詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林木林『植星鉢(ぷらねたぷらんた)』

2007-11-30 01:28:08 | 詩集
 林木林『植星鉢(ぷらねたぷらんた)』(土曜美術出版販売、2007年11月20日発行)
 「夕焼け」という詩がある。

私の体じゅうに流れているのは
もしかすると夕焼けで

私の膝小僧の奥を流れる夕焼けの中で
小学生の私がいま擦り剥いた膝を抱いて
真っ白な月を空に見つけている

私の肘のあたりを流れる夕焼けの中で
三歳の私がいま小さな肘を
曲げ伸ばししながらお遊戯している

私の胸のあたりを流れる夕焼けの中で
私はいま生まれたばかりで
自分を包む赤い色が
夕焼けだともわからないで泣いている

 林の特徴が凝縮されていると思う。ひとつは繰り返しである。繰り返しのリズムでことばがどこかへ進んでいく。ほんとうはことばはどこへもゆかず、同じところにとどまっているかもしれないが、繰り返しのなかにある「違い」がどこかへ動いて行っているはずだ、動いていかなければ「違い」は生じないのだから、という感じを抱かせる。
 でも、どこへも動いて行っていない。同じところにとどまっている。「私の体じゅうに流れているのは/もしかすると夕焼けで」という思いのなかにとどまりつづけている。しかもそのとどまり方は「もしかすると夕焼けで」の「で」が象徴的にあらわしているが、終止形ではない。終止形を拒否しながらとどまっている。
 終止形を拒否しながらとどまるという一種の矛盾は不安定なか感じ、揺らぎを呼び覚ます。そして、その揺らぎと、繰り返しの中の「違い」の揺らぎが重なる。--その揺らぎと揺らぎが干渉する--そこに林の抒情がある。林の抒情はそこから生まれてくる。

 もう一つは「三歳の私がいま小さな肘を」の中にあらわれる「小さな」ということばへの偏愛である。
 林は大きなもの、大きくて不動のものには身を寄せない。小さなもの、弱々しいものに身を寄せる。こころを預ける。小さなもの、とは「尺度」が小さいに通じる。「尺度」が小さいととらえられるものが限られてくる。大きなものを小さな「尺度」ではかろうとすると、そこに揺らぎ・誤差(違い)が生まれる。その揺らぎも、林にとっては抒情である。「違い」と「揺らぎ」を引き出すために「小さな」存在が必要なのだ。

 大きなものに出会ったときは、どうするか。「小さなもの」にしてしまう。次のように。(「秋晴れの朝に」の冒頭である。)

いい天気だから
窓をあけて
向かいの家の窓ガラスに映った隣の家の窓ガラス
に映っている斜め向かいの家の窓ガラス
に映っている小さな青空を覗き込む

 「空」はそんなふうに断片に、「小さな」存在にさせられる。
 これは林の「詩」に対する戦略なのだろう。とても効果を上げているとは思う。

 林の詩に疑問があるとすれば、「詩」に対する戦略はあってもことばに対する戦略が欠けるということだ。ことばを信じすぎてはいないだろうか。
 たとえば「庭」。

太陽に葉っぱがあって花びらがあった
星空に枝があって幹があった
月の中に桶を降ろして水を汲んだ
雲が晴れると小さな庭が見えた
木陰が揺れ花が咲いて井戸があった
あなたと私は星をもいでは食べて話をした
私たちの木靴のそばには
太陽が咲いていた
母さんが私たちの名を呼んだけれど
私たちはどちらが自分の名なのか分からない

 「私たちの木靴のそばには」の「木靴」に私は驚くのである。これはいったいなんだろう。どうして「木靴」ということばが出てくるのだろう。ここには実感というものがない。いや、ことばに酔っているという不思議な実感、ことばにすればなんでも詩になるのだという感覚に酔っている、その酔いの不思議な実感だけがある。ことばを信じきったときにだけ訪れる恍惚・愉悦がある。ことばの恍惚・愉悦が「木靴」を呼び出すのである。林の肉体が呼び出すのではない。

 ここにも「詩」は存在するだろうけれど、私は、それとは違った詩を読みたい。

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柴田恭子『母不敬』

2007-11-29 11:30:01 | 詩集
 柴田恭子『母不敬』(思潮社、2007年10月14日発行)
 「母不敬」という長い詩が冒頭にある。タイトルに「母」はでてくるが、詩のなかには「母」は登場しない。登場するときは、いつも「ハハ」である。「父」「兄」「妹」は登場するが「母」は登場しない。「母」は柴田の意識のなかで、特別な存在らしい。
 どんなふうに特別か。扁額の「母不敬」との関係で柴田は書きはじめている。

ハハヲ ウヤマワズ と読んだ

 この「ハハヲ ウヤマワズ」のなかに登場する「ハハ」は「母不敬」の読み方が間違っているように、間違って読まれた「母」なのである。「母」がほんとうはどういう存在なのか知らず、誤読した「母」が「ハハ」なのである。
 柴田の母は、柴田の詩を読むと医師をしていたらしい。立派な存在である。かなり厳しい人でもあったようだ。敬われてしかるべき存在である。しかし、柴田は、その医師である「母」に対してどう向き合っていいのかわからなかったようだ。どんなふうに甘えたらいいのか、どんなふうに愛情をたぐりよせたらいいのかわからなかったようだ。その悲しみが「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」と読ませ、「母」を「ハハ」と書かせているのである。
 「母」にうまく甘えることができなかったのは、なぜか。「母」が甘えるひとには感じられなかったからだろう。「母」は甘えない人間である。したがって、「母」に甘えることは許されない。「母」は甘える人間が好きではない--そういう屈折した思いが、「母」に甘えることを禁じ(これはもちろん柴田が柴田自身に禁じたという意味である)、「母」は尊敬すべき存在という意識を生み出し、それが重荷となって、その反作用のようにして「ハハヲ ウヤマワズ」と読んでしまうのである。
 「母」は尊敬の対象であってはいけない。尊敬の対象であるよりも甘えを受け入れてくれる存在であってほしい--そういう思いが、柴田に作用し、「ハハヲ ウヤマワズ」という読み方が生まれ、「ハハ」という表記が生まれる。
 ほんとうは「母」に甘えたい。「母」も甘える人間であることを知りたい。「母」が甘える人間であれば、柴田も甘えることができる。そんな思いが、ここには隠されている。--というようなことを考えたのは、18の断章で構成されているこの長編詩の15の部が非常に印象的だからである。

うとうとしているハハが声を出した
金沢の病院に入院したい と
理由はどうしても言わない
手続きを早くして と言う
兄の友人の病院に入院させようと思ったから
兄に電話した
兄は 富山の病院にしろ と
私がとまどっていると
兄に聞こえるように 大声で
「一センチでも近くにいたい と言って!」

 これは柴田が聞いた唯一の、「母の甘え」である。そして、それは家族が聞いた唯一の「甘え」かもしれない。

「一センチでもちかくにいたい」を聞いて
兄が来た
ハハの部屋で
二人静かに話していた
兄は私に声をかけずに帰っていった

痛みは去った

 「甘え」は人間を苦しみから解放する。
 そして、「痛みは去った」の痛みは、「ハハ」の肉体の痛みであると同時に、柴田の、母の痛みの声を聞く痛みのことでもある。母が健やかになるとき、柴田のこころからも痛みが消える。そこには母と柴田との静かな和解がある。美しい和解がある。
 この「甘えるハハ」を描いたあとから、私には柴田の文体が微妙に変わったように感じる。

汗をかいてるね と
熱いタオルで首のあたりを拭こうとした
素早く私からタオルを奪(と)ると
自分で胸のあたりを拭きはじめた
片手で隠して
拭いてあげるね とタオルを取る
こんな小さな胸で
私たち五人は育ったのだ
みんなこの乳房を吸って
命を得たのだと
一瞬 手が止まった

 柴田の肉体のなかに残っている「甘え」の記憶。肉体を通して呼び覚ます「甘え」の記憶。
 この瞬間、柴田は「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」とは読んでいないはずである。肉体の記憶は「ハハヲ ウヤマワズ」は間違っていると告げているはずである。
 正しい読み方を柴田が知ったのはいつのことなのか。それはわからないが、このときから柴田は肉体の声にしたがって「母」と書くべきではなかったのか、と思う。そうすればこの詩は感動的になる。
 「母不敬」が「ハハヲ ウヤマワズ」ではないように、「母」は「ハハ」ではない。そう知った瞬間から、「ハハ」を「母」と書く正直さがあったなら、この詩は感動的なのに、と思わずにいられない。
 そして、また「母」が「母」であると知っているのに「ハハ」と書きとおしてしまうところに、なんといえばいいのだろうか、柴田の「母」の、その「医師」であることを貫き通した姿がダブって見え、あ、親子なんだ、血がつながっているんだとも思うのでもあるけれど。
 それでもなお、柴田の母が「一センチでも近くにいたい」と言ったように、「ハハ」を「母」と書くことができたらなあ、となぜか、願わずにはいられない。すでに書かれてしまった作品ではあるのだけれど、柴田がいつか「ハハ」を、少なくとも15以降を「母」と書き直してくれないかなあ、と願わずにはいられない。
 18は、私は、想像力のなかで「ハハ」を「母」と書き換えて読み、思わず泣いてしまった。「ハハ」を「母」と書き換えると、そこにはなんといえばいいのだろうか、柴田自身が「母」になり、「母」が子どもになり、柴田が子どもに返った「母」を甘やかす風景が浮かび上がり、それが和解のようにこころをなごませ、涙が出てくるのである。
 「ハハ」でと、そんな感じにはならない。なれない。とても、それが、とても悔しい。
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ウディ・アレン監督「タロットカード殺人事件」

2007-11-28 10:39:08 | 詩集
監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、スカーレット・ヨハンソン、ヒュー・ジャックマン

 ウディ・アレンはすっかりイギリスが気に入ったようですねえ。階級社会の個人主義、他人には干渉しないという冷たい感じが楽なのかな? 他人は生きていても、自分と関係がなければ存在しないとみなすことのできる能力(?)があってはじめて、自分を笑いのめすというユーモアが生まれるのかもしれない。そういう社会では、出来事はすべて物語になる--つまり、脚色可能なもの、になる。不都合なものはなかったことにして、都合のいいことだけつなぎあわせて、「これが私の社会」として提出することができる。
 こういう社会観(世界観)がいちばんくっきりでるのが「殺人事件」。ヒュー・ジャックマンのやっていることが、まさにこれ。それをアメリカ特有のヒューマニズム、人間は全員平等、いのちはみんな平等という理想で揺さぶってみる。スカーレット・ヨハンソンがそういう役回りをしている。ウディ・アレンはそのふたりのあいだで、その露骨な衝突劇(?)を小話にしてしまう道化を演じている。
 三つのアンサンブルがなかなかしゃれている。
 特に、「お話社会」という感じで、映画そのものを「小話」にしてしまう仕掛けが、この映画にはぴったりである。ベルイマンの「死神」か、「神曲」の川下りか、死人が舟に乗りながら死んだ理由を語り合う世界と、現実(?)の世界が同じ視点で描かれ(といっても、死の世界は「死に神」によってすぐに現実ではないとわかるのだが、これはたとえば「貴族」社会が家の作りや庭園によって庶民の現実とはちがうとすぐにわかるようなものにすぎないから、私は「同じ視点で描かれ」というのだが……)、そのふたつを「物語」は自在に行き来する。
 「これは映画にすぎません、お話に過ぎません」ということわりつきで、アンサンブルを楽しんでいるのである。
 こういうときは、そうですねえ、やはりイギリス貴族の感覚で映画を楽しむことが大事なのかもしれませんねえ。相手のいっていることは嘘とわかっている。わかっているけれど、その嘘を許し、嘘のなかにでてくる個人の味わいをじっくり味わう。
 嘘というのはいっしゅの「むり」、わざとする何かなのだけれど、その背伸びのなかに不思議とおもしろい味がある。この映画では、たとえばスカーレット・ヨハンソンの水着姿とか、歯並びの矯正具をつけた姿とかの「付録」、「おまけ」とか。矯正具の感じにいらいらしながら顔を動かすスカーレット・ヨハンソンってかわいいでしょ? そういう「おまけ」をばらまきながら、庶民のまま、スカーレット・ヨハンソンがイギリスの階級社会のいわばトップに侵入してばらまく庶民の動き--その身のこなしが色っぽくていいなあ。ウディ・アレンは女優を輝かせるのがとてもうまい。どんな女優もウディ・アレンの映画にでるとうまくみえる。そうしたスカーレット・ヨハンソンの魅力を楽しむための「小話」映画だね、これは。

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廿楽順治『たかくおよぐや』(3)

2007-11-28 00:34:29 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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 詩は「意味」を書いているのではない。「現代詩はわからない」というのが一般の定説である。それは当然である。わからないから詩である。(これは詩に限らず芸術全般にあてはまる。)「意味」を破壊し、「意味」以前の状態、「意味」が生まれてくる「場」そのものを再現するのが芸術というものであり、そこには生成の運動はあっても、「意味」という固定したものは存在しない。「流通」に便利なものは存在しない。それが芸術である。

みんなちがって
みんなきもちわるい

という行が「化身」のなかにあるが、その「ちがって」いて、「きもちわるい」ものが芸術である。詩である。「ちがい」が芸術である。わざと「ちが」えるのが詩である。
 「化身」は、「意味」に還元してしまえば、立ち小便をする「おじさん」とそれを目撃したひととの「空気」を描いている。

(ちょいとなにすんだい)
なりかわってこえをかけてやったのである
衆生のあいだでよぶんな水分をだしていると
(なんまいだぶ)
いいかげん 正体をなのってしまおうか
(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある
(あ ねじがない)
会話のとちゅうで ばらばら
くずれてしまいなしないか
ふあんでぶすっとじぶんの蒸気がもれてしまうのだ
まだひとさまからみえるつもりでいるのかねえ
みんなちがって
みんなきもちわるい
(やだ このおじさん)
衆生にばれてしまっちゃあせんかたない
ららら とうたって
電柱から電柱へと
(なになってんだ おれ)
衣をむいみにひろげてどんでいくのである

 まるかっこのなかのことばを「声」--発せられなかった「おじさん」と「目撃者」の「声」と思って読むと情景が浮かぶだろう。つまり一般に言われる「意味」が見えてくるだろうと思う。そして、廿楽のことばが、そういう「意味」に従属してしまっていたなら、これは詩ではない。廿楽のことばが詩になっているのは、そのことばが「意味」には従属せず、もっと「からだ」そのもののなかにまで侵入して、「空気」を汚しているからである。
 4行目の(なんまいだぶ)。
 傑作である。この1行で、この作品は完全に、詩になった。

 (なんまいだぶ)はもちろん「南無阿弥陀仏」である。お経である。情景の「意味」としては、「おじさん」が立ち小便をしながら、ぶつぶつ、なむあみだぶつ、と「こえ」を漏らしたということだろうが、この音のなかにある愉悦--それがお経の愉悦、生と死のであいの愉悦を呼び覚ます。あ、お経とは、生と死の出会いの愉悦なのだと、私は感じてしまう。
 「おじさん」にとって何が死で何が生か。泥酔した「脳(頭)」が死んでおり、小便を吐き出す肉体が生きているということか。それとも制御のきかなくなった膀胱が死んでおり、それを解放している「頭」が生きているのか。どっちでもいい。そんな区別とは無関係に、小便をした瞬間に、尿が尿管を走っていく快感に酔う瞬間--生きているというほっとした感じ、あたたかな感じ--その愉悦は「なんまいだぶ」の愉悦そのものだ。
 「南無阿弥陀仏」には、そんな立ち小便の愉悦とは関係ない、もっと深遠な「意味」があるのだろうが、そういう「深遠な意味」というのは肉体にはどうでもいいことである。「深遠な意味」など、ごく少数の「頭」で引き継がれてゆくものであって、肉体はその「意味」の端っこをかじりながら、ほっと息をつく、そういうものである。それでいいのである。
 と、いうのが「空気」である。

 「空気」とはいいかげんなものである。しかし、なくてはならないものでもある。なくてはならないものだからこそ、ほとんど「いいかげん」でいいようにできているのかもしれない。ほんとうに必要なものが厳密にしかつかえないものだったら、それをつかえる人は限られてくるし、使い方がそんなに難しいのだったら、人間は生きてゆけないだろう。いいかげんであるからこそ、そこに自在に自分をだしたりひっこめたりしながら、(ちょうど立ち小便をするためにチンポをだしたりひっこめたりするようにしながら)、「空気」を呼吸するのである。

(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある

 この4行のおかしさ。「あんたも小便がだまんできなくなったのかい?」「ちがうよ」なんていう会話のあとに「だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある」というおしゃれな批評。あ、立ち小便をしてしまうのも、その人の姿をあらわす(さらけだしてしまう)技術なのか。ひとは、カラオケで歌を歌うことでその人の姿をあらわすこともあれば、会議で激昂して姿をあらわすこともある。立ち小便も、それと差はないのである。--というゆったりした感じ。
 「空気」を描きながら、廿楽は、そういう批評(?)で、廿楽自身の「空気」をさりげなくだしてもみせる。「空気」をそんなふうに、ちょっとかき混ぜてもみせる。おもしろいなあ、と思う。


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廿楽順治『たかくおよぐや』(2)

2007-11-27 09:19:18 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社、2007年10月25日発行

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 ことばには「意味」になって流通しているものと、「意味」にならずにとどまっている「おと」に踏みとどまっているものがある。それは別の表現でいえば「意味」を引き剥がすことばである。「にくたい」のことばである。首から上へあがってゆかない。頭の下にぶら下がる、というより、その下に広がり続けるふかぶかとした闇としての「にくたい」のなかで揺れ動いているものである。
 「肴町」という冒頭の作品が好きだ。

ここでは
なにを売ってもさかなになってしまう
ぜつぼう なんて
ひさしく聞いたことはなったが
このさかなの目
だってそのひとつかもしれない
くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない
そういうさかなになってしまえば
ぜつぼう
も おかずのひとつである

 ここに書かれている「ぜつぼう」。それは「意味」ではない。「意味」になる前の、あるいは「意味」を超越したもの、である。
 「ぜつぼう」という「おと」を最初に聞くとき、私たちは、その「意味」を知らない。知らないけれど、なんとなく、わかるようになる。そのうち、知らないはずなのに、それがわかったつもりになる。そして、「ぜつぼう」を「絶望」と「おと」から「文字」に書き換えるころになると、もう、「ぜつぼう」がなんであったか知らなかったことは忘れてしまう。同時に「絶望」についても考えたりはしなくなる。つまり、「流通している意味」ですべて解決してしまう。このときから、ことばは死にはじめる。
 廿楽の試みていることは、そういう「死んだことば」(「意味」が「流通」のなかで形式的に動いていることば)を、「意味」になる前の状態に引き戻すことである。
 (26日の日記に「3丁目の夕陽」を例に引いたが、それは単に、ことばが「おと」の状態にあった時代ということ、誰でもそういう時代があったということを象徴的に説明するためのものである。私たちは誰でも「意味」を知らずに、ただ「おと」だけを繰り返しまねして、まねしているうちに「意味」をかってに、つまり真剣には考えずに、受け入れてしまう生き物である。)
 ことばに「意味」があると考えるのは普通のことがどうかよくわからないが、たぶん、とても異常なことなのだろうと私は思う。廿楽の詩を読んでいると、特にそんな気持ちになる。
 ことばに「意味」なんかはなくて、ことばをやりとりすること、「おと」を媒介にして人とあれこれやりとりすること--そういう関係のなかで、「おと」がなんとなく何かにかわる。その「何か」とは「空気」である。「空気」が肺のなかに入り、それが喉を通り、声帯をふるわせて「おと」になって汚れてでてくる。その汚れを全身で受け止めているうちに、からだが何かをつかみとる。それを「頭」で整理したもの、つまり「頭」のなかに流通しやすいように余分なものを切り捨てたものが「意味」にすぎないのであって、そんなものは本当は「かす」なのである。「頭」が整理するときに切り捨てたもの、「意味」から除外したものこそ、ほんとうは「意味」を生み出す「いのち」なのである。「意味」とは「存在」するものではなく、いつでも生成されるもの、そのつど生み出されるものなのである。そしてその「意味」をつかみとるとは、生成の、生み出される一瞬の、「いのち」をうごめき、もがき、くるしみ、よろこびを全身で感じることなのである。「意味」は「頭」で整理するものではなく、からだで感じるものなのである。
 こうした「意味」の生成の現場を廿楽は「空気」そのものとして詩に定着させる。廿楽が試みているのは、ことばが、それが「おと」のまま、ほうりだされ、空気を汚し、その空気の汚れに人がたじろぐ一瞬を正確に定着させることである。「おと」に含まれる口臭というような汚れもあるにはあるが、そういう明確な「汚れ」ではなく、廿楽が試みているのは、「空気」が肺に吸い込まれ、ふたたびからだから出てくるときに身につけてしまう「ぬくみ」(体温)そのものの汚れを詩に定着させることである。

くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない

 この3行の、口語。口語の力。そこにある「空気」。
 場を読む、空気を読むといういい方があるが、廿楽の試みているのは、そういう「空気」をことばのなかに取り戻すことである。「意味」を引き剥がし、「意味」になる前の「空気」を、「おと」のなかに取り戻すことである。
 廿楽の詩には、

みんなちがって
みんなきもちわるい
(やだ このおじさん)
             (「化身」)

のように、かっこのなかに入った行が頻繁に出てくるが、このかっこが「空気」である。
 (あす、もう一回、廿楽の詩について、「空気」について書きたいと、いまは思っている。--私は気分屋だから、書かないかもしれない。きょう書いたことだけでも、「空気」については十分書いてしまったかな、という気もするからである。)

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廿楽順治『たかくおよぐや』

2007-11-26 11:59:18 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社、2007年10月25日発行

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 「曳舟小学校の怪」に、

するい
ってきらきらひかっているな

 という行がある。廿楽の詩は、いい意味で「ずるい」。そして、きらきらひかっている。
 何が「ずるい」かというと、まず題材が「ずるい」。たとえば「にかいや」。

ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった
(なんでもかんでもうっていたからな)
となりに 左右をひらいたような
よくにたふたごのおばあさんがいて
にかいや
という駄菓子屋をひらいていた
(せかいの穴をふさぐように)
毎日ふたりならんで くさったものをうっていた

 昔の(といっても、昭和の)街の風景である。いまで言えば、「三丁目の夕陽」の世界である。こういう世界を「現代詩」で書く人はいない。題材の選び方が「ずるい」というか、こういうことは誰も詩に書いていないという、はっきりした自覚から出発している。「かしこい」のである。
 そして、その世界を、その当時の「かっこいい」ことば、子どもには理解できないけれど、大人がつかっていて、絶対的な意味があると感じられることばで批判する。「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」の(むいしき)がそれにあたる。
 「ぼくの家は無意識の自転車屋だった」では成立しない、表記と、音とが結びついて、「過去」を「現在」の視点で批判(批評)しながら、その批判(批評)を、「過去」の「子どもの最先端(子どもの理解できない現実)」として立ち上がらせる。「(むいしきの)じてんしゃ屋」という表現は、廿楽が子どものとき聞いたことばであり、そのときは「意味」がわからなかったが、今でははっきりわかる--そういう世界のあり方が「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」の(むいしき)という表記とともに立ち上がってくる。
 そうした詩的操作をしておいて、

(せかいの穴をふさぐように)

 という行が書かれる。「(むいしきの)じてんしゃ屋」は廿楽の聞き覚えのあることばであるけれど、(せかいの穴をふさぐように)は、たぶん廿楽が聞いたことばではなく、いま、「過去」を思い出して感じていることを表現したことばである。廿楽だけの思いであるものを、表記を、わざとひらがなまじりにすることで、(むいしきの)と同じレベルにしてしまう。溶け込ませてしまう。
 これは「かしこい」。「ずるい」。そして、そういう部分が、そういう行が、とてもひかっている。
 「左右をひらいたような」と「くさったものをうっていた」も同じように、「ずるい」。そして、ひかっている。



 それにしても、と思う。廿楽の詩を読むのは、とても疲れる。とても体力がいる。
「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」が「ぼくの家は無意識の自転車だった」と書かれているなら、体は疲れない。ことばは頭の中をさーっと過ぎてゆく。(むいしきの)は、頭の中ではなく、体(からだ、と書いた方がいいかもしれない)のなかにとどまって、頭までゆかないのである。ことばとして整理できないものをかかえたまま、首の下に、からだとなってぶらさがっているのである。それが疲れる原因である。からだで消化しないことには、にっちもさっちもいかない。それが疲れるのである。

 こう言い換えた方がいいのかもしれない。
 「ぼくの家は無意識の自転車だった」の「無意識」は言語として流通している。社会で共有されている。もちろん個人の感覚などというのは完全には共有できないものであるけれど、なんとなくわかったつもりになっている。完全に理解はできないのだけれど、頭の中で「辞書的に」整理し、「わかった」と処理できる。
 ところが(むいしき)だと、その処理ができない。つまずくのである。音から「無意識」であるということはわかるが、「無意識」と「むいしき」では何かが違う。
 私たちは、耳で「音」を聞く。そして聞き取ったかぎりにおいては、それを「声」にすることができる。肉体を、舌を、喉をつかってことばにすることができる。「意味」がわからなくても他人に渡すことができる。(むいしき)には、そういうものが含まれている。本当はわからないのだけれど、なんとなく、そのことばで呼ばれているものがある、という感じが残っている。完全に納得していないものが残っている。その何か「声」には出してみたものの、からだのなかに取り残された何かが、(むいしき)という表記とともに立ち上がってきて、その理解もせずにつかったときのからだの印象を蘇らせる。
 だから、とても疲れる。

 さらに、その(むいしき)は、今では「無意識」であると完全に理解できからこそ、そのからだのなかで取り残された(むいしき)のかかえている不透明なものが、より重く蘇る、と言えばいいだろうか。

 ことばなんて、「意味」は存在しないのであある。ことばに「意味」などないのである。「意味」を知らずに「むいしき」という音を何度も何度もからだのなかをくぐらせる。実際に、喉と舌をつかう。そうしているうちになんとなく、それはこういうことだったのかなあ、という「空気」のようなものができる。「声」を出すということは、空気をからだのなかへ入れ、もう一度出すことだ。「空気」がだんだん汚れてきて、その汚れが見えるようになる。「むいしき」が「無意識」になる。それを「意味」として「共有」したつもりになって社会生活をしている。
 その不安というか、どうしようもない「ずれ」というか、既成のことばではなんと言っていいのかわからないもの--そういうものを、廿楽は、ていねいに描いている。ことばを、そういう領域へ追い込んでゆく。
 そのときから、「過去」が「過去」ではなく、(つまり「三丁目の夕陽」ではなく、 )現在のものになる。日本語の今の問題になる。「現代詩」になる。

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五月女素夫『月は金星を釣り』

2007-11-25 15:07:23 | 詩集
 五月女素夫『月は金星を釣り』(ミッドナイト・プレス、2007年10月25日発行、星雲社発売)
 「鳥のいない庭」の冒頭の2行は五月女のことばの動きを象徴している。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間

 「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」。この論理矛盾のような繊細な動き。矛盾を承知であえてその矛盾の中へ入っていこうとする動き。強引にではなく、静かに、どちらかというと自分から入っていくというのではなく、向こうが自然に開いてくれるのをまっているような、ひっそりとした感じ。向こうが五月女に気がついて、そっと招き寄せてくれるのをまっているような密やかさ……。
 「暮れている」のに「暮れていく」ということは、一種の矛盾のようだが、「暮れている」けれどもなお「暮れていく」余地があるということだろう。「暮れている」のに、それでもなお「暮れていく」ことができる余地がある--ということを識別できる強い視力(認識力)、あるいはそういうものを識別するための粘り強い精神力が五月女という存在をつくっているのかもしれない。
 そして、この「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」の改行のあいだには、五月女は書いてはないが、私が補ったように「それでもなお」ということばがひそんでおり、その「それでもなお」を支えるのが、五月女の精神力、ことばの粘着力なのである。
 五月女の詩には、いたるところに「それでもなお」が隠れている。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
(それでもなお)
暮れてゆくことだけがある時間
うすくあかるく
誰もいない
(それでもなお)
その微風になめらかに水草として揺られている樹木は
きめこまかいものを見ている
まっしろいけものが 剥製のしずけさの気体を吐き
なにも望まないと云う連れのおんなは
少し離れたところを あるいている
(それでもなお)
ひとけのない植物園の風は ますます威力をまして
無性に おわりという気がしてくる
(それでもなお)
頭上にかかる繁る枝が 揺れるたび
暮れのこる若やいだあかるさは スクリーンのように変化する
(それでもなお)
風のなかにいると
くり返しくり返し どこかへ誘われている思いがする

 括弧に入った(それでもなお)は五月女の作品には存在しない。私が補ってみたものだ。
 (それでもなお)を補ってつないだ別々の行のあいだには「論理的」なつながりはない。つながりがないからこそ、ただじっと待つ行為として(それでもなお)が存在するのである。つながるものがないからこそ、本来の連続性から逸脱して、(それでもなお)何かとつながろうとするのである。ここから五月女の粘着力がでてくる。
 五月女の詩、そのことばが、とても粘着力のある動きをするにもかかわらず、粘着力が前面に出てこないのは、(それでもなお)が五月女の意識のなかで完結しているからである。五月女のなかで完結しているから、むりやり対象のなかに侵入し、対象を改変し、同時に五月女自身も変わる、という「劇」が存在しない。五月女の詩のなかにはストーリー(物語)があるにもかかわらず、「劇」が存在しないのは、そういう理由による。「劇」はそんざいしたとしても、詩という舞台ではなく、詩に書かれなかった(それでもなお)という五月女の精神のなかでのみ存在するのだ。
 書き出しに、「暮れている」と書きながら、13行目に「暮れのこる若やいだあかるさ」と書いているように、その間に何行もことばを書きながらも、何も起きてはいない。「スクリーンのように変化する」という13行目のことばは、「暮れのこる若やいだあかるさ」の述語のようにも、14行目の「風」の修飾語のようにも受けとれるが、そういうあいまいさを利用して、五月女は、ただじっと動かずにいる。(それでもなお)という精神のなかの時間だけをとどまったまま深めてゆくのである。

 もう一度、冒頭の2行。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間

 その2行目の「ある」。「ある時間」の「ある」は「存在する」と書き換えることができる。五月女は詩のなかで、彼自身の「存在論」を書いているのである。(それでもなお)ということばとともにある精神の存在、それを浮かび上がらせるための、存在論としての詩。
 五月女はそして「存在論」を「時間」と結びつけて考えている。2行目の「時間」は書かれていないくても「意味」は通じる。「意味」はかわらない。しかし、五月女は「時間」と書かずにはいられない。五月女は「存在」は「動く」、そして「運動」が「時間」を生み出しているという認識があり、それが詩のなかにストーリー(物語、登場するものたちが動くことで、「時間」が動いていく)を呼び込むのだ。
 「存在論」をそのまま「時間論」へと重なり合わせる--それが五月女の究極の夢だろうと思う。五月女には男と女がでてきて、なにやら抒情的なことをしているが、センチメンタルに墜ちていないのは、その基本に「存在論」と「時間論」をめざした意識があるからだろう。

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マイケル・ウインターボトム監督「マイティ・ハート/愛と絆」

2007-11-25 11:55:49 | 映画
監督マイケル・ウインターボトム 出演 アンジェリーナ・ジョリー

 こんな比較のされ方はマイケル・ウインターボトムにとって不本意かもしれないが、私はどうしてもポール・グリーングラスの「ボーン・アルティメイタム」と比較して見てしまう。
 「マイティ・ハート」の方が事実をもとにしたドキュメンタリーの要素が多いのだが、なぜか絵空事の「ボーン・アルティメイタム」の方がリアルに感じるのである。なぜ「マイティ・ハート」がリアルに感じられないか。リズムがのろいからである。ひとつひとつのシーンにじっくり時間をかけている。たとえばアンジェリーナ・ジョリーが夫の殺害を知らされて泣き叫ぶシーン。迫真の演技だが、長すぎる。悲しんでいる、という事実を超えて、悲しみの質まで見せようとしているからである。役者は確かにある感情の「事実」だけではなく、その感情の「深み」を表現することが求められるし、「感情」の深みを表現するのがいい役者なのかもしれない。だがその感情の「深み」をきちんと表現しようとするあまり、感情が役者の内部で完結してしまうことがある。観客の感情ではなく、役者の感情そのものになってしまうことがある。そうなると、観客は、自分の感情をどこへ持っていっていいのか、ちょっとわからなくなる。「ふーん」という気持ちになってしまうのである。この映画では、そういうことがしばしば起きる。とてもよくわかるのだが、わかってしまうと、そこで感情は終わってしまう。
 「ボーン・アルティメイタム」は、そういうことがない。もとより「ボーン・アルティメイタム」は人間の感情の「深み」というものなど描こうとはしていないが、そんなものはどうでもいい、と感情の深みを捨て去ったところから、逆にいきいきした何か、どう呼んでいいのかわからない思いが沸き上がってくる。たとえば冒頭近くの駅のシーン。そこでは、ひたすら記者をうまく誘導し助けようとするボーンと、記者を、そしてボーンを射殺しようとするCIAの要員の駆け引きがあるだけなのだが、その感情を排した行動、動きが、感情ではないにもかかわらず感情になるのだ。思わず「やった、助かった」「あ、すごい」という思いを観客に植えつけていく。「やった」とか「あ、すごい」という感嘆は、愛する人間の死を悲しむ感情に比較すると「軽い」印象を与えるかもしれないが、感情にはそういう「理性的価値判断」が入り込む余地は本当はない。ただ一瞬一瞬が、あらゆる感情が対等に、ただ充実しているかどうかだけが問題なのである。ポール・グリーングラスはこのことを非常に熟知している。一瞬一瞬の感情の充実--というか、ぎっしりつまって、それ以外のことは存在しないという思いの一瞬はとても短い、ということをとてもよく知っていて、映画のリズムをその短さにあわせて組み立てていく。
 ポール・グリーングラスの前作「ユナイテッド93」は結末を知らない観客はたぶんほとんどいない。テロリストに乗っ取られ、墜落し、全員が亡くなってしまうことを観客は誰もが知っている。それにもかかわらず、最期の最期の瞬間まで死ぬということが実感できない。登場人物の「生きたい」という気持ちが観客に(少なくとも私に)乗り移り、飛行機が失速し、どんどん大地が近づいてくる瞬間でさえ、これは映画なのだから、「事実」とは違って、もしかしたら飛行機は態勢を立て直し全員が助かるんじゃないのか、という気持ちにさせられるのである。緊迫した短い感情、そのたたみかけるリズムが、観客を(私を)、映画ではなく、そこで動きまわっている人間の感情そのものの動きへと引き込んでしまうのである。感情の「質」(深み)ではなく、感情は動くものであるという、その「運動」へと引き込むのである。
 マイケル・ウインターボトムは人間の感情を引き止める。動いていこうとするものを引き止めることで、感情を堆積させ、その奥に深みを作り出す。その結果、重くなる。一方、ポール・グリーングラスは感情を引き止めない。思考を引き止めない。ただただ動かす。動かすことで、とまったままでは見えない何かを浮かび上がらせる。マイケル・ウインターボトムは1枚1枚の写真、その不連続の積み重ねで、物語をつくり、その不連続のあいだに「感情」では埋めることのできない「現実」というものを浮かび上がらせる。それに対して、ポール・グリーングラスは写真を連続して動かし、あたかも静止した瞬間がどこにもない、存在しているのは動くことで見えてくる一連の運動だけである--まさしく映画の動き続ける「コマ」の動きそのものの錯覚としての運動を見せ、その運動を引き起こしている感情(思考)を見せる。
 マイケル・ウインターボトムにとって現実とは「静止」であり、「とどまるときの感情」(思考)なのであるが。ポール・グリーングラスにとって現実はとどまる感情(思考)はいのちを失うことなのである。マイケル・ウインターボトムの映画がパキスタンにとどまることを出発点にしているのに対して(あるいはジャーナリズムというひとつの仕事にとどまることを出発点であると同時に到達点にしているのに対し)、ポール・グリーングラスの映画は空間も異動すれば職業も捨て去る(別人になる)ことを描いているのは、まるで二人の違いを象徴するようでもある。

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岸田将幸『丘の陰に取り残された馬の群れ』

2007-11-24 10:57:10 | 詩集
丘の陰に取り残された馬の群れ
岸田 将幸
ふらんす堂、2007年11月11日発行

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 「神話」ということばをふと思い出した。岸田は「神話」を取り戻したいと願っている。「神話」のなかでことばを蘇らせたいと思っている、と。
 「新しい道を眺める人」のなかほど。

きみは夢を見ていた
母を入れ替える夢を見ていた、そして
父をいつまでも見送った

 「母を入れ替える」の「入れ替える」が「神話」である。何と入れ替えるのか。「別の母」であるが、それは「人間」であるとは限らない。動物であることもある。これは古代の神話である。現代の「神話」ではどうなるか。

果物を配す老婆の腰はもう折れて、
沈む人の口は水すら望まぬ
ギッと歩き、
落雷せぬ心に裂ける皮膚
そうだ、帰ろう
コンタクトレンズセンターに
乱暴に記憶を搾り出し
屋根の上に放り投げるわたしたち
日射しがまぶしいというより、なつかしいですね

 現代の「神話」では「母」は「コンタクトレンズ」と入れ替わる。そして、その新しい視力で見る世界。それまでの「記憶」はコンタクトレンズの背後で搾り出され、捨てられる。
 この詩には「わたし」と「あなた」が登場するが、「母」を「コンタクトレンズ」と入れ替え、記憶(過去という時間)を絞り出し、捨ててしまったために、その瞬間から、「血」による「わたし」と「あなた」の識別(区別)はなくなり、融合する。

日射しがまぶしいというより、なつかしいですね

 このことばは、だれが言ったものか、わからなくなる。そして、

はるか遠い月と目の前に雲は流れ、そして背で
守るあなたを
ただ突き抜ける光よ
広いと思うか
やがて海に入る舟
わたしは見た
あなたが足を閉じ
空白を抱えたのを、確かに!

 「わたし」と「あなた」は一体になるのだが、それは「わたし」が「空白」になること、「わたし」が「わたし」ではなくなることによって成り立つ。「わたし」は消滅し、「あなた」自身として再生する。



 「母を入れ替える」ことは「わたし」を空白にすること--「わたし」の「記憶」(過去)を捨て去り自在になること。「空白」は「神話」を成り立たせる「虚構」であり、「記憶」(過去)を捨てることは、より遠い過去を蘇らせ、その力によって現在を破壊することである。「(Winding road)」。

わたしは神であろうが母であろうが
陥没を重ね合わせることしか
できないのだ、この静かな夜尿症……
(略)
目の井戸の底に落ちる音が見ている
目の井戸の底に溜まる音の層が人のもっとも
古い記憶を常に見るのだ/

 だが、「神話」は現代に有効なのか。ほんとうに、「神話」のなかで力を取り戻したことばは現代に有効なのか。
 「古い記憶を常に見るのだ/」のさいごの「/」。この深い断層。しかし、それは深い断層ではなく、「/」とわざわざ明確にしなければならないほど浅い断層である、というのが実情かもしれない。
 わたしは、岸田が「神話」を書こうとしているという意思は感じるけれど、実際には、そこには「神話」は感じないのである。
 「母を入れ替える」ということばを使わずに「入れ替え」がおこなわれるのが「神話」だろう。
 「母を入れ替える」あるいは「/」に感じるのは、一種のセンチメンタリズムである。それが消えたとき、本当の神話がはじまるのだと思う。

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白井知子『秘の陸にて』(4)

2007-11-23 11:02:02 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子は詩を書くことによって何にかわるのか。奇妙な印象を与えるかもしれないが、私には、白井知子と詩を書くことによって女にかわるのだ、という感じがする。女の血が白井知子の肉体の中を流れはじめる--そういう印象がする。
 そしてそれは白井が女を描いたときばかりではなく、男を描いたときでもそうなのだ。「黄色い花」の「2 文字の溝」の2、3連目。

カラシニコフ銃を肩からはずし
男は深く身をふたつに折りまげた
砂礫まう焦土
いのちの水脈をつなぐ祖父の名 祖母の名
曾祖父 その父 そして その父と母の名
男は名をたぐり 地に刻む
割れた爪で文字の溝をひく

一族にゆるされた呪文
息を噛み 吐きだしきれぬ屈辱を嚥下し
とめどなく ひたすら 溝をひきつづけなければならない
いまはない肉体が
姪の 伯父の 名ざされた文字となり
地を這うものが
もがきくねる群影が
男の身のうちから湧きあがる

 「一族にゆるされた呪文」。それは一族の名前のことである。このときの「一族」ということばにに私は何よりも「女」を感じる。
 「一族」の意識はもちろん男にもある。そして、たとえば現代の、どちらかというと男系社会のなかにあっては「一族」といえば男がつぐものである。(たとえば、日本の天皇制)。そのことばからは、本来「男」が立ち上がってくるはずなのだが、私はなぜか「女」を感じるのである。
 それはたぶん、白井が「男」「女」を超越して、つまり「男系」「女系」を無視して、ひとまともめ「一族」と呼ぶことにも理由があるかもしれない。「祖母」「母」「姪」ということばが「祖父」「父」と同列に書かれている。もちろん論理的に言えば「一族」は男も女もふくめてのものであるが、白井は、ここではそれをはっきりと意識して書いている。その瞬間、男と女が同じく人間であるという視点をもった瞬間、「一族」は「男系」「女系」を超越する。「人間」の「いのち」そのものが立ち上がってくる。その超越の瞬間が「女」を感じさせるのである。
 3連目の「男の身のうちから湧きあがる」というのも、「男」を前面に出しながらも、その肉体の内部を描くことで、「男」を超越する。「人間」そのものになる。その「男」を超越する瞬間が「女」を感じさせるのである。
 男は男を超越しない。男は男にとじこもる。その「枠」を強固にして自己保身をはかる。しかし、女は男を超越して「人間」そのものの「いのち」に立ち返る。そういう超越のあり方が「女」を感じさせる。

 「女性詩」と呼ばれるジャンルがある。(あった、と訂正すべきかどうか、私にはよくわからない。)その「女性詩」に私は「女」を感じることはほとんどない。特に、「女性詩」を論じた女性詩人の論、そこで描かれる女性像には「女」を感じたことがない。そこに描かれている女性像は男性が「女」を「枠」におしこめた人間にすぎない。女性詩人の描く女性詩人像の多くは、男性詩人の「女」(女はこうあるべき)という論を語り直したもの、男の代弁(女を一定の枠のなかに押し込めておくことで男の安全を守ろうとする意識の代弁)にすぎない。
 白井はそういう男が用意した「女の枠」を乗り越える。男を描くことによってである。男がひとりの人間、女と男から生まれたひとりの人間であり、そこには男と女の血が入り交じっている。そこには男と女の感情が入り交じっている。その入り交じりは、区別ができない。区別ができないことによって「一族」の「一」になる、そういうことを明確に書くことによって、男を超越する。男を超越することによって、人間になり、人間になった瞬間に「女」になるのである。
 白井の詩には「人間とは女である」という強い思想がひそんでいて、それが次々に噴出してくる。

 女性詩というものがはじまらなければならないとしたら、白井の、この視点からはじまるしかない、と思う。
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白井知子『秘の陸にて』(3)

2007-11-22 11:39:08 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子の肉体には「境界」がない。白井知子の肉体は、他者と共振する。そこまで白井はかわってしまう。自己を変革してしまう。ことばを書くこと、正直になることで白井超越する。
 「水の墓場」の「1真鍮の壺」の書き出しの1連目。

ながらかに下る石段
くずれかけた寺院
肩先に ふっと なつかしい吐息
死者をおくる館の門が 閉まった
透けた魂が 牛糞をふんで降りていくところだった

 「牛糞をふんで降りていくところだった」。このリズムがとても美しい。異国の風景が日本語のリズムのなかに完全に溶け込んでいる。あるいは日本語のリズムが異国の風景に溶け込んでしまっている、というべきなのか。どう言えばいいのかわからないが、そこでは白井が、白井のことばが完全に融合し、白井のいる世界と一体になっている。
 3行目に「なつかしい吐息」ということばがでてくるが「なつかしい」とは、こういう一体感のことなのだと実感させられる。
 そして、その一体感のなかに、「死者」そのものも入ってくる。生きている人間と死者が一体となって触れ合う。「なつかしい」触れ合い。そこでは「牛糞」さえも「なつかしい」。温かくて、美しい。
 2連目も非常に美しい。

ヒンドゥー教徒の聖地 ベレナス
この街で最期をむかえる人々は 終日
読経の声をあびながら みずからの鼓動を聴きわけ
一段ずつ 魂を
肉体の縛(いまし)めからほどいている
真鍮の壺ですくえば
羊水になって たゆたう ガンジスの水
浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ

 ここには悲しみはない。安らぎがあるだけだ。そして、その安らぎは「なつかしい」ものなのだ。「なつかしさ」のなかで、人は死ぬのではなく、生まれ変わる、再生する。「羊水」ということばの必然性がここにある。
 「ガンジスの水」が「真鍮の壺ですくえば/羊水にな」るというのは、この地方の(あるいはガンジス流域全体の)「神話」なのかもしれないが、それがこの地方の「神話」ではなく、白井の「神話」にまで高まっている。
 日本語は、ここまで変わることができる。

浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ

 思わず、そんなふうに眠ってみたくなる。そう思わせる日本語のリズムだ。「舌にのせ 眠るのだ」のなめらかなうねり。ほんとうに美しい。

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白井知子『秘の陸にて』(2)

2007-11-21 12:00:40 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子の特徴のひとつは他者と共感するとき肉体を通して共感することだろう。他者とは、白井にとって「精神」というような形而上学的な存在ではなく、まず肉体なのだ。肉体を感じ、その肉体の奥にある自分とは異質の背景、遺伝子に組み込まれたものを感じ取る。そういう力がある人間なのだ、と思う。
 『秘の陸にて』は3部構成になっている。きのう紹介したのは1部。動物(ことばをもたぬ存在)のなかに生きていることば、遺伝子、DNAと人間が互いに侵犯し合う--といっても人間が勝手に動物に操作を加え、加害者になることによって、逆に侵犯されるという関係を描いていた。そして互いに侵犯し合うこと、加害者が被害者(?)になってしまうことを通して、白井は、今という時間を超越する--変身して、自己自身ではなくなって行く、新しい人間に生まれ変わる過程を描いていた。
 2部はインドやバングラデシュの大地を歩いている。そして、その空気を呼吸して、肉体をしっかりとしたもの、エネルギーに満ちたものにかえていっている。
 「シシュバンの青空」のなかほど。

野生の ときに 僧尼のような目をして
あおむけに転がる子どもたちは
今朝 抱きあげてほしいとせがんできた
ガンジスの赤錆色した水と微塵の土をたっぷり含んだ内臓
昂る血のめぐりを包みこむ皮膚

 白井は、いま、孤児の家「シシュバン」で障害をもつ子どもの世話をしている。世話をしながら、洗濯物を干す作業をしている。水を含んだ重たい洗濯物。重たいといっても限りがあるが、その重さを抱え、物干しロープに放り上げるようにして引っかけ、干す--その作業をしていて、朝、抱き上げてほしいと甘えた子どもを思い出している。その重さを。そして、その体のなかにあるガンジスの水と土埃を。といしのも、洗濯物はしっかりとしぼりきれておらずにガンジスの水を含み、また土を含んでいるからだ。
 あらゆるものがガンジスの水、土といっしょに生きている。それが人間の内臓にもなっている。生きるということは、たしかにその風土を肉体に、内臓にしてしまうことなのだ。
 そうした肉体と向き合い、白井は自分自身を新しく発見する。

斜交いロープには
フリルのついたレースのブラウスや
大胆な柄の小さなTシャツが ずらりとはためき
その隣り 二つ折りのワンピースから 顔がずり落ちそうだった

つぎはぎだらけの微笑を塗り込んだ顔だ
頬が熱風にそがれている
ぎこちない羞恥
あれはまちらがいない
自分をみつめるしかない自分
乾いた わたしの顔
拾いあげようとしたけれど
遠近が溶けあい 印影ごと ふわり気化していくばかり
踏んばろうとした足もとから すくわれて
地べたと天をつなぐ背骨が
わたしには あきらかに薄すぎた

 ここに、こうして生きているマーシー(現地の女性スタッフ)と自分を、そして子どもたちに接して、その肉体を感じたとき、白井は自分自身の肉体の貧弱さに気がつく。「地べたと天をつなぐ背骨が/わたしには あきらかに薄すぎた」。この自覚の瞬間から白井は生まれ変わっている。「精神」が生まれ変わるのではない。「肉体」そのものとして生まれ変わるのである。
 詩は精神の冒険ではなく、白井にとっては肉体の冒険なのである。

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ロジャー・ミッシェル監督「ビーナス」

2007-11-21 00:39:30 | 映画
監督 ロジャー・ミッシェル 出演 ピーター・オトゥール、バネッサ・レッドグレープ、冬の海とその波

 ピーター・オトゥールが老いた俳優を演じている。老いても若い女性にこころをときめかす。そして、老いても(たぶん、ここがこの映画の見せ場)、欲望のままに走るのではなく、節度を守りながら女性に接する、という「紳士」を演じている。その「紳士」と今風の若い女性との対比がおもしろいといえばおもしろいかもしれないが、紋切り型といえば紋切り型で退屈でもある。
 それでも一か所、たいへん美しいシーンがある。
 死を悟ってピーター・オトゥールが生まれ故郷の海へ行く。冬。寒い。それを承知で片足、裸足になり波打ち際で足をぬらす。海に触れる。そのあと。
 浜に引き返し、ベンチに腰掛け海を見ている。青い海ではなく、冬の波が砂をかき乱し、茶色く濁った海である。荒い波の音が聞こえる。荒い、とはいってみても岩をくだくという荒さではなく、適度に荒れた感じである。風の音を感じさせる波の音である。
 ピーター・オトゥールが眠るように意識を失って行く。(実際、いびきのような音が聞こえる。)すると、波の音が消え、すーっと音楽がかぶさってくる。その絶妙な感じ、自然の音が消え、音楽にかわる一瞬、波がゆらーっとたゆたう感じがする。これが非常に気持ちがいい。あ、死ぬ、とはこんなに気持ちがいいものなんだ。満足して死ぬとはこんなに快感なんだ、と実感できる。
 とてもとても美しい。

 冬の海。波のシーンは、実は映画の冒頭にもあり、それを見たときは、まきあがる砂に汚れた冬の海の汚さ、汚れだけが目につき、どうせ波をとるなら(それも思い出の波を映画にするなら--それが「絵」にかわるから、思い出の海とすぐに観客にも変わるようになっている)、もっと美しい海にすればいいのに、と思ってしまうのだが、この最後のシーンで、海の印象ががらりと変わるのである。
 あの、波の音が消え、音楽にかわる瞬間のふわーっとした美しさ、酔ったような美しさは、この砂に汚れた波であってこそなのだ。南の青く澄んだ、きらきら輝く海では、この美しさは伝わらないのだ。
 冬の海。波が砂浜をえぐり、まきあげた砂によって汚れた海。ごみも波間に浮かんでいる。日常の、よごれた海。--それは、そうであるからこそ故郷の海である。そこに漂っているのは、単なるごみではない。いきている人間がはきだしたものである。まきあがる砂も単なる砂ではない。季節ごとに変わる波によって揺さぶられ、生きている砂なのである。
 ある意味では、それはピーター・オトゥールの人生の最後の象徴なのである。
 美しくはない。人生の最後。肉体は衰えている。肉体が悲鳴をあげて、あらゆる汚れを撒き散らしている。波に削られる砂のように、肉体は忍び寄る死によって、汚れを体のなかに抱え込んでいる。無残なごみも漂ってきて、彼をいっそう醜くさせている。だが、それが人生である。
 美しくはない。美しくはなれない。そういう人生の最後において、一方に、美しいもの(女性)が美しさを誇っているのを、若さの当然の権利として若さの過ちを犯していくのを受け入れながら人生と別れを告げる。その一瞬の、「さよなら」の姿。
 繰り返し繰り返し打ち寄せることしか知らない波に託された一瞬。

 死ぬ一瞬に、人は人生のすべてを見るというけれど、その象徴のような感じがする波、波の音が消え音楽に変わる一瞬の--酔ってしまいそうな美しさが、そこにあった。冬の海が、その波が演技している、と思わず思ってしまうくらいの完成された(カメラと音によって作り上げられた)美しさだった。



 バネッサ・レッドグレープがピーター・オトゥールの別れた妻の役ででているが、あいかわらずうまい。ほれぼれする。悲しみが愛(かな)しみにかわる人間の許容力の大きさを静かにつたえる。名優だ。
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白井知子『秘の陸にて』

2007-11-20 20:09:19 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 強烈な詩集である。「ハクトウワシの托卵」。その冒頭。

人のかたちに
あやうく堰きとめられた六十兆の細胞

 人間を「六十兆の細胞」として把握する視力。そしてそれを「あやうく」と感じる感受性。そのふたつが交錯して、人間が人間ではなくなる。人間を描いているのだが、描いているうちに人間を超越する。詩のなかで「人間」が変化してしまうのだ。つまり、それは白井自身が変化するということでもある。

地上をかすめる精密な鳥影
あの瞬間だった
領袖がぶあつい手袋をぬぎすて 白い腕を 上空にふりあげたのは
一撃で殺戮をはたすハクトウワシ
低空飛行の兵士の眼球がくりぬかれ
えぐれた眼窩へ
空中托卵されたのだ
領袖にかいならされた猛禽
ハクトウワシの托卵が
埋めこまれた
    (谷内注・「眼窩」の「か」の文字は本文は「穴かんむりに果」)

 戦闘機のパイロットをハクトウワシが襲う。それも単に襲うのではなく、パイロットの眼を奪い、そこに卵を産みつけていく。その結果、パイロットは人間ではなくなる。野生のハクトウワシになる。

兵士は戦場にかえってくる
うっすら体毛だけがへばりつき
ちぢまっていく四肢のわき まがった鉤爪が
生えてくる

 ハクトウワシ。アメリカの鳥。野鳥。そこからアメリカの空軍パイロットを連想する。どうしても、そう連想してしまう。そのため、私などは、ついつい、アメリカを、あるいはアメリカ兵を、あるいはアメリカの国策を批判する視点でことばをつないでしまいそうになるが、白井はそんなに簡単に「政治的」にはならない。「人間」に踏みとどまる。

俯瞰された戦場の村 国境の小さな町
あの瞬間の いのちの
心音で波うつのだ
三十八億年かけたいのちに突きあげてくる拍動が
刻々と渦まき
眼窩を緊めつけるのだ
泡だつ血だまりから
兵士の脳漿が啜られる

また ひとつ
擬卵が割れる ずりおちる目蓋
陰画の俯瞰図が生ぬるい風に反転する

えぐられた眼窩の横顔を
泥みどろの月の光にさらして
かれらは戻ってくる
轍の跡 赤錆びた鉄橋づたいに
ザッツ ザッツ ザザッツ
ザッツ ザッツ ザッ
心音に緊めつけられ 緊めあげられ
人間から 解かれることはないのだ

 ここには人間の遺伝子とハクトウワシの遺伝子の戦いが、つまり苦悩がある。白井は、人間を超越し、ハクトウワシをも超越し、そのどちらでもないもの、どちらでもあるものへと変化して、苦悩を語る。
 どちらかに身を寄せるのではなく、ハクトウワシと人間の両方になる。ふたつの細胞が互いに侵犯しあい、強烈な苦悩にかわる。--その苦悩を白井のことばは追いかける。追いつく。追い抜いて、白井自身の声として、ここに書き記す。
 この苦悩を白井は「共喰い」と言う。「ミレニアム解剖透視図」の2連目。

寒々とすき間だらけになったところへ
植えこまれたのは
クローン牛 羊 豚 赤毛ザル ネズミの真珠色の臓器
遺伝子操作をうけた闖入者
たがいの不慣れな凹凸を擦りよせては
うらやんだり 蔑んだり のぼせあがった各臓器
神妙な体位で こっそりパートナーを物色しにかかる
が 落ちぶれたおのれの不恰好さにくじかれ
ののしりあう始末だ
なだめにかかるヒトの脳は
狂いだした免疫系で拒絶され 笑い藻木になるばかり
ついには こぞって凶器になりはて 共喰いがはじまる

 このブラックな笑いは強靱な視力と繊細な感受性がからみあってはじめて生まれる笑いであり、批判である。
 苦悩、変身を描きながら、白井は必死になって人間そのものの細胞を復元しようとしている。傷ついた人間の細胞を、詩によって復元しようとしている。どんなに変身しても、その奥に生きている人間の細胞があるはずだと、それを輝かしたい、という強い強い欲望を感じる。

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平山秀幸監督「てれすこ」

2007-11-19 23:48:01 | 映画
監督 平山秀幸 出演 中村勘三郎、柄本明、小泉今日子、藤山直美

 この映画の見どころは勘三郎の演技である。
 この映画のなかでは勘三郎だけが、これは映画である。つまり虚構である。芝居である、ということを明確に意識している。勘三郎は歌舞伎がそうであるように、ここでは個人の感覚を表出しようとはしていない。ひとりの人間、まったくの個人が、ある状況のなかでどんなふうに心を動かしたかを肉体で表現しようとはしていない。たったひとりの個人であることを拒絶している。
 勘三郎がやっていることは、人間はこういうときにはこういうこころの動きをし、その結果、肉体はこんなふうに動くという「類型」をきっちりみせることである。遊廓で飯を食うシーンにそれがとてもよくでている。遊廓へ行って、そこで太夫に「飯を食っていきな」と勧められたとき、人はどんなふうに飯を食い、後片付けはどうするか。そういうことは、普通の人は知らない。そういう普通の人は知らないことを、こんなふうにするんだよ、とひとつの手本としてやってみせる。そういう「類型」を、むだをはぶいて、すっきりとみせる。それが、この映画で勘三郎がやっていることである。
 ほかのどのシーンも同じである。女(小泉今日子)が秘密を打ち明けたとき、どんなふうにして男は対処すべきか。友人(柄本明)が粗相をしたとき、どんなふうにして男はフォローすべきか。あるいは「江戸っ子」というのは、どういう状況のとき、どう振る舞うべきか。そういうことを、個人としてではなく「類型」(江戸っ子+男)として演じてみせる。「粋」とは何か、どういう肉体のふるまいであるかを「類型」としてみせる。
 私は歌舞伎はほとんど知らないが、この映画を見ると、歌舞伎がわかる。
 そこで描かれているのは個人の感情の深み、あるいは個性ではない。人間の「類型」である。どうすれば人間の感情が劇的に見えるか。そして美しく見えるか。
 人はあらゆる行動をする。あらゆる行動に対して、幾千もの反応がある。ようするに人間の体の動きは数えきれない。無数である。しかし、その無数の肉体の動きのなかには、人に、ああ美しいという印象を与えるものと、ぎょっとするという印象を与えるものがある。どうすれば美しく見えるのか。美しさとは何か--そういうことを教えるのが歌舞伎のひとつの要素である。
 勘三郎は、そういう所作をさまざまに演じてみせる。これはなかなかおもしろい。
 もちろんこうした所作は、ある意味では「見え」である。「わざと」である。人間はどういうときにも「見え」を張る。そして「わざと」何かをする。「見え」と「わざと」の奥に人間の純真を隠す。隠すことで、「粋」を感じさせるのである。
 勘三郎の演技がとてもしっかりしているので、映画全体がしまっている。小泉今日子も柄本明も勘三郎にひきずられるようにして「類型」を演じている。そして、その「類型」のアンサンブル、調和が美しく、気楽で楽しい喜劇になっている。勘三郎の演技力というものをまざまざとみせつけられた感じがした。                        
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