詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇372)Obra, Javier Aranguren Ispizua

2023-06-29 14:06:18 | estoy loco por espana

Obra, Javier Aranguren Ispizua

(un poema inspirado por las fotos de Javier)

 En cuanto te vi en aquella esquina, en cuanto mis ojos se cruzaron con los tuyos, pensé en el éxtasis que me estabas provocando. Me pregunté cuánto duraría el éxtasis. Cuando esa ansiedad se burló del éxtasis, el éxtasis se hizo aún más fuerte. Me olvidé de mí, dejé de ser yo. Mis manos son tomados, desechados, se convierten en otras manos. En tu mano. Mis labios son tomados, descartados, se convierten en otros labios. En tus labios. El dolor y la erupción de algo más allá del dolor. La erupción de lo que erupcionas, la furia de lo que erupcionas, recorre mi cuerpo, desbordándose de las heridas de la privación de mi cuerpo. En un momento no me importa dejar de ser yo, no me importa lo que me ocurra, y al siguiente estoy sumido en un dolor absoluto. Te has ido. No estabas en cualquier lugar. Incapaz de soportar la fuerte luz, cierro los ojos, y en el momento en que vuelvo a abrirlos, está demasiado oscuro para ver nada. Cuando por fin mis ojos se adaptan a la oscuridad, ya no estás. Las sábanas estaban despeinadas, como los numerosos carteles de aquella esquina de la calle, extendidos sobre los grafitis, las películas antiguas, los conciertos y las exposiciones. Las sábanas estaban despeinadas y onduladas, como después de un tiempo gigantesco pasado salvajemente.

 あの街角で君を見た瞬間、君と目が合った瞬間、君が与えてくれる恍惚を思った。恍惚はいつまでつづくのかという不安が、恍惚にからみつくとき、恍惚がさらに強くなった。私は私を忘れ、私ではなくなった。私の腕は奪われ、捨てられ、別の手になる。君の手になる。私の唇は奪われ、捨てられ、別の唇になる。君の唇になる。痛みと、痛みを超える何かの噴出。君が噴出したもの、激しいものが私の体を駆けめぐり、私の肉体が奪われたときの傷口からあふれる。私が私でなくなってもかまわない、どうなってもかまわないと思った次の瞬間、私は絶対的な悲しみのなかにいる。君がいない。強い光に耐えられず、目を閉じ、再び目を開いた瞬間、暗くて何も見えなくなる。やっと目が暗闇になれてきたら君はいなかった。あの街角の、落書きの上に張られた何枚ものポスター、古い映画やコンサートや展覧会のポスターのように、シーツが乱れていた。巨大な時間が乱暴に過ぎ去ったあとのように、シーツが乱れ、波打っていた。

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日本語を教える、あるいは教えることをとおして学ぶ(2)

2023-06-28 23:21:26 | 考える日記

 「翻訳コース」の生徒のつづき。日本語のニュアンス、使い分けを知りたい(論文を書くときの参考にしたい)ということなので、ベルグソンの「笑い」、ボーボワールの「アメリカその日その日」をテキストに、ことばの使い分け、文体の工夫などについて考えた。
 たとえば、ベルグソンは「検討」と「研究」をつかいわけている。(訳文は、つかいわけている。)

(1)先覚者たちの考えを徹底的に検討し、
(2)いくつかの研究が発表された

 (2)を「いくつかの検討が発表された」とすると、すこし違和感があるかもしれないが、(1)が「先覚者たちの考えを徹底的に研究し」であっても、違和感は少ないだろう。しかし(1)は「検討」と書いている。どう違うのか。
 「検討」は「研究」を含むのである。そして、「検討」は、そこに書かれていることの「当否」を検討するのである。「比較検討」ということばがあるが、そこには何かを比較し、選ぶ、という動きがある。
 だからこそ、(1)の文章は、「笑いに関する理論のしかるべき批判を打ち立てるべきではないかとも考えた」とつづいていく。「検討し」「批判を打ち立てる」。「批判する」よりももっと強いことばがつかわれている。どの「笑いの理論」が的を射ていて、どの「笑いのす理論」が間違っているか、はっきり識別する。
 「検討する」ということばには、そういう「論理展開」が準備されている。それを踏まえてことばが動いているから、「文体」にスピードが出て、強く響いてくる。こういうことも、どのことばを選ぶかということには重要な問題である。
 いま、追加で書き加えた文章の中の、

(3)笑いに関する理論

 この「理論」は「論理」とどう違うか。「理論」はまとまったひとつの体系。「論理」は考え方(思考の動かし方、ことばの動かし方。だから、たとえば「理論」はアインシュタインの理論(相対性理論)というようなつかい方をするが、アインシュタインの論理、相対性論理とは言わない。これは、セロリーとロジックのような関係。フランス語では、日本語ほど字面(音)が似ていないから混同しないが、日本語学習者は混同する危険性が高い。

(4)意識的に、あるいは暗々裏に、

 「暗々裏」は「ひとに知られずに(隠すように)」とか「内々に」とか「秘密に」という意味を持っているが、これは「意識的」にしかできないことである。だから「意識的に、あるいは暗々裏に」というときの「あるいは」は単なる「別の何かの提示」をするときの「または」とは違う。しかし、「または」とも言い換えることもできる。
 ここには皮肉というか、批判をこめた「強調」がある。
 気づくひとは気づくだろうが、気づかないひとは気づかないだろう。しかし、私は書いている、という意味がふくまれる。

 ボーボワール「アメリカその日その日」は、もっとおもしろい例がある。

(5)幾筋かの光の刷毛が、赤や緑の信号灯のきらめく地面をさーっと掃く
(6)あっという間に赤い滑走路照明灯が地べたに叩きつけられる

 「地面」と「地べた」。ボーボワールがフランス語でつかいわけているかどうか。フランス語では、どういうことばがつかわれていると思うか、と質問しながら、日本語を考えるのだが。
 私の感覚では「地べた」は肉体と深くつながる。地面に倒れた、地べたに倒れた、を比較すると「地べた」の方が肉体の記憶が強く呼び覚まされる。倒れたときの感情が強くよみがえる。
 ボーボワールは、私にとっては、論理的であると同時に、いつも「女の肉体」を感じさせる何かがある。それが、たとえば、この「地べた」ということばにある。訳者が、ボーボワールの「文体」(ことばの動くときの調子)を再現しようとしているのだと思う。

(7)祝祭の晩、夜のお祭り、私の祭りだ。

 この文章のおもしろさは、おなじ意味のことばが繰り返されること。「晩」と「夜」。「祝祭」と「祭り」。これは、受講生も気づいている。この似たことばの動きのなかで、最後に「私」が浮き上がってくる。
 このリズムも、翻訳のときは、とても重要だろう。
 「祝祭の晩、晩の祝祭、私の祝祭だ」では、いきいきした感じがぜんぜん伝わってこない。「文体」は、作家の命である。

(8)表情にそう書いてある。

 これは、フランス語なら「表情に出ている(あらわれている)」という感じになると思う、と受講生が言った。そして、「なぜ、書いてある、ですか? 描いてある、という漢字ではないのですか?」(書くと描くのつかいわけを、受講生は知っていて、そう質問する。)
 「表情にそう書いてある」はさっと読みとばしてしまうが、もっと日本語らしく「翻訳」するならば「顔に書いてある」だろう。訳者は「顔に書いてある」ということばを思い出したけれど、それをそのままつかってしまうと、あまりにも「日本人の感覚」になる。だから、ボーボワールが日本人ではないということを、意識的に、あるいは暗々裏に気づかせるために「表情に」と訳しているのだろう。そして、その「表情」は、たしかにフランス語を「直訳」したものなのだろう。訳者は二宮フサだが、そういう配慮ができる訳者なのだろう。
 
 こんなことを書きながら思うのは。
 私は、「思想(意味、内容)」が好きなのではなく、その「結論(要約)?」の細部を支えることばの選択にこそ関心があり、そこにこそ「その人の思想=生き方、肉体」を感じているんだなあ、ということである。
 思想の意味は、みんな、おなじ。「どうしたら人間は幸福になれるか」ということを考え、答えをその人なりに出している。ほかの「結論」なんかは、ない。だからこそ、「結論」ではなく、その「過程」で動いていることばの在り方だ重要なのだと思う。「ことばの肉体」ということばをつかうとき、私は「こそばそのものの肉体」と同時に「ことばにまぎれこんだ人間の肉体」を感じている。ボーボワールは、私は日本語でしか読んだことがないが、彼女のことばにはいつも「肉体」がまぎれこんでいる。
 追加で書いておく。

 


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Estoy Loco por España(番外篇371)Obra, Javier Messia

2023-06-26 20:23:44 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia

(las fotos me dan insiración, y me hace un poema)

 Recuerdo que me dijo que me mirara en el espejo. Me dijo que mirara mi nuevo reflejo en el espejo. No sabía cómo era este lugar hasta que llegué a esta habitación. Cuántos pasos tengo que dar antes de comprender lo que irá a pasar y lo que había pasado. Para quitarse los calcetines, hay que quitarse los zapatos. Para quitarse la camisa, hay que desabrochársela. Entonces, ¿qué tengo que hacer? El intelecto me dice que espere. El deseo me dice que trabaje.
 Cuando mirar en el espejo, me veo en el espejo. Cuando mirar en el espejo, veo un cuadro en el espejo. Cuando mirar en el espejo, ¿veo el reflejo de lo que sé, pero no quiero admitir? ¿O veo el reflejo de la imagen que quiero que veas?
 La habitación antes de venir yo, la habitación después de venir yo. ¿Qué reflejaba y refleja el espejo? ¿Quién notará la diferencia?

 鏡を見ると、鏡を見ていろと言われたことを思い出す。鏡に映し出される新しい姿を見ていろ、と。この部屋に来るまで、ここがどんな場所か知らなかった。何が起きるのか、起きたことを何なのか理解するまでに、どれだけの過程をたどらなければならないのか。靴下を脱ぐためには、靴を脱がなければならない。シャツを脱ぐためにはボタンを外さなければならない。それから何をすべきか。知性は待てという。欲望は働きかけろという。
 鏡を見ると、鏡のなかに私がいる。鏡を見ると鏡のなかに一枚の絵がある。鏡を見ると、知っているけれど、認めたくないものが映るのか。それとも、見てほしい姿が映るのか。
 私が来る前の部屋、私が来たあとの部屋。鏡が何を映したか。だれが違いに気づくだろうか。

 

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マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)

2023-06-24 15:27:07 | 映画

マリヤム・トゥザニ監督「青いカフタンの仕立て屋」(★★★★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月24日)

監督マリヤム・トゥザニ 出演 ルブナ・アザバル、サーレフ・バクリ、アイユーブ・ミシウィ

 映画は青い布のアップからはじまる。まっすぐにのばされた布ではなく、ゆったりとしか襞がある。そこにはつややかな部分と、反対に暗い部分がある。それが布なのに立体的なものを感じさせる。
 このアップが特徴的なように、この映画はアップの連続である。私が見ることができるのは、ふつうは見ることができないアップばかりである。アップの周辺には、それにつながるさまざまなものがある。それは個人の肉体のひろがりであり、また、個人を含む社会(世界)のひろがりなのだが、この映画は、まるで「世界」から「個人」を切り離し、個人の世界の複雑さを描くと宣言しているように見える。そして、実際、そうなのだ。「社会」もたしかに描かれるが、あくまで「個人」が中心。個人の内面が中心なのだ。
 とても象徴的なシーンがある。「解釈」がさまざまに分れるに違いない思うシーンがある。ミカンを盛った籠がある。古くなって、皮が白くかびたものがある。白いかびは発生していないが、傷み始めたミカンもある。その籠のなかから、ルブナ・アザバルは傷んでいなさそうな一個を選んで皮をむく。口に含む。おいしいだろうか。苦みがあるかもしれない。しかし、それを食べる。彼女の口のなかで、どんな味がひろがり、それを受け入れるとき、彼女は何を感じるのか。
 これが、すべててである。彼女はひとつのミカンを選ぶように、ひとりの男を選んだ。それは、どんな味か。その味は彼女にふさわしいか。それがどんな味であれ、彼女はそれを受け入れた。
 もうひとつ象徴的なシーンがある。
 ひとはだれでも間違ったことをする。たとえば彼女は、アイユーブ・ミシウィが布を盗んだと勘違いする。自分が間違っていたのに、それを認めることができない。アイユーブ・ミシウィが盗んだのではないとわかったあとも、黙っている。間違っていたことを、隠そうとさえする。しかし、最後には「許して」と誤る。それは、謝罪というよりも、なんだか間違ってしまった自分を受け入れる姿にも見える。相手に誤っているというよりも、自分自身に対して誤っているようにさえ見える。
 間違っていたことを認め、謝罪する。そうしないかぎり、ひとは「個人」にはなれない。
 この「個人」というのは、たぶん、イスラム教の「個人」である。だれかに対してではなく、「神」に対しての「個人」。私はイスラム教徒ではないから、確信があるわけではないのだが、どうもイスラム教の神と人間(個人)の関係は、ほかの神との「契約」とは違う感じがする。「神」に対して「個人」として契約し、神に対し申し開きが立つなら、それは何をしてもいいのだ。
 これを端的にあらわす(表現している)のが、死んでしまったルブナ・アザバル、白い装束で清められたルブナ・アザバルに、サーレフ・バクリは白い装束を脱がし、青いカフタンを着せる。ルブナ・アザバルが結婚式に着たかったと言った、完成したばかりのカフタンである。この青い衣裳は、イスラム教の戒律に背く。しかし、それを承知でサーレフ・バクリは、それを着せる。彼女は戒律を破ったのだ。戒律を破ることで、サーレフ・バクリを受け入れたのだ。
 サーレフ・バクリは彼女が戒律を破ることで彼を受けれいたこと(肯定したこと)をはっきり知っているからこそ、戒律を破って新しい世界へ踏み出す。アイユーブ・ミシウィとふたりで、青いカフタンをまとったルブナ・アザバルの遺体を墓地へ運ぶ。墓地が、その青い衣裳のルブナ・アザバルを受け入れるかどうかはわからないが。
 この映画は、イスラム教ではタブーとされる男の同性愛と、それをみつめる女を描いているのだが、二人の男ではなく、ルブナ・アザバルがそれを破って見せるところに非常に深い意味がある。現実問題として、映画に描かれているように、男たちはすでに戒律を破っている。サーレフ・バクリが何度も、同性愛者があつまる浴場へ出かけるシーンが描かれている。その、一種の裏切りを受け入れることはルブナ・アザバルには苦しみでもあるだろう。しかし、その「苦いもの」を受け入れ、受け入れることを、自分自身に許す。「神」に許しを求める前に、自分で許す。
 ここには、私の想像をはるかに超える「女の自立」というものが描かれている。女の自立と、イスラム教の関係、女と神との、一対一の「契約」が表現されていると思う。「自立」とは、どういうことか、が描かれている。イスラム教は、こうした女の視点から、もう一度強く生まれ変わるかもしれない。イスラム教というと、保守的な女性蔑視の視点が問題視されることがあるが、そこで主張されるイスラム教は「男のイスラム教」であり、「女のイスラム教」ではない。マリヤム・トゥザニ監督の「モロッコ、彼女たちの朝」は気になりながら見逃してしまったのだが、「青いカフタンの仕立て屋」は見に行ってよかった。
 イスラム教をアメリカナイズされた視点で見ていると、いま起きている大事なものを見落としてしまうに違いないと思った。「アップ」されたものをとおして、まず見るべきものは、「アップ」でしかとらえることのできない「個人」である。安易に、「全体」のなかへ「個人」を埋め込んではいけない。

 

 

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深町秋乃『柔らかい水面』

2023-06-23 17:19:53 | 詩集

 

 

深町秋乃『柔らかい水面』(土曜美術社出版販売、2023年05月10日発行)

 深町秋乃『柔らかい水面』を読みながら、私は、非常に不思議な気持ちになる。過去に引き戻された気持ちになる。
 詩集の最後に「デッサン」という詩がある。そして、その最後の数行は、こうなっている。

不自由な表象が
やがて、輪廻の果てに
焼き付いたら
曖昧な境界線は失われ
ようやく溶け込む
世界の、投影

 「輪廻」ということばを私がはじめて読んだのは高校のときだった。池井昌樹が何という詩か忘れたが「輪廻」ということばをつかっていた。いまの池井と違い、じめじめ、ぐちゃぐちゃした汚らしい世界を書いていた時代だ。黴の匂いのする詩を書いていた時代だ。なぜ、そんなことを覚えているかというと、その「輪廻」が読めなかったからだ。読めなかったけれど、そこには暗い何かがあって、私は、ぞっとしたのだ。
 で、それが深町の詩とどういう関係があるかというと。
 意味、イメージではなく、その「輪廻」というこばそのものが、何か、半世紀以上も前の世界へと私を連れて行ってしまうということが、関係がある。ことばが、みんな、古いのだ。遠い昔に読んだ(聞いた)ことばとして、私の前にあらわれてくる。そこに書かれていることばをはじめて読んだのはいつか、と記憶をたどると70年代にたどりついてしまう。
 「デッサン」という詩にある「新しさ」、あるいは「いま」は、何?
 「やがて、輪廻の果てに」「世界の、投影」という行にある読点(、)か。たしかに、そういう読点のつかい方は、私は半世紀前には知らなかった。でも、この読点の存在から「いま」を語るのは、私には難しい。

 ことばが古い。それは「落ち着いている」ということでもある。こういう落ち着き方が、「いま」から見ると「新しい」のかどうか、私にはよくわからない。私には、「古い」としか感じられない。
 「春」の書き出しは、こうである。

習いたての言葉を閉じ込めた
わたしの幼い真空管を割ったら
たちまち夜に座礁する
無数の文字たちが

 「真空管」を知っているひとは、いまは、何人いるだろうか。いまの若者は真空管を見たことがあるだろうか。
 この詩集ではなく、この一連が一枚の紙に印刷されていたのだとしたら、私はこのことばを半世紀以上前の詩だと思ったに違いない。「幼い真空管」の「幼い」のつかい方。「座礁」「無数の」「文字たち」は70年代の詩に散らばっていると思う。少なくとも、私の記憶のなかでは、それはすべて70年代の詩のなかにある。
 巻頭の詩「a calm」。

ずっと
見つめているとわたし
ただの円柱になってしまうから

 「円柱」がとても美しく、いいなあ、と思うが。しかし、同時に、私はその「円柱」に、たとえばギリシャのパンテノンの「円柱」という「ことば」を重ねてしまう。そのとき、やはり、私は「過去」を思い出すのである。「円柱」ということばが、だれそれの70年代の詩にあるかどうかはわからないが。もしかすると、もっと古い時代(西脇の初期?)かもしれないが。
 こんなことを感じるのは、もしかすると深町の書いている「円柱」が、実際に存在する円柱というよりも、「記憶」の円柱だからかもしれない。
 どの作品も「現実」から生まれてきた詩というよりも、私には「詩の記憶」から生まれてきたもののように思える。

 

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇370)Obra, Calo Carratalá

2023-06-23 09:46:39 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá
Noche de luna en Saint-Louis; Senegal 2023. Lápiz graso sobre cartón Kraf, 18 cm x 32 cm

 Nunca he estado en Senegal. Sin embargo, siento que conozco este paisaje nocturno.
 He escrito "paisaje nocturno", pero no es exacto.
 Siento que conozco esta "NOCHE". Aquí existe la noche misma. Existe una noche que ha continuado más allá de nuestra historia. Suena contradictorio, pero lo nuevo sólo está en el "pasado". Esta noche no es la noche de hace 10 o 1000 años, sino la noche de hace 100 millones de años, cristalizada como un diamante, que fue descubierta por Calo y existe aquí "ahora". Y ha atravesado el "ahora" y seguirá existiendo en su pureza en el futuro. Eso refresca la memoria.
 No es que yo conozca esta noche. El instinto humano que llevo dentro, el ADN que me conecta, conoce esta noche. Lo que siento es así. Creo que aquí se representa el AND de NOCHE.

 私はセネガルに行ったことはない。それなのに、私はこの夜の風景を知っていると感じてしまう。
 夜の風景と書いたが、これは正確ではない。
 私はこの「夜」を知っている、と感じてしまう。ここには、夜そのものがある。私たちの歴史を超えてつづいている夜がある。矛盾した言い方になるが、新しいものは「過去」にしかない。この夜は10年前、1000年前の夜ではなく、1億年前の前の、ダイヤモンドのように結晶した夜であり、それはCaloによって発見され、「いま」、ここに存在している。そして、それは「いま」を突き破って、これから先も純粋なまま存在し続ける。それは、記憶を新しくする。
 私がこの夜を知っているのではない。私のなかにもある人間の本能が、私とつながるDNAがこの夜を知っている。それを感じる。ここにはDNAが描かれている、と。

 

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白井知子「裸婦像」ほか

2023-06-22 21:58:57 | 詩(雑誌・同人誌)

白井知子「裸婦像」ほか(「Jeu」創刊号、2023年06月19日発行)

 白井知子の「裸婦像」。

うつむく首
まだ堅さののこる胸をつたい腰へ
その心拍だけを聴きとろうとするかのように
早春の淡い光が
そっと 押さえつけていた

 これは完成した裸婦像なのか、制作途中の裸婦像なのか。一瞬考えるのだが、「制作中」ということばのある二連目を挟んで、三連目は、こうつづく。

彫塑家のあなたの
深淵から指先 手の動きに求められ とどこうとした像
これまで 触れることのない
呼びさまされた生命力の
源泉が ふさわしい形をえて立っている
量感を濾し
ずっと 独り
そこにいたような在りかたで

 「手の動きに求められ とどこうとした像」。このことばが強く、美しい。粘土が(と、仮定しておく)、彫塑家の指、手を感じ、粘土の方で動き始める。彫塑家ひとりではつくることができないものが、こうやって生まれてくる。「芸術」の誕生の不思議な一瞬をとらえている。
 「呼びさまされた生命力の/源泉」は彫塑家がつくったものというよりも、粘土のなかに生きていた女が彫塑家のために自らさらけだしたものである。彫塑家をさそっている。裸婦の、女の、「自信」のようなもの、「誇り」と言えばいいのかもしれない、それが、「在りかた」として、そこに存在している。
 いいなあ、と私は、思わず声を漏らす。
 そして、その詩のつづきのようにして、もう一篇「二月の雪」という作品がある。

雪が降りしきる
病院の廊下
独り言をささめいている女
しんとした静けさに あなたは象られ
気息は悲しみを蒐めていた

「わたしが産んだ赤ちゃん
 死んでいたなんて嘘よ」

 この女が、突然、前に読んだ詩の裸婦像のモデルになってしまう。この悲しむ女のために、彫塑家は像をつくっているのかもしれない。この悲しみをのりこえるために、女は裸婦像になっているのかもしれない。
 もちろん、そんなことは、どこにも書いていない。
 私が「誤読」しているだけである。
 「誤読」しながら思うのである。
 ことばとは、(あるいは詩とは)、「過去」を新しくするのである。いままでなかったものをつくりだすのではなく、すでにあったけれど、違った意味だったものを「つくりかえる」のが詩なのである。
 赤ん坊を死産した女。彼女は、これから、どう生きるか。それは「二月の雪」に白井の祈りの形で書かれているけれど、それは、とおりいっぺんの祈りを超えて、何か、「生命力の源泉」を掘り起こすものかもしれない、と私は想像するのである。
 そうあってほしいと、私は思う。
 私の「祈り」は残酷かもしれない。死産した女に、そういう願いを託すのは残酷かもしれない。
 しかし、「裸婦像」の三連目、

深淵から指先 手の動きに求められ とどこうとした像
これまで 触れることのない
呼びさまされた生命力の
源泉が ふさわしい形をえて立っている

 を読むと、そこには、何か、ゆるぎない女の「生き方」(あり方)が提示されているとしか思えない。

 

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇369)Obra, Jose Miguel Palaci

2023-06-22 10:25:22 | estoy loco por espana

Obra, Jose Miguel Palaci

 Jose Miguel, esta escultura me recuerda al ORIGAMI (la papiroflexia). 
 De niño me enseñaron una flor de lirio terminada. Pensé en el procedimiento de plegado, seguí plegando y finalmente la flor se abrió. La mano, el papel y la flor se convirtieron en "uno". 
 Jose es un pintor superrealista. ¿Cómo creó este "origami"? ¿Cuántas veces dobló el papel, lo abrió y lo volvió a doblar? Dentro de esta escultura (origami) se esconden sus recuerdos de aquella época. Debió de seguir doblando el papel con placer. Puedo oir su alegria como música rítmica, al imaginar los movimientos de sus manos doblando el papel.
 Hay una extraña emoción en esta obra cuando una cosa (una hoja de papel) cambia y se convierte en algo completamente diferente (un objeto tridimensional). Me  viene el deseo de doblar el papel y hacer esta forma cuando miro esta obra.

 Jose Miguel の、この彫刻は折り紙を連想させる。紙を折って、この作品を折ってみたいという欲望が生まれる。
 こどものころ、私は百合の花の完成品を見せられた。折る手順を考え、折り続けていくと最後に花が開いた。手と紙と花がひとつになった。それを思い出した。
 Joseはスーパーリアリズムの画家だが、どうやってこの「折り紙」をつくったのだろうか。何回紙を折り、何回開き、また折ったのか。この彫刻(折り紙)の内部には、そのときの記憶が隠されている。彼は、きっと、楽しみながら紙を折り続けた。そのときの紙を折る手の動きがリズミカルな音楽になって聞こえてくる。
 この作品には、あるもの(一枚の紙)が変化してまったく別なもの(立体)になるときの、不思議な興奮がある。紙を折って、それを自分の肉体に取り込みたいという欲望にかられる。
 

 

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日本語を教える

2023-06-21 15:03:03 | 考える日記

 きのうの生徒は「翻訳コース」の生徒。翻訳といってもジャンルによってことばが違うので、何を求めているのか、何を教えればいいのか、実はわからなかった。学校のカリキュラムに従って「小説」などの読解をすることにしたのだが。
 一回目に読んだ「海辺のカフカ」は、生徒の求めているものとは違っていた。「ノンフィクション」の「翻訳」を目的としている、という。二回目は、新聞・雑誌の日本語に触れた。新聞の読み方(見出しを読んで本文を推測する、見出しに助詞などを補い短文にする)を勉強したのだが、これも、何かピント外れな感じがする。授業が終わったあと、次回(つまり、今回)の相談をした。フランス人なので、フランス語から翻訳されたものを読むのもいいかもしれないと思ったが、それでは「日本語」にじかに触れることにはならない。それで、中井久夫がバレリーについて書いた文章、あるいはプルーストについて書いた文章を読んでみようということになった。
 そして、今回。
 「思索」ということばに出会った。意味がよくわからないというので、あれこれ説明していると、突然。
 「思考、思索、思想はどう違うのか。どうつかいわけるのか」
 という質問があった。
 実は、こういうことを知りたかったらしい(学びたかったらしい)。
 大学院生で、いま、論文の準備をしている。そのとき、たとえば、ある文脈で「思考」ということばをつかうべきなのか、「思索」ということばをつかうべきなのか、あるいは「思想」を選択すべきなのか。
 マルクスの思想とは言っても、マルクスの思索とは言いにくい。マルクスの貨幣に関する思索、となら自然に言える。思想は、いわば全体像をさすが、思索はある部分を深く掘り下げるときにつかう。研究に近いか。思索の索は索引の索であり、検索の索でもある。全体をおおうというよりも、やっぱり追求するに似ている。これは、長い間いろいろな文章を読んでいる内に自然につかみ取るもの。区別を意識するのは、多くの文章に(ことばに)触れる人だ。
 そうだねえ。
 論文を提出したら、「ここは思想ではなく、思索」という具合に注意されても、それだけではなかなかわからない。それが知りたかったのか、と驚いた。
 中井久夫の文章のなかに出てきた、実存主義、構造主義(もう古いか)はすぐに理解できるし、ヴァレリーはもちろん(「カイエ」や「若きパルク」を含む)、ヴォーボワール、ソシュール、デリダ、ラカンもわかる。しかし、おなじ中井久夫のエッセイでも「けやき」について書かれたものがわからない。木の名前がわからないし、どの木のことを描いているかわからないから、描写が「映像」にならない。けやきを知っている日本人なら、その美しい描写に感動するが、感動できない。
 ことばは「簡単(日常語に近い)」ければわかる、「難解(学術語)」ならわからない、ということはないのだ。むしろ「学術語」の方になじんでいることもあるのだ。
 
 似たようなことは、他の生徒にも感じた。
 林達夫をいっしょに読んでいるのだが(林達夫の文章には特に難解なことばがでてくるわけではないのだが)、何度もつまずく。そして、そのつまずいた部分を説明するのが、非常にむずかしい。林達夫は、なんというか、「趣味人」で、日常のささいなことを非常に細かく掘り下げて、いま起きている問題点を描き出す。現実の細部から出発し、その細部の「根本」にまでさかのぼり、そこから「いまの現実」を再構成することで、現実の問題点をダイナミックにとらえ直す。だから、とても、おもしろい。「鶏を飼う」など、非常におもしろいが、それは鶏の種類、餌の種類、あるいは餌の流通がどうなっているかなどがわからないと、ちんぷんかんぷんである。いちどでも鶏を買ったことがある人なら納得ができるが、そうでないと馬鹿馬鹿しいエッセイに見えてしまうだろう。林達夫の「思想」の「深み」、「思考」の「運動」のダイナミックな切れ味がわからないだろう。

 どんなことばを生徒が求めているか。それを把握しないと、語学の指導はむずかしい。日本語検定の問題などは、いかに受験生を不合格にするかを狙っているとしか思えないものが多い。いまどき、「拝啓」につづき、時候のあいさつを書いて、そのあと「本題」にはいるというような手紙の書き方をする人はいない。それに、教えている先生にしても「前略」はともかく「草々」は知らない、見たこともないという人がいる。それなのに(そういう人がちゃんと働いて給料をもらっているのに)、外国人にそういう日本語をもとめるなんて、「日実用的」だろう。

 ときどきアルバイトをするだけだが、いろいろなことがわかるのが、やはり働くことのおもしろさだなあ。

 それにしても。
 「私は、こういうことをするために、こういう日本語が習いたい」と正確に言えるなら、日本語学校へなど来ないだろうなあ、と思う。つまり、学校の方で、生徒の「要望」をていねいに引き出すことが必要なんだと思う。

 

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇368)Obra, Joaquín Llorens

2023-06-20 10:10:12 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 

  En un libro, la palabra significaba "愛=amor". En un rincón de la ciudad, en un terreno baldío creado de repente por la demolición de un edificio, crece una sola brizna de hierba. Una hierba sin flores, sólo hojas. El cielo de junio bajaba desde el edificio de al lado, y al otro lado pude ver la escalera de incendios del edificio, que antes no había podido ver. La hierba espera a que alguien la mire.
 La misma escena, pero en otra versión traducida del libro, significa "哀=tristeza". Un hombre sale a la escalera de incendios y fuma un cigarrillo. Un trozo de hierba ha salido de algún lugar de la esquina de un descampado creado de repente. El viento la mueve y se balancea cuando pasa un coche. Puede que florezca. "Espero a que florezca", piensa el hombre.
 En el otro libro se hablaba de las diferencias de traducción, y se afirmaba que "soledad=孤独、KODOKU" y "lectura errónea=誤読、GODOKU" suenan muy parecido en japonés. Tanto 愛 como 哀 se leen como"AI". También se decía que el hombre se preguntaba si leía mal porque se sentía solo, o si se sentía solo porque leía mal.

 

  ある本のなかで、そのことばは「愛」を意味していた。都会の片隅、ビルが壊されたために突然できた空き地に、一本だけ生えている草。花をつけていない葉っぱだけの草。六月の空が隣のビルからおりてきて、向こう側には、いままで見えなかったビルの非常階段が見えた。草は、だれかが見つめてくれるのを待っている。
 おなじ情景なのだが、翻訳された別の本のなかでは「哀」という意味になっていた。非常階段に出てきて、男が煙草を吸っている。突然できた空き地の角に、どこからかやってきた一本の草。車が通ると風が動き、揺れる。花が咲くかもしれない。花が咲くまで、待ってみよう、と男は思った、という文章がつづいていた。
 もうひとつの本では、その翻訳の差異を取り上げ、孤独と誤読は、日本語では音がとても似ている、と書かれていた。孤独だから誤読するのか、誤読するから孤独なのか、とも書かれていた。

 

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長田弘「その人のように」ほか

2023-06-18 23:08:49 | 現代詩講座

長田弘「その人のように」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年06月05日)

 長田弘、寺山修司の詩と受講生の詩を読んだ。

その人のように  長田 弘

川があった。
ことばの川だ。
その水を汲んで、
その人は顔をあらった。

草があった。
ことばの草だ。
その草を刈って、
その人は干し草をつくった。

この世界は、
ことばでできている。
そのことばは、
憂愁でできている。

希望をたやすく語らない。
それがその人の希望の持ち方だ。

木があった。
ことばの木だ。

その木の影のなかに、
その人は静かに立っていた。

 4連目に注目する受講生が多かった。「この世界は、/ことばでできている。と言い切るところが印象的」「憂愁ということばに引きつけられた」「4連目と5連目に強い意味はないのではないのか。レトリックではないだろうか」「最後の2行に、希望を感じる」
 私は質問してみる。
 「4連目は、だれのことばだろうか」
 「その人」
 「では、5連目は?」
 「長田弘」
 「その人、は生きている? 死んでいる?」
 (詩集のタイトルが『死者の贈り物』だったので、あえてこう質問した。)
 「生きている人」「死んでいる人」と分れた。
 ここから、もう一度4連目に戻る。「この世界は、/ことばでできている。」はたしかに印象的だが、「ことば」という表現は、すでに2連目から登場している。川はことばにすることによって川になった。ことばは世界をつくる。その人は「ことば」で世界を把握し、ことばに自分自身を関係づけている。さらに「ことば」を「憂愁」に関係づけている。「憂愁」をふくまない「ことば」はない、ということだろうか。

 1連目は、あらった、2連目は、つくった、最終連は立っていた、と過去形で終わる。しかし4、5連目は、できている、持ち方だ、と過去形ではない。もし、その人が死んでいるのだとしたら、ここは過去形。と、簡単に言うことはできない。死んでいたとしても、そのひとのことを強く思い出すとき、その思いは「過去形」ではなく、現在形として動くだろう。意識(感情)が動くとき、いまと過去の区別はなくなる。
 あるいは。
 もしかすると「その人」は死んではいなくて、過去の長田の姿(生き方)かもしない。自分を振り返っていると読むこともできるだろう。
 「希望をたやすく語らない。/それがその人の希望の持ち方だ。」という2行には、矛盾が含まれているが(自己撞着があるが)、この自己撞着というものが「憂愁」かもしれない。
 「憂愁」は最後の「影」とも重なる。

 詩の構造は、起承転(転)結という形になっている。3連目だけでは言い足りなくて、4連目にもう一度「転」を追加した感じで、それが詩の奥行きをいっそう深めている。そして、それは「批評」になっている。
 だからこそ、いろいろに読むことができる。

かなしみ  寺山修司

私の書く詩のなかには
いつも家がある

だが私は
ほんとは家なき子

私の書く詩のなかには
いつも女がいる

だが私は
ほんとはひとりぼっち

私の書く詩のなかには
小鳥が数羽

だが私は
ほんとは思い出がきらいなのだ

一篇の詩の
内と外とにしめ出されて

私は
だまって海を見ている

 詩を持ち寄った二人は申し合わせたわけではないのだが、この詩は長田の詩と通じるものがある。長田の作品には「ことば」が繰り返された。寺山は「詩」を繰り返している。この「詩」は「ことば」と言い直すことができるかもしれない。
 「後半に登場する小鳥が印象的。何の象徴だろうか」「5連目と6連目の間に飛躍がある。そこがおもしろい」「6連目が気になる」「7連目が気になる。どこにいるのか、意味がわからない。抽象的」「最終行が、あまりにも詩的すぎる」
 長田の詩には、何か論理的(散文的)な印象があるが、寺山の詩は「論理」が見えにくい。
 この詩も起承転結の詩。二連ずつで一組になった起承転結。
 「そう読んだ上で、何か、気づくことある?」
 なかなか返事がなかったが。
 最終連には、それまでつかわれていたことばが、つかわれていない。つかわれていないことばは、ふたつある。ひとつはそれぞれの「組」の最初の行の「なか」。
 「一篇の詩のなかには/内と外とにしめ出されて」では、それこそ意味が通じなくなるから「なか」がない。「内と外とにしめ出されて」ということばを手がかりにすれば「なか」は単なる「内部」ではなく、それこそ「抽象的」なものである。「なか」は「場」であり、「時間」かもしれない。
 「思い出(過去)」が嫌いといった瞬間に、消えてしまうような何かかもしれない。
 もうひとつ「だが」というこばもない。
 最後の連には、どんな否定もなく、ただ存在の「肯定」がある。「きらい」なものがあるかもしれないが、それをふくめて受け入れている「私」という存在を感じる。
 最後の1行は、カルメン・マキが歌った「ときには母のない子のように」を思い出させる。

****

場  青柳俊哉

太陽が一つ 空にある 
枯葉一枚 空をふかれていく 
浜辺に群生していた芒はやかれた 
貝の未知の深さへ 潮水は降りていった 
裸木にとまっていたエメラルドの小鳥 
わたしはそれらの中にある 

たおやかな場 
眼にはみえないところで  
波のようにつづくわたし 
光を超えて 記された文字 
真空の果てにうかぶ
綿毛のような感情

就寝  木谷 明

明るいので外へ出ました
空は水のようでした
ほんとうに こうもりが とんでいる
ほんとうに こうもりが とんでいる
 
足のつかない学校のプールに沈んで
沈んで
見てた
それが時間というのなら
つづきはここまで

 青柳と木谷の作品も、どこか長田、寺山の詩に通じるものがあるかもしれない。いや、ほんとうは、それはないのかもしれないが、作品をつづけて読んでくると、どうしても先に読んだ詩の印象が紛れ込むことになる。
 それは、どういうことか。
 寺山の「詩」は、長田の「ことば」に置き換えられないか、と私は感じたが、青柳と木谷の詩では、そういう「置き換え」が可能なことばはないだろうか。
 もちろん書いた人には、書いたことばが絶対であって、他のことばへの置き換えは不可能なのだが。
 「たおやかな場」と「それが時間というのなら」は、「たおやかな時間」「それが場というのなら」と言い換えられないだろうか。というより、私は、言い換えて読んでみたい衝動にかられるのである。
 青柳の「場」、木谷の「時間」は、客観的な存在というよりも、何か抽象的な「思い」という感じがする。ことばにしないと存在しない「場」と「時間」。長田の詩の「ことばの川」のように。ことばにすることによってはじめて存在するものだからこそ、その「ことばにする」という行為のなかで、交換の可能性のようなものが動くのかもしれない。
 詩とは、すでにそこにあるものを「ことば」をつかって再現するというよりも、「ことば」によってそれを「つくりだす」ものなのだと思う。そこに作者のどんな体験(感情)がふくまれているにしろ、それは「ことば」によって鍛えられ、動き出すものなのである。

 

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇367)Obra, Calo Carratalá

2023-06-18 22:47:53 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá
Manglares región de Casamaces / Senegal. Lápiz graso sobre cartón Kraf. 18 cm x 32 cm. Año 2023

 ¿Cómo podemos describir el tamaño de la obra de Calo? Esta obra mide 18 x 32 cm. Sin embargo, me imagino  un cuadro enorme.
 El no está mirando el espacio delante. Es decir, no está recreando un espacio real. Pinta el mismo tema (o paisaje, o objeto) una y otra vez. Cuando hace esto, el espacio se amplía gradual pero constantemente en su concentración.
 La gente suele concentrarse cuando mira objetos pequeños. Calo es diferente. Al concentrarse en un paisaje grande, entra en el interior de su tamaño y lo agranda desde dentro. Aquí se expresa la "infinitud" del poder mental de su concentración.
 Sus cuadros son incluso más grandes que el espacio de la realidad.

 Caloの作品の大きさを、どう表現すればいいのだろうか。この作品は18×32センチである。しかし、私は、巨大な絵を想像してしまう。
 彼は、目の前にある空間を見つめているのではない。現実の空間を再現しているのではない。何度もおなじ題材を描く。そのとき、彼の集中力のなかで空間が少しずつ、しかし着実に拡大していく。
 ひとは一般に小さいものを見るとき集中する。大きいものを見るときは意識が拡散する。Caloは違う。大きいものに集中することで、その大きさの内部に入り込み、それを内側から拡大する。ここには集中する精神力の「無限大」が表現されている。
 彼の絵は、現実の空間よりもさらに大きいのだ。

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村上春樹の日本語

2023-06-17 21:45:56 | 考える日記

村上春樹の日本語

 私は外国人に日本語を教えるとき、村上春樹の小説をつかうことが多い。とても便利だからである。村上春樹の文体には「繰り返し」が多い。そして、そのことが日本語を教えるのに好都合なのである。
 「繰り返し」の特徴のひとつの「述語」の省略がある。
 きのう読んだ「シェラザード」の最後。わかりやすくするために省略された述語の部分を(***)で示しておく。

 羽原は目を閉じ、シェラザードのことを考えるのをやめた。そしてやつめうなぎたちのことを想った。石に吸い付き、水草に隠れて、ゆらゆらと揺れている顎を持たないやつめうなぎたちを(1***)。彼はそこで彼らの一員となり、鱒がやってくるのを待った。しかしどれだけ待っても、一匹の鱒も通りかからなかった。太ったものも、痩せたものも、どのようなものも(2***)。そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 (1***)は「想った」、(2***)は「通りかからなかった」。ともに、直前の文章の末尾の熟語を省略している。重ねて書くと「うるさい」ということがあるのかもしれないが、それなら文章をふたつにわけずにひとつにすればいいのだが、そうすると長くなる。だから、こんな「工夫」をしている。
 これがどうして日本語を教えるのに有効かというと。
 日本語の会話は(会話だけではないが)、最後まで聞かないと意味がわからないというがほんとうはそうではなく、途中まで聞けば末尾は推測できる。その末尾の推測能力を鍛えるのに、とても役立つのである。
 末尾を推測するというのは、そんなに複雑なことではなく、日本人ならだれもが自然にやっていることだが、外国語の文体は「動詞(述語)」が主語につづいて、文頭近くに出てくるので、それを推測するということには、外国人はあまり慣れていない。
 「(1***)のあとには述語(動詞)が省略されているけれど、それは何?」
 と、私は生徒に質問する。さっと答えられたら、その生徒の日本語能力は高い。これは日本人相手にやってみても、きっと有効な「能力検査」になる。じっくり読めば、わかる。そうではなくて、即答できるかどうか。
 私が教えている18歳は、これができる。読めない漢字がいくつかあるが、これは「知識」の問題。述語の推測は「知識」ではなく、「理解能力」の問題。彼は、それをクリアーしている。

 この「シェラザード」の末尾には、村上春樹を教材に使う別の理由もある。最後の文章。

そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 この文章は、小説を読み慣れた人なら「そしてやがて日が落ち」まで読めば、「(あたりは)深い闇につつまれていった。」が推測できる。「常套句」で成り立っている。村上春樹の小説は「常套句」の宝庫である。「そしてやがて日が落ち」まで読み、それにつづくことばを推測できれば、これは完全に日本語をマスターしているといえる。
 私は生徒にここまで質問はしないが、推測できるようになれば、きっと村上春樹の文体が、たまらなく「退屈」になる。私は、退屈で仕方がない。だから、村上春樹の小説は嫌いだが、日本語教材としては、とてもいい。だいたい「語学教材」というのは、退屈なものだ。

 もうひとつ、村上春樹の「文体」の特徴に、ちょっと「わかりにくいことば」をつかったあとは、必ず、それを「説明する」というものがある。「わからなことば」に出会っても、つづけて読んでいけば、その「意味」を推測できる。
 「木野」という小説に、妻を寝取られた男(木野)が登場する。木野は、妻の浮気に気がついていなかった。浮気現場を目撃して、はじめて気がつく。
 そのあと、こんな文章。

木野はそういう気配にあまり聡い方ではない。夫婦仲はうまくいっていると思っていたし、妻の言動に疑念を抱いたこともなかった。もしたまたま一日早く出張から戻らなければ、いつまでも気づかないまま終わったかもしれない。

 この文章の「聡い」ということばは、かなりむずかしい。しかし、末尾の「いつまでも気づかないまま」が、それをていねいに説明している。(余分なことだが、さらに、このあと段落をかえて、実際に妻の浮気の現場が描写されるのだが、これもまあ、なんというか、想像力を刺戟しないというか、即物的(説明的)である。
 村上春樹は、細部まで即物的に説明しないと何が起きているか(主人公が何を感じているか)、理解できないと思っているのかもしれない。
 脱線したが、「わからないことば」に出会ったとしても、一文を全部読ませる。ときには、一段落を全部読ませる。そのうえで、「聡い」の意味をどう考える?と問いかければ、上級の日本語学習者なら推測できる。そういう推測ができるような「文体」が村上春樹の特徴である。

 きのうは、もうひとり38歳とも村上春樹を読んだ。「海辺のカフカ」。彼は「語感」が鋭くて、日本人がしないような質問をする。新潮文庫の17ページに「薄手の服」ということばが出てくる。「薄い服」ではなく「薄手の」。
 「薄い」と「薄手」はどう違うか。「最近の若い人は、薄いというでしょ?」。まあ、「薄手」よりも「薄い」の方が通じるかもしれない。「手」は何を意味しているか。手でさわった感触である。そして、それは「感触」というよりも、なんというか「肉体の参加」である。そこには「親身」というのに近い感覚がある。
 おなじ「手」のつかい方は、おなじページの次の文章の中にある。

 15歳の誕生日は、家出をするにはいちばんふさわしい時点のように思えた。それより前では早すぎるし、それよりあとになると、たぶんもう手遅れだ。

 「手遅れ」と「遅い」の違い。「手遅れ」の方が「親身」である。抽象的(物理的)というよりも具体的、実感的である。先に「肉体の参加」と書いたが、「手」は「実感」を代弁しているのである。
 この38歳は、ここに注目すると同時に、いま引用した文章の「想われた」にも注目する。「思った」ではなく「思われた」。「思った」は主幹、「思われた」には、どこか客観的なもの(主体だけではないという印象)がある。そして、彼はここから、この小説の主人公は15歳の設定だが、どこか父親の意識を引き継いでいると指摘する。
 とても、鋭い。
 彼もまた漢字の読解には問題があるのだが、小説の読解については、問題はない。むしろ、私の方が耳を傾けなければならないとさえ感じる。

 漢字の問題については、ちょっとおもしろいことがあった。「木野」のなかに「寡黙」ということばが出てくる。その意味を、18歳は「寡占」と結びつけて、「完全に沈黙しているわけではないが、それに近い沈黙」と定義した。「寡占はほとんどだが、独占なら完全。寡占の寡があるから、そう思う」。
 この「推測」は完璧。
 私は常に漢字熟語が出てきたときは、それぞれの漢字を含む別の熟語を紹介することで、意味を「ふくらませている」のだが、18歳には、これができる。だから、「読む」ことはできないくても「理解」(推測)ができる。
 「語学」というのは、結局、「推測能力」のことだと思う。村上春樹の文体とは直接関係ないが、書いておく。

 

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇366)Obra, Antonio Pons

2023-06-15 17:50:50 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons

 La obra de Antonio es a la vez simple y compleja.
 Las cosas sencillas pueden combinarse de distintas formas. Ahí reside la libertad. La fuerza que sólo puede ejercer quien ha llegado a una forma simple puede moverse libremente. Ahí nace el tiempo. En otras palabras, la vida se expande.
 La música se compone de melodía, ritmo y acordes. Triángulos, círculos y líneas rectas. ¿Cuál de ellos es melodía, cuál ritmo y cuáles acordes? Es imposible saberlo, pero de esta unión surge una misteriosa joya de silencio, algo que nunca antes había existido. Estos "momentos" se condensan en esta obra.

 Antonio の作品は、シンプルで複雑だ。
  シンプルなものは、いろいろな形に組み合わせることができる。そこに自由がある。シンプルな形にたどりついたものだけが発揮できる強い力が、自由に動くことができる。そこに充実がある。そこから時間が生まれる。つまり、いのちが膨らんでいく。
  音楽は旋律とリズムと和音で構成される。三角形と、円と、直線。そのどれが旋律で、どれがリズムで、どれが和音か。判別できないが、その結合から沈黙という不思議な宝石、いままで存在しなかったものが飛び出す。その「瞬間」が、この作品に凝縮している。

 

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フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)

2023-06-14 14:35:45 | 映画

フランソワ・オゾン監督「苦い涙」(★★)(KBCシネマ、スクリーン2、2023年06月13日)

監督フランソワ・オゾン 出演 ドゥニ・メノーシェ、ハリル・ガルビア、イザベル・アジャーニ

 ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイク?で、原題は「PETER VON CANTO」。タイトルからわかるように、女ではなく男が主役。
 映画ではなく、舞台劇のようなものだが、でもやっぱり映画になっている。映画の特徴は、顔が大写しになること。どんなに近くで見たって、あんなに大きな顔は見ることができない。つまり、顔が「生き生き」していたら、「生き生き」した顔を見ることができれば、それは映画なのだ。
 ドゥニ・メノーシェが、これを、とても大袈裟に演じている。若い男を見た瞬間に、目つきが変わる。他人からどうみられているかを気にしないで、若い男に集中している。なんというか、これは、もう「映画作り」そのものを見ているようなおもしろさがある。
 映画で、私がいちばん不思議に思うのは、カメラがあんなに近づいているのに、まるでカメラがないかのように表情を動かせることである。舞台では、観客は離れている。舞台の上に観客が上がってくるということは基本的にない。しかし、映画は、そのカメラは人格を無視したように近づいてきて、その顔をアップでとらえる。
 このときの、俳優の、というよりも監督の欲望のようなもの(あるいは、これは俳優との確信的「共犯関係」なのかもしれないが)が、ドゥニ・メノーシェがハリル・ガルビアのカメラテストをするシーンに象徴的に描かれている。カメラをとおして、その巨大なアップで独占する。それは、俳優の余力を拡大して伝えるというよりも、自分が見つけた美を独占的に宣伝するようなものなのだ。「これは私のものなのだ」と宣言するのが映画(映画監督)なのだ。彼には、自分の欲望と、自分が見つけ出した「美」以外は認識できない。
 つまり。
 といっていいかどうかわからないが。
 この、「わがまま」が映画であり、この「わがまま」を描くのは、やっぱりフランスがうまい。フランス人の「個人主義」はイギリス人の個人主義と違い、あくまでも「わだまま」の主張である。彼らフランス人は、だれもが「舞台の主役」となって、世界を「わがまま」で動かしていこうとする。
 だからね、というもの変だけれど、笑いださずにはいられないくらいぴったりの歌が主人公に寄り添い、感情を肯定する。「わがまま」を肯定する。「わがまま」に酔っている姿を、ほら、こんなに気持ちがいいという具合に見せつける。
 おなじ演劇(舞台)でも、イギリスの「芝居(シェークスピア)」とは大違い。「ことば」にドラマがあるのではなく、ドラマはあくまで「感情」にある。「ことば」は「音楽」と同じよう、彩り。
 こんなことを書いていいのかどうかわからないが、バレエから「音楽」が消えて、だけをみせられたら何をやっているのか不思議に見えると思う。同じように、フランスの「わがまま(芝居)」から、「ことば」をとってしまうと、何をやっているかわからないだろう。フランスの「わがまま芝居」には「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」のような「ドラマ」がない。フランスの「芝居」を知っているわけではないが、私は、この映画を見ながら、そんなことを思うのだ。
 脱線してしまったので、もとに戻ると。
 青年に捨てられた男が、壁に飾った拡大された男の顔(写真)をなぞりながら、男を思い出す。拡大されたもの、しかも自分で拡大したものだけが「真実」なのである。これがフランス人の「わがまま」を端的に象徴している。拡大されないもの、等身大のものは「真実」ではない。これを、ドゥニ・メノーシェが、笑い死にしてしまいそうになるくらい、これでもか、これでもか、と見せつける。若い男が「一日中、いちゃいちゃしていられない」というのに、男が「していられる」と叫ぶところなんかは、傑作である。
 イザベル・アジャーニは、年をとっても加賀まり子と大竹しのぶをあわせたような顔のままだった。かなり、こわい。加賀まり子が? 大竹しのぶが? 私は「混同」する。似ているわけではないが、この三人は実に似ていると思う。本人たちの「実像」を知っているわけではないが。

 

 


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