詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(76)

2005-11-29 15:08:33 | 詩集
那珂太郎『俳句と人生』(東京四季出版)

 飯島耕一との対談のなかに蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすヽかな」が出て来る。このすすきを白い穂になったすすきと読んだ上で那珂太郎は次のように発言する。

普通は重いというほどの重みを感じないのを、「はらりとおもき」と言ったところが面白いとおもうんですけどね。  (127ページ)

 私もそう思う。「はらりと」は副詞。ものが軽く落ちたり、散らばったりするときにつかうことばだ。もともと「重き」とは対極にある。相反する二つのことばが出会って、いままで気がつかなかった存在を浮かび上がらせている。ここに「詩」がある。

 この蛇笏の句の鑑賞に限らず、那珂太郎が対談集でとりあげている話題は、ことばの奥(ことばの広がり)をどう読むかという視点だ。
 その奥を、たとえば那珂太郎は「謎」と呼んでみたりもする。(真鍋呉夫との対談)その謎を別のことばで飯島耕一は次のように言う。

年代が僕らよりあとになるほど、何というか、味とか、香りとか、色とか、僕らが詩というものに対して、最も大きく関心をもつ、その一番根にある、色と匂いと響きでもいいかな、そういうものがだんだん無くなってきて。  (120ページ)

 ことばの「色・匂い・響き」。飯島はそうしたものに「詩」を感じている。
 別のことばで言えば、それは日本語の「伝統」のなかに生きている人間の感覚というものだろう。
 ひとつのことばには必ずそのことばに対応した現実がある。そして、その現実はほんとうは一つではなく個人個人の体験によって微妙に違っている。その違いが積み重なって(対話、読書などを通じて)、ことばに奥行きをつくる。



 黛まどかとの対談で、那珂太郎は黛の句を深読みしている。(その深読みのすべてが私の深読みともほとんど合致する。)それと同じことを、私は蛇笏の句に対してもしてみたい。

  をりとりてはらりとおもきすヽかな

 一本の枯れた白いススキを手にとってそのはかない重さを感じた――というふうに植物を題材にしている句ではあるけれど、私はその奥に女性を思い浮かべてしまうのだ。
 私とは別の大地に生きる一本のすすき。その命。略奪するとき、はらりと落ちるのは涙か。はらりと散らばるのは結っていた髪か。はらりと乱れるのは華麗な裾か。はらりと動くのは涙、髪、裾だけではない。それを統合しているおんなそのものが、その一瞬に動くのである。隠されていた柔肌が手のひらに思いがけない重さ(充実感)として伝わって来る……。

 私の読み方は「深読み」を通り越して「誤読」の類である。

 那珂太郎の対談のなかでは、こうした「誤読」も文学の楽しみとして取り上げられている。イマジネーションの自由な運動、そのエネルギーについて語られている。文学はイマジネーションの遊びである。その遊びが私たちの人生を豊かに広げてくれる。そして、その自由な運動は、実は、伝統(古典)を深くくぐることで鍛えられる――そうしたことが語られている。

 ことばにつまずいて、イマジネーションを広げ、対話する楽しみ。それが伝わって来る対談集である。



 那珂太郎は黛まどかとの対談のなかで次のように語る。

二十世紀というのは神なしの物質文明の世界、ニヒリズムの時代ですよね。それに代わるものとして、僕らは若い頃から文学というものを考えたんですよ。文学こそ宗教に代わって、根源的に魂の問題にかかわるものと……。  (187ページ)

 このことばは重い。重要な宿題を与えられた気持ちになった。
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詩はどこにあるか(75)

2005-11-28 22:59:58 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「11」。対立する概念。

だが おまえの返してよこしたのは忘恩  (28ページ)

 人は人に何を返すことができるか。
 「忘恩」は人間の世界では返すべきものではない。しかし、神の世界では? あるいは神話の世界では? さらには宇宙の運動のなかでは?
 たぶん、「忘恩」の形でしか返せないものがある。「忘恩」によってはじまる世界がある。

 「忘恩」が明らかになるとき、返されたものではなく、返したものが「無」になる。



 「12」。「11」と密接なつながりがある。

俺は蛇というより 大地それじたい
その俺をたばかって 殺すからには
お前が新しい大地にならなければ
お前にそれができるか できるなら
俺は甘んじて殺されてやろう  (31ページ)

 「忘恩」が明らかになるとき、返されたものではなく、返したものが「無」になる――とは、彼が彼自身ではなくなるという意味である。そして、実は、「忘恩」をおしつけた相手の立場にとってかわらなければならない、という意味である。
 価値(意味)の転換は、そして、常に永続的な運動を伴う。

だが これだけは忘れるな
お前が新しい台地になることは
そのうち 古い大地になるだろうこと
古い大地になったお前は 殺されて
新しい大地に譲らねばならない
お前にそれができるか
お前にそれができるか  (31ページ)

 永続的な運動は「無」である。定まった形が「無い」。

 あるいは「無」という現場は、永続する運動を引き起こす場であるというべきか。
 永続する運動の現場としての「無」。
 それは虚無の別名だろうか。
 そうだとするなら――ここに高橋の「詩」がある。三島由紀夫に通じる「無」。ことばの虚無。何事が消えてしまっても存在してしまうことばの美という虚無の軌跡が輝く一瞬としての「詩」、あるいは「美学」。
 だが、それは固定されないのだ。
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詩はどこにあるか(74)

2005-11-25 09:19:47 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「10」。「殺す」とは何か。

だが 最終的に殺すのは自分
殺されて蘇った私は
荒土に稲と麦と豆を播き  (26-27ページ)

 「殺されて蘇った私」。否定と再生。そして、その再生は「私」自身だけではなく、「愛しい者」を引き寄せ、「産声」をもたらす。再生から生成への運動がある。

私は殺す者
殺して生かす者  (26-27ページ)

 対極にあるものが同時に存在する。これが「無」の世界である。「無」の現場である。対極にあるものの区別が「無い」状態が「無」である。すべての生成(「詩」を含む)は、そこでしかおこなわれない。
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詩はどこにあるか(73)

2005-11-24 13:22:01 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「9」。あらゆるものは対立項を持ち、同時に不可分である。

その霧の中で 二人の争いは愛と
愛は争いと 見分けがたく
けれども 結果は一方的に
ぼくがあなたを涜したことに  (25ページ)

 想像力は一方的に「絶対的他者」を冒涜する。それが「詩」の権利である。また、その「詩」を一方的だと批判するのは読者の権利である。その権利があるからこそ、また、次の「詩」が誕生しうる。

 「無」をくぐりぬけ、次々に「詩」が生成しつづけなければならない理由がそこにある。

 そうした「論理」とは別に、この作品には不思議な「詩」がある。引用した部分の「霧」。そのことばは、いったいどこからきたのか。
 引用に先立つ3行。

あなたは ぼくの剣(つるぎ)をひったくった
ぼくは あなたの勾玉(まがたま)を乞い受けた
たがいに噛み砕いて 吐き出した  (25ページ)

 意味的には、たがいに噛み砕いて吐き出したものが「霧」になるのか。あるいはたがいのものを奪い、あるいは受け取り、そして否定することが「霧」になるのか。
 どちらにしろ、すっきりとは落ち着かない。

 この行は、むしろ、唐突に高橋の内部からやってきた、あるいは頭上から高橋に降って来たもの、インスピレーションがもたらしたものだろう。
 こうした書き手自身と不可分、どんな説明もつかないものこそ「詩」である。

 「霧」。そのなかに存在するものは外部からはよく見えない。
 たぶん、そうした意味合いが、この詩の世界を支配している。
 世界は、そのなかで争っているもの、愛しあっているものには、事実として確認できる。しかし、その事実は、争い・愛が不可分である。その不可分な運動は、外部(他人)からはよく見えない。「霧」のなかの存在のように。

 「霧の中」は混沌としてみえる。「無」の世界のように。
 「霧」は「む」、「無」と韻を踏む。
 「霧」のなかに「無」は融合する。
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詩はどこにあるか(72)

2005-11-23 13:17:13 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「8」。闇と光の転換、あるいは鏡と実在の転換は、次のような形でも展開される。

だが ぼくは知っている
母に会うことは 母を喪うこと  (23ページ)

 真実の存在は「私」の外部に存在するのではない。また、私の内部に存在するのでもない。それは、私と一体の形で存在する。一元論的に存在する。

だが ぼくは知っている
母に会うことは 母を喪うこと
至り着いた時 母の国はないだろう
だから ぼくは父の光と母の闇
そのあいだを さすらいつづける
だから さすらうぼくとともに
道は どこまでもさすらいつづける
時は いつまでもさすらいつづける  (23ページ)

 「ぼく」は「道」であり、同時に「時」である。それは分離不能の存在である。
 「ぼく」がさすらうのでも、「道」がさすらうのでも、「時」がさすらうのでもない。「ぼく」は「道」となってさすらい、「道」は「時」となってさすらう。

 「無」とは「私」と他の存在が分離不能の状態である。切り離すものが何も「無い」。それは、とけあい、混沌としている。その混沌のなかから、ある瞬間には母になり、ある瞬間には父になる。また道になり、時になる。

 これは、あらゆる「詩」の生成の現場のありようだ。
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詩はどこにあるか(71)

2005-11-22 14:46:54 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「7」。この作品にも「鏡」が登場する。

姉は自分の本質が鏡だと
やっきになって主張する
だが ほんとうは私こそが鏡
熱い火をつめたい水に変容する鏡  (20ページ)

 高橋にとって「鏡」とはある存在を正確に映し出すものではない。むしろ逆に、今ここにあるものの対極にあるものを映し出す。別なことばでいえば肉眼で直視したときは見えないもの(隠れているもの)を浮かび上がらせる。
 この作品の「詩」は、しかし、そうした「鏡」の説明、構造分析にあるのではない。

熱い火をつめたい水に変容する鏡  

 この行の「変容する」ということばに「詩」がある。
 論理的に書けば(頭で考えて書けば)、普通は「熱い火をつめたい水に変容させる鏡」になるだろう。しかし高橋は「変容させる」ではなく「変容する」と書く。
 「鏡」がある存在を「変容させる」のではなく、「鏡」の前で、今、ここにあるものが「変容する」のである。
 「変容」は「鏡」の意思、意図ではない。

 そうであるなら、「鏡」は実在しなくても「鏡」たりうる。
 暗闇の中でも脳(想像力)はあらゆるものを見る。肉眼には見えないものを見る。太陽が去ったあとの暗い海という「鏡」に人は夜通し自分の脳を映し出す。そして、その像は波のゆらぎのようにゆらぎ、波に乗って漂うもののように漂う。

変容の過程には 数限りない挿話  (20ページ)

 「数限りない」とは「無数」と同義である。そして、「無数」の「無」は、想像力を縛り付けるものが「無い」の「無」に通じる。混沌とした想像力の場、「無」の場に通じる。

 高橋の今回の詩集の帯には「この国では神神と詩人があらかじめ断絶している。この詩(ポエジー)にとって根源的な不毛を救済すべく、詩人は敢然、自ら口寄せとなって、神神一柱ずつに一人称で語らせることを試みる。」とある。
 「無」は神ゆえに変容する。「無」の現場での生成は、それぞれの神をめざしての変容である。
 このとき、詩は「神話」になる。
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詩はどこにあるか(70)

2005-11-21 15:14:34 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「6」は「5」と互いに照らしあう。

私は母の子でなく 父の娘
けれど 冥界から逃げ帰った男の
死の穢(え)をそそいだ雫から生まれたのなら
どうして光であるはずがあろうか? (18ページ)

 「光」と「闇」はいつでも転換し得る。その想像力の場が、この作品では「鏡」と表現されている。

つめたくしめっぽい闇のきしきし詰まった
しんそこ暗い鏡が さしづめ私のありよう
鏡が光を集め 放射し返すからといって
同じく円盤の形をしているからといって
私を あの目つぶしの光体と間違えないこと (18、19ページ)

 想像力の場では、何かが何かを集める。放射する。そのとき何かが生成される。生成されるものは、あらかじめ存在しているものとは違う存在である。むしろ、あらかじめ存在するものの対極にあり、対極にあることで互いを相照らすものかもしれない。




鏡はほんとうは何も映したくないのだと
布にくるまれた箱にしまわれる時 最も落ち着くのだと
考えたこともない おまえがたの想像力の貧困 (19ページ)

 この行にあらわれた「想像力」ということばに私は驚く。
 なぜ高橋はこのことばをつかったか。
 「想像力」ということば、「おまえがたの想像力の貧困」ということば――これは、この詩集の根幹をつくる「思想」である。高橋は、日本語を読む私たちの「想像力の貧困」を告発している。想像力の貧困を告発し、想像力を揺さぶるようにして作品を書いている。
 高橋は「考えたこともない おまえがたの想像力の貧困」と書く代わりに「おまえがたは考えたこともなかろう」と書くこともできたはずだ。終わりから3行目の「おまえがたにはどうしてわからない?」というふうに、概念を剥き出しにしない形で書くこともできたはずだ。しかし、高橋はそうしなかった。なぜか。切羽詰っていたのだろう。日本語の読み手の「想像力の貧困」をひしひしと感じていたのだろう。

 作者が無意識に書いてしまうことば、書かずには次のことばを引っ張り出せないことば、作者に密着したことばを、私は「キーワード」と呼んでいるが、「想像力の貧困」はこの詩集で高橋が書こうとしていることの「キーワード」である。
 鏡のように、読者の姿を映した「キーワード」である。

おまえがたにはどうしてわからない?
鏡は溶けて 闇になりたいのだ
闇は分解して 無と消えたいのだ (19ページ)

 「鏡」(高橋)は「想像力の貧困」など映したくない。そんなものなど映さず、ただ闇になりたい。「無」になりたい。
 この「無」とは、しかし、何もないという意味ではない。

 「無」は混沌である。そこに何もないと思えるのは、今まで存在していたものと同じ形のものがないゆえにである。しかし、そこにはエネルギーがある。今まで存在していたものが「無」を通り抜けることで今まで存在していたものとは違ったもの、違いながらもそれまで存在していたもの、その隠された姿を照らし出す何かを生成する。その不定形(定まった形が無い)ゆえに「無」なのである。

 高橋は純粋な「想像力」、何にでも変わりうる可能性をもったエネルギーそのものになりたいと望んでいる。その切実な声が、この3行から響いて来る。
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詩はどこにあるか(69)

2005-11-20 23:35:01 | 詩集
「寒山」(中国詩人選集五、岩波書店)を読む。

 「偃息深林下」の5行目。(67ページ)

信君方得珠

 入矢義高は「君が方(まさ)に珠を得るを信(まか)す」と読んでいる。

 「信じる」とは「任せる」ということ、「任せる」とは「信じる」ということ。確かにそうなのだと思う。漢字には不思議な深みがある。意識の運動を奥から照らす力がある。
 そうしたものに「詩」を感じる。



 少しついでに……。次の詩が私は好きだ。

寒巌深更好
無人行此道
白雲高岫閑
青嶂孤猿嘯
我更何所親
暢志自宜老
形容寒暑遷
心珠甚可保

 1行目の「好」にもこころを広げられた感じがする。
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詩はどこにあるか(68)

2005-11-20 22:59:32 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「5」。この作品は不思議だ。

ぼくは いや あたしだろうか
生まれつき 目なく 耳なく 鼻 口もなく (16ページ) 

 「ぼく(あるいは、あたし)」は奇形である。社会から疎外されてしまう存在である。
 この「子供」は両親を恥じ入らせる。両親は、その子供を籠に入れて海へ流す。その籠にはいっさいの「孔」がない。真っ暗ななかに押し込めて両親は子供を暗い海へ流す。そして、その籠は流れ着いたあらゆる浦、村に拒まれる。
 拒まれつづけたあとの「子供」はどうなったか。それを描写した部分に不思議さが凝縮している。

もはや ぼくでも あたしでもなく
ぶざまな肉のかたまりでもなく
ただ ただようものは ただよいの果て
夕べの波の上の陽(ひ)のかけら 陽の子に
太陽じしんになった などとささやかれる

 「闇」が太陽にかわる。
 「子供」自身がそう語るのではなく、「子供」を知っているひとびとが「子供」を「太陽」だと語り始める。「ささやかれる」という表現が、そのことを告げている。

 ここに「神話」がある。
 「闇」の部分を「子供」はすべて引き受けた。すべて引き受けることで、「闇」であることによって、ひとびとの側に「光(太陽)」を届けた。「子供」が「闇」を引き受けなければ、「闇」は両親とともに、あるいは「浦(村)」のいたるところに「闇」をもたらしただろう。「闇」を遠ざけるということは「太陽(光)」をもたらすことと同義である。

 この急激な転換、精神が酩酊したような錯乱のなかに「詩」がある。
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詩はどこにあるか(67)

2005-11-18 21:11:22 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「4」を読む。ここに登場する母と父は不思議だ。知らない母のことが多く語られ、知っている父についてはひとつのことしか語られない。

俺たち 火の息子たちを
つぎつぎにいきみ出し ひり出し
焼けただれて かあさんは死んだ
だが かあさんとは何だろう
笑みかける目のことなら
俺たち かあさんを知らない
甘い汁をあふれさせる乳首なら
俺たち 吸ったことがない
いとおしげに愛撫する指なら
俺たち いとおしまれたことがない
俺たちにとって かあさんとは
耐えがかい臭(にお)いを立てて 開ききった穴
とうさんなら よく知っている
押さえきれない怒りで赤黒い顔
立ちはだかって わななく脛(すね)こぶら
振りあげて ふるえる腕
重い鋼(はがね)のにぶい光を振りまわし
俺たちをめった打ち 切りこまざかれて
俺たち 無限に分裂し 増殖する
増殖し 分裂し 炎えながら
不在のかあさんを捜す 捜しつづける


 母は無数に分裂することで「俺たち」をひとつにする。「不在のかあさんを捜す」という行為に収斂させる。
 一方、父は「俺たち」(すでに複数)をさらに「無限に分裂」させる。
 「不在のかあさんを捜す」という行為が父の怒りを呼び覚まし、その怒りが「俺たち」を分裂させ、その分裂が「不在のかあさんを捜す」という行為を切実にする。
 ひとつと無数は緊密な関係にある。切り離せない。
 この緊密な力が「詩」である。

 不在の母――それは不在(無)ゆえに、無数に描かれる。母の不在(無、という場所)を通って、想像力はさまざまな母を描き出す。だが、そのさまざまな母という複数は、複数になることによって、より強烈に「ひとり」の母を浮かび上がらせる。
 「笑みかける目」「甘い汁をあふれさせる乳首」……それは複数の母の姿だが、複数に描かれることによって真にひとりの母になる。

 無数と一つと無。
 高橋の今回の詩集には、その変容が繰り返しあらわれる。
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詩はどこにあるか(66)

2005-11-17 14:35:29 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

「2」を読む。繰り返し読む。好きな行が立ち上がってくるまで繰り返し読む。

肉を腐らせるのは肉を見る目  (11ページ)

 ここには「ゆえに」が隠されている。(「1」についての感想参照。)
 肉は肉自身で腐るのではない。肉は腐るものだと断定し、見つめる目が存在するが「ゆえに」腐る。肉は腐らないものだと断定する目があれば、その目の存在、その断定の「ゆえに」肉は腐らないだろう。
 ある対象(実在)とそれを見つめる存在。ふたつの存在の間にある「無」。想像力の場。それが間接的に描かれた行である。

私は生きも死にもしない  (11ページ)

 この末尾の行は、したがって、私は私を生かす者によって(生かす者の存在ゆえに)生き、私を死なす者によって(死なす者の存在ゆえに)死ぬという意味合いで読まれるべき行である。



 「3」を読む。最終行

生と死は背きあって 久しい

 この行は哲学的だ。そして「生と死は背きあって 久しい」の1字空白が恐ろしく「詩」的である。「詩」を作り出している。

 高橋は生と死は本来背きあったものではなく、融合したものだと考えている。ところが今はそれが背きあっている。そうした「ねじれ」を1字空白が代弁している。
 ここには、まだことばにならないことばが潜んでいる。

 本来あるべき「ゆえに」の運動が捻じ曲げられ間違った「ゆえに」を通っているために生と死は背きあってしまったのだ。

帰ってきた男を定着するために
爾後 私は忘れられた男

 生は「帰ってきた男」である。死は「忘れられた男」である。
 この、忘れられた男がけっして忘れられず、帰ってきた男が忘れられてしまうという世界もあるはずなのである。正しい(高橋の信じている)「ゆえに」を正確にたどれば、本来そうなるはずである。

 そう気づいて

生と死は背きあって 久しい

 を読むと、1字空白のなかに、深い深い悲しみが見えて来る。高橋の精神の悲しみが見えて来る。



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詩はどこにあるか(65)

2005-11-16 22:40:34 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「1」の書き出し。

私はつねに奪われている
天空の中央という 私の位置
まぶしすぎるという 私の額と目
その位置に 到達不可能ゆえに
その額を 目を 直視不可能ゆえに
跪く者たちは 代行者を求める

 この作品にも「たち」(複数)が登場する。「跪く者たち」。――「私」という単独の存在しに対して「跪く者」は単独ではなく、複数である。複数であるがゆえに、彼らがみつめる「私」も複数になる。
 「私」は本当は複数に分裂させられるがゆえに「私」ではなくなる。「私」は私からさえ「奪われている」状態になる。

 ――こうした「意味」の分析は詩をつまらなくさせるだろう。

 そうではなく、私がこの作品から感じた「詩」について書くべきだろう。
 私は4、5行目に繰り返される「ゆえに」に「詩」を感じた。「ゆえに」のなかには想像力の回路がある。「ゆえに」を通って想像力はどんな形にもなる。「眩しい者」にも「怖ろしい者」にもなる。

眩しい者の衣を着る者は いつか眩しい者
怖ろしい者の言葉を語る者は いつか怖ろしい者

 「ゆえに」は「無」である。「無」の場である。そこにはどんな形もない。どんな拘束もない。どんなものにも生成しうる可能性だけがある。生成のためのきっかけ、夢のようなインスピレーションの一撃が「ゆえに」のなかにうごめいている。
 作品の末尾。

私を愛すると言ってはばからない者の
愛するゆえにという強引な理由によって

 「ゆえに」とは「強引」な力である。
 想像力とは強引な力である。

 高橋のことばが「詩」になるとき、そこには「強引」な想像力がある。構想力がある。「無」のいきいきとした現場がある。
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詩はどこにあるか(64)

2005-11-14 14:50:26 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「0」の書き出し。作品全体の書き出しに不思議なことばがある。(6ページ)

私たちの隠れたる者たちは 語らない

 私「たち」、者「たち」。複数。ここに高橋の「詩」がある。
 この複数は確固とした存在が幾つも存在するということではない。確固としていないからこそ複数になってしまうのだ。

路上で君と話しているつもりが 彼ら
話している私自身 彼らだったりする  (7ページ)

 「揺らぎ」ではなく、「揺らぎ」と見せかけての入れ替わり。
 「隠れたる者」は常に存在する。「私」と入れ替わりながら存在する。
 ある存在をことばにする。「隠れたる者」をことばにする。すると、それは「私自身」になり、私の目の前から消える。隠れる。そして、姿を消したその姿の向こうに、また新しい「隠れたる者」を浮かび上がらせる。
 この運動には限りがない。「複数」というより「無数」「無限」の運動だ。

 「無数」「無限」に共通することば「無」。――ここに、高橋の「詩」がある、と定義するのは早すぎるだろうか。とりあえず、そう定義することで『語らざる者をして語らしめよ』を読み続けようと思う。
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詩はどこにあるか(63)

2005-11-13 23:18:51 | 詩集
渡辺玄英「火曜日になったら戦争に行く」(思潮社)

 「(三日月」を読む。84ページ。

目をとじたはずなのに
三日月が見えている
それって
暗い身体のなかの (すきとおって
夜空に浮かんでいる 月
(なんだろーか?

 渡辺の詩集のキーセンテンスは「それって……(なんだろーか?」であるキーワードは「(なんだろーか?」である。この詩集では一度だけしか登場しないが、詩集に収められているどの詩のどの部分に挿入しても何の不自然さもないだろう。
 ある存在を別の存在に置き換える。これを一般に比喩という。詩に比喩はつきものである。(比喩を詩と勘違いしている読者もいるかもしれない。)
 比喩とは想像力の産物である。想像力とは実在のものを歪めて見る力である。
 「それって……」で終わってしまえば単なる比喩である。単なる詩である。
 ところが「(なんだろーか?」と疑ってしまえば単なる詩や比喩ではなくなる。「詩」になる。ことばになりえない実在のもの、今ここにある揺らぎ、揺らぎの運動になる。
 渡辺にとっては「詩」とは不確かな揺らぎである。

 「(三日月」のなかには、渡辺の詩のもう一つの重要な要素があらわれている。
 「暗い身体のなかの」という表現だ。
 「身体性」というのは人間にとって不可欠なものである。精神や感覚といった不確かなものではなく、今ここにあることが誰にでもわかる存在である。だからこそ、たとえば

じぶんがいま地球のどのあたりにいるんだか
わからなくて
かすれた声をすこし出してみたり
する
         「ヨル(深い水」  54ページ

 と身体(声)を頼りに自分を確かめもする。
 確かめはするけれど、その存在さえも渡辺は疑っている。不確かと感じている。

 「それって/身体のなかの」と語り始めながら、「身体」をくぐりぬけたものを確実な存在として提出しない。あくまで「(なんだろーか?」と疑問をつけて提出する。
 それが渡辺の「詩」である。

 「ヨル(深い水」に「それって……(なんだろーか?」を補ってみよう。そうすると渡辺の「詩」の世界がくっきりと見えてくるはずだ。

ヨル部屋にもどって
TVをつけて 音を消す
硬いガラスに指をあてて
向こう側にはいけないことをたしかめる
それって
(消えかかったビデオのゆうれいみたく
深いヨルにしずんだりして

(ものなんだろーか?
                 57ページ

 文脈の都合上「(ものなんだろーか?」としてみた。
 「指をあてて」と身体をくぐらせて何かを感じる。感じながらも、「それって/(なんだろーか?」と揺らぎとしてしか提出しない。

 現代において希薄になっているのは「ことば」というよりも「身体性」そのものかもしれない。
 あるいは「身体性」は希薄になり、それにかわって「携帯電話」のような「利便性」がのさばっているということかもしれない。

 「詩」は、そうしてみると、「利便性」を否定する存在でなければならない。つまり、何かを伝えるというより、伝えることを拒むものが「詩」でなくてはならないのかもしれない。
 渡辺はおそらく「伝える」ことを拒絶し(揺らぎを提出することで、確実性を拒絶し)、その拒絶をとおして、今ここにことばにならないもの、「詩」が存在するということを証明しようとしているのかもしれない。
 表題作「火曜日になったら戦争に行く」に次の行が出て来る。

(ぼくの弾丸は届くだろうか?
(ぼくのことばが届かないように?

 「ことばが届かない」こと、つまり何も伝達しないこと――それが「詩」である。戦争での「実弾」が敵の身体に「届く」のように有効な唯一のあり方である。



 この詩集には「栞」がついている。そこに書かれた野村喜和夫の詩はとてもすばらしい。おそらく野村の詩の代表的な一篇になるだろうと思う。
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詩はどこにあるか(62)

2005-11-06 15:05:22 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「あからしま風」。110ページ、7-9行。

被害者家族の演説はことばも磨かれて
聞くものに
休息が必要になってきた

 「磨かれたことば」と「休息」の対比。
 「磨かれたことば」は人をひきつける。聞く人(読む人)の意識を、ことばを発する人の精神の高み、精神の到達点へと引き込む。
 荒川はそうした「磨き」を警戒する。

 「磨き」の完成度ではなく、「間」(休息)を取り込む。
 精神の高みへ読者を引っ張るのではなく、その手前で一息つけさせる。読者は、一息つきながら、高みを想像する。

 「高み」を想像させることばの運動。そこに荒川の「詩」がある。
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