谷川俊太郎の十篇(10 臨死船)
2014年06月19日(木曜日)
(「臨死船」は長い詩なので全行の引用は省略する。必要なところだけ引用しながら書いていくことにする。引用は前後するかもしれない。全行の形は、それぞれで確認してください。)
「臨死船」はタイトルどおり「臨死」の人が「三途の川」の船に乗ったときのことを書いている。
私がいちばんおもしろいと思ったのは、鳥の群れを見るところからはじまることば。鳥は成仏しない霊だという話を思い出し、鳥になったら死んでしまった友人たちと話ができないと不安になったあと、
「気持ちが響いてくる」「気持ちがか細く伝わってくる」。
この詩には何回も何回も「気持ち」ということばが繰り返される。そして「気持ち」は「響いてくる」「伝わってくる」。つまり、「分かる」。「分かる」のだが、そのいちばん「分かる」のが「分かんない」という気持ちである。この変な「ねじくれた」関係がとてもおもしろい。そして、それが「気持ち」と「気持ち」と結びついているところが、とてもおもしろい。
この「分からない」は、「私」が臨死から帰ってくる部分でも登場する。
「嬉しい気持ち」なのか、「辛い気持ち」なのか、どっちが「ほんとう」か「分からない」。区別がつかない。
これは「死」が初めて体験することだから、気持ちがどっちに動いていいのか分からない、気持ちの拠り所(基準)がないということかな? 頼りになるのは自分の「気持ち」だけなのに、あらわすことばがない。「気持ち」というのは、自分のなかにしか基準がないのに、どうしていいか「分からない」。困った……。
「分からない」のは「事実」というよりも「気持ち」。「事実」がわからないのではなく「気持ち」が「分からない」。逆に言うと、初めて体験することがらなので、「気持ち」が「事実」なのだ。
そして、この、「気持ちの事実」が「分かんない(分からない)」は、実は、この詩のいたることろに書かれないまま隠れている。 ときには「別のことば」になって、隠れている。
こうした、どこにでも隠れていることば、作者が無意識に省略してしまうけれど、それを補うと意味が明確になることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の思想(肉体)に密着しすぎていることばといういう意味である。この詩のキーワードは「分からない」である。そのキーワードが「気持ち」といっしょに動いているのは、この詩のおもしろいところである。「分からない(頼りない)」という気持ちが「分かる」と、ねじれているのがおもしろさの根っこにある。
以下、隠されている「分からない」を一行ずつ補ってみる。
という具合。
同時に、この「分からない」が省略されているのは、実は「分からない」だけが「わかる」(わかっている)という矛盾した形で成り立っている。「分からないの気持ち」が「分かる」のと同じように……。
そして、この「分からない」が「分かる」とき、少女との対話にもどれば、「私」と「少女」は「分からない」という気持ちのなかで一体になっている。「ひとり」になる。
少女だけにかぎらず、「私」は臨死船に乗り合わせたすべての人と「分からない」という気持ちで一体になって、彼等の「分からない」が「分かっている」。「分からない」ということが全員の「共通の気持ち」なのである。
だから「気持ち」が通じてしまう。
たとえば「人語は役立たずか」と思った瞬間に、鳥(になった少女)は「人語ではなく、直接「気持ち」に語りかけてくる。「私」は「耳」ではなく「気持ち」で少女とじかに向き合ってしまう。
「事実」と「気持ち」はどこかで、融合してしまっている。
ふーん、と私は、読みながら「判断停止」のような感じで、これはおもしろいなあ、とも思う。「分からない」「分からない」と谷川は書いているのに、その「分からない」が「分かる」というのは、とてもおもしろいなあ、と思う。
なぜだろう。
自分の「死」を体験したことがないからだ。そうか、こういうことが起きうるのか、と想像力を刺戟されるからだ。しかも、それはまったく「知らない」ことではなく、なんとなく、どこかで聞きかじった感じがするからである。聞いたことがあるぞ、と思うからである。
それは実際に「死んだ人」のことばではなく、たとえば幼くして死んだ子どものことを思い、「あの子は、お母さんはいつまでまってもやってきてくれなくて寂しいと泣いているに違いない」というような想像のなかでの姿だったりするのだが……。
想像(気持ち)と事実がどこかで入り乱れ、交錯している。
そのために「分からない」のに、何かが「わかる」ようにも思えてしまう。
そうではないかもしれない。
死(臨死)というような極端な「こと」ではなくても、私たちは「他人」の「気持ち」などわかっていないのではないだろうか。そこに起きている「こと」を見て、そのとき自分の「気持ち」が動いているだけなのではないだろうか。
道に誰かが倒れている。腹を抱えて呻いている。そのとき、私と、あ、この人は腹が痛いのだと思う。感じる。それはその人の「気持ち(思い)」ではない。あくまで「自分の思い」、思い込み。「痛み」も他人のものであって自分のものではない。でも、感じる。
「他人」をとおして、自分が覚えていることを思い出し、それで「気持ち」(痛み)を想像している。想像があふれてくると、同情し、その人を助けたりする。大丈夫ですか?と声をかけ、救急車を呼んだりする。
その判断が間違っている(状況を誤読している)かどうかは、気にしない。
人はいつでも自分の気持ちで動くだけなのである。
だからその気持ちを動かす判断基準(経験)がないと、とても不安になる。
視点を変えてみる。「分からない」をまったく違う角度から考えてみる。
「分からない」とは、いま起きていることが自分の知っていること、覚えていることと「一致しない」ということ。何かがわかるというのは自分の知っていること(経験)と未知のはずの新しいことが「一致する」こと。一致すると「わかる」。一致しないと「分からない」。
道に倒れている人の例にもどると、その人の痛みが「分かる」のは、その姿勢が、私が腹痛を体験したときの姿勢と「一致」するからだ。そのときの「うめき声」が私の体験した肉体の声と「一致」するからだ。
そうだとすると「分からない」とは「他人」と言い換えることができるかもしれない。「他人」の人生を私たちは体験していない。だから「他人」は基本的には「分からない」。私の「分からない気持ち」は、それは「他人」なのだ。「分からない」というとき、それは「私」の気持ちだけれど「私」とは「一致」していない。「私のなかにある他人の気持ち」が「分からない」。「分からない」は「他人」なのだ。
逆に言えば、「他人」の気持ちであっても、それが「分かる」とき、それは「私の気持ち」になる。少女の「分かんない」が「分かり」、それが「話者の気持ち」になったように。
このことを利用して、谷川はことばを動かしている。
他人が出てくる。その他人の動きを書く。すると、それにあわせて読んでいる人(書いている谷川)の気持ちが動く。どう感じたかを書かなくても、分かる。それこそ「分からない」ということさえ「分かる」。
そして「他人」は「分からない」からこそ、そこにいっしょにいることもできる。「分かる」とめんどうくさいことがある。「わかる」と「他人の思い」を尊重しなくてはならない。「他人」に自分をあわせないといけない。それは面倒だね。
わかった上で、裏切るという方法もあるけれど、そういう場合は、相手から「分からない奴だ」と批判されるだろう。「合致しない」が「分からない」なのだ。
何と「合致させていいか」、それが「分からない」という運動だ。
「分からない」から「他人」が次々に登場する。「分からない」ことが「他人」の姿になる。それは「複数」になる。これを、谷川はなんだか楽しんでいる。自分はどうでもよくて、というわけではないだろうけれど、他人がたくさんでてきて、それぞれに勝手な「声」を張り上げるのを楽しんでいる。他人があふれてくると、自然に「世界」が姿をあらわすからだ。
谷川は「生まれたよ ぼく」という作品で、新生児である「ぼく」のなかに複数の「他人の声」を同居させたが、今度は「臨死船」のなかに複数の人間を乗せることで、複数の声を再現し、「世界」を描いてみせる。
いわば「臨死船」は複数の、知っている限りの「他人(他人の精子)」が谷川の卵子(ことば)に押し寄せている状態なのだ。そして、この詩では、その精子は谷川のことばと完全に合体していない。ことばは授精してない。不完全に、精子につつかれている。だから、「子ども」という完成形をめざして細胞分裂し、育っていくことができず、不安のなかを漂っている。
「私」自身の「声」だって、「私」の声ではない。「私小説」のように「私」の「現実」がそのままそこに書かれているのではない。だれでもありうる「ひとりの男」の「声」が書かれており、そこには複数の男の体験が注ぎ込まれている。
現在、谷川には「女房」はいない。つまり、ここに書かれていることは、ほんとうではない。まあ、「臨死」体験自体、ほんとうではないかもしれないし……。
なぜ、こんな嘘を書くのか。虚構を書くのか。
谷川は「他人の声」が聞こえてしまうのだ。そして、その声を忘れることができないのだ。誰かがこんなことをいいたがっている、と感じてしまう。他人のことなのに、じぶんの声として聞きとってしまう。
まるでシェークスピアである。
こんな人間を書いてみたい--というのではなく、ある人の声がそのまま動き回る。そのうごきまわる声を谷川はシェークスピアのように書いてしまう。
自分を書くのではなく、他人を書く。「他人」が自分の「肉体」のなかで動いておもしろいことなのだと思う。
そういう意味では、この「臨死船」もまた「他人」の動きを書いた「叙事詩」なのだ。死につつあるときに、起きる「こと」を書いている。「気持ち」は書いていない。「気持ち」は「分からない」としか書いていない。「分からない」ものは書きようがない。「気持ち」は分からないが、ある人がこういった、この人はこう答えた、何が見えた、は書いてある。
だから、おもしろい。
ところで「父の死」にも「分からない」が出てきた。夢のなかで泣いた。それはほんとうだったのか、「分からない」。夢のなかで泣いたのは谷川のなかの「他人」である。それは谷川の意識できない谷川であり、無意識の谷川と考えればと、それは谷川の「ほんとう」でもある。意識できないくらい自分にしっかりからみついている「キーワード」ならぬ「キーパーソン」である。「分からない他人」こそが、谷川にとって「本人」なのだ。「思想」なのだ。
こんなふうに「分からない」がどんどん増えてきたとき、人はどうやって生きていけるのだろう。自分を動かしていけるのだろう。
谷川は不思議なことばを書いている。
「音楽」。--この「音楽」ということばは、最終連の直前にも「酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる」という具合に聞こえてくる。
このことばを手がかりにするなら、その「音」とは「自分の声(谷川の声)」だ。「誰かからの便り」のように聞こえるのは、それが「誰かの声」ではないからだ。「誰かの声」でなければ「谷川の声」でしかない。
「声」には谷川が耳をとおして聞きとる「誰かの声(他人の声)」と、耳をつかわずに聞いてしまう「谷川自身の声」がある。
その耳をつかわずに聞く「肉体」のなかから鳴り響く音はは、鉄腕アトムの「ラララ」のように、ことば(意味)にならない「未生のことば=音」である。
その「未生のことばの音」を基準にして谷川は「他人のことば」を選びとる。「和音」になりうる「他人のことば」を選びとる。それから自分の「ラララ」の音も整えなおす。するとさらに多くの「他人の声」と「和音」が可能になる。そうやって「音楽」が広がって行く。
それは「他人の精神(精子)」を授精した谷川のことばが分裂しながら子どもに育っているのに似ている。そうやって、谷川の詩は生まれる。そうやって谷川は詩を「出産」している。
その詩のなかには、いつでも「他人の声」がある。「他人」が生きている。「他人の声」と向き合いながら、自分の「音楽」の領域を広げていく。谷川の詩は「音楽」の「叙事詩」なのだ。
*
補足。
人間はだれでも耳をもっているから、他人の声が聞こえる。谷川も、昔から他人の声を聞いていた。しかし、そのとき聞いていた声は自分の声と共通する声だった。他人を描いても、それは「谷川の分身」だった。
ところが佐野洋子と出会ってからは、「自分の声」とはまったく違う「他人の声」があると気がついた。そして、その「他人の声」と谷川自身の「ラララ」を合わせることができるとわかり、突然、谷川の声が豊富になった。「他人」が「他人」のまま同居している。そして、動いていく。
それまでの谷川の「孤独」は「他人の声」と「自分の声」が重なってしまう孤独。重なってしまう結果、宇宙には自分ひとりしかいないことになってしまうという孤独だった。ところが、佐野洋子とあってからは、この孤独の性質が逆転する。「他人」と「自分」が分離してしまう、他人とはいっしょにならないという孤独だ。
ところが、その他人とはいっしょになれないというときの「いっしょ」にはいろいろなレベルがある。完全に「一体」になれなくても、同時に存在すること、共存することはできる。「声」と「音楽」の比喩をつかっていうと、声を「一体化」するのではなく、つまり「斉唱」にするのではなく、「合唱」にする。「和音」を豊かに、楽しいものにすることができる。谷川は、「他人」を生かしはじめたのだ。「他人」の声を聞き取り、それに合わせるよろこびを知ったのだ。
「斉唱」が「声の抒情詩(統一されたひとつの感情)」だとすれば、「合唱」は「声の叙事詩(複数の感情を抱えた、複数の声の出会い)」である。
「臨死船」は、いわば「合唱組曲」のようなもの。ほかの、話者がひとりしか登場しない詩は、合唱のそれぞれの「パート」である。
またもう一つの「転機」として谷川徹三の死をあげることができるかもしれない。父の死によって、父の存在が隠していた「他人」がぱっと動きはじめた。「他人」がいる。「家族」、あるいは「こころが分かり合った仲間」、自分の感情と「一致」する人間だけではなく、まったく「違う基準」で動いている人間がいると分かった。それが谷川のことばを「叙事」へと向かわせた。そんなふうにも思える。
私は「十篇」に、『旅』『台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『コカコーラ・レッスン』の作品を選ばなかったが、それは私には「独唱」に聞こえたからである。独唱は独唱ですばらしいけれど、私が谷川の詩を心底好きになったのは、「他人の声」が谷川にぶつかり、谷川が変化してからなので、選択が偏ることになった。
*
補記の補記。
詩を読んで、自分の声をどの「パート」にあわせるか。自分の「声」はどの声なのかを発見する。その発見は読者に任されている。--と書いて、私は、ふいに「かなしみ」を思い出す。「かなしみ」の二連目。その「意味」をどうとるか、いろいろ考えられた。そういうあいまいさのなかに、もしかすると最初の「他人」がいたかもしれない。「十篇」について書きはじめたときは、そういうことは考えていなかったが、どの作品を取り上げながら書いてきたのだったかなあとふりかえったとき、ふいに、そういう考えがひらめいた。
2014年06月19日(木曜日)
(「臨死船」は長い詩なので全行の引用は省略する。必要なところだけ引用しながら書いていくことにする。引用は前後するかもしれない。全行の形は、それぞれで確認してください。)
「臨死船」はタイトルどおり「臨死」の人が「三途の川」の船に乗ったときのことを書いている。
私がいちばんおもしろいと思ったのは、鳥の群れを見るところからはじまることば。鳥は成仏しない霊だという話を思い出し、鳥になったら死んでしまった友人たちと話ができないと不安になったあと、
そんな心配は無用だった
鳥の一羽が空の上から呼びかけてきた
鳴き声は聞こえないのに気持ちが響いてくる
五歳で死んだ隣のうちの同い年だった女の子だ
「オ母サンマダ来テクレナイノ
ココノオ花ハイツマデヤ枯レナイヨ」
いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「分かんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ
「気持ちが響いてくる」「気持ちがか細く伝わってくる」。
この詩には何回も何回も「気持ち」ということばが繰り返される。そして「気持ち」は「響いてくる」「伝わってくる」。つまり、「分かる」。「分かる」のだが、そのいちばん「分かる」のが「分かんない」という気持ちである。この変な「ねじくれた」関係がとてもおもしろい。そして、それが「気持ち」と「気持ち」と結びついているところが、とてもおもしろい。
この「分からない」は、「私」が臨死から帰ってくる部分でも登場する。
自分が息をしているのに気づいた
さっきまで痛くも苦しくもなかったのに
閻魔に責め苛まれているかのように
どこもかしこも悲鳴をあげている
またカラダのなかに帰って来てしまったのか
嬉しいんだか辛いんだか分からない
「嬉しい気持ち」なのか、「辛い気持ち」なのか、どっちが「ほんとう」か「分からない」。区別がつかない。
これは「死」が初めて体験することだから、気持ちがどっちに動いていいのか分からない、気持ちの拠り所(基準)がないということかな? 頼りになるのは自分の「気持ち」だけなのに、あらわすことばがない。「気持ち」というのは、自分のなかにしか基準がないのに、どうしていいか「分からない」。困った……。
「分からない」のは「事実」というよりも「気持ち」。「事実」がわからないのではなく「気持ち」が「分からない」。逆に言うと、初めて体験することがらなので、「気持ち」が「事実」なのだ。
そして、この、「気持ちの事実」が「分かんない(分からない)」は、実は、この詩のいたることろに書かれないまま隠れている。 ときには「別のことば」になって、隠れている。
あの世へ行くのは容易なことではないと訊いていたが
このままこの船に揺られていればいいのなら楽だ
と思ったその気持ちがなんだか頼りない(=分からない)
ほんとにそう思ったのかどうかもぼんやりしている
死んだからそうなったのかそれとも
気持ちなんてもともとそういうものだったのか「分からない」
こうした、どこにでも隠れていることば、作者が無意識に省略してしまうけれど、それを補うと意味が明確になることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の思想(肉体)に密着しすぎていることばといういう意味である。この詩のキーワードは「分からない」である。そのキーワードが「気持ち」といっしょに動いているのは、この詩のおもしろいところである。「分からない(頼りない)」という気持ちが「分かる」と、ねじれているのがおもしろさの根っこにある。
以下、隠されている「分からない」を一行ずつ補ってみる。
あの世はまだまだ遠いのだろうか「分からない」
それともここではもう人語は役立たずか「分からない」
これは終わりなのか始まりなのか「分からない」
という具合。
同時に、この「分からない」が省略されているのは、実は「分からない」だけが「わかる」(わかっている)という矛盾した形で成り立っている。「分からないの気持ち」が「分かる」のと同じように……。
そして、この「分からない」が「分かる」とき、少女との対話にもどれば、「私」と「少女」は「分からない」という気持ちのなかで一体になっている。「ひとり」になる。
少女だけにかぎらず、「私」は臨死船に乗り合わせたすべての人と「分からない」という気持ちで一体になって、彼等の「分からない」が「分かっている」。「分からない」ということが全員の「共通の気持ち」なのである。
だから「気持ち」が通じてしまう。
たとえば「人語は役立たずか」と思った瞬間に、鳥(になった少女)は「人語ではなく、直接「気持ち」に語りかけてくる。「私」は「耳」ではなく「気持ち」で少女とじかに向き合ってしまう。
「事実」と「気持ち」はどこかで、融合してしまっている。
ふーん、と私は、読みながら「判断停止」のような感じで、これはおもしろいなあ、とも思う。「分からない」「分からない」と谷川は書いているのに、その「分からない」が「分かる」というのは、とてもおもしろいなあ、と思う。
なぜだろう。
自分の「死」を体験したことがないからだ。そうか、こういうことが起きうるのか、と想像力を刺戟されるからだ。しかも、それはまったく「知らない」ことではなく、なんとなく、どこかで聞きかじった感じがするからである。聞いたことがあるぞ、と思うからである。
それは実際に「死んだ人」のことばではなく、たとえば幼くして死んだ子どものことを思い、「あの子は、お母さんはいつまでまってもやってきてくれなくて寂しいと泣いているに違いない」というような想像のなかでの姿だったりするのだが……。
想像(気持ち)と事実がどこかで入り乱れ、交錯している。
そのために「分からない」のに、何かが「わかる」ようにも思えてしまう。
そうではないかもしれない。
死(臨死)というような極端な「こと」ではなくても、私たちは「他人」の「気持ち」などわかっていないのではないだろうか。そこに起きている「こと」を見て、そのとき自分の「気持ち」が動いているだけなのではないだろうか。
道に誰かが倒れている。腹を抱えて呻いている。そのとき、私と、あ、この人は腹が痛いのだと思う。感じる。それはその人の「気持ち(思い)」ではない。あくまで「自分の思い」、思い込み。「痛み」も他人のものであって自分のものではない。でも、感じる。
「他人」をとおして、自分が覚えていることを思い出し、それで「気持ち」(痛み)を想像している。想像があふれてくると、同情し、その人を助けたりする。大丈夫ですか?と声をかけ、救急車を呼んだりする。
その判断が間違っている(状況を誤読している)かどうかは、気にしない。
人はいつでも自分の気持ちで動くだけなのである。
だからその気持ちを動かす判断基準(経験)がないと、とても不安になる。
視点を変えてみる。「分からない」をまったく違う角度から考えてみる。
「分からない」とは、いま起きていることが自分の知っていること、覚えていることと「一致しない」ということ。何かがわかるというのは自分の知っていること(経験)と未知のはずの新しいことが「一致する」こと。一致すると「わかる」。一致しないと「分からない」。
道に倒れている人の例にもどると、その人の痛みが「分かる」のは、その姿勢が、私が腹痛を体験したときの姿勢と「一致」するからだ。そのときの「うめき声」が私の体験した肉体の声と「一致」するからだ。
そうだとすると「分からない」とは「他人」と言い換えることができるかもしれない。「他人」の人生を私たちは体験していない。だから「他人」は基本的には「分からない」。私の「分からない気持ち」は、それは「他人」なのだ。「分からない」というとき、それは「私」の気持ちだけれど「私」とは「一致」していない。「私のなかにある他人の気持ち」が「分からない」。「分からない」は「他人」なのだ。
逆に言えば、「他人」の気持ちであっても、それが「分かる」とき、それは「私の気持ち」になる。少女の「分かんない」が「分かり」、それが「話者の気持ち」になったように。
このことを利用して、谷川はことばを動かしている。
他人が出てくる。その他人の動きを書く。すると、それにあわせて読んでいる人(書いている谷川)の気持ちが動く。どう感じたかを書かなくても、分かる。それこそ「分からない」ということさえ「分かる」。
そして「他人」は「分からない」からこそ、そこにいっしょにいることもできる。「分かる」とめんどうくさいことがある。「わかる」と「他人の思い」を尊重しなくてはならない。「他人」に自分をあわせないといけない。それは面倒だね。
わかった上で、裏切るという方法もあるけれど、そういう場合は、相手から「分からない奴だ」と批判されるだろう。「合致しない」が「分からない」なのだ。
何と「合致させていいか」、それが「分からない」という運動だ。
「分からない」から「他人」が次々に登場する。「分からない」ことが「他人」の姿になる。それは「複数」になる。これを、谷川はなんだか楽しんでいる。自分はどうでもよくて、というわけではないだろうけれど、他人がたくさんでてきて、それぞれに勝手な「声」を張り上げるのを楽しんでいる。他人があふれてくると、自然に「世界」が姿をあらわすからだ。
谷川は「生まれたよ ぼく」という作品で、新生児である「ぼく」のなかに複数の「他人の声」を同居させたが、今度は「臨死船」のなかに複数の人間を乗せることで、複数の声を再現し、「世界」を描いてみせる。
いわば「臨死船」は複数の、知っている限りの「他人(他人の精子)」が谷川の卵子(ことば)に押し寄せている状態なのだ。そして、この詩では、その精子は谷川のことばと完全に合体していない。ことばは授精してない。不完全に、精子につつかれている。だから、「子ども」という完成形をめざして細胞分裂し、育っていくことができず、不安のなかを漂っている。
「私」自身の「声」だって、「私」の声ではない。「私小説」のように「私」の「現実」がそのままそこに書かれているのではない。だれでもありうる「ひとりの男」の「声」が書かれており、そこには複数の男の体験が注ぎ込まれている。
突然自分が船の甲板から吸い出された
と思ったら胸が締め付けられるように苦しくなった
強い光に目が眩んだ 病院の白い寝台の上だ
「おとうさん おとうさん」また女房だ
ほっといてくれよといいたいが声が出ない
だが安香水の匂いがひどく懐かしい
現在、谷川には「女房」はいない。つまり、ここに書かれていることは、ほんとうではない。まあ、「臨死」体験自体、ほんとうではないかもしれないし……。
なぜ、こんな嘘を書くのか。虚構を書くのか。
谷川は「他人の声」が聞こえてしまうのだ。そして、その声を忘れることができないのだ。誰かがこんなことをいいたがっている、と感じてしまう。他人のことなのに、じぶんの声として聞きとってしまう。
まるでシェークスピアである。
こんな人間を書いてみたい--というのではなく、ある人の声がそのまま動き回る。そのうごきまわる声を谷川はシェークスピアのように書いてしまう。
自分を書くのではなく、他人を書く。「他人」が自分の「肉体」のなかで動いておもしろいことなのだと思う。
そういう意味では、この「臨死船」もまた「他人」の動きを書いた「叙事詩」なのだ。死につつあるときに、起きる「こと」を書いている。「気持ち」は書いていない。「気持ち」は「分からない」としか書いていない。「分からない」ものは書きようがない。「気持ち」は分からないが、ある人がこういった、この人はこう答えた、何が見えた、は書いてある。
だから、おもしろい。
ところで「父の死」にも「分からない」が出てきた。夢のなかで泣いた。それはほんとうだったのか、「分からない」。夢のなかで泣いたのは谷川のなかの「他人」である。それは谷川の意識できない谷川であり、無意識の谷川と考えればと、それは谷川の「ほんとう」でもある。意識できないくらい自分にしっかりからみついている「キーワード」ならぬ「キーパーソン」である。「分からない他人」こそが、谷川にとって「本人」なのだ。「思想」なのだ。
こんなふうに「分からない」がどんどん増えてきたとき、人はどうやって生きていけるのだろう。自分を動かしていけるのだろう。
谷川は不思議なことばを書いている。
見えない糸のように旋律が縫い合わされていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない
「音楽」。--この「音楽」ということばは、最終連の直前にも「酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる」という具合に聞こえてくる。
遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある
このことばを手がかりにするなら、その「音」とは「自分の声(谷川の声)」だ。「誰かからの便り」のように聞こえるのは、それが「誰かの声」ではないからだ。「誰かの声」でなければ「谷川の声」でしかない。
「声」には谷川が耳をとおして聞きとる「誰かの声(他人の声)」と、耳をつかわずに聞いてしまう「谷川自身の声」がある。
その耳をつかわずに聞く「肉体」のなかから鳴り響く音はは、鉄腕アトムの「ラララ」のように、ことば(意味)にならない「未生のことば=音」である。
その「未生のことばの音」を基準にして谷川は「他人のことば」を選びとる。「和音」になりうる「他人のことば」を選びとる。それから自分の「ラララ」の音も整えなおす。するとさらに多くの「他人の声」と「和音」が可能になる。そうやって「音楽」が広がって行く。
それは「他人の精神(精子)」を授精した谷川のことばが分裂しながら子どもに育っているのに似ている。そうやって、谷川の詩は生まれる。そうやって谷川は詩を「出産」している。
その詩のなかには、いつでも「他人の声」がある。「他人」が生きている。「他人の声」と向き合いながら、自分の「音楽」の領域を広げていく。谷川の詩は「音楽」の「叙事詩」なのだ。
*
補足。
人間はだれでも耳をもっているから、他人の声が聞こえる。谷川も、昔から他人の声を聞いていた。しかし、そのとき聞いていた声は自分の声と共通する声だった。他人を描いても、それは「谷川の分身」だった。
ところが佐野洋子と出会ってからは、「自分の声」とはまったく違う「他人の声」があると気がついた。そして、その「他人の声」と谷川自身の「ラララ」を合わせることができるとわかり、突然、谷川の声が豊富になった。「他人」が「他人」のまま同居している。そして、動いていく。
それまでの谷川の「孤独」は「他人の声」と「自分の声」が重なってしまう孤独。重なってしまう結果、宇宙には自分ひとりしかいないことになってしまうという孤独だった。ところが、佐野洋子とあってからは、この孤独の性質が逆転する。「他人」と「自分」が分離してしまう、他人とはいっしょにならないという孤独だ。
ところが、その他人とはいっしょになれないというときの「いっしょ」にはいろいろなレベルがある。完全に「一体」になれなくても、同時に存在すること、共存することはできる。「声」と「音楽」の比喩をつかっていうと、声を「一体化」するのではなく、つまり「斉唱」にするのではなく、「合唱」にする。「和音」を豊かに、楽しいものにすることができる。谷川は、「他人」を生かしはじめたのだ。「他人」の声を聞き取り、それに合わせるよろこびを知ったのだ。
「斉唱」が「声の抒情詩(統一されたひとつの感情)」だとすれば、「合唱」は「声の叙事詩(複数の感情を抱えた、複数の声の出会い)」である。
「臨死船」は、いわば「合唱組曲」のようなもの。ほかの、話者がひとりしか登場しない詩は、合唱のそれぞれの「パート」である。
またもう一つの「転機」として谷川徹三の死をあげることができるかもしれない。父の死によって、父の存在が隠していた「他人」がぱっと動きはじめた。「他人」がいる。「家族」、あるいは「こころが分かり合った仲間」、自分の感情と「一致」する人間だけではなく、まったく「違う基準」で動いている人間がいると分かった。それが谷川のことばを「叙事」へと向かわせた。そんなふうにも思える。
私は「十篇」に、『旅』『台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『コカコーラ・レッスン』の作品を選ばなかったが、それは私には「独唱」に聞こえたからである。独唱は独唱ですばらしいけれど、私が谷川の詩を心底好きになったのは、「他人の声」が谷川にぶつかり、谷川が変化してからなので、選択が偏ることになった。
*
補記の補記。
詩を読んで、自分の声をどの「パート」にあわせるか。自分の「声」はどの声なのかを発見する。その発見は読者に任されている。--と書いて、私は、ふいに「かなしみ」を思い出す。「かなしみ」の二連目。その「意味」をどうとるか、いろいろ考えられた。そういうあいまいさのなかに、もしかすると最初の「他人」がいたかもしれない。「十篇」について書きはじめたときは、そういうことは考えていなかったが、どの作品を取り上げながら書いてきたのだったかなあとふりかえったとき、ふいに、そういう考えがひらめいた。
トロムソコラージュ | |
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