青柳俊哉「アザミ塔」、池田清子「過去の今」( 朝日カルチャー講座・福岡、2020年03月16日)
アザミ塔 青柳俊哉
(風景のはりつめた)
(うすい膜のひずみから)
(生成しきえていく)
(雲や水のうつろいのように)
(みじかい光の振幅にうまれ)
(背後にみちている無辺( むへん) の母性にたえ)
(光へかえっていく)
(水辺の塔)
春の野辺に立つアザミの花
ひそかな小川の土手のうえから
石のような目で 雨にぬれる水のながれと
生物のささやく世界をみつめている
よろこびも かなしみもなく
よろこびも かなしみも深く沈潜し
果てのない空に映る野辺のすべてを
棘( とげ) のような花弁に結実して
光の中へきえていく
アザミ塔
「アザミ塔」ということばへの疑問が出た。なぜアザミの花ではないのか。あるいはアザミではないのか。
現代詩は「わざと」書くものだと西脇順三郎はいった。「わざと」が文学。「わざと」塔という比喩をつかう。アザミは塔ではない。だが塔と呼ぶ。その瞬間に動き始める精神・意識というものがある。
この詩は二連で構成されている。
一連目は抽象的だ。(水辺の塔)の「塔」のことばが二連目で「アザミ塔」と繰り返されなかったら、建物の塔であったかもしれない。
では、「塔」とは何なのか。
アザミを描写しているというよりも、アザミを借りて「塔」を想起している。その想起されているものが、青柳の書きたかったことだろう。
「はりつめた」ということばが最初に選ばれている。緊張を引き起こすものとして「塔」がある。その緊張は「生成しきえていく」という矛盾といっしょにある。不安定なのだ。不安定は「うつろい」と言い直される。しかし、不安定であるけれど、その基本は「消えていく」ではなく「うまれ(る)」にある。「母性」のような力、「うむ」力が基本にあり、それは「うまれる」ことで「かえっていく」。光へ。そういう運動が「塔」の内部を支えている。塔のなかには生成の運動があり、それが緊張感を引き起こしている。
これを「具象」をとおして語りなおしたのが二連目になる。
「母性」は「結実」ということばで言い直されている。「無辺」は「果てのない」と言い直されている。ふりそそぐ春の光のなかへ生まれ、そのふりそそぐ光の一点、太陽へかえっていく(太陽を目指して成長していく)、塔のような花、アザミ。
だが、青柳は、あくまでアザミではなく、アザミの誕生、成長を「運動」を描こうとしている。「塔」の運動として描こうとしている。
私は塔の内部と読んできたが、塔をつくる作業と読むのもおもしろいかと思う。
二連目は消してしまって、一連目だけにしてしまうのもおもしろいかもしれない。精神・意識の運動を「野辺」「小川」「石」「水」を排除したまま、さらに「よろこび」「かなしみ」という感情も封印して、抽象的なことばのリズムだけで描ききった方がアザミの「棘」のようなものが鮮烈に存在したかもしれない。
*
過去の今 池田清子
過去を捨てたことがある
自分を変えたかった
好きな俳優はと聞かれて
ポールニューマンと答えた
チャールトンヘストン だったのに
捨てても
同じ顔をし
同じ生活をしていた
なら
外には捨ててない?
自分の中に捨てた?
自分の中で
燃やした覚えはない
埋め立てた記憶もない
まだ あるってか?
取り出し 可能?
今の自分と合体させたら
どうなる?
強いぞ
「過去を捨てたい」とはだれもが思うことである。過去を捨てれば自由になれる。それこそ「自分を変える」ことができる。
二連目に具体的な「方法」が書かれている。いままでの自分を否定する。しかし、その否定は「うそをつく」ということ。しかし、それで過去が捨てられるのか。うそをつくということは、うそであると認識することであり、それは過去を認識することでもある。チャールトン・ヘストンが好きという自分を認識しないことには、ポール・ニューマンが好きといううそはつけない。過去を捨てるが、過去を忘れないにつながってしまうという矛盾が生まれる。
この「うそ」を「わざと」と言い換えると、青柳の詩についてふれたときの「現代詩の定義」につながるものが出てくる。
「わざと」言おうとしたことは、ほんとうはなんだったのか。
「過去を捨てる」と簡単に言うが、そのときほんとうは何が起きているのか。それを明らかにするためには「わざと」が必要なのだ。
いちばんおもしろいのは、
外には捨ててない?
自分の中に捨てた?
この二行だ。捨てる。どこに? 「外」は「自分の外」のこと。「自分の外」と「自分の中(内)」の二つが対比される。
対比させてわかることは、「外には捨てられない」ということだ。「外」では他人にみつかってしまう。「自分の内(中)」に捨てるしかない。しかし、それは「隠す」ということの言い直しにすぎないのではないか? 隠しているのなら、それは「捨てる」ではない。
矛盾である。「捨てる」ではなく「隠す」、つまり「持ち続ける」という対比がことばにならないまま提示される。
「外」と「内/中」の対立、「捨てる」と「隠す/持ち続ける」の対立。
そこからわかってくる「事実」というものがある。それは、ことばをつかって、「わざと」考えることによってわかってくるものである。
「捨てる」ことも「隠す」こともやめて、池田は考え始める。まだあるか、取り出せるか。その過去を今と合体できるか。もちろん、できるだ。それはいつでも「自分の中」にあるからだ。
過去を捨てるのではなく、取り出して「合体」させる。隠し持ち続けたものを顕在化させる。それは「受け入れる」ことだろう。自己を自己のまま「受け入れる」ことができるものは、いつでも、強い。
思考の動きが自然ですっきりとしている。思考にリズムがあり、それが加速していく感じがいい。
ただ、四連目の「廃棄物処分場」は、このことばだけが「抽象(思考)」になりきれずに、具体のまま動いている。そこがおもしろいといえばおもいしろいが、削除してもいいかもしれない。その方がすっきりすると思う。もちろん、すっきりしてしまって味気なくなるということもある。
青柳の詩ともつながるが、抽象と具体をどう向き合わせるか、というのはむずかしい課題だ。
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