長嶋南子「猫又」(「きょうは詩人」2013年04月24日発行)
長嶋南子「猫又」を読みながら、「わかる」とはどういうことだろうか、と考えた。
全部をきちんと理解(?)しようとするとややこしいのだけれど。
あ、長嶋には息子がいるんだな。職がないんだ。ずぼらなんだ。バイクで事故をおこしたんだ。それで何か警察に質問されたんだな。いやだなあ。めんどうくさいなあ。「あれは息子ではありません」と言い切ってしまいたい。「もう息子は成人なので私の責任ではありません」そう言いたいのかもしれない。まあ、どっちでもいい。私のことではないのだから。(笑い)
笑ってはいけないのかもしれないけれど、人間の「理解」なんて、そういうものだろう。
で、息子が職をもたないということも、事故をおこしたということも近所に知られてしまう。知られたってどうということはないのだけれど、それは長嶋の言い分であって、近所は違う。野次馬だからね。「やっぱりね。母親だって詩人とかなんとか、へんなことをしている」とかなんとかかんとか。
まあ、そんなことは書いてないのだけれど。
書いてあるのは、息子が猫(野良猫)なら、私(長嶋)も「猫で生きていく」。
あれ?
邪険に(?)息子を扱いながら、やっぱり息子(猫)を気にしている。長嶋も「猫」になって生きてやると思っている。ここに、奇妙な繋がりがあるね。密着。粘着力があるね。
まあ、私の書いていることは「誤読」かもしれない。「猫」は「比喩」であって、ほんとうの猫ではない。
でも、それが「誤読」だとしても、そんなには間違っていないだろう思う。
「世の中」の「わかる」というのは、だいたい、こんなものだろう。人は、「できごと」のすべてを把握して「わかる」わけではない。わからないところだけをテキトウに拾い集めて「わかった」と思うのである。
それで問題はないのか。
問題はない。
猫が「化けて」化け猫にならず、犬になるなんて、けっさくだなあ。
妙なところで長嶋は読者を裏切るね。その裏切りのなかに、さわやかな何かが通り抜ける。
化け猫になって恨まれたらイヤだし、化け猫なんて気持ち悪い。でも、猫から犬への変化なら、その気持ち悪さがない。
でも、それって、ほんとうに「化ける」?
何かが違う。
そこに、不思議な何かがある。これをつきつめるのは「むずかしい」。言い換えると、ほんとうに長嶋が感じていることを自分の肉体のなかに取り込むのはむずかしい。ぜったいにわかるはずがない。
ひととひととは、ぜったいにわかりあえない。
もしかすると、長嶋はそういうことを「わかる」のかもしれない。「わかりあえない」なら、それを前提にして「わかる」をつみあげればいいだけである。そういう達観したところがどこかにあって、それがことばを自由にしている。
どうせテキトウなんだから。
でも、これをあんまりおおっぴらに言ってしまうと、隣の高橋さんに「うるさい」とまた言われてしまうだろう。いや、そういうのは長嶋かな? 知らないうちに隣の高橋さんに「化けて」しまっている。
「無職」も、変な味がある。めんどうくさい「共感」がある。
「明日になれば/明日はきょうになる」。いいなあ。この開き直り(?)。ここに不思議な、あたたかい「真実」があるね。自分自身に対する真実。他人の論理なんか、どうでもいい。自分の「正直な真実」があれば、それでいい。
長嶋のことばの中心には、「正直な真実」がある。それは「正直」だから、他人にはつうようしない。つうようしないのだけれど、「正直」なので、そこに一緒にいることはできる。これが「嘘つきの真実(実は、こういうもののあるのです)」だと、そういうひとは徐々に……は、書かずに置いておこう。
長嶋南子「猫又」を読みながら、「わかる」とはどういうことだろうか、と考えた。
猫缶におかかをふりかけて食べている
台所でぴちゃぴちゃ食べている息子は猫です
きょうはバイクに乗って織さがし
手が丸まっているのでハンドル操作が苦手
事故を起こす パトカーが飛んでくる
猫の飼い主は誰かと
おまわりさんは近所の聞き込み
責任を取らされるのはまっぴらごめん
家で飼っているのは犬ですと大声で言う
うそだ 猫の親子のくせになにをいう
と隣の高橋さんがいいつのる
わたしも猫だなんて知らず
何十年も過ごしてしまった
食べたいものは猫缶ばかり
マグロ味かつお味ササミ風味野菜入りはおいしくない
ことばが出てこない変な鳴き声をしている
猫で生きていくしかない
息子は野良猫になってあちこちうろついている
全部をきちんと理解(?)しようとするとややこしいのだけれど。
あ、長嶋には息子がいるんだな。職がないんだ。ずぼらなんだ。バイクで事故をおこしたんだ。それで何か警察に質問されたんだな。いやだなあ。めんどうくさいなあ。「あれは息子ではありません」と言い切ってしまいたい。「もう息子は成人なので私の責任ではありません」そう言いたいのかもしれない。まあ、どっちでもいい。私のことではないのだから。(笑い)
笑ってはいけないのかもしれないけれど、人間の「理解」なんて、そういうものだろう。
で、息子が職をもたないということも、事故をおこしたということも近所に知られてしまう。知られたってどうということはないのだけれど、それは長嶋の言い分であって、近所は違う。野次馬だからね。「やっぱりね。母親だって詩人とかなんとか、へんなことをしている」とかなんとかかんとか。
まあ、そんなことは書いてないのだけれど。
書いてあるのは、息子が猫(野良猫)なら、私(長嶋)も「猫で生きていく」。
あれ?
邪険に(?)息子を扱いながら、やっぱり息子(猫)を気にしている。長嶋も「猫」になって生きてやると思っている。ここに、奇妙な繋がりがあるね。密着。粘着力があるね。
まあ、私の書いていることは「誤読」かもしれない。「猫」は「比喩」であって、ほんとうの猫ではない。
でも、それが「誤読」だとしても、そんなには間違っていないだろう思う。
「世の中」の「わかる」というのは、だいたい、こんなものだろう。人は、「できごと」のすべてを把握して「わかる」わけではない。わからないところだけをテキトウに拾い集めて「わかった」と思うのである。
それで問題はないのか。
問題はない。
屋根の上でねそべって下界を見下ろす
事故の責任も取らされず
息子がいたことも忘れて居眠りしている
子どもがいなければ発情する?
いえ もう化けるだけです
犬に化けてベランダで遠吠えしています
「うるさい」隣の高橋さんが叫んでいる
猫が「化けて」化け猫にならず、犬になるなんて、けっさくだなあ。
妙なところで長嶋は読者を裏切るね。その裏切りのなかに、さわやかな何かが通り抜ける。
化け猫になって恨まれたらイヤだし、化け猫なんて気持ち悪い。でも、猫から犬への変化なら、その気持ち悪さがない。
でも、それって、ほんとうに「化ける」?
何かが違う。
そこに、不思議な何かがある。これをつきつめるのは「むずかしい」。言い換えると、ほんとうに長嶋が感じていることを自分の肉体のなかに取り込むのはむずかしい。ぜったいにわかるはずがない。
ひととひととは、ぜったいにわかりあえない。
もしかすると、長嶋はそういうことを「わかる」のかもしれない。「わかりあえない」なら、それを前提にして「わかる」をつみあげればいいだけである。そういう達観したところがどこかにあって、それがことばを自由にしている。
どうせテキトウなんだから。
でも、これをあんまりおおっぴらに言ってしまうと、隣の高橋さんに「うるさい」とまた言われてしまうだろう。いや、そういうのは長嶋かな? 知らないうちに隣の高橋さんに「化けて」しまっている。
「無職」も、変な味がある。めんどうくさい「共感」がある。
失業した
石になって
家のなかをゴロンとしている
本は明日読めばいい
そうじも明日
長話の電話も明日
布団干しも買い物も公共料金の支払いも
きょうは石だからなにもしない
明日になれば
明日はきょうになる
やっぱりきょうも石だから
なにもしない
いつもきょうなので
明日はずっとこない
「明日になれば/明日はきょうになる」。いいなあ。この開き直り(?)。ここに不思議な、あたたかい「真実」があるね。自分自身に対する真実。他人の論理なんか、どうでもいい。自分の「正直な真実」があれば、それでいい。
長嶋のことばの中心には、「正直な真実」がある。それは「正直」だから、他人にはつうようしない。つうようしないのだけれど、「正直」なので、そこに一緒にいることはできる。これが「嘘つきの真実(実は、こういうもののあるのです)」だと、そういうひとは徐々に……は、書かずに置いておこう。
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