詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(23)

2018-07-31 09:03:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
23 ポリスは永遠

 「ポリス」とは「政治形態」。

すでにペロポンネソス戦役の時代に機能しなかった という
果たしてそうか 機能する しないとは別に いまなお健在

 「機能する」とはどういう意味か。相互に動き、その動きが合理的ということだろう。「動き/働き」が「論理的」(合理的)であるとき、「機能する」と言う。ギリシアはすべてのことを論理的に動かす。
 このことに対して、高橋は、別の角度から「反論」している。「機能する」に「健在」ということばをぶつけている。「健在」を動詞化すると、どうなるか。「健在する」といえるか。「健やかに/存在する」となら言えるか。このとき、「健やか」はたぶん「機能」と向き合っている。「機能」のなかに動いているのは「健やかな論理」である。「すこやかな論理」とは「合理的な論理」でもあるだろう。だから、「機能する」に向き合う形で「健在する」というとき、その「健やか」は文字とは裏腹に「健やかではないもの(論理)が/存在する」になる。言いなおせば、非論理/非合理の論理が存在する。
 「非論理/非合理の論理」とは何か。

私たちひとりひとりがポリス 表面にこやかに対応しながら
本心では敵対 つねに先方の出方を窺って 警戒怠りない

 相互には連携しない。「ひとりひとり」、つまり独立している。連携を否定している。でも、それは他人に対してであって、自分の「肉体」のなかではすべてはつながっている。「表面」と「本心」は緊密である。
 集団(都市)をまとめる「正しい論理」とは違うもの、個人的な思惑が「機能している」ということになる。個人がそれぞれかってに生きているのが「都市」である。
 「ポリスは永遠」というとき、「ポリス」は政治形態としての都市のことではない。ひとりひとりの「政治的態度」のことである。ひとはどんなときでも「政治的に振る舞う」。その「政治的なるもの」は人間の「肉体」のなかで、いつまでも「存在する」。けっして死ぬことはない。
 肉体(いのち)は永遠--そう言い換えることができる。



つい昨日のこと 私のギリシア
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テイラー・シェリダン監督「ウインド・リバー」(★★★★)

2018-07-30 10:37:43 | 映画
テイラー・シェリダン監督「ウインド・リバー」(★★★★)

監督 テイラー・シェリダン 出演 ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン

 知っている人にはわかりきったことでも、知らない人にはまったくわからないことがある。たとえば冬の雪山、単に雪が積もっているだけではなく気温が氷点下30度にもなる雪山を、装備もなく走ったらどうなるか。肺がやられてしまう。血液が凍り、それがつまって窒息する。知らない人は、雪山で血を吐いて倒れている少女をみつければ殺されたと思う。けれど、それは殺人ではなく、「事故」だ。問題は、その「事故」の背景に何があるか、なぜ少女は雪の山を走らなければならなかったか。少女は、雪山を走ればそうなることを知っていたはずだ。でも走らずにはいられなかった。なぜなのか。
 ここから始まる「謎解き」は、とてもおもしろい。おもしろいといってはいけないものを含んでいるのだが。つまり「知っている/知らない」の奥に、たいへんな問題が隠されているのだが。
 だが、おもしろい、と私は書き始める。
 どこにでも、そこに暮らしている人にしか見えないものがある。暮らしている人には、それが見えすぎる。でも、それを見えない人に伝えるのは非常にむずかしい。見えない人が「見えない」ということに気づくまで、「問題」は存在しないことになる。
 この過程を、急がずにゆっくり見せていくところに、脚本(あるいは監督)のすごさがある。エリザベス・オルセンが「見えない」ものが「見える」ようになるのといっしょに、観客も「見える」ようになっていく。
 これにジェレミー・レナーが絡んでくるのだが、この配役が絶妙だと思った。
 エリザベス・オルセンはジョディー・フォスターのように「神話」になっていない。強いか弱いか、わからない。ジェレミー・レナーは体格が小さくて、絶対的な強さというものを感じさせない。生きていくには「マッチョ」でなくてもいい。土地(暮らし)に根ざすための「知恵」を身につけていけば、生きて行くことができる。むしろ、「弱さ」を自覚している方が「生き抜ける」。
 最初の方で、ジェレミー・レナーはスノーバイクを降りて山の中へ入っていくとき、白い防寒服を重ね着する。それは野生の動物の眼から逃れるという意味もあるのだろうけれど、このあたりの丁寧さが説得力の伏線となっている。「生きる」ために何をするべきか、熟知している。それが、彼の強さなのだ。
 知っていることを「肉体」に深く叩き込む。「肉体」そのもので知っていることと向き合う。そう言いなおすとき、そこに「悲しみ」の問題もそのまま重なってくる。ジェレミー・レナーは悲しみを抱えている。それを「肉体」に押し込めて、それを「強さ」に転換して生きている。
 それが「物語」のもうひとつの主題だ。
 それは映画が終わった後のクレジットの「字幕」で、もう一度明るみに出る。ネイティブアメリカンならだれもが知っていること、けれどそれ以外のアメリカ人はだれもしらないことがある。したがって、日本人もそういうことは気にかけたことがない、つまり知らないことがある。その落差の大きさを知らされる。
 知っている人はみんな知っている。しかし、それを「知らない(なかったこと)」にしようとする力が「社会」を覆っている。いつの時代も、どこででも、そういうことが起きている。「私はあなたのニグロではない」と同様に、この映画は、そういうことを静かに告発している。

 ということとは別に。

 私は、ジェレミー・レナーは妙な役者だなあ、と思った。最初に見たのは「ハート・ロッカー」だが、そのときは爆発処理のために、なにやら「ころころ」という感じの服を着ている。白い服だ。今回も防寒のために「ころころ」に着膨れている。最終的には白い服だ。この「白い、ころころ服」がとても似合っている。そういう恰好をすると「肉体」は消えてしまうし、顔もよく見えない。「ハート・ロッカー」の場合は、顔を覆うガードがあるので、ぜんぜん見えない。それなのに、あ、「人間がいる」と感じさせる。他人からはわからないが、その人にはよくわかっていることがある。そういう「役」を、白い、無色の、何にもそまっていない色をまとって演じる。そういうことができる役者なのだ。これはなかなか珍しい、と思う。

 (2018年07月29日、KBCシネマ1)



 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(22)

2018-07-30 09:10:33 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
22 サイコロ遊び

豚に生まれれば 首に刃を入れられて 血を滴らせられる
血の滴りは大きな円のかたちに 円が閉じると裁きの始まり
その裁きがどんな結果になろうと 神神の名において すなわち
豚の血の神聖さにおいて 人は従わなければならない

 「すなわち」も論理を動かすことばである。ことばを結論へ導く。しかし、論理はない。豚の血と神の名で宣言される裁きがを強靱な力で同一にする。そのあいだに「ことば」(論理)は入り込めない。
 「すなわち」は漢字で書けば「即」。色即是空、空即是色の「即」。それは「論理」というよりも論理を拒絶した「絶対」。
 ことば、ことば、ことばという具合に精神を集中させるギリシアなのに、どこかでことばを超える瞬間を抱えている。
 あのソクラテスさえそうだった。間違った裁判、間違った処刑。それを肉体(いのち)で乗り越えた。
 人間にとって「生きる」以上の「正しさ」はない。知っているくせに、ソクラテスは死ぬことによって「正しさ」を問いかけた。この「断絶」というか、「飛躍」は、ことばではつなぎとめることができない。
 ことばを超えた絶対、「すなわち」があるだけだ。
 ギリシアから現代までつづいているものがあるとしたら、その「超越」の不思議さである。「ことば」では入り込めない領域が人間のいのちを美しくする。



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ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

2018-07-29 15:24:07 | 映画
ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

監督 ラウル・ペック 出演 ジェームズ・ボールドウィン、メドガー・エバース、マルコムX 、マーティン・ルーサー・キング・Jr.

 ジェームズ・ボールドウィンの未完の小説をもとにしたドキュメンタリー。
 そこに描かれている黒人差別の問題を日本の「非正規雇用」と重ね合わせてみると、それはそのまま日本の問題に見えてくる。
 正規雇用(正社員)は非正規雇用の実体をよく知っている。「知らない」と言い張る人もいるだろうが、それは「考えない」ことにしているだけだ。実際に同じ職場で、同じように仕事をしているのだから。
 いま、かつての「非正規雇用」あるいは「派遣」は「子会社での正規雇用」という形で隠蔽されつつある。子会社をつくり、そこで正社員として雇う。ただし給料は本社の水準とはあきらかに違う。低賃金である。そうすることで浮かした金を「親会社の正規社員」の賃金に回す。もし、この問題に気づき、「親会社の正規社員」が「格差はおかしい」と言えば、その人はすぐに「子会社」に出向ということになるだろう。出向の場合、賃金は「親会社」での賃金がベースになる。ただし、ずーっと同じ基準が適用されるわけではなく、賃金改定のたびに「子会社」の基準が適用される。つまり、切り捨てられるのである。そういう仕組みを知っているから、「親会社の正規社員」は何もいわない。自己保身に懸命で、いま起きていることに目を向けない。そればかりではなく「派遣」が「子会社での正規雇用」という形で身分保証ができたのだから、それはいいことだ、と経営者の代弁さえする。
 また海外研修生という形での「雇用」も重ねて見ることができる。低賃金で労働力を確保するために、海外から「研修生」を受け入れる。「研修生」は日本で学んだ技術を母国に持ち帰り、母国の発展につなげるという「名目」でつけられた「名称」に過ぎない。労働力として恒久的に受け入れる(移民として受け入れる)と賃金を上げつづけなければいけない。賃金が高くならないうちに母国に返してしまう。つぎつぎに低賃金の労働者を確保しつづけるための「方便」である。
 こういうことも実際に同じ仕事をしている人間にはわかることである。それがわからないなら、一緒に仕事をしていることにはならない。現実に起きていることは、だれにでもわかる。わかっているが、何も行動を起こさない。それがいまの日本である。
 アメリカでは黒人が自己主張したが、日本では非正規雇用の人も、子会社の正規社員も、海外研修生も声を上げない。もちろん親会社の正規社員は声を上げるはずがない。なぜか。そういうことをすれば、即座に失職するからである。
 安倍の独裁(アベノミクス)は、そこまで日本人を萎縮させている。そういうことを思いながら、見た。だれもが知っている。だれもが実感している。それなのに、その「実感」は声になって広がっていかない。それだけではなく、安倍批判をすると「反日」ということばで集団攻撃が始まる。「アメリカ」をあくまで白人を中心にした国家と見るように、政権批判をしない人だけを「日本人」と定義し、批判する人を「非日本人」として排除する。「反日」を口にする人は、「反日」と他人を排除すれば「愛国者」になったつもりでいる。だが、彼らは「国家」を考えたりはしない。自分の「いま」を守るために、個人的な理由で「反日」ということばをつかって他人を排除する。
 日本には、いま「排除」の構造がどんどん広がっている。
 (2018年07月28日、KBCシネマ1)



 *

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estoy loco por espana (番外2)

2018-07-29 15:05:38 | estoy loco por espana


la obras de Joaquin
me parece que el nino esta jugando.
la forma de los tres cuerpos con cabeza, la forma de las nalgas es linda.
si reconoce una barra delgada como agua (fuente), parece que el nino esta animando con agua.
como es verano ahora, puede parecer asi.

dependiendo de cuando y donde mira la obra, la obras se ven diferentes.
por eso es importante ir a museo y verlo en realmente.

Joaquinの作品。
子どもが遊んでいる姿に見える。
三頭身、お尻のかたちがかわいい。
細い棒を水(噴水)ととらえれば、水遊びで歓声をあげている姿にも見える。
いまが夏だから、そう見えるのかもしれない。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(21)

2018-07-29 09:30:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
21 投票者いわく

 「凡人の権利」の続編のような詩。

陶片投票はやめられない なぜかって?
だって 観客席の取るに足りない身をもって
舞台の主役の筋書きが変えられるてんだから

 「てんだから」の口調で「庶民」の声をあらわしているのだが、私はこの詩に対しても納得できない。「庶民の声」には聞こえない。
 どこが庶民的ではないか。
 一行目の「なぜかって?」である。これは「論理」のことば。「なぜか」に対して、「なぜなら」ということばがつづく。「なぜなら」と言わずに「だって」と高橋は書いているが、ちゃんと「……だから」と締めはおさえている。構文が完成している。構文とは、基本的に「文語」のものである。つまり、知識人のもの。
 「口調」ではなく、「構文」そのものを破っていくスピードがないと、庶民の「肉体」が前面に出てこない。庶民の「わがまま」のたくましさが見えてこない。

死んだら合財 忘れられちまう俺たちのこと
痛くもなけりゃ 痒くもないさ

 これではあまりに「論理的」である。「結論」になりすぎている。「論理」ではなく「肉体」そのもので世の中の瞬間を突き破って生きるのが庶民だと思う。「そんな結論は間違っている」と思わず否定したくなるような力の暴走こそが庶民の歴史だと思う。
 庶民なんか知らない、というところでことばを動かした方が、高橋のことばは輝かしくなると思う。



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オウム死刑囚の死刑執行と杉田議員の発言

2018-07-29 01:22:05 | 自民党憲法改正草案を読む
オウム死刑囚の死刑執行と杉田議員の発言
             自民党憲法改正草案を読む/番外218(情報の読み方)

 オウム事件の死刑囚13人の死刑執行が二回に分けておこなわれた。自民党の杉田水脈はLGBTについて「生産性がない」という論を展開した。ふたつのことは、私には深い関係があるように思える。
 キーワードは「生産性」である。
 杉田は「子どもを作らない、つまり生産性がない」と言っているのだが、「生産性」は子供を産むかどうかだけではないだろう。(こどもを作る作らないということに限って言えば、麻原にはこどもがいたから「生産性」があるということになる。そういう人間を殺すのは論理矛盾になる。)
 杉田の「生産性」は自民党の改憲案(2012年のもの)と結びつけて読んでみる必要がある。
 改憲案の前文にこう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「活力ある経済活動」が「生産性」である。それはまた「国を成長させる」と言いなおされているのだが、「国の成長」を「経済の成長」と限定しているのが、自民党の改憲案のいちばんの特徴である。
 経済発展が国の発展である、というのが自民党の国家に対する定義である。
 「主語」は「我々は」になっているが、まやかしである。自民党の改憲案には国家を成長させるために、国民をつかう(支配する)ということしか書かれていない。
 現行憲法と比較すればわかる。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 現行憲法は、「われら(国民)」について定義しているが、国家が経済的に成長するかどうかは問題にしていない。

 杉田の「生産性」が「子どもをつくる」かどうかに限定されているのは、子どもは将来の労働力だからである。子どもが生まれなければ労働力がなくなる。それでは何も生産できない、ということを出発点にしている。
 しかし、子どもの有無だけについて限定してしまえば、安倍首相夫婦には子どもがいない。「生産性」のない人間が首相をやっている。国をリードしているというのは、論理的におかしなことになってしまうだろう。麻原を死刑にしたのと同様、論理矛盾を引き起こす。
 さらに、LGBTのふたりにしても、子どもをつくることは可能だ。実際に、女優のジョディー・フォスターは子どもを産んでいる。これも現実に合致しない。

 杉田発言は人権意識がないということとは別に、もう一つの大問題を抱えている。
 「生産性」のない人間を国家が支援するのはおかしい、という論理は、子どもを作るかどうかだけに適用されるのではない。
 たとえば、安倍には子どもはいないが、政策を立案し、国家を成長させるという「生産性」をもった人間である、だから国家が給料を払う価値があるという「論理」が成り立つ。(私は、その論理には賛成しないが、論理であることには間違いない。)
 一方、オウム事件の死刑囚は、どうか。死刑囚であっても、なぜ、そういう事件が起きたのか、再びそういう事件が起きて、経済活動が混乱しないようにするためにはどうすればいいのかを究明する--という論理を展開していけば、そこに「生産性」につながる思考が生まれてくるが、杉田や自民党はそうは考えないだろう。
 死刑囚なのに死刑にせずに税金で生かし続けておくのは無駄遣いである、「生産性」がないということなのだろう。

 ここからは、おそろしい「論理」が動き始める。
 「生産性」(生産力)のない人間は死刑にしてしまえという論理が絶対に動き始める。老人は生産力がない。老人が生きていれば、年金をはらわなければならない。原資は逼迫している。年金の支給期間を減らしてしまえ、餓死に追い込めばいい、ということになりかねない。病人も同じである。病院で治療するから医療費の支出が増える。生産性に貢献できない人間は治療をやめてしまえということになる。そのときは「安楽死」ということばが利用されるに違いない。
 この老人や病人に対する「消極的死刑」は、さすがにむずかしいだろうが、こういう場合はどうだろう。
 安倍批判をしている人間がいる。金持ちだけがさらに裕福になる政策を批判している人間がいる。放置しておくと、安倍の政策が実現されなくなる。安倍批判は犯罪であるという法律をつくって、逮捕し、考えを改めないなら死刑にしてしまえ、ということになりかねない。
 そんなことは起こり得ないと思っている人が多いが、私は、とても心配している。
 今回の杉田発言をめぐって抗議している人に向かって、「そういうことをしていると就職できないぞ」と威嚇する発言をネットで見かけた。実際に、安倍批判をすると職を失うのではないか、就職できないのではないかと不安を抱えている人がいる。
 すでに、安倍の望む「生産性」に適した人間を選別するということが始まっている。
 「死刑」という形はとっていないが、思想の自由を抹殺している。

 いまいくつかの自治体でLGBTへの支援が始まっているが、支援されている人の情報が、国家規模での政策の遂行に逆に利用されるということが起きないか。それも私は心配している。杉田の論に与する形で、LGBT支援は違法という法律をつくり、自治体をとりしまる。そのとき、だれを支援したのか、その情報を国に寄越せ、と言ってきたとき、言われた方の自治体はどこまで抵抗できるか。人権をまもる行動をとれるか、私は心底心配している。

 「生産性」をキーワードにして現実を見ていくと、ほかのことも見えてくる。
 「カジノ法」が成立したが、「カジノ」の「生産性」とは何か。カジノは何も生み出さない。金がただ動くだけである。金を分配するとみせかけて、胴元がもうかるのがギャンブルである。その胴元のもうけを安倍がかすめとっていく。
 「生産性」とは、安倍にどれだけ金をもたらすか、ということなのだ。
 安倍には子どもがいないが、それは問われない。安倍の「生産性」は棚に上げておいて、安倍にどれだけ金を貢ぐことができるか、が「生産性」の意味するものなのだ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
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ESTOY LOCO POR ESPANA(番外1)

2018-07-28 11:21:30 | estoy loco por espana


El trabajo de Joaquin Llorens Santa tiene un silencio misterioso.
Belleza tranquila es como las herramientas cotidianas para brillar al agotarse.
Por ejemplo, un yunque. Una herramienta para procesar hierro.
El yunque ha sido golpeado repetidamente, y el yunque esta quieto.
Ese tiempo soportable todavia esta alli senciosamente.
Al mismo tiempo, la sensacion de la mano de la persona que trabajo alli aun permanece.
Para ese sentimiento, es muy similar.
Aunque este trabajo esta hecho de hierro, la suavidad de la curva del detalle es un sentimiento familiar para la mano, como si se creara lentamente con las manos.
De hecho, puede estar tomando prestada la potencia de un martillo y un fuego, pero siento una curva que se ha producido naturalmente mientras acariciaba con la mano una y otra vez.
La fuerza de la paciencia de la mano y la fuerza del hierro estan unidas. Hay fuerza para soportar el tiempo.
Joaqun siente que el hierro en sesta vivo.
(Esta traducción usa la traduccion de Google)



 Joaquin Llorens Santa の作品には不思議な静かさがある。使い込まれることで輝きだす日常の道具のような静かな美しさがある。たとえば金床。鉄を加工するときの道具。何度も叩かれ、じっと耐えている。その耐え抜いた時間が、そこに静かに残っている。同時に、そこで働いてきた人の手の感じも残っている。人の手と、人の暮らしを感じさせる何かが残っている。
 その感じに、とても似ている。
 この作品は鉄でできているが、細部のカーブの滑らかさは、手でゆっくりなでながら創り出したような、手になじむ感じだ。実際には、ハンマーと炎の力を借りているのかもしれないが、何度も何度も手でなでているうちに自然にできてしまったカーブを感じさせる。強引さがない。手の根気強さと、鉄の強さが一体になっている。時間に耐えてきた強さがある。
 ホアキンは、鉄そのものを生きている、と感じる。


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大橋政人『朝の言葉』

2018-07-28 10:31:32 | 詩集
大橋政人『朝の言葉』(思潮社、2018年07月25日発行)

 大橋政人『朝の言葉』は、表題作になっている「朝の言葉」がいちばん印象に残る。

まあ、花はえらいね
いろんな色に咲き分けて

隣に住んでる
田野倉トメさん、八十九歳
毎朝、勝手にわが家の庭に入ってきて
ひとまわりして出て行く

花はえらいもんだよ
だれが色を塗ったという訳でもないのに

毎朝、同じことを言っているのに
本人はそのことに気づかない

毎朝、同じことを聞いているのに
聞いている方も聞き飽きない

いつ聞いても
新しい
朝の言葉だ

 「同じ(こと)」は「いつ(聞いて)も」(いつも)と言いなおされている。「いつも」とは「普遍(永遠)」でもある、と要約してはいけないのかもしれないが。さらに、この「いつも」は「えらい」と言いなおされているのかもしれない。「普遍/永遠」に達したものは「えらい」。
 この「同じ」「いつも」の反対のことばは「いろんな」(同じではない、同じとは違う)と「新しい」(いつもと違う)だね。しかし、反対のことばなのに、知らない間に「同じ」「いつも」と重なってしまうところがある。
 どうしてだろうか。
 繰り返すからだ。
 「同じことを言っている」(同じことをしている)、「同じことを聞いている」には、繰り返しがある。繰り返すから「同じ」だとわかる。でも「同じ」を繰り返しながら「同じ」ではない。「新しい」。
 何が?
 ここから先を説明するのはむずかしい。
 「同じ」に見えるが、「同じ」ではないのだ。毎回、「まあ、花はえらいね」ということばは生み出し直されている。違う日に言っているのだから、そこには「違い」があるはずだ。でも、「違い」よりも「同じ」ことの方を強く感じる。そして、「同じ」ならば退屈するかといえばそうではなくて、「同じ」であると「新しく」判断するのである。「新しい」は聞く側からも生み出されている。「同じ」ではなく「新しい」が毎日生み出される。
 「永遠/普遍」は、どこか遠いところにあるのではなく、日々、「同じ」を「新しく」生み出し続けるとき、その瞬間の中にあらわれる。





*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(20)

2018-07-28 09:59:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
20 凡人の権利

 英雄と対比し、「凡人の権利」を高橋は、こう語る。

八十歳になって彼らの優劣を論うたのしみは
英雄にも暴君にもなれなかった草莽 我らのもの

 「論う」は「あげつらう」と読む。「論じる」あるいは「語る」ときの、「内容」よりも「論じ方」(語り方)の方に重点があるのかもしれない。自分を棚に上げて何かを言う、というのが「あげつらう」だと私は思う。
 たしかに庶民(凡人)の権利ではある。
 でも「英雄にも暴君にもなれなかった」と言ってしまうと、そこに羨望がまじってしまう。「権利」は負け惜しみになってしまう。
 「草莽」は「そうものう」か。
 私はひねくれた性格なのか、こういうことばを読むと、凡人はこういうことばはつかわないなあ、と反発してしまう。
 「英雄にも暴君にもなれなかった」ではなく、「なることを拒んだ」ひとのことばの方を読みたい。「英雄や暴君」を笑うことばを読みたい。

 高橋のことばはゆるぎがないが、それは教養の完結のなかでのゆるぎのなさだ。暮らしの中で生き抜いてきた強さとは違う。ずるさ、たくましさがない。

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谷川俊太郎「トゲ」

2018-07-27 11:57:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「トゲ」(朝日新聞夕刊、2018年07月25日)

 谷川俊太郎「トゲ」はほんとうにトゲのある作品だ。

小鳥が囀っている
風が木の梢を揺らしている
その上の空

ヒトが創ったものは何ひとつない
すべては自然に生まれたのだ
私の胸は無言の感嘆詞でいっぱいだ

ああ!と言わせる存在を
限りない言葉に満ちた沈黙を
ただ一つの名が呼ぶことが出来るだろうか

すべては自然に属している
ただ「神」と呼ばれるものだけが
自然に宿りながら自然ではない

ヒトの言葉は自然に刺さったトゲ
バラのトゲが原因でリルケは死んだが
この時代の詩人はそれと気付かずに

言葉のトゲで
死ぬ

 四連目が強烈だ。
 私は「神」の存在を信じていない。「神」というのは人間がつくりだした概念(単なることば)だと思っているので、この四連目を読んで衝撃を受けるわけではない。「内容/意味」ではなく、こう書いてしまうことに、「皮肉の毒(トゲ)」を感じる。
 「小鳥」も、実は「神」とかわりはない。人間が「小鳥」と呼ぶから、それが「小鳥」として存在するだけだ。「囀る」という動詞にしたって、人間が「囀る」ということばをつかうから、「囀る」があるだけである。
 どんな具体的なものも「ヒトが創った」ものだと私は感じている。
 「神」と「小鳥」と、どこが違うかといえば、小鳥は見ることができる。「囀る」という動詞を真似ることができる。小鳥のように飛ぶことはできないが、飛行機を創り出して小鳥よりも高く、遠くまで飛ぶことができる。小鳥から学んだものを生かして、小鳥を超えてしまうことができる。「肉体」を動かしながら、「肉体の限界」を超えることができる。人は何かを創ってしまう存在なのだ。(私自身が飛行機を創ったわけではないが。)
 「神」は、どうか。見ることができない。何を真似ることができるのか、わからない。きっと人間が創り出した「理想(生き方)」という存在しないものへ向けて肉体を整えていくことに役立っているのだろうけれど、私はこういう「具体的」ではないものは、納得ができないので、それ以上は考えない。つまり「神なんて存在しない」「神は誰かが誰かを都合よく動かすために考え出した方便(考え方)にすぎない」と断定してしまう。

 あ、脱線したかな?

 四連目を強烈だと感じるのは、この「神」を「自然」と対比し「自然ではない」と言っていることである。「自然」でなければ、何か。「人工物」だ。「ヒトが創ったもの」だ。
 しかし。
 「神」ということば(方便)は「自然」と対比させるものなのか。
 ことば(方便)はことばと対比させないことには、その「方便(ことば)」が抱え込んでいるものがつかめないのではないか。
 対比させるなら、「自然」ではなく「ことば(言葉、と谷川は書いている)」ではないか、と思う。
 「呼ぶ」という「動詞」が三連目にある。「名」という名詞がある。「名を呼ぶ」。その前に「名をつける(名づける)」があるはずだ。「自然」は「自然」と名づけたとき、「自然」と読んだときから「自然」であり、それ以前は「自然」ではない。
 「自然は自然ではない」。それなのに「自然」をそのまま肯定しておいて、「神は自然ではない」というのは、論理的に不自然である。

 こういう私の書き方は、それこそ「トゲ」のようなものか。

 『聴くと聞こえる』の感想に書いたことだが、「ことば」と「自然」のあり方が、私と谷川では正反対である。谷川は「ことば」を先に覚えた。そのあと「自然」を知った。私は「自然」があることを先に知った。「ことば」は小学校に入るまでは(入学式の前日、父親に名前をひらがなで書くということを教えてもらうまでは)、存在しなかった。「名を呼ぶ」ということはあったが、それは「声」であって「ことば」ではなかった。ことばを覚える前には、「小鳥」というおしゃれなことばはなく「すずめ」や「つばめ」があった。そして、「すずめ」「つばめ」と発せられる「声」を聴くとき、その「声」を発するひとの「肉体」が感じているものを感じていた。「ことば」は、何と言えばいいのか、「関心(注意)」をある方向に向けるためのもの、ある方向を一緒に向くためのもの、その方向に向かって「自然」そのもののなかへ入っていくことだった。
 「神」のように、ことばのなかのことば、ことばのなかへ入っていくためのことばは、もっともっとことばを知った後ではじめて出会うことばであって、絶対に「自然」とは向き合わない。
 
 書いているうちに、だんだん何を書いているのかわからなくなるが、「神」と「自然」の関係を指摘した行に、私は、「理解を超える何か(毒のトゲ)」を感じた。私にだけ毒(トゲ)なのか、あらゆる読者にとってトゲなのかわからないが。

 こういうことに「結論」はない。私はもともと結論を目指していないので、こんな具合にいいかげんに終わる。書きたいことがあったが、だんだんわからなくなり、ことばが動かなくなったら、そこで感想をやめる。きょうは、ここまでしかことばが動かない。



あたしとあなた
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(19)

2018-07-27 11:49:36 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
19 アルキビアデスに

美しい者がどこまで醜くなれるかを きみは身をもって証明した

 と詩は始まる。冒頭の「美しい」はアルキビアデスの外形(家柄と体貌)のことだ。「醜い」は行動のことである。美しさは再現されず、行動の醜さだけが詩のことばを動かしていく。醜い行動(人から称讃されない行動)を取りつづけた、その最後。

まる裸で跳び出しざま槍と矢とで貫かれた してこと切れたのちも笑止千万
勃ちっぱなしだったとか 醜さも極まれば美しさを凌駕していっそ眩しいと

 死んだあとも勃起したままというのは、アルキビアデスの生涯を象徴するようだ、醜態を曝していてみっともない、ということなのだが。
 だが「美しさ」と「醜さ」は、そんなに簡単に振り分けできない。
 人は勃起を醜いと感じるだけだろうか。勃起を見て、それを語り継ぐとき、そこには「羨望」がある。羨望の対象は、いつでも「美しい」。勃起は醜くれば醜いほど「美しく」見える。
 詩は「美しい者がどこまで醜くなれるか」と始まったが、「醜いものがどこまで美しくなれるか」を書いているように見えてしまう。勃起はいつでも眩しい。「眩しい」ものは、いつでも美しい。言い換えると、人はいつでも眩しいものにこころを引きつけられる。眩しいものは、何かを「凌駕している」からこそ眩しい。

醜さも極まれば美しさを凌駕していっそ眩しい

 否定と肯定が「凌駕する」という動詞の中で逆転する。この激しい運動が美しい。
つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(18)

2018-07-26 00:07:50 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                        

18 ペリクレスに

その疫病の病原菌は傲慢 その傲慢がとどのつまりあなたを滅ぼし
あなたのアテナイを滅ぼし ギリシアなるものを滅ぼすだろう

 「傲慢」ということばが美しい。「意味」ではないからだ。「傲慢」はなくても「意味」は通じる。つまり「論理」はかわらない。「病原菌があなたを滅ぼし/あなたのアテナイを滅ぼし ギリシアなるものを滅ぼすだろう」。
 「無意味」なことば。
 「無意味」とは「超/意味」のことだ。
 あるいは余剰。過剰。過激のことだ。

 「傲慢」ということばから、人は何を感じるか。そこには何かしら暴力的なものがある。そして、その暴力は、人が求めて止まないものだ。自分の超越して、暴力的に生きたいという欲望が、人にはある。
 そうやって生きている人は輝かしい。ときに「英雄」と呼ばれる。

 この詩は「人類史の中で あなたが最もあなたらしくあったのは」と書き出されている。ペリクレスがもっもと輝かしく、英雄的だったのは、「光の中の市民を前にした 戦死者追悼演説の輝かしいとき」か。そうではない。疫病に犯されていたときだと高橋は言う。彼自身がさらけだされ、なおかつ彼が彼を超えようとしているからだ。
 「病原菌の傲慢」とペリクレスの「傲慢」が拮抗する。
 そして「病原菌は傲慢」は「傲慢はペリクレス」に急転換する。その制御できない「急」の奥に、私は不思議な「必然」を感じる。偶然ではなく、必然。必然をひっぱりだすのが「傲慢」ということばだ。
 だから、それが詩として、詩のことばとして輝く。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(17)

2018-07-25 13:57:28 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月26日(木曜日)

17 選択 テルモピュライ

ねがわくは 守って一兵残らず滅び果てても
数に委せて攻め滅ぼす側には なりたくはないもの
とりわけ 敵に間道を内通する裏切り者には
どれも 可能性としてのきみ自身

 「可能性」ということばのまえで私は立ち止まる。「攻める側に立つか」「裏切り者になるか」。どちらも「生き残る」ことを前提としている。どちらを選ぶか、を選ぶことが「できる」と考えると、たしかに「可能性」ということばが出てくる。「なりたくはないもの」ということばを借りて言いなおすと、どちらに「なるか」、その「可能性」は「きみ自身」にまかせられている、と読み直すことができる。
 しかし、私は、つまずく。
 これは「可能性」なのか。

 「可能性」の反対のことばはなんだろうか。

 「必然性」だ。どちらの側に立つか、どちらの側になるか。それは「選択」できるものではない。選択できない。「必然」である。決定されている。運命によって、ではなく、本能によって。「生きる(生きたい)」という本能、欲望に誰も逆らうことはできない。
 「可能性」ということばは、たぶん、第三者が言うことである。
 「悲劇」の場合なら、観客が言うことである。
 「可能性」と口にしながら、しかし、観客は「可能性」を叩き壊す「生きる欲望」に官能をふるわせる。「悲劇」が感動的なのは、いつもそれが「本能」の「必然」を明るみに出すからだ。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(16)

2018-07-25 12:20:15 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
16 英雄嫌い 反アレクサンドロス

英雄が嫌いだ 英雄は私たちなんか愛してはいないから

 と始まる詩は、途中で少し転調する。

英雄が出なければ世界は変わらない という輩があるが
世界が変わるために殺されたのでは たまったものではない
変わらなくっていいんだ 世界も 私も いまのまんまで

 「愛していない」「変わらない」という「ない」を含んだことばが、引用しなかった行を含めて何度も出てくる。そのことばがリズムをつくっているのだが、突然「変わるために」という「ない」を含まないことばが出てくる。そのあとで、再び「たまったものではない」と「ない」が登場する。さらに「変わらなくっていいんだ」と「ない」を「いい」で肯定する。
 この動きがおもしろい。
 「変わる」という「ない」を含まないことばが登場することで「ない」を肯定する力が強くなる。

そんなに変えたければ 勝手に自分の世界だけ変えて
自分の世界ごと 退場してくれ 私たちに関わりなく

 最後に、もう一度「なく」(ない)が強調される。
 「ない」は「無名者」の「無」につながる。あるのは「ない/無」のつながりである。「ない」に身をよせる高橋がいる。


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