『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
「恩恵」は女と待ち合わせる男が主人公である。絵はがき売りのおばあさんの隣で待っている。しかし、男は女が来るとは思っていない。
この繰り返しがとてもおもしろい。リズムが、とても音楽的で楽しい。繰り返されるたびに、「来ない」ということが読者にはわかってくるのだけれど、わかっていても読まずにはいられないのは、繰り返しのリズムが音楽だからである。
「君は来ない」と思いながら、待ちつづける。そして、その待っている間に、ひとつの「事件」が起きる。
おばあさんにコーヒーの差し入れがあり、おばあさんはコーヒーカップを返しにゆく。それをみながら、主人公の心境に変化が起きる。それがこの小説のハイライトなのだが、それよりも、前半の「君は来ない」というこころの動きがおもしろい。
さらに、事件後もおもしろい。
男は、ここで女が嫌いであるということを発見するのだけれど、この変化がおもしろい。--というのは、まあ、短編小説の「技術」の問題に属することかもしれない。ストーリーをどう展開するかということに属する問題かもしれない。
そこはそこで感心したのだけれど、私の関心は別な部分になる。ナボコフが好きでたまらない理由は別な部分にある。
おばあさんとコーヒーのやりとりをとおして「世界のやさしさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なる絆を感じた」主人公が、電車で帰っていく最後の最後のシーン。
「しかめっ面」「ぞんざいで無関心な目つき」という「視覚」の不機嫌が、「コトン……コトン……」と繰り返される音楽(聴覚)で癒されていく。
ひとは、聴覚でできている。--私は、ひそかにそう感じている。私たちをとりまく「情報」は「視覚」によるものが多い(多すぎる)。その反作用のようなものかもしれないが、静かな「聴覚」、美しい「聴覚」に触れると、私はとてもうれしく感じる。
ナボコフも、私にとっては「聴覚の作家」である。
「恩恵」は女と待ち合わせる男が主人公である。絵はがき売りのおばあさんの隣で待っている。しかし、男は女が来るとは思っていない。
ぼくは歩きながら、君はきっと会いに来てきれないだろうと考えていた。(94ページ)
君が来るとは信じてはいなかった。 (95ページ)
君が来ると信じていなかった。 (95ページ)
すでに一時間ほどが経っていた。もしかするとそれ以上だったかもしれない。どうして君が来ると思えたのだろう。 (96ページ)
でも君は来ると約束したじゃないか。 (96ページ)
この繰り返しがとてもおもしろい。リズムが、とても音楽的で楽しい。繰り返されるたびに、「来ない」ということが読者にはわかってくるのだけれど、わかっていても読まずにはいられないのは、繰り返しのリズムが音楽だからである。
「君は来ない」と思いながら、待ちつづける。そして、その待っている間に、ひとつの「事件」が起きる。
おばあさんにコーヒーの差し入れがあり、おばあさんはコーヒーカップを返しにゆく。それをみながら、主人公の心境に変化が起きる。それがこの小説のハイライトなのだが、それよりも、前半の「君は来ない」というこころの動きがおもしろい。
さらに、事件後もおもしろい。
ついに君がやってきた。実を言えば、やってきたのは君ではなくドイツ人のカップルだった。(略)その時だった、その女が君に似ているとぼくが気づいたのは--似ているのは外見でも洋服でも鳴く、まさにその清潔そうないやなしかめっ面、そのぞんざいで無関心な目つきだった。 (98ページ)
男は、ここで女が嫌いであるということを発見するのだけれど、この変化がおもしろい。--というのは、まあ、短編小説の「技術」の問題に属することかもしれない。ストーリーをどう展開するかということに属する問題かもしれない。
そこはそこで感心したのだけれど、私の関心は別な部分になる。ナボコフが好きでたまらない理由は別な部分にある。
おばあさんとコーヒーのやりとりをとおして「世界のやさしさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なる絆を感じた」主人公が、電車で帰っていく最後の最後のシーン。
電車が停まるたびに、上のほうで風にもがれたマロニエの実が屋根にあたって音を立てるのが聞こえた。コトン--そしてもう一つ、弾むように、やさしく、コトン……コトン……。路面電車は鐘を鳴らして動き出し、濡れた窓ガラスの上で街灯の光が砕け散り、ぼくは胸を刺し貫く幸福感とともに、その穏やかな高い音が繰り返されるのを待った。ブレーキの響き、停留所--そしてまた一つ、丸いマロニエの実が落ちた--つづいて二つめが落ち、屋根にぶつかり転がっていった。コトン……コトン……。
(98-99ページ)
「しかめっ面」「ぞんざいで無関心な目つき」という「視覚」の不機嫌が、「コトン……コトン……」と繰り返される音楽(聴覚)で癒されていく。
ひとは、聴覚でできている。--私は、ひそかにそう感じている。私たちをとりまく「情報」は「視覚」によるものが多い(多すぎる)。その反作用のようなものかもしれないが、静かな「聴覚」、美しい「聴覚」に触れると、私はとてもうれしく感じる。
ナボコフも、私にとっては「聴覚の作家」である。
カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1) | |
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