詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩村映二『カツベン』

2020-06-30 22:47:36 | 詩集
詩村映二『カツベン』(季村敏夫編)(みずのわ出版、2020年06月25日発行)

 詩村映二は無声映画の「活弁士」という。私は、無声映画を活弁士の語りで見たことがない。だから想像するだけなのだが、こういう仕事は、単に自分のことばを語るだけではなく、観客の反応をみながらことばを変えていかなければならない仕事だと思う。そういう「仕事」でつちかったリズムが、詩にも反映されていると感じる。
 二つの作品がある。

催眠術

少女はパラソルを斜めに廻しながら
ぴかぴか坂路を下りて来ます

一疋の蝶の色彩に移動する白い雲

望遠鏡の中のあかるい遠景が
催眠術にひつかかつてゐます



白日

少女は花びらのやうに日影を流れてゐる。美しい足が
影の中に沈んでしまふかのやうにさうして空一ぱいに
パラソルをさしあげようとしてゐる。一匹の白い白い
蝶が旅のつれづれに、ふとそのパラソルに翅をやすめ
たならば、蝶は哀れにも一本の望遠鏡を欲するであら
う。
 望遠鏡は妖しい夢の世界を見せてくれはしない。け
れども蝶は愚かにも花粉のやうに高く高く飛翔したい
と思ふであらう。

少女の瞳にはパラソルを透して虹色の空が静かに泛ん
でゐた。

 この二篇は同じ世界である。少女と蝶とパラソルと望遠鏡。さらに空の色彩。詩村は、この組み合わせが生み出す世界に愛着があったのだろう。どちらが好きかは、人の好み次第だろう。
 「催眠術」には、私は宮沢賢治の音を感じる。「ぴかぴか坂路を下りて来ます」の「ぴかぴか」や「あかるい遠景」の「あかるい」、「催眠術にひつかかつてゐます」の「ひつかかつて」の「か」の音に、特にそれを感じる。破裂する明るさ。硬質の響き。賢治の「か」である。
 「白日」から感じられるのは、「音の響き」というよりも、「息」のつながり、息がつくりだす「旋律」のようなものである。
 「影の中に沈んでしまふかのやうにさうして」という読点なしの、急いでつないでいくことばや、「白い白い」「高く高く」という同じことばの繰り返し(同じことばだけれど、強弱は違うはずだ)、さらに「翅をやすめたならば、蝶は哀れにも一本の望遠鏡を欲するであらう。」の「……ならば、……らろう」、「けれども蝶は愚かにも花粉のやうに高く高く飛翔したいと思ふであらう。」の「けれども……あらう」の論理的推量展開には、相手の(観客の)反応をみながら、即座にことばを追加する(論理を展開する)口調が感じられる。「哀れにも」「哀しい」「愚かにも」というのは、観客に感情を念押しするような口調である。
 そういう意味では、「白日」の方が、イメージとしては間延びするが、詩村の「肉体」そのものを感じさせる。
 「少女の瞳にはパラソルを透して虹色の空が静かに泛んでゐた。」と「一疋の蝶の色彩に移動する白い雲」を比較すれば、「虹色」と書かれた方が、「白い」と一色しかつかわれていないことば比べると、ことばの強さははるかに弱い。「虹色」と言われたとき、せいぜいが七色しか思い浮かばないのに(あるいは七色を思い出そうとして、七色思い出せないのに気づくのに対して)、「白い」ということばを聞いたときは、白以外の色が炸裂し、反射し、無数の色を瞬間的にかき消していく激しさを感じる。
 そして、そのことばの弱さの中に、観客次第でことばを変えていく、ある意味では迎合していく奇妙な力を感じる。なまなましさを感じる。自分の信じる美よりも、他人が反応する美を尊重するようなところがある。芸術至上主義からいわせれば、それは弱点かもしれないが、ずるくて強い「世間」のようなしぶとさがあり、とてもおもしろい。ことばそれ自体よりも、ことばに対する他人の反応を信じていたのかもしれない。「世渡り」の強さと言うべきか。

 この一冊について語るとき、季村敏夫についても語らなければならない。季村は私にとっては、何よりも『日々の、すみか』の詩人である。「出来事は遅れてあらわれる」ということを教えてくれた詩人である。
 その季村はまた『一九三〇年代モダニズム詩集―矢向季子・隼橋登美子・冬澤弦』という本も出している。私は、詩村を知らなかったように、矢向季子、隼橋登美子、冬澤弦を知らない。彼らは、私にとっては「遅れてあらわれた」詩人である。季村は、そういう詩人たちを「遅れた」かたちであるかもしれないけれど、きちんと「あらわれる」ようにことばをととのえる仕事をしている。詩が死なない、ことばは死なない、それはかならず「遅れてあらわれる」。そのときのために、産婆術をほどこしている、といえる。
 こういう仕事を、私たちは忘れてはならないと思う。

 




**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(73)

2020-06-30 16:54:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは帰つてきた)

稲妻が宇宙を一方的に横なぐりするような荒野を

 「一方的」を「横なぐり」が言い直している。この暴力が「稲妻」と「宇宙」と「荒野」を強く結びつける。強靱に結びつけるためには「一方的」と「横なぐり」というふたつのことばが必要だったのだ。
 この世界をさらに、

なぜかたつたひとりで

 と言い直す。
 このとき、「ぼく」は「稲妻」か「宇宙」か「荒野」か。区別することはできない。
 区別せずに、一気につかみ取ってしまうのが、詩だ。「ひとり」のなかに「みっつ」の世界が凝縮する。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳本々々の短歌

2020-06-29 09:40:21 | 詩(雑誌・同人誌)
加藤治郎がフェイスブックに、投稿していた。

***********************
毎日歌壇:加藤治郎・選 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20200629/ddm/014/040/036000c‬
特選
◎あがってきてはだかで冷蔵庫あけ、わたしはすごい風のベランダ 
東京 柳本々々
【評】短い時間が流れている。バスルームを出てベランダにいる。「すごい」という気分に根拠はないのだろう。
***************************

私は、こんなことを考えた。

柳本々々の短歌ははじめて読んだが、詩よりも読みやすい。
一首だけで判断してはいけないかもしれないが。

読点の位置が絶妙。
「すごい」の根拠は、この読点の位置にあると思う。
ふいの「一呼吸」。肉体の声。
意味的には、「わたしはすごい」のあとに句点を感じる。
つまり

あがってきてはだかで冷蔵庫あけ、わたしはすごい。風のベランダ

「肉体」から「精神」への切断と接続(飛躍?)の中心に「すごい」がある。
でも、その中心を絶妙に隠す。
啄木なら、

あがってきてはだかで冷蔵庫あけ、
わたしはすごい。
風のベランダ

という3行の短歌にするかもしれない。
でも、そうすると、わかりやすすぎる。
「わざと」わかりにくくする。
そこが「現代詩」なんだろうなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(72)

2020-06-29 09:05:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
未発表詩篇 遺稿ノートⅠ 詩集名(いつか晴れた日に)

* (宇宙は途方もなく厚く重い一冊の書物である)

あらゆることが印刷されているのか
書き手はだれなのかさつぱり分つていない

 「印刷」。何気ないことばだが、私は、つまずいた。「書物」を想像するとき、私は「印刷」ということばをめったに思い浮かべない。「文字」「活字」は連想するが、「印刷」は想像からこぼれ落ちている。
 この「印刷」を、嵯峨は「書き手」と言い直している。
 ここで、私は安心する。
 「書物」は書かれるものであって、印刷されるかどうかは別の問題である。書いたときに、もう「書物」なのだと私は考えている。
 言い直しているのは、嵯峨も、同じように考えているからだろう。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神田さよ『海のほつれ』

2020-06-28 09:53:08 | 詩集


神田さよ『海のほつれ』(思潮社、2020年05月01日発行)

 神田さよ『海のほつれ』の「村の春」。

重機の爪
がつん
土をケズル
ケズッテ
除いて
さらに地の間

 「除染」のためである。そうした作業をみつめながら、こんな思いに襲われる。

おれたちなんで
にげるんだっぺか
怒りを
ケズル
ケズル

 「おれたちなんで/にげるんだっぺか」は、何か。疑問だ。疑問からはじまる怒りがある。この疑問は「ひとはなんで/たすけてくれないんだ」に変わる。もちろん「ひと」とは「国」のことである。だが、「ひと」を「国」と言い換えた瞬間に、私は何かに負けている。たぶん「国」に負けている。これは「組織」の問題ではなく、「私個人」の問題なのだ。もちろん私にできることは少ない。私は「おれたちなんで/にげるんだっぺか」というひとに対して何もできない。無力である。無力であることを自覚して、傍にいるだけである。
 書くこと。読んだ、と書くことが、私にできることである。だから、それをする。

 「奏でる壺」にも忘れられないことばがある。

いつからかわたしは壺になって
海の底に没(しず)んでしまった
砂に埋まりもう浮き上がれないだろう
ときおり潮のながれが
わたしを揺さぶる
漏れ出るおと
内耳の水圧
くぐもる響き
声なのかもしれない
吐き出される 人の
かつて聞いたことのある
震える声

 「内耳の水圧」。「水圧」は「声の記憶の圧力」だ。
 「かつて聞いた」ということばには、阪神大震災を体験した神田の思いがある。東日本大震災のときに聞く声は、神田がかつて阪神大震災で聞いた声なのだ。同じ声が、いま繰り返されているのだ。
 「おれたちなんで/にげるんだっぺか」は「疑問の声」だ。それは、ぽつりと漏らされる。その漏らされた「声」が、疑問から怒りに変わり、「吐き出される」。疑問から怒りに変わるときに生まれてくる「圧力」。怒りの圧力によって「くぐもる響き」は明瞭な「声」にかわる。
 これを「論理」と呼ぶ人がいる。
 だが、私は、それを「肉体」と呼びたい。「怒りのことば」は「肉体」そのものである。怒ることによって、人は人として生まれ変わる。東日本大震災の被災者の声が、神田の肉体の中に生き続けている阪神大震災の被害者の声を呼び覚まし、阪神大震災の被災者の声が東日本大震災の被災者の、まだ声になりきれない声、くぐもった響きをことばに整えるよう、寄り添う。
 聞かなければならない。聞いて、聞いて、聞いて、耳の内側から、「くぐもる響き」を発した人に生まれ変わらなければならない。阪神大震災を体験した直後、神田は、やはりくぐもった響きしか発することができなかったのだと思う。
 だれだって、はじめて体験することをことばにはできない。ことばは、あとからやっと体験に追いつくのだ。
 「内耳」は「耳の内側」、「肉体の内部」ということではないが、私は「耳の内側」「耳の奥」「肉体の、まだことばにならないものを抱え込んでいる部分」と「誤読」しながら、そんなことを思うのである。

いつからかわたしは壺になって
海の底に没んでしまった
砂に埋まりもう浮き上がれないだろう

 と神田は書くが、これは「浮き上がらない」という決意でもある。「浮き上がらない」ことが、神田にとって「生まれ変わる」ことなのだ。沈んだまま、その沈んだところで、他者の声を支えるようにして生きる。その他者が、生きている人ではなく死者ならば、なおさらそうしなければならない。
 神田は、そう決意している。

死者たちの声で
ざらざらの表面は膨らんできた
深淵の潮流にのせて
わたしはひび割れた音を
鳴らし続けている

 その「ひび割れた音」は、東日本大震災被災者の声だけではない。阪神大震災の被災者の声だけでもない。よりそって、あわさって、これからもっと強い「怒り」となるための「響き」なのだ。鳴動なのだ。



 




**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
(6月末までの、お試し料金です)。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(71)

2020-06-28 08:33:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
ピノキオと白菖蒲の花

もぎたての果物の匂いのような
性の苦(にが)い匂い

 この果物は完熟した果物ではない。実をつけたばかりの青い果物だろう。青梅の苦さを私は思い出す。「もぎたて」の「たて」(したばかり)ということばのなかに、「若さ」がある。
 一方、逆のことも私は知っている。「完熟」の、その頂点を超えた果物の、甘さの中に隠れている苦さ。腐敗がはじまる寸前の刺戟。たとえば木から落ちる寸前の柿。それは「もぎたて」とは違う。違うのだが、それは、もがないと落ちてしまうものなのだ。
 梅の木も柿の木も、田舎の家の庭にあった。田舎では、性はいたるところに、隠れているのではなく、あからさまにあふれていた。そういうことを思い出した。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中上哲夫「岩だらけの詩」

2020-06-27 11:38:17 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「岩だらけの詩」(「独合点」140、2020年06月10日発行)

 中上哲夫「岩だらけの詩」の全行。

道といわず
庭といわず
畑といわず
野原といわず
丘といわず
森といわず
どこもかしこも岩だらけなのだ
まるで空から降ってきたみたいに
ごろんごろんと象のような岩がころがっている村があるのだ
ヨーロッパのずっと北の方に
太古の昔
氷河が運んできたものだというのだが
気にする者などいない
古い隣人として
ともに暮らしているのだ
屋敷内に頭を出した岩礁をなでながら
その家の主が片目をつぶってみせる
「呑んだくれの兄貴のように
素敵じゃないか
もし彼がいなくなったら
みんなわあわあ泣くだろうな
川が水を失ったときのように」

 「まるで空から降ってきたみたいに」が、とてもいい。「まるで」が直喩がはじまることを予告している。「まるで」がなかったら、この直喩は唐突すぎる。きっと考え込んでしまう。「まるで」があるから納得する。この「まるで」は直喩を予告するだけではなく、中上が「まるで」を言ったあとで「空から降ってきた」ということばを待っている「時間」のようなものを感じさせる。びっくりしたとき、そのびっくりはすぐにはことばにならない。「まるで」と言って、それからここばを整える。遅れてくることばを誘い出すというよりも、待っている感じ。さっと書いたことばのようだけれど、ここにたどりつくまでには「時間」がかかっている。そして、その「時間」がかかっているということが、リアルに、ライブ感覚で伝わってくる。いっしょに岩だらけの村を歩きながら感想を言い合っている感じがするのだ。
 つづいて「ごろんごろんと象のような岩が」と、また直喩があるのだが、この「象」は、私には聞こえてこない。見えてこない。最初に引用するとき、省略して引用して、いま書き加えたくらいだ。それくらい「まるで空から降ってきたみたいに」が強いのだ。「象」の比喩は、中上が「まるで空から降ってきたみたいに」と言ったことばを聞いて、連れが「そうだね、象みたいだね」と付け加えたような、ちょっと間の抜けた(?)ところがある。
 このあと、なぜ、岩が転がっているかが「解説」される。ここは散文だ。
 「気にする者などいない」とは言うが、そういうことばが生まれてくるくらいには、実は「気にしている」。この散文特有の矛盾を乗り越えてことばが加速して、「結論」が書かれる。「矛盾」は「起承転結」の「転」だね。
 「片目をつぶってみせる」は「ウィンク」のことだが、この「しぐさ」が「まるで空から降ってきたみたいに」の「まるで」と同じ働きをしている。これから、ちょっと違うことを言うからね、という合図。嘘だよ。でも、嘘には「ほんとう」が含まれているんだよ。嘘とは比喩のことである。
 で、その「ほんとう」というのは、「呑んだくれの兄貴のように」ではないのだ。この直喩ではないのだ。こういう「心情」をくすぐる比喩というのは、「その家の主」でなくても言えるかもしれない。つまり、想像ででっちあげることができるかもしれない。
 けれど。

川が水を失ったときのように

 この比喩は、頭ではでっちあげられない。そこにいる人、そこに暮らしている人にしか言えない。岩だらけの土地で暮らす。水をどうするか。水は川が頼りなのだ。川が枯れたら、人は「わあわあ」とは泣かない。泣いている暇などない。水を探すという新しい労働に駆り立てられる。だから、ここには「嘘」があるのだが、その「嘘」は、他の人にはつけない「ほんとうの嘘」なのだ。「ほんとう」は声に出さずに、こころのなかでわあわあ泣きながら水を運んでいるのだ。その土地へ行って、そこに暮らす人と話すことで、やっと手に入れることのできる「ほんとう」なのだ。

 旅行記風に、簡単にスケッチしている感じがする。ただ思い出を書き飛ばしているように見える。でも、この詩は、「ほんとう」にその土地を歩かなければ書くことができない詩であり、その「ほんとう」をことばのリズムが正直に再現している。
 「岩だらけの詩」とタイトルに「詩」ということばをいれて、ちょっと照れたように差し出しているところも、とても気持ちがいい。
 この「詩」には、自分が書いたことばという以上に、そこで暮らしている人の「ことば」という意味が含まれている。他人というか、自分ではない「絶対的な存在」が発したことば、自分(中上)を超越したことばを「詩」と呼んでおり、この作品の場合、それは最後の鍵括弧ののなかの「その家の主」のことばなのだ。他者のことばだけれど、聞いた瞬間に自分ことばになる。そういう体験を「詩を読む」というが、中上は、そうした意味を「詩」ということばにこめているのだ。







**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
(6月末までの、お試し料金です)。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(70)

2020-06-27 08:26:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
K丘

文字にならぬ言葉が 映像が
ぼくをひどく悲しませる

 「映像」としての「記憶」がある。しかし、「文字(言葉)」にはならない。こう書くとき、嵯峨は「言葉」を書きたいと熱望している。そして、そのときの「言葉」とは、「情景」を正確に描写することばである。「情景」とは「こころ」である。
 しかし、これは不思議な「思い」ではないだろうか。
 画家なら、どう言うだろう。「映像」が思い浮かんだとして、それで満足するか。思い浮かんだ映像をそのままなぞれば「絵」になるわけではないだろう。思い通りにならない「色」と「形」が画家を悲しませるだろう。
 音楽家なら、「映像」が思い浮かんだとして(あるいは、ある「音」が思い浮かんだとして)、それをそのまま「再現」できないことを悲しむだろう。

 「文字にならぬ言葉」の前に、「文字になってしまう言葉」がある。それを突き破ることができない。これがいつでも問題なのだ。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティエン・ユアン(田原)文、くさなり・絵『ねことおばあさん』

2020-06-26 18:09:28 | 詩集


ティエン・ユアン(田原)文、くさなり・絵『ねことおばあさん』(みらいパブリッシング、2020年06月20日発行)

 『ねことおばあさん』は絵本。

ぼくが物心がついたころ、
おばあさんは猫を飼っていました。

 と、はじまる。
 猫との交流が、少しずつ語られる。私は苦手で(非常に怖い)、「猫」ということばだけでも、ぞっとするときがあるし、実際に見かけると近づかないようにしている。
 この絵本の猫は、ネズミを捕って食べたあと、

猫はかならず
雑巾のところに行って
口を拭き、

水のあるところに行って
口をすすぎました。

 という、非常に非常に怖い生き方をしている。田原は怖いとは思っていないし、くさなりも怖さが際立つような絵を描いていないが、私は、こういうところが怖いのである。奇妙に人間的、あまりにも人間的なのだ。猫というのは。
 もし私がネズミだったら、こんなふうに証拠もなく、この世から消されてしまうのだ。そう思うと、怖いでしょ?

 でも、そんなことを田原は書こうとしているわけでもないし、くさなりも私のようには感じなかっただろう。
 その猫は、さらに人間的になる。

そして、停電の夜にきらめく猫の目は、
おばあさんにとって
たったひとつの光でした。

 私は田舎で育った。田舎の家の便所は、離れたところにある。私の家では、母屋から納屋を通り抜けて、その納屋の端っこにある。そこまでの距離はかなり長い。真っ暗な納屋の中で、猫の目が光っていたりすると、それは猫というよりももっと怖い存在のように感じられる。「悪いことをする何か」に感じられる。「悪いことをする」のは人間なのだ。
 もろちん、田原は、「悪者」として猫を描いているわけではない。

冬になると、猫は孫たちと同じ、
おばあさんの生きたストーブです。

 これも、おばあさんにとって、猫は「よろこび」をもたらす存在であることを示すことばなのだが、私は、猫が触れたときの「ぐにゃっ」とした感触がどうしてもなじめなくて、この絵本のおばあさんのようには、猫に接触できない。
 このあと、おばあさんは死ぬ。

猫は悲しんでいるように見えませんでした。
おばあさんが横たわっているところに
やってくると、
にゃあにゃあ鳴くこともなく、
目を閉じたおばあさんの顔を
ただ静かにじっと見つめて、
ときに舌でおばあさんの顔を舐めました。

 この部分で、私は、一瞬、「猫」を忘れた。
 中国の漢詩を読んでいると、自然(人間以外の生きもの)が「非情」な存在として目の前にあらわれてくることがある。「断腸の思い」ということばの語源になった猿でさえ、私には「人間的」というよりも、「人間を超える絶対的なもの」(人間の「情」など気にしない超越的なもの)に感じられる。
 田原の猫も、ここでは人間的に「鳴く」ということはしない。鳴かないことで、人間の死に対する思いを断ち切る。もっと違った何かに触れていると感じさせる。
 このあと猫は「人間的」な存在にもどり、

猫はいつものようにおばあさんの
寝ていたベッドに入って、
おばあさんを待ちながら寝ていました。

 とういようなことをする。しかし、そのうちに年をとって死んでしまい、おばあさんの墓のそばに埋められる。
 ということろで、田原のことばは終わっているのだが。
 絵は終わらない。
 どういう絵がつづくのか、世界が展開するのかは書かないが、これはとてもいい絵本だなあと感じた。
 田原のことばが終わったところから、田原のことばを読んだ読者のことばが動き始めるのだ。
 鴎外の「渋江抽斎」は、「評伝」なのに、渋江抽斎が死んだあともことばがつづいていく。渋江抽斎が書かれていないのに、渋江抽斎が動いて見える。
 それに似た感動だ。
 田原のことばはない。田原はおばあさんと猫の「交流」を、猫の死で閉じているのだが、「生死」を超えたものが、その後、「絵」を突き動かしていく。
 あとがきを読むと、くさなりも、死んだおばあさんに対する猫の姿に突き動かされて、後半の絵を加えたと書いている。
 私は、最初に書いたように猫は苦手だが、この田原の猫は、猫を超えている。人間が考える猫(情のなかの猫)を超えている。それがおもしろい。
 たいへん貴重な体験をした。







**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
(6月末までの、お試し料金です)。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇76) Eduardo Mun'oz

2020-06-26 10:34:50 | 考える日記


?Por que’ entendemos a Don Quijote cuando ves este trabajo? Don Quijote, que se especializa en usar un lavabo de un barberi’a.

Eduardo recoge unos hierros abandonados y los combina.
Luego, entre las combinaciones, aparecera’n la que esta’ ocultanda en hierro hasta ahora.
De ninguna manera, Don Quijote se escondi’a entre estos hierros.

Por supuesto, todo esto se puede llamar una ilusio’n.
Pero como Don Quijote, queremos ilusionarnos con todo.
Todo es un suen’o, y un suen’o tiene un pasado humano.
El pasado humano vive en el hierro abandonado.

ドン・キホーテとわかるのはどうしてだろう。床屋のタライを魔力を持ったヘルメットと勘違いしてになっている得意になっているドン・キホーテ。

エドゥアルドは捨てられてしまった鉄を拾い集めて組み合わせる。
そうすると、その組み合わせの中から、いままで隠されていたものがあらわれてくる。
まさか、こんなものたちのなかにドン・キホーテが隠れていたなんて。

もちろん、このすべてを錯覚(誤解)と呼ぶことはできる。
だが、私たちはドン・キホーテと同じように、すべてを錯覚したいのだ。
すべては夢であり、夢には人間の過去がある。
人間の過去は捨てられた鉄の中にも生きている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇75) Joaquín Llorens ” Serie Animus Ferri ”

2020-06-26 10:06:33 | estoy loco por espana



Joaquín Llorens ” Serie Animus Ferri ”

Un ritmo ligero creado por tres superficies curvas.
Parece tres, pero tal vez uno.
?Los tres son uno? ?Se divide uno en tres?
La sombra esta’ bailando a este ritmo misterioso.
No solo la escultura crea un espacio, sino tambie’n la sombra crea un nuevo espacio.
Muchas cosas se encuentran, interactu’an entre si’ y completan la belleza.

三つの曲面がつくりだす軽やかなリズム。
三つに見えるが、一つなのかもしれない。
三つが一つになっているのか、一つが三つにわかれているのか。
この不思議なリズムにあわせて、影がダンスをしている。
彫刻が空間をつくるだけではなく、影もまた新しい空間をつくる。
幾つもののものが出会い、互いに影響しあって、美を完成させる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇74) Luis Serranoの写真

2020-06-25 07:10:45 | estoy loco por espana


Luis Serranoの写真

La sombra no es un solo color.
La sombreado de la sombra (sombra negra, sombra gris, sombra blanca, etc..)crean una nueva existencia como si fuera una criatura viviente.
Es como la interacción sexual.
Y la vida nace.
Incluso puedo escuchar la alegri’a de la vida.

影は一色ではない。
影の濃淡が、まるで生きもののように新しい存在を生み出していく。
それはまるで性交のようだ。
重なる。交わる。
そしていのちが生まれる。
いのちの歓喜の声まで聞こえてきそうだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒木元「西安の夜」

2020-06-25 06:51:12 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木元「西安の夜」(「GA-GYU+」7、2020年06月15日発行)

 詩は、ほんとうのことを書く必要はない。体験を書く必要はない。それなのに、あ、これは「ほんとうのことだ」と感じることばに出会うことがある。そういうことばが、私は実は好きである。
 荒木元「西安の夜」。

雨の夜
全身ずぶ濡れの男が 青海湖をめぐって
ここまで来たと言ってあらわれた

 「西安」は中国の都市だろう。「青海湖」は中国の湖だろう。私は知らない。だから、ここに書かれていることが現実のことが、架空のことか、私は判断しない。
 雨が降りつづいていて、遠くに稲妻が光る。それを見て、日本人旅行者が歓声をあげる。

男は 青海湖に浮かぶ空のような眼で
ほほ笑みながらそれを見つめている

男は 湖畔で野宿した夜の
星空について ことばすくなに話してくれた

 「青海湖に浮かぶ空のような眼」は「ことば」になりすぎている。ほんとうのことかもしれないが、私は、こういうことばを「ほんとう」とは感じない。むしろ、嘘っぽく感じる。だから、これからどんな嘘が詩として捏造されるのだろうと思いながら、ことばを追い始める。
 「湖畔の野宿」「星空」はお膳立てどおり、つまり「定型」だなあ、と思って読んでいる。
 「現代詩」とは「わざと」書くものだと西脇は定義していたと思うが、これでは「わざと」にもならない、と思いながら読んでいる。
 つまり、「ケチ」をつけるために読んでいるなあ、と気づきながら読んでいる。
 ところが、

見渡すかぎりの闇の中で
夜通し ひとり寝袋にくるまって
空を見上げる男の姿が浮かんだ

 この三行で、とても奇妙なことが起きた。「浮かんだ」は「思い浮かんだ」であり、想像したということなのだが、「思い」が省略されているために、私はなぜか、男の体が宙に浮いている(浮かんでいる)姿を見てしまったのである。「男」がそのまま「浮かんだ」のである。
 そして、ここに「ほんとう」が書かれている、と感動したのだ。
 これはもちろん私の「誤読」なのだが、「誤読」した瞬間、これは「ほんとう」のことが書いてある、と確信したのだ。
 この私の「誤読」を、荒木のことばがさらに推し進める。

男を乗せた丘が めまいのように
漆黒の宇宙に回転している

 荒木は、男を「丘」ごと宇宙に放り投げているが、私は男が宇宙に「浮かんでいる」と感じたのだ。あ、宇宙まで行ってしまったのだと感じた。それが「見渡すかぎりの闇」ではなく「見渡すかぎりの星の中」のできごとなのだ。
 どうして、こんなふうに「誤読」したのか。

星空について ことばすくなに話してくれた

 「ことば」が「少ない」からだ。もっと聞きたいという気持ちが、男からことばを奪い、さらにそのことばを聞いた荒木からもことばを奪い、私が「見渡すかぎり」の「星」を見つめる男になってしまって、私そのものが「宇宙」に浮いてしまったのだ。
 「見渡すかぎりの闇の中」は「漆黒の宇宙」と言い直されているのだが、その「漆黒」はそのまま「星空」なのだ。それは地上で見上げる「光景」ではなく、「宇宙」のなかでしか体験できない光景である。
 この男は、その後どうなったか。
 最終行。

男はすでに 青海湖の夜空を残して 旅立っていた

 「宇宙」へ旅立っていた、と私は読む。
 他の都市へ出発していたという意味なら、気取ったことばづかい、「詩的ないいまわし(もう古いけれど)」の「定型」へになってしまうが、「夜空」そのものを置き去りにして、「夜空」のはるか向こうの「宇宙」へ行ってしまったと、私は読んでしまうのだ。
 荒木が「思い浮かべた」のではなく、男が「事実」として「浮かんだ(地上を離れた)」が、そのことが「結果」として証明されるのだ。







**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
(6月末までの、お試し料金です)。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

2020-06-24 23:40:25 | 現代詩講座
メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への講評(感想)、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

講評、ヒントへの質問にも応じます。
1回あたり500円を予定しています。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。
ただし、無料、および500円は6月末までです。
「体験申し込み」はお早めに。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤恵子『熾火をむなうちにしずめ』

2020-06-24 09:35:18 | 詩集
斎藤恵子『熾火をむなうちにしずめ』(思潮社、2020年04月30日発行)

 斎藤恵子『熾火をむなうちにしずめ』は、詩集のタイトルが意味を持ちすぎるかもしれない。読む前から、内容を想像してしまう。胸の奥には消せない火(情熱/思い)がある。それをしずめるようにして生きている。
 この「先入観」を、私は捨てることができるだろうか。なかなかむずかしい。
 たとえば「鉄道草」。

黄昏だった
火の色に染まった数千のうす刃の葉が空を裂き
風になびくたびわたしのほほを切る

 この書き出しだけで、失恋した女を想像してしまう。失恋したけれど、「恋ごころ(恋の火)」を捨てたわけではない。それが胸の奥に残っている。それに呼応するように黄昏の空は赤い。そして薄(すすき)の葉が空を傷つけるとき、それはまた「わたしのほほ」を傷つけ、そこから血(恋の火)が吹き出る。
 斎藤は違うことを書いているのかもしれない。しかし、私には「先入観」があるので、どうしても「定型」にあわせて読んでしまう。
 こういうことが頻繁に起こる。「微暑」は「恋」とは関係がないかもしれないが、

ひかりが皺ばみ
 ふ
 ふ
子音が生まれみどりに染まる

 「みどり」と「生まれる」が「みどりご」を連想させる。そして、そこに赤ん坊を生むという「女の性」が重なる。「先入観」というのは、捨てきれないものである。これは斎藤の問題ではなく、私の問題なのだが。
 この私の「先入観」が消えるのは、詩集の最後の方にたどりついてからである。「屍人(しびと)はいません」。

玄関ドアのそばの電柱に大きなカラス
五、六羽それぞれ足場ボルトにとまり
翼をたたみわたしを視ている
矢庭にバッサバッサ羽根をひろげ
黒い嘴から威嚇の声を放つ
 カオー
屍人をさがしているのだ

 この詩は、「音」が違う。即物的で、粗い。「こころ」を無視している。「バッサバッサ」は、それこそありきたりの音(定型の音)だが、この「存在の定型」が「こころの定型」を拒絶する、あるいは無視するという感じが、なかなかおもしろい。
 これに対抗して、斎藤のことばは、それまでの詩とは違った動きをする。

わたしはくびをふった
 いません
カラスはねめつける眼ざしで
わたしを視つめ なおも
 ガオ ガオ
わめき
いっせいに勢いをつけ電柱をゆらし跳ねた

 「対象」となじむのではなく、闘う。「鉄道草」では、外部の存在によって傷つき、傷つくことで内部にあるもの(血、こころ)が外部に誘い出されるのにまかせていたが、ここでは、自分の「思い」を重視している。「思い/こころ」「抒情」になることを否定している。

今朝 病んで眠っていたひとは
ちいさな息をしていた
 ああ 生きている
わたしは安堵のため息をついた
窓を見ると
ベランダにカラスがいる
死ぬかとしれないと思ったことが
伝わったのかもしれない

 カラスと死。私は小さいこと、カラスが屋根に止まると、その家から死人が出る、と感じていた。実際、小学時代の級友の祖父母が死ぬとき、必ずその家の屋根にはカラスが二羽、三羽と止まっていたのだ。
 そんなことを思い出した。
 「死への畏怖/恐怖」というのも「思い(こころ)」には違いないが、そこには「女のこころ」とは別のものが動いていると、私は感じる。たまたま、そのとき斎藤が「女」であるだけであって、「性」は必然ではない。
 「鳥装」という詩があって、そのことばは、私には「鳥葬」として響いてくる。

鳥装のひとがたを見ました
翼がむねの前で交叉され
羽根に擁かれるような恰好になっているのです

 この「鳥装」は「屍人はいません」には、こんなふうに蘇ってくる。

追い払わなければ--
わたしは母の褪せた喪服をはおった
両腕をひろげ
袖を翼のようにばたつかせ
巨大カラスに見せかけるのだ

電柱の下でわたしは背伸びをして
黒い袂をじょうげに振りゆすった
わっさ わっさ
風切羽の大きな音をさせる
 屍人はいません

 これは「記憶」としての「現実」だろう。そういう意味では、記憶は「熾火」となって斎藤の胸の内にあるということになる。それを鎮めるために詩を書く。しかし、ことばは思いを鎮めるということはない。必ず、思いをより鮮明にする。蘇らせるものである。だから、こういう詩を書くことは、一種の矛盾なのだが、矛盾だからこそ、そこに「必然としての事実」、つまり「真実」がある。
 詩集の最後の「みどりの点点」は、この詩集のなかでいちばん感動的な作品だが、それについては書かない。「到達点」よりも、私は、そこに至る「過程」の方に、つまり行方もわからずうごめいている運動(ことばの運動)の方に関心があるからだ。「屍人はいません」は、ある意味では詩集全体を突き破っている。だが、だからこそ、そこに斎藤がいると私は感じる。「屍人はいません」は、詩のキーワードではなく、詩集の「キーワード」のようにして存在している。







**********************************************************************

「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」をはじめます。
メールで作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A版サイズのワード文書でお送りください。

推薦作は、ブログ「詩はどこにあるか」で紹介します。
(ただし、掲載を希望されない場合は紹介しません。)

先着15人に限り1回目(40行以内)は無料です。16-30人は1回目は 500円です。
2回目から1篇1000円になります。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com

**********************************************************************







オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする