詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代34 秋の注釈

2020-07-31 23:30:41 | アルメ時代
アルメ時代34 秋の注釈  谷内修三



池を渡ってくる風が
窓の手前で曲がる
水に映った空から光が引いていく
時雨が水面を閉じるまで
しばらく均一な間が残される
「空虚はたしかに存在する
透明なために見えないのか
不透明なために見えないのか」
一日中さがしていたことばが
激しい音とになって
金属的な匂いのなかを去っていく
(思春期の肉体の音階に似ている)
しかし、
注釈は退けなければならない



(アルメ254 、1987年12月25日)
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破棄された詩のための注釈04

2020-07-31 23:16:34 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈04
             谷内修三2020年7月31日


 「とりかえしのつかないことをしてしまった」と要約されたのは、奥の鏡に映っていたのが梔子だったか、花ではなく花びらの白く厚い記憶、あるいはことばだったか、もう思い出すことはできない。
 雨の降る音にあわせて、ゆっくり考えてみるが、はっきりしない。
 しかし「梔子」については、明らかである。それは比喩であり、そしてだれもが想像するように、見覚えのある肩から顎へかけての、肌のなめらかさを意味していた。記憶の鏡が映し出すものは、いつでも「見覚えのある」ものであり、「とりかえしのつかいな」ことである。

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岬多可子『あかるい水になるように』

2020-07-31 10:56:10 | 詩集


岬多可子『あかるい水になるように』(書肆山田、2020年07月25日発行)

 ことばはどうやって詩になるか。対象とことばとの「距離」を一定にするとき、詩が生まれる。対象とことばとの「距離」が詩なのである。
 これは、小説についても言えるし、ほかの文学についても言えるかもしれないが、詩の場合、それが顕著だ。詩は、ことばの運動そのものだからだ。
 こういうことは抽象的に書いてもしようがない。抽象的に書けば、それはいつでも「正解」になる。抽象自体がすでに「結論」に向けて動いているから、つまり方向性を持っているから、「完結」してしまうのだ。「完結」は、好き嫌いは別にして、いつでも「論理の整合性」によってのみ成り立っている。それが抽象というものだ。
 私は、こういうことを「壊したい」と思っているので、あくまでも「具体的」に書く。書きたいと思う。
 「距離」を岬は、どう書いているか。「くらいなかの火のはじまり」。

襖の向こうの 夜の声は
聞かなかったことにしてね。
ことが おきていたとしても
なにも おきていないから
花の こちら側で お茶で
ゆっくりと あまく あたためてね。
獣なのだから わたしたち それを
口で じかに 飲んでもいい。
もう暗くて もっと暗くなる
だから わからないけれど
緑の苔の廊下を 行き来するものは
見なかったことにしてね。

 「聞かなかったことにする」。「聞いた」が「聞か+なかった+こと」にする。重要なのは「なかった」である。否定する。存在を認めながら、それを除外する。これが岬のとっている「距離」である。
 こういうことは、だれもが体験する。
 そして、それを「持続」するとき、詩が生まれる。
 一回かぎりでは、詩にはならない。いや、一回かぎりの詩もあるのだが、岬がこの詩集で採用しているのは「距離」を持続する、反復しておなじ「距離」をつくるということである。「距離」が複雑に絡んでいくと、「線」が「面」になり「立体」になる。つまり、空間が生まれる。「場」が生まれる。「場」は「肉体」にかわる。さらに「時間」も加えることができる。そのとき「こと」が生まれる。単に客観的にみつめる「こと」ではなく、その「こと」を体験する。「こと」として「生きる」。
 「聞かなかったことにする」の「する」が「こと」を「生きる」になる。「する」と言う動詞のなかに「距離の持続」の展開ある。
 「聞かなかった」は「おきてはいない(おきなかった)」と言い直され、さらに「見なかった」と言い直される。「見なかったことにしてね」と「して(する)」が念を押される。
 この運動のあいだに「花の」から「飲んでもいい」までの別の「こと」が対比される。そこに、

じかに

 ということばがある。「口で じかに 飲んでもいい。」
 この「じかに」は「距離」を否定する。「距離がない」ことが「じか」である。それは「聞いたこと」「おきたこと」を「自分の内部」に閉じこめることである。「外に出さない」。「聞かなかったことにする」は「聞いたけれど、聞いたことを、外に出さない(だれにも言わない)、自分のなかにだけしまっておく」ということだ。自分の「内部」になってしまうから、「じか」なのだ。切り離せないもの、「距離」が不在のものなのだ。たんに「触れる」ということではない。「触れる」だけなら「目で触れる(見る)」「耳で触れる(聞く)」ということがある。「じかに」は自分のなにかとりこむということである。そのことを分かりやすくするために「飲む」という動詞がつかわれている。
 襖の向こう側が、こちら側になり、その向こう側/こちら側の区別を「ない」ものにして、自分の「肉体の内部」で引き受ける。「肉体の内部」では、それが「くらい火」になってくすぶり、もえあがる。

生きているこの夜
ほんとうは あつくてならないから
見えないなかで 触れてしまったから
それが何であれ とことん
ゆけるところまで ゆくのよ。

 岬は、「肉体の内部」に閉じこめたものを、「肉体の内部」で解放する。これは「破綻」だが、詩は、「距離」を持続したまま「破綻」までたどりつくことである。「結論」のように、閉ざすのではなく、逆に「叩き壊す」。
 そのために「距離」を持続するという、一種の矛盾を生きる。
 「あかるい水になるように」も、やはり「距離」を持続し、「距離」ではなくなる。

灯りのともる室内から
夜のみっしりと重い庭を
見よう見ようとしなければ、そして
見よう見ようとしても、でも。
あかるいところからくらいところは見えない。

 でも、その「見よう見ようとする」ところから「想像する」という力が動いていく。この「想像力を一定に保つ」ということが「距離」を守り、「距離」を線から面へ、面から立体へ、さらに時間を組み合わせ、「人間のこと」にしていくのである。

そこで 草や石や幼いもの、
知られずに 泣いているかもしれないでしょう。
夜を盗む指のような虫、
葉よりも花 花よりも実を
どうしたって 食い荒らしたいのが
わたしだったかもしれないでしょう、
どうしたって あまくてやわらかいほうへ ほうへ
身をよじりながら這っていって。
黒く濡れた庭から 灯りのともる室内は
とてもあかるく とてもとおく思われました。

 「でしょう」が想像であり、「思われました」が想像である。そのとき「人間のこと」が始まる。






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アルメ時代33 雨の形

2020-07-30 22:13:48 | アルメ時代
アルメ時代33 雨の形  谷内修三



ワイパーが雨をぬぐっていく
消えていく気持ちを
いまなら持っていることができる
言い聞かせて
疲労のほてりを踏んでいく靴を負う
電話ボックスは溶けだしている
横顔があきらめたように直立する
見覚えがある
この時間には見覚えがある
(裏切っていくのは疲れた
肉体だろうか精神だろうか)
こめかみをガラスに押しつける
雨の角度が見える



(アルメ252 、1987年09月25日)
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Estoy loco por espana(番外篇81)Josep Blanche

2020-07-30 18:39:35 | estoy loco por espana


Josep Blanche
Laberinto(Pintura acrilica y collage sobre tela 130x130 cm)

Rojo, negro y gris.
No se’ si puedo resumirlo asi’, pero veo estos tres colores.
Todos los colores son tranquilos.
Estos colores tienen el aroma de un "tiempo dominado ".
"Tiempo" tambie’n es "pasado (historia)".
Se necesita "tiempo" para que el color rojo de la pintura cambie al color rojo de este trabajo, pero ese tiempo fortalece el color en si’.
Este rojo tiene el poder de extenderse para siempre.
Gris lo confina. Por el contrario, se puede decir que el gris protege al rojo.
El gris que rodea los cuatro lados hace que el trabajo se vea ma’s grande.
Esto es parte del "mundo (rojo)". Me hace sentir que "rojo (mundo)" se esta’ extendiendo de la misma manera fuera de esto.

赤と黒と灰色。
こう要約していいのかどうかわからないが、この三つの色が見える。
どの色も落ち着いている。
つかいこなされた「時間」の匂いがする。
「時間」は「過去(歴史)」でもある。
絵の具の赤が、この作品の赤に変わるまでに経てきた「時間」が、色そのものを強固にする。
どこまでも広がっていくことができる赤かもしれない。
それを灰色が閉じこめている。あるいは、守っているといえばいいのだろうか。
四方を取り囲んだ灰色が、作品を逆に大きく見せている。
これは「世界(赤)」の一部なのだ。「赤(世界)」はこの外にも同じように広がっているのだと感じさせる。.
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破棄された詩のための注釈03

2020-07-30 17:51:16 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈03

 「雨が、恋人がなかにいるのを見つけたときのように、窓を叩いた」ということばと、「額にはりついた濡れた髪」という剽窃されたことばを知っていることを示すために、男は額にはりついた髪を指でなで上げた。
 それから二人は近くのホテルへ駆け込んだ。
 ひとりが先に声を上げる、ひとりがそれをおしとどめ、追い越す。「作品と批評との、理想の関係のように。」
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山川宗司『家からの距離』

2020-07-30 12:28:49 | 詩集
山川宗司『家からの距離』(余白社、02月05日発行)

 山川宗司『家からの距離』。「さりげないもの」という詩がある。

生きるのが
すきなんです

差し込まない
庭の藪に陽が射した瞬間
ふわりと
その葉にとまった

そんなさりげないもの
その日から
その言葉を
持ち歩いている

 何もことばをつけくわえたくない。
 「七月の暑い日」は、こんな風だ。

何度かなおしたのですが
いつのまにかそうなっているのです
くせ だったのでしょうね
新宿区の脳神経外科の先生はそう話した
意識がもどらないまま
左側にちょっと首をかしげたかっこうで
姉は生涯最後の眠りについた

 左側にちょっと首をかしげた瞬間、姉には、山川が見た蝶が見えたのかもしれない。ひとはいつも何かを持ち歩いている。そのために、姿勢に「くせ」がある。そう思うと、その「くせ」の方へちょっと近づいていきたくなるではないか。
 「なおす」ためではなく、「くせ」に触れるために。
 「空き地に土管が」。

空き地に
土管が積まれている
そのなかのひとつの土管に
入り込んでいくのがぼくです
四つん這になって
這っていくと
そのことに気づいたのもぼくです

 詩にはつづきがあって、そのつづきの部分こそ山川が書きたいことなのかもしれないが、それを承知で、ここでは引用しない。
 私は、「四つん這になって/這っていく」。土管の中へ「四つん這になって」「入り込んでいくのがぼくです」と気づいたと読みたいのだ。
 「気づく自分」「気づかれた自分」。どちらがほんとうの自分?
 気づくときは、一瞬、自分を忘れるときでもある。
 これを最初に引用した、ことばと蝶にあてはめてみる。
 「生きているのが/すきなんです」と気づいたとき、山川は何を否定したんだろうか。「蝶」に気づいたとき、山川は何を忘れたんだろうか。それを特定することはむずかしい。気づいた瞬間、山川は「生きているのが/すきなんです」ということばになり、また一匹の蝶になっている。
 首をかしげて死んだ姉の、その首の傾げ方に気づいたとき(それをみつめるとき)、山川は姉になっている。姉になって、生きる。何が見えるわけではない。ただ、瞬間的に、姉になってしまう。
 それに気づいたか、気づかなかったか。
 気づきは、あまりにも短いので、気づきと意識されないこともある。

 「気づく」とはどういうことか。そのことを考えさせられた。





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なぜ、質問しない?

2020-07-30 11:38:52 | 自民党憲法改正草案を読む
東京新聞web版
https://www.tokyo-np.co.jp/article/45454?fbclid=IwAR2mUAWETsQsmtYTIYA446aa_N6DFBE6GuG3w50Flh5DxM4a6rbQ1G8M2Jk
に、こんな見出し。

「Go To」混乱 挽回へ政府が次の一手 「ワーケーション」って何?

この記事に、こんな部分がある。
***************************************
日本を訪れる外国人旅行者は2013年に1000万人を突破し、19年には3188万人に伸びたものの、新型コロナまん延で出入国規制が強化され、今年1~6月の上半期は394万7000人にまで落ち込んだ。東京五輪・パラリンピックが予定されていた20年は4000万人を目標に掲げていたが、実現は絶望的だ。
***************************************
↑↑↑↑
これを指摘するなら、「go to」にしろ「ワーケーション」にしろ、何の効果もないことを指摘しないといけない。
「go to」「ワーケーション」の利用者は日本人。
外国人観光客が増えるわけではない。
外国人観光客が日本でつかう金が日本を支えている。
日本人が観光にいくら金をつかおうが、日本の収入にはならない。
(間接的に貢献することはあっても、外国人4000万人分を補てんすることは絶対にできない。4000万人は、日本の人口の約三分の一。)

ここから、さらに考えるべきである。
日本人が日本の観光地で金をつかう。たしかに、観光地は一時的にうるおう。
それ以上に、そういう「事業」をおしすすめるひとが「中抜き」でもうける。
ほんとうに外国人に観光地に来てもらうには、まず日本が「コロナ感染国」ではなくなることが必要。
いまは日本は「コロナ感染拡大国」である。
しかも、政府はそれに対して何もしようとしていない。
こんな国に、どこから観光客がくるだろか。

で、もう一度考えてみよう。
「go to」「ワーケーション」でほんとうにうるおうのは誰なのか。
観光地は「感染予防対策」を徹底しなければならない。その準備には金がかかる。「補助金」は、準備で消えてしまうかもしれない。
絶対に消えない「金」は何か。「手出し」がない仕事をしている人である。
「中抜き」している人である。「キックバック」をもらっている人である。
その「キックバック」「中抜き」をしているひとが「利益が少ない」と不満をもらし、「利益を増やす」ために、つぎつぎに奇妙なことをやっている。
政治家と電通の「キックバック」「中抜き」補てんのために、国民の健康が台無しにされ、税金が投入されている。

新聞は、官僚が発表する「日本を訪れる外国人旅行者は2013年に1000万人を突破し、19年には3188万人に伸びたものの、新型コロナまん延で出入国規制が強化され、今年1~6月の上半期は394万7000人にまで落ち込んだ。東京五輪・パラリンピックが予定されていた20年は4000万人を目標に掲げていたが、実現は絶望的だ。」というような資料をそのまま発表するだけではダメ。きちんと、批判しないといけない。
「go to」「ワーケーション」で、外国人観光客が入ってくるんですか?
ひとことでいいから、そう質問すべきだ。
こんな疑問さえ嘆かせないとしたら、ジャーナリストではない。
単なる宣伝マンだ。
「ワーケーション」って何?と疑問を投げかけ、批判しているように見せかけて、批判になっていない。
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秋山基夫『シリウス文書』

2020-07-29 12:21:26 | 詩集


秋山基夫『シリウス文書』(思潮社、2020年06月20日発行)

 秋山基夫『シリウス文書』。「パープルレター」「和歌二十八首を読む」がおもしろいのだが、文字が多くて引用に手間がかかる。
 「句集評」には「大野呂甚大句集『くりごと』を読む」という副題がついていて、これも刺戟的なのだが、この句集がほんとうにあるかどうかわからない。句集を捏造して、秋山が評を書いている、ということばの運動かもしれない。そういう意味では、この作品について書くと、いちばん秋山に接近できると思う。ただし、句集が捏造である、という前提である。「現実」など、どこにもないのだ。「生活」というものもない。あるのはただ「ことば」だけだ。
 この決意のような潔さは、とても気に入っている。

 でも、きょうは、どうも目の調子がよくない。だから「マンダラ」を引用しながら感想を書く。私は秋山とは違って、いつでも「現実」しだいでことばが変わってしまう人間である。
 だからこそ、秋山の、現実なんか関係ないという潔さが気持ち良く感じられるのだろう。

 さて。どう書こうか。こんな部分がある。

中空へたましいがふらふら昇る
黒髪を撫でたお方を恋いこがれ
夢の夢よりもはかない世に臥し
山の端に出る月を待っています

 和歌にありそうなことばの動きだなあ。「新しさ」は感じない。けれど、私のことばが整えられるのを感じる。
 この四行は、ことばを整えて書かれている。それは一行の文字数がそろえられているという「形式」をとおしてもうかがえる。
 そして、この「形式」というのは、私は一行の文字数を例に上げたが、そういう表面的なものではなく、ほんとうは何かもっとことばの内部構造のようなものに属している。ことばの肉体。秋山のことばは、鍛えられた肉体を持っているのである。

月はむかしのゆめの月ではない
春はむかしのゆめの春ではない

 「月はむかしの月ではない/春はむかしの春ではない」ならば、すでに和歌で歌い尽くされたことだ。しかし、そこに「ゆめの」ということばを補うだけで、世界が二重化する。「むかし」というのは「ゆめ」なのだとわかる。「ゆめ」とは「ことば」という意味でもある。「ことば」にするから「むかし」が「むかし」として「いま」に蘇る。そういう、かけはなれたものを「いま」に呼び寄せる運動が「ことば」であり、「ことばのゆめ」、つまり「ことばの欲望」なのだ。それを秋山は生きている。
 この「欲望」は、不思議なことに、鍛えないと衰えてしまうものなのだ。
 秋山は、「ことばの肉体(欲望)」を鍛え続けている。それが、私には、一種のリズムとして響いてくる。
 若い人の「ことばの欲望」は鍛えられた欲望というよりも、剥き出しの、整えられない欲望である。そういう若い人の欲望についていくのは、かなり厳しいが、秋山の欲望になら、まだついていけると、私は感じる。
 たぶん、どこかで同じような鍛え方をしているのだろうと思う。ある意味で、ことばの鍛え方には「時代」が反映するということかもしれない。
 こんな部分もある。

ほろほろと山吹散るか滝の音 芭蕉
熱風が夏のひと月を襲いつづけひとむらの山吹が枯死した
わしゃあやっぱ山吹の黄色が黄色の中の黄色じゃ思うとる
吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり 貫之

 「わしゃあやっぱ」は口語だが、口語は口語で「欲望」の整え方があるのだ。その整え方が、この一行を支えている。私はなんとなく「仁義なき戦い」の菅原文太の「声」を思い出すのだが、私も秋山も、ひとが大声で主張する「声のリズム」を聞いて育った世代だろう。この一行は「大声」で発せられたものではないかもしれないが、「大声」をだすことができるのだという「強さ」、いいかえると「どす」を秘めている。「欲望」を矯めている、という力を感じさせる。
 そういうものが、芭蕉と貫之のことばを叩き壊して、あざやかに噴出している。
 こういうのは好きだなあ。

 いまは、若者が大声で主張するということがなくなった。そういうことも反映しているかもしれない。……と書くと、また違った問題になるかもしれないが。









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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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Estoy loco por espana(番外篇80)Ricardo Ferna’ndez

2020-07-29 11:56:16 | estoy loco por espana


Ricardo Ferna’ndez

Colores espan'oles

El cielo visto desde la esquina del edificio (el cielo y la esquina del edificio).
Una parte del edificio está en la esquina de la parte abierta.
Cuando se recorta como una foto, parece una sola imagen abstracta pura.
Contraste de azul y gris. El cambio de gris en gris.
El gris claro (gris pequen'o) es muy efectivo.
Este equilibrio se siente como una pantalla calculada y construida.


スペインの色。
ビルの一角から空を見ている。
開かれた部分の隅に、ビルの一部が入り込んでいる。
これが写真として切り取られると、まるで一枚の純粋な抽象画のように見える。
青と灰色の対比。灰色のなかにある灰色の変化。
明るい灰色(小さな灰色)が非常に効果的。
このバランスが、まるで計算され、構築された画面のように感じられる。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(85)

2020-07-29 09:32:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (宇宙のはてに小さな橋がかかつている)

ぼくはときどきそこを通るものを考える
まだ名づけられていないもの

 「考える」ということばは「思う」よりも意識的である。精神的である。心情的ではない、と言えばいいのか。
 「名づけられていない」には「名づける」という意思(精神的意欲)が感じられる。
 「名もないもの」なら「事実」。
 「名ものないもの」に「名づける」のが詩である。
 「名づける」とは「名もないもの」に、自分の「意思」という「橋」をかけ、渡っていくことである。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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破棄された詩のための注釈02

2020-07-29 00:30:42 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈02
                             2020年7月29日


 荒廃した人格の一部は、若いときの恋人によってつくられたものだが、彼女には意識できていなかった。それは階段をのぼるとき、手すりをもつのではなく、壁に手を這わせる癖となって出ていた。
 この文章は削除され、別の散文詩の一場面につかわれた。かわりに、こう書かれた。
 階段をのぼりながら、女はこころのなかで、後ろからついてくる男をあざ笑った。そうしないと絶頂に達しないからだ。そして、まだ何もしていないのに、足もとがふらついた。
 しかし、その描写には、「悪魔的描写」をするという作家の文体がまじっていることに気づいたのか、さらに書き直された。
 踊り場の高い窓から射してくる白い光は、スカートに触れて青い色を散らした。
 陳腐だ。男は唾を吐き、陳腐さを隠すために、こうつづけた。

 踊り場の高い窓から射してくる白い光は、スカートに触れて青い色を散らした、という夢を見てはいけない。このことばは、自画像として、いつまでも彼女を苛んだ。
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Estoy loco por espana(番外篇80) Xose Gomez Rivada

2020-07-28 19:56:10 | estoy loco por espana


?’ Por que’ la visio’n prefiere la modificacio’n?
Por ejemplo, cuando veo este trabajo, recuerdo "cara". No puedo determinar quie’n es. Pero yo entiendo. El mira un poco hacia abajo y abre la boca.
La forma en que abre la boca no es la forma en que la abre al hablar.
Es consciente de los sonidos claros.
El esta cantando.

Basado en esto, puedo decir:
Cuando veo la cara de una persona que canta, me atrae su boca.
Estoy mirando el lugar donde sale su voz.
Luego, Xose vea el rostro de cantante ligeramente hacia abajo. El a’ngulo de la nariz lo muestra.
Entonces vea una mejilla hinchada.

Este trabajo me lleva de vuelta al primer "visual" cuando veo a una persona cantando una cancio’n.
Hay "real" antes de que la visio’n sea "corregida", donde los humanos tienen ojos, narices y bocas.
El arte devuelve nuestra conciencia al "antes de la corregida ".
El gran arte me devuelve a un sentido primitivo.


視覚は、なぜ、修正を好むのか。
たとえばこの作品を見たとき、私は「顔」を思い出す。誰の顔かは特定できないが、少しうつむき、口を開けている。
その口の開け方は、話すときの開け方ではない。
明瞭な音を意識している。
歌っているのだ。
ここから逆なことが言える。
歌っているひとの顔を見るとき、私は口に引きつけられている。
声が出てくる場所をしっかりとみつめている。
つぎに、ホセは、顔が少しうつむいているのを見た。鼻の角度がそれをあらわしている。
それから膨らんだほほを見た。
この作品は、歌を歌うひとを見たときの、最初の「視覚」へ私をひきもどしてくれる。
ここには、人間には目があり鼻があり口があるという具合に、視覚が「修正」される前の「リアル」がある。
芸術は、私たちの意識を「修正前」に戻してくれる。原始の感覚に戻してくれる。


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「現代詩通信講座」開講のお知らせ

2020-07-28 18:07:04 | 現代詩講座
「現代詩通信講座」開講のお知らせ

メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。

定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
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2020年07月28日(火曜日)

2020-07-28 18:05:57 | 考える日記
2020年07月28日(火曜日)

 「結論」というの多くの場合最後にたどりつくものではなくてたいてい最初にある。
 そして、最初にあるものにあわせて不都合なものを排除していくことで整合性(論理性)を獲得していくという暴力を抱え込んでいる。
 ことばの運動というのは、どうしてもそうならざるを得ないのかもしれないけれど、私はそういうことに抵抗してみたい。

 理想は書かずに、話すこと。
 話しことばは、話したさきから消えていく。
 「私がいいたいのは、いま、きみが要約したことではなく、こういうこと」と次々に先へ進んで行く運動。
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