簡単に言えば、振られたのである。しかし、「ぼく」を振った「あなた」はそれで大丈夫なのかといえば、そうではなくて、「傷ついている」。「好きではない」ということで、何らかの「傷」が残る。ほんとうは好きなのに嫌いと言ったのか。嫌いといった方が、もっと愛してもらえる、あるいは自分の存在に気づいてもらえると思ったのか。わからないけれど、「ぼく」は「あなた」のことを、そんなふうに見つめている。こういうことは、思春期、あるいはもっとおとなになってからでもそうかもしれないが、誰もが一度は経験することだろう。どうしたら好きになってもらえるか。これはとても大事な問題だからである。
 で、そういう大事な問題に直面したとき、そこに最果の場合、論理ではなく、別なことばで言えば「心理学」ではなく、もっと違うものが動く。

傷口から芽が出て花が咲く

 こういう現象自体は、たとえば倒れた桜がまた花を咲かせるとき姿に重ね合わせて理解できるが、その瞬間的にあらわれてくる「感じ」が、そのまますっと動き、ことばになる。
 「論理」ではなく「感じ」。何も、誰も、支えてくれない、たったひとりの「感じ」。この「たったひとりの感じ」というのは、別のことばで言えば「純粋」とか「透明」になる。他のひとの「論理」が入ってこないということである。「他人」とは、たぶん、最果にとって「論理」である。
 そして、誤解かもしれないが、多くの若い人にとっては「他人」とは「論理」であり、それはうるさい不純物である。「論理」で自分を守り続ければいい。私はそうしない。「論理」を捨てて、「論理」に傷つき、傷つくことで自分の純粋さ、透明さを守って生きる、ということかもしれない。--しかし、それを私のように「論理的(?)」に言ってしまってはいけないのだろう。
 最果は、「論理」になる前でことばをとめる。「純粋」「透明」なままで、ことばをとめる。

そんなに好きじゃなかったんだよ、
恋が叶わなくて、自殺しようと思わないなら、
そんなには恋じゃなかったんだよ、という人たちへ。
ぼくの花畑をいつか、見にいらしてください。

 「ぼく」は「傷口から芽が出て花が咲く」ということを知っている。「ぼく」は、そうやって開いた花でいっぱいの「花畑」をもっている。
 「感じ」とは「論理」的には「矛盾」になってしまうことを、矛盾させずに、そこに存在させる生き方かもしれない。

 「恋は無駄死に」の終わりの方に、

それに、嘘だったでしょうって告げるために私は透明な風になり、

 という一行がある。「嘘だったでしょう」の「嘘」を「論理」と読み直せば、あるいはこの詩の中でつかわれている「物語」と読み直せば、最果の世界がどこまでも広がっていくことがわかる。

 

 

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市民は、どう思っている?

2022-04-28 09:38:53 | 考える日記

市民は、どう思っている?

 2022年04月28日の読売新聞(西部版・14版)の1面。
↓↓↓↓
①ウクライナ/国連総長 調停難航/プーチン氏と会談
②マリウポリ「最後まで戦う」/アゾフ大隊司令官
↑↑↑↑
 二本の記事が並んでいる。①は【ニューヨーク=寺口亮一】と、ニューヨークからの記事。②は【ワルシャワ=上地洋実】とあるから、ワルシャワからの、オンライン取材(インタビュー)。どちらも記者が「現地」で取材しているわけではない。①は国連で関係者から取材したのかもしれない。きのうの夕刊にはグテルとプーチンの写真が載っていたが、ロイターの提供写真だった。
 二本の記事のなかで焦点として語られているのがマウリポリ。製鉄所には「民間人が1000人以上避難している」(アゾフ大隊司令官)と言う。このことをめぐる3人の主張。
↓↓↓↓
 グテレス氏は(略)マリウポリのアゾフスタリ製鉄所に残っている民間人の退避について協力を要請した。(略)
 プーチン氏は(略)アゾフスタリ製鉄所に立てこもるウクライナ軍や武装組織「アゾフ大隊」が、民間人を「人間の盾」にしていると批判し、退避させる義務はウクライナ軍にあるとも強調した。
 (アゾフ大隊)司令官は「アゾフ大隊は決して降伏しない。武器が最後の1丁になっても戦い続ける」と徹底抗戦の方針を強調した。
↑↑↑↑
 いまの「報道の状況」(日本の社会に広がっている意見)からすれば、私の見方は「論外」かもしれないが、私は、アゾソ大隊司令官の言っていることがよくわからない。
 外電面に載っているアゾフ大隊司令官へのインタビューのつづきを読むと、
↓↓↓↓
 司令官は(略)アゾフスタリ製鉄所について、「水や食料もなくなりかけており毎日、死者が出ている」と危機的な状況を訴えた。(略)「ロシア軍の攻撃のため地下から外に出られない。避難者は長期にわたり日光を浴びられず、新鮮な空気も吸えない」と、地下空間に長く閉じ込められている息苦しさを語った。
↑↑↑↑
 そうであるなら、どうして民間人を救出させる(脱出させる)という方法をとらないのだろうか。
 兵士は何のために戦うのか。もちろん自分の命を守るために戦うが、市民の命を守るためにこそ戦うのではないのか。
 だからこそ、市民が犠牲になったとき、「市民を狙った」とか「市民を虐殺した」とかいう批判が起きる。市民を犠牲にしてはならない。ロシアが強く非難されている理由のひとつに「市民虐殺(ジェノサイド)」があるのもそのためだ。
 製鉄所地下に避難している市民は、彼らが進んで製鉄所の地下に避難してきたのか。アゾフがここは安全だと呼び寄せたのか。もしそうだとしても、そこが安全ではなくなったなら、そこから脱出させるのが兵の仕事ではないのか。
 一面の記事のなかで、司令官は「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」と言っているが、これは司令官以外の兵の「総意」なのか。司令官の命令なのか。あるいはゼレンスキーの命令なのか。司令官には、戦うと同時に、部下の命を守る責任もあると思うが、この「命を守る」という意思が、私には、司令官のことばからは感じられない。

 市民を脱出させると、そのとき市民が集団虐殺されるとアゾフは主張するかもしれない。しかし、そんなことをすれば、それこそ世界が注視するなかでのロシアの蛮行が明白になるのだから、ロシアはするはずがないし、もししたとしたらそれこそ世界中から攻撃されるだろう。どんな虐殺も隠されて行われる。
 キーフ近郊の虐殺も、それを見ていた第三者がいない。(いるかもしれないが、私はそういうニュースを読んでいない。)多くの遺体が見つかった後で、「虐殺があった」とわかるのである。虐殺は、殺した人以外は知らないところでおこなわれるから大問題なのだ。誰も見ていないから、虐殺が拡大していくのである。

 最後まで戦う、「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」とは、ほんとうに正しい選択なのか。
 そのとき、地下に避難している市民は、どう思うのか。「私たちは、ウクライナを守るために戦った」と思って死んで行くのか。「こんなところで死にたくなかった」と思いながら死んでいくのか。「アゾフが降伏してくれたら、生き延びられたかもしれない」と思って死んでいくのか。
 ロシアのウクライナ侵攻以来、多くの市民がウクライナから避難している。難民になっている。彼らは、ロシア支配の世界では自由がなくなると思って避難したのか、それとも戦争に巻き込まれて死ぬのはいやだと思って避難したのか。
 私なら、後者である。戦争なんかで死にたくない、殺されたくない。だから、逃げよう、を選ぶ。ロシアの支配下では自由がなくなるから、自由のある国へ避難するというのは、もっと後でもできる。いまは、何がなんでも生きたい、だから逃げるのであって、資本主義とか自由主義とかは関係がない。
 製鉄所の地下に避難している市民も、たぶん「生きたい、逃げたい」と思っているのではないのか。
 その市民の思いを、どう実現させるのか。

 私がインタビューアーなら、どうしても聞かずにはいられない。「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」ということばを避難している市民はどう受け止めていますか? どんなふうに避難している市民に状況をつたえていますか?」
 聞いたけれど、それは新聞には書いてはいけないことなのか。それとも、そういうことを聞くのを忘れているのか。それは、アブソに完全利用されている、アゾフのことばをPRしているだけであって、取材ではないのだが……。
 外電には、地下にいる子どもたちの写真も掲載されている。やはりロイターの写真である。写真だけで、子どもたちの声はない。
 いったいだれが、その子どもたちの声をつたえるのか。つたえようとしているか。そういう意識を持った人が、ジャーナリズムの中にいるのか。
 そういうことを考えてしまう、きょうの新聞だった。
 私はプーチンが間違っていると考えるが、だからといってゼレンスキーやアゾフ大隊を支持することはできない。市民が死んでいくことをなんとも思わないという点では、プーチンもゼレンスキーもアゾフ大隊も共通している。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(6)

2022-04-27 12:07:45 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(6)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 6篇目「獄中の木橋」。

だが 腑に落ちない×××点もある
あの時 十三歳の少年は
哀しみの荒野にいて
それも 身ひとつで
なによりも 手ぶらであった

 突然「×××」が出てくる。それは、

いまだ 腑に落ちない×××面もある

いまだ 腑に落ちない×××事がある

最期で 唯一の×××証しとなってしまった

殺人を悔いる×××更改ではなかったか。

 と繰り返される。この「×××」は何なのか。それは、私には理解できない。だからつまずいてしまう。
 しかし。
 ここから考えるのである。もし、伏せ字でなかったら、私はこの詩に書かれていることが理解できるか。そもそも、理解とは何なのか。
 この詩には、他の詩にあるような「副題」や「注釈」がない。だから、タイトルの「木橋」や、途中に出てくる「死刑執行」ということばから、この詩は永山事件、永山則夫について書いているのだと思うが、永山が事件を起こしたとき、彼は「十三歳の少年」ではなかった。しかし、石毛は「十三歳の少年」のころから書き起こしている。
 書きながら「腑に落ちない」と感じている。
 「木橋」は永山則夫の小説である。私は読んだことがない。その小説には、きっと「十三歳の少年」が登場するのだろう。永山が少年のときに体験したことも書かれているのだろう。それを読みながら「腑に落ちない」と石毛は感じている。「腑に落ちない」と書かずにはいられない。
 納得したいのだ。
 この「納得したい」という欲望は、なかなかやっかいである。
 たとえば、石毛は永山則夫の行動を「納得したい」と思っているが、私は特に「納得したい」とは思わない。そういう事件があったなあ、そういう人がいたなあ、というところでとまってしまう。なかには、殺人事件を起こしたひとのことなど「納得」する必要はない、という人もいるかもしれない。私には関係ない、ですべてが解決してしまうひとの方が多いだろう。なぜ、殺人事件を起こしたひとのことを理解しないといけないのか。
 「腑に落ちない」と言っている石毛の態度、そして、この詩こそ、「腑に落ちない」ということになる。
 きっと、ここからが問題なのだ。
 社会(世界)には、多くの人間がいる。そして、その多くの人は、それぞれに苦悩を抱えている。苦悩の多くは、たぶん「腑に落ちない」ということに起因している。言いなおせば、この世の中は「腑に落ちない」ことが絡み合って動いている。「腑に落ちない」を抱えたまま、人は生きている。その「腑に落ちない」ことを隠しきれずに、ひとの行動は、ときどき乱れる。これを、ひとはときどき「狂気」と呼ぶ。
 それは何が原因なのか。どうすれば、その「腑に落ちない」の絡み合った世の中を、きちんと消化できるのか。(「腑に落ちる」ということばはないが、それはあえていえば「完全消化」だろうか。「腑に落ちない」は消化できない、である。)「狂気」に陥らずに、どうやって生き延びて行けるか。

どこへ行っても
憐憫の瓦礫が 目をふさぐ
塹壕のどん底から
樹木の高みへと
逃げる術など 思いもよらなかった
狂気のせつなさ
雪が しぐれてくる
手ぶらの狂暴が
熱くささやいた

 「腑に落ちない」を抱えて生きることはできない。それは、なんらかの形で発散しなければいけない。

---マクシム、どうだ、
   青空を見ようじゃないか

 と「肉体」を解放する方法を教えてくれる「友」もいない。そういう「システム」も社会には存在しない。ただ、「肉体」が取り残される。非情な雪が降っている。しぐれている。自然は、あるいは、非情は、過酷である。でも、なぜか、その非情に、人間はさそわれてしまう。もし、灼熱の太陽ならば、「冷たくささやく」だろうか。
 何か、この、撞着語めいたことばが「腑に落ちる」のはなぜなのだろうか。
 「狂気のせつなさ/雪が しぐれてくる/手ぶらの狂暴が」

冷たくささやいた

 だったら、石毛の詩は「腑に落ちない」。「雪が、狂暴になれ」と「熱く」ささやいているからこそ、「腑に落ちる」。
 この数行がとても美しいのは、石毛がこの部分で永山に共感している、つまり、永山の行動を「腑に落ちる」と納得しているからだろう。
 「腑に落ちる」、強く納得するとは、「矛盾」を含んだ拮抗が、そのまま存在するときなんだろうなあ。激しく抵抗する矛盾にであったとき、それを消化できる肉体があるかどうかが、とても重要になる。肉体がないときは、それを補完する「システム(社会)」が必要になるのだが……ということを書いていたら、脱線してしまうなあ。だから、それは保留して……。
 奇妙な言い方だが、石毛は「木橋」を読みながら、そこに「事実」が書いてあることは理解できたが、ときどき、その「事実」には「絶対矛盾(撞着語)」のようなものがないと感じたのではないのか。ある部分は納得できる、しかしよく納得できないところもある。それは永山についてだけではない。

殺人を悔いる×××更改ではなかったか。

 この最終行の「更改」は「法」の更改を問題にしているのだと思う。「法」には「撞着」があってはいけない。「撞着語」による法律というものは存在しない。「撞着」を許す「法」では、「法」ではなくなる。
 と書くと、これから書くことと矛盾してしまうが、「腑に落ちない」ことを見つめながら、「腑に落ちない」ことをかかえこみながら、その「腑に落ちない」とつきあいつづけることが、たぶん、生きることなのだ。
 その「腑に落ちない」に出会ったとき、たとえば、魯迅は「腑に落ちない」を抱えている人間の側に立つ。「腑に落ちない」と狂暴になる人間の側に立ち、そこから「腑に落ちない」と訴えている人間の視線を動かし、社会を見ていく。見えているものと、見えていないものがある。それを、えぐりだす。答えはない。ただ、その行為、過程だけがある。
 石毛の繰り返す「腑に落ちない」は、そんなことを考えさせてくれる。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)

2022-04-26 20:58:39 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 5篇目「駿河台の青い空」。
 菅原克己が、誰かの詩を引用している。それが誰の詩かわからないが、石毛は覚えている。

---マクシム、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 菅原が引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。石毛がそれを引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。とはいえないが、いま私がそのことばを読んでいるのは、石毛が菅原の詩を覚えているからであり、菅原は誰かの詩を引用したからだ。
 ことばは、ことばを生きていく。
 誰かの詩には誰かの「肉体」が、菅原の詩には菅原の「肉体」が、石毛の詩には石毛の「肉体」が反映されているはずである。そして、その三人の「肉体」には共通するかもしれないが、完全に個別のものである。他人の「肉体」を生きることはできない。
 ところが、ことばは「個別性」を生きることができない。
 たとえば私が引用したその詩は、誰のことばが。何か、そこにその人を印づける特徴があるか。ない。ないからこそ、それを特定するには、そのことばの「周辺のことば」、そのことばと一緒に生きていたことばが必要である。
 いま、石毛が引用したことばは、いったいどんな「石毛のことば」と一緒に生きているか。

もしも だれかが
「だいぶ 老けたね!」と言うのなら
おれは 背中を指して言うだろう
煙草と珈琲と有期労働に 隠れながら
なおを 背負ってきたか!
その曲がり具合を 笑いながら---

---友よ、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 全部の引用ではないので説明を加えておくと「隠れる」ということが、「肉体」として引き継がれている。「隠れて」生きるとは、たとえば「有期労働」を生きるということである。「身元」がしだいに露顕するということは少ない。「有期労働」は、たいていの場合、過酷だ。肉体的に厳しい。それが「背中」の「曲がり具合」に反映している。
 こうした状況を「背負う」という動詞で石毛は表現しているが、石毛はつまり、「マクシム」の二行のことばが発せられたとき、そこには「何かを隠し(何かを背負い)」生きてきた「肉体」があることを「石毛の肉体」で引き継ぎながら、それをつなぐものとして「ことばの肉体」を動かしていることになる。「背中」を中心に、「肉体」を動かしながら、「ことばの肉体」に陰影をつけくわえる。
 誰でも何かを背負っている。それは何かを「隠している」ということ。「隠し事なんかない」というひとのことは、いまは考えない。「隠している」ということを知っている人に向かって、石毛は言う。

友よ

 「マクシム」が「友よ」に変わっている。変えることで、石毛は「マクシム」には「友(認識を共有するもの)」という「意味」をつけくわえる。そして、それは同じ「肉体(背中)」の体験をしたことがあるもののことである。もちろん「肉体」を「精神」と呼んでもいい。むしろ「精神」と呼ぶひとの方が多いかもしれない。
 でも「有期労働」や「背負う」「曲がり具合」ということばから、私はそれを「肉体(背中)」に引き留めておきたい。隠れていることは「肉体」にとっては窮屈だ。だから、ときどき、「肉体」を解放する必要がある。

---友よ、どうだ、
   青空を見ようじゃねえか

 いま、「ことばの肉体」もまた、青空を見るのだ。菅原と、誰かの「ことばの肉体」も青空を見る。そのとき彼らの「肉体」も青空を見る。

 

 

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)

2022-04-25 21:40:57 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 4篇目「天然の水」。
 最果タヒの『さっきまで薔薇だったぼくに』を読んだ後に、また、石毛の詩に戻ってきた。ここに書かれていることばに追いつくには一呼吸も二呼吸も必要である。

一通の封書に 驚いた
「こんな土埃の砂漠に、みごとな虹がでるぞね!」
陽炎のゆれる白昼に そんな便りを受け取った
そのとき すでに彼は 爆風のなかに消えていたというのだ
そう! 予期せぬ砲撃なんですね

 美しいという感想が適切ではないことは知っている。しかし、思わず美しいと思ってしまう。それは9・11のビルが噴水のように崩れ落ちるのを見たときの印象に似ている。なぜ、美しいと思ってしまったのだろうか。あのときから、私は自分のことばを信じないことにしたのだが、やっぱり裏切りのように私の肉体のなかから美しいということばが出てきてしまう。
 砲撃で跡形もなく消えてしまう肉体。でも、その消えてしまった肉体の消え方、そこにあったのにという印象が「虹」に似ている、と錯覚し、「美しい」と思う。古い言い方だが、なんというか「生きざま」が虹になってその前に出現してくるかのように。しかも、その虹は実際の虹ではなく「こんな土埃の砂漠に、みごとな虹がでるぞね!」という手紙の中の虹なのだ。
 言いなおすと。
 土埃の砂漠のなかで、難民キャンプの過酷な現実と直面しながら、その現実のなかに生きている命の不思議な美しさに共鳴するこころをもった男がいた。彼は、砂漠の中の虹を見たとき「みごとな虹がでるぞね!」と、それを見えるはずのない友人に手紙に書かずにはいられなかった。
 私たちの「肉体」のなかには、どんな現実のなかにいても、その現実とは違う肉体を生きているものがある。虹を虹と呼ぶことば。そして、虹を美しいとか、みごととかいうことばと結びつけて世界をつくってしまう何か。私は、それをとりあえず「ことばの肉体」と呼んでいる。「ことばの肉体」として生きているものが、「肉体」を突き破るようにして動く。それは、おさえることができない。過酷な難民キャンプで「みごとな虹」と言っているひまがあるなら、もっとするべきことがあるかもしれない。肉体にとって必要なことがあるかもしれない。たとえば、「天然の水を 飲み」というようなことが。
 その一行は、こんなふうに出てくる。

「学校なんかに行くよりも 戦場に行きたい!」
親友が 涙を流しながら
死にもの狂いで 戦っている姿を見ると
「もう 学校にいるなんて いや!」
「ホントにおとなしい、どこにでもいる子どもでね。男親を失ったけど」
彼は よほど情にもろいのだ
天然の水を 飲み
玉葱を 丸ごと口にくわえて銃を撃つ

 この「天然の水を 飲み」というのは、とても鮮烈だ。「玉葱を 丸ごと口にくわえて」というのも、「肉体」に強く働きかけてくる。思わず、それをしてみたいと私の「肉体」は叫んでいる。「ことばの肉体」は「肉体」を突き動かし、「肉体のことば」になることがある。その直後の「銃を撃つ」で、はっと、我にかえるのだが。「美しい」ということばを言っている場合ではない、と。
 石毛の書いている「ことば」と、そういう揺らぎを誘い出す。結論があるわけではないというか、もし結論とか意味というものがあるとすれば、そうやって揺らいでいる「ことば」と「肉体」の関係が「現実」であるということだろう。

戦火の間隙をぬって 危険な仕事に
われを忘れて 働いている女の子を
髪はボサボサで 片腕をもがれた幼い弟を連れて
花と水を 売り歩いている女の子を
服は ところどころ破れて シミがめだつ
「なんかこう、胸がつかえてしまうね」
彼は最後に
「パレスチナの虹を 必ず見に来いよ!」
と 書いて遺したのだ

 読めばわかることだが、彼が書き残したのは虹だけではない。「片腕をもがれた幼い弟を連れて/花と水を 売り歩いている女の子」も書き遺したのだ。それは、やはり「虹」なのだ。その「地上の虹」を見ることができる肉体だけが、ほんとうに彼が見た「虹」を見ることができる。
 「肉体」と「ことば」とはそういう拮抗した戦いを生き抜いている。

明日の花をみるように 姉弟ふたりが
陽炎の中から 爆風の上空に架かった虹を
いたいけな眼で教えてくれた
そのとき彼は 虹の天橋をわたって
荒ぶる故郷の彼方へ そっと消えたというのだ。

 「美しい」と言ってはいけない。しかし、私の知っている「ことばの肉体」は「美しい」と言うしかないのだ。言った後で、それを毎日少しずつ修正していくしかないのである。きっと修正し終わることができないのだが。
 9・11の砕け落ちるビルを、噴水のように美しいと思ったことばを修正できることがないのと同じように。
 私は矛盾している、と言うしかない。
 最果の詩を読んで、そのことばを読んで、私は矛盾しているとは考えないが、石毛の詩、そのことばを読むと、しきりに私は矛盾していると感じてしまう。

 

 

 

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アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)

2022-04-24 10:52:01 | 映画

アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)(2022年04月23日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 アスガー・ファルハディ 出演 アミール・ジャディディ

 この映画がいちばんおもしろいのは、「事実」を知っているのが主人公と観客だけであるということだ。登場人物は大勢いる。主役は借金で刑務所にいる男。愛人がたまたま金貨の入ったバッグを拾う。それを換金して借金を返そうと思う。しかし、良心がとがめて、バッグを落とした人を探し、返すことになる。そして、実際に返すのだが、このことが「報道」されると、だんだん話がこんがらがってくる。金貨を返したというのは、ほんとうか。だれが、その金貨を見たか。噂(ねたみ?)が噂を呼んで、SNSを通じて、どんどん「疑い」が広がっていく。金貨を見た人が主役と愛人と、主役の周辺のわずかな人しかいない。噂を否定する「根拠」がないのだ。
 で、この映画で考えさせられるのが、この「事実」に対する向き合い方なのだ。なぜ、こんな不思議な映画が成り立つかといえば、「コーラン」を信じる人の「人間観」が影響している。コーランは神と人との「一対一」の契約である。その「一対一」の「直接性」が人間関係に影響している。簡単に言うと、大金を拾ったら、日本人なら警察に届ける。この映画の主人公は、そういうことをしない。直接、落とし主を探し出し、直接、拾った金を返す。「一対一」なのだ。「一対一」だから「証拠」はいらない。しかし、「証拠」を残さないから、第三者はどこまでも疑うこともできる。人間は「疑う生きもの」なのである。映画の中で、「神に誓って」ということばが出てきたかどうか、ぼんやりして聞き逃したが「息子に誓って」ということばを主人公は言ったと記憶している。これは「息子との一対一の信頼関係」の延長線上のことばとして「事実」を言うということ。私のことばが間違っているなら、その影響が自分の息子に及んでもいい、ということである。日本の「経済関係」で言えば「連帯保証人とし息子を差し出す(古いことばで言えば、人質として息子を差し出す)」くらいの意味がある。この「一対一」の信頼関係は神との契約の引写しである。だから、それを壊すことは、コーランを信じている人には神との関係を裏切ることであり、「罪」であり「恥」である。この映画には何度も「恥」とか「名誉」ということばが出てくるが、それは「神との一対一の関係」を裏切ることは人間にとって「罪」であり、同時に「恥」でからである。この「恥」は人間に対してというよりも神に対する感覚の反映なのである。そういうことが、ぐさりと刺さってくる映画である。
 で。
 ここからが、さらにおもしろい。この「一対一」の関係は、マスメディアによって(テレビによって)、「一対多」の関係に変わる。正確に言うなら「一(主人公)対一(テレビ)対一(視聴者=多数)」。「テレビ」は媒介だから、それは「主人公(一)対視聴者(多)」お変わってしまう。「一対一」なら「説得」できるが、「一対多」の状況では説得は非常にむずかしい。ひとりが多くの人に対応していられない。さらにややこしいのは、テレビ取材に応じているときは、まだ「主人公対テレビ」という「一対一」だったののが、現代の「メディア」は最初から「多」であり「多」のそれぞれが「一」であるということだ。SNSがわかりやすいが、「発信」はだれでもできる。だれが「取材」し、だれが「発信」しているかもわからない。そしてその「発信回数」には制限がない。(テレビの場合は、同じことを何度もくりかえし放送できない。)多く発信すれば、それが大多数になる。金を返した男は正直者だという発信が一回。それに対して男は嘘をついているかもしれない、という疑いが百回。そのとき、それを見た人は回数の多い方を信じてしまうことになってしまう。疑いを信じる根拠を、そのSNSを見た人は持たないからである。
 さらに、その「情報」が「ことば」だけである場合(金貨を返した)と、「映像」がある場合(男が、金を貸した男を殴っている)を比較したとき、「映像」の方が強く印象に残る。どんな行動にも「脈絡」があるのだが、「映像」は脈絡を無視して、男が金貸し男を殴っているという「瞬間的事実」だけをつたえる。殴ったのには「事情」があると「ことば」で言っても、それは通じないし、それを「聞かせる」ということができない。
 コーラン社会を支えていた「一対一」という基本的な「事実の場」がSNSの発達で壊されてしまっている。「事実」の特定ができないようなところにまで人間を追い込んでいる。

 ここから映画を離れて、私はこんなことも考えた。いま、世界の話題(ニュース)はロシアのウクライナ侵攻である。連日、いろいろなニュースが「報道」されている。それぞれの「報道」が「事実」を主張している。
 だが、「報道」されていることは、ほんとうに「事実」なのか。これを語れるのは、戦争で死んだ人だけである。だれによって殺されたのか。知っているのは死んでいる人だけであり、問題は、死んだ人は「証言」できないことである。
 こんなことがあった。
 私はフェイスブックを通じて、ウクライナに何人かの友人がいる。会ったことはなく、フェイスブックで「動向」を知っているだけの友人だが。その一人が、戦争がはじまってすぐ、ウクライナ兵士(たぶん)と一緒にいる写真を掲載していた。そのうちの一枚は友人の住んでいる家のなかである。家の仲間で兵士が入ってきている。その写真には「これで安全が確保できた。歓迎」というようなことばが書かれていた。あっと思った。どうしようか悩んだ。次の日、ふたたび友人のページを訪れると、その写真は削除されていた。ウクライナ兵が削除するよう要求したのか、友人が自主判断し削除したのか、あるいはフェイスブックが削除したのか、わからない。私は推測しか書くことができないのだが、もしその写真をロシア側が入手すれば、ウクライナ兵の居場所が特定できる。これは、戦争をしているときはまずいだろう。その居場所が、いわゆる「前線」ではなく、「前線」から遠く離れた都市の真ん中であるとなれば、なおさらである。
 友人は「歓迎」と書いていたが、友人が兵士を呼んだのか、それとも兵士が押しかけたのか。それも「事実」がわからない。友人が「歓迎」と書いたのか、書かされたのか、それも本人しかわからない。いま注目を集めているマリウポリの製鉄所。そこに避難している「民間人」(という表現を、読売新聞はつかっていた)は、そこに避難してきたのか、それともそこに集められたのか。その「事実」も本人にしかわからない。もし、全員が死んでしまえば、「事実」を証言できるひとはいない。「状況」から「事実」を推定することしかできない。
 「情報網」を持たない私でさえ、ウクライナの友人の家にウクライナ兵がいた(ロシアよりと推測され、調べられたのかもしれない)ということを「知っている」。証拠の「写真」を見た。しかし、「事実」については、わからない。友人に聞きたいが、もしかすると、メールなどはすべて検閲されているかもしれないと思うと、聞けない。友人がどうなるか、という保証がない。私でさえ、そういう「情報」をももっているのだから、世界には、どれだけ「情報」があふれているかわからない。私は、その膨大な情報のなかから選択された新聞のニュースを読んでいるだけである。それが「事実」であるかは、よほど慎重に見極めないとたいへんなことになる。

 この映画では「美談の男」は、結局、社会に受け入れられない。「美談」を信じてもらえない。人は、他人を称賛することよりも、他人を批判することで自分を正当化することの方を好むのかもしれない。「美談」を実行することはむずかしいからである。
 ラストシーン。
 とても美しい。男が刑務所に帰っていく。入れ違いに、一人の男が刑務所から出て行く。妻が迎えに来ている。その「一対一」。信頼はいつでも「一対一」なのである。それを見る男の表情はおだやかである。彼は、神との「一対一」の契約を守ったのである。知っている人は少ない。しかし、神は絶対に知っている。そういう安らかさである。そして、彼には、息子と愛人がいる。彼らとも「一対一」の信頼がある。
 私は神の存在を信じているわけではないが(神はいないと考えているが)、このコーランにもとづく世界観は、これからの世界(SNSが変えていく世界)との向き合い方の、ひとつの「指針」を示しているようにも思える。
 主人公の苦悩がどんどん深まるというよりも、主人公の「一対一」の関係がどんどん多数のひとのなかで希薄化されていく感じをとらえた映像、つねに周囲に男の存在が分散されていく感じの映像が、現実世界のあり方を丸ごととらえていて、とてもよかった。この分散、拡散された世界から「一対一」へどう引き返すか。これはコーランを信じている人だけではなく、すべての人間の共通の課題である。

 

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』

2022-04-23 10:51:49 | 詩集

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』。どこから書こうか。「惑星」から書き始めよう。だが、「惑星」から書く始めるのは、あまりにも私の「都合」という気がしないでもない。書きやすいと感じるから書くのであって、この詩がこの詩集でいちばんいい作品、あるいはこの詩集の特徴をあらわしているかどうかはわからない。私は、まだ全編を読んだわけではない。しかし、「惑星」を読んで、感想を書いておきたいと思ったのだ。感想というのは、日々かわるから、そのときに書かないと違ったものになる。

ぼくの体に住んでいるきみはぼくよりもあの子のことが大切で、
ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。
ぼくは突然自分が惑星になってしまったような、
きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、
その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。
ぼくの心をきみにあげて、50億年が経過している、
きみは知らない、ぼくの中に暮らしていること、ぼくの考えていること、
きみは知らない、きみの恋だけのためにぼくの肉体はあり、
この星はあり、
きみのためなら何もかもが孤独になっていくのだと。

 「ぼく」のなかの「きみ」を、「もうひとりのぼく」と言い換えてしまえば、いわゆる自己対象化ということになるかもしれない。しかし、この詩は、そういう感じがしない。なぜだろう。「ぼく」が一方的に「きみ」のことを語るのに対して、「きみ」は反論も何もしない。つまり、「ぼく」と「きみ」の対話がない。対話がないから「矛盾」がないかというと、そんな簡単にも言い切れない。

その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。

 もし第三者が「ぼく」に接近してきたら、そしてその接近が「ぼく」をかえてしまうかもしれないとわかったら、「ぼく」は第三者を殺す。「ぼく」は「きみ」と対立したくない。分裂したくない。あくまでも「あの子が好きなきみ」を守ろうとしている。「きみ」が、もうひとりの第三者である「あの子」を好きだと知って、それを守ろうとしている。
 このとき何が起きるか。
 「ぼく」と「きみ」の「対話」は「矛盾」をひきおこすと私は先に書いた。「矛盾」とは何かが凝縮して、凝り固まって、動かなくなることに似ている。
 でも、そういうことは起きずに、逆に「拡散」のようなことがおきる。「ぼく」は突然「惑星」になる。これは「宇宙」といいかえてもいいのかなあ。「宇宙」と思わず書いてしまうのは、「惑星」ということばだけではなく、その「拡散」が「50億年」という「時間」の拡散(拡大)を含んでいるからである。突然、「ぼくの体」が「ぼくの体」の大きさを超えたものになる。ふつうにいう「矛盾」が、いわば、「ぼくの体のなか」(あるいは、こころのなか)に起きるのと比べると、その違いがわかる。
 「矛盾」が不透明で、何か面倒くさいものなのに対して、この「拡散」は不透明ではない。むしろ、透明すぎる。「ぼく」と「きみ」の自己分裂、あるいは二重化が、とても透明になっていく。そのなかで、ことば(思想/こころ)が自由になっていく。
 何を書いてもいい。何を書いても、それが「真実」になる。
 その「真実」を生み出す透明感(透明の中にある、二重性、重なり、ゆらぎ)が、とても美しい。重くなく、軽くて、輝かしい。

きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、

 この「涙の川」の比喩は、歌謡曲なら重たく暗くつらいが、最果の場合は、重たくも暗くもない。つらくないかどうかは、わからない。いや、暗くない、重くないというのも、実は、単に私の感覚であって最果にとっては違うかもしれない。なんといっても、そこから「殺意」も育っていくのだから。
 でも、何か、透明なのである。
 そして、この透明を最果は「孤独」とも呼ぶのだが、この定義は、何か谷川俊太郎の「孤独」に似たものがある。最果は最果であり、谷川俊太郎ではないし、谷川俊太郎を超えていく存在なのだと思うが、そういう「先人」を越えていくときの感じが谷川俊太郎にも似ているなあとも思う。こういう呼び方は正しくないことは知っているが、ちょっと「新しい谷川俊太郎」と呼んでみたい気になるのである。「新しい谷川俊太郎」という仮説を立ててことばを動かしていけば、最果について、もっと簡単にというか、手抜きをして「批評」が書けそうな気がするのである。
 だから、そういうことは封印して……。

 さて。
 自己二重化、自己対象化ということに戻って、ちょっと考え直してみる。テキトウに、ずれて考えてみる、ということである。
 人間の「二重化」というと、「体とこころ」、さらには「こころ(精神)とことば」のように、いろいろなパターンを想定できる。
 最果は、まず「ぼくの体」と「きみの考え(好き、というのは感情かもしれないし、衝動、欲望かもしれないが、最果は、「ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。」)と「考え」ということばで「体」と「考え」を向き合わせている。
 これは、いわゆる「我思う、ゆえに我あり」を思い起こさせる。「体と精神(考え)」の二元論。そのなかで「考え(精神)」を重視する思想。重視するしないは関係なく、単に「二元論」ですませていいのだけれど。
 で、このとき、最果は、なぜか「肉体」ということばをつかっている。一行目と二行目では「ぼくの体」だったのに、「ぼくの肉体」にかわっている。「ぼくの体」と書いても、たぶん、多くの人は何とも思わないと思う。
 なぜ、最果は「肉体」と書いたのか。
 これは、この詩一篇からだけでは、たぶんわからない。最果は「体」と「肉体」をどうつかいわけているか。簡単に言うことはできない。
 わかるのは、ただひとつ。書いているうちに「体」が「肉体」になった。「体」ではうけとめられないものに最果が向き合ったと言うことだろう。この突然の「肉体」ということばは、この詩のなかで、かなり異質である。「透明」というよりも不透明である。(なぜ、「肉体」ということばをつかったかわからない、というのがその証拠である、というとちょっと強引になってしまうが……。)そして、不思議なことに、この「不透明な肉体」の存在によって、「好き/考え/心」が「孤独」に結晶していく感じがする。それは「孤独」を生み出す「核」なのだとわかる。

 ふーん、そうなのか、と思いながら、私はふたたび、この詩を読み返す。自分で書いたことを「ふーん、そうなのか」というのも変だが、もう一度読み返したくなるという意味である。

 

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Estoy loco por espana(番外篇163)Obra, Calo Carratalá

2022-04-22 10:23:09 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá

La exposición de Calo Carratalá comenzará pronto. (28 de abril, inauguración).
Estas son unas fotos de la obra que se está realizando para la exposición.
Pero......me han sorprendido muchisimo.
Está pintando directamente en la sala de exposición.
No lo sé, porque no pinto, pero el artista normalmente pinta en su estudio y lleva su trabajo a la sala, no?
Pero Calo pinta directamente en la sala.
Creo que es cierto que así se puede ver el equilibrio con las otras obras.
Su trabajo tiene una perspectiva única.
Este proceso de producción puede influir mucho en su originalidad, yo creo así.

Es muy interesante.

Calo Carrataláの展覧会がもうすぐはじまる。(4月28日、開会)
これはその展覧会のための作品制作風景なのだが、私は驚いてしまった。
会場で、直接、描いている。
私は絵を描かないのでわからないのだが、ふつうは、アトリエで描き、作品を会場に運ぶ。
でも、彼は直接会場で描く。
確かにこの方が他の作品とのバランスがわかると思う。
彼の作品は、遠近感が独特だ。
そのオリジナリティーには、この制作過程も強く影響しているのかもしれない。

とても興味深いので、紹介したくなった。

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菅沼きゅうり「譲れないもの」ほか

2022-04-21 16:00:06 | 現代詩講座

菅沼きゅうり「譲れないもの」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2022年04月21日)

 朝日カルチャー講座で、菅沼きゅうり「譲れないもの」(「ココア共和国」2022年4月号)の作品と受講生の作品を読んだ。
 菅沼の作品は、第7回YS賞の受賞作である。「譲れないもの」の全行。

私はここ最近、オートミールに
頼りきっている。そして
冗談抜きで、カロリーとかもかなり
気にしている。
いわゆるダイエットってヤツをやってんの、と私は言う
知らなかったでしょ、そのこと
へえそう、とヨーコ
かなりきついわ。
こんなことしてたら、冨永愛だって
まいっちゃうんじゃないかしら、あるいは
ジジ・ハディットだって、と私
やめちゃえばいいじゃない、
やせすぎで死んじゃうかもよ。
それってかなりバカじゃなあい? とヨーコが言う
そうかもしれない、と私は言う
でも絶対にやめられないわ、と私は思う

そう、なにがなんでも
やめるわけにはいかないのだ
それは私にとって譲れないもの。
なぜならカレが、私が今、夢中に
なっているあのカレが
スラっとしててクールな子が好みだなんて
言うものだから。
ちょうどこの
クソたれのヨーコみたいな女のことを

 受講生の反応は。「エッセイか小説みたい」「好き。勢いがあって、歯切れがいい」「弱いところと強いところがある」「私には書けないし、書かない」「昇華されていない」「こういう会話は、いつでもどこでもしている」
 では、何歳くらいのひとが書いたと思う?「二十代後半かなあ」「冨永愛が出てくるから、冨永愛よりは年上ではないか。若い人は冨永愛をライバル視しない」
 あ、びっくりした。
 受講生は、いままで講座で読んできた詩とは違った世界なので、かなりとまどったようだ。私は、この作品が気に入っている。女性がよくする「会話」が書かれているらしいが、この詩は「会話」だけで成り立っているわけではない。書かれているが「話されたことば」と「話されていないことば」がある。一連目が「いつもの会話」であるために気づきにくいが(ことばの調子が同じであるために、受講生がつかったことばで言えば「昇華されていない」ために、見落としてしまいそうだが)、後半は「言われなかったことば」(書かなければ、他のひとにとっては存在しないことば)である。別な簡単なことばで言えば「こころの声」である。詩が「こころの声」であると仮に定義すれば、ここにはまさに「こころの声」があふれている。
 なぜ、こころのなかだけに存在し、会話(面と向かってのことば)にならないのか。そこには面と向かって言ってはならないことば(隠しておきたい秘密)があるからだ。

クソたれのヨーコ

 この最後の一行にあらわれた「クソたれ」。これはヨーコに向かっては言えない。前半を読むと私とヨートは「親友」のように見える。ダイエットの相談をしている。これは一連目には書いていないが、たぶん「恋愛相談」を含んでいる。
 そして、この「クソたれのヨーコ」がおもしろいのは、「クソたれ」という否定後を正直に受け止めるならば、それは「理想」ではない。だれも「クソたれ」になりたいとは思わないだろう。ひとから「クソたれ」と呼ばれたくないだろう。だが、その「否定すべきクソたれ」の、ある部分が私がいまめざしている「理想」なのだ。ここには「矛盾」がある。私は冨永愛やジジ・バディットをめざしているわけではなく(それはたぶん理想の彼方なのだろう)、ヨーコをめざしているのだ。「それってかなりバカじゃなあい?」と私のことを笑っている(否定している)人間をめざしている。
 これから先のことを書き込んでいくと、くだくだと長くなるだけだから書かないが、こういう矛盾を生きている。そして矛盾があるからこそ、そこに書かれていることばが凝縮と拡散をくりかえし、世界を生き生きと輝かせる。このときの「世界」とは主人公の周囲の世界(外界)ではなく、私の内面世界である。こころがいきいきと動いている。菅沼きゅうりがどういう人間か知らない。その姿を私は知らない。しかし、「こころ」は、いまはっきり見たと感じられる。このときの「こころ」とは「心象風景」のことではない。ただ動いている「こころ」である。どこに行くか、それもわからない。不定形の、動くことだけで、存在を告げている「こころ」である。

 受講生の作品のなかに「クソたれのヨーコ」のようなことばはあるか。それを探しながら読んでみる。

流れて  池田清子

白い雲 灰色の雲
間に 澄んだ水色の空

流れる雲にあこがれて
乗って遠くに行きたかった

良い流れにでもいい
悪い流れにでもいい
乗って ひたすら
流れて 流れて

にこっと笑っている
雲に会いたい

 「悪い流れ」の「悪い」がそれにあたるかもしれない。雲が流れる。それに乗って遠くへ行きたい。このときのあこがれは「澄んだ/清い」ものだろう。あるいは「明るい」ものだろう。「良い」に通じることばはほかにもある。「にこっと笑って」も肯定的である。もしこの詩に「悪い流れ」ということばがなければ、池田は、ただ「あこがれ」を生きている人間のように見える。けれども「悪い流れ」と書くことで、何か、「人生」を感じさせる。「良い」と「悪い」があって、そこから「良い」を選んでいるということがわかる。この「悪い」は「クソたれのヨーコ」と同じように、作品全体の「補色」のような働きをしている。
 一連目の「間に 澄んだ水色の空」の「間」と「澄んだ」は「補色」ではなく、ほかのことばを支える「同系色」(静かに他の色を受け止める)感じがある。「水」色から「流れ」が生まれてくるところも自然だ。

air a (2)  緒方淑子

悪意のように伴奏が鳴っていて
唄声が聞こえない

うたってる 唱ってる
夜空に虹(にじ)む白い月を見るように

会っていましょう
覚えていましょう

はい、聴いていましょう

 一行目の「悪意」。突然、否定的なことばからはじまる。歌の「伴奏」は歌を支えるものであって、歌よりも自己主張があってはならない。だが、緒方は歌を聞こえなくするくらいに伴奏が鳴っている、と書く。このときその「伴奏」はへたくそなのか。それともうますぎるのか。つまり、聞いている人は歌を聞くよりも伴奏に聞きほれてしまうのか。緒方は明確には書いていないが、ここでは「唄声」と「伴奏」は、本来のあり方から少しずれている。その「ずれ」は「唄」「うた」「唱」のなかに展開指定。さらに月の傘(月の虹)の二重を感じさせる光景、対話(ふたりでするもの)へともつながっていく。
 伴奏が「善意(歌を支える)」ものに徹していれば、この詩はまた違ったものになっただろう。「悪意」に目を向けたからこそ、この詩は動いている。

自画像  青柳俊哉

 あなたが自画像として描いたものは
 空間を 光とかげで象る
 太陽の 二重(ふたえ)の手 

生成の初め
黒い花の棘
まじわることのない 純粋・単独の閃光が射す
生まれても 脳髄に深くうずいている印
もとめつづけて みたされることのない
わたしたちの 未知の青空

 そして わたしが描いたものは 
 原色を無数に塗り重ねて うすく白い
 月の 美しい空っぽ

 作品の「補色」となっていることばはどれか。「黒い花の棘」と指摘する受講生がいた。私は、「脳髄に深くうずいている印」ものが、この詩の核であると同時に「補色」だと感じた。
 「あなた(実在)」と「自画像(イメージ)」。それを結びつける「描く」という動詞。あらゆるものは「二重」というか、「ずれ」によって認識される。(「ずれ」を青柳は「二重」ということばであらわしている。)「生成の初め(誕生)」と「黒い花の棘(死)」。「太陽」と「月」。「二重」は「まじわらない」ことであり、それは「もとめる」が「みたされない」という動詞(運動)へと動いていく。そのとき、その運動を支える起点が「脳髄」であり、その「脳髄の奥(深いところ)でのうずき」ということになるだろうか。「脳髄のうずき」が、認識のうずきが、世界となって展開する。
 「原色を無数に塗り重ねて うすく白い」はおもしろい。絵の具の三原色は重ねると黒になる。しかし光の三原色は重ねると白になる。そうした違い(ずれ)の中心にあるのが、青柳の場合、「こころ」というよりも「脳髄/精神」かもしれない。「こころ」と「の髄/精神」をわけることに意味がないかもしれないが。

 

 

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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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ワシントン発(情報の読み方)

2022-04-21 11:40:04 | 考える日記
 2022年04月21日の読売新聞(14版・西部版)1面。「露、製鉄所を集中爆撃/マリウポリ 地中貫通弾使用か/「人道回廊」設置合意」という見出しで、マリウポリの現状を伝えている。
↓↓↓↓
【ワシントン=田島大志】ロシアの侵攻を受けるウクライナ当局者らは19日、ロシア軍が南東部マリウポリで、ウクライナ軍が拠点とする製鉄所に集中爆撃を加えていると明らかにした。
↑↑↑↑
 大半の記事がそうなのだが、この記事もワシントンで書かれている。そして、この記事の場合、情報源は「ロシアの侵攻を受けるウクライナ当局者ら」である。「ら」が何を指すかはわからないが、もしかすると「ウクライナ当局者」以外の情報源もあるのかもしれない。「ウクライナ当局者」だけが情報源ならば、わざわざワシントンに行かなくても書けるだろう。日本にいても書けるだろう。なぜ、ワシントン発なのか。
 気になって、月曜日からの一面(朝刊)のトップ記事を見てみた。18日(月)ロンドン=深沢亮爾、19日(火)リビウ(ウクライナ西部)=倉茂由美子、ワシントン=横堀裕也、20日(水)ワシントン=田島大志、21日(木)ワシントン=田島大志。ウクライナで書かれた記事もあるが西部の都市からである。しかもワシントンの記者との「合作」である。どこまでが「現地取材」なのかわからない。
 こういう記事は注意して読まないといけない。倉茂由美子はウクライナ語かロシア語で取材したのかもしれないが、ロンドンやワシントンの記者はウクライナ語、ロシア語で取材したわけではないだろう。
 そこで、どんなことが書かれているか。(番号は私がつけた。途中省略がある。)
↓↓↓↓
①ウクライナのミハイロ・ポドリャク大統領府顧問は19日、ウクライナ軍と武装組織「アゾフ大隊」の兵士ら約2500人が拠点とするアゾフスタリ製鉄所を狙い、露軍が地中貫通型爆弾を使用したと指摘した。
②同爆弾は「バンカーバスター」と呼ばれ、地下に貫通後に爆発し、地下施設の破壊が可能とされる。製鉄所の地下施設には、兵士のほか子供を含む多くの一般住民も避難しており、人的被害の拡大が懸念される。
③ウクライナ軍幹部とされる男性は20日、SNSで、「我々は持ちこたえても数日だ。敵の人数は我々の10倍いる。ここには民間人が数百人いる。安全な第三国に出してほしい」と国際社会に救助支援を訴えた。
↑↑↑↑
 ①は「ウクライナのミハイロ・ポドリャク大統領府顧問」と情報源を公開している。だが、すべて正しいかどうかはわからない。読売新聞は慎重に、末尾で「指摘した」という表現をつかっている。読売新聞が「確認した」わけではない。だからこそ見出しにも「地中貫通弾使用か」と「断定」をさけて「か」という疑問をつけくわえている。
 ②は情報源が明らかにされていない。「バンカーバスター」の攻撃能力についても「可能とされる」とあいまい。「人的被害」のことも「懸念される」。
 よくわからない。このよくわからない「人的被害」を説明しているのが③である。
 ③の情報源は「ウクライナ軍幹部とされる男性」。ほんとうに「軍幹部」かどうかわからない。さらに発言の舞台が「SNS」。この情報と①の情報を組み合わせると、敵(ロシア軍)の人数は2500×10=2万5000人ということになる。もっとも、①の2500人には「アゾフ大隊の兵士ら」と「ら」を含んでおり、その「ら」が③の「民間人数百人」を指すのだとすれば、(2500-数百人)×10=2万人前後か。
 人数そのものもわからないが、もっとわからないのは「民間人」の気持ちである。「民間人」は何も発言していない。発言しているかもしれないが、その「声」は取材されていない。
 で。
 ここからは、私の想像。もし私がウクライナ人であり、マリウポリに住んでいたとする。ロシアが軍人か民間人か区別せずに攻撃してくる(つまり、虐殺される)と感じたとき、どうするか。
 ⑤製鉄所は地下に避難できるから安全だ。アゾフ大隊が守ってくれるから安全だ。製鉄所に避難しようと考えるか。
 ⑥ロシア軍はアゾフ大隊が拠点としている製鉄所を攻撃してくる(攻撃対象は民間人ではなく兵士なのだから)。製鉄所は危険だ。わざわざ攻撃されるところへ避難するようなものだ。なるべく製鉄所から遠くへ避難しようと考えるか。
 私なら⑥を選ぶ。
 それは、もし私がウクライナ兵だったら、戦闘に参加できない民間人はなるべく自分のそばにいてほしくない、と思う。民間人を守るために自分を犠牲にするのは、かなりむずかしい。それが兵士の仕事だとしても。民間人がいなければ、自分自身の安全を守ることができる。もっと早く逃げることができる。でも、民間人がいては逃げるわけにはいかない。
 ここから逆に、民間人を楯にすれば、ロシア軍は攻撃ができない。民間人を殺害したと非難されてしまうからだ。ここから、民間人を楯にしよう、という発想が生まれるかもしれない。
 だからこそ、問題。
 製鉄所にいる民間人は、アゾフ大隊が守ってくれるから安心だ、そこに避難しようと考えたひとだけなのか。アゾフ大隊は、どうして民間人を受け入れたのか。「ここは安全だ、絶対にみんなを守る」と呼びかけたのか。来るな、と言ったが、民間人が避難してきたので受け入れたのか。
 どんなときでもそうだが、すでにそこに「ことば」が存在するとき、その「ことば」がほんとうかどうか疑うのはむずかしいし、もしそこに嘘があるのだとしたらどんな嘘なのかを突き止めるのはもっとむずかしい。
 私は、ただ疑い続ける。わからない(知らない)ことはわからないままにしておいて、わかることを手がかりに自分を動かしてみる。
 製鉄所がロシアからの標的になっていると知っていて、それでもアゾフ大隊を信じて製鉄所に避難するか、危ないと感じて遠く離れるか。この問題を考えるとき、「民間人」に製鉄所がロシアから狙われている危険な場所であるという情報を「民間人」にどれだけ知らせるかも問題である。良識的な兵士なら、ここはいちばん狙われているところ、ここへ避難するではなく、ほかへ逃げろというかもしれない。さらに、民間人の命を守るのが兵士の仕事。このままでは民間人に犠牲者が出る。それは避けなければならない。だから投降しよう(降伏しよう)というかもしれない。どうも、読売新聞の記事を読む限りは、民間人の命を優先して考えるという兵士はアゾフ大隊にはいないらしい。「民間人が数百人いる。安全な第三国に出してほしい」という前に、民間人にここへ来るな、という呼びかけがなぜできなかったのか。あるいは、いまなぜ、民間人を守るために投降するといえないのか。
 私の勝手な想像だが。
 「民間人を死なせてはいけない。ここはいったん投降しよう。捕虜になって反撃の機会を待とう。ウクライナは必ずロシアに勝ち、奪われた大地を取り戻す」というメッセージとともに製鉄所から出てくる映像をSNSで発信すれば、世界の多くの人はウクライナの戦いをいっそう支持するだろう。NATO軍はどう思うか知らないが、一般市民は。
 現代は「情報戦」の時代なのだから、「負ける」ときこそかっこよくアピールすれば、「勝てる」はずである。
 絵空言の想像かもしれないが。
 
 
 
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なぜ、ベネズエラ?(情報の読み方)

2022-04-19 17:55:31 | 考える日記

 2022年04月19日の読売新聞(14版・西部版)外電(国際)面に、「ベネズエラ人道危機/政情不安600万人国外へ」という見出し、記事がある。いま、世界中がウクライナの人道危機に注目している。読売新聞も1面で「露、300か所にミサイル/標的拡大 リビウ死者7人」とトップ記事で報道している。ウクライナの状況よりも伝えなければならないベネズエラの問題とは何だろうか。
↓↓↓↓
 南米ベネズエラから国外に逃れる避難民がここ数年急増し、人口の2割となる600万人に達した。世界有数の産油国にもかかわらず、政治的、経済的な混乱で暮らしが困窮。国際社会は支援に及び腰で、「忘れられた人道危機」になりつつある。(チリ北部コルチャネ 淵上隆悠)
↑↑↑↑
 「忘れられた人道危機」、つまり「忘れてはならない」という警告なのだが。
 それはそれでいいが、私はこのルポを読みながら、まったく違うことを考えた。このルポからは、ベネズエラの「今の危機」というよりも、「これからの危機」、もっとあからさまにいえば「ウクライナ以後の危機」が起きることを予告している。書いた淵上隆悠は意識していないだろうが、今後起きることが、予告されている。(もちろん淵上隆悠の狙いは「予告」ではなく、ベネズエラ政権への批判なのだが……。)
 このルポのいちばんの問題点は「世界有数の産油国にもかかわらず、政治的、経済的な混乱で暮らしが困窮」と書きながら、ベネズエラの「現実」が書かれていない。ベネズエラから脱出した難民をチリで取材して書いていることである。チリはベネズエラから遠い。なぜ、チリまで? ということも書いていない。
 逆に、
↓↓↓↓
 昨年、チリ警察が摘発した不法入国は前年の2倍強となる1万6879件で、大部分をベネズエラ人が占める。殺人に加担し逮捕された例もあり、国内では治安悪化への懸念が高まる。
↑↑↑↑
 という奇妙なことが書かれている。難民支援というよりも、これでは、難民によって遠く離れたチリでさえも「治安悪化」が起きている。大問題だ、というわけだ。これは、どうみても「難民」の立場に立ったルポではないね。
 では、何が狙いなのか。
↓↓↓↓
 ベネズエラは、14年間続いたチャベス政権を13年にニコラス・マドゥロ大統領が継ぎ、反米左派路線が維持されている。19年、独裁的な政権運営に反発した野党指導者が暫定大統領への就任を宣言するなど、避難民急増の背景には政治の混乱と経済の破綻がある。
↑↑↑↑
 マドゥロの「反米左派路線」が原因であると読売新聞はいいたのだ。マドゥロと野党との対立が「政治の混乱と経済の破綻」を引き起し、それが難民を急増させている。
 政治的対立のことは具体的に書かずに、読売新聞は、こう書いている。
↓↓↓↓
 原油は世界最大の埋蔵量を持ちながらも、米国などの制裁で輸出が厳しく制限されている。ハイパーインフレで物価上昇率は18年に10万%超に達した。1日2ドル(約250円)以下で暮らす「極度の貧困層」が、国民の76・6%を占める。
↑↑↑↑
 この部分を落ち着いて読めば、「経済破綻」が与野党の対立ではなく、アメリカの経済制裁が原因だとわかる。「世界最大の埋蔵量」の石油を抱えながら、輸出が制限されている。そのためにベネズエラには金が入ってこない。これが「貧困」の最大の理由である。版アメリカ政策がいけないのだ、と読売新聞はいいたいのだ。しかし、マドゥロが石油を売った金を独占しているわけではないのだ。石油があるのに売れないから貧困が拡大しているのだ。原因は、むしろアメリカのベネズエラ敵視政策にある。そう書かずに、あくまでもマドゥロに責任を負わせる。

 では、なぜ、いまこの記事が書かれたのか。
 これからは、私の「推測/妄想」である。ロシアの石油、天然ガスの「輸入」をアメリカ主導で、世界中が拒んだ。どうしても石油が足りなくなる。この石油不足を解消するにはベネズエラの石油に頼るしかない。でも、ベネズエラに対しては、やはり「経済制裁対策」がとられている。どの国も「輸入」できない。
 どうすればいいか。
 マドゥロの「反米左派路線」をやめさせる必要がある。マドゥロを追放する必要がある。アメリカの資本主義にそった形でベネズエラの石油を流通させる必要がある。
 でも、どうやって? 「難民」問題を取り上げ、マドゥロを批判する。マドゥロは、ベネズエラのプーチンだ、という「見方」を世界に広める。ウクライナの難民と重ねて報道すれば、マドゥロへの批判が高まる、ということを狙っている。
 でも、どうして、アメリカはマドゥロの「反米左派路線」に経済制裁を加えることになったのか。
 私はそういうことをきちんと調べたわけではないからテキトウに書くのだが、ベネズエラが「世界最大の埋蔵量の石油」を周辺国に安く売ってしまうと、諸外国のアメリカへの依存度が低くなってしまう。アメリカの言うことを聞くより、ベネズエラの言うことを聞いた方が石油が安く手に入る。脱アメリカ追随。この方が経済発展にも役立つ。中南米諸国がそう考えるとき、ベネズエラの「地位」が相対的に高くなる。アメリカの価値が相対的に下がる。これをアメリカは許せないのだ。ベネズエラに金もうけをさせるわけにはいかない。これが、アメリカの「狙い」である。
 これは、アメリカのロシア対策も同じでである。ロシアがパイプラインを建設し、ヨーロッパへ天然ガスを安く売る。日本へも安く売る。ロシアとヨーロッパの経済交流が活発になる。つまり、アメリカがヨーロッパで金を稼ぐ機会が減る。それを封じるための「経済制裁」。アメリカの利益を優先させる。最終的には、ロシアの石油、天然ガス、小麦などの「資源」の「流通経路」をアメリカ資本主義の下に組み込み、支配する、ということろまで進めたいのだと思う。

 ここからである。
 アメリカ主導の「経済制裁」がロシア(ウクライナ)で成功すれば、次は、南米で同じことが起きる。ベネズエラへの「経済制裁」をさらに強化し、ベネズエラの「石油」をアメリカの支配下に押さえる。アメリカが、その「流通経路/価格」を決定する。そういう世界をアメリカは狙っている。
 私は、そこまで「妄想」してしまう。
 アメリカが狙っているのは「アメリカ資本主義」の「世界制覇」である。すべての「経済」をアメリカ資本主義のもとに統一する。
 だから、いまアメリカの最大の競争相手である中国には、台湾問題をちらつかせて、脅しをかけている。「台湾有事」の「前哨戦(予行演習)」が「ウクライナ有事」である。そして、「台湾有事」をすぐに起こしてしまうのはかなり危険なので、ウクライナの後は、ベネズエラで「予行演習」をしてみよう、というのがアメリカの狙いである。そのために、自民党べったりの読売新聞を通じて、ベネズエラを「難民」を生み出す問題国としてアピールし、それを解決するという「名目」作り上げようというのである。
 ロシア制裁(ロシアを国際経済から追放)のあとはベネズエラ追放である。次に問題が起きるのは、「南米」である。そのことを読売新聞の記事は「予告」している。中国も問題だが、「地理的」にもっとアメリカに近いベネズエラ。そこをまず支配し、体制を固めた上で、最終的に中国をも支配する、というのがアメリカの狙いである、ということを読売新聞は教えてくる。
 読売新聞は、記事を、こうしめくくっている。
↓↓↓↓
UNHCRによると、ベネズエラ避難民を保護するため、22年は7億8000万ドル(約980億円)が必要だが、これまでに集まったのはわずか8%。国際社会では、ロシアの侵攻に伴い、ウクライナ避難民を受け入れる動きが広がる。
 「私たちを忘れないでほしい」。自由と豊かさに向けて逃避するパルガスさんの叫びが耳に響いた。
↑↑↑↑
 チリまで脱出した「難民」によりそうふりをしている。ベネズエラの「自由と豊かさ」は、アメリカが経済制裁さえ取らなければ、可能だったかもしれないということを指摘せず、アメリカの主張をそのまま垂れ流している。ベネズエラが、自由に石油を輸出さえできれば、経済は急激に改善するだろう。そういうことに目をつむっている。
 世界中で石油が高騰するいま、アメリカがいちばんほしいのはベネズエラの石油であるということを間接的に「証明」しているともいえる。金儲けのためなら、なんでもする。それがアメリカ資本主義だということを、忘れてはならないと思う。
 資源をもたない日本の物価はこれからどんどんあがる。円安も加速する。「資源大国」のアメリカだけが、もうかる。これが、これから永遠に続くのだ。

 

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荒川洋治「真珠」

2022-04-19 00:09:46 | 詩(雑誌・同人誌)

荒川洋治「真珠」(「午前」21、2022年04月25日発行)

 荒川洋治「真珠」を読む。感動した。そして、この感動は、もしかするとロシアがウクライナに侵攻したあとの「ことば」の状況が影響しているかもしれないと思った。たぶん、それ以前なら、こんなに感動しなかったと思う。
 「真珠」に、ではロシアのこと、ウクライナのことが書いてあるかというと、そうではない。喫茶店に、平日の四時ごろ、八十歳を過ぎた男女が入ってくる。男が小声で一方的に話している。そういうことが書いてある。こんなふうに。

野球の話では広島の新星・末包、
巨人の岡田とつづき 「使いものにならない」
選手の予想に飛び、根尾、今年もどうかとなり
転じて昔、西武から中日に移ったコーチ某は
現役で二年しか投げなかった、いつだったか
七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて、など
異常なこまかさが世の根幹となる

 この「異常なこまかさが世の根幹となる」という批評が、とても鋭い。
 私は野球を見ないから、知っているのは、いまなら大谷くらいで、荒川が書いている選手など「ほんとう(事実)」がどうかもわからないが、世の中を支えているのは、たしかに荒川が書いているように「こまかな」事実なのだ。
 いま、新聞(私は、新聞しか読まない、テレビは見ない)では、ロシアの侵攻、ウクライナの悲劇が連日書かれているが、その報道には「こまかさ」がない。つまり、記者が自分で見た「事実(批評)」がない。だれが発表したかわからないことばが、「伝聞」として書かれている。いま、記事を書いている記者は「戦争」を知らないのだ。その場に言っていないだけではなく、「戦争」について語ったことばを聞いたことがないのだ。あるいは、読んだことがないのだ。たとえば大岡昇平の「レイテ戦記」とか。だから、「戦争」をどう書いていいかわからない。記者自身の「ことば」を書いていない。記者が入手した「ことば」がだれかの操作によって「整理」されているとしても、その「操作」を見抜く力がないから、そのまま書いてしまう。そのことに気づいていない。
 荒川が書いている老人の「ことば」は固有名詞が主体で、ほとんど何も書いていないなように見えるが、たとえば「七回裏に逆転満塁ホームランを浴びて」という具体的な事実を彼は見ており、その記憶が「批評」として働いている。無意識に、「コーチ某」をどう見ているかを語っている。そのために、このだれだかわからない老人が、生きている人間としてことばのなかを動いている。
 荒川は、こういうこと、自分が見て、それに対して自分なりの批評をする(自分のことばをもつ)ということが、「世の根幹」だと言っている。ここに、荒川の「ことばへの信頼」が明確に書かれている。
 たぶん、荒川は、新聞に書かれているロシア侵攻に関する報道、「非個性」の「ことば」を信頼していないだろう、と思う。そう信じさせる「ことばの落ち着き」がこの詩のなかにある。

突然、日本社会党の委員長のことになり
片山哲からだよ、鈴木茂三郎、河上丈太郎、浅沼稲次郎、
さらに佐々木更三(宮城の農村の出だよ)、成田知已とつづけ
江田三郎はね、委員長代理で終わったんだね、ほら
江田五月のお父さんだよ、国民服の北山愛郎もいたな、
まあ 昔から 絵があった
社会党は数の上ではたいしたことはなかったが、愛敬があったね、

 この「批評」を支えているのは何か。「体系」である。この詩の登場人物は、彼のなかに「体系」をもっている。「体系」があるから、社会党の委員長の「歴史」がきちんと整っている。そして、「体系」があるからこそ、その「体系」からはみ出して動くものもはっきり見ることができる。「絵がある」「愛敬がある」。こういうことは、社会党の歴史、政治の歴史では、どうでもいいことだろう。しかし、世の中を動かしていくのは、「歴史」から省略されてしまった「絵」とか「愛敬」とかの感覚である。そしてそれもまた非常に強い「根幹」である。ある人間が、別の人間に対して持つ「批評」の「根幹」。譲ることのできない感覚。どうしても動いてしまう感情。人間に信じられるものがあるとしたら、それは「知識」ではなく、こういう自然な「感情」だろう。
 こういう自然な感情が、ロシア・ウクライナの戦争報道にはない。記者の「実感」がない。記者の「体系(根幹)」から自然に発達し、枝、葉になった「ことば」がない。ただ、受け売りのことば(あるいは、権力者に迎合したことば、というべきか)が暴走しているだけである。
 どんなときでも、ことばは「個人的」でなければならない。
 荒川は、ふたび、荒川自身の「批評」を書く。

こちらが暗に付け足すとしたら三宅島生まれの浅沼稲次郎が
作家田畑修一郎が三宅島に来たとき、かかわったということぐらいで
この老人の静かな知識は
真珠のように輝くのだ

 「知識」が「個人の体系」になるとき、つまり「権力者の体系」ではなく、だれにも属さない「固有の体系」であるとき、それは「無力」である。つまり「無意味」である。しかし、それは「静か」である。それは権力によっておかされるということは絶対にない。そして、ただ「静かに輝く」のである。
 いま、ロシア・ウクライナの戦争報道で必要なのは、そういう「固有の視点/個人の体系」から発せられる「固有のことば」である。
 プーチンのことばでもなければ、ゼレンスキーのことばでもない、ましてやバイデンや岸田のことば、さらには安倍のことばではない。生きている市民、生きている兵士といっしょになって動いている記者の、「固有のことば」(固有の報道)である。ほんとうに「現場」で動いているのは、それなのだから。

 ロシア・ウクライナの戦争につながることを、荒川は、最終連で「ユーゴスラビア連邦共和国が解体して二〇年後のいまも」と、さっと書いている。荒川は、現在のニュースの報道のことばに対する批判を意図して書いたのではないかもしれないが、私は、厳しい批判がこめれらていると思って読んだ。
 そして、とても感動した。
 今年いちばんの傑作、全体に読むべき詩だと、私は確信している。

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ゼレンスキーのことば(情報の読み方)

2022-04-18 10:11:28 | 考える日記

 2022年04月18日の読売新聞(14版・西部版)1面に、「露、マリウポリ投降迫る/ウクライナ首相「最後まで戦う」/ゼレンスキー氏「全滅なら協議中止」」という見出し。読みながら、私は、ぞっとした。
 記事の内容は、見出しのとおり。念のために途中を省略し引用しておく。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓↓
①露国防省は16日、市街地を「完全に解放した」と発表し、その後、製鉄所の敷地を拠点に抵抗を続けるウクライナ軍に対し、17日午前6時(日本時間17日正午)から17日午後1時(同午後7時)までの投降を求める最後通告を出した。
②これに対し、ウクライナのデニス・シュミハリ首相は17日、米ABCニュースのインタビューで「我が軍の部隊は依然、残っており、最後まで戦う」と述べた。
③17日午前の発表で、露国防省は、ウクライナ側の通信内容を傍受したとして、「投降を拒否するよう指示されている」と主張した。約2500人とされるウクライナ軍側にはカナダや欧州などの外国人雇い兵が最大400人含まれているとし、「抵抗を続ければ全員殺害することになる」と警告した。
④これに先立ち、ゼレンスキー氏は16日の自国メディアとの記者会見で、マリウポリ情勢に関し、「(自国軍が)全滅すれば、ロシアとの停戦協議は終わりを迎えることになる」と述べ、交渉打ち切りの可能性に言及した。
↑↑↑↑
 読売新聞の見出ししたがって、「漫然」と新聞を読むと、ロシアがウクライナに、投降を迫った。ウクライナ首相は、投降を拒否し「最後まで戦う」と言った。さらにゼレンスキーも「(マリウポリのウクライナ軍が)全滅すれば、ロシアとの停戦協議は終わる」と語ったように見える。つまり、ゼレンスキー(ウクライナ)の決意表明のようにみえる。この決意表明をどうみるか。読売新聞の書き方は、ゼレンスキーの決断を「称賛」しているようにみえる。強い愛国心のあらわれ、ウクライナ人の決意の強さを代弁している、と。このことについては後でもう一度書くが、時系列とおりに経過をたどりなおすと、このニュースの見え方が違ってくる。
 読売新聞の④には「これに先立ち」ということばがある。この「これに先立ち」はとてもあいまいで、時系列的には、ウクライナ首相が「最後まで戦う」とインタビューで答える前ということしかわからない。つまり①のロシアがマリウポリ市街地を完全解放したと発表した後なのか、それとも投降を求める最後通告を出した後なのか。③の記事が事実を伝えているのならば、「投降拒否の指示(たぶんゼレンスキーからの)」をロシアが把握したので、投降を求める「最後通告」を出したのだろう。「最後通告」のあとにゼレンスキーが「全滅なら協議中止」という発言をしたのなら、そのときは「投降拒否」は「絶滅するまで戦え」というウクライナ軍への指示を含んでいるはずだ。これを受けて、②首相は「最後まで戦う」と言っている。ゼレンスキーに歩調をあわせていることになる。
 
 ここでいちばん問題になるのは(きっと、今後、問題になるのは)、ゼレンスキーの指示と、それを首相が追認したという「ことば」の順序である。ゼレンスキーが「投降するな、最後まで(全滅するまで)戦え」という指示を出したのだとしたら、首相が「反対」とはいいにくいだろう。軍隊の体験がないから、テキトウなことを書くが、軍ではトップの指示に対して部下が反対とはいえないだろう。とくに、部外者に向かって「大統領が投降するな、絶滅するまで戦え」と指示を出しているときに(16日)、それを知っている首相が(17日に)「投降の可能性もある」といえるはずがない。「最後まで戦う」と兵士の代弁をするしかない。
 で、そのことと関係するのだが。
 「投降するな(絶滅するまで戦え)」という指示は、大統領に許されることなのか、とうことである。「投降するな(捕虜になるな)」という指示を出す権利はだれにあるのか。だいたい「投降するな(絶滅するまで戦え)」というのは、「戦って死ね」ということである。「戦え」という指示を出すことは軍隊にとって必要だろうが、「死ね」という指示を出すことは適切なのか。とくに指導者の場合、その責任が問題になるだろう。
 私は実際に体験したわけではないから断言はできないが、日本が引き起こした戦争の末期の悲劇は「投降するな/絶滅するまで戦え」という命令に問題があったからではないのか。勝てないと判断したら、投降し、兵士を命を守ることが大事なのではないのか。
 ゼレンスキーの指示(判断)は、完全に間違っている。「投降するな/絶滅するまで戦え」というような命令は出してはいけない。

 さらに、この読売新聞の記事には、もうひとつ問題がある。
 ゼレンスキーは「(自国軍が)全滅すれば、ロシアとの停戦協議は終わりを迎えることになる」と語っただけで、軍に対してどういう「命令/指示」を出したのか、具体的にはわからないことである。
 わからないけれど、

ゼレンスキー氏「全滅なら協議中止」

 という見出しを読むと、どうしても「絶滅するまで戦え」という指示を出していると感じてしまう。そして、その指示が私の「妄想」どおりだとして……。その指示に対して読売新聞はどう思っているのか、それがはっきりとはわからない。
 私には、読売新聞は、このゼレンスキーの態度を「好ましい」ものとして伝えようとしていないか。ウクライナの決意を伝えるものとして「称賛」していないか。また、この見出し、記事を読んだ読者は、「ゼレンスキーがんばれ、ウクライナ兵がんばれ」という気持ちを持たないか。
 これは、とても危険なことだ。
 私はロシアの侵攻が間違っていると思うし、既に書いたが、ロシアは絶対に敗北すると考えているが、だからといってウクライナ兵に対して「死ぬまでがんばれ」とはいえない。死なないために、できることはなんでもしてほしいと思う。「投降する(捕虜になる)」のは、生き延びて、チャンスを見つけて反撃するためだろう。「絶滅」しては、反撃できない。ほんとうに反撃する気持ちがあるなら、いったん投降し、生き延びる道を選ばないといけない。

 プーチンの「ロシアは核をもっている」という発言(核使用を示唆する脅し)も問題だが、バイデンの「ロシアの政権を交代させる」「物価高はプーチンのせい」「ウクライナでジェノサイドがあった」という発言も問題だ。同じように、ゼレンスキーの「絶滅するまで戦え」を暗示させることばも問題だ。(ゼレンスキーの正確なことばは、よくわからない。具体的にどういう指示を出したのか、わからないが……。)
 ジャーナリズムは、どうしても「伝聞」になる。ある発言が、どういう「文脈/時系列」でおこなわれたのかわかりにくいときがある。そのために「ことば」が暴走する。「ことば」を暴走させないで、「事実」を見つめる工夫をしないといけないし、「ことば」にあおられないよう注意して読まないといけない。

 繰り返すが、もしゼレンスキーが「絶滅なら協議中止」と言ったのだとすれば、どこかでゼレンスキーは「絶滅」を想定している。「絶滅」は、指導者が絶対に想定してはいけない事態である。(たとえば、核使用の引き起こす「絶滅」がある。)そして、そういう「決意」は、絶対に「称賛」してはいけない。すこしでも「称賛」のニュアンスが出てはいけない。
 「最後(絶滅)まで戦う」という決意を「称賛」してはならない。死ぬのは、指示(命令)を出したひとではなく、戦っている兵士である。
 権力者の側に立つのか、戦っている兵士の側に立つのか。
 ここから「ことば」を動かして、現実をとらえなおす必要がある。プーチンも危険だが、バイデンも危険だし、ゼレンスキーも危険だ。三人とも冷静さを失っている。

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緒方淑子「垣根」、青柳俊哉「手の高さに」、徳永孝「昆虫の惑星」、池田清子「三月の中旬」

2022-04-17 10:01:49 | 現代詩講座

緒方淑子「垣根」、青柳俊哉「手の高さに」、徳永孝「昆虫の惑星」、池田清子「三月の中旬」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年04月04日)

 受講生の作品。

垣根  緒方淑子

木蓮 触りたかった

木蓮
のぼってた空に真白(ましろ)に

触りたかった

花びら 夕暮れに 冷たかった

犬、食べたかった 引かれて食べなかった

拾いたかった
 冷たかった
  花びらを垣根に

触りたかった夕暮れ

 緒方の詩の特徴のひとつに主語と動詞の関係があいまいなところがある。「触りたかった」が繰り返されるが、主語は何か。「私は」と読むのがふつうかもしれないが、「木蓮は」と読むこともできる。木蓮は何に触りたいのか。「私に」か。二連目を手がかりにすれば、「空」かもしれない。このとき「空」は具体的な空であると同時に、自分から離れた遠い存在の比喩にもなる。そう考えるとき、「木蓮」は「私」にもなりうる。「木蓮」と書かれているが、それは花ではなく、「私」の分身かもしれない。
 「触りたかった」ということばがほんとうならば、それは「触らなかった」でもある。四連目の「冷たかった」の「冷たい」は触覚、触ることで感じるものである。触っていない。しかし、触覚が「触る」ことで感じるということもある。目が感じる冷たさがないわけではない。それは何かに触って冷たいと感じたとき、手だけが動くわけではなく、目も耳も、肉体全体が動くからである。感覚は肉体のなかで融合している。だからこそ、「冷たい色」とか「冷たい音」というものもある。実際に手が(肌が)触っていないのに「冷たい」と感じる。「真白」ということばを手がかりにすれば、視覚が「触り」、それが触覚にも反映している。
 この感覚の越境は、緒方の肉体を越えて、犬にまで及ぶ。木蓮は木で咲いていると同時に、地面にも落ちている。より冷たいのは地面に落ちている花びらかもしれない。犬は「触りたかった」とは言わずに「食べたかった」と言う。そして「触れなかった」のかわりに「食べなかった」と言う。その間に「引かれて」という別の動詞が入り込んできて、犬と人間をつなぐ。ここは、とてもおもしろい。犬の登場で、「引かれる」という動詞の登場で「手」がより鮮明になる。手の意識が働く。
 それが「拾いたかった」(拾う)という動詞を誘い出し、肉体が動いていく。木で咲いている木蓮の花。地に落ちている木蓮の花びら。中間にあるのは「垣根」かもしれない。地面に落ちている花びらを垣根の上にそっと預ける。そのとき、書かれていない「私」はふたたび「木蓮」になるかもしれない。
 木蓮の花は、空に触りたい。夕暮れの空気に触りたい。それは「私」が、手ではなく、目で触ったその日の感触である。
 主語と動詞を厳密に結びつけてしまわないことで、ことばが揺らぐ。その揺らぎのなかを、かろやかな音楽としてことばが動いていく。

手の高さに  青柳俊哉  

ブドウの実を獲(と)ろうとして
前足をのばす それは自由に空へしなる
わたしは陶酔する ブドウの甘みと手の高さに

水にうつるわたしの姿を 地面に枝でふちどる
かげはわたしよりも暗く重い それを吹くと
水のうえをあまねく遠くへすべって空にまう

飛ぶ鳥の空間へ行くために 翼をふる 
そこに鳥の手がある それはわたしの翼より
白く軽い 星に住む金の髪の少年に恋をして 
青い隕石で文をしたためる 

初めにずれがあった 地面と手の高さに
星を仰ぐわたしたちの心と 空の高さに

 青柳の作品には、「手」がはっきりと書かれている。この手は、緒方の「触る」という動詞よりももっと積極的である。「手」にはできることがたくさんある。それが「わたし」を「陶酔」させる。「ブドウの甘さ」に陶酔するのは「味覚」だが、「手の高さ」に陶酔するのは何だろうか。「精神」とか「こころ」を主語にして考えることができる。
 「精神/こころ」は、どう動くのか。
 三連目で、この詩は大きく転換する。人間にとっての「手」は、鳥ならば「翼」。「鳥の手がある それはわたしの翼より/白く軽い」。青柳は、そう比較している。しかし「白く/軽い」では「視覚」と「触覚」である。鳥は翼(手)をつかって飛ぶことができる。高く高く飛ぶことができる。人間は「手」をつかって飛ぶことはできないが、「精神/こころ」をつかって高く飛ぶことができる。「鳥の翼」が「手」ならば、「人間の精神/こころ」は「翼」なのだ。
 そう考えると「恋」とは「精神/こころ」の飛翔(こころの手=翼をつかって高く飛翔する)である。そして、そのとき「手」は同時に「(恋)文」をしたためる。ことばによって、精神/こころは強くなり、その飛翔の高さを獲得する。
 しかし、青柳は、それに陶酔してしまわない。最終連、「手の高さ」「空の高さ」が出てくる。「地」が登場し「星」が登場する。すべてに「ずれ」があることが、陶酔を誘うのである。認識が陶酔をつくりだすと言いなおしてもいい。

昆虫の惑星   徳永孝

遠く宇宙からまず見えるのは
青く輝く一面の水
近づいていくと陸地には緑の草原や森
きのこやこけも

さらに近づくと
多くの動くものたち

昆虫だ!

多様な形 生態
変態するもの しないもの
空を飛び 地をはい 跳ねる
枯葉の下 土の中にもぐり水に泳ぐ

かれらに交じって
空高く飛ぶ鳥
地表にうごめき走る両生類 は虫類 ほ乳類
水中には軟体動物 きょく皮動物 魚類

それらを蝕むような
黄土色に広がる砂漠 人間が変えた地
灰色 白 黒 茶色の地
立ち並ぶ 石 木材 金属の構造物 人間の住む所

時と共に広がってゆく
侵食する異物
ゾンビ化する地帯
昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?

 徳永の詩は、宇宙から地球へ、地上へ、そしてそこに生きる小さなものへと視線を向かわせる。そして、その昆虫のすむ地上から、視線をもういちど拡大していく。最終連の「時と共に」は、徳永の視線か空間的なものだけではなく時間的なものを含んでいることを告げている。
 地球(自然)の破壊には人間の営為(時間をかけた働きかけ)が影響している。それを「昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?」と昆虫の視線から告発する。いつまでもつづいてほしいという願望が、問いの形で動いている。
 ここにも「主語」の交代があるといえる。ことばのなかで(詩のなかで)、主語は交錯して動くとき、世界は広がる。

三月の中旬  池田清子

ユキヤナギの 白い 自由さ
レンギョウの 黄色い 自由さ
ムスカリの むらさきの
地をはう たくましさ

私も仲間に入れてくれない
私の たくさんの無力も一緒に

アジサイの若い葉
桜のつぼみは
まだ がまんしている

 「白い 自由さ」「黄色い 自由さ」とことばをつないで、そのつぎ「むらさきの」を引き継ぐことばは「自由さ」ではなく「たくましさ」。つづけて読むと「そうか、自由」とは「たくましさ」のことなのか、という感じがしてくる。途中に「地をはう」があるのだけれど、そのことばをはさむことで「たくましさ」がより強くなっている。「地をはう」には何か困難というか、否定的なニュアンスもあるが、それを「たくましさ」ととらえなおすとき、その力があるからこそ「自由」もまた強くなるだという印象が強くなる。
 これは二連目の「無力」と交錯する。さらに三連目の「がまんしている」とも交錯する。「地をはう」「無力」「がまんしている(する)」ということばは、「自由」とは相いれないものかもしれないが、そのことが逆に「自由」へのあこがれを強いものにする。
 花は何種類もある。同じように、一人の人間のなかにある可能性もいくつもある。それは、いまは「無力」に見えるかもしれない。でも、それが「無力」だとしても、消えてしまっているわけではない。消えずに残っているしぶとさがある。それは「自由」への「つぼみ」なのだろう。

 

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