柏木勇一『ことづて』(思潮社、2016年10月20日発行)
柏木勇一『ことづて』にはいくつかの種類の詩がある。柏木自身は四つにわけている。私の印象では最後の四つ目の章(一篇)は三つ目の章でもかまわないと思う。最後の一篇は「長歌」に対する「反歌」のように位置づけられていると思うが、私は、作者の「意図」を無視して読む。「冥土の馬」の方が「反歌」のように全体を反映していると感じた。こういう作品。
わたしというひとつの空虚のなかで
胸膜あたりに棲みついた一頭の馬が暴れる
それは決まって凍えるような冬の夕暮れである
一頭の馬が駆けぬけた
原野ではない 草原でも浜辺でもない
ちいさな北の町の真冬の商店街を疾走した
橇の紐をふりほどき 氷の地面を蹴り
四つ角を曲がりきれないまま右膝から堕ちた
一連目の馬は「象徴」。あるいは記憶と呼んでもいい。「胸膜」にこだわれば「記憶」になるが、「空虚」が、それを単なる「記憶」ではなく「象徴」にかえる。「意味」にしてしまう。
二連目で馬は「象徴」から「記憶」にもどる。このときは、まだ「象徴」にはなっていなかった。特異な「事件」だった。暴れ馬。それが街を駆け抜ける。
三連目で、事件が「馬の事件」ではなくなる。こんな具合に。
一頭の馬が駆けぬけた
けたたましい悲鳴を町中に響かせ
馬は目を開けたまま殺された
近郊からも集まった人びとが
夜明けまで 湯気が激しく立ちのぼる桜鍋に酔った
もう橇を引けなくなった馬。それを解体して鍋にして食べる。「馬」が主役の事件から、「人間」が主役の事件に変わる。この「主役の交代」をスムーズにするために、つまり詩にするために、「馬」は「象徴」になる。「いのち」を食べる。それは「いのち」をつなぐこと。「いのち」は引き継がれていく。そういう「意味」を生み出すことで、柏木は、この人間の「事件」を受け入れている。
ただ、「よろこび」をもって受け入れるという形ではない。完全な「肯定」ではない。「肯定」しきれないなものがあるから、それを「象徴」にするのである。「象徴詩」が柏木にとって詩なのかもしれない。
後半で、こういう動きを、柏木は、こう整理する。
わたしというひとつの空虚のなかで
声帯を鼓舞するようにあのかすかな蹄の音が震える
凍えるような冬の闇がわたしにも泣けとささやいている
「声帯」という「肉体」。「声帯」で「馬」を反復する。「馬」になる。そして、この「声帯」という「名詞」は「泣く」という「動詞」と結びつくことで、柏木を「馬」にしてしまう。
「馬」の立場から、幼い日に見た「記憶」を「肯定」する。人間そのものの立場ではなく、「馬」として受け入れる。
とても美しい。
けれど、私には、その美しさが気になる。「美しい」と書いたあとで、ちょっととまどう。
私は「喉」という作品の方が「強い」と思う。ここにも用をなさなくなった動物を食べるという「事件」が描かれている。
腐敗は
外部に触れている咽頭から始まります
遺体確認にたずさわる法医学者が話した
有機質から無機質へ
人体の腐敗の過程は下部に降りていくという
種類食品販売業の父が戦死
病弱だった母は
肉屋も営み生きた鶏を捌いた
二本の足を左手でつかみ
右手に握った剃刀で鶏の柔らかい喉を刺す
キーン 鉄のような悲鳴をあげる鶏
どす黒い生血を茶碗一杯
母はごくりと飲み込む
母の喉が脈打つ
その夜 子どもたちは
鶏のあらゆる部位を食べあさった
すべての言葉は喉をふるわせて発せられる
うつろな目
眠っているのか
何を見ているのか
何かを思い出しているのか
記憶がいっそう混濁し
ふるえることも少なくなった母の喉は
樹枝のような静脈が透き通っている
鶏の皮だ
腐敗は
咽頭、気管に続いて
胃、腸、肝、腎、膀胱へ進みます
脳はその間のどこかでしょう
(個人差もあるというのか
一番遅いのが子宮です
ここに書かれている「喉」は「象徴」ではない。「意味」ではない。「肉体」の一部であり、かつ一部ではない。「全部」である。切り離したら「喉」は「肉体」ではなくなる。
柏木は、「母の喉」を見ている。「喉」をとおして、自分の「肉体」も見ている。「自分の肉体」と「鶏の喉」とつながっている。このときの「つながり」は馬を食べるというのと同じつながりである。「食べる」ということと、「いのち」のつながりが、ここでも反復されている。ただし、そのことを柏木は「象徴/意味」としては書いていない。「事件」のまま放り出している。
何が、そうさせたのか。なぜ「意味/象徴」として書かなかったのか。
書かなかったのではなく、書けなかったのだろう。しかし、この「書けなかった」は、批判ではない。否定ではない。私は、この「書けなかった」に、「強さ」を感じる。
「馬」も「鶏」も「他者」である。柏木から「断絶」している。その「断絶」をつなぐために「いのち」ということばが必要であり、そこに「象徴」が介入してくる。
ここに描かれている「母」もまた「他人/他者」である。しかし、母と子という「いのち」のつながりがある。「象徴」を必要とはしない「いのちのつながり」。しかし、ほんとうに「つながっている」のか。言い換えると柏木は母を自分と「同一」と考えることができるか。「いのち」ということばで「融合」させることができるか。
できない。
咽頭、気管、胃、腸、肝、腎、膀胱、さらには脳までは、重ね合わせることができる。同じ人間として自己投影ができる。馬にも鶏にも自己を投影することはできる。(馬には自己投影し、鶏には自己投影していないが。)けれど、母には自己投影ができない。母を自分の考えていることの「象徴」にすることができない。
子宮があるからだ。
「腐敗が一番遅いのが子宮です」と法医学者は言う。その「子宮」に守られて柏木は生まれてきた。それは完全な「他人」なのだ。
柏木は母の子宮から生まれてきた。だから、子宮を「自己同一」してもいいのかもしれない。けれど、柏木には子宮がない。そのことが、母を絶対化する。自己投影/自己同一/象徴を拒絶する。
柏木は母をとおして「絶対的な他人」というもの発見している。
この発見が、他の作品にもあればいいなあ、と思う。柏木が出会うのは、「絶対的他者」。「全体的他者」であるから、それを「象徴/意味」としてはいけない。「象徴/意味」にしないこと、「絶対的他者」そのものとして描くとき、きっとその「絶対的」な部分に「詩」が動くのだと思う。その「絶対性」に、柏木が、いわば否定されることで、柏木自身が生まれ変わるのだと思う。
「喉」には、その「生まれ変わり」の「瞬間」が描かれている。「子宮」の発見によって。この詩こそ、美しいと呼ぶべきものだと思う。