来住野恵子『ようこそ』(思潮社、2016年04月10日発行)
来住野恵子『ようこそ』を読みながら、最初に棒線を引いたのは、
よく耳にすることばである。来住野の「発明」したことばではないかもしれない。しかし、なぜか、印象に残った。「きれいごと」「きたいないこと」の「こと」がひっかるのか。あるいは、すべてのことばが「ひらがな」で書かれていることがひっかかるのか。よくわからないが、思わず読み返してしまった。
次に棒線を引いたのが、
これは「音」がおもしろい。ひらがなが「意味」をかきまぜる。「音」が「意味」を超えて、別なものに融合していく感じがする。
前の引用と強引に結びつけると、その「融合」は「きたない/うつくしい」の「融合」に似ているかもしれない。ほんとうは別なものなのに、どこかで通じ合うものがある。そういうものを来住野はみつめているのだろうか。
三つ目に棒線を引いたのが、
ここにも「融合」がある。「声、こえ、超え」と漢字とひらがなを繰り返して、「意味」を「音」に引き戻している。「音」を通ることで、違う「意味」へとつながっていく。 で、その「融合」を
と言ったあと、さらに
と言い直している。
あ、これが来住野なんだな、と思った。
「分ける」ははやりのことばでいえば「分節する」。「分かれない」は「分けない」であり、「分節しない」。「分節する」ということは「分かる」ようにすることだが、その「分かる」へ動いていってしまうのではなく、「分からなくても」と「未分節」の状態でいいと思い、そこにとどまる。ここに来住野の「思想/肉体」があるのだな、と感じた。
最初に棒線を引いた行に戻ってみる。
「きれいごと」は「きれい」ではなく、ほんとうは「きたないこと」。「きれいをよそおっている/こと」。「きたないこと」は文字通り「きたない/こと」。ここでは、「きれいごと」と「きたないこと」を重ねることで「きたない」が「分節」されている。しかし、そういうもののなかからも「うつくしい」を「分節」することはできる、と来住野は言っている。
「きれいごと」「きたないこと」の「こと」という領域を「未分節」の状態からとらえなおせば、「うつくしい」は引き出せる。「きたないこと」からはすぐには引き出せないが、「きれいごと」の場合「きれい」がそこに存在しているから、それに焦点をあてればそれはそのまますぐに「うつくしい」と「分節」しなおすことができるだろう。
ただし、その「分節」の「しなおし」ということを、来住野はしないのだ。「未分節」のままにしておく。つまり「分からないまま」にしておく。「分からなくてもいい」と、「放置」しておくのだ。
なぜ?
「分節」は「断言」であり、「暴力」である。誰に対して暴力なのか。自分に対してか、他人に対してか。「世界」に対してかもしれない。よくわからないが、「断言/断定」を避ける。「断言/断定」を避けるということは、「分節」を「指針」にしないということでもあるだろう。何かを「これ」と決めて、それに従うのではなく、そのときそのとき、その場に応じて、「分節しなおす」ということなのだろう。
そんなことを考えていると、「海の言」という作品に出合う。
ここにも「分節」への拒否が描かれている。「ことばの線をすっと引き」は、「分節」がことばによっておこなわれていることを明らかにしている。
世界を「分節」するのではなく、「未分節」にもどすためにこそ、ことばをつかいたい、「未分節」を詩にしたい、という来住野の願いが書かれているともいえる。
「光/闇」「生/死」は一般的には相いれないもの、矛盾、対極にあるものだが、これを「おなじこと」と言う。「未分節」の状態があり、そこから、たまたま「光」が「分節」されるとき、それが「光」になり、そうではないものが「闇」に「分節」される。「分節」されたものが絶対ではない。「絶対」として固定するとき、そこに「暴力」が生まれる。いつでも「未分節」のなかで「融合(みないっしょくた)」し、瞬間瞬間に「分節」を繰り返せばいいというのが来住野の「思想/肉体」である。
これを「水」という「もの」で比喩として、象徴として語っている。
「いつもひとつ、いつも全部さ」の「ひとつ=全部」というのは、「一元論」である。来住野は「一元論」としての詩を書いている。
「一元論」の象徴を「水」というだけでは、ちょっと味気ないかな?
で、先に引用した「一元論」を来住野は二連目で語りなおしている。
「目を閉じる」はいまある「分節」を見ない、ということ。「刻一刻生滅する」とは瞬間瞬間に「分節されなおされる」という意味である。単に「生まれる」のではない。また単に「消えていく」のでもない。「生まれ」同時に「消える」。「生まれる」ことは何かを「消す」ことであり、「消す」ことは何かを「生む」ことである。その、融合した運動が「宇宙」なのである。そこには「鼓動/息吹」だけがある。「運動」だけがある。「静止」というものはない。
来住野恵子『ようこそ』を読みながら、最初に棒線を引いたのは、
きれいごとでも
きたないことでも
どこかかならずうつくしい (「無番号フール」)
よく耳にすることばである。来住野の「発明」したことばではないかもしれない。しかし、なぜか、印象に残った。「きれいごと」「きたいないこと」の「こと」がひっかるのか。あるいは、すべてのことばが「ひらがな」で書かれていることがひっかかるのか。よくわからないが、思わず読み返してしまった。
次に棒線を引いたのが、
あらぬののあれののあらぬよにいだかれ
みだれさかれふりきれてなみ いたみ のたうつひとつひたうつひかり
(「あれの発」)
これは「音」がおもしろい。ひらがなが「意味」をかきまぜる。「音」が「意味」を超えて、別なものに融合していく感じがする。
前の引用と強引に結びつけると、その「融合」は「きたない/うつくしい」の「融合」に似ているかもしれない。ほんとうは別なものなのに、どこかで通じ合うものがある。そういうものを来住野はみつめているのだろうか。
三つ目に棒線を引いたのが、
てのひらの孤島
絶海の飛翔の声、こえ、超え
分けないで分かれないで分からなくても (「アリア、降り止まぬ火の翼の」)
ここにも「融合」がある。「声、こえ、超え」と漢字とひらがなを繰り返して、「意味」を「音」に引き戻している。「音」を通ることで、違う「意味」へとつながっていく。 で、その「融合」を
分けないで分かれないで
と言ったあと、さらに
分からなくても
と言い直している。
あ、これが来住野なんだな、と思った。
「分ける」ははやりのことばでいえば「分節する」。「分かれない」は「分けない」であり、「分節しない」。「分節する」ということは「分かる」ようにすることだが、その「分かる」へ動いていってしまうのではなく、「分からなくても」と「未分節」の状態でいいと思い、そこにとどまる。ここに来住野の「思想/肉体」があるのだな、と感じた。
最初に棒線を引いた行に戻ってみる。
きれいごとでも
きたないことでも
どこかかならずうつくしい
「きれいごと」は「きれい」ではなく、ほんとうは「きたないこと」。「きれいをよそおっている/こと」。「きたないこと」は文字通り「きたない/こと」。ここでは、「きれいごと」と「きたないこと」を重ねることで「きたない」が「分節」されている。しかし、そういうもののなかからも「うつくしい」を「分節」することはできる、と来住野は言っている。
「きれいごと」「きたないこと」の「こと」という領域を「未分節」の状態からとらえなおせば、「うつくしい」は引き出せる。「きたないこと」からはすぐには引き出せないが、「きれいごと」の場合「きれい」がそこに存在しているから、それに焦点をあてればそれはそのまますぐに「うつくしい」と「分節」しなおすことができるだろう。
ただし、その「分節」の「しなおし」ということを、来住野はしないのだ。「未分節」のままにしておく。つまり「分からないまま」にしておく。「分からなくてもいい」と、「放置」しておくのだ。
なぜ?
信じる
信じない
断言してしまえばどのみち暴力だから (「位置について、八月」)
「分節」は「断言」であり、「暴力」である。誰に対して暴力なのか。自分に対してか、他人に対してか。「世界」に対してかもしれない。よくわからないが、「断言/断定」を避ける。「断言/断定」を避けるということは、「分節」を「指針」にしないということでもあるだろう。何かを「これ」と決めて、それに従うのではなく、そのときそのとき、その場に応じて、「分節しなおす」ということなのだろう。
そんなことを考えていると、「海の言」という作品に出合う。
ふたつの眼をもつ生きものは
何でもふたつに分けたがる
かたちのないぼくのからだにもことばの線をすっと引き
あの線のむこうは光それとも闇
この線のてまえは生あるいは死
ぼくにはどちらだっておなじこと
水だからね
切れない割れないこわれない
はじめもおわりもみないっしょくたにつながれて
いつもひとつ、いつも全部さ。
ここにも「分節」への拒否が描かれている。「ことばの線をすっと引き」は、「分節」がことばによっておこなわれていることを明らかにしている。
世界を「分節」するのではなく、「未分節」にもどすためにこそ、ことばをつかいたい、「未分節」を詩にしたい、という来住野の願いが書かれているともいえる。
「光/闇」「生/死」は一般的には相いれないもの、矛盾、対極にあるものだが、これを「おなじこと」と言う。「未分節」の状態があり、そこから、たまたま「光」が「分節」されるとき、それが「光」になり、そうではないものが「闇」に「分節」される。「分節」されたものが絶対ではない。「絶対」として固定するとき、そこに「暴力」が生まれる。いつでも「未分節」のなかで「融合(みないっしょくた)」し、瞬間瞬間に「分節」を繰り返せばいいというのが来住野の「思想/肉体」である。
これを「水」という「もの」で比喩として、象徴として語っている。
「いつもひとつ、いつも全部さ」の「ひとつ=全部」というのは、「一元論」である。来住野は「一元論」としての詩を書いている。
「一元論」の象徴を「水」というだけでは、ちょっと味気ないかな?
で、先に引用した「一元論」を来住野は二連目で語りなおしている。
目を閉じてごらんよ
きみのなか 刻一刻生滅するぼくの呼吸ぼくの韻律(すがた)
うたうとき恋するとき
ぼくはきみをめぐり宇宙を運ぶ
嘆くとき祈るとき
どんな視線も届かないひかる鼓動をきみに伝える
いつの日かきみがかたちを失っても
ぼくの刹那すべてにきみがいる
まるごと息吹でいる
「目を閉じる」はいまある「分節」を見ない、ということ。「刻一刻生滅する」とは瞬間瞬間に「分節されなおされる」という意味である。単に「生まれる」のではない。また単に「消えていく」のでもない。「生まれ」同時に「消える」。「生まれる」ことは何かを「消す」ことであり、「消す」ことは何かを「生む」ことである。その、融合した運動が「宇宙」なのである。そこには「鼓動/息吹」だけがある。「運動」だけがある。「静止」というものはない。
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