詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「庭」ほか

2013-11-30 10:20:25 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「庭」ほか(「ぶらんこのり」15、2013年12月02日発行)

 きのう金井雄二「海を想いながら」を読み、足のことを考えたせいだろうか、きょうは坂多瑩子「庭」に書かれている「足」が「肉体」そのものとして見えてきた。

夏の過ぎた庭は根っこが
全部つながっているひとつのいきもののようで
昨日の雨で足がぬれる
足の下でなにかが吸いついてくる
音がして足がひっぱられて足がのびて
助けてといってもだれも気がついてくれない

 金井の書いていた「本当の言葉」は「山道にすでに散りばめられて」いて、金井はそれを「足を前に出して/確かめてさえいればよかった」のだが、坂多はたいへんだ。「本当」は「庭にすでに散りばめられて」いて「確かめる」というような余裕がない。向こうから「本当」がやってきて、坂多の「足」をひっぱる。
 で、とってもおもしろいのは。
 金井の詩にも「唸る音」「渇いた匂い」のような聴覚、嗅覚が書かれていたのだけれど、それは何か「客観的」(自分から離れている/自分の外に「ある」)という印象があった。
 でも、坂多は違うね。

吸いついてくる

 これは「吸覚」、いや「触覚」。「吸覚」などということばはなくて、あるとしても「嗅覚」なのだが、あまりにも生々しいので、思わず「吸覚」という感覚があるのだと思ってしまう。「触覚」は「ぬれる」ということばのなかで、もう完結していて--というと違うのだけれど。「触覚」は「ぬれる」ということばで始まっているのだけれど、「吸いついてくる」ということばを通ると、もう「触覚」を通り越して、何かが融合する。「吸われる/吸う」の接触が影響して、
 何かが「肉体」のなかで入り乱れる。
 入り乱れたところ、引き離せない融合から、いままで知らなかったことが始まる。そういう感じ、と思っていると、

吸いついてくる
音がして

 あ、わざと一部だけを取り出して書いているのだけれど。「吸いついてくる」が触覚であるはずなのに、触覚だけではなくて、聴覚(耳)にまでそれが影響している。「触覚」と「聴覚」が「ひとつ」になって「吸われる」を広げる。
 そして、それは「感覚」だけではおさまらない。

足がひっぱられて足がのびて

 こういうことは「非現実」だけれど、その「非」が「現実」を超える。いわば「超現実」と言ってしまうと、うーん、おもしろくない。私の感じていることと違ってくる。やっぱり「非/現実」の「非」そのものがそこにある。「非」は「現実」を超える「真実」なのである。「非現実」は「非/真実」ではなくて、「真実」そのもの。でも「真実」ということばは理屈っぽいから「事実」といいたくなる。「真実」になる前の、そこに「ある」かたまり、ことばにならないもの。
 坂多にとって、いま「ある」のは「足がのびる」という「事実」だけである。もちろんこの「事実」は、足が2センチとか1メートルとか測れる具合にのびるわけではないから、ほんとうのことは坂多にしかわからない。私たちが坂多にならないかぎりわからない。--のに、私は、突然、「これ、わかる」と思ってしまう。言い換えると、私は、そのとき、もう「坂多瑩子」になってしまっている。
 知らない人が道に倒れて腹を抱えて呻いている。あ、腹が痛いんだ--と思うときに似ているね。他人の痛みなんかわかるはずがないのに、腹が痛いと「わかる」。そのとき、私は「他人」に「なって」、道に倒れて腹を抱えている。
 そういう「なる」が、いま、坂多の詩を読みながら私に起きたのだ。
 そこには坂多の「肉体」があり、坂多の書いた「ことばの肉体」がある。それと私はセックスをして「一体」になっている。そういう感じだね。(こういうところでセックスということばを出すと誤解を与えるかもしれないし、また顰蹙も買うのだけれど--私の知っているものではセックスがいちばん近いので、そう書いておく。)
 こうなると。
 人間というものは「わがまま」なもので、他人なんかほったらかしにして自分の「快感」を追い求めるものである。
 坂多だって、ほら、

ここにかくれてさ
おとながきたら
ひっつきむしを投げてやろうよ
さっき約束したタケオくんタケオくんと呼んでもしんとしている

と「タケオくん」を非難(?)するふりをするけれど、どっちかというと「タケオくん」をほうりだして、坂多は坂多の快楽の方へ夢中でかけだしていく。
 「いま/ここ」のすべてを、まるごと「肉体」にとりこんでゆく。「足がひっぱられて足がのびて」は「困惑」ではあっても、ちっとも「苦痛」ではない。エクスタシーの入り口なのだ。

バラの木にねこじゃらしがまつわりつき
シジミチョウがぶつかりそうになって飛びつづけ
吸いつくような音がぐるぐる大きくなって笑い声になって
庭いっぱい笑っている
雑草と呼ばれたものたちも
がさりがさりと寄ってきて
あたしほうに
にわかに寄ってきて陽気に寄ってくる
もう庭ぜんたいが土のなかだ
夏の過ぎた庭に昨日の雨がふっている

 「庭全体が土のなか」というより「庭全体」が坂多の肉体のなか、--これを「エクスタシー」ということばをつかって言いなおすと、坂多は坂多の「肉体」を飛び出して、庭全体を「肉体」にしてしまった。「肉体」の外へ飛び出したら、飛び出したはずなのに、そこまでが「肉体」になってしまった、という感じ。
 えっ、何が起きている?
 わからないよねえ。エクスタシーだから。で、そういうとき、「時間」も「非/時間」になる。「いま」なのに「きのう」の雨がふっている。

 「水たまり」という作品もおもしろい。

水たまりがあった
空と木がうつっていて
魚が泳いでいる
おいしそうだね
叔母さんがあたしの肩をつついた
あたしは魚がきらいだから
おいしそうなんてちっとも思わない
それにあいつらは
顔は魚だけれど体つきは犬だ

 水たまりに魚は泳いだりしないなあ。せいぜいメダカが紛れ込むくらいだけれど、そんなものは「おいしそう」なんていう気持ちを引き起こさない。というような「理屈」はどうでもよくて、

それにあいつらは
顔は魚だけれど体つきは犬だ

 わっ、強引。そんな「生き物」を私は見たことがないけれど、それが「見える」。つまり、坂多の感じている「こと」が「わかる」。もちろん、この「わかる」は「誤読」なんだけれど、気にしない。
 ここが好き。
 ここが好き--と思ったら、あとは強引に「意味」をくっつけて、「感想(批評)」にしてしまう。詩を読む楽しさは、こういうところにある。
 「庭」で十分書いたので「水たまり」は省略するけれど。



ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
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西脇順三郎の一行(13)

2013-11-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(13)


 詩集『旅人かへらず』は「現代詩文庫」では抜粋がの形で収録されている。それでも「断章」ごとに1行を選んで書いていくと膨大なものになる。1行だけの「断章」もある。ここでは、「現代詩文庫」の1ページから1行という形で書くことにする。

 「一」(22頁)

ああかけすが鳴いてやかましい

 「音」がとても美しい。
 きのう書くのを忘れたが、「汝カンシャクもちの旅人よ」という1行も「音」がとても美しい。耳に気持ちよく響く。な「ん」じ、か「ん」しゃく、ということばのなかの「ん」のリズムが気持ちがいい。音のない「ん」のあとに「しゃ」という突き破るような音がくるのもいいなあ。「よ」で終わる「気取り(?)」を含んだ口まわしも、声に出してみたいという気持ちをそそる。
 きょうの1行「ああかけすが鳴いてやかましい」には「か」の繰り返しと「あ(母音)」の繰り返しがある。開放的な音がつづく。それが、とても気持ちがいい。
 何よりも「やかましい」という口語(俗語?)がいいなあ。「意味」としては「うるさい」と大差(?)はないのだが、「うるさい」だと、つまらないね。「意味」だけになるね。
 また、ここに「口語(俗語?)」が出てくることの意外性もいい。
 この1行の前には「永劫」などというわけのわからない「意味」の強いことばがでてくる。「えいごう」という音はかっこいいが、「意味」がかっこいいかどうか、私にはわからない。いや「意味」自体も、私はよくわからないのだが--そういう何か「頭」をこりかたまらせることばを「やかましい」という口語が破る。

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金井雄二「海を想いながら」

2013-11-29 10:26:11 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「海を想いながら」(「独合点」118 、2013年11月20日発行)

 金井雄二「海を想いながら」。あ、このタイトルはいやだなあ、センチメンタルな響きがある。と思いながら読むせいか、

小枝の折れる音がした
枯れ葉の色が輝かしい

 ほら、秋の風景。小枝が「折れる」--その「折れる」に含まれる敗北の匂い。抒情詩の定型で始まる。
 でも2行目の「枯れ葉」はセンチメンタルだが「輝かしい」はちょっと違うなあ。輝かしいセンチメンタルがあってもいいけれど、何か、内側に沈滞があるのではなく、動きがある。
 これは何だろうなあ、と思い読み進む。

汗は体のどこから
浮いて出てくるのか
ぼくの足は動く
独りで歩くことの幸福感

 ほう、山登りの「幸福」、そのときの「肉体」の充実のようなものを書こうとしているのか。「ぼくの足は動く」と、まるで「足」そのものがかってに動くような描写がいいなあ。足に力がある。「ぼく」とは関係がない。肉体がかってに力をもっている。それは、その前の、「汗は体のどこから/浮いて出てくるのか」についても言えるかもしれない。汗は汗の思いで動く。足も同じように足自身の思いで動く--そういう「自発性」をもった若い肉体がここにある。
 この肉体の充実の中で、ことばは動いていく。

蜂の唸る音がかすかに聞こえ
樹木の乾いた匂いがし
陽が砂粒のように降る
言葉なんかなくたって
いや
本当の言葉は
この山道にすでに散りばめられていた
ザックを背負って
ぼくはひとつ、そしてひとつ
足を前に出して
確かめてさえいればよかった

 ことばは金井の「頭」のなかにあるのではない。「山道」にある。それに肉体がぶつかり、肉体の交渉することで、ことばが動く。山道にある「もの」と金井の「肉体」がぶつかると、そこからことばが汗のように「浮いて出てくる」。たとえば「輝かしい」、ことえば太陽の光が「砂粒のよう」。この瞬間(時間)が「幸福」。それは「肉体」がつかみとる「永遠/本当(のことば)」。このつかみとるを金井は「確かめる」ということばで描いている。たしかに「つかみとる」よりも「確かめる」の方がいい。つかみとらなくても、そこに「ある」。
 この「ある」は、しかし、自然に「ある」のではなく、金井が歩く人間に「なる」ときに、そこにあらわれてくる「ある」だね。きちんと歩かないかぎり、それは「ある」ではない。あっても、それは「見えない/確かめられない」。「ある」を確かめることができるように「なる」必要がある。
 で、そうして変化した「肉体」が、「永遠(本当)」に触れた金井の「肉体」が、

海を想いながら

 という最終行にたどりつくのだが。
 さて、あなたなら、その最終行までに2行を差し挟むとしたら(2行を書くことで最終行にたどりつくとしたら)、どんなことばを書きますか?

 ここでは、私は「答え」を書かない。金井がどんなことばを書いているかを書かない。「独合点」で、自分と金井と、どんなふうに違うかを確かめてみてください。


ゆっくりとわたし
金井 雄二
思潮社
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西脇順三郎の一行(12)

2013-11-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(12)

 「旅人」

汝カンシャクもちの旅人よ

 「汝癇癪もちの旅人よ」でも音は同じだが、「カンシャク」と書いてあるのを読むと何かが違う。「癇癪」という文字を読むときよりも音を強く感じる。いや、音だけ感じる、といった方がいい。
 そして、このとき私の肉体の中で起きていることといえば、はじめてことばを聞いたときの興奮が動く。何か知らないことばを耳にする。「意味」ははっきりとはわからない。けれど、状況からなんとなく「こと」がわかる。そこに起きている「こと」。
 何度か同じ音(ことば)を聞くと、その「こと」がだんだん重なり合って、「こと」が明確になる。
 「カンシャク」というのはいらいらした感じを爆発させてすっきりすることだな。「カンシャク」というのは「怒る」に似ているな。--という感じ。
 そういう「意味以前」の状態へ私をひきもどしてくれる。
 そしてこれからが大事なのだが、「ことば」聞きながら「意味」にたどりつくまでのあいだ、私の場合「音」が気に入らないと「意味」がやってこないのである。その「ことば」をつかう気になれない。聞いてわかるけれど、自分で声に出すことができない。「頭」で「意味」はわかるが、肉体がそのことばを「つかう」気持ちになれない。
 西脇のことばを読んで私の肉体に起きることは、それとは逆である。「意味」はわからない。けれど、そのことばをつかいたい。「頭」が「意味」を「わかる」前に、「声(喉や舌、耳)」がその「音」を「つかい」たがる。
 西脇のことばは、こどもがことばを覚えるときの「口真似」を誘う。「盗作」を誘う。「音」が盗作を誘う。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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千人のオフィーリア(81-110)

2013-11-29 05:00:00 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                       81 金子忠政
これもヒ・ミ・ツ、
あれもヒ・ミ・ツ、と
かぐわしい逢瀬を逆撫でるように
狢たちがほくそ笑むから
私は、秘すれば花、とつぶやき
越冬の猿のように
食べることにいっしんに埋没し、
まなうらに声にならない叫喚を宿そうとします

                                        82 谷内修三
誰のことばのなかでおきたことなのか、
ひとりのオフィーリアは孔雀の羽根、
もうひとりのオフィーリアはライラックの花、
また別のオフィーリアは枯れ葉、
さらに別のオフィーリアは最初の手紙の一枚を、
読みかけの本の栞にするのだが、
ふたたびことばを追いかけようとすると、
綴じ紐がほどけ、傷んだ本のページが
縁を茶色くさびさせて落ちてきた。

                                        83  市堀玉宗
殺めたる顔して枯野戻りけり

                                        84 小田千代子
振りかへる枯野ハラリと落ち椿 風 散りもせず色褪せもせず

                                         85 金子忠政
墜落を見つめた
オフイーリアは
灼熱の手をさしのべ
夕闇の深紅の椿をひきちぎった

                                         86橋本正秀

我と我が身と契った椿の花をひきちぎった
オフィーリアの深紅な手から垂れ落ちる
暗紅色の血
死んでしまいたい!
と咽ぶ涙声
からは
あの孔雀の羽根や
あのライラックの花や
あの枯れ葉や
あの最初の手紙の一枚が
これまでに綴ってきた
人生のおびただしい詩片
とともに
色鮮やかなパウダーとなって
飛び散り
やがて
消えていった

あゝ死んでしまいたい…

                                        87 市堀玉宗
瘡蓋を剥がしてをれば白鳥来

                                        88 小田千代子
待ちわびた開かずの間でのその奥のうごめく気配に耳そばだてぬ

                                         89 田島安江
開かずの間に閉じ込められて
あなたの魂は眠ったまま
オフィーリア、出ておいで
光が流れる
水が揺れる
するすると蛇さえ這い出てくるほどに

                                      90    坂多瑩子
薄い雲をかきわけて
這い出てきた目
死にたいのメールに
返信できない絵文字が
虹のように空をよこぎる

                                         91  橋本正秀
神一夜

オフィーリアのうごめき
衣衣(きぬぎぬ)の気配

スティグマの呪文が地を覆うなか
オフィーリアの血で描かれた絵文字
が黒闇を照らし
空をよぎる呼びかけに
嗚咽の絵文字が
きれぎれの
朱に染まった絵文字が
蛇のようにうねり出ようともがいている

                                          92 山下晴代

その蛇は、クリューセーの、崩れかけ今は訪れる人もないアテネの神殿を守る水蛇。
この戦争に勝つためには、おまえとその弓がいるのだと、オデュッセウスは、ピロクテテスに言い、さてと、と、トロイア王は、ひとりごちた──わが息子パリスが連れ帰った、千人のヘレナをどう養ったものか。

                                        93  市堀玉宗
色褪せぬままに沈める散紅葉愛の虜の影ぞ空しき

                                        94 橋本正秀
ヘレナを窺う目の端から舌を覗かせて
インテリ風の男が声をかけようとしている
もう何回目だろうか
身構えてはやめ
やめては身構え
を繰り返している
そうすることが存在そのもののようにさえ
なりつつあった
声をかけようとするのだが
声をかけるわけではない
声をかけられるわけではない
男の脳内をメフィストのバリトンが響き
川の精霊たちの囀りや歌声が
バリトンをピンクノイズとなって包み込む
男の舌は自分の目をぺろりと舐めんばかり
男は息をつめて幻のヘレナたちをみつめるばかり
こうして夜は更けて
空一面にジュピターの輝きがいっそう増していった

                                        95 小田千代子
相触れず清き虚しき影ひとつ愛の奴隷の旅は止まらず

                                        96  金子忠政
叙情に流されかかる
オフイーリアは
これから数限りないであろう
法の寄食者たちの
密会を暴くため
沈黙をひしめかせ
あおくひかる水面に
溺れかかって、
右へ左へ
しなる しなる

                                         97 谷内修三
朱色の夕暮れが水におぼれ、
緑の水の中でまじりあう。
黒い水の皺。
裏返るときの金色。
歌を載せた船が
扇形の模様をひいて
のぼっていくのを
河口の橋から見ていた影。

                                        98 市堀玉宗
冬のゆふべは書き損じたカルテのごとし

                                         99 田島安江
朱色の夕暮れが
窓ガラスを突き抜けて
空をみていたオフィーリアの
心のなかまで覗いてしまった
風に揺れる黄葉のような
冬のゆふべ
心はどこに行けばいい

                                         100 金子忠政
海の底へ潜行していくように
冬の曇天へとさまよわせ
宙をつかみ
虚空を舞う手は
カサカサの絶版のページに
大天使を描く
徒労を重ねる
ただそれだけのために
明るい 明るい とても、
とても明るい

                                        101 山下晴代
「はい、こちら、ガブリエル。今から"受胎告知"のお仕事にでます。行き先は当然、あの方……。千人のマリアから千人のキリストが生まれたら、いったいどーなる? その後の世界は」
「♪しあわせが大きすぎて、悲しみが信じられず……」と、ザ・ピーナッツは歌っている。曲は、当然『恋の……』オフィーリアならぬ、"オフェリア"です。

                                         102 橋本正秀
胎児が赤剥けた体を
震わせて誕生する
黄葉の森

水膨れの
肉厚の
絶版の
このページに
類人猿の幼形を保ったままの
胎児は
成熟したかのように
これまでの人生を
書いて書いて書き連ねて
眠る 眠る 眠る

そして朝

よだれまみれのページから
文字は消え失せ
黄色いページだけが
明るく
光っている

                                       103 市堀玉宗
子を宿す絶望に似てこの寒さ

                                         104 二宮 敦
堕胎は大体いかん
太宰は大抵あかん
大帝は最高たらん
垂乳根の母なる腹に子は宿り
ヤドカリはどこにいる
イルミネーションの末裔に
歳末に売り出しあらん
ALSOKには吉田びらん
ビリージョエルのエンディング

                                       105 金子忠政
コケティシュに鼓舞され
苔むす国家へ孤高として
昏倒しながら
小賢しく攻撃をしかける
荒唐無稽の小鬼たちは
小癪なこそ泥のように
ことごとく困惑させるから
サクサク素敵だ
素敵は無敵
無敵は素敵な造反有理
ああ・・・
やるせなさを孕んで
セシウムが空を行く
旋回して
千回地に墜ちて・・・
ジクザグに蝕む
何を蝕む?

                                         106 二宮 敦
コント55号こそセシウムの膿のおやだす
と描きしは
蚊の垢まみれ不二雄
かゆし痒しかりゆし
沖縄の空は
コバルトのごとく
セシウムの君より
五つ歳(とせ)上なりや

                                         107 橋本正秀
素敵な無敵なコント
ゴーゴーとのたうつ的屋の
手の内サンザン
シーシーと
ニャンコとワンワン
ワンダーブルー
ブルーな ブルーな
ブルーな
胎児の脳の
リフレイン
絶望
そう
絶望のみが
希望なの 所望なの
朝に
胎児たつ

リプレース リプレー

                                        108 山下晴代
絶望だけが人生だ、ダザイです。え? ダサイじゃありません。ダザイです。ほら、玉川上水で「成功=性交」した。
どうでしょう? オフィーリアと私の共通点は、周知のとおりでありますが、ワタクシ、さまざまな女と「入水経験アリ」ですから、いいでしょう。千人のオフィーリア、引き受けましょう。でも、言わせてもらえば、私といっしょに「飛び込んだ」女たちは、すべてオフィーリアだったのです。

                                      109 市堀玉宗
人間不信おしくらまんじゆう抜けしより だすげまいねとだすけまいねと

                                        110 二宮 敦
オフィーリアの増殖こそ
彼女の意図する孕みだった
エイリアンに
全ての時代が悩まされ
苦悩するリフレイン
いつ果てることもない輪廻
救いの神仏の登場さえ
謀られた愛の刻印に過ぎぬ
ゆえに全てはまた回帰する
虚脱も離脱も逃避も回避も
許さなれぬ宿世へと
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石毛拓郎「懐風荘ノルタルジア」

2013-11-28 10:34:31 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「懐風荘ノルタルジア」(「飛脚」5、2013年12月01日発行)

 また石毛拓郎の作品の感想を書いてみる。私は好き嫌いの激しい人間なので、好きな作品にはどこまでもついていく。あるいは、好きな作品は、作者が何を言うかは関係なく、自分が「おいしい」と思うまで、あれこれとことばをかきまぜて、まったく違うものにしてしまう。読んだら最後、そのことばは作者のことばではなく、読んだ人間のもの。ほら、料理の食材って、生産者のものではなく、それをどうやって食べるか、という、食べる人のものでしょ? --と、強引に書いておく。
 「懐風荘ノルタルジア」は、石毛が「年少のころに、うろつき回った」土地について書いている。土地というのは、そこに人がいて土地になるという性質をもっているので、どうしてもそこにいる人のことを書くことになるのだが。あるとき、帰省して、そこで隣家の老婆の葬儀に立ち会う。

敗戦後のこと、母親は、産後の肥立ちが悪かったので、わたしは、
隣家の老婆が大事に飼っていた山羊の乳で、育てられたそうだ。山羊の母乳だ。
不思議なことに、彼女が亡くなってみると、
彼女が大切にしていたもののあれこれが、愛しく思えてくる。

 人が死んだとき、その人の「肉体」の隠していたもの、その「肉体」の背後にしっかりと結びついて存在していたものが、ふいにあらわれてくる。きのう読んだ田中秀人『夜の、ガンジス』のなかに出てくる先生は死んではいないのかもしれないけれど、目の前から存在しなくなって(日常的に会うことがなくなって)、その結果、その背後の「風景」が見えてきた。--そういうことが、ある。

たとえば、隣家の屋敷の裏手には、タブの巨樹がざわめいている。
そのタブが風よけとなって、まるで老婆の心根のように、秘めやかに佇み、
いつも、手入れの行き届いている「鶏小屋」が、水脈の傍らにあった。
鶏たちの仕草や立ち振る舞いと一緒に、背中をくの字に曲げた老婆の姿を、
じつに、鮮明に、想い起こさせてくれるのだった。

 というのは、まあ、思い出の導入部で……。

さきほどの鶏小屋の中で、鶏にエサをやるち老婆がいる。人々の集う死者の家。
(彼女は、ただいま棺に納まっている、その人である)
葬送の準備に忙しく、小屋の彼女の気配に、気づく者はいない。
一通りのことがすんだあと、だれかが声をあげる。
「あっ、朝から、鶏にエサをやるのを、忘れていたっぺ」
だが、鶏小屋を見回ると、鶏は、たっぷりとエサをもらっていた。その報告を聞いて、
「これは、どこの、だれがやった、仕事だや」
ひとりが尋ねれば、満座が、横に首をかしげる。
「どっかの婆さんが、気を利かせたんだっぺ」と、皆で、口々に言い合っている矢先に、
ひとりの老婆が、着物の裾を腰にからげた格好で、よたよたと鶏小屋へむかうではないか。
鶏小屋の「水入れ」を、大事そうに両の手でかかえながら……。
「婆さん、ごくろうだなや」
満座のひとりが声をかけると、一瞬、振り返って笑う。
(その笑いは、よくよくみれば、亡くなった婆さんではないか)
平生、腰が曲がった歩行にも、裾を腰にたくしあげた身なりで、
水を運ぶ格好にも、見覚えがあるはずだ。
「おやおや」と、思う間もなく、満座居並ぶ軒先を通り、
呆然としている顔見知りをよそに、鶏小屋に入り、
「ほれ、ほれ」などと言いながら、水を与え、二つ三つ、小屋の中を回ってから、
棺を納めてある座敷の方に行くやいなや、その座敷の奥から、
「婆さんが、きたぞ」驚きともつかぬ、歓声がする。

 死んだはずの婆さんの姿を全員が「見る」。--これは、いわば「幻想」だけれど、全員が婆さんの姿を共通のあり方で思い出せるくらい、その姿はなじんでいたということだろう。
 それ以上何も言うこともないのだが。あえてつけくわえるなら、

水を運ぶ格好にも、見覚えがあるはずだ。

 この行の「見覚え」--これが、この作品の(そして石毛の「肉体/思想」)の核心である。葬儀に連なっている人が、全員で老婆の「日常の姿」を思い出した。それは「覚えていた」からである。それも「頭」ではなく「見/覚え」ている。「見」は「目」である。「目」で「覚え」ているから、その目が、水入れをもって、着物の裾を腰にからげた格好でよたよたと歩いている姿を再現する。ことばは、その「見覚え」を追認する。
 そして、「肉体」は分離できないものだから、つまり「目」と「耳」は別々のことばで呼ばれているが、それぞれ独立して取り出すことのできないものだから、「見/覚え」(目/覚え)は、同時に「耳」で「覚え」ていること、「聞き覚え」のあるものをも「いま/ここ」へ引っ張りだす。

「ほれ、ほれ」などと言いながら、水を与え、

 婆さんは、鶏に水をやるとき(たぶんエサをやるときも)、「ほれ、ほれ」と鶏に声をかけていた。その「声」を葬儀の参列者は耳で覚えている。
 「頭」の「記憶」ではなく、「頭」が合理的に整理した記憶ではなく、「肉体」がまるごと、どんな形にもととのえることなく覚え込んだものが、「いま/ここ」にあらわれている。
 人の暮らしは「頭」で合理的に整理しなくても、きちんと動く。
 「暮らし」は「肉体」と「肉体」が出会う場であり、そこでは「頭」ではなく、「肉体」が人と人をととのえ合うのである。「合理的」に整理するのではなく、互いにふれあって、必要な距離をつくりだして行く。
 何のことかというと……。

「婆さん、ごくろうだなや」

 この「あいさつ」。この「声」。
 先に「見覚え」(目)「聞き覚え」(耳)について書いたが、この「あいさつ(声)」は「口」のものである。「口」も覚えている。
 「婆さん、ごくろうだなや」は「頭」で考えて、それから発することばではなく、働いている婆さんを見たときに、即座に出てくる「声」である。それは「ねぎらい」というより、「あいさつ」なのだ。きょうも、婆さんが元気で働いているのを見たよ、という報告でもある。
 婆さんのことを「肉体」で覚えている人が集まると、その「肉体」同士が刺戟し合って、「目」「耳」「口」を励まし合って、そこにひとりの人間を浮かび上がらせる。それは「幻想」ではなく、「肉体」の実感なのである。
 婆さんが死んで、不在になった。その「不在」へ向けて進んでいく「肉体」がぶつかりあって、「肉体」が覚えていることが、瞬間的に思い出され、ひとつの「像」になる。それは「肉体」のなかに動く「実像」である。「内臓」が外から見えないように、この「肉体が覚えている実」は、外からは見えないが「実在」する。「実存」する。だから「実像」と呼ぶしかない。


石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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西脇順三郎の一行(11)

2013-11-28 06:00:00 | 西脇の一行
 「失楽園/内面的に深き日記」

穿いてゐるズボンのやうに筋がついてゐないので

 直前の行は「ミレーの晩鐘の中にゐる青年が」である。その青年が穿いているズボンにはすじがついていない。農夫なのだから、まあ、あたりまえだろう。筋のついたズボンを穿いて農作業をするひとはいない。--ということは、ふつうは、農夫が穿いているズボンに筋がついているかどうかを人は気にしないで見ている。それは見落としている「風景」である。見ていても、見えない姿である。
 いままで知らなかった(気づかなかった)風景を、ことばで見せられたとき、私はびっくりするが、それは「美しい」風景でなくても衝撃的である。「美しくない」風景の方が衝撃的かもしれない。
 この一行には、後者の「衝撃」がある。
 あらゆるものは、ことばに「なる」と美しくなる。


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田中秀人『夜の、ガンジス』

2013-11-27 12:27:29 | 詩集
田中秀人『夜の、ガンジス』(南日本新聞開発センター、2013年11月06日発行)

 田中秀人『夜の、ガンジス』は静かな詩集である。「現代詩」特有の「わざと」がない。「泣きむしの窓」は小学校の先生の思い出を書いている。

先生はいつでも泣いてばかりでしたね
「ワタナベさんだけ修学旅行に行けない」と
校庭のせんだんの木が切り倒された、と
いつもただ泣かれるばかりでした
数式や年号はすっかりわすれてしまったが
私たちは
そんな先生の泣き顔だけは覚えています
先生が伝えたかったことが
今になってわかるのような気がします
海の見える小学校の
遠い海鳴りが聞こえてきます

 「覚えています」が美しい。
 「覚える」にはいろいろな「意味」がある。「覚える」のいちばんの強みは「つかえる」ということである。
 英語を「頭」で覚える。覚えた英語がつかえるようになる。
 自転車に乗る、泳ぎを覚える。その肉体で「覚えた」ことは一生つかえる。再び自転車に乗るとき、何年かぶりで泳ぐとき、最初はぎごちないが、それでも間違わずに自転車に乗り、泳ぐことができる。「肉体」は「覚えた」ことを忘れない。
 では、田中の書いている「覚えている」はどうだろうか。
 先生が泣いてばかりいた--というのは「頭」で覚えているのだろうか。「肉体」で覚えているのだろうか。どうも、違う。「こころ」でおぼえているのかもしれないが、うーん、あやふやだ。
 そして、この「覚えている」は、つかえるのかなあ。何かの役に立つのかなあ。これもよくわからない。同窓会で級友と会ったとき、先生は泣いてばかりいたねという具合に一緒に思い出すときに、つかえる? それって、つかえるって言う?
 何か変だね。
 でも、それにつづけて、

先生が伝えたかったことが
今になってわかるのような気がします

 これを読むと、そこに「わかる」と書いてあるのだけれど、「あ、覚えている」ということと「わかる」は何か関係しているのだなあと感じる。
 何が「わかる」のか--それを全部ことばで説明することはむずかしい。めんどうくさい。というより、たぶん、ことばを経由しないで、直接わかる。
 それは、たぶん「先生が伝えたかったこと」ではない。先生は、別に伝えたいとは思っていなかっただろう。ただ、ワタナベさんだけが修学旅行に行けないということが悲しかった。せんだんの木が切られたことが悲しかった。その「悲しみ」が「わかる」のである。--それは言い換えると「先生の悲しみ」を「覚えている」、「先生の悲しみを思い出す」ということかもしれない。
 それがもし何かに役だつ(つかえる)としたら。
 それは他人の悲しみを「わかる」というときにつかえるのかもしれない。
 いや、他人の、ではなく、自分の悲しみを「わかる」ときにこそつかえるのかもしれない。
 自分の、なんと名づけていいかわからない何か。涙がふいにこれぼてくる、その瞬間。「ああ、これが悲しみなんだ」と「わかる」。
 悲しみというのはほんらいひとりひとりのものであるけれど、人は、それを「わかる」ときがある。ワタナベさんが修学旅行に行けないと、先生が泣いていた--その悲しみが、いまになって「わかる」。「覚えていた」から「わかる」。そういうときがある。そういうときを積み重ねて人間が生きているということが「わかる」。
 この「わかる」は、しかし、とても時間のかかるものなのだ。
 「ゆずり葉」という作品。若い葉が生まれてくると、古い葉が散っていく。それが「ゆずり葉」と説明したあと、先生はつづける。

皆さんが生まれてきたとき
お父さんとお母さんは
この子が健やかに育ってほしい、と
強く心に思われたことでしょう
あなたがたの小さな手にそえた手に
力をこめられたことでしょう
その遠い声が聞こえませんか
いいですか、皆さん、ゆっくりと
その日のことを思い出していってくださいね
わかりましたか

ハイ、と大きな声で
タケイシくんが返事をして
みんな目を閉じたまま
クスクス笑いだしてしまった

 こどもには「わからない」。「覚えている」ことがあまりにも少なくて「思い出す」ことがないのだ。
 ここから「覚えている」「思い出す」「わかる」になるまでに、ひとは、自分を生きなければならない。--というようなことを特に強調して田中が書いているわけではないが、そういうことを感じる。
 先生の思い出を書いた作品ではないが、「大きな木」のなかの(母の木)という作品も美しい。

大きな木の下で
誰かに呼ばれている
ひそかな風の声で
山鳩には山鳩に見合った枝
山雀(やまがら)には山雀に見合った枝
ただ黙ってさしのべた枝で
山鳩は山鳩なりの重さ
山雀は山雀なりの重さ
黙って枝に来て
黙ってまた飛び立っていく
枝が少し揺れて
空がまた少し高くなった

 この詩の最後に「わかる」を補うと、田中に直接触れることができる。「空がまた少し高くなったのがわかる」という具合に「わかる」を補うと、田中が何を覚えているのか、何を思い出しているのか、それが容易に想像できる。いや、想像なんかしないで、田中に直接触れることができる。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(10)

2013-11-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(10)

 「失楽園/世界開闢説」

ゴールデンバットをすいつゝ

 西脇の詩にはことばがグロテスクなくらいあふれている。そして多くの場合、そのことばは「もの」そのものの手触りとして、そこに「ある」。その「ある」が強すぎて、そのためにグロテスクな感じがする。
 詩の2行目「一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる」には「ある」ということばはつかわれていないが、「タリポットの樹」が「ある」、そこに「音響」が「ない」という形で「ある」。そして「成長」が「ある」。この「ある」の特徴は、それ自体に人間が関与しないことである。人間の存在を無視して、それは「ある」。
 これに対して「ゴールデンバットをすいつゝ」は違う。そこには「吸う」という動詞がしっかり関係している。そのために「もの」の「ある」ということのグロテスクさが緩和されている。そして、その結果と言っていいのかどうかよくわからないが(その結果、と私は言いたいのだが……)、「ゴールデンバット」が「もの(たばこ)」であることから自由になって、「音楽」になっている。
 言い換えると。
 この一行は「意味」としては「たばこをすいつつ」ということであって、その「意味」を伝えるだけなら「たばこ」「ハイライト」「セブンスター」「マルボーロ」でもいいはずなのだが、詩は意味ではないので、ここでは「ゴールデンバット」でなくてはならないのだ。
 「ゴールデンバット」という派手な音だけが、他のグロテスクな「もの」の「ある」に対抗しうるのだ。「ある」という動詞に頼らずに、別な形でしっかりと存在する。それは--うまくいえないが「ある」ではなく「なる」なのだ。
 「ゴールデンバット」という「もの(たばこ)」が、「ゴールデンバット」という「音楽」に「なる」。そういうことが、ここでは起きている。
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石毛拓郎「呂律抄」

2013-11-26 11:08:27 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「呂律抄」(「飛脚」5、2013年12月01日発行)

 石毛拓郎「呂律抄」は、ことばをうまく発音できなかったときのことを書いているようである。まあ、何を書いてあるかなんて、ほんとうはどうでもいい。「意味」なんて、どんなときでもつけくわえることができるから。

ためらう口腔をこじあけようとしている
ウェハーを、顎の天井に貼りつけている
目前で、もがく
小さきものの、古楽器に
遠く、生態系の奏でる鎮魂歌を
ほんの束の間
聴いて、下さいませんでしょうか

 私がおもしろいと思うのは、読点「、」がしきりに出てくること。この「、」は何? と問いかけるのは、「、」があるとないとでは「意味」はどう違う?
 「意味」なんか関係ない、と言っているのに、「意味」はどう違う?と問うことは矛盾しているけれど--矛盾を経由しないことには言えないこともあるのだ。
 「、」があろうとなかろうと「意味」はかわらない。
 でも、石毛は書かずにはいられなかった。
 なぜ?
 ただ書いているのではなく、読んでいる。声に出している。ことばを、声で動かしている。
 そして、それは……。あとだしじゃんけんのようになってしまうが、この詩には、「2001・3・24 kotoba/kikoe の失敗に、身を堅く曝すO君に捧ぐ。」というサブタイトルがついていたので、実は、石毛自身の朗読がうまくいかなかった体験ではなく他人の体験を描写しているのだが。
 そういう描写に「、」がしきりに紛れ込むのは、石毛が描写しているのは読点「、」そのものであり、「呼吸」そのものということになる。ことばがうまくでない。ろれつが回らない。それを「呼吸」として描写する。「、」をつかって描写する。
 そのとき「描写」というのは。
 「肉体」の再現である。
 石毛はことばを書いている。でも、実際にしているのは、「呼吸」をO君にあわせることで、それは実は石毛の肉体そのものをO君にしてしまうことである。「呼吸」をとおして、石毛は、ここではO君になってしまっている。
 だから、「口腔」とか「顎の天井」などという「肉体」そのものが出てくる。この「肉体」はふつうは外からは見えない。いいかえると、石毛は「肉体」の内部をのぞいているのだが、こういうことができるのは、それが「自分の肉体」だから。
 ここにも、石毛がO君になってしまっていることの証拠がある。

ことばにならぬ
吃音が、弾ける
唇のふるえや、舌の呂律をぬけだして
からだに宿る、ことばのひとがたを
造りだして、下さいませんでしょうか
むりやり、口筋を動かしてみせようとする
小さきものの、呂律が
ウェハーを、濡らす
ほら、顎天井が、いやいやしているでしょう

 ここに書かれているのが、呂律が回らなくなったときの、「肉体」そのものであること、言い換えると「ことばの意味」の復元ではないこと--と思うとき、

ことばのひとがた

 うーん、このことばが実におもしろい。
 ことばを声にしようとするひと「O君/石毛」という「肉体」とは別に「ことばの肉体」があって、それが「O君/石毛」からでたくないとだだをこねている。その結果、呂律が回らなくなっているという感じがしない?
 「人間の肉体」と「ことばの肉体(ひとがた)」が合致しないと、それは噴出することばにはならない。「肉体」そのものとして勝手気ままに動かない。「ことばの肉体」そのものが、どこかでつまずいているのだ。
 「意味」ではなくて、「肉体」が。
 「意味」(論理)が「いやいや」をしているのではなく、「ことばの肉体」が「いやいや」をする。「いやいや」をするのは--そういうことをするのは子供の肉体、ことば以前の肉体だけれど、ことばのなかの、「ことばにならない肉体」(ことばが生まれる前の状態)だけが「いやいや」をする。
 こういう「意味」になるまえの何かをつかみとってくる力業がいいなあ。
 「肉体」がみえることばというのは、いいなあ。

古楽器が、奏でる前に
ウェハーは、溶けてしまいませんか?
ことばのひとがたを、つくるまで
役立たずの、呂律をまわす
小さきものの、混沌に
目の孔を、あけておやり
口の孔を、あけておやり

 この場合、「孔」は「息(呼吸)」が出入りする通路だね。「ことばの肉体」には、まだ「孔」があいていない。だから「呼吸」が重ねられない。そのため、呂律がまわらなくなっている。つまずきのなかで溶ける「ウェハー」は、言ってしまえば「意味」の「比喩」ということになるかもしれないけれど、まあ、ほうっておこうね。面倒くさいこと(実はいちばん簡単な謎解き)なんかは。どんな答えでも出してしまうと、ことばが短絡的にそこへ行ってしまう。迷うことがなくなるから、つまらないね--というのは私の余分な「感覚の意見」。
 「孔」と「呼吸」を重ねたのは……。
 「ことばの肉体」に目をつけてやる、口をつけてやるという方が「意味」としてはわかりやすい。でも、そうすると、石毛が感じている「呼吸」がちょっと結びつきにくくなる。「孔」という余分なことばをそこにつけくわえると、何かが行き来する感じがすっと結びつく。
 こういうことは「論理」でも説明できるけれど、実際は、肉体が無意識に引き寄せる「まちがい」である。「まちがい」と書いたけれど、それは「無意識」が引き寄せるものだから、実は「絶対的な正解」ということでもある。「まちがい」は実は「まちがい」ではなく、必要不可欠な「余分なもの」と言い換えると「絶対的」と合致するかもしれない。「本能」はときに「まちがい」に見えるけれど、それは「合理主義」に照らし合わせるから「まちがい」に見えるだけであって、「余分」に見えるだけであって、ほんとうは「絶対的」に不可欠なものなのである。

 それは--と、私はだんだん面倒くさくなって、強引に飛躍してしまうけれど。
 それは、この詩の読点「、」に非常によく似ている。
 この詩のおびただしい読点「、」は省略しても、ことばの「意味」の上では何も変わらない。「、」が無意味に多すぎて読みにくいと感じるひとがいるかもしれない。たとえば、この「、」を翻訳しようとして、どうすればいいのだろうと悩むなんていうことがあるかもしれない。「意味」を流通させる上では「余分」を通り越して「邪魔」ということになるかもしれない。
 でも、それがなかったら、ここに「石毛の肉体」はあらわれない--というと言いすぎだけれど、「石毛の肉体」が見えにくくなる。「、」があるから、「石毛の肉体」が見える。

 私は「肉体」が見える詩が好きである。
 「肉体」が見えれば、そこに何が書いてあったかは気にならない。「意味」はどうでもいいと思う。

子がえしの鮫―よみもの詩集 (1981年)
石毛 拓郎
れんが書房新社
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西脇順三郎の一行(9)

2013-11-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(9)

 「紙芝居 Shylockiade 」

汝等行け、演劇は終つた。

 この一行は、私には、「我、酔うて眠らんと欲す、きみ、しばく去れ」(李白)を思い起こさせる。非情にさっぱりしている。興奮のあとは、たったひとりの「無」が必要である。
 この行のまわりはあまりにもにぎやかである。演劇的である。3行先には「汝等帰れ、演劇は再び始まつた。」とあるのだが--詩は、「終つた」ではつづかないのかもしれないけれど、「終わつた」で終われば、どんなにいいだろうと思う。この一行は「自己中心的」な美しい響きをもっている。
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スタンリー・キューブリック監督「恐怖と欲望」(★★+★)

2013-11-25 10:37:51 | 映画
監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケネス・ハーブ、フランク・シルヴェラ、ポール・マザースキー、スティーブン・コイト

 スタンリー・キューブリック監督の第一作。完成度に不満があって、フィルムをほとんど買い占めた封印してしまった--と言われる作品。たしかに映画としては物足りない。まず哲学があって(主張があって)、それを映像で説明する。というより、哲学に映像をかぶせているだけというところがある。
 で、その哲学というのは……。
 うーん、最後の方に「ことば」として語られるのだが、それを字幕で読んだときは、「あ、これがキューブリックの哲学だ」とわかるのだが、もう忘れてしまった。戦争を体験すると、もう人間は、もとの世界にはもどれない云々というようなことだったが、ちがっているかもしれない。--この何かを体験すると、もうもとにはもどれない、というのはキューブリックのすべてに通じる哲学だけれど(そう感じるから、そのことばに出会ったとき、あ、これだね、思ったのだが……)、はっきり思い出せないということは、映画になっていないということ。
 別なことで言いなおすと(別な映画で言いなおすと、映画として完成している作品をつかって言いなおすと)、たとえば「2001年宇宙の旅」。猿が「モノリス」に触れる。知らないものを体験する。そうすると、もうもとには引き返せない。弱い猿のままではいられない。道具をつかい、戦うことを覚える。骨を武器に、弱者が強者に打ち勝つ。弱いものだけが「進化」し、世界をかえていく。--この骨がそのまま宇宙ステーションにまで発展し、そこでコンピューターとの戦いがあり、さらに「未知」の世界へ突入する……。
 ね、台詞は必要ではなく、映像だけで「哲学」が語られる。
 これに比べると、この第一作は、「ことば」が多すぎる。ことばを覆い隠す(?)ために映像がつかわれている。「ことば」だけで表現してしまうと(たとえば、小説、哲学のようなものにしてしまうと)、だれも読んでくれない。だから、映画にして、映像で「客」を引き寄せるという感じ。
 これでは、映画ではない。
 でも、キューブリックの「哲学」が確認できる点と、ひとつひとつの映像そのものの完成度にこだわる姿勢は、なかなかおもしろい。
 いちばん印象的なのは、森の中で娘に出会い、捕虜(?)にして森をさまよい、やがて逃走され、射殺するというエピソードだが、その女には台詞はなくて(叫び声すらなくて)、しかも、その逃走の直前に、手首を縛っているベルトほどくもたもたしたシーンがあって、「寓話」というより「童話」という感じもするのだが、その女の顔のアップ、目のアップ、手のアップが、それ自体として絵そのものになっている。兵士たちの言ったことばは、なんとなく覚えているというのにすぎないのに、女の顔の表情、手の表情は、ストーリーを突き破って、それ自体で存在している。映像に、そこまで自己主張させている。(思い出して、絵を描くことができる。)
 映像こそが映画である--というのは、森の中の小屋、敵がシチューを食べている小屋を襲うシーンでも輝いている。おそらく彼らははじめてひと(敵)を殺す。その殺すというときの肉体の動き、肉体に跳ね返ってくる何かが、きちんと映像にされている。こぼれるスープ。そのスープの具をつかむ敵の手の動き。指の動き。--女のシーンにもつながるのだが、キューブリックは、人間を目と手の存在として把握しているのかもしれない。目と手だけで映画を撮ることができる監督かもしれない。(「博士の異常な愛情」でも、ヒットラーへの敬礼のように動いてしまう手が映像化された。「2001年宇宙の旅」では、「ハル」のメモリーを手で一個ずつ取り出した。--監督が生きているなら、目と手が主役の映画をつくってほしいとファンレターでも書きたいなあ。)
 あと気がついたのは。
 映像とことばを比較すると、映像の方がはるかにスピードがある。(映像があふれる現代は、スピードこそいのちという「合理主義/資本主義」の本質に根ざしたものだと思うけれど……。)で、ラストシーンのように、哲学をことばで語らせると、それが重たくて、映像からずるずると遅れて、落ちてしまうのだけれど。
 一か所、逆のシーンがある。
 森の中を逃走するシーン。そのシーンに、疲れたなあ、腹が減って動けない、というような台詞が重なる。だれが言っているのかわからない。ナレーションのように、ひとりひとりのことばが流れる。その区別のなさがスピードとなって映像に打ち勝っている。映像が、無意味なまま(自己主張することなく)、ことばを追っかけている。
 これはおもしろいなあ、と思う。
 「意味」からこぼれ落ちて、映像を突き破って、そこに存在することば--もし、思想をことばで語るとしたら、こういう具合になるのだなあ、こういう腹が減って動きたくないなあ、こんなことはいやだなあ、ということばこそが「反戦の思想」そのものとして生きるのだと思った。

 変な映画だけれど、この映画を見ると、それまでに見たキャーブリックの映画のなかで見落としてきたものが、ふっと浮上してくる感じがして、まあ、見てよかったなあと思った。キューブリックのファンだから、そう思うのかもしれない。キューブリックのやっていることに興味がない人には、「紙芝居」に見えるかもしれないが。
                      (2013年11月24日、KBCシネマ2)

恐怖と欲望 Blu-ray
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)
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藤田晴央『夕顔』

2013-11-25 09:33:12 | 詩集
藤田晴央『夕顔』(思潮社、2013年11月14日発行)

 藤田晴央『夕顔』は亡くなった妻のことを書いている。「土」という作品がいちばん印象に残った。

一時退院の日は
めずらしく快晴
妻は
四十日ぶりの外の空気を吸い
青空に目をほそめた
二週間後には
また入院するのだが
ともあれ
一時放免
放たれた鳩は
丘の上から
残雪が残る岩木山を見た

木戸を入ってすぐに
しゃがんだ妻が
庭の土に手のひらをあてた
「あったかい」
わたしもあててみる
あたたかい
病室では
触れることのできないものたち
妻はまずはじめに
土を選んだ

 庭の土があたたかかったのはなぜだろう。春だからか。自分の家の庭だったからか。たぶん、後者だろう。自分が生きてきた家、その庭。その土。それを確かめている。
 藤田はそれを自分の手のひらで感じている。同じ庭の土に手のひらをあてるとき、そして土のあたたかさを感じ取るとき、その手のひらは藤田の手のひらであって藤田の手のひらではない。藤田の妻の手のひらである。「ひとつ」になっている。
 「ひとつ」になってわかることは土のあたたかさだけではない。妻は病院にいるときはふれることができなかったものがある、ということを藤田は知る。そして、その触れることのできなかったものに触れているということが、わかる。
 この「わかる」がとても自然な形であらわれている。
 春の土のあたたかさ--それを藤田は知ってはいるが、いまはじめて「わかる」。妻が望んでいるものは、こういう手でふれるあたたかさなのだ、と。そして、妻はあらゆるものを手のひらで直接感じ取ろうとしているのだということが「わかる」。「直接」が「わかる」。妻は「直接」を求めているのだ。
 藤田は、このとき妻になっている。「直接」が妻だと「わかる」。
 「わかる」ということは、自分が自分ではなくなり、他人になってしまうことだ。愛とは、自分が自分でなくなってもかまわないと覚悟して、ひとりのひとに「直接」重なってしまうこと、「他人」になってしまうことだが、--それがとても自然な形でここには書かれている。

 「夕鶴」も美しい。

妻は
中学三年のとき
木下順二の『夕鶴』のつうを演じた
背が高くてほっそりした少女は
鶴の化身にぴったりであっただろう
どんなにか少女は
つうの語る言葉を
くりかえし
そのほそいのどに飲み込んだことだろう
言葉を追って一羽の鶴が
十四歳の少女にはいりこんだ

 ことばを繰り返すとことばが肉体に入ってくる。ことばを追って鶴が少女の体に入り込んだのなら、藤田は藤田自身が書いたことばを追って妻のなかに入っていく。入っていくためにことばをととのえる。入っていくために、何度も何度も詩を書く。一篇の詩ではなく、何篇もの詩を書く。「肉体」は広い。どこまでも広がっている。その広がりのすべてへ入り込み、一体になるために、藤田はことばを書く。
 その藤田の生き方が静かな形で、この詩集にあらわれている。




夕顔
藤田 晴央
思潮社
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西脇順三郎の一行(8)

2013-11-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(8)

 「馥郁たる火夫」

 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。

 この1行も、「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」の「しかしつかれて」と同じように、複雑なイメージ(新しいイメージ)をもっているとはいえない。詩的な印象からは遠い。どちらかというと「俗」である。「現実」である。
 「そこは通路ではない。」だから、通るな--ということ。これは詩のなかにあらわれた突然の「現実」である。
 詩とは「手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い」である。異質なものが偶然出会うとき、そこに詩が噴出する。そして、まわりが「詩的言語」に満ちあふれているなら、そこには「現実」こそが「ありえないもの」になる。
 ある状況を攪乱することばこそ、詩なのである。「俗」があふれかえる豪華なイメージを洗い流し、詩の骨格をあばくのである。
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ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(藤倉孚子訳)(2)

2013-11-24 11:59:16 | 詩集
ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(2)(藤倉孚子訳)(書肆半日閑、2013年11月01日発行)

 ゲルトルート・コルマルのことばの強靱さ。--それは、言い換えると「思想」の強靱さ、「肉体」の強靱さということになるのだが。
 どんなふうに私のことばで言いなおすことができるだろうか。言いなおす、つまり、私の感じたことをこの文章を読んでいるひとに伝えることができるかどうか、まったくわからないのだが、私が「あ、強いことばだ」と感じるのは、たとえば「黄色い薔薇」。

黄色い薔薇、やさしく暗く葉に囲まれて
鳩色のブルーグレーの花瓶にいけられ、
黄色い薔薇は盛りの花頭を開き、
香りやサフラン色の花粉をもって、

私の部屋を通って行く、夢のように漂いながら、
一度も歌ったことのない金色の嘴(くちばし)の白鳥のように、
私のまわりに喜んで寄ってきても、気にしない、私が誰かなんて、
私の黒い髪の下の赤い血がどこから湧いてきたかなんて。

薔薇は穏やかで寛容で女のように長もちせず、
永遠の死を飾る花輪からすべり落ちたのだろう、
死神は外で、鳩のブルーグレーの夕闇のなかで待ち焦がれ、
ある書に触れ、頁をめくる指の鉤爪が黄色になっている、

 冷酷なもの、人情を無視して動く摂理に向き合って、そのなかで自分の「肉体」を主張している。
 ゲルトルート・コルマルの「頭(肉体としての頭)」には、ほかの人間と同じように血が流れている。けれど「私の黒い髪の下の赤い血がどこから湧いてきたかなんて」、だれも「気にしない」。「気にかけない」。配慮しない。そういう非情さ(無情さ)をしっかりと「肉眼」で見ている。(きのう読んだ詩のなかで生まれてこなかったこどもを見ていたのも、この「肉眼」である。)
 非情/無情が「肉眼」で見えてしまうから、もともと「情」とは無関係な薔薇がいっそう「非情の美」として、そこに存在することになる。その美の前で、 ゲルトルート・コルマルはうろたえない。泣き叫ばない。非情をさらにこじ開けるようにして、美を刻印する。忘れられないことば、リズムにして、吐きだす。

私の部屋を通って行く、夢のように漂いながら、
一度も歌ったことのない金色の嘴の白鳥のように、

 白鳥の最期の歌は死の歌。「夢」は「死」である。死がゲルトルート・コルマルに訪れても、だれも「気にしない」。彼女がだれであったかも、だれも気にしない。しかし、そのだれも気にしないゲルトルート・コルマルの肉体(頭)のなかにも血はしっかり流れているのだと、ゲルトルート・コルマルは抗議する。
 ただ怒るのではなく、その絶望の瞬間にも、彼女には美が見えるし、それをことばにすることができる--非情と向き合い、なおかつ情を存在させる力が彼女にあると、しっかりした口調で最後まで言い切る。

 「悲しみ」にも強い響きがある。「子供は私を引き裂かなかった、/胎内から身体を突っ張って出てこなかった、」という強烈なことば、女の「肉体」の実感はこういうものだ、と叱りつける強さをもった作品なのだが、その途中の次の連。

むき出しの板に囲われて
私の一日は野の椋鳥(むくどり)の群れと一緒に眠る、
芥子(けし)や種付け花をいっぱいに抱いて、
滴をたらし、熟してあたたかく、
烈しい突然の雨のなかで。

 自分自身の柩のことを書いている。柩に入った自分のことを書いているのだが、「滴をたらし、熟してあたたかく、/烈しい突然の雨のなかで。」には何か矛盾のようなものがある。「あたたかく」と「雨のなか」が反対方向のベクトルをもっている。「椋鳥の群れと一緒に眠る」と「雨のなか」が、やはり矛盾する。それは、逆方向の何かを動かす。ぶつかりあうか、真っ二つに分裂する。
 ゲルトルート・コルマルは矛盾を恐れない。--というより、世界をことばでととのえようとはしない。自分をことばでととのえて落ち着かせようとはしない。制御しない。抑圧しない。
 解放するのだ。
 ことばで世界をととのえるのではなく、世界をととのえようとすることばを破壊し、それを宇宙へ解き放つ。強い響きが、宇宙を貫く。
 ゲルトルート・コルマルのことばの前では、私たちは世界ではなく、宇宙と向き合うことを強いられる。個人と向き合うことを強いられる。「現実」ではなく「真実」と向き合うことを要求されるひとりの、生身の人間と向き合うことを強いられる。。世界に存在するのは、世界というの確立したものではなく、ひとりの肉体をもった個人である。個人が存在し、その個人が自分にふさわしい「非情」を引き寄せる。「非情」は個人を鍛え、ととのえる。そういうものと真っ正直に向き合う--そういう緊迫感、覚悟に満ちた力が、世界を宇宙に拡大し、同時に凝縮させる。俳句でいう遠心・求心のような、強靱な音楽が、そこにある。



フルトヴェングラー家の人々――あるドイツ人家族の歴史
エバーハルト・シュトラウプ
岩波書店
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