坂多瑩子「庭」ほか(「ぶらんこのり」15、2013年12月02日発行)
きのう金井雄二「海を想いながら」を読み、足のことを考えたせいだろうか、きょうは坂多瑩子「庭」に書かれている「足」が「肉体」そのものとして見えてきた。
金井の書いていた「本当の言葉」は「山道にすでに散りばめられて」いて、金井はそれを「足を前に出して/確かめてさえいればよかった」のだが、坂多はたいへんだ。「本当」は「庭にすでに散りばめられて」いて「確かめる」というような余裕がない。向こうから「本当」がやってきて、坂多の「足」をひっぱる。
で、とってもおもしろいのは。
金井の詩にも「唸る音」「渇いた匂い」のような聴覚、嗅覚が書かれていたのだけれど、それは何か「客観的」(自分から離れている/自分の外に「ある」)という印象があった。
でも、坂多は違うね。
これは「吸覚」、いや「触覚」。「吸覚」などということばはなくて、あるとしても「嗅覚」なのだが、あまりにも生々しいので、思わず「吸覚」という感覚があるのだと思ってしまう。「触覚」は「ぬれる」ということばのなかで、もう完結していて--というと違うのだけれど。「触覚」は「ぬれる」ということばで始まっているのだけれど、「吸いついてくる」ということばを通ると、もう「触覚」を通り越して、何かが融合する。「吸われる/吸う」の接触が影響して、
何かが「肉体」のなかで入り乱れる。
入り乱れたところ、引き離せない融合から、いままで知らなかったことが始まる。そういう感じ、と思っていると、
あ、わざと一部だけを取り出して書いているのだけれど。「吸いついてくる」が触覚であるはずなのに、触覚だけではなくて、聴覚(耳)にまでそれが影響している。「触覚」と「聴覚」が「ひとつ」になって「吸われる」を広げる。
そして、それは「感覚」だけではおさまらない。
こういうことは「非現実」だけれど、その「非」が「現実」を超える。いわば「超現実」と言ってしまうと、うーん、おもしろくない。私の感じていることと違ってくる。やっぱり「非/現実」の「非」そのものがそこにある。「非」は「現実」を超える「真実」なのである。「非現実」は「非/真実」ではなくて、「真実」そのもの。でも「真実」ということばは理屈っぽいから「事実」といいたくなる。「真実」になる前の、そこに「ある」かたまり、ことばにならないもの。
坂多にとって、いま「ある」のは「足がのびる」という「事実」だけである。もちろんこの「事実」は、足が2センチとか1メートルとか測れる具合にのびるわけではないから、ほんとうのことは坂多にしかわからない。私たちが坂多にならないかぎりわからない。--のに、私は、突然、「これ、わかる」と思ってしまう。言い換えると、私は、そのとき、もう「坂多瑩子」になってしまっている。
知らない人が道に倒れて腹を抱えて呻いている。あ、腹が痛いんだ--と思うときに似ているね。他人の痛みなんかわかるはずがないのに、腹が痛いと「わかる」。そのとき、私は「他人」に「なって」、道に倒れて腹を抱えている。
そういう「なる」が、いま、坂多の詩を読みながら私に起きたのだ。
そこには坂多の「肉体」があり、坂多の書いた「ことばの肉体」がある。それと私はセックスをして「一体」になっている。そういう感じだね。(こういうところでセックスということばを出すと誤解を与えるかもしれないし、また顰蹙も買うのだけれど--私の知っているものではセックスがいちばん近いので、そう書いておく。)
こうなると。
人間というものは「わがまま」なもので、他人なんかほったらかしにして自分の「快感」を追い求めるものである。
坂多だって、ほら、
と「タケオくん」を非難(?)するふりをするけれど、どっちかというと「タケオくん」をほうりだして、坂多は坂多の快楽の方へ夢中でかけだしていく。
「いま/ここ」のすべてを、まるごと「肉体」にとりこんでゆく。「足がひっぱられて足がのびて」は「困惑」ではあっても、ちっとも「苦痛」ではない。エクスタシーの入り口なのだ。
「庭全体が土のなか」というより「庭全体」が坂多の肉体のなか、--これを「エクスタシー」ということばをつかって言いなおすと、坂多は坂多の「肉体」を飛び出して、庭全体を「肉体」にしてしまった。「肉体」の外へ飛び出したら、飛び出したはずなのに、そこまでが「肉体」になってしまった、という感じ。
えっ、何が起きている?
わからないよねえ。エクスタシーだから。で、そういうとき、「時間」も「非/時間」になる。「いま」なのに「きのう」の雨がふっている。
「水たまり」という作品もおもしろい。
水たまりに魚は泳いだりしないなあ。せいぜいメダカが紛れ込むくらいだけれど、そんなものは「おいしそう」なんていう気持ちを引き起こさない。というような「理屈」はどうでもよくて、
わっ、強引。そんな「生き物」を私は見たことがないけれど、それが「見える」。つまり、坂多の感じている「こと」が「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」なんだけれど、気にしない。
ここが好き。
ここが好き--と思ったら、あとは強引に「意味」をくっつけて、「感想(批評)」にしてしまう。詩を読む楽しさは、こういうところにある。
「庭」で十分書いたので「水たまり」は省略するけれど。
きのう金井雄二「海を想いながら」を読み、足のことを考えたせいだろうか、きょうは坂多瑩子「庭」に書かれている「足」が「肉体」そのものとして見えてきた。
夏の過ぎた庭は根っこが
全部つながっているひとつのいきもののようで
昨日の雨で足がぬれる
足の下でなにかが吸いついてくる
音がして足がひっぱられて足がのびて
助けてといってもだれも気がついてくれない
金井の書いていた「本当の言葉」は「山道にすでに散りばめられて」いて、金井はそれを「足を前に出して/確かめてさえいればよかった」のだが、坂多はたいへんだ。「本当」は「庭にすでに散りばめられて」いて「確かめる」というような余裕がない。向こうから「本当」がやってきて、坂多の「足」をひっぱる。
で、とってもおもしろいのは。
金井の詩にも「唸る音」「渇いた匂い」のような聴覚、嗅覚が書かれていたのだけれど、それは何か「客観的」(自分から離れている/自分の外に「ある」)という印象があった。
でも、坂多は違うね。
吸いついてくる
これは「吸覚」、いや「触覚」。「吸覚」などということばはなくて、あるとしても「嗅覚」なのだが、あまりにも生々しいので、思わず「吸覚」という感覚があるのだと思ってしまう。「触覚」は「ぬれる」ということばのなかで、もう完結していて--というと違うのだけれど。「触覚」は「ぬれる」ということばで始まっているのだけれど、「吸いついてくる」ということばを通ると、もう「触覚」を通り越して、何かが融合する。「吸われる/吸う」の接触が影響して、
何かが「肉体」のなかで入り乱れる。
入り乱れたところ、引き離せない融合から、いままで知らなかったことが始まる。そういう感じ、と思っていると、
吸いついてくる
音がして
あ、わざと一部だけを取り出して書いているのだけれど。「吸いついてくる」が触覚であるはずなのに、触覚だけではなくて、聴覚(耳)にまでそれが影響している。「触覚」と「聴覚」が「ひとつ」になって「吸われる」を広げる。
そして、それは「感覚」だけではおさまらない。
足がひっぱられて足がのびて
こういうことは「非現実」だけれど、その「非」が「現実」を超える。いわば「超現実」と言ってしまうと、うーん、おもしろくない。私の感じていることと違ってくる。やっぱり「非/現実」の「非」そのものがそこにある。「非」は「現実」を超える「真実」なのである。「非現実」は「非/真実」ではなくて、「真実」そのもの。でも「真実」ということばは理屈っぽいから「事実」といいたくなる。「真実」になる前の、そこに「ある」かたまり、ことばにならないもの。
坂多にとって、いま「ある」のは「足がのびる」という「事実」だけである。もちろんこの「事実」は、足が2センチとか1メートルとか測れる具合にのびるわけではないから、ほんとうのことは坂多にしかわからない。私たちが坂多にならないかぎりわからない。--のに、私は、突然、「これ、わかる」と思ってしまう。言い換えると、私は、そのとき、もう「坂多瑩子」になってしまっている。
知らない人が道に倒れて腹を抱えて呻いている。あ、腹が痛いんだ--と思うときに似ているね。他人の痛みなんかわかるはずがないのに、腹が痛いと「わかる」。そのとき、私は「他人」に「なって」、道に倒れて腹を抱えている。
そういう「なる」が、いま、坂多の詩を読みながら私に起きたのだ。
そこには坂多の「肉体」があり、坂多の書いた「ことばの肉体」がある。それと私はセックスをして「一体」になっている。そういう感じだね。(こういうところでセックスということばを出すと誤解を与えるかもしれないし、また顰蹙も買うのだけれど--私の知っているものではセックスがいちばん近いので、そう書いておく。)
こうなると。
人間というものは「わがまま」なもので、他人なんかほったらかしにして自分の「快感」を追い求めるものである。
坂多だって、ほら、
ここにかくれてさ
おとながきたら
ひっつきむしを投げてやろうよ
さっき約束したタケオくんタケオくんと呼んでもしんとしている
と「タケオくん」を非難(?)するふりをするけれど、どっちかというと「タケオくん」をほうりだして、坂多は坂多の快楽の方へ夢中でかけだしていく。
「いま/ここ」のすべてを、まるごと「肉体」にとりこんでゆく。「足がひっぱられて足がのびて」は「困惑」ではあっても、ちっとも「苦痛」ではない。エクスタシーの入り口なのだ。
バラの木にねこじゃらしがまつわりつき
シジミチョウがぶつかりそうになって飛びつづけ
吸いつくような音がぐるぐる大きくなって笑い声になって
庭いっぱい笑っている
雑草と呼ばれたものたちも
がさりがさりと寄ってきて
あたしほうに
にわかに寄ってきて陽気に寄ってくる
もう庭ぜんたいが土のなかだ
夏の過ぎた庭に昨日の雨がふっている
「庭全体が土のなか」というより「庭全体」が坂多の肉体のなか、--これを「エクスタシー」ということばをつかって言いなおすと、坂多は坂多の「肉体」を飛び出して、庭全体を「肉体」にしてしまった。「肉体」の外へ飛び出したら、飛び出したはずなのに、そこまでが「肉体」になってしまった、という感じ。
えっ、何が起きている?
わからないよねえ。エクスタシーだから。で、そういうとき、「時間」も「非/時間」になる。「いま」なのに「きのう」の雨がふっている。
「水たまり」という作品もおもしろい。
水たまりがあった
空と木がうつっていて
魚が泳いでいる
おいしそうだね
叔母さんがあたしの肩をつついた
あたしは魚がきらいだから
おいしそうなんてちっとも思わない
それにあいつらは
顔は魚だけれど体つきは犬だ
水たまりに魚は泳いだりしないなあ。せいぜいメダカが紛れ込むくらいだけれど、そんなものは「おいしそう」なんていう気持ちを引き起こさない。というような「理屈」はどうでもよくて、
それにあいつらは
顔は魚だけれど体つきは犬だ
わっ、強引。そんな「生き物」を私は見たことがないけれど、それが「見える」。つまり、坂多の感じている「こと」が「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」なんだけれど、気にしない。
ここが好き。
ここが好き--と思ったら、あとは強引に「意味」をくっつけて、「感想(批評)」にしてしまう。詩を読む楽しさは、こういうところにある。
「庭」で十分書いたので「水たまり」は省略するけれど。
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