詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(17)

2020-03-31 09:59:35 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
祭典

あなたがあなたであるよりも
時が時であるよりも
よりいつそうあなたになり ぼくになり 時になつたときに

 単なる「祭典」というよりも「祝祭」という感じだ。堅苦しさはない。
 「なる」という動詞の力だ。いまとは違うものになる。そのよろこび。それもただ違うものになるのではなく、そこには「融合」がある。「あなた」と「ぼく」と「時」が融合し、動いていく。
 そのとき「新世界」が生まれる。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?

2020-03-31 09:16:40 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?
       自民党憲法改正草案を読む/番外331(情報の読み方)

 きのうの小池会見から予想はついていたことだが。
 2020年03月31日の読売新聞(西部版・14版)の一面トップ。

五輪 来年7月23日開幕/パラ8月4日 IOC承認

 なぜ、いま五輪日程なのか、さっぱりわからない。終息のめどは立っているのか。
 二面の見出しと、記事の一部。

五輪 感染にらみ決断

「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる。その前に決める必要があった」。政府関係者は延期発表から6日後の日程決定について、こう説明した。

 「政府関係者」がだれのことかわからないが、政府がコロナ対策よりも五輪を優先していることがわかる。
 しかし、この「政府関係者」のことばをそのままつかって言えば、「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる」のである。それは「日程」が「来年7月23日開幕」と決まったところで同じだろう。五輪の準備をするよりも、コロナ感染を乗り切ることが優先するだろう。意味のない「日程決定」になってしまう。緊急事態宣言をしたらコロナウィルスが撤退してくれるわけではないのだから。
 これは逆なのだ。
 安倍は一刻も早く「非常事態宣言」を出したいのだ。それも、たぶんコロナ対策というよりは、「ぼくちゃんが首相、いちばん偉い」というために。「非常事態宣言」さえ出せば、何でも思いのまま。森友学園の再調査はしない。桜を見る会の追及はさせない。つれあいの花見を批判させない。そんなことを、しているときではない、と批判を弾圧する。
 でも、「非常事態宣言」を出してしまったら、「五輪をいつにするか」ということは言いにくくなる。「五輪どころではない」というのは五輪が開催できるかどうかということではなく、「首相の任期中に五輪を開きたい」と言いにくくなる。そんなことを言えば、また批判される。もちろん「非常事態宣言」を適用して批判封じはできるが、そういう面倒なことをせずに「五輪をいつにするか先に決めておけばいい」。それだけの論理で動いている。安倍の「ぼくちゃんがいちばん偉い」を満足させるためだけに政治が動いている。
 11面(国際面)には、

米死者10万人超えも 感染症権威

 という記事が載っている。この予測には「いつまで」ということが書いていない。来年の「7月23日」までなのかどうかわからない。
 安倍一派には、世界がどんな状況なのか、まったく理解できていないのだろう。気になるのは、安倍が五輪の会場で「ぼくちゃんが首相(だからいちばん偉い)」と言えるかどうかだけなのだ。
 この野望のために、国民の命が危険にさらされる。
 日程が再設定された以上、これからも新型コロナ感染者の患者数は抑制した形で発表され続けるだろう。「被害は深刻ではない」が装われるのだ。そして、「新型コロナはやがておさまる。成り行きに任せておこう。それよりも、さあ、五輪の準備をしよう」と五輪に向けて働かされるのだ。
 このコロナ隠し(目そらし)は、志村けんの死亡記事からもうかがえる。

志村けんさん死去/ドリフ 新型コロナ闘病中/70歳

 どこにも「間違い」はない。そのとおりのことを書いているが、私は違和感を覚えるのだ。なぜ「新型コロナ感染」ではないのか。なぜ「感染」ということばを避けたのか。「闘病中」と表現してしまうと、なんだか志村個人の問題のように見えてしまう。たとえば「がん闘病中」だと、病気が(死因が)個人の「肉体」に限定される。でも「感染」だと、それが他人に広がっていく「恐怖心」のようなものがある。死んだ人なのだから、そういう「恐怖心」を引き起こすようなことを書いてはいけないという配慮なのかもしれないが、奇妙に感じた。死因も「新型肺炎」とは書かずに「肺炎」とだけ書いてある。
 一方、35面(社会面)には、

遺体対面できず/兄沈痛

 という記事がある。「感染」の危険があるから、遺族でさえ遺体に対面できない。それが新型コロナが原因で死んでいった人と家族の「現実」なのである。「遺体は病院から直接火葬場に送られる予定」ともある。「闘病中」では、こういう悲劇が伝わりにくい。
 こういう「表現」のなかにも、私は安倍の「圧力」を感じる。新型コロナは危険だ、周囲の人への悲劇を招く、という印象が「伝わりにくい」にようにことばが選ばれている。
 安倍の一連の政策について私は何度も「沈黙強要作戦」と批判してきたが、ここにもその「影響」を見ることができる。すべての人間が「沈黙」させられる。志村けんは、安倍のコロナ対策、初動がきちんとしていたら、もしかしたら感染することはなかったかもしれない。政府の「後手後手」の対策が招いた悲劇かもしれない。そういうことが「コロナ闘病中」ということばによって隠されるのである。「闘病」は基本的に個人でおこなうことだが、「感染」は個人の問題ではない。別の人間がいて「感染」が起きるのである。言い直すと、それは「防止」ができるはずのものなのだ。政府が(安倍が)どんな「防止策」をとってきたか。それを追及する意識があるなら、絶対に「新型コロナ感染」という表現にすべきなのだ。「闘病中」では政府の失政が明確にならない。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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小池会見、変だなあ。

2020-03-30 22:12:12 | 自民党憲法改正草案を読む
小池会見、変だなあ。(フェイスブックからの転写)

緊急会見というけれど、どこが「緊急」なんだろうか。

夜間営業の店でクラスターが発生する可能性があるから、夜間の行動を自粛するように、ということが目的だとすると、別に8時からでなくてもよさそうだし、30分も遅れた理由もわからない。

具体的に何人が夜間営業の店に関係しているという数字もなかった。
さらに「夜間の外出自粛」なら、すでに読売新聞の夕刊(西部版・4版)に「夜間外出を自粛するよう、都民に要請している」と書いてある。
なぜ、わざわざ?

簡単に考えると、会見内容(発表内容)で調整していたのだと思う。

さらに奇妙なのは、小池が途中で東京五輪の日程について語ったことだ。

私の感覚では、いまは、そういうことを語る時期ではないと思う。特にいま言う必要もない。

これは逆に言うと、東京五輪の日程を語ることで、話題を少しごまかそうとしたのではないか、ということ。

記者も、まさか五輪の話が出ると思っていなかったからなのか、どうして五輪の話をするのかという質問もなかった。(と、思う。ちょっとゴミだしへ行っていたので、完全に聞いたわけではない。)

いったい、何を隠しているのかなあ。

五輪の話をするとき、安倍の名前が出てこなかったけれど、それもどうしなのかなあ。

安倍とどういう話をして、今回の会見になったのか。

そこに「秘密」がありそうだ。

*

小池会見の怪(その2)

ポイントは
①会見が予告の8時ではなく、大幅に遅れた
②きょうの感染者増加(13人だったっけ?)が少なかった
③少なかった理由を、昨日が日曜で検査件数が少なかったと語ったこと。

これは、きょう(月曜の検査数)が大幅に増えて、きっと明日の感染者数が急増することを意味する。
さらに、それを「暗示」するかのように、今後は「定時発表」に切り換えるといったこと。

ここから推測するに。
小池は、「東京封鎖」まで踏み込んだ発言をしたかった。
あす、感染者が急増するのがわかっているから。
しかし、事前に安倍と打ち合わせをしたとき、安倍が「それはまずい。数字が少なくなっている段階で、そういうことをしたらこれまで感染者数を政府がおさえてきたことがばれてしまう」と押しとどめたのだ。
さらに「緊急事態宣言」を出すなら、それは安倍の仕事であって、都知事の仕事ではない、と主張したのだろう。

その「余韻」のようなものがあって、小池は、最初、五輪の日程を言いそびれた。(安倍の馬鹿野郎、と思っていたのかもしれない。)
で、いったん自分の発言が終わって、他の人のことばを聞いている内に「五輪」を思い出して、追加したのだ。

それにしても、「緊急事態宣言」をどうしようかと苦悩しているときに、1年先の五輪の日程なんて、都民をばかにしている。

あした発表になる東京都内の感染者数は、きっと100人を超えるだろう。
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「医療崩壊」ということばのうさんくささ

2020-03-30 16:29:43 | 自民党憲法改正草案を読む
「医療崩壊」ということばのうさんくささ
       自民党憲法改正草案を読む/番外330(情報の読み方)

「緊急事態宣言を出してほしい」日本医師会が会見、医療崩壊に危機感
「緊急事態宣言を出していただき、それに基づいて対応する時期ではないか」と提案。

 というニュースをネットで読んだ。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e817d91c5b66149226a148e?ncid=other_facebook_eucluwzme5k&utm_campaign=share_facebook&fbclid=IwAR1jn_ZsqdxswyPIZ3R2ISZOd4ssh6Lcfkx1eU9Pq7hkHMNw02wGZ0X8yfE)
 新型コロナウィルスが拡大すると同時に、「医療崩壊」ということばがあふれるようになった。
 患者が殺到すると「医療の現場が崩壊する。適正な診療ができなくなる」ことを指して言うらしい。
 私はこのことばを聞くたびに怒りが込み上げる。

 おかしいだろう。
 国民の健康が「崩壊」している。「健康崩壊」が起きている。だから、国民は医療に頼る。健康を取り戻したいと願う。国民の健康を守るために医療があるのであって、金稼ぎのために医療があるのではないだろう。
 もちろん医療をとおして金を稼ぐなとはいわない。
 しかし「医療崩壊」が起きて、金を稼げなくなるから、患者に医療機関に押しかけるなというのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。
 「医療崩壊」が起きるのは、患者が医療機関に押しかけるからではない。
 患者が押しかけることが予想されるのに、その準備をとらないからだ。
 新型コロナウィルスの場合、中国で感染が拡大した、武漢が都市閉鎖をしたという段階で、日本でも同じことが起きうるということは想像できた。想像できた段階で、病院を増設しろ(隔離病床を確保しろ)、人工呼吸器を増設しろ、新型コロナ感染者とその他の患者を分離するシステムを作れ、というような要求を医療機関はすべきだし、国はそういう指示を各自治体に出すと同時に、そのための支援をすべきだろう。

 いったい国と、医療機関は何をしていたのか。新型コロナウィルスの危険性が大々的に言われるようになったのは1月下旬だ。それから2か月もたっている。その間、国と医療機関は何をしたのか。

 患者が増えそうだ、「緊急事態宣言」が必要だ。「医療崩壊」を防げ、というのはあまりにも国民の「健康崩壊」を無視している。

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延期は金がかかる

2020-03-30 10:08:16 | 自民党憲法改正草案を読む
延期は金がかかる
       自民党憲法改正草案を読む/番外329(情報の読み方)

 2020年03月30日の読売新聞(西部版・14版)の3面(13S版)。

五輪延期 負担駆け引き/会場や人件費増大 数千億円?

 という見出しがでかでかと出ている。
 この時期に、まだ五輪のことを言う。しかも、問題にしているのは「金」だ。
 延期などするから金がかかるのだ。やめてしまえば、もう金はかからない。投資した金が無駄になるというのかもしれないが、つくった施設はつかえるだろう。整備した道路は役に立つだろう。選手村だって分譲住宅として売れるだろう。無駄ではなく、ちゃんと「利益」を生み出している。どうして、その「利益」を計算してみないのか。「利益」があるなら、もう充分ではないか。
 延期すれば、延期期間に金がかかるのは当然のことである。延期しておいて、延期に金がかかる、というのでは話にならない。これから「駆け引き」するのではなく、最初にだれが負担するか決めてから「延期」するかどうか決めないといけない。手順が逆だ。
 だいたい「いつ」開催できるのか。
 新型コロナは「1年」で終息するのか。
 その問題が先だろう。

 延期すれば金がかかる。
 これは五輪だけではない。新型コロナ対策もそうだ。
 クルーズ船が入港したとき、きちんと全員を検査し、その過程で検査体制を確立しておけば、いまごろあわてなくてすんだのだ。世界に対しても新型コロナの危険性を周知させることができ、いまのような混乱を招かなかったかもしれない。
 やれることはすぐにやる、やめるとなったらすぐにやめる。
 クルーズ船のとき、すぐに全員検査をし、隔離のための病院を建設し、感染者を隔離し、人工呼吸器もそろえ、治療に対応していたら、新型コロナはそこで終わっていたかもしれない。試行錯誤がつづいたにしろ、何が必要かもその段階でわかり、知識として共有できたはずだ。
 それをしないで、いまごろになって、

人工呼吸器 増産要請へ/政府 重症者急増に備え(1面の見出し)

 というようなことをやっている。
 なぜいままで「増産要請」を「延期」していたのか。
 クルーズ船のとき、すでに「検査を多くすれば医療崩壊が起きるかもしれない」と言われていた。そのとき「医療崩壊」が起きないように、隔離病棟を増やす、病床を増やす、人工呼吸器を増産するということをしておけばよかったのである。クルーズ船以外にも、韓国で集団感染が起きたとき、イタリア、イランで集団感染が発覚したとき、さらにはそれが拡大しEU全体にひろがり、アメリカにもひろがり、とつづいた。
 「準備する/準備に着手する」機会はいくらでもあった。それをなぜ、いままで「延期」していたのか。
 これがさっぱりわからない。
 どんな病気でも、初期に発見し、治療を開始し、重症化しないようにするのが基本だろう。なぜ「治療開始延期策」をとりつづけたのか。「延期」すればするほど、治療開始を遅らせれば遅らせるほど、治療がむずかしくなり、金がかかるようになる。こんなことは、だれにでも予想がつくことだろう。医療の場合、延期は、そのツケがどっと、突然やってくる。

 なんでも「延期」がいちばんむずかしいのだ。そして、「延期」には五輪と同じように金がかかる。しかし、医療の場合、その「金」の動きが五輪ほど明確にはみえない。むしろ、医療開始がはじまるまでは出費がないから「節約」できていると錯覚してしまう。ここに問題がある。
 隔離病棟を造る(隔離ベッドを用意する)、人工呼吸器を用意する。そういう「準備」を「延期」期間にすると、それは「余分な出費」に見えるかもしれないが、実際に拡大が現実になったとき、すぐにつかえるという効果がある。病気が拡大しなかったら無駄になる、と考えるのかもしれないが、そういう無駄は必要な無駄だ。隔離病棟は一般病棟に転用できるし、人工呼吸器が日本で浮遊でも、他の国に提供することができる。

人工呼吸器 増産要請へ/政府 重症者急増に備え

 に対して腹を立てる必要はないが、

五輪延期 負担駆け引き/会場や人件費増大 数千億円?

 とあわせて読むと、腹が立ってくるのである。五輪を中止してしまえば、その「数千億円」を、新型コロナ対策に回せるのではないか。安倍が「ぼくちゃんがいちばん偉い」といいたいがための五輪なんかやめて、コロナ対策に金をつぎ込むときだろう。五輪を中止して(返上して)、そのために予定していた予算を全部新型コロナ対策に回すと安倍が言えば、それこそ「あべちゃん偉い、国民の命をいちばんに考えるひとこそ首相と呼べる」と評価されるだろう。
 私は安倍はまったく評価しないが、それでも、そういうことは言っておきたい。
 安倍が評価されようが評価されまいが、そんなことは人間の命、国民の命にとってはどうでもいい。人間が生き残ることがいちばん大切なのだ。













#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(16)

2020-03-30 09:19:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

目覚め

わたしも舌の上に立ちつくして
ひどく疲れたから
転り落ちたい

 「舌の上に立ちつくす」とは、語りつづけること。そのことを「疲れた」と嵯峨は書き、さらに「転り落ちたい」とつづける。どこへ? 地上へ、ではない。

咽喉のように
そのまま真直ぐに姿を消したい

 自分の肉体のなかに「消える」。ことばを飲むのだ。でも、これは「目覚め」ではなく、眠りだろう。
 目覚めは眠りのあとにしかやってこないことを嵯峨は自覚している。



*

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青柳俊哉「アザミ塔」、池田清子「過去の今」

2020-03-29 22:36:27 | 現代詩講座
青柳俊哉「アザミ塔」、池田清子「過去の今」( 朝日カルチャー講座・福岡、2020年03月16日)

アザミ塔 青柳俊哉 

(風景のはりつめた)
(うすい膜のひずみから)
(生成しきえていく)
(雲や水のうつろいのように)
(みじかい光の振幅にうまれ) 
(背後にみちている無辺( むへん) の母性にたえ)  
(光へかえっていく)
(水辺の塔)

春の野辺に立つアザミの花
ひそかな小川の土手のうえから
石のような目で 雨にぬれる水のながれと
生物のささやく世界をみつめている
よろこびも かなしみもなく
よろこびも かなしみも深く沈潜し
果てのない空に映る野辺のすべてを
棘( とげ) のような花弁に結実して
光の中へきえていく
アザミ塔

 「アザミ塔」ということばへの疑問が出た。なぜアザミの花ではないのか。あるいはアザミではないのか。
 現代詩は「わざと」書くものだと西脇順三郎はいった。「わざと」が文学。「わざと」塔という比喩をつかう。アザミは塔ではない。だが塔と呼ぶ。その瞬間に動き始める精神・意識というものがある。
 この詩は二連で構成されている。
 一連目は抽象的だ。(水辺の塔)の「塔」のことばが二連目で「アザミ塔」と繰り返されなかったら、建物の塔であったかもしれない。
 では、「塔」とは何なのか。
 アザミを描写しているというよりも、アザミを借りて「塔」を想起している。その想起されているものが、青柳の書きたかったことだろう。
 「はりつめた」ということばが最初に選ばれている。緊張を引き起こすものとして「塔」がある。その緊張は「生成しきえていく」という矛盾といっしょにある。不安定なのだ。不安定は「うつろい」と言い直される。しかし、不安定であるけれど、その基本は「消えていく」ではなく「うまれ(る)」にある。「母性」のような力、「うむ」力が基本にあり、それは「うまれる」ことで「かえっていく」。光へ。そういう運動が「塔」の内部を支えている。塔のなかには生成の運動があり、それが緊張感を引き起こしている。
 これを「具象」をとおして語りなおしたのが二連目になる。
 「母性」は「結実」ということばで言い直されている。「無辺」は「果てのない」と言い直されている。ふりそそぐ春の光のなかへ生まれ、そのふりそそぐ光の一点、太陽へかえっていく(太陽を目指して成長していく)、塔のような花、アザミ。
 だが、青柳は、あくまでアザミではなく、アザミの誕生、成長を「運動」を描こうとしている。「塔」の運動として描こうとしている。
 私は塔の内部と読んできたが、塔をつくる作業と読むのもおもしろいかと思う。

 二連目は消してしまって、一連目だけにしてしまうのもおもしろいかもしれない。精神・意識の運動を「野辺」「小川」「石」「水」を排除したまま、さらに「よろこび」「かなしみ」という感情も封印して、抽象的なことばのリズムだけで描ききった方がアザミの「棘」のようなものが鮮烈に存在したかもしれない。



過去の今        池田清子

過去を捨てたことがある
自分を変えたかった

好きな俳優はと聞かれて
ポールニューマンと答えた
チャールトンヘストン だったのに

捨てても
同じ顔をし
同じ生活をしていた
なら
外には捨ててない?
自分の中に捨てた?

自分の中で
燃やした覚えはない
埋め立てた記憶もない

まだ あるってか?
取り出し 可能?

今の自分と合体させたら
どうなる?

強いぞ

 「過去を捨てたい」とはだれもが思うことである。過去を捨てれば自由になれる。それこそ「自分を変える」ことができる。
 二連目に具体的な「方法」が書かれている。いままでの自分を否定する。しかし、その否定は「うそをつく」ということ。しかし、それで過去が捨てられるのか。うそをつくということは、うそであると認識することであり、それは過去を認識することでもある。チャールトン・ヘストンが好きという自分を認識しないことには、ポール・ニューマンが好きといううそはつけない。過去を捨てるが、過去を忘れないにつながってしまうという矛盾が生まれる。
 この「うそ」を「わざと」と言い換えると、青柳の詩についてふれたときの「現代詩の定義」につながるものが出てくる。
 「わざと」言おうとしたことは、ほんとうはなんだったのか。
 「過去を捨てる」と簡単に言うが、そのときほんとうは何が起きているのか。それを明らかにするためには「わざと」が必要なのだ。
 いちばんおもしろいのは、

外には捨ててない?
自分の中に捨てた?

 この二行だ。捨てる。どこに? 「外」は「自分の外」のこと。「自分の外」と「自分の中(内)」の二つが対比される。
 対比させてわかることは、「外には捨てられない」ということだ。「外」では他人にみつかってしまう。「自分の内(中)」に捨てるしかない。しかし、それは「隠す」ということの言い直しにすぎないのではないか? 隠しているのなら、それは「捨てる」ではない。
 矛盾である。「捨てる」ではなく「隠す」、つまり「持ち続ける」という対比がことばにならないまま提示される。
 「外」と「内/中」の対立、「捨てる」と「隠す/持ち続ける」の対立。
 そこからわかってくる「事実」というものがある。それは、ことばをつかって、「わざと」考えることによってわかってくるものである。
 「捨てる」ことも「隠す」こともやめて、池田は考え始める。まだあるか、取り出せるか。その過去を今と合体できるか。もちろん、できるだ。それはいつでも「自分の中」にあるからだ。
 過去を捨てるのではなく、取り出して「合体」させる。隠し持ち続けたものを顕在化させる。それは「受け入れる」ことだろう。自己を自己のまま「受け入れる」ことができるものは、いつでも、強い。
 思考の動きが自然ですっきりとしている。思考にリズムがあり、それが加速していく感じがいい。
 ただ、四連目の「廃棄物処分場」は、このことばだけが「抽象(思考)」になりきれずに、具体のまま動いている。そこがおもしろいといえばおもいしろいが、削除してもいいかもしれない。その方がすっきりすると思う。もちろん、すっきりしてしまって味気なくなるということもある。

 青柳の詩ともつながるが、抽象と具体をどう向き合わせるか、というのはむずかしい課題だ。



 




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(15)

2020-03-29 19:02:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

こころ

心はどこにいても自由だ

 これは、多くのひとが言うことである。こころは何にも縛られない。いつでも自由だ。嵯峨も、そう書き始めるのだが。

それでも心はどうしてぼくに止まるのか
そのしずかな場所はどこだ

 こころはどうしてぼくのところにやってくるのか。自由なのに、どこかへ行ってしまわないのか。「止まるのか」はそういう問いかけだろう。では、そのあとの「しずかな場所」とは何だろうか。
 嵯峨の(ぼくの)なかの「場所」を指しているのか。「こころ」自身の「場所」を指しているのか。「しずかな」は「状態」をあらわしている。嵯峨は「しずかな」という状態へ「ぼく」と「こころ」を統一したいと願っているのか。


*

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医療における隠れた問題点

2020-03-29 18:45:25 | 自民党憲法改正草案を読む
新型コロナウィルスについては様々な意見がある。医療現場でも意見が異なっている。大別して、
①検査を多く実施して早く感染者を見つけ隔離治療する。
②検査の精度は高くない。医療崩壊を招く多数の検査は避けて、医師が必要と判断したひとだけを検査する。
いま、治療を受けていないひとは①②のどちらをも主張できる。
しかし、もしいま治療を受けているなら、問題は少し複雑になる。
主治医が①を主張していたとき、患者は②を主張できるか。
主治医が②を主張していたとき、患者は①を主張できるか。
もちろん「意見」はそれぞれ自由である。どんな「意見」をいうこともできる、
はずである。

ところが現実に即して言うと、これは簡単ではない。
主治医が①を主張しているとき、あえて②を主張する患者がいるだろうか。
主治医が②を主張しているとき、あえて①を主張する患者がいるだろうか。
つまり、主治医と違った意見を主張する患者がいるだろうか。
きっといない。
反対の意見を言ったとき、その後も親身に治療を受けられるかどうかを患者は心配する。
患者というのは主治医に命を預けている。
いわば命を握られている。
どうしたって主治医の言うことに従うのである。

ここからどういう問題が起きるか。
①を主張する主治医のもとでは、患者は①を言う。
②を主張する主治医のもとでは、患者は②を言う。
言い換えると、主治医は反対意見に直面する機会が少ないのである。生の声として、反対意見を聞く機会が少ないのである。
患者はみんな「先生のおっしゃる通りです」という。
(批判するとしたら、患者が死んだとき、その遺族が批判するくらいである。)
「先生」は批判には慣れていない。
「先生」にはいつも一定数の支持者がいる。
だから「先生」は自説を変えることなく、絶対的に正しいと主張することができる。
その結果、実際的な「対話」(社会的調整)というものができにくくなる。

これは、いまの日本の新型コロナウィルスのいちばんの問題点だと思う。

私はあるひとと「対話」した。そのひとが「医師」とは知らず、批判した。すると、とたんに「患者さん」から「〇〇先生は立派な医者です。先生の意見が正しいです」という批判が返ってきた。もちろんそれはそれでいいことなのだが(医師が信頼されているのはいいことだが)、患者が医師を意見を支持しているからといって、その意見が絶対的であるという「証明」にはならない、ということを考えてみなければならない。

私は私の意見が正しいというのではない。
自分の考えを支持してくれるひとがまわりにいるからというだけで、自分の考えが絶対的だと考えるのは危険だといいたい。
特に、まだ不明なことが多いものについては、常にいろいろな意見の「妥当性」を考えてみないといけないのではないか。

いま書いた医療の問題を、安倍に結びつけて考え直すと、ほかのことも見えてくる。
安倍の周囲の人間(お友達とお友達未満を含む)は、安倍の言う通りにする。そうすると自分に「利益」が帰ってくるからである。
患者が主治医を批判しないのと同じである。
批判すれば、自分の「利益」の保障がないと考えるからである。
「先生」と呼ばれる人間は、たいてい、そういう「利害関係」を生きている。「先生」のまわりには、「先生」を批判するひとはいない。
学校も似ているだろう。
「先生」を批判する生徒は少ない。出題された問題を批判することはできない。問題にあわせた「答え」以外は許されない。これは、ある意味では仕方がないことだが、それがつづけられると、「先生の期待する答え」にあわせて思考し始めるということが起きる。教育のいちばんの仕事は「批判力」(自分で考える)を育てることだが、逆に「順応力」(他人にあわせる)だけを育てることになってしまう。
日本では「先生」ということばが、あまりにも振って歩きすぎているかもしれない。
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まだ五輪? もう五輪?

2020-03-29 10:29:24 | 自民党憲法改正草案を読む
まだ五輪? もう五輪?
       自民党憲法改正草案を読む/番外328(情報の読み方)

 2020年03月29日の読売新聞(西部版・14版)の1面(社会面)。

五輪 来年7月開幕案/組織委 23日開会式 有力

 という3段見出し。
 ご丁寧に、「裏付け」として、こんなことを書いている。

近年の大会は金曜日開幕となっているケースが多く、今年7月24日開幕の当初計画に近い金曜日として、来年7月23日の開会式が有力となっている。

 まだ五輪のことを言っているのか、もう五輪のことを言っているのか、どう言っていいかわからないが、いま考えるべきことは五輪ではないだろう。
 だいたい「近年の大会は金曜日開幕となっているケースが多く」というよりも、「延期」の「1年以内」を適用すれば、(「1年以内」を最大限に伸ばせば)、「7月23日」になるというだけのことだ。
 それは、つまり、組織委では、今回のコロナウィルス問題が、どんなにがんばってみても「1年」はかかるとみていることだ。
 参加する選手の準備もあれば、そのほかのもろもろの準備もある。ほかの日にちを想定して、いくつものパターンを設定できない。だから「1年延期」の意味は、「来年7月23日開幕」が期限と言ってみただけのことである。
 こんなことは「組織委」に言われなくても、だれでも想像できることである。

 そうであるなら。
 なぜ、いま、このニュースなのかということを考えないといけない。
 この日のニュースは、

千葉の施設 58人感染/東京63人 全国新たに200人超

 であり、安倍が記者会見したということだ。安倍の記者会見には、何も新しいものはない。「経済対策は過去最大に」と言っているが、具体的には数字を示していない。リーマンショック時の数字を引き合いにだし、それを「上回る」と言っているだけだ。どれだけ上回るのか語っていない。
 会見のポイントとして、読売新聞は、

緊急事態宣言を出す状況にはないが、ぎりぎり持ちこたえる瀬戸際の状況

 と要約している。
 緊急事態宣言をしたくてたまらないのだろう。緊急事態宣言をしてしまえば、国会も記者会見も関係ない。経済対策がいくらか、休校問題をどうするか、マスクをどうするか、すべては安倍が思うがまま。批判は受け付けない。安倍がしたいことからやっていくだけ。その安倍がいちばんしたいことは、オリンピックで「ぼくちゃんが首相、いちばんえらいんだ」と世界にアピールすること。
 そういう視点から見ていくと、読売新聞が

五輪 来年7月開幕案

 と大々的に書いているのは、ある意味ではおもしろい。
 安倍が考えていることが、実によく分かる。五輪しか、考えていない。新型コロナで苦しむひとが何人出てくるか、何人死ぬか、いっさい気にしていない。気にしているのは、もし、感染者が増えたら、感染がおさまらなかったら、五輪が開けなくなるのではないか、そのことだけだ。
 少し考えてみればいい。組織委の森は「来週中には何らかの結論を出したい」と語ったようだが、その組織委の提案を審議し、判断するだけの材料をIOCが持っているわけがない。新型コロナウィルスは拡大しつづけている。ピークを過ぎて終息が予測できる段階にはなっていない。そんな提案を「来週中」にすれば、開催の根拠(新型コロナ感染が終息するという根拠)を求められ、何も答えられないという事態になるだけである。
 そうやって、日本は信頼を失っていくのだ。
 こんなどうでもいいスケジュールを決めるなら、

①感染者が何人になったら東京を都市閉鎖する(あるいは、ある自治体を閉鎖する)
②何人の場合は何週間
③都市閉鎖をしている間も感染者が増え続けるなら、何週間延期する
④閉鎖自治体が何都道府県になったら、全国を封鎖する

 というようなスケジュールだろう。
 そういうことを先に発表すると、「非常事態宣言」の先取りとして批判されることを心配しているのかもしれないが、「発令」の基準を知らされず、「いま発令したくなったから発令する」というのでは困るのだ。きっと「うちの会社ではまだ準備が整っていない」と安倍を支える企業が言えば発令を延ばし、準備が整えばすぐに発令するというのが安倍のやり方だからである。
 国民を考えない。自分の利益だけを考える。そういう人間が、「非常事態宣言」をだしたくてうずうずしている。そして、その「うずうず」を隠すために「五輪日程」などを全面に出している。日本はまだまだ危険な状態ではない。五輪について考えることができるくらい安全なのだとPRしている。











#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(14)

2020-03-28 22:01:53 | 詩集

包丁

わたしの懊悩は
よく切れる一丁の 刃の薄い包丁を いま持つていないことだ

 強調の仕方が、粘っこい。「一丁」「刃の薄い」「いま」。一行の中にことばが積み重ねられている。そのために、いちばん大事な「包丁」が見えにくくなっている。
 この印象は詩を読み進むと、さらに強くなる。
 嵯峨は「包丁」を書きたいわけではない。「包丁」にこだわる嵯峨自身を書きたいのだ。しかも、その目的が、

さいごに 雲母の羽のように わたしは透明になるだろう

 というのだから、とても矛盾している。
 昨日読んだ「水に消える」の「消える」と、この詩の「透明」は同じものだが、それよりも昨日の「ぼく」とこの詩の「わたし」が同じなのだ。
 「自己」の書き方が同じなのだ。


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(13)

2020-03-27 20:11:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

水に消える

ぼくの中に踏み込んでくるぼくを
ぼく自身が阻んでいる

 ふたりの「ぼく」。ふたり以上いるかもしれない。少なくとも観察するぼく、というものもいるだろう。
 「水に消える」のはどちらか。観察するぼく、あるいは、ことばを書いているぼくは消えないと言えるか。

 「ぼく自身」ということばが出てくる。「自身」はいわば強調だが、強調とはそもそも何だろうか。「自身」とはどこに存在するものだろうか。

 こういうことは、考えると味気ない。つまらない。たぶん、だれもが一度は考える「考え方の定型」というものがあって、それがどうしてもあらわれてきてしまうからだろう。

*

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新型コロナ情報の、ここが気になる。

2020-03-27 14:09:45 | 自民党憲法改正草案を読む
新型コロナ情報の、ここが気になる。
       自民党憲法改正草案を読む/番外327(情報の読み方)

 2020年03月27日の読売新聞(西部版・14版)の28面(社会面)。新型コロナウィルスの記事に、こんな見出し。

阪神・藤波投手陽性 プロ野球選手初

 その記事のなかに、こういうくだり。

藤波投手は数日前から「においを感じない」と嗅覚の異常を訴え、医師からPCR検査をすすめられた。嗅覚異常は感染者の一部に見られる症状だが、藤波投手はせきや発熱などは訴えていないという。

 「嗅覚異常」についてはすでに報道されている。しかし、こんかいの報道でも「嗅覚異常」以外のことは書いていない。
 「嗅覚異常」って、どういうこと?
 それは「鼻(鼻の粘膜)」の異常? それとも脳の異常?
 鼻の粘膜はふつう(たとえば鼻づまりを起こしていない)だけれど、脳が反応しなくなっているということ?
 ほかの病気がどうかはしらないが、脳の異常につながるなら、問題は大きいのではないだろうか。
 たまたま嗅覚が問題になっているけれど、もっとわかりにくいところがウィルスによって異常をおこしているかもしれない。
 病状というのは、ひとによってあらわれ方が違うだろうから、「全体像」がわかりにくい。
 記事には、こんなくだりもある。

球団が他の選手らに聞き取りをしたところ、選手2人から味覚に異常があるとの申し出があったという。

 その2人は検査を受けたのか。検査結果はどうだったのか。それは書いていない。
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五輪延期決定のうさんくささ

2020-03-27 09:31:38 | 自民党憲法改正草案を読む
五輪延期決定のうさんくささ
       自民党憲法改正草案を読む/番外326(情報の読み方)

 2020年03月27日の読売新聞(西部版・14版)の1面。新型コロナウィルス関係の記事がトップ。その見出し。

政府対策本部を設置/方針案 外出自粛21日程度

 前文には「外出自粛」を「緊急事態宣言の際、外出自粛などの期間を21日程度とする見通しだ」とある。見出しには「緊急事態宣言」ということばがない。見出しに補えば、

政府対策本部を設置/緊急事態宣言を検討/外出自粛は21日程度

 ということになる。「方針案」のなかに「緊急事態宣言」が隠されている。安倍の「隠蔽工作」に沿った見出しだと言える。(安倍は、早く「非常事態宣言」を出して、「ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだ」と言いたくてうずうずしている。)
 ここからこのニュースを考えていく。つまり、何が隠されているか。そうすると見えてくるのが「21日」という数字である。21日の根拠については、記事にはこう書いてある。

新型コロナウィルスの潜伏期間(1~14日)を踏まえた健康観察期間(14日)と、感染から報告までの平均器官(7日)に基づいている。

 つまり14日+7日=21日、これだけみておけば感染拡大の「効果」がある、ということだろう。
 しかし、ほんとうか。
 まだ「21日」で「終息」したと言える国(都市)はないのではないのか。韓国は爆発的な拡大を何とかおさえきったという印象があるが、まだまだわからない。中国も新たな感染者は外国からの渡航者だけということだが、実態は、不透明な感じがする。「21日」をはるかに上回る都市閉鎖をした武漢そのものが完全に安全地帯になったとはいえない。
 「21日」は単なる「机上の希望」である。

 ここから、わたしはまた別のことを「妄想」する。これが、私がきょう書きたいこと。

 東京五輪の開催をどうするか。延期が発表される寸前のニュースでは「4週間かけて結論を出す」ということだったが、実際は「2日後」に安倍とIOC会長が電話会談し「延期」という「決定」が出た。
 4週間は28日、21日は、この4週間のなかにおさまってしまう。ここに、何かの「秘密(隠し事)」があると私は考えるのである。
 一面には「政府方針」とは別に、小池の方針が載っている。

首都県知事 外出自粛を要請

 この「自粛期間」はあいまいだが、もしそれを引き継いで安倍が「緊急事態宣言」をしたら「21日の外出自粛」になる。そして、その「緊急事態宣言」があすだと仮定してみる。さらに「21日後」を思い描いてみる。新型コロナウィルスがほんとうにおさまっているか。そんなはずはないだろう。外国の例を見ていると、どうしてもそう思ってしまう。
 そこで、である。
 もし、「いま」爆発的感染拡大が明るみに出て、それから「21日間外出自粛」をして、そのとき新型コロナウィルスがおさまる気配がみえなかったとしたら、つまり「五輪開催に関する決定の締め切り(4週間)」のとき日本が新型コロナで対応に追われっぱなしの状態だったらどうなるか。
 そんな様子を見れば「五輪延期(延期は1年)」というような「のんびり」した結論は出せないだろう。安倍は、そう考えて「先手」を打ったのだ。(きっと、今井かだれかの入れ知恵だと思うが。)
 この「背景」には4週間後には日本のコロナウィルス感染は急拡大しているという「予測」があったのだろう。それは大阪府知事が「3連休、大阪と兵庫の行き来自粛」を打ち出したことでも明らかである。国民には知らされていない「予測」が政府や都道府県の行政のトップには知らされている。それを見る限りでは「4週間」待っていたら、とても「五輪延期」という結論にはなりようがないとわかったから、大急ぎで安倍がIOCと交渉したのだ。なんとしても安倍が首相の間に五輪を開催するためには、そう働きかけるしかなかったのだ。
 ことしの夏に開けば混乱する(選手が感染する恐れがある)、ということを心配しての判断ではない。あくまで、安倍が五輪開催時に首相でいたいという欲望のためなのだ。
 17面には、渡辺守成IOC委員の「バッハ会長 瀬戸際の決断」というインタビュー記事が載っている。バッハ自身が語っているのではなく、バッハの心情を渡辺が推測するという「えっ、何これ? 完全な創作じゃないか」と笑いだしてしまう内容のものなのだが、こんなうさんくさい記事しかかけないのは、やっぱり「隠し事」があるからだろう。
 安倍が4週間待っていられない理由があり、バッハが安倍の提案を受け入れた際の「隠し事」がきっとあるのだ。このときの「隠し事」とは、もちろんわいろである。私の書いていることは、もちろん「妄想」であり、「裏付ける証拠」は何一つない。
 だが、どうしても、私はそう考えてしまう。金さえばらまけば、他人は納得する(受け入れる)という人間観は、肉や魚の購入券(?)をばらまくことで、国民の批判をかわそうとしているいまの政治のあり方にもあらわれている。
 それにしても、バッハもバッハである。世界中で感染が拡大しているときに、たかが「4週間」も待つことができない(思考し続けることができない)とはどういうことだろうか。バッハ自身が「金まみれ」で、支払われる金によって「判断」を決めるということか。オリンピックが「金まみれ」であることが、こういうことからもわかる。(もちろん、これも妄想です。証拠はありません。)

 そして、おそろしいことに。
 「五輪延期」が決まったいま、安倍は今度は「五輪を成功させるために、新型コロナウィルスを制圧する必要がある。そのためには、緊急事態宣言をして、国民を家のなかに閉じこめる必要がある」と言い出すのだ。
 五輪を掲げて、非常事態宣言をする。五輪を利用して非常事態宣言をする。「ぼくちゃん首相、ぼくちゃんがいちばん偉い」をいうために、五輪を利用する。
 五輪延期は、安倍にとっては「一石二鳥」なのである。安倍の欲望を完全にかなえるのである。新型コロナが拡大しなかったら、五輪は開催できたかもしれないが、非常事態宣言は発動できない。でも、いまなら、非常事態宣言を発動し、そのあと五輪も開催できる。安倍は、そう考えているのだ。(安倍の側近の今井も、きっと。ふたりして、「わくちゃんたち、頭がいい」と自画自賛しているに違いない。)
 こんな安倍の都合、安倍の欲望のための五輪は、その「結末」が見えている。何も成功しない。だいたい「来年の夏までに」東京五輪が開けるという、「健康上の保障」は何一つない。ワクチンが開発されたとさえ聞かない。有効薬にしてもいくつかが「効果がある」と推定されているだけで明確にはなっていない。いま代表に決定している選手が感染し、出場できなくなるということもありうる。「いつ」ということも決まっていないのに、それにむけて準備をしていくというのはあまりにも愚かなことである。
 「延期」のはずが間に合わす、「再延期」にするのか、「中止」にするのか、また大もめが起きる。安倍の「ぼくちゃん偉い」にひっぱり回されるのは日本人だけではなく、世界中にその被害が広がる。

 「1年延期」は、新型コロナウィルスは「1年以内に終息する」という何の根拠もない「予測」を世界にまきちらす。そしてそれはクルーズ船の初動ミスが「新型コロナウィルスはそんなに怖くない。衝動を間違えても、感染者は急増するわけでもないし、死者も限定されている」という誤った認識を世界にまきちらした。それが、世界中で新型コロナウィルスの拡大を引き起こした。
 そのことを、もう一度思い起こすべきだ。このままでは「ぼくちゃん偉い、ぼくちゃん悪くない」の安倍に引きずり回されて、日本も世界も滅んでしまう。









#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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もう一度、書いておこう。

2020-03-26 23:20:07 | 自民党憲法改正草案を読む
もう一度、書いておこう。(facebookからの転写)
東京五輪「延期」というのは最悪の結果を招くだろう。
新型コロナ感染は、いま、はじまったばかり。
中国は「中国での感染はおさまった」と言いたいようだが、感染者が全員退院したわけではない。さらに帰国者の感染が増えている。
どの国も「感染者ゼロ」を実現していない。
こんなときに「延期」という考えで、どう行動するつもりなのだろうか。
1年以内に終息する「必然性」はどこにもない。あえて、必然性と書いておく。終息を予測させる「事実」はどこにもまだ存在しないからだ。

いったい選手は、「いつ」を想定して自分たちの体調、ピークを調整すればいいのか。「何日前」に「いつ」を教えてもらえるのか。小学校の運動会ではない。2-3日練習すれば大丈夫というものではないだろう。

観客の方も、さらに観客を受け入れる観光施設もそうだろう。「いつ」かわからなければ計画が立てられない。
いまは、そういう計画を立てるときではないかもしれないが、大きなイベントは1年計画で準備するだろう。
「この日は五輪があるから避けて、別の日にしよう」ということも考えられないのだ。

まあ、そんなことは、どうでもいいかもしれない。

ほんとうに大事なのは、五輪を考えながら行動をするということの問題性だ。
五輪など気にせずに、いま目の前で起きている新型コロナ対策をどうするか。
そのことへの「集中力」がかけてしまう。
ただひたすら新型コロナ対策について考えることが必要なのに、それがおろそかになる。
これからどんなことが起きるのか、だれもわからない。
そのことに集中しないといけないのに、「1年先に五輪がある」というような奇妙な「目標」があっては困る。

少し振り返ってみるいい。
なぜ、安倍のコロナ対策が「後手後手」にまわったか。
五輪のことを考え続けたせいだ。
新型コロナに集中しなかったせいだ。
同じことが、「延期」の期間中、ずーっとつづくのだ。
安倍の「五輪のとき、ぼくちゃんが首相だったんだ、いちばん偉かったんだ」といいたいという欲望のために、日本は、あと1年、「ごちゃごちゃ」がつづくのだ。
ほかにいい対処方法、対策があるはずなのに、それを選択することができなくなる。
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