詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(10 臨死船)

2014-06-19 10:48:51 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(10 臨死船)
                           2014年06月19日(木曜日)

 (「臨死船」は長い詩なので全行の引用は省略する。必要なところだけ引用しながら書いていくことにする。引用は前後するかもしれない。全行の形は、それぞれで確認してください。)

 「臨死船」はタイトルどおり「臨死」の人が「三途の川」の船に乗ったときのことを書いている。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、鳥の群れを見るところからはじまることば。鳥は成仏しない霊だという話を思い出し、鳥になったら死んでしまった友人たちと話ができないと不安になったあと、

そんな心配は無用だった
鳥の一羽が空の上から呼びかけてきた
鳴き声は聞こえないのに気持ちが響いてくる
五歳で死んだ隣のうちの同い年だった女の子だ
「オ母サンマダ来テクレナイノ
ココノオ花ハイツマデヤ枯レナイヨ」

いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「分かんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ

 「気持ちが響いてくる」「気持ちがか細く伝わってくる」。
 この詩には何回も何回も「気持ち」ということばが繰り返される。そして「気持ち」は「響いてくる」「伝わってくる」。つまり、「分かる」。「分かる」のだが、そのいちばん「分かる」のが「分かんない」という気持ちである。この変な「ねじくれた」関係がとてもおもしろい。そして、それが「気持ち」と「気持ち」と結びついているところが、とてもおもしろい。
 この「分からない」は、「私」が臨死から帰ってくる部分でも登場する。

自分が息をしているのに気づいた
さっきまで痛くも苦しくもなかったのに
閻魔に責め苛まれているかのように
どこもかしこも悲鳴をあげている
またカラダのなかに帰って来てしまったのか
嬉しいんだか辛いんだか分からない

 「嬉しい気持ち」なのか、「辛い気持ち」なのか、どっちが「ほんとう」か「分からない」。区別がつかない。
 これは「死」が初めて体験することだから、気持ちがどっちに動いていいのか分からない、気持ちの拠り所(基準)がないということかな? 頼りになるのは自分の「気持ち」だけなのに、あらわすことばがない。「気持ち」というのは、自分のなかにしか基準がないのに、どうしていいか「分からない」。困った……。
 「分からない」のは「事実」というよりも「気持ち」。「事実」がわからないのではなく「気持ち」が「分からない」。逆に言うと、初めて体験することがらなので、「気持ち」が「事実」なのだ。

 そして、この、「気持ちの事実」が「分かんない(分からない)」は、実は、この詩のいたることろに書かれないまま隠れている。 ときには「別のことば」になって、隠れている。

あの世へ行くのは容易なことではないと訊いていたが
このままこの船に揺られていればいいのなら楽だ
と思ったその気持ちがなんだか頼りない(=分からない)
ほんとにそう思ったのかどうかもぼんやりしている
死んだからそうなったのかそれとも
気持ちなんてもともとそういうものだったのか「分からない」

 こうした、どこにでも隠れていることば、作者が無意識に省略してしまうけれど、それを補うと意味が明確になることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の思想(肉体)に密着しすぎていることばといういう意味である。この詩のキーワードは「分からない」である。そのキーワードが「気持ち」といっしょに動いているのは、この詩のおもしろいところである。「分からない(頼りない)」という気持ちが「分かる」と、ねじれているのがおもしろさの根っこにある。

 以下、隠されている「分からない」を一行ずつ補ってみる。

あの世はまだまだ遠いのだろうか「分からない」

それともここではもう人語は役立たずか「分からない」

これは終わりなのか始まりなのか「分からない」

 という具合。
 同時に、この「分からない」が省略されているのは、実は「分からない」だけが「わかる」(わかっている)という矛盾した形で成り立っている。「分からないの気持ち」が「分かる」のと同じように……。
 そして、この「分からない」が「分かる」とき、少女との対話にもどれば、「私」と「少女」は「分からない」という気持ちのなかで一体になっている。「ひとり」になる。
 少女だけにかぎらず、「私」は臨死船に乗り合わせたすべての人と「分からない」という気持ちで一体になって、彼等の「分からない」が「分かっている」。「分からない」ということが全員の「共通の気持ち」なのである。
 だから「気持ち」が通じてしまう。
 たとえば「人語は役立たずか」と思った瞬間に、鳥(になった少女)は「人語ではなく、直接「気持ち」に語りかけてくる。「私」は「耳」ではなく「気持ち」で少女とじかに向き合ってしまう。
 「事実」と「気持ち」はどこかで、融合してしまっている。

 ふーん、と私は、読みながら「判断停止」のような感じで、これはおもしろいなあ、とも思う。「分からない」「分からない」と谷川は書いているのに、その「分からない」が「分かる」というのは、とてもおもしろいなあ、と思う。
 なぜだろう。
 自分の「死」を体験したことがないからだ。そうか、こういうことが起きうるのか、と想像力を刺戟されるからだ。しかも、それはまったく「知らない」ことではなく、なんとなく、どこかで聞きかじった感じがするからである。聞いたことがあるぞ、と思うからである。
 それは実際に「死んだ人」のことばではなく、たとえば幼くして死んだ子どものことを思い、「あの子は、お母さんはいつまでまってもやってきてくれなくて寂しいと泣いているに違いない」というような想像のなかでの姿だったりするのだが……。
 想像(気持ち)と事実がどこかで入り乱れ、交錯している。
 そのために「分からない」のに、何かが「わかる」ようにも思えてしまう。

 そうではないかもしれない。
 死(臨死)というような極端な「こと」ではなくても、私たちは「他人」の「気持ち」などわかっていないのではないだろうか。そこに起きている「こと」を見て、そのとき自分の「気持ち」が動いているだけなのではないだろうか。
 道に誰かが倒れている。腹を抱えて呻いている。そのとき、私と、あ、この人は腹が痛いのだと思う。感じる。それはその人の「気持ち(思い)」ではない。あくまで「自分の思い」、思い込み。「痛み」も他人のものであって自分のものではない。でも、感じる。
 「他人」をとおして、自分が覚えていることを思い出し、それで「気持ち」(痛み)を想像している。想像があふれてくると、同情し、その人を助けたりする。大丈夫ですか?と声をかけ、救急車を呼んだりする。
 その判断が間違っている(状況を誤読している)かどうかは、気にしない。
 人はいつでも自分の気持ちで動くだけなのである。
 だからその気持ちを動かす判断基準(経験)がないと、とても不安になる。

 視点を変えてみる。「分からない」をまったく違う角度から考えてみる。
 「分からない」とは、いま起きていることが自分の知っていること、覚えていることと「一致しない」ということ。何かがわかるというのは自分の知っていること(経験)と未知のはずの新しいことが「一致する」こと。一致すると「わかる」。一致しないと「分からない」。
 道に倒れている人の例にもどると、その人の痛みが「分かる」のは、その姿勢が、私が腹痛を体験したときの姿勢と「一致」するからだ。そのときの「うめき声」が私の体験した肉体の声と「一致」するからだ。

 そうだとすると「分からない」とは「他人」と言い換えることができるかもしれない。「他人」の人生を私たちは体験していない。だから「他人」は基本的には「分からない」。私の「分からない気持ち」は、それは「他人」なのだ。「分からない」というとき、それは「私」の気持ちだけれど「私」とは「一致」していない。「私のなかにある他人の気持ち」が「分からない」。「分からない」は「他人」なのだ。
 逆に言えば、「他人」の気持ちであっても、それが「分かる」とき、それは「私の気持ち」になる。少女の「分かんない」が「分かり」、それが「話者の気持ち」になったように。
 このことを利用して、谷川はことばを動かしている。
 他人が出てくる。その他人の動きを書く。すると、それにあわせて読んでいる人(書いている谷川)の気持ちが動く。どう感じたかを書かなくても、分かる。それこそ「分からない」ということさえ「分かる」。

 そして「他人」は「分からない」からこそ、そこにいっしょにいることもできる。「分かる」とめんどうくさいことがある。「わかる」と「他人の思い」を尊重しなくてはならない。「他人」に自分をあわせないといけない。それは面倒だね。
 わかった上で、裏切るという方法もあるけれど、そういう場合は、相手から「分からない奴だ」と批判されるだろう。「合致しない」が「分からない」なのだ。
 何と「合致させていいか」、それが「分からない」という運動だ。

 「分からない」から「他人」が次々に登場する。「分からない」ことが「他人」の姿になる。それは「複数」になる。これを、谷川はなんだか楽しんでいる。自分はどうでもよくて、というわけではないだろうけれど、他人がたくさんでてきて、それぞれに勝手な「声」を張り上げるのを楽しんでいる。他人があふれてくると、自然に「世界」が姿をあらわすからだ。
 谷川は「生まれたよ ぼく」という作品で、新生児である「ぼく」のなかに複数の「他人の声」を同居させたが、今度は「臨死船」のなかに複数の人間を乗せることで、複数の声を再現し、「世界」を描いてみせる。
 いわば「臨死船」は複数の、知っている限りの「他人(他人の精子)」が谷川の卵子(ことば)に押し寄せている状態なのだ。そして、この詩では、その精子は谷川のことばと完全に合体していない。ことばは授精してない。不完全に、精子につつかれている。だから、「子ども」という完成形をめざして細胞分裂し、育っていくことができず、不安のなかを漂っている。
 「私」自身の「声」だって、「私」の声ではない。「私小説」のように「私」の「現実」がそのままそこに書かれているのではない。だれでもありうる「ひとりの男」の「声」が書かれており、そこには複数の男の体験が注ぎ込まれている。

突然自分が船の甲板から吸い出された
と思ったら胸が締め付けられるように苦しくなった
強い光に目が眩んだ 病院の白い寝台の上だ
「おとうさん おとうさん」また女房だ
ほっといてくれよといいたいが声が出ない
だが安香水の匂いがひどく懐かしい

 現在、谷川には「女房」はいない。つまり、ここに書かれていることは、ほんとうではない。まあ、「臨死」体験自体、ほんとうではないかもしれないし……。
 なぜ、こんな嘘を書くのか。虚構を書くのか。
 谷川は「他人の声」が聞こえてしまうのだ。そして、その声を忘れることができないのだ。誰かがこんなことをいいたがっている、と感じてしまう。他人のことなのに、じぶんの声として聞きとってしまう。
 まるでシェークスピアである。
 こんな人間を書いてみたい--というのではなく、ある人の声がそのまま動き回る。そのうごきまわる声を谷川はシェークスピアのように書いてしまう。
 自分を書くのではなく、他人を書く。「他人」が自分の「肉体」のなかで動いておもしろいことなのだと思う。
 そういう意味では、この「臨死船」もまた「他人」の動きを書いた「叙事詩」なのだ。死につつあるときに、起きる「こと」を書いている。「気持ち」は書いていない。「気持ち」は「分からない」としか書いていない。「分からない」ものは書きようがない。「気持ち」は分からないが、ある人がこういった、この人はこう答えた、何が見えた、は書いてある。
 だから、おもしろい。

 ところで「父の死」にも「分からない」が出てきた。夢のなかで泣いた。それはほんとうだったのか、「分からない」。夢のなかで泣いたのは谷川のなかの「他人」である。それは谷川の意識できない谷川であり、無意識の谷川と考えればと、それは谷川の「ほんとう」でもある。意識できないくらい自分にしっかりからみついている「キーワード」ならぬ「キーパーソン」である。「分からない他人」こそが、谷川にとって「本人」なのだ。「思想」なのだ。

 こんなふうに「分からない」がどんどん増えてきたとき、人はどうやって生きていけるのだろう。自分を動かしていけるのだろう。
 谷川は不思議なことばを書いている。

見えない糸のように旋律が縫い合わされていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない

 「音楽」。--この「音楽」ということばは、最終連の直前にも「酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる」という具合に聞こえてくる。

遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある

 このことばを手がかりにするなら、その「音」とは「自分の声(谷川の声)」だ。「誰かからの便り」のように聞こえるのは、それが「誰かの声」ではないからだ。「誰かの声」でなければ「谷川の声」でしかない。
 「声」には谷川が耳をとおして聞きとる「誰かの声(他人の声)」と、耳をつかわずに聞いてしまう「谷川自身の声」がある。
 その耳をつかわずに聞く「肉体」のなかから鳴り響く音はは、鉄腕アトムの「ラララ」のように、ことば(意味)にならない「未生のことば=音」である。
 その「未生のことばの音」を基準にして谷川は「他人のことば」を選びとる。「和音」になりうる「他人のことば」を選びとる。それから自分の「ラララ」の音も整えなおす。するとさらに多くの「他人の声」と「和音」が可能になる。そうやって「音楽」が広がって行く。
 それは「他人の精神(精子)」を授精した谷川のことばが分裂しながら子どもに育っているのに似ている。そうやって、谷川の詩は生まれる。そうやって谷川は詩を「出産」している。
 その詩のなかには、いつでも「他人の声」がある。「他人」が生きている。「他人の声」と向き合いながら、自分の「音楽」の領域を広げていく。谷川の詩は「音楽」の「叙事詩」なのだ。



 補足。
 人間はだれでも耳をもっているから、他人の声が聞こえる。谷川も、昔から他人の声を聞いていた。しかし、そのとき聞いていた声は自分の声と共通する声だった。他人を描いても、それは「谷川の分身」だった。
 ところが佐野洋子と出会ってからは、「自分の声」とはまったく違う「他人の声」があると気がついた。そして、その「他人の声」と谷川自身の「ラララ」を合わせることができるとわかり、突然、谷川の声が豊富になった。「他人」が「他人」のまま同居している。そして、動いていく。
 それまでの谷川の「孤独」は「他人の声」と「自分の声」が重なってしまう孤独。重なってしまう結果、宇宙には自分ひとりしかいないことになってしまうという孤独だった。ところが、佐野洋子とあってからは、この孤独の性質が逆転する。「他人」と「自分」が分離してしまう、他人とはいっしょにならないという孤独だ。
 ところが、その他人とはいっしょになれないというときの「いっしょ」にはいろいろなレベルがある。完全に「一体」になれなくても、同時に存在すること、共存することはできる。「声」と「音楽」の比喩をつかっていうと、声を「一体化」するのではなく、つまり「斉唱」にするのではなく、「合唱」にする。「和音」を豊かに、楽しいものにすることができる。谷川は、「他人」を生かしはじめたのだ。「他人」の声を聞き取り、それに合わせるよろこびを知ったのだ。
 「斉唱」が「声の抒情詩(統一されたひとつの感情)」だとすれば、「合唱」は「声の叙事詩(複数の感情を抱えた、複数の声の出会い)」である。
 「臨死船」は、いわば「合唱組曲」のようなもの。ほかの、話者がひとりしか登場しない詩は、合唱のそれぞれの「パート」である。

 またもう一つの「転機」として谷川徹三の死をあげることができるかもしれない。父の死によって、父の存在が隠していた「他人」がぱっと動きはじめた。「他人」がいる。「家族」、あるいは「こころが分かり合った仲間」、自分の感情と「一致」する人間だけではなく、まったく「違う基準」で動いている人間がいると分かった。それが谷川のことばを「叙事」へと向かわせた。そんなふうにも思える。

 私は「十篇」に、『旅』『台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『コカコーラ・レッスン』の作品を選ばなかったが、それは私には「独唱」に聞こえたからである。独唱は独唱ですばらしいけれど、私が谷川の詩を心底好きになったのは、「他人の声」が谷川にぶつかり、谷川が変化してからなので、選択が偏ることになった。



 補記の補記。
 詩を読んで、自分の声をどの「パート」にあわせるか。自分の「声」はどの声なのかを発見する。その発見は読者に任されている。--と書いて、私は、ふいに「かなしみ」を思い出す。「かなしみ」の二連目。その「意味」をどうとるか、いろいろ考えられた。そういうあいまいさのなかに、もしかすると最初の「他人」がいたかもしれない。「十篇」について書きはじめたときは、そういうことは考えていなかったが、どの作品を取り上げながら書いてきたのだったかなあとふりかえったとき、ふいに、そういう考えがひらめいた。


トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社
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谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)

2014-06-18 11:14:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)
                           
生まれたよ ぼく

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえてないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい



 この詩は「生まれたよ ぼく」とはじまる。新生児は泣くことはできても、ことばはまだ話せないから、これはとても非現実的な、奇妙な詩である。
 そうかな?
 読んだ瞬間、変と感じた?
 感じない。そのまま赤ちゃんがしゃべっていると感じてしまった。そして、そこに書かれていることも、うんうん、と説得されてしまった。
 どうして?

 私は、ここに書かれている「ぼく」が谷川であると思わなかった。谷川が、谷川の考えを「ぼく」に代弁させている、つまりそこに谷川の「思想」が語られているという具合には感じなかった。いや、そこに語られている「思い」は谷川のものでもあるんだろうけれど、ちょっと違うことを考えた。
 別ないい方をすると、「説教」を聞いているという感じじゃない。

 「ぼく」は生まれた。
 では、産んだのは?
 そう考えるといいのかもしれない。
 それは、だれの子ども?
 そう考えるといいのかもしれない。

 私は、谷川が「ぼく」を産んだのだと思った。谷川は『女に』以降、女に生まれ変わっているから、こどもを産むことができるのだ。この「ぼく」は谷川の「肉体」から出てきた赤ん坊である。谷川であると同時に谷川ではない。谷川とは別個の「個性」をもった、完全に独立した「肉体」だ。
 新しい「肉体」の誕生には、卵子と精子が必要だ。
 谷川の「卵子(ことば)」は「だれか」の精子(精神の子種)を授精した。「ことば」は「子ども(ぼく)」になって生まれてきた。産んだのは谷川。その子ども(ぼく)のなかには、谷川の「精子」ではないものが結晶し、分裂し、育っている。しかもその精子は「ひとり」の精子ではなく。複数の精子だ。谷川は複数の「精子」を受け入れて、授精し、「子ども」を産むのである。
 一卵性双生児と二卵性双生児の違いは、一個の受精卵がわかれてふたつになったか、もともとふたつの卵子があってそのふたつが授精したかの違いだが、谷川の「卵子(ことば)」と「こども」の関係は、「一個の卵子」に「無数の精子」が授精した感じ。
 だから、その「ぼく」は何でも知っている。ひとりの人間がもっている「精神の情報」は限りがあるが、複数の人間のもっている情報には限りがない。「ぼく」が何でも知っているのは、複数の、無数の精神を授精して誕生しているからだ。
 授精して細胞が分裂して、九か月かかって育って、やっと「肉体」のなかから出てきた。「ぼく」はそういう生命の秘密を「ひとり」から聞いて知っている。目が開いていない、耳が聞こえていないということも、別の「ひとり」から聞いて知っている。「ここがすばらしい」ことも知っているのも、そう感じている「ひとり」が「ぼく」を授精させたからだ。「ひとり」「ひとり」の複数の情報(精神/精子)が、いちばん美しい形で「卵子(ことば)」と結びついて、「ぼく」になっている。
 「ぼく」は、そういうことを「前世」で知っているのじゃない。いまいっしょに、この世に生きている「ひとり」「ひとり」の声から知っている。この世の「声」が「ぼく」なんだよ。
 谷川は、この世で語られる「他人」のすべての「声」を受け入れて、「ぼく」を産んだ。
 「ぼく」のことばは谷川が語っているのではない。谷川が「ぼく」の代弁をしているのでもない。無数の「他人(ひとり/ひとり)」が谷川の「肉体」をかりて「ぼく」になり、自己主張しているのだ。
 
だから邪魔しないでください

 これは「ひとり」の「声」ではない。「ぼく」だけの「声」ではない。いま生きているみんなの「声」だ。みんなが「笑い、泣き、幸せになる」のを邪魔しないでくださいところのなかで言っている。なかなか声に出しては言えないけれど、みんな、そう叫んでいる。
 さらに、「ほく」は生まれたばかりだけれど、「他人(大人)」は人間が死んでいくことを知っている。だから「遺言」さえする。「遺言」はしなければならないものなのだ。生きてきて、その生きてきたことをだれかに伝え、引き継いでもらわないと生きたことにならないから。
 人に対してだけではない。人といっしょにいる山や海や空にも遺言せずにはいられない。

山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい

 これも、「ぼく」が語っているが、「ぼく」からの遺言ではない。「ぼく」のなかの「精子」のすべての、つまり「人々(ひとり/ひとり)」の「祈り」である。
 ある人が「山はいつまでも高くそびえていてほしい」というと、別の人が「海はいつまでも深くたたえていてほしい」といい、さらに別のだれかが「空はいつまでも青く澄んでいてほしい」という。それぞれの「好き」なことをいう。それぞれの「精神(精子)」のなかにあるものをいう。それぞれが互いを尊重し合って(邪魔しないで)、集まり、支えあうとき「世界」が完成する。山、海、空が一体になる。
 「ぼく」という生まれたばかりの子どもの願いを語るふりをして、谷川は、複数の人間の祈りを共存させている。共存によって世界が輝くのを知っているからだ。
 さらに別の人は「ここにやってきた日のことを/忘れずにいてほしい」と念を押す。

 この詩に感動してしまうのは、赤ん坊の「ぼく」が「人間の祈り、願い」を代弁しているからではない。純粋無垢なこどもが、純粋なままに崇高なことを言うからではない。
 その「主張」のなかに、複数の人がいて、その複数のなかの「ひとり」は、実は「私(読者)」だからである。谷川の書いたことばをとおして、「私(読者)」は「ぼく」になる。「ぼく」の語る純真無垢なことばを読むと、「私(読者)」は「ぼく」と同じ純真無垢になる。ことばをとおして「ぼく」に生まれ変わる。だから、そこに書かれていることばを自分の声で読んでみる。肉体にしてみる。読むと、声に出すと、「同じことば」がちゃんと自分の中から出てくる。やっぱり、これは自分の「声」だと、そのとき確信できる。谷川が産んでくれた「ぼく」は「私(読者)」だったのだ、と気づく。「私」のために「ぼく」を産んでくれたのだと思う。
 ここに書かれているのは赤ん坊の「祈り」でもなければ谷川の祈りでもない。「私そのものの」の祈りである。だれもが、「これこそ私の祈りだ」と言える。谷川は、それくらい多くの人の「精神(精子)」を授精している。そして出産したのだ。

 谷川は「他人」を書く。だが、それは谷川にとっては「他人」だが、読者にとっては「他人」ではない。読者から見ると、それは「私」だ。この赤ちゃんは「私」なのだ。
 谷川が書いていることは、「私」のいのりそのものだ。「私」の言いたかったこと、私がいつも思っていたことは、こういうこと。谷川がことばにしてくれたから、はっきりわかっただけで、それは谷川の考えではない。「私」の考えだ。私がことばにしようとしてできなかったこと、「肉体」では覚えているのに、ことばがはっきりしなかったこと--「私の未生のことば」なのだ。わがままな読者である私は谷川の詩を読むと、谷川を脇へのしのけて、そう叫んでしまう。「これこそ私だ」と。

 詩でも小説でもそうだが、感動的なことばというのは、いつでも「私の未生のことば」(私が言いたくて言えなかったことば)である。体験して「わかっている」ことばである。わかっているけれど「言う方法を知らない」ことばである。
 「わかっていることば」「わかることば」だけにしか、人間は反応できない。「ほんとう」の気持ちを見つけ出せない。
 谷川のことばをとおして、私たちはひとりひとり、自分の「ほんとう」を自分のものにする。そのときから、そのことばは「谷川のことば」ではない。「私のことば」。
 だから、私は、私の勝手に読む。勝手に、それ以後を動かしていく。



 私のこの文章は、比喩として精神=精子と結びつけているので、なんだか女性を排除してしまった感じだが、私は女性ではないので、女性の「卵子」をつかった比喩は考えにくかった。むりに考えれば何か言えると思うが、むりに「意味」をつくるとうそっぽくなる。感じたことと違ってくるので、それは書かなかった。
 女性が「生まれたよ ぼく」をどんなふうに自分の「肉体」に引きつけて読むかは、女性にまかせたい。


子どもたちの遺言
谷川 俊太郎,田淵 章三
佼成出版社
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谷川俊太郎の十篇(7 なめる)

2014-06-16 11:08:43 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(7 なめる)
                           2014年06月16日(月曜日)

なめる

見るだけでは嗅ぐだけでは
聞くだけではさわるだけでは足りない
なめてあなたは愛する
たとえば一本の折れ曲がった古釘が
この世にあることの秘密を



 『女に』を読んだときのことを私はいまでもはっきり覚えている。「詩学」から執筆依頼がきた。批評の依頼だ。テーマはなんだったか忘れたが、わりと自由に書いていいという感じだった。そのテーマを探しに書店に行って『女に』を見つけた。
 詩の一篇一篇が短くて、薄い。立ち読みで、あっと言う間に読み終わった。読み終わった瞬間、批判を書きたいと思った。
 『定義』や『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』とあまりにも違いすぎている。軽い。そして弱い。よし、谷川批判を書こう、とその瞬間に思った。
 そのとき思ったことを、思ったままを書くと、ことばの「勃起力」が弱い。たとえば中上健次は「長々と射精した」というような行をどこかに書いていたが(吉行淳之介が「弱々しく射精した」と書いたころである)、その激しさがない。読んでいて、その射精の感覚にあこがれる、というようなことがない。欲望をそそられることがない。
 この詩集では「……」に

正義からこんな遠く私たちは愛しあう

 とエクスタシーを書いている作品もあるのに、セックスの充実感(射精感)がない。女と手を取り合って、それだけでうっとりとしている、恍惚状態になっている。
 こんなんじゃつまらない。バタイユの向こうを張れとはいわないけれど、クンデラと拮抗するくらいの強靱さがほしい。
 そう思った。
 で、家に帰ってもう一度読み直し、どの作品を取り上げて批判すべきか……とことばを動かしているうちに、私の感想は一八〇度転換してしまった。批判するはずだったのに、感心してしまった。その感心したことを書きたいと思った。
 谷川はこの詩集でひとりの女(佐野洋子)と出会い、愛し合うのだが、その仮定が、人間が生まれてから(生まれる以前から)死ぬまで(死んだあとも)の「時間」のなかで再現されている。両端のない長大な時間(永遠につながってしまう時間)の中を、それでは猛スピードで駆け抜けるかというと、そうではない。「少しずつ」進んで行く。
 猛スピードで駆け抜けると中上健次やバタイユになるのだが、谷川と佐野は、まったく逆に「少しずつ」しか進まない。進むというより、ある一瞬に「時間」をとめさえしている。それなのに、生まれる前から死んだあとまでの「時間」がすぎている。
 これはいったい何なんだ。

 考えながら読み直したとき「少しずつ」に出会った。「少しずつ」は、『女に』のキーワードで、それは「会う」という詩の中に一回だけ出てくる。

はじまりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 という具合に出てくる。
 「私はあなたに少しずつ会っていった」というのは、かなり奇妙な日本語だ。ふつうの日本語なら、「あなたに何度が会っているうちに、少しずつあなたのことがわかるようになった」というかもしれない。けれど、谷川は「わかる」とは書かずに「会う」ということばで世界をとらえている。そして、その会い方は(わかり方は)、「手に触れる前に /魂に触れた」という具合に、ふつうの順序とは逆なのである。手に触れて、ほかの部分にも触れて、その「肉体」の奥にある魂にようやく触れることができるのが一般の出会い方なのに、谷川は逆。手に触れる前に、いきなり「魂」と接触する。それも「過激に」ではなく、「少しずつ」の繰り返しで。
 これは、とても不思議だ。
 さらに不思議なのは、その「少しずつ」は詩集の中で一回限りしか書かれていないのに、実はどこにでも補うことができることだった。ほんとうは「少しずつ」はあらゆるところに書かれている。「少しずつ」がこの詩集の基本的な「生き方」なのである。
 これは、『日本語のカタログ』の職業訓練について書いた部分を参照してもらえると、わかりやすいかもしれない。「カタログ」では身体障害者厚生指導所での訓練内容を羅列した部分があったが、そこでは「技術習得訓練」ということばはすべて取り除かれていた。それは「わかりきっている」ために書かれていなかった。同じように「少しずつ」は谷川にとって「わかりきっていること」なのでほかの詩篇では書かなかった。書かないと「意味」がわかりにくい「会う」という作品にだけ、それが書かれていた。(『日本語のカタログ』では「自動車操作訓練」にだけ「訓練」が書かれていた。)
 「わかりきっていること」、その人の「思想の本質」は、ふつうは口に出されることはないのだ。
 筆者には「わかりきっている」ために省略されてしまうことばを探して行けば、筆者の本質に迫ることができると、この作品を読むことで私は発見したのだが、その省略されたことばを中心に詩集読み直し、この詩集がとてもよく「わかった」。そして谷川を新しく発見したと思った。谷川は、この詩集で生まれ変わっている。新しく誕生した。再生ではなく、完全に新しくなった。その新しい谷川に、私はこの詩集で出会った。

 乱暴な言い方をすれば、それまでの谷川は「男の詩人」だった。しかし、『女に』を書くことで「女に」生まれ変わった。私はこの詩集のことばは勃起力に欠けると書いたが、女にはペニスがないのだから勃起しようがない。射精の愉悦がないと批判したが、女は射精しないのだからその愉悦もないのは当然である。
 それでもこの詩集には、生きているよろこびがある。
 それはこの詩集のことばが「女」のことばを生きているからである。「少しずつ」生きる変化していくというよろこびが「すこしずつ」大きくなって、男と女を超えて、いのちをつつんでしまう。

 女と男は、どう違うか。
 男はばかだから、一度始めたことを壊してやりなおすということができない。詩でも小説でもそうだが、ある作風(個性)をつくりはじめたら、それをただひたすら巨大にすることしかできない。女は違う。女は、いつでも「リセット」してしまう。月経のたびに、次の排卵期こそ授精して子どもを産もうと思うことができる。(男は次の射精のときこそ、なんて思わない。)女は出産することで、女をもういちどやりなおす。生まれ変わる。その生まれ変わりを肉体そのものの力として実感できる。
 男も、女を妊娠させ、子どもの出産に立ち会うたびに男に生まれ変わる--と言えるかもしれないけれど、いやあ、これは空想だね。概念だね。肉体的には何も感じない。女が子どもを産むことは「肉体」をわけること(肉体が分離すること)だが、男はそれを概念としては理解できても実感できない。
 だから「リセット」ということができない。どうしても、過去に始めたことをそのまま繰り返し修正するという形で拡大することしかできない。そして、どんどん概念的なことばの世界に閉じこもってしまうことになる。本人は閉じこもっているつもりはないだろうし、作り上げたことばの構造物の巨大さをほこるだろうけれど……。

 谷川は、そうではない。生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」することを覚えた。『女に』は『定義』『夜中に台所で』『コカコーラ』とつながるものはない。ことばを積み重ねることで、ことばを超えようとする暴力はない。むしろ、ことば以前になることで、生まれる前から死後の世界までをとらえてしまおうとする「矛盾」のような不思議なうごきがある。ことばがないなら、何もとらえられないのに、ことば以前、未生のことばをめざすのだから、これは矛盾としかいいようがない。
 --というのは、男の「論理」であって、女の「リセット」を生きる生き方にとっては「論理」の矛盾は意味をなさない。「リセット」の瞬間、論理はなくなるのだから、矛盾もなくなるというのが女の肉体(思想)だろう。
 どうやって谷川はそれを手に入れたのか。佐野洋子と出会うことによって、としかいいようがない。私は佐野洋子を知らないので、私の書いていることはいいかげんなものになってしまうが、ともかく信じられないような影響を谷川に与え、谷川を「リセット」させたのだ。
 「リセット」した瞬間、谷川は、男でも女でもなくなった。「いのち」になった。
 --と書いてしまうと、観念すぎて、うそっぽい。書きながら、私は、あ、ただ恰好よさそうなことばを並べているなあ、と思ってしまう。

 二〇年以上も前のあのとき、ほんとうに思ったこと、前後の脈絡もなく、突然思ったことを書こう。
 あ、谷川は女に生まれ変わった--そう思ったのが「なめる」である。

なめてあなたは愛する

 この詩の真ん中にある一行を読むと、「なめる」のはあくまで「あなた」(佐野洋子)であって、「私(谷川)」ではないが、「なめる」ことを書くとき、谷川のことばは実際に何かを「なめている」。
 その次の行の「一本の折れ曲がった古釘」というのは何だか古びたペニスを連想させ、そうなると「あなた」がなめているのは「私のペニス」というエロチックな図が浮かんでくるが、そのエロチックなものはすこしわきにおいておいて、「なめる」ということそのものを考えてみると……。
 「なめる」--これはかなり危険なことである。異物を口に入れることだから。なめたものが体内に入り、体内の組織を破壊するかもしれない。その結果、死んでしまうということだってある。それなのに、なめる。なめるは「受け入れる」という動詞の、原始的な形なのかもしれない。
 谷川は「古釘」がなめられる快感の中で、なめる行為の強さを知ったのかもしれない。何でも受け入れ、受け入れてから考える「女」の思想というものを「肉体」で感じたのかもしれない。
 あなたが「一本の折れ曲がった古釘が/この世にあることの秘密を」なめて知ったとき(確かめたとき)、私は「なめられる」ことをとおして、「なめる」は世界の秘密を解くことだと知ったのだ。「自分の中に入れてしまう」ことで、自分自身が生まれかわることを知ったのだ。
 それは「古釘」をペニスに置き換えて言いなおせば、ペニスはなめられて、口の中で大きく成長していく。なめることは、なめたものを自分の中で成長させること、新しい力をよみがえらせ、誕生させることだ。他人が自分を突き破って育っていくことを受け入れることだ。自分を突き破っていくように促すことだ。

 こんな例がほんとうに正しいのかどうかわからないまま書くのだが。
 たとえば初期の作品の「ビリー・ザ・キッド」。あの作品では、谷川はビリー・ザ・キッドを自分の「肉体」のなかに入れていた(取り込んでいた)というよりも、自分の感性、思想をビリー・ザ・キッドの「死体」のなかに投げ込み、死体はこう感じるだろうと想像しているように思う。
 しかし、最近の詩集『こころ』に登場する少女たち、女たちは、谷川の「肉体」の内部から生まれてきている。谷川が少女や女たちに自分の思いを代弁させているのではなく、少女や女たちが逆に谷川の「肉体」を借りてことばを発している--そういう「いきいき感」がある。
 佐野洋子になめられて谷川のペニスがむくむくと育つように、谷川のなめた(口に含んだ、谷川の口のなかでことばになった)少女や女たちは、谷川を突き破って動いていく。谷川がどう考えているかとは関係なく、少女自身の、女自身のことばを動かす。それまでの谷川のことばを突き破って、自在に動く。その自在に動くことばの躍動を、谷川はなめて、口のなかで感じて、味わっている。
 ことばのセックス、オーラルセックス。

 『女に』を分岐点にして、谷川は生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」する方法と「女になる」方法を、「なめる」という詩を書くことで、佐野洋子から吸収し、奪い取った。「女になる」は男の否定ではない。女になったあと、またリセットすればいいのだから。すべてを捨て去って、最初から、最初以前(未生のことば)からやりなおせばいいのだから。何度でも、何人の人生でも、そうやって生きることができる。

女に―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
マガジンハウス
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谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)

2014-06-15 15:44:09 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)
                           

七沢第一更生ホーム 厚木市七沢五一六-一 〇四六二(四八)二一一一 理学療法、作業療法、職業訓練
新潟県身体障害者更生指導所 新潟市岸町三-二一 〇二五二(六六)四一〇八 縫製、印刷、自動車操作訓練
富山県立身体障害者厚生指導所 富山市石金六〇 〇七六四(二一)一一六一 編物手芸、洋裁、自動車操作訓練、タイプ、写植
石川県身体障害者更生指導所 石川郡野々市町末松酉三二一 〇七六二(四八)三二〇四 洋服、洋裁、和裁、縫製加工
福井県身体障害者更生指導所 福井市尖陽二-三二一 〇七七六(二四)五一三五 洋裁、メガネ枠、編物、写植印刷
長野県身体障害者リハビリテーションセンター 長野市大字下駒沢字横町六一八-一 〇二六二(四三)三九五三 時計、縫工芸、クリーニング、孔版、精密機械



 この詩には「リハビリテーション関係施設一覧より」という注釈がついている。しかし、その注釈がなくても事故か何かの後遺症などで身体に障害をもったひとが訓練を受ける施設が書かれていることがわかる。
 まず、それぞれの施設の「名称」が書かれる。次に住所(所在地)、さらに電話番号、そこで受けられる職業訓練の内容が書かれている。そう「わかる」のは、その書き方が、いわば「定型」だからである。いつか、どこかで似たものを見た(読んだ)記憶があり、それを思い出すから説明がなくても何が書いてあるかわかる。「定型」は記憶を誘い出す装置、記憶をよみがえらせいまを整理する装置である。
 施設名、住所、電話番号、訓練内容という順番に並んだ「定型」が、そこではこれこれの訓練ができ、それをマスターすれば自立できるという「定型の意味」を強固にする。
 「定型」が「意味」をつくり、そこから「リズム」が生まれるので、私たちは「リズムに乗って」、つまり「軽々」とした感じで、そこに書いてあることを把握することができる。楽々と「わかる」。「定型」は「わかる」を助けてくれる。
 「定型」は項目の羅列の順序だけではない。施設の名前にも「定型」がある。「地名」があって、そのあと「身体障害者」「更生(厚生)」「指導所」とつづいていく。(一部に「身体障害者」ということばがないけれど。)その順序にかわりはない。
 「住所」も同じ。「県」からはじまり、「市」「町」へとつづく。「住所」はそういう表記が「習慣」だからそうなっているのだが、これも「定型」である。ほとんど「定型」とは意識しない「定型」。
 で、「定型」があるために、私たちは、それをさっと読むことができる。省略しながら読むこともできる。実際にその地域に住んでいる人以外は、その地域の項を読みとばす。電話を欠ける必要のない人は電話番号を読みとばす。「定型」は実用にとても便利だ。
 また別のこともおきる。住所にもどって言うと、「県」とか「市」とかを聞き漏らしたり、読みとばしたりしても、それを補って認識してしまう。
 そして、その「補い」は住所の県や市だけではない。
 「訓練」の内容を見ていくと、その「補い」がはっきりする。
 「自動車操作訓練」ということばが何度か出てくるが、そのほかの名詞にも「技術取得訓練」というようなことばを私は無意識に補って読んでしまう。それも瞬時に、ほとんど「無時間」の内に。たとえば、「縫製技術取得訓練」「写植技術取得訓練」という具合。そして、無意識にその「定型」を繰り返すことで、ここに書かれている「指導所」はもっぱら手を使えるひとのための訓練であるということもわかる。手で縫製をする、手で写植作業をする……。
 この「一覧」は、いわば、そういう「補いの定型」を活用してつくられている。ことばには「言わなくてもいいことば」がある。言わなくても、わかることばがある。というより、私がいま書いているように、それをこまごまと書いてしまうと「うるさい」と感じることばがある。
 「定型」は必要とすることばと必要ではないことばを区別するところで成り立っていると言い換えることができる。
 「定型」には「同じ繰り返し」によって生まれるものと、「同じ省略」によって生まれるものがある。「省略」は書かれていないのでわかりにくいが、「定型」なのである。
 谷川の詩を読むと、この「省略の定型」というものが、とても自然につかわれているような気がする。

いもくって ぶ
くりくって ぼ

 この「おならうた」には、「ぶ」「ぼ」の音のあとに、「と、おならが出た」(と、おならが音を立てた)というようなことばが省略されている。省略してあっても、私たちは自然にそれを補って読んでいる。「肉体」がおならが出るときの「音」を覚えているので、いちいちおならが出た、そのときこんな音がしたと書かなくても「ぶ」「ぼ」でわかってしまう。谷川は、そういう「わかっていること」を省略し、「省略の定型」を自然に作り上げる。
 谷川は意識の運動の「定型」を熟知していて、それを利用している。これは谷川の詩を把握するとき、とても大切なことだ。「定型」をどう変更すれば、新しい音楽として美しく響くかを「本能」のように知っている。
 谷川は、この詩で、「定型」の自然な美しさ、うるさくない美しさに共鳴している。「省略の定型」に、無音の「音楽」を感じているようにも思える。「音」だけが「音楽」ではないのだ「省略の定型」を音楽として聞きとる耳、それを再現する声をもっている。

 この「定型」の音楽として、この詩を読むと、また別なことにも気がつく。
 たとえば、多くの住所は県、市、町とつづいていくのだが、長野のリハビリテーションセンターは

長野市大字下駒沢字横町六一八-一

 と「大字」「字」がまぎれこむ。そうか、長野の施設は街の中心地にあるのではなく、郊外の方にあるのだな、と私は想像してしまう。「住所表記の定型」が私のなかにあって、そのためにそう反応してしまう。「定型」を利用すると、「定型」のまわりにある「情報」が自然にことばを整理して、かってに情報を生み出してしまう。
 そのことから、少し目をこらすと……。
 「技術取得訓練」はたいていが似通っているのだけれど、福井と長野にはほかにはないことばがある。

メガネ枠(福井)、時計、精密機械(長野)

 それが、くっきりと目に飛び込んでくる。ことばがきらめいて見える。そして、意識を叩く。そういえば、福井はメガネ枠の生産量が全国一だったな、長野は空気が澄んでるので時計や精密機械の製造には最適の土地だったな、--と社会の授業で習ったなあというようなことが思い出される。
 「メガネ枠」や「時計(精密機械)」は、それまでの「技術」の「名詞」の「定型」を破っている。「定型」は「定型」をはみ出して行くものをくっきりと印象づける。この「定型の破壊」が、私には「音楽」のきらめきのように感じられる。
 「音楽」と思わず書いてしまうのは、それが「意味」を離脱しているからである。それ以外の「縫製」だの「洋裁」「写植」という、どこにでもある「職業」という「意味」を離れているからである。音楽とは「意味」を超えた音である。
 谷川は「省略の定型」(沈黙の音楽)を聞きとると同時に、小さな変化を最大限に響かせる声を知っている。「意味」ではなく、音楽として響かせる方法を知っている。大声を張り上げるのではなく、聞こえるでしょ?という具合に、読者の耳を澄まさせる方法を知っている。これは私(谷川)の声ではありません、あなたが聞きとった声ですと読者に呼び掛けるようにしてささやく声の出し方を知っている。

 この詩以外でも、谷川は『日本語のカタログ』で日本語の「定型」を収集している。たとえば「135」はシャワー付のガス風呂の「取扱説明書」だが、そこには「取扱説明書」の「定型」がある。「661」は「道のきき方」(道の教え方?)の「定型」がある。「定型」があると、その奥に「生活」のようなものが見えてくる。「肉体」が見えてくる。谷川は、こういう「生活の定型」というものを信じてことばを動かしている。
 「定型」を利用して、言わなくていいことを言わない。「意味」を少しだけずらして新しいことを言う。特別なことを言う。ただし、それは完全な無意味ではなく、福井のメガネ枠や長野の時計(精密機械)のように、どこかで生活としっかり結びついている。ことばの背景に暮らし、生活の場、働き生きている人々をつかみとっている。ことばを人(他人/いのち)と結びつけてみせる。そういえば、そうだったなあ、というものを引き出してくる。

 『日本語のカタログ』に集められた複数の「定型」を、複数の「音楽」と呼ぶこともできる。音によってつくりだされた「音楽(たとえばメロディー、和音)」ではなく、「音を動かす運動形式」、運動としての「音楽」と呼ぶことができるかもしれない。
 運動としての音楽、運動形式としての音楽--というのは奇妙な言い方だが、「リハビリ施設一覧」ののようなことばの羅列のなかにも、その羅列を一定方向に整えながら動かす力がある。それを私は「音楽」と呼びたい。動かし方は「意味」ではない何かである。動かすことよって「意味」が生まれるのだから、この動かし方は「意味」よりももっと根源的な、説明のしにくい何かである。(だから私の説明はわかりにくくならざるを得ない--というのは、自己弁護。)
 この複数の「定型」、複数の「音楽(文を成立させる運動形式=文体)」は、また、複数の「他人」と呼ぶこともできる。「文体(としての音楽)」には、それぞれそれをつかう人(好む人)の変更不可能な何かが関係している。
 極端な例をひとつ。
 日本の住所の表記は、県-市-町と広い所から狭いところへと縮小するように動くが、欧米では町-市-県と動く。これは、ものの「見方」の差がそのまま定着したものだ。個性が文体になったものである。私(日本人)と欧米人は、最初から「他人(違った人間)」であるとわかっているので、住所の表記の「定型」が違っていても、気にならない。違っていて当然だと受け止めてしまう。「定型」は「他人(他者)」を識別するのに役立つし、「他人」を受け入れるのにも役立つ。

 谷川の詩には、たいてい「意味」があり、その「意味」はわかりやすい。「意味」が「定型」だからである。「認識の定型(共有された認識)」が「意味」だからである。谷川は、その世間に流通している「意味(流通意味)」をどんどん取り入れてことばを動かす。ただし、そこに、たとえば「メガネ枠」「時計」「精密機械」というような、少しだけ違ったもの(固有の何か)を突き合わせ、「定型」を破ってみせる。完全に破壊するのではなく、その破れ目から人の暮らし、生きている人間がくっきりと見えるようにする。そうすると、その「メガネ枠」「時計」「精密機械」もそれなりに「定型」であるはずなのに、何か不思議な光に見えてくる。新しい音の響きが聞こえてくる。思わず、そこに引き寄せられてしまう。そこに、新しい意味--といっても、すでに存在しているのに気がつかなかった意味、見落としていた意味を見つけ、はっとする。見落としていた思想に頭を殴られた感じだ。
 「定型」が破られ、「定型」が完成するといった感じ、思想が根底からつくりなおされるといった感じの、瞬間的な驚き。

 谷川の詩には、感性の、いのちの「定型」がある。--唐突すぎる「結論」だが、そうメモしておこう。

日本語のカタログ
谷川 俊太郎
思潮社
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谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)

2014-06-14 11:11:18 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)
                           2014年06月14日(土曜日)

タラマイカ偽書残闕
Ⅰ(そことここ)

わたしの
眼が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
開く。

わたしの
耳が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここで
語る。

わたしの
鼻が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
黙す。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ



 この詩の情報量は非常に少ない。書かれている「名詞」が少ない。「動詞」も少ない。けれども抱え込むイメージはとても豊かだ。神話に登場する初めての「人間」の声を聞く感じがする。
 わたしの眼が/耳が/鼻が遠くへ行った。そのときの「遠く」は同じところなのか、違う場所なのか。「遠く」の「場」が同じであったとしても、眼で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものは同じと言えるか。眼で見たものを耳で聞くことができるか、鼻でかぐことができるか。同じであっても、認識(識別)のありようは違っているだろう。もし識別の仕方、識別というものが違っていたとしたら、それでも「もの/こと」は同じといえるのだろうか。違うのではないだろうか。
 --というのはこざかしい「論理」で、そこに「差異」があっても「ひとつ」にしてつかみ取るのが詩であって、その詩の力がこの詩にはみなぎっている。詩のはじまりの、「詩の神話」のようだ。「差異」を未分化のものに引き戻し、未分化のまま凝縮している。結晶にしている。そこを通り抜けようとすると、私のことばはプリズムのなかに入った光のように、入るたびにさまざまな方向へ屈折してはじき出されてしまう。
 はじき出されるまま、はじき出されたものを書き並べてみよう。

 もし感覚器官によってとらえることができるものが違うとしても、「肉体」にとっては同じ「ひとつの場」であり、同じ「ひとつのこと」。したら、同じ「遠く」へ行ったとしても、なのではないだろうか。「違う」と「同じ」がぶつかりあって、そのときの「肉体」をいきいきさせる。ことばもをいきいきとしたものに変える。

 あ、私は何を書いているかな?
 谷川は何も書いていないのに、哲学の根源にかかわるようなことが、短いことばから噴出してくる。短く、何も言っていないからこそ、そのことばの原始的な力が闇のなかで輝いている。
 でもこんなところで「哲学」とか「意味」につかまっていてはいけない。もっと違うこと--この詩を最初に読んだときの「興奮」は違うところにある。こんなめんどうくさい「論理」を整えるのに時間をかけていてはいけない。どんどん身動きがとれなくなる。
 そのことを書きたい。

 私の感じた最初の興奮。

わたしの
○○は
遠くへ
行った。

 と、同じことばが繰り返される。繰り返されるとき、そこにリズムが生まれる。音楽が生まれる。音楽は、メロディーよりも前にリズムがあるのかもしれない。その短く、間違えようのないリズムに載って、メロディーの一部が、眼、耳、鼻と変わっていく。
 この変化がとても楽しい。「肉体」が谷川のことばにあわせて、しっかりと自覚できるものになっていく感じ。私にはたしかに眼があり、耳があり、鼻があるということが「わかる」。
 それに合わせて、

わたしの
口は
ここに(ここで)
○○する。

 と、最後の動詞が変化する。
 これが「肉体」に響いてくる。そうか、眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、そのとき口は何かをしたくてたまらない。その欲望を、谷川は「いのり」のように厳しく強い「声」で整えている。「口」からことばが生まれてくる--その瞬間に立ち会っているような感じだ。

 と、書いたらまた「意味」を書きたくなってしまった。「意味」なんてうさんくさいといいながら、「意味」を書きたい衝動に駆られてしまった。しようがない。書いてしまおう。私が何を考えたか、「意味」にしてしまおう。

 感覚器官が変われば、口(ことば?)もまた、その対応の仕方が違う。感覚器官に合わせて、ことばは変化する。
 この変化が、もしかすると「意味」というものではないだろうか。ある存在(もの/こと)に対する反応、反応の仕方が「意味」である。
 それも「遠く(そこ)」ではなく「ここ」で起きる。
 「そこ」とは「かつて」行ったところ、「ここ」とは「いま」いるところ。そして、それが「そこ」であれ「ここ」ここであれ、それは「場(空間)」というより、自分の「肉体」のことである。すべてのことは「肉体」といっしょに「起きる」。眼で(眼に)耳で(耳に)鼻で(鼻に)変化が起きて、言い換えると眼が反応し、耳が反応し、鼻が反応し、その反応によって生まれた新しい何かが口から出て行く。ことばになって。口は、あるいはことばにすることをしないで、その「変化」を肉体の内部にだけ押しとどめるということもある。その結果、「意味」(肉体の内部でうごめく変化の仕方)は複雑になる。
 なんだか、いろんな「意味」を言いたくて、私のことばはうずうずしてくる。けれど、それはうずうずするばかりで、明確なことば(意味)にはならない。
 でも、強く感じる。谷川は、ここで「神話」のことばを書こうとしている。ことばの誕生を書こうとしている。不完全なまま、それでも「肉体」を突き破って動くものを書こうとしている。
 そこに書かれている「意味」は不完全だが、不完全ゆえに、まだまだ生まれてくる。これから少しずつ「意味」を完成して行くという予感がある。
 それが、繰り返しのリズムのなかで、リズムそのものとして共有されていく。これから「変化」が生まれる感覚が音楽として共有されていく。「意味」以前の何かが、共有されていく。

 共有?

 私は自分で書きながら、その共有ということばに驚いている。
 この詩には「わたし」というひとりの人間しか出て来ない。それなのに、私は、「わたし」がひとりではないと感じてしまう。この詩の「わたし」のまわりにはたくさんの「わたし」が闇となって隠れている。「わたし」になろうとしている。「わたし」がことばを発したら、そのことばをつかみとって、それを「核」にして赤ん坊のように生まれたがっている「いのち」がうごめいているのを感じる。
 あるいは。
 この詩の「わたし」は「わたし」という人間を産みだすことで、「社会」を「個人」のように統一しようとしている。統一のための、試行錯誤をしている。「わたし」が生まれて、そのあとに「わたしたち」がわっと生まれてくる。「わたしたち」は「わたし」を共有している。いや、「わたし」を生きている。共生している。
 このとき、この「統一」というものと「意味」がたぶん合致するのだ。「統一」のための「認識の仕方(認識のあらわし方)」が「意味」なのだ。「意味」は、そういう視点から見れば重要だけれど、「統一」をめざすがゆえにうさんくさくもある。「統一」に不都合なものを排除しようと動くことがある。
 この詩では、もちろん、そんなことは書かれていない。それが、この詩を幸福にしている。
 「統一」や「意味」のうさんくささが組織化される前の、ことばになりたいという欲望、力だけがあふれている。力がありすぎて、ことばの「意味」を内部で破壊している感じだ。
 「意味」や「統一」が生まれる瞬間のダイナミックな動きが書かれていると感じ、興奮する。

 でも、ことばは、どうやって生まれるのか。
 最初に、やっともどれた感じがする。
 私が書きたいのは、こういうことだ。

 ことばは、まず、音としてある。次にリズムとして存在する。繰り返している内に、そこに変化が生まれる。違ったものを言ってみたくなる。違ったものを、そのリズムに乗せてみたくなる。そうすると変化が生まれる。いままで知らなかった音が広がっていく。音が変わると、それを聞いているときの「肉体」そのものが変化する。
 だんだん、こうした方が気持ちがいい。楽しい、ということがわかってくる。そして、その方向へ自然に音が並んで動いていく。音の形ができてくる。まるで音の肉体が成長していくような感じ。
 強くなったり弱くなったり。それにメロディー(複数の音)が重なり、知らず知らずに音楽に育っていく。ひとつの音だったものが、音の「楽しみ」になり、みんなで共有できる感情(歌)に変わっていく。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ

 この最後の二行は、そうやって昇華された「歌」なのだ。

 この詩は「神話」と「歌」が生まれる瞬間をつかみ取って再現している。音が声になり、声がことばになり、ことばの肉体が神話になり、やがて神話のなかに歌がうまれる。神話のなかのできごとを繰り返し語り合う内に、ことばの音が音楽を生み出す。
 逆かなあ。音(ことば/声)のなかには最初から音楽があり、それが神話を内部から鍛えているのかもしれない。
 どう言ってもいいのかもしれない。どっちも同じなのだろう。
 眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、それをことばにしたり、逆にことばにすることを拒んで肉体の内部に隠したりしながら、心は共有されるようになる。
 「ゆきつもどりつ」する心が「歌」なのだ。
 ことばが生まれ、それが歌に変わっていく--その、太古の音楽がここにある。

 『タラマイカ偽書残闕』は十一篇の詩で構成された「長編詩」なのだが、私は、最初の部分がいちばん好き。読んでいていちばん興奮する。初めて発せられたことばのように、「意味」になりきれていない部分、逆に意味の豊穰さを感じる。意味を生み出す力を感じる。
 後半に行くにしたがって、ことばが増え、感情も増えれば論理も増えていくのだが、そうした部分を読めば読むほど、同じことばを繰り返しながら、少しずつ変化していく「Ⅰ」の強いリズムがなつかしい感じでよみがえる。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)

2014-06-13 09:46:48 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)
                           

かっぱ

かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた

かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった



 『ことばあそびうた』の一篇。谷川はいろいろなことば遊びの詩を書いているが、私は「かっぱ」の一連目がいちばん好きだ。響きがいいことはもちろんだが、「かっぱらった」という乱暴なイメージと音の交錯がいい。
 「かっぱらう」は「盗む」という意味だが、「盗む」よりも乱暴な気がする。しかし、陰険な感じはしない。「盗む」の方が、何か暗い感じがする。「かっぱらう」は乱暴な分だけ明るい。隠れて盗むのではなく、目撃されている感じが、豪快だ。
 「かっさらう」ということばもあるが、音の力が弱い。

 なぜ、「かっぱらう」が私を引きつけるのか。
 たぶん、私は何かを「かっぱらっいたい」のだ。欲望があるのだ。
 「かっぱらう」は悪いことである。してはいけないことである。しかし、子どもというのはしてはいけないということをしたい。してはいけないことをやって平気な顔をしている仲間を尊敬してしまう。
 してはいけないことをしたい--というのは反抗期かもしれない。禁じられていることをするのは、子どもにとっていちばんの楽しみだ。「いい子」なんかでいるのはつまらない。「悪い子」の方がどきどきする。わくわくする。とんでもない可能性がある。
 してはいけないことをすると、大人が困る。その困ったが見たい。
 子どもが「うんこ」の話をしたがるのは、人が(大人が)いやがる顔を見たいからだ。大人がいやがる顔を見ると、なんだか大人と対等になった気持ちがする。大人を困らせた、という満足がある。

 この詩の魅力は、しかし、うまく言えないなあ。
 ほかの詩と比較して語るしかないのかもしれない。
 「うんこ」という作品の終わりの方。

どんなうつくしいひとの
うんこも くさい

どんなえらいひとも
うんこを する

 この二連には「意味」がありすぎる。「美しい」と「偉い」を「うんこ」に引きつけて対等化する。「美しい」と「偉い」を「無意味」にする。こういう「無意味化」は笑いを誘うけれど、そこには「無意味化する」という「意味」が頑固に居すわっている。
 「かっぱ」のことばは「無意味化」という運動を含んでいない。むしろ、ラッパをかっぱらって楽しむという「意味」をもっている。欲望が自分のなかで完結している。つまり、批判(批評)というものがない。「批判(批評)」というものは、なんとなく、私にはうさんくさいものに見える。

うんこよ きょうも
げんきに でてこい

 でも、この最後の二行はいいなあ。うんこを励ましている。その声が、そのまま自分を励ましているように見える。うんこが元気なときは自分が元気なのだ。ここには「批判」ではなく「肯定」がある。

 「おならうた」も楽しい。「うんこ」のように「批評」がない。純粋に「音」を遊んでいる。
 「ぱぴぷぺぽ」から外れて、

こっそり す

 という一行が割り込むところが傑作だし、

ふたりで ぴょ

 というのも楽しい。
 でも、あまりにも「純粋」すぎる。
 大人からは、せいぜい「おならの話なんかしないで」と叱られるくらいで、「ものを盗むなんて……」というような叱られ方はしない。
 「おなら」の話は、最初から許してもらえる範囲にとどまっている。
 良心(?)に逆らって悪いことをしているという、快感・興奮もない。
 そこには「暴力」がない。「暴力」があった方が、私は、詩がいきいきしていると思う。
 「うんこ」の「どんなうつくしいひとの/うんこも くさい」も、それが「批評」であることによって「暴力」になっているが、それは同時に「意味」でもある。「意味」のある「暴力」は、うさんくさい。「かっぱらう」は批評を含んでいない純粋の「暴力」である。

 音の美しさだけでいうなら「ののはな」の方が美しいと私は感じる。

はのののののはな
はなのななあに
なずななのはな
なもないのばな

 途中に「ず」「ば」という濁音が入るが、ここが私は好きだ。濁音によって音が豊かになる。でも、それは「暴力」ではない。

 「かっぱ」にもどろう。
 「かっぱ」「らっぱ」「かっぱらった」は音の入れ換えで構成されている。音が入れ換わると意味が変わる。「ののはな」がある種の「意味」で統一されて、そのなかで音の入れ換えがあるのに対して、「かっぱ」は音の入れ換えで「意味」が逸脱していく感じが、とんでもなく開放的に感じられる。
 「らっぱ」から「とってちっとた」というラッパの音に変わるのも、「かっぱらう」を「意味」突き破っていくようで楽しい。
 私は「かっぱらう」という暴力にひかれたのだが、そういう「暴力」という意味さえも突き破っていく。
 音だけで世界がある、という感じが、「鉄腕アトム」の「ラララ」と何か似ている。

 二連目は、一連目に比較すると「意味」になりすぎていると思う。

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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谷川俊太郎の十篇(3 ビリー・ザ・キッド)

2014-06-12 11:25:01 | 谷川俊太郎の10篇
                           2014年06月12日(木曜日)

細かい泥が先ず俺の唇にそしてだんだん大きな土の塊が俺の脚の間に腹の上に 巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう 人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい 俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある 俺の血はためらわずにその二つの逃げ路から逃れ出た その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした 俺は俺の血がそうしてそれにつれてだんだんに俺が帰ろうとしているのを知っていた 俺の上にあの俺のただひとつの敵 乾いた青空がある 俺からすべてを奪ってゆくもの 俺が駆けても 撃っても 愛してさえ俺から奪いつづけたあの青空が最後にただ一度奪いそこなう時 それが俺の死の時だ 俺は今こそ奪われない 俺は今始めて青空をおそれない あの沈黙あの限りない青さをおそれない 俺は今地に奪われてゆくのだから 俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ 今こそ俺の声は応えられるのだ 今こそ俺の銃の音は俺の耳に残るのだ 俺が聞くことが出来ず撃つことの出来なくなった今こそ

俺は殺すことで人をそして俺自身をたしかめようとした 俺の若々しい証し方は血の色で飾られた しかし他人の血で青空は塗り潰せない 俺は自分の血をもとめた 今日俺はそれを得た 俺は自分の血が青空を昏くしやがて地へ帰ってゆくのをたしかめた そして今俺はもう青空を見ない憶えてもいない 俺は俺の血の匂いをかぎ今は俺が地になるのを待つ 俺の上を風が流れる もう俺は風をうらやまない  もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる すべての夜を知り すべての真昼を知り なおめぐりつづける星になる



 詩は、『二十億光年の孤独』がそうであるように、たいてい「私」が主役(話者)である。「私」の気持ちを書いたのが詩。でも、「私」を主人公にしないで、小説のように、「物語」として書くこともできる。「ビリー・ザ・キッド」はそういう作品。詩は、何を、どんな形式で書いてもいい。それが「現代詩」だ。読みながら興奮したことを覚えている。そして、興奮していたときは気がつかなかったが、この詩に谷川の「本質」のようなものがあふれている。
 たとえば書き出し、

細かい泥が先ず俺の唇に

 と、突然「唇」が出てくることに。
 なぜ、唇? 死んで、埋葬される。その死体が、土を最初に感じるのが唇? 背中は、まあ、置いておくとして、土をかぶせられて最初に困るのはどこだろう。顔は顔でも、唇ではなく眼とか鼻とかが気になると思う。死んでしまって見えないのだけれど、土がかぶさればその「見えない」が「現実」になってしまう。それが気になるのでは?
 でも谷川は唇から書きはじめている。
 これは谷川が「ことば」を生きているということ、そしてそのことばは「声」と強く結びついていることを意味しないだろうか。口に出して言ってこそことばなのだ。--いま読み返すと、そう感じる。谷川はいつも「ことば」といっしょにいる。それも「書く」というより「声」のことばといっしょにいるのだ。だから「唇」を最初に書いてしまう。
 私が最初に気にするだろうと想像した眼(まぶた)が登場するのは、そのあとだ。谷川は視覚でことばを動かす詩人ではない。だからこそ、死後という眼では見えない世界を書いてみようと思ったのかもしれない。視覚を中心に生きている人間なら、見えないことを書くとき何を中心にして書いていいかわからない。谷川は、そのことを悩まなかったに違いない。
 目が見えないとき、人が頼るのは聴覚(耳をすます)と触覚(手探り)だが、聴覚が登場するのも、谷川の詩では、まだ先だ。「触れる」ということばはつかっていないが、唇に触れる土を感じ、腹の上に落ちてくる土を感じるということろから、谷川はことばを動かしている。谷川は触覚(直接触れる)ものを重視していることがわかる。直接触れることができるものをことばにする--それが谷川の詩なのだろう。
 その触覚も、よく見ると、とてもおもしろい。

巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう

 土が触れるではなく、蟻がはう。はうのを触覚で感じる。しかも、その蟻は墓を掘るときに巣を壊された蟻。巣を壊されたのなら何匹も蟻がいるはずだが、「一匹」というのは変かもしれないが、ことばの力点(想像力の力点)は、そこにあるのではなく、「巣をこわされた」にある。
 ビリー・ザ・キッドの世界は人間の世界だが、その世界は他の生き物の世界に広がっている。人はひとりの世界を生きているのではない。他者がいる。そのことを谷川は感じていて、それが無意識に詩に反映している。
 谷川の詩に窮屈な感じがないのは、他人に向けて、ことばがいつも開かれているためだろう。

 この詩の書き出しには、まだ多くの谷川の秘密のようなものが隠されている。論理立てるのではなく、ただ目についた順番にそれを書いていく。

人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい

 この「快よい」は不思議な「矛盾」のようなものを抱え込んでいる。ビリーを埋葬するのは悲しい。しかし、埋葬するために肉体を動かしていると、その動きをとおして快感が生まれる。こころと体は必ずしも一致しない--というのではなく、こころは、いつでもどこからでも生まれてくる。その「生まれてくる」ということを防ぎようがない。制御できない何かが人間にはある。

俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある

 「やさしい目」も「矛盾」のひとつだ。保安官の眼がビリーに「やさしい」ということはないだろう。けれど、その保安官だって「やさしい」時がある。「やさしい」から人殺しが許せない。だからビリーを殺す。ことばの「定義」はむずかしい。ことばは、いつも「場」といっしょにある。「こと+場」が「ことば」なのだ。ことばはそれが発せられるときひとつの「こと」ひとつの「場」をあらわそうとするのだけれど、隠れている「場」も同時にみせてしまう。かけはなれた「場」が「いま」というときのなかにいっしょになってあらわれてしまう。
 ひとは同時に二つの場に存在できないというのが世界の常識だが(物理の定義だが)、ひとつのことばは複数の「場(背景)」を呼び寄せることができる。だからこそ「解釈の違い」というものも生まれる。
 谷川のことばは、ことばの「定義」をひとつにすることをめざしているというよりも、いくつもの「場(背景)」を呼び集め、どんなふうに読んでもいいよ、と言っているように感じる。
 「矛盾」を随所に放置することで、世界が固定化するのを防いでいる。ある世界を書きながら、同時にその世界を解放/開放している。

 保安官の撃った二発の銃弾。銃弾があけた二つの穴。(ここで、私は、「一匹の蟻」のことをふと思う。あの「一匹の蟻」は「二つの穴」の「二つ」を明確にするために書かれたのだと思う。)そこから血が流れるのだが、

その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした

 というのも「矛盾」だ。常識に反する。肉体のなかを流れる血はあくまでもその人のもの。でもビリーは違うという。では、だれのものか。保安官のもの? いや、ビリーという人間に、ある夢を見た多くの人のもの。無名の多くの人は、ビリーのように強くは生きられない。あんなふうに生きてみたいという欲望がだれの胸にもある。その人たちの血が流れていくのだ。
 ビリーが死んだとき、人が泣いたのは、自分の「欲望」がビリーといっしょに否定され、失われたからだ。
 この入り組んだ感情の交錯もまた「矛盾」であり、解放/開放である。いろいろな意識を誘い込み、自在に動くように促す。

 その開放/解放(どう書くのがいちばんいいのかわからないので、あえてごちゃまぜにしておく)の行き着く先が「空」、あるいは「宇宙」だ。
 血は、青空へ帰っていく。
 詩は、

俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ

 と書かれているが、そのときの「俺」は「俺の肉体」であって、「俺のこころ(ことば)」は青空を意識しつづけている。長々と青空のこそが書かれているのがその証拠である。「肉体」と「こころ(ことば)」は反対の方向(矛盾)へ動いていく。それは矛盾しているけれど、強く結びついていて切り離すことはできない。(切り離せないから矛盾しているとも言えるのだが……。)

 このあと、詩に、不思議な、とても不思議な展開をする。

今こそ俺の声は応えられるのだ

 この「声」とは何だろう。
 谷川には、何か書きたいことがある。書かなければならないことがある。けれど、それはまだ「明確」にはなっていない。「声」にまつわること、ということだけはわかっている。わかっているけれど、その「わかっている」はあまりにも谷川の肉体にぴったりとからみついていて、意識として切り離して語ることができない。だから無意識に「声」と書いた--そういう印象がある。
 無意識に書かれたことば、作者が無意識に書かざるを得なかったことば--それがその人のキーワード(思想の核)であると私は考えているが、この「声」については、それ以上のことはかけない。
 強引に「ことば」に結びつけて「意味」をつくりだすこともできるかもしれない。批評は、「意味」によって、その充分に語られていない「声」を補足し、定義する仕事かもしれないけれど、私はそういうことをしない。
 わからない。けれど、気になる、とだけ書いておく。
 この「声」と書き出しの「唇」が呼応して、何か言おうとしていると感じる、とだけ書いておく。
 あ、すこし補足して、「俺の声」を谷川は二連目で説明しなおしている、とも書いておこう。その「声」のなかに、

もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる

 と書いてあることも指摘しておく。「青空に棲む星(白昼も輝いている星)」。谷川は「声」の詩人だが、「声」に力を注ぐのは、実は「青空に輝く星」が見える視力を持っているから、視覚を気にしないのかもしれない。

 (私は眼が悪く、視力の強い人のことばは苦手である。もしかすると、私は谷川の視力の詩を無意識に避けているのかもしれない。最近の谷川は田原の詩に親近感を感じているように見える。その田原はとても視力の強い人である。谷川と田原は視力によって共鳴しているのかもしれない。--これは、蛇足。いつか、視力についてわかったら、何か書いてみたいという私的メモ。)

愛について (1955年)
谷川 俊太郎
東京創元社
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谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)

2014-06-11 14:22:22 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)
                           2014年06月11日(水曜日)

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった



 私が谷川俊太郎という詩人を知ったのは、どの作品が最初だったか、はっきりしない。『二十億光年の孤独』ではないと思う。私が詩を書きはじめた一九七〇年代には谷川はすでに何冊も詩集を出している。そのうちの、どれか。あるいは「現代詩文庫」がまとまって読んだ最初かもしれない。
 当時の私には、難解で過激なことばの洪水が「現代詩」の主流のように見えた。何一つ理解できていなかったが、字面の鮮やかな熟語を過激に組み合わせ、いままで存在しなかったイメージを噴出させるものが「現代詩」であると思っていた。その先入観で見ると、谷川の詩は何か軽い、繊細な青年の美しさを生きているという印象があった。難解な熟語がなく、真似して書けそうな気もした。青春時代の私は谷川の詩が好きではなかった。
 当時の私の思いには、谷川俊太郎が谷川徹三の息子で、谷川徹三が息子の詩を三好達治にみせ、三好達治がその才能を評価し、谷川を詩人として売り込んだというエピソードの方が強く影響しているかもしれない。「親の七光か」という偏見や先入観をもっていた。『二十億年の孤独』を「偏見」なにし読めるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。
 というのは、個人的な「前置き」で……。
 初期の谷川の作品では、私は「かなしみ」が大好きだ。特に2連目が好きだ。

 この詩の2連目をどう読むか。落し物をしたと届けに行くのか。落し物を受け取りに行くのか。二通りの読み方ができる。
 まず「落とし物をした」と届けに行ったと思って読んでみる。届けたら「余計に悲しくなってしまった」のは、落としたものが大事なものであると気づいたからである。「余計に」は「さらに」という意味になると思う。見つからないかもしれない。もう出て来ないのではないか。
 あるいは「僕」、何を落としたかわからないが、「何かとんでもない」ものを落とした(なくした)という「喪失感」そのものを届け出たのかもしれない。こんな「喪失感」をわかってくれるひとはいない。遺失物係だって、届け出を受け付けてくれるとはかぎらない。だから「余計に」悲しくなったのかもしれない。
 落とし物が出てきて、それを受け取りにいったという読み方ではどうか。
 落とし物が出てきたのだから「悲しい」はずはない。そういう読み方はできない--というかもしれないが、私はそうは思わない。
 落とし物が出てこないのはたしかに悲しいが、見つかったとしても、それがうれしいとは限らない。こんな言い方が適切かどうかわからないが、何かが充たされるとき、それが求めていたものであるにもかかわらず、逆に「裏切られた」という気持ちになるときがある。不幸が味わえない、不満を味わえない気持ちがどこかからあらわれる。人間はときには「悲しい」を思う存分味わいたいのに、それが味わえなくなった悲しみ。(特に青春時代は、自分を悲劇の主人公にしたい気持ちにあこがれる。悲しみにあこがれるものである。)
 理不尽な思いだが、そういう気持ちがある。
 「余計に」は落とし物をしたとき悲しみとは違った悲しみの、その「違った」を意味する。同じものではない。むしろ、あってはならない「感情」。それは「余計な感情」である。「余計な悲しみ」である。
 谷川は「余計に」と書いているであって「余計な」ではない。だから落とし物が見つかって悲しいという読み方は間違っている--という指摘を受けるかもしれない。
 それは承知している。そう言われることはわかっている。わかっているけれど、私は、そう読みたい。人間のなかにある矛盾したこころ、気持ちを、矛盾したまま放り出している詩として読みたい。
 そう読むとき、「余計に」の果たす役割が大きくなる。悲しくなるはずがないのに悲しくなる――そこに「余計」がある。「意味」の「過剰」がある。余計とは過剰のことなのである。その過剰は、少し多いではない。多すぎて矛盾にまでたどりついてしまう過剰だ。

 この矛盾と1連目は響きあう。矛盾にたどりつくことで見えてくる1連目の不思議さがある。
 落とし物が見つかるという悲しみ--それは、落とし物という自覚がないときの方が強いかもしれない。自分では大事なものとは思わない。だから落としたことに気がつかない。それなのに遺失物係から「落とし物ですよ。届け出がありました。受け取りにきてください」と連絡がはいる。えっ、僕は落とし物をしたのか?
 遺失物係から連絡が入って、やっと「何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」と気づく。気づくといっても、そこには「らしい」という不確定な要素がまじる。ほんとうに落とし物をしたのだろうか。それはほんとうに僕の落とし物なのだろうか。
 受け取りにいって、その落とし物を目にしたとき、あ、それは僕のものだと気づく。
 それならまだいいが、その落とし物に僕の名前が書いてあるのに、僕のものであると自覚できない--そういう読み方もできる。落としたものは「もの」ではなく、何か精神的なもの、こころようなものかもしれない。

 読みつづければ読みつづけるほど、「意味」が確定できない。「意味」は特定できないのに、何か透明な不安のようなものを感じる。「透明な」というのは、「意味」が特定できないからこそ感じるのかもしれない。「存在する」ことは「わかる」のに、それをあらわすことばがない。
 そして、意味が確定できないと思ってもう一度読み返すと、一行目の「あたり」という表現も不思議な感じがする。絶妙な感じがする。「あたり」か。ぼんやりと指定されているが、明確な一点ではない。「特定」されていない。「不確定」は一行目からはじまっている。

 いくつかの読み方から、どの「意味(ストーリー)」を採用するか。自分の「解釈」とするか。はっきりしない。私は「落とし物が見つかって受け取りにいって、余計に悲しくなった」と読むのが好きだが、その読み方にしても、日々、違う。同じ感想が書けない。何か余分なことを書き加えたり、書いたことばを削ったりする。
 この揺れ動きが、たぶん「詩」というものだと思う。
 同じことばなのに、ある日突然、違った「場」で、どこからともなくよみがえり、いまある現実と結びつき、そのいまを違ったものに変えてしまう力--あ、あれは、こういうことだったのかと私を納得させてしまう力をもったことば。それが、詩。
 「かなしみ」は短い詩だが、そういう力が随所に輝いている。全体を統一している。この不安定な、そして透明な揺れ動きに比べると「二十億光年の孤独」は妙に落ち着きはらっている。有名な、

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

 は、「意味」の力がみなぎっている。「定義」になりすぎている。
 最後の二行、

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 これは洒脱すぎる。洒脱すぎて「洒脱」という意味になって、揺るぎなく存在している。
 この詩よりも、やっぱり「かなしみ」の方がいいなあ。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎の十篇(1 鉄腕アトム)

2014-06-10 10:53:30 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(1 鉄腕アトム)
                           2014年06月10日(火曜日)

鉄腕アトム

空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム

耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断をするな
心正しい ラララ 科学の子
七つの威力さ 鉄腕アトム 七つの威力さ 鉄腕アトム

街角に ラララ 海のそこに
今日も アトム 人間まもって
心はずむ ラララ 科学の子
みんなの友だち 鉄腕アトム みんなの友だち 鉄腕アトム

*

 谷川俊太郎の詩に出会ったのは、これが最初だ。と言っても、谷川の詩とは意識していない。谷川がどういう詩人かも知らずに、ただ、そのことばと出会った。
 「ラララ」が楽しい。ここがいちばん好き。
 なぜ、そこが好きなのか、子どものときのことを思い出せない。で、どうしてもいまの感想をまじえて書くことになるのだが……。

空を超えて 星の彼方

 と、「ラララ」を省略しても意味はかわらない。そうなら、「ラララ」はなくてもいいのに、そのなくていいものがなぜ好きなんだろうか。
 たぶん。
 「意味」ということばを手がかかりに子ども時代をふりかえると、子どものとき「空を超えて」の「意味」はわかっていなかった。「星の彼方」の「意味」もわかっていなかった。ただ何となく、いま自分のいる地球(地上)よりももっと遠く、見えている空よりももっと遠くという感じだけが漠然と「わかった」。
 「空を超えて」と「星の彼方」が同じ意味であり、それが「宇宙」をあらわし、またそれが「どこまでも」という「比喩」であると言いなおすことができるようになるのは、ずーっとあとのことだ。
 子どものときは、「空を超えて」と歌ったあと、わけもなく「ラララ」と一呼吸置いて「空の彼方」とことばが動いていくときの、その呼吸がうれしかった。
 「意味」ではない、ただの音。しかも明るい「ラララ」という音が楽しかった。
 「空を超えて」には意味はある。子どものときは明確に意味を考えないけれど、考えなくても意味があることはわかる。けれど「ラララ」には意味がない。ただ声を出すことのよろこびがある。

 あ、そうか、私は意味よりも音、声が好きなのか。私は「ことば」が好きなのではなく、声が好きなんだなあ。音が好きなんだなあ。何と読んでいいかわからないむずかしい本が私は苦手だが、あれはむずかしいことば(漢字)のなかから音が聞こえてこないからだ。日本語として聞こえてこないから、なじめないんだ、きっと。

 むずかしいことばに比べると「ラララ」はいいなあ。
 「ラララ」という音は、私の肉体のなかに「楽しい」何か、「明るい」何か、「軽い」何かを思い出させる。
 ひとは楽しいとき、うれしいとき、こころが軽いとき「ラララ」と口ずさむ。「リリリ」でも「ルルル」でも「レレレ」でも「ロロロ」でもない。「ラララ」と声にしてしまうのは「本能」なのか、それとも楽しそうな顔をした人が「ラララ」と声をはずませるのを聞いたことがあって、それを覚えているために楽しいと感じるのか。つまり、楽しいとき人は「ラララ」ということを、無意識のうちに学び、覚えてしまうのか。
 どちらかわからないが、覚えたことが「本能」になってしまうということもあるだろう。
 そのとき「覚える」のは「ラララ」はいう声(音)だけでもない。「ラララ」と一緒にある楽しい表情、目の輝き、ほっぺたや唇の色、手足のはじけ方--説明しようとするとことばがどれだけあっても足りないものを、一瞬の内に「全体」として覚えてしまう。「ラララ」と口にしながら、子どもだった私は、その「全体」を自分の肉体で再現していたのだと思う。そして、うれしさを思う存分味わったのだ。

 そして、いま思うのだが--つまり、これから書くことは子どものときは絶対にことばにすることができなかったことなのだが、--その「ラララ」は「空を超えて」と「星の彼方」のあいだにだけあるのではない。書かれてはいないけれど「ラララ」はアトム全体をつつんでいる。周り中に溢れている。アトムのいる世界が「ラララ」なのだ。
 テレビにかじりついてアトムを見ている。そのとき私はアトムではなく「ラララ」を見ていたのだ。「ラララ」という音楽を聴いていたのだ。

 「ラララ」という音に関連して、こんなことも考えた。(私は文章を書くとき、結論を想定せずに書きはじめるので、必ず脱線してしまうのだが……。)「二十億光年の孤独」の独特の火星人の描写に不思議なところがある。

火星人は小さな球の上で
何をしているか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)

 「ネリリ」「キルル」「ハララ」の意味はわからない。けれど、それが「動詞」であると「わかる」。それは「している」という動詞に引き継がれるから、そう感じるのかもしれないが、私には、動詞の「活用」そのものに感じられる。母音の変化が、日本語の動詞の活用の変化を連想させるのだ。
 「ラララ」という音を聞くとき、その音の周辺に、明るい笑顔やはじける手足が動くのと同じように「リリ」「ルル」「ララ」という音のまわりに「五段活用」のようなものを見てしまう。日本語だからこそ「ネリリ」「キルル」「ハララ」のなかに「意味」があるんだろうなあ、と感じる。
 この「活用」を谷川が「ら行」をつかって再現しているのは、とても楽しい。「ら行」の繰り返しが、この動詞によってあらわされている行為を楽しく、明るく、そして軽くしているように思う。
 架空のことばなのだから、ネググし、キダダし、ハビビしているでも、「何かしている」という意味は変わらない。でも「意味」ではない何かが変わる。
 それはなんだろう。
 「音」が変わることで、「音楽」が変わるように思える。谷川は、この「音楽」の感覚が鋭いのだと思う。(私は音痴だから、「音楽」ということばをつかうと、なんとなく見当違いのことを書いているかもしれないなあと思うのだが……。)

 「鉄腕アトム」にもどろう。
 「鉄腕アトム」の詩には実際に音楽がついていて、歌われるのだが、そういう「楽曲」としての音楽ではなく、別の音楽がある。
 どう言い直せばいいのか、私は、まだはっきりとはわからないのだが、「文体の音楽」とでも呼べそうなものがある。
 どんな文章にもそれぞれの音楽がある。「音韻」とは別の何か「音楽」としか呼べない何かがある。自立して動いていく音の運動がある。
 別の言い方をしてみる。
 もしこの詩から「ラララ」を省くとどうなるだろうか。「意味」は変わらない。アトムの活躍に変化はない。けれど、何か物足りなくなる。もちろんその物足りなさは私が「ラララ」があることを知っているから――ということもできるのだけれど、この詩に曲をつけた作曲家は「ラララ」がある詩しか知らない。詩の「ラララ」に誘われて曲をつけている。「ラララ」がなかったら、この曲は違っていただろう。だから「ラララ」がこの曲を作ったともいえる。
 だから、私は、この詩には最初から「音楽」がある、というのである。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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谷川俊太郎の十篇(まえがき)

2014-06-09 10:51:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(まえがき)
                           
 『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を手にして、私が最初にしたことは「父の死」を探すことだった。私は谷川の作品では「父の死」がいちばん好きだ。日本の詩の最高傑作だと思っている。
 ところが、その「父の死」がない。
 なぜなんだろう。
 私は谷川俊太郎の詩が好きだが、私の「好き」という気持ちは、どこか間違っているんだろうか。
 『自選集』を読み通してみると、ほかにも私の好きな詩がない。
 なぜなんだ!
 まるで恋人に振られたかのような衝撃を受けてしまった。動揺してしまった。
 
 『自選集』の最後に山田馨の「解説」がある。そのなかに「この詩集を起点にして、谷川さんの広大な詩の海に乗り出していって欲しい。そして一人一人の方に、自分らしい、個性的で、贅沢な、一大アンソロジーを編んでいただきたいと願う。」と書かれている。よし、それでは、私は私なりに谷川の十篇を選んで、どんな具合に「好き」なのか、それを語ってみよう。谷川さんのほんとうの姿はこうなんですよ(こう見えるんですよ)と伝えたい。そうすることで「父の死」を選ばなかった谷川を、「父の死」振り向かせてみよう。まるでふられた恋人の敵討ち(?)みたいな感じだが、そんなふうに思った。私が「父の死」を書いたわけでもないし、私が「父の死」という作品でもないのだが……。
 そして書くなら十篇。膨大な作品の中から十篇だけ選ぶ方が百篇選ぶよりも贅沢だ。誰も書かなかった谷川俊太郎を書くぞ、と決意した。「鑑賞」でも「批評」でもなく、「体験」として書いてみようと思った。
 恋愛が「体験」なら、詩との出会いもまた「体験」だからだ。
 だが、篇を選ぼうとして、困ってしまった。あれも好き、これも好き、と目移りしてしまう。何編か抜き出してリストをつくってみるが、リストに入りきれなかった作品が気になる。ほんとうにこれだけで谷川が語れるのか。あちこちで読んだ谷川作品への評価がちらちら動いたりする。あの作品が入っていないのはおかしい--と言われるだろう。何と言われようと関係ないはずなのに、気になってしまう。谷川も「私の代表作は別にある」と言うかもしれない。「世間の批評」に邪魔されて、初めて読んだときの、読んだ瞬間の気持ちにもどれない。
 でも、書きたい。気取った(?)批評ではなく、「出会い」を書きたい。
 予行演習をしてみよう。
 「十篇」を覚前に『こころ』をテキストに、初めて詩を読んだ瞬間の気持ちを書く練習をしてみよう。詩との出会いは恋人との出会いに似ている。最初の印象がいちばん正しい。いや、すべての印象は最初にかえっていく。
 そうやって書いたのが『谷川俊太郎の「こころ」を読む』(思潮社、06月末発行予定)のブログの文章。悪口のようなこともかなり書いてあるので、隠しておくと陰口みたいになっていやだなあ、そう思いブログを冊子にして谷川におくった。すると谷川が「おもしろい」と言ってくれた。本にする手筈を整えてくれた。びっくりしてしまった。うれしかったが、ここでまた雑念のようなものがはいり込んでしまった。
 えっ、気に入ってくれている?
 ここで、変なことを言ったら、嫌われてしまうかなあ。もっと変なことを書きたいんだがなあ。
 昔なじみの池井昌樹には「おまえ、ここは谷川さんの気持ちを優先しろよ。嫌われるようなことはするなよ」と脅された。
 あ、こんなことを考えていたら、「私の好きな十篇」とは違ったものになってしまいそう。
 本が出るまでは、一休みということにしようかな。本が出てしまえば、すべてがリセットされる。『こころ』についての感想は、もう私のものではない。本は谷川の思いとも、私の思いとも無関係に動いていく。読者がかってに動かしていく。誰がなんと言おうと、私には何もいえない。

 あ、これだね。
 
 詩もまた作者とは関係がない。読んだ人間がかってに動かしていく。私の書きたいことは、簡単に言ってしまえば、こういうことなんだ。
 谷川は「父の死」を書いた。私はその詩が好き。谷川の気持ちと私の気持ちは関係がない。私は谷川が「父の死」をどんな気持ちで書いたか、ということは気にしない。そこに書かれていることばが好き。そこに書かれていることばを自分勝手に解釈し、感想を言うだけだ。
 私の感想が、谷川の気持ちと重ならなくたって関係ない。
 読んだ瞬間から、詩は作者のものではなく、読者のものである。どんなふうに読もうと、それは読者のかって。「父の死」にかぎらず、そのほかの谷川の詩も、それは読んだ瞬間から「私のもの」。谷川の「真意(心情)」も世の中の「批評」も関係ない。
 だいたい、作者の思い(思想?)どおりに読まないと「正しくない」、作者の思いを「正しく」読み取るのが「文学鑑賞」だとするなら、「文学」に駄作はなくなる。どんな作品にも作者の「正しい思い」はある。「正しい思い」を「正しく読む」とき、すべての作品は「正しい」ものになってしまう。
 そうではなくて、どんなふうに間違っても、それでもなおかつ「おもしろい」のが文学というものだろう。こんな間違え方をしても、なお、ことばはそのまま楽しく動いている。まだこんな間違え方もできるぞ、と遊ぶのが文学だろう。

 さて。
 踏ん切りがついた。(出版の予告も出たし……。)
 「谷川俊太郎の十篇」。私は「間違い」だらけの感想を書く。初めて読んだときの、わけのわからない興奮を、矛盾したまま書いていきたい。
 
 (作品の感想はあすから随時連載します。)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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