詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「猫又」

2013-04-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「猫又」(「きょうは詩人」2013年04月24日発行)

 長嶋南子「猫又」を読みながら、「わかる」とはどういうことだろうか、と考えた。

猫缶におかかをふりかけて食べている
台所でぴちゃぴちゃ食べている息子は猫です
きょうはバイクに乗って織さがし
手が丸まっているのでハンドル操作が苦手
事故を起こす パトカーが飛んでくる

猫の飼い主は誰かと
おまわりさんは近所の聞き込み
責任を取らされるのはまっぴらごめん
家で飼っているのは犬ですと大声で言う
うそだ 猫の親子のくせになにをいう
と隣の高橋さんがいいつのる

わたしも猫だなんて知らず
何十年も過ごしてしまった
食べたいものは猫缶ばかり
マグロ味かつお味ササミ風味野菜入りはおいしくない
ことばが出てこない変な鳴き声をしている
猫で生きていくしかない
息子は野良猫になってあちこちうろついている

 全部をきちんと理解(?)しようとするとややこしいのだけれど。
 あ、長嶋には息子がいるんだな。職がないんだ。ずぼらなんだ。バイクで事故をおこしたんだ。それで何か警察に質問されたんだな。いやだなあ。めんどうくさいなあ。「あれは息子ではありません」と言い切ってしまいたい。「もう息子は成人なので私の責任ではありません」そう言いたいのかもしれない。まあ、どっちでもいい。私のことではないのだから。(笑い)
 笑ってはいけないのかもしれないけれど、人間の「理解」なんて、そういうものだろう。
 で、息子が職をもたないということも、事故をおこしたということも近所に知られてしまう。知られたってどうということはないのだけれど、それは長嶋の言い分であって、近所は違う。野次馬だからね。「やっぱりね。母親だって詩人とかなんとか、へんなことをしている」とかなんとかかんとか。
 まあ、そんなことは書いてないのだけれど。
 書いてあるのは、息子が猫(野良猫)なら、私(長嶋)も「猫で生きていく」。
 あれ?
 邪険に(?)息子を扱いながら、やっぱり息子(猫)を気にしている。長嶋も「猫」になって生きてやると思っている。ここに、奇妙な繋がりがあるね。密着。粘着力があるね。

 まあ、私の書いていることは「誤読」かもしれない。「猫」は「比喩」であって、ほんとうの猫ではない。
 でも、それが「誤読」だとしても、そんなには間違っていないだろう思う。
 「世の中」の「わかる」というのは、だいたい、こんなものだろう。人は、「できごと」のすべてを把握して「わかる」わけではない。わからないところだけをテキトウに拾い集めて「わかった」と思うのである。
 それで問題はないのか。
 問題はない。

屋根の上でねそべって下界を見下ろす
事故の責任も取らされず
息子がいたことも忘れて居眠りしている
子どもがいなければ発情する?
いえ もう化けるだけです
犬に化けてベランダで遠吠えしています
「うるさい」隣の高橋さんが叫んでいる

 猫が「化けて」化け猫にならず、犬になるなんて、けっさくだなあ。
 妙なところで長嶋は読者を裏切るね。その裏切りのなかに、さわやかな何かが通り抜ける。
 化け猫になって恨まれたらイヤだし、化け猫なんて気持ち悪い。でも、猫から犬への変化なら、その気持ち悪さがない。
 でも、それって、ほんとうに「化ける」?
 何かが違う。
 そこに、不思議な何かがある。これをつきつめるのは「むずかしい」。言い換えると、ほんとうに長嶋が感じていることを自分の肉体のなかに取り込むのはむずかしい。ぜったいにわかるはずがない。

 ひととひととは、ぜったいにわかりあえない。

 もしかすると、長嶋はそういうことを「わかる」のかもしれない。「わかりあえない」なら、それを前提にして「わかる」をつみあげればいいだけである。そういう達観したところがどこかにあって、それがことばを自由にしている。
 どうせテキトウなんだから。
 でも、これをあんまりおおっぴらに言ってしまうと、隣の高橋さんに「うるさい」とまた言われてしまうだろう。いや、そういうのは長嶋かな? 知らないうちに隣の高橋さんに「化けて」しまっている。

 「無職」も、変な味がある。めんどうくさい「共感」がある。

失業した
石になって
家のなかをゴロンとしている

本は明日読めばいい
そうじも明日
長話の電話も明日
布団干しも買い物も公共料金の支払いも

きょうは石だからなにもしない

明日になれば
明日はきょうになる
やっぱりきょうも石だから
なにもしない
いつもきょうなので
明日はずっとこない

 「明日になれば/明日はきょうになる」。いいなあ。この開き直り(?)。ここに不思議な、あたたかい「真実」があるね。自分自身に対する真実。他人の論理なんか、どうでもいい。自分の「正直な真実」があれば、それでいい。
 長嶋のことばの中心には、「正直な真実」がある。それは「正直」だから、他人にはつうようしない。つうようしないのだけれど、「正直」なので、そこに一緒にいることはできる。これが「嘘つきの真実(実は、こういうもののあるのです)」だと、そういうひとは徐々に……は、書かずに置いておこう。








猫笑う
長嶋 南子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケン・ローチ監督「天使の分け前」(★★★★)

2013-04-30 11:43:04 | 映画
ケン・ローチ監督「天使の分け前」(★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショウ、ゲイリー・メイトランド、ウィリアム・ルアン、ジャスミン・リギンズ

 映画には感想の書きやすいものと書きにくいものがある。ケン・ローチ監督「天使の分け前」はとても書きにくい。何が書きにくいかというと……。
 ケン・ローチという監督は、他人に対する「親和力」がとても強い監督である、と書いたらあとは書くことがないからである。「親和力が強い」というのは、私の勝手なことばなので、ほんとうはもっと別な言い方があるかもしれないが。
 違った言い方をすると。
 ケン・ローチは、映画に出てくる人を嫌いにならない。そのまま、全部を受け入れる。生きているまま、動かしてしまう。ルノワールやタビアーニ兄弟にも同じ力を感じるけれど。
 そして、ケン・ローチは生きている人間をそのまま応援するけれど、かといって応援しすぎて人生をねじまげるというようなこともしない。「そのまま」そこに存在させる。そしてそうやって生きていることが輝くのを待っている。そんな感じ。

 映画に則して言いなおすと。
 登場するのは、いわゆる「不良」である。すぐ暴力を振るってしまう主人公。盗み癖がとまらない女。無知な酔っ払い。でも、そういう彼らが社会でちゃんと働いていけるよう応援する人もいる。
 主人公には人とは違った能力がある。嗅覚が強い。ウィスキーのテイスティングで香り、味の違いを指摘できる。--こういう人間を主人公にしてしまうと、その能力を生かして、主人公の出世物語をつくりあげてしまいそうである。主人公には恋人がいて、赤ん坊もうまれる。テイスティング能力をかわれて、主人公の成功物語が始まり、それに家族がむすびつく……いわゆるハッピーエンディング。
 でも、ケン・ローチはそういうことをしない。主人公にできることは、そういう「成功」ではない。彼のまわりにいるのは、そういう「成功」をささえる人ばかりではない。もっとだらしない(?)。でも、生きている。そういう仲間と一緒になって、そういう「成功物語」もあるかもしれないけれど、それじゃあ、嘘になってしまう。
 嘘にならない前に、現実に戻り、そこで生きる。
 不良仲間なので、まず、盗みをする。すばらしいウィスキーがみつかった。オークションがある。その会場に潜り込んで、樽ではなく、樽からビンにちょっと盗み出す。そしてそれをほしがっている人間に売りさばく。--これって、まあ、犯罪なのだけれど、もともとウィスキーには蒸発分が見込まれている。蒸発しながら味がよくなる。これが「天使の分け前」と呼ばれるもの。その「天使の分け前」を増やすだけ。自分たちのものにするだけ。
 これを否定してしまったら、人間は生きるのがむずかしい。積極的に「やれ」というのではないけれど、そうしたからといってそれをとがめない。そういうことは「個人」の問題なのだ。自分で切り開いた道なのだから、それをやればいい。そういう「天使の分け前」の領域というのは社会がもっていないといけないのである。あいまいな、どこかへ消えてしまう何か。けれども、そのあいまいなものによって「味」がよくなる。そういうもの。そういうあり方に、ケン・ローチは寄り添っている。この寄り添い方が、人間を嫌いにならない、人間を好きになるということ。受け入れるということ。
 で、最後の方。
 盗み出した一本を主人公は、自分を受け入れてくれたウィスキー好きのおじさんにささげる。このおじさん、それが盗み出されたものであることをすぐにわかる。わかって、そのことに対して怒るのではなく、「あいつめ」と受け入れる。ここにケン・ローチがそのまま出で来る。いいなあ。




ケン・ローチ 傑作選 DVD‐BOX
クリエーター情報なし
ジェネオン エンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』

2013-04-29 23:59:59 | 詩集
淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』(花梨社、2013年03月27日発行)

 淵上熊太郎『清潔で、満腹で、悲しくて、』にはむずかしいことばはない。何が書いてあるかは読んですぐにわかる。たとえば、「窓」。

窓の奥に潜んで
枠のついた海を見る
晴れた日も雨の日も
思いがけず雪の日も

家の近所の百メートルは
いわゆる私のテリトリーで
気持ちさえあれば
海辺までも歩ける

ヨットが近くにいたら
石を投げることもできる
だからといって
気持ちが晴れることはない

 「窓の奥に潜んで」というのは部屋の中から、くらいのことだろう。「奥に潜んで」ということばに、少し鬱屈のようなものを感じる。「枠のついた」というのは「窓枠」のなかだけで海が見えるということ。
 このあたりのことばに、抒情が感じられる。
 重たい抒情ではなく、軽い抒情。
 ここから先へ感想を進めることはむずかしい。--なんというのだろう。オリジナリティーをどこに感じるべきか、がむずかしいのである。だれそれの詩に似ているというのではないけれど、なんとなく、こういう作品は多くの人が書いているかもしれないなあ、と思ってしまう。これは余分な感想なのだけれど、そういう余分を引き寄せるところが淵上のことばの動きにはある。
 特に「ヨット」の3連目。石を投げてしまえば違ってくるかもしれないけれど、投げない。考えてみるだけ。実行しないのは、石を投げてみたって「気持ちが晴れることはない」と知っているから。
 この、あらかじめ自分の気持ちがどうなるかを知っている、という感じの抒情が……うーん、私にはちょっと、イヤ。それが好きという抒情派詩人は多いと思うけれど。
 1連目の「枠」とも重なるのだけれど--自己限定。いいことばで言いなおせば「両親」の歯止めなんだろうけれど。そこには冒険の「わくわく」がない。自己拡張の「わがまま」がない。逸脱の「でたらめ」がない。奔放がない。自由がない。
 自由はこころのなかにだけある。こころの自由のために、何かが傷つく--そのときの抒情。敗北しながら守る精神の輝きという名の抒情……。
 かな。

 全部ひらがなで書かれた「さくら」は、詩集のなかではいちばん好きな作品だ。

さくらはなかなかなかない
さむくてもなかない
あたたかくてもなかない
きっとかなしくてもなかない
きせつはずれに
ゆきがふっても
なかないで
さくさく
さくら
なかなかなかない

 「なかなかなかない」という音が美しい。そして「なかなかなかない」ということは、結局は「なく」ということでもあるのだけれど、その「なく」はさくらのなかで起きることではなくて、詩人のなかで起きること、淵上のこころのなかで起きることだね。
 「きっとかなしくてもなかない」は、淵上は同じように「かなしくてもなかない」ということだろう。でも、それは表面的なこと。いわゆる「顔で笑って心で泣いて」ということ。で、人間は、その「顔で笑って心で泣いて」という矛盾した「肉体」のあり方に共鳴する。
 「なかなか」に共鳴する。

 「なかなか」はなかなかことばにするのはむずかしい。けれど、だいたい、わかるね。このだいたいが、きっと共鳴の「基本形」なんだろうなあ……。

 ということろで感想をやめてもいいのかもしれないけれど、もう少し書いてみる。「逃げ水」という作品。これはちょっと異色かもしれない。海とかヨットとかさくらといった「現実」とは違うものが登場する。

マサイ族の戦士が
首都高速道路羽田線を歩いてくる
春だというのに
視線の先には逃げ水が
午後の光を反射している
私は車を運転しながら
戦士を轢死させないように
細心の注意を払って
減速する
隣のシートに座っている
知人のアメリカ人には
そんな障害になる人物が
見えていないので
怪訝な顔で
私を見る
気温が摂氏二十度を超える頃になると
桜のカーテンの向こうに
いろいろなものを見てしまうのは
私だけだろうか

 「マサイ族の戦士」は現実には存在しない。幻。淵上はここでは「幻視」を見ていることになる。淵上はそれを「幻視」とはいわずに「いろいろなもの」と言っている。
 淵上の書いていることは、これだね。さくらの「なかなかなかない」もそこには存在しないあり方--それが見える。見えれば、それは幻手はなく現実になる。肉眼が見るのだから、見えた多ものも現実になる。
 で、その「見え方」にはひとつの特徴がある。淵上ならではの「こと」がある。

桜のカーテンの向こうに

 何かに目を向ける。そうすると、その対象だけではなく、その「向こうに」何かが見える。手前ではなく、「向こう」。手前には、ちゃんと(?)「桜のカーテン」という現実が見える。「桜のカーテン」は比喩を含んでいるから、現実ではない、という言い方もできるけれど、「マサイ族の戦士」よりは現実に近い、ふつうの視力で見えるものである。
 そうか、淵上はいつでも「向こう」が見えているのが。そして、その「向こう」というのは「理想」のように一つの焦点をもって何かを統合する力ではなく、「ひとつ」とは反対のものなのだ。「いろいろなもの」。複数。それはどれが正しいというわけではない。「いろいろ」なまま共存している。
 「いろいろなもの」を共存したまま見つめる、それを受け入れる。
 そこに淵上の「かなしさ」と「やさしさ」がある。「ひとつ」なら、きっと簡単に泣ける。でも「いろいろなもの」を見てしまうと、そしてそれをわかってしまうと「なかなか」ひとつにはなれない。ひとつにはしぼれない。ひとつなら、そのひとつに向けてこころを集中させて泣くこともできるかもしれない。でも「いろいろ」なので「なかなか」泣けない。だから、よけいに悲しくなる。




花見の森
淵上 熊太郎
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」ほか

2013-04-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」ほか(「別冊詩の発見」12、2013年03月22日発行)

 江夏名枝「菊の色こきはけふのみかは」はタイトルが上田秋成の「菊花の約束」からとったもの、と最後に書いてある。その作品とどれくらい関係があるのかは、私にはちょっとわからないのたが……。

 未知の男がこちらを見て視線を外す、誰を探すふうでもなく視線をすべらせているだけであろう、厄介な役職をとかれたものの気を急いだ素振りは、また来るべき過日を案じてのことか、それでも面目は保たれたと身の丈にあった小心翼翼、次の賭けが動いている。
 宴のあとの封を切られた放心が散り散りに、私は頬骨から顎を片手でおさえて骨に浮く惨めさを覆ったつもりで、拠り所なく……私だけではないらしい、会釈をつらねる幾人かの背中は罌粟の実の溢れ出る静けさに、街路は遠く映え続いている。

 あ、「文学」に対抗しようとして苦戦している。その苦戦のさまがおもしろい--というと江夏に申し訳ないが、そうか、「文学」を題材にするのはこういう問題かあるのか……と思いながら読んだ。
 こういう問題、というのは、先行することばの世界に拮抗しようとすると、どうしてもことばが多くなるという問題である。

未知の男がこちらを見て視線を外す、

 この一文、

男が視線を外す、

 で充分に通じる。視線を外したことがわかるのは、こちらを見ていたからである。こちらを見ていなければ視線を外しても、それを「外した」とは感じない。視線を外した、には男がこちらを見ていた、と同時に、「わたし」も男を見ていたことが「肉体」としてわかる。そして、それが「肉体」としてわかるのは、男が知り合いであるときもそうだけれど、「未知(知らない)」ときの方が、きっと「肉体」にささる。
 言い換えると。
 「未知の」男が「こちらを見て」視線を外す、という文章では「未知の」と「こちらを見て」が「肉体」にはうるさい。「頭」のなかをことばが動いている感じがして、直接的ではない。説明が多くて「肉体」が遠くなる。
 そうか、ことばに対抗しようとすると、ことばはこんなふうに「頭」のなかで増殖していくのか……。
 まあ、江夏のこの作品は、「厄介な役職をとかれたものの……」のように、男の「過去」へとことばが動いていく、そしてその「過去」は「私」が想像したもの(頭の中で動かしたもの)なのだから、これはこれできちんと「意味」のある「頭のことば」なのだけれど、やっぱりなんだかうるさい。わずらわしい。
 そのために。

私は頬骨から顎を片手でおさえて骨に浮く惨めさを覆ったつもり

 という魅力的なことばが沈んでしまう。ほかのことばにのみこまれてしまう。これは江夏にも自覚されているのかもしれない。だから、その沈んでいったことば、のみこまれたことばをなんとかもう一度浮かび上がらせよう、くっきりと存在させようとして、ことばをさらに押しつづけ、作品が長くなっている。
 うーん、三分の一というと厳しいかなあ。ことばを、せめて半分に減らすと、もっと想像力に突き刺さってくることばになると思う。



 阿部日奈子はやはり「文学」を題材にしてことばを生きるが、「頭」のことばの処理に手慣れている。「無告坂」は夫婦喧嘩(?)をして男に殴られ、前歯がかけた女を描いている。

鏡をのぞくに洗面所へ行きたくても
男が倒した洗濯機が邪魔してたどり着けない
安普請のボロアパートだもの
物音は筒抜けのはずなのに誰も出てきてくれなかった
「あに仲裁を買って出て何ぞ楽しかるべけんや」って
みんな冷たいなぁ冷たすぎて寒すぎて五月なのに凍死しそう

「あたし、賢そうな女が愚かな選択をして苦しむ小説が好きなの」
瞳をきらきらさせてそう言い放った母さん
エンマやイザベルの物語には舌なめずりしても
娘の不品行は願い下げなんでしょう
だいじょうぶ木の股からうまれてきたことにして
お目に触れぬよう生きていきます

 複数の文学、複数の「ことばの肉体」に、生きている他人(母だけれど)の「なまのことば(なまの肉体)」をぶつけることで、ことばが「頭のなかのことば」の重力にひきずりこまれないようにしている。テーマの「文学のことば」を、「他人(他の肉体)」のことばで切断する。そうすると、ことばが「頭」から切り離されて自由になる。「頭」のことばなのに、「頭」から自由になって、飛んで行く。
 二人の作品を読み比べながら、そうか、「文学」から出発するときは阿部のようにすればいいのか、と勉強させてもらった。今度真似してみよう。



 山田兼士「岩山望景詩」は芭蕉の「折々に伊吹を見てや冬籠」という句もとに書かれたもの。もとにしているといっても、17行の詩の先頭を「お・り・お・り・に……」という具合にしているだけなのだが。(一行を25字にして、形を定型にしている。)
 伊吹山のかわりにセザンヌのセントヴィクトワール山が出てくる1連目につづいて。

いぶきおろしにハンドルを取られながら自転車を必死に
ぶっとばしていた高校への道 一九六九年十二月十九日
きになるのは朝整えてきた天パの長髪 左前方からの風
をうけ髪はぐしゃぐしゃ 田圃の中の一本道をひた走る
みぎから分けたことを後悔しながら走るも突風に煽られ
て一旦停車 北西の方角に遠望したのは雪を頂いた岩山
やまとたけるをも打ち負かした神の山だ はるか遠方に

ふゆごもりでもしたいと願いながら岩山を遠望した一瞬
ゆったり風に吹かれながら遠く岩山を見ていた夏の一瞬
この二つの稜線が一つになるのにながい時間がかかった
もう見ることのないだろう異郷の山とこれからも折り折
り見るだろう故郷の山に見守られ僕は還暦にダイブする。

 ときどき、行のわたりに「むり」がある。ほんらい前の行の最後にあるべき「音」(ことばのつづき)が、行の先頭に来る。「定型」を守ったために、芭蕉の句の音を先頭に持ってくるという「決まり」を自分でつくったために、ことばが「壊されている」。
 でもね。
 この「壊されたことば」(壊された決まり?)に出会った瞬間、「文学」から解放される。「頭」から自由になって、その乱れた(?)破れ目から「肉体」が飛び出してくるみたいでおもしろい。
 そうか、山田は天然パーマだったのか、髪は右分けだったのか、伊吹山が見えるところに住んでいたのか、セザンヌが好きなのかな……。そういうことが、芭蕉を突き破って見えてくる。感じてしまう。
 それって文学に関係ない? そうかなあ。「肉体」がそこに存在している、ことばが肉体になっていると感じられれば、それがどんなことであれ、それは文学だと私は思う。
 行のわたり、不完全な一行、その処理を「へたくそ」と言えばへたくそになるのかもしれないけれど(言い換えると、江夏なら、そういう処理はしないだろうけれど)、そのへたくそなところに、ふいにあらわれる「肉体」のかたまりのようなものがあって、いいなあ、と思う。山田の「肉体」があって、それがいいなあ、と思う。

海は近い
江夏 名枝
思潮社



微光と煙
山田 兼士
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンドリュー・ドミニク監督「ジャッキー・コーガン」(★★★★)

2013-04-28 23:21:58 | 映画


監督 アンドリュー・ドミニク 出演 ブラッド・ピット、リチャード・ジェンキンス、ジェームズ・ガンドルフィーニ

 1シーン、とても気に入った。ブラッド・ピットが賭場の支配人(?)を銃で殺すシーン。隣につけた車から運転している支配人を狙う。スローモーションで銃弾が飛び出し、ガラスが割れ、頭を銃弾が貫き、頭から血が噴き出る。さらに銃弾。ガラスが飛び散る。そこへ車がぶつかってくる。そしてまたガラスが飛び散る。フロントガラスに支配人の頭がぶつかり、フロントガラスも蜘蛛の巣状にヒビが入って、それから割れる。しつこいくらいにガラスと車の車体が分解・分散していく映像がつづく。それを見ていると、あ、これは、

死んでいく瞬間に支配人が見る世界

という気持ちになる。脳を銃で破壊されたら、何も見えないかもしれない。でも、その見えなくなる一瞬手前で見る世界、脳が破壊される時間と、網膜が世界をつかみ取る時間のあいだ、その時差のあいだに、これがある--と思える。
 そして、その美しさに、思わず、あ、これを見たい、と思ってしまう。それを見ると死んでしまうんだけれど、うーん、死んでもいいからそれを見たい。そういう矛盾した(ぶっとんだ?)感じ。
 これに輪をかけるが、そのときバックで流れる曲。「風のささやき」(でよかったかな?)、スティーブ・マックィーンとフェイ・ダナウェイの「華麗なる賭」の主題歌。それがけだるい声で、耳元でささやきかける。ね、死んで行くときって、世界はこんなにあざやかに輝いて見えるし、耳元には苦痛とは無関係な甘い音楽が鳴っている。
 いやあ、いいなあ。死ぬなら、ぜったいこういう感じで死んでゆきたいなあ。世界がばらばらに砕け散るのを見ながら、一方でやさしい音楽が全体をつなぎとめる。ぎすぎすした金属音やガラスの割れる音、衝突音かはどこか遠くへ消えてしまっている。
 いいなあ、いいなあ。
 でも、危ないね。だから、だれにでもおすすめできる映画ではないのだけれど。でも、おもしろい。
 このシーンにかぎらず、だいたいがこの映画、「殺し」がテーマなんだけれど、その「殺し」という異常な世界が、なんだかとっても美しくうっとりさせる感じで肉体に迫ってくる。美しい現実になる。
 「頭」と「肉体」の微妙なズレのようなものが、執拗に描かれて、それがなぜか快感である。
 たとえばチンピラ二人がドラッグでもうろうとしながら、奪った金について話している。ドラッグを仕入れてさらに金儲けすることを話している。そのとき、もうろうとした頭に世界がどんなふうに見えるか--世界が近づいたり、離れたり、声が聞こえたり聞こえなくなったり。もうろうとなりながら、逆に、ある部分が覚醒してきたり。ぶっ飛んでいるはずなのに、恐怖が覚醒を引き起こしたり。その「揺らぎ」をきちんと映像にしている。
 ニューヨークからやってきた殺し屋は殺人はそっちのけで、酒と女に溺れている。その酒の溺れ方。そのときの、ぼんやりした感じ。肉体がだらしなくほどけて、女の話ばかりしている。殺して金を手に入れるというビジネスがなおざりにされている。わかっているのに(?)、酒がやめられない。酒を飲みながら、眠くてねむくて、ぼんやりする。そのときの、彼に見えている世界--それが、実におもしろい。
 これに比べると、ブラッド・ピットと殺人の依頼者(ドライバー)に見えている世界というのは、酔い(?)による揺らぎがなくて、まあ、退屈だねえ。「知り合いを殺すのは苦手だ。殺さないでくれと哀願されるとたまらない。だから、苦しまないように、(気がつかいように)ぱっと殺してしまう。キリング・ゼム・ソフトリー(原題)」というブラッド・ピットの意識のなんという色気のなさ。こんな冷めた「頭」はつまらない。やっぱり、逸脱した世界そのもの、ふつうでは味わえない「恍惚」を味わいたい。死ぬなんて体験は、一生に一度なんだから、ぜったいにすばらしい感じ、絶対的な恍惚を味わいたいよね。そうなるようにブラッド・ピットは「やさしく」殺す? そうかもね。
 人間の、だれも体験したことがない恍惚--これを描きたかったんだ、という監督の喜びがジカに伝わってくる、とんでもない映画。
 どう? 見てみる?


 
 あ、書き忘れた。「風のささやき」と少し関係があるのだけれど、音の処理がこの映画はとてもおもしろい。しょっちゅうブッシュとオバマの声がテレビから流れている。テレビにオバマが映ることもあるけれど、ぜんぜん映っていないのに、そこにふたりの声が必要でもないのにその声が聞こえる。賭博場を二人組が襲うときのバックにもテレビから聞こえる。テレビは映らないけれどね。そのときのアメリカの現実と、それとは分離した世界での強盗、殺人--そのすれ違い。もちろん、そういう犯罪が起きることと政治を重ね合わせて何かいってもかまわないけれど、まあ、無関係に、と考える方がこの映画にはあっているね。殺されるときの苦痛(?)と、死んで行く人間が体験する硬骨とが無関係であるようにね。
                       (2013年04月28日、天使東宝5)





ジェシー・ジェームズの暗殺 特別版(2枚組) [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川朱実「きょう、日付変更線を」ほか

2013-04-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「きょう、日付変更線を」ほか(「別冊詩の発見」12、2013年03月22日発行)

 時間はどこにあるのだろうか--と、北川朱実「きょう、日付変更線を」を読みながら思った。

時間は
ほんとうに規則正しく進むのか

夜明けに
きのうの夕焼けが混じることはないのか

日付変更線を引き直して
二十九日の翌日が三十一日になった
南太平洋の国の

消えた一日について
テレビが伝えている

 「日付変更線」は人間が考え出した便宜上のものである。その便宜上のものによって、便宜上「一日」が消える。けれど、それはほんとうは存在する。あるいは、そうやって「消えた」という印象を残すことで、逆に強く浮かび上がってくる。「いま/ここ」ではなく「消えた」もののなかにこそ、ほんとうがある。
 で、北川にとって「ほんとう」とは何か。

県道沿いに
父が開店した大きな古本屋

中は
椰子の木ばかりが繁る一枚の原っぱで

赤茶けた本が
あちこちの根元から生えている
と思ったら
鉄兜の欠片だった

レイテ島カンギポット

 北川は、北川の父の「ほんとう」が「レイテ島」にある、あの日にある、と感じている。それを確かめにレイテ島に来たのかもしれない。「消えた一日」は「日付変更線」によってのみつくられるのではない。
 では、何によってつくられるか。どんな「便宜」がその一日を消してしまうのか。
 これを考えはじめると、ちょっとめんどうになる。
 北川は、その「便宜」をここではことばにしない。そうするよりも、その「消えた一日」を「消えない」形でつかみとろうとする。「消えない一日」として出現させることで、その一日を消してしまう力(便宜)に対して抗議をする。

  目はあまりよく見えないほうがいいよ
  道に迷えるから

笑いながらページをめくるたびに
村は 赤い花になってこぼれ落ち

  花酒うまかったなぁ
  あの花の名前、何というのだっけ
聞いても仕方のないことを何度も聞いて

父は 突然スコールになる

 その「消えた一日」、父は花酒の花の名前を聞く。北川はその花酒の花の名前を知りたいと思う父を覚えている。それは消えない。
 そういう「一日」を大切だと思うこと--それはその一日を消してしまった力から言わせれば「迷いごと」である。けれど、その「迷いごと」が、私たちの暮らしである。生きるということである。「便宜」によって整えられないものの中に、私たちは生きている。
 そういう「一日」は、「あまりよく見えない/目」には不思議な形で見えるものである。花酒の花の名前を聞いた父は、「きょう」スコールというものになって北川の前にあらわれる。スコールに降られて、北川は、あ、父もこのスコールにぬれたに違いないと思う。そのとき、北川の「肉眼」は父を見ている。スコールなのに、父。スコールなのに、「花酒うまかったなぁ/あの花の名前、何というのだっけ」などと言っている。言わなければならないことは、ほかにもたくさんあるはずなのに、それを知ることがいちばん大切だとでも言うように。
 なぜ、それが大切?
 父は言うだろう。(北川は言うだろう。)それは「消えた一日」だからである。書くことで、北川は父になり、「消えた一日」になる。



 大西隆志「本の彼方へ……故坂東芳郎さんへ」は古書好きの故人にささげた詩である。そのなかほどにとても魅力的な一行がある。

一度だけでも目を通された活字はゆっくりとことばの通路を開いている

 これは北川の「消えた一日」に匹敵する。「消えたことば(消えた一行)」である。それは消えながら、その消えたものへと私たちを誘う。誘い込んで離さない。まるで、本の全部が消えたとしても、その「消えた一行」だけは永遠に残るかのように。
 このとき、その「消えた一行」が坂東芳郎になる。北川の書いている「消えた一日」が父になるのと同じように。そして、それは、生きて、動く。

本の森のなかを歩きまわりながら、あちらとこちらの時間に
挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか
本にもいろいろな匂いがあります
かつては匂っていたインクだけではありません
頬を近づけてみれば、日だまりのなかで家族が笑っていたり
すべてを失って大声で泣くこともかなわない幼子の記憶
それらは匂いとして、行間から立ち上ってくるのです

 一度でも「ことば」が読まれたなら(聞かれたなら)、そのことばは「一日」を消しはない。ことばによって「一日」はかならずどこかへ繋がっていく。「便宜」をくぐりぬけて、かならずよみがえる。よみがえろうとしている「ことば(一日)」があちらこちらに生きている。だから「挨拶していく、こんにちは、こんにちは、お元気ですか」。私は坂東芳郎という人を知らないけれど(大西も知らないのだけれど)、きっと、本を開きながら「消えた一日」にしっかりと向き合って、その一日を励ましていた人なのだろう。

人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社


オン・ザ・ブリッジ―詩集
大西隆志
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丁海玉「行と行のあいだに」ほか

2013-04-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
丁海玉「行と行のあいだに」ほか(「space」109 、2013年04月20日発行)

 丁海玉は、これまで読んだ詩から推測すると、法廷で通訳(ボランティア)の仕事をしている。今回もそのことを題材にとりあげている。審理で読み上げる原稿が届いたが、行間が詰まっていて、あいだに翻訳のことばを書くスペースがない。レイアウトをかえてもらうが、それでも苦しい。

すんなり引き延ばされた白いあいだが
こちらをうかがう
こちらからもうかがう
やはり
どうしても足りない
2本の鉛筆の芯先を差し入れて
行と行を
上下にひっぱって広げてみた

そうしたら
ひし形に伸びて
ぱっくりひらいたところから
なにか滲み出るものがある
よくみると破れ目もあって
外へあふれ出てくるものは
止まるようすがない
あわてて薬箱にあった
ホルム散の粉をふりかけた

 滲み出てくるものとは何か。具体的には書かれていない。丁が翻訳(通訳)しなければならない「原稿」とはだれのものだろうか。検事側の起訴状だろうか。被告の答弁書だろうか。
 被告の答弁書だろうなあ。
 書かれたことばだけでは不十分であることが、丁にはわかる。ほかにいいたいこと、いわなければならないことがある。それが書かれていないけれど丁には聞こえてくる。あふれるように行間から次から次へと。
 具体的には書かれていないのだけれど、そんなことを感じさせられる。
 こういうことは法廷の「原稿」だけにはかぎらない。実際、この詩に感じているのは、まさにそういうことだ。書かれている文字はそれだけ。けれど、そのことばとことば、行間から書かれていなことばが声になって響いてくる。
 「ぱっくりひらいたところ」がとてもいい。
 丁は、「審理」とは別に、丁自身の「判断」が動くのを感じる。そこには丁だけがみつけた「真実」がある。その「真実」をしかし丁はいうわけにはいかない。丁の仕事は他人の語ることばをただ翻訳し、通訳することだけである。どれだけ行間が広くても、そしてそこにあふれてくることばが聞こえてきたとしても、そこに書いていないなら、それを翻訳することはできない。
 ジレンマがある。
 そのとき、「ぱっくりひらく」のは原稿の行間だけではない。丁のこころそのものがぱっくりひらいて、ことばがあふれだす。でも、それは言ってはいけない。
 もしかすると丁が聞いたのも、その「言ってはいけない」という被告の決意の中にあるものかもしれない。そうだったら、どうしよう。
 ことばがわかるゆえの苦悩。それが簡潔に、最小限のことばで書かれている。
 こういう苦悩は好きだなあ。いいなあ。



 書かれていなのに、そこに書かれていることを感じ取ってしまう。そういうことはしばしば起きるいその感じ取ったことは「間違い」かもしれない。でも、間違えながらも、その「声」を聞いた(聞こえると感じた)とき、そこには、詩、がある。
 松木俊治「平岡山」は、主人公が校庭の「登り棒」をよじのぼっている。

登りつめ荒い息を吐きながら
広がる田圃の向こうを見た
県立病院の白い建物
精神病棟だという噂だった

その日ぼくは母の帰りを待っていた
あれほど待っていたことはない気がする
しんとした部屋で
途方に暮れていた

 母はどこへ行ったのか。なぜ帰ってこなかったのか、書かれていない。ただ「待ったいた」ということだけが書かれる。そして「あれほど待っていたことはない」と補われる。その「声」が聞こえる。その「声」のなかに「真実」がある。「かなしみ」がある。それは、もしかすると松木の直面した「真実(かなしさ)」とは違うかもしれない。私の勘違いかもしれない。けれど、勘違いであってもいいのだ。私は、その「声」に共感している。私のものではない「途方の暮れ方(?)」なのに、その「途方に暮れる」を感じてしまう。
 「行間」(書かれていないことば)の「声」はとても強い。



 南原充士「古いビデオテープ」は、古いホームビデオテープをDVDに焼き付けて、それを見る、見たときのことを書いている。

今はない祖父母や
ずっと会っていない友人知人や
いまも一緒に暮らしている家族の
昔のようすが見えてきた
なんどもくりかえして再生しているうちに
なつかしいと感じた気持ちが
ふと淋しいへと変わり
さらに悲しいから空しいへ
そして感情が洪水のようにあふれて
自分のこころとからだが根こそぎ
流されてしまう恐怖にとらわれた

 「なつかしい」からの4行がとてもいい。そこには「行間」がない。びっしりくっついている。「なつかしい」「淋しい」「悲しい」「空しい」はことばそのものとして別個の存在なのに、「行間」がなくなり、「ひとつ」になってしまう。
 「行間」では、ことばは、純粋なまま、何にもまみれず、ただ「声」としてあふれる。「真実」としてあふれる。一方、「行間」のないことばのばあいは、ことばが融合して、もとのことば(純粋なことば?)ではなく、いままでそこに存在しなかった「声」になってしまう、ということかもしれない。
 ことばが行間で純粋になる、生まれる前の「声」になる。あるいは行間を埋めつくして新しい「声」を生み出す。どちらも、まだ「いま/ここ」には存在しないがゆえに、そして存在しないのに存在を感じることができるがゆえに、詩、なのだ。







こくごのきまり (エリア・ポエジア叢書)
丁 海玉
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山田由紀乃「そこ」、陶山エリ「声拾い」

2013-04-25 23:59:59 | 現代詩講座
山田由紀乃「そこ」、陶山エリ「声拾い」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年04月24日)

 「現代詩講座@リードカフェ」はベインハルト・シュリンク『朗読者』を読んで、そこから吸収したものを詩にする--がテーマ。
 山田由紀乃「そこ」が相互評で高い評価を受けた。

高速が出来て何度も走った
はじめ気付かなかったが競輪場が見えた
あんなに狭かったのかと驚いた

ハンチングを被った父と競輪場にいる
見上げるような緑色の椅子
と思ったがそこは観覧席

よっ
父は顔馴染みの父によく似た人たちと挨拶した
通路は埃っぽく
白い紙切れが飛び散っていた

わたしは四歳くらいだ
映画館のトイレの前の水道場にいる
その頃映画館のトイレは外にあった
父がうずくまって吐瀉している
わたしは手を父の肩においている
「早く帰ろうよ」
見上げた父はすまんねといった

戦争が終わって五年も経っていない頃だ
年寄りに子どももいる大家族の
印のような小さな私を連れて
父は行きたかった
ここではないところへ

縁側の空に月の光がかかるころ
背中を向けて尺八を吹いた父
しずしずと静けさが満ちてきて
笛の音の中に父が入ると
そこはもうどこでもなかった

 戦争から帰った父。どこかに戦争の傷痕を抱えている。それに気付く幼い私と父の姿が簡潔に描かれている。受講生の第一印象は……。

<受講生1>小説を読んでいるよう。最後の連が好き。
      ことばもていねい。
<受講生2>「そこ」がわからない。4連目の「印」もわからない。
<受講生3>「大家族の印」なのではないか。
      それと「小さい」という意味もあるかも。
<受講生4>大好き。胸がきゅんとなる。情景がよくわかる。
      でも、ことばが「詩的」ではないかもしれない。
      達者な詩ではないかもしれないけれど。
<受講生2>私も、こういうことばでも詩なの、と思った。
<受講生3>散文と詩のあわいに、うまくはまっている。
      『朗読者』から情景の描き方を学んでいるのがわかる。

 最初に問題になったのは「詩的」とは何か、ということ。
 3連目の最後の2行、

「早く帰ろうよ」
見上げた父はすまんねといった

 この対話に全員が感動したが、そのことばは「詩的」な表現から遠い、という詩的。1連目も散文的だという詩的。確かに、その行だけをとりあげ、お、かっこいいことばだなあという印象をもつことはないけれど。
 しかし、そこに書かれていることばが紙にはりつくようにしっかりとそこにあるなら、それは詩ではないだろうか。父に呼びかける少女の姿、それにこたえる父の姿(姿勢)、声の調子まで感じられたら、それは詩ではないだろうか。
 私は詩と散文の違いをあまり考えない。強い感じで迫ってくるものは全部詩と思う。
 「詩的」ということでいえば、最終連の尺八を吹いている父の姿、「しずしずと静かさが満ちてきて」というような表現はなにか雰囲気があるような、詩的な感じがするかもしれないけれど、紙から浮いている。文字が紙に食い込んでいない。ふわふわして弱い。これは「詩」ではないと思う。
 「詩」とは言い換えのできないことば。3連目の2行は、ほかに言い換えがきかない。けれど5連目の「しずしずと……」はほかにも言い換えができそう。それだけ弱い。ことばの持っている内的な力が強ければ、それは詩だと思う。
 どんなことでも、正直で、そのままなら美しい。酔って吐く父に対して「早く帰ろう」と語る少女、それに対して「すまんね」とこたえる父の姿は「みかけ」は悪いかもしれないけれど、そこにほんとうのことが書かれている。少女と父親の、ことばをこえるものがでている。人間が「生きている」。だから、美しい。一方、最終連は「みかけ」の美しさの方がことばを上回っている--というといいすぎかもしれないけれど。きれいだけれど、美しいという感じとは違う。
 1連目は確かに散文的かもしれない。しかし、競輪場を見つけ出し、父に連れられていったことを思い出すのだが、そのとき「あんなに狭かったのか」と発見している。幼いときは大きく見えた競輪場がいまは小さく見える。その発見があるから散文であっても詩の中にしっかり組み込まれている。発見がないと、単なる描写だけれど、発見があるとそれがどんなに小さくてもしっかり全体に組み込まれる。
 「情景が見える」という感想があったけれど、しっかりと何かを見て、それがことばになっているなら、そこにことばをこえる「もの」が見える。それが「情景」。2連目の最後の「白い紙切れが飛び散っていた」も具体的なので、詩になる。

 「そこ」とはどこか。
<受講生4>ふたつある。父と少女がいる「そこ」と、最終連の父がいる「そこ」。
<受講生3>父がいる場所は「ここ」であって、父が行きたかったところが「そこ」。
 私も、父といっしょの部分は「ここ」だと思う。書かれていないところが「そこ」。
 「そこ」というのは、作者にとってはわかっているところ。でも、それはわかるといっても「競輪場」とか「映画館のトイレ」とか具体的には言えないところ。「競輪場」や「映画館」ではない、としか言えない、意識の場所。父にはそういう「意識の中にある場所、行きたいところ」がある。それを少女は直接的に感じて「そこ」と言っている。頭では整理できない、説明できないのだけれど、「肉体」でわかってしまう「場所」なのだと思う。

 この詩でいちばん難しいのは最終連。それがほんとうに必要なのかどうか。
山田 父はほんとうに月の光のなかで尺八を吹いていたんです。
<受講生4>最終連のお父さの姿を書かないと、落ち着かない。
      お父さんが競輪場へ通って映画館で吐いているだけになる。
 もちろん、そうなのだけれど。そして、そう書かずにはいられない愛情もよくわかるのだけれど、そのお父さんの理想の場所(そこ)が、こういう具合に美しい形で書かれてしまうと、

父は行きたかった
ここではないところへ

 が弱くなってしまう。「そこ」はどこなのか、読者は考えなくなってしまう。こたえが最終連にあるので、安心してしまう。安心することで、読後感は落ち着くのだけれど、「そこ」のなまなましい感じ、「そこ」としか言えないもどかしい感じが消えてしまって、その分だけ印象が弱くなる。
<受講生3>最終連の世界は最終連の世界だけで別の詩にすればいいのでは。
 そうだね。でも、そういう決断がなかなか書いている本人には難しい。



 陶山エリ「声拾い」はタイトルが非常に魅力的だった。(受講生からも、そういう指摘があった。)その2連目が私にはおもしろかった。

何を読み続けていたのか
手紙 日記 胃腸薬の注意書
風に開かれたままの長篇小説
時刻表 国語辞典 Wikipedia
洗顔フォームの配合成分
声に出してしまうと
案外、體に忍び込んではこないものだと
気づいていたから
声に出してしまうと霧のように流れていく
その薄い影に出会いたいのだけれど
唇は肉の内側への入り口だからといって
舌と粘膜に絡め捕られて
音階のひとつになりたい
そんなことも同じくらい願う

<受講生5>「胃腸薬の注意書」「戦果フォームの配合成分」に、体臭を感じる。
<受講生3>前半部分に若い人の感覚がでている。
      「音階とひとつになりたい」というのは私には書けないなあ。
<受講生5>声に出すと体に入って来ないというのは逆じゃないかな。
陶山    覚えるというよりも、声をだす快感の方が強くて……。
 (このあと、音読するか、黙読するか、という放しもでたのだが……。長くなるので省略して。)
 私は、前半部分、胃腸薬の文字を読むとか配合成分を読むというのは、現代詩では、そんなに独特のことがらには思えないけれど、後半の「唇は……」からの肉体をていねいに描いているところが独特でとてもいいと思う。その独特のことばの動きがあるから「音階とひとつになりたい」が、肉体の欲望としてつよく伝わってくる。これを深めていくととてもおもしろいと思う。



 次回5月29日(水曜日)16時―18時は「秋亜綺羅になって書く」がテーマ。申し込みは「書肆侃侃房」を検索し、田島さんに申し込んでください。










詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サーシャ・ガバシ監督「ヒッチコック」(★★)

2013-04-25 10:58:58 | 映画
監督 サーシャ・ガバシ 出演 アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソン

 この映画の失敗は、アンソニー・ホプキンスがヒッチコックの体型をコピーしたことである。だれもがこれは「映画」と知っている。そして、それを見にくる映画ファンはたいていヒッチコックの体型を知っている。でも、映画を見にくるのはヒッチコックの体型を見にくるわけではない。「あ、ヒッチコックに似てる」と思うために見にくるのではない。もし「そっくりさん」を見たいなら、世界にはもっとヒッチコックに似た人間はいるだろう。だいたいメーキャップと衣装で「そっくりさん」に仕立てても、それで似たことになるのか。ならないのでは? そして、それは「演技」でもなんでもないのでは?
 で、この「そっくりさん」体型が、ヒッチコックを隠してしまう。精神を。感情を。つまり本質を見えなくしてしまう。
 映画で私がいちばんおもしろいと感じたのは、「サイコ」のハイライト、シャワーを浴びる女をナイフで殺すシーン。監督は観客の反応が気が気でたまらない。劇場の外で、今か今かと待っている。金属音のような効果音が響く。そして、ナイフが振り下ろされるたびに観客の悲鳴が響く。それをまるでオーケストラを指揮するように、手をぶんぶん振り回して、その悲鳴に酔う。「そこだ、もう一度、やったぞ」という感じで、体中から喜びがあふれてくる。あ、このシーン、真似してみたい、と思わず思う。
 そのとき。
 私は「そっくりさん」の体型を見ていない。太っていることを忘れている。ただ監督の「動き」を見ている。太っているために動きが鈍いとか、動きが醜いとかということはない。興奮している感じ、酔っている感じ、その喜びに、ただ感染する。
 これが映画。私が見たいのは、「肉体」の形ではなく、その「肉体」を動かしている感情。感情が肉体を突き破ってあらわれる瞬間の輝き。
 ヒッチコックの体型を描くのではなく、ただ純粋に精神を描くことに集中すれば、この映画はもっとおもしろくなる。脚本はとってもおもしろいのに、アンソニー・ホプキンスの「そっくりさん」の体型がおもしろさを半分以下にしている。
 映画づくりの秘密、という点でも、この作品はおもしろいところを描いている。スカーレット・ヨハンソンが「サイコ」の殺される女になって車を運転していくシーン。スタジオ(セット)で撮影しているのだが、ヒッチコックはカメラをのぞくのではなく、スカーレット・ヨハンソンのわきに立って、そのとき女が思っているであろうこころのつぶやきを口にしている。その声を聞きながらスカーレット・ヨハンソンの顔の表情が変わる。「迫真」のものになる。あ、これが、芝居と映画の違い。舞台では、こういうことは絶対にできない。舞台の上には役者がいるだけ。でも映画は違う。そばで何が起きていようが関係がない。スクリーンにはカメラが映している部分しか存在しない。
 だから、なのである。
 編集によって、映画はどうとでもなる。シャワーを浴びながら、ナイフでめった突きにして女が殺される。そのとき、女を殺すのは殺人者でなくてもいい。ヒッチコックがナイフを振りかざしてもいい。恐怖におびえる女の顔がアップでとれればいいだけなのである。女の顔の中に恐怖があらわれれば、殺人者役がだれであろうと関係がない。
 で、最後に、失敗作だった「サイコ」を編集でよみがえらせるというオチまでこの映画は描いている。その編集に、ヒッチコックではなく、妻の方が能力を発揮する。これが、なかなか、おもしろい。この瞬間から、この映画はヒッチコックの映画ではなく、ヒッチコックの妻の映画になる。ヒッチコックの映画の成功の影には妻がいる。妻が大きな影響力を発揮して、映画を輝かせていた。
 で、最初にもどるのだけれど。
 この妻の働き、いきいきとした動きが観客に伝わってくるのは、ヘレン・ミレンが妻の「そっくりさん」ではないから。いや、そっくりさんなのかもしれないけれど、私はヒッチコックの妻の体型など知らない、顔も知らないからそっくりさんかどうか判断しようがないのだが--だからこそ、純粋に妻の「本質」だけを見ることになる。そして、その本質に触れて、感心することになる。
 観客はスターの「容姿」にひかれて映画を見はじめるけれど、映画を見ているときは、その容姿を忘れて、そこに動いている「感情」を見る。容姿ではなく、感情が見えたとき、ほんとうに感動する。「サイコ」のクライマックスに廊下で両手をぶんぶん振り回し、踊るようなヒッチコックがかっこいいのは、そこに感情の噴出があるからだ。
                        (2013年04月24日、天神東宝2)


ヒッチコック・ブルーレイ・コレクション Vol.1 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後藤ユニ「かなしみのパン」、依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」

2013-04-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
後藤ユニ「かなしみのパン」、依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」(「現代詩手帖」2013年04月号)

 「現代詩手帖」2013年04月号には若い詩人の作品が何編か発表されている。後藤ユニ「かなしみのパン」がいちばんおもしろかった。最初から何かがわかっているのではなく、書くことで少しずつわかっていく。自分の中に何かを見つけ出す。それがことばの運動そのものとして、そこにある。

 それは夢のように白くはちきれそうな丸みを帯びている。それは死んだようにずっ
しりと重たい。それはわたしの胸をどうしようもなくざわつかせる。それは熱くも冷
たくもない。さっきから遠くで子供の泣く声が聞こえている。鼻血が出ているかもし
れない。鼻の奥が妙に冷たく喉にいやな感触がある。舌をめいっぱい鼻へのばしてみ
ても血の味はしなかった。誰も知らないということがあるだろうか。誰も知らない。
誰も知りたいとは思っていない。誰も自分が知らないことすら知らない。それはかな
しみと言うことでようやくわたしの内部から剥がれ鈍い反射をする。わたしはひとつ
のかなしみだった。それ以外のことはあまりにも移り変わりすぎてもう確認できなか
った。

 「それ」が何かわからない。突然、「それ」といわれても読者(私、谷内)にはわからない。けれど後藤は「それ」を知っている。知ってるから「それ」という。けれど、「それ」はうまくことばにならない。ただ「それ」とわかっているだけである。
 だから手探りでことばを動かす。「比喩」をつかって。
 「夢のように」「死んだように」。「比喩」をつかうと、ことばが動く。「いま/ここ」にないものが「それ」を動かす。「それ」と「夢」はいっしょではないがいっしょのものを含んでいる。「丸みを帯びている」「ずっしりと重い」。その同じと違うがつくりだす切断と接続がことばを少しずつ動かしていく。ことばを動かしていく--は、ことばが自分の力で動けるように目覚めていくということかもしれない。
 知っている、わかっている--けれど、ことばにならないものを、どうやって知っている、わかっているそのものに変えるか。
 「鼻血が出ているかもしれない。鼻の奥が妙に冷たく喉にいやな感触がある。舌をめいっぱい鼻へのばしてみても血の味はしなかった。」
 ここが好きだなあ。
 口のなかで舌を鼻の方へのばして、血の味を確かめたことがあるのだ。後藤には鼻血を流した体験があり、同時に口の内側で鼻血をなめて確かめた体験がある。肉体が覚えていることがある。後藤は「肉体」を探しているのである。「それ」を「肉体」だと感じているのである。
 でも「それ」は「鼻血」ではなかった。
 そのあとで、それは「知っている」ものではないと知る。知っているつもりだったが、「それ」は知っているには似ていても「知っている」「わかっている」ものではなかった。では何なのか。

それはかなしみと言うことでようやくわたしの内部から剥がれ鈍い反射をする。

 「悲しみ」を知らないという人間がいるだろうか。「悲しくて」泣いたことがないという人間がいるだろうか。そんなふうには思えない。だから、

かなしみ

 とりあえず「かなしみ」がいちばん近いだろう--と後藤は思っているのかもしれない。「悲しみ」でも「哀しみ」でも「愛しみ」でもない。まだ、「流通言語」になっていない、何か。それが「自分の内側」にあって、それが「剥がれ」て、ようやく「ことば」になろうとしている。
 まだ、ことばにはなっていない。
 ことばの「かたち」をしているが、そして、こうやって書かれているが、まだ「ことば」にはなっていない。未生のことば。未分化(未分節)のことば……。
 その「手触り(?)」しかないことばを、手触りをたよりに、しっかりしっかりしっかり、ていねいに押して行く。そうすると、少しだけことばが動く。そして紙にはりつく。そういう感じでことばが生まれてくる。
 いいなあ、これは。

 あなぐまのようなあなたのことを考える。夜、あなたの中へ入りたいと思って、お
臍めがけてどんどん進んでいくことがある。あなたは押され押し出されあふれ伸ばさ
れ回り込み、丁寧にわたしを包んでいく。あなたのなかへはいりたい。そうでなくて
は、わたしはだんだん腐っていく。あなたがわたしの皮だったら、あなたがわたしの
血肉だったらよかったのに。これではわたしが嘘みたいだ。つらい。はやくほんとう
になりたい。どうしたらほんとうになれるのか分からない。知りたくない。

 「あなた」と「わたし」が内部と外側に入れ替わる。そのときの「お臍をめがけて」からの描写がとてもリアルでていねいでおもしろい。
 「これではわたしが嘘みたい。」からが、さらにすばらしい。
 ことばを動かす、ことばが動く。それはことばが「肉体」を獲得し、ことばそのものになるということだけれど、そうなってしまうと「わたしが嘘みたい。」
 ことばにたよって、ことばのちからで、ことばになるのに、ことばになると、それは違ってしまう。ことばが誕生した瞬間に(詩が生まれた瞬間に)、新たな「未生のことば」が生まれる。--これは、とんでもない矛盾というか、堂々巡りだけれど、そういうものにぶつかったあと、

どうしたらほんとうになれるのか分からない。知りたくない。

 この「分からない」がいい。ほんとうは「分かっている」。だから「知りたくない」。ここにも矛盾があるのだけれど、矛盾の形でしかいいあらわすことができなもの、矛盾の形を通してしか存在しえないもの、それが詩なのだ。
 


 依田冬派「コップいっぱいの水をどうぞ」はずいぶん手慣れている。後藤が「矛盾」のかたちでやっとつかみ取ったものを、依田は「逆説」という形式(既製の文体/レトリック)を活用して簡明に描き出す。

空へと落下してぬくおもいでの数々を
ささえようと翔びたつ鳥
その名でうめつくされた頁をひらき
端から端へと
役に立たぬ罫線をつぶす

そこをひとつの路だと仮定しても
ぬのぎれふるものはなし
それでも全身がこたえようとするとき
雲よおちばのようにふりつもれ
このまま逆さまがただしい街になればいい

 「仮定しても」。
 後藤が手探りで--いや、舌さぐりで、と言いなおそうか。そうすれば後藤と依田の違いがより鮮明になるだろう。後藤は自分の舌で、自分の口の中、鼻の付け根をさぐって、そこに血が流れているかどうか、味で確かめようとした。「肉体」をつかった。ことばは「肉体」のなかを動き、「肉体」を分有することで「ことばの肉体」を獲得し、自立して動く。ことばの自律。これに対して、依田は「仮定」で処理する。「仮定」は「頭」で想定するものである。そのあと「存在(もの/肉体)」で実証するものである。もちろん、後藤の「鼻血が出ているかもしれない。」も「仮定」ととらえることができるが、その「仮定の現場」が自分の肉体である。依田は自分の肉体を仮定の現場とはしていない。だから、その現場を動くのは「肉体」ではありえず、「それでも全身でこたえようとするとき」と「全身」ということばを持ち出してきても「肉体」は関与できず、「雲よおちばのようにふりつもれ」と、抒情的にことばが動くしかない。
 そして依田は、その抒情を、音楽の力で押して行く。これは私の「感覚の意見」だけれど、依田のことば、「音」としての強みを持っている。鍛えられた「音」の正確さを持っている。

あけはなつひとがお早う
といって花ビンをなげわれるさまを

 ひとつのことばからべつのことばへ動くとき、その切断と接続が、「音」ゆえになめらかに動く。具体的な動きが、「音」のなかに吸収されるというか、「音」のなめらかさが私の「肉体」を押し流す。思わずもう一度読み返したくなる。もう一度「音」の流れにのって、その流れを滑りたくなる。
 後藤が「散文派」だとしたら、後藤は生まれついての「韻文派」なのかもしれない。




 



現代詩手帖 2013年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺武信「祭りのあと 小詩集」

2013-04-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺武信「祭りのあと 小詩集」(「現代詩手帖」2013年04月号)

 渡辺武信「祭りのあと 小詩集」は3篇の詩。不思議ななつかしさがある。いまは、こういうことばの動かし方をする詩人はいない--ようにみえる。けれども、私の青春時代は、渡辺が書いているようなことばといっしょに動いていた。

私たちは祭りのあとに生きている
平穏に見える私たちの日常は
過ぎし日の歌が
光芒を引いて遠ざかる
その遥かな旅路の長さだけ
深まった感情の容量に耐えている
                              (「祭りのあと」)

 「私たち」なのだ。「私たちの日常」なのだ。そこには「私」と「私以外の人」がいる。そして何かを共有している。たとえば「過ぎし日の歌」を。それだけではなく、その「歌」が「光芒を引いて遠ざかる」という感覚を。さらには、その「遥かな旅路の長さ」、そして「深まった感情の容量」、「耐える」ということ。
 何もかもが「共有」されている--と感じるのは、渡辺が「共有」(共感)へ向けて、ことばを動かしているからである。そして、このとき「共感」というのは「日常」にあるのだけれど、「日常」の表面ではなく、「深まった」ところにある。「日常」の深まったところに、「深まった感情」があり、それを掘りあてるようにして渡辺はことばを動かす。掘りあてるための道具は「ことば」であるけれど、その「ことば」には「共通の日常」がある。
 その「共通の日常」というのは、たとえば、

唐獅子牡丹咲き誇る
啖呵の修羅場から遠く離れて
ほの暗い隠れ家の中に開花する魂は
まだかすかに緋色の残照を保っている
                                 (「吟遊」)

 東映のやくざ映画である。唐獅子牡丹である。
 ここでおもしろいのは(と、いまなら言える)、「共通の日常」といっても渡辺はやくざでもなければ博徒でもない。それを読む私もやくざでもなければ博徒でもない。それでも高倉健や藤純子の「映画のなかの行為(日常)」を「自分の日常」に重ねていた。このとき「自分」とは「感情」であった。
 「自分の感情」の奥を探っていけばやくざ映画に登場する人物の感情にぶつかる。「社会」から締め出された「感情」にぶつかる。--もちろんこういう図式は「虚構」であるかもしれない。けれど、やくざ映画という虚構をかりて、「日常」を虚構にしたてあげ、虚構ではないのは「感情」だけだと主張するとき、「私たちの魂」は確かに開いた。開いたつもりだった。はかない花を咲かせることで「社会」を告発しているつもりだった。

 感情を共有するとき、その向こうに、そういう感情を必要とする「社会構造の日常」(世界の日常)があった。社会によって感情が切り裂かれ、破壊されている。だから、今度は感情によって社会を、世界を切り開き、そこにほんとうの魂を実現する。
 「世界」そのものには立ち向かうことができず(世界の巨大さ、強さを感じていたのか)、比喩としてのやくざ、博徒の世界のなかで感情の花を咲かせ、それを共有していたのである。
 どういえばいいのだろう……。

開花前線はゆっくりと
時を遡るように北上する
私の歌 きみの声で
その地 その地の春の死者たちの魂を鎮めながら
<どうせ死ぬなら 桜の下で
 死ねば屍(かばね)に花が散る>

旋律は低く
しかし豊かな予感を孕んで鳴りはじめる
生まれつつある恋の二重唱や
決闘の血しぶきが走る障子への序曲として
トーチ・ソングのように甘くかすれ
あるいは 演歌のように怨みを唸らせて
多彩な音色で高まっていく

イライザよ お竜さんよ
スペインの平野(プレイン)に雨(レイン)が降れば
一晩中でも踊れただろう
つと差し出された蛇の目傘に包み込まれれば
肩に負う緋牡丹は燃えただろう
   (「開花前線」)

 「恋の二重唱」。ああ、「二重唱」だったのだ。
 「二重唱」と言っても、イライザやお竜さんにあわせて私たちが歌を歌ったとしても、彼女たちの「歌」がかわるわけではない。彼女たちが私たちの歌(声)を聞き、そこに何かしらを感じ取り、それにあわせてくれるわけではない。つまり、私たちの一方的な「二重唱」なのだが、そんなふうには思わないのが「青春」である。イライザやお竜さんにあわせて、私たちが「夢の花」を二重唱の中に咲かせれば、イライザやお竜さんは、その花が輝くように私たちの「肉体」のなかで生きて動いてくれる。「私たちの二重唱」が完成するように、彼女たちも「声」をかえてくれる--という幻の「二重唱」。

 いつでも、どこでも「二重」だった。「二重」を夢見て、実際に「二重」であったのだと思う。社会そのものも。いまはなくなってしまった(あるという人もいるだろうけれど)、社会党と自民党。労働と資本。反対の意見を持っていても、それは向き合うということで「二重」だった。「二重」であることによって、社会を対立させ、対立させることで統合していた。
 それは「感情の小選挙区」ではなく「感情の中選挙区」のようなものだ。否定しながら共存を認める。共存しないことには、互いにいきいきとは動けない。批判の中に肯定があり、「いま」を突き動かすためにあえて軌道を逸する--と書いてしまうと、なんだか違ってきてしまうが……。

 「私たち」のことばは「私たち」をまだ持っているのか。あるいは「私たち」を取り戻すことができるのか。対立の共存。抑圧するものを、感情の爆発で再構築できる。感情の暴走は、世界を再生できるか。「私たち」は「祭りのあと」になってしまったのか。「私たち」の「ことば」はどこにいるのか……。



続・渡辺武信詩集 (Shichosha現代詩文庫)
渡辺 武信
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蟹沢奈穂『明るい青色の石』

2013-04-22 23:59:59 | 詩集
蟹沢奈穂『明るい青色の石』(書肆山田、2013年03月05日発行)

 蟹沢奈穂『明るい青色の石』の詩篇はたいていが短い。短いけれど、何かたくさんのことを言おうとしている。それが私には少しうるさく感じられた。
 「私ではない」という作品。

ベッドでまるくなって
眠ろうとしているのは わたしではない
この眠りは わたしのものではない
夕飯の仕度をしているのは
わたしではない
この味覚は わたしのものではない

これは だれ
靴を履いて
あなたに
会いに行こうとしているのは

お願いです と
言おうとしているのは

 1連目は「わたしではない」という行が必要なので書かれているのだと思うが、少し長い。「この味覚は わたしのものではない」というのは「肉体」を感じさせてくれるので好きな行だが、「夕飯」からの3行はない方が「こころ」と向き合っている感じがしていいのでは、と思った。
 3連目はとてもすばらしい。この2行だけで「わたしではない」というタイトルでもよかったのではないだろうか。
 この詩は実はこのあと2連9行あるのだが、ここで終わった方がことばが拡散せずにすむと思う。ことばが凝縮すると思う。

 「秋の階段」はむだのない美しい作品だと思う。

言っておくけど
秋の階段なんかには
気をつけたほうがいい
くれぐれも
筋肉痛の朝みたいにゆっくりと
慎重におりるようにね
何しろ そんなところには
まるで 素敵な詩 みたいなものが
潜んでいるからね
木枯らしに舞い散る枯葉越しに
すれ違った人と目が合って
何かが
始まってしまったりするかも
知れないから

 秋の階段を「ゆっくり/慎重に」降りてみたくなる。「枯葉越しに/すれ違った人と目が合って」みたい。そういう気持ちになる。そういうことをしてはいけないとこの詩は言うのだけれど、してはいけないと言われたらしたくなるね。
 そういう矛盾が、詩。
 で、この詩には「素敵な詩」という、まあ、現代詩には書いてはいけないようなことばがそのまま書かれているのだけれど。
 それも許せる。
 蟹沢の作品の特徴は、たぶん、ごつごつした具体的なものにはならない部分にある。その人でしかありえない「肉体」ではなく、「透明な抽象」というか、うーん、いわゆる「こころ」というやつかなあ、それをすばやく掴んで体温に汚れないうちにことばにするところに輝きがある。
 「肉体」を書くにしろ、「体温」で輪郭がなくなる前にぱっと放した方がいい。
 言い換えると、それが「わたしのもの」になる前に手放すと、蟹沢の詩は動くように見える。

白い 静かな朝
なのに心が騒いでいる
私のものではない夢が
この部屋まで侵入してくるような
不安
                                (「白い朝」)

 「私のもの」になってしまうと、「体温」にそまってしまうと、「心」が本来私のものではないものにまで侵入して行って(逸脱して行って/はみだして行って)、ちょっとめんどうになる。
 そうならないうちに手放すと「心」は蟹沢の内部でだけ動く。抒情になる。抒情は他人への押し付けにならない限りは美しいものだと思う。

風の音が
彼のを吹きわたり
暖かなねむりの中にもぐりこもうとするわたしを
呼びさます声のように響く夜ふけに
そっと
窓をひらく

招き入れたそのつめたい指さきを 握りしめて
あげるから
                                (「呼び声」)

 「体温」をうつすにしろ、それは風の「指先」という比喩にとどまる限りは大丈夫だ。







明るい青色の石
蟹澤 奈穂
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スティーブン・スピルバーグ監督「リンカーン」(★★★★★)

2013-04-21 21:41:27 | 映画


監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ダニエル・デイ・ルイス、サリー・フィールド、トミー・リー・ジョーンズ

 ダニエル・デイ・ルイスはとてもむずかしい役どころをこなしている。むずかしい演技をしている。リンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」ということばと「奴隷解放」で有名だけれど。「民主主義」の理想(夢)を実現した大統領として有名だけれど。
 理想の実現、というのはむずかしい。理想を語れば、それがそのまま支持されるわけではないし、みんなが協力するというわけでもない。そのためには「妥協」も必要なら、「裏工作」も必要なときがある。理想のために、理念をまげる必要があるときもある。
 で、この映画を見ると、憲法を修正し(改正じゃないよ)、奴隷制度を廃止するために、リンカーンは悪戦苦闘している。下院の「票集め」に苦労している。しかも、大統領であるから直接先頭に立って動くわけにはいかない。最後は、少しだけ直接行動をするけれど、大半はことばで指示するだけである。
 リンカーンは「演説」は有名だけれど、こういう閣僚への「直接指示」は、どうことばを動かすべきなのか。感動を誘う「名文句」は「大衆」むけ(演説)のものであって、部下への直接指示には向いていないね。「煽動」ではないのだから。(こう書くと、「演説」が「煽動」のようになってしまうが……。)
 さて、どうすべきなのかねえ……。
 というのはリンカーン自身の問題であって(それは、少しあとに書くことになると思うけれど)、ダニエル・デイ・ルイスの問題ではないね。ダニエル・デイ・ルイスにとっての問題は、「演技」が非常にかぎられるということ。アクションではなく、ことばを演技しなければならない。トム・クルーズのような派手なアクションで観客の目を引きつけるのではなく、ことばで観客の目を引きつけないといけない。--うーん、よくやったなあ。こんな難役。

 で、ことばのアクション。
 これは実際リンカーンがそうだったのだろうけれど。
 「演説」がいわば「名文句」で聴衆のこころをつかみ取るのに対して、何人かを直接動かすとき「名文句」はつづかない。だいたい、「演説」のように準備できるものではない。対話はその場その場、その時その時で、刻々と状況が変わる。「演説」に対してはその場そのときの反論というものがないのに、対話とは常に反論と向き合うものだから。さらに、対話の相手はいつも顔をつきあわせている人間である。たまに聞くから「名文句」なのであって、毎日それがつづけばどんなに感動的であっても「名言」という印象はなくなるだろう。「一本調子」になってしまうだろう。
 そこで活用されるのがユーモア(笑いを含んだエピソード)である。抽象的な概念ではなく、個人的な出来事、具体的な出来事で、しかも笑いを含んだことばで対話者のこころをほぐす。ほぐしたあと、そのこころに切り込んでゆく。「概念」で固まった頭を、具体例とユーモアでときほぐし、相手の反論のことばがゆるんだ瞬間をみはからって言いたいことを言う。この緩急のリズム。それが、ことばのアクション。
 これは、見もの。
 予告編で机をたたいて「ナウ、ナウ、ナウ」とわめきちらすダニエル・デイ・ルイスを見ていたかぎりでは、なぜアカデミー賞の主演男優賞? そういう疑問を持ったけれど、本編を全部通してみると、いやあ、納得。姿勢の美しいダニエル・デイ・ルイスが猫背になって、ほとんど動かず、肉体の印象を限定して、全身をことばのアクションに傾けている。ダニエル・デイ・ルイスがことばを発するたびに、画面がぱっと動く。そこにいる人間が動くわけではないのだが、ダニエル・デイ・ルイスのことばの変化が、画面全体の印象をかえてしまう。そこにいる人たちの印象をかえてしまう。ことばに反応して、他の役者の表情がかわるわけだけれど、その変化がとても自然。ダニエル・デイ・ルイスのことばが「肉体」となって他人の「肉体」に影響を与えていることが、その場にいるように実感できる。
 この肉体を動かさずことばだけでアクションするダニエル・デイ・ルイスの「こころ」と外部が交錯するところもおもしろい。下院の討論などのシーンだけれど、そこに展開される対立(激論)は、何度も何度もリンカーンの「肉体」の内部(ダニエル・デイ・ルイスの内部)で展開されたものであることがわかる。ひとは、まっすぐに「理想」だけにたどりつけるわけではなく、何かを選びとるときには、それと反対するものにも向き合っている。その感じが、ダニエル・デイ・ルイスが肉体を演技を控え目にすればするほど、強烈に伝わってくる。他の役者の肉体のアクションにダニエル・デイ・ルイスのことばのアクションが反映されていることが伝わってくる。トミー・リー・ジョーンズの自己主張を抑制した議会の討論は、そのハイライトだ。
 妻との葛藤(家庭内対立)もおなじ。リンカーンの理想を妻が支えつづけたわけではない。家族が全員協力したわけではない。どこの過程にでもある対立がある。そのなかでもリンカーンは、ことばのアクションの緩急を発揮してみせる。
 他の役者たちもいいけれど、ダニエル・デイ・ルイスのイギリス英語の姿勢のよさが、この映画では効果的。最初に予定されていたリーアム・ニールソンの含みのある声、くぐもりのある声では、この仕上がりにならなかったかもしれない。

 スピルバーグはもともとアクションというか、視覚で映画をつくる監督だけれど、そしてこの映画でも冒頭の戦場シーンや下院の激論シーンではきちんと肉体のアクションを撮っているけれど、今度の映画で、ことばのアクションという新境地を一気に切り開いた感じがする。スピルバーグの1本として、外すことのできない名作の誕生だ。
                        (2013年04月21日、天神東宝3)




リンカーン(監督:スティーブン・スピルバーグ 主演:ダニエル・デイ=ルイス、 サリー・フィールド) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョイスの扉

2013-04-21 09:33:31 | 


ジョイスの扉

ノック、ノック、ノック、
ダブリンの春の扉の紫色はどこにも存在しなかった強固な艶。
ゆえに、赤と青は遠く離れて存在するか、
灰色をひそかに内部に抱えて無彩色をよそおう水色、桃色になる。
ノック、ノック、ノック、
ジョイスセンターのある坂道は左の方にも傾いている。
ゆえに、ことばは激しく疑う。
あらゆる色がこぼれていく。あるいはこぼれまいとはりつく。
ノック、ノック、ノック、
十五個に区切られた背の高いガラスの窓の内側には女がいて、
彼女は独占欲のために恋人にはなれない。
だが、前もってこんなふうに自問したのだ。
ノック、ノック、ノック、
虚栄のために。
新しくできた地下食堂へおりていく男は、帽子をとって禿げた頭をむき出しにして
ランチのメニューを見当違いの声で読むだろうか。いやだわ。
ノック、ノック、ノック、
ディア・グット、ディアス・ムルア・グット。
どうしても一皿選ばなければならないとしたら、
早咲きのスミレの涙という歌。
ノック、ノック、ノック、
もし自我がないなら、
円い鉄縁の眼鏡越しにバックヤードの落書きを盗作する。
普遍ではないことによって普遍に到達する方法として。
ノック、ノック、ノック、
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルイ・マクニース『秋の日記』(2)

2013-04-20 23:59:59 | 詩集
ルイ・マクニース『秋の日記』(2)(辻昌宏、道家英穂、高岸冬詩訳)(思潮社、2013年03月31日発行)

 ルイ・マクニース『秋の日記』はタイトル通り「日記」なのだと思う。「日記」であるから、ルイ・マクニースには何のことかわかる。そして、読者には「わからない」ことがある。
 たとえば、「9」。比較的わかりやすいのだけれど、やはりわからない部分がある。

やっと我々は平常に戻り、頭もやっと
 日常の平穏な状態に戻って、
悪夢の道や不安定な勾配を
 横滑りすることもなくなった。
我々は無事だが、渓谷のガードレールに
 激突した人たちがいる。轍が土手に残っているが
事故のあと我々にできるのは、議論することと
 彼らが沈んでいった場所にひろがる波紋を数えることだけ。
十月がやってくると、夜に雨が白い波となって
 足首のまわりに打ち寄せ
土がむき出しの溝を溢れさせる(ロンドンの公園は
 ひどい有様になる)。

 「やっと我々は平常に戻り」と書き出されているから、この日記の前には「平常」ではないことがあったのだ。それが何を指すかわからない。しかし、それが「あった」ということだけは「わかる」。
 何があったか。「渓谷のガードレールに/激突した人たちがいる」は現実の事故のようにも読むことができるが、そして、その事故がひどかったために事故の悪夢にうなされ、夢のなかで事故を追体験するということもなくなったが、という具合にも読めるが。
 私はそのあとに出てくる「議論」ということばが、事故そのものの議論(原因追求などの議論)というよりも、ほんとうの「議論」(テーマはわからない)のようにも思えるのである。何か複雑な哲学的テーマで議論している。その議論で頭がいっぱいになる。その議論の複雑な道を踏み外し、渓谷のガードレールに激突し、渓谷に落ちていった人もいるが「我々」はその議論に勝って(?)、平穏な日常にもどったとも読むことができる。
 つまり「悪夢の道」も「渓谷のガードレール」も「事故」も比喩として読むことができる。もしほんとうの交通事故(?)なら叙述はもっと具体的になるように思えるのだ。そして、それが私が書いているように「議論」がテーマであるとするなら。「あった」ことが「議論」であったとするなら。
 その「テーマ」を直接書かないのはなぜだろう。詩人の関心がテーマよりも(議論の内容よりも)、精神がどんな具合に動いたか、感じたか--その「実感」を書きたいからということになる。
 事実よりも実感。
 とはいいながら、「実感」(感情)というものは、いつでも「肉体」のなかにあるように見えて、そうではない。「肉体」のなかにあるときは、本人にもわからない。わからないという言い方は変かもしれないが、つかみとれない。つかみとるためには、それは「外」に出て来ないといけない。
 で。

十月がやってくると、

 唐突に、だれにでもわかる日付といっしょに、雨とロンドンの公園が描写される。こういう「切り返し」のなかに、強い「個性」がある。「議論」「激突」という抽象ではなく、詩人はいま「十月」という時間にいて、雨のロンドンの公園を歩いたことがあるのだということが「肉体」として感じられる。抽象ではなく、溝から溢れる水に足首までぬらしたという「こと」が具体的に「わかる」。その具体的に感じに、「個性」というか、「肉体」というか、ごつごつした「強さ」を感じる。
 その「肉体」にはもちろん、「議論」(水に墜落したときの「波紋」)が「白い波」という形で残響のように影響しているのだが。

 「比喩」を整理して、ルイ・マクニースに起きていることを言いなおそうとすれば、できるかもしれない。いま、私が書いたことを、もう一度整理して、ルイ・マクニースはある議論を複数の人と戦わせ、そのなかで激しい感情の揺れを感じた云々。それが比喩の形で炸裂している云々。
 あ、でも、そういうことをするのは「めんどうくさい」ね。
 つまり、そういうことをするよりも、「悪夢の道の不安定な勾配を/横滑りする」とか「渓谷のガードレールに/激突した」とか「土がむき出しになった溝をあふれさせる」とか、読めばわかるけれど、自分ではすぐに思いつかないことばに覚醒される感じ--それをただ味わっていたい。見えるものをただ見る感じ、そして驚く感じ。
 この「わかるけれど自分では思いつかない何かに覚醒される」あるいは「驚き」というのは。
 私の「感覚の意見」では、「一目惚れ」のようなもの。
 だれかを好きになる瞬間のようなもの。
 何でもないようであって、そこには「個性」がある。その人独自の何かがあって、それが「感じられる」。あ、この「感じ」。それは、まあ、時間をかけて別のことばで言いなおすこともできるかもしれない。整えなおして、だれにでもわかるように(村上春樹の小説のことばのように)、することができるかもしれない。
 でも、ふつうは、そういうことはしないね。
 ただ、あっ、かっこいい。あっ、あれを真似したい(自分のものにしてしまいたい)。そんなふうに思う。真似したいとか、自分のものにしてしまいたいというのは--その欲望は何でもないようであって、実は、自分が新しく目覚めるということ。刺戟を受けて、それまで知らなかった自分を発見するということ。
 この瞬間が、詩。
 そのつもりはなくても、自分が自分でなくなる瞬間。それまでの自分が瞬間的に死んでしまって、知らないうちに生まれ変わる。
 そんなふうにして「死」と「詩」は出会う、と言っておこうか。

 あ、なんだか脱線してしまうなあ。
 うまくつづくかどうかわからないが、詩に戻ってみる。
 詩はつづく。

一週間で僕は仕事に戻り、古代ギリシャ人研究の興行主として
 講義と指導を行なう。
古代ギリシャ人はキントを着て、魚とオリーブを主食とし、
 徒党を組んで哲学やみだらな話を語り合った。

 あ、やっぱり最初に書かれていたのは「議論」による「衝突/事故」だったんだね、と思う。ふいに、ある状況にひきもどされる。何かしら、激しい「往復」が起きる。意識の往復。意識が何かを形作ろうとして動く。
 ゲシュタルト、でいいのかな?
 そこにあるものが「ひとつの形」を目指して運動する。その「運動」をわかりやすく書くと(言い換えると抽象的にすると--抽象的は、論理的ということでもあり、論理的とは、わかりやすいということ)、村上春樹になるのだが、ルイ・マクニースの場合は、抽象化せずに、そこに「具体」をかき混ぜる。

一たび恋のページをめくってしまったら、
 人生は何になる、どんな楽しみがあるのか、と誰かが言っていた。
毎日がさらにつらくなり、涙を流してやっと生きている者に
 有利な目は出ない。

 「具体」と言っても、それは「断片」。「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」。それをつなぐことばはいらない。だれの「肉体」にも、それをつないでしまう「肉体」がある。
 だから、そこにルイ・マクニースのつらい恋の体験が具体的に書かれていなくても、そこにはルイ・マクニースの「肉体」そのものがあり、私たちはその「肉体」が「議論」をひっかきまわしているのを目の当たりにする。見る。
 「恋」「楽しみ」「毎日」「つらい」「涙」--そういう「日記」は平凡なものかもしれないけれど、平凡に見えない。なぜだろう。「議論/哲学/衝突」が同居しているから?
 そうかもしれない。
 何かはっきりとはわからないが、ルイ・マクニースは「異質なことば」を往復している。その「往復」を「肉体」が支えている。「肉体」のなかで「異質なことば」が出会っている。(「異質なもの(こと)」が突然出会うとき、そこに詩が生まれる--というのは、「現代詩の定義」そのものだね--というのは、余分なことかな?)
 ルイ・マクニースのことばを読んで感じるのは、そこに「肉体」がある、ということなのだ。





秋の日記
ルイ マクニース
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする