詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫『日々の、すみか』

2012-12-31 11:56:46 | 詩集
季村敏夫『日々の、すみか』第二版(書肆山田、2012年12月10日発行)

 2012年、詩に関することで私が一番うれしかったのは季村敏夫『日々の、すみか』第二版が出版されたことである。初版は1996年04月30日の発行である。阪神大震災から1年以上経っている。この詩集を読んだときの感動を私は忘れることができない。「出来事は遅れてあらわれた。」ということばが出てくる。私は、そのことばに打ちのめされた。私のなかからことばが出てこなくなったのだ。
 阪神大震災から17年がすぎた。そして2011年03月11日には東日本大震災が起きた。その衝撃のあとでも、私は、やはり季村の「出来事は遅れてあらわれた。」を思い出すのである。「出来事」は「ことば」によって「出来事」として定着する。それが定着するのは、いつでも「遅れて」である。「遅れ」のあいだに、ことばは何かをつかむのだ。何かをととのえるのだ。そう思う。
 それは「大事件」だけではない。
 この詩集そのものも、同じように動いている。生きている。96年に詩集が出たとき、この詩集はある程度は評判になったけれど爆発的に評判になったというのとは違うと思う。和合亮一の東日本大震災のことを書いた詩集がマスコミで何度も取り上げられ、各種のメディアに和合が登場したのに比べると、季村の詩集の評判はささやかなものだったと記憶している。96年の「現代詩手帖」12月号、「今年の収穫」でもそれほど多くの人が取り上げていたようには記憶していない。(手元に雑誌が見あたらないのでたしかなことは言えないけれど……。)
 その詩集が東日本大震災のあと、今になって、再版されたということ--これも「遅れてあらわれた出来事」である。衝撃的なものは、いつでも「遅れて」あらわれる。その衝撃が人間の肉体のなかでしっかり根付いて、それを手探りでさぐりあて、「あ、これだ」とわかるまでには「時間」がかかる。「肉体」が「覚えている」ことは、すぐにはことばにならないのだ。
 そして(これは、少し飛躍になるのだが)、この「遅れ」と「あらわれる」をくりかえして、ことばは「古典」になるののだ。それが書かれたときにももちろん読まれる。しかし、そのことばが衝撃的であるときは、その瞬間に読まれて終わるだけではない。時間がたって、「肉体」がそれを思い出すとき、もう一度読まれる。それが繰り返されて「古典」が生き残る。
 初版から再版まで16年かかった。そのことを私はなぜかうれしく感じるのだ。初版がでてすぐに話題になり版を重ねる。多くの人に読まれるというのは大切なことである。しかし、時間が過ぎてから、あ、このことばの「源流」はここにあったのか、と多くの人が気がつき、それがもう一度読まれる--これはすばらしいことだ。季村の『日々の、すみか』は「古典」として生きはじめたのである。16年という時間が『日々の、すみか』を「古典」にした。そして「古典」というのは「古い」ではなく、「いまを生きている」ということである。「16年」が「いま」なのだ。長い長い時間を「いま」に変えてしまうのが「古典」なのだ、というようなことも思った。

 読み返すと、いろいろなことを思う。そのことも書きたいが、きょうは最初に書いた感想を、ここに転写しておく。(いまなら違った書き方をする部分もあるのだが、特に「意識」ということばは、いまなら「肉体」と書くところなのだが、その当時の私の感じたことを書き直してもしようがないので、そのままの形で転写した。)


 季村敏夫は神戸に住んでいる。震災にあった。震災から立ち上がって、詩を書いた。『日々の、すみか』(書肆山田)だ。
 *
 「出来事は遅れてあらわれた。」ということばに驚かされた。「祝福」という詩のなかに出てくる。
 大地震は遅れてきたわけではない。予想もしないときに起きた。「遅れた」というより「早すぎた」というべきだろう。しかし、季村は「遅れてあらわれた」と書く。
 なぜか。
 大地震は起きただけでは「出来事」ではない。大地震が起き、そこからやっと逃げ出したとき、その瞬間においては、それはとらえどころのない何か、「驚愕」でしかない。人は呆然と立ち尽くし、突然の世界の変化に放心する。
 それが「出来事」になるには、何が必要か。「ことば」だ。「ことば」にされ、意識に組み込まれて、定着しなければならない。
 小さな事件ならば、出来事が意識に定着するまでには時間はかからない。しかし、震災があまりにも大きな出来事、一度も経験をしたことのない出来事だったために、それは「ことば」でとらえなおし、意識のなかに組み入れるまでには時間が必要だった。そうしたことを季村は「出来事は遅れてあらわれた。」と書いている。
 *
 季村は「阪神大震災」をどのように、ことばに定着させようとしたのか。「祝福」は次のように始まる。

一九二〇年代動乱期の中国で、阿Qという愚人を野に放った人の作品をひもといていたとき、はっとすることがあった。「祝福」という小品の、誰ひとり身寄りのない老婆の言葉に出会ったときである。

「人が死んだあとで、魂というものはあるのでしょうか。地獄はあるのでしょうか。同じ家の物は死んだあとでまた会えるのでしょうか」

老婆のどの問いにも、作者とおぼしき男は「なにもいえない」とつぶやき、そのまま口をつぐんだ。心おだやかならず、くらいおもいが立ちはだかった。おおつごもりの、その夜、痩せさらばえた老婆は野垂れ死ぬ。

虐殺につぐ虐殺の時代の、新年を祝福する日。そんなやすらぎの一日に、つましい老婆の詩を書き留め「知識は罪悪である」と、男は魔王の形で立ち去った。

それから約七十年後、私たちは震災という出来事のため、一瞬のうちに棲み家を失い、身ひとつとなった老人たちと寝食をともにするということがあった。書物のなかの対話は「今ここ」の再現ではないかと、私達は深緑色のテントのなかの仮設の湯槽に浸り、やっとはなやぐ老人たちのさざめきを身近にしておもっていた。(略)

 ことばは、まず書物のなかからやってきた。かつて読んだ本のなかの老婆のことばが、今ここで繰り返されている。そして、そのことばに対して「なにもいえない」といった男のことばを思い出し、自分がその気持ちでいることを確かめている。
 なぜ自分のことばではなく、本のことばが最初に思い浮かぶのか。自身の体験の衝撃が強すぎて、自分のことばでは何もとらえることができないのだと思う。全く新しい体験を、自分だけのことばで描写することは難しい。全く新しい体験とは、それを語ることばがないからこそ新しいのだ。そこでは人間はことばを失い、呆然とするしかない。
 被災した老人のもらすことばに、季村は呆然とする。何が起きているのかわからないままに、目の前の世界を見つめる。それから記憶にすがって現実を描写することで理解しようとする。
 しかし、何かが違う。本のなかには確かに季村が今体験し、多くの人が体験していることの一部が含まれている。しかし、本のことばが告げるものは、季村たちが体験したすべてではない。
 どんな風に世界がみえたのか。どんな風に悲しく、みじめであり、また滑稽だったか。本のなかのことばに頼らず、自分たち自身のことばで語り合ううちに、「出来事」は少しずつ輪郭を持ちはじめる。そうやって、人々は「外」ではなく、人々の「内」で大地震は、新たに立ち上がり、定着する。「出来事」が姿をあらわす。
 季村は書いている。

出来事は遅れてあらわれた。月夜に笑い声がまき起こり、その横で顔を覆っている人影が在った。おもいもよらぬ放心、悲嘆などが入り混じり、その後、私達のなかで出来事は生起した。


 語り合い、意識を深めていくにしたがい、不思議な感情があらわれる。「出来事」が明確になるにしたがい、不思議な気持ちにとらわれはじめる。

多くを語っても「なにもいえない」ことを告げたとき、やっと私達はほほえみを灯すことができるようになった。

 「なにもいえない」は「出来事」を描写することばがないという意味だが、それは私たちがよく口にする「何も言えない」ともすこし違う。私たちはいいたいことが「過剰」にあって、それをことばであらわすことができないとき、「何も言えない」「何も言ったことにならない」と言う。季村たちの「なにもいえない」は、もちろんこうした意味を含んでいるが、何かが明確に違っている。

多くの老人たちは、放心して何日も横になったままであった。そのなかのひとりの「焼けだされたけど、こうして一日生きれたことが幸せです」このささやきが私達に刻印された。

 「なにもいえない」というのは、言いたいことが「過剰」にあるという意識にもとづくのではない。今語ってきたことばが「何か」を決定的に欠いているという意識にもとづく。「言いたいこと」は本当は一つなのだ。それを言えないという悲しみ、悔しさ。「欠如」による苦悩が、そこにはある。
 「なにもいえいな」と告げたとき、その「欠如」が「共有」される。誰も口に出さないにもかかわらず、誰もがその一言で「欠如」を知ってしまう。それほど明白で、それほど衝撃的な「欠如」が、ことばをかわす以前から、大地震を体験した季村たちに、すでに「共有」されていた。そして、その「欠如」の「共有」こそが、「出来事」を「遅れて」あらわす原因でもあった。
 暗黙の「欠如」の「共有」--それは「死者」のことだ。「死者」はそばにいる。多くの人が、共に生きているはずの人間の「欠如」を生きているということだ。
 その「悲しみ」を「共有」しながら、季村たちは「ほほえむ」。その「ほほえみ」は非常につつましい。自分の悲しみを声高に訴えるのではなく、その悲しみで他の人が悲しまないように、あるいは自分の悲しみゆえにそばにいる人に気配りをさせたりしないように、という思いが、彼らをほほえませる。「なにもいえない」とは、また「死者」に対して、どうすることもできない、という悔しさ、悲しさ、苦しみの表明でもある。そうしたすべてが「なにもいえない」ということばとともに「共有」され、それ自体がひとつの巨大な「出来事」にかわる。
 そして、この「なにもいえない」という絶望的な告白は、非常にお得の感情を含みながら、非常にささやかなことばのなかに還元される。それは、とても切ない。
 「一日生きれたことがしあわせです。」
 この、つましすぎるほどの「幸せ」の奥には「死者」がいる。「死者」が「共有」されている。「死者」が「共有」されているからこそ、それを告げる声は「ささやき」となり、胸に深く刻まれる。
 そして、この、悲しく、絶望しているにもかかわらず「幸せ」と言うしかない矛盾、この複雑な感情のために、「出来事」は「遅れてあらわれ」るしかなかった。

 季村は「死者」がそばにいる、という悲しみにたたずむだけではない。さらに一歩進んで、その「死者」のためにこそ、ことばをあつめ、「出来事」を明確に再現しようとする。「出来事」の再現をとおして、「死者」の鎮魂をしようとする。
 「しずけさに狂い」には、次の行がある。

「悲惨な」という形容詞で名づけられるとき、その場から決定的に墜落してしまう。時間を後戻りし、私達は後ろ向きになって遡る。空気や風のわずかな違いがあとでわかったとしても、「明らかに生き残ったのだから」、私達は、場からの遅れを生きることになる。

(略)寒さにふるえる白いお尻は、妙な角度で首を傾ける犬に見つめられていた。私達は悲しいほど滑稽であり、だからこそ死者たちから峻別されて在り、ひとつひとつの姿をおもいだして「言葉」で拾い集めていた。

 激しい地震、数千人の死者、数えきれないけが人、壊れ、焼けた家々。それを「悲惨」と表現することは簡単だ。しかし「悲惨」では言いきれない何かがある。
 あの一瞬、多くの人が亡くなった。その思いは「(私達は)明らかに生き残ったのだから」という思いにつながり、「私達」と「死者」のあいたに決定的な「断絶」「ずれ」をつくる。その「断絶」と「ずれ」は「悲惨な」という形容詞ではどうにもとらえることができない。意識に「とこば」として定着しない。
 どうすれば「死者」とつながることができるか。「死者」の苦しみ、やりきれなさ、さらには「死者」の愛を表現できるか。「悲惨な」ということばでは何一つ表現できないことだけは明らかだ。
 そしてこのとき、つまり、自分の言葉で「死者」のすべてを、あるいは「死者」につながる生き残った者たちの感情を定着させることができないとき、自分たちのことばで「死者」をこころのなか「生起」させることができないとき、そのときほんとうに「墜落」させられる者は、季村たち地震、つまり被災者だ。
 だからこそ、季村は語る。「言葉」を集める。
 自分たちの生を、そして「死者」の思いを自分たちのことばで語ること--それは地震に伴う大惨劇を食い止めることのできなかった政治や行政に対するの怒りであり、その怒りは同時に「死者」の魂の代弁でもある。そして「死者」の気持ちを代弁することこそ、鎮魂のもっとも大切な仕事だ。
 屋外で白い尻をさらし、それを犬に見つめられる。そんな滑稽な日々の暮らしもことばにする。そう滑稽さこそが「死者」と「生き残った者」の区別なら、そうしたものを欠いたままことばを鍛えても意味がないからだ。「死者」とは何か、「生き残ったもの」とは何か、常に問いつづけることが、死者を鎮魂することになるからだ。
 季村は、すべてを語ろうとしている。「出来事」をすべてことばにしようとしている。ことばにすることで語り継ぎ、語り継ぐことで歴史を作ろうとしている。それが「死者」への鎮魂になると信じている。
 この信念は絶対的に正しい。
 そう感じたからこそ、私は、ただ季村の声に耳を傾けることしかできないと感じた。批評のことばがむこうである、とはそうした意味である。



日々の、すみか (Le livre de luciole)
季村 敏夫
書肆山田
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田文憲「不在」

2012-12-30 10:06:41 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「不在」(「午前」2、2012年12月05日発行)

 吉田文憲「不在」もまた田中清光のように「(西洋の)頭」で書かれたことばだろうか。少しそんな気がしないでもない。

手紙が置いてある
そこだけが
発光しているようにみえる

 でも、「西洋の頭」というのとは違うなあ。どちらかというと昭和の「新感覚派」の文体。「新感覚派」の文体は、私には、はじめて翻訳を試みた学生の日本語のようにも見えるから、そこに「西洋の頭」の影響を感じるのかもしれないが--新感覚派ついでにいうと、この書き出しは川端康成の「雪国」である。手元に本がないのであいまいだが、「トンネルをぬけると雪国だった。夜の底が白くなった」。「そこだけが/発光しているようにみえる」はこの感覚に非常に似ている。「夜の底」と「そこ」は違うことばなのだが、「白くなった」と「発光している」がまったく同じである。夜の雪は昼の白銀のように太陽の光を反射して輝くのではなく、それ自体内部から発光しているようにして静かに白を浮かび上がらせる。
 そして、その「新感覚派」に通じることなのだけれど、その文体には「西洋のことば」がそのままでは入り込まない。田中の書いていたような「金貨」のような異質なものが入り込まず、あくまで「日本」にあるもの、「日本語」が動いていく。

悲鳴をあげているようにみえる
崩れてゆく人影が
発光している文字が
(わたし)を残して
いつまでも
悲鳴をあげているようにみえる

 「発光」と「悲鳴」にはたぶん「西洋」がまぎれこんでいる。けれど吉田は田中のように「精神」ということばをつかわずに、「発光(する)」という、動詞派生のことばを「悲鳴」に重ね合わせることで、「悲鳴」のなかから悲鳴を「あげる」ではなく、「悲鳴する(?)」というような「動詞」を引き出している。「悲鳴」は「名詞」だが、「発光する」と重なるとき、そこに何か不思議な「動詞」の要素が加わってくる。「発光する」と「悲鳴」を重ねることで、「西洋の頭」を「肉体」に還元している。「肉体」というのは、たぶん、「西洋」「日本」の区別はない。ヨーロッパのどこの国かわからない人が日本の道端でうずくまり腹を抱えてうめいていたら、あ、彼は腹が痛いのだと日本人にもわかる。自分の腹の痛みではないのに、その姿勢やうめき声で痛みがわかる。それは「痛む」という動詞、そのときの「肉体」の動き(動いていること)がわかるということである。
 「(わたし)を残して」の(わたし)は、もしかすると「精神」かもしれない。「自己」の言い換えかもしれない。けれど、そういう「強いことば」ではなく、単なる「一人称」の呼び名としての「わたし」ということばの響きが、なんとなく、身近に響いてくる。まあ、これは私の「感覚の意見」だから、ほかのひとは「精神」ということばよりも(わたし)という表記の方に「西洋」を感じるかもしれないけれど。
 うまく言えないが、田中のことばに比べると、吉田のことばは私の「肉体」になじみやすい。つかまえやすい、というだけのことかもしれないのだけれど。

三日間の不在だった
水面の揺らぎをみていた
河岸にキシキシという水鳥の鳴き声を聞いていた

 「不在」ということば「西洋の頭」を強く感じさせる。詩のタイトルにもなっているが、うーん、不在か。このことばだけが、詩のなかでなにか違っている。でも、その「違い」を強引に押し通していくのではなく、「頭」が「不在」を回避して、ちゃんと「日本語の肉体」を動いていく。「水面の揺らぎをみていた」という具体的な対象、しかもありふれた対象が「みていた」という動詞のなかでしっかり定着している。そのことに私は安心する。
 「河岸」と「キシキシ」の組み合わせには、漢字と読み方の不思議な交錯もある。「かし」は「岸」という漢字を含み、「岸」は「きし」でもある。そういうあたりまえのこと--日本語で生きてきた人間にはあたりまえのことが「音」という「肉体」に作用し、そこから「鳴き声」「聞く」という「音」につながる「肉体」と動詞が引き寄せられる。
 とても自然である。
 そして、その後のことばの「転調」が、また、とても自然である。「発光してみえる」(見る、という動詞)と「悲鳴をあげる」(声を出す、という動詞)の交錯はすでに最初からあったのだが、それが「揺らぎをみていた(見る)」「鳴き声を聞いていた(声を出すから、声を聞くに動詞が変わっている)」と動いていくと、なにかしら「肉体」全体に動詞が影響しあい、変化が起きる。

濁る目に
風景がささくれていた

 「見る」--その「目」が「濁る」。これは「鳴き声(声を出す)=喉」、それを「聞く=耳」という「肉体」の融合に「目」も引きずられ、融合・一体化したために起きる「濁る」であろう。「目」は「目」だけで働いているわけではないのだ。それが証拠(?)に、風景が「ささくれ」る。「ささくれる」はもちろん目でも確認できるが、いちばん確実なのは「触覚」である。手で触って「ささくれ」を私たちは実感する。
 こんなふうに「肉体」が自然に融合し、「肉体」の「個別の器官」の境目をなくしていくとどうなるか。

その遠い目の下から
さまよい出すものがあって
わたしではない影が
黒い木立の下で
悶えていた
泣いていた

 「肉体」から何かが「さまよい出す」。それは「わたしではない」。「わたしではない」けれど「わたしである」。「わたしの肉体」から出ていったものであるから。この離脱が幸福な場合、私たちはそれをエクスタシーと呼びならわしているけれど、それがのぞんだものではない場合--うーん、それが「不在」なのか。
 でも、どっちが? さまよい出した「わたし」が不在? 「わたし」を失った「わたし」が不在?
 えっ、何を書いている?
 わからないね。そして、このわからない混乱のなかにこそ、私は詩があるのだと感じる。わからない瞬間、私が頼ることができるのは、そこにことばがあって、それが動いているということだけだ。
 こういう「領域」へ動いてくことばというのは、いいものだと思う。いい作品だと思う。(私には西洋化ぶれのミーハーなところがあり、こういうことばの動きはほんとうはとても好きなのだ。)

 さらにことばは動いていく。

そのいない小さなものが呼吸するたびに
ほんのわずかずつ空が上下に揺れた
遠い鏡のなかでは
犬がほえ
霰や雹が降っている

 あ、「鏡」が唐突だなあ。ちょっと「肉体」から離れて「頭」が自己主張しはじめているかなあ。
 この「そのいない小さなもの=不在」をもう一度言いなおす詩の後半(このあともまだ詩はつづいている)は、私にはかなりつまらない。けれど、前半はおもしろい。だから後半のおもしろくはない部分は省略して、前半だけについて思ったことを書いてみた。「悪口」を書きはじめると、それがとまらない悪い癖があるので。






移動する夜
吉田 文憲
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンジェイ・ワイダ監督「菖蒲」(★★★★★)

2012-12-29 21:09:25 | 映画

監督 アンジェイ・ワイダ 出演 クリスティナ・ヤンダ、パヴェウ・シャイダ、ヤドヴィガ・ヤンコフスカ・チェースラック

 「菖蒲」という短編小説を映画に撮る。ところが主演女優の夫が病気になり、女優は夫のことが気になるので映画に専念できなくなる。撮影がむずかしくなる--という「虚構」と「現実」が交錯するとても「文学的」な映画である。
 私はこういう「文学的」な映画は好きではない。
 だが、おもしろいなあ。「文学」を題材にし、それに「文学的」に接近していくのだが、「映画」のシーンが「映画」なのか「現実」なのか、それとも「小説」なのかわからなくなる。言い換えると「映画」になりきっている。
 主役の女優が川辺のカフェ(?)で若い男を見かける。ハンサムなのだが、知的ではない。それがまたハンサムに不思議な輝きをあたえる。その若い男には若い女がいる。恋人。恋。--それを見つめる女優の視線と、その視線を引きつけながら同時に跳ね返してしまう若い男の非情な肉体の艶やかさ。色っぽさ。これが、実にすばらしい。そうか。中年(熟年?)の女からは若い男がこんなふうに見えるのか、と実感できる。それは「ほんとう」はカメラがとらえた若い男であって主役の女が見た男ではないのだが、主役の女が見た男に見えてしまう。あ、これが「映画」だ。
 映画は女のこころここにあらずという視線(目の前には友人の女がいてしきりに話しかけてくるのだが、ぜんぜん見ようともしない。若い男の方ばかり見ている)と、その視線がとらえた若い男を交互に映し出すのだが、うーん、中年の女になって若い男を見ているような気分になる。なんだかどきどきする。私が中年の女になって若い男を見ているってこと、だれか、気づいていない? そんな感じになってしまうのである。
 で、この視線のドラマに、もうひとつ、とてもおもしろいものが絡んでくる。クライマックスの「菖蒲」と関係するのだが、映画の原作である「菖蒲」をワイダと女優が読んでいる。そのとき「ここが大事」というようなことをいいながら「匂い」の描写を読む。菖蒲にはいくつもの匂いがある云々……。
 セックスを何に感じるかというと、視覚をメーンに考える人が多いのだけれど(私はそうではないのだが)、この映画は視覚を描きながら、別なことをつけくわえる。「匂い」。若い男には「匂い」がある。それは女優の夫(そして小説のなかの、つまり映画のなかの夫)が失ってしまったものだ。その「匂い」に女はひかれていく。
 川で泳ぐシーン。泳ぐ前に砂地に腰をおろしている二人。女の顔が男の体に近づいていくのだが、それはキスするためではなく、匂いをかぐためである。唇が近づくのではなく、鼻が近づいていく。いやあ、色っぽいなあ。エロチックだなあ。
 不幸なことに、こういうエロチシズムは若い男にはわからない。顔が近づいてくるのは、唇が近づいてくるということ。キスをする、ということ。で、匂いをかぎに近づいた女の顔を引き起し、キスをする。--それに応えながらも、うろたえる女。そのうろたえた姿を見て、我にかえっていく(?)若い男。母親のような女とキスしたって、それが目的ではない。男にはちゃんと大好きな恋人がいる。
 そのあとのクライマックスはいく通りにも解釈できる。どんなふうに「結末」を判断してもいいような--ただし、女はまた「若い男のいのち」を失ったのだ。自分のものであるはずの「若い男」を失ったということだけははっきりしている。そしてその「若い男」を失うということは、彼女の、息子を戦争で失ったという記憶と深く結びつき、同時に女が失った「若い男」にこだわっていたために、夫をも失ってしまったということを女に気づかせる。ことばで書いてしまうとちょっとややこしいのだが、映画はこれを三つの「結末」をすばやく映像で展開し、融合させてしまう。そのとき、あ、これが「映画の文法」だと教えてくれるのが「ことばの排除」である。女は菖蒲を取りにいって引き返す途中、溺れて死んでしまった若い男を抱き抱えて泣くのだが、このとき「泣き声」という「ことば」さえ、そこにはない。ただ、女の顔と、肉体だけがある。映像だけがある。それなのに、「声」が「ことば」が聞こえるのである。それも、女の「肉体」からではなく、映画を見ている私の「肉体」から。その「声(ことば)」はポーランド語でも英語でも日本語でもない。「ことば」になる前の「声」そのものである。
 先日見た「レ・ミゼラブル」ではことばは歌になって鳴り響き、顔もアップで涙も何度も見ているのに、歌を聞いたことも表情を見たことも「肉体」に入って来ないのに、言い換えると登場人物になった気持ちにはぜんぜんなれないのに、「菖蒲」では完全に中年の女優になってしまう。映画のなかの「絶望」が映画のなかで完結せず、スクリーンを飛び出し、私の「肉体」のなかに居ついてしまう。
 あ、すごいなあ。と、感想を書きながら、もう一度思うのである。女優の演技力もすごいが、監督の演出力、編集力がすばらしいのだ。映像がリズムを持って、音楽のように「肉体」の内部にまで入ってくるのである。映画を見ているのではなく、私がそこに行って、「女優」なって世界を見ている気持ちになる。
 傑作。
                      (2012年12月29日、KBCシネマ2)




アンジェイ・ワイダ DVD-BOX 1 (世代/地下水道/灰とダイヤモンド)
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中清光「ジャコメッティの手」

2012-12-28 11:09:30 | 詩(雑誌・同人誌)
田中清光「ジャコメッティの手」(「午前」2、2012年12月05日発行)

 田中清光「ジャコメッティの手」はたいへん魅力的なことばで始まる。

どこからでも「無」はひろがるはず

 この1行だけで、この詩が傑作であることがわかる。「有」ではなく「無」が広がる。そもそも「無」に「広がり」はあるのか、という疑問を一瞬のうちに拒絶してしまう力がある。「どこからでも」という強い肯定が「無」を確固としたものにしている。それだけでジャコメッティの削りこんだ彫刻が見えてくる。
 この詩は、次のようにつづいていく。

どこからでも「無」はひろがるはず
紅(くれない)の花であろうと 鉄の塊りであろうと 円相であろうと
狂いかけた精神 また肉体であろうと
日々の現象 現実での金貨から政治まで
あなたには多層のバラバラの構造物が

無に行き着くときとところとが見えている
イマージュとして現われるだけの存在なら
終りのなん大地 星の血液 宇宙までの
像という像の形をかりた
はかないマチエールでしかない

 傑作---と思ったこころが急にしぼんでいく。「紅の花」。これは抽象的だが、まだ勝手に花を「肉体」に引き寄せることができる。「鉄の塊り」も「肉体」に引き寄せることができる。「円相」も、日本人だから(?)、なんとなく「肉体」に引き寄せることができる。よくわからんが、禅宗の寺に掲げてある一筆で書いた月(円)を「覚えている」からである。それは月か、円か、菩薩か--なんとでも断定できるが、その断定にこだわるとき円は円ではなくなるというようなことは、「わからない」のだけれど、「肉体」が「覚えている」ので、その方向へことばが動いていくのだなという「動き」を感じることができる。「無」ということばが、「円相」を呼吸していることに対して「肉体」が納得する。
 ところが。
 「狂いかけた精神」「肉体」という「対」が出てくると、あれっ、これは「日本人の肉体」とは違うぞ、と感じるのである。ジャコメッティだから「日本人の肉体」ではないのだろうけれど……。
 で、「現実での金貨と政治まで」にきてしまうと、私には、ここに書かれていることが私の「肉体」とは無縁のことがらに見えてしまう。もちろん田中が書いているジャコメッティなのだから私の「肉体」と無縁であることはあたりまえなのだが、「肉体」というのは「無縁」であっても(あるいは完全に断絶していても)、どこかでつながっているものである。道で倒れて腹をかかえるようにうめいている人間を見ると「あ、腹が痛いのだ」と自分の肉体の痛みでもないのにそれがわかる、という具合に、どこかでつながっているものである。そういう「つながり」が、私の場合、ここでとぎれてしまう。
 「金貨」のせいである。私の「肉体」はそれを知らない。私の「頭」はそれを知っている。ヨーロッパの小説に出てくるものとして知っている。「肉体」は知らないけれど「頭」は知っている、ということはだれにでもある。そのひとつが、私の場合「金貨」である。そして、そのことばに出合った瞬間、あ、田中は「頭」でことばを動かしていたのか、と思ってしまうのである。
 言い換えると、つまずく。
 つまずいてしまうと「紅」に「くれない」とルビをふって読ませることばのつかい方もなんだかとても「肉体」から遠い。「くれない」にほんとうに「肉体」が見てしまったのなら「くれない」というルビはつかわない。目の前にある「紅」を「あか」ではなく「くれない」であると言い換える、「あか」と読んでもらっては困る、というのは「頭」の働きである。「肉体」は自分で引き受けたものを別のことばで言い換えようとはしない。他人がどう読もうが関係ない--そして、この他人がどう読もうが関係ないというのは、どんなふうに読んでも「肉体」はつながっているという、ことばにならない何か共通のものを感じる力と関係している。
 そういうものを田中は信じてはいないのだ。
 もちろんいま私が書いたことは、まったく逆の立場からとらえなおすこともできる。「肉体」があいまいに「覚えていること」を「肉体」にまかせてしまうのではなく「頭」で整理し、「共通言語」にして動かす、ということを田中はしているのだ、という点からとらえなおすことはできる。たぶん、そうする方が田中の「神髄」に近づくことになるのだと思うけれど、私は、ちょっとためらうのである。
 それはそれでいいんだろうけれど、それは私のやり方ではないなあ。私自身の「肉体」を裏切らないことには、そのことばにはついていけないなあ。「頭」を時間を遡って鍛えなおさないことにはついていけないなあ、と感じるのである。こういうことはすべて「感覚の意見」であって、論理的には説明できないのだけれど。

 と、書きながら、評価しているか、けなしているのか、あいまいなところで私がうろうろしているのは……。(いったい私が田中のこの詩を「傑作」と言おうとしているのか、「駄作」と言おうとしているのか、わからないでしょ? 実は、私にもわからないのだけれど。)
 2連目の1行目、

無に行き着くときとところとが見えている

 この行が、また、ずしんと「肉体」に直接ぶつかってくる。この1行がというより、正確に私の感想を書くと、

あなたには多層のバラバラの構造物が

無に行き着くときとところとが見えている

 1連目と2連目の「空白」(断絶)が、「肉体」にぶつかってくる。額縁の一筆書きの丸が、円か月か菩薩かという具合に「飛躍」のなかでつかみとられるときの「飛躍」がずしんと「肉体」の奥にぶつかってくるのである。
 これは書き出しの

どこからでも「無」はひろがるはず

 を言い直したものなのだが、それが単なる「言い直し」を超えたものとして響いてくる。1行目が「無」という具合に括弧付きだったものが、括弧なしの無というかわることさえ、ほーっと嘆息がもれてしまう。「ときとところと」と田中は「並列」の形で書いているが、これは「とき」という存在(もの)と「ところ」という存在(もの)の並列というよりも、「ときである(ということ)」「ところである(ということ)」なのだろうなあと私は納得する。--誤読する。
 「もの」という名詞ではなく「ある」を含んだ「こと」(「ある」という動詞に還元するときによりわかかりやすくなる「こと」)だからこそ、「ひろがる」という動詞と共鳴して、それが「飛躍」を呼び覚ますのだろうなあ、と思う。

 この1行あきという「視覚」にもはっきりわかる「飛躍(断絶)とは逆のことばの動きもある。3連目に出てくる。

事物からぬけ出すデッサン 裸の女のもつ空虚は
手の造るマッスに限定されてしまわない
空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる
充実も終わりのない無に赴くほかないが
あなたの手が 物質とての確固とした存在を生むまで

 この3連目のちょうど中間にある、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」は前後の行との関係が「飛躍」ではなく、くっつきすぎた「接続」のように見える。「手の造るマッスに限定されてしまわない空虚」と読むことができるし、「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる(その)充実も」と読むことができる。さらには「空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる」を独立した行、つまり、「手の造るマッスに限定されてしまわない」と「充実も終わりのない無に赴くほかないが」を分断しながら、分断することで接続する行にも見える。(分断しないことには、接続ということもありえないから、まず分断し、それから接続するのである。)
 こういう「わからなさ」とそのわからなさを超えて一瞬「わかる」何かの交錯というのはおもしろい。「肉体」をほんとうに刺戟する。「頭」では、どうすることもできないのである。どう「断定」しても、それは一瞬の「錯覚」だから、そのまま受け入れるしかない。「おもしろい」と思うか「つまらない」と思うかは、そのとき次第だなあ。
 あ、また、いいかげんなことを書いてしまった。
 最後、4連目。「生むまで」という中途半端な行で終わって、1行あきの「飛躍」のあと、ことばは次のように動く。

写実してみても夢の宝庫にはならぬ
物の世界は たえず想像から落ちつづける
影にはじまる存在論よ
ひとの全身がますます細い骨に変じてくる
風と鳥類が走りだす世界で
存在するものはもはやみなこの世ならぬ棒のすがたとなって空をささえる

 「写実」「物の世界」「想像」「影」「存在論」--ということばの移動は、まあ、これも「頭」の運動だなあ、と思うのだけれど(精神の世界-光-存在論という対比がそこに動いているように感じられるのだけれど)、それはそれとして、最後の

空をささえる

 さて、これは「くう」、それとも「そら」?
 「無」からはじまった詩なので「くう」なのだろうなあ。
 と考えながら、そう「考えている」ことに対して、私はちょっとむっとしている。自分に腹を立てている。「考える」というのは「頭」の仕事だからね。
 田中の「肉体」に触れながら、どうしても「頭」にじゃまされる。何か「頭」で考えないといけない部分がこの詩にはあって、それが窮屈なのである。田中が「頭」で整理したものでるから、この詩は「清潔」に、また構造的にもゆるぎのないものになっているということ「わかる」のだけれど、それが私には同時に窮屈に感じられる。

 田中は「頭」でことばを整理していなというかもしれないけれど……。

 そう思って、もう一度詩を読み直してみた。なぜ、私が「頭」を感じたのか、それをあらわすことばはないかな、と思って読み返してみた。

どこからでも「無」はひろがるはず

 ああ、これだな。「はず」。「理由」をしめしている。そして、この「はず」はこの詩では1回しか書かれていないが、ほんとうは各所に書かれないまま隠れている。

無に行き着くときとところとが見えている「はず」

はかないマチエールでしかない「はず」

空虚がゆるんでゆくあとの充実が現われる「はず」

存在するものはもはやみなこの世ならぬ棒のすがたとなって空をささえる「はず」

 そうして、もし「はず」が田中のキーワード(思想、肉体にしみついたことば)であるとするならば、その「無」というテーマも「はず」という「理由」(根拠)を求めてしまう「頭」によってとらえられたものであり、そのときの「頭」には何かしら「西洋」の「頭」が影を落としているように感じられる。
 「日本の肉体」と「西洋の頭」が出合っているというより、ぶつかっている--そのために、この詩をあるときは「傑作」と思い、あるときは「いやだなあ」と感じながら読んでしまうのだと気がついた。
「はず」に頼らずにことばが動いたら、田中の詩はもっと強靱なものになると思った。




三千の日
田中 清光
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子「こわいところ」

2012-12-27 10:43:09 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「こわいところ」(「すてむ」54、2012年12月10日発行)

 長嶋南子「こわいところ」を読みながら、うーん、これはどういうことだろうか、わからないなあ、とつまずいてしまった。

よその家でご飯を食べている
わたしの息子だという男が話しかけてくる
めんどうを見るよと言っている
本当の子どものような気がしていとおしい
しっかり者の女の子と慕ってくる弟がいて
ものわかりのいいお父さんがいる
母親顔してお前はしあわせだねというと
息子だという男が笑いながら
ほろほろと崩れて溶けていく

二階から階段をおりてくる足音が聞こえる
息子が包丁をもってわたしをころしにくるのだ
ぎゅっと身が引き締まる
早く目を覚まさなくては
ゆうべは
足音をしのばせて
わたしが階段をあがっていく
ビニールひもを持っている
息子が寝ているあいだに
首を絞めて楽にしてやらなくては
ぎゅっと身を引き締める

こわいところを
出たり入ったりしている
手になにか持っている感触が
とんでもないことが起きないうちに
早く目覚めなければ
手に持っているものを捨てなければ
わたしがほろほろ崩れて
溶けていく

 「ほろほろ崩れて溶けていく」。これは1連目と3連目で、少し形を変えて繰り返される。その「ほろほろ崩れて」と「溶けていく」が私の「肉体」にすっと入って来ない。逆に、まるで夢がわけのわからない痕跡を残して消えていく、という感じで遠く去っていく。いま、たしかに夢を見た。その夢はだれかに語らなくてはならないほどおもしろいものなのに、ことばにしはじめると、少しずつ見た夢とは違ってくる。ああ、こんな夢ではなかったのに、もっと「ほんとうの」夢だったのに、と思う感じに似ている。
 そして、その感じは、その前に書かれていることがしっかり「肉体」に入ってくるのと対照的である。
 長嶋は最近(?)、息子が登場する詩をよく書いている。ほんとうかどうかはわからないが、ちょっと困った存在である。自立していない。おとなになってしまった息子の面倒をみるなんて、面倒くさい。まあ、そういう感じの詩が多いのだが、今回の詩は、二人で互いに殺し合うことを考えている(互いに殺されあうことを感じている)という「こわい」詩である。その「殺し合い」が空想ではなく、「手になにか持っている感触」として、「頭」から出てしまって、もう「肉体(手)」に具体的になっているところが、いやあ、こわい。こわいのだけれど、変なことに「肉体(手)」の感触にまでなってしまうと、逆に、手さえおさえれば暴走しない、暴走は起きないという安心感(?)のようなものがある。「殺意」は「頭」のなかにだけあるときの方が暴走してしまう。「手」に限定されれば、ほら、手の仕事ってかぎりがあるでしょ? 手の力にはかぎりがあるから、なかなか「殺人」というのは実現できない。そういう変な安心感がある。
 そんな安心感を思うことも、こわいといえばこわいけれど。
 あ、脱線した。この「殺意」とその妄想、そして「手」の感触--これは、私の「肉体」にすーっと入ってくる。それが「わかる」ということは、私の「肉体」がそういうことを「覚えている」ということでもある。「覚えている」から「共鳴」するのである。
 これは何も人殺しの「感触」ということではない。たとえば魚を切る(肉を切る)、あるいは木を切る、草を切るということにもつながる「記憶」である。手に動く力の配分、そして手に返ってくる抵抗。あるいは何か荷物をひもでしばる。そのときの効率的な力のかけ方、同時に手に跳ね返ってくる縛られるものと紐とのいがみあい--そういうものの「バランス」を「肉体」は「覚えている」。もし人を殺すというようなことがあれば、そのとき「覚えている」肉体の動かし方にそって私は肉体を動かすのである。そして、うまくいかないなあ、最初だからね、などと思うことも、ふっと「わかる」。
 これはたしかに「こわい」ことだなあ。
 けれど、その「こわい」って何?
 これがちょっとおもしろい。殺されるのは「こわい」。これはあたりまえだ。死にたくないからね。けれど殺すのも「こわい」。これは、なぜ? 殺さなければ殺される。だとしたら殺すが「こわい」理由は?
 「わからない」けれど、「わかる」。
 殺すとき(私は人を殺したことがないので、これから先に書くことは想像だけれど--もちろんいままで書いてきたことも想像なのだけれど)、私たちは「殺される人」の苦しみを、自分の「肉体」の苦しみとして感じてしまう。苦しんでいる人間を見ると、「肉体」がその「苦しさ」に反応して、自分の苦しみではないはずなのに、苦しいということが「わかってしまう」。
 「わからなくていいもの」を「わかってしまう」。--ここに何かがある。

 こまで考えたとき、私はふと思うのだ。「わからなくてもいいもの」を「わかってしまう」のが人間なら、「わからなければならないもの」を「わからない」のも人間である。逆のことが起きるのが人間の世界である。
 たとえば息子の苦しみ、あるいは母の(長嶋の)苦しみは、互いに「わからなければならないもの」である。でも、それが「わかりあえない」。「わからない」。しかし、また、この「わからない」は実は「わかっている」でもある。
 ええい、どっちなんだ。「わかる」のか「わからない」のか、「わからなければならちない」のか「わからなくてもいい」のか。--いや、怒ってしまいたくなるほど、これはめんどうなことだね。整理できない。そして整理できないのに、整理したい。つまり、矛盾だね。この矛盾のなかで、うろうろするのが人間である。
 「わかる」「わからない」というのは、その瞬間の便宜上「断定」であって、その「断定」にこだわっていては生きていけない。「わかる」と言ったあとすぐに「わからない」。「わからない」と書いたあとにすぐに「わかる」と言いなおしていいのだ。それは、同じことなのだ。
 なぜ同じかというと。
 わかってもわからなくても、そこに「肉体」があるからだ。「肉体」が「わかる」「わからない」をのみこんで、つなぎとめるからである。

 ということまでなら、それでいいのだと思う。(何がいいか、というと、めんどうでむずかしいから省略する。)と、いう具合に、私は「飛躍」するのだが……。
 「ほろほろほ崩れて溶けていく」というのは「意識」? それとも「肉体」?
 「意識」なら、それでもいいのだけれど、これが「肉体」だと、あ、困ったなあ。どうしようかなあ、と悩んでしまうのである。「意識」では抱え込めないほどの問題に膨れ上がってきているのかなあ。
 どんなことを書いていても、そこに長嶋の「肉体の強い力」を感じて、私は笑うことができたのだが、今回の詩にはそれができない。
 「息子だという男」と「わたし」が「ほろほろと崩れて溶けていく」という「動き」のなかで「ひとつ」になっているのも、よくわからない。「殺す」という「動き」のなかで「ひとつ」になるときは不思議なことに「安心感」があるのに、「ほろほろと崩れて溶けていく」という「動き」では、奇妙に不安になる。
 崩れて、溶けて--融合して、そこから新しい「肉体」が生まれてくるのかな? そうであるならうれしいけれど。

 この詩には、ほんとうに「こわいことろ」がある。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金井裕美子「残暑」ほか

2012-12-26 10:46:02 | 詩(雑誌・同人誌)
金井裕美子「残暑」ほか(「詩的現代(第二次)」3、2012年12月発行)

 見えるものと見えないものの「境目」はどこにあるか。金井裕美子「残暑」を読みながら、ふとそんなことを考えた。

夕べ、男といさかいをして
乳房を枯らして
女を捨てたいと本気で思ったのに
次の朝、相変わらず女で目覚め
昼になったらおなかがすいた

おなかが空いたら何時(いつ)でも食べにおいで
あるものしかないけれど
そう言ってくれたMさんの家(うち)へ行った

素麺はさびしく喉元を過ぎていき
忘れがたい言葉は
薬味のミョウガといっしょにすすった
いんげんの胡麻よごしを
ぽつりぽつりと独白のように箸でつまみ
しずかな汁で煮含められ
ひとつの器に仲よく盛りつけられた三品
茄子、ししとう、がんもどき
もたれ合いながら保たれた家族のかたちを
次々に食べていったら
器の底には青い花が咲いていて
その花の上には飛び交う二頭の蝶々がいた
どこか儚く、美しかった

食後、Mさんは梨を剥いてくれた
耳裏をかすめて
何かがたったっと駆けていく気配がした
振り向かないまま、梨を食べた
女のまま、梨を食べた
もうこれ以上何も入る隙がないほど
おなかいっぱいになった

 見えるものと見えないものの「境目」は、何がそれをつないでいるかを考えるといいのかもしれない。見えるものと見えないものをつないでいるのは何か。--うーん、やっぱり同じことか。わからないままか。ことばにならないか。
 抽象的に始めすぎたのかもしれない。
 この詩の感想を書いてみようと思ったのは、3連目の、料理を盛った器の下から食べるにしたがい青い花と蝶があらわれるのを見て美しいと思うところにひかれたからだ。青い花と蝶は最初は見えなかった。それが料理を食べてしまうと見えてくる。そして、それがただ見えるだけではなく「儚く、美し」く見える。この「見える」と「見えない」のあいだに何があるのか。「見える」ものが「美しく」見えるというのは、どういうことなのか。そのことについて書いてみたかった。
 この3連目の「見える」「見えない」というのは、ちょっとややこしい。そこには料理が食べることによって消える、その結果、料理が隠していた花と蝶が見えるという変化があるのだけれど、器(花と蝶)にしてみれば、「私はぜんぜん変わっていない」ということになる。料理を盛られても、料理が食べられても器はもとのままの器。変わったのは、それを見ている「私(金井)」の肉体のなかに起きた変化、視界の変化であるということになる。
 と、ここまで書いてきて、私のことばはようやく動きはじめる。ひとの中で、肉体の中で何かが変わる。「私」が見つめている「対象」が変わるのではない。
 しかし。
 では、それはほんとうに「私の変化」? 器の図柄が見えてきて、それに気がつき、美しいと思うことが「私の変化」? 「変化」なのかもしれないけれど、何が変わった? いうことがむずかしい。
 なぜ、むずかしいんだろう。
 器に花と蝶の図柄が描かれていることが「変わらない」と同じように、その図柄を美しいと思うくらいでは「変わらない私」というものがあるからだ。「変わった」はずなのに、何か変化が起きたから、それをことばにしているのに、うーん、どこが変わったとはっきり言えない……。
 そんなことを思っていると、1連目の、次のことばが「自己主張」しているのに気づく。

次の朝、相変わらず女で目覚め

 「相変わらず」。前の日、女を捨てたいと「本気で」思ったのに、「相変わらず」なのである。「本気」さえもねじ伏せてしまう何かがある。「肉体」がある。そして、それは「変わらない」。この「変わらないもの」、ずーっとつづいているものが「変わる」をあいまいにする。
 どんなに「意識」が「変わって」も、「肉体」はひとつのまま。そして、それが「かわらない」ということ、「ひとつ」であるということを絶対条件として、何かが「変わる」。「見える」「見えない」ということが起きる。
 ここからどんなふうにことばを動かしていけば金井の世界にまっすぐに入って行けるのか私にはまだわからないが、金井はそういう「肉体」をしっかりつかんだままことばを動かしていることが伝わってくる。それが、私にはとても気持ちがいい。

夕べ、男といさかいをして
乳房を枯らして
女を捨てたいと本気で思ったのに
次の朝、相変わらず女で目覚め
昼になったらおなかがすいた

 こういうことは「笑い話」のようなものだが、それが「笑い話」であるのは、「昼になったらおなかがすいた」という「肉体」を私たちが「あたりまえ」として受け入れるからだろう。何かがそのとき「共有」されるからだろう。「肉体」そのもの、「肉体」が「覚えているもの(こと)」が共有されるからだろう。
 ひとは「覚えていること」にしたがって肉体を動かす。これも「笑い話」になってしまうが、Mさんが食べにおいでと言ってくれたことを「覚えている」から金井は食べにいくのだが、もちろん、こういうときの「食べる」は「もの」を食べるということだけではない。話を聞いてもらうということが含まれる。それは、わざわざことばで説明したり約束したりすることではないけれど、そういうものであるということを「肉体」は覚えている。何かやりきれないことがあったら、いっしょに「食べる」ということをして、人間の「肉体」のつながりを確かめる--これは肉体(遺伝子)が「覚えていること」なのかもしれないが。
 まあ、そういうことを金井はしている。そういうことを「肉体」は無意識にするのだが、金井は3連目で、ていねいに書いている。

いんげんの胡麻よごしを
ぽつりぽつりと独白のように箸でつまみ

 この「具体的な描写」はとても美しい。それが美しいのは、いま/ここで書かれていることが「はじめて」のことではないからだ。金井にとってはもしかしたらはじめてかもしれないけれど、人間の「肉体」にとってははじめてではない。そういうことをしたことを「肉体」は「覚えている」。その「覚えていること」が肉体によって反復される。
 そうすると。
 「見えてくる」。人間が、「肉体」がどんなふうにして「相変わらず」肉体でありながら生きているかということが「見えてくる」。それは、いままで「見えなかった」何かである。--「見る」とは「覚えていること」を「思い出すこと」、そしてそれを「反復すること」かもしれない。そして、その「見る」「覚えている」「思い出す」「反復する」をつなぎとめ、「ひとつ」にしているのが「肉体」なのだ。「相変わらず女」である「肉体」なのだ。
 「相変わらず」の発見があってこそ、「花と蝶」のデザインを美しいと気持ちが「変化」としてあらわれてくる。飛翔する。
 詩はここで終わってもいいのだけれど--詩とは、あるいはことばの運動というのは、それを書くことによって「私が変わってしまう」ということのためにあるのだから、ここで終わってもかまわないし、多くの「抒情詩」はここで終わるのだけれど、金井はそのあとに4連目を書いている。
 これまた「笑い話」のように、何もかも食べてしまったら「おなかがいっぱいになった」、もう何も考えられない--というような具合で終わるのだが、これがまた、うれしいなあ。つづいていくのは、言い換えると「見えるもの」「見えないもの」などというめんどうくさいことがこれからあるにしても、それと向き合っていくのは「肉体」なのだという、「生きる基本」に立ち返っている。それが、なんとも「正直」で美しいと私は思うのである。
 
 「芒」もとても美しい。

おりた河原のむこう岸は
ぼうぼうの芒の原
風もないのに
そこだけ芒が乱れている
ここからは顔も姿も見えないけれど
三日月形の刃に光をあつめて
だれかが刈っているのだ
芒は
ひとしきり天に向かって身を打ちふって
つぎつぎに乱れて倒れてゆく
川はよそみもしないで流れてゆく
抜き絵のような白い月は眠っている

 「見えない」ものを「見ている」。それは「見えない」けれど「見える」。視力が見るのではない。「肉体」が「覚えていること」が「見る」のである。
 この「肉体」は人間の「肉体」だけにつながるのではない。芒にも川にも月にもつながる。それはもちろん「人間」ではないから、人間とは無関係に「他者」を生きている。その「生きる」ということに「肉体」がつながる。共鳴する。それが美しい。
 腹が減ったら食べるしかない。食べたら満腹。それだけでいい。何も考えまい。--そういう「強い肉体」だけが、自然の「非情な肉体(人間がどう思っていようが関係なくそこにある存在)」と向き合い、「肉体を生きる」というときの何かを共有できる(共鳴できる、感応できる)ということかもしれない。「強い肉体」だけが「見えるもの」と「見えないもの」を結びつけ、そこに「美しさ」を生み出すことができるのかもしれない。





詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トム・フーパー監督「レ・ミゼラブル」(★)

2012-12-25 09:29:38 | 映画



監督 トム・フーパー 出演 ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ

 冒頭、囚人たちが船をロープでひっぱっているシーンがある。それを見た瞬間、あ、この映画はダメ、おもしろくないと思った。そして、それはほんとうにおもしろくなかった。舞台で成功したミュージカルを映画にするのはとてもむずかしい。芝居小屋で「レ・ミゼラブル」は見たわけではないが、映画よりもはるかにおもしろいだろうことだけは想像できる。
 冒頭のシーンのどこがいけないか。CGである。船もそうだが囚人たちがやはりCGである。CGというのは簡単に言うと映像の捏造である。ほんとうはそこにないものがフィルムに定着させられている。(いまはフィルムでさえないかもしれないけれど、便宜上フィルムと書いておく。)つまり、観客は現実には見えないものを見せられているのである。映画は肉眼では見ることのできないものを見るという醍醐味をもったものだけれど、肉眼で見ることができないものをスクリーンで見るということと、ほんとうは存在しないものを見せられる、捏造を見せられるということは別問題である。
 そして、この実際にはそこにないものをCGで見せるというのはミュージカルとは相いれないことがらである。舞台を想像するとそのことがよくわかる。舞台の装置はどんなに精巧につくられたものであってもほんものではなく、そしてそのほんものではないというところは装置がほんものに比較すると視覚への情報量が乏しいということである。簡略化した情報だけが舞台にのせられる。船を引く囚人たちがほんとうは1000人だとしても、舞台では30人ですませてしまう。残りの 970人は観客が想像する。船だって舳先の先端だけしか舞台になくても巨大な船だと観客が想像する。目はほんの少ししか働いていないのである。
 目のかわりに、耳への情報量が多い。ふつうの芝居なら「台詞」なのに、ミュージカルではそれに音楽がつけくわえられている。音楽は感情を揺さぶる。台詞がなくても感情がゆさぶられるのに、台詞と音楽で二重に刺戟してくるのがミュージカルである。そこでは目は半分休んでいる。そうしないと「肉体」が忙しくて、とてもつらくなる。
 この映画はそういう観客の「肉体」を無視している。必要ではない視覚情報をどんどんスクリーンに盛り込む。そうすると「音楽」がうしろにひいてしまい、映像だけがやたらうるさい感じになる。
 顔のアップの問題を考えると、もっとはっきりする。舞台では顔のアップは観客席からは「見えない」。涙をながしているかどうか、それを「見る」ことはできない。見えなくても、台詞(声)が直接観客に触れてくる。声は役者の肉体を離れて観客の肉体に直接触れるという特権を持っている。音楽が、その声の「感情」を増幅させる。役者の声のなかにあるものを、音楽が強調しながら観客のところまでやってくるのである。顔や涙が見えなくても観客はもらい泣きをするのである。
 これがこの映画のように顔のアップがあり、声があり、感情を増幅する音楽があるとなると、もううるさくてうんざりする。もらい泣きなんか、とてもできない。
 映画の特権は、たとえば目--顔のなかにある小さな部分を、絶対にありえない大きさにまで拡大してスクリーンに映し出すことである。舞台では「声(音)」が特権を持つのに対して映画では「顔」が特権を持つのである。その特権を最大限に生かしながら映画をつくるというのは「正統派」の方法なのだろうけれど、これはミュージカルにはまったくむかない。舞台の特権と映画の特権がであったらけんかになってしまう。
 で、さらにこの映画は「舞台」のまた別の特権を破壊するということもやっている。舞台を見ていないのでわからないのだが、映画から想像する限り、舞台では何人かの役者が同時にそれぞれの思いを歌にするというシーンがある。ときには同じメロディーに違うひとのことばが同時に重なる。あるいはことばもメロディーも違うけれど、ひとつの舞台の上で同時に歌われるという場面があると思う。そのときその歌は、互いに「聞こえない」のだが観客には「聞こえる」という具合になっている。歌っているひとは自分の感情を歌うのであって、そのときだれか別の人が別の感情を歌っているということを知らないことになっている。ただ観客だけが複数の人間の感情がついたり離れたりして「同時に」存在することを知っている。この「同時」という時間のなかにドラマがあるのだが、映画はそれを「同時」に表現できない。舞台の「同時」という「特権」を完全に殺してしまっている。昔、「ウエストサイド物語」では画面を分割して複数の声を同時に存在させ「舞台」と同じ効果を上げていたが、この映画では画面の切り替えでそれを処理している。そうすると、その瞬間瞬間に「歌」がばらばらになる。「同時」が消える。「ひとつの時間」のなかでの「出合い」が映像によって分断されてしまうのである。ああ、つまらない。がっかり。「群衆」が「ひとりひとり」に分断されて、ダイナミックな感じが完全に消えてしまう。
 映画の文法はどうなっているか、舞台の文法はどうなっているか、ミュージカルとは何のなのか--そういうことをまったく知らない人間がつくったとしか思えない。2012年最低の映画である。
                     (2012年12月14日、ソラリアシネマ7)











英国王のスピーチ スタンダード・エディション [Blu-ray]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絹川早苗「「めく」いろいろ」

2012-12-24 11:06:59 | 詩(雑誌・同人誌)
絹川早苗「「めく」いろいろ」(「ひょうたん」48、2012年11月01日発行)

 絹川早苗「「めく」いろいろ」は、ことばのなかを歩き回っている。そして探している。何かを。

秋めいてきました と書きながら
「めく」 に 目がとまる
目は 芽に通じるのだろうか

長い深化のトンネルをくぐり
この世にはじめて芽を出した 人めいたものの意識が
水中から突き出してくる潜望鏡のように
カタツムリの目のように
あたりの気配をうかがい 仄めく

風は そよめき 布は はためき
戸が きしめいて 五感をゆらめかせる
人々の ひしめき どよめき さざめき
ざわめきから 遠くはなれていても
耳だけはそばだってく

世に出ても めきめきと 才を表すこともなく
ひらめきに打たれ 煌き 目くるめくほどの運命の
めぐりあわせで 時めくこともなく

 「めく」を含むことばをさまよいながら、そこに通い合うものを探している。「目は 芽に通じるのだろうか」ということばが3行目にあるのだが、「めく」をさぐりながら「目」と「芽」も同時に探している。
 「そよめく」のなかにあるのは「目」か「芽」か。「はためく」のなかにあるのは「目」か「芽」か。「目」と「芽」をとおってから「めく」ということばのなかで何かがかよいあうのか。
 この「問題(?)」の「答え」はあるようで、ない。そこに「答え」があったとしても、それは「便宜的」なものである。その場その場で「答え」らしきものを言うことができるが、それは「断定」してしまっては「嘘」になる。「嘘」になるというと言い過ぎかもしれないが、そのときの「答え」にこだわっていては、ほんとうの「答え」にならない。
 なんだか矛盾した、あいまいなことを書いてしまうが……。
 「めく」を含むことばを重ねながら、そこに何かが「通じる」を感じる。その「通じる」なにか、それを「なにか」という「もの」ではなく、「通じる/こと」として「肉体」のなかに取り込む。「覚える」。「通じる」という「動詞」を含むことがら、「運動」として「肉体」そのものに取り込んで、それを「肉体」にする。自転車に乗ることを「覚える」ように、泳ぐことを「覚える」ように、「めく」を含むことばのなかに「通じること」を「覚える」。
 うまく言えないのだが、その「運動(動詞)」を「覚える」ということは、「名詞」にはなりえないのである。「断定」にはなりえないのである。その時その時の「運動(動き)」とともにあるしかない「こと」なのであり、それはことばにならないまま、ただ「肉体」で「覚える」だけである。そして、その「覚えていること」を、「いま/ここ」で引き出す。何かとの「出合い」のなかで、それが改めて「動く」瞬間に、その「動き」そのものにまかせるしかない。
 こういうことを「一期一会」というのだと思うが。
 まあ、これは私の「感覚の意見」であって、これ以上は説明できないし、いま書いたことも説明にはなっていないのだが。

 「めく」ということば、それを重ねてみると、ことばのなかに「通じる」ことがある。もし、そこに「もの」があるとしたら、それは「ことばの肉体」という「もの」だろう。「ことばの肉体」ということばは「名詞」だけれど、その実体は「ことばの動き」の「動くということ」そのものであり、「動く」を取り除いた「肉体」はないのだから、それはやはり「もの(存在)」ではなく、運動なのである。動詞としてつかみとるしかないものなのである。その動詞を「肉体」でなぞる、なぞりながら「肉体」そのものを運動にするしかないのである。

 で。
 で、というかたちで飛躍していいのかどうかわからないのだが、このあと絹川の詩は少し驚く展開をみせる。「めく」ということばそのものをあいかわらず追いかけるのだが、そこに絹川にしかたどることのできない「肉体」が出てくる。
 「絹川にしかたどることのできない」と私はいま書いたのだが、それはより「正直」に書くなら、私にはとても思いつかない「肉体」が出てくるのである。

雄々しい雄ではなく
女々しい雌として 生まれながら
めそめそと 泣くこともせず
めらめらと 心の炎を燃やすこともなく
なまめいたことの少なかった この身

子に恵まれず 親めいたことからは遠く
いつまでも子どもめいたままで ひとり取り残され
古めかしくなっていく わが身であれば

ときには めかしこみ 心ときめかせ
街でも うろめき歩いてみようか
幻めくこの世を 生き抜くためにも…

 「めく」のなかにある「め」は「目」であり「芽」である、というのは私の「肉体」には納得ができることである。ところが、その「め」のなかに「女(め)」があると絹川は感じている。それがおのずと出てくる。絹川の「肉体」が、「芽」という比喩、自分意外のなにかと「通じる」ことを拒むようにして、その「通じるということ(運動)」のなかにあふれてくる。
 そこで書かれていることは、幸せとかよろこびからは少し遠い。幸せ、よろこびから離れたところにある「いのち」だが、それは「芽」のように噴き出してきて、「目」のように遠くにある幸せとよろこびを見つめる。
 あ、この感じがあって、

「めく」 に 目がとまる
目は 芽に通じるのだろうか

 という最初のことばが動いていたのだな、と納得できる。
 「めく」ということばを動かしながら、絹川は、書くことで自分の「肉体」を発見する。「肉体」がおのずと動いてくる、その「おのずと」を引き出したのだとわかる。

 絹川早苗という人に私は直接会ったことはないが、その名前、その作品は40年前から知っている。「詩学」に投稿していた時代、投稿欄にいっしょに作品が掲載された。そのときは、なんだかおばさんぽいという印象しかなかったのだが、あ、そうか、このひとはずーっと自分の肉体があらわれるのをうながすようにことばを動かしていたのか、といまになって思うのである。そのころの私は、ただことばを変な具合に(つまり、個性的に、とかってに思い込んでいたのだが)動かすことしか関心がなかったので、絹川のことばがぴんとこなくておばさんぽいと感じたのだろう。
 そうだったのか……。そう思いながら、絹川の「おのずと」を、なんだか懐かしく、親しいもののように思い出すのだった。




紙の上の放浪者(ヴァガボンド) (21世紀詩人叢書 (6))
絹川 早苗
土曜美術社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗原知子『ねこじゃらしたち』(2)

2012-12-23 12:41:58 | 詩集
栗原知子『ねこじゃらしたち』(2)(思潮社、2012年12月12日発行)

 栗原知子『ねこじゃらしたち』の魅力を語るのは、私にはとてもむずかしい。だれでもが思うことを、だれでもがつかっていることばで書いている。あ、こんなことばのつかい方は知らなかったなあ、これは新しいなあ、と驚くところがない。
 たとえば「祝日」。

留守宅かもしれないし
いたずらかもしれない
管理人室が開かれて原因が判るまで
非常ベルは止まない
窓を割るのか
鍵屋を呼ぶのか
所在無さげなハシゴ車を
子供たちが囲んでいて
警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの
「火!」だけを告げるジリジリの上で
どこまでも透きとおる空

足止めを食らった家族連れの中で
摘まれたタンポポを手に受ける
輝く綿毛をつまむ
土から集められた力が
ぷつりと肩口にとどくとき
警告音をも押し消していく
今日の気配

 私の住むマンションでもあったが、突然警報器が鳴る。その家の人がいればいいが、いないときは火が出ているかどうかも確認がむずかしい。消防車がやってくる。警備会社のひともやってくる。日曜、祝日は会社も休みなので、管理人が不在だ。
 この情景に「個性」はない。(いま書いたが、私にもこういう経験がある。)その「個性」のないことを、そのまま書いているのがおもしろい。
 いや、「非個性」ではないというひとがいるかもしれない。特に、

警報の中で考えた
燃えては困るものと
燃えてしまったら うれしいもの

 この3行は「個性」かもしれない。そうかもしれないけれど、ほら、思うでしょ? あれは燃えては困る。でも、あれは「それだけ燃えて消えてしまったらうれしいな」と思うことってあるでしょ? 火事なのだから、燃えてほしいものだけ燃えるというようなことはないのだけれど、そういう無理を夢見るのが人間である。--ということは脇に置いておいて、このだれでもが思うこと(思うかもしれないこと)が、軽口のような感じで書かれている。それが「個性」であるにしても、「個性」の部分よりも「共通項」の部分の方が多い。「個性」はいわば自己主張しない。小さな飾りである。
 そして、そういう「小さな個性」を無視するかのように、

どこまでも透きとおる空

 祝日の、休日の空だねえ。「こんなに晴れているのに、遊びに行きたいのに、困ったわねえ」。「私はどこへ遊びに行くわけじゃないから、いい気味だわ」なんていう意地悪は隠して、「ほんとうにそうね、早くはっきりしてほしいわ」なんて会話が繰り広げられる。子供は「わーいハシゴ車だ」と無関係にはしゃいでいる。
 そういう情景が、そのまま、そのとおりのことばで書かれている。
 これは、簡単そうでなかなかできない。どうしたって「わざと」なにか「個性的」なことを書きたくなる。書かないと、詩ではないのではないか、という思いにとらわれる。こんなことならだれでもが書いている(に違いない)と勝手に思い込んで、なにか新しいものをつけくわえようとする。
 でも、その「わざと」を遠ざけて、ただ「正直」にもどる。あったままを、あったままに書く。そこで動くことばの、あまりにも自然な感じ--この「あまりにも自然な」、つまり「あまりにも人間的な」感じが、そのまま私の「肉体」の奥まで、とても楽に入ってくる。
 この「楽な感じ」のことば、「正直」そのままのことば--これを「個性」にしてしまっているところが、この詩の強さなのだけれど。
 うーん、「非個性」が「個性」というのは矛盾だしなあ……。
 説明できないなあ、でもなんとか説明してみたいなあ。そういう気持ちになるのである。

 で、どうなるわけでもないが、私は、だらだらと感想を書くのである。書きつづけるのである。
 「幸福」という詩は「震災の年、夏に」という小さなサブタイトルがついている。この詩の美しさを、私のことばで言いなおしてみるのも、またたいへんにむずかしい。感想を書くのが非常にむずかしい。

「今日、保育園行かない」
とりかが言う
十分もしたら気が変わるかもしれないし
私は働いていないから
行かなくってもべつにいい

累々たる布団の海に うつぶせで寝ている
右手にりか 左手にいぶき三歳の子のお腹は羽二重もちみたいだし
赤ちゃんの太腿は白玉のようにとうとい
私は余命のことを考えたり
また 放射性物質のことを考えたりしようとする
でも うっとりして何もわからなくなってしまう

 子供が幼稚園へ行かないと言ったのはどうしてだろう。震災の不安が残っていて(甦ってきた)栗原のそばを離れなくないのかもしれない。その気持ちがわかるので、

行かなくってもべつにいい

 と栗原は思う。
 この行の「べつに」がとてもいい。
 私の「現代詩講座」では、いつもこういうことばを取り上げる。

<質問>この「べつに」を自分のことばで言いなおすと、どうなる?

 だれもすぐには答えられない。「べつに」の意味はわかっているのに、それを自分のことでいいなおそうとしても「べつに、って、べつに、だよね」。わかりすぎているので、ことばにならない。
 幼稚園へ行かないと言い張ることばも「いいよ」と受け入れるように、「べつに」ということばを私たちは受け入れてしまう。受け入れることに何の困難も感じない。
 「べつに」ってことば、そのまま受け入れたって「べつに」かまわないよ。
 そうなんだよなあ。
 この「べつに」には「個性」がない。だれもが知っている、そしてそれも説明が必要がないくらい肉体にしみついている「べつに」なので、ほんとうにそれがわかろうがわかるまいが、どうでもいい。
 でも、

<質問>もし、この行に「べつに」がなかったら、どうなる?
<受講生>えっ、なにもかわらない。
<質問>「行かなくってもべつにいい」も「行かなくってもいい」も意味は同じ?
<受講生>意味は同じ。何も変わらない
<質問>じゃあ、なぜ、栗原は「べつに」ということばを書いたのだろう。

 ほら、むずかしくなってきた。つまり、このとき「思想」にぶつかっているのだ。「思想」は簡単なことばで語られるけれど、理解しようとするととてもむずかしものだ。(難解なことばで語られる「思想」は「頭」で処理することがらなので、実は簡単、と私は思っている。--これは余談。)
 「べつに」にはほんとうは深い深い、ことばにならないなにかがひそんでいるのだ。「肉体」にしみついているなにかが固まっているのだ。
 「べつに」とは「なにかと違っている」ということである。「べつに」には「私」ではないなにかが含まれている。そこには「私とはべつのもの/こと」があるのだけれど、それを私は拒否しない。「私とはべつのもの/こと」があっても「私」は、それを気にしない。拒絶しない。受け入れる。
 この世には「べつのもの/こと」があって、それと「私」はいつも共存しているのである。「共存」のひとつのあり方が「べつに」なのである。

 「私(私の肉体)とはべつなもの/こと」といえば、自分の子供である。りかといぶき。ふたりの子供。その「肉体」は「羽二重もち」のようでもあり、「白玉」のようでもある。「私(栗原)」の「肉体」とはまったく「べつのもの/こと」である
 それが、とてもうれしい。「べつなもの/こと」なのに「べつなもの/こと」ではなく、しっかりと「私の肉体」につながっている。「ひとつ」になっている。「べつ」はほんとうは「べつ」ではなくて、「同じ」でもあるのだ。
 何言っている? 「べつ」が「同じ」なんて、矛盾じゃないか。
 そうなんだねえ。矛盾なんだねえ。だから、私は、それを「思想(肉体)」と呼ぶのだけれど。
 「べつ」なのに「同じ」だからこそ、

行かなくってもべつにいい

 は、「行かなくても同じようにいい」ということでもある。「同じ」つかうと「行っても/行かなくても、同じ」という具合に「意味」が混同してしまうのだけれど、この「同じ」は「私(栗原)の肉体にとっては同じ」ということなのだ。(これって、説明不足だね。私は、いいたいことを正確にことばにできない。--栗原の詩には知らないことばはないし、知らない「思想」もないのに、それを語る/言いなおすのはとてもむずかしい。)
 で、こういうことを考えていると、

でも うっとりして何もわからなくなってしまう

 うーん、でも、この「何もわからなくなる」は、ほんとうはなにもかもが「わかる」でもあるんだなあ。りかといぶきが「羽二重もち」であり「白玉」であることははっきり「わかる」。そして幼稚園へ行こうが行くまいが「べつにいい」ということも「わかる」。その「わかる」は、どこか「肉体」の「覚えていること」としっかり結びついていて、それだけは「間違いなく正しい」ということが「わかる」から、ほかのことは「わからい」のままでも「別に」かまわないのである。
 こういうことを栗原は「べつの」ことばで言いなおしている。

街も空も にわかに意味をなくし
名前も失うかに見えたとき
ただ一つ 胸に落ちた輝きを見つめながら 私は
たどたどしく人間のことばでつぶやく
唇を震わせながら
幸福 と
 
 「肉体」の「覚えているもの/こと」は「一つ」である。私の肉体(思想)とは「べつのもの/こと」があり、それは「べつ」であることによって、ほんとうは「一つ」なのである。「私の肉体(思想)」と同じ「一つ」が「べつのもの/こと」のなかで動いていて、その「べつのもの/こと」といっしょに「私の肉体(思想)」が共存するとき、それは「幸福」ということなのだ。
 りかが幼稚園へ行かなくても「べつに」いい。行かないからといって、りかの「肉体」のなかに動いているものと「私の肉体」のなかに動いているものが「同じ一つ」を失うわけではない。またりかといぶきが「羽二重もち」「白玉」であっても、「べつに」いい。「羽二重もち」「白玉」は「私の肉体」とは違うけれど、その内部で動いているものは「同じ一つ」。
 「同じ一つ」を「べつ」をとおして知る。それは「同じ一つ」を「私の肉体」が「覚えている」ということを発見することでもある。
 これを人間のことば(!)で言いなおすと、「幸福」である。「流通言語」で言いなおすと「幸福」である。

 東北大震災後、ことばは、ここまで回復することができた、と私は思った。「生きていて幸福」と「正直」に言えるようになった--この「正直」の力はいいものである。この「正直」を栗原は、ほんとうにだれもが書くようなことばでつかみとっている。




ねこじゃらしたち
栗原 知子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗原知子『ねこじゃらしたち』

2012-12-22 09:46:03 | 詩集
栗原知子『ねこじゃらしたち』(思潮社、2012年12月12日発行)

 栗原知子『ねこじゃらしたち』にも「正直」がある。「正直」は「わざと」の対極にある。だから、その詩の魅力を語ろうと思うと--うーん、どう書けばいいのかなあ。
 「草の中で」という巻頭の作品。

逃げ込んだ場所からは
風が見える
光が見える

あれら 白いものたちは
手の届かないところにあって
なにものにも汚されない
水底から見上げるように
ここからは 遠すぎるあの空

 「水底から見上げるように」が不思議である。草の中に逃げ込んだのであって、水の中ではない。水はそこにはない。なぜ、ここで突然「水底」? わからない。わからないけれど、たとえば海にもぐり、プールにもぐり、そこから空を見上げたことを私は「覚えている」。空が直接見えるわけではない。水面が見える。その向こうに空がある。間に何かがあって、その向こうに空がある。そのとき、たしかにそれは「遠い」。「遠い」とは距離だけの問題ではなく、間に何かがあるということなのかもしれない。
 そう「わかった」あとで、次の連が来る。

絶望ということばすら 贅沢に思えたとき
傍らでは草が揺れていた
私を救わない
けれども心をいざなってやまない
ぼうぼうと広がる 丈高い草が

 「絶望」も「贅沢」も具体的に書かれているわけではない。けれど「水底」から空を見上げた「肉体の記憶(覚えていること)」が書かれていない「絶望」や「贅沢」を、私の知っている「絶望」「贅沢」としっかり結びつける。そのとき、具体的にはわからなくても、「わかる」のである。--私の書いているのは矛盾だが、そういうことが起きる。
 そういうことを引き起こす「正直」が「水底」の1行にある。そして、それはそのあとの「ぼうぼう」につながる。
 こういう行に出合ったとき、私の「現代詩講座」では質問をする。

<質問>「ぼうぼう」を自分のことばで説明しなおすと、どうなる?

 受講生はとまどう。わかっているのに、それをあらわすことばが動かない。「肉体」でわかっているのに、「頭」がついていけない。
 この「頭」がついていけない「肉体」の奥に動いている何かは不思議な共通項をもっている。「肉体」の奥で動いている「思想」には何か不思議な共通項がある。それは「肉体」が「覚えている」何かなのである。「覚えている」ことはいつでもつかえる。「ぼうぼう」と広がる--このことばのつかい方はだれでもできる。そこにある、人間に共通した「正直」につながる何かがある。
 これは、いちいち説明はしなくていいものである。してはいけないことなのかもしれない。私は「わざと」ぼうぼうを自分のことばで説明しなおすと、どうなる?と受講生に質問してみるが、それは「答え」を求めているからではない。そこで立ち止まることを求めているからである。立ち止まって、そのことばが自分の「肉体」のなかにあることを感じればそれでいいのだ。
 他人の「肉体」と自分の「肉体」は別個のものである。けれども、それをつなぐものがある。そしてそれは「覚える」しかないものである。「覚える」ということさえ意識せずに、私たちはそれを「覚える」。そうして生きている。その無意識の「覚える(覚えたこと)」を刺戟してくる「正直」が栗原のことばのなかにある。
 「ねこじゃらしたち」のなかに、そういうことが別の形で、とても美しく書かれている。

……ねえ、ちょっとこの匂いなんだろうな
なにが?
なんか匂いするだろ ハイトーンのな
うそうそ あ これか
キンモクセイかな
わからんけど 秋のなんかだな
秋のなんかをかぐと、秋を思い出すな
おまえ一年草のくせにそれはないだろう
でもそういうのないか
あるな
根のせいかな
土かもしれない
どうだろうな
そういうことを考えると眠くなるな
なあ
ときどきだけどさ
おれ イネ科もなかなかだと思うことがあるな
これも なにかの命令なのかな
そういうこと考えると眠くなるし
ああ
ああ
ああ
風だ……

 「おまえ一年草のくせにそれはないだろう」--たしかに一年草なら「秋を思い出す」ということは不可能である。でも「肉体」はそういう「不可能」を超えて「覚えている」のである。これを遺伝子だとかDNAだとかの記憶と言ってしまうとそれっぽいけれど、そんなことはどうだっていいな。生きていることで(生き続けることで)、「覚える」なにかが「肉体」のなかで変化して、「覚えていないはずのないこと」まで「覚えている」と錯覚させる。そして、こういう錯覚は「正直」な人間ほど、正確に錯覚できるのである。そういう美しさが栗原にある。(私は唐突に、木坂涼を思い出しているのだが、木坂にもそういう「正直」がある。)
 で、そういうことは「考えると眠くなる」。考えなくてもいいのだ。ぼんやりと、ああ風が吹いている、風だね、と感じるように、ただ「そうかもしれない」と感じていればいいだけなのである。そして感じたことを否定しない。しっかり「肉体」として「覚える」。それだけでいいのである。
 そういうことが積み重なると、つぎのようなことを体験できるのである。「その列車」という作品。

梅の木みたいに やせた腕
着物でふくらんだ背中
真面目な魂
混雑した列車の中で守ってあげたい
おばあちゃんの美しいところ全部

何の用でか
ひたすらに揺られていく旅
本当より混んでいる東北本線で
もの言わぬ おばあちゃんの目だけが
どこまでも明るい
連結部はきしみ
人いきれは増すけれど
疎開のときには通りすぎたのだろう 仙台駅の
明るいペデストリアンデッキに
連れ立ってもみたくて

成人式まで届かなかった
私とおばあちゃんの 片道切符
朝の光にも
鳥たちの声にも 邪魔されず
南を指して揺れ続ける
数年に一本の その列車

 おばあちゃんを見つめる視線が清らかだ。列車に乗って、だれか「おばあちゃん」を守ってあげたい、という気持ちになる。無性に、列車に乗って「おばあちゃん」を探したい気持ちになる。いいなあ。







ねこじゃらしたち
栗原 知子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺田美由紀『暮れない病』

2012-12-21 10:08:28 | 詩集
寺田美由紀『暮れない病』(砂子屋書房、2012年12月20日発行)

 寺田美由紀『暮れない病』には目新しいことばはない。だれもが知っていることばで書かれている。ことばのすべてが「流通言語」だといっていい。そして、書かれていることも驚くようなことではない。だれもが体験するようなことである。
 しかし、

体験を募集しますという広告が出た
ことさら人に言うほどのことでもないが
生きている限りは体験する
そんな体験を書いて出したら
貴重な体験をありがとうございますと返事がきた
そういう体験をした

 これは「体験」の書き出しだが、こんなふうに書かれてみると、なんとなくうれしくなる。だれもが体験するようなことなのだけれど(特に「貴重な体験をありがとうございます」という紋切り型のあいさつにはだれもが出合うような感じがするのだが)、そうか、こういうことって、わざわざ詩に書かれたことがなかったなあと思う。「流通詩」とは違うのだ。
 そこに寺田のことばのおもしろいところがある。そしてそれがおもしろいのは寺田のことばが「肉体(思想)」を潜り抜けているからである。
 なんでもないように見えるけれど、たとえば

生きている限り体験する

 この「生きている限り」は独特である。「生きているのだからだれでも体験する」でもなければ、「生きていればだれでも体験する」でもない。「生きている限り」。「意味」はわかるが、そういうことばは私の肉体からは出てこない。聞けばわかるが、私の口には乗らない。「生きている限り」ということばをつかうなら、「生きている限りは努力する」というように「未来形」としてつかう。
 あ、何か違う--と私は感じる。ここに私とは違う「肉体」があるということを、とても強く感じる。そして、それは私の「肉体」の感じと違うからこそ、それを直感的に信じてしまう。信じることができる。ここに寺田の「正直」がある、ほんとうの「知っている」何かがあり、それを寺田の「肉体」は「覚えている」。そのために「生きている限り」ということばが出てきたのだ。
 詩集を読み進むと、看護師のことや病院のことが出てくる。それで、あ、寺田は看護師をしているのか、ということがわかってくる。知らず知らずに私の肉体に、そのことがなじんでくる。そして、私は単純に「生きていれば」という具合にことばをつかうが、寺田は「生きる」を「死ぬ」と向き合わせながら「肉体」で引き受けているということが「生きている限り」ということばのなかに反映されているのだとわかってくる。
 こういう「肉体(寺田のことばで言いなおすと体験になると思うが)」は、私の「肉体」にとても不思議な形で響いてくる。私にはそんなに多くの死と向き合ってきた体験はないのだがそれでも少しは向き合ってきた。そのことをふいに思い出すのである。死を私は「覚えている」。その「覚えている」ことが寺田のことばのなかで「出合う」。寺田のことばをとおして寺田の「肉体」と私の「肉体」が向き合い、ことばを超えて、「肉体」の奥でつながる、いのちの源でつながる感じがする。--他人のことばが信じられる、納得できる、「肉体」にすーっと入ってくるというのは、こういうことだと思う。そしてこういう「ことばの交流=肉体の交流」というのは「流通言語」の「交流」とはかなり違う。違うと、私は感じている。「頭」で考えて「交流」するのではなく、「肉体」がかってに「交流」する。路傍でだれかが腹を抱えてうめいていると、それが私の痛みではないのに「あ、腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。「腹が痛いのだ」は実は違っていて「心臓が痛い」かもしれないけれど、ともかく「肉体が痛い」ということが自分の肉体ではないにもかかわらず「わかる」。これは「肉体」が「覚えている」ことが、私の「肉体」のなかで動くということである。
 めんどうくさいことを長々と書いてしまったが、そういう「肉体」の「覚えている」ことばが寺田の詩のことばである。「流通言語」に見えるかもしれないが、そうではないのである。
 
 ひとはまず「肉体」で出合う。それからことばで出合う。それからもう一度「肉体」と出合い、互いの「肉体」が「生きている」ということをよろこび合う。こういうことを「体験」として寺田は書いている。あまりに「知っている」ことばばかりなのでさーっと読んでしまいそうだが、そこには「肉体」の深みがある。「深み」につまずかずに読んでしまえるのは、その深みを寺田が何度も何度も渡っていて、そのことを寺田が「覚えて」いて、無意識に(自然に)「肉体」が動いているからである。何度も何度も危険なところをわたっているひとの肉体の動きは、はじめてそこをわたるひとに比べるととてもスムーズである。経験豊かなひとがスムーズにわたっていくからといって、たとえば私が同じようにわたれるわけではない。
 「再会」という作品。

以前勤務していた
寝たきりの子供たちの病棟に
七年ぶりのローテーションで戻ってみると

一段と小さくなって
やせ細った子供たち(すでに成人している)と
その頭上でビュービューと
幅を利かせている幾台もの人工呼吸器に遭遇し

ぼくあれから
ずいぶん成長したんだよとそれなりに
わきまえることのできるようになった子や
ますます頑固に分からんちんになってしまった子や
不完全なタイムスリップをしたような光景に
たじろいで

 「覚えている」のは「肉体」である。だから「たじろぐ」のも「肉体」である。こういう「たじろぎ」をそっくりそのまま私は体験しているわけではないが、私の「肉体」のなかにもそういう「たじろぎ」がある。それを「覚えている」。
 「覚えている」ことは、すぐに「肉体」に反応する。自転車に乗ることを「覚える」と長い間乗っていなくても乗れるのと同じである。「肉体」が「覚え」たことは「間違えない」。その「間違えない」という部分が人間の「正直」、人間の「思想」と呼ぶべき部分である。
 詩は、次のようにつづく。

おわわず わたし
どんなになってる? と
むしょうに聞きたくなった

せめて少しは人として
成長していなければ
一年を十年で生きて もはや
力尽きようとしているこの子たちに
申し訳ない気がして

 すべては「おもわず」である。なにも考えない。何も「頭」や「こころ」を経由しないのだ。直接「肉体」がそのまま動くのだ。ここにある「正直」、その「思想」のまっすぐさに、私ははっとはする。
 あ、寺田がここにいる、と感じる。「肉体」を感じる。私は寺田に会ったことがないが、寺田の肉体そのものに触れたような感じがし、どきどきする。
 こういう体験を、私は詩の体験と思っている。










かんごかてい―寺田美由紀詩集
寺田 美由記
詩学社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塚本敏雄「驟雨に濡れて」

2012-12-20 10:55:39 | 詩(雑誌・同人誌)
塚本敏雄「驟雨に濡れて」(「GATE」16、2012年10月26日発行)

 塚本敏雄「驟雨に濡れて」は奇妙だ。

木々の緑を背にすると
雨の降りの強さがよく見える
ぼくたちは雨に降りこめられて
神社の鳥居の脇にある
大きな木の下で雨を避けていた
鳥がときおり飛び立って
ぼくたちを驚かせた
そして ぼくたちは
嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように
お互いを求めた
さて ここまでは抒景である
これからが詩だ
(やれやれ)

 たしかに「やれやれ」という感じもするが、これはこれでいいのかな。「わざと」だからね。ただし「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」というのは「流通言語」ではセックスをするということだから、ええっと思うなあ。屋外でセックスしてはいけないということはないし、人に見せたいというのもそれはそれでいいが、何も雨の日に木の下で……。うーん。「お互いを求めた」は肉欲とは関係がないのかもしれないなあ。せいぜいがキスくらいか。
 そうすると、しかし、つまらなくないか? 「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」がセックスではないとしたら、そこから始まるのは、もっと「抒景」になってしまわないか?
 どうも書きたいことがきちんと肉体の中から生まれてきていないような感じがする。

きみは平らかに歩いていて
急に飛び跳ねるところがあるね
それは詰まるところ
一種の痙攣のようなものか
神様を連れて大社を出た祭りの行列は
すでに遠いざわめきとなって
市街地の夕闇に溶けている
しかし ここでは
神の不在を穏やかに照らしだす
提灯の列が揺れているばかり

 この2連目の、最初の2行はおもしろい。たしかに「ここからが詩だ」という感じを与えてくれる。それにつづく2行も、まあ、いいかなあ。
 でも「神様を……」以後は、情景にもなっていない。「流通言語」が平気な顔をして歩いている。
 それでも、私がこの詩について感想を書いているのは……。(実は、何度も書きだしてはやめたのだが。)
 ことばを書きながら「これは詩ではない」と思い、そこからジャンプして詩に入る瞬間のことを塚本はかすかに意識している--そのことについて書いてみたかったのだ。詩は詩それ自体としても存在するだろうけれど、「これは詩ではない」という意識があってさらに明確になる。詩ではないという意識が詩を強くする。

きみは平らかに歩いていて
急に飛び跳ねるところがあるね

 「急に」の奥に詩がある。「急に」と感じるのは塚本であって、「きみ」は「急に」飛び跳ねたわけではない。必然があって飛び跳ねた。しかしその必然が塚本にわからないから「急に」と感じるのである。そこには「きみ」の「過去」がある。絶対に触れえない何かがある。そういうものに塚本は出会っている。そこに詩がある。詩は「急に」あらわれるものなのである。
 ここからが問題だ。
 ここから、どこへ歩きはじめるか。「急に」とどんなふうにして向き合うか。

それは詰まるところ
一種の痙攣のようなものか

 塚本は「考える」のである。「急に」に対して、その「急に」の背後に「原因」を「考える」。「詰まるところ」とは一種の「結論」である。「考える」ということは「結論」を出すということである。ここでは「ものか」と仮定でおわっているが、考えるということにおいては仮定は結論と大差がない。仮定は証明されて現実になる。
 で、これが塚本にとって問題なのは。
 「考え」は「考え」として、「考えのことば」を追求していけばいいのだけれど、「一種の痙攣のようなものか」ということばを最後に(結論として)、「急に」とぎれてしまう。「考え」のことばが自律して動いていかない。
 「神様を連れて……」という古くさい描写が「急に」あらわれる。
 この古くさい「情景描写」が塚本の「過去」なのだ。「嵐の中で山小屋に閉じ込められた二人のように/お互いを求めた」に通じる「流通言語」の「描写」が勝手に動いてしまう。「流通言語」の描写が肉体になってしまっている。
 それを捨てきるところまで塚本は来ていないのだ。

英語にfigure of speechという言葉がある
直訳すれば 言説の形 ということになるのか
辞書をひけば
修辞的表現とある
だが ぼくは
森の歩き方 と言いたい

 ここの部分はとても美しい。とてもいいなあと思う。
 ここには「figure of speech=言説の形」という「流通言語」を理解した上で、それを否定し「森の歩き方」という強引な「破壊」がある。「流通言語」の否定がある。つまり、詩がある。「過去」がある。「肉体」がある。
 さらに言い換えると「他者」がいる。--そして、この「他者」というのは、私(谷内)にとっての「他者」であり、塚本にとっては「他者」ではない。塚本が「流通言語」を脱ぎ捨てるとき、そこに「肉体」が、「思想」が、噴出する。それは「きみ」が「急に」「飛び跳ねる」のと同じである。
 それをつなぎとめるのは塚本の「肉体」だけである。
 「他者」というのは「わからない」。「わからない」からこそ、そこに詩がある。「流通言語」ではたどることのできない何か、出合った瞬間にだけ感じる「肉体」の共鳴のようなものがある。

森の歩き方

 森と歩くという動詞。塚本には森を歩いた肉体の記憶がある。そして、それがあるから、たとえば詩の始まりの部分の緑、木、鳥というものが書かれているわけである。肉体はどうしたって知っているものの方になじんでしまう。
 この肉体が知っているものの、さらに「奥」にある何かに触れながら、その距離をたもってことばを動かせば、塚本の詩はもっとおもしろくなるのに、と私は感じてしまう。
 森を生きた肉体と、英語のようにあとから「頭」で肉体の中に取り込んだもの(絶対的な他人--英語というのは日本人には日本語の「肉体」ができあがってから目の前にあらわれる別のことばの肉体である)をつきあわせて、「過去」をていねいに、それが動きだすまで待っていれば、とてもおもしろい詩が生まれるのになあ、と思ってしまう。
 「肉体」と「頭」のあいだに「流通言語」をいれて、それを「肉体」と「頭」の「接着剤」にしたって、ぜんぜんおもしろくない。不自然で興ざめがする。「英語に……」の6行はほんとうにおもしろいのになあ。




英語の授業
塚本 敏雄
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェームズ・アイヴォリー監督「最終目的地」(★★★)

2012-12-19 10:12:38 | 映画
監督 ジェームズ・アイヴォリー 出演 アンソニー・ホプキンス、ローラ・リニー、シャルロット・ゲンズブール、真田広之

 最初のシーンでこの映画のすべてが語られる。風景が水に映っている。揺らいでいる。ほんとうの風景は揺らいではいないが水がゆらぐので映像は揺らぐのだ。野原の道を走る車のフロントガラス越しの風景も似ている。フロントガラスに運転している人間の影が映っている。水に映った風景はともかく、車のフロントガラスにぼんやり映っている映像越しに前方の風景が映し出されるというようなことは映画ではめったにない。で、それを見た瞬間に、そうか、今回はこういうことをジェームズ・アイヴォリーは狙っているのだなとわかる。
 ある存在(実像)がある。そして、他方にそれを映す存在がある。ほんとうの存在は何かに映ることで揺らいでしまう。実際とは違ってしまう。--それがほんとうだとしても、私たちは現実にはそういうことを気にしない。「実在/実像」がどうであろうと自分(私)に映った「影」が私とにっての「他者の実像」である。私にはそう見える、と言ってしまえばそれでおしまい。多少の(?)ずれというか誤解というか、間違いというか、そういうものを相手の言う通りに修正していたら生きていくのが面倒くさい。
 ところが、そういう具合にいかないときがある。これは説明しようとすると面倒なことなのだが、この映画はとてもうまい方法を「狂言回し」につかう。ある作家の「伝記」を書く--それを書こうとする男を狂言回しにつかう。「伝記」はその作家の「実像」に近くないと意味がない。勝手に自分の印象だけで作家の人生を描いてしまうわけには行かない。「ずれ」は複数の人間の証言によって修正しなければならない。
 そういう状況があることはある、と「定義」しておいて。
 ここからが、さらに手が込んでいる。主人公(?)の男は、書くべき作家の「実像」に近づく前に、その「実像」をまわりにいる遺族(兄、妻、愛人)と向き合わなければならない。そして彼らもまた、「実像」と「水に映った映像」のように、それぞれのなかで揺れている。
 これは、私が書いているように「ことば」にすると何だかわかったような感じになる「哲学的問題」なのだが、それをアイヴォリーは映像でやろうとしている。
 むりだね。むりです。はっきり言って、最初の水に映った映像の揺らぎ、車のフロントガラス越しの半透明な人影がまざりこんだ映像がなければ、私が書いているようなことを思いつくひとはいないと思う。「実像」があり、「虚像」があり、「虚像」が「実像」を支配して、だれもが動けないまま、倦怠のなかで生きている。これが自分の生き方であるとはとうてい思うことができない。したいことがあるのに、そのしたいことも言えない。自分のものではない人生が自分を支配して動いていく。これを特別変わった事件もなくたんたんと描きながら映像にしたって、何のことかさっぱりわからない。
 「わかる」というのは、何かを自分のことばにすることだからね。
 で、その「ことば」の問題にしぼっていうと、これは「映画」向きの題材ではない。「小説」向きの題材なのである。映画ではしばしばこの手を「文芸もの」と呼ぶけれど、この呼び方は「うさんくさい」と五十歩百歩である。「小説」の力がなければ「映画」として成り立たない。
 ウルグアイの自然も--私はウルグアイに行ったことがないから言えるのだが、とてもウルグアイとは思えない。つまり、えっ、これがウルグアイと驚くようなシーンがない。どこかわからないただの田舎に見えてしまう。つまり「違和感」がない。まあ、これが「漂泊感」というものなのかもしれないけれど。
 そして「漂泊感」というのは、一種の「世界共通言語」だから、まあ、「違和感」とは無縁のものなんだけれど。
 でもねえ。それはアイヴォリー監督が単にウルグアイの自然をつかみとれないということなのかもしれない。「イギリス」の視線がまざりこんできて、純粋のウルグアイをとらえきれない、単に舞台としているということから起きるのかもしれない。「漂泊感」に衝突して、それを叩き壊す何か--その強い力が「映像」そのものとしてないと、なんともしまりがない。気の抜けたアルコールみたいだ。

 映画の日本語のタイトルはあじけないが、まあ、「漂泊」をやめて、それぞれが人生の「最終目的地」にたどりつくというのが映画の内容なのだから、それはそれでいいのかもしれないが、ほら、ここでも気の抜けたアルコールを飲んでいる気分になるでしょ?
 やっていることは全部わかりました。
 でも、映画って「わかる」ために見るんじゃないからね。えっ、何これ。わからなんじゃないか。でも、おもしろい。あっ、とんでもない悪人。でも、目の前にいたら好きになってしまいそう--それが映画じゃないかな?
                      (2012年12月18日、KBCシネマ2)



モーリス HDニューマスター版 [DVD]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細野豊『女乗り自転車と黒い診察鞄』

2012-12-18 11:35:41 | 詩集
細野豊『女乗り自転車と黒い診察鞄』(土曜美術出版販売、2012年10月29日発行)

 細野豊は少し変わった文体を持っている。エロチックなことを書いた詩に、その「変わっている」ものがいちばんよくあらわれている。
 「花・もうひとつの顔」という作品。

もしも僕が蝶の舌をもっていたなら
もっと深く深く入って
あなたの愛を吸いつくしただろうに

僕の舌は短くて平たいから
花びらの形をていねいに嘗め
もどかしく花心のあたりを這いまわるだけだ

 「花心」と呼ばれているものはわざわざ言う必要はないけれど、私はわざわざ書いてしまうのだが「女性性器」である。で、この詩の特徴は、なんというのだろうか、いま私がわざわざ書いたようなことを、わざわざ書かなくていいような感じで書いている。
 うーん。
 ちょっとめんどうくさい言い方をしてしまったが、「比喩」がすでに「流通言語」なのである。女性性器を花にたとえるのは珍しいことではない。ありきたりのことである。だから、それだけでは詩にならない。
 では、どうするか。
 一方が「比喩」なら、もう一方は「比喩」ではないものを動かす。ことばの「質」を変えるのである。舌--その即物的なもの、「比喩」ではないもの。それを動かすことで、ことばに「違和感」を生み出す。つまり「流通していないことば」の動かし方実現する。もっとも、細野は「蝶の舌」という「花-蝶」の「流通比喩(流通している比喩をそう呼んでおく)」を巧みに利用して「花」の「比喩」と調和(?)させてはいるのだが。そして利用するふりをして、「流通比喩」を内側からひとりの肉体へと引き寄せるのだが。

僕の舌は短くて平たいから
花びらの形をていねいに嘗め

 いいなあ。こういう肉体の出し方は。
 で、それはいいのだけれど、そしてそれも細野の特徴ではあるのだろうけれど、もっと特徴的なことがあると私には感じられる。自分の肉体を通ることばを忠実に動かしてみせるというのは、エロチックな文学では当然しなければならないことだから、それだけで「かわっている」とは言えない。いまはだれでもがそうしている、というと言い過ぎになるかもしれないけれど、「女性詩」以後、そういうことはだれでもが書く。(とはいっても、これはほんとうは「女性詩」以前からも文学には確立された手法であり、そいういう意味では「女性詩」は「マッチョ主義から見た女性誌」と呼ばないと嘘になると思うのだが、これは「脱線」になるのでやめておく。)

 「変」というか、「変わっている」というのは。

あなたの愛を吸いつくしただろうに

 この「愛」のつかい方。いまは(言い換えると「女性詩」以後)、こういう感じで「愛」ということばはつかわない。精神的なことばで「肉体」を語らない。本能の正直を抽象的なことばでは語らない。この「愛」は「比喩」なのだが、「肉体」を「比喩」ではな語らなくなっている。
 この「愛」という、「肉体」ではないことばが、細野のことばを、とても変なところへ動かしていく。私から見ると「変」ということであって、ほかの人からみると「変」ではないかもしれないが。で、その「変」というのは3連目にくっきりとあらわれる。

もう少しというところで
遠ざかってしまう詩の女神よ それでも
ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる

 「愛」の次は「女神」、そして「崇高なもの」。もう、ここには「肉体」は存在しない。「精神」というか「精神的と考えられているもの(こと)」だけがある。
 そして、一度、そういう「精神」を通り抜けることで、細野のことばは大きく動く。

それは絶え間なく変身する雲のようだ
山並となり 夢となり 大洋を渡る蝶の群れ
愛し合うふたつの裸体となり

少年のように引き締まった肢体の狭間にある花に
鼻と口を限りなく近づけてぼくは
ふるさとのように懐かしい湿った匂いをゆっくりと吸い込む

 「大きく動く」を別のことばで言いなおせば「揺れる」のである。「揺れる」といってもブランコのように往復する揺れである。振り子のように往復する揺れである。
 で、この「揺れ」こそが「変」なのである。
 「揺れ」というのは、たとえば「大地震」を想定すると生々しく感じられると思うのだが、どうなるかわからないものである。「根本」が変わってしまうことである。「根本」そのものを変えて、「いま/ここ」になかった世界を生み出すための「揺れ」。「破壊」と「再生」のための「揺れ」。--これが、「いま/ここ(あらゆるところ)」で起きていることなのだが、細野の「揺れ」は違うのである。
 ブランコ、振り子という比喩を私はつかったのだが、細野の「揺れ」は「根本」が揺れずに、それにつながっている何かが(細野)が揺れるのである。
 言いなおすと、細野の基本である「精神」は揺れずに、そこにぶら下がっている「肉体」が揺れるのである。さらに言いなおすと、細野の「根本」には「愛」とか「崇高」とかいった「哲学的な(学問的な)ことば」があり、それが細野の「肉体のことば」をつないでいる。そして、「肉体」を揺らして見せる。
 だから、ことばが、そして詩が「清潔」である。この「清潔」というのは、ちょっと説明がむずかしいが、「流通言語」になってしまっている、「流通言語」につながる「清潔」である。市場にでまわる野菜が洗い清められている、肉はきれいにカットされパックに入っているというのに似ている。どんなに「肉体」が書かれていても、その「肉体」が直接読者の「肉体」に触れてくるわけではない。
 最初にもどって言いなおすと、どんなに女性性器のことが書かれていて、さらにそれを嘗める男の舌が書かれていても、それは「花と蝶」の「比喩」のなかに閉じ込められていて、剥き出しの性器が描かれるわけではない。生々しい「肉体」が描かれるわけではない。

 では、これは細野の欠点か。
 ということを考えると、実は、とてもむずかしくなる。ややこしくなる。
 いまはこういう文体が「主流」ではない。けれど、こういう文体があることにも「理由」のようなものがある。必要だと思う。
 説明するのはとてもむずかしいが、細野の「文体」には安心感がある。どんなに揺れても「精神」が確立されているという安心感がある。これをまた別のことばで言いなおすと、細野のことばの奥には「教養」がある。「肉体」ではなく、「教養」。つまり、学問としての「精神」がある。それも「西洋精神(西洋教養)」のような「二元論」がある。
 「精神」と「肉体」は、出合い、ぶつかることがあっても、こわれてしまう、境目をなくして融合してしまうということがない。
 「花に顔を」という作品。

初老の男が
花に顔を埋めている
ひそかに花びらを掻き分け
花蕊に舌を這わせ
いのちの精気を吸い取る

(饐えたチーズのかすかな匂い)

花は若い女神に咲いている
硬かった蕾が 言葉と
唇と舌にうながされて綻び
いま蜜に溢れて香る

愛されるとき
花は収斂し 雄蕊が震え
腰から背骨を
旋律が駆け抜ける

(懐かしい夜の腋臭)

男はひととき顔を離し
ふくよかな花びらの重なりに見とれる

 「肉体」を見るというより、これまで書かれてきた「ことば(教養としてのセックス)」が誠実に復習されている感じがする。この「誠実な復習」が「清潔」なのである。そしてそれが細野の「正直」なのである。

 ほんとうは細野の肉体も「逸脱」する機会があったかもしれない。けれど、細野は「肉体」を逸脱させなかった。「精神」をしっかりと見据え、それをよりどころとして生きてきた--そういう印象が、なんといえばいいのか、せつせつとつたわってくる。そういうことを伝えてくる「文体」である。




詩集 女乗りの自転車と黒い診察鞄
細野 豊
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋亜綺羅「愛なんて」ほか

2012-12-17 11:12:06 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「愛なんて」ほか(「ココア共和国」11、2012年12月01日発行)

 詩とは何か。西脇順三郎は「わざと」書かれたことばであると言ったが、この「わざと」はなかなか定義がむずかしい。どこからが「わざと」で、どこまでが「わざと」か。そういう区別がめんどうくさい。
 「わざと」書かれたものは、ちょっと「変」である。「変」になるために「わざと」があるわけである、というふうにして秋亜綺羅「愛なんて」を読んでみると。

愛をつくる機械を発明した
さっぱり売れなかった
愛を感じる機械をつくった

いまそこのすみっこで
ふたり(2台)で勝手にやっている

 この詩の「わざと」は、どのあたりにあるのだろう。「愛をつくる機械」「愛を感じる機械」--ここにある。機械は「愛」とは無縁のもの、感情とは無縁のものである。つまり、秋亜綺羅が「発明した」「つくった」と書いているものは、常識的には「ありえない」。そういう「ありえない」ことを書いているのは「わざと」である。というのは、ことばは「ありえないこと」を書くためにあるのではないのだから。少なくとも「流通言語」は「ありえないこと」を書いて伝えるためにあるのではない。
 で、そう考えたとき、ちょっと疑問に思う。ことばはなぜ「ありえないこと」を語ることができるのだろうか。--ここがとてもおもしろいところなのだけれど、秋亜綺羅はとても巧妙というか、ずるいというか、そこに不思議な「わざと」を組み込ませることで、私がちょっと疑問に思ったことをさっと別の方向に動かしてしまう。

 「ありえない」ことをわざと書く。
 そして、そのあと。
 「ありえない」機械だから、「さっぱり売れなかった」と、きわめて「論理的」にことばを動かす。「愛をつくる機械」がもし売れたとするなら、それについて書くのはとても面倒である。どんな愛をつくったのか、だれとだれの間に愛をつくったのか--そういうことを書かなければことばが動いていかない。「わざと」を一生懸命につづけなければいけない。
 これはむずかしいね。めんどうくさいね。
 ところが「売れなかった」と書いてしまえば簡単。なにも起きない。
 ここが、とても大事。
 「わざと」ことばを動かす。けれど、なにも起きない。なにも起きないけれど、ことばだけは動かすことができる。ことばは「現実」とは無関係に、つまり無意味に動くことができる。
 で、

いまそこのすみっこで
ふたり(2台)で勝手にやっている

 なにをやってるのかな?
 秋亜綺羅は書かない。書かなくても「わかる」。「やっている」ということばで、私たちはかってに想像する。「愛」と「やっている」、それだけで「わかる」ことがある。「頭」が「わかる」というよりも「肉体」が「わかる」。
 で、このとき起きていることがとても重要だと私は思う。
 ことばは「無意味」に動いているのだけれど、ことばが動くとき、それがどんなに「無意味」であっても、何かしら私たちを刺戟してしまう。「肉体」の奥に動いているものを刺戟してしまう。「肉体」は刺戟を受けてしまう。そして「わかる」。「わかってしまう」。
 この「わかる」「わかってしまう」は、そこに起きていることを全部説明しようとするととてもめんどうくさい。
 私は、その「めんどうくさい」ことをほんとうはやりたいのだけれど、どうしていいのかわからないから、こんなふうに「めんどうくさい」とだけ書いてごまかしているのだが--少しだけめんどうくさがらずに書いてみると。
 「わかる」「わかってしまう」ことのなかには、何かしら「ことばにならないこと」があるのだ。「ことばにする必要がないこと」があるのだ。そういうものを私たちの「肉体」は抱え込んでいる。
 秋亜綺羅は、そういうものがあるんだよ、ということをさっと書いて駆け抜けていく。そのスピードのなかで、あ、いま何か「感じた」と「わかる」。それでいいのだと考えているのだと思う。そう、たしかにそれでいいのだと思う。それから先のことは、もう秋亜綺羅の問題ではなく、読者の問題なのだから。
 「わかる」の「入り口」までは案内する。しかし、「わかる」の奥へは自分で歩いていくしかない。
 秋亜綺羅は、いちおう、秋亜綺羅自身で歩いてみせる(ことばを動かしてみせる)けれど、そのすべてに読者はついていく必要はない。というより、そこから自分の「肉体」へ引き返す必要がある。
 ことばは動く--そのときに、ことばにならない「肉体」のなかにある何かも動く。その「呼応」のようなものにくりかえしくりかえし触れることで、自分のなかにある「肉体のことば」を「ことばの肉体」に育てていく。それが、育ったときに、それは詩になる、ということなのかもしれない。

世界のどこかに咲いていた
だれにも見られないままで
枯れてしまった
花がある

神様さえ見届けていないけれど
花が枯れてしまったので
死ぬしかなかった虫がいる

愛なんて
いちいち語らなくても
ちゃんとあるじゃないか

永遠の命がないから
愛なんだね

ひとりぼっちの宇宙だから
愛なんだね

もう戻ることなどないから
愛なのかもしれないね

 私は意地悪な人間だから、で、秋亜綺羅は「花」の方? それとも「虫」の方? と瞬間的に聞いてしまうが、それはどっちでもいい--ではなくて、両方なのだ。
 「ことば」と「肉体」の問題を考えるとき、では、どっちが出発点と問うのはばかげていて、それは「両方」で「ひとつ」なのだ--という具合に、私は、ここで論理を飛躍させてしまうけれど、それと同じように、あらゆることは「複数」でありながら「ひとつ」、「ひとつ」でありながら「複数」という「矛盾」のなかに動いている。
 「矛盾」しているから、それを「わかる」ために「わざと」が必要なのだ--と、私のことばは暴走してしまうが、これは「感覚の意見」の「メモ」です。

 「あした」」という詩は、「わざと」仕掛けがある。タイトルはあしたということばの下にだけカギかっこの「受け」がある。タイトルから引用すると、次のようになる。

あした」

恋人は脳死のあとに風邪をひいた
脳死移植を希望していた恋人は
ばらばらになって
それぞれの納品先へと急いで出発した
新鮮であったかくて
若い香りがするうちに
いく人にも分裂して単身赴任した恋人と
「じゃあ、ね」は交わせなかった
風邪くらいはなおしてあげたかった
わたしたちのあいだでは
「じゃあ、ね」は
世界で
たったひとつしかない
アイ・ラブ・ユーのあいさつだった
恋人の「じゃあ、ね」へ
「じゃあ、ね」
「また、

 タイトルの、あした」は最終行の「また、とつながっている。「また、あした」という形でぐるぐるまわる。そういう構造になっている。
 で、このぐるぐるまわる、ことばが何度も同じところをぐるぐるまわる--これが「愛」だね。どこへも行かない。とどまりつづける。毎日「じゃあ、ね」と分かれながら毎日会う。毎日はそれぞれ違う日だけれど、そのなかに同じものがある。ひとりの人間の「肉体」が毎日成長していきながらも相変わらず「ひとり」であるのと同じようなものだ。
 「ことば」にも「あいさつ」にも、人間の「肉体」と同じような「肉体」があり、それがつづいている。それは見えにくいものだけれどね。
 そういうことを、秋亜綺羅は「脳死」だとか「移植」だとか、さらには「単身赴任」というような「情緒(愛)」とは無関係なことばのなかで書いている。「無意味」のなかでことばを動かし、「無意味」の奥にある「ひとつ」の何かに刺戟を与えている。「ひとつ」の何かを揺り動かしている。--揺り籠ではなく、逆のことをしている。目覚めさせようとしている。そうやって目覚めたことばを、目覚めた瞬間の形のまま、書いている。








透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする