詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田典子「どこまで」

2021-04-30 10:11:47 | 詩(雑誌・同人誌)

長田典子「どこまで」(「独合点」143、2021年04月30日発行)

 長田典子「どこまで」には過去と現在、さらに未来が交錯するのだが、私は、過去について書かれたことばが好きだ。

<blockquote>

「乙女の祈り」を練習して練習して
ついに完成できなかった五十年前の春
ある春は きみの自転車の荷台に跨り
用水路沿いの桜並木を走った
花筏の絨毯を追いかけた
ねぇ、どこまで行くの?
きみの背中越しに大声で聞いたんだ
</blockquote>
 私がとくに気に入っているのは「五十年前の春/あの春は」と改行して「春」が繰り返されているところ。話題が(書かれていることが)ここで変わるのだが、その変わり目の息づかい、瞬間的な「思い」のあふれ方がとても美しい。「あの春は」というひとことはなくても意味は通じる。しかし、「思い」が飛躍したという感じはつたわらない。さらに、その飛躍が、思い出の奥から自然にあふれてくる感じがつたわらなくなる。たぶん「乙女の祈り」と書いたために、長田が「乙女」だったときの「祈り」がおさえきれずにあふれてきたのだ。「乙女の祈り」を練習していたとき、音楽とは別に長田には思っていたことがあったのだ。彼女自身の「乙女の祈り」があったのだ。もしかすると、その邪念(?)のために曲を完全に弾きこなすことはできなかったのかもしれない。でも、それは「完全」ではない(完成していない)からこそ、長田の「乙女の祈り」だった。完成していたら、誰もが弾く「上手な」ピアノ演奏になっていただろう。
 そういうことを勝手に私は考えるのだが、そのきっかけが「五十年前の春/あの春は」という部分なのである。それからつづく「思い出」のハイライトは、美しいけれど、「五十年前の春/あの春は」という「焦点化」があってのことなのだと思う。
 とてもいいなあ、この詩は大好きだなあ、と私は感じる。

 しかし、

 詩はつづく。

久しぶりの同窓会で見かけたけど
きみはもうきみじゃなくて 知らないおじさんで
髪が薄くなっていたから
いけないけど 笑いそうになった
白髪頭の太ったわたしを きみもわからなかったみたいで
帰りの電車に乗ったときは
髪の薄いきみの顔を すっかり忘れていた

 これは自転車のエピソードよりも、もっとありふれたことのように思える。そして、同じように個別の(つまり、長田自身の)思い出(つい最近の思い出かもしれない)なのに、あまりおもしろくない。なぜなんだろうなあ。
 たぶん。
 「髪が薄くなっていたから」の「から」に原因がある。「から」は理由である。しかも、それは他人に納得してしまうための理由である。「五十年前の春/あの春は」の移行が、他人を説得するというよりも長田自身が納得するであるのとずいぶん違う。他人に言い聞かせるための「から」につづくのは、さらに他人に聞かせることばだ。「いけないけど 笑いそうになった」の「笑い」は「観客」(読者)を意識した笑いだ。「きみもわからなかったみたいで」の「で」にも、何といえばいいのか、他人(読者)を説得しようとする意思(意図)の方を強く感じてしまう。
 だから、というのはきっと変な接続詞の使い方になるのだが、あえて「だから」と私は書く。だから、この部分の美しいはずの結論「きみの顔を すっかり忘れていた」が長田の肉体ではなく、長田の「論理」に見えてしまう。
 言い直せば、タイトルにもつかわれている「どこまで行くの?」の「どこまで」を感じることができない。
 自転車の荷台に乗って花筏を追いかけたときは、ほんとうに「どこまで行くの?」がわからなかった。そこに思春期の美しさがある。でも、この連では「きみの顔を すっかり忘れていた」としても、長田は自分の家に帰る。「どこ」が見えている。

花吹雪を見ると 尋ねたくなる
ねぇ、わたし、
どこまで行くの?
あとどのくらい行くの?


 最終連。「どこまで」が「どのくらい」に変わる。ここに長田のかなしさ、人生(生きていること)のさみしさがあるのだが、それがちょっとだけ「親身」に受け止めることが私にはできない。この終わり方いいなあ。とくに「どこまで」が「どのくらい」に変わるところがてともいいなあ、と言いたいのだけれど、ためらってしまう。
 それは「髪が薄くなっていたから」「きみもわからなかったみたいで」の「から」と「で」が、私の肉体にひっかかっているからである。
 なぜ、その連だけ読者を気にして書いているのか、それが私にはわからなかった。
 私はどうも妙なところ、多くの人が「思想」と呼ばない部分(ことば)に「思想」を感じ、それが気になるのである。ストーリーとか結論ではなく、ことばを動かしていく動かし方に、その人の「肉体(思想)」を感じ、気になるのである。

 

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長嶋南子「東花畑一丁目」

2021-04-29 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)

長嶋南子「東花畑一丁目」(「Zero」16、2021年05月03日発行)

 長嶋南子「東花畑一丁目」は

花の畑はどこにもありません


 では、何があるか。暗渠になった川と、幾角に三軒の家が立っている。というよりも、「記憶」がある。たぶん、振興住宅地。そこに引っ越してきて、暮らしたという「記憶」は、いまもある。別に思い出さなくてもいいことなのだが、思い出してしまう思い出が、生きている。

  それぞれの家にはふるさとから切りとられた男
と女が住んでいます 男はふるさとのことばで話し
女はふるさとの味付けで食べています


 「記憶」なのだけれど、現在形で書いている。「記憶」である証拠は、つぎの段落にこう書かれている。「わたしの夫は風呂敷につつまれて押し入れのなかにいます」、つまり死んで「骨壺」のなかにいるということだろう。
 その夫は、

                   息をひそ
めて私がする電話のやりとりに聞き耳をたてている
のです 夫はふるさとの父母のもとに帰りたいので
しょうか わたしのところにいたいのでしょうか


 この部分が何とも言えずに、いいなあ。夫が長嶋の電話に聞き耳を立てているというのは、夫の癖(?)をいま思い出しているという意味なのだと思う。そういうことは、まあ、ふいに思い出されるものなのだろう。これは、いわば、長嶋の「妄想」、あるいは「錯覚」といってもいい。そこにいないのに、そこにいるように感じられる。
 でも、そのあとの「夫はふるさとの父母のもとに帰りたいのでしょうか わたしのことろにいたいのでしょうか」というのは「妄想」でも「錯覚」でもない。長嶋が「思いやっている」のである。「聞き耳を立てる夫」は、「記憶」からあらわれてくる。ところが、長嶋の疑問は、「記憶」からあらわれるのではなく、「記憶」の方へ向かって動いている。
 「記憶」のどこかに、夫の気持ちを判断する何かが残っていないだろうか。
 それを探している感じがつたわってくる。
 「記憶」には二種類あるのだ。「過去」から浮かびあがってくるものと、「過去」へ訪ねていってつかみ取るもの。これは、愛がないとできない。
 それを克明に語るのが、この疑問に対する「答え」がないことだ。どっちか、わからない。死んでしまったのだから、ことばを聞けない。だから、わかるわけがないのだが、そのわかるわけがないことを訪ねずにいられないのが愛というものなのだろう。正直というものなのだろうと思う。
 死んでしまったのだから、そんなことは、どっちだっていい、と冷たいことばを動かしてみれば、そのことがさらによくわかる。他人にとっては、どっちだっていい、どうだっていいことだが、長嶋には「どっちだっていい」(わからないくていい)ということではないのだ。どっちかでなければいけない。
 この気持ちをほうりださずに、じっと抱きしめている。

 と、ここまで書いてきて、やっと私は「わかった」気持ちになる。
 長嶋の詩は、不思議な乱暴さがある。「わたしの夫は風呂敷につつまれて押し入れのなかにいます」にも、その乱暴さがある。「押し入れに入れておくことはないだろう」と心ある人は言うだろう。しかし、乱暴に見えても、長嶋はその「夫の骨壺」をはなさずに持っている。ほうりだしはしない。いつも抱いているわけではないか、いちどもほうりださない。
 息子に対しても同じである。

四十年が過ぎました 私は脳に傷のある息子と
暮らしています


 事実だとしても「脳に傷がある」と直接的に書かなければならない理由はない。でも、長嶋は、そう書くことで逆に「ほうりださない」ということを選んでいるのである。ことばにして書く。そのことが「ほうりださない」の証拠なのである。ことばで抱く、ことばでつながりつづける。
 そう決意しているからこそ、「想像」するのだ。「ふるさとの父母のもとに帰りたいのか」「わたしのことなにいたいのか」。そのあとに、書かれないことばがある。そのことばは書かないことによって、さらに強くなる。どういう意味かというと、それは、その問いを長嶋は繰り返し問い続けるということである。繰り返すことで、強くなる強さなのである。

 


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フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」

2021-04-28 08:01:56 | 映画

フランシス・リー監督「アンモナイトの目覚め」(★★★★)(2021年04月27日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 フランシス・リー 出演 ケイト・ウィンスレット、シアーシャ・ローナン

 ケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンの組み合わせが気になって見に行った。ふたりとも好きな女優というわけではないのだが、どこをどう叩いても壊れそうにないケイト・ウィンスレットの肉体の厚み、どこをどう叩いても壊れそうにないシアーシャ・ローナンの精神のしなやかな強靱さ(復元力?)がぶつかるのはおもしろい「見もの」という感じがしたのである。
 で、この二人の演技合戦。通い合うところが全然ないような感じがして、それが逆に、なんともおもしろい。二人は仕事(?)も正確もまったく違うし、感性そのものもまったく違う。本来なら出会う必然性がない。そして、二人は、互いが違う人間であるということを理解している。理解した上で、出会ってしまうのである。
 そして、出会ってしまったあと、共通点があるということを「わかる」。「理解する」という感じではなく「わかる」。「頭」で理解するのではなく、皮膚感覚、肌の感じで「わかる」のである。男に、正当に(?)評価されていない、認められていない。人間として受け入れられていない。そのために苦労している(苦悩している)、ということを「わかる」。そして、接近していく。異質なのに、接近していく。異質だから、どうせ理解されないと思い、接近しやすいのかもしれないが。
 それは磁石のような感じ。対極が、「磁石」という共通の性質で引きつけあう。
 これをケイト・ウィンスレットのどっしりした不透明な肉体と、シアーシャ・ローナンの繊細で透明な肉体で演じる。ぶつかりあう。なかなか、すごい。セックスシーンが映画というよりも、何か、「演じていない」すごみで迫ってくる。「美しく」撮ろう、撮られようとしていない感じがする。セックスはひとに見せるものではないから、それでいいのだが、何か他人を(観客を)無視したようなところがあって、びっくりしてしまう。
 こういうことを象徴するのが、ケイト・ウィンスレットがシアーシャ・ローナンの家を訪ねて行ったときのこと。メイドが二人のキスシーンを見るが、シアーシャ・ローナンは見られていることを意識しない。「たかが使用人だ」というようなことを言う。他人など「眼中」に入っていないし、自分にとって何の関心もない人間を排除しても、何も感じないのだ。
 これは逆に言えば、二人がつねに男から排除されていることを意識しているということでもある。ふたりは男から「排除する暴力」を学んでいるのである。ふたりは常に誰かを排除しようとしている。そして、排除する/排除されるという関係が、二人がいつも向き合っている世界なのだ。でも、二人でいるときは排除する/排除されるがない、とふたりは一瞬の夢を見る。
 その、そのすさまじいセックスシーンを見ながら、あ、これだな、と思ったのだ。何が、これだなと思ったかというと。この映画の主人公の二人は、他人なんか気にしていないのだ。自分のしたいことがあり、それに向かってまっしぐらなのである。「まっしぐら」を通して「排除する力」に対抗する。そういう力を生きるしかないと理解して、そのまっしぐらにひかれ、まっしぐらすぎて結局うまくいかない。うまくいかないけれど、それでも、求めてしまう。
 ラストの大英博物館の「化石の展示ケース」を挟んでむきあうふたりの姿は、何の「結論」も明確にしていないが、それゆえに、すごい。結論などどこにもない。生きていること自体が結論であって、その展開がどういう結論に達するかは問題ではない。そんなものは「偶然」なのだ。「展開していく」ということだけが大切(必然)なのだ。そして、その「必然」をふたりが自分で選ぶように、観客は自分で選ばなければならない。
 こういう映画は、病み上がりの肉体には重すぎる。デ・ニーロの「グランパ・ウォーズ」くらいで時間潰しをすべきだったか、と少し反省した。

 


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蜆シモーヌ「受難」

2021-04-27 10:10:12 | 詩(雑誌・同人誌)

 

蜆シモーヌ「受難」(「現代詩手帖」2021年05月号)

 蜆シモーヌ「受難」は、第59回現代詩手帖受賞作。現代詩手帖賞は作品というよりも年間の最優秀詩人に贈られるものなのだが、この「受難」は、これ一作で賞に匹敵すると思った。
 「受難」のどこがいいのか。


たいいくの授業の
あとの
ぼくたちの
教室の倦怠と
性でふくらんだ
からだの
体積と
つぶしたうわばきの
かかとの
汚れは
ぼくたちの
苦い春でした

 ことばが自然に動いている。「性でふくらんだ/からだの/体積」と「つぶしたうわばきの/かかとの/汚れ」。その「ふくらんだ」と「つぶした」の呼応、「体積」と「汚れ」の呼応。「性」と「かかと」の呼応。余分なものが何もない。「ぼくたち」はたぶん中学生。中学生にとっては、うわばきのかかと、そのつぶれかたも「性」なのだ。肉体の動きを直接に伝えるものなのだ。もちろん、そういうことは大人になっても体験することだけれど、中学生のときは、体験というよりも「想像力」で性が暴走する。

ひとつまえの
席の
えんどうくんは
からだをこごませ
なよやかに
しろい
たいそうふくを
おとなしく
ぬいでいく
とちゅうでした

 「こごませ」がいいなあ。「ふくらんだ」とは逆の動きだね。ここに、何とも言えない呼応がある。ためこんだものがある。呼応することばは、その呼応のなかに、何かを少しずつためこんでゆく。一行一行の短いリズムが、それを生き生きとした動きにしている。行替えをやめて「散文」形式にしてしまうと、この呼応と呼応の効果は見えにくくなる。スピードが加速して「意味」になってしまう。
 「からだをこごませ/なよやかに/しろい/たいそうふくを/おとなしく/ぬいでいく」は、裸をさらにぬいでゆく、ぬいでゆく裸が見える感じがする。「しろい」は体操服の色ではなく、えんどうくんの裸の色、肉体のいろに見えてしまう。

くりいろのまきげと
ほくろのきれいな
えんどうくんの童顔は
まくれた
たいそうふくの
おくに
封じられて
えんどうくんは
せなかに
なりました

 「つぶしたうわばきの/かかと」が肉体であるように、性であるように、「まきげ」でも「ほくろ」でも「童顔」でもなく、剥き出しになっている「せなか」そのものが「肉体」である。「えんどうくんは/せなかに/なりました」の「なる」がいい。えんどうくんは「せなか」だけではない。しかし、ほかのものは「封じられて」、「せなか」がえんどうくんに「なる」。これを演出するというか、ひきたたせるのが「まくれた」と「ふうじられた(封じる)」という相反する動詞の動きである。「まくれた」たいそうふくが、えんどうくんの、既に知っている「特徴」を「封じ」、いままで知らなかった「特徴」をあらわにする。まるで、そのあらたな「特徴」に視点をひきつけるように「まくられた」ものがある。
 「まくられた」のは体操服だけではなく、蜆の「視線」なのである。蜆は視線になる。そして、その視線は、蜆の「性」そのものである。「つぶしたうわばきの/かかとの/汚れ」だけで、それが誰のうわばきなのか認識してしまう「肉体」の力としての「性」。

封じられて
わんきょくする
えんどうくんの半身に
ぼくという春は
磔にされました
たいいくの授業の
あとの教室で
ぼくという性は
失語しました

 「失語しました」は「新しいことば」が必要なのに、その「新しいことば」が出てこないということだろう。そして、それは「新しいことば」が出たがっているということである。射精寸前の、勃起したことば。それは、「肉体」のなかにたしかにある。そして、それをあらわすための蜆だけのことばがない。そういうことに気づいたが「失語する」という表現に「封じられた」かたちで動いている。「磔にされました」は、蜆の「肉体」のなかのことばである。途中の「わんきょくする」はえんどうくんの背中の描写だけれど、それをみつめる蜆のこころと肉体の「わんきょく」でもある。動詞の使い方、呼応の感じがとてもうまい。つまり、無理な嘘がない。正直が動いている。
 このあと、最終連で、ことばは大きく転換する。

ぼくのねぐせに
やさしく
櫛をとおしてくれた
えんどうくんは
理髪店をつぎました

 生々しい「肉体」が「記憶」に整えられて、ぽんとほうりだされる。この不思議な明るさが、ことばを解放する。「封じられ」「わんきょく」していたものがまっすぐになる感じ。「苦い春」がほんとうに「苦い」のではなく、「苦い」という味であると言える余裕になっている。成長といっていいのかどうかわからないが、ある期間を通りすぎた(経験した)ものだけがもつことのできる自然な余裕が、余韻となってひろがる。
 

 


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君野隆久「大黒町通」

2021-04-26 09:35:55 | 詩(雑誌・同人誌)

君野隆久「大黒町通」(「左庭」46、2021年02月12日発行)

 君野隆久「大黒町通」は全行引用したくなるおもしろい詩だ。でも、長くて引用できない。一部だけ引用する。

「夜」という長い詩を書こうとずっと思っていた
真夜中に松明のはぜる音を人々が聞いている場面から始まり
円筒形のものが風を切る音や
警報や子どもの叫び
さまざまな物音のあと
この詩はやがて空があかるみはじめる予兆の寸前で終わる予定だった
しかし考えてみれば自分の生はどうみても夜ではない


 と、始まる。まあ、いろいろなことを考えながら、缶ビールをもって(当然、飲みながら)大黒町通を歩く、歩きながら考えたことを書く。そういう詩である。
 こういう作品の場合、ことばが「正直」であるかどうかだけが重要になる。どんな詩でも「正直」が重要だが、ぼんやりと考えたことを考えたままに書くときには、とくに重要である。
 君野の「正直」は、書き出しの一行の「ずっと」のなかにある。持続である。その持続は、この詩を読めばわかるが「一生懸命の持続」というよりも、かなり「だらだら」した持続である。だから、人によっては「持続」とか「ずっと」とかという表現はつかわずに「だらだら」と呼ぶかもしれない。他人からみればもちろん「だらだら」でもあるし、自分で振り返ってみても「だらだら」かもしれない。でも、自分のことだから、そこで「だらだら」と言わずに「ずっと」と言って、少し自分を励ます。

古色の残るこの街も土地のところどころが
移植のため外科医に切り取られた皮膚のように
方形の更地になっている
奥に細長い家屋がぽっかり空無になると
隣り合っていた建物の無防備な壁や小窓が視線と空にさらされて
居心地悪そうにしている


 いま、地方の町にかぎらず、かなりおおきな町でもこうした風景に出会う。おもしろいのは「移植のため外科医に切り取られた皮膚のように」という比喩である。どうしてこんなおもしろい比喩がやってきたのか。君野は自分の皮膚をだれかに提供したことがあるのか。あるいは、自分の皮膚を自分の患部に移植したことがあるのか。それとも君野は外科医なのか。よくわからないが、ここには独特の「来歴」がある。舞台に役者が登場した瞬間、「存在感」を感じることがある。私の知らない「来歴」を抱え込んで舞台に出てきている。それが知りたい、という欲望に突き動かされて役者に視線が集中する。そのときに似た感じ。えっ、君野って、どういう人間? こんなふうに「正直」に「来歴」をさらけだして、これからどこへ動いていく?
 「耳塚」を見る。

(それはまったく異様なほどの大きさだ)
豊臣秀吉が慶長の役で削いだ朝鮮や明の人の耳や鼻を葬ったという
ばからしい話だ
人を殺してそれを祀る
まつるくらいなら最初から殺さなければいい


 この「耳塚」の「耳や鼻を」「削いで」のなかには、先に引用した「外科医の皮膚の切り取り」に通じるものがある。耳や鼻を削いでも「致命傷」というわけではないが、そこには、事故や病気で死ぬのとは違った、なまなましいうごめきがある。
 こうしたことばを経て、詩は急展開する。

だけどおまえも人を殺したな
おまえは母を殺した
それから女を殺した
子どもと
若い人間もたくさん殺した
おまえはそれを供養してもいない
胸にあるのは耳塚よりももっと生臭い貝塚ではないか
だから昼間から酒を飲んでごまかそうとしているのではないか


 ここにある「人を殺した」は、ほんとうの「殺人」ではない。比喩である。「たくさん殺した」君野が、詩を書いているとは思えない。
 で、その比喩の先に「耳塚よりももっと生臭い」ということばがでてくる。この「よりもっと」にも、私は、最初に触れた「ずっと」に通じるものを感じた。「もっと」は強調。「ずっと」も強調である。「よりもっと」は「より」ということばがつけくわわって強調がさらに強調されている。
 君野は、そういう「強調」のなかへ入っていくのである。
 引用が前後するが、「外科医」が出てくる連の最後に、こういう二行がある。

すこしずつ自分の船底が
路の古びた含羞と同期してくる気がする


 「同期してくる気がする」。ここには、ある方向へ動き続ける動きがある。方向が決まるというのは、一種の「強調」である。そして、それは「すこしずつ」なのである。この「すこしずつ」というのは「ずっと」に通じる「持続」である。「よりもっと」というのも、持続し、その結果「すこしずつ」が積み重なって、ひとつの「結果」になる。
 こういう変化が「正直」に書かれている。
 最終連の一行目。

耳塚から北へ上がる路幅はいちだん狭くなる


 ここには「いちだん」ということばが書かれている。「ずっと」「もっと」「いちだん」は、そのことばがなくても「大筋の意味(概略)」は通じる。何かと比較して「ずっと」「もっと」「いちだん」というのだが、そのとき、そこには何らかの「基準/起点」というものがある。それを君野は守り通している。
 何を守り通しているのか、私は、君野を個人的に知らない。(君野の詩を初めて読んだと思う。かつて読んでいたとしても、記憶にない。私はすでに認知症である。)だから、何を守り通しているのか、具体的には書けないが(推測できないが)、守り通しているものがあるということろに「正直」を感じるのである。私はそういうことを感じさせてくれることばを含んだ詩が好きだ。「ずっと」「もっと」に正直な思想(肉体)を感じる。

 

 

 

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渡辺彰『私詩16』

2021-04-25 10:21:58 | 詩集

渡辺彰『私詩16』(ふたば工房、2021年04月29日発行)

 渡辺彰『私詩16』の「きみを失くして僕は」。

きみを失くして僕は
すっかり僕らしくなくなってしまった

きみを失くして僕は
きみを通して見ていたことの多かったのに気づき

きみを失くして僕は
それを丸ごと失くしたのだから片腕をもがれたように辛かったが

 「亡くした」ということばが避けられているが、「失くした」は「亡くした」かもしれない。
 こういう体験は、多くの人がすることだと思う。
 「片腕をもがれた」は「両腕」をあたりまえと感じているからであり、そのときの「腕」はもちろん比喩であり、ここでは「二人」でいることがあたりまえ、「ひとり」は辛いということ。
 このことばの動きも、とくに新しいわけではない。
 「新しい詩」ではなく、「なじみのあることば/聞いたことがあることば」。
 でも、ことばは、いつでも「新しい」だけが求められるわけではない。「なじみのあること」を「なじんだまま」に受け止めることも必要。「なじむ」までには、それなりにことばはさまざまなことをくぐり抜ける。他人と同じことばであったとしても、それを自分のことばとして言うということは別問題なのだ。「正直」が他人と重なるのは、悪いことでも何でもない。自然なことだ。
 この自然の後に、やはりほかの人も語っているかもしれない自然が遅れてやってくる。この遅れてやってくる感じが、また、正直でいい。
 詩は、こう転調する。

きみを失くして僕は
きみを通さなくてよくなった分の自由にもやがては気づき


 「遅れてやってくる」は「やがて」と書かれる。もちろん、そういうものにすぐになじめるわけではない。
 だから、こう書かれる。

きみを失くして僕は
それまで見えなかった分が開けた気がした

きみを失くして僕は
それでもそんな僕とは長く馴染めなかったのだが

 と書いて、ここから「結」が動き始める。「なじめない」という自覚のあとというか、それを自覚すること、自覚していると「謝罪」することで、不思議な扉が開かれる。

きみを失くして僕は
きみを失くした僕にやっとなれたと感じられるようになり

きみを失くして僕は
それがきみのお蔭と思えた

 「きみを失くした僕」に「なる」。「なれた」と「感じる」。
 ここにはとても複雑な動きが集まってきている。
 「きみを失くした僕」に「僕」は「なりたかった」わけではない。「なりたくなかった」。それは書き出しの「すっかり僕らしくなくなってしまった」にあらわれている。「片腕をもがれた」にもあらわれている。
 「きみを失くした僕」とは、きみがいなくても僕は生きていける、であり、それはきみと出会う前の僕であり、それはそれでひとつの自然でもあれば、必然でもあった。きみにあって、その自然/必然が変わり、「きみを失くして」以前の自然/必然がもどってきた。そして、自然に、同時に必然として生きている。
 むしろ、自然が必然に変わった、ということかもしれない。
 だから、

それがきみのお蔭と思えた


 「僕」は、きっと、これから「きみのお蔭」に答えるようにして生きることを「必然」として選ぶ。「必然」だけれど、それを「自然」のこととして生きる。
 「私が生きてこられたのは、あなたのお蔭」という声が、いつか「僕」に聞こえてくるに違いない。それは、もっともっと「遅れてあらわれる」声かもしれないが、きっと聞こえてくるに違いないと感じさせてくれる。

 この詩は、どこが新しいのかよくわからないが、こういう新しさを感じさせないけれど、静かにそこにあることば、という感じのことばはいいなあ、と思う。ことばが、ことば本来のところへ帰っていく感じがする。

 

 

 

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白石隆「インド太平洋戦略/ASEANとの連携カギ」

2021-04-25 09:09:23 | 自民党憲法改正草案を読む

白石隆「インド太平洋戦略/ASEANとの連携カギ」(読売新聞2021年04月25日朝刊)

 白石隆「インド太平洋戦略/ASEANとの連携カギ」は詩ではないし、小説でもない。映画でもない。だから、ここで取り上げる「題材」ではないのだが、読んでいて、とても我慢できない怒りを覚えたので書いておく。筆者の白石隆は熊本県立大理事長という肩書で紹介されている。
 本文中に、こういう「ことば」がある。

 中国はクアッドが「対中包囲網だ」と批判するが、これは誤りである。中国中心の地域秩序を作りたいのなら、ユーラシア内陸方面は広く開いている。


 クアッドは「日米豪印4か国」のこと。三月に開かれた首脳会議を踏まえての「評論」である。
 白石の書いていることは「地図」を見る限りは「妥当」に見えるかもしれない。たしかに、インド太平洋に出てこなくても、中国の背後(?)には広大なユーラシア大陸がある。その「中心」になればいいじゃないか。
 でも、「ユーラシア内陸方面は広く開いている」という認識は、正しいか。
 「内陸(陸地)」はインド太平洋と違って「公海」ではない。それぞれの国の「領土」である。中国が、たとえばモンゴルやロシアへ入って行って、そこで「軍事演習」をしたり、そういう物騒なことではなくても、たとえば「畑を耕す」「放牧をする」「猟をする」というようなことをしたら、いったいどうなるだろう。それは「侵犯」である。他国の権利の侵害である。
 インド太平洋は、「陸地(領土)」ではない。どこかの国の「領海」でもない。「公海」である。「公海」とは、それこそ、どの国に対しても「広く開かれている」。そういう例があるかどうかわからないが、たとえば海に面していないモンゴルが、日本のどこかの港に入港許可をもらい、そこから「公海」へ出て、漁をして、日本の港に水揚げするということも可能である。「公海」でなら(一定のルールはあるだろうけれど)、モンゴル人も漁をしてもかまわない。
 「陸地」はたいていどこでも「領土」である。でも「海」は「領海」もあれば「公海」もある。「公海」であるインド太平洋は、中国に対しても「開かれていなければならない」。中国はユーラシア内陸方面に開かれているから、インド太平洋へ進出してくるのを封じても問題はない、とは言えないのだ。

 ロシア(シベリア)には広大な土地があるように見える。ロシア人が住んでいない「土地」を見つけて、そこへ日本人が入って行って、自由に農業をする、あるいは工場をつくるということができないように、中国人だって、そういうことはできない。「ユーラシア内陸方面は広く開いている」というようなことは、中国にだって、ありえない。
 こんな基本的なことを無視して、「地図」だけ眺めて、中国はユーラシアの「内陸」で活動すればいい、というのは「非論理的」だ。「広さ」だけでユーラシア大陸とインド太平洋を「同一視」することはできない。
 こういう「非論理」を、読者がそのまま納得するというか、こういう非論理で読者をだませると思い込んでいる感覚が、私には許せない。それをそのまま一面で紹介する読売新聞の態度も理解できない。あまりにも読者をバカにしている。

 だいたいアメリカの「インド太平洋戦略」というのは、日本近海(日本に接続する公海)に関して言えば、日本、台湾、フィリピンなどをアメリカの前線基地にして、中国が太平洋へ進出する、その進出先をインド洋に広げていくということを「封じる」作戦である。日本、台湾、フィリピンへとつながる「島」を「冷戦時代」のキューバにしてしまう作戦である。バイデン、菅の日米共同声明にはフィリピンこそ登場しなかったが、中国の一部である「台湾」をあたかも日米の同盟国であるかのように取り扱っているのが、その証拠である。
 さらにいえば、アメリカはわざわざ中国の近くまできて太平洋(インド洋を含む)の安全など主張しなくていいだろう。アメリカの西海岸、ハワイ、グアムとのあいだには、広大な太平洋が広がっている。その広がりだけで、十分なのではないか。なぜ太平洋全部(さらにインド洋を含む)までをアメリカの思い通りに支配しなくてはいけないのか。
 あまりにも強欲な欲望というものだろう。
 日米共同声明の、中国の主権侵害にのっとった戦略をそのまま鵜呑みにしたうえで、「中国中心の地域秩序を作りたいのなら、ユーラシア内陸方面は広く開いている」と、間違った論理にもとづいた意見を書くのは、傲慢である。間違っていても気づかないと思うのは、傲慢としか言いようがない。単に主観的な傲慢ではなく、客観的事実(小学生だって、太平洋は「公海」であるということを知っている、シベリアがロシアの「領土」だと知っている)を無視して、ことばのレトリックを駆使する学者の傲慢には、私は腹が立ってしようがない。

 


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(116)

2021-04-24 15:47:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(どこといつて方角になじみがなかつた)
<blockquote>
生命が辛うじて何かにつまずきながら辿つていつた
</blockquote>
 「つまずく」と「辿る」が組み合わさっていることろがいいなあ、と思う。
 私は具体的なもの、手で(肉体で)確認できるものが好きである。そして「つまずく」というのは好きである。自分の「肉体」のなかにある「欠陥」のようなものが見えてくる。つまずいて、転ぶときもあるし、つまずいて、態勢を立ちなおすときもある。その態勢を立ちなおすとき、それは何かを「辿ってる」。辿るというのは、何かにさわりながらという印象がある。そのときの、不思議な「肉体」の交流のようなものが、安心できる。自分の「肉体」のなかにある「他人の肉体」、それは「無自覚のいのちの肉体」ということかもしれない。
<blockquote>
そしていまぼくを揺するものは
とどろくような大きな沈黙だ
</blockquote>
 この詩は、こう閉じられる。「揺する」と遠くにあって「辿る」ことを誘っている何かだと思ってみる。「無自覚のいのちの肉体」というのは、どこにあるかわからない。自分の「肉体」のなかにあるときもあるし、自分の「肉体」の外にあって、見えない力で「揺する」ときもある。
 嵯峨はそういう存在を「大きな沈黙」と呼んでいる。

 この詩の感想で、嵯峨信之全詩集の作品をすべて読んだことになる。最初は「誤読」という詩集の形でまとめたが、その後は、思いつくままに感想として書いてきた。これもまた、別の「誤読」である。
 つまりそれは「評価」ではないし、「批評」でもない。ただ、私が考えたことだ。嵯峨のことばに触れて、私のことばが動く。
 他人から見れば、何の意味もないことだと思う。
 また、私にしても、何か意味があると思ってやっているわけではない。「意味」はやってくるとしても、遅れてやってくる。いずれ遅れてやってくるもののために、書いてみるということが大事なのだと私は思っている。

 

 

 


*

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北沢十一「ブルースカイ ブルー bluesky blue」

2021-04-24 08:56:31 | 詩(雑誌・同人誌)

北沢十一「ブルースカイ ブルー bluesky blue」(「くり屋」89、2021年05月01日発行)

 北沢十一「ブルースカイ ブルー bluesky blue」。北沢は川下りをしている。

日本に美しい川はあるか
こんなテーマで川を漕いでいったら
悲しくなる
青い空は碧い
漕いでいく先は自分がいるところだ


 この「漕いでいく先は自分がいるところだ」がいい。前の行の「青い空は碧い」につられて、私はこんなことを思うのだ。「碧」は紺碧の碧。それは青が凝縮し、より純粋に結晶した絶対的な色。川を漕いでゆくと、北沢はきっと純粋になるのだ。漕いでいく先で、北沢は純粋な自分に生まれ変わるのだ。自分の汚れ(?)を棄てるために北沢は川を漕いでゆく。


一枚の絵葉書が昼の月から届く
さみしい歌はもう書かないほうがいいとある


 私が仮に「汚れ(純粋の対極にあるもの)」と呼んだものは、ここでは「さみしい歌」と言い直されている。「さみしい」はこころにひっかかる何か、ということであるだろう。それは「日本に美しい川はあるか」という嘆き、怒りかもしれないが、北沢は、もっと「個人的」にこう書き直している。

故郷に置いてきたわが家の娘一家失踪事件の糸口を
ほどいて川に流す
この先何がどうなろうといいのだ
娘たちがどうなろうといいのだ
それよりも若いころ源流付近で仕掛けにかかった
ウナギは美味かったかどうかだ
またつまらないことを思い出したものだが


 「娘一家失踪事件」が事実なのか詩のための虚構なのか、私にはわからない。わかるのは、「娘一家失踪事件」と自分でつかまえて食べた「ウナギは美味かった」を比べて、後者の方を大事だと感じているということだけである。
 それは「つまらないこと」と言い直されているが、この「つまらないこと」のなかに純粋がある。「つまらない」は何の役にも立たない、ということでもあるだろう。ほんとうは何かの役に立っている(たとえば、北沢をなつかしい気持ち、うれしい気持ちにさせる、あるいは川を漕ぐという動機に役立っている)のだが、それはあくまで「個人的」なこと。そこに「純粋」の手がかりのようなものがある。充実した一瞬、「美味い」と感じる喜びの一瞬。
 以前日記に書いたベルグソンの「自由な時間(充実した時間)」、あるいはコルタサルの書いている「思いの流れの横溢」に通じる「一瞬」である。北沢は「思い出す」ということばをつかっているが、「思い」は「娘一家失踪事件」と「ウナギは美味かった」を同じように引き寄せる。そのなかで、ひとは動いている。そして、より強くあふれてくる「思い」の方が、「個人的肉体/個人的思想」にとっては重要なのだ。
 そういうものが「この先」ということばといっしょに動いている。「この先」は「漕いでいく先」の「先」と同じものだ。この動いている感じがとてもいい。私はたまたま「ウナギが美味かった」の方が大事と書いたけれど、それは「この先」でまたかわるかもしれない。やはり「娘一家」の方が大事だと思いなおすかもしれない。それはどっちになろうと「どうでもいいのだ」。「漕いでいく先」「この先」に何が起きるかなんて、わからない。でも、そのとき起きるのは「純粋」な何かだ。

うすい虹が下流の町の空に架かる

亡くなった友も生き延びた輩も
もう忘れ物をさがす必要はない
問えばまたうなずく問いがあるばかりだ

 最終行がいいなあ。
 「問えばうなずく答えがある」のではない。また「問い」があるのだ。そして、それは「うなずく問い」なのだ。自問の繰り返し。「娘一家失踪」よりも「ウナギが美味かった」が大事か、そうであるはずがないが、いったん肯定した後で問い直すのだ。「娘一家」も「ウナギ」を思い出さなければ「これから先」へいけないのだ。問いかけ、問いかけ、さらに問いかけつづけて、答えは「どうでもいい」に達するかもしれない。つまり、「存在」をあるがままに受け入れ、和解するというところに。この不透明さこそ、この矛盾こそが、北沢にとっては「純粋」なのだ。不透明という純粋。「碧」は「透明」ではなく、あくまでも「青」が凝縮したもの、結晶の輝きで透明と錯覚させる純粋さである。そういう「矛盾」の不思議な美しさを感じさせてくれる。北沢の詩は。

 


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(115)

2021-04-23 15:35:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(なるほど死は不動である)
<blockquote>
人間の掟ではなく 宇宙の掟だからだ
</blockquote>
 「意味」が強いことばである。
 嵯峨は、このことばを納得したのか。
 「なるほど」はむずかしいことばだ。納得したときつかう。しかし、ときには「論理としては認める」くらいの意味でつかうこともある。
 いま私が書いたように「なるほど。しかし」とつかうことがある。
 詩は、ときに、感動だけではなく「しかし」という反論を誘うこともある。

 

 

 

 

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颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』(2)

2021-04-23 15:00:30 | 詩集

 

颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』(2)(思潮社、2021年04月09日発行)

 「六月の地図」は、こう始まる。


はじめの雨が斜線を引く

たちまち ならぶ樹木
森林は 咆哮

よばれても
肺の奥で難破した船には 耳がないから
わたしは 生まれた土地で 行方不明

翼ほど 卑怯な道具はないね


 美しいなあ、うまいなあ、と思う。視覚的なイメージを展開しておいて、「卑怯な」という生々しい批判、剥き出しの感情を噴出させる。何が美しかったのか、どうして美しかったのか、ということを忘れて、「卑怯な」ということばを噴出させる肉体を印象づける。
 「ユダと逢う」は、こうである。



桃が剥けていく 夜

横断歩道を豹が飛ぶ 夜

赤ん坊が 四方から匍匐前進してくる 夜

 静かな夜の描写、何も起きていないからこそ「モモが剥ける」というようなじっと見つめないと見えない事件が見える。「モモ」は「豹」に、さらに「赤ん坊」にかわる。「剥ける」は「飛ぶ」に、さらに「匍匐前進」にかわる。そこに、どんな「脈絡」があるのか。
 まあ、「脈絡」などというものは一種のこじつけだから、いくらでも捏造できるから、つくってみてもしようがない。颯木は、非常に巧妙に「夜」ということばの繰り返しで「脈絡」をつくりあげる。「夜、そういうことが起きた(目撃した)」。それは、特別な夜である。そういうことが起きると特別な夜には、また特別なことが起きる。


目は怯えて ふたたび閉じ
うちがわを向いて
腎臓の陰で ユダと逢う


 想像力のなかでなら(夢のなかでなら)、どういうことも可能である。というのが颯木の思想なのかもしれない。
 「リバイバル」の二連目。


わたしたちの骨は 悲しみぬいて
ますます澄み
透かせば 未来が見える


 これもまた美しい。
 「ますます」が、颯木のキーワードだと、私は瞬間的に感じ、そのことばに傍線を引いた。いままで読んできた詩のなかに「ますます」はあったか、なかったか。すぐには思い出せない。ほんとうに「キーワード」であるかどうか判断するには、読み直して確かめる必要があるのだけれど、三か月の入院で視力が悪化したので、読み返さないまま「キーワード」だと断定してしまう。
 「ますます」は強調である。「ますます」がなくても、骨が悲しみぬいて、澄み(透明になり)、その向こうに未来が見えるという「運動」に変わりはない。けれども颯木は「ますます」を必要とする。骨が悲しみぬいて透明になり、未来が見えるということよりも「ますます」という変化の方が颯木は重要なのである。
 何かが起きる。それが「ますます」何かを深めていく。そうすると、その先に、いままで起きなかったことが起きるのだ。
 どの作品で読み直してもいいが、「ユダと逢う」が「誤読」するには好都合である。


桃が剥けていく 夜
(桃が「ますます」剥けていくと、桃は「ますます」透明になり)
横断歩道を豹が飛ぶ 夜(が見える/あるいは夜になる)
(豹が「ますます」飛ぶと、その広大な空間に)
赤ん坊が 四方から匍匐前進してくる 夜(が見える/あるいは夜になる)

 「ますます」は「増殖/拡大」である。想像力が増殖し、拡大する。それも「ますます」をともなって動くのである。「ますます」に励まされて、何が起きてもかまわない、という世界が始まる。
 その世界を信じるかどうか、つまりリアリティのあるものと信じるかどうかは「ますます」を信じるかどうかである。「ますます」という運動、あるいはエネルギーを信じられるひとには、この「ますます」が引き起こす世界は、いっそう「美しい」ものになってあらわれるだろう。
 「今」には、こんなことばがある。


私 女だったかしら、男だったかしら
どちらだとしても どちらでもなくても
もう待たないわ
名づけられなくても
銀河へと昇る駿馬を放つわ


 「もう待たないわ」の「もう」は「ますます」と呼応している。「ますます」過激に疾走するイメージ。単に「待たない」のではなく、いままで十分まってきたから「もう」待たないのだ。「名づけられなくても」というのは、次にあらわれるイメージが「脈絡/文脈」として整えられていなくてもということだろう。「女だったか」「男だったか」は、ある意味では矛盾しているが、それが矛盾することになってもかまわない。「脈絡」というは、すでに書いたが、どんな場合でも「後出しじゃんけん」である。「女だった」と言い張ることも「男だった」と言い張ることもできる。なんとでも捏造できる。そんなものを「待つ」必要はない。必要なのは「ますます」にのっかって、そのまま疾走することである。「ますます」を押さえつけようとするものを「もう」気にすることはない。
 こう「誤読」すれば、颯木にとって必要なことば(肉体にしみついていることば/キーワード)が「ますます」であるということがわかると思う。

 私が、きのう「耳鳴り」でつまずいたのは「ますます」が「ときに温かな海流が わたしを抱いて放さない」にはなかったからだ。もちろん、「あなたがわたしをますます抱いて放さない」と「ますます」を補って読むこともできるが「見て、/この胸をまっすぐ貫く/竜骨」ということばから始まる「わたし」の過激な変身(生まれ変わり)が封じこめられてしまう。「ますます」の主体(主語)は「わたし」であってほしいと思うのだ。

 


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(114)

2021-04-22 11:31:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

人生とは
<blockquote>
人生とは
ある種の不思議な遠さである
</blockquote>
 と書いたあと、これを、こう言い直す。
<blockquote>
そして黄金の国の彼方に横たわる一地方である
</blockquote>
 しかし、これでは「言い直し」にならない。やはりわからないままである。「黄金の国」が何かわからないし、それがわからなければ「彼方」もどっち方向かわからない。
 わかるのは、「そして」という接続詞だけてある。接続詞に意味はないが、接続詞は「方向」を持っている。「しかし」と「そして」は方向が逆だ。「あるいは」は逆かどうかはわからないが、いま向いている方向とは別の方向をあらわす。
 この詩から何か「意味」を引き出せるとしたら、嵯峨は、ここでは「そして」をつかってある方向に動こうとしているということだけだろう。その「そして」は「彼方」へ向かうのである。つまり、とどまらない。
 止まらずに、ひたすら、一つの方向を目指す。詩を目指し続けたと読み直せば、それは嵯峨の人生になるだろう。

 

 

 

 

 

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颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』

2021-04-22 11:09:26 | 詩集

 

颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』(思潮社、2021年04月09日発行)

 颯木あやこ『名づけ得ぬ馬』のことばは美しい。そして、美しいということは「わかる」というか、美しいと「感じる」のだけれど、それがなぜ美しいのかのかが、私にはよくわからない。心底、美しいなあ、という感嘆が漏れるわけではない。
 たとえば「刹那」。


砂漠に奔らせる馬群
絡まりあう文字のように

すぐさま逃げる
漆黒の脚
乱丁を残して

 ここに書かれているのは「馬群」だが、馬群ではなく、次の行に出てくる「絡まりあう文字」である。実際に存在するのは「絡まりあう文字」であり、「馬群」は比喩である。存在と比喩が逆転してる。
 「文字」をことばと読み替えるならば、これは詩の訪れ、インスピレーションが颯木を襲った瞬間(刹那)のことを書いていることになる。詩がやってきた。それをことばにしようとするが、インスピレーションは駆け抜けてしまった。「乱丁」、つまり学校文法に整えられた「文章」ではなく、何か乱れた(意味が通じない)印象だけを残して、駆け抜けてしまったということを書いているのだと思う。
 もし、私が「誤読」したように、「馬群」と「文字」が存在と比喩が逆転しているのだとしたら、この逆転という操作のなかに、颯木のことばの美しさの秘密のようなものがあると思う。そして、それは「逆転」という運動よりも、私には何か「操作」という意識の働きのようなものが強く感じられる。「運動」が直接私に迫ってくるのではなく、「操作された運動」の「操作」の方が印象に残る、ということである。そのために、美しいなと声が漏れるところまでいかない。寸前で、声が、息が止まる。
 これが、たぶん、私の「つまずき」である。「わかる」「感じる」けれど、どうも納得できないのである。美しい、けれど、納得できない。そういう思いが残る。

 しかし、「耳鳴り」で、私は「あっ」と叫んだ。


見て、
この胸をまっすぐ貫く
竜骨

三度 抱かれ
三度 溺れ
三度 沈んだが

そのたび
わたしのからだは 船へと進化
ついに 真っ白な帆が生え 金の竜骨が張り出した

 これは美しい。そして、「操作」を感じない。ことばが直接動いている。「三度 抱かれ/三度 溺れ/三度 沈んだが」というリズムはとても自然だし、勢いにのって次の連でことばが飛躍する。「三度……」は想像力を加速、暴走させる。
 さらに、次の連。


波が逆巻く あなたの心
しずけさ 横たわる あなたのからだ
ふかく冷たく青い あなたの思想


 これは「三度……」に呼応している。「心に抱かれ」「からだに溺れ」「思想に沈む」というわけではないが、ともかく「三度」なのである。「三」が自然に動いている。
 そのあと、


ああ
ときに温かな海流が わたしを抱いて放さない


 えっ。
 私の「あっ」は、ここで突然「えっ」に変わる。
 私の感じていた何かが、突然、遮られる。それは「透明」な「仕切り」である。そして、それが「透明」であることが、困るのだ。
 透明なガラス窓に小鳥がぶつかって落ちるように、私は、颯木の「透明な仕切り=操作」にぶつかって、颯木のことばについていけなくなるのである。
 颯木の書いている世界は美しい。
 でも、「ときに温かな海流が わたしを抱いて放さない」は、「透明な仕切り」越しに見る美しさであって、そこには「真っ白な帆が生え 金の竜骨が張り出した」が存在しない。美しい船が、突然「海」に変わってしまう。「船と海」の情景に変わってしまう。
 颯木のことばにあわせて「真っ白な帆が生え 金の竜骨が張り出した」船になっている私は、

熱く冷たい激流よ わたしを抱いて放すな

 と、無意識に叫んでしまっている。「わたし」は主語のまま、叫びだすだろうと思う。
 颯木の船と私の船は、そんなふうに分離してしまう。
 「わたし」を「三度」翻弄した海、「あなた」に翻弄されて船に変わった「わたし」が、「あなた」を「私を抱いて放さない」という具合に、奇妙な「客観」に落ち着くところが、どうも不思議なのである。

 詩がやってくる。詩が颯木を突き破ってあふれる。それは颯木が颯木でなくなるということ、生まれ変わるということだと思う。颯木は、そこで泣き叫び自己主張する、というのではなく、なんだか「健康で元気な赤ちゃんが生まれました」と他人になって報告しているような感じ。その「報告」をガラス窓越しに見ている感じ。
 私が颯木のことばの美しさにとまどう理由はそこだ。
 美しいを「報告」にしてしまってはいけないと思う。美しいかどうかは、読者が思えばいいことだ。「報告」ではなく、形(ことば)にならない声(赤ちゃんの産声のような自己主張)を聞きたい。

 (まだ途中までしか読んでいないので、詩集の後半にはもっと違った詩、ことばの運動があるのかもしれないが、思いついたことを書いておく。)

 

 

 

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オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
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(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
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(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(113)

2021-04-21 09:46:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

*(小さな港まで)
<blockquote>
あの突堤のところまで走つて行つておいで
そこに咲きつらなる希望の花がしほれる前に
</blockquote>
 「咲きつらなる」の「つらなる」がおもしろい。孤立して咲いているのでもない。群れて咲いているのでもない。つらなっている。
 この詩の最終行は「わが子よ」。
 「つらなる」には、嵯峨から子への「つらなり」が託されている。
 「花がしほれる前に」は、子から、さらに先の子への願いがこめられている。港の突堤のように、長くのびるもの。その長さが抱え込む美しさ。そういうことも想像させる。

 

 

 

 

 

*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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冨岡悦子『反暴力考』

2021-04-21 09:00:54 | 詩集

 

冨岡悦子『反暴力考』(響文社、2020年07月25日発行)

 冨岡悦子『反暴力考』は、突然はじまる。


01

どうしたのって言われたくない 破裂したスイカ とか 押しつぶ
されたイチゴ とか 落下したザクロ とか 想像して がまんし
てるのに 私がどうしてる なんて言えない そのままありのまま
言ってしまって いいんですか


 突然はじまるのに、わかる。この「わかる」には、厳しいものがある。言いたいことを言えずにいる人がいる、という「現実」が私たちの周りにある。それを「知っている」し、またその言いたいことが言えないが他人のことではなく、自分のことでもあるからだ。つまり、こういう「過去」はだれもが経験しているからだ。「私」の「過去」が「いま」の形で書かれており、その「過去」は「私たちの過去」でもある。
 「過去」は直接書かれることはない。それでも「わかる」。「破裂したスイカ」「押しつぶされたイチゴ」「落下したザクロ」。自分の身を守ることができないスイカ、イチゴ、ザクロ。その存在におおいかぶさる「破裂する」「押しつぶす」「落下する」。「落下する」は「落下させる」であり、「破裂する」も「破裂させる」だろう。それが「過去」だ。スイカ、イチゴ、ザクロは身を守る方法を知らないのに、何かが、その身を攻撃してくる。それが「過去」だ。「過去」は、「いま」を動詞になって襲ってくる。「身を守る」の反対は「襲う/攻撃する/暴力を振るう」である。
 「そのままありのまま言ってしまって いいんですか」
 もし、スイカ、イチゴ、ザクロに発揮できる暴力があるとすれば、それだけである。しかし、そんなことができるだろうか。

コミュニケーション・スキルの授業で 話し相手の ありのままを
受け入れましょうって プリントに書いてある 相槌は 優しく 
話し相手の言葉を いきなり否定してはいけません 口角をすこし
上げ気味にして にやにやしてはいけないって 何なのさ

 ここには、もうひとつの「暴力」がある。被害者を「枠」のなかに抑え込もうとする力である。それは「破裂する(させる)」「押しつぶす」「落下する(させる)」という直接的な動詞では書かれない。
 「否定してはいけない」「にやにやしてはいけない」。「いけない」という「禁止」の「暴力」がある。否定の暴力がある。「否定してはいけない」も暴力なのである。「優しく 受け入れる」というのは暴力の対極にあるように見えるが、そこにも暴力があるのである。
 意識されない「善意の暴力」とでも呼べばいいのか。
 「私」は二つの暴力と向き合っていることになる。矛盾した暴力と向き合っていることになる。この矛盾に、ことばを動かしていく力、詩がある。
 そうは思うのだけれど、そう感じて、苦しくなるのだけれど……。
 「12」のこういう部分。

とりのこされて 車中のポスターを 呆けて見つめた 平成のビッ
グニュースは バブル景気崩壊 サリン事件 大地震 疾走する電
車に運ばれ 私は 地に足がついていない ポスターの 活字に
苛立ち 三十年をくくられて

 こうしたことばには「過去」ではなく、「記録」だと思う。
 「過去」と「記録」はどこが違うか。
 説明になるかどうかわからないが、「私」の感覚では「記録」には「間違い」がない。言い直すと、「個人的体験」がない。サリン事件の被害者、大地震の犠牲者(他者から暴力を受けた人)は「サリン事件」「大地震」ということばだけで「過去」を語ることはできない。「破裂する(させる)」「押しつぶす」「落下する(させる)」というような動詞が「個人的体験」として、つまり「肉体の痛み(反応)」として生きていることと対峙する矛盾として見えてくる、見えてしまうものだと思う。私はサリン事件も大地震も、自分の「肉体」としては体験していないので、どういうことばが可能なのか言うことはできないが、体験者ならば必然的に「個人的な動詞」が「記録」を突き破ってあらわれてくるものだと思う。もちろん、その「個人的な体験」は李村敏夫が『日々の、すみか』で書いているように「遅れてあらわれる」ものだと思うが、この冨岡のことばには、その「遅れてあらわれる」ものがない。「個人的な体験/遅れてあらわれる何か」というのは、「記録」から見れば「間違い」に属するもの(記録には書きとめることができないもの、排除されてしまうもの、という意味である)だが、ひとは間違えないといけないときがある。普遍化してはいけないときがあると思う。普遍化の手前で立ちどまり、「個人」の絶対性へ引き返さないといけないときがあると思う。
 それは、「優しく」「受け入れましょう」と逆向きの動きである。「優しく」「受け入れましょう」に対して「何なのさ」と反発を感じた冨岡ならばこそ、「地に足をつけて」踏みとどまってほしいと私は思う。
 また「01」に戻るけれど。その三連目。

よせばいいのに 水の流れのように 自然に 相手の気持ちに沿っ
てねって 教師役のおばさんは 自信たっぷりに言ってるけど 水
も堰き止められると 濁ります 腐臭がします 泥水に沈む私に
手をさしのべたら あなたの身体も 汚れます

 この他者との向き合い方、目の前にいる他者に対してことばを投げつけるままの運動をつづけてほしかったなあ、と思う。「個人」を剥き出しにすることは、他者を「個人」として自分に引きつけて向き合うことだ。「相手の気持ちに沿ってねって」の「ね(自信たっぷりの押しつけ)」があかるみにだすおばさんの「暴力」をもっと書いてほしいなあ、と私は思う。

 

 


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費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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