詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(13)

2020-01-31 08:48:18 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

鵜原の海--鵜原抄の詩人へ

ある日は雨で
翌日は遠い空から晴れてくることもある

 海の上には空が広がっている。沖を見つめていると海を見つめているのか、空を見つめているのか、わからなくなる。嵯峨は、空に視線を引っ張られる詩人だったのか。
 「ある日」「翌日」ということばのなかを時間が過ぎてゆく。この「経過」の感覚が「遠い」を呼び出す。
 「晴れてくる」の「くる」に明るさがある。その明るさは、「くる」を「いく」へと転換させる。呼応がある。次の展開には、だから「いく」という動詞を補うことができる。

小雨のなかをぼくは泳いだ
あるいは心の海を泳いだのかもしれない







*

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青柳俊哉「形のない風見」、池田清子「見えますか」

2020-01-30 13:22:25 | 現代詩講座
青柳俊哉「形のない風見」、池田清子「見えますか」(朝日カルチャー講座、2020年01月20日)

形のない風見    青柳俊哉

冷たい雨がふりつづいて
色あせた玉ねぎ畑を
黒猫が走りすぎていった

空のうえから
雪を放射するように
ゆきやなぎの穂先がふる
ゆきのしたの葉先もいっしんにふる
つばきの花もぽとぽとと土になじむ

色あせたブチの犬が
夕げをもとめてぬれた花芝の下を走りすぎていった

よく似たものたちがむすびあって
形のない風見が空のうえでクルクルまわる日

 感想を語り合っている途中で、参加者から「黒猫、ブチの犬に何か意味があるんですか?」という問いかけがあった。「黒猫、白い雪、ブチ、混ざり合う感じ」と青柳が説明した。
 詩に対して問いかけるのは大事なことだが、私は作者の「答え」というものは大事とは思わない。書き終わった瞬間から、詩は(詩に限らないが)、それは作者のものではない。読者のもの。読者が好き勝手に読んでいいものだと思う。だから、問いかけは作者にするのではなく、常に自分にする。このことばは、自分にはどう読むことができるか。それが基本だと思う。
 この詩は、確かに青柳が意図どおり「色の変化」をひとつの世界のとらえ方として描いている。
 最初に「黒」が選ばれている。「色あせた玉ねぎ畑」を走る「黒」猫。この黒は強い。雨に濡れた畑だから、土は黒っぽいと思うが、その黒を凝縮したような「黒猫」。これは「絵」として完成している。
 二連目に「雪」が出てくる。「白い」を隠した雪だ。しかし「雪を放射するように」とあるので、実際には雪は降らないのかもしれない。かわりに「ゆきやなぎ」「ゆきのした」が「ふる」、さらに「つばき」が「土になじむ(落ちて、土と一体になる)」。この「つばき」も「白」を思い描いているかもしれない。
 この二連目では、私は「ふる(降る/振る)」という動詞が「なじむ」に変化していくところがおもしろいと思った。同じ動詞を繰り返すのではない。動詞が変化するとき、その「主語」を見つめる作者の気持ち(認識)も変化している。認識の変化が、動詞の変化に反映されていると思う。
 そして、最後の「なじむ」という動詞が、青柳が説明したように「ブチ」を必然として呼び寄せるのだと思う。このとき一連目に書かれていた「色あせた」が繰り返される。繰り返すことによって「ブチ」がなじみやすくなるというか、「必然」がわかりやすくなるけれど、説明になりすぎるかもしれない。「走りすぎていった」の繰りかえしも、詩のことばを急がせすぎているかもしれない。
 「結論」を急ぎすぎている感じがする。
 だからだと思うが、「最後の二行がわからない」という感想が漏れた。三連目までは具体的な風景(情景)として「絵」にすることができる。しかし、四連目は「絵」にできない。「形のない」ということばが「絵」であることを拒否している。
 「絵」(情景)を描きながら、「絵」を拒否する。情景であることを拒絶する、というのが青柳の詩の特徴である。具体的な風景ではなく、「心象」をことばにする、「形のない」ものをことばを借りて、「形」であるかのように存在させる。「形」は「意味」と言い換えることもできる。「意味」を「生み出す」、いままでなかったことばで「生み出す」という明確な意図をもって、ことばに向き合っている。
 この最後の二行で私が立ち止まったのは「むすびあう」という動詞である。「黒、白、ブチ」という形で動いた色が「なじむ」。その「なじむ」を言い直したのが「むすびあう」だ。単に「むすぶ」のではなく「むすびあう」。それぞれが「主語」のまま対等に生きる。「むすぶ」という動詞のときは、青柳が主語となって「黒、白、ブチ」を「むすぶ(混合させ、なじませる)」ということもできるが、「むすびあう」の場合は、青柳がその「むすぶ」のなかに溶け込んで入っていくか、あるいは「黒、白、ブチ」の動きに身をまかせるかのどちらかである。たぶん、自分以外の存在が動詞の主語になることに身をまかせるというよりも、そこに溶け込んで青柳自身も動くという前者の形をとるのだと思う。
 だから「形のない」と書くとき、青柳は「風見」を外から見ているのではない。「風見」になって動いている。動いているもの(人間)は自分の形など見ない。形は「動き(動詞)」が必然的に形成するものである。簡単にいいなおせば、歩くときは手を振り、足を前に出す。走るときは、その手の振り方、足の広げ方が、歩くときとは違う「形」をとる。泳ぐとなれば、さらに違う。「形」は「動き(動詞)」が生み出すものなのだ。
 どういう「動き(動詞)」を生きるか。
 「むすびあう」という動詞といっしょに「よく似たもの」ということばが選ばれている。「黒猫」「ゆきやなぎ」「ブチの犬」、さらには「玉ねぎ畑」「花芝」はふつうに考えれば「似ていない」(別個のもの)である。しかし、それが青柳の肉体を通ることで「似たもの」になる。それは「形のない」何か、形を超えた何か、であり、「むすびあう」という動詞を生きている。
 ある一日の心象が、そういうことばで書かれているのだと、私は読む。


見えますか        池田清子

歩いた先に 何か見えますか
歩いた先に 何がありますか
歩いた先で 息ができますか
歩いた先でも 私は私ですか

時々 椅子に座り
時々 壁をつたい
時々 木に寄りかかり
時々 水を飲み

橋を渡ったら
見えますか

 参加者から「短くリズミカルなことばが心地よい。頭韻を利用してことばを動かし、問いながら、答えを見つけ出そうとしている」と指摘と、「時々ということばを繰り返すのではなく、違うことばをまじえてもいいのではないか」という指摘があった。
 私は最初の二行が好きだ。
 「何か見えますか」が「何がありますか」にかわっている。「見えますか」と「ありますか」は「意味」としては同じだと思う。しかし「何か」みえるか(あるか)と「何が」見えるか(あるか)とは、かなり印象が違う。「何か」はぼんやりしている。「何が」の方が問いかけとして強い。
 池田のなかで「問い」が強くなっている。つまり「答え」を求めようとする気持ちが強くなっていることがわかる。何を求めているのだろうか。「息ができますか」は、その何かによって「生きていけるか」どうかを問いかけていることになる。そして「生きていけるか」というのは「私は私」でいられるか、ということでもある。「私は私」のまま、生きたい。
 二連目は「座る」「伝う」「寄りかかる」「飲む」と、動詞が変化している。しかし、ほんとう変化していない。それぞれの行のあとに「また歩く」ということばが省略されている。池田は「歩く」という動詞を(運動を)つづけているのだ。
 一連目で「歩いた先に」を繰りかえしていたが、そのときはまだ歩いてはおらず、遠くを見つめていたのかもしれない。これから歩くその道を思っていたのかもしれない。あるいは歩き始めて、立ち止まり(椅子に座りを含む)、遠くを見ていた。
 二連目は、いわば「起承転結」の「承」であり、一連目を深める形で言い直したものだ。
 三連目は「結」である。「橋を渡ったら」は「橋を歩いて渡ったら」、その「先に」見えますか? という問いである。何が省略されているのか。「何か」見えますか? 「何が」見えますか? あるいは「私が」見えますか?
 どのことばを補うかは読者に任されている。どのことばを選んでも、池田が自分自身を探して歩いていることがわかる。自分を探して池田は詩を書いている。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(12)

2020-01-30 09:35:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (魂しいを失う日がある)

人を憎んだことを
愛したことを
生命の皿の上にのせてみる

 この「皿」は天秤の皿のことだろうか。憎んだことと愛したことを、天秤で測ってみる。「生命」そのもので測ってみる。
 嵯峨は「魂しい」と書くのだが、なんだか「未練」のように私には感じられる。
 「魂」の定義を私は知らないし、「魂」が存在するとも考えないが、嵯峨の「魂しい」は、多くの人が言う「魂」とは違うものかもしれない。







*

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日本語の罠

2020-01-29 13:18:54 | 自民党憲法改正草案を読む
日本語の罠

安倍の語った「募ったけれど、募集していない」は単なる「ことばの意味」を知らない人間の言い逃れ、たわごとのように見えるが、実は、重要な罠を隠している。

ふつう、「逆接」の文章は、前後を入れ替えても「意味」が通じる。
「金がなかったけれど、結婚指輪をプレゼントした」
「結婚指輪をプレゼントしたが、金がなかった」
両方とも、「だからローンにした(借金した)」というようなことを補えば通じる。不自然さがない。

しかし、安倍の文章は、ひっくりかえすと変になる。
「募集していないが、募った」
なにをいいたかったのか、わからなくなる。
「募った」という「肯定形」が意味を強調するからだ。

「嘘はついていないが、事実に反することを語っている(語った)」「虚偽報告はしていないが、事実に反することは語っている(語った)」という具合に、「否定形」を先にすると、こっけいさが際立つと思う。

日本語は、「最後」に大切なことを言う。「結論」は最後に言う。つまり、最初に何を言ったかではなく、一番最後に何を言うかが大事。
「募っているが、募集していない」は、これを利用している。
最後まで聞かないと、何を行っているか特定できないことを利用した「高等戦術」。
安倍を支えている誰かは、ある意味では日本語に精通している。

安倍の「戦術」を笑うひとは多いが、注意しないといけない。
「安倍昭恵は私人ではない」と閣議決定する。そうすると、最後に下された「決定」が「事実(真実)」のように広がっていく。
この奇妙な「日本語の魔法」を安倍は利用している。

この論法を批判するひとは多いが、たぶん、安倍支持者は、「安倍はきちんと説明した。募集していない、と否定している」と理解されているはずだ。

きっと。
中東で自衛艦が攻撃され、自衛隊員が死んでも、「攻撃され、命を落としたが死んだわけではない。御霊は生きている」と言われるだろう。

高校で「論理国語」というものが教えられることになるらしいが、こういう奇妙な「論理」をつかいこなせる「官僚」(安倍を支える官僚)をさらに増やすためだろう。

*

そして、振り返ってみれば、安倍の「戦術」はすべてこの論法なのである。
「結論」だけをおしつける。
途中の議論(矛盾)はすべて無視する。
安倍が判断した「結論」だけを、安倍の仲間が支えるために画策する。安倍の「結論」のために働いた人間だけが「評価」される。
この国には「論理」など、ない。
安倍がすべてを支配している。
「独裁」が、こういうことろからも証明できるのである。

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(11)

2020-01-29 09:21:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

生々流転

心の空に
軽気球がぼんやり浮かんでいる

 「空」ではなく「心の空」と書くのが2000年以前の書き方なのかもしない。「軽気球」「ぼんやり」も、それに通じる。
 「生々流転」は、ここでは「判断停止」という一点から眺められているようだ。逆説的なことばの運動だ。




*

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中村不二夫「川の名前」

2020-01-28 21:52:24 | 詩(雑誌・同人誌)
中村不二夫「川の名前」(「みらいらん」5、2020年01月15日発行)

 中村不二夫「川の名前」の一連目。

その川の名前をだれも知らない
川の時間はだれの目にも見えない
同じような流れでも同じではない
たえず人の命が流れて行っているのだ
一人一人 違う命の色が流れている
姿は見えないが 川の呼吸で分かる
人よ 昨夜見た夢を川の流れに語れ

 抽象と具象が交錯する。抽象の方が強いかもしれない。中村は副題に川の名前を書いてる(私はあえて紹介しない)から、名前を知っている。しかし、それを「だれも知らない」と否定で語る。そこには強い抽象指向がある。「具象」であるけれど、それを「抽象」として語ることで、「個別」を「永遠」に変えたい、「真理」に変えたいという思いがあるのかもしれない。
 詩の多くは、そういうものを意図している。
 私は、しかし、実はこういう「意図」(作為)は好きではない。いかにも「詩」という感じがして、なじめない。
 しかし、この詩の6行目、「呼吸」ということばで、私はこの詩が好きになる。「命」は抽象的だし、さらに「命の色」になるともっと抽象的だが、呼吸は「肉体」的だ。「呼吸」という名詞は「呼吸する」という動詞にかわり、私の「肉体」に響いてくる。「呼吸する」とき肉体(胸)は膨らみ、また凹む。起伏する。あるいは「息」が喉をとおり、音をたてる。「川」が「肉体」のように「うねる(起伏する)」のが見える。「川」が「肉体」になったのか、「肉体」が「川」になったのか。

川の水は光を拾う 石を洗う 岩を押す
何かを為すには なんの言葉もいらない

 ここも抽象的といえば抽象的だが、「光を拾う」が強くて美しい。「石を洗う」「岩を押す」というのは川の水でなくても、つまり私の「肉体」でもできる。しかし、「光を拾う」はどうか。手のひらで光を受け止めることはできる。しかし、それは「拾う」とは違う感じがする。だいたい「水」が「光を拾う」とはどういうことか。単に受け止めるのではなく、逆に「反射する」という動きがあると思う。「ひろう」は、いわば、ふつうのことばとは違うつかい方がされている。
 ここには「肉体」を超越する運動が、あたかも「肉体」でもできるかのように書かれている。
 この瞬間、私の「肉体」は拒絶され、同時に、絶対的な「力」(運動)が存在することを知らされる。こういう瞬間も、私は好きだ。あ、ここからほんとうの詩が始まる、と実感できる。
 詩は、「絶対的存在」を指し示したあと、その「絶対」を言い直す。

昨日 この川を静かに帰った友がいた
ぼくは川を帰った人たちの影を拾う

 「川(の水)」は「絶対」の「光」を拾う。しかし、人間は人間の「影」を拾う。それは記憶するためにである。自分自身の「肉体」のなかへ「反射」させるためである。この「影」を呼び言い方にはいろいろある。「命」もそのひとつだが、私は、ここでは「呼吸」ととらえておきたい。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(10)

2020-01-28 14:26:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

孤独

ぼくは夜明けを待つだろう
川岸の棒杭にとまつている一羽の大鴉のように

 夜明けまで、ただ棒杭にとまっている大鴉。その視界を川が流れていく。この川は小さい川か、大きい川か。水は豊かにあふれているか。
 大きい川、豊かな水を想像するとき、「孤独」は「孤高」にかわる。寂しさは消え、厳しさと美しさが生まれる。






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中上哲夫「ニューヨークの地図」

2020-01-27 11:01:10 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「ニューヨークの地図」(「みらいらん」5、2020年01月15日発行)

 中上哲夫のことばのリズムも、私は好きである。ことばが移動していく、そのリズムが。
 「ニューヨークの地図」の全行を引用してみる。

ニューヨークの地図を片手に
詩や小説を読んできたので
いまや年老いたニューヨーカーみたいな気持ちだ
船でエリス島にではなく
空飛ぶ鉄の船でラ・ガーディア国際空港に上陸したわたしは
ケルアックのようにあらゆる通りとあらゆる路地を歩き回りたかったのだけど
だれとも話をせず
バスに乗らず
地下鉄に乗らず
ギンズバーグを尋ねず
(メモをなくしてしまったのだ)
ベーグルを食さず
ましてやマリファナを喫わず
バーやカフェ、カフェテリア、コーヒーハウス、ジャズスポットを巡回せず
薄汚れたホテルの部屋で蟄居していた
(東海岸を寒波が襲っていたのだ)
思い出したけど
一日
時差まみれの足でホテルのまわりをよろよろと歩いて
「プレイボーイ」と三日遅れの「読売新聞」を買い求め
「少年ジャンプ」をながめながら
横町のラーメン屋で味噌ラーメンをすすった

ソーホーへタクシーを飛ばして
あるレストランである女性とビールを飲んだ
(彼女は何者だったのか)
結局
ケルアックとギンズバーグがコロンビア大学で起こしたような発火もなくて
あわててボストン行きの飛行機にぶら下がったのだった

 ニューヨークで体験したことのうち、たぶん、いちばんどうでもいいことだけを書いている。「横町のラーメン屋で味噌ラーメンをすすった」というのはニューヨークでもできることである。なぜニューヨークなのか、わからない。
 しかし、その、いちばんどうでもいいこと、ニューヨークらしくないことが、ニューヨークという「意味」を叩き壊して、「無」のなかから、ニューヨークにあるものを生み出す。そのとき生み出されるものは、なんといえばいいのか、まったく新しいものではなく、知っているものが「生み出しなおされたもの」なのだ。
 だから、詩なのだ。
 この「生み出しなおす」ということが、「移動」なのだ。単に人間が(中上が)場所を移動するのではなく、中上がそこに存在することによって、「もの」そのものが、それまでの「枠(意味)」から解き放たれて、新しくそこに「存在」しはじめる。この固定を破壊(解体)し、無を経て、生まれ変わるときの「経る」ということが「移動」なのだ。それを促すのが中上自身の移動だ。中上自身の移動(旅)は一種の「産婆術」なのだ。
 場所はどうでもいいというと言い過ぎだが、場所がかわることで起きる中上の変化が、その場所を構成する「もの」を変化させる。こういう変化は、「新しいもの」ではなく「すでに知っているもの」を描くことでしか表現できない。つまり、いちばんつまらないものを取り上げるしかない。いちばん「肉体」になじんだものを書くしかないのだ。そうしないと「生み出しなおす」ということにならないのだ。
 ここに、とても自然なリズム、生きている感じがあふれている。

 またそのリズムは行の構成そのものにも反映している。
 「船でエリス島にではなく」からの三行が特徴的だが、行がだんだん長くなる。しかし、その変化は「見かけ」の変化であって、読むときの(たぶん書くときの)「時間」は「同じ」。一行という時間(?)のなかでことばが加速してゆく。時間そのものはかわらず、ことばのスピードが変わる。もちろん実際に声を出したり、書いたりする時間は変わるのだろうけれど、「肉体」のなかにのこる時間の量はかわらず、ことばのスピードが変わる。
 しかし、加速しつづけるわけにはいかないから、いったん減速し、また加速する。そのたびにカーブをまがる(角をまがる)みたいに風景が変わるのも自然だ。どんなに知っている場所でもスピードを変えれば、そこにあるものが違ったものとして生まれなおされてあらわれる。
 途中にはさまれる(メモをなくしてしまったのだ)のような括弧入りのことばは、バックミラーで見る風景か、いったん振り返って見る背後の風景か、時間のなかの「方向」を一瞬逆転させる。そのリズムもいいなあ。緊張感が一瞬ほどけ、それがさらに新しい緊張感を生み出す。 

 日本語は音の高低(イントネーション)によって支配されているけれど、中上の詩を読むと、日本語にも「音の強弱」によるリズムがあるということがわかる。この「音の強弱」は「肉声」のものではなく「意識」のものだろうけれど。
 あるいは中上のなかには「英語」があって、英語の強弱のリズムが日本語に影響を与えているということかもしれないが。
 でも、こういうことはあまり厳密に考えるのはやめておこう。「印象」をメモしておくだけにしよう。




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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(9)

2020-01-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

無題抄

海は一枚のみどりの褥のようにひろがつているが
だれも時の行衛を知らない

 「海」と「時」は入れ替え可能な「比喩」である。つまり「海」は「時」であり、「時」は「海」である。入れ替えてみるとわかる。

時は一枚のみどりの褥のようにひろがつているが
だれも海の行衛を知らない

 あるいは、これはすべて「時」について語ったことばだといえる。
 「時」はどこにもいかない。目の前にただ広がって存在する。言い換えると「あらわれている」。「時」がどこかへゆく(過ぎ去る)というのは事実ではない。
 「時」はどこへもゆかない。「行衛(行方)」などないから、だれもそれを知る必要がない。知らないのではなく、誰もが知っているのだ。





*

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柴田基典「夏の原理」

2020-01-26 15:49:31 | 詩(雑誌・同人誌)


柴田基典「夏の原理」(「アルメ」251 、1987年08月10日発行)

 柴田基典「夏の原理」は古い作品である。いま私は「アルメ」に参加していたときの作品を一冊にまとめようとしているのだが、ふと柴田の作品が目に留まった。私は柴田の作品がとても好きである。柴田が死んだとき、「もう柴田の新しい詩が読めなくなったんだ」と思い、そのあとすぐに「詩を読んでもらいたいと思うひとは、もういなくなった」とも思った。そして、私はその後詩を書きたいとはそれほど思わなくなった。それくらい好きだったのだと気がついた。
 その「夏の原理」の二連目に、こんなことばが展開する。

何だかとても落ちつかなくて
きょうも首をふりながら
家のなかをむやみに歩きまわった
新聞を手にするとアウラの腕はわるくないという記事が目にはいった
アウラの生まれたチリは
確かニッポンからいえば地球の裏側にあって
腸詰めのようにひょろ長い国
せんだって地震があって土地がふるえていた
いや あれはレコード会社の名前にそっくりの隣国だったかもしれない
この老ピアノ弾きの何とか変奏曲のテープを
手からはずしているうちに
一気に幻想的な古い港が手のひらに出現する
ずいぶんと廃船が散らかって
わが母船も
さらばだ 魂の母船よ
という程度になって このひと
南米生まれの理由でやっぱりハンディーがあったんだってね
実力の世界だといっても
わたしたちは町はずれの惑星にいるから
へんな重力が作用してくる
人間は惑いの年だ

 イメージの変化と音の変化が一体になっている。イメージの変化に音がすばやくついていく。あるいは音の変化にイメージの変化がついていくのか。そしてそれは「俗」と「聖」の接触のようで、私にはとても滑稽に思える。「ユーモア」というよりも「滑稽」と言った方が、しっくりくるおかしさである。
 ふと読んだ新聞のアウラの記事。そこからつづく連想というか、変奏というか。たぶん柴田にとって連想と変奏は同じ意味だったのだと思う。そして、それを「同じ」にしてしまうものが「音楽」だった。
 音の楽しみ。
 たとえば「アウラ」「チリ」のあとに「ニッポン」ということばが出てくる。「日本」ではなくカタカナで「ニッポン」と書かれたときに、「意味」ではなく「音」が疾走する。それにのって「コロンビア」ではなく「レコード会社の名前にそっくりの隣国」ということばまで行ってしまう。「意味(国の名前)」をふりすてながら、遠くで意味を響かせる。
 アウラ、チリ、ニッポン、レコード。
 変でしょ? コロンビアを隠しているところが、滑稽でしょ?
 だいたいコロンビアというのは「事実」とは関係ない。そもそも「無意味」。「無意味」だからこそ、違う「意味=レコード会社」で隠してしまう。
 さらに、ここから「批評」を展開する。
 「チリ」を「南米」に拡大してしまう。アウラにとって「南米」が「母船(母国)」であったかどうかは、わからない。チリを南米にしてしまうのは、遠い日本に住んでいるからかもしれないが……。そして、そのためだと思うのだが、ここからはじまる「批評」は「批判」ではない。「批判」はむしろアメリカに、アウラが活動の中心としたアメリカの「音楽世界」に向けられていることになる。
 柴田は東京へは出て行かず、福岡で生涯を終えた詩人だが、この自分の場所を離れないというところから生まれてくる「批判」と「内省」のくみあわさった奇妙な味も、私は好きである。「滑稽」のなかに、不思議な静かさがある。
 こういう「滑稽」の感覚は(何を滑稽と思うかは)ひとによって違うと思う。私はたまたま柴田と「滑稽」の波長があったということなのだと思うが、こういうひとに出会うというのはなかなか、ない。だから、忘れることができない。
 「夏の原理」の別の連。

軍手を洗い
洗濯ばさみで軒先に吊るす
半日 薄目をして
手袋の股の乾き具合を眺めた
にわかにわたしの手が傾斜するなどは
気にしないこと

 最後の二行は「意味」がわからない。わからないけれど、私は気にしない。わからないことがあるから、そこには「ほんとう」がある。他人のことがわかるはずがないのである。
 ということは脇に置いておいて。
 「手袋の股の乾き具合」というのはいいなあ。この「肉体」だけがわかる微妙なものを柴田は手離さずにいる。それはときには「不愉快」なものだけれど、それを「滑稽」にかえるのが柴田なのである。
 直前の「半日 薄目」というのも、柴田のことば(思想)の特徴をあらわしている。「半」というのは、柴田の基本なのだ。いま向き合っているのは「半分」、それとは別の「半分」がどこかにある。それはしかし、軍手の片手と片手のような、はじめから「ひとつ」のものの「半分」を想定していない。「イメージ」と「音楽(音)」のような、違った存在の「半分」を想定している。違うものと結びつくことで「ひとつ」を破って動いていく運動を想定している。違う「半分」に出会ったとき、柴田が見ている「ひとつの世界」が生まれる。つまり詩が生まれる。
 半「日」、薄「目」。その「日」と「目」のすれ違いのようなものも、楽しい。



*

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アルメ時代31 猿芝居

2020-01-26 10:01:06 | アルメ時代
31 猿芝居



原始の形をしている
すべては私から生まれた
と自負している猿
人間を不安がらせることを仕事と心得ている
何かの拍子で猿になったかもしれない
そう錯覚させることを使命と考えている
桜の季節にはセックスをしてみせる
ささやきも前戯もない
素人芝居の台詞回しのように
見つめ合い情を深めるフリなんてしない
後ろからあっという間
「猿の精液も白いのね」
まっすぐな視線で女がいう
男は少し話をずらす
「知ってるかい首吊りすると
激しく勃起するんだ そして
とめどもなく射精する」
これは目が合うことをおそれた大根芝居
あるいは知的会話という猿芝居
見られていると
見つめる奴らのスキが見えてくる
猿は猿だ 羞恥心を知らない
言ってしまえばおしまいなのに
昨夜が気になって話をかえる知恵が浮かばない
「脇の下にキスしてと言えばよかった」
「長く持たせようと数を数えたのが失敗だった」
反省などするから声がうわずっている
さて猿は猿 人間から生まれたわけではない
しかしおまえらの淫乱は私から生まれた
わからせるために再び背後にまわる
「ねえ、あの猿何しているの」
答えなくていい
ガキはみんな知っている
土曜の夜ごとのクスクス笑い
「やっと眠ったわね」
扉を閉めおわらないうちのくすぐりあい
みんな知っている
知っていることを知らせたい
自己主張して困らせたいだけなのだ
聞こえなかったフリをして歩いていけばいい
おまえなんか付録だと言い放って
腕でも組んで歩いていけばいい
捨てられやしないかと必死になって追いかけてくるはずだ
さのもの日々にうとし
さるもの追わず
などということはない
ないからこそそんな言い方をする
猿には木から落ちた経験がある
弘法にも書き損じたことがあるはずだ
能のない猿のように
真似してみせればわかる
「あいつは猿真似しかできない」
剥き出しの批評を待って
さて 反論の時間だ
「真似は批評の一種である
真似るだけの価値があると
世間に広めるべく努力をしているのである」
「論理をすりかえるな
オリジナル、その実現への努力に対して非礼じゃないか
それが猿真似の意味だ」
「真似されてはじめて
オリジナルという価値が生まれる
真に個性的なものに意味などない
真似されること、つまり自分の歩みが
常識となることを願わない
哲学者、科学者、芸術家がいただろうか」
中間派を装いながら
どこまでもごまかしていけばいい
引用を細工しながら自尊心をくすぐってやれ
真似されたと不機嫌になる奴なんか
くっきりと映りすぎる鏡に
欠点を見つけ出し
あばかれることを恐れているだけなのだ
横向きに鏡の位置をかえてやればいい
ちょっとからかって
「秘密を教えてくださいよ
どの手が最高ですかねえ
あれもこれもモテ方にあやかりたいと
真似しているだけなんですから」
ランチタイムに耳打ちしてやれよ
「ほら見ろよ、あいつまた
同じ奴と同じ体位でセックスしてらぁ」
童貞のニキビが笑う
本で読んだだけだと知られまいと
最初に口をきいたおまえのことだ
ハーフタイムを知らない欲望がいちばん嫌いだ
どうしていいかわからなくなって
一生の間にいくつできるか
眠らずに考えつづけたんだろう
ゲスなチンピラめ おまえだな
「猿にオナニー教えたら
やめられずに死じまった」
などといいふらしたのは
あらゆる進歩は消化不良のゲップにすぎない
いったいいくつ空想を信じるつもりなんだ
オナニーのために




(アルメ251 、1987年08月10日)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(8)

2020-01-26 09:16:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (白い山梔子の花の匂いで目がさめた)

言葉よ
まだ目ざめないのか

 「白い」山梔子の匂いで肉体は目覚めた。この「白い」はなぜだろう。なぜ「白い」と書いたのだろうか。
 何かの匂いで目がさめた。山梔子だった。白い花だった、と肉体の認識は動く。しかし嵯峨は「白い」を最初に書いている。ここには「発見」が書かれているのではなく「記憶」が書かれているのだ。嵯峨の「言葉」は記憶を追認している。つまり、知っている「言葉」が動いているだけだ。
 だから言うのだ。「言葉よ/まだ目ざめないのか」は、「言葉よ/目ざめよ」という命令なのだ。まだ「言葉」になっていない「ことば」があるはずだ。未生のことばが。
 それは、こう言い直される。

ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか





*

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テリー・ギリアム監督「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(★★★★★)

2020-01-25 19:01:55 | 映画
テリー・ギリアム監督「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(★★★★★)

監督 テリー・ギリアム 出演 アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス、ステラン・スカルスガルド

 「ドン・キホーテ」は二重の「誤読」の物語である。「二重の」というのは、騎士道物語の誤読と、現実の誤読ということだが、二重に誤読してしまうと、どちらを誤読したのかわからなくなる。騎士道物語を誤読したために、現実の世界で騎士道を発揮しようとしたのか、現実の世界を誤読したために騎士道精神を実現しようとしたのか。
 しかし、それはどうでもいいことなのだ。
 人間は「誤読」せずにはいられない存在なのである。他人が語ること、他人の行動は、あくまで他人のものであって、私のものではない。私には私のことば、私の現実がある。二つがぶつかったとき、かならず違いがあり、それを乗り越えるためには、いままでとは違うことをしなければならない。だから知らずに間違ってしてしまう誤読は「誤読」ではない。単なる勘違いだ。間違っていると知っていて、なおかつその間違いへ向けて動いていく誤読こそが「誤読」なのである。
 ドン・キホーテ(ハビエル)は「間違い」であることを知っている。それが「物語」なのか「現実」なのか、簡単には言えないが、どちらかが間違っていると知っていて、その間違いのなかへ突入していく。間違いであることを引き受け、間違いの向こう側へ行こうとする。「誤読」しなければ「真実」というものには達することができないと知っているのである。
 さて。
 「間違い(誤読)」を引き受けることだけが「真実」だと知ってしまった人間に何ができるか。
 この問題をテリー・ギリアムは映画づくりとからめてつきつめる。「誤読」を映画にすることで考え始める。映画というものは(あるいは文学というものは、と言ってもいいが)、「現実」ではなく「嘘/虚構」である。いわば「間違い」であり、「誤読」を増幅させたものである。一度、この「誤読」を引き受けてしまったものは、そこからは逃れられない。どこまでも「誤読」を生きるしかない。「わざと」誤読し、「誤読」を語ることで、自分の信じている「真実」に近づくのである。
 それはだれのものでもない。「誤読」を引き受ける人間だけがふれることのできる「真実」である。
 クライマックスの、ドン・キホーテが月へ旅立つシーンが象徴的だ。目隠しをして「偽」の天馬に乗る。まわりでドン・キホーテをたぶらかす人間が冷風を送り、さらに熱風を送る。それにあわせてドン・キホーテは、大気圏を抜け出した、太陽に近づいたと「ことば」を語る。それはもちろん「間違い(現実の誤読)」だが、そのことばを引き出した人間の方はどうか。「現実」を見ているのか。ドン・キホーテのことばにあわせて冷たい体験の外を思い、さらに熱い太陽の近くを思い描く。ドン・キホーテのことばにあわせて「現実」をつくりかえ(捏造し)、その想像力に加担する。このとき「真実」は、どこにあるのか。「真実」とは何なのか。大気圏の外は冷たい、太陽の近くは熱い、というのは「真実」ではないのか。もしそれが真実だとすれば、ドン・キホーテのことばは「真実」にならないか。
 この問題に、簡単に答えを出してしまうことはできない。あるいは意味がない。
 だいたいドン・キホーテが「だまされている」と自覚していないかどうかもわからない。目隠しをするのはなぜなのか。だまされたふりをして、周りの人間をだましているのかもしれない。知っていることを語るため、宇宙の「真実」を語るために、だまされたふりをしているのかもしれない。
 ここに「誤読」のいちばんの醍醐味がある。知らないふり(無知のふり、狂気のふり)をして「真実」を語りたいと欲望しているのかもしれない。言い換えると、ひとは自分の言いたいことを言うためなら、進んで「誤読」をするのである。「誤読」というかたちで、自己主張する(自己実現する)。
 そして、「誤読」は引き継がれていく。「真実」も引き継がれていくが、それ以上に「誤読」が引き継がれていく。だいたい「真実」を引き継ぐというのは「誤読」の最たるものであって、ほんとうは「誤読」しか引き継がれていないのかもしれない。
 セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』は、いまも古典として残っているし、新訳も出たりする。しかしさまざまなドン・キホーテのどれが「真実」と呼べるものなのか、テリー・ギリアムの「誤読」がセルバンテスの考えていた「真実」なのか、だれにもわからない。(小説の「ドン・キホーテ」のなかにさえ、ニセモノの「小説・ドンキホーテ」が出てくる。)読者が、映画を見たひとが、自分に引きつけて「真実」を引き継ぐのである。つまり「誤読」するときだけ、「真実」が引き継がれるのだ。
 ラストシーン。サンチョ・パンサを演じさせられ続けてきたアダム・ドライバーがドン・キホーテになる瞬間、うーん、涙が流れます。スペイン語の簡略版と文庫本で途中までしか読んでいなかったので、感動のあまり牛島信明訳の「ドン・キホーテ」(絶版)を古本で注文してしまった。

(2020年01月25日、ユナイテッドシネマキャナルシテイ、スクリーン11)
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アルメ時代30 盗人猫

2020-01-25 11:50:32 | アルメ時代
30 盗人猫



ときどきまやかしの静寂を披露する
首を伸ばして虚空をみつめる
尻尾で床を磨いているが
動かしている自覚がないので
止めることができない
見られていることには気づかない
何をしていいかわからず
ちょっと爪を研いでみる
きょうの線はきれいに引けたと悦に入る
上調子にひらめいてしまう
おもむろに声を出してみる
「意識はいくつもの層にわかれている
いま引いた一本の線を一つの層と仮定する
もう一つはこれだ
少し離れたところにある
それはけっして交わらない だから
跳びうつる間を測ることが大事なのだ」
とんでもない話だ
いったい何を引用しているつもりなのだ
正確な記憶がないから
脈絡のある話ができないだけなのに
自己弁護を交えてことばをつないで
先手を打ったつもりでいる
思いつくままというやつだ
信用されていないのに
深い感銘を与えたと思い込む
図に乗って先に進む
ごみ箱に足をひっかけたかと思うと
ブロック塀に跳び乗る
だれもあとをつけられないのは
歩みがオリジナルだからだと錯覚してしまう
さらに唐突になって
「ひとつ教えてやろう
芸術とは対象との一定の距離だ
つかず離れず渡り歩くことだ
距離を精密に測れるよう
敏感な髭を生やしたまえ」
昨夜の恋狂いで荒れた声で
どこへでも出入りする
とがめられないのは重要視されていないためだ
という考えは思いつかない
責任がないことを自由と思い込む
無視されたことを受諾と勘違いし
言うだけ言うと離れていく
屋根に移り木に移ろうとするが
自分の話に酔ってしまっているので
爪をひっかけることができない
くるっとまわってアスファルトに落ちる
しかし何が起きたか理解できない
痛さにうめくことがないので
綱渡りをしたという反省がないばかりか
失敗したことに気がつかない
日向をさがしてゆっくりすわる
体をなめまわす
きれいになったところで
集まってきた新入りに話を聞かせる
「恋のために磨くんじゃない
ノミや抜け毛、あらゆる汚れを
のみこみ消化してこそ
しなやかな対応ができるようになる」
だがクロやミケやブチの
垢でしめった耳にはなじまない
目を細めてくすぐったそうな顔をするだけだ
鼻の頭にミルクの滓をつけた奴
帰る場所を知ってる奴だけがニヤリと笑う
「私がきのう読んだ本に
鴎は塩からい魚の肉ばかりで暮らしている
という一行があって笑ってしまった
ほんとうのことはいつでも滑稽だ
あんたの話にはユーモアが欠けるなあ
ホンモノとは言えない
猫をかぶってだれにといりるつもりかな」
しばらく目のなかをのぞきこむが
大きな欠伸をすると首を伸ばして虚空をみつめる
いま聞いた話を聞いてくれる相手を探し始める





(アルメ250 、1987年06月25)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(7)

2020-01-25 09:17:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

青い花

小さな恋ほどの露草の花を
はげしい驟雨がぬらしていつた

 「小さな恋」とは嵯峨の恋。それは「いま」というよりも「記憶」だ。
 その「記憶」を驟雨が激しく濡らして行った、と書くとき、嵯峨の記憶のなかに何が去来しているか。
 「はげしい」と書かずにはいられない何かだ。「はげしさ」が驟雨の形をとったのだ。名詞が修飾されるとき、名詞の意味よりも、修飾語(形容詞)の方に作者の思いがこめられている。形容詞は用言、一種の「動詞」である。用言をつかうとき、つかうひとの肉体は無意識に動いている、と私は感じる。用言に、私の肉体自体が誘われる、と言い直すことができる。







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