詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本勝夫『時の回廊』

2006-01-31 23:36:58 | 詩集
 山本勝夫の『時の回廊』(思潮社)を読む。全編ソネットである。

 「迷い子」という作品に「わたしはきっと いまも帰りたいのだ」(17ページ)という1行がある。この行、「帰りたい」が山本のキーワードである。「迷い子」では帰る場所は「玄関で雪野手袋を脱ぎすてて カレーの湯気が立つ食卓へ」と描かれているが、実はそうではないだろうと思う。
 「迷い子」の第1連。

音楽隊が通りを行進していった
そのあとから旗をひるがえす祭の列に 子供のわたしがついていく
音楽隊の指揮杖が街の角を 極北の空へ曲って
あの日からわたしは戻ってこない

 山本の帰りたいのは「あの日からわたしは戻ってこない」という状況そのものである。わたしがわたしでなくなったあの日、あの場所へこそ帰りたい。
 この欲望は矛盾だろう。わたしがわたしでなくなった場所へ戻ればわたしは消えてしまう。しかし、山本は帰りたい。帰り着いた瞬間、山本は、わたしがわたしを抜け出して遠くどこかへさまよい出て行くことができるからである。いわば、山本は、もう一度ロマンチックな抒情の世界へと踏み出したいと切に願っている。----矛盾でしか語れない「いまも帰りたい」という欲望、そのこころの動きのなかに山本の「詩」がある。「わたし」の分離という瞬間へ、今のわたしはほんとうのわたしではないと言える瞬間へ戻りたいというセンチメンタルが山本の願いである。

 こうした世界を甘く甘く、悲しい夢に酔うように、「四季」の叙情詩のように描いた作品に「ユウスゲ」がある。

みんな次々と行ってしまった
わたしだけは戻ってきた
くさむらに ひっそりと立つユウスゲのまわりには
やがてわたしの夕暮れがおりてくる

さがしてもわたしはみつからないだろう
わたしは 昨日よりずっと向こうの
盛りだった季節の草原の小径に
悲しみを 旗のようにひるがえして走っている

傷ついた一本の旗竿の先には
傷口から生まれたやさしい夢が
さんぜんと わたしのかわりに輝いている

わたしの夢は 一夜だけ花ひらいて
遠い思い出のかけらのように消えていく
わたしはそこへ戻ろうと いまも痛みの記憶の中を歩いている

 こうした作品を構成するのは、今ではない時間、つまり「過去」と、「過去」を浮かび上がらせる論理の構造(文法)である。センチメンタルな詩は、取り返せない「過去」とその「過去」を浮かび上がらせる文法でできていると言い換えてもいいかもしれない。
 たとえば、次のような。

夜更け わたしの体の深いところに 凍って湖が現れる
湖の鏡は 終夜遠来のように鈍い響きをともなって
湖を渡っていくわたしの過去を ぼんやり照らしている


 どの作品も破綻なく書かれている。きちんとした文体を持った詩人なのだと思う。次は、もっと現代と切り結んだ作品を読みたいと思った。
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高橋博子「希望はわたしの外から」

2006-01-30 19:54:25 | 詩集
 「火曜日」第85号を読む。巻頭の高橋博子の「希望はわたしの外から」の1連目が美しい。

赤ん坊が乳母車から身を乗り出して
色づいた草むらに坐っているネコに
オッー オッーと調子を変えながら
話しかけている
ネコはその都度小さく返事をする
赤ん坊はもう誰にも通じる
自分のことばを持っている

 「ことば」は意味ではない。伝えたいという意志である。伝えたいものがないときは、どんなにことばをついやしても通じない。伝えたいものがあるときは、そのことばが不完全であっても通じる。
 赤ん坊の「ことば」は意志であふれている。
 だからネコにも通じる。ネコもそれにこたえる。そして、赤ん坊とネコが会話しているということが他人にも伝わる。

 街で見かけた風景。その存在のなかへ高橋自身が自分のことばで入っていく。そのとき、逆に、高橋のことばを通して街の風景が立ち上がってくる。
 この相互の「交通」のなかに「詩」がある。
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豊原清明「今、春のロマン」

2006-01-29 22:38:24 | 詩集
 豊原清明個人詩誌「白黒目」を読む。
 豊原のことばには肉体がある。いつも肉体を感じる。自然な肉体を感じる。たとえば「今、春のロマン」の後半。

春の草に寝転んで
座っている少女たちの香りは
ベンチで一人見ている僕には
大きな自然の木。
僕は大きな体をした子どもだ
だから人に変に思われたり
無視される
でも僕は僕のやり方で
僕に春を来させるのだ、
ロマン
一夜にして億万長者
そんな野暮なロマンじゃなくて
飛びたい
出来ればバッタになりたいな。

 最後の行の「バッタ」に驚かされる。私の記憶のなかにはバッタは「秋」にしか存在しない。夏が終わり、体のだるさが残るころ、目の前の草原からバッタがからかうように飛んで逃げる。それが私にとってのバッタである。
 だが、今は春。豊原は、たとえば蝶にふさわしい季節にバッタになりたいという。
 四季という時間を飛び越えて、ただバッタの羽を細かく震わせて飛ぶバッタに。今生きている大地を思いっきり蹴って空中に飛び出し、力のかぎり羽を震わせる。
 この「ロマン」のなかに、健康な足、大地を踏みしめる足と、空気をかき混ぜる強靱な手がある。
 あるいは逆に読んだ方がいいのかもしれない。豊原には強靱な大地を蹴る足があり、空中をかき回す強靱な手がある。健康な肉体がある。だから時間を超越して、季節が春であってもバッタになることができる。肉体を出発点に時空を超えるという以上の「ロマン」はないだろう。
 たしかに豊原の「ロマン」に比べれば、億万長者などというのは貧弱な肉体と精神がしがみついている幻にすぎないということがわかる。

*

 俳句も6句掲載されている。

初春の四畳半のおせんべえ

初春のひげいく本も生えぬ僕

 「初春の四畳半のおせんべえ」が特に印象的だ。四畳半のど真ん中に寝転んで手足をのばす。独り占めにして、せんべいをかじる。初春の贅沢である。「初春のひげいく本も生えぬ僕」は「いく本も」にナイーブな肉体を感じる。未完成なものだけがもちうる不思議な広がりとあたたかさがつまっている。これが、やがてはじけて詩になる。
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La Mama

2006-01-28 21:45:02 | その他(音楽、小説etc)
OFF OFFブロードウェイの有名な劇団「La Mama」で「メジャー バーバラ」を見た。
NYtimesの批評は好意的なものだったけれど、うーん、70年代の日本の芝居を見ているような奇妙な感じ。(劇場の壁には、寺山修司の「天井桟敷」や鈴木忠志の「早稲田小劇場」、安部公房の「安部工房」が後援したときのものと思われる写真も飾ってあった)。NYtimesは歌舞伎の影響とか、鈴木メッソドとか書いていたけれど、何か勘違いしている。

役者の声が肉体になっていない。鈴木メッソドとは無関係。ただ単に表面をなぞっているだけ。
パフォーマンスそのものも、中腰、すり足がむりやり歌舞伎をなぞっているだけ。
なにより問題なのは現在と切り結んでいない。

「スペリング・ビー」は別に演劇手法として新しい試みをしているわけではないが、現在が「顔」を出す。(OFFブロードウェイで見た「happy day」も同じ)
やはり現代が顔を出さないと芝居の意味がない。

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spelling bee

2006-01-25 20:39:59 | その他(音楽、小説etc)
映画「綴り字のシーズン」のパロディーかな?
だったら飛び入りで参加したいなあ。「折り紙」はと聞かれてわざと「origamy」と答えたりしたら受けるだろうなあ。

芝居のおもしろいところはハプニングがおきるところだね。
舞台にあがった観客が、知らないだろうと脚本家が設定した質問に正解し、役者が困惑するところなんかおもしろい。背中にぶつけるはずのお菓子がコントロールミスで観客席にまで飛んでしまい、一瞬演技が途切れたいとか。

リアルタイムの話題が飛び出すところも愉快。
映画「ブレイクバックマウンテン」は早速取り上げられていて、ゴールデングローブ賞は「ブレイクバックマウンテン」が獲得(go)、ジョージ・ブッシュはブレイクバックマウンテンへ行く(go)などというしゃれなんかもあれば、「父は8回映画を見た」という内部告発(?)もあったりで、大笑い。

傑作でした。
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brokeback mounten

2006-01-24 14:36:37 | 映画
中国人監督が作る西部劇(カーボーイもの)ということで完成する前から話題を呼んだ映画。しかもカーボーイがゲイという異色作。
しかしこれはきわものではなく、とてもすばらしい作品。
brokeback mountenの自然が美しい。空気の透明感、冷たさまで伝わってくる。
冷え込んだ夜、テントのなかで体を寄せ合って眠ったことから衝動的に始まった二人の行為がやがて恋愛にかわり、深い友情にかわるまでを丁寧に描写している。山の中での伸びやかな感情の発露と、街での感情・欲望を隠した生活の対比や、二人の行為を目撃した妻の苦悩も切々と描いている。
この映画がなによりもすばらしいのは、友情を失ったあとで深く友情を意識すること、そしてその深みが肉欲を超えた恋愛に変化すること描いていることだ。この瞬間、heath ledgerの母親は二人の関係を受け入れる。息子にとってjack gyllenhaalが大切な人であったことを受け入れ、二人を受け入れていることを伝えることだ。
ang leeらしい、温かい感情が映画にとてつもない深みを与えている。
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幸せな日々

2006-01-23 14:29:27 | その他(音楽、小説etc)
ザ・プレイカンパニーの「幸せな日々」を見る。
ベケットの「幸せな日々」は舞台を見たことがないが、写真などで見ると女主人公は丘に埋まって身動きがとれない。
この劇団の脚本は一種の本歌取りになっている。(ポスターは砂山にうつぶせに眠る赤ん坊の上に星条旗が毛布のようにかけられている。)
女性が動けないという状態を女性の精神(感情)過去・現在・未来にわたって不動であるという風に置き換える。女性は戦争が嫌い、自分の子供が人殺しをしたり、殺されたりするなんてとんでもない、と考えている。
そうした女性の視点に、アメリカの男性(ブッシュ的男性)を向き合わせる。そのときアメリカ批判がおのずと浮かび上がる。
へー、ベケットは反戦思想を主題に含んでいたのか、とうならされる。
*
劇中、とてもおもしろいことば(シーン)があった。
主人公はストリートで祈る。世界が一瞬沈黙することを祈る。そしてその一瞬の後、ノイズが爆発する。とてもおもしろいと思う。で、夫に「想像できる?」と聞く。夫は「No, I cannot.」と返事をする。
その瞬間、それこそ一瞬の沈黙があり、ドラムが炸裂し、暗転。大1場が終わる。
あ、すばらしい。
*
最後はベケットそのもの。
息子「何をしているの?」
父「私たちは静かに座っている」
(間)
妻「何をしているの?」
夫「ただ立っている」
妻「なぜ?」
夫「座っている気持ちになれない」

全体として「忍耐」しているのは女か男かという日常の細部にこだわった芝居で、そのこだわりがだんだん積み重なって暴走する。(そこに米批判も浮かび上がる。)
すべての暴走は日常にあるということが浮かび上がる。
ベケットを読み返したくなる芝居だった。
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カポーティ

2006-01-22 12:19:42 | 映画
フィリップ・シーモア・ホフマン主演の「カポーティ」はカポーティが「冷血」を執筆中の様子が再現されている。
カポーティは、殺人者へのインタビューを通じて、彼自身の内なる「冷血」の部分を探り当て、共有するかのように殺人者と一種の恋愛感情に陥る。
しかし殺人者が最後に作家に浴びせた血はあたたかかった。
殺人者が被害者から浴びた血と同様、熱い刻印となって作家の肉体に刻印された。
血はいつでも熱い、という復讐に、カポーティは打ちのめされる。

フィリップ・シーモア・ホフマンは、カポーティの物まねを超え、人間の苦悩まで再現している。大変な熱演である。秘書を演じたカサリン・キーナーもとてもいいし、殺人者の役者(名前不詳)もよかった。
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高岡淳四「お父さん、ママチャリに乗る」

2006-01-20 00:14:25 | 詩集
 「妃」13号を読む。高岡淳四の「お父さん、ママチャリに乗る」がおもしろい。高岡淳四という詩人は頭がイタロ・カルビーノのように透明で軽やかなのだと思う。イタロ・カルビーノは現代文学の必要要素をいくつかあげていた。軽やかさ、スピード、ユーモアうんうん。私の印象では高岡はそのすべてを身につけている。

いえね、東京なんかではよくあることでして。錆がはえた自転車に乗っていると、お巡りさんに職務質問をされるんですよ、盗品ではないかって。
「署名すれば家に帰らせてやるから」なんて言われて差し出された紙に署名したせいで、窃盗歴がついていることに、ずいぶんと後になってから気がついた、なんてことが時々新聞に載っているではありませんか。

 妻が妊娠しており、車は妻がつかう。そのせいで高岡は錆びたママチャリに乗らざるをえない。それがいやであれこれ言い訳をする。それだけなんだけれど笑ってしまう。お巡りさんから窃盗歴までの、具体的で、後戻りしないスピードがすばらしい。高岡の文体はただひたすら前へ前へとゆるぎないスピードで進む。
 同時に、高岡は、彼自身のことばと他人のことばを対等に表現することができる。人の意見というものは、ほとんどどうでもいいことにこだわり、そのこだわりから一人の人間の視線では捉えられないものが浮かび上がる。それが高岡をちょっと困らせる。そこに笑いの火種がある。
 この笑いは、作品が展開するにしたがって深くなるとか大きくなるとかという性質のものではない。たんたんと同じ質で進み、展開する。これも非常におもしろい特質だ。軽いまま、深刻さにまみれることなく、ただ疾走する。
 あ、生活っていうのはそれが魅力だ。深刻は深刻でいいけれど、ただ軽いまま疾走する生活があっていい。

 高岡の文体の正直さ。たぶん私が一番高岡に魅力を感じるのはそれだ。高岡の正直さは、登場する誰の意見(ことば)にも優劣をつけない。同じ重さで受け止め、同じ軽さで反応する。登場人物が増え、発言が増えるたびに、高岡の現在が多面鏡のように世界を映す。その反射を高岡はまるで初めて世界を見るかのように再現する。
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三谷晃一「ゆうびん、し」

2006-01-19 00:39:00 | 詩集
 「宇宙塵」9号は三谷晃一追悼号である。同人が選んだ作品抄は三谷の温かい人格を伝えていて、どの作品もすばらしい。私が一番ひかれたのは次の作品。

  「ゆうびん、し」

「ゆうびん!」の声で
玄関に出ていく。

郵便配達人にもいろいろあって
無造作に郵便受けに突っ込んでいく人。
わざわざ玄関の扉をあけて置いていく人。
声をかける人。
かけない人。

何日おきかに一回
「ゆうびん、し」という人が来る。
なぜ「ゆうびん」のあとに「し」をつけるのか。
わたしの古い知り合いに
会話の尻に「し」をつける人がいた。
会津もかなり奥まった土地の人だ。

玄関の扉が開いて
「ゆうびん、し」の声が聞こえると
いそいそとわたしは出ていく。
しかしその時は
もう扉がしまっていて
その顔を見たことがない。
いつも思うのだが
語尾の「し」には不思議な暖かさがあって
彼が運んで来る郵便物には
よい便りがまじっていそうな気がする。

ほんとうは
よい便りなど
あったためしはないが。

いつかきっと
そんな便りを
彼がもって来てくれるだろう。

  ゆうびん、し。

 「ゆうびん、し」は現代風に言えば「郵便っす」(郵便です)だろう。「語尾の「し」には不思議な暖かさがあって」と三谷は書いているが、そこに「暖かさ」を見つけるところに三谷のあたたかさがある。そして「詩」がある。
 「詩」とは郵便配達人がかける「ゆうびん、し」の語尾の「し」のようなものである。「し」はなくても意味は伝わる。「し」を語尾につけなくても誰も苦情を言わない。(最近では「郵便」という掛け声さえまれだろう。)しかし、「し」を聞くと何かを思い出さずにはいられない。
 三谷は「会津もかなり奥まった土地の人」を思い出す。たった1行だが、ここには書かれていないたくさんのことがある。三谷は奥会津の風景を具体的に思い出しているに違いない。実際にそこで暮らしている一人一人の顔を思い出しているに違いない。山の緑、透明な風、揺れるススキ(と、突然ススキを持ち出すのは、私には「警察日記」の三国連太郎がススキの野原をかきわけるシーンが会津という言葉とともに思い浮かぶからだ)などなど。そしてそこにはあたたかな生活、正直で美しい何かがあるのだ。「郵便」とだけつげるのではなく、ほんのちょっとつけくわえる人の気持ちの美しさが。
 ことばの片隅に隠れている不思議なあたたかさ。人のこころの正直なうごきをひっそりとつたえる何か。気づかれなくてもいい。しかし、そっとつけくわえるその人のこころ。それが「詩」だ。

 そして、「し」にこめられた「詩」は人間を「腐敗」から救う何かである。「東京にいくと」と対比して読むと、三谷が「し」に読み取っているものが,より明確にわかるだろう。

なま暖かい東京よ。
なま暖かい思想よ。

(略)

そこでぼくはいうのだが。
網わたしの上でさかんに反っくり返る
烏賊に向かっていうのだが。
それは酒の機嫌がいわせるのだが。

----どうしてあんなところで
腐敗もしないで
きみは生きて来られたのか。

 「そこでぼくはいうのだが」で始まる連の、3回繰り返される語尾の「だが」のあたたかさ。それは「ゆうびん、し」の「し」に通じる人間のこころだ。「東京にいくと」を「詩」として成立させているのは、最終連の思想ではなく、その前に繰り返された「だが」の繰り返しである。

*

 「ゆうびん、し」に限らず、三谷は、他人の行為の奥にある命をていねいに見つめ、それに光をあてる詩人だ。遺稿「テレジン収容所に残された4000枚の絵」「地蔵櫻縁起」にその美しい人柄がにじんでいる。
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田原「梅雨」(つづき)

2006-01-18 00:58:12 | 詩集
 きのう1月16日に読んだ田原の詩が、まだ気にかかる。気にかかって落ち着かない。

 田原「梅雨」の不思議さはどこから来ているのだろうか。繰り返し読んでみたがわからない。そこに書かれていることばは日本語である。辞書を引かなければわからないことばなど、どこにもない。全部理解できる。理解できたつもりになる。しかし、ほんとうはわかっていない。ただ魅了される。

風にたわむ傘の上で口ごもる雨の滴りは

 この「口ごもる」の響きのやわらかさ、懐かしさは、こころを切なくさせる。
 しかし、その他の行は、私の日本語を洗い流してしまう。私の見ていたもの(日本語を通して見ていたもの)を消し去ってしまう。
 林嗣夫は「ぼくの目玉はやっとぼくの目玉になった」(『定本 学校』)と書いたが、私の目玉は私の目玉になることを迫られている感じがする。私自身の肉眼になれ、と迫られている感じがする。
 こんな不思議な印象は初めてである。

 田原という詩人は、もしかすると日本人ではないのかなあ、日本とは違うところで日本語を身につけた人なのかなあ、と思う。

*

 現代詩手帖1月号に、日本人ではない人の詩が載っている。W・N・ハーバード「真夏の夜の灯台」(熊谷ユリヤ訳)。

冬。高台の古い灯台が、潮風の言葉と
光の言葉を話す季節。すすり泣く
四角い塔の胴体から、一枚、また一枚と、
寒さの膜を脱いでゆく。

 「寒さの膜」という表現に私はびっくりする。えっ、そんなふうにことばは動かせるのかと驚く。だが、これはあまりに日本語と異質すぎて、日本語以外のことばを日本語に翻訳したものだと思い、奇妙な安心感も覚える。
 (私が書くなら「寒さの衣を脱いでいく」になるかなあ、と思ったりする。)

 田原のことばは、そういうものとは違う。まったく異質の文化のことばを翻訳したものとは違うような感じがする。熊谷訳のW・N・ハーバードの詩には、翻訳詩に共通する何かがあって、それが「寒さの膜」というようなことばにさえ、一種の安心感を与える。
 ところが田原の「垂直に落下する梅の香り」にはそういう安心感はない。
 どこかで何かが通じているはずなのに、その何か、私と田原を区別し、同時につなぐ何かが見えない不思議さがある。

 こう書きながら、私の書いている文章は、あ、これは感想でも、批評でも、なんでもないなあ、という気持ちになる。何もまとまらない、単なるメモ、私だけの「日記」のなかのメモ、という気持ちになる。

垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない

 この行を反芻するとき、私は田原の見ている風景を見ているのだろうか。見させられているだろうか。私自身がそれまで見てきたものを否定されているだろうか。何が何だかわからないが、私が見てこなかったものを見ている一人の人間がいる、という驚きになぜか震えてしまう。

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田原「梅雨」

2006-01-17 03:02:49 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 田原という詩人の名前も初めて出会う。初めて出会う詩人のことばは新鮮だ。

垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない

 この最初の1行に私は驚いてしまう。傘を差していたなら、思わず傘を放してしまうだろう。
 「垂直に落下する梅の香り」。私は梅の香りが垂直に落下するとは思ってみなかった。香りそのものが落下するものとは感じたことがない。
 私は急いで梅の記憶を歩き回る。梅は庭のすみにあった。親類の家には梅の畑があった。梅干しをつくるためのものだ。自給自足のための梅だ。私は青梅が好きだった。産毛が雨をはじき返している。その苦い実が好きだった。その香りは垂直に降ってなどこない。私の印象では水平に広がっていく。だからその香りを嗅ぐためには、固い枝をむりやり引き下ろすか、実を引きちぎるしかない。

 雨は垂直に降る。香りも垂直に振れば、雨には濡れない。これは論理的なことではある。しかし、そうした「論理」とは違った何かが私を驚かす。


風にたわむ傘の上で口ごもる雨の滴りは
シルク・ロードを旅したがっている
濡れたのは足元から消えた地平線だけ

 どの行にも驚いてしまう。日本語なのに、ひとつひとつのことばは全部理解できるのに、そこで展開する世界は、私が一度も見たことがないものだ。現実に、という意味だけではなく、どんな文学作品のなかでも出会ったことがない。

山は風のこだまを隠して
スポンジのように雨水を貪婪(どんらん)に吸い込む
木の葉は思いきり雨粒を浴びながら緑を深めていく
空の奥にくすぶっている太陽はみずからの裸を待ちあぐむ
かびが密かに月の裏側にはびこっていくうちに
朽木はキノコの形を構想している

 「シルク・ロード」「地平線」という大陸を超え、宇宙に飛んだ視線は、突然キノコに戻ってくる。

 この言語の宇宙は、どんな場所で育まれてきたのか。どこからこんな自由を獲得してきたのか。
 北川の自由とも林の自由とも違う。
 私のまったく知らない自由がある。

 こうした作品に突然出会うので詩を読むのがやめられなくなる。

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林嗣夫『定本 学校』ほか

2006-01-16 10:22:33 | 詩集
 林嗣夫『定本 学校』(ふたば工房)を読む。ことばの自由が、北川の実践とは違った形でおこなわれている。タイトルどおり学校の様子、先生の姿、変化していく生徒たちの姿が描かれている。エッセイのようであり、報告書のようであり、日記のようであり、それでいて「詩」でしかないと感じさせる。
 なぜだろう。

 ところがある朝、ぼくの目玉はやっとぼくの目玉になった。ぼくの顔に居すわって、やっとまわりを眺めはじめた。

 「ぼくの目玉」で見つめれば、そして、そこで見つめられたものが「ぼくの目玉」をとおって自分の体のなかに入ってくれば、そこには「ぼく」の世界が広がる。

 北川は、たぶん「ぼくの目玉」も日本語の歴史・古典に拘束されている。支配されている。自由であるかどうかはわからない、と考えるかもしれない。確かにそうかもしれない。目玉は意識していないが、日本語と同様、「視線」にも歴史・古典はしのびこんでいる。そうしたものから自由な「視線」というものはないかもしれない。
 北川は、そうした目に見えない(意識しにくい)文体と格闘している。それは華々しく、かっこよく、「あ、詩はこうしたものでなくてはならない」というひとつの姿を提示している。

 林は、そうした北川の方法とはまったく別の方法で「自由」を手に入れる。
 「ぼくの目玉」と林は書いているが、林の描く世界は「ぼくの目玉」(ぼくの視線=ぼく)が統一する世界ではない。統一しているかもしれないが、その統一には強制力がない。
 林は積極的に他者、とりわけ「生徒(中学2年生)の目玉」(生徒の視線)を「ぼくの目玉」のなかへ取り入れる。他者を受け入れ、他者が「ぼく」を攪拌していくのに身をまかせる。いや、ことばをまかせる。
 中学2年生のことばは、大人の部分と、まだどこにも属していないふにゃふにゃの、しかしふにゃふにゃだからこそ、エネルギーでしかないものを持っている。それをそのまま林は受け入れる。エネルギーにどっぷり身をひたし、その発露に身をまかせ、流されてみる。
 ある流れ、たとえば夏の川の冷たい水の流れに乗る。ただ流されている肉体を感じる。そのとき確かに肉体は流されているのだが、ああ、気持ちがいい、自由だ、解放されている、というゆったりした気持ちにもなる。空も雲も木々も鳥やセミの声も私の外部にあるのではなく、私と一体になっている、と感じる。
 自由とは、自分と外部との境界を取り払い、一体になることなのだ。

 林の描いている「自由」とは、そうした自己と外部の境界をするりとくぐりぬけて、いままでとは違った統一感のなかに再生することなのだ。


授業とは、人と人とがデートすること。人が木に、鳥に、へびに、町に、ことばに……会いに行くこと。死者に「こんにちは。」とあいさつすること。そして教室とは、それら物たち、生きものたちの、待ち伏せの場所だと。

 「授業」を「詩」にかえれば、林の「詩」のすべてが納得できるだろう。

 私たちは何とも出会うことができる。自分の目玉で対象をしっかり見つめ、見つめられ、あいさつする。つまり交流する。そうして一体感を楽しむ。
 そこから何が始まる?
 いままでの私ではなかった私が生まれてくる。それが「詩」だ。林の作品はことばのなかで完結しない。ことばの発せられた現場「学校」そのもののなかで「詩」になる。

 そして、たぶんそういう「詩」のなかで何か基本的なことがあるとすれば(守らなければならないものがあるとすれば)、「あいさつ」だろう。
 誰でも「こんにちは」は形式としてなら言える。しかし自分の目玉で相手を見つめ、相手に自分の目玉を見つめられ、見つめるという行為をとおしてこころを通わせる、つまりそのときの相手のこころに出会い、なにごとかを一緒になって感じるという「あいさつ」は難しい。
 さらに、あいさつには「こんにちは」だけではなく、「ばかやろう」もあれば「大好き」「大嫌い」もある。そこが難しい。出会えたつもり、「あいさつ」したつもりが、しっくりこないこともあるのだ。


(この原稿、未完。五月という季節の幻想をまとめようとしたが、うまくいかなかった。)

 という文章が「7 五月」という章の終わりに出てくる。その「未完」のなかにこそ、林の「詩」があると言うべきか。
 人が出会い、あいさつする、交流する。その世界におわりはない。常に生成が繰り返される。

*

 江代充「冬の日」(「現代詩手帖」1月号)。

スズメは木の列には寄らず
背後に隣接した石垣の平らな上限に
白っぽい小粒な列をなして降りていた
四羽目と五羽目のあいだに一羽分の隙が空いていても
それはもともとその様なおおよその並び方なので
とくにその事を気にする者はだあれもいないのだとかれは思った

 「かれ」と「わたし(わたしたち)」(作品の二行目に登場する)の関係の複雑さのなかに「詩」がある。
 スズメの列の間に一羽分の隙があると気がついたのは「かれ」なのか。「わたし」なのか。「かれ」は気がつき、同時に「とくにその事を気にする者はだあれもいないのだ」と思った、という書くとき、それは「かれ」の事実なのか、「わたし」が「かれは」そう思っていると想像したのか。

 林の描く融合、他者との一体感とは別の、孤独な一体感というものがある。ことばもなく、視線もかわさず、したがって「あいさつ」もない。互いが互いのまま孤独を生き、孤独を確認する。真の孤独の一体感は、そんなふうにしか成立しない。想像の中だけで、実践されなかった「あいさつ」が、実践しなかったということを確認するという不思議な一体感。
 それが江代の「詩」の形だ。
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北川透「スクラップ通り」ほか

2006-01-15 22:56:10 | 詩集
 「現代詩手帖」1月号を読む。(引用はすべて「現代詩手帖」から)

 北川透「スクラップ通り」。ことばはどこまで自由になれるだろうか。過去をふりきれるだろうか。過去・歴史・古典が日本語を縛る力だと仮定して。

棘だらけのラ行の網を
大きく広げて掛けてやろうか
あの背中に遺恨の袋を背負った悪い主題に
あのノスタルジックでヒロイックな黄金の沈黙に
むかしのおまえのろくろ首に

ぎりりぎりりとラ行の腕を巻いて
骨が砕けるまでぶちのめしてやろうか
ララララララの雨が降るまで   (ラ行の雨)

 「網を/大きく広げて掛け」る。これは普通の日本語である。「動詞」というと奇妙だけれど、人間の行動を描写した部分には、どうしても日本語の文法、肉体がしのびこんでくる。「背中に(略)袋を背負った」も同じである。「腕を巻いて」「骨が砕ける」「雨が降る」にも普通の日本語が混じってくる。
 気がつけば「遺恨の袋」「悪い主題」「ノスタルジック」「ヒロイック」「沈黙」にも、そのことばを貫く日本語の郷愁のようなものが漂う。
 違和感がない。つまり「詩」がない。
 ここに北川の苦悩、北川のことばの苦悩、つまり「詩」があると思う。

 北川のことばは日本語の歴史・古典・教養をいつでも再現してしまう。それを破りたいという欲望が北川にはある。破ることで「詩」を噴出させたいという強い欲望がある。それを感じる。欲望のなかに「詩」を感じる。

 「棘だらけのラ行」「ラ行の腕」「ララララララの雨」。ここには日本語の歴史・古典はない、と一瞬、錯覚する。まだ日本語になっていないものがある、と一瞬だけ錯覚する。未知の「ことば」、つまり「自由」という「詩」があるように錯覚する。
 しかし、「の」ということば、その強靱な「格助詞」の力が、やはり歴史・古典として立ち上がってくる。

 だからこそ、北川は書き続ける。書き続けるという行為のなかにしか「詩」は存在しないと知っているからだ。



 瀬尾育生「あなたは不死を河に登録している」。瀬尾のことばは、北川のことばに比較すると、翻訳の日本語の文体を引き継いでいるように感じられる。

壁の絵に沿って兄たちが歩いて行った道で変形した弟が振り返る。

 こうした行、特に「変形した弟」は、北川が書かないことばだと思う。私の印象では、もし北川が書くなら「変形する弟」になる。確定した存在ではなく、今も不定形に動詞が内在するのが北川のことばだと思う。少なくとも私は、そうした動詞の内在に対して抗い、ことばを自由にしたいと欲望しているのが北川の姿に思える。
 瀬尾は、やはり北川のように、自分をしばることばの歴史・古典を振りほどき、自由になろうとしているのかもしれない。文体を整えるのではなく、逆に、不完全にするという方法をこの詩では試みている。

だがあのときだがあのとき私をだがあのとき私を傷つけたのは私を傷つけほんとうは私自身のたのはほんとうは私自身のほんとうは私自身の殺意だったんじゃ殺意だったんじゃないかしらね

 しかし、これでは「だがあのとき私を傷つけたのはほんとうは私自身の殺意だったんじゃないかしらね」という文体以外の何者も立ち上がってこない。逆に、瀬尾の背負い込んでいる翻訳文体の強靱さだけが印象として浮かび上がってしまう。

 どうすれば、自由なことばを獲得できるのだろうか。疑問が残る。その疑問のなかに「詩」があるのだろうけれど、私には、その先がよくわからない。

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北爪満喜「青い影・緑の光」ほか

2006-01-14 13:41:04 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 北爪満喜「青い影・緑の光」。

 くっきりしていると葉の影は葉の延長で実体化しているみたいだということが、見間違いのすぐあとで言葉となって枝を伸ばした。

 この書き出しは魅力的だ。現実と観念がことばのなかで出会って混じり合い、世界を彩っている。こうしたありようを北爪は自覚している。だから、詩は次のようにつづく。

ということは、ワタシはこと葉という葉をはやした木のようなものにいくらか返信しているのかもしれない。青がすきだというときすこしだけ緑をふくんでいるワタシのいろは、この四季のある気候のなかで息をしていることくらいしぜんに混じりこんでいる。

 「混じりこんでいる」。これが北爪の「詩」である。混じりこんでいるものを、自分の側にあるものと他者の側にあるもの(自己以外の側にあるもの)に静かに振り分け、その差異をていねいに見つめる。ことばにする。差異の中へことばの枝を伸ばしていく。
 そして、たとえば「うどんがみずいろになったら、茹であがりだよ」と語った祖母もまた、現実と観念が「混じりこんだ」世界で枝を伸ばしていた木だったかもしれないという共感につながっていく。
 北爪にとって、人間とは(あるいは「詩」とは)、現実の対象とことばを混じり合わせて、その交じり合いの中、混じり合いながら差異をつくっているものの中で着実に育っていくものなのだ。

*

 現実とことばはいつでも「差異」とともにある。「差異」を意識しながら、その「差異」のなかに生きていくのが「詩人」というもののひとつのありようだろう。
 入沢康夫の「我らの煉獄」の書き出し。

いまし方 眉間を割られて横たはつた巨豚の
やけにぶよぶよと白い 霊魂を連れて
(いや 当方がいつのまにか連れ出されて)
どこまでも どこまでも 紫がかつた靄のなかを歩く

 3行目「(いや 当方がいつのまにか連れ出されて)」という意識的な自省、現実描写の訂正に「詩」がある。
 ことばを借りて現実の深層へ降りて行く。同時に、それがほんとうにことばの力で自分でおりていったものなのか、あるいはことばに誘われる形で入沢が引き込まれ、見せつけられたものなのか。この二つは、本当は区別がつかない。
 北爪は冷静に混じりこんでいるものを引き離してみせるが、入沢は逆に、その混じり合いそのもののなかに身をまかせる。ことばをまかせる。
 「詩」は自分で書くものであるが、同時に自分で書くのではなく、自分以外の何か不思議な力によって書かせられてしまうものなのだ。

どこまで続く これは道なのか
(果たして道なのか これが)
ぶよぶよの豚にも…… 況んや私には……
まるきり分からず
ただもう やみくもに歩いて行く

 「やみくも」をささえてくれるのが「詩」を書かせてくれる何かの力である。
 こうした力の前で、たとえば池井昌樹は放心する。放心したままことばを発する。それが池井の詩であるが、入沢は放心しない。目を凝らし、その力を見つめる。見極めようとする。入沢の詩が物語的「構造」を常に内包してしまうのは、「構造」を描くことで「詩」を書かせるもののありように接近したいと熱望するからだろう。
 何者かが存在する。そのとき存在を生成する「構造」がある、と入沢は考えているのかもしれない。

*

 ことばは誰のものか。北爪は「それぞれのワタシ」のものと言うだろか。入沢は「自分のものであるか絶対者のものであるか区別がつかない」と言うだろうか。
 そんなことを思いながら「手帖」を読んでいたら、松本邦吉の「緑の歌」に出会った。

言葉は畢竟
死者たちのものだから
人は言葉を覚え
いつしか死者たちと話ができるようになる

 だが、その「話」とはどんなものだろうか。
 作品中、もっとも私が美しいと感じたの次の行だ。

緑の渚に緑のひかりの  なみ  なあみ  なみ
    みどりのなみ なみ なあみ なみ なあみい
    みにくいなみ  なみなあみなみ なあみ なみ
    みえないなみなああああみ なあああみ なみ
    みはてぬなみ なみ なみ なああみ なみ

 松本は「うぶごえにも似た波の音のように」と書いているが私には「なみあみだぶつ」に聞こえる。祈りの声に聞こえる。「なみあぶだぶつ」は他者の冥福を祈っているのか、他者の冥福を祈ることで今の私のありように平穏(平静)を呼び戻そうとしているのか、私には区別がつかないが、波の音に自己と他者を混じり合わせ、今、ここではない別の場所をただよう感じがする。
 そして、この瞬間、不思議なことに、この行にだけ「肉体」を感じる。松本の他の行、たとえば「わたしくしの死はわたしくには無関係のひとつの歌声」という美しい行にしても、そこから実際に「歌声」(声帯の響き)は聞こえてこないのに対し、「なみ」「なあみ」の繰り返しからは幾人もの「なみあぶだぶつ」の声が聞こえてくる。冥土も地獄も観念として認識しないまま、いや観念として認識はできないが現実として認識してしまい、おそれおののき、ただ口の中で一心不乱に繰り返す人の声が聞こえてくる。地獄をみつめながら極楽をめざしてひたすら歩く人の姿が見える。
 こういう行を読むと、ことばは、わけのわからない現実をわけがわからないまま、それでもひたすら生きている人のものに違いないと思ってしまう。

 「詩」は、そういう人たちと、どう向き合えるのだろうか。

 私の感想は、松本が書こうとしたことと関係がないかもしれない。松本の作品に対して何を言ったことにならないかもしれない。
 ただふいに、そんな疑問がわいてきた。

 北爪の作品には肉体を感じた。肉体があって、同時に観念もある。その二つを混じり合わせて現実に向き合い、自分を見つめているという感じがする。
 だが、松本のことばには、何かしら松本の肉体を感じることができない。そして、それがいいことか悪いことかはわからない。


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