詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(70)

2014-05-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(70)          

 「イグナチオスの墓」。これも墓碑銘。

われ、ここにてはかのアレクサンドリアに名高きクレオンならず、(なかなかに眼肥えたるアレクサンドリアびとの中にありても)その館、その庭、その馬、その戦車、その宝石と絹の衣によりて知られたるクレオンならず。

 中井久夫は注釈で「修道院にはいると戒名するのは当時の習慣であった」と書いている。クレオンという人物が修道院に入り、イグナチオスと戒名した。そのイグナチオスが死んだのだが、まず「われ、(略)クレオンならず」と言わなければならないほど、クレオンは有名だったということだろう。
 クレオンという名前は、表記の上では二回出てくるが、実際はそれ以上に出てきている。「その館……」で繰り返される「その」。「その」は「クレオンの」と同じ意味である。というよりも、逆に考えた方がいいかもしれない。「クレオンの館、クレオンの庭……」ではなく、「その館がクレオン、その庭がクレオン」という具合に主客が逆なくらいに館や庭や馬がすばらしい。そして、クレオンが修道院に入ってしまっても、そこにはクレオンがいつづけている。つまり、切り離せない存在、一体になっている。クレオンという名前を聞いて、「その庭」を思い浮かべるのか、「その庭」に行けばクレオンを思い浮かべるのか--その区別がないくらいになっている。
 「その」の繰り返しによって、中井の訳は、そういう「事実」を強調している。中井の訳は、「その」を定冠詞以上に強く迫ってくるものにしている。たぶん、こういう「その」の繰り返しをふつうはしないからだろう。「その」の繰り返しによって、ことばの動きが詩に高まっているといえる。
 この強烈な印象のクレオン像のあとに、静かなイグナチオスが登場する。

わが二十八年まさに消去さるべし。われはイグナチオス、読師、下から二位の聖職者。目覚めたるはいと遅きも、キリスト護りたもうて心安けく、十月がほどはこの道にありて幸せなりき。

 聖職について十月。その期間が短いから、何も言うべきことはなく、その結果、それ以前のクレオンのことが多く書かれてしまうのかもしれないが、これは墓碑銘としてはかなり、風変わりとはいえないだろうか。イグナチオスのことを尊重するなら、クレオンのことは書かなくてもいいのではないだろうか。
 それを書いてしまうのは、書いた人がイグナチオスよりもクレオンの方をいとおしんでいるからだろう。大事に思っているからだろう。「われ、クレオンにならず」と始まっているが、書いた人は、「ここに眠るのはクレオンであって、それはアレクサンドリアのあのクレオンだ」と主張している。
 人は死んで、それを見送った人のなかで生き続ける。その生き続ける人は、故人の意思とは関係なく、思い出す人の嗜好にあわせて生き続ける。この矛盾の中に詩がある。







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中井久夫訳カヴァフィスを読む(69)  

2014-05-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(69)          

 「美」に捕らえられると、「美」から逃れられなくなる。「美」は自分で発見するのものだが、それはほんとうに自分で見つけたものなのか。逆に「美」の方から見つけられてしまった--ということはないのか。
 「じっとみつめた」という詩は、そんなことを考えさせる。

身体の数々の線。紅の唇。官能の肢体。
ギリシャの彫刻から盗んだかの髪は
櫛けずらずとも常に美であった。
白い額にはらりとかかっていた髪よ。
いくとおりもの愛の姿よ。私の詩心が求めるままに
……私の若かった夜な夜な、
私の夜な夜な密かに出会った姿よ--。

 「じっとみつめた」の主語は基本的には「私(カヴァフィス)」だろう。カヴァフィスが若い男をじっとみつめ、そこにギリシャ彫刻の美しさを見出している。特に髪が気に入ったらしい。
 でも、それは「みつめる」というよりも、カヴァフィスの「嗜好」を若い男に押しつけているということかもしれない。「私の詩心が求めるままに」、彼を作り替えている。理想の像に仕立てている。そして、そのときその理想というのは、実はカヴァフィスの教養である。カヴァフィスが見てきたギリシャの彫刻。その美に合うに、詩人は若い男を描写している。
 この詩では髪に焦点があたっているが、別の男を描く場合は髪ではなく、肩や首、目や唇ということもあるだろう。髪だけがカヴァフィスの美の基準ではないだろう。
 そうであるなら、(という私の推論はかなり飛躍したものになるのだが)、それは相手の男がカヴァフィスの記憶(肉体がおぼえていること)のなかから引き出した「美」かもしれない。カヴァフィスの教養のなかにはいくつもの「美」がある。その「美」を青年が見つけ出し、彼の髪をつかって整えなおしている。髪によって、カヴァフィスの髪に関することばが整えなおされている。そういうこともあるのではないだろうか。
 「私の若かった夜な夜な」の「若かった」ということばは、こうした体験が若い時代からつづいていることを語っているのだが、すべてのことは「出発したところ」から逃れられないのかもしれない。
 カヴァフィスが美を発見したのではなく、美の方がカヴァフィスのことばを発見し、それを操っている。自分でみつけたものなら、それを捨てることができる。見つけられてしまい、とらえられてしまっているから、カヴァフィスは逃げられない。夜がくるたびに、つかまえられてしまう。繰り返される「夜な夜な」が、そう語っている。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(68)

2014-05-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(68)          

 読む、とはどういことか。「アチュルの月に」は読むことをめぐる詩である。カヴァフィスは古い墓碑銘を読んでいる。当然、そこには欠落した文字がある。

この古い石碑は かろうじて字が読める。
「主キリスト」。何とか「たまし(い)」とも。
「アチュルの月に」「レウキオ(ス)眠(りにつけ)り」

 墓碑銘だからキリストが出てくるのは自然だ。「たましい」も必然だろう。「レウキオ(ス)」も人名前だから不可欠だし「眠(りにつけ)り」は読めなくても、そう読んでしまうだろう。でも「アチュルの月に」はよくわからない。わからないから、想像力が激しく動きはじめる。

腐食部分に かすかに「彼(は)…… アレクサンドリアびと」
その続きは 極めて毀損された三行。
しかし多少の語は拾える。「われらが涙」「悲嘆」
ふたたび「涙」「その友たる(われら)の愁い」
レウキオスは いたく愛された子に違いない。

 涙、悲嘆、愁い……ということばからはレウキオスを失った人の悲しみがつたわってくる。墓碑銘だから、それは自然なことであるけれど、その悲しみを一歩突き進めてカヴァフィスはそこに書いていないことばを書く。
 「レウキオスはいたく愛された子に違いない。」
 このときカヴァフィスはレウキオスを思い浮かべているのだろうか。それともレウキオスを愛した人々を思い浮かべているのだろうか。私は、後者だと思う。さらにいえば、彼を愛した人々というよりも、「愛する」という動詞を思い浮かべている。「愛する」ということを思い浮かべている。
 そして、そのときカヴァフィスは、会ったことのないレウキオスを愛している。欲望している。実際にレウキオスと愛をかわした人に嫉妬しているかもしれない。そういうこころがあるから、「毀損された三行」を克明に読むのだ。
 --と書くと、何か、時系列に反したことになってしまうが。
 たぶん、読みはじめた瞬間から、そこに「アレクサンドリアびと」という文字を読んだ瞬間から、その欲望は動いているかもしれない。これは、美しい青年だったのだ、と思い、それにつながることばを探す。そうすると「われらが涙」「(われらの)愁い」ということばがある。「われらの」は欠落している部分があるが、補っている。「われら」を補うことで、カヴァフィスはその「われら」の一員になり、同じ「趣味」をもった人間として、欲望する。
 読むというのは、そこに書かれていることを読み取るのではなく、書かれていないこと、行間を、自分自身の「肉体」のなかから探し出すことだ。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(67)

2014-05-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(67)          

 「イアシスの墓碑」。ギリシャでは墓碑銘にどのようなことを書くのか。私は知らないのだが……。詩は三つの部分から成り立っている。

イアシスここに眠る。この大都にみめよきをうたわれし者。賢者の賛美をも凡人の渇仰をもほしいままにせしが、ヘルメスよ ナルシスよ と愛でらるるも度重なれば、ついに限りを越え、擦り切れて死にき。そこへ行く人よ、アレクサンドリアびとならば われを責むるな。わがまちの熱狂を知り、快楽に身も心も捧げつくす その民の生きざまを知らむきみなれば。

 最初の二文は、死んだという事実と称賛。
 次の「賢者」からはじまる長い一文は、称賛の「中身」。ただし、そこには純粋な称賛だけではなく、多少の妬みも入っている。美貌をたたえられたが、美貌ゆえに身を崩して、美貌を使い果たして死んでしまった。
 これはほんとうに墓碑銘に書かれていることなのか。墓碑に、こういう批判(嫉妬)を書くのは、ギリシャではあたりまえのことなのか。
 たぶんカヴァフィスの「創作」だろう。
 あるいは、それは妬みというよりも自分もそうありたいという願望かもしれない。
 賢者と凡人ということばが出てくるが、人間の智恵にいろいろな違いがあるように、その「声(主観)」にもいろいろある。落差がある。生きているときはだれもがイアシスの美貌をたたえる。そのおこぼれに預かれるかもしれないからだ。けれど死んでしまえば、その美貌の恩恵を味わえなかった人は、批判を口にする。程度の差はあるかもしれないが、それは賢者も凡人も同じだろう。
 カヴァフィスのおもしろいのは、こういう「差」をそのまま詩に持ち込むことである。矛盾した「声」をひとつの詩に取り込んでしまうことである。称賛と批判がぶつかりあうから、そこに生前のイアシスがいきいきと蘇る。
 そして、「生前」のイアシスの「声」というのか、死んでしまったイアシスが生きていたならこう言うであろうということばが書かれる。「そこ行く人よ、」以下である。イアシスは死んでいるから、これはカヴァフィスの「代弁」になる。「われを責むるな。」と「われ」が主語になっているが、イアシスのほんとうの声ではない。
 カヴァフィスは「代弁」をするふりをして自分の「主観(主張)」を語る。
 美に溺れ、美を使い果たして死んで行く--それがアレクサンドリア人(ギリシャ人)の「生きざま」である。これは、ある意味では、「私がのたれ死んでも、私を責めるな。私はギリシャの生きざまを体現しただけなのだ」というカヴァフィスの「遺言」でもあるし、現在の弁明でもあるだろう。
 「そこ行くひとよ、」と呼び掛けられていた人の「人称」が最後に「きみ」という形であらわれるが、「きみ」に注目するならば、これは「いま/ここ」にいるカヴァフィスの恋人へのことば、誘惑のことばになるかもしれない。アレクサンドリアの熱狂と快楽に身も心も捧げつくそう、と誘いかけていることになる。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(66)

2014-05-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(66)          

 「灰色の」は「感覚のよろこびに」と同じように追憶の詩。

灰色がかったオパールを見ると
私は思い出す、美しい灰色の双眼を--。
見たのは、そう、二十年のむかし。

 二行目は「倒置法」。「倒置法」はレトリックであるけれど、レトリックは単なる技術ではない。そこには「肉体」の動きがかかわっている。何を書きたくて、「倒置法」を選ぶのか--というほとんど無意識の「肉体」の動きがある。
 「美しい双眼」よりも「思い出す」という「肉体」の動きを、カヴァフィスは書きたかった。「思い出す」は「肉体」ではなく「精神(こころ)」の動きではないかという指摘を受けそうだが、私は「肉体」と感じている。
 一行目に「見る」という「動詞」が出てくる。これは「目で」見る。肉体の器官を特定できる。「思い出す」は、「見る」のように肉体の器官を特定できないので、肉体とは別の「精神」とか「こころ」という「仮のことば」に頼ってしまうのだが、名づけることのできない「肉体」が思い出すと考えた方がいいと私は思っている。「見る」というとき、一般に「眼で」見るのだが、ときには「手で(触覚)でみる」「舌(味覚)で見る」という表現があるし、ある音を聞いて、その音を出しているものが「見える」ということもある。「耳(聴覚)」が見る。「動詞」は肉体のなかで複数の器官と融合しながら動いている。複数の感覚を動かしている。そうならば「思い出す」も「肉体」のどこかが思い出している。
 カヴァフィスは、別れた男のこと(対象)を思い出しているよりも、自分の「肉体」がおぼえていること、自分の「肉体のなかにのこっていること」、つまり自分自身を思い出し、その思いを「他人(灰色の双眼)」によって明確にしている。
 主役はあくまでカヴァフィスの肉体。カヴァフィスの「主観」。
 だから、好きだった男のことを思いながらも、最後はその男に向けてではなく、自分自身の「肉体」に向けて呼び掛ける。

記憶よ、むかしどおりにあの眼を保てよ。
そして記憶よ、あの愛の、かけらなりとも取り戻せるならば、
ほんとうは何でもいいから今宵戻せよ。

 昔の男が、昔のままの美しい眼を保っていてほしいとはカヴァフィスは言わない。男がどうなっていようと関係がない。自分が思い出せることが重要だ。男がどうなってもいいというのは最終行の「何でもいいから」にくっきりとあらわれている。昔を思い出せるなら、あの愛を思い出せるなら、灰色の双眼ではなく、手でも足でも髪でも耳でも爪でもいいのである。カヴァフィスは男よりも自分自身の「感覚」を愛している。
 ナルシスである。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(65)

2014-05-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(65)          2014年05月26日(月曜日)

 「感覚のよろこびに」はとても短い詩。

わがいのちの喜びと香り。
望みどおりの喜びをみつけ捉えた思い出よ。
わがいのちの喜びと香り。
私はありきたりの情事に耽るのを拒んだのだよ。

 四行しかない。しかも一行目と三行目は同じことばの繰り返し。
 この四行を詩として存在させていることばは何だろう。
 「望みどおり」である。「望みどおり」が具体的にどんなことを指しているのかカヴァフィスは書かない。それでも「望みどおり」ということばに詩がある。そこには「過去」が噴出してきている。カヴァフィスは、それまでかなえられない「望み」をもっていた。「望み」がかなえられなかったから、次々に恋人を変え、情事に耽ったのだろう。
 けれど、カヴァフィスはそれを「みつけ」「捉えた」。「望み」が現実になった。
 しかし、その「現実」は長くはつづかなかった。「思い出よ」ということばが、その「現実」がすでに過去であることを語っている。
 カヴァフィスの恋には過去しかない。
 そして、この「いま」の欠如、「過去」の時間しかないということが、カヴァフィスの詩に不思議な清潔さを与えている。繰り返し繰り返し男色の詩を書いても、「喜び」とか「情事に耽る」とか書いても、そこでは「肉体」は動かない。「いま」を動かし、充実させるわてではない。肉体から、遠く離れしまったことばだけが動いている。「いま/ここ」でカヴァフィスは男色に耽っているのではない--ということが、詩をさっぱりしたものにしている。
 最終行も、「望みどおり」のことがすでに「過去」であることを語っている。そのことを語ることばのなかで「拒んだ」が非常に印象的だ。
 カヴァフィスは男色を生きている。しかし、どこかで、それに耽ること、溺れてしまうことを拒んでもいる。そこから離れている。そして、恋人の記憶そのものというよりも、「拒んだ」という自分の肉体のなかに残る自分自身の記憶を味わっている。これは一種のナルシスかもしれないが、他人に溺れるのではなく、あくまで自分のなかで生きていくという「距離感」のようなものが、カヴァフィスの詩を清潔にしている。
 詩にしろ、ほかの文学にしろ、芸術は対象から離れて、独立して存在するものだから、そこには対象との距離がある。「一体になる」と言っても、そこには隔たりがある。そういうことをカヴァフィスは強く意識している。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(64)

2014-05-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(64)          

 「宵闇」は恋人と別れたあとのことを書いている。「お互いの身体に与えあった喜びよ。」というような、いつもの「流通言語」の描写の一連目につづいて、

奔放だった日の残響。
あの日々から返って来るこだま。
わかちあった若い命の燃えた日のなごり。
もう一度手紙を手にとって、
宵闇の迫るまで繰り返し読んだ。

 二連目も最初の三行は一連目に似ている。「お互いの身体に与えあった喜びよ。」と「わかちあった若い命の燃えた日」は同じことを言い換えているに過ぎない。このまま、同じ調子がつづくのかと思ったら、「もう一度」から突然、精神的になる。
 手紙にどんな愛のことばが書いてあるのか。与え合った肉体の喜びのことが書いてあるのか。そうかもしれない。そうであっても、手紙は肉体的ではない。ことばなのだから。それなのに、なぜか、奇妙に肉体を刺戟して来る。なぜだろう。

手にとって

 「手」という具体的な肉体が出て来るからだ。手紙を手にとって読むというのは特にかわったことではない。「流通言語(流通表現/常套句)」である。だから、意識されることは少ない。しかし、もし「手にとって」がなかったら、どうだろう。「意味」は変わらない。けれど、印象ががらりと変わる。
 カヴァフィスは手紙を読んでいるだけではない。手紙に触れることで、去って行った恋人に触れている。手紙は恋人の肉体なのだ。それをしっかり「手にとって」、恋人の肉体のなかで動いていたことばを読んでいる。一度読めば「意味」はわかる。けれど「手紙」を読むのは「意味」を知るためではない。だから「繰り返す」。繰り返すと、そのたびに想いが増えて来る。感情が増えて、カヴァフィスから溢れだす。
 一連目には「幕引きもいささか慌ただしかったな。」というような、いつもの口語の響き(調子)が出て来るが、「手紙」以降は口語は消える。
 カヴァフィスは、ここでは珍しく「沈黙」を、「沈黙の声」を書いている。

それからこころ悲しくてバルコンに出た。
出て愛するこの市を見て、
通りや店の小さな動きを見て、
せめて思いを散じたかった。

 「沈黙の声」は街のこまごまとした「もの/こと」に所有される。それは、そしていつの日かカヴァフィスによって再び集められて、出会いのための「声」になるのだろう。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(63)

2014-05-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(63)          

 男色家にとって美男子は「神」である。「かの神々の一柱」は、男色家ではない市民が美男子に驚く声を書いている。

一柱の神が通り抜けた、セレウキアの市のアゴラを、
時はあたかもたそがれ時--、
姿は青年、すらりと背高く、完璧な美、
かおる黒髪、
不死なることの悦びを眼に湛えつつ--、
すれ違った者は皆みつめて、
あれはだれだとささやきあった--、
シリアのギリシャびとか夷か、と、
子細に見たものははっとわかって道を避けた。

 カヴァフィスの美男子の描き方はいつものとおり、「流通言語」をはみ出さない。個人的な好みを出さずに、世間で言われる「美」をそのまま踏襲して、スケッチをしてしまう。「形」はあくまで理想として流通している姿。それにひとことだけ、特徴を付け加える。ここでは「不死なることの悦びを眼にたたえつつ」。眼が、ふつうの人とは違っている。その違いによって、美男子が一層引き立つ。
 その人が男色家かどうかは、どうやって判断するのか。「子細に見たものははっとわかって道を避けた」と書いてあるが、きっと「はっとわかる」ことであり、根拠はないのだろう。その「神」が柱廊に入って、「あらゆる色と欲の世界に向かった」ので、

皆は首を傾げた、ありゃどの神さまだ、
どんないかがわしい悦びが欲しくて
セレウキアの市に降りてきなすったのか、
天の壮麗な館から。

 市民に(男色家ではない、ふつうの市民)の声で、「いかがわしい悦び」と男色を定義させる。しかし、それを味わうのは「神」である。そう書くことで、カヴァフィスは自分を「神」にたとえている。その「いかがわしい悦び」の場所が、そのとき天にある「壮麗な館」と同じものになる、と言っている。
 自分の声ではなく、市民の声をとおすことで、間接的に、男色家を「神」にすりかえる。このとき、カヴァフィスは「不死なることの悦びを眼に湛え」る姿となる。カヴァフィスが不死になるのではなく、「いかがわしい悦び」が「不死なるよろこび」、けっしてなくならない悦びになる。
 だれが禁じても、それは禁じることができない。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(62)

2014-05-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(62)          2014年05月23日(金曜日)

 「詩人アンモネス、六一〇年、享年二十九歳に」はアレクサンドリアがペルシャ人によって陥落し、アラブ人の攻略を受ける寸前の時代を舞台にしている。ギリシャ文化が風前の灯火である--と中井久夫は注釈で書いている。しかし「話者らにはわかっていない」と。カヴァフィスは、そういう「話者(集団)」の「声」を書いている。

ラファエルよ、依頼だよ、きみに、
詩人アンモネスの墓碑銘に詩を数行。
趣味のよい磨きのかかったのを頼む。
きみならやれる。きみは、詩人アンモネス、
わしらのアンモネスに相応しい詩が書ける唯一人だ。

 ことばは共有されて文化になる。詩は読まれて詩になる。美男子は美男子と語られることによって美男子になるのだろう。集団の声が「文化」をつくる。詩はつづく。

むろん、詩人の詩を語ってくれ。
だが美男だったことも頼む。
あの繊細な美をわしらは愛していた。

 詩人を、その詩を「わしら」は愛していたが、それは詩の力なのか「美男」の力なのか、わからない。それは区別ができない。「わしら」という複数が、その区別できなさに輪をかける。ほんとうに書いてほしいのはアンモネスのことではない。「わしら/集団」のことだ。

ラファエルよ、わかってるな、詩を書く時に
わしらの生活を行間に籠めてくれ。

 ことばで直接書くのではなく、「行間」で書く。
 その「行間」は、「わしら」とアンモネスの関係に似ているだろう。直接アンモネスと男色関係にあった人はいるのかいないのか、わからない。ただ、みんながアンモネスは美男子だと思っていた。恋人の理想だと思っていた。その、アンモネスのまわりに漂う空気--それが詩の行間である。

詩のリズムも、一句一句も、はっきりわかるようにな、
アレクサンドリア人の書いたアレクサンドリア人についての詩だと。

 そして、「行間」とは「リズム」である。ことばが近づいたり離れたりする。音が近づいたり離れたりしながら、音楽(和音)になる。まるでアンモネスの周辺で交錯する視線のリズムのように。


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中田満帆『38wの紙片』

2014-05-22 11:53:29 | 詩集
中田満帆『38wの紙片』(A MISSING PERSON’SPRESS 2014年03月12日改訂第二版発行)

 中田満帆『38wの紙片』は写真と詩の組み合わせ。私は眼が悪いので(どんどん悪化しているので)、最近は影像をみて何かを考えるということが苦痛になってきている。で、中田には申し訳ないが、写真は見ないことにしてことばだけを読みはじめたのだが。
 たとえば「港」の書き出し。

日がながくなりつつある
おれの足に生えてきた影のさきっちょ
知らない男らが倉庫のあたりで
ゲームをしていた

 あ、これは影像以上に映像的だ。「日が長くなりつつある」という光の変化(時間の変化)を、2行目の「影」が引き継ぐ。影が長くなるのは、日が長くなるときよりも日が短くなる秋の方が印象が強いけれど、中田のことばのなかを動くと、日が長くなったように影が伸びて、その影のさきっちょという具合に、視線がひっぱられてゆく。生えてきた影を見ながら日がながくなった、いや「なりつつある」と中田が感じていることがわかる。過去形ではなく、現在進行形で変化を感じていることがわかる。眼の力が強い人だ、中田は。
 光(空中)→影(地上/生えてきた足元)→さきっちょ(足の向かう先)と進んできた視線が、そのまま前方をとらえ、そこに知らない男らを見つける。この視線の動きは自然だ。映画のカメラの動きを見ているような感じがする。その移動を、そのままことばにする中田は、動体視力(動いているものを識別する視力)が強いのだろう。ここではたまたま「影」が書かれているが、影がなくても光の変化だけで、もう中田は「ひがながくなりつつある」の「なりつつ」をつかみとっているのかもしれない。

港がすぐそこまで近づき
聞きとれない声でなにごとかをいって
やがて遊びつかれたかっこうの男らは作業服に抱かれて
そのなかへ飛びこんでいった

 書き出しにつづく4行だが、「港がすぐそこまで近づき」の「近づき」がとてもいい。中田の足が男らの方に近づく。これは人間だから、ありうる。しかし「港(海)」が「近づく」というような動きをするわけではない。港(海)はそこにあって動かない。しかし、中田が男らに近づいていくとき、海が見えてきたので、まるで海が中田と一緒に「近づいた」ように感じる。海が近づいたのではなく、中田が海に近づき、海に気がついたのだが、まるで海が動いてきたような感じ。ここに一種の感覚の混乱があるのだが、その混乱は感覚の覚醒でもある。混乱こそが覚醒であるということを中田は知っている。(ちらりと見た写真はどれも不鮮明な印象があるが、中田はこの不鮮明こそが覚醒の契機であるとわかっていて、そういう写真を撮るのだろう。)
 ことばの動きにスピードがあり(動きそのものはゆっくりなのに、覚醒しているから早く感じる、ことばに無駄がないのでスピードを感じる)、そのことばがひとつひとつしっかりした影像に結晶していくので、どの強い眼鏡で世界を網膜に焼き付けるような感じるする、とても魅力的な詩のはじまりだ。
 そのあとの「聞きとれない声でなにごとかをいって」は中田が視覚人間であることを象徴するような行である。「聞きとれない声」、しかし「なにごとかをいって」いることはわかる。視力があくまで強靱に動くのに対して、聴覚は世界に対してそんなに厳しくない。聴覚で情報を処理しようとしていない。
 これをぼんやりした影像(写真)に結びつけて言いなおすと、中田は肉眼の視力が強靱すぎて、その肉眼で見ているエッジの厳しい覚醒した世界に苦悩しているために、写真をぼんやりしたものにすることで無意識の調和をはかっているのかもしれない。(ちらっとみた写真の印象だけで書いているので、まちがっているかもしれないが……。)
 聴覚は世界を一瞬かすめるが、中田のことばは、また視力の世界へかえっていく。「遊びつかれたかっこう」の「かっこう」は「見た目」であろう。見た目--見る眼は、「作業着」にたどりつく。
 男らは作業着を着ているのではなく、作業着に抱かれている。この「抱く」という動詞のつかい方は港が「近づき」の「近づく」という動詞のつかい方に似ている。本来ならば「能動」ではありえないものが自分の意思をもって動いている。
 中田には「もの」が「動く」瞬間が見えるのだろう。私たちが「もの」は「不動」である、「もの」は「動けない」と簡単に信じきってしまっているが、その「常識」を視力の力でこじ開けていく。視力を中心にすれば、あらゆることは「能動」として言い換えられる。

港がすぐそこまで近づき(い)「ているように見える」

男らは作業着に抱かれ「ているように見える」

 同じように、

日がながくなりつつある「ように見える」

 「見える」という「動詞」を省略して中田はことばを動かしている。それは「見る/見える」ということがあまりにも「肉体」となってしまっているからである。「思想」になって、それが無意識として動いているからである。思想になってしまっていること/肉体になってしまっていることは、そのひとにとってはわかりきったことなので、どうしても省略してしまうのだ。
 私は、こういう肉体になってしまった思想をことばのなかに探すのが好きだ。そのことばに出会ったとき、その人に直接会っているような感じがする。

 脱線した。

 詩にもどると、詩は次のようにつづいている。

たくさんの
小銭と
札が
まきちらされ
なにかしら病気か
風船みたいに膨らんだ鳥どもがまっすぐに赤いクレーンを過ぐ

 ここにも「見える」が随所に省略されている。

たくさんの
小銭と
札が
まきちらされ(ているのが見える)
なにかしら病気か
風船みたいに膨らんだ(膨らんで見える)鳥どもがまっすぐに赤いクレーンを過ぐ(るのが見える)

 これはさらに進んで「動詞」を「見る」から「見る」ことによってものに「動詞」を与えるというふうに変わっていく。「動詞」を変形させてしまう。「動詞」によって、「もの」自体を「生き物」にしてしまう。作業着に「抱かれ」も、そのひとつではあるのだけれど、それよりももっと強烈な「変化」があらわれる。

そのとき
外国船がだだをこねはじめた

 これは、

外国船がだだをこねはじめた「ように見えた」

 なのだが、いままでの「ように見える」動詞とは何かが違う。作業着が「抱く」、作業着に「抱かれる」は、その動詞が、何と言えばいいのか、一種類だが、「だだをこねる」はさらに「動詞」を引き寄せる。「動詞」を生み出していく。
 外国船がどんなふうに「だだをこねる」かというと、

--もうこっから動きたくないんだ
--ずっとここらで眠らせておくれよ

 「動きたくない」「眠らせてくれ」は「不動」という「動作」に収斂してしまうけれど、それでも「だだをこねる」とは別の「動詞」である。
 こういう世界の変化を、中田はすべて「見る」という動詞から引き出している。そして、あたらしく生み出している。



 少し引き返して、補足。
 「見る」と「ように見える」の違い。「ように見える」は「……のように、私は見る」ということであり、それは「主観」で世界にかかわっていくということである。「見る/見える」が生理現象(物理現象)の運動として把握するだけではなく、それを「ねじまげていく」ことである。ねじまげることで、世界を新しくすることである。そうやってできた新しい世界、生み出された世界が「詩(芸術)」である。


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谷内 修三
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(61) 

2014-05-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(61)          2014年05月22日(木曜日)

 「通過する」も男色の詩。カヴァフィスの主観が色濃く出ている。初めて男色の世界に足を踏み入れた「若い子」を描いている。

      (われらの技芸なる詩作に)まことにふさわしく
その子は血を快楽にことごとく注ぐ、新鮮な熱い血潮を。
禁断のエロスの恍惚に圧倒されて
その子の身体は若い手足をどっぷりと浸す。

 カヴァフィスは、その一夜を簡単にスケッチしている。「快楽」「熱い血潮」「禁断のエロス」「恍惚」と、ことばこそふんだんにつかわれているが、そこからは肉体的なエロスは匂って来ない。「若い手足」と書いてはあるが、それがどんな手足なのかまったく書いていない。だれもが口にする「流通言語」のなかに、ことばそのものが「どっぷりと浸」っている。
 この部分をカヴァフィスは、もう一度別のことばで言いなおしている。

     こうしてただの単純な子に
わしらが見る値打が出るのさ。
つかの間だがこの子も詩の高い世界を通過する。
官能に生きる新鮮な熱い血の若い子は--。

 未経験の「若い子」ではだめなのだ。禁断の一夜を過ごしてこそ「見る値打が出る」。それは禁断の一夜を過ごしても、それっきりでは駄目だということも意味する。一夜でそこを去っていく若い子もいるだろう。一夜を過ごし、そこから脱け出せなくなる。そうなって初めて「見る値打」が生まれる。
 (この部分の「ただの単純な子」の「ただの」は「ありきたりの」「ふつうの」という意味だが、そのあとの「値打」ということばと向き合って、ことばの意味が深く複雑になるところに、中井の訳のおもしろさが出ている。口語の響きが、ことばを複雑に、豊かにしている。)
 カヴァフィスはその禁断のエロスから脱け出せなかった。そして、それが禁断であるのは常に新しい恋人を必要としたということでもある。そこから脱け出せなくて新しい恋人を求めつづける若い子。そういう若い子がカヴァフィスの愛の対象だったということだろう。
 「つかの間だがこの子も詩の高い世界を通過する。」とカヴァフィスは書いているが、ほんとうは逆だろう。カヴァフィスが若い子を詩に登場させ、詩の世界を通過させる。若い子が自分で詩の世界を通過したりはしない。ただ官能の世界を通過するだけだ。その官能を詩に刻印させる。そうして、そのときカヴァフィスは、若い子そのものなっている。若い子になって、カヴァフィス自身の血を新鮮な熱いものに変え、禁断の快楽に注ぐのである。

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彦坂美喜子「小さい詩篇」

2014-05-21 10:37:16 | 詩(雑誌・同人誌)
彦坂美喜子「小さい詩篇」(「イリプスⅡnd」13、2014年05月20日発行)

 彦坂美喜子「小さい詩篇」の書き出し。

声もなく音もなく風もなく
いつも死は突然にやってきて
時間をうばう

 これは、書かれたことばを読むと「そうだなあ、そういうものだなあ」と思うが、いま思ったその「そういうもの」というのが明確なことばにならない。私の中の何が仁子かのことばに触れて動いたのか、その動きがどんなものなのか、自分でもよくわからない。
 私は死んだことがないから、死が私から時間を奪っていくかどうかわからない。また他人の死を見て、そのひとの「未来(これからの時間)」というのはもうないのだとわかるけれど、それは、どちらかというと「他人の時間」であって、自分の時間ではない。時間を奪われたという感じはならないだろうなあ。
 でも、死んでいった人がとても大切な人で、「ああ、もうその人と一緒にいる時間は、これから先にはないのだ」と思うと「奪われた」という感じがするなあ。そういうことを書こうとしているのかな?
 うーん、そうすると「いつも」が落ち着かない。大切な人が「いつも」なくなるくらい、彦坂には大切な人がたくさんいる?
 ごちゃごちゃと書いていると「揚げ足取り」をしているようで、奇妙な気持ちになってしまうが……。この書き出しの三行には、何か、私の知っていることと知らないことがごっちゃになって動いていて、とても気になるのだ。

それ以後の空白を埋めるすべなく無言を強いる
透明なガラス室におしこめた古い人形のように
真四角な柩は永遠を保障する

 つづく三行でも、何かよくわからない。このわからなさは「主語」と「述語」が不明確で、比喩もそれが比喩なのか、それとも比喩にみせかけた「現実」なのか、よくわからない。
 「無言を強いる」は「死」が「死者」に無言を強いる? わかるけれど、そう思うかなあ? 誰か大切な人が死ぬ。そのとき、「なぜ、もうひとこと、何か言ってくれないのか」と思うことはあっても、そう思うとき、死は彼(彼女)に「無言を強いている」というような客観的(?)な観察(?)は、ことばとして動かない。
 死の客観的事実を書いている? うーん。でも、死の客観的事実って、ある? 自分にとって関係があるひとの死ならば、どうしたって主観的事実の方が先に動く。つまり、いま書いたように「なぜ、もうひとこと言ってくれない」というようなことばは動くけれど、「死は無言を強いる」とはならない。
 あ、また揚げ足取り?
 そういうつもりはないのだけれど。
 さらに、そのあとの「古い人形のように」という直喩(比喩)の動きが微妙だなあ。死が柩の中の人物を「古い人形のように」してしまい、そのことによってその人が「永遠」になる、という意味かな? そうではなくて、「古い人形」が死の「永遠を保障する」と読むとどうなるのだろう。
 「古い人形」は「生きている」。生きているから「保障する」という能動的なことができる。
 論理的に考えると、そういうことはありえないのだけれど、何か、そう思いたい気持ちの動きがある。論理を逸脱して動いていくことば--それについていくことで、何か知らなかったものに出会えるような気がしてしかたがない。

 こういうことは、書きつづけてもしようがないなあ。
 飛躍してしまう。途中を端折ってしまおう。
 あれこれ、まとまりきらないことばに動かされながら詩を読んでいて、次の部分で私は「どきっ」とした。「あっ」と思った。

谷川のせせらぎはさらさらおんがく
海でおぼれるみずのあぶくにつつまれて
沈んでいった

 これは、雨の日の長靴の思い出を描写した部分だが、「谷川のせせらぎはさらさらおんがく」というノーテンキ(?)な明るさ、軽さと、「海でおぼれるみずのあぶくにつつまれて/沈んでいった」の「意味」の重さが不釣り合い(?)でひきつけられる。
 谷川のせせらぎは「さらさら」、書いていなけれど沈むあぶくは「ぶくぶく」かな? 音を付け加えると、その「さらさら」と「ぶくぶく」が流れと沈滞(滞留)、流動間と粘着感のぶつかりあいが、何か、「遊んでいる」感じがして、とても楽しい。

 死は楽しいことではない。
 そうかもしれない。けれど、死が楽しいものではなくても、死を語ることは「楽しい」。ことばが動くことは「楽しい」。長靴が川に流れ、それが流れ流れて海までたどりついて、海に沈んでゆく。それに合わせて、川の水も一緒に流れ、一緒に沈んでいく。沈んでしまって、川の水か海の水かわからなくなる--じゃなくて、海の水になってしまう。
 この、変な変化。
 そういうことが死そのもののようにも思えてくる。
 「死は突然にやってきて/時間をうばう」よりも、死の感覚(?)を刺戟する。死はそういうものか、と納得させられる。
 この変なことばの動きのあと、彦坂のことばは軽くさまざまな色の花畑の中へ動いていくが、それは天国の花園へことばが動いていくようで、何か、こころをうきうきさせるものがある。
 こういうことばの運動だけで死を描けばおもしろいのかも。
 前半の堅苦しいことばの動きは、ある意味で「流通言語」なので、そこに「借り物」が進入してきて、「主観」と「客観」がごちゃごちゃになってしまっている。それはそれで不思議な刺戟があるけれど。


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谷内 修三
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(60)

2014-05-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(60)          

 「オスネロの町にて」。オスネロは「メソポタミアにある小国」と中井久夫が注釈に書いている。その町で、

昨夜、そう、深夜、仲間のレモンがかつぎこまれた。
酒場の乱闘の怪我だった。
開け放った窓から月の光が射して、
寝台にねる美しい身体を明るませた。

 「酒場の乱闘」は、ただ酒場の乱闘と書かれるだけで、具体的には書かれていない。どうでもいいからである。書きたいのはレモンの身体の美しさ。美にはしばしば血が似合う。血が美を強調する。
 それを強調するように、月の光が射している。ただ射しているだけではなく「開け放った窓から」射している。窓が開け放たれることで、窓の外の広い世界、宇宙と身体の美が向き合う。レモンの美しさを宇宙と結びつけるために窓は開かれてある。月の光で傷を見るために窓を開いたのではない。
 さらに、「寝台にねる」がいい。「横たわる」ではなく「ねる」。ねるとき、人は夢を見る。レモンは現実を離れている。死んだというのではない。現実のわずらわしさを離れて、ひとり夢の世界にいる。だれも、レモンに傷を負わせた男も、もうレモンには手が届かない。
 その「身体を明るませた。」まるで、夢の世界の明るさがレモンの身体の奥から、おのずと発光してきているようだ。月の光が照らすのではなく、月の光が身体の奥の美しい輝きを表面に誘い出している。身体が明るむのである。
 身体の奥には、何があるのか。

月がその官能のかんばせを照らしたとき、
わしらの想いはおのずとプラトンのカルメデスに還ったな--。

 カルメデスはプラトンの伯父。ソクラテスは若いカルメデスの身体を完全であると語っている。その美しさを、つまり、ギリシャの奥に生きている美を「わしら」は思い出したというのだが、これはギリシャ人の血のつながりを思い出したということ。
 なぜギリシャの血を思い出したかというと、引用は前後するが、「月が--」の前に

ここのわしらは混血もいいとこ。
シリアのギリシャ移民にアルメニア、メディア。

 という行がある。混血だけれど、その源はギリシャにあると自覚している。その自覚があって、レモンの美しさが輝く。この二行は「起承転結」の「転」のような効果を上げている。「エンデュミオンの像を前にして」の「緋色の三段櫂船」のように。
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季村敏夫「色身」

2014-05-20 11:11:14 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫「色身」(「イリプスⅡnd」13、2014年05月20日発行)

 季村敏夫「色身」は前後に散文形式のことばがあり、真ん中に行分けの詩がある。その行分けの部分に、ふと、ひっぱられた。

川といっても石
石ころばかりの
浅瀬のひかり

さかまくものを畏れよ
地の上をおおう
うすいひかりのなかで

青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ

風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない

 なぜ、ひかれたのだろう。
 水のない川。いや、水は少しはあるのだけれど、石が浮き立って目だつだけの、名前だけの川。川が水が流れるところという意味だとしてだが。
 そういう川を私も見たことかある。そして、石ばっかりと思ったことがある。
 それだけのことが、妙にくっきり思い浮かんだのである。
 石の間を水が流れている。石と接している部分、ちょっと水が変形する部分が「ひかり」になって反射してくる。
 ところによっては水が石の上をおおって、石の形にふくらみながら流れていくところがある。川の水は「水平」であるはずだが、その部分は凹凸があるなあ、あれも「さかまくもの」のひとつなのかなあ。
 そうかもしれないなあ。「浅瀬」か。そうか、あれが「浅瀬」か……。
 そのときの、見たものと思いの「リズム」が、この詩にあるのだろうか。なんの「無理」もなく、川が思い浮かぶ。
 そして、そのなんでもない川が、

さかまくものを畏れよ

 の「畏れよ」から、微妙に変わる。「畏れ」というのは、「定義」がむずかしいが、そのむずかしいことをとっぱらって、わかることを書くと……。「畏れ」というのは「風景」そのもの、「具体的なもの」ではない。川のなかの「石」や「水」そのものではない。何か、こころの動きに属する「こと」である。
 「さかまく」という水の運動にあわせて、こころのなかに何かが動く。その動きの「共鳴」のなかに「畏れ」がある
 それは季村の感覚では「地の上をおおう」もの、その「うすいひろがり」に、何か似たところがあるのだろう。それをさらに凝視すると、

青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ

 が見える。「限界を超えた」何か。限界を超えているから「畏怖」を呼び起こす。「畏れ」なければならない。「限界を超えた」というのは、自分のできること(限界)を超えたということ、自分の力のおよばないということ。自分の力がおよばない(下回る)から、「おそれ」というものがうまれる。
 でも、この「畏れ」は限界を超えた「もの」に対してではなく、限界を超えた「こと」(運動)に対しての動き。

ふりそそぎ

 「ふりそそぎ」ということば自体は「名詞」だが、そこには「ふりそそぐ」という動詞がある。何かが限界を超えてふりそそいでいる。--ではなくて、「ふりそそぐ」ということ自体が限界を超えて「ふりそそぎ」ではなくなってしまっている。過剰な何かが「ふりそそぎ」を内部から、そのエネルギーで破壊している。
 それを季村は感じ取っている。感じ取って、それをことばにしているように思える。季村のことばを読むと、そういうものを感じ取った遠い肉体の記憶が蘇る。
 それは真昼のことが、あるいは真夜中の月の光のなかでのことか。季村の書いているのは、真昼だろうか。満月の夜のことだろうか。--わからないが、いずれにしろ、その「場」にある光が、もう光ではなくなっている。どこかからふりそそいでいるのだが、ふりそそぐをやめてしまって、その「場」のなかで、内部からあふれかえっている。

 私の書いていることは、いつものように、とんでもない「誤読」かもしれない。季村はそういうことは書いていないのかもしれない。けれど、私は、そういうことを感じてしまった。
 で、行分けの最後の部分。

風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない

 繰り返される「同じ」ということばのなかで、私のことばはまたまた暴走する。
 季村が書いていることと、私が読み取ったものは「同じ」か。
 「同じ」ことばが、ふたつを結びつけている。
 けれど、それはきっと「同じ」ではない。「同じもの(こと)」はどこにも存在しない。しかし、ことばが「同じ(一致)」ということが、「一瞬」だけ起きている。その「一瞬」から始まるビッグバンで、季村と私は、まったく別な方向へ飛び散っていくということかもしれない。

 詩なのだから、それでいいのかも。
 私は、ふいに、夜、会社の帰りに川まで行ってみようかな、と思っている。きょうは雨だから月の光はないか……。石が見える川も近くにはないのだけれど、「畏れ」が別の形で何かを動かしているかもしれない。
 自分を超える何か、「限界を超える」なにかに接して「畏れ」の「一瞬」と「一致」してみたい--そういう気持ちにさせられる。





日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)

2014-05-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)          

 「エンデュミオンは人間の中でもっとも美しい若者。月の神セレナが恋をし、神は最高神ゼウスに願い、永遠にその姿で眠らせた。」と中井久夫は注釈に書いている。「エンジュミオンの像を前にして」はその像を見た「私」の感想を書いている。

これがエンデュミオンの像か。
世に知られたエンデュミオンの美しさよ。
私はみつめて驚くばかり。

 しかし、この三行からは具体的な美しさはわからない。どこかが、どのように美しかったのか。その具体的な描写がなければ、それは詩ではないのではないか。
 その具体的な描写をするかわりに、カヴァフィスは少し手の込んだことをしている。この三行の前に、像を見るために「私」はどんなふうにしてそこへやってきたかを書いている。その様子を具体的に書くことでエンデュミオンの美しさを語る。「私」がしてきた準備をはるかに上回る美しさがある。それはことばでは言えない。自分のしてきたことはことばになるが、エンデュミオンの美しさはことばにならない。

白いラバ四頭に銀の牽き具をつけ、
純白の戦車を駆って、
ミレトスの港からトモスに着いた、

 「白」の強調。それは「銀色」に輝く白である。そこに金属が含まれるから「戦車」の強さと直結する。「白いラバ」の白はほんとうの白ではないが、「銀」の白をへて「戦車」に結びつくことで、あらゆる白が「純白」へと昇華する。その豪華な運動。それを上回る美しさ。ただし、「白」は「喪の色」でもある。死ぬことによって完結し、完結することによって二度と失われることのなくなった美--それが強調される。

犠牲獣を焼き、酒を地に注ぐ儀式のために、
緋色の三段櫂船で
アレクサンドリアから海をわたってきた私--。

 その旅は、最初から「白」で統一されていたわけではない。出発のときは「緋色(生)」に満ちていた。「犠牲獣」も血の色、儀式に流されるのも血の赤。さらに緋色の豪華な「三段櫂船」。それは「私」が生きている証拠でもある。
 その生の緋色と、エンデュミオンの死の白が対照的に描かれている。
 旅の順序としてはアレクサンドリアからミレトスが船、ミレトスからトモスが陸になり、詩に書いてある順序と前後するが、これはあえて逆に書いてある。死(白)→生(緋)→像(死)と進むことで、間にはさまった生(緋)が死と像を逆に強調する。緋→白→死(像)では、美にであったときの不思議な混乱と躍動がなくなってしまう。




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