詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2016-05-12 00:00:00 | 長田弘「最後の詩集」
しばらく休みます。
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カニエ・ナハ「馬、山、沼」

2016-05-07 09:27:57 | 長田弘「最後の詩集」
カニエ・ナハ「馬、山、沼」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 カニエ・ナハ「馬、山、沼」は、中原中也賞、エルスール財団新人賞受賞第一作。「馬」を読む。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。
不安は少し残っていたが、
すでに忘却に取り組んで
何が代わりに、
空隙を
私たちは苦い経験をしたいと
志願して
一族のような悩みをかかえている
それを語り合い
信仰を固める
日について
漠然とした、
一人が話し始めると、
次第にうつろっていく
現実

 一読して、何が書いてあるのか、不安になる。ことばは何となく「わかる」。「知っている」とは断言できないが、どれも聞いたことのあることばである。けれど、私がふつうに話すときのようにはつかわれていない。
 学び始めたばかりの外国語のテキストを読んでいる感じ。ことばの、ひとつひとつは「知っている」(聞いたことがある、読んだことがある)。けれど、それが、どうつながっているのか「わからない」。知っているはずなのに、知らない世界にいるという不安に襲われる。
 こういう不安に引き込むのが、確かに詩ではあるのだろうけれど。

 「ことば」が「わからない」というのは、「主語/述語」の関係が「わからない」ということでもある。
 この作品には句点「。」がひとつ。ということは、これは「ひとつ」の文なのかもしれない。
 で、その最初の(最後の?)句点「。」があらわれるまでの部分。

偶然、
祖先と同じ夢を見て
表白して
椅子の
その痕跡としての
人はほとんど失われた。

 「主語」は何か。わからない。「述語」もわからない。「述語」は一般的に「動詞/用言」がになっている。そこで「動詞」を見ていく。「(夢を)見る」「表白する」「失われる/失う」。「夢を見て、それを表白して(語って)、何かが失われた/失った」と「述語」は語っている。「夢」と「失われた」何かが重複するかもしれない。いまは「失われた」ものが「夢」に見られたのである。その「夢」は「祖先」が見つづけた「夢」であり、それは「祖先」にとっては「現実」だったかもしれない。祖先は「現実」が「夢」にあらわれてきた。言い換えると「現実」に体験してきたことを「夢」で反復することができた。しかし、いま「書かれていない主語」は、それを「失われた夢」として見ている、「失われた夢」として語る。「書かれていない主語」にとっては、それは「現実から乖離して/現実を失った夢」なのだろう。
 そういうことが「動詞(述語)」と、そのまわりで動いていることばから推測できる。
 「失われた」と直接結びついているのは「人」である。「人は/失われた」。これは「人は/失った」ではなく、そこに書かれている「人」以外の「人」が、「話者(主役/主語)」から「失われた」。「主語」は「ひとを失った」ということになるかもしれない。
 このとき、「人」は別のことばで言い換えられていないか。
 「椅子の/痕跡としての/人は」とことばはつづいている。「人」は「椅子」を思い出させる。そこに「椅子の痕跡」がある。「椅子」は座るもの。「座る/腰を下ろす」という「動詞」が「椅子」のなかに隠れているかもしれない。
 「馬」というタイトルを考えると、「椅子」と呼ばれているのは「鞍」かもしれない。「椅子」は「鞍」の「比喩」。昔は、馬は「人」を「鞍」にのせて(椅子に座らせて)、走った。その「思い出」のようなものを、「偶然」夢に見た。「夢」のなかで「祖先」になっていた。しかし、そういう「夢/思い出」を表白してみると(語ってみると)、いまは、そうしたことがすべて「失われている」ということがわかる。
 これは「馬」が語っていることばなのだろう。「主語(主役)」は「馬」なのだろう。あるいは「馬」のことをよく知っている人が、「馬」と一体になって、「馬」のかわりに語っていることばなのだろう。
 で、後半というのか、倒置法で書かれた、ほんとうならば「前半」というのか……。あるいは倒置法の形で書かれた追加、言い直しなのだろう。最初の六行が、句点「。」以降で言い直されているのだろう。
 その後半で最初に目につくのが「語り合う」「話し始める」という「動詞」。これは最初に見た「表白する」と同じ「動き」だろう。何かを「ことばにして」語り合う、話し始める。
 何をことばにしたのか。
 「失われた」は「少しは残っていた」と言い直される。さらに「忘却に取り組む」と言い直される。「忘却に取り組む」とは「忘れようとする」ということだろう。「忘れようとする」のだが、そういう意識の動きとは逆に何かが「思い出されてしまう/忘れられない」。ただし、それは強い印象があるから忘れられないのではなく、一種の「習慣」のようなものだから消そうとしても消せないのかもしれない。
 そのいつまでも残る記憶、「夢」のような「不安」とは「椅子の/その痕跡」を言い直したものだろう。
 「人」を「座らせて」(人の椅子になって)、なおかつ走る、歩く。それは「苦役」(苦い経験)かもしれない。ただ歩き、走るのとは違うので、それなりの「苦しみ」があるかもしれない。しかし、それはまた「充実」した時間かもしれない。生きている感じが、そのときにあふれるかもしれない。「人」を乗せて歩く、走るという「仕事」を「志願する」。そういうことをもう一度してみたい。矛盾しているが、そういう感情はあるかもしれない。
 矛盾しているから「悩み」と、それは言い直されている。「一族」というのは「馬」という存在であるだろう。「カニエ」一族というような、人間の「親類関係」ではなく、「馬」を指しているように思える。
 「人を乗せる」というのは、一種の「苦役」かもしれないが、「苦役」をとおして何かが見える。「信仰」ということばが、「苦い経験」とかたく結びついている。人を乗せて生きていた時代の、人と馬の「信頼関係」のようなものか。
 そういうことを「話し始める」と、「うつろっていく/現実」がある。これを倒置法と理解した上で「現実が/うつろっていく」と読み直すことができるだろう。「一人」は「馬」を擬人化した表現だろう。
 先祖の経験した「苦い経験」(人を乗せて、歩く、走る、人のために働く)ということを語るなかで思い出す、人との信頼関係が、「夢」として見えてくる。かなえられない夢かもしれない。いまは、「人」を乗せていない。背中に「鞍」(椅子)もない。その「ない」は「空隙」である。「空隙」に「夢」は侵入してくる。

 そういう「馬」の「語り」として、私はこの作品を読んだが、まったく違ったことをカニエは書いているのかもしれない。
 私は馬は見たことがあるが、乗ったことはない。馬と一体になって何かをしたという経験がない。馬との一体感を、私の「肉体」はまったく知らない。だから、ここに書かれている「動詞」を「馬」の感覚(馬に乗ったときに感じる馬の肉体感じ)ではとらえきれない。
 だから、きっととんでもない勘違いをしているかもしれないのだが、そういうふうにしか読めない。

 いま、「現代詩」では、このカニエの作品のように「主語/述語」の関係が「学校文法」とは違った形で動く作品が多くなっているように私には感じられる。「主語/述語」の遠さ(それこそ「空隙」?)に、他の存在や運動が「比喩」のようにしてまぎれこんできて、世界を攪拌する。「主語」/述語」の「分節」を解体し、ずらしながら、見落としてきたもの「未分節」に分け入っていく、そこから新しい「動き/動詞」を生み出すということなのだが……。
 私がとても気になるのが。
 そのときの「題材」の「古さ」である。
 このカニエの作品で言えば、なぜ、馬? (他の作品も、「山」「沼」と、都会の日常にはない存在が「タイトル/テーマ?」に選ばれている。)
 「いま/ここ」に生きている「肉体」が感じられない。「過去」の「肉体」しか、感じられない。「肉体」の「未分節」に分け入っていくと、そこはどうしても「過去」ということなのかなあ。
 なんだか「頭っぽい」という感じが、ひっかかる。こんなふうに「分節」しなおせば「現代詩」になると「知って」書いている感じがしてしまう。

用意された食卓
カニエ・ナハ
青土社
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川口晴美「閃輝暗点」

2016-05-05 14:25:51 | 長田弘「最後の詩集」
川口晴美「閃輝暗点」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 「現代詩手帖」2016年05月号に、いろいろな賞の「受賞第一作」が発表されている。川口晴美「閃輝暗点」もその一篇。高見順受賞。

いちにちのことを終えて
それはもちろんいちにちでは終わらないから日付は変わっていて
それでも終わらなかったことはため息といっしょに部屋の隅に押しやって
テレビをつける
深夜アニメを見るために
じぶんを少しだけ許すみたいに
フラットでにぎやかな人工の色を浴びて光に包まれると
それはあたたかくもなく冷たくもなく
ようやくわたしはここにいなくなることができる

 「わたしはいなくなる」。たぶん、そういう感覚を書きたいのだろう。「いなくなる」といっても「現実」に「いなくなる」わけではない。むしろ、意識としてに「わたしをいなくなさせる(わたしを消す)」ということがしたいのだろう。
 「わたしを消す」という欲望。それは「他者に共有されたわたし」を消したいという欲望であり、「他者に共有されないわたし」として生まれ変わりたいという欲望かもしれない。「欲望」ということばは「できる」という形であらわされている。「できる」は「したい」の先にある。
 「いなくなる」に関心がいってしまうのは、たぶん、

いちにちのことを終えて

 その書き出しに「終えて」ということばがあるからである。「終える/終わる」は「切断」である。他者との関係(共有された何か)を「終える/終わらせる」。
 しかし、その「終える/終わる」は、簡単にはできない。
 「終わらない」。
 「終わらない」はさらに「終わらなかったこと」と言い直されている。「いちにちのこと」の「こと」が「おわらなかったこと」の「こと」のなかに繰り返されていて、それが「終わらない」をひきずる。
 「他者に共有されたわたし」は「消えない」。「他者との関係」は「切断されない」。「切断できないまま」それを、意識のうえで「部屋の隅に押しやる」。
 そのうえで、

テレビをつける
深夜アニメを見るために

 ここが川口の特徴なのだろう。「テレビ/深夜アニメ」は「他者に共有されたわたし」から「他者」を切り離すための「方法」なのである。「テレビ/深夜アニメ」は私にとっては「他者」である。「他人」がつくり出したものである。私はテレビもアニメも見ないから、こういう言い方は正確ではないのだが、ところが川口は「他者」とは感じていない。むしろ、「わたし自身」と感じているようでもある。
 「人工の色」の「人工」ということばにこだわれば、そこに「他者(人)」の存在があるのだけれど、その「他者」は「人間の自然な肉体」を持っていない。「自然」ではなく「人工」であることで、「人間」を超越する。「人間」を「切断」する。「人間」を「自由にする」。
 「人工」ということばをつかっているが、その「人工」には「人」は関係していない。「人工のこと」と言い直して、その「こと」と「わたし」が一体になる。そのとき「他者に共有されたわたし」は「いなくなる」という感じなのだろう。
 川口の作品には、しばしば「他者」が作りだした「フィクション」が引用されるが、そのとき川口が引用しているのは「他者」を「除外」した「フィクション(こと)」だけであり、その「こと」のなかへ川口は入っていき、川口自身をも「フィクション」にしてしまう。「フィクション」として生まれ変わる。
 いや、それでは「ドン・キホーテ」になってしまうか。
 引用すると長くなるので引用しないが、川口は「フィクション/人工」のなかで、今度は「人」を真剣に「切断」する。切り離す。

負けていくわたしや誰かは
他の誰かのために消費される物語じゃないからたぶん夜はまたあける)

 こういう二行が後半に出てくる。「誰かのために消費される物語」というものを川口は拒否しようとしている。
 書き出しの「いちにちのこと」というのは「誰かのために(わたしが)消費される物語」と言い直されていることがわかる。「誰かの物語」のために「わたしが消費された」。その「消費されるわたし」を「いちにちの終り」に「終わらせたい」。「誰かのために消費されないわたし」に生まれ変わりたい。

 うーん。

 「意味」としては、「頭」ではわかったような感じになるのだが、私は、こういう感覚にはついていけない。
 「人工」を通して「人(他者)」との関係を見つめなおすというところが川口の「現代性」なのかもしれないけれど、私は、なじめない。「テレビ/深夜アニメ」も「暮らし」なのかもしれないけれど、本物の人間と向き合って、他者と自分との関係をどう組み立てなおすかということを書いてもらいたいというか、そういうものを読みたい気持ちがある。「人工のこと」は「やっぱり結末はかわらなくて/わたしは許されずにここにいる」という「敗北/抒情」に逃げ込む(昇華する?)のでは、「新装オープン抒情詩」を読まされた気持ちになる。
 書き出しの三行を延々とつづけてほしい、延々とつづけながら少しずつ変わっていく川口の「肉体」を読みたいなあ、と思う。


Tiger is here.
川口 晴美
思潮社
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福田拓也「「倭人伝」断片」ほか

2015-12-31 11:11:11 | 長田弘「最後の詩集」
福田拓也「「倭人伝」断片」ほか(「hotel第2章」37、2015年12月01日発行)

 詩とは何か。散文ではないもの、と定義すると簡単かもしれない。散文は論理でもある。だから論理ではないものが詩。論ではないは、論理を逸脱/破壊すると言い直すこともできるかもしれない。だから、詩とは論理を逸脱/破壊するものとできる。
 でも、この定義は危険だ。論理というものに頼りすぎている。論理とは何? 論理とはどこにある? そのことが明らかにならないかぎり、詩を定義したことにならない。つまり、繰り返しに陥ってしまう。
 --と、書いてわかることは、こういう抽象的なことは、ただ延々とつづいていくだけで、何も書いたことにならないということ。
 だったら書かなければいいのだが、なんとなく書いてしまった。書かないと、次のことばが出て来ないのだ。

 福田拓也「「倭人伝」断片」。その一連目。読点「、」はあるが、句点「。」は出て来ない。文章が終わらない。完結しない。つまり「論理」がない。「論理」とは、結論によって成立するものだからだ。(と、また抽象的なことを書く。)福田は、文章を終わらせない、という方法で詩を生み出そうとしている、と言い直すことができる。
 では、どうやって完結させない?

前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くう
ちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に
出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の模様を頼りに、しきりに
自分の身体に刻された傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四
通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわた
しの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光
と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るも
のがある、

 読点「、」に目を向けると、「頼りに、」「傷、」「痕跡、」「想うばかり、」「揺れ、」「動き」、「ある、」。「傷、」「痕跡、」は名詞+「、」だが、あとは動詞に連続している。動詞には「終止形」というものがある。終止形にすれば、文章は「終わる」。福田は、それを避けている。ある動詞から、次の動詞へと、ことばを連続させている。そうすることで、完結を避けている。最後の「ある、」も、福田の意識としては「あり、」だろう。
 この連続は、しかし、完全な連続とは言えない。「たよる」「想う」「揺れる」「震える」「ゆれ動く」「ある」は、その動詞自体として相互に関係があるわけではない。むしろ、断絶/切断している。連続しているのは「主語」である。
 この作品で言えば「わたしの身体」「わたしの睫毛」が「は」という格助詞をもって「主語」となっている。それは「わたし」と言い直すことができると想う。
 福田の意図がどうであれ、私は、ここには「わたし」というもの(わたしの身体、と福田は言うだろうか)が「連続」していると読んでしまう。
 後半の「震え、」「揺れ動き、」の「主語」は「水面」「光と影」なのだが、それは「わたし」が「見た」(把握した)情景であり、やはり強引に「わたし」というものが世界を連続させていると読むことができる。最後の「ある、」も「かがよい現われてくるものがある」と認識する「わたし」によってとらえられた世界と読むことができる。
 「わたし」という存在(身体)が連続している。それを利用して、福田は、動詞の不連続性を連続に変える。
 そう読むと……。
 これは結局、「わたし」の連続性を少し変わった手法で書き直した「抒情詩」に見えてくる。「わたし」が切断されながら、なお連続(持続)していくとき、「抒情詩」が見えてくる。
 抒情詩というのは、「わたし」が切断される瞬間、連続性が否定される瞬間の「陶酔」が大きなテーマになっているが、この詩でも「傷」「痕跡」というような「切断」を象徴することばが動いている。それは「象徴」として「こころ」に刻まれるものだけれど、それを「身体」そのものに刻まれた形で書いていることが見えてくる。
 この「傷」「痕跡」が「年」ではなくて「名詞(イメージ)」であることが「叙情性」に拍車をかける。「名詞」は静止している。「身体」を静止状態でとらえるということは、ある瞬間(時間)の強調である。スローモーションではなくストップモーション。動くことを忘れ、「身体」に陶酔する。ナルシズム。センチメンタル。ここから抒情まではほんの少しだ。隣接するというよりも、ほとんどまじりあっている。
 その延長に「睫毛」とか「微かに」とか抒情詩っぽい、ことばも見つけ出すことができる。
 しかし、このことばの動きが「抒情詩」であることを、何よりも証明するのが、二回登場する「あの」である。
 「あの出来事」「あの水面」。
 「あの」とは「ここ」にないもの。「ここ」から遠くにあるもの。それは読者にはどこにあるかわからない。知っているのは書いている作者(福田)だけである。「わたし(福田)」の「肉体/意識」のなかには「あの」が残っていて、それが「わたし」の「連続性」と一致している。
 「あの」と呼ぶことができる「連続性」が「わたし」の「連続性」となって、存在している。それがあるから、動詞は瞬間瞬間に逸脱して行くことができる。論理を分断していくことができる。論理が切断されることで、そこに逆に「こころ」の連続性も見えてきて、それが「抒情」へと結晶していく。

 で、これが、と私は飛躍するのだが……。
 三連目。

いつもそうだった、このように私は山の岨道を辿りながら曲がりくね
る草深い道沿いの山の中に迷い込み、

 その連続性が「いつもそうだった」と言い直される。そして、そう言い直されるとき、その「いつも」は「わたし(福田)」の「いつも」をはみ出し、すべての人間の「いつも」のように響いてくる。
 抒情は共有されて詩になる。「いつも」のなかには、その「共有」があると感じてしまう。
 最初は「わたし(福田)」だけの「連続性」だったものが、「抒情」という形で読者(他者)へと連続して行き、そのことで同時に「わたし(福田)」の感じだ「切断/断絶」が読者のものとなる。
 こんなめんどうくさいいい方をしなくても「倭人伝」という書物を主題にしているのだから、そのなにか「歴史=共有された時間」があると言ってしまった方が感嘆なのかもしれないが。そこから出発すると、共有された時間という歴史を「わたし(福田)」がことばで分断し、読者の「身体」に傷をつくり、それが読者の「身体」に「痕跡」を残し、その「痕跡」という「事実」から「叙事」が動くということになる。「あの」もひとりの記憶ではなく、「共有」された「事実」になる。--福田の思いは、「抒情詩」ではなく「叙事詩」なのかもしれないから、ほんとうはそう書いた方がいいのかもしれないという思いは残るのだが、
 私には「抒情詩」に見えたので、こういう書き方になった。



 根本明「風車ではなく」には、

街道の夜の鉄はしへと変化(へんげ)のひとつ〔そして希望とは何か〕略して〔希望〕が唐突ながら突き進むのだとする。

 という魅力的なことばがあって、後半には、その〔希望〕が何度か出てきて、ことばをひっかきまわす。それがおもしろい。福田の詩と関連づけながら、そのおもしろさを書きたかったのだが、目が痛くなったので、今年の感想はここでやめる。中途半端だが。

まだ言葉のない朝
福田 拓也
思潮社

*

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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高木護「葉書」

2015-12-22 00:27:02 | 長田弘「最後の詩集」
高木護「葉書」(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)

 高木護「葉書」も、とてもめんどうくさい詩である。おもしろいのだが、どこがおもしろいのか、それを言おうとすると、自分の「肉体」をひっかきまわさないといけない。「風景描写の繊細なことばが、そこに書かれていない現代の人間社会への鋭い批評となっている」というような、「定型のことば」では要約できない。高木は、そんな「簡単」なこと(流通詩/流通する批評を受けいれる詩)を書いていない。
 何を書いているか。

膝の痛みで歩けないので
弁当の世話になっています
病院も人の世話になって
病院がよいをしています
なさけないです
まだ病院がよいよりも
弁当にころがっているほうがましのようです

 「近況」を書いている。近況を「なさけないです」と嘆いている。
 で、この詩の何がおもしろいか、どこがおもしろいか。
 私は二行目に出てくる「世話」がおもしろいと思った。「世話」について書きたいと思った。この「世話」は三行目にもつづけて出てくる。そして三行目の「世話」の方が「わかりやすい」。
 「世話」とは、ひとの助けを借りること、という意味だね。病院へ通うにも、自分ひとりでは通えない。ひとの助けを借りて通っている。「世話」は「名詞」だが、それが「事実」になるためには、そこに「ひと」がからんでくる。「ひと」の「肉体」が動く。だからこそ、三行目では「人との世話になっています」と、そこに「人」という「主体/動詞の主語となることのできる存在」が書かれている。
 でも、「弁当」は? 「弁当」が動いて、高木に何かをする? そんなことはない。だから、二行目の「世話」という表現は、ちょっと変。
 それなのに。
 「わかる」。「弁当の世話になる」ということばが、「わかる」。
 ひとりでは食事もつくれない。つくってくれるひともいない。だから、誰かがつくってくれた弁当を食べて生きている。それは、誰かの「世話になって」生きているということ。「弁当」の背後には人がいる。「弁当の世話になる」は「弁当をつくるひとの世話になる」ということ。その誰かが「わからない」から、そのひとのことは書かずに「弁当の世話になる」と言う。
 高木は自分のことを書きながら、同時に自分と「ひと」のことを書いているのである。「ひと(他人)」の力を借りないと何もできない。そのことを「なさけない」と言っている。「ひと」の力を借りるということは、「ひと」の時間を奪うということでもある。そういうことを気にするひとなのである、高木は。
 で、「弁当にころがっているほうがましのようです」というのは、「弁当」をつくってくれているひとと高木が直接関係しないからである。弁当を食べて、自分の家で寝転んでいるだけなら、まだいい。弁当をつくるひとは、高木ひとりのために弁当をつくっているわけではないだろう。個人的に、そのひとを「独占」しているわけではない。そのことが高木をいくらか気安くさせる。「まし」だと感じさせる。
 「病院がよい」は、どうしても誰かが高木といっしょに「同じ時間/同じ場所」にいる必要がある。高木は、気兼ねしてしまうのである。
 この「世話(する)」を、高木は次のように書きかえている。言い直している。

人さまがめんどを見ていると
なお歩けなくなってきて
足もよたよたになってきて
なお歩けなくなってきます
こうなったら
なお歩けなくなってきます

 「世話をする」は「めんどうをみる」。「世話をされる」は「めんどうをみてもらう」。「めんどう」は「手数がかかる」ということ。いつもよりも「手間」がかかる。誰かの「自由」に動く「手」を「自由」にさせないということ。
 ひとにめんどうをかけるのが「なさけない」。自分ひとりで何もできないのが「なさけない」。そしてひとにめんどうをみてもらっていると、さらに動けなくなる。そのことも「なさけない」。
 さらにそのことが「なお歩けなくなる」という肉体の変化を助長する。ひとの助けを借りていると、ひとの助けがないと歩けない状態にまで肉体がずぼらに後退する。困ったなあ。高木は「なおおあけなくなってき(きます)」を三回も繰り返している。「歩く」、自分で動くということは、高木にとっては重要なことなのだ。(これには過去の思い出、戦争の体験が関係しているのだが、それはこのあとわかる。)
 そんなことは気にしなくてもいいんだよ、とここで言ってもはじまらない。そんな「美辞」では高木は安心はしないねえ。
 そう思いながら読み進むのだが……。

戦地でふせっているとき
まったく歩けなくなって
おんぶされていましたが
こうなったら死んだほうがましだと思いましたが
そのときもなさけなくて
死んだふりをしたりもしていました
死人あつかいもされました

 いやあ。なんて言えばいいのか。なんと言っていいのかわからないが、ここがすごい。とくに最後の二行が、とても強い。
 高木には「歩けない」思い出がある。「なさけない」戦争の思い出。「なさけない」と思い、「死んだほうがまし」と思った。戦場で歩けない人間の世話をすることは、世話をするひとも死の危険にまきこむ恐れがある。自分のために誰かが死んではもうしわけない。それでは「なさけない」ということだろう。
 で、ここにも「……するより……するほうがまし」という「構文」が出てくる。比較して考えるひとなんだなあ、高木は。
 では。
 書かれていない「……するより……するほうがまし」をつけくわえてみようか。
 いま「弁当の世話になっている」のと、戦争のとき「ひとの世話になった」のと比べると、どちらが「まし」なのかな?
 高木は書いていないけれど、いまの方が「まし」。
 なんといっても「死人あつかい」をされない。
 いや、ほとんど「死人あつかい」されている、と感じて怒っているのかな? 現実に対して、怒っている。怒っているけれど、ここで怒ると「めんどう」になるので「死んだふり」をいまもしている。そうやって「死人」にならずに、生きていると、言っているのかな?
 「世話になる」ことを気にしながら「世話をするのは当然」と、ぺろりと舌を出しているのかもしれない。戦争を生き残ってきた。苦労してきた。「世話くらいしてくれよ」と言っているのかもしれない。
 こう書いてしまうと、きっと「高木に対して失礼だ」という批判が来るなあ。高木からも「抗議」が来るかもしれない。
 いろんなことを思うのだけれど、それをそのまま書くことで高木と向き合いたい。そういう気持ちになる。こんな感想で高木と向き合うと、ほんとうに「めんどう」が起きそうだが、そういう「めんどう」が生きていることなのだと思う。抗議する(怒る)というのは、高木にとっても「めんどう」だと思うが、そういう「めんどう」と「めんどう」が向きあいながら、「負けないぞ」「生きてやるぞ」と思うことが、きっと楽しい。

 この詩を読みながら、私は、「死にそう」、でも「生きている」という、「肉体」を感じた。それは「こんなに元気に、幸せに生きている」と書かれた詩よりも、強く「生きている」感じが迫ってくる。
 私が高木の「世話」をしているわけではないのだが、この詩を読むと高木を「世話」している気持ちになってくる。つまり、目の前に「肉体」として高木が見えてくる。
 そして、こんなしぶとい「肉体」を見ると、乱暴な気持ちにもなる。「こいつ、まだ死なないのか」と言ってみたい衝動に襲われる。そういわないと我慢できないという気がしてくる。人間には、何かつらいことをするには、暴力的にならないとくぐりぬけられないことがあるのかもしれない。言ってはいけないことも、言ってしまわないと自分が生きていけない。そういうこともあるかもしれない。
 そういう乱暴、冷酷を働いたあと、それでもなおそこに「生きている肉体」を見出し、その「肉体」の強さを、「思想」そのものの強さとして感じ、何か、畏怖の念に打たれる。
 あ、高木自身が、自分の「肉体」の「世話」をしているのだ、と気づく。他人が高木の「世話」をするよりもはるかに多くの時間と努力で、高木は、しぶとい「肉体」の「世話」をしている。その「世話」があまりにも熱心というか、強い何かなので、ひとはそこにまきこまれていく。ひとをまきこむために、高木は高木自身の「世話」をしている。「めんどう」を見ている。
 そこに、何とも言えない強さを感じた。

爺さんになれたぞ!
高木 護
影書房



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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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高木敏次『私の男』

2015-10-20 12:21:36 | 長田弘「最後の詩集」
高木敏次『私の男』(思潮社、2015年09月15日発行)

 高木敏次『私の男』は書き出しが刺戟的だ。

私のことを
私の男と呼んだ
まるで男を見つめるように
私を見つめていた
男とは約束だった
私に会わせると
誰にも言わず
どこかへ連れて行くこと

 「私」と「男」ということばが出てくる。
 最初の二行で、「私」と「私を私の男」と呼ぶ「私」が登場する。ふたりの「私」は同一人物ではない。「私の男」と呼ばれるとき、「私」は「私」であると同時に、「私」ではなく「私の男」である。「私」を「私の男」と呼ぶ人間は「私」ではないが、その人間は自分自身を「私」と呼んでいる。その「私」を「私の男」と呼ぶ人間を「女」と仮定することもできるし、「男」と仮定することもできる。「男」と仮定した方がより刺戟的になる。論理がごちゃごちゃになって、楽しい。
 「私を私の男と呼ぶ」人間は、「私」を「男」を見るように見つめる。そのとき、「男」とは誰か。どういう存在か。そこに存在しない「別の男」を見る、という意味かもしれないが、「別の男」とは何か。単純に「私ではない男」「私を私の男と呼ぶ私ではない男」か、それとも「私のなかに存在する男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか、それとも「私の男」と呼ぶ人間が「思い描く男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか。いずれにしろ、「いま/ここ」には存在しない「男(人間)」だろう。「いま/ここ」の瞬間には「見えない」人間だろう。
 「男」は「実在」であると同時に「比喩」でもある。「いま/ここ」にいないのだから。
 五行目の「男」とは誰か。「約束」とは何か。「男は約束だった」という一行は「男」そのものが「約束」であるとも読むことができる。比喩である。「約束」とは「希望」であり「願い」でもある。つまりは「理想の男」が「約束」であり、「約束」が「いま/ここにはいない男」である。どちらが、どちらの比喩か。「約束」が比喩か、「男」が比喩か。よくわからない。比喩であるから、やはり「いま/ここ」にはいない。不在が、ことばをごちゃごちゃにする。
 その比喩としての「男」に「私」を会わせる。そうすると、「会わせる」ことを「約束」と読むこともできる。「会わせる」ために「いま/ここ」ではない「どこか」へ「連れて行く」。「連れて行く」は「会わせる」の言い直しである。だから「連れて行くこと」が「約束」であると読み直すことができる。
 「私」「男」「約束」という三つのことばのなかに、その三つが交錯し、区別がつかなくなる。「私」「男」「約束」はことばを動かすための「記号」なのか、「比喩」なのか……。

 この区別のなさ、交錯の加減を、ちょっと整理し直してみる。
 最初に出てくる「私」を便宜上「私(1)」とする。「私の男」と呼んだ「私」を「私(2)」とする。「私(2)」から見ると「私(1)=男」である。そして「私(2)」がやはり「男」(一般的な性の区別)だとすると、数式的には「私(1)=男=私(2)」になる。これを「数式(1)」としておく。
 三行目の「男」が「私とは別の男(私の男ではない男)」と読んでみる。そうすると「私(1)=男=私(2)」とは別なところに、「別な男」が存在することになる。「これを「男(2)」と呼ぶ。そして、「数式(1)」にもどって、そこに出てくる「男(一般名詞)」を「男(1)ととらえなおす。「私(1)=男(1)=私(2)」。そして「男(1)」は「男(2)」ではない。「男(1)≠男(2)」。ただし、「私の男」と限定するとき、それは一般名詞としての男ではなく、何らかの意識が組み込まれた男(理想の男)だろうから数式(1)は「私(1)=男(2)≠私(2)」ということになる。しかし「男(2)」は「私(1)」の理想ではなく、「私(2)」の理想なのだから、その数式は即座に「私(1)=男(2)=私(2)」になる。
 問題は、その「男(2)」がどこに存在するかである。「いま/ここ」ではないどこかだが、「いま/ここ」ではないというのは「時間/場所(時空間)」を指すこともあるが、「男(2)」が「理想の男」だとすると、それは「いま/ここ」に顕在していないけれど潜在しているものと考えることもできる。つまり「男(2)」は「私」の内部にいる、あるいは「私(2)」の内部に隠れている。
 「数式(1)」が現実なら、「数式(2)」は精神世界、比喩の世界である。
 その比喩的世界「数式(2)」の世界を現実世界に引き戻すと「理想の男」を「潜在する男(実現されていない理想)」ということになる。その「潜在している男=私」に「会わせ」るとは「潜在している私」を発見するということでもある。「連れて行く」は「いま/ここ」から「潜在する私の場」を発見するということである。「潜在している私」を「未生の私」と読み直すと、それは「未生の私」を発見し、誕生させるということでもるあ。「新しい私(理想の私?/約束の私?)」として生まれ変わる、誕生する、ということでもある。

 うーん、整理できたのか。逆に、いっそうごちゃごちゃしてしまったのか。
 ごちゃごちゃついでに、もっとごちゃごちゃにしてしまおう。
 「私」「男」「約束」という名詞ではなく「動詞」に目を向けて、ここに書かれていることを読み直す。
 最初に「呼ぶ」という「動詞」が出てくる。主語は「私ではない私」、つまり「私(2)」。「私(2)」が「私(1)」を呼ぶ。「見つめる」も同じ「私(2)」が主語。ただし、このとき「見つめる」は架空を含む。「現実」を「見つめる」のではない。「見つめるように」と「直喩」につかう「よう」ということばがそこにかかわっている。(この「よう」があるからこそ、「私の男」ということばが一種の架空/比喩のように響いてくるのだ。)
 そのあと「会わせる」「連れて行く」という「動詞」が出てくる。「私(1)」が「会う」のではなく、「私(2)」が「会わせる」。使役である。「私(1)」が「行く」のではなく「私(2)」が「連れて行く。」使役である。しかし、その使役の結果(?)、「私(1)」が「会う」、「私(1)」が「行く」ことになる。「私(2)」の動詞に「私(1)」が「動詞」の形をかえながら、同時に動いている。連動している。連動することで理想が現実になる。
 「連動する」という動詞の「連」は「連れて行く」という動詞のなかに存在している。この「連れ」が、今回の高木の詩のキーワードなのだろう。
 「連れて行く」の主語は「私(2)」だが、その「動詞」は「私(2)」だけでは動かない。「私(1)」が存在しないと、動詞として働かない。「私(1)」と「私(2)」は連動している。「私(2)」によって「私(1)」が顕在化する。すでにそこに存在する(潜在する)ものが、「私(2)」によって、隠れながらあらわれる。
 で、そう思うと、最初に書かれていた

私の男と呼んだ

 の「私の男」ということばが指し示すものが、またあぶりだされる。「私の男」は「私(2)」によって顕在化される「私(1)」なのである。それは「私(2)」の働きによって顕在化するがゆえに「私(2)」であるとも言える。「私(1)」だけでは潜在したままの存在だからである。
 この緊密な関係の「旅」が、引用した詩行のあと延々とつづく。

男は私を探し
私は男を信じない
誰が男なのか                          (15ページ)

もう少し
私をしてもよい                         (72ページ)
 
 のような行が、あちこちに登場し、「私」と「男」の関係へと詩を引き戻す。
 で、こうした詩を読むと、どうしても「答え」を出したくなるのだが、詩は答えを求めるものでない。
 しなければいけないのは逆のことだ。

道に迷いたいのに
どう間違えればよいのか                    (9-10ページ)

 詩は、間違えつづけるためのものなのだ。だから、迷い、間違えたまま、ここできょうの感想をやめておく。高木の詩は、「森」や「鏡」を比喩にしながら展開していくが、そのときの緊迫は最初の八行を弱めてしまっているように私には感じられた。もっと「私(1)」と「私(2)」、「男(1)と「男(2)」の錯綜する「動詞」を読みたい、という思いが強く残った。もっともっと間違えたいし、迷いたいので、書き出しだけにしぼる形で感想をやめておく。


私の男
?木敏次
思潮社

*

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こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」

2015-09-13 09:20:58 | 長田弘「最後の詩集」
こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」(「幻竜」22、2015年09月20日発行)

 詩は不思議である。書き方にきまりがないせいだろうか、「幅」が非常に広い。「現代詩手帖」を拠点とする「現代詩」の書き手がいる一方、そういう世界とは無縁なところで書いているひともいる。
 きのう読んだ、阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』のなかのことばは、どちらかというと「現代詩手帖」ではあまりみかけないことばの運動である。ことばの運動の可能性を切り開くという類のものではないかもしれない。けれど、私は、何かひっかかる。「現代詩ではない」と、感想を書かずにそのままにしておくのは「もったいない」感じがする。そこに書かれていることば、ことばのなかで動いているものを引き継いで、ほかのことばを動かしてみたいという気持ちになる。
 そういう作品を、きょうも読んでみる。
 こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」は「神々たそがれ七十年」というタイトルでくくられた作品のうちの一篇。「七十年」は「戦後七十年」を踏まえている。こたきの体験を描いている。こたきの家で「隣組常会」が開かれた。

「この戦争は負けだね」こう言い放ったのはウチのお婆ちゃん
皆は一瞬息をのんだ 立ち聞きされたら大変だ ややあって
「そうですか やっぱり負けですかね」と商店のおやじさん
お茶を配るのは二年生の私で駄菓子の配給もなくがっかりだった
「負けるだなんてとんでもない 非国民です」うわずった声は母さんだった「大和魂がありますカミカゼが吹きます」
日頃おとなしい母が言い募る 隣の小母さんが驚いて顔を見る

 というようなことが書かれていて、その最後にこたきの「感想」が書かれている。その「感想」に、私はうなってしまった。

戦後多くの真相を知ったが私は一度だけ国の強権ぶりに感謝した
あの 口答えひとつ許されなかった姑に初めて母は反発できたのだ
国を味方にして 母の一生に一度の自己主張であった

 この「感想」を、どう思えばいいのだろうか。どう「定義」すればいいのだろうか。「定義」などしなくてもいいのだけれど……、うーん。
 おもしろいなあ。
 嫁・姑の「関係」のなかで、母は姑に口答えできなかった。姑は絶対だった。そういう関係は、どこの家庭でもあった。母は一度だけ姑に口答えをした。そのときの「口答え」は、いまの常識から言えば間違った認識である。「おかあさん、あなたは間違っていた。国にだまされていた」と、いまなら言える。
 けれども、こたきはここで

国の強権ぶりに感謝した

 と書いている。その「感謝した」という「動詞」が何とも言えない。どう言っていいか、わからない。おもしろい。
 母親は(母親だけではなく、多くの国民は)、国にだまされていた。だました国に対して「感謝する」(感謝した)というのは、変である。「国民」はいわば犠牲者なのだから。
 しかし、「批判を許さない国」の存在(考え方、ことば)が、気弱な母親を強くしている。母がほんとうに「カミカゼ」を信じていたかどうかはわからないが、絶対的な「ことば」を支えにして、母は姑に反論した。母に反論する力を与えてくれた。母は一度でいいから反論したかった。その機会を待っていた。そして、その望みをそのときにかなえた。そこに「喜び」のようなものがある。そしてそれは、こたきの喜び(願いの実現)だったかもしれない。お婆ちゃん、おかあさんをいじめないで。おかあさん、お婆ちゃんの言いなりにならないで、お婆ちゃんに勝って、と思いつづけていた。それが、いま、実現している。その「喜び」がここにある。「おかあさん、大好き」という気持ちが、ここにある。「大好き」が実現した(?)ので、国に「感謝」している。
 この「感謝」は、大きな「世界」からは否定される「こころのあらわし方」である。「論理的」には「意味」のない「感謝」である。「倫理的」には、と言い直してもいいかもしれない。「倫理的に無意味」。こんなときに「感謝」ということばをつかうのは、理にかなっていない。
 でも、「感謝」する。
 こたきにとっては、国の問題などどうでもいい。戦争の問題もどうでもいい。大好きな母親をいじめる(?)姑に反撃するということが大事なのだ。母親が姑に向かって反論し、一歩も譲らない。そこに「信頼できる母親」が存在する。
 母親にとって、子どもがどんな間違ったことをしようが、「子どものしていることは絶対に正しい」と子どもを味方する(信頼する)ように、子どももまた「母親は絶対に正しい」と信頼したいのだ。「絶対的な正しさ」のなかで母と子はしっかりと結ばれるものなのだから。他人が見て「間違っている」と判断しようが、そんなことは関係ない。他人の判断などにはまどわされない「つながり」がある。その「強いつながり」を、こたきは、このときにつかんだ。「大好き」という「強い感情」は、こういうところから生まれている。

 これを、どう引き継いで行くか。

 難しくて、私には、これ以上書けない。
 特に、いまの状況(「戦争法案」を国会が可決しようとしている状況)を考えると、ことばが動かない。母親を支えた「国の強権」は、もちろん間違っている。「国」を弁護することはできないし、したがって「国に感謝する」ということも、あってはならないことである。でも、それは「戦争」のことを考えるとそうなのであって、母親への「愛情」のことを考えると、それは事情が違うのである。
 私たちはどこかで「論理的」ではない何か、「倫理的」ではない何かにつながっている。「論理」や「倫理」とは違うところでも生きている。そして、それを的確にあらわすことばを知らない。「間違い」を通してしか言い表すことのできない何かが人間にはある。「気持ち」は簡単にことばになってくれない。
 「論理的」には「間違い」である。けれど、その「間違い」のなかにある、「間違い」とは別の、「論理」とは無関係に動くこころの動き。「だって、お母さんが好きなんだ」というときの、「だって」としか言えない何か。そのことばにはならない、人間の「こころの動き」。詩を読みながら、そういう「つながり」とつながり(変な言い方だが……)、ことばを動かしていけたらいいなあ、と思う。

 「論理」や「倫理」という、頭で整理したものではどうすることもできない何かに、私は「つまずく」のが好きである。つまずかせてくれる「ことば」が好きである。



幻野行
こたき こなみ
思潮社
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セオドア・メルフィ監督「ヴィンセントが教えてくれたこと」(★★)

2015-09-09 21:51:46 | 長田弘「最後の詩集」
監督 セオドア・メルフィ 出演 ビル・マーレイ、メリッサ・マッカーシーマ、ナオミ・ワッツ、ジェイデン・リーベラー

 困ったな、というのが最初の感想。困ったな、というのは、いやだな、というのと同じこと。
 ビル・マーレイの不良老人。一生懸命やっているのだけれど、問題は「不良」に見えないこと。目がどことなく寂しい。その寂しさを隠しきれない。「地」が出てしまう。映画にしろ芝居にしろ、もちろん「演技」と同時に役者の「地」を楽しむものだから、それはそれでいいのかもしれないけれど……。
 で、ビル・マーレイが介護施設を訪問するシーン。認知症の妻に会いにゆくのだけれど、あまりにも「ストーリー」になりすぎていて、おもしろくない。「善良さ」を浮き彫りにするというより、「善良さ」を描きすぎている。何より、少年をつれていくというのがよくないなあ。少年に隠れて妻に会いにゆき、そのことを少年が「発見する」という具合でないとね。
 まあ、脚本家としては、介護施設でのことを少年が聞いてまわるということろに、少年の「発見」を折り込んだつもりなのかもしれないけれど、これではまるで「子ども向け」の「粗筋映画」。
 「粗筋」だから、ついつい「ことば」で最後にもう一度説明し直してしまう。「身近な聖人」(だったかな?)というタイトルの「作文」を少年に読み上げさせてしまう。人間は「ことば」によって認識を深めていく、事実を自分のものにしていく、ということなのだろうけれど、これでは映画ではなく、「小説(物語)」になってしまう。
 もちろん、そういうことは承知で、だからこそ、少年のキャラクターを説明するのに、最初の方で本を読むシーンを組み込んでいるのだろうけれど。寝る前に、大人が子どもに本を読んで聞かせるのではなく、少年が母親にこんな本を読んでいると読んで聞かせる。手の込んだ「伏線」なのだけれど、安直というか、手をかけすぎているというか、映画であることを最初から否定している。
 ビル・マーレイは、この演技でアカデミー賞の候補になったようだけれど、これは「演技」というよりも「役のひとがら」が好かれたということだろうなあ。アカデミー賞はいつでも「演技」と、そこで「演じられている人物」の評価の区別がなくなる。だから実在の「偉大な人間(尊敬されている人間)」を演じると賞をもらいやすい。
 あ、最後の、オナミ・ワッツが赤ん坊におっぱいを飲ませようとするシーン、そのとき、ビル・マーレイがナオミ・ワッツのおっぱいが見られる(ひさびさ!)という期待に満ちた目をする。その演技だけば、とても好きだ。こういう「不良/健全」を、もっと見せてくれないとねえ。「不良」こそが「健全」な人間の姿であるということ見せてくれないと、生きる喜びがはじけてこない。
                     (ソラリアシネマ8、2015年09月09日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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冨岡郁子「しゃれこうべ」、夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」

2015-09-07 10:21:34 | 長田弘「最後の詩集」
冨岡郁子「しゃれこうべ」、夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」(「乾河」74、2015年10月01日発行)

 きのうは書きすぎた。詩を壊してしまった。きょうはなるべく少なく書いてみよう。
 冨岡郁子「しゃれこうべ」。

しゃれこうべが二つ
白い地面に
離れすぎず近からず
微妙な空間を置いて
転がっている

どこかに光があるのだろう
地面はまばゆく白く輝き
二つはそれぞれ
影をうすく作って
カラン
コロン と呼応している

それが
コロンが
まるで
カランの方へ
すり寄るように
頭を少しかしげて

 最終連がとてもおもしろい。コロンは女の頭蓋骨? カランは男の頭蓋骨? と読むのは、私が男だからだろうか。女は、すり寄る方が男の頭蓋骨と思うだろうか。冨岡は、どう読んだのだろう。
 一連目の四行目の「空間」が、また、とてもおもしろい。「離れすぎず近からず」というのは「距離」のこと。だから、微妙な「距離」を置いて、でも「意味」は同じ。
 でも、「空間」の方がはるかにおもしろい。「距離」は二つの頭蓋骨のあいだだけを指し示すのに対し、「空間」はそのまわりも含んでしまう。「線」であらわすことのできる「距離」ではなく、「面」としての「空間」。あ、「空間」は「立体」なのだけれど……。
 「まわり」というものがあるから、最後の「すり寄る」というのも効果的なのかもしれない。単に二つの頭蓋骨の問題ではなく、なんとなく「まわり」の人間(ふたりをとりまく人間関係)のようなものが、見える。ふたりを見ている視線になって、その「空間」のなかに入り込んでしまう。



 夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」。その書き出し。

「木漏れ日」と言う言葉は美しい
そこから想起される情景も美しい
けれど、初夏の午後
道幅いっぱいの木漏れ日の中に実際に立った時
それは何倍も美しかった
両腕を広げ、同化する
その幸せな時間につける名はない

 このあと「言葉と現実に差はある」という具合にして、夏目の「思い」が語られるのだけれど、その思っていることよりも、思いはじめの、ことばを探している感じの部分が自然でとてもいい。「美しい」ということばが三回も出てくるのは、すこし安易かもしれないが、その「安易」がいい。気楽に考えはじめている。気楽にことばを動かしはじめている。かまえていない、自然がそこにある。
 特に、

両腕を広げ、

 これがいい。ことばを探す前に「肉体」が「木漏れ日」に反応している。ことばでとらえるよりも「何倍も美しい」。それは「肉体」でつかむしかない。
 もちろん両腕を広げたからといって、木漏れ日の美しさをつかまえることができるわけではない。「同化する」と夏目は書くが、「同化」できるわけでもないかもしれない。それでも「両腕を広げ」るのである。自分を広げるのである。
 ここに「ことば」にならない「ことば」がある。
 冨岡の書いている「すり寄る」に通じるものがある。
 「肉体」の領域をはみだすものがある。
 「両腕を広げ」ても、人間は「肉体」より大きくなれない。頭蓋骨は自分自身では「すり寄る」ことはできない。その不可能が、ことばによって、すばやく乗り越えられる。この瞬間が、詩なのだ。

H(アッシュ)―冨岡郁子詩集
冨岡 郁子
草原詩社
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岡島弘子「アイロン」

2015-09-05 10:31:25 | 長田弘「最後の詩集」
岡島弘子「アイロン」(「つむぐ」11、2015年08月15日発行)

 岡島弘子「アイロン」は、いわゆる「主婦の詩」?

網目にからんだ想いのみれんをとりのぞき
ぬめりをふきとり
泡だてて金属タワシでみがき
流し台をよみがえらせる手

 ここまでは、流し台を磨いている主婦の「日常」。一行目の「想いのみれん」ということばに岡島の「過去」と「現在」がこめられているのかもしれないけれど、まあ、それにしたって「主婦のみれん」だろうなあ、具体的に知りたいという欲望も起きないなあ、と思っていると、五行目。

をささえる足のうら

 唐突に「足のうら」が出てくる。これ、何? 
 二連目。

買い物メモをとり
今晩の献立をかんがえ
特売品をすばやく計算する脳
きのうの記憶をはんすうする海馬
をうけとめる足のうら

 たしかに人間のいちばん底(?)は「足のうら」かもしれないけれど、ふつうは「足」としか言わないなあ。体をささえる足。台所仕事をするとき、その体をささえる足。考え事をするときも、その脳を含め、体をささえる足。
 なぜ「足のうら」なんだろう。
 そう思っていると、

南北東西 喜怒哀楽
親指も小指もかってな方向にとびだしてしまった
外反母趾をもつつむ
足のうら

だから足のうらをアイロンにかえて

わたしの全生涯をかけた重みと
たいおんといういのちのほてりをもったアイロンにかえて

新雪に まずアイロンがけをしよう
人間じるしのアイロンをあててみようか

 あ、新雪に足跡を印したいのだ。
 そのことがわかって、それから「アイロン」という比喩に、ええっと驚く。
 私は野ぎつねになって足跡をつけてみたい、鳥になって足跡をつけてみたい、という具合には思う。(ついでに、小便で自分の似顔絵を描いてみたいとも……。)
 「アイロン」なんて、思いもつかない。
 そうか、岡島はいつもアイロンをかけているのか。アイロンがけは流し掃除や夕御飯をつくることと同じように、日常に組み込まれた「主婦の仕事」なんだな。
 でも、少し変じゃないかなあ。
 アイロンというのは、しわをのばすもの。洗濯で入り乱れた繊維をきちんとととのえ直すこと。「新雪」に「しわ」はないぞ。生まれたての、なめらかな肌。ととのえる必要はない。足跡をつけるのは、むしろ、汚すこと。汚して遊ぶこと。
 でも、それを岡島は「アイロンがけ」と呼ぶ。
 そうか、「新雪」にアイロンがけをするということは、自分自身にアイロンがけをすること、「足のうら」にアイロンがけをすること。そういう相互作用(一体化)のことを言っているのだな。
 たとえば台所をみがく。それは単に台所を美しくするということではない。岡島自身を整理し直すこと、美しくすることなのだ。献立を考え料理を作り、家計の計算をするというのは、自分をととのえ直すことなのだ。どうすれば、自分がいちばん美しくなるか。ととのうか。ととのった暮らしが、ととのった岡島の「肉体(思想)」そのものなのだ。
 あ、こんなふうに書いてしまうと、「主婦礼賛」のようになってしまう。女性を「主婦」に閉じ込めてしまうことになるかもしれないが。誤解をまねきそうだが……。
 「アイロン」というのは「もの」だが、「アイロンがけ」というのは「アイロンがけをする」という「動詞」として生きていて、そこに「肉体」がある。「アイロン」は隘路をかける」という「動詞」によって、岡島には「肉体」になっている。「肉体」になっているから、新雪と直接触れるのだということがわかり、とても新鮮なのだ。
 岡島が「足」と言わずに「足のうら」と言っているのは 、岡島にとって「アイロン」とは「アイロンの底面(うら)」であることを語っている。「アイロン」はそんなふうに岡島の「肉体」になっている。「肉体」として動いている。だから岡島はすぐに「アイロン」になることができた。
 比喩の強さ、比喩の絶対性がここにある。「アイロン」の比喩をこれから読むことがあるとしたら、私はそのたびに岡島のこの詩を思い出すに違いない。


ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』(2)

2015-09-02 14:21:54 | 長田弘「最後の詩集」
須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』(2)(思潮社、2015年07月30日発行)

 須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』について、もう一度書く。「サバイバルスキル」という作品。

私たちは落ち合い実家へと向かった。半分水に浸かった車で。
橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、
そのうちに夜も更けてしまった。前方に見える灯りはどうやら体育館のもののようだった。
避難者はざっと百人はいただろうか。
レトルトの麻婆丼に涙し(食して泣いたのは初めてのことだった)
ポカリスウェットで全身を浸し、一週間ぶりに布団に入ることができた。
(それでも寒さに突き刺されたようだった)
私はしばらく眼を閉じてみたが眠気は一向にやってこない。

 東日本大震災のときの、避難の様子を書いている。一語一語、ことばが強い。ゆるみというものがない。なぜだろう。「肉体」と「精神(意識)」が強く絡み合っているからである。
 一行目は、きのう読んだ「ケダモノ」の書き出しと動揺に「倒置法」である。この一行はなぜ「倒置法」なのか。「実家へ向かった」、実家へ向かうという肉体の動き、意識がいちばん重要だからである。車が半分水に浸かっている、ということは実家へ向かうという動きに遅れてやってくる。よくみると車は水に浸かっている。いや、よく見なくたって車が水に浸かっているのだが、そんなことを問題にしている場合ではない。実家へ向かう(帰る)ことがいちばん大事であり、そのために車を選んだ、その車がたまたま水に浸かっていた、ということなのだ。
 阪神大震災を体験した季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で「出来事は遅れてあらわれる」と書いた。その「遅れてあらわれる」が須藤の、この一行にも刻み込まれている。
 時系列からいうと地震が起きた。津波がきた。車が浸水した。何人かの家族の無事を確認した。一緒に車に乗って実家へ向かった、ということになる。しかし、ここでは、まず実家に向かった、ということが書かれる。それから車の様子が書かれる。車が水に浸かった方が時間的には先なのに、実家に向かうという行為のあとに、遅れてやってくる。大地震があって、津波があって、車が水浸しになった、ということが、「事実」して、「いま」のなかに出現してきて、「いま」を「過去」と結びつける。ああ、この車は津波で水をかぶったのだという「出来事」が、もういちど「ことば」として「やってくる」。そして「肉体」に刻み込まれる。車が津波の水をかぶったときは、まだそれは車と津波の関係であり、須藤にとっては「出来事」ではなかった。実際に車に乗って実家に向かうとき、「出来事」は「事実」になって、須藤の「いま」にぶつかってくる。そんなふうにして「事実」は「人間の出来事」になる。
 それにつづく行(ことば)も同じである。須藤が車で実家に向かうことよりも前に、津波で橋は落ちている。しかし、その「事実/出来事」が、実家へ帰るという動きのなかに、いま、大地震から「遅れて」やってくる。私たちはすべて「遅れて」出来事を知るのである。「肉体/ことば」は「遅れて」何かを自分の「出来事」にする。その「出来事」が自分のものになったとき、「遠回りをしなければならず」という「出来事」があらたに発生する。この新たな出来事の発生もまた「遅れて」発生する、「遅れてやってくる」と言い直すことができる。「そのうちに夜も更けてしまった」も同じである。須藤たちを追いかけて夜がやってくる。夜さえ「遅れてやってくる」。遅れてやってくるのに、それが「いま」を邪魔して、「いま」がその先へ進めさせてくれない。つまり、簡単に実家に帰れないということが生じる。
 この一連の動きが、何と言えばいいのか、非常に「粘っこい」文体(ことばの運動)で描かれている。この「出来事が遅れてやってくる」ということと粘っこい文体は密接な関係にある。たとえば、

橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、

 この一行の前半は「理由」を書いている。「最初にわたろうとした橋が落ちていて、その次の橋も落ちていたために」ということなのだが、その「理由」をあらわすことば「……のために」を省略し、「多々あり」と「事実」だけを書き、それを追いかけて「遠回りしなければならなかった」とつなげる。「遠回りした」ではなく、「しなければならなかった」と、そこに「影響(遅れてあらわれるもの)」をつないで、文章としてつないでしまう。

橋が多々おちていたために、遠回りをした

 という文章と比較してみるとわかりやすいかもしれない。「理由(原因)」があって「結果」が生じるのではない。「事実」があって、そのことをあとから(遅れて)振り返ってみると、その影響を受けたことがわかる。「影響」によって、「原因」の「大きさ」をはっきりと理解する。つまり、「肉体」で受け止めて、それをことばにすることによって、そこで起きた「出来事」がどういうものであったか、意識のなかに「遅れて」刻み込まれる。
 この「遅れ」を、須藤は「遅れ」のまま、ぐいぐいとひきずるようにたぐりよせる。「遅れ」をなんとしても「いま」に引き寄せる。その力が「粘着力」になっている。「理由」を先に書いて、それから結果を書く、というのはことばにとって「経済的」な書き方ではあるが、それでは「事実」ではなくなる。「……なので、……した」というのは、「言い訳」のような文体である。ととのいすぎている。「出来事」は「言い訳」のようには、ととのえることができない。

レトルトの麻婆丼に涙し(食して泣いたのは初めてのことだった)

 この一行の書き方も、また「遅れ」をそのまま書いている。麻婆丼を食べて泣いた。そのあとに「食して泣いたのは初めて」という「ことば(意識)」がやってきて、麻婆丼を食べて泣いたということを「出来事」にする。

ポカリスウェットで全身を浸し、一週間ぶりに布団に入ることができた。
(それでも寒さに突き刺されたようだった)

 この二行では、「寒さ」という「出来事」がやはり「遅れて」やってくる。「寒さ」は布団に入る前からあった。しかし、布団に入ることによってはじめて「寒い」と言えるようになった。それまでは「寒い」は、怖くて言えなかった。そういうことが、ことばと一緒に生まれてくる。
 「出来事」は「ことば」が「やってきて」、はじめて「出来事」になる。「ことば」が「やってくる」までは何が起きたかわからない。
 
 これは逆に言えば、「ことば」によって、「出来事」を生み出すということでもある。その「生み出す」という動きが、粘り強く、再現されている。
 私たちは、さまざまな情報をとおして東日本大震災があったことを知っている。しかし、その知っているは「わかっている」ということとは違う。
 被災者がたいへんな思いをした(している)ということは「知っている(つもりになっている)」。しかし、「わかっている」わけではない。「わかる」ことはできない。「わかる」ということは、それを「つかえる」ということ。つまり、自分のことばで言い直すことができるということ。そんなことは、私にはできない。
 「分節/未分節」という「便利なことば」がある。私は、そのことばをつかうと、どうも「世界」が簡単に整理されすぎてしまう気がして、いまはつかわないようにしているのだが……。
 須藤は、自分の体験したことを「分節」して「出来事」として整理しているのではない。「未分節」の震災直後の状況を「分節」して語り直しているのではない。自分の「肉体」で「出来事」を生み出しているのだ。須藤は大震災を「わかっている」から、それをもう一度「生み出す」ことができるのだ。

橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、

 これは、橋が落ちていたという「世界」そのものの「混沌」から、「遠回りをする」という「肉体の運動」を「生み出す」ことなのだ。「遠回りする」という自分を「生み出し」、生まれ変わって、動くということなのだ。
 「分節する」というのは単なる「認識(ことば/言語学)」の問題ではなく、「肉体」そのもののことだ。「世界」が変わるのではなく「人間(肉体/いのち)」そのものが変わること。「生み出す」ということは「生まれ変わる」こと。そして、それはいつでも「最初の肉体」から「遅れてあらわれる」。「生む肉体」があって、そのあとで「生まれる肉体」がある。

 ちょっと脱線したかもしれない。

 自分の「肉体/ことば」をとおして「出来事」を生む。自分を「生む」。「ことば」をとおして生まれ変わる。
 そういうことができる「肉体/ことば」を生きている須藤は、後半にとてもおもしろい「いのち」を書いている。
 避難した体育館の天上、その鉄骨のあいだにバレーボールがいくつも挟まっている。

あの挟まったバレーボールが落ちてきて人々の頭に当たったらどうだろう。
「アイサー!」
「ホヤサー!」
そんな映像が頭に浮かびにやりとし、眼を閉じ開くと、
朝になっていた。

 眠れなかった須藤が、一瞬、眠っている。その一瞬は、熟睡である。
 つらい状況のなかで、須藤は「生き抜いていく人間」を生み出している。「アイサー!」「ホヤサー!」という掛け声を私ははじめて聞いたが(知ったが)、須藤の「肉体」がなじんでいる掛け声なのだろう。そういう声を発しながら、避難した人たちがいっしょになってバレーボールをする。そういうことができる。そういう人間を「ことば」で生み出しながら、須藤はその夜を生き抜いた。 
 あ、すばらしい。美しい。人間がいきているということは輝かしい。
 須藤のことばは、こういう人間を生み出すことができる。
 須藤は避難者を「肉体」として「わかっている」。だから、そこから生きる人間を生み出すことができる。

真っ赤な傘突き刺して
須藤洋平
思潮社
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佐々木安美「泳ぐ人」、坂多瑩子「はやわざ」

2015-08-26 15:08:00 | 長田弘「最後の詩集」
佐々木安美「泳ぐ人」、坂多瑩子「はやわざ」(「生き事」10、2015年夏発行)

 佐々木安美「泳ぐ人」は、ことばが「現実」を侵蝕していく。

気がつくと川音を聞いている
そう思って 駅のホームで
読みかけの文庫本から顔をあげると
女のアパートを出て
妻の待つ家に帰っていく男が
反対側のホームに立っている
暗い気分を抱えたまま
本からはみだしてきたのか
男の中を流れる川

 「私」という「主語」は書かれていないが、一行目の「聞いている」の主語は「私」だろう。二行目の「思って」の主語も「私」、三行目の「読みかけ」「顔をあげる」の主語も「私」。
 しかし、そのあと、四行目の「出て」の主語は、五行目の「男」、五行目の「帰っていく」の主語も「男」、六行目の「立っている」も「男」。
 では、七行目は? 「抱えたまま」の主語は?
 「男」なんだろうなあ。次の行の「本からはみだしてきた」の主語は「男」なのだから、その「男」が「暗い気分を抱えたまま」ということになるのか。
 八行目は、どうなるだろう。

男の中を流れる川

 あ、ここには「動詞」がない。「流れる」の主語は「川」、「流れる」は「川」を修飾しているのだが……。
 で、ここで私は、つまずく。言い換えると、あ、詩がはじまったと思う。
 その「川」を認識しているのは誰だろう。
 「男」は「川」に気づいているだろうか。
 「川(川音)」に最初に気づいたのは、一行目の書かれていない主語「私」。その書かれていない「私」がここで「男」に重なっている。
 でも、これが最初の「重なり」かなあ。
 もしかすると四行目の「女のアパートを出て」から重なっているのかもしれない。本のなかの男が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか、書かれていない「私」が女のアパートを出て妻のところへ帰っていくのか。それが「私」だとすれば、「私」は本のなかの男から見つめられていることになる。本のなかから出てきた男は反対側のホームに立って、「女のアパートから出てきて、これから妻のところへ帰るんだな」という目で「私」を見ている。「暗い気分」は、書かれていない「私」の気分でもある。
 その「暗い気分」が「川の音」である。
 「川」近くにあるのではなく、「男の中を流れている」のだから。あ、これは「近くにあるのではなく」、逆に「近くに(内部に)ある」ために、「近すぎて」そのひとにしか感じ取れないものなのかもしれない。他人には聞こえない、自分にしか聞こえない「川の音」。
 そうすると、ますます書かれていない「私」と「男」があいまいになる。その「あいまい」さのなかで、ことばが暴走していく。乱れていく。

その川音なのか 重い足取りで
アパートの外階段を降りていくときに
包丁の刃が脳裏に浮かぶ
そんなことを思い出しながら
男の中を流れる川

 これは現実? 本のなかに起きていたこと?
 「そんなことを思い出しながら」の主語はだれ? 書かれていない「私」でも「男」でもなくて、その次の「男の中を流れる川」の「川」が主語かもしれない。
 「川」が主語?
 「川」が「思い出す」ということは、あるだろうか。「川」を何かの「暗喩」、誰かの「象徴」と思えば、「川」が「思い出す」という文は成立する。
 では、「誰」の、あるいは「何」の暗喩?
 「暗い気分」かなあ。

 こういうことは、「答え」を出す必要がないのだと思う。
 あれかなあ、これかなあ、と思いめぐらすとき、そのすべては「間違い」なのだろうけれど、この「間違い」をうろうろとさまよっているとき、何となく書かれていない「正解」にどこかで触れている感じがする。
 他人のことなど「わかる」はずがないのだけれど、「わかる」と感じる。
 誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。そのひとの腹痛がわかるわけではないのに、「あ、たいへんだ、腹が痛くてうめいている」と「わかる」のに似ている。
 こういう「錯覚」(自己と他者の混同/私と筆者の混同/筆者になって自分を忘れる瞬間)を私は詩の始まりと感じている。
 どきどき、わくわくする。

 補足。
 「川」の暗喩の「正解」は、そこに書かれている「川」そのもの。言い換えは不能。「川」でしかないからこそ佐々木は「川」と書いている。これを私が言い換えれば、その言い換えのすべては「間違い」。しかし、そういう「間違い」をしないことには、私はこの詩を読むことができない。



 坂多瑩子「はやわざ」は鉄道への投身自殺を描いている。

蹴飛ばした石が
なにかにふありとしたものの中にとびこんだ
電車がとびこんで
駅がとびこんで
ヒトがとびこんだ

 最後の「ヒトがとびこんだ」が一般的な「認識」の表現なのだが、そういう「表現」にあわせて私たちは見たものをととのえているだけで、そういう「整い方」ができあがるまえには奇妙な何かがある。「電車がとびこんで/駅がとびこんで」という、「とびこむ」の主語になりえないものが「主語」であることを主張する。
 その「錯乱」のなかに、詩がある。ことばになるまえの、ことばがある。
 「日常」をわたしたちは、ことばでととのえているが、そのととのえ方は一種の「定型」である。「定型」にしたがうと、面倒なものを見なくてすむ。そして何かを見落とす。その見落としたものを、坂多はひろいあげて、揺さぶって、立たせている。
 最初の書き出しは、最後に言い直されている。


駅はちゃんとあった
電車もちゃんときた
とびこんだヒトの確認はできないけど
ヒトもいっぱいいた
駅と電車の色が少し薄くなっていた
あとは何もかわっていなかった
なにしろ
あまりのはやわざで
えっと思うか思わないか
だった

 ヒトがほんとうに飛び込んだのか、蹴った石が「ヒト」のように見えたのか。どちらでもいい。(わけではないかもしれないが……)。
 「わかる」のは「錯乱」が「えっと思うか思わないか」という瞬間的なものであるということ。「瞬間」なのに、その「瞬間」が「永遠」のように、大きなものとして存在する。この矛盾が、きっと詩なのだ。
ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
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愛敬浩一『母の魔法』

2015-08-19 11:39:25 | 長田弘「最後の詩集」
愛敬浩一『母の魔法』(「詩的現代叢書7」、2015年06月06日発行)

 愛敬浩一『母の魔法』は散文を行分けしたような作品である。ことばそのものに、おもしろさがあるわけではない。タイトルになっている「母の魔法」。

遥か昔の
そろそろ暑くなり始めた頃のことだ
小学生の私は友だちと
遊びにでも出掛けるということだったのか
汗でもかいたのか
干し竿からシャツを取り
そのまま着ようとした時
母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」とでもいうように
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した
すぐ着る訳だから
特に畳む必要もないと思ったが
母は
まるで魔法でもかけるように
シャツを畳んだのだ
たぶん私はその時
何か、とても大切なことを学んだのだと思う

 書き出しの「遥か昔」は「昔々……」と読み直せば「物語」になる。「遥か」というのは「物語」を「詩」にするための形容詞である。こんなことばを「詞」の書き出しにつかっては興ざめしてしまう。
 そのあとのことばも「描写」というよりは「説明」である。愛敬に「見えている」世界を「見えている」ままではなく、読者にわかるように「説明」している。「遊びにでも出掛けるということだったのか/汗でもかいたのか」なんて、どっちでもいい。そんなことは「説明」しなくてもいい。だいたい「ほんとう」である必要はない。「理由」にほんとうも嘘もない。小学生には似つかわしくないかもしれないが、「女をたぶらかしに行く」でも「人を殺しに行く」でも、読者は気にしない。「理由」よりも「行動」を読む。
 母親がシャツを畳んだときの「「さあ出来上がり」とでもいうように」の「とでもいうように」という「ていねいさ」が、とてもうるさい。「解釈」も「理由」と同じであって、何でもいいのである。「行動」とは違って「事実」というより、そのひとの「思い込み」にすぎない。
 「特に畳む必要もないと思ったが」の「特に」がうるさいし、「思った」ということばも、どうでもいい。愛敬が「思う」かどうか、知ったことではない。
 最後の一行も、ぞっとする。書いてあることは「ほんとう」なのだろうけれど、「思った」ということばは愛敬の「正直」を証明しているが、詩にこういう正直はいらない。こういう「正直」は逆に「不正直」に見える。「思う」というようなところを経由するひまもなく、「肉体」が直接動いてしまうのが「正直」の姿なのだから。
 で、文句をたらたら書きながら、それでもこの詩について書きたいのは……。
 その「正直」(「肉体」が有無をいわさず動いてしまう瞬間)が、この詩に書かれているからである。

母がさっと
私の手からそのシャツを奪い取り
さっさと畳み
「さあ出来上がり」と
ぽんと叩いてから
笑顔で私に差し出した

 「とでもいうように」を省略して引用してみた。実際、母にしてみれば「とでもいうように」ではなく、無言でそう言っているのであり、無言だとしても愛敬の「肉体」には、はっきりそう聞こえるのだから、「とでもいうように」と「説明」してしまうと、せっかく「肉体」に直接聞こえた「声」が「意味」になってしまう。「頭」のなかで整理されてしまって、そこから「肉体」の直接性(正直)が消える。
 この母の、「ことば」を必要としない「肉体」の動き。「肉体」がすばやく動いて、愛敬の「肉体」に直接触れる部分。ここに「母の正直」があるし、それをぱっとつかみとる「愛敬の正直」もある。
 「笑顔で」の「笑顔」も、表情というよりは、顔のなかで動いている「感情(正直)」である。「笑顔」と名詞にせずに、動詞で言い直して書いた方が「肉体」がもっと明確になる。「肉体」の存在感と、「肉体の直接性」が出ると思う。

 で、この「正直」というのは……。
 いままで書いてきたことと矛盾するように見えるかもしれないが、「ことば」にする必要がある。「正直」そのものは「ことば」を介さずに、母から愛敬の「肉体」へ直接響いていくのだが、その「直接性」は「無言」であるがゆえに、「ことば」になることを欲している。「無言」(まだ、ことばになっていないことば、未生のことば)が「ことば」になるとき、そこに詩が生まれる。
 あ、こういう「肉体」の動き、「肉体」のなかで動いている「ことばにならないことば」があった、ということを「肉体」が思い出す。その瞬間が、詩、なのだ。
 シャツを着る。汚れる。洗う。乾いたら、また着る。その動作のあいだに、洗ったシャツを畳んでもとの形にととのえる、という「ひと手間」。そこに「暮らしのととのえ方」(いのちのととのえ方)がある。「余分(余剰)」がある。それが人間の「正直」というものである。他者に対する「感謝」かもしれない。
 こういう、「ことば」にならない「無言のことば」、「ことば」にして引き継いでゆかなければならない。--と書いてしまうと、まるで「倫理」の教科書の言いぐさになるが……。
 それを書こうとしている愛敬の、この部分のことばの動きは、いいなあ。
母の魔法―愛敬浩一詩集 (詩的現代叢書)
愛敬浩一,詩的現代の会
書肆山住
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高橋秀明「く」、鈴村和成「スキ、だ」

2015-07-21 10:21:00 | 長田弘「最後の詩集」
高橋秀明「く」、鈴村和成「スキ、だ」(「イリプス Ⅱnd」16、2015年07月10日発行)

 高橋秀明「く」は前半と後半では調子が違っている。高橋の書きたいことは後半にあるのかもしれないが、私には前半がおもしろかった。で、前半だけを引用し、感想を書く。

腰が「く」の字に曲がって
もどらない
階段を下りると
…く、く、く、く、
と移動する
俯せに横たわると
「く」の字は「へ」の字になる
視えない天蚕糸で腰を吊られ

横たわれば
腰を宙に吊られた俯せの姿のまま
立ち上がれば
背後から腰を引っ張られた姿のまま
伸びない「く」と「へ」が
身体に内在して
年年
屈曲を強める

 同じことを繰り返しているね。腰が曲がった状態を、立っている時は「く」の字、横になった時は「へ」の字と「視覚化」している。そして、その「視覚化」に「視えない天蚕糸」が絡んでくる。これがおかしい。「視えない天蚕糸」の存在によって「く」と「へ」がよりくっきりと見える。
 さらにこれが「内在」という奇妙なことばにかわっていく。「身体に内在して」いるものは、外からは「見えない」。そとからは「く」「へ」の字にしか見えないけれど、身体のなかにも「く」「へ」の字はある。その「見えない」ものが見えるのは、それより先に「視えない天蚕糸」があるからだ。「視えない」という否定形で「存在」を確認している(見ている)からだ。
 「見えるもの」(「く」「へ」の字)を通して、見えないものを見る。そういう習慣(?)がついてしまっているので、「見えない」はずの、「内在」する「く」「へ」も見える。
 そう繰り返しておいて、前半の最後の二行。

いつもくるしみ
いつかへたるために

 私は笑ってしまった。

いつも「く」るしみ
いつか「へ」たるために

 あ、これが書きたかったのか。「くるしみ」と「へたる」はどこか似ている。「くるしみ」つづけると、いきいきとした動きが「へたる」。「くるしみ」のなかには「へたる」が内在していて、それがやがて表に出てくる?
 というようなことがいいたいのか、どうか。わからないけれど、その「く」と「へ」の「見えない」つながりが高橋のなかで完成しているのが「見える」。それがおかしい。楽しい。
 


 鈴村和成「スキ、だ」は高橋とは違った「繰り返し」でできた詩だ。

 好き、ダ。嫌い、ダ。足、好き、ダ。卵、好き、ダ。つぶやき、嫌い、
ダ。つぶつぶ、嫌い、だ。ぶつぶつ、嫌い、ダ。判子(ハンコ、嫌い、
だ。プラカード、嫌い、ダ。電柱も嫌い、ダ。霜柱、好き、ダ。嫌いと
いう言葉が、嫌い、ダ。スピーチ、嫌い、ダ。言葉、好き、ダ。猫、好
き、ダ。ケモノヘン、好き、ダ。好き嫌いが、好き、ダ。オンナヘン、
好き、ダ。大好き、ダ。ヘン、好き、ダ。ダ、好き、ダ。好きと言う言
葉、好き、ダ。という)が、嫌い、ダ。女の子という字、好き、ダ。好
(スキが、好き、ダ。好き好き(スキズキ、ダ。好(スき、好(スき、

 あと八行ほど、同じ調子でつづく。「好き」ということばを繰り返している。ついでに「ダ」と言う音を繰り返している。ほんとうはどっちを繰り返しているのか。よくわからない。「つぶやき」「つぶつぶ」「ぶつぶつ」という音の遊びや、「好き」「オンナヘン」「女」「子」という文字遊びもある。
 で、何がいいたい? 「意味」は? 「思想」は?
 そんなものはないなあ。いや、あるのかもしれないが「意味/内容/思想」というようなものではなく、ただ繰り返して言ってみたかったという「欲望」があるんだろう。「欲望(本能)」というのはどこかで「肉体」とつながっているから、それはやっぱり「思想」なのだと思う。
 私の知っていることばでは、この鈴村の「思想」を「見える」形で表現できないけれど、これは私のことばが無力というだけのこと。

電柱も嫌い、ダ。霜柱、好き、ダ。

 これが鈴村の「ほんとう」かどうかわからないが、嘘だってかまわない。「電柱/霜柱」対比(嫌い/好き)のなかに、「へえぇ」と思わせるものがある。それは、私はこれまで「電柱」と「霜柱」を対比しようと思ったことはないということを思い出させるだけなのだが、そんなことをしたことがないと思うという意識のそこから「柱」という文字が共通してつかわれているなあ、とふと思ったりする。この「ふと」の感じの裏切りが、何と言えばいいのか、快感なのだ。「ダ」の繰り返しのリズムがあるから、よけいに快感なのだ。

  タダ(只、好き、ダ。タグが好き、ダ。傍点が好き、ダ。そばかす、
好き、ダ。点、好き、ダ。点々、好き、ダ。々、が、好き、ダ。々。吃
り、が好き、ダ。ダ。

 考えて書いているのか、思いついたまま書いているのかわからないが、どちらにしろ、それがリズムにのっているのがいい。ことばと音が鈴村の「肉体」そのものになっている。
ランボー全集 個人新訳
アルチュール・ランボー
みすず書房
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長田弘『最後の詩集』(15)

2015-07-14 08:54:07 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(15)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「One day 」は「Forever and a day 」の「a day 」を言い直したもの。「永遠と一日」の「一日」。「一日のおまけ付きの永遠」、「永遠のおまけである/一日」と長田は言い直している。
 「永遠」とは何だろう。この詩集のなかでは「一瞬」を「充実させたもの」という形で表現されていたと思う。「充実」を人間の側(行動する側)から言い直すと「ただに」「ひたすら」「熱心」に行動するということにつながる。そして、そんなふうに「無骨に生きる人たち」(アレッシオ)が作り上げたのが「世界」なのだから、「永遠」とは長田が見ている「世界の美しさ」そのもののように感じられる。
 そのとき「一日」とは何だろう。
 私には、あらかじめ目の前にひろがっている「世界」ではなく、長田が自分で充実させる「世界」のように思える。目の前にある「世界」のなかへ参加していく「長田の世界」。「永遠」のなかへ参加していく「長田の一日」。
 「永遠」は「長田の一日」を受けいれてくれる。「永遠」が「おまけ」をくれるのではなく、「永遠」が長田を「おまけ」として受けいれてくれる。そんな感じに読めてしまう。
 でも「おまけ」になるためには条件がある。「一日」を充実させなければいけない。「充実」させることで、その「一日」が「永遠」につながり、それがまた次の「一日」の充実を誘う。「充実」させることをやめると、「永遠」と「一日」は離れてしまう。「永遠」と無関係な「一日」になってしまう。「永遠と一日」というとき、その「一日」は「永遠」と連続していないといけないのだ。
 長田はどんなふうにして「一日」を充実させたのか。

昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと
紙の上の文字を辿って
変わらぬ千年の悲しみを知る
昔とは今のことである

 「変わらぬ千年の悲しみ」とは「永遠の悲しみ」。「永遠」に結びつくとき「昔」と「今」は「同じもの(ひとつのもの)」になる。「一体」になる。これは、長田が書きつづけている「真実」である。
 この詩のなかで、印象深いのは、そういう「論理」ではなく、ここに「本」が出てくることである。

本をひらく人がいた頃

 長田は「本をひらく人」なのだ。ここに書かれているのは「自画像」なのだ。「本をひらく」とは「紙の上の文字を辿る」ことである。ことばを読むことである。そして、それは「知る」ということだ。
 「知る」ということばは「詩って何だと思う?」のなかに出てきた。

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 詩は、ことばで書かれている。だから、この二行は、

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、ことばだ。

 ということになる。さらにいえば、空の色を語るのにふさわしい、充実したことばが必要なのだ。そのことばを通して「空の色」を「知る」。こんなふうにして語ると「空の色」は「空の色になる」ということを「知る」。
 「ことば」には「知る」が凝縮している。「知る」がつまっている。「知る」が、「知ったこと」が、「充実」している。「ことば」には、たとえば「千年(前)の悲しみ」が「変わらぬ」まま、存在している。それに気づく。発見する。そして、それに「同意する」、あるいは「共感する」。それが「知る」なのだ。
 読書家の長田の姿が、ここに静かに語られているだ。

一日のおまけ付きの永遠
永遠のおまけである
一日のための本
人生がよい一日でありますように

 「人生」は「一日」ではない。「ハッシャバイ」のなかで長田は「人生」は「三万回のおやすみなさい(三万日)」でできている、と書いている。けれど、その「三万日(永遠/長い時間)」を「一日(一瞬)」として「充実」させるために、本を読む。ことば(詩)を読む。そして、その「一日」が「永遠の一日」と重なることを「知る」(実感する)のである。
 本を「読む」、「知る」。このことを長田はまた別のことばで書いている。詩のあとに収録されている「日々を楽しむ」という六篇のエッセイ。そのなかの「探すこと」という作品。

 探すこと。ときどきふと、じぶんは人生で何にいちばん時間をつかってきたか考える。答えはわかっている。いつもいちばん時間をつかってきたのは、探すことだった。

 「読む」「知る」は「探す」ことなのである。何を探すか。「ことば」である。ことばを「探して」、ことばに出会って、ことば「発見する(気づく)」。そのことき「探す」が「知る」になる。ことばを「知る」。ことばを「知る」ことは、自分の位置がわかること。自分が「世界」の一員になることだ。
 長田は「ことば」を「探す」とは書いていないが、こんなふうに「ことば」を補って読むと、長田の生き方がわかる。
 「ことば」を省略してしまうのは、それが長田にとってはわかりきったことだからだ。わかりきっているので、明示することを忘れてしまう。「無意識」になって「肉体」にしみついている。こういうことばを私はキーワードと読んでいるが、おさだにとってのそれは「ことば」なのだ。
 でも、そうやって本を読み、「ことば」を知ることで世界の一員になるだけでは、たぶん、だめなのだ。一員になって、その一員であること、個のあり方を充実させないと、一員ではいられない。一員でありつづけることはできない。ほんとうに世界に参加したことにはならないのだ。「長田自身のことば」を充実させるとき、世界も充実する。「一日」を充実させるとき「永遠」も充実する。「充実する/充実させる」という「動詞」のなかで、「永遠」と「長田の一日(ことば)」は溶け合う。

 理屈っぽく書きすぎたかもしれない。長田の張り詰めたことばに理屈を差し挟むことで、いびつな隙間をつくってしまったかもしれない。少し反省している。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房

*

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作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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