詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ6)

2016-10-31 11:28:14 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ6)

かつてのオフィーリアが今のオフィーリアなら、
やがてオフィーリアでなくなるオフィーリアはどこを流れる?

醜聞は風のごとく吹き寄り、風のごとく吹き去る。
水は流れ寄り、水は流れ去る。
              (何のごとく?)

               これから男の私が演じるのは
九百九十九人目のオフィーリア。
男ゆえに不作法に女の傷を逆撫でし、
男ゆえに寝取られハムレットを演じつつ、泣き言わめき、わがままに、
そして繊細に、千人目のオフィーリアという反論を読者にまかせ、

では。

流されながら流れてゆけないオフィーリア、
流されながら流れを遡るオフィーリア、
貯水槽にあつまり密談するオフィーリア、
水道管で分配されることばのオフィーリア、
排水管を通り下水を揺するオフへーリア、
見えない水の、見えない流れの、見えないオフィーリア、

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和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』

2016-10-31 10:01:34 | 詩集
和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店、2016年03月31日)

 和合亮一『昨日ヨリモ優シクナリタイ』は、とても読みやすい詩集である。谷川俊太郎か、ゲーテのように読みやすい。

五年

はるか遠くの浜辺の
津波で残った
たった一本の松が
私やあなたの

庭に
街に
通りに
立っている

私もあなたも
あの波にさらされた
木の影に
立たされている

朝の太陽にしがみつき
真昼の時報にしがみつき
夜の食卓にしがみつき
生きている

 なぜ読みやすいのか。繰り返しが多いからである。「立っている」「立たされている」が二、三連目に出てくる。「立つ」という動詞が繰り返されている。そしてこの「立つ」は「残った」というかたちで一連目にも存在している。
 私たちは、その松のことを知っている。
 だから「残る」という動詞を、同時に「立つ」という動詞で把握する。
 そして、その「立つ」を繰り返すと、主語が自然に混じり合う。「松」が「立つ」、「私やあなた」が「立つ」。松と私たちの「肉体」が「立つ」という動詞でかさなりあうとき、そこに「気持ち」の重なりも生まれる。「立たされている」という悲しく、つらい気持ちが生まれる。
 気持ちは、しかし、変わるものである。「立たされている/悲しい」は「立っている」へと引き返し「生きている」という動詞になって、懸命さに変わる。「懸命に生きる/生きたい/生きなければならない」という気持ちに変わる。「しがみつく」という動詞が「懸命」を生み出す。
 繰り返しは、同じ繰り返しではない。変化がある。変化を生み出す。変化とは発見である。
 一篇の詩のなかにある繰り返し。それは一篇の詩が短いとき「短時間」に起きたもののように見えるかもしれないが、実はそうではない。タイトルの「五年」が雄弁に語っているが、この和合の詩(詩集)のなかにある繰り返しは、何年もの時間をかけての繰り返しなのである。「五年」と書いているが、この「五年」は、計り知れない年月である。「五年」を超える。「永遠」の「五年」である。何度も何度も繰り返し、やっとととのえられたことばなのである。
 「ととのえる」という人間懸命なの生き方が、この詩集を支えている。

風に

風の音を聞くと 心がしんとします
涙があふれてきます 吹かれている気がする
胸に手をあてて あの子の名をささやく
波にさらわれてしまった 子どもの声がします

風の音を聞くと 人の生き死にを考えます
命の重み 夜更けの一軒だけの 家明かりを思います
あの子が わたしを呼んでいます
吹きつけるさびしさは 深さを連れてきます

風の音が止むと わたしはしきりに泣いている
あの子が 話すのを止めて
生きることを あきらめて
じっと黙っているのが 分かるから

 ふすまの陰で 布団を被って
 あの子の妹は 想っている 母のことを
 姉のことを そうして 胸に手をあてて
 吹く風に どうか 母さんを泣かさないで つぶやく

 「風の音」が繰り返される。繰り返しているうちに主語が変わる。一連目の風の音を聞いているのは誰か。明記されていない。自然に筆者(和合)が聞いているのだと想像する。二連目、三連目の「わたし」は和合であるかどうか、はっきりしない。(私は和合の家族のことを知らない。)ところが四連目で、二、三連目の「わたし」は「母さん」であったことがわかる。それも「あの子」の「母さん」。
 和合が「あの子」の「お父さん」であるかどうかはわからないが、私は「父さん」ではないと思う。
 そして、ここが重要だと思う。
 私は、読みながら、この詩は和合の「体験」ではないと感じる。では、「誰の」体験なのか。そこで動いている「肉体」は「誰の肉体」なのか。
 私の、読者の、私の肉体である。
 私には津波で子を失った体験はない。けれども「風の音」を聞いた体験がある。そして「心がしんとする」という体験もある。「風の音」を聞いて「人の生き死にを考える」ということも体験したかもしれない。もちろん、その体験は、ここに書かれている体験とは同じ「質」のものではない。ここに登場する人物の思いに比べれば、はるかに「浅い」ものである。浅いものではあるけれど、私の「肉体」を、ここに書かれている「肉体」へと連れていってくれる。そして、そこで重なる。そこには、新聞やテレビで繰り返し聞いた東日本大震災の被災者の「思い/体験を語ることば」も入り込んでくる。私の思い/体験は「浅い」が、ことばに触れるにしたがって「深さ」を感じ始める。「深い」ものになる。
 二連目の最後の「深さ」は「感情の深さ」である。そして、その「深さ」のなかで、「わたし」は「わたし」でありながら「あの子」にもなる。「ひとつ」になる。
 その「ひとつ」は四連目で「あの子の妹」という「肉体」にかわる。「あの子の妹」の「感情」にも変わる。
 これは、主語が変わるのではなく、主語がとけあって「ひとつ」になるのである。「ひとつ」になりながら、そのつど、その「ひとつ」から分かれて母になり、あの子の妹になり、そしてまた和合にもなる。その「ひとつ」から分かれる形で母が生まれ、あの子の妹が生まれ、和合が生まれる。あの子も生まれる。
 この詩のなかでは、人が繰り返し生まれてきている。その「ひとり」として読者(私/谷内)も生まれる。生まれて、その感情を生きる。
 また書いてしまうが、これは一篇の詩のなかで起きていることだが、それは詩を書く(詩を読む)という「時間」のなかだけで起きているのではない。「五年」を超える「永遠」のなかで繰り返され、やっとととのえられて、こういう形になって生まれてきてるのである。

昨日ヨリモ優シクナリタイ
和合亮一
徳間書店
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アトム・エゴヤン監督「手紙は憶えている」(★★★★)

2016-10-30 19:13:52 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 クリストファー・プラマー、マーティン・ランドー、ブルーノ・ガンツ

 記憶とことば。記憶と肉体。ことばによって呼び覚まされる記憶。肉体が忘れることができない記憶。この交錯がきちんと描かれている。
 認知症の男(クリストファー・プラマー)が薄れていく記憶と闘いながら、ナチスの生き残りを探し、家族を殺された復讐をするというストーリー。彼は認知症なので、同じ老人ホームにいたアウシュビッツの生き残りの男(マーティン・ランドー)が書いた手紙(ことば)を頼りにしている。
 で、老人ホームにいる男を訪ねたとき、ふとピアノの音を聞く。クリストファー・プラマーはピアノが好き(あるいはピアノ演奏者だったのかもしれない)。ふと、そのピアノの方へ近づいていく。作曲家の名前を三人出したが、私にはなじみのない人。たぶんユダヤ人の作曲家なのだろう。そこまでは、ことば。その曲を聴いて、ピアノを弾くことを思い出し、実際に引き始める。でも、それは先に名前をあげた三人の曲ではない。シューベルトだったかリストだったか、東欧系(ドイツ系?)の作曲家の曲。これが最初の「肉体の記憶」。ここで、一瞬、あれっと思うのだが、まあ、有名な作曲家だし、この曲の方が観客にはわかりやすいからそうなのかなあ(ピアノを弾いているという人物設定の紹介には、これでいいのかなあ)と、半分無意識に見逃してしまう。
 次に、田舎の一軒家。そこでは訪ねていった男は死んでいない。そのかわり、息子(警官)と会う。この息子が、ナチス心酔者。父の影響を強く受けている。クリストファー・プラマーをドイツ人だと思っていたのだが、アウシュビッツの生き残り(ユダヤ人)がと思って、激昂する。シェパードをけしかける。これをクリストファー・プラマーが一発の銃で仕留める。銃を撃つことを「肉体」が覚えていて、反応するのだ。(銃は事前に買って持っているのだが、買うときは「つかい方を紙に書いてくれ。忘れてしまうから」と言っている。銃をつかったことがある、という設定ではない。)さらに息子も撃ってしまう。このときの「腕前」がすばらしい。一発目は心臓を直撃。とどめの二発目は脳(頭)を直撃。こころえているのだ。ここで、クリストファー・プラマーの「本性」が半分以上明らかになる。アウシュビッツの生き残りのユダヤ人が、こんな完璧に銃をつかいこなせるわけがない。老人なのに、銃を撃ったときの反動にぐらつくこともない。
 最後。ブルーノ・ガンツと対面する。その直前、もう一度ピアノが登場する。ここでクリストファー・プラマーはワーグナーを弾く。生粋のドイツ人。そればかりか、ナチス(ヒトラー)のお気に入り。クリストファー・プラマーがユダヤ人なら、なぜ、ワーグナー? これは、ブルーノ・ガンツも指摘する。ブルーノ・ガンツはクリストファー・プラマーがガンツをなつかしくて訪ねてきたと思い、ドイツ語で話し、ワーグナーの話もするのである。
 ここから急転直下、話が大展開する。クリストファー・プラマー自身もナチスの生き残りであり、それと知ったマーティン・ランドーが、クリストファー・プラマーが認知症であることを利用してナチス狩りをしていることがわかる。クリストファー・プラマーは最後になって、自分がナチスの生き残りであるということを思い出し、ブルーノ・ガンツを射殺した後は、自殺する。
 ストーリーは予告編を見たときから半分わかっている。「衝撃の結末」といううたい文句も「補助線」の役割をしている。これを、どう映画化するか。ということで、見どころは(見逃してはいけないのは)、先に書いた「肉体が覚えてること」が「無意識」に出てくる三つのシーン。
 これをアトム・エゴヤンは慎重に、しかしスムーズに組み立てている。(脚本がそうなっているのだろうが、うまく肉体化している。)ピアノの、最初の「ずらし」が微妙だし、だめ押しのワーグナーが強烈だ。銃で犬を殺す、人を殺すという「体験」が、記憶のなかに隠れている「暴力」を覚醒させるというのも刺激的である。一度銃を撃つということを「体験」しなおすと、もう、ためらいがなくなってしまう。その「肉体」の「無意識の変化」がとても巧みに映画化されている。 

 それにしても「ことば(脳)」とは何と嘘つきなのだろう。脳は(ことばは)、いつでも自分の都合のいいように「現実/事実」を変更して、それを「真理」と思い込む。けれども「肉体」は、そういう嘘がつけない。「肉体」で覚え込んだことは、忘れることができない。「肉体」が思い出したことは、人間を「過去」に引き戻していく。
 最後のシーンに、顔は忘れたが、声は覚えているという、ちょっと複雑な「認識論」が出てくるが、声は肉体を動かして「出す」ものだから、その「出し方の癖」は変えられないということだろう。ブルーノ・ガンツは90歳に「変装」しているのだが、声でブルーノ・ガンツとわかる。(目も、わかるといえばわかるが。)そこにも「肉体」そのものが出てきて、なかなか刺激的な映画、考えさせられる映画であった。
              (天神東宝ソラリアスクリーン8、2016年10月30日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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千人のオフィーリア(メモ5)

2016-10-30 09:11:13 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ5)

もう考えるのはよそう、いやまだ考えられると考えてみる。
あの日、
熱っぽかった肌着が椅子に引っかけられて冷えていく
汗が固くかたまり、悲しみと呼ばれる。

きょう、
左肘の方向に月が出ている

あのころ私は何も知らなかった、幸福さえも。
あのころ私は私ではなかった、悲しみさえも。

もう考えるのはよそう、いやまだ考えられると考えてみる。
あすは私の葬式だろうか、
友達の葬式に出るのはつらくていやだわ。

隣のオフィーリアは無言。
一週間前と同じフリル、波に縫い込まれたエメラルド。
乱れる水色。



*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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池井昌樹「未知」

2016-10-29 09:10:57 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「未知」(読売新聞夕刊、2016年10月28日)

 池井昌樹「未知」は、少し変わっている。「主役(主語)」がガリレオである。

ガリレオは街に出た
へんてつもない中世の街
いまはないいつもの街

 ただガリレオが主役といっても、中世のガリレオをそのまま書いているわけではない。評伝ではない。「いまはないいつもの街」の「いま」は現在の池井の生きている街。そこには「中世」はない。3行目を中心に考えると、池井がガリレオを追体験している。「いま」、「ここにはない」中世の街をガリレオになって歩いている、という具合に読むことができる。
 でも、ほんとうかな?
 ガリレオが中世の街を歩くとき、やはり「中世(いま)」にはしばられない「いつもの(永遠の)」街を歩くということがあるのではないか。
 池井が「いまはないいつもの(永遠の)街」を歩くことと、ガリレオが「いま(中世)はないいつもの(永遠の)街」を歩くことは、「いつもの(永遠の)」ということばのなかで溶け合い、ひとつになる。
 だから「主役」がガリレオか、池井か、と区別することは、意味がない。「いつもの」こそが、この詩の「主語」なのだ。
 その証拠(?)に、大切な「いつもの」は繰り返される。

天動説の空が展(ひら)け
眉間に深い皺(しわ)を寄せ
だからといって不機嫌でもなく
漆黒帽子に漆黒外套
おやガリレオさんごきげんよう
あいもかわらず錬金術かね
まいどおなじみのひやかしだって
なにくわぬ顔のガリレオは
タバコと燧(ひうち)を切らしましてな
いまもむかしもかわらない
空には雲が
頬には風が
あしたのことなどだれもしらない
あさって獄死することだって
ガリレオはまた空を見上げる
ああいい
いいなあ
それでも地球はまわっているか
へんていもないあとかたもない
いまもむかしもだれもしらない
未知なる未知なる未知なる未知へ
ガリレオは
眉間に深い皺を寄せ
空ゆく雲の下をゆく

 「いつものようにガリレオは」は文字通り「いつも」。ほかにも「まいどなじみ」「いまもむかしもかわらない」も「いつも」を言い換えたもの。そして、その「いつも」を「永遠/普遍」と読み替えるならば「あしたのことなどだれもしらない」の「だれもしらない」も「いつも」なのである。だからこそ「いまもむかしもだれもしらない」とも言いなおされる。「いまもむかしも」区別なく、「いつも」「だれもしらない」。それが「永遠」。それが「普遍」。あるいはガリレオに敬意をあらわして「真理」といってもいいかもしれない。
 「いつも/永遠/普遍/真理」は「へんてつもない」とも言い換えられている。かわったことではない。かわったことではないからこそ、人を支える。全ての人を支える。ガリレオを支え、池井を支え、ガリレオに挨拶し、冷やかす人をも支える。
 その「いつも/永遠/普遍/真理」を池井は、さらに「未知」と言い換える。「未知」、いまだ知らない。「だれもしらない」。知っているけれど、「未知/しらない」としか呼べないもの。
 禅問答みたいだけれど。
 で、何も知らないのだけれど、知らないといいながら知っていること。

空には雲が
頬には風が

ああいい
いいなあ

 この4行がすべて。
 空の雲を見つめ、頬に風を感じ、「ああいい/いいなあ」と思わず声が出る。そのときの「声」ってだれの声? もちろん、それを発した人の声だけれど、その人だけにとどまらない。どこか「肉体(いのち)」が引き継いでいるDNAの声という感じがするなあ。
 「いま」なのだけれど「いま」ではない「いつもの」声。だれの遺伝子が肉体のなかを動いて「ああいい/いいなあ」という声になっているのか、だれも知らない。けれど、だれもが「わかっている」。
 こう読むと、「いつも」の池井があらわれてくるね。


池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1)
池井昌樹
角川春樹事務所
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「袋」って、どんな袋?

2016-10-29 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
「袋」って、どんな袋?
               自民党憲法改正草案を読む/番外36(情報の読み方)

 2016年10月29日読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面。「シベリア抑留死/DNA鑑定検体 誤焼却/61人の歯 身元確認不可能」という見出しの記事がある。厚生労働省が遺骨収拾中にDNA鑑定検体用の歯を61人分間違って焼却した、という。
 その記事中の、次の部分。(便宜上、1、2の番号をつけて引用する。)

(1)同(厚生労働)省職員が21日までに74柱の遺骨を収容。このうち68柱から歯を採取した。ミスが起きたのは22日。職員は同日朝、保管庫から遺骨と61柱分の検体を出し、焼かずに持ち帰る検体は一つの袋に入れて休憩用テントのテーブルに置いたが、遺骨を焼く儀式の後、検体がなくなっていることに気付いた。
(2)近くのたき火から焼けた歯の一部が発見されたことから、ロシア人作業員が暖をとるためのたき火に誤っていれたと見られる。

 まず(1)。ここで驚くのは、「袋」ということば。どういう「袋」? それがわからない。遺骨から歯を採取するとき、どんな形で採取したのだろうか。ひとりひとりの遺骨(歯)が混ざらないように、箱(瓶)に入れる、目印の日付、番号を記入するという形で採取したのだろうか。それを「袋」に入れていたのか。「袋」には何も記入していなかったのか。もし、検体の歯がそれぞれのケースに入っていて、なおかつそれを入れか「袋」に何かが明記してあれば、その「袋」を持ち上げた瞬間に、何か感じるはずである。簡単に燃やしていいとは、日本語が読めないロシア人でも気づきそうである。
 記事には、「厚生労働省は28日」「発表した」とある。「発表した」のなら、そのとき記者はその場にいたはずである。「その袋はどんなものか」「検体はそれぞれ個別に区分けされ、保存されていたのか」などの質問が出そうなものである。だれも、質問しなかったのか。
 ここから、厚生労働省の「ずさん」な検体の収集方法が浮かび上がる。私の想像(妄想)だが、それぞれの歯を個別ケースに入れる、識別の文言を書くというようなこともなく、無造作に「一つの袋」に入れて収集したのではないのか。収集時から「ずさん」だったから、こういうことが起きたのではないのか。

 (2)は、私にはロシア人に対して失礼な言及だと思う。ロシア人作業員なら「テーブルの上に置いてあるもの(袋)」を勝手に燃やす。たき火の材料にする、ととらえている。床の上(部屋の隅っこ)に無造作に置いてあるものなら「ごみ」と判断するかもしれない。それだって、ふつうは「これを燃やしてもかまわないですか」くらいは聞く。それが人間の常識。まして、テーブルの上に「きちんとした袋」(包装してあるとわかる状態)のものなら、勝手に燃やすということはありえないだろう。
 これは、厚生労働省が、この記事をロシア人が読まないということを想定して、でっちあげたものだろう。もしかするとロシア人ではなく、厚生労働省の職員が、ずさんな収集、ずさんな管理の果てに、間違って焼却してしまったということかもしれない。

 「袋」という一語から、私は、そんなことを読み取った。
 「袋」でごまかす厚生労働省もひどいが、「袋」ということばに反応しない(問題点を指摘しない)記者もひどい。単に発表されたことをそのまま伝えるのが記者の仕事ではないだろう。



 これに通じる別の記事を読んだ。36面に「「土人」発言受け抗議決議/沖縄県議会「県民に深い傷与えた」という見出し(記事)につづき、「「見下す認識なし」/答弁書を閣議決定」という見出しと記事がある。

 政府は28日の閣議で、沖縄県の米軍訓練場周辺に派遣されていた大阪府警の機動隊員が「土人」などと発言した問題について、「府警によると、感情が高ぶるなどした結果であり、沖縄の人を見下したとの認識は(隊員には)なかった」とする答弁書を決定した。民進党の長妻昭衆院議員の質問主意書に答えた。

 これも「責任転嫁」(自分の責任を放棄した)考え方である。大阪府警では、人権に対する教育が行われていないということだろう。「権力者(警官、機動隊員)」が市民と接触するとき、絶対にしてはいけないことが、きちんと教育されていない。「肉体的接触」「精神的接触」の両面で、何をしてはいけないか。それが教育されていない。そして、教育されていないとしたら、それは教育を受ける側の人間(警官、機動隊員)の責任というよりも、教育る立場にある人間に責任がある。隊員に「認識がない」から問題ではないのではなく、隊員に「認識がない」からこそ問題なのだ。隊員に「認識がない」のは教育する人に「認識がない」からだ。

 シベリアでの「遺骨」問題に戻る。
 ロシア人に「遺骨/検体」という意識がなかったこと(なかったからたき火にしたということ)が問題なのではない。それが貴重な「検体」であるという意識があれば、当然、周辺にいる人物(ロシア人作業員)に対して、「これは貴重なものである」と伝える。貴重なものであると「認識させる」はずである。
 たとえロシア人がたき火にして燃やしたとしても、それはロシア人に「認識がなかった」からではなく、そもそも厚生労働省の職員に「貴重なもの」という「認識がなかった」のである。
 そういう「認識不足」の職員を育てているのが安倍内閣なのだ。そういう安倍内閣のもとで「戦争」が始められようとしているだ。









*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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千人のオフィーリア(メモ4)

2016-10-29 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ4)

イルミネーションとエッジの強いミュージック、
まばゆいもの汚れた傷を隠すしかない船の客たちが、
さかのぼってくる潮が喫水線をゆするよう叫ぶ。
--八百九十七人目のオフィーリアを見つけたぞ。
--どこだ、右舷か、左舷か。
--どれだ。スカートの裾が破れたやつか、あれならもう見たぞ。
--どれだ。乳房を水にひからせているやつか、そいつは七百三十二人目だ。

黒い水。銀の波。排水のけだるさとつながる水の、
粘るようなぬるさのなかに閉じ込められて、
流される私たち。千人のオフィーリア。
こんな夜中にカモメが飛んでくる。高みから降りてくる。何を見つけた?
こんな夜中に、橋のためもとコンクリートの階段で
千人のオフィーリアと船を見比べている男。何をみつけるために?

オフィーリアよ、私は捨てられた女の亡霊、
あるいはハムレットの父の亡霊だ。
未来へ向けてさまよい流れていく運命だ。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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黒澤明監督「七人の侍」(★★★★★)

2016-10-28 09:22:47 | 映画
監督 黒澤明 出演 三船敏郎、志村喬、藤原釜足、加東大介、木村功、千秋実、宮口精二、小杉義男

 午前10時の映画祭で「4K版」の上映をやっている。フィルムとどう違うだろうか。それが気になって見に行った。
 全体の印象でいうと「遠近感」が弱くなった。映像のエッジというのだろうか、ものとものとの境目がくっきりしすぎて「遠く」が「うるさい」。「見えすぎる」のである。どの強い眼鏡をかけされた感じといえばいいかもしれない。「近く」も「生々しすぎる」。見ていて、ちょっと見るのがめんどうくさくなる。目をつぶりたくなる。
 その結果(?)。
 志村喬のスクリーン全体へ「気迫」が広がっていく感じがそこなわれた。「気」が志村喬の、すぐそばには確かにあるのだけれど、スクリーン全部を支配するという感じにならない。いや、全体を張りつめさせる力はちゃんとあるのだが、支配されているものたちの存在も、妙に「くっきり」とした印象なのである。
 逆に、三船敏郎の存在感が強烈になった。スクリーンを飛び出す感じ。特に「野武士が来たぞ」と騒ぐところ。一気に農民を引きつけるところが、役どころの「本性/正直」があらわれていて、気に入った。これまでの印象では「演技」をしている、という感じだったが、今回は「地(正直)」をむき出しにして、その力で人を引きつける、という感じがとてもよく出ていると思った。
 他の、「野性」むき出しのシーンも、デジタル4Kの方がフィルムのときよりも、生々しく感じられた。
 もっとも、これは私の三船敏郎「見方」がかわっただけで、「映像」そのものの変化ではない、という意見もあると思うが。
 他のシーンでいうと、クライマックスの雨と合戦のシーンは、「何が/だれが」主役なのか、わからない感じはデジタル4Kの方が強烈になった。雨も、馬も、野武士も、百姓も、みんなが「主役」のままぶつかり合う。フィルムのときよりも「個」というか「細部」の衝突が激しく、映像が「音」になる感じ。フィルムのときは「ひとかたまりの音」だった「映像」が、デジタル4Kでは一つ一つの「音」になっている。「和音」を「一つ一つの音」が突き破る感じといえばいいだろうか。
 何回か見ているはずなのに、思わずからだが「ぐい」っと前につんのめりになる。もっと見たいという気持ちになる。
 しかし、静かなシーンでは、逆効果。たとえば風が吹いて土埃が舞う。その「荒々しさ」が嘘っぽい。人工っぽい。刈り取りのときの麦の穂の輝きは日光と調和し美しいが、山の中の野の花の白は人工っぽい。山の緑(?)と調和していない。木漏れ日と調和していない。
 それと、気になったのが「かつら」の処理。
 フィルム版では、かつらのつなぎ目が「露骨」に見えた。いまならとてもあんなかつらはつかわないのに、とがっかりするくらい「露骨」だった。それがデジタル4Kでは意外と目立たない。デジタル化するとき、処理をしたのだろうか。「改良」なのかもしれないが、あれっ、と思った。
 どうせ処理をするなら、三船敏郎の「セリフ」を聞きやすくしてもらいたい。とはいっても、聞きやすくしてしまうと三船敏郎ではなくなるかな? 聞き取れない(洗練されていない)というのが、三船敏郎の役どころ。
 うーん、むずかしいなあ。

 (フィルムの保存、あるいはデジタル化は、かなりむずかしい問題を含んでいると思う。「ゴッドファザー」はフィルム版はフィルムが劣化して、漆黒の黒が、使い古した安ものの喪服の色に見えてがっかりした。デジタル版では漆黒の黒が再現されていた。
 「七人の侍」は、私は公開年には見ていない。最初に見たのは公開から20年近くたったころ。フィルムはすり切れ、粗かったのだが、美しいと感じた。
 デジタル4Kも美しいのだが、何か違った美しさである。
 私は目も悪いし、製作当初のフィルムも見ていないので、見当外れの感想かもしれない。昔のフィルムを見ている人の感想が聞きたい。)

               (天神東宝ソラリアスクリーン7、2016年10月27日)

 *

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七人の侍 [Blu-ray]
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千人のオフィーリア(メモ3)

2016-10-28 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ3)

夜の川を流れてくる千人のオフィーリア
私はいるだろうか。私はいない。私はここにいるのだから。

川の夜を流れていく千人のオフィーリア
私がいるに違いない。私はここにいるけれど、ここは私の場所じゃない。

夜は川になって欅の枝の下をとおりすぎる。
あれかしら、あれじゃない。あれかもしれない。

思いは百年流れて橋を見つける、
オフィーリアは百歳おばあちゃんになる。

ああ、やっと。やっと橋の下を見ることができる。
一度、見たかった。

夢のなかへ記憶が流れてくる。
千人のオフィーリアになって。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
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水の周辺10

2016-10-27 09:17:45 | 
水の周辺10



きのう食べたものが
口からもれる朝。あまい、もやもやの
息。

水を飲む。



椅子の上の、脱いだ形のままの肌着。
花瓶ののどのあたりの、
残った水のぬるい翳。

水を吐く。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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斎藤恵美子『空閑風景』

2016-10-27 09:14:58 | 詩集
斎藤恵美子『空閑風景』(思潮社、2016年10月15日発行)

 斎藤恵美子『空閑風景』を読みながら、困ってしまった。ことばが「肉体」に入ってこない。なぜだろう。「ことばの過去」というものについて考えた。「ことば」にはそれぞれ「過去」がある。どんなふうにつかってきたか、という過去。繰り返し方。それが、たぶん私と斎藤では違いすぎで「ことばの肉体」が重ならないのである。
 「肉体」ということばをつかったので、「肉体」を例に、ちょっと違うことを書いてみる。芝居を見る。役者が出てくる。その瞬間に「わかる」ことがある。「おもしろそう」「つまらなさそう」。「おもしろそう」と感じるのは、私の「肉体」を刺戟してくるものがあるからだ。その役者が体験してきたことが「肉体」に出ている。これを「存在感」という。存在感を感じるのは、その役者が無意識にあらわしている「体験」が「肉体」のなかに出ているということである。それを私は無意識に感じる。共通のものがある。と、同時に、その共通を「否定する」何かもある。それは、一瞬にして感じるものである。具体的な説明は、そのときは、できない。見終わったあとで、「屁理屈」で説明を付け加えるだけである。これを「批評」と呼んだりする。
 で、斎藤のことばにもどる。斎藤のことばを読みながら、私は「過去」を感じることができなかった。言いなおすと、「斎藤のことばの過去」と「私のことばの過去」が完全に断絶していると感じてしまったのである。

夜の指は
地上の無数のエレメントを数えるために存在する        (「不眠と鉄塔」)

モノローグに入り込んで、戻ってこない君の声を、声の背後をゆれる
文字を、どの視線でひもとこう。           (「コンケラー・レイド」)

 「エレメント」「モノローグ」というカタカナことばを私は聞かない。本のなかでしか読んだことがない。私は自分の声にしたことがない。だから、「音」が聞こえてこない。これが、私には、何かとてもつらい。そして、耳には届かない何か、私の「肉体」では反芻できない何かが、私とは離れたところで、私を拒絶して、わけのわからないまま、そこにある、という感じ。
 うーん、困ったぞ。

抽象的な青のなかに、具体的な青が揺らぎ、気配が
水中で反転し、その波跡に、在ることを許される          (「蒸溜癖」)

 「抽象的な青」と「具体的な青」の「違い」が、わからない。どちらも「抽象的」。というよりも存在しない。まるで、9999角形と10000角形の違いのよう。ことばでは「違い」としてあらわすことができるが、それを私は紙の上に書くことができない。四角形と五角形、六角形の違いなら、書くことができる。つまり、目でも手でもつかみ取ることができる。そんな「ことばの違い」でしかないものを「気配」と言われても、「頭」がいたくなるだけ。「水中の反転」なら、その「波跡」というのも「水中」だろうけれど、その「反転」や「(波)跡」に「抽象的な青」「具体的な青」が「在る」と言われても「ことば」として「ある」だけ。つまり「ことば」があるだけ、という感じで困ってしまう。
 これは、「頭のいい人」向けの詩集なんだなあ、とほとんどあきらめながら読むしかなくなる。

ピスタチオの殻の闇へも粉雪の降る三月の             (「蒸溜癖」)

 というのは美しい一行だなあ、と思いながらも、それに酔ってしまうことができない。「雪」ではなく「粉雪」と「雪」の音節を増やしたことろが「ピスタチオ」の音の多さと響きあって、とてもいいけれど。
 
 複数の行にわたる部分では、

たったひとつの符牒のために
塗りつぶされた生涯を、記す日記が、部屋のどこかで
まぶしい晩年を生きなおし、二人で記憶に耽っていると
背後の、それぞれの断崖を、ひっそりと
わたしの正午を、追いつめてゆく日付がある               (「符牒)

 「日記」は「あなた」の日記。それを読んでいるのは「わたし」ひとりなのだが、読むことで「ふたり」になり、その「ふたり」が重なる。重なりながらも、どこかで「違い」を見つけ出す。重なるからこそ、違いがわかるといえばいいのか。
 先に書いた役者の例で言えば、あっ、この人はこうなんだと、「肉体」そのものとして目の前にあらわれてくるといえばいいのかな。
 文脈が「ごつごつ」しているが、その「ごつごつ」の感じが、それぞれの「肉体」の発見そのもののようで、とてもおもしろいとも思う。

 「静かな使者」の前半も、私には、とても気持ちがいい。「漢語」さえ、あっ、このことば知っていると、「耳」も「舌」もはしゃぐ。

みぞれの音階を弾くような、仄暗い土地の名も
痩せ地を割って流れる川の
名前も、水鳥が攫っていった

橋を、吐息から渡りきり
それゆえの裂傷を、疼くゆび
翳せば、暦を捲くったはずの、右手が今朝は、月よりも遠い
捩じれた雨や、枯れ草の色
山側にだけ、こぼれる花

 特に「山側にだけ、こぼれる花」がいいなあ、と思う。芭蕉の俳句にでも出てきそうなことばの動き、ことばの「過去」を感じる。この「ことばの過去」を、私も「肉体」で知っているという安心感と、あ、そうか、あれはこういうふうに言えばよかったのか、と「過去」を思い出すよろこび。

 「空閑風景」は詩集のタイトルになっている作品。たぶん、いちばん力をかけて書いたのだと思うが、私はこういう世界を「画像と化した」(98ページ)風景でしか知らない。斎藤は「画像」ではなく、斎藤自身の「肉体」で見たのかどうかわからないが、私には斎藤の「肉体」がつかみとってきた「事実」というものが感じられなかった。これは、私にそういう経験がないから、そう見えるだけのことなのかもしれないが。

 「世界」を知っている「頭のいい人」の批評にまかせるべき詩集かもしれない。
異教徒
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思潮社
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柏木勇一『ことづて』

2016-10-26 16:29:32 | 詩集
柏木勇一『ことづて』(思潮社、2016年10月20日発行)

 柏木勇一『ことづて』にはいくつかの種類の詩がある。柏木自身は四つにわけている。私の印象では最後の四つ目の章(一篇)は三つ目の章でもかまわないと思う。最後の一篇は「長歌」に対する「反歌」のように位置づけられていると思うが、私は、作者の「意図」を無視して読む。「冥土の馬」の方が「反歌」のように全体を反映していると感じた。こういう作品。

わたしというひとつの空虚のなかで
胸膜あたりに棲みついた一頭の馬が暴れる
それは決まって凍えるような冬の夕暮れである

一頭の馬が駆けぬけた
原野ではない 草原でも浜辺でもない
ちいさな北の町の真冬の商店街を疾走した
橇の紐をふりほどき 氷の地面を蹴り
四つ角を曲がりきれないまま右膝から堕ちた

 一連目の馬は「象徴」。あるいは記憶と呼んでもいい。「胸膜」にこだわれば「記憶」になるが、「空虚」が、それを単なる「記憶」ではなく「象徴」にかえる。「意味」にしてしまう。
 二連目で馬は「象徴」から「記憶」にもどる。このときは、まだ「象徴」にはなっていなかった。特異な「事件」だった。暴れ馬。それが街を駆け抜ける。
 三連目で、事件が「馬の事件」ではなくなる。こんな具合に。

一頭の馬が駆けぬけた
けたたましい悲鳴を町中に響かせ
馬は目を開けたまま殺された
近郊からも集まった人びとが
夜明けまで 湯気が激しく立ちのぼる桜鍋に酔った

 もう橇を引けなくなった馬。それを解体して鍋にして食べる。「馬」が主役の事件から、「人間」が主役の事件に変わる。この「主役の交代」をスムーズにするために、つまり詩にするために、「馬」は「象徴」になる。「いのち」を食べる。それは「いのち」をつなぐこと。「いのち」は引き継がれていく。そういう「意味」を生み出すことで、柏木は、この人間の「事件」を受け入れている。
 ただ、「よろこび」をもって受け入れるという形ではない。完全な「肯定」ではない。「肯定」しきれないなものがあるから、それを「象徴」にするのである。「象徴詩」が柏木にとって詩なのかもしれない。
 後半で、こういう動きを、柏木は、こう整理する。

わたしというひとつの空虚のなかで
声帯を鼓舞するようにあのかすかな蹄の音が震える
凍えるような冬の闇がわたしにも泣けとささやいている

 「声帯」という「肉体」。「声帯」で「馬」を反復する。「馬」になる。そして、この「声帯」という「名詞」は「泣く」という「動詞」と結びつくことで、柏木を「馬」にしてしまう。
 「馬」の立場から、幼い日に見た「記憶」を「肯定」する。人間そのものの立場ではなく、「馬」として受け入れる。
 とても美しい。
 けれど、私には、その美しさが気になる。「美しい」と書いたあとで、ちょっととまどう。

 私は「喉」という作品の方が「強い」と思う。ここにも用をなさなくなった動物を食べるという「事件」が描かれている。

腐敗は
外部に触れている咽頭から始まります
遺体確認にたずさわる法医学者が話した
有機質から無機質へ
人体の腐敗の過程は下部に降りていくという

種類食品販売業の父が戦死
病弱だった母は
肉屋も営み生きた鶏を捌いた
二本の足を左手でつかみ
右手に握った剃刀で鶏の柔らかい喉を刺す
キーン 鉄のような悲鳴をあげる鶏
どす黒い生血を茶碗一杯
母はごくりと飲み込む
母の喉が脈打つ

その夜 子どもたちは
鶏のあらゆる部位を食べあさった

すべての言葉は喉をふるわせて発せられる
うつろな目
眠っているのか
何を見ているのか
何かを思い出しているのか
記憶がいっそう混濁し
ふるえることも少なくなった母の喉は
樹枝のような静脈が透き通っている
鶏の皮だ

腐敗は
咽頭、気管に続いて
胃、腸、肝、腎、膀胱へ進みます
脳はその間のどこかでしょう
(個人差もあるというのか
一番遅いのが子宮です

 ここに書かれている「喉」は「象徴」ではない。「意味」ではない。「肉体」の一部であり、かつ一部ではない。「全部」である。切り離したら「喉」は「肉体」ではなくなる。
 柏木は、「母の喉」を見ている。「喉」をとおして、自分の「肉体」も見ている。「自分の肉体」と「鶏の喉」とつながっている。このときの「つながり」は馬を食べるというのと同じつながりである。「食べる」ということと、「いのち」のつながりが、ここでも反復されている。ただし、そのことを柏木は「象徴/意味」としては書いていない。「事件」のまま放り出している。
 何が、そうさせたのか。なぜ「意味/象徴」として書かなかったのか。
 書かなかったのではなく、書けなかったのだろう。しかし、この「書けなかった」は、批判ではない。否定ではない。私は、この「書けなかった」に、「強さ」を感じる。
 「馬」も「鶏」も「他者」である。柏木から「断絶」している。その「断絶」をつなぐために「いのち」ということばが必要であり、そこに「象徴」が介入してくる。
 ここに描かれている「母」もまた「他人/他者」である。しかし、母と子という「いのち」のつながりがある。「象徴」を必要とはしない「いのちのつながり」。しかし、ほんとうに「つながっている」のか。言い換えると柏木は母を自分と「同一」と考えることができるか。「いのち」ということばで「融合」させることができるか。
 できない。
 咽頭、気管、胃、腸、肝、腎、膀胱、さらには脳までは、重ね合わせることができる。同じ人間として自己投影ができる。馬にも鶏にも自己を投影することはできる。(馬には自己投影し、鶏には自己投影していないが。)けれど、母には自己投影ができない。母を自分の考えていることの「象徴」にすることができない。
 子宮があるからだ。
 「腐敗が一番遅いのが子宮です」と法医学者は言う。その「子宮」に守られて柏木は生まれてきた。それは完全な「他人」なのだ。
 柏木は母の子宮から生まれてきた。だから、子宮を「自己同一」してもいいのかもしれない。けれど、柏木には子宮がない。そのことが、母を絶対化する。自己投影/自己同一/象徴を拒絶する。
 柏木は母をとおして「絶対的な他人」というもの発見している。
 この発見が、他の作品にもあればいいなあ、と思う。柏木が出会うのは、「絶対的他者」。「全体的他者」であるから、それを「象徴/意味」としてはいけない。「象徴/意味」にしないこと、「絶対的他者」そのものとして描くとき、きっとその「絶対的」な部分に「詩」が動くのだと思う。その「絶対性」に、柏木が、いわば否定されることで、柏木自身が生まれ変わるのだと思う。
 「喉」には、その「生まれ変わり」の「瞬間」が描かれている。「子宮」の発見によって。この詩こそ、美しいと呼ぶべきものだと思う。

ことづて
柏木勇一
思潮社
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千人のオフィーリア(メモ2)

2016-10-26 09:51:05 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ2)

私、言ったの。「小鳥の死骸を埋めたの、
メタセコイアの細い落ち葉をかき分けて固い土を掘ったの、
そうしたら地底で星が光りだしたわ。
ぬれた匂いが。
それとも死を嗅ぎつけてやってきた白い虫かしら」
犬が尻尾を股の間に挟んで首を伸ばして見ていた。

屈辱を投げつけてやりたい。
胸の中で燃え上がり、
長い時間をかけて静かなよろこびに変わる。
そんな矛盾に満ちた屈辱。
私の宝物。







*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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水の周辺9

2016-10-25 11:39:50 | 
水の周辺9



水が澱む。
沈黙の如く。

水が澄む。
怒りの如く。



水がつながる。
憎しみのように。

水が離れる。
音のように。



沈黙がさかのぼってくる。
水のように。

怒りが曲がる。
水のように。



憎しみが離れる。
水の如く。

音が重なる。
水の如く。




*

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マシュー・ブラウン監督「奇蹟がくれた数式」(★★)

2016-10-25 08:32:34 | 映画
監督 マシュー・ブラウン 出演 デブ・パテルラ、ジェレミー・アイアンズ

 「アインシュタインと並ぶ無限の天才」とも称されたインドの数学者ラマヌジャンと、彼を見出したイギリス人数学者ハーディの実話を映画化した伝記ドラマ、という「ふれこみ」。
 数学を映画で見せるのはむずかしい。だから(?)、「未知との遭遇」では「音楽と光」であらわしていた。「コンタクト」では平面に書かれていた数式が実は「立体」に書かれていた(数式のつながりが平面とは違ってくる)という形であらわしていた。でも、この映画では、そういう「仕掛け」はない。ぱっと見ただけではわからない数字、数式がノートや黒板に書かれるだけ。唯一、素人でもわかるのは、「4という数を整数の組み合わせで表現すると何種類あるか」という部分くらい。1+1+1+1、2+1+1、2+2、3+1、4の5種類。この「5」という答えを導き出すための「公式」を発見しようとしている。
 ラマヌジャンは「証明」は苦手だが、なぜか、「答え(公式)」はひらめく。ハーディは「証明」(公式を発見するまでの過程?)ができなければ、その「答え」は「公式」とは言えない、という。そこに、一種の不思議な「ドラマ」があり、この「理不尽なドラマ」と、イギリス、インドの関係が交錯する。当時、インドはイギリスの植民地だった。ハーディの、「証明できなければ公式ではない」という姿勢は純粋に数学的な問題であって植民地支配(インド人への蔑視)とは別問題のようだけれど、自分の知っている「流儀(思想)」以外は受け入れないという部分では、何か、通じるものがある。かたくななのである。
 身分の安定しないラマヌジャン、フェローという身分の確定したハーディ、「神」を信じるラマヌジャン、信じないハーディ、結婚しているラマヌジャン、未婚のハーディ、故国から離れて孤独なラマヌジャン、母国にいるハーディ(友人のいるハーディ)、さらには菜食主義のラマヌジャン、肉食のハーディ。ふたりは、なにから何まで違うのだが、この違いを「数学」がやわらげていく。
 あ、そんなことはないか。
 かたくななハーディの方が少しずつ変化してゆき、ラマヌジャンをさえるようになる。「天才」を発見し、そのことに夢中になる。天才といっしょに数学の難題に立ち向かっているうちに、いままで知らなかった「人間の苦悩」を知り、こころを開いていくようになる。そういうことが「テーマ」になっている。ハーディの変化。イギリスの変化。
 だから、見どころはジェレミー・アイアンズ(ハーディ)の演技力。なかなか丁寧なのだが……。うーん、その前に見た「ある天文学者の恋文」がよくなかったなあ。あの、いつまでも終わらない映画で、「ビデオ」の中だけで出てくる「学者」の印象が悪すぎて、親身になって見ることができない。どこか巧みに演じているだけというかんじ。悪く言うと「公式」にしたがって肉体を動かしいる。感情が自然に動いていくという具合は感じられない。私は「ダメージ」のラストシーンのジェレミー・アイアンズが好きなのだが。
 それに。
 一番の問題は、デブ・パテルラ(ラマヌジャン)の方は、そんなに「こころ」が変化していかないところだなあ。ハーディが変化するならラマヌジャンの方も人間として変化していいはずなのに、ずーっと「数学」に夢中になっているだけ。「数学」が認められてうれしい、というだけ。インドに残してきた妻のことを思ったりはするのだけれど、その思いが「数学」に反映することはない。「数式」を美しくするわけではない。
 「天才」の「頭脳」はわからない、というのは、それはそれで仕方がないが、「天才」の「こころ」は、もっと「人間らしく」描いてほしいなあと思う。ハーディも凡人ではなく「天才」のひとりなのだろうけれど、この映画では何かラマヌジャンという「天才」がハーディという凡人の「こころの変化(人間的なふくらみ)」を導くための「補助線(あるいは狂言回し)」になっているところが残念。せっかく「天才」を描くのだから、もっと「天才」に焦点をあててほしい。
                      (KBCシネマ2、2016年10月24日)

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