詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林あき「エミリー・カーの話」

2015-07-31 10:16:19 | 詩(雑誌・同人誌)
小林あき「エミリー・カーの話」(「孔雀船」86、2015年07月15日発行)

 小林あき「エミリー・カーの話」は画廊で作品展を準備するところからはじまる。Nさんが手伝ってくれる。手伝ってもらいながら、小林はエミリー・カーのことを話す。

彼女は結婚しなかったの
それでもピュアな愛があったそうなの
文通のお相手は知性の人で
ふたりの書簡集も売られているはずよ と

するとNさんは
(私もそうだったけれどつっぱったような若さをゆるめ)
つぶやくのです
愛の手紙のやりとりを公にするなんて
ふたりの死後であってもひどいじゃないの と

私は心があたたくなるのです

 「私は心があたたくなるのです」という一行は、その通りなのだろうけれど、ちょっと興ざめをする。全体に「散文」的なことばの展開なのだが、ここはあまりにも説明的すぎる。「美しい」ということばをつかわずに美しいと書くのが詩といわれるが、同じように「心があたたくなる」ということばをつかわずに心があたたかくなると感じさせるのが詩だろう、などと思ってしまう。
 たぶん、小林にも「ピュアな愛」の経験があり、そのことを思いながら話していて、その思いでも影響して「私は心があたたくなるのです」と、自分自身を思わず語ってしまったのだろう。
 しかし、詩は、ここで終わるのではなく、ここから突然飛躍する。

晩年のエミリー・カーは
トレーラーを『ぞうさん』と名づけ
森のなかに駐車
三頭の犬といっしょに暮らしたのでした

 はっと驚き、この四行で私はこの詩が好きになった。
 これはエミリー・カーの「晩年」を語っているのではない。いや、語っているのだが、それ以上に語っていることがある。直前の「私は私は心があたたくなるのです」の「心があたたかくなる」ということはどういうことなのか。それを、この四行で言い直しているのだ。心があたたかくなったとき、ふいにエミリー・カーの晩年が目の前にあらわれた。あたたかくなった心が、ふいに思い出した。あたたかくなった心(心があたたかくなる)ということ、その四行は「ひとつ」なのである。
 そして、そのとき思うのである。「心があたたかくなる」というのは「安心」ということかもしれないなあ。こころが安らぐということかもしれないなあ。
 最後の四行に書かれていることは、エミリー・カーの晩年であると同時に、小林の「あこがれ」なのだ。そんなふうにしてみたい。そんふうに、ひとりで「人間社会」から離れるような形で、ゆったりと好きな絵を描いて暮らしたい。あこがれを実現したのはエミリー・カーであるけれど、その幸福を小林は自分のことのように感じている。
 これが「愛の手紙のやりとりを公にするなんて/ふたりの死後であってもひどいじゃないの」という「批判」からはじまっているところが、この詩を「あたたかく」しているのかもしれない。活気づかせているのかもしれない。Nさんが、「そうなんですか、その手紙(書簡集)を読んでみます」と答えていたら、きっと世界はこんなふうには変わらなかっただろう。小林はエミリー・カーの晩年を思い出さなかっただろう。
 異質なものが紛れ込んできて、小林のことばをひっかきまわした。撹拌した。小林がそまれで語ってきた世界が壊された。壊れされたけれど、そこから突然の再生がはじまった。エミリー・カーのことを知らないNさんが、小林の知っているエミリー・カーの世界を一瞬にして叩き壊したのだ。そうすると、その叩き壊された世界から、小林が忘れていたエミリー・カーが突然あらわれて、目の前で動いた。エミリー・カーが生きてい姿で目の前にあられた。詩は、詩でないもの(Nさんの批判)で壊され、壊されることで再生した。詩が再生されるためには、壊されるということが必要なのだ。


ものいうランプ―小林あき詩集
小林あき
花神社

*

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小柴節子「落下」、渡会やよひ「夏の森」

2015-07-30 09:04:34 | 詩(雑誌・同人誌)
小柴節子「落下」、渡会やよひ「夏の森」(「蒐」4、2015年07月25日発行)

 小柴節子「落下」は抽象的でよくわからない。二連目に「耳を伝い頬に沿って/隠しておいたはずのものが溢れ出てくる」ということばがある。涙のことだろうか。横を向いて臥しているときでもないと、涙が「耳を伝い」ということは起きないと思うが、涙だろうとは思って読んだ。
 その三連目、

正しい名前で
わたしを呼んではならない
魂の内壁に潜む声で
わたしに語りかけてはならない
わたしは更に
わたしを生きてしまうに違いないから

 この六行が非常に印象に残る。私は「魂」というものがあるとは思っていない。だから「魂」という部分は「肉体」と置き換えながら読むのだが。(だから、この段階からすでに私は小柴を「誤読」していることになるのだが、「読む」とはいずれにしろ「自分の読みたいことを読む」ということろに落ち着くので、まあ、そう読むしかない。)
 何らかの「苦悩/悲しみ」というものを抱えながら、小柴は「正しい名前で/わたしを呼んではならない」という。この「正しい名前」は「魂の内壁に潜む声」であり、「わたしを呼んではならない」は「わたしに語りかけてはならない」である。同じことをことばを変えながら繰り返している。言い直している。「正しい名前」では言い切れないものがある。「魂の」をわきにおいておいて、「内壁に潜む声」に目を向ける。「正しい」は「潜む」という動詞に置き換えられている。「正しい」というのは「用言」である。「潜む」も「用言である」。「潜んでいる」ものが「正しい」。これは、よくいう「ほんとう」ということかもしれない。「ほんとうのわたし」は「潜んでいる」。
 なぜだろう。なぜ「ほんとうのわたし」は潜まなければならないか。人が潜むときは、何かに傷つくのを恐れてである。被害に遭いたくないから隠れる。そんなふうに私はこの四行を読む。
 つづく二行は「潜んでいる」理由を書いたものだろう。
 ふつうに生きている。(「ふつう」というのは、定義がむずかしいが、いつものように、くらいの意味である)。そのふつうに暮らしているときは「ほんとう」の自分をさらけ出すのではなく、内部に「潜めている」。いわば「見かけ(他人とつきあうためのわたし)」を演じている。ところが何かあって、衝撃で、思わず「ほんとうのわたし(隠している気持ち)」が出てしまう。そこからいろいろな変化が生じ、怒りや悲しみが生まれ、涙が流れるというようなことも起きる。涙を流し、痛みを感じながら、「ほんとうのわたし」はもっと何かを叫びそうになる。「ほんとうのことを言ってしまえ/思っていることを言ってしまえ/自分をさらけだしてしまえ」という気持ちになる。「ほんとうの名前」を呼んで、「ほんうとのわたし」を表に出してしまえ。「ほんとうのわたしよ出て来い」と誘いかけたい気持ちになる。けれど、それを押さえる。「呼んではならない」「語りかけてはならない」と自分で抑制する。
 なぜか、「ほんとうのわたし」が出てきてしまったら、その「わたし」はもう一度同じ苦しみ、悲しみを体験するからである。「見せかけのわたし(本心を隠していわたし)」が味わったものを、「ほんとうのわたし」がもう一度、繰り返す。「ほんとうのわたし」として体験しなおす。私はこのことを「もう一度」と表現した。「再び」と言い換えることもできると思う。この「もう一度(再び)」を、小柴は

更に

 と書いている。この「更に」が強い。強くて、痛い。「更に」と「もう一度(再び)」とどう違うか。「更に」はただ単なる繰り返しではなく、何か「もっと」という意味があるように感じる。(これは私が感じることであって、小柴がそういう感じを持っているかどうかはわからないのだが……。だからこそ「誤読」と私はいうのだが。)最初の体験は、痛いは痛いが、何か表面的でもある。しかし、それを何が起きているかを知った上で繰り返すと、「痛み」が深まる。なぜ痛いか、どこが痛いかが、より明確に自分にわかってくる。「わかる」ことの変化、「深く」わかることが「更に」ということばとのなかにある。それは単なる繰り返しではなく、(繰り返しとは前のこと、古いことを繰り返すのだが)、そこでは体験が「新しく」なる。「深く/新しく」が「更に」なのだ。
 これを小柴は避けたいのだ。「わたしを生きてしまう」の「しまう」に、そのつらさが滲んでいる。
 そういうことを書いたあと、ことばは一層抽象的になる。

生まれ落ちた瞬間から
人は死に向かう生を生き
生に向かう死を
死ななければならなかった

 この連のことばの動きは二連目と同じで、ひとつのことを繰り返している。ここでは「生から死」という動きと「死から生」という対立する動きが書かれているが、それは「言い方」の違いであって、ほんとうは区別はできない。ふたつは融合している。だから、言い直すことで、間違いを排除しているのだとも言える。「見かけのわたし」と「ほんとうのわたし」のどちらが「生」を主語として、どちらが「死」を主語として動いているのかわからないが、同時に体験して生きている。
 その書き出しの「生まれ落ちた」ということばは、タイトルの「落下」を言い直したものだろう。もしかすると「生まれ落ちる前(落下する前)」のいのちの形が「ほんとうのわたし」と感じているのかもしれない。そして、この「落下」は「誕生」のことだけではない。日々の「見かけのわたし/ほんとうのわたし」の「分離/拮抗」のことでもある。それを次の連でさらに言い直している。

刻の裏側で痙攣する
語尾の休息
いちまいの布のような修辞
歩く度に枯れてゆく夏草にも
落下は静かに始まっているらしい

 「語尾の休息」とは「言い争い(主張の対立)」の際の、中断したことばのことかもしれない。主張を「修辞」でごまかし、隠す。「ほんとうのわたし」を隠す。潜めさせる。それはたとえば夏草の野を歩くようなときにも起きる。いつでも「見かけのわたし/ほんとうのわたし」は衝突を抱えたまま「生まれる」。つまり「落下」する。
 この「ふたつのわたし」の「融合/結合」、さらに「分離」を意識する思考の強さが小柴のことばを抽象的にしているのだと感じた。


 
 渡会やよひ「夏の森」は、また別の形で「ほんとうのわたし」を書いているように思える。

その人はおもむろに指さす
(あの漆黒の小屋に…
語尾は水を含んで
(行くのだ)とも
(いったのだ)とも聞こえた

 「行くのだ/いったのだ」は「時間」を中心に考えると「未来」と「過去」、つまり反対のものである。その両方が「可能性」として、ある。そのどちらを聞き取るかは、ほんとうは渡会の問題である。私の言い方だと、どう「誤読」するかは、渡会の欲望(本能)次第である。しかし、これを渡会は「聞こえた」と書くことで、自分では「欲望(本能)」を語らず、「その人」に預けてしまう。つまり、小柴の詩を引き継いで言えば、渡会は「ほんとうのわたし」を潜めたまま「見かけのわたし」に自分を委ねる。
 その詩の最後に、

古びて錆びた一台の自転車があり
その鋭い剥落を
見捨てる

 と「剥落」ということばが出てくるが、これは柴田の「落下」と「落」という文字を共有している。そこが、なんとなくおもしろい。ずっとつづけてきた「見かけのわたし」の「落下=剥落(誕生)」を、最後は「見捨てる」のだから、最後は「ほんとうのわたし」を選んでいる。「見かけのわたし」が「ほんとうのわたし」になるまでを描いた詩ということになるのか。
 この詩もよくわからないが、わからないまま、そこに書かれていることばを「誤読」するのが私は好きなのだ。


途上
渡会 やよひ
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アラン・テイラー監督「ターミネーター:新起動 ジェニシス」(★★★)

2015-07-29 19:26:53 | 映画
アラン・テイラー監督「ターミネーター:新起動 ジェニシス」(★★★)

監督 アラン・テイラー 出演 アーノルド・シュワルツェネッガー、エミリア・クラーク、ジェイ・コートニー

 いいなあ、いいかんげな映画というのは。気楽に笑える。
 この映画って、タイムトラベルというか「時間」を行き来するのがいちばんのポイント。それなのに「時間」の説明ができなくなると「別の時間軸」だって。おいおい、これじゃあ何だってあり。矛盾というか齟齬がおきるたびに、それは別の時間軸のできごとと言えばすんでしまう。だいたい別の時間軸があるなら、未来から過去へやってくるなんて面倒なことをせずに、別の時間軸へ行ってしまえばいい。きっと人間が機械に支配されない時間軸があるはず、なんて私は思ってしまう。
 でも、このむちゃくちゃかげん、「論理」なんてあとからどうとでも言い直せばいいというのが、何かとっても「現実的」(つまり科学的ではないってこと)で好きだなあ。
 いちばん笑ったのがMRI(磁石)を利用してターミーネータと戦うところ。わっ、ローテク、と笑いが止まらなかった。MRI自体は「ハイテク」かもしれないけれどさあ。液体金属(?)というか流動する合金から自在に変形できるロボットの素材が鉄? 磁石に弱いという設定が、まず、とってもおかしい。磁石なんて、大昔からある。それに対する「防禦」が不完全なんてねえ……。
 で、このローテクの勝利(ローテクの武器の活用)というのが、映画全体のトーンをつくっているのもおかしい。シュワちゃんの若いときをはじめ、CGもつかわれているのだけれど、なんとなく古い感じ。アクションがなつかしい。橋の上でバスが前転する見せ場も、これってCGがなかった時代もやっていたかも、と思わせるのんびりさ。全体をゆったりとみせる。角度を変えて次々にシーンを分割するのではなく、「時間」がそのまま動いている。
 へええっ。
 で、そのバスの中からの脱出。ここにも「時間」がそのまま存在している。あ、ターミネータが追いかけてくる。逃げろ、逃げろ。早く上へ上へ。シュワちゃん、がんばって母親をひきあげろ、なんて、はらはらどきどきするでしょ? ここでは「時間」が「現実」よりもさらにスローモーションで動いている。そのありえないスローな「時間」のなかで観客のどきどきはらはらが満ちてくる。
 大きなストーリーのなかの「時間軸」とは関係ないところでリアリティーが動く。まあ、それも「幻想」ではあるのだけれど、この関係がおかしい。
 人間(観客)は、だいたい役者の肉体が動いているのに自分の肉体を重ねて見るから、ストーリー上の「時間軸」なんて、どうでもいい。その瞬間瞬間の肉体の動きが自分に跳ね返ってくるときだけ興奮するものなのだ。(だから、といっていいかどうかわからないが、第一話でシュワちゃんがタンクローリーの爆発の中から骨組みになって甦り、さらに工場のなかで、ちぎれた腕だけになって追いかけてくるとき、やっぱりおかしいねえ。私は大笑いしてしまった。執念の肉体化、をそこに見て、そこまでやるのか。すごいなあ、と。)
 で、ね。シュワちゃんは「合体」なんて言っているのだが(英語では、メイクという動詞をつかっていたかな?)、裸のシーンもあれば、恋愛(?)をめぐる会話もちらばめて、SFなのに、起きていることの「現実感」を大切にしている。こういうところはアクションとはかけ離れているので、退屈だけれど、あ、人間の肉体を描こうとしているんだと監督の意図を読み取ると、なかなか楽しい。
                       (天神東宝5、2015年07月29日)
 



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佐々木洋一「生きもの」

2015-07-29 08:56:20 | 詩(雑誌・同人誌)

佐々木洋一「生きもの」(「ササヤンカの村」23、2015年08月発行)

 佐々木洋一「生きもの」は一行のあと一行の空きがある。一行ずつ独立した「連」なのか。「連」ではないかもしれないが、空きなしだとちょっと窮屈かもしれない。微妙なスタイルである。

水田の中を小さな生きものが通りかかると

波紋がゆれます

それで何か生きものがいるのだとわかるのです

 書き出しの三行(あるいは三連)。三行目の「それで」が、とてもおもしろい。「それで」ということばは、前に書かれていること(ことば)を指している。「一行空き」が「そ」を独立したものとして「くっきり」と浮かび上がらせる。ふつうの詩のように(?)行がつながっていると「詩」ではなく「散文」の連続性(論理の「整合性」)が目立ち、窮屈になる。「一行空き」が不思議な「間」になり、ことばがゆっくり往復する。
 そのとき「小さな」なものが、「間(あるいは余白)」によって、大きく見えるのである。集中力が高まる感じ。そして、この詩は「小さな」がキイワードだな、とわかる。「小さな」は一行目に書かれているだけだが、二行目にも三行目にも隠れて存在している。つまり二行目三行目の血肉になって、それらの行を支えている。強くしている。

水田の中を小さな生きものが通りかかると

「小さな」波紋がゆれます

それで何か「小さな」生きものがいるのだとわかるのです 

 さらに、

水田の中を小さな生きものが通りかかると

「小さな」波紋が「小さく」ゆれます

それで何か「小さな」生きものがいるのだと「小さく」わかるのです 

 と言い換えることができるだろうと思う。
 この三行目の

「小さく」わかるのです

 というのは「学校文法」からは外れたつかい方なので、奇妙に見えるかもしれない。けれど、その「奇妙」に見える部分、奇妙に隠れている部分こそ、この詩のポイントだと私は感じている。
 あ、と思う。それは勘違いかもしれない。錯覚かもしれない。小さくて見えないのだから。でも、その見えないものを、こころが感じる。こころが反応する。それが「ちいさくわかる」。
 「大きく」わかるのではない。「大発見」ではない。そのことが「わかる」(そのことを「発見した」)からといって「世界」が変わるわけではない。変わらずに、いままでどおりに存在する。田んぼは田んぼのまま。小さな生きものは小さな生きもののまま。そして波紋は知らない間に消えていく。でも、その世界を「わかる」ことによって、気持ちが変わる。「気持ちの見ている世界」が変わる。いっしょに、何かが生きている、と感じてうれしくなる。
 このことばにつづくことばも、みんな「小さな」発見、「小さな」気づきである。その「小ささ」に佐々木は寄り添う。

いのちとはそんなものでしょうか

ふと通りすがりに坐った石 見つめた花 そっぽを向いた草

そのようなものがわたしの近くにいて

そっといのちを絡めると

こころの波紋がゆれます

 「小さな」という形容動詞を副詞にすると「そっと」ということになるかもしれない。「そっと」を補ってみると、佐々木の「気持ち」がもっとわかる。

いのちとはそんなものでしょうか(「そっと」、そう思う=「小さくわかる」)

ふと通りすがりに「そっと」坐った石 「そっと」見つめた花 「そっと」そっぽを向いた草

そのようなものがわたしの近くに「そっと」いて

そっといのちを絡めると

こころの波紋が「そっと」ゆれます

 「小さな」と「そっと」がいっしょになって、世界を浮かび上がらせている。そしてとれは、やっぱり「大発見」なのではなく、「小さな」気づきなのである。この「小さな」と「そっと」は、それがいっしょになるとき、きっと「大切な」ということばを隠していっしょになる。

ふと通りすがりに坐った「大切な」石 見つめた「大切な」花 そっぽを向いた「大切な」草

そのような「大切な」ものがわたしの近くにいて

そっと「大切な」いのちを絡めると

こころの波紋がゆれます

 こうした思い、「いのちとはそんなものでしょうか」は、こころに「そっと」浮かんだ「小さな」思いだが、「大切な」思いでもある。そして、その「大切」は「こころ」でもある。
 ひとはだれでも「キーワード」を繰り返し書くことはない。めったに書かないのがキーワードである。そのひとにとってはわかりきっていることなので書く必要がないのがキーワードである。
 そういうことばを作品の中から見つけ出して、それを気がついたところに補ってみる。そうすると、その詩の「言いたいこと」(ことばになっていないこと)が見えてくる。

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加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」

2015-07-29 00:16:45 | その他(音楽、小説etc)
加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」(毎日新聞、2015年07月28日夕刊)

 加藤典洋「「空気名投げ」のような教え 鶴見俊輔さんを悼む」の三段落目の文に、私は思わず涙がこぼれそうになった。

 鶴見さんには、三十㌢のものさしをもらった、と私は思っている。三十㌢のものさしがあれば、人は自分と世界のあいだの距離を測ることもできるし、地球と月のあいだの距離だって計測できる。行こうと思えば、月にも行けるのだ。

 私は鶴見俊輔の文章をそんなに多く読んでいるわけではない。ほとんど読んでいないといっていい。加藤典洋についていえば、私は、今回読むのが初めてだ。
 なぜこの文章に涙が出そうになったかというと、私が鶴見俊輔の文章から学んだことが、そのまま書かれていたからだ。
 加藤がどういう「意味」で「三十㌢のものさし」という「比喩」を書いたのかわからないが、私の考える「三十㌢のものさし」の「意味」は、「自分から離れないこと」である。「自分の手に触れているもの」を頼りにすることである。
 何かの「距離」を測るとき「三十㌢のものさし」では不便なことがある。自分の家と会社までの距離にしても「三十㌢のものさし」で測るとなるとたいへんである。何度も何度も印をつけないといけない。二キロを測れる紐状のものさしがあれば一回で測れるかもしれないが、「三十㌢のものさし」で印をつけながら数えていく(足し算をする)のでは、きっと間違える。まっすぐに測れずに「誤差」も大きくなる。正確に測れたかどうか知るためには、何度も何度も測って比較しないといけない。
 「誤差」が大きくならないようにするにはどうすればいいのか。たとえば長い紐を見つけてくる。紐の長さを「三十㌢のものさし」×10の長さ、つまり三㍍にする。それを利用すると「三十㌢のものさし」をつかったときよりは、早くて正確になる。さらに三十㍍の紐、三百㍍の紐という具合に工夫することもできる。「三十㌢のものさし」で三百㍍の紐を正確に測るのはなかなかむずかしいができないことではない。根気よくやれば、必ずできる。
 しかし、逆は、そういうことはできない。たとえば「二キロのものさし」があったと仮定して、それで机の大きさを測ることはできない。いや二キロのひもを見つけ出してきて、それを半分に、さらに半分に、また半分にと折ってゆき、小さな単位にして、それを利用すればいいといえるかもしれない。でも、最初に「二キロのものさし」をそのまま置くことができる「場所」の確保がむずかしい。
 大きい単位の物差しは大きいものを測るには都合がいいが、それで小さいものを測ることはできない。小さい単位のものさしは大きいものを測るには不便だが、測れないことはない。
 自分がいつもつかっているものをつかって、ものごとにどう向き合っていくか。それを工夫するのはおもしろい。面倒くさいけれど、楽しい。自分のつかっていない道具をつかってものごとと向き合うのは、まあ、楽なときもあるかもしれないが、楽は楽しいとは限らない。楽をすると、自分を見失ってしまうだけである。

 ものとものとの距離ではなく、ひととひととの間(ま)を測る、あるいは関係を築くときは、なおさらそういうことが大切になる。大きい観念(概念)ではなく、いつもつかっていることばで会話しながら近づいていく。触れあう。
 自分のものではないことば(世界のとらえ方、ものさし)はつかわない。

 私は詩の感想や映画の感想を書いている。小説の感想もときどき書いている。文章を書くとき、自分のことばではないことば(流通している「外国の思想のことば」)を借りてきて書くと、書きたいことが楽に書けることがある。私が考えようとして考えられないことを、その流行のことばが代弁してくれる。自分で考えた以上のことを語ってくれる。見た目もなんとなくかっこいい文章になる。
 でも、身の回りにある(三十㌢の範囲にある)ことば、体験したことば、肉体で掴み取ることのできることばで書こうとすると、だらだらと、まだるっこしいものになる。間違いもする。書きたいと思っていたことが、どんどん遠くなり、違ったことを書いてしまったりする。
 でも、それが楽しい。書きながら、あ、私はまたここでつまずくのかと思いながら、こりもせずに倒れてしまう。倒れると痛い。痛いけれど、なんとなく安心する。また大地が受け止めてくれた、という感じかな。そこから立ち上がって、引き返し、またこつこつと「三十㌢のものさし」でことばを積み重ねていく。
 たどりつけなくてもいい。歩きつづけることができればいい。知らないあいだに曲がってしまい、もとに戻ってきたっていい。




言い残しておくこと
鶴見俊輔
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高柳蕗子『短歌の酵母』

2015-07-28 08:20:54 | 詩集
高柳蕗子『短歌の酵母』(沖積舎、2015年06月25日発行)

 短歌のことはよくわからない。春先に歌人と対話する機会があった。そのとき歌人が「イメージ」の「共有」にこだわっていることに気づいた。高柳蕗子『短歌の酵母』でも、そのことに気がついた。「みんなで育てる歌語」は「トマト」をどう詠むかということについて書かれている。そのなかで「トマト」が「潰れる/くずれる/死ぬ」というようなイメージで詠まれる例を挙げている。そうして、「トマト」がいわば「死」の「歌語」になっている。「歌語」として育っている、というようなことが書かれている。
 なるほどね。
 でも、熟柿柿は? いちごは? さらにはじゃがいもやサツマイモは? あるいは肉や魚は? やっぱりその形がくずれ、つぶれるなら、腐る/死ぬということにならない? まあ、これは「揚げ足取り」みたいないちゃもんのつけかたではあるのだけれど。
 たまたまそのとき話した歌人と高柳の例だけなのだが、歌人はどうも「名詞」=「イメージ」ととらえている感じがする。そして、それぞれの「名詞」は「あるイメージ」に消化されて共有され、「短歌」の宝になる。それを歌人は継承して行く、と考えているように思える。高柳の書いている「トマト」の例は、「トマト」は「潰れる/くずれる/死ぬ」というイメージの定型になり、共有されはじめている、ということを指摘しているように思う。
 私はどうも、ひっかかる。トマトであろうと何であろうと、「潰れる/くずれる/死ぬ」という「動詞」の融合こそが問題なのだと思う。なぜ形を失ったものを「死ぬ」と考えるのか。「死」を感じるのか。「もの」ではなく、「動詞」を「肉体」で追認するというのが人間の世界とのかかわり方であって、名詞は関係がないなあ、と思ってしまう。
 道に誰かが倒れている。内臓がはみだして血が流れている。人間の形がくずれ、つぶれている。猫が同じように内臓をはみださせたまま、うめいている。あるいはカボチャがつぶれて、中身がどろりと溶け出している。そういうものは「死ぬ(死)」を呼び起こす。自分の肉体ではないのに、そこに倒れている人の、犬の、「痛み」を感じてしまう。ときにはカボチャからさえも、何か肉体を刺戟してくる不安を感じてしまう。これは、人間の「理解/共感」というものが「動詞」(肉体で反復/追認できること)をとおして生まれることを明らかにしていると思う。
 それをどの「名詞」と結びつけるかは、単なる「習慣」のように思える。もちろん、そういう「習慣」が「感性の定型」をつくっているのだけれど。実際、そんな感じで「もの(存在)」のイメージは定型化されているのだけれど、何か、違うなあ。「動詞」のつかい方を変えないかぎり、新しいイメージは生まれないのでは、と思ってしまう。
 「動詞」そのものを「異化する」というのでなければ、イメージを革新することにはならないと思う。

 あ、これは、ことばでいうのは簡単だけれど、実際に「動詞」を「異化する」なんてことは、無理なんだけれどね。「現代詩」(わざと書く詩)でも、「名詞」の「入れ換え」で、「動詞」はそのままつかっている。短歌と詩が違うとしたら、詩は、名詞と動詞の奇妙な結びつき(いままでだれも書いてこなかった名詞+動詞の関係)を、名詞のイメージの革新というよりも、動詞の定型を揺さぶるものとしてとらえるだけなんだけれど。いいかえると、認識の対象が「名詞」に向かうのが「短歌」、「動詞」に向かうのが「現代詩」ということかな? 
 あ、これは、「私の読み方」であって、詩人全員に共通するものではないかもしれない。

 「動詞」をどう読むか。「動詞」というのは、動き。動きには始まりと、持続と、終わりがある。必然的に「時間」を抱え込む。
 このことを高柳はどう考えているか。「<時間>の背後霊」という章があって、いろいろ書いているが、どうも私には「抽象的」すぎて納得できない部分が多い。その次の「実をくねらせる短歌さん」は「身体」を取り上げている。この方が「時間/動詞」を描いているかなあ。「身体」の「動き」がつくりだす「時間」。「時間」は「身体」の「動き(動詞)」によって具体化される。どんな「動詞」をつかい、それまで言語化されなかった「時間」を具体的に表現するか。
 この問題を考えるとき、高柳は「進行」と「無時間性」ということばをつかっている。「進行」というのは、簡単にいうと「ストーリー」。短歌の中にも人やものがでてきて、それが一種の「ストーリー(意味)」をつくる。そのストーリーの「展開(時間の前後関係)」を「進行」と呼んでいる。その「ストーリーの進行」のなかに、「進行」を立ち止まらせる何かがあらわれる。「進行」から切り離される、「機密性」をもった「瞬間」。これを「無時間性」と呼んでいる。(私は、もっと簡単に「永遠」と言ってしまうのだが……。高柳の紹介している短歌にも「永遠」ということばがでてきていたが。この「永遠」を「時間を耕す」と表現する現代詩人もいる。「機密性」とは逆に「破壊/解放」と定義する現代詩人もいる。だれがそういっているか、明記すべきなのかもしれないけれど、そういうことは「現代詩」の文脈のなかでは「定型」になってしまっているので、誰それの説ではなんて言えない。)
 で、この「進行」と「無時間性」、あるいは「動詞/身体」ということばを接触点にすれば、私と高柳の対話が成り立つのかもしれないが……。
 やっぱり、ずれてしまう。ずれの方が目立って、接触点が接触点になりきれない。
 「動詞」に関して、高柳は、短歌表現においては、「動き=動詞」ではない例の方が、むしろ多いようだ、と書いて、次のように展開する。

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき   与謝野晶子

 この歌で最初に出てくる動詞は「よぎる」である。しかし、「清水へ祇園をよぎる」のあたりまでは、まだあまり<動き>は感じられない。この時点では誰がどのように「よぎる」のかわからないからだ。その下の「桜月夜」「こよひ逢ふ人」「みなうつくしき」とつづくフレーズの「みなうつくしき」のひらがなのあたりになって、ようやく、いろんな人とすれ違いなら歩く、すべてを肯定するかのような足取りが伝わって来ないだろうか。
 しかも、動詞が、言葉通りの<動き>を表わすとも限らない、ということもわかった。

 え、そうなのか。私は「よぎる」の主語は与謝野晶子だと思って読んだ。そして、この歌に書いてある大切な「動詞」は「よぎる」とは思わない。そのあとに「逢ふ」という「動詞」も出てくるが、これは「逢ふ人」の「人」にかかる修飾語。そのあと、もうひとつ「うつくしき」。これを私は「動詞」と考える。「美しい」は形容詞。「動詞」というと変な感じになるが「用言」と考えると、「動詞」と同じように「動く」のである。「体言」ではない。「美しさ」は「形容詞」派生の「名詞」、「用言」派生の「名詞」。最後の「美しき」は「美しく/ある(うつくしさが/ある)」ではなく、「美しく/なる(美しさに/なる)」と私は読む。
 そして、そのとき「みな」というのは「私(与謝野晶子)」以外の人のこと(すれ違う人のこと)だけではなく、与謝野晶子自身をも含んでいる。桜の季節、月が出ている。清水から祇園へ歩くとき、「私はこんなに美しい」(私を見て)と与謝野晶子は主張しているのではないだろうか。
 この歌には「美しくなる」という「動詞」が書かれている。はっきり見える形ではないが、そこに存在している。
 そして、この「美しくなる」という「動詞」は、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」というストーリー(人間の行動の展開)を突き破って、「永遠」を掴み取る。高柳のことばを借りれば、「清水から祇園へよぎる」、そうすることで人に「逢ふ」という「進行」(人間の行動の展開)を突き破って「無時間性」としてそこに存在するということではないだろうか。
 「美しくなる」というのは「変化」、「変化」というのは「永遠=普遍」と相いれないようだが、この「変化(する)」を「到達(する)」と考えるとき、「到達点」と「永遠(理想)」は親和性をもつ。「動詞」は「動き」であるが、その「動き」は「永遠」とは矛盾しない。
 いま私は便宜上「到達=永遠」という組み合わせをつかったが、「する」「なる」という動きの「持続」こそが「永遠」でもある。「する」「なる」は「ありつづける」でもあるからだ。動いているときこそが「永遠=普遍=不動」なのである。こういう言い方は「矛盾」そのものだが、「矛盾」の形にならないとあらわせないものが「詩」なのである。

 脱線したかもしれない。
 高柳の書いていることはおもしろいが、ときどき短歌の読み方が私とあまりにも違っているので、とまどう。私は短歌をほとんど読まないし、知らないことは調べるのではなくテキトウに考えるだけなので、高柳の読み方の方が正しいのだろうけれど。
 二例。

空からも地からも夜のゆきふれば発光エビとなるまで歩む 杉崎恒夫

 天から降り地から吹き上げる雪。その中を歩いている。「発光エビとなるまで」というのは、人としての記憶を忘れ去り、わが身の内から発光するその光だけをたよりに進む感じだ。たとえば「転生の途中」みたいな歩みかしら、と思わせる。

 私は、単に雪にすっぽりつつまれてからだを曲げている姿を描いているとしか思えない。天から降る雪だけなら、雪は頭や肩につもる。けれど地吹雪はからだの天地をなくしてしまう。凹凸も無視して、周り中をすっぽりつつむ。まっすぐに立っていられないから、からだを丸めるが、その丸めた腹の方までしっかりとつつんでしまう。
 この短歌のなかの「動詞」は「降る」「なる」「歩む」。「主語(私)」に関係してくるのは「なる」と「歩む」。「なるまで」に高柳は注目している。私も注目したが、読み方が少し違う。「なる」は「まで」と組み合わさっている。文法上の「意味」はたしかに「……まで」なのだが、ここは「なっても」という強調と読みたい。地吹雪で歩けない。からだはすっぽり雪に覆われた。それでも「歩む」。歩いていく。強い意思が動いている。その強さが地吹雪の荒々しさと向きあっている。この意思の強さが、地吹雪のなかを歩いていくというストーリーを突き破る。

無菌室できみのいのちは明瞭な山脈であり海溝である   笹井宏之

 「山脈であり海溝である」という喩を導いた要因の一つは、「無菌室」の空気のクリア感だろう。快晴の日のくっきりとした山と海を見るかのような表現はそこから生じた。
 が、この歌では海と山ではなく、「山脈」と「海溝」を取り合わせている点が重要だ。「海溝」は普通は目にすることができない。この取り合わせによって、海を失った地球の凹凸を見るかのように、免疫力というバリアーを失った「君」のむきだしの命が見えてしまったという、そういう痛ましさを詠んでいる歌だと思う。

 「明瞭な山脈であり海溝である」という喩は「心電図」ではないのか。心電図が描く山と谷。それが描き出されるかぎり、きみは生きている。山脈、海溝は人間の「思い」とは無関係に絶対的な存在としてそこにある。「非情」である。機械が知らせる「いのち」の形。それもまた「非情」である。人間の思いとは無関係に、ただ、心臓が動いていることを、その正確さを、一切の「同情/共感」を排除して告げ知らせる。
 この「非情」の「非」は「無菌室」の「無」に通じる。絶対的なものである。
 この歌の「動詞」は「ある」。「ある」は「なる」とは違って、変化を含まない。心電図は山脈の形、海溝の形の波を描きつづける。つまり変化しつづけるが、これは「なる」とか「変化」とは言わない。これが「変化」してしまえば「死ぬ」に「なる」。
 この「ある」は「きみ」の「いのち」の絶対性を宣言する「ある」。全体的な宣言によって、「無均質/病気」を突破して、いのちとして輝く。いのちの輝きとして「永遠」が、そこにあらわれている。「痛ましさ」への「同情」ではなく、痛みを超えて、なおも生きているといういのちの「尊厳」への「共感」と「畏怖」を詠んでいるのと思う。
短歌の酵母
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*

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岩佐なを「雨」

2015-07-27 08:45:47 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「雨」(「孔雀船」86、2015年0715日発行)

 雨の季節なので、岩佐なを「雨」を読む。

印象の椅子に座って
机上の安い画用紙に色鉛筆で
斜線をひく
なんぼんもいくすじも
机のむこうは雨の窓
見やればいつも雨が降り(光も)

 いきなり「印象の椅子」という抽象的なことばではじまる。「印象」って、何? わからないけれど、つづくことばが具体的なので、何?と思ったことを忘れてしまう。「安い画用紙」が「印象」ということばを消してしまうなあ。でも「色鉛筆」という具体的な色を欠いたことばが、また「印象」を呼び戻す。どうも、抽象と具体(具象)をことばが行き来している。
 「雨」というタイトルを読んでいるので「斜線をひく」の「斜線」は「雨が降っている」ときの降り方なのだな、と思ってしまう。「斜線」になって降るには風がないといけないのだけれど、詩は事実を書くわけではないので(書かなければいけないというわけではないので)、「斜線」の方が「音」がなじみやすかったから「斜線」にしたのだろうなあ。
 あ、どうでもいいことを書いてしまったかな?
 私は、この一連目では「なんぼんもいくすじも」がいいなあ、と思ったのだ。「なんぼんもなんぼんも」、あるいは「いくすじもいくすじも」と同じ音を繰り返すのが「日本語」っぽいのだけれど、違った音(ことば)をぶつけることで「同じ意味」を繰り返している。この「音」と「意味」のずれ具合というか、「複数」の感じが、「色鉛筆」の「色」と交錯する。何色と何色をつかったのか(一色だけつかったのか)、岩佐は書いていないのだが、私は「複数」の色を思い浮かべた。「色鉛筆」ということば事態は「色」をもたない「抽象」だけれど、それが「なんぼんもいくすじも」という「複数の音」によって反復されるとき、突然「複数の色」と具象になってしまう。それがとてもおもしろい。
 私は「タイトル」と「斜線」から「雨」を先取りして想像してしまったが、岩佐は「なんぼんもいくすじも」のあとで「雨」ということばを出している。そのとき「机のむこうは」と書いているのが、またおもしろい。視線が直接「雨の窓」へ飛翔するのではなく「画用紙/色鉛筆/斜線」を視覚にしっかり押さえて(つまり、机の上をしっかり見つめて)、それから「窓」へたどりつく。「雨」を直接見るのではなく「雨の窓」を見る、というのも不思議だ。
 実際は、往復しているのかもしれない。そしてその往復が抽象と具体の交錯となってあらわれているのかもしれない。
 画用紙の上の斜線は、雨ではなく、窓の雨(窓を走る雨の軌跡)なのかもしれない。その「窓」のむこうを「見やれば」、やっぱり「雨」なのだが、そこへの移動もていねいに書いてあるので、不思議な気持ちになる。外の雨と、画用紙に描かれた雨が、斜線と複数の色のなかで出会っている。離れながら、同じものになっている。
 うーん、抽象と具象というのも、そういう関係にあるのかなあ。きっと、そうなんだろうなあ。抽象というのは突然そこにあるのではなく、何か具象と交流している。具象もそこにあるからあるのではなく(変な言い方だが)、そこにあるという事実を、抽象の形に整理することで、ことばになったり、絵になったりするのかもしれない。「ことば」「絵」は、抽象と具象の出合いの「場」なのかな? (「事件」なのかな?--というのは、私の「感覚の意見の暴走」。)
 よくわからないけれど、こういう抽象と具象の交流のあとの二連目に、「なんぼんもいくすじも」よりもおもしろい一行が出てくる。

次の世の四角い水槽に
裸体が浮いていて
もっと濡れろと雨が降っている
あのからだはわたしではない
ないけれど今だからそう思うだけのことだ

 「次の世」は「あの世」かな? 浮いている「裸体」を「死体」と思えば、「あの世」が近づく。
 ということは、まあ、置いておいて。
 「四角い水槽」というのは「実在」? 違うだろうなあ。「雨の窓」(四角い窓/平面)を立体化して「四角い水槽」ととらえているのだろう。「窓」のなかの「雨(水)」を「窓」の向こう側まで押し広げることで「立体」にして、それを「水槽」と呼んでいる。「向こう側」へ押し広げるという「無意識の運動」は一連目の「机のむこう」という表現からはじまっている。
 この「むこう」へ行く感じが「次の世」のということばに引き継がれている。平面→立体という動きが、同時に三次元→四次元(立体に時間をくわえたもの)という変化を含んでいる。
 あえて言えば、書き出しの「印象」のように、「意識」のとらえた「四角い水槽」。「印象」の「四角い水槽」。「雨」という現実に触発されてことばが動いたのかもしれないけれど、二連目は具象からは完全に飛躍した「別次元」である。
 で、そのあと

あのからだはわたしではない
ないけれど今だからそう思うだけのことだ

 この二行がおもしろい。「あのからだはわたしではない」というのは、画用紙に向かい色鉛筆で斜線をひいているのが「わたしのからだ」だからである。 「わたしのからだ」が同時にふたつあっていいわけはない。だから「わたしではない」というのだが、それは「今」にこだわるとそうなるだけ。二連目はすでに「別次元」。そこに「今」という「定義」が適用できるかどうかわからない。
 この変な「論理性」がとてもおもしろい。「あの世」を「次の世」として存在させる論理(抽象の運動)がおもしろい。

岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社
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ダミアン・ジフロン監督「人生スイッチ」(★★★★)

2015-07-26 22:16:13 | 映画
ダミアン・ジフロン監督「人生スイッチ」(★★★★)

監督 ダミアン・ジフロン 出演 知らない人ばかり……

 とてもおもしろい。そして、なぜおもしろいかというと、短いからだ。6篇のストーリーがある。共通点は、あることにプッツンしてしまって、暴走する。そういう人間の衝動、ということ。でも、それは見せ掛けの「共通項」。ほんとうは「短い」ということの方が大事な共通項である。
 たとえば、高速道を走っていて、前の車が遅い。それを追い抜き様にののしる。それが原因で車に追いかけられる。(実際は追いかけられるのではないが……。)これって、スピルバーグの「激突!」と同じ構図。違うのは短さ。長い作品だと、どうしても繰り返しが多くなる。そっくりそのままの繰り返しではなく、手を変え品を変えての繰り返し。そして、その繰り返しのなかで、感情が濃密になっていく。煮詰まって行く。その結果、たとえば「激突!」の場合、追いかけてくるタンクローリーがだんだん「人間」に見えてくる。タンクローリーに感情移入してしまう。最後にタンクローリーががけ下に転落していくときの警笛(?)の音など、人間の悲鳴のように聞こえてしまう。映画の醍醐味は、この「感情移入」にある。観客が登場人物になってしまうことにある。長い作品だと、見ているうちにだんだん「感情」が感染してくるのである。
 ところが、短い作品だと「感情移入」をしている余裕がない。えっ、何これ! と驚き、笑っているあいだに終わってしまう。それに「終わり」といっても、現実にもし映画に描かれていることが起きたら、とてもそこで「終わり」ではない。冒頭の飛行機乗っ取り自殺というのは飛行機が墜落したあとがたいへんだ。金持ちの息子の身代わりになって交通事故の加害者になる男も、最後は突然被害者の夫に殴り殺されてしまう(ケガをさせられるだけかも)。それでは「事件」は解決したことにならない。ほんとうは「事件」は「おわり」ではないのだ。「おわり」なのは「感情」なのである。使用人を息子の身代わりにしようとした父親のあれこれの「感情」がここで「終わる」のであって、「事件」は別の形でつづいていく。(描かれていないけれど。)「感情」は観客に「移入」されるのではなく、スクリーンのなかで終わってしまう。これは、だから、まったく新しい映画なのである。登場人物の「感情」を映画の中に閉じ込めて、観客はただそれを傍観し、笑って見る。ストーリーが「わかる」ように、「感情」も「わかる」。けれど、その「感情」は共有しない。
 「あ、わかる、わかる、その気持ち」と日常で言うときに似ている。「わかる」けれど、いっしょになってそのことを考えたりしないね。どちらかというと、「ばかみたい」と思うのだけれど、そんなふうに言えないので「わかる、わかる」という。「感情」を訴えた方だって、それで十分。いっしょに泣いたりしてもらっては、めんどうくさい。いっしょに笑って(自分を客観化して)、それで「おしまい」にしたい。そういう感じだな。
 「感情移入/感情の共有」ではなく、「感情の客観化」。笑って、たくましく生き残って行く。そういう「知恵」かなあ。
 で。
 最後の「ハッピー・ウエディング」。これがいちばん象徴的。だから最後に置いてあるのだと思うのだが、結婚式で夫になる男の浮気を知り、プッツンしてしまう女、打ちのめされる男を描いているのだが、ふたりとも「感情」を爆発させたあと、変なことが起きる。大喧嘩して、憎しみ合っているはずなのに、やっぱり好きという「感情」があふれてきて、和解してセックスまでしはじめる。披露宴の会場なので、両親を含め親友や同僚など、客がたくさんいる。けれど、そういう人が「いる」ことを無視して、ふたりだけの「感情」になる。「感情」のまま、「本能」がセックスをする。「感情」なんて、他人には関係がない。「感情」(ふたりの関係)を他人がどう思おうが(同情/共感しようが、反発しようが、ばかと思おうが)、その「感情」が他人のものになることはない。あくまで「自分のもの(ふたりのもの)」。だから「大喧嘩したけど、好きだ、愛している」と思えばそれでいいのだ。「あんな男のどこがいい」「あんな女と結婚して不幸になるだけだ」という忠告(?)なんか知ったことではないのだ。
 「共感させない」という「共感」を描いている。そういう「感情」がある、だれでもそういう「感情」をもっているという「客観的事実」の「理解」を誘う映画なのである。
 あ、駐車違反の取り締まりに頭に来て、爆破事件を起こした男は刑務所でみんなに誕生日を祝ってもらっている。あれは「共感」では? 違うね。単なる「理解」。祝っているひとは刑務所の中にいるひと。刑務所の外にいるひとは、いっしょには祝ってはいない。刑務所仲間だって、その男の気持ちは「わかる」というだけにすぎない。そのあと、いっしょになって爆破事件をおこすわけではないからね。
 感情の「共感」には長い時間がかかるが、「理解」には短い時間で十分。そういうことを知り尽くした上で、映画が短くつくられている。「天才」誕生といえるかも。
                      (2015年07月26日、KBCシネマ2)
 



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宇佐美孝二「しっぽの話」

2015-07-26 12:08:33 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「しっぽの話」(「アルケー」10、2015年08月01日発行)

 宇佐美孝二「しっぽの話」には「方言」が出てくる。そのためなのだろうが、ところどころに注釈がついている。そして最後に、種明かしのようなものが、注釈に紛れ込ませて書いてある。それを無視して読むことにする。いや、それを読んだので、その「注釈」を消すために、この感想を書く。「注釈」がつまらないのだ。

ヌートリアがな、
と独り暮らしの母が
ソーメンを啜っているぼくに言うのである
畑のもんをうっつくしょ食ってってまってな。
ほおっ。
そう言えば 家の西の、土地を掘り起こした跡地で
水がたまって池に変わり果てたところ、
そこに最近棲みついたというのだ。

ごがわいてな、
のうきょうで買ってきたネズミ捕り、
いまはべたっとはっつくやつがあるで
それをあちこち置いといたんだわ。
そしたらネズミ捕りの紙が、
なしんなっとった。
やつら、くっ付けたまんまどこぞか行ってまったわ。
あれらもよう知っとるで、
それから出てこんなあ。

 「独り暮らしの母」が、息子が訪ねてきたのでソーメンを作って食べさせる。食べるのを見ながら、息子に話をしている。こういうときの話というのは、ほんとうだろうか。息子の関心をひきたくて話すのだろうか。
 「ヌートリア」なんて、いるんだろうか。こういうとき、辞書を引いたり、ネットで検索したりするひとがいるが、私は、そういうことはしない。
 間違っていてもいいから、自分の「カン」で読んでいく。その「カン」というのは、私はこんなふうに読みたいという「欲望」を別のことばで言い換えただけのものである。そこに書かれていることを正確に読むのではなく、私は私の「欲望」がどこにあるかを知りたくて読む、と言った方がいい。
 私の「カン」は、そんなものはいない、と言っている。「ぼく(宇佐美)」も、そう思っているのだろう。母は子どもの反応に敏感だから、「信じていないな」とわかる。だから、追い打ちをかけるように、「ヌートリア」を自分にひきつけて語りはじめる。それがどんな生き物か、形とか、色とかで説明するのではなく「畑のもんをうっつくしょ食ってしまってな」と。この「嘘」はうまいなあ。思わず「ほおっ」と「ぼく」答えてしまう。この「ほおっ」はヌートリアを信じたというよりも、母の嘘の動き方に感心したということだろうなあ。「ぼく」は母が畑で何かを作っている、ということを知っている。母はだんだん作るのがめんどうになって、やめてしまった。でもやめてしまったというのが言いにくくて、「ヌートリアに食べられた」と言うのである。で、「ほおっ」と感心しながら、信じたふりをする。
 母はさらに、息子が知っていそうなことをひっぱり出して嘘を補強する。「ほら、家の西の、土地を掘り起こした跡地で、水がたまって池に変わり果てたところ、あれをおぼえているだろう。あそこに棲んでいる」。嘘を完成させるためには「ほんとう」が必要なのである。「ほんとう」を含むことで、嘘は事実らしくなる。
 この「ほんとう」のまじえ方が、とてもおもしろい。その場しのぎの思いつき。思いついてしまうから、そこから嘘に弾みがつく。それが二連目なのだが、いやあ、ケッサクだなあ。
 「のうきょう」が具体的でいいなあ。母の生活は「のうきょう」なしでは成り立たないのだ。何でも「のうきょう」で調達してしまう。紙でできていて、べったりとはりつくネズミ捕り。「いまは」そういうものがある、というよりも、昔はあったなあ、と私は思い出してしまう。「いまは」ではなく、「いまも」あるかどうか、知らない。それを畑のまわりに置いておいたら、その罠にかかって、べたべたの紙をつけたままどこへ行ったか、もう出て来ない。
 出て来ないなら、畑を作りなおせばいいのだが、そのつもりはない。ほったらかし。これで、嘘がばれてしまうのだが、母はそこまでは気が回らない。ちゃんと嘘を貫き通したという気持ちがあるのだろう。ネズミ取りが畑のまわりにないのはヌートリアがつけていってしまったため。「論理」としては、それで整合性がとれる。「あれらもよう知っとるで」というのは、生き物をもちあげて、嘘をごまかすのである。
 そしてまた、この「あれらもよう知っとるで」には何か、動物に対する反応を超えた、母の日々の「感想」のようなものが含まれている。だれもかれもが、いろいろなことを「よう知っとる」。だまそうにも、だませない、ではなく、母の考えていることを見抜いていて、なかなか思うようにはならない。だれもが自分の世話だけにあけくれている。そういう老人が独り暮らしをしている集落の様子が、ちらりと、そこにのぞいている。

むかしはそんなもん、おらんかっただろ?
麺いっぱいの口で母の顔をのぞきこみぼくは訊く
そうじゃ、・・・いってぇどっから来たんだろな。

 だまされたふりをしながら、「ほく」は、いちおう「むかしはそんなもん、おらんかっただろ?」と聞いてみる。聞き返さないと、聞いていることにならないから。母の独りごとになってしまうから。
 宇佐美はやさしいんだなあ、と思ってしまう。
 聞き返されることで、「話」は存在する。ヌートリアは存在したことになる。それでいいのだ。

頭の上 五〇㌢ほど描いてみる
体毛にねずみ捕り紙をくっ付けたヌートリアが
月の晩に 水の中から目をこらして
世間(こっち)の様子を窺っている
母も
ぼくも
互いに
ひっそりと笑い合うのだ
水から出てきたばかりのしっぽのある
ヌートリアの目付きをして

 「嘘」を共有した。「嘘をついたんだけれど、わかった」「わかったよ、だけど、嘘つくな、なんて言わないよ」。そういう「やりとり」がここには隠れている。それが「世間」というものだ。それが老いた母と息子の「なじみ方」である。嘘をついたらだめ、嘘つくな、などと詰問していては、母だって生きにくい。何でもいいから話をして息抜きをしたい。つながりをもちたい。
 ばかし合い--なのだけれど、ちゃんと「しっぽ」を出して、「嘘ですよ」と言う。ほんとうにだましてしまうわけではない。「ひっそりと笑い合う」、その目の中に「了解」が隠れている。

 「注釈」には、いっさい触れなかったが、「注釈」なしだと、こんな読み方になる。
 そして、こういう読み方をするとき、頼りになるのは「口語」の響きである。詩の中に「方言(口語)」が出てきていることである。母は息子に、暮らしのなかで身に着けてきた、暮らしのことばそのもので語る。それは「無防備」の母の姿でもある。「口語」だから、「無防備な呼吸」が出てしまう。
 訪ねてきた息子にソーメンを出す。それはソーメンしか出せない、ということでもある。「畑をつくる力がなくなってしまって、いつはつくっていない。だからソーメンしか出せない」と正直に言ってしまってもいいのだけれど、それでは息子を心配させることになる。「だからいっしょに住めばいいのに」と言われてしまうかもしれない。そういう会話を避けたくて、母は「ヌートリアが畑のものを全部食ってしまったから、ソーメンしか出せない。ごめんね」と「理由」をこしらえるのである。そういうことは、謝ることでも何でもないのだけれど、そんなふうに「気遣い」をしながら、一方で自分の「暮らし」も守ろうとする。それが「昔の母」である。息子の前だから気が緩んで、身構えたつもりが逆に無防備になって、「地(生身)」が出る。息子に気をつかうことが「生身(地)」かと疑問に思う人もいるかもしれないが、そこに母の「人柄」のようなもの。これが「口語」の響きにぴったりあう。「口語」の響きを読んでいると、ついつい、そういう「人柄(人と向き合ったときの呼吸のととのえ方)」を感じてしまう。
 その「呼吸」にあわせて、「ぼく」の方もしだいにかわっていく。目と目で理解し合って「ヌートリア」になっていく。そうか、ヌートリアがこんなところにまで出るようになったのか、と二人で嘘を完成させる。
 宇佐美というのは、母に負けず劣らず、「人柄」がいい。この母にして、この子あり、とこういうときに言うかどうかしらないが、何だがうれしい気持ちになる。「人柄」が滲む詩が、私は好きなのだ。


ひかる雨が降りそそぐ庭にいて
宇佐美孝二
港の人
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倉本修『美しい動物園』

2015-07-25 09:17:44 | 詩集
倉本修『美しい動物園』(七月堂、2015年05月11日発行)

 倉本修『美しい動物園』の表紙の絵がおもしろい。何が描いてあるか、はっきりとはわからないが、私はそこに「目」を見た。そして背後に「交差した足(組んだ足)」を見た。それから抽象的なカバン。さらに恐竜の突き出した首。海と空と陸地。鳥。描かれている空は曇っているのだが、陸地、目、カバンには光が当たっている。この光と影というか、陰影の対比は「風景画」のひとつの技法である。風景画はたいていの場合、肉眼で見るよりも明暗の対比が大きい。--と、つづけていくと、だんだん全体を見ていくことになるし、批評(感想)にも近づいていくようなのだが、こういうことばの運動は、まあ、あてにならない。だんだん、間違っていく、といった方がいい。「目を見た」と書いたときだけが正しい印象で、あとは惰性である。惰性でも、ことばはつづいてゆき、ことばがつづいてしまうと、そこにひとつの「世界」ができてしまう。これは、実はたいへんな問題であると思う。ことばがかってに運動して「世界」になる、ということが起きてしまう。私は「風景画の技法」なんてことを書くつもりはなかったが、私の「肉体」のなかにあったことばが、だんだん刺戟されて、目覚めてきて、動いてしまった。無意識が動いたということかもしれないが、なんだかよくわからない。私はいいかげんなのである。
 こういう書き出しではじめると、倉本修『美しい動物園』の作品(詩)批判になってしまうかもしれない。「美しい動物園」という作品は「案内図」「プロローグ」にはじまり、動物を紹介しながら「エピローグ」「おまけ」とつづいていく。つづけることで「動物園」という「世界」があらわれる。「世界」ができてしまう。そういうことと重なってしまうからである。
 でも、これは「私(谷内)の読み方」であって、倉本の思考(肉体)とは関係がない。私がいいかげんなだけであって、倉本がいいかげんに書いているということではない。私はもともと、そこに何が書いてあるか、ということを気にしたことがない。私が何を読んだか、そこから何を考えることができるか、しか気にしていない。何を考えることができるか、ということは、考えてみないとわからない。「結論」などない。だから、書くのである。
 あ、だんだん詩から離れていってしまいそうだが。これを前置きにして、詩に戻る。

 「美しい動物園」のなかに「カブラン」を紹介した部分がある。どんな動物であるかは、引用が面倒なので省略する。私が、はっと思ったのが、

「知能程度はB」とあるが? よく分からない。「B」の意味は?
 近くにいた飼育員に聞いてみるが怪訝そうに首を傾げるだけだ。「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。

 「B」の意味は? 「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。これを、どう思う? 私は倉本につられて、一瞬同じように考えたのだが、変じゃない? もしかすると「A、B、C、D、E」と5段階評価ということもありうる。「F(落第)」を含めて6段階評価かもしれない。10段階、24段階かもしれない。「A、B」の2段階かもしれない。分からないのに、なぜか「A、B、C」の3段階を信じてしまう。
 これは、私が3段階評価というものになれていて、「肉体」がそれをおぼえているために、無意識にそう動いてしまうのである。「好き、嫌い、どっちでもない」という感じの3段階(あるいは3分類)。「パクシオン」という動物の紹介には「S」という知能評価がでてきて、それについては「A」より上の最高値なんだろう、と書かれているが、これはこれで「なれ親しんでいる」基準なので、違和感もなく納得してしまう。
 で。
 これが私たちの(あえて、私たちのと私は書くのである)、ことばの運動の大きな問題点。私たちはことばを意識的に動かしているようであっても、実は、ほとんどを無意識に動かしている。そして、その「無意識で動かしていることば」が全体を統一してしまう。そういうことがあるのだと思う。
 「美しい動物園」というのは架空の動物園である。つまり、そこに書かれていることばは「現実」に即して「ことば」を対応させて動いているわけではなく、こういうものを「存在させよう」と意識しながら動いている。意識が全体を統一しているはずである。それにもかかわらず、そこには無意識が入ってきている。それだけではなく、そこに無意識が入ってくることで、「架空のことば(嘘/でたらめ)」が読者と共有できるものになる。どんなに「でたらめ」を書いても(書こうとしても)、どこかに必ず「無意識」の「肉体(無意識の真実)」が入り込んで、それが結託してしまう。

 ここから、どうやって、逃れるか。

 いや、逃れなくてもいいのかもしれないが、私は逃れられたらおもしろいなあ、と思う。詩というのは、たぶん、「無意識」と結託することを拒絶して、それを突き破り、逃げて行く「本能」のようなものだと、私は考えたいのである。

 こんなことを書くと、またまた倉本の詩から脱線してしまうようでもあるが、私は、倉本の詩に近付きたくて書いている。
 私は最初に詩集の表紙について書いた。そこに描かれている絵について書いた。「目」を見つけた。この瞬間が、たぶん、「絵の中の詩」を発見した瞬間なのだ。「絵」から「目」が逃げ出してきて、私と衝突したのだ。そこで私は立ち止まらなければならなかったのだ。立ち止まらずに「組んでいる足」を見た、とつないだ瞬間から、私はずるずるずるるっと「見る」ということ、絵ということの「無意識の世界」に自分を組み込んでしまった。「目」から離れてしまった。私のことばは、逆に「目」のなかへこそ入り込まなければならなかったのである。「目」になって「絵」から逃げ出さなければならなかったのである。
 これを、詩に当てはめると……。(こんな読み方は「強引」であることは承知しているのだが、私は「強引」な人間なのである。マッチョなのである。)

 「B」の意味は?/(略) 「A」より下「C」より上などということではあるまいか……。

 さっと書かれている「意味」。「意味」が「A、B、C」の三段階(上、中、下)に動いていくときの「意識の運動」のなかへ、私たちは飛び込んでゆき、その運動で、倉本が書いている「全体」を破壊してしまわないと、ここに書かれていることは「空想散文」になってしまう。
 でも「意識の運動」のなかへ飛び込むって、どうやって?
 あ、私にも、わからないのだけれど。わかっていたら、こんなことを長々と書かずに、さっさとそれを書いているのだけれど。
 でも、きっと、そういうことなのだ。
 倉本の書いている動物園は「架空」の動物園。そこには「事実」は書かれてはいない。けれど、それを事実と感じるのはどうしてなのか。私は、知能評価(3段階評価)のなかに、「架空のことば」と「私のことば」をつないでいる「無意識」を見たが、ほかにもたとえば「食べる」という「動詞」にも同じことを感じる。
 「ヘェルトン」のなかに「食べる」ということばが出てくる。それは、餌は「もつだろうか」ということばと対になっている。餌がある。それがあるときは、それを「食べる」。えさがない。「食べられない」。その「食べる/食べられない」の「あいだ」に、餌がありつづけるという状態がつづいている。その「ありつづける」を私たちときどき「もつ」という動詞で言い換える。「食べる-餌がある/もつ-食べられない」。「ある」を「もつ」と言い換えるときの、私たちの「無意識」のなかで動いている何か。そこへこそ、私たちは踏み込んで、そこにとどまりながら、この詩を読まなければならない。

 うろおぼえのたとえ話。私たちの世界には「強い力」と「弱い力」がある。素粒子の結合は「強い力」。重力は「弱い力」。なぜ重力の力が弱いかというと、それは力が「異次元」に漏れているからなのだ。その「異次元」のようなものが、「ことば」にもある。餌が「ある」を、えさが「もつ」と言い換えるとき、「食べる」が「食べることでいのちをたもつ(もちつづける)」という意識と触れ合っているのかもしれない。いのちを「もつ」ために「食べる」。こういう「異次元」の存在を感じるためのテキストとして、倉本の詩を読むと、とてもおもしろいものになると思う。そういうものを探しながら、読む、というところに私は踏み止まってみたい。言い換えると、「食べる/もつ」という動詞が結びつくことばの運動を私は美しいと思う、というところに私は踏み止まりたい。「B」の意味は?と感じた瞬間に踏み止まりたい。その瞬間に、私の何が動いたのかをもっとはっきりと見たい。
 倉本の詩は「架空の動物園」を描くふりをして、実は、ことばの無意識の異次元をさぐりあてる仕事をしているのだ、というところに踏み止まって、そのことばを読み直したい。
 で、
 そういう視点から、ちょっと注文をつけると。
 「美しい動物園」の「プロローグ」の、

自然環境の豊かさは他に類をみないほど美しい。

 この「他に類をみないほど」というような常套句は、「食べる/もつ」のつかみとっている「無意識の異次元」のようなもとは相いれない。「肉体」が動いていない「頭の無意識」。こういうことばは、倉本の世界をこわしてしまう、と思う。


美しい動物園
クリエーター情報なし
七月堂
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ジョン・ヒューストン監督「アフリカの女王」(★★★)

2015-07-25 06:12:57 | 映画
ジョン・ヒューストン監督「アフリカの女王」(★★★)

監督 ジョン・ヒューストン 出演 ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーン
 荒唐無稽なストーリー。でも、これをたった二人(ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーン)に演じさせたので、荒唐無稽ではなくなった。(ほかにも何人か出てくるが、ほとんど二人だけ)。なぜかというと、すべてが二人の感情の動きとして表現されてしまうからだ。起きていることが荒唐無稽でも、人間の感情には荒唐無稽はない。「年増女」と言われれば、むっとする。キスされれば感じてしまう。ほれられればがんばろうと思う。強がりもする。
 キャサリン・ヘップバーンはうまい。ほんとうに、うまい。あの、美人でもない顔、しかも若くない顔が、喜びの瞬間、輝き出して美しく見える。感情がはつらつと動けばだれでもが美しくなれるのだ。
 最初の急流下りがおもしろい。ジェットコースターみたいなものだが、怖さよりも、おもしろさ。味わったことのないことに興奮してしまう。そんなはずがないだろう、といいたいけれど、えっ、キャサリン・ヘップバーンって、こういうことに興奮するんだと、「役」と「本人」を混同してしまう。
 だんだんお転婆(?)になって男(ハンフリー・ボガート)を振り回し、振り回すことで男を夢中にさせるというのはオードリー・ヘップバーンの得意とする役どころだが、これをキャサリンがやってしまうところが、とてもおもしろい。きゃしゃなお人形さんではなく、皺の目立つ年増女だから、アフリカの過酷な自然がよく似合う。強さに納得してしまう。
 ハンフリー・ボガートは、あいかわらずの、何もしない演技(まあ、今回はかなり動くけれど)で女を引き立て、女を引き立てることができる「いい男」になっている。不思議だ。困惑し、文句をいいながら、女の注文をきちんとこなしてしまう。その、こなしかたにジェームズ・ボンドとは違う「生身」の感覚がある。はつらつ(?)としていないので、これくらいなら俺にもできるかな、と思わせる。中年恋愛ヒーローの「星」かも。文句をいいながら、やってしまうところが、女から見れば「かわいい」のかも。きっとどこかで手伝うということが起きて、自分がいなければだめなんだ、と女に勘違いさせるのかな?(女から何か言われたら、文句をいいながら、こなそう。--もてるコツ)
 だれが思いついたキャスティングか知らないが、だれでも恋愛アドベンチャーの主役になることができることを教えてくれる映画。「感情」が主役なのだから「芝居」でもよさそうなのだが、アフリカの「野生」の自然のなかで、人間(キャサリン・ヘップバーン)の「野生」が輝くというのが見せ所なので、これはやっぱり映画ならでは、だね。
              (「午前十時の映画祭」2015年07月24日、天神東宝4)
  



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岩堀純子『水の旋律』

2015-07-24 08:18:56 | 詩集
岩堀純子『水の旋律』(編集工房ノア、2015年07月07日)

 岩堀純子『水の旋律』のなかに「言葉が」という作品がある。

わたしは形がない
言葉が
昨日が
わたしを
つくってゆく

 と、はじまる。「わたしは形がない」とは存在しないということではない。存在しているが「形」をもっていない。「形」は「言葉」と「昨日」がつくりあげる。「言葉」と「過去(時間)」が「わたし」をつくる。
 これは「わたし」は「言葉」によって「わたしになる」と、どう違うのか。ちょっとむずかしい。「わたしは/ことばによって/わたしになる」というとき、「主語」は「わたし」。「わたし」がことばを動かしている。
 岩堀の書いていることは、それとは違って「言葉」と「過去」が「主語」なのだ。「わたし」は「不定形」(形がない)から動けない。動くのは「言葉」なのである。

わたしは形がない
言葉が
滴が
わたしを
つくってゆく
波のように
汚れた砂を清ます

 「滴」ということばが「わたし」を「波」という形にする。そしてことばによって「波」になった「わたし」は、汚れた砂を洗って清らかにする。もし「滴」ということばがなかったら、「わたし」は「波」にもなれない。
 このとき、ここに、もうひとつの動きがある。「滴」が「波」になる。滴があつまり水になり、水があつまり波になるという動きがある。「滴」は小さい。その小さい「滴」が次々に「滴」を呼び寄せる。そして水に、波になる。水が波に成長する。「なる」というとき、そこには「同質」のものがあつまりながら、「同質のもの」のなからか、ひとつの「力」を高めていく。この二連目の場合、「水」は何かを「清らかにする」という「力」になってゆく。(「清ます」は「すます」と読ませるのだろうか。)この変化があらわれる「場」、変化があらわれる「契機」として「わたし」という存在の「形」がある。

わたしは形がない
言葉が
木々の緑が
わたしをつくってゆく
祈りのように
やすらぎの翼をくれる

 この三連目では、どうだろう。
 「木々の緑」。そのなかに何があるか。どんな「力」があるか。「安らぎ」がある。木々の緑がつくりだす影。「安らがせる」力である。これを岩堀は「いのり」と結びつけている。「いのり」によって「安らぎ」が訪れる。そして「安らいだ(こころ)」は不安を忘れてのびのびとどこかへ飛んで行くことができる。「こころ」に「翼」が生えたのだ。
 ここには木々の緑のなかで安らぎ、再び空へ飛んでいく鳥(翼)のイメージが重なっている。鳥は不安で飛び立つのではない。木々で安らいだ後、今度は空で安らぐ。
 これは、木々の緑を思い、それをことばにするとき、「わたし」のなかで、そういう変化が起きるということを語っているのかもしれない。「わたし」を「いまのわたし」ではなく、「違ったわたし(いままでのわたしではない、新しいわたし)」にしてくれる。それが「言葉」なのだ。「言葉」よって、「わたし」は「木々の緑」になる。そのあと「木々の緑」は「いのり」「安らぎ」「翼」へと変化して行く。その「変化」のなかに「わたし」の「形」ができあがる。
 「わたし」には「形がない」。しかし、いったん「形」になると、それは次々に変化して行く。その「変化」こそが「わたし」の「力」というものだろう。変化をつらぬく「力」、変化を変化として存在させる力が「わたし」。受け身の「わたし」がいつのまにか「主語」として、自然に姿をあらわしている。

わたしは形がない
言葉が
傾く陽射しが
わたしを
つくってゆく
帰る巣のない鳥のように
さびしい火をさがす

 何かになる「力」。それは「さびしい」という「感情」になることもある。「さびしい(感情)」も「言葉」がなければ「さびしい」という「感情」にはなれない。「感情」はことばによってつくられる。
 ここでは「傾く陽射し」ということばが「さびしい」になるまでの変化が書かれている。陽射しが傾く。夕方になる。そうすると、鳥は巣へ帰って行く。それがふつうだが、帰る巣を持たない鳥もいる。「さびしい」とは「帰る巣をもたない鳥」の「気持ち」である。「傾く陽射し」から、そういうとこを考える「わたし」を「言葉」はつくってゆく。「傾く陽射し」ということばから、「わたし」は「さびしい」という「感情」にたどりつくまで、そういうふうに「言葉」を辿った、ということでもある。
 この私のスケッチは、かなり粗雑なもので、岩堀は単に「さびしい」と書いているのではなく「さびしい火をさがす」と書いている。ほんとうは「火」と「さがす」ということろまできちんとことばを追って、その変化を書かないと「読んだ」ということにはならないのだが、これを全部書くのはなかなかむずかしい。
 「火」は「傾いた陽射し」の「太陽」の「火」と結びついている。「さがす」というのは「(帰る)巣」を「さがす」鳥と結びついている。「さがしてもない」ということと結びついている。--こう追いかけるだけでは、まだまだ不十分だ。
 なぜ「傾いた陽射し」と「太陽」と「火」が結びつくか。一連目に書かれていた「昨日」が関連している。どんな「昨日(過去)」を生きてきたか。そこで、ことばを何と結びつけてきたかをさぐらなければいけない。
 でも、そういうことをしてしまうと、今度は「詩」から離れて、岩堀のことを考えることになってしまう。それは、とても面倒。だから、私は、ここでやめておく。岩堀は、ことばが抱え込んでいる「昨日(過去)」しっかりみつめている。「昨日(過去)」の「言葉」で「わたし」をつくろうとしている。「おぼえている言葉/知っている言葉」で「わたし」をつくろうとしている。いや、「わたし」を「つくらせよう」としている。「おぼえている言葉/知っている言葉」が「わたし」をつくっていくのを妨げないように、ことばのまわりをととのえるといえばいいのかもしれない。「おぼえている言葉/知っている言葉」に無理をさせない。「新しいことば」は知らなくてもいい、という感じの、何か落ち着き(余裕)がある。そこが岩堀の魅力になっていると思う。
詩集 水の旋律
岩堀 純子
編集工房ノア

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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南風桃子『うずら』

2015-07-23 10:18:01 | 詩集
南風桃子『うずら』(空とぶキリン社、2015年03月15日発行)

 南風桃子『うずら』について語るのは、私にはむずかしい。たとえば「哀愁うずらおやじ」という作品。

きょうからきみは
うずらになってもらうよ
と、会社の偉い人から言われました

家族を養わなければならないので
とりあえず
うずららしくなってみようと努力したのですが

みんなから
うずらのくせに態度がでかいと どつかれたり
うずらのくせによく食うとイヤミを言われたり
なかなかたいへんです

 帯に「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくてほろ苦いうずらの世界」と書いてあるんだけれど。
 うーん、
 私はこんなふうにさらりと感想が書けない。また、「生きていく中での喜びや悲しみを/ユーモアのレースにくるんで歌った/おかしくて」というのは、言いえているようだが、それってほかの誰かの詩にも言わない?と疑問にも思う。抽象的すぎて、読まなくても書ける批評のひとつじゃないだろうか。
 南風の詩についてのことではないのだが、たとえば「繊細なことばのなかに作者の知性を感じる」とか「作者のやさしさが、やわらかな春の光のようにひろがってくる」とか……。
 まあ、帯なので長い文章は書けないからそうなるのかもしれないが。
 脱線した。

 私がこの詩で思うことは、ここに書かれている「うずら」がわからないけれど、それがわからなくてもわかる部分があるということ。そして、私はそのわかる部分に反応して読んでいるということ。
 一連目、会社の偉い人から何か言われたら、それに従うしかない、ということ。「家族を養わなければならない」からね。このことばのなかに「おやじ」の生き方(思想/肉体)がある。「おやじ」は自分だけのために働いているのではなく「家族」のためにも働いている。自分と家族は切り離せない。そして「努力」する。この「努力する」が「おやじ」の生き方とわかるので「うずら」は、まあ、わきへ置いておく。そういうものだよな、人間は、と思いながら。
 テーマは「うずら」なのかもしれないが、「うずら」でなくても、そこに書かれている「動詞」は動く。動くと「人間」になる。動詞に、私の「肉体」と「肉体がおぼえている」ことを重ねるからだ。「金魚」でも「苦情受付係」でも、同じように「動詞」は動き、その動詞に自分の「肉体」を重ねるようにして、そこに書いてあることが「わかる」。
 私は「名詞」ではなく、「動詞」でことばを読んでいる。
 そして、南風の書いている「動詞」は、どれもこれも「肉体」に重なる。それが、いい。「動詞」が重なりながら、自分に激しく絡み付いてくる(自分の「肉体」の記憶を激しく刺戟してくる)というのではなく、そういう「動詞」の動きは知っている、おぼえているけれど、これは「自分」ではなく「うずら」なんだと思うと、ちょっと安心する。
 「わかる」けれど、「親身」さが「半分」。
 「……のくせに態度がでかいと どつかれたり」「……のくせによく食うとイヤミを言われたり」という表現のなかにある「……のくせに」という言い方。何度も何度も聞かされるねえ。「態度がでかい」「よく食う」という批判の仕方。「どつかれたり」「イヤミを言われたり」。ここでも「動詞」に私は反応する。「うずら」に反応しているわけではない。むしろ「うずら」によって、私の「肉体」の反応は、かなり軽くなる。自分でもおぼえているのに、そのおぼえていることが、感情そのものにならない。少し離れる。間接的になる。
 詩というのは(文学というのは)、そこに書かれていることが「他人」のことなのに、「あ、これは自分のことなんだ」と思うときに感動がはじまる--ということから考えると、この「間接性」は、ちょっと弱点。
 ちょっと「弱点」というのは、言い換えると、「絶対的な傑作(たとえばドストエフスキーの作品)」という基準からはなんとなくはみだしてしまう。もっと直接的なものを評価してしまうという、暗黙の基準がどこかにあるんだろうなあ。
 でも、そういう「絶対的な文学」じゃないから、いい、というところもあるね。いつもいつも、「絶対」にしばられて動くなんて、つらい。息抜きしながら、動いていたい。
 そういう気持ちに「とりあえず」とか「なかなか」ということばが寄り添ってくれるね。そういうことばのなかに、何か「呼吸」のようなものがあるね。「肉体」を動かしながら「呼吸している」。そのリズムを、そのままことばとして結晶させている。

 「浜辺のドップラー効果」は「うずら」ではなく「はまぐり」になった詩だが、不幸な期待と不幸な期待が裏切れる瞬間の、安心とがっかりした気分の矛盾した感じが動くところがおもしろい。「息をのむ」というのはだれもがつかう「動詞」だけれど、この詩では「常套句」であることを忘れてしまうくらいに、「肉体」にぴったり重なる。
 南風は自分の「肉体」でおぼえこんだことばを、そのときの「肉体」のまま思い出し、使うことができる人なのだろう。

 「遠い夏」は多くの人が経験したことのある光景かもしれない。

おばあちゃんは
バス停まで いつも
見送りに来てくれました
バスが土ぼこりをあげて
見えなくなるまで
見送ってくれました
そのとき おばあちゃんは
じっと動かない
ひかるまめつぶ
のようでありました

 「じっと動かない」という「副詞」と「動詞」のなかにおばあちゃんが生きている。そして、それを「まめつぶ」というだけではなく「ひかる」ということばで修飾している。その「ひかる」なのかに「真実」がある。「ひかる」ということばによって、はじめて世界にあらわれてくる何かがある。
 これは先に書いてきた南風のことばへの感想とは違ってしまうかもしれないけれど、こういう「肉体」をふっとはみだす瞬間のことばに南風の「ほんとう(人柄)」がある。こういうことばがあらわれるまで、ていねいにていねいに、南風は「動詞」を動かしているのだろう。
 「うずら」は何のことかわからない、と私は最初に書いたが、きっと「ひかるまめつぶ」の「ひかる」のような何かそのものなのである。会社の偉い人からは「うずら」にしか見えないが、南風はそこに「ひかる」のようなものを見ている。それが見えるから、生きていける。

「うずらはつらいよ…」

思わずため息をつくと

「うずらの分際で」と間髪入れずにおこられました

そうこうしているうちに
さらさらと月日はながれ

「あれ?うずらの前はオレ、誰だったっけ?」

と、夕方ビールをのみながら思うのでした
                           (「哀愁うずらおやじ」)

 「うずら」の前も、いまも、「ひかる」その「ひかり」そのものである。無傷の、無垢の、何かが「肉体」のなかにある。それがあるから、人間は生きているのだ、と感じさせてくれる。
うずら―詩集
南風桃子
空とぶキリン社
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リサンドロ・アロンソ監督「約束の地」(★)

2015-07-22 22:28:02 | 映画
リサンドロ・アロンソ監督「約束の地」(★)

監督 リサンドロ・アロンソ 出演 犬、ビゴ・モーテンセン

 またまた「頭でっかち」の映画。四隅が丸くなった奇妙なスクリーンで、これはふつうの映画とは違います、と予告してはじまる。どこがふつうの映画と違うか。犬の心情を描いている、ということろが違う。
 主人公は犬。
 この犬は少女に飼われている。「どんな犬がいい?」と聞かれて少女は「いつもそばにいる犬がいい」と答える。この答えを犬は鵜呑みにしてしまった。信じ込んでしまった。いつもそばにいる、というのは、犬からいわせればいつも少女が犬のそばにいる、ということ。
 でもね、多感な少女、思春期の少女は、犬よりも男が好き。ついつい犬を忘れて、男とどこかへ行ってしまう。
 「どこへ行っちゃったんだよ」
 犬は必死になって少女を探す。この犬の役をビゴ・モーテンセンが演じる。南米(スペイン語が出てきたから、きっと、南米のどこか)の荒野をひたすらさまよう。「異界」をさまよう、といえばいいのかな? 人間にとっても荒寥とした風景だけれど、そうか、犬にとっては飼い主がいない世界というのは、こんなふうに荒寥とした世界なんだろうなあ。見ようによっては「美しい」とも思えるけれど、それは人間の思い込み、ということか。ときどき「人間」があらわれるけれど、人間というのは互いに傷つけあうのが趣味みたい。
 少女は男が好きになったけれど、セックスしてしまうと、飽きちゃった。「さよなら」なんて言って、男のこころに立ち直れないような「傷」を残して、どこかへ消えてしまう。のどを書き切られた男は、「犬」以下か。あるいは、あの傷は「犬」の心情を代弁している、ということかな?
 ああ、どこへ行ってしまったんだろう。
 匂いをおってさまようように、荒野をさまよう。そのうちに、少女を探している自分に気がつき、何をしてるんだろう。なぜ、前へ進むんだろう。なぜ、人(犬)は人を求めて、さまようんだろう。なんて、考えはじめる。ここから、ビゴ・モーテンセンと犬の二人旅。この「二人」というのが、まるで「人間」の精神の動き。「自省」というか、主観的自己を客観的にみつめる、というやつだね。それがさらに分裂して、少女のなかに別の女をみつけだす、という具合に展開するのだけれど。
 わ、うるさい。めんどうくさい。
 とは、言っても、これがわかるのは映画の最後の最後。「いつもそばにいる犬がいい」と言っていた少女が長い間家を開けた。その間に、犬はストレスで自分のからだをひっかき、皮膚に炎症を起こした。ということを、少女の父が、少女に説明する。
 この瞬間に、映画が何を描いていたかがわかる。
 こんな「種明かし」は嫌いだ。「種明かし」をするためにつくられた映画なんて、観客をバカにしている。
 ほんとうの最後。犬が森の奥から「こっちへ来て」という感じで「うおぉぉん」と叫ぶ。そこは、犬を飼っていると気持ちがわかるので、ちょっと切ない。
 我が家では、長く家を明けるときは、何日か前から何度も言い聞かせておくけれど。はい。
                     (KBCシネマ1、2015年07月22日)
  



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市堀玉宗『安居抄六千句』

2015-07-22 10:39:53 | 詩集
市堀玉宗『安居抄六千句』(巴書林、2015年07月10日発行)

 市堀玉宗『安居抄六千句』は句集。タイトルどおり「六千句」ある。(数えたわけではないが……)一ページに二十句ずつ掲載されている。ちょっと、困る。いや、たいへん困る。私は俳句をあまり読まない。読んでも、こんなぎっしりした感じのスタイルで読んだことがない。ことばがつまりすぎていて、つらくなる。
 そうすると、いままで市堀の句から感じ取っていたものとは違うものが浮かんでくる。フェイスブックで私は市堀の句を知った。毎日十句以上書いている。それを読んで、この句が好きだなあ、と感じていたものとは違うものが見えてきた。
 全部読んだわけではなく、最初の「冬の章」の百句、いまの季節にあわせて「夏の章」の百句を読んだ。
 まず「冬の章」。気に入ったものをに丸をつけてみた。

青首の大根の葉に積もる雪

炭火爆ぜ火星近づく話など

霜解けて力抜けたる冬菜かな

大根の泥を大根の葉でぬぐひ

真夜中の月に鯨のうらがへる

 「青首の」「霜解けて」は写生の句ということになるのかな? すっきりしていて気持ちがいい。
 「青首の」は色の対比がシンプルだ。「青首」とはいうものの、実際の色は「緑」。緑と白の二色の世界。いや、実は大根の白、雪の白と「白」も二色あるのだが、そしてその雪に濡れた大根は冷たい色に変わっているのだが……。そういう変化も思い出してしまう。
 「霜解けて」は「力抜けたる」がいい。しっかりと対象を見ていて、それが「視覚」だけでなく「肉体」の他の部分にまで広がってくる。「力が抜ける」を実感しているのは視覚ではなく、「肉体」全体である。こういう肉体感覚が私は好きだ。
 「大根の」は「ぬぐう」という動詞によって、これも「肉体」が見えてくる。大根を描きながら、実は人間の動きを書いている。実直な感じが「ぬぐう」に出ている。「大根」の繰り返し、そのなかで視覚が泥と葉を往復しながら、「ぬぐう」という動詞のなかで一つになっていく。その統一感がいい。
 「炭火」と「真夜中」はスケールが大きい。

 「夏の章」では、

代掻いて瑞穂の里のたひらかに

 がいちばん印象に残る。田んぼの形が変わるわけではないのだが、代掻きのあとの水の広がりが「たいらかに」を新しくする。風景の変化をとらえている。「瑞穂の里」は抽象的で弱いかも。

青簾捲れば海が真向かひに

 これも風景の変化する瞬間。簾越しに見ていた海が、ぱっと輝き出す。それを「真向かひ」という「正面衝突」のような感じ、直球の感じでぶつけてくるところが、夏っぽくていい。余分な影がない。

更衣風八方に甦る

 「八方」は「四方」の方が数が少ない分だけ生々しいかもしれない。でも、これを「八方」とするところが市堀の個性だろう。説明が多いのだ。そのぶん、「俳句」というより「短歌」の感じがする。「六千句」にも通じるが、多くを語りたいという欲望のようなものが見える。本能が見える。それが「甦る」というややこしいことばにも響いてくる。
 私なら、「更衣風は四方にうまれけり」くらいにする。「甦る」は「うまれて、死んで、甦る」とめんどうくさい。 

あめんぼの踏ん張り水面押さへこむ

水馬水を凹ませ踏ん張りぬ

 同じ情景。あめんぼうの足の下が少し凹んでいる。「踏ん張る」という肉体と水の表面張力の関係を視覚化しているのだが、わかるけれど、うるさい。動詞がふたつあるからだろう。説明が多いと感じる。
 私は、私自身が説明過多の人間なので、他人の説明は逆にうるさく感じるのかもしれない。

雷過ぎし後のしづけさ味気なさ

 これも説明過多。「しづけさ」を捨てて「味気なさ」にしぼった方が印象的だと思う。あ、だんだん「注文」が多くなってしまった。

 写生の句の一方、市堀は人事の句も書いている。

父の日の父がうろうろしてゐたる

明易し妻を跨いで厠まで

 どちらもおもしろい。「うろうろ」の理由、「跨いで」の理由は書いていない。書いていないから、読者は自分の体験(肉体がおぼえていること)を手がかりに自分の「肉体」を重ねるのだが、そうするとことばにならない何かが肉体の奥で疼く。
 私は、市堀の本領は、この辺りにあるのかもしれないと思っている。俳句を書いているが、俳句というよりも「人事」、つまり「小説」のような散文の方があっているような感じがする。散文の形の方が説明はうるさく感じないし(説明するのが散文のひとつの役割だから)、瞬間的にあらわれる凝縮した風景もより新鮮に見えるだろうと思う。

 俳句も六千句もあつまると、もう「短詩」ではなく、「長い散文」に見えてくる。そのせいで、こんな感想になったのかもしれない。

*

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