詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロベール・ブレッソン監督「抵抗 死刑囚の手記より」(★★★★)

2010-03-31 11:38:33 | 映画


監督・脚本 ロベール・ブレッソン 出演 フランソワ・ルテリエ

 ナチスに囚われたフランス人中尉が独房から脱出する。そのときの様子をたんたんと描いている。スプーンの柄をコンクリートの床でこすって鑿を作る。その鑿で、ドアの扉のはめ込み板を少しずつ削る。削ったあとには、紙を汚して詰め込み、削ったことが発覚しないようにする。割れてしまった板をぐいと押しつけてもどす。割れ目(ひび?)の板の白い部分をちびた鉛筆で黒くする。目立たなくする。差し入れの衣類を引き裂いて、脱出用のロープをなう。そのままでは弱いので、芯には、ベッドの金網をほぐしてつかう……。
 こういうことが、ただただ描写される。
 途中に、他の囚人たちとのやりとりもはさまるが、そこでの会話はほとんどない。排泄物を捨て、顔を洗うときのほんの一瞬に短い会話がおこなわれ、メモがやりとりされる。その程度である。
 いよいよ脱出--という寸前に、少年が独房につれこまれる。彼はほんとうに反ナチスなのか。それともナチスのスパイなのか。この緊迫感というか、このときの苦悩が唯一苦悩らしいものだが、あとは、ほんとうにひたすらたったひとりで脱出の準備をする。その手順、何をしたかが克明に描かれるだけである。
 ところが、とてもおもしろい。映像に引き込まれてしまう。
 「海の沈黙」に手が物語る、というせりふがあった。ことばにならないことばを手の無意識の動きが語る、ということだが、この作品でも手が語る。それは手の仕事が語るということでもある。人間は手で仕事をする。その事実が、とても生々しく伝わってくる。
 ドアの板の隙間を少しずつ削る。それをするのが手なら、その削り取った板くずを集め、隠すのも手である。削るときは力を込め、集めるときは一かけらももらさないように静かに動く指。フランソワ・ルテリエは手で演技する。指の動き、指といっしょに動く腕の筋肉--そのひとつひとつが、ことばよりも雄弁である。
 最後も非常におもしろい。
 いよいよ脱出する、独房の外へ出る。すると、そこで初めて聞く「物音」がある。この映画に音楽はない。(なかったと、思う。脱出のときの、じゃりを踏みしめる足音をたてないように気を配る動き--そういうものも、この映画には「音」がないということを強く印象づける。)その「音」のない映画に、何かわからないが、規則的なキーキーという音が入ってくる。主人公にもわからないが、観客にも何かわからない。
 屋根の上から音のありかを覗くと……。ナチスが自転車を見回りをしているのだ。何度も何度も同じところをまわっている。その錆びついた自転車の音である。自転車であるから、その往復は歩くときに比べて格段に早い。見張りが離れた隙に--ということが不可能に近くなる。
 どうしようと、何時間も悩む。何をするでもなく、ただ悩む。そして、 4時の時計の音を聞いた瞬間、悩んでいてもしようがない、と決断して、屋根から屋根へ手作りのロープを張りわたし、それをつたって脱出する。
 これは、あっと言う間。
 その、あっという間のリズムが、なんとも不思議で、なんとも美しい。そこに、もう一度山場をもってくるとか、スローのアップで観客をどきどきさせるとか、そういうあざとい演出がない。前半のスプーンを研いで鑿をつくるような時間の停滞がない。
 そのまま、さーっと緊張感から解放される。
 あ、映画というのは、映像のリズムなんだなあ、とほれぼれしてしまう。靴もなく、靴下だけで、夜明け前の道を歩いていく主人公と少年。その後ろ姿の、まるまった背中、足早の、けれどけっして走らないスピード感、そのときの肉体の興奮がとてもいい。

 「午前十時の映画祭」で「大脱走」が再上映されているが、「大脱走」があくまで「大」であるのに対し、この映画は「大」を完璧に拒否し、「脱走」を肉体そのものに還元している。なまなましくて、美しくて、はるかに夢がある。




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鈴木正枝『キャベツのくに』

2010-03-31 00:00:00 | 詩集
鈴木正枝『キャベツのくに』(ふらんす堂、2010年03月08日発行)

 「四月」という作品がある。その書き出し。

埋めました
護ろうとして
護りたかったから
同時に
私も埋まりました

 この「同時に/私も」に鈴木正枝の「思想」が結晶していると思う。「同時に/私も」の「も」が、特に印象に残る。「私は」ではなく「私も」。常に何かによりそう。それは、この詩のことばを借りて言えば「護る」ということになる。自己主張ではなく、自己がなくなってもいいと覚悟して、他者によりそい、他者を護る。そのとき、他者は護られ、同時に「私も」護られる。私のなかで護りたかった「私」が護られる。
 「も」をとおして、「私」は「ほんとうの私」を発見する。
 護りながら、護られる。そして、あたらしい自分(ほんとうの自分)を見つけ出し、生きはじめる。そのこと、その相互作用のようなものに感謝をこめながら、鈴木はことばを動かしている。そう感じた。

 「四月」は、たぶん球根を埋める、球根を育てるという詩である。球根を土に埋める。冬のあいだは土にうまっている。そのあいだも球根は生きている。そして、

温度が上がり光が満ち
護られていたはずのものがざわめきだし
ぶつかり合いながら
地表に飛び出してしまったのです
我慢できずに
光の中にみるみる拡散していく
膨大な不安
忘れたふりさえできなくなりました
見守っていたのです
ひと時も眼を離さずに
飛び散った芽が伸び茎になって
やがて花は咲く
のどの奥は
いまにもつぶれそうなほどの悲鳴で
いっぱいです

 これは、四月になり、芽を出し、茎をのばし、花を咲かせるチューリップか何かを比喩的に書いたものだと思って読むと、情景がわかりやすくなる。
 ただし、それは単なるチューリップではない。チューリップになった「私(鈴木)」でもある。
 チューリップがその球根の中に護っていたいのち、それが春になって騒ぎだし、芽を出し、茎をのばし、花を開く。そのとき、鈴木が鈴木の肉体のなかでまもっていた愛が、ふとざわめきだす。外へ出たがる。そして、実際に外へ出てしまう。こころが肉体を捨てて、あふれだしてしまう。あふれだしたこころは、肉体を離れてしまって、不安である。不安はどこまでも広がる。そして、愛は不安を内部に秘めているから輝く。不安の形で花開きながら輝く。
 その不安によりそう肉体。肉体が、その不安によりそうとき、肉体の中に不安が育つ。それはのどまであふれてくる。のどは悲鳴でいっぱいになる。けれど、声は出ない。声にならないものを秘めて、肉体はそのとき輝く。
 「も」のなかで、鈴木はチューリップと一体になる。区別がつかなくなる。姿形は鈴木とチューリップは違うけれど、ことばのなかで、ひとつになる。そのときの大切なことばが「も」なのだ。

 鈴木の作品は、そこに「私も」ということばがないときがある。ないときがあるけれど、ほんとうは、それは隠れているだけである。「私も」を補ってみると、鈴木という詩人がとてもよく見えてくる。
 たとえば「にんげん」。

美術館に
大きなにんげんが届いたので
自転車をとばして
毎日見に行く
今日は少し動いただろうか
かっちりと粘土で固められたにんげんは
背筋をまっすぐに伸ばし
右手を少し挙げて
立っている
堂々と
影もちゃんと立っていいるんだ
ガラス戸の反対側の
同じ位置に
同じ傾斜で太陽をあびて
大きいねえ 山のよう
動かない
ちょっとだけ触ってごらん
こんなに堂々と
こんなになったかいんだよ にんげんだからね
同じかたちを真似して並んでみると
同時に私も
にんげんになった気がする
立っている気がする

 終わりから3行目、「同時に私も」は、鈴木の詩にはない。私がかってに挿入してみたものだ。かってに挿入してみたものだが、私はここに、鈴木の、ことばにならなかったことば「同時に/私も」があると実感してしまう。
 鈴木はもちろん最初から人間なのだが、美術館にやってきた彫像(にんげん)に触れることで、その彫像が具現化している「堂々」を自分のものにするのだ。ここでは「四月」とは逆に、「にんげん」が鈴木(私)を護るもの、よりそうものなのだが、よりそえば、どちらがどちらによりそっているということは問題ではなくなる。互いによりそい、互いに支えあい、互いに育っていく。単によりそうだけではなく、「触れば」なおさらである。
 ところで、その「触る」だが、「大きいねえ 山のよう/動かない/ちょっと触ってごらん」は、誰が誰に対して言ったことばか。鈴木は誰かといっしょに美術館へ行ったとは書いてはいない。ひとりで言っているのだ。
 この「触ってごらん」は鈴木が、鈴木の内部にいる「私」に向かって言っている。そして、その「にんげん」に触るのは、鈴木のなかの、まだ「にんげん」になっていない(人間の自覚のない)「私」である。その「私」が「にんげん」に触ることで、それまでの「私」を突き破って、外に出てくる。チューリップの球根から芽が出て、茎が伸びて、花が咲くみたいに。そして「にんげん」になって、そこに立つ。

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駱英『小さなウサギ』(4)

2010-03-30 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(4)(思潮社、2010年03月01日発行)

 駱英のことばは、「或いは逆に、」「同時に」「または」など、さまざまな「接続詞」を接着剤にして「絡み合う」。その絡み合いを、駱英は「抑えることができない」。それは、そして、「ことば」の絡み合いなのだ。ことば自身の運動なのだ。
 あらゆるものが、ことばとして動いていく。
 「オタマジャクシ論」のなかに、

私と言葉の私たち

 という表現が出てくる。「私」という単数の存在が、ことばになると「言葉の私たち」と複数になる。「言葉の私たち」とは、具体的には、たとえば「オタマジャクシ論」のなかの「オタマジャクシ」であり、「小さなウサギ」の「ウサギ」である。
 
 ウサギの身分によって、都会の高層ビルの企業で育てられるのは、幸運である。
                     
 「小さなウサギ」の書き出しの、この「ウサギ」は、「都会の高層ビル」「企業」ということばに出会い、それと絡み合うとき、どうしても「人間」に見えてくる。「ウサギ」は「人間」の「比喩」に見えてくる。そうとらえてしまう。
 けれど、それは「比喩」ではないのだ。(比喩と呼んでもいいのかもしれないけれど、私はあえて比喩とは呼ばない。)
 それは「言葉の私・たち」の「ひとり」である。複数ある「ことば」のなかの「ひとり」である。

 あ、うまく言えない。

 「ことば」を通して「私」は行き来する。「私」は「ウサギ」ということばをとおって「企業」に行く。そして「ウサギ」をとおって「私」に帰ってくる。あるいは、「オタマジャクシ」あるいは「ゴキブリ」をとおって。
 その「通り道」はひとつではなく「複数」ある。その複数が「言葉の私たち」の「たち」なのだ。そして、それは「複数」だけれど「ひとつ」である。それは「私」という単数と向き合っているからである。その「ことば」を通るとき、「私」はあくまで「私」であって、「私たち」ではない。

 なぜ、駱英は「私と私の言葉たち」と書かないのか。そんなふうに、逆に考えてみた方がいいかもしれない。そうすると、駱英のことばがくっきりと見えてくるかもしれない。(あるいは逆に、と駱英をまねしてみようか……。)
 駱英は「ウサギ」「オタマジャクシ」など複数のことばを通るが、そのことばを通るとき、それが複数であっても「ひとつ」であるということが関係している。「同時に」に二つのことばを(複数のことばを)通ることはないのだ。「私」はあくまで「私の言葉」を通る。その瞬間においては。つまり「ウサギ」と書くときは、あくまで「ウサギ」を通るだけであって、同時に「オタマジャクシ」を通ることはない。
 もちろん「オタマジャクシ」を通ることはあるが、そのときは「オタマジャクシ」だけを通る。
 そして、その「ウサギ」と「オタマジャクシ」は、ある接点(求心、ととりあえず呼んでおく)で交錯する。区別がつかないものになる。駱英は「ウサギ」である。「或いは逆に、」「ウサギ」ではなく「オタマジャクシ」である。つまり、「ウサギ」であり、「同時に」「オタマジャクシ」である。「ウサギ」であり、「または」「オタマジャクシ」である。交差する一点(求心)から「ウサギ」「オタマジャクシ」という方向に分裂していく。遠心する。その遠心した「ウサギ」や「オタマジャクシ」が「言葉の私たち」なのだ。

 これは、なにも「ウサギ」だけにかぎったことではないのだ。「小さなウサギ」のなかの「言葉の私たち」は「ウサギ」だけではなく、実は「都会のビル」「企業」でもある。それは入れ替え可能というより、からみあっている。「ウサギ」が「私」であると同時に、或いは逆に、「都会のビル」や「企業」が「私」でもある。
 それは、相互に行き来する。
 何もかもが、行き来する。
 ことばのなかで、行き来しないものはなにもない。

 「ウサギ」は「比喩」ではない--私がそういうのは、そのためである。「ウサギ」が人間の比喩ではなく、「都会のビル」や「企業」が人間の「比喩」であるということも、駱英のことばの運動では、「等価」なのである。

 ある企業とある企業が等価交換されることを「双方勝ち」と言うが、実際には、勝ちも負けもない。

 これは「小さなウサギ」のなかの1段落の文章だが、「ウサギ」と「企業」と「人間(私)」もまた「等価交換」される。つまり、相互に行き来する。すべては一であり、或いは逆に(つまり、同時に)多である。そして、それは「ことば」において、そうなのである。

 ここで、私はまたまた最初に書いたことにもどる。松浦の訳について書いた不満にもどる。唐突に。あるいは、逆に、必然的に。

 ゆえに死は、敬意を受けねばならない。それで始めて死者とともに死を消滅させることができるのだ。

 この「それで」という日本語。これが、私にはどうしてもわからない。中国語がわからないが、詩集のおしまいから横書きで書かれている中国語から、この部分を日本の漢字(?)にして引用すると、それは、

 因此死亡必須受到敬仰、然后才能和死亡者一起被消滅

 であると思われる。「それで」と松浦が訳したことば(漢字)は「然」であると思われる。接続詞としてつかわれるとき「しかして、しこうして」「しかるに」「しかれど」「しからば」「しかも」となるらしい。
 こういうようなことを踏まえて、松浦は「それで」(そうすることによって--つまり、「死は敬意を受け入れることによって」)と訳しているのだと思うが、これは「然」の別の意味でとらえ直した方がいいのではないのか。
 私は何度も「一即是多」「多即是一」と書いてきたが、そのときの「即」。「即」はまた「則」でもある。「すなわち」。……すれば、すなわち……になる。そこには厳しく密着した運動、変化がある。
 死は敬意を受け入れる。受け入れれば、すなわち、それは死は消滅する。死は消滅し、死は存在しなくなる。「或いは逆に、」と駱英は書くのだが(これを中国語で何というのか、私は知らないが)、即(則)は、そういう「逆」になることも可能である。強い力で結びつくとき、あらゆることばは逆の意味を軽々と獲得する。

 中国語をまったく知らないし、漢字の正確な意味も知らないのだが、駱英の今回の詩集には、もっと違った訳があってしかるべきなのではないか、と思ってしまった。何か、つまずくのである。もっともっと、凝縮した密着感がほしい。ことばからことばへとことばが動くときの、絶対的な接点がほしい、と思ってしまうのだ。
 「恣(ほしいまま)」と思われることばが「欲しいまま」という表記で書かれていたり、「ほしいまま」になっていたりするのも気になった。


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ジャン=ピエール・メルヴィル監督「海の沈黙」(★★★★★)

2010-03-29 17:10:48 | 映画


監督 ジャン=ピエール・メルヴィル 出演 ニコール・ステファーヌ、ハワード・ヴァーノン、ジャン=マリー・ロバン

 室内劇である。ドイツ人将校がひとりでしゃべり、老人と若い女性は無言で聞いている。ふたりは何も話さない。ふたりは沈黙を守ることでドイツ人将校に「抵抗」抵抗しているのである。いわゆるアクションは何もない。はげしいうごき、人間の肉体はこんなふうに動くのかという驚きはない。ことばも、将校が一方的にしゃべり、老人と女がことばをかえさないのだから、動きようがない。何も変わらない。--こう書いてしまうと、とても映画には見えない。
 けれど、映画でしかありえない。
 何も変わらない、と書いたけれど、その何も変わらないところが映画でしかありえない。ひとが3人顔をつきあわせるわけだから、何も変わらないはずがない。それを変わらないとみせかける(装う)ところに、はげしい動きがある。動きを抑えるという動きがある。
 ドイツ人将校はフランスの文化に敬意を払っている。とりわけ文学に対して、つまりことばの運動に対して敬意を払っている。だからこそ、ことばを話しつづける。フランス文学、哲学の力について語りつづける。
 その話を聞くうちに、老人と娘は、将校が単なる侵略者ではないということに気がつく。侵略者であるのは間違いないのだが、人間として共有できるものがあるということに気がつく。でも、同じものを共有している、同じ人間であるということを出発点にして、その将校に接近していくことは、侵略されているフランス人という立場からはできないことなのだ。だから、将校がどんなに人間的に共感できることを語ったとしても、同感してはならない。絶対に同感しない--それが老人と女の暗黙の了解であり、ふたりは共感を絶対に表に出さない。肉体として表現しない。
 そのとき、こころが動く。
 このとき、そのこころの動きをどう映画に定着させるか。
 たとえば、まなざしの小さな動き。顔を動かさないけれど、視線だけ動かすときの眼球、そしてまぶたにあらわれる動き。芝居(舞台)では、けっして見えないもの。また小説(ことば)では、少し動いたとしかいいようのないものが、スクリーンでは拡大され、くっきりと刻印される。見開いた目。目の輝き。陰り。それは、とりわけそういう目の表情にあらわれる。目は口ほどにものを言う、というのは確かである。
 あるいは手の動き。かすかな指の動き。それもまた舞台や小説の表現には限度がある。映画が、肉体を拡大し、そこだけを取り出してしまうカメラ、そのアップがあって可能な表現である。
 そして、もしそれだけなら、それは何もこの映画だけにかぎったことではない。あらゆる映画が、そういう表現をこころみている。肉体の細部の動きによって、こころを表現するというのは、どの映画もやっていることである。この映画の特徴にはならないだろう。この映画が特別優れているということにはならないだろう。
 この映画は、肉体の小さな動きをとおしてこころを表現すると簡単に言ってしまえる「映画文法」を超えている。
 どうやって?
 動かないことによって。--と書くと、繰り返しになってしまうけれど、老人と女のことばを動かさないことによって、一方的にドイツ人将校のことばを動かすことによって。
 ことばを動かすだけなら、文学(小説)ではないか、ということになるが、小説と違うところは、ことばが動くとき、かならずそこに動かない肉体がある、という点が小説と違う。小説は老人も女も動かないと書けばそれで終わりだが、映画では、その動かない肉体を役者が具体化する。かならずそこに肉体がある。観客はかならず役者の肉体を見る。そして、それを動かさないという「意思」を見る。「意思」を抽象的に感じるのではなく、「肉体」という具体的な「もの」として見てしまう。
 動き回るドイツ人将校のことば、そして肉体。それに対して、動かないふたりのことば、ふたりの肉体。その対比のなかで、動かない、動かさないという「意思」が肉体として浮き上がってくる。
 「肉体」というのは不思議なもので、それを見るとき、その「肉体」が体験している「痛み」を自然に受け入れてしまう。道端に誰かが倒れて、腹を抱えて呻いていたら、あ、この人は腹が痛いんだとわかってしまう。自分の痛みではないのに、他人の痛みがわかってしまう。そういう「感覚」だけではなく、人は、他人の「意思」さえも、「肉体」をとおしてわかってしまうのだ。
 観客は知らないうちに、自分の肉体を「動かない」状態にして、つまり老人や女の「肉体」にしてしまって、ドイツ人将校のことばを聞く。すると、ドイツ人将校がフランス文学に対して敬意を払っていることがわかる。また、フランス文学だけではなく、こんなふうにしてドイツ人将校を受け入れている二人を、敬意をもって眺めていることがわかる。ふたりの「こころ」動きが、観客の「こころ」のなかで動きはじめる。「肉体」を動かさないので、「肉体」のことはほっぽりだして、ただ「こころ」の動きだけが重なる。そして、増幅する。そして、こころが動いていることがわかるからこそ、その動きを否定しようとする意志の動きがわかる。その意志の動きが、役者の肉体を超越して、観客の肉体に乗り移ってしまう。
 これは、その前に、役者の肉体がなまなましく拡大されるからこそ可能なことなのだ。実際の肉体より拡大し、スクリーンからあふれる肉体。たとえば、若い女の目のアップ。そういう大きな目は実際にありえない。そのありえないまでに拡大する肉体が、スクリーンを超えて、観客に押し寄せ、観客の肉体をつつみこむ。役者の拡大する肉体、拡張する肉体が観客を乗っ取ってしまう。そして、「意思」をも乗っ取ってしまう。

 いや、逆に言う方がいいかもしれない。

 「こころ」のうちのことは、ほんとうはだれにもわからない。ドイツ人将校のフランス文学に対する敬意--それを聞いて、老人と女は怒っているかもしれない。何もわからないくせに、とか、その部分は間違っていると軽蔑しているかもしれない。けれど、観客は(いや、私は)、あ、このドイツ人将校は他のナチスとは違っていると感じる。フランス文学が好きなのだ、敬意を払っているのだと思う。そして、その「思った」ことを、老人と女の「肉体」、スクリーンをとおして見える「肉体」に覆いかぶせ、彼らがそう感じていると感じ、二人の態度に共感と反発を感じ揺さぶられてしまうのである。拡大する肉体に乗っ取られるふりをしながら、あるいは肉体を乗っ取られることをいいことに、観客は自分の「こころ」を役者の「こころ」にもぐりこませてしまう。
 そして、その瞬間、とても変なことが起きる。
 あなたたちの「意思」はわかった。とてもよくわかった。その「抵抗」は立派である。だが、ばかやろうである。将校が好きになったんだろう。好きと言え。愛していると言え。「アデュー」と力なく唇を動かす前に、キスしてしまえ。
 そんなことはできないのはわかっている。わかっているからこそ、そういう気持ちにさせられる。
 じれったくなるのである。動かない肉体が無性に憎たらしくなるのである。肉体を動かそうとはしない意志の頑固さが、とても悲しくなるのである。切なくなるのである。

 「反戦映画」(反ナチス映画)なのに、この最後に押し寄せてくる感情--それは、とても変なものだと思う。ドイツ人将校が憎い、とか、「抵抗」したふたりは立派であるという感じではなく、ああ、なんと人間というのは愚かなんだろう、と思ってしまう。誰かが好きになる、そのひとの本質は「ナチス」そのものではないとわかっても、その「わかった」ものに従うことはできない。「わかる」のに自分の気持ちを抑え、それを裏切らないといけないときがある。
 「肉体」のなかに、矛盾した気持ちを矛盾したまましっかりと抱え込まないといけないときがある。「いけないとき」ではなく、正確には、それしかできないときがある、なのかもしれない。
 この矛盾を、気持ちの問題だけではなく、肉体そのものの問題であるかのように、この映画は具体化している。肉体として感じさせる。ねえ、ほら、女が「アデュー」と唇を動かすとき、その小さな声が、こころを切り裂く大きな悲鳴に聞こえるでしょう。女が、この世でたったひとりの、絶世の美女に見えてくるでしょ? 目の前に、その顔が、その肉体があると感じてしまうでしょ? 「感情」「意思」の前に、その顔、その目、その肉体がある。
 それをねじまげてしまうのが、戦争なんだなあ。--そう気がついたとき、それは「反戦映画」になるのかもしれないけれど、まあ、こんなことはうるさくなるから、きっと気にしなくていい。

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フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(2)

2010-03-29 12:00:00 | 午前十時の映画祭

監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 この映画は何度見ても絶対に飽きることがない。何度見ても、毎回見たい。毎日みたい。--ということは、毎日、この映画について語りたい、ということでもある。
 きのうの感想のつづき。
 なぜ、おもしろいか。
 その人には、その人にしか見えないものがある。それをこの映画はきちんと撮っている。映像にしている。サム・シェパードが初めて音速の「壁」を破る瞬間、大空にすむ悪魔に打ち勝つ瞬間、そのときの青から群青にかわる色の変化。これはサム・シェパードにしか見えない。見ることができない。その寸前の、計器のはげしい揺れや操縦桿の振動も。そういう華々しい(?)風景だけではなく、他の風景もそれぞれに、その人にしか見えないのである。
 デニス・クエイドたちが庭でバーベキューをしている。その向こうでサム・シェパードがこどもキャッチボールをしている。キャッチボールをしているサム・シェパードを見ていて、バーベキューを焦がしてしまうデニス・クエイド。それを妻が見ている。その風景も、ありきたりのようであって、実はデニス・クエイドの妻にしか見えない風景なのだ。そこには、そのときしかありえないデニス・クエイドの妻のこころがあふれている。男たちが動いている。それは男たちの風景ではなく、それを見つめる妻の風景なのである。
 そうした日常意外にも、その人にしか見ることのできない風景がある。
 繰り返し繰り返し失敗しつづけるロケット。それは「記録」であるけれど、ものの「記録」ではないのだ。それをつくり、飛べ、と祈っている科学者たちの、宇宙飛行士たちの「視線」の記録なのである。
 宇宙飛行士になるための訓練。それに先立つさまざまな肉体チェック。精子の活動状況を調べるための精液の採取。そのときのトイレ。壁越しに聞こえてくる仲間の声。そんな卑近なというか、なまなましい何かも、そうである。
 あるいは宇宙から帰還し、カプセルから脱出する。ハッチが爆発し、カプセルが沈んでいく。それを見つめる宇宙飛行士。そのときの波とカプセル。ヘリコプター。それも、その人にしか見ることのできない風景である。その、失敗(?)した宇宙飛行士の無念をそっと思いやるサム・シェパード。遠くから、テレビで、そして、ひとり部屋を抜け出して見る夜の空気--それも、彼にしか見ることのできない風景である。
 宇宙から凱旋し、ニューヨークをパレードする。記者にかこまれる。成功しても、失敗しても、押し寄せてくるマスコミ。彼らの動きさえ、宇宙飛行士でなければ見ることのできない風景である。
 どの風景も、その人にしか見ることができない。その、その人にしか見ることのできない風景を見るために、私たちは、いま、ここに、存在している。そういうことを、この映画は、剛直な、叩いても叩いてもけっしてこわれることのない剛直な映像で、まっすぐに伝えてくる。
 ラストの、サム・シェパードの失敗も、この映画には、まことにふさわしい風景である。人は誰もがその人にしか見ることのできない風景を見るために生きている。そして、見たものを誰かに伝えるために生きている。それは人間の可能性を切り開く新しい世界だけのことではない。その人にしか見ることのできない風景というのは前人未到の偉業の風景だけではない。なにごとかをなし遂げようとして、失敗する。そのときに見える風景がある。だれも飛んだことのない上空から落下する。機体のコントロールを失う。そうやって、見る風景。大地が近づく。脱出しようと、決意しながら見る風景。パラシュートが開かない。なんとかしなければ。そう思いながら見る風景。そして、かろうじて大地に帰ってきて、その無事を知って駆けつけてくる仲間の姿を見る--そのときの「風景」。
 あ、これこそ、絶対に、その人しか見ることのできない風景である。語らなければならない風景である。人は失敗する。それでも生きている。生きて、語る。そこからすべてがはじまる。
 一食抜いても見るべき映画である。


 

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駱英『小さなウサギ』(3)

2010-03-29 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(3)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」「同時に」だけが「絡み合う」わけではない。駱英においては、あらゆることばが多即是一、一即是多につながるのだ。
 「恐怖について」という作品。「二〇〇六年六月十日 CA九八四便四A席」というメモがついている。飛行機のなかで一気に書いたものだろう。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 「また」。「柔らかさ」と「鋭さ」は一般的には相いれない。だから、この「また」は「或いは逆に、」は言い換えることができる。「或いは逆、」がいいすぎになるなら、「同時に」でいい。
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。
 その拡大の仕方は凝縮と拡散、求心と遠心がひとつになったものである。「接続詞」が世界の中心にあり、その接続詞でかけ離れたものが出会い、ぶつかり、互いの重力に飲み込まれ、凝縮しきれずに爆発する。発散する。
 (この運動に一番似ているのは、私の印象では清岡卓行である。中国語がわからないにもかかわらず、松浦の訳には、私にはちょっとついていけない部分がある。田原の詩を谷川俊太郎が訳したらどうなるだろう、という感想を持ったことがあるが、駱英の詩の場合は、清岡に訳してもらいたい。--これは、絶対に不可能なことになってしまったけれど。ふと、あ、清岡が駱英の詩を読んだらどう思うだろうかと想像してしまうのだ。求心と遠心のなかで世界をとらえた清岡なら、この駱英の詩は、いったいどうなるだろうか、と。)
 
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。--というのは、駱英の基本的なことばの運動だが、それには「副振動」のようなものがともなう。不思議な「音楽」が。先に引用した部分にもどる。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 この段落は三つの文章から成り立っている。最初に「恐怖」を覚えた、と書き、次の二つで「恐怖」を言いなおしている。そして、その後者の二つの文章をつなぐことばが、とても不思議である。わかるといえばわかるが、わからないといえばわからない。だからこそ、私はここで清岡の手を借りたくなるのだ。清岡なら、何と訳しただろうか、と気になって仕方がなくなる。
 「その静けさは、」の「その」って何?
 いや、学校教科書的な「意味」でなら、わかるのだ。この「その」は、その前の「静けさに転げ落ちた」という文章ででてきた「静けさ」を引き継いでいることをあらわすための「その」である、ということはわかるのだ。「その」は、いわば英語で言う「定冠詞・the 」であることは、わかってる。
 でも、それだけじゃないでしょ?
 というか、「静けさ」が「その、定冠詞the 」でくくれる「たったひとつのもの」であったなら、それは「柔らかさ」と「鋭さ」を「同時に」もったものではありえない。
 「その」「静けさ」の「その」は、「静けさ」を飛び越して、その前の文章の「狂ったように泣き叫びたかった」を含んでいるのだ。狂ったように泣き叫びたい--というとき、そこには「静けさ」を超越した静けさがある。「音」がない静けさではなく、「音」を必死に求める沈黙、音を拒絶された沈黙がある。狂ったように叫びたい。喉は(肉体は)、その気持ちに答えられない。喉を開ける。口を開く。けれど、そこから出て行くのは「無音」の風。息。
 「その静けさは」ではじまる文章の「その」は、駱英が転げ落ちたときの「静けさ」を説明するだけではない--というより、「その静けさは」ではじまる文章は、それに先行する「狂ったように泣き叫びたかった」と「際限のない静けさに転げ落ちた」の二つの文章を言いなおしたのもなのだ。そして、その言い直しのとき、接続詞「が」は「また」に変わっているのである。
 このときの、「言い直し」。それを私は「音楽」と感じている。「副振動」による「音楽」だ。「狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた」だけでも強烈な旋律なのだが、いや、それがあまりに強烈すぎる振動だからというべきか--それを支える「副旋律」が、そのまわりに派生する。主旋律をつつみこみ、受け入れやすくする。そんなことはしなくてもいいのかもしれないが、主旋律が強靱すぎることは駱英にもわかっているというか、そのままでは、駱英自身も、その音に叩き壊されて、ことばがつながらない。だから、自然に、それを支えてくれる(受け止めてくれる)「音楽」を要求するのかもしれない。

 この詩には、もうひとつ、おもしろいことば、(ほんとうはひとつではなく、もっとあるのだけれど)、駱英のことばを運動を特徴づけることばがある。

 恐怖への欲望が沸き起こってきた。さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。

 おもしろいことば--という本題(?)に入る前に、少し、寄り道。
 一つ目の寄り道。「静けさ」には「湧き起こる」、「欲望」には「沸き起こる」。松浦は使い分けているのだろうか。駱英は?--松浦への質問。
 二つ目の寄り道。「恐怖への欲望が沸き起こってきた。」を、駱英は「さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。」と言いなおしている。そのとき、二つの文章のあいだには「接続詞」がない。あえてことばを補うならば「その」欲望は、さまよう野良犬が道端でさかろうとする(とき)の(欲望のように、)(それ)を抑えきれない--ということになる。
 ほら、「その静けさ」の文章と同じ構造が、「副振動」を導く構造が見えてくるでしょ?
 で、「その」とういことば(ここでは書かれていないけれど)よって「副振動」を引き起こさずにはいられないのと同じように、駱英は「あるいは逆に、」「同時に」「また」ということばで求心・遠心を繰り返さずにはいられない。それは、その欲望は、

抑えきれない

 これが駱英の思想である。
 ことばは抑えきれない。ことばは暴走するにまかせるしかない。暴走しながら、正反対のもの、たとえば、

 殺害と殺害されること、恐怖と恐怖にさらされること、存在と存在させられること、虚無と虚無にされること、肉欲と肉欲まみれにされること、偽善と偽善にされること--。 号泣と号泣されること。

 そういうものを遠心・求心のなかで、いままで存在しなかったものにかえてしまう。かえることで私自身は、「私」が「私」を超越してしまう、否定してしまう、否定して生まれ変わる--そのために、詩があらねばならないのだ。



 

小さなウサギ
駱 英
思潮社

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フィリップ・カウフマン監督「ライトスタッフ」(★★★★★)

2010-03-28 10:00:00 | 午前十時の映画祭
監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド

 「午前十時の映画祭」8本目。
 何度でも見たい映画、毎日でも見たい映画である。
 映画の興奮は、いままで見たこともないものを見ることである。この映画には、いままで見たこともないものしか存在しない。あらゆる映像が、見たこともないものである。映画の登場人物自身が、いままで見たこともないものを見る、いままで体験しなかったことを体験する--その記録でできているからである。
 冒頭の雲と空。それは、ありふれた雲と空である。飛行機が飛ぶとき、その操縦席から見える空と雲。それは見慣れているはずである。映画で何度も見たはずである。けれども、違うのだ。この映画ではまったく違って見えるのだ。
 その操縦席に座っている男は、人類未踏のスピードに挑戦している。そのとき男が見る雲、そして雲の背景(?)としての青空は、だれも見たこともない雲と空なのだ。その、だれも見たこともないものを見るのだという興奮が冒頭から伝わってくる。
 いいなあ、この興奮。
 この興奮を、この映画は「抽象」として描いてはいない。「具体」として描いている。それが、すごい。
 サム・シェパードが始めて「音速」の壁を破る。はげしい振動を超えて、彼が操縦する飛行機が音速に突入する。そのとき、青空が、その青が、深く、巨大な固まりになる。音速の壁を超えたのに、その群青は、まるで壁である。あ、そうなのだ。サム・シェパードが人類で始めて音速を超えたとき、それは他のパイロットにとっての壁になるのだ。その深い青空、「悪魔」が住んでいる群青は、サム・シェパードを超えたいと思うすべてのパイロットの「壁」になる。分厚く、強靱な「壁」になる。
 夢中になってしまうなあ。私はパイロットではないし、なんというか、だれもできないことをするのが男の証だというようなマッチョ思想とは無縁な人間だと思っているのだが、血が騒いでしまう。青い空が群青に変わる瞬間のスピード。だれも経験がしたことのない世界へ踏み入れる瞬間の、それこそ「悪魔」の手引きがあって始めて可能のようななにかに魅せられる気持ちが、あらゆる論理を超えて私をつつんでしまう。「右翼」だとか、くだらないマチシズムだとかと批判されてもかまわない。あの、青が、群青にかわる瞬間を、その瞬間の「やったあ」と叫ぶ快感に身を任せられるなら、なんと言われてもかまわない、と思ってしまう。 
 それが、見たい。それを体感したい。その興奮。その感激。

 書きはじめるときりがないけれど、ああ、すごいなあ。全編を貫く剛直な映像。ゆるぎのない存在の確かさ。だれも経験したことのないものを次々にぶち破って手にいれる男の、その確信と、それに拮抗する存在の確かさ。
 ロケットの、次々に打ち上げに失敗するロケットの、その失敗の、失敗の、失敗の、永遠の失敗の、その無駄の、永遠の無駄の--終わることのない無駄の剛直さ。無意味の剛直さ。
 いまは、しないねえ。こんなことはしないねえ。経済の役に立たないからね。人間の「福祉」の役に立たないからねえ。
 でも、人間というのは役に立たないことをしたいものなのだ。無意味なことをしたいものなのだ。そして、どんな無意味なことにも、必ず、それを疎外する「壁」がある。剛直な壁がある。どうしようもない壁がある。そして同時に、その壁を壊したいという剛直な欲望がある。
 同じことばの繰り返しでしかいえないけれど、この不可能な無意味性、それを知っていてなおかつそれをしてしまう人間。その緊迫感。これは、ほんとうに、いい。この全体的な剛直性は、私には「いい」としかいいようがない。

 そして。

 そして、とつづけていいのかどうかわからないけれど。この映画は、単に剛直であるだけではない。欲望の剛直な輝きを描くだけではない。サム・シェパードは大学卒ではないというだけの理由で、あらゆる空を飛ぶ男たちの夢である「宇宙飛行士」の選考にも加わることができない。
 けれど、サム・シェパードは知っている。空を飛ぶのはロケットだけではない。さまざまな飛行機がある。そして、そのひとつひとつの飛行機は、その性能の極限を切り開くテストパイロットを必要としている。どんな状況においても、極限を切り開く人間がいる。極限を切り開く瞬間、そこにはだれも見たことのない世界が広がる。極限の突破は、あるものは華々しく語られる。そして、その華々しい極限の突破の背後には、それにつながる無数の極限の突破がある。--だれも知らない極限の突破、とことばにしてしまいそうだが、そうではなく、それはその極限を突破した男によって確実に認識され、蓄積される。その「確実さ」。
 それは、最先端の「剛直さ」を支える「やわらかさ」のようなものである。剛直だけでは、存在はささいなことで破壊されてしまう。あらゆる破壊を、しっかりと受け止めて守る「やわらかさ」。--人間性。私のことばは、先回りして、人間性と言ってしまうのだが、そういうものがある。

 この映画の魅力は、きっと永遠に語り尽くすことができない。この映画は、終わりのない映画だからである。
 「ゴッドファーザー」にも「カサブランカ」にも「終わり」がある。けれども「ライトスタッフ」には終わりはない。極限を突き破るための「正しい資質」。それは「結論」ではなく、出発点である。
 「宇宙競争」は、いまは、中断している。ように、見える。でも、人間は夢を見る。極限を超えたいと欲望する。そして、その極限を超えるための「正しい資質」は、いつでも、どこにでも、その運動の場を押し広げていく。そのときの、まったく新しい風景、新しい色、新しい形--ああ、その原型と到達点がこの映画にある。

 これは何度見ても全体に見飽きるということのない映画でしかない映画である。

ライトスタッフ [DVD]

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駱英『小さなウサギ』(2)

2010-03-28 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(2)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」は「二本の樹」という作品では、別のことばで書かれている。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、同時に存在の快感をも享受しているのである。

 「同時に」が「或いは逆に、」である。少しことばを補うとそのことが明確にわかるはずだ。

苦しみは、単なる存在の自己証明なのではない。苦しみを感じるとき、(ひとは)「或いは逆に」存在の快感をも享受しているのである。

 「苦しみ」の対極に「快感」がある。それは「同時に」存在する。それは「苦しみ」は単に「苦しみ」であるのではなく、「或いは逆に、」「快感」と呼ぶべきものなのである。それは切り離せない。「逆」といいながら、かならず「同時」である。反対のものであるからこそ、対極にあるものだからこそ、矛盾したものだからこそ、それは「同時に」という限定が必要なのだ。もしそれが「同時に」でなければ、そのふたつは何の問題もない。「同時に」であるからこそ、そこにはことばで分け入っていかなければならない「本質」がある。ことばでしかたどりつけない「本質」がある。つまり、そこには「思想」がある。 

 「或いは逆に、」がそうであったように、「同時に」は書かれてはいないが、駱英のこの作品には随所に存在している。いくつもの個所で「同時に」を補うことができる。補った方がよりわかりやすくなる。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。


 歓喜する者が樹で、「同時に」謀殺する者も樹である。新たな生を得るのが樹で、「同時に」枯れるのも樹である。受けとめる者が樹で、「同時に」抑圧する者も樹である。高貴なのが樹で、「同時に」下賤なのも樹である。しなやかなのが樹で、「同時に」折れやすいのも樹である、などなど。

 そして、この「同時に」には、「或いは逆に、」に置き換えてしまうと、少し「意味」(流通言語としての意味)がおかしくなるものがある。

 喜びを交換するとき、「同時に」痛みも交換している。これは、喜びを交換するとき、「或いは逆に、」痛みも交換している、と書き換えても問題はない。「喜び」の対極のことばは「悲しみ」かもしれないが、「悲しみ」には「痛み」がともなうから、まあ、「逆」ということばで向き合わせても、それほど違和感はない。
 けれど、「歓喜」と「謀殺」はどうだろう。「受けとめる」と「抑圧する」はどうだろう。「歓喜」の対極は「悲嘆」だろうか、「苦悩」だろうか。「受けとめる」の対極は「剥奪する」だろうか。
 それらは、「或いは逆に、」ということばで向き合わせるとき、しっくりと「文脈」におさまるかどうかわからない。
 「世界」には、そういうものが存在するのだ。
 なんとなく「或いは逆に、」といってもいいけれど、そういいきってしまうと、微妙に何かが違う。けれど、単なる並列ではなく、違う形で存在するものが、どちらかというと片方を支えるではなく、否定するような(つまり矛盾するような)形で存在するものが。そういうものを書き留める、ことばにするとき、駱英は「同時に」ということば、表現をつかうのだ。
 そして、この「同時に」ということばとともに、対極にあるものが(対極に近いものが)存在するとき、そこにひとつの「形」(存在形式)が生まれる。
 それが「絡む」である。

 二本の樹の絡みあった根っこは、深く愛しあう恋人同士、或いは同性愛の恋人同士の、片時も止むことのない性行為のようではないか。

 書き出しにあらわれる「絡みあった根っこ」、その「絡む」という同士。「二本」の樹。ふたつが対立するのではなく、並列する。しかし、それは助け合っているのか、殺し合っているのか、簡単には定義はできない。性行為ということばが出てくるが、性行為の絶頂は「死ぬ」である。それは「殺す」のか、「或いは逆に、」「生かす」のか(新しい命を与えるのか)、そしてその「殺す」と「生かす」は別の時間ではなく「同時に」存在するとき、限りなく燃え上がるものだが、その「殺す」と「生かす」は、単に「支えあう」のではなく「絡みあう」のである。

 お互いに便りあう根っこをさらに幾組みも絡めあわせよう。そうすれば、地上と地下に二つの森ができあがる。

 ここにも、実は「同時に」が隠れている。地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。そして、それは「或いは逆に、」でもある。地上に森ができあがる、「或いは逆に、」地下に森ができあがる。つまり、地上と地下に「同時に」二つの森ができあがる。繰り返しになってしまうが、駱英のことばは、そんなふうに運動する。
 地上には枝葉の森、地下には根っこの森。
 駱英のことばは、この地上・地下という表現が呼びさますような、対極を常に行き来する。いや、対極を一点に引き寄せ、結合させ、結合によって爆発させ、解放する。そして、それは解放であっても、かならず対極のものが「絡んで」いる。「絡んで」いるからこそ、それは動き回るのだ。

 「或いは逆に、」そして「同時に」。この矛盾したことばは、常に動き回る。どうしても、そこにはスピードというものがあふれてくる。強靱というものがあふれてくる。速くて、強靱--そして、それは切り離せない。それが駱英のことばだ。





都市流浪集
駱 英
思潮社

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駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)

2010-03-27 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(思潮社、2010年03月01日発行)

 駱英『小さなウサギ』の各詩篇には日付が入っている。時間や場所も書かれている。時間まで書かれたものは、それが書きあがったときの時間なのかもしれないが、私は、それを書きはじめた時間と考えたい。ことばにとてもスピードがある。駱英のことばは強靱でスピードがあるが、その強さはスピードがもたらす強さのように感じられるからだ。たとえていえば 100メートル競走の選手の筋肉のような強さ。スピードが鍛え上げた強さ。
 そして、その時間、たとえば「二本の樹」の「二〇〇六年六月六日 三時十六分 ロサンゼルス・ルイズホテル」の「三時十六分」は書きはじめであると同時に書きあがった時間にも思える。そういうことは物理的には不可能だけれど、ことば自身の運動としては可能である。スタートした瞬間がゴール。そこには距離がない。時間がない。はげしい凝縮と同時の爆発があるだけだ。
 矛盾している。--そうなのだ。矛盾しているのだ。それが、駱英『小さなウサギ』である。たとえば、冒頭の、「二〇〇六年六月五日 ロサンゼルス・ルイズホテル三〇一号室」というメモをもった「死者に」の終わりの方、

 最も優れた死者は、気の狂う間もなく死んだ死者である。或いは逆に、死んでからも気の狂いつづけている死者である。

 「或いは逆に、」ということばをはさんで、まったく逆のことが書かれている。ことばはまったく逆の方向へ動いている。こういうことばに対して、どちらが本当なのか、と問うことは無意味である。どちらも本当なのだ。そして、それはどちらかを欠いてしまったら「本当」にはならない。矛盾しているふたつが結びついてこそ「本当」なのである。生まれてきたことばが、反対のことばによって殺され、殺されることで、殺されたことばはよみがえる。
 この詩の最後の1行は、

 或いは死が。

 である。
 「或いは(逆に、)死が」どうしたのか。「述語」がない。何が省略されているか。前の部分を引用してみる。

 朝まだき、まだ開かれていないカーテンの隙間から、ある種の寛容さを装い、陽の光が、傍観者或いは謀殺者の身分で私のベッドを訪れる。そして始まる。
 その神聖なる謀殺--
 或いは死が。

 「或いは(逆に、)死が」「始まる。」そう読むことができる。このとき学校教科書の文法では、「謀殺者」によって「謀殺」された「私(駱英)の死」が始まるということになるのだが、詩の場合はそうではない。神聖な謀殺によって、「私の死」ではなく、「逆に」謀殺者自身の死がはじまる。
 傍観者も同じである。謀殺を目撃する。「私」が謀殺されるのを傍観する。そのことによって、「逆に」傍観者自身が死ぬ。
 そして、「逆に」、詩人である私・駱英が生き残る。生き残る、というよりは新しく生まれる。殺されることで、殺される前よりも、強靱になって生まれ変わる。死とはなにか、殺すとはなにか、殺されるとはなにか、その両者のあいだにいったいどんな関係があるかという「思考」を経て、殺される前には考えなかったことばを「肉体」にまとって生まれ変わる。その証拠が、この詩、「死者に」である。
 したがって、タイトルの行っている「死者に」の「死者」とは、殺された「私」であり、また「私」を殺した謀殺者、「私」が殺されるのを見ていた「傍観者」--そういうすべての人間を指す。



 「或いは逆に、」--これが、駱英のキイワードである。矛盾を抱え込み、凝縮し爆発することばの運動のベクトルは、かならず「或いは逆に、」をとおるのである。この詩には、あらゆるところに「或いは逆に、」が省略した形で書かれている。省略してしまうのは、そのキイワード、その「思想」が駱英の「肉体」になってしまっているからである。駱英には、たぶん、そのことばを書いた記憶というものはない。無意識に書いている。意識できないほど「肉体」にしみついている。
 「或いは」とだけ書かれ、「逆に」が省略されているわかりやすい例をひとつあげておく。

 建築物は、死者を収める箱である。或いは死者によって設計、建造され、死や死者に供される共有の仕事台である。

 この「或いは死者によっては」は「或いは逆に、死者によって」である。だが、単純に「逆に、」を挿入してしまうと、文章がわかりにくくなる。

 建築物は、死者を収める箱である。或いは「逆に、」死者によって設計、建造され、死や死者に供される共有の仕事台である。

 「共有」ということばが、文章の「意味」を成り立たせなくする。「建築物は、死者を収める箱である。」というとき、そこには建築物を、設計、建造する「生者」という「主語」が省略されている。建築物が、そうではなく「逆に」死者によって設計、建造されるのであるなら、そこに「生者」という「主語」がまぎれこんで「共有」するというのは、おかしくない? 文章として、奇妙にねじれていない?
 そう、ねじれている。私は、そう思う。そして、そのねじれこそが「思想」なのだ。「矛盾」と同じように、深く肉体にからみついた「思想」なのだ。
 ここには、いくつもの「省略」がある。ことばにされなかったことばがあるのだ。「逆に、」と同じように、書かれなかったことばがあるのだ。
 補ってみよう。

 建築物は、死者を収める箱である。或いは「逆に、」死者によって設計、建造され(る箱である、とも定義できる。それは、つまり)、死や死者に供される(生者と死者の)共有の仕事台である。(なぜなら、死が存在しないかぎり、死者を収める箱としての建築物は不要だからである。)

 これは、「弁証法」である。「生者」が建築物を設計、建造するという定義(A)。「死者」が建造物を設計、建造するという定義(B)。これは「生者」「死者」という対立する「主語」による同じ運動である。AとBは同時には成立しえない。それを同時に共存させるためには、一種の「迂回路」が必要である。「死者か存在する」という「迂回路」を経ることによって(死者か存在する、というのは生者と死者の両者が存在してはじめて成り立つ定義・認識である。「共有」される定義・認識である)、統合される。止揚される。完結した「意味」をもちうる。
 こういうまだるっこしいことは、詩では一々書かれない。省略されてしまう。そのために、はげしい矛盾が噴出する。その矛盾が、爆発し、そしてきらきら輝いて巨大な宇宙になる。
 駱英のことばの運動は、そういうことろにある。



 この詩集には、駱英の原文も同時に掲載されている。私は中国語はまったくわからないのだが、松浦の訳について1か所、疑問点を書いておく。疑問点というより、「要望」と言い換えたほうかいいかもしれないが。
 はじめの方にある次の部分。

 ゆえに死は、敬意を受けねばならない。それで始めて死者とともに死を消滅させることができるのだ。

 この「それで」とは何だろう。「それ」は「敬意を受けること」、「で」は「よって」だろうか。つまり、「それで」を言い換えると「敬意を受けることによって」になるのだろうか。
 「それで」が中国語でどういうことばになるかわからないが、ここには、やはり「或いは逆に、」につながることばが省略されている。
 死は(生者からの)敬意を受け入れる(ことで死として存在する)。「或いは逆に、」死は敬意を受け入れることで、死を消滅させることができる。つまり、生者のなかで「死者」としてではなく「いのちある人間、生きている人間=生者」としてよみがえる。そうやって、「生者」と「死者」は「死」を「共有」する。
 私は、そんなふうに読むのだが、こういうことばを入れる器として「それで」は、あまりにもぼんやりしている。駱英のことばのスピードと強靱さにふさわしくない。特に「それで」ということばの軽さは、駱英のことばの強靱さにふさわしくない、と思う。
 中国語も読めず、しかも、駱英のことばのスピードと強靱さを松浦の訳から感じ取りながら、こういうことを書くのは矛盾してるとはわかっているのだが……。



小さなウサギ
駱 英
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鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」

2010-03-26 18:33:52 | その他(音楽、小説etc)
鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」(毎日新聞2010年03月26日夕刊)

 鈴木琢磨「はとバス歌声喫茶」は「酒に唄えば」というコーナーに掲載されていた短い文章である。「はとバス」が「歌声喫茶」に変身した新企画。JR浜松―新橋―両国―浅草を走る。そのあいだ昭和の歌を乗客が合唱するというものらしい。
 その一節。

 遠く東京スカイツリーをのぞみ、しばらくして井沢八郎さんの「ああ上野駅」が流れたときだった。夜のちまたで歌い込んできたらしい初老の男性がつぶやいた。「おれ、集団就職だったんだ。」流れ去る上野の風景が一瞬、止まった。いつもなら気づかないもうひとつの東京を見た気がした。

 あ、いいなあ。「流れ去る上野の風景が一瞬、止まった。」か。どんな風景が、何が見えたかは書いてない。どうぞ、「はとバス」に乗って昭和の歌を一緒に歌ってください。そのときだけ、見えるんですよ。そう言っている。うん、乗りたい。乗って、見知らぬ人と歌を歌い、ひとつの時間を持ちたい。そういう気持ちにさせるねえ。

 でも、このあとの文章は余分なんだけれど。引用した段落には、あと2文ある。それは読まない方が感動的。だから、ここでは省略。

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北川朱実「夏の目方」

2010-03-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「夏の目方」(「風都市」21、2010年春発行)

 北川朱実のことば(想像力)はときどき、遠くへ飛ぶ。抽象と具体が拮抗するので、その感じがとても強くなる。「夏の目方」。

高くなった空が
ふいに
自分のものでなくいことに
気づくのだろうか

--学校に行きたくないよォ
夏休みが終ると
息子は
きまって獣のように吠えた

 1連目は抽象的で、「だれが」気づくのか、その「主語」があいまいである。 2連目とつづけて読むと「学校に行きたくない」と叫ぶ息子が叫んでいるようにも読めるが、そうではなく「高くなった空」が自分自身のことを気がついたとも読めないことはない。あるいは、いままでいっしょに遊んでいた「息子」(人間のこども)がもはや自分のものではない、もういっしょに遊べない、と気がつくだろうか--とも読むことができる。
 まあ、どうでもいいな。どうでもいいな、と書くと北川に失礼になるかもしれないが、わからないことはわからないまま、いつかわかる日がくれば、それはそれでいい--と私は考えているので、「意味」の断定はしない。
 ただし、そのかわり、「高くなった空」と「学校へ行きたくない、と叫ぶ息子」だけはしっかりと把握する。それだけは「わかる」と感じる。わかるものとわからないものがあったら、わからないものはそのままにしておいて、わかるものを抱きしめて、ことばを追いかけていく。
 北川は、このあと、夕食の準備だのかつおぶしだの秤(かつおぶし屋で量り売りのときつかう天秤ばかり?)という具体的な「日常」とかつおぶしのふわふわした軽さのことを書きつらねる。ことばは、口からでた瞬間から重たくなって、かつおぶしを測る天秤ばかりなんかは、ひっくりかえてしまうとういうようなことを書く。かつおぶしは天秤ばかりで測れるけれど、でも、ことばってどうやってその天秤ばかりにのせる? なんてことは聞いてもしようがない。一瞬、北川が、そう思ったことなのだから。ここにも、わかるものと、わからないものが同居している。
 そういうことを書いたあと、つづけて。

秤にかけたら
天秤ごとひっくり返る
遠いサバンナの回廊

仲間に追われ
声もあげずに縄張りの外へ走り出た
チンパンジーは

星のかけらみたいな木の実を
音をたてて食べたあと

大切だった道具の石を
口いっぱいに詰め込んだ
(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

 あ、この「空」の部分がいいなあ。美しいなあ。急に、作品の冒頭の「高くなった空」がよみがえってくる。
 仲間から追われ、逃げ出したチンパンジー。それは「行動」を見ればわかる。「大切だった道具の石を/口いっぱいに詰め込んだ」というのも、見れば、わかる。でも、そのとき、チンパンジーの

(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

というのはどうだろう。わからない。だれにもわからない。けれど、北川には「わかる」。それは間違っているかもしれないけれど、間違っていたとしても「わかる」。他者の「肉体」がわかる。「他者」が「肉体」をとおして感じているものを、自分の「肉体」をとおして「わかる」。「わかってしまう」。

(喉の奥に
(澄んだ空が広がって

というのは、抽象をはるかに超えた、絶対的抽象のようなものである。だれもチンパンジーがそんなものを感じたかどうかを確認できないのだから。けれど、その抽象を超えた絶対的抽象が、北川自身の「肉体」で把握されるとき、それはかけがえのない「具体」にかわる。「実感」にかわる。
 そして、この「実感」は、「共感」でもある。
 そのとき、遠いもの近いものになるだけではなく、さらに北川の「肉体」を突き破って外へ広がっていく。
 遠いチンパンジーの感覚、絶対証明できないチンパンジーの感覚が、北川の肉体で再現されるとき、それは北川の肉体にとどまっていることができない。北川をつきやぶって、北川をチンパンジーでも、人間でもないものにしてしまう。あえていえば、「澄んだ空」にしてしまう。
 ここでいう「澄んだ空」は、これもまた絶対的抽象なのだが、ね、ほら、サバンナの(私は行ったこともないのだけれど)、真っ青な空、雲ひとつない空が目に浮かんで、その瞬間、北川のことを忘れてしまうでしょ? そのサバンナの澄みきった空と、北川が冒頭に書いていた「高くなった空」が重なりませんか?

 ふと。

 あ、息子は(私の息子ではないだけれど……)、きっと、チンパンジーの喉の奥に広がった澄みきった空のようなものを感じたんだなあ。もう、それが自分のものではなくなったと感じ、「学校に行きたくない」と叫んだんだなあ、というようなことを、唐突に「実感」する。
 私の感じが正しいか、間違っているかは、もう、このとき関係ない。それを「実感」してしまったのだから。
 この「実感」のなかには、卑近(?)な具体的事実(学校に行きたくないと叫ぶ息子、こまった存在)と、その肉体がもっているかもしれないチンパンジーの喉の奥の澄みきった空が強く結びつく。
 そんなもの、どうして結びつくの?
 あ、それはね、北川の詩を読んだから--そう答えるしかない。北川の詩は、そのことばは、そういう不思議な、どこか、ここではない次元へ「飛んだ」ような感覚を味わわせてくれる。



電話ボックスに降る雨
北川 朱美
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人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
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誰も書かなかった西脇順三郎(120 )

2010-03-25 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「はるののげし」という作品は、西脇にとって重要な作品かどうかわからない--というか、私は、何だろう、この作品は、と思ってしまうのだが、そう思いながらも、最後の3行、いやおしまいの1行が非常に気に入っている。

よく
女の人がみる夢に
出てくるような
うす雪のかかる
坂道の石垣に
春ののげしが
金色の髪をくしけずつている。
これは危険なめぐり合いだ。
「まだあのひとと一緒ですか」
「まだ手紙が来ませんか」
「そうですかァ」

 「よく/女の人がみる夢に/出てくるような」というのは、なんともとぼけた感じがする。女といろいろ夢の話をしてきたことが、かるく語られている。そのよく話しあう女と出会った。あるいはのげしを見て、その女と出会ったような気持ちになった。
 女はいろいろ話しかけてくる。具体的なことはなにも書かれていない。会話は3行あるのだが、女・男・女というやりとりではなく、女の言ったことばが断片的に並べられている。西脇は、ここでは会話の内容(意味)を重視していない。
 では、何を書きたかったのか。
 ことばの調子、感じである。

「そうですかァ」

 あきらめか、未練か。よくわからないが(というのは、非常によくわかるが、という意味の反語だが)、女の「肉体」の「感じ」がそのままことばになっている。女がそこにいる、ということが実感できる。
 語尾の調子など、説明せずに「ァ」とだけ書いておしまい。この切り上げかたが、さっぱりしている。




最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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鄭浩承「水の花」ほか

2010-03-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
鄭浩承「水の花」ほか(韓成礼・訳)(「PO」135 、2009年11月20日発行)

 「PO」135 は「韓国現代詩の今」という特集を組んでいる。鄭浩承「水の花」はとても美しい作品だ。

川水の上に浴びせるほど降る夕立が
水の花ならば
絶壁に落ちる滝が
水の花びらならば
母のように島のふもとを撫でる
白い波の流れが
水の百合ならば
あの穏やかな川の波が
水のバラならば
あの通りの噴水が水の桜なら
それでも落花する時を知る
すべての人間の涙が
水の花ならば

 「○○が/水の花(百合、バラ、桜)なら(ば)」と2行が対になって動いてきたことばが、最後になって乱れる。

あの通りの噴水が水の桜なら
それでも落花する時を知る

は、本来は

あの通りの噴水が
水の桜なら(ば)
それでも落花する時を知る

という3行なのか。あるいは、それは次の行を含んで、

あの通りの噴水が
水の桜なら(ば)
それでも落花する時を知る/すべての人間の涙が
水の花ならば

なのか。
 対句で動いてきたことばが、なぜ、そこで乱調になるのか。
 「それでも落花する時を知る」という1行の重さが、この詩のキーだからである。「時を知る」この「時」とは、禅でいう「時節」というものかもしれない。そして、それはいつでも「存在」するのではなく、「知る」ことによって、その瞬間にあらわれてくるものである。
 「落花」というのは、はため(?)には悲しいことかもしれない。花はいつまでも咲いていた方が美しいかもしれない。けれど花はいつまでも花であっては、花ではないのだ。それは蕾から花へと変化し、さらには散って、実を結んでこそ、花であった「意味」がある。蕾であるから花であり、散るから花であり、実を結ぶから花である。それは咲き誇るから花であるというのと同じである。花のさまざまな形のなかに、花そのものがある。一即是多。多即是一。そして、その「即是」が「時」なのである。
 その「時」を「知る」。「知る」とは、その対象(ここでは「時」)が人間の「肉体」のなかに入ってきて、肉体と一体に「なる」ということだ。
 そういう「時」、人間の涙は「水の花」になる。悲しみを超える。つまり、純粋な「悲しみ」というものになる。純粋なとは「永遠の」という意味でもある。

 鄭浩承のことばは短い。少ない。けれど、そのことばのなかに、矛盾した力がある。そこにあるものを説明しようとすると、同じことばを繰り返すしかないような、何の説明もできなくなるような、強い結晶、強固な結晶、透明な結晶の、その強さ、透明さを生み出す力がある。
 「結氷」

結氷の瞬間は熱い
カチカチに凍りついた冬の川
滔々と流れる水さえ
一生に一度は
すべての流れを止めて
互いに一つの身になる
その瞬間は熱い

 「一生に一度」とは、「水の花」の「時を知る」の「時」である。
 上流にあり、下流にあり、岩にぶつかって割れる。岸に触れて澱む。水の「様態」は「多」である。けれども「水」という「一」でもある。「一」であるからこそ、「多」の姿をとることができる。一即是多。多即是一。そういうことを知る瞬間、一生に一度、それは熱い結晶になる。それが氷。
 氷が熱い--というのは矛盾だが、矛盾だから、そこに「思想」がある。一即是多。多即是一。これも矛盾だから思想なのである。色即是空。空即是色。それが矛盾であり、同時に思想であるのと同じである。

 この二つの詩にあらわれた「時」(一生に一度)を踏まえて、「飛び石」を読むと、最終連のことばがいっそう強く結晶してくるのがわかる。

花は散るべく散り
水は流れるべく流れて
氷は溶けるべく解けるのだが
私は生きるべく生きることができずに
飛び石になって伏せている

今日も水は冷たく流れは速い
君よどうか水に溺れずに
私を踏んで起き上がり力強く渡って行け
私たちは青い川辺の飛び石を
今は何度、また渡ることができるのか

時には飛び石も水になれる
時には飛び石も水になって流れ
会いたい時
二度と会えない時がある

 「君」が「私」という「飛び石」を踏んで川を渡る時、「私」もまた「君」になって川を渡っている。「私たち」に「一体」である。「私」はそのとき「君」にな「なる」。「私」は「君」ではない。だからこそ、「なる」ということができる。「なる」とは一即是多。多即是一の「即是」である。「即是」は「時」でもあったが、「一体」になるとは「時」に「なる」ということでもある。
 「時」に「なる」とき、すべての存在は互いに融合する。融通する、というべきか。「飛び石は水にもなれる」。石と水は別個のものだが、「一」に「なれる」。
 一即是多は多即是一でもある。この矛盾の真実を、鄭浩承は「会いたい時/二度と会えない時がある」と書く。二度と会えないからこそ、会いたい。そして、その会いたいという気持ちのなかで、ふたりは今まで以上に会う。硬い結晶のように、純粋に、透明になるまで、会ってしまう。

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志賀直哉(4)

2010-03-24 23:47:14 | 志賀直哉

 「池の縁」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 こどもの様子(ことば)を活写している。連作のうち「赤帽子・青帽子」。志賀直哉は気分屋で家族が困ったらしい。それで、気分がいいときは「青帽子」、悪いときは「赤帽子」をかぶって知らせてくれればいいのに、と家族が言い合っているらしい。それを聞いた9歳になる直吉が志賀直哉の顔色をうかがいながら、きょうは「赤かな? 青かな?」と志賀直哉の顔をのぞきこむ。
 そして、志賀直哉とあれこれやりとりをして、うるさがられる。
 それでも、直吉はやめない。
 
 「いまは青だが、おまえがさう煩さくすると直ぐに赤になるんだ」
 「さうかな? 少し笑つてゐるぞ。眼が笑つてゐるぞ。本統に赤の時は眼が笑はないよ」
 「煩さい。降りてろ。そろそろ桃色になつて来た」
 「笑はなくなつたな。笑はなくても未だ青らしいぞ」
 「本統によせ。さう煩くされると、青から一つぺんに赤くなるぞ」
 「早く帽子を作らないから悪いんだよ。さうすれば一々訊かなくても分つて便利なんだ」
 「だから口ではつきり云つてゐる」
 「それが嘘だつたら、どうする?」
 子供は程といふ事を知らない。
 「うるさい奴だ。男はさうべたべたするものぢやない」私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。

 地の部分に、ぱっと1行書かれている「子供は程といふ事を知らない。」という1行が、非常に強い。地の部分なのだが、説明という感じがしない。それは、まるでその場にいあわせた母や妻に対して語った「大人向け」の会話のように聞こえる。声には出さなかったが、実際、志賀直哉は、母や妻に対して、そう言ったのだろう。
 そういう調子がそのまま生きているので、直吉と志賀直哉の「会話」のあいだに挿入されているのに、その会話の調子を壊さないのだ。「私は邪険に直吉を膝から押して降した。母や妻が笑つた。」という文章と比較すると、その違いがとてもよくわかる。
 これは、とても巧みだ。
 会話と会話のあいだの説明は会話の調子を維持すると、会話を邪魔しない、ということが常識かどうか知らないが、あ、うまい。すごい。と、ただ感心する。



清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)
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ガイ・リッチー監督「シャーロック・ホームズ」(★★)

2010-03-24 21:09:48 | 映画

監督 ガイ・リッチー 出演 ロバート・ダウニー・Jr、ジュード・ロウ、レイチェル・マクアダムス

 アーサー・コナン・ドイルの原作に同じストーリーのものがあるのかどうか、私は知らない。知らないのだけれど……。
 あ、映画で「文学」はやらないでくださいね。しかも「大衆文学」ではなく「純文学」は。武術家シャーロック・ホームズや、きっと「現代版」をつくりそうなストーリー展開は「大衆」向け風だけれど、映像の「文体」(映画では、なんていうのだろう)が、こってりとしています。
 影が単に影ではなく、闇につながっていくときの色調がスクリーン全体を多い、軽やかさがない。あえて、そういう「映像」に処理しているのだけれど、こういう色調の統一の仕方は私はあまり好きではない。だって、簡単でしょ? 実際の色彩に手を加えて色調に統一感を出すなんて。手を加えずに、色調の統一感を出してもらいたいなあ。
 この色調操作に、ロバート・ダウニー・ジュニアの影の多いというか、明暗のはっきりした顔が重なるのだから、重たいねえ。苦しいねえ。見ていて気分が晴れない。そういう感じも「純文学」という感じ。(一昔前の純文学かもしれないが。)
 「推理」も、たしかに伏線としての映像はきちんと描かれているのだけれど、見たとき、それが伏線とはわからないねえ。あとからフラッシュバックで「過去」を映像として見せるんだけれど、ことばの説明がついてまわっている。これでは「小説」だねえ。ページをめくって、あ、そうだったのか、のかわりにフラッシュバック。安直じゃない?
 あ、これはおもしろいなあ、と思ったのが、しかし一か所ある。
 ロバート・ダウニー・ジュニア(シャーロック・ホームズ)がボクシングをするシーン。どんなふうにして攻めるか。それを「推理」する。相手の動きを「推理」して攻撃方法を組み立てる。その「頭のなかの映像」をまずスローモーションで映し出し、それをそのあと速いスピードで再現する。「推理」というか「頭のなかでの動き」がそのまま現実になる。
 これ、いいじゃないか。
 この方式で、事件を解決してほしかったなあ。ロバート・ダウニー・ジュニアが、犯人の行動を「推理」する。その「推理」どおりに犯人は動いていくのだけれど、「推理」より犯人の行動の方がほんの少し速い。「推理」がおいつかないために、犯罪が起きてしまう。
 繰り返し繰り返し、そういうことをやっていると、だんだん「犯行」と「推理」の時間差が縮まってくる。ほら、「肉体」が動くにはけっこう時間がかかる。 100メートルを10秒で走れる人間は少ないけれど、10秒で走ったと頭で考えるのはだれでもできる。頭のスピードは肉体のスピードを上回るからね。
 そして、ついに最後は、「推理」(頭の動き)が「犯行」(肉体の動き)を追い越す。つまり、ロバート・ダウニー・ジュニアが犯行の前に立ちふさがり、犯行を阻止する。ね、これを映像でやると、おもしろいでしょ?
 次の作品、遠隔操作がテーマの犯罪のときは、ぜひ、そうしてね、ガイ・リッチー監督さん。(と、遠隔操作しているつもりの、私。)





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