詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ「恩恵」

2012-01-06 12:18:35 | ナボコフ・賜物
             『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
 「恩恵」は女と待ち合わせる男が主人公である。絵はがき売りのおばあさんの隣で待っている。しかし、男は女が来るとは思っていない。

ぼくは歩きながら、君はきっと会いに来てきれないだろうと考えていた。(94ページ)
 
君が来るとは信じてはいなかった。                 (95ページ)

君が来ると信じていなかった。                   (95ページ)

すでに一時間ほどが経っていた。もしかするとそれ以上だったかもしれない。どうして君が来ると思えたのだろう。                     (96ページ)

でも君は来ると約束したじゃないか。                (96ページ)

 この繰り返しがとてもおもしろい。リズムが、とても音楽的で楽しい。繰り返されるたびに、「来ない」ということが読者にはわかってくるのだけれど、わかっていても読まずにはいられないのは、繰り返しのリズムが音楽だからである。
 「君は来ない」と思いながら、待ちつづける。そして、その待っている間に、ひとつの「事件」が起きる。
 おばあさんにコーヒーの差し入れがあり、おばあさんはコーヒーカップを返しにゆく。それをみながら、主人公の心境に変化が起きる。それがこの小説のハイライトなのだが、それよりも、前半の「君は来ない」というこころの動きがおもしろい。
 さらに、事件後もおもしろい。

ついに君がやってきた。実を言えば、やってきたのは君ではなくドイツ人のカップルだった。(略)その時だった、その女が君に似ているとぼくが気づいたのは--似ているのは外見でも洋服でも鳴く、まさにその清潔そうないやなしかめっ面、そのぞんざいで無関心な目つきだった。                         (98ページ)

 男は、ここで女が嫌いであるということを発見するのだけれど、この変化がおもしろい。--というのは、まあ、短編小説の「技術」の問題に属することかもしれない。ストーリーをどう展開するかということに属する問題かもしれない。
 そこはそこで感心したのだけれど、私の関心は別な部分になる。ナボコフが好きでたまらない理由は別な部分にある。
 おばあさんとコーヒーのやりとりをとおして「世界のやさしさを、自分をとり囲むすべてのものにある深い恩恵を、自分とすべての存在の間の甘美なる絆を感じた」主人公が、電車で帰っていく最後の最後のシーン。

電車が停まるたびに、上のほうで風にもがれたマロニエの実が屋根にあたって音を立てるのが聞こえた。コトン--そしてもう一つ、弾むように、やさしく、コトン……コトン……。路面電車は鐘を鳴らして動き出し、濡れた窓ガラスの上で街灯の光が砕け散り、ぼくは胸を刺し貫く幸福感とともに、その穏やかな高い音が繰り返されるのを待った。ブレーキの響き、停留所--そしてまた一つ、丸いマロニエの実が落ちた--つづいて二つめが落ち、屋根にぶつかり転がっていった。コトン……コトン……。
                               (98-99ページ)

 「しかめっ面」「ぞんざいで無関心な目つき」という「視覚」の不機嫌が、「コトン……コトン……」と繰り返される音楽(聴覚)で癒されていく。

 ひとは、聴覚でできている。--私は、ひそかにそう感じている。私たちをとりまく「情報」は「視覚」によるものが多い(多すぎる)。その反作用のようなものかもしれないが、静かな「聴覚」、美しい「聴覚」に触れると、私はとてもうれしく感じる。
 ナボコフも、私にとっては「聴覚の作家」である。



カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)
ナボコフ
光文社
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ナボコフ「響き」

2012-01-02 12:11:24 | ナボコフ・賜物
             『ナボコフ全短編集』(作品社、2011年08月10日発行)
 「響き」は既婚の女との恋愛を描いている。夫は軍人で家を離れている。その束の間の時間の幸せと、突然の別れ。夫が帰って来ることになったのだ。そのときの思いが「ぼく」を語り手にしてことばが動くのだが、そのなかに驚くべき動きがある。
 「ぼく」は「ぼく」だけではないのだ。「ぼく」は「ぼく」をはみだして、すべての存在なのだ。それも「ぼく」以外の存在を外から眺めるのではない。

 
ぼくはすべてのものの内側で生き 
          (37ページ。以下、ページはすべて『ナボコフ短編集』による)

 「ぼく」は「ぼく」を離れ、他の存在の「内側」に入り込み、そこから世界をとらえ直す。たとえば、

かさの裏が黄色く多孔質のスポンジのようなヤマドリタケとして生きるのは、どういうことなのか。                            (37ページ)

 「内側で生きる」とは、その存在として生きるということである。
 ナボコフのことばは情報量が多く、あらゆるものが視覚化されるが、それに目を奪われると、この「内側」が見落とされる。あらゆる視覚の対象は、ナボコフが「外側」からみつめたものではなく、対象(存在)の内側に入り込み、内側から世界を統一したときの姿なのである。外見は視覚化されているが、その統一を統一たらしめているのは視覚ではなく、聴覚である--というのは、少し先走りした論理かもしれないが、私の感じていることである。
 この短編のタイトルは「響き」だが、響き--音楽がすべての存在を統一している、と私は感じている。
 女がピアノを弾き、それを「ぼく」が聴いているとき、彼は感じる。

すべてが(略)五線譜の上の垂直な和音になった。ぼくにはわかった。この世界のすべては、ことなった種類の協和音からなるまったく同じような粒子の相互作用なのだ。
                                 (36ページ)

 音楽が、和音が世界を作り上げている。世界をその瞬間瞬間存在させている。音楽が世界の「内側」にある。

 ナボコフ(ぼく)は「内側」から世界を見る。それを具体的に描いた部分は、女といっしょに友人を訪ねた部分に書かれている。  

ぼくはバル・バルィチの中にすべりこみ、彼の内部でくつろぎ、皺のよったまぶたの膨らんだほくろや、糊のきいた襟の小さな翼や、頭の禿げた箇所を這い進んで行くハエなどを、言わば内側から感じたのだ。                   (41ページ)

同じように軽やかな身振りとともにぼくは君の中にもすべりこみ、君の膝の上のガーターについたリボンを認め、さらにそのちょっと上のバチスト布のむず痒さを感じ取り、君の代わりに考えた                          (41ページ)

 「内側で生きる」。そのとき、おもしろいのは「ぼく」は対象そのものになるのではない。あくまで「ぼく」でありながら、他者なのだ。「ぼく」と「対象(他者)」は「内側」でつながっている。
 そのつながりが、「和音」--「垂直な和音」と呼ばれるものである。

ぼくは、すべてのもの--君、煙草、シガレットホルダー、不器用にマッチを擦っているパル・パルィチ、ガラスの文鎮、窓の下枠に横たわった死んだマルハナバチの--内側にいたのだ。                            (41ページ)

 「内側を生きる」ときの幸福--それをナボコフは、次のように書いている。

そこに調和のとれた流れがあったからだ。(略)かつてぼくは百万もの存在や物体に分裂していた。きょうはそれが一つになっている。明日はまた分裂するだろう。
                                 (46ページ)

 「調和のとれた流れ」とは「和音の流れ」である。「和音」は無数の存在(物体)で構成されている。きょうにはきょうの和音があり、明日は明日の和音がある。
 和音の中をナボコフは動いていく。





ナボコフ全短篇
ウラジーミル・ナボコフ
作品社
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ナボコフ『賜物』(45)

2011-05-03 14:17:50 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの視力は強靱である。その強靱さは、私のように目の悪い人間にはときどき苦痛になる。左右の目の視力に差があるひとにしかわからないことかもしれないが……。眼鏡の処方は少しむずかしい問題がある。右目と左目のそれぞれの視力を1・0に矯正したとする。そのレンズの度数に開きがあると、眼鏡をかけたとき「像」がうまく結ばないという障害が起きる。レンズの度数にして2・0差があると、右目の像と左目の像に「遠近」の差ができて、頭が疲れるのである。私の場合、これが1・0でも苦しい。世界が散らばって見える。とてもかけられない。それで、私の場合、右目の視力を中心にして眼鏡をつくり、左目の視力は低いままにしている。--と、わからないひとにはなんのことかわからないことを長々と書いたが……。
 ナボコフの文章を読むと、むりやり視力を矯正したときのように、それぞれはくっきりみえるのだが、「世界の像」としては不完全な、ばらばらの印象になってしまうようなときがある。そして、それでも、なぜかしら、その文章を読まずにはいられないということがおきる。完全な像を結んでくれないのだが、その「完全な像」をむしろ破壊して、何かが輝く--その強さにひかれるのである。

巨大で、鬱蒼として、道多きこの庭園は、その全体が陽光と影の均衡のうちにあった。そして光と影が作り出す調和は夜から夜へと移り変わっていったが、その変わりやすさ自体がまたこの庭園だけに備わった固有のものだった。並木道で熱い光の環がいくつも足下に揺れていたとすれば、遠くでは必ず太いビロードのような縞が横に延び、その向こうには再びオレンジ色の篩(ふるい)の目のような模様が見え、さらにその先、奥のきわまったところには濃密な黒が息づいていた。その黒さを紙の上に移しかえようとしても、水彩画かの目を満足させられるのは絵の具がまだ湿っている間だけで、すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。
                                (126 ページ)

 「絵の具がまだ湿っている間だけ」がすばらしい。遠い風景が、手の届く紙の上に引き寄せられ、そこで呼吸する。それは遠いところなのに、近い。この遠近の落差を「時間」が埋める。「時間」がつなぐ。そして、その「時間」は「肉体」の時間なのである。
 「すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。」絵を描く--しかも、その描く作業を「塗り重ねる」という具体にまで引き寄せることでくっきりしてくる「時間」。
 ここに「肉体」の「時間」が書かれているので、私のように目の悪い人間にも、ナボコフの描いている「絵」がくっきりと見える。いや、「絵」全体は見えないのだが、その要だけははっきりと見える。その鮮やかさに、どうしても活字を追ってしまうのだ。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
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ナボコフ『賜物』(44)

2011-04-21 10:30:43 | ナボコフ・賜物

 森の中に深く入っていった。小道に敷かれた黒い板は、ぬるぬるして滑りやすく、赤みを帯びた花弁の連なりやへばりついた木の葉に覆われていた。いったい誰がこのベニタケを落としていったんだろう、笠が破れ、扇のような白い裏側を見せている。その疑問に答えるように、呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。それにしてもあのコケモモ、木になっているときよりも、バスケットに入れられたときのほうがよっぽど黒く見える!
                                (125 ページ)

 ナボコフの表現には「色」がたくさん出てくる。うるさいくらいである。黒、赤、白とつづいて出てくるこの文章では、しかし、その直接でてきた色よりも、最後の「よっぽど黒く見える!」が印象的である。同じコケモモでも色が変わる。その変化に、目が引きつけられていく。
 だが、この文章でそれが印象的なのは、そこに色の運動(変化)があるからだけではない。そこに繊細な感覚があるからだけではない。
 途中に「呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。」という「色」以外のものが挿入されているからである。黒、赤、白という「色」が少女たちの「声」によっていったん洗い流される。そのあと、新しい目で「黒」だけを見つめるから、黒の変化がくっきり見えるのだ。
 女の子の「声」が挿入されなかったら、黒の変化は、赤と白に邪魔されて、よく分からないものになったに違いない。

ナボコフ伝 ロシア時代(下)
B・ボイド
みすず書房
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ナボコフ『賜物』(43)

2011-04-20 12:01:55 | ナボコフ・賜物

 水たまりに藁が一本浮いていて、二匹の糞虫が互いに邪魔し合いながらしがみついていた。彼はその水たまりを飛び越え、道端に靴底の跡を刻み込んだ。なんとうい意味ありげな足跡だろう、いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。
                                (124 ページ)

 この部分が原文どおりであるかどうか、私は知らないが、ナボコフの文章がにぎやかなのは、ここにみられるような「主語」の交代が頻繁にあるからかもしれない。
 特に印象的なのは、「足跡」が主語になった部分である。足跡が、「いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。」とまるで意思をもった存在であるかのように書かれている。
 「……しているように見える」と書けば、「彼には……見える」になるのだが、この構文では風景の印象が弱くなる。それは単に彼にそう見えただけのものになる。「彼に」を省略ではなく、拒絶し、「足跡」そのものを「主語」にするから風景が動きだすのだ。


ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
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ナボコフ『賜物』(42)

2011-04-16 23:14:20 | ナボコフ・賜物
  110ページから、ことばの調子が一気に変わる。主人公を含む3人が詩の朗読の会場を脱けだし、ストゥピシンは電車の停留所に向かい、ゴドゥノフとコンチェーエフは逆の方向に歩きはじめる。そして、すぐに別れが来る。ひとりは右にひとりは左に。

 二人は別れた。いやあ、なんていう風だ……。
 「……でも、待ってください。ちょっと待って。やっぱりお送りしますよ。あなたはきっと宵っぱりでしょうから、石畳の黒い魅惑についてぼくがお教えすることもないでしょうけれど。あの哀れな朗読を聴いていなかったんでしょ?」
「最初だけね、それもいいかげんに。とはいえ、あれがそれほどひどい代物だとはまったく思いませんよ」

 ここから二人の文学談議がはじまる。そのことばの動きが、とても速いのである。直前のコンチェーエフが「石畳の黒い魅惑について」というような、脇道へ逸脱していくことばとはまったく違ってくる。いや、さまざまなロシア文学のテキストをすばやく横断するのだが、そこには「逸脱」がない。「石畳の黒い魅惑について」というような「過剰なことば」がない。詩がない。かわりに、批評がある。
 この二人の対話に、私は、とても違和感を覚えた。
 そして、その違和感が、 120ページ、会話の最後でびっくりするような形で終わる。

「でも残念ですね、あなたと交わしたいと思っていたこのすばらしい会話を、誰にも聞いてもらえなかったなんて」
「だいじょうぶ、むだにはなりません。こんな風になって、むしろ嬉しいくらいです。ぼくたちは実際には最初の角で別れ、その後ぼくが一人で自分を相手に、文学的霊感の独習書に従って架空の対話を続けてきた--だからといって何なんです、そんなこと誰もきにしやしませんよ」

 二人の会話は会話ではなかったのである。ひとりで続けた対話なのである。だからどんなに対立してもそれは会話を加速するためのものである。
 これは、「会話」だけについていえることではないのだ。
 ナボコフはあらゆる描写を「ひとり」で繰り広げる対話の形で書いているのだ。「会話」の形をとっていないが、そこに書かれていることは「対話」なのだ。ことばと対象とナボコフの間を行き来している。人間が風景について語るだけではない。風景がナボコフの投げかけたことばに対してことばを返してくる--ということをナボコフは描写の中でおこなっているのである。
 架空の二人の対話において、どちらがどちらであるかは重要ではない。いれかわってもかまわない。同じように、ナボコフの情景描写においては、それが人間の側からおこなわれたものであるか、あるいは情景の方からおこなわれたものであるかは、どうでもいい。双方で対話がある--対話しながらことばが動いていくということが基本なのだ。
 ナボコフは、ここでは、彼自身のことばの運動の構造を教えてくれているのである。二人の対話がはじまる寸前、

「ぼくがお教えすることもないでしょうけれど」

 ということばがある。それはゴドゥノフに言っているのではなく、読者に対して言っているのだ。逆説的に、あらかじめ予告しているのである。
 ナボコフのことばには、ときどきこんな「予告」がある。そして、そういう「予告」からはじまる文章は、この作品の110 ページから 120ページまでがそうだが、それが終わるまでは途中で休むことができない。ナボコフの小説は、たいてい、どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。けれど、ときどき途中で休めない部分がある。
 その部分というのは詩ではなく、いわば評論が主体になっている。




ディフェンス
ウラジーミル ナボコフ
河出書房新社
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ナボコフ『賜物』(41)

2011-04-14 11:02:28 | ナボコフ・賜物

 そんな風にしてひと夏をだらだら過ごし、ざっと二ダースほどの詩を生み、育て、そして永遠に見限ってから、ある晴れた涼しい日、土曜日のことだったが(晩には集まりがあることになっていた)、彼は大事な買い物に出かけた。落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、干からびて反りかえり、葉の一枚一枚の下から青い影の角が突き出ていた。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋から、箒を持ち、清潔なエプロンを掛けた老婆が出てきた。彼女は小さな尖った顔と、並はずれてばかでかい足をしていた。そう、秋なんだ!
                                 (99ページ)

 私は、わざと長い引用をした。私が感動したのは「葉の一枚一枚の舌から青い影の角が突き出ていた。」という部分なのだが、その部分だけではなく、あえてその周辺を含めて引用した。そうしてみると、不思議な気持ちになる。
 ナボコフは、なぜこのことばを書いたのだろう。読ませたかったのか。隠したかったのか。
 「青い影」だけでもとても美しいが、「青い影」ではなく「青い影の角」。あ、葉っぱは尖ったているのだ。丸い部分もあるかもしれないが、尖った部分を持っている。それが「一枚一枚」の下から突き出している。この繊細な感覚が(描写が)、「そう、秋なんだ!」ということばに結びついていく。「ある晴れた涼しい日」と「青い影の角」と「秋」が結晶し、きらきら輝く。
 でも、そのまわりには、その透明さとは相いれないものがひしめきあっている。矛盾したものがひしめきあっている。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋(公衆トイレ)、清潔なエプロン、老婆、ばかでかい足。
 そういう「もの」だけではない。

 落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、

 ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、ここに日本語としてやくしゅつれれていることばがすべてロシア語でも書かれていると仮定すると。
 「歩道の上に」の「上に」がとても気になる。この「上に」は「葉の一枚一枚の下から」の「下から」と対応しているのだが、「上に」って必要? 「下に」敷きつめるということなどできない。「上に」敷きつめるしか、表現としては存在しない。それなのになぜ、「上に」?
 もしかすると、ナボコフは「青い影の角」ではなく、それを一枚一枚の葉の「下に」みつけたことを書きたかったのかもしれない。「下に」ということばを書きたかったのかもしれない。「青い影の角」は、それを引き出すためのものなのだ。

 --というのは、とても変な読み方である。

 わかっているのだが、気になるのだ。「涼しい」「青い影(の角)」「秋」という結晶の美しさ。それを読むだけのために私は何度もこのページを読むのだが、そのことについて書こうとすると「下から」ということば、「上に」ということばの対比(構造)が気になって仕方がないのだ。
 ナボコフはある情景をぱっと思い浮かべ、それをていねいに書き留めるのではなく(描写しているのではなく)、どんな情景もきちんと「構造」をつくりあげながら(意識しながら)、情景を創出しているのかもしれない。
 情景があり、それをことばが追いかけるのではなく、ことばを組み合わせることで情景をつくりだしているのかもしれない。





ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
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ナボコフ『賜物』(40)

2011-04-08 11:37:47 | ナボコフ・賜物
 ワシリーエフの執務室の描写。執務室から見た街の描写。

窓辺には(窓の向こうに立っている同じような高層のオフィスビルは補修中だったが、作業は空中のあまりに高いところで行われていたので、ちぎれて裂け目のできた灰色の雲もついでに修繕できそうに思えた)オレンジが一個半載った果物鉢と、食欲をそそるブルガリア・ヨーグルトの小さな壺が置かれ、本棚のいちばん下の鍵のかかった引き出しには奇談の葉巻と赤と青に彩られた大きな心臓の模型がしまわれていた。
                                 (97ページ)

 何が書かれているかわからない。つまり、ここに書かれていることが、この小説のなかでどんな「意味」をもっているのかわからない。これらかのストーリーの伏線になるのかもしれないが、ことばがあまりに多すぎて、伏線だとしてもきっと思い出せない。
 きっと、伏線なんかではないのだ。ただ、そのことばが書きたいだけなのだ。
 この、作家特有の欲望は、特に丸カッコ内に挿入(追加?)された部分に感じる。「ちぎれて裂け目のできた灰色の雲もついでに修繕できそうに思えた」という文は非常に印象的で、それだけを読むためにもう一度このページを私は読み返してしまうのだが、ナボコフはこのことばが書きたかったのだと思う。
 挿入されたことば、追加されたことば、逸脱していくことば--それこそをナボコフは書きたいと思っている。ナボコフは「作家」に分類されるけれど、こういう欲望の発散のさせ方を見ると、「詩人」と読んだ方がいい。
 詩人だけれど詩ではなく、小説を選ぶ。それは小説の方がどんなことばでも受け入れる猥雑さをもっているからだろう。


ナボコフの1ダース (サンリオ文庫)
ウラジミール ナボコフ
サンリオ
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ナボコフ『賜物』(39)

2011-04-05 09:13:42 | ナボコフ・賜物
 (長い中断のあとなので、前に書いたことと重複したことを書くことになるかもしれない。でも、書いていくしかない。)

 ナボコフを読むと、ナボコフがことばを追いかけているのか、ことばがナボコフを追いかけてつかまえてしまうのかわからなくなるときがある。それは何も華麗な文章を指していうのではない。たとえば、

フョードル・コンスタンチノヴィは上着も着ないで、素足にズックの短靴をつっかけて、日焼けした長い指で本を持ち、深い青色のベンチに腰をおろして一日の大半をすごした。
                                 (95ページ)

 この文章は、短くすれば「フョードル・コンスタンチノヴィせ、一日の大半を、ベンチで本を読んですごした。」ということになるだろう。
 「上着も着ないで」など、どうでもいい。「素足にズックの短靴」というのは、「素足にズックの靴」で十分である。そこに「短」ということばが入り込む。「深い青色のベンチ」の「深い青色」も同じ。ナボコフが事実をより具体的に書いている、というより、まるでことばがナボコフの本に降ってきた感じ。ナボコフは、それを書き留める。書き留めないことには先に進めないから--という感じすらする。
 しかし、そうではないのだ。
 その「証拠」を書こう。そのことを「証明」してみよう。
 先に書いたが、引用した一文は「主人公は一日の大半をベンチで本を読んですごした。」になる。誰が(主人公が)、いつ(一日の大半)、どこで(ベンチで)、何をした(本を読んだ)、をつたえるのが文章だとすれば、ナボコフの文章はそこまで短くできる。
 そして私の要約(?)とナボコフの文章を比較すると。
 ナボコフは本を「読んだ」とは書いていない。(訳が正確だと仮定しての話であるが)。「読んだ」のかわりに、本を「持ち」と書いている。
 「読む」という、主人公の動作をナボコフは省略している。もし、ことばがどこからともなくナボコフに降り注ぐものならば、ナボコフは「読んだ」と書いてしまうだろう。ナボコフは「読んだ」を避けているのである。肝心な「行動」を描写することを、その周辺を丁寧にことばで歩き回るのだ。
 ナボコフはことばに追いかけられるふりをして、実際には、ことばをふるいにかけている。こんなに長い小説を書きながら、実際は、ことばを削りこんでいるのだ。そして、ナボコフの小説が長いのは、このことばの「削り込み」を文章そのものの内部に抱え込んでいるからなのである。


賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
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ナボコフ『賜物』(38)

2011-02-01 20:48:51 | ナボコフ・賜物
 フョードル・コンスタンチノヴィチが、やっと部屋に辿り着いたあとの描写。

自分の部屋で彼はやっとのことで電灯を探り当てた。机の上では鍵束が輝き、本の姿が白く浮かび上がった。
                                 (88ページ)
</blockquote>
 探していた鍵が「輝く」、その一方、彼の希望に満ちた詩集(本)が「白く」見える。この「白」は輝きには満ちてはいない。力をなくした色としての「白」である。「蒼白」と書いてしまうとまた「意味」が強くなりすぎてセンチメンタルになる。
 センチメンタルとは感情それ自身の動きではなく、理性、「意味」が感性に働きかけて、その働きかけによって傷ついた感情のことである。「意味」を含まないセンチメンタルはない。
 ナボコフは、ここではセンチメンタルを注意深く避けている。
 「蒼白(青白い)」と、そこにセンチメンタルな「意味」をこめるかわりに、「本の姿」と、「本」を少し複雑にしている。「本」が白く浮かび上がるのではなく、「本の姿」が白く浮かび上がる。
 「姿」のひとことで、その本がありふれた「本」ではなくなる。「本」の形など、どの本もたいして違わない。けれども、自分に大切な本だけは違う。同じ大きさをしていても「姿」が違う。
 ナボコフの小説は修飾語も巧みだが、修飾語(形容詞など)を避けた部分、具体的に「もの」の取り上げ方、「もの」に名詞をつけるやり方に、深く「肉体」を潜り抜けてきた視線を感じる。



引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化
貝澤 哉
論創社

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ナボコフ『賜物』(36)

2011-01-12 15:01:37 | ナボコフ・賜物
 フョードル・コンスタンチノヴィチが徒歩で家へ帰る場面。

やりきれない失望と(自分の本の成功をいったんあまりに鮮明に思い描いてしまったせいだ)、左の靴に浸みこんでくる冷たい水と、新しい場所でこれから過ごさなければならない夜の恐怖が組み合わせり、その組み合わせ全体のせいで苦々しさが強まって不安をかき立てられた。
                                 (84ページ)

 「左の靴に浸みこんでくる冷たい水」というのは水の描写だが、水を超えて、肉体が見える。「冷たい」と感じる肉体が見える。この肉体の感覚が、不安、恐怖、苦々しさというこころを、肉体そのものにする。
 感情、心理というのは、人間の「精神」(こころ)の領域の問題だが、精神は精神自体としては存在しない。いつも肉体とともにある。分離できない。
 ナボコフが人間を「一元論」的に考えていたかどうか、はっきりとはわからないが、ナボコフにはこういう一元論的な人間把握の仕方がある。



マーシェンカ (新潮・現代世界の文学)
V・ナボコフ
新潮社
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ナボコフ『賜物』(35)

2011-01-07 10:18:31 | ナボコフ・賜物
 3人の恋人が森で順番に自殺を試みる。そのシーン。

ルドルフはオーリャのもとに引き返すべく踵を返したが、彼女のことろに辿りつかないうちに、二人とも乾いた銃声をはっきりと聞いたのだった。ところがヤーシャの部屋で日常の風景はその後何時間もまるで何事もなかったかのように続き、皿に残ったバナナの抜け殻も、ベッドの脇の椅子に載った『糸杉の小箱』も『思い竪琴』も、寝椅子の上に置かれたピンポンのラケットもそのままだったのだ。即死だった。
                               (77-78ページ)

 これは書かなくてもわかりきったことである。誰かが自分の部屋から離れた場所で自殺する。そのとき、彼の部屋は彼がそこを離れたときのままであるというのはわかりきったことである。「もの」とは非情なものである。人間の感情など配慮しない。
 ところが、こんなふうに書かれてしまったものを読むと、あ、ヤーシャが最後の瞬間に思い浮かべたもの、見たものは、自分のその部屋だったという気がしてくるのだ。そこに書かれているのは「非情」とはまた別なことがらである、とふいに感じ、悲しみがおそってくる。
 雪の森で自殺する。そのとき、最後の瞬間に見るのは、森ではなく、記憶の部屋である。--ということが事実であるかどうかは、誰にも確かめられない。確かめられないからこそ、それが部屋であってもいいのだ。ヤーシャはきっとそれを見た、と感じてしまうのだ。
 だが、これは、いったい誰が書いたものなのか。誰のことばなのか。ヤーシャのことばではない。
 この不思議さに、私は衝撃を受ける。ナボコフの天才を強く感じるのはこういう瞬間である。
 部屋の描写をし、「即死だった。」と短く事実を書いて、世界はヤーシャの部屋から森へと引き返す。

即死だった。しかし、何とか生き返らせようとして、ルドルフとオーリャは茂みをかき分けて葦辺まで彼の体を引きずって行き、そこで必死に水を掛けたり、さすったりしたものだから、後で警察が死体を発見したとき、それは土と血と水底の泥にまみれていた。
                                 (78ページ)

 この視線の交錯はとても劇的だ。



ロシア美人
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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ナボコフ『賜物』(34)

2011-01-03 12:40:47 | ナボコフ・賜物

 人気のない春の森ではしっとり濡れた白樺の褐色の木立が--中でも特に小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていないといった風に立っていて、(略)
                                 (76ページ)

 高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」をふいに思い出した。窓秋のナボコフの白樺が同じものに見えた。
 ナボコフの「白樺」の文章では、誰が「小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていない」と感じたのかわからない。ルドルフが感じたのか。オーリャが感じたのか。誰の「心象」を代弁しているのかわからないのだが、この誰のものでもない「心象」が、不思議なことに、私をその森へ連れていく。ルドルフの心象でも、オーリャの心象でもないからこそ、私は彼らのどちらかに加担することもなく、客観的(?)に森にさまよい込む。そして、そこで一本の白樺になり、空気を呼吸する。一本の白樺になってしまう。そして、気がつく、あ、これはルドルフの心象でもオーリャの心象でもないのではなく、ふたりの心象なのである。ふたりを超えたというか、ふたりの区別をない心象というものだと気がつく。
 --これは、窓秋の句にもどっていえば、「山鳩」が「山鳩」ではなく、同時に窓秋であり、またそのことばを読む「私」でもあるという関係に似ている。あらゆる存在に区別がなくなる。個々の存在の区別を超えた何か。「一元論」の世界。誰もがその白樺を見るとき、その白樺になり、森を呼吸する。
 こういう不思議な世界が、突然、ぱっと出てくるのもナボコフの特徴だと思う。ナボコフの描写は、あるとき突然「一元論」になる。「一元論」の描写には何でももちこむことができる。どんな「心理」、誰の「心理」でももちこむことができる。だから、あ、これを「盗作」してみたい、という欲望にかられる。何かの描写、どこかの描写に、これを利用して、たとえば「街灯の下の置き去りにされた自転車が、街の喧騒にはまるで関係がなく、まるで自分の内側しかみつめていないといった風にクリスマスの雨にぬれていた」とか。そこから、誰の、どんな物語でもはじめることができる--そういう気持ちにさせられることばに、私は強くひかれる。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
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ナボコフ『賜物』(33)

2011-01-01 17:43:00 | ナボコフ・賜物

ルドルフが思いがけずほろ酔い気分になって羽目をはずしたため、ヤーシャが力ずくで彼をオーリャから引き離したのだが、そのすべての舞台となったのはバスルームだった。それからルドルフは声をあげて泣きながら、いつの間にかズボンのポケットからこぼれ落ちていたお金を拾い集めていた。
                                 (74ページ)

 なぜズボンのポケットからお金(小銭だろう)がこぼれ落ちたのか、その理由は具体的に書いていない。しかし、理由はわかる。ルドルフに対してヤーシャが力ずくで何事かをしたからだ。そのとき、何かの拍子で小銭がこぼれたのだ。こういうことは、ひとはだれでも経験することかもしれない。何かの拍子で誰かと喧嘩し、そのとき小銭がポケットからこぼれる。そういう誰もが経験すること、その面倒な細部をナボコフは省略するのだが、この省略の仕方は絶妙である。その一方「泣きながら」という細部をしっかり書き込む。誰かと喧嘩したときズボンから小銭がこぼれる--そういう激しい喧嘩は誰にでもあることだが、その結果、「泣きながら」小銭を集めるということは、誰にでもあることではない。誰にでもあるのは--たぶん、小銭をそのままにして、その場を立ち去ることだろう。しかし、ルドルフはそうしなかった。そういう、ふいのリアリティをナボコフはしっかりと書き込む。これがナボコフの魅力である。
 これにつづく文章も私は大好きだ。

皆にとってなんと辛く、なんと恥ずかしいことだったろう。
                                 (74ページ)

 喧嘩は辛い。それはなぜか。そのあとに「恥ずかしい」という感情がやってくるからである。もしかしたら恥ずかしさこそが辛さの原因かもしれない。感情をひとことで書くだけではなく、その感情をもう一歩踏み込んで書く。そのとき、そこにリアリティが生まれる。





ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
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ナボコフ『賜物』(32)

2010-12-20 10:32:48 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(32)

新年をなぜか三人はベルリンの駅の軽食堂で迎え--たぶん、駅では時間の武装が特に強い感銘を与えるためだろうか--そのあとで色とりどりのぬかるみの真っただ中に出ていき、ぞっとするようなお祭り気分の街路をぶらついた。
                                 (72ページ)

 「時間の武装」とは何だろうか。駅では時間は厳密に全体を支配している。列車の出発、到着は決められている。時間の支配力を「武装」と呼んでいるのだろうか。だが、それが「感銘を与える」とは? ものごとが「時間」の支配にしたがって動く--そのことにナボコフは感銘を受けるということだろうか。そうであれば、ナボコフの性質(?)、あるいはロシア人の性質のひとつに時間のルーズさがあることになる。時間感覚がルーズだから、時間が厳密に行動を支配しているような世界に感銘を受けるのだ。時間に厳密なひとは、時間に厳密な行動様式には感銘など受けないだろう。当然のことと受け止めるだろう。
 ここに描かれている三人は、時間に対してルーズというか、時間をあまり気にしないということかもしれない。そしてそれは時間だけではなく、「生活」や「世界」に対しても厳格さを求めていないということにつながるかもしれない。「新年」という区切りを、「駅の軽食堂」という「正式な場」から遠いところで迎えるというところに、その性質が暗示されている。
 そして、それはさらに、それに続く文章で強調されている。
 「色とりどりのぬかるみ」とは雨上がりのぬかるみに街の明かり(ネオン)が映り、色とりどりになっているということだろう。「色とりどり」という華麗なものと「ぬかるみ」の結合、さらに「ぞっとするような」という否定的気分と、「お祭り」という違和感のあることばの結びつき。
 ここには「厳格さ」はない。むしろ、「気まま」「自由」という匂いがひしめいている。

 ナボコフの文章の細部は「厳格」「厳密」である。しかし、そのことばの結合は、私たちが一般的に「厳格」「厳密」と呼んでいるものを否定するようにして動いている。そのために、一種の逆説的な効果のようなものが生まれ、その細部がいっそう輝かしく見える。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
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