齋藤健一「毎朝」、夏目美知子「朝のリンゴ」(「乾河」71、2014年10月01日発行)
きのう読んだ佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」にはことばへの過剰な圧力のようなものがあった。その圧力が何であるか、どこから生まれてくるのか、私にはわからない。しかし、そこに圧力がある、圧力のかけ方に個性(肉体)があると感じた。それがおもしろい。
齋藤健一「毎朝」は感想を書こう書こうと思いながら、そのままにしていた詩である。佐藤の詩を読んだあと、急に読み返したくなった。
佐藤の詩には「行間」がなかった。齋藤の詩には「行間」と呼ぶには大きすぎる「間」がある。そして、「間」があるののだけれど、その「間」が屈折している。そのために「間」がないかのようにことばが接近している。言いなおすと、齋藤の「間」はかる適当な定規がない。「屈折」を測ろうとしても「無」しかはかれない。ことばとことばの間に「無」がある。その「無」がブラックホールのようにことばを強い力で引きつけ、結晶させている。ブラックホールと書いたが、それは「黒(暗い)」ではなく、「明るい(光)」。だから、やっかいである。光が屈折し、反射し、輝いているのはわかるが、光の向うにあるというか、光源となっている「もの」「こと」がきちんとした「輪郭」でとらえきれない。そこに「こと」「もの」が一部だけ見える形で存在していることがわかるので、こまってしまう。
知らないことばはない。そのすべてが「見える」(わかる)。けれど、それが出会わなければならない理由(存在理由)がわからない。また、単なる机ではなく「書き物机」といわれるとき、「机」が奇妙な位置にずれていく。「いま/ここ」なのかもしれないが、「かつて/あそこ」という感じがふいにあらわれる。いまは「書き物机」というような言い方をあまりきかないためである。いわば、「古い肉体」のようなものが「書き物机」には含まれている。その「古い肉体」と「肱」という「肉体」が出会う。
そして、その「出会い(関係)」が
と言いなおされるとき(そういうことばで、接続されて、世界が広がるとき)、何もわからないのに、たしかに机と肱とは「なれなれしい」かもしれないと感じる。書き物机に肱をついている。そのときの机と肱の関係は「なれなれしい」ということばによく似合う。机が肱になれなれしいのか、肱がつくえになれなれしいのか、わからないが、どっちでもいいのだろう。いや、両方なのだろう。
「謝罪」は、どんな謝罪か。これも、わからない。わからないが、私は「なれなれしい」ということそのものが、すでにある種の「罪」のような気がするので、この一文は何やらぐるぐるまわっている感じがする。「なれなれしくて、ごめん」と「なれなれしく」謝罪している。ほんとうに謝罪するならほかの方法があるのだけれど、机と肱の、なれあった関係なので謝罪もなれなれしくなるのだ。
この詩では、その「なれなれしい」感覚が、ほかのことばで何度も言いなおされている。「毎朝」ということばの中には、朝の繰り返しが無意識の形で存在しているが、それと同じように「なれなれしい」ものが、ここでは繰り返され、屈折し、なれなれしさの「一瞬」を何度も反復しているのだ。何度も繰り返すように、齋藤が、私にはわからない「圧力」をことばにかけている。
その「圧力をかけている」という感じが、わかる。詩の「意味」はわからないが、ここに書かれていることばが一定の圧力をかけられているということがわかる。この詩が好ましく感じられるのは、その圧力のかけ方が一定しているからである。その「一定」が、「一定であること」が伝わってくるから、私は齋藤の詩が好きだ。
ことばと、ことばが指し示す対象との「距離」が一定しているということからもしれない。「一定の距離」が齋藤のことばを空間化する。また時間化する。空間、時間の「間」が一定している。--そして、その「間」というのは、圧力によって「無」の状態なの他けれど……。
あ、私は、書き出しに書いたことに「戻る」ためにことばを書いてしまっているのかなあ。書き出しを突き破って、書き出し以外のところへ行ってしまいたいのだけれど。
*
夏目美知子「朝のリンゴ」はリンゴのことと鳥のことが交互に書かれている。そこに「間」があるのだが……うーん、リンゴだけでよかったのではないだろうか。
二連目を省略して引用しているのだが、肉体の動きを追いながら、肉体が肉体を超えて別なものになる。「思考」になる。そのときの、ことばへの「圧力」のかかり方が(かけ方)が、とても自然で引きつけられる。
「俯く」という肉体の動き(たぶん、「作業(仕事)の内にははいらない姿勢)が「引力」となってほかのことばを呼び寄せ、そこに「世界」を作り上げる。「リンゴを剥く」「編み物を編む」「煮炊きをする」「読書をする」という「動詞」が「俯く姿勢」とおることで世界になる。世界が「俯く」という肉体の形を何度も往復して豊かになっていく。これは、とても美しい。このとき「俯く」のなかで動いているものを、夏目は「考えごと」と呼んでいるが、この呼び方も自然でとてもいい感じがする。
夏目にとって、「間」とは「考えごと(考えごとをする)」であり、それは現われては消えていくという不思議な連続性をもっている。その連続性を、この詩では「俯く」という「姿勢」に託している。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
きのう読んだ佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」にはことばへの過剰な圧力のようなものがあった。その圧力が何であるか、どこから生まれてくるのか、私にはわからない。しかし、そこに圧力がある、圧力のかけ方に個性(肉体)があると感じた。それがおもしろい。
齋藤健一「毎朝」は感想を書こう書こうと思いながら、そのままにしていた詩である。佐藤の詩を読んだあと、急に読み返したくなった。
囀るごとく見るのである。自分は返答をしないのだ。書
き物机と肱の関節。なれなれしい謝罪である。ぱちりと
瞬きをする。善人すぎて緊張が判るのだ。高音はいらい
らする。超えぬならば納まる。軽視の事態。感冒の初期
に似ている。
佐藤の詩には「行間」がなかった。齋藤の詩には「行間」と呼ぶには大きすぎる「間」がある。そして、「間」があるののだけれど、その「間」が屈折している。そのために「間」がないかのようにことばが接近している。言いなおすと、齋藤の「間」はかる適当な定規がない。「屈折」を測ろうとしても「無」しかはかれない。ことばとことばの間に「無」がある。その「無」がブラックホールのようにことばを強い力で引きつけ、結晶させている。ブラックホールと書いたが、それは「黒(暗い)」ではなく、「明るい(光)」。だから、やっかいである。光が屈折し、反射し、輝いているのはわかるが、光の向うにあるというか、光源となっている「もの」「こと」がきちんとした「輪郭」でとらえきれない。そこに「こと」「もの」が一部だけ見える形で存在していることがわかるので、こまってしまう。
書き物机と肱の関節。
知らないことばはない。そのすべてが「見える」(わかる)。けれど、それが出会わなければならない理由(存在理由)がわからない。また、単なる机ではなく「書き物机」といわれるとき、「机」が奇妙な位置にずれていく。「いま/ここ」なのかもしれないが、「かつて/あそこ」という感じがふいにあらわれる。いまは「書き物机」というような言い方をあまりきかないためである。いわば、「古い肉体」のようなものが「書き物机」には含まれている。その「古い肉体」と「肱」という「肉体」が出会う。
そして、その「出会い(関係)」が
なれなれしい謝罪である。
と言いなおされるとき(そういうことばで、接続されて、世界が広がるとき)、何もわからないのに、たしかに机と肱とは「なれなれしい」かもしれないと感じる。書き物机に肱をついている。そのときの机と肱の関係は「なれなれしい」ということばによく似合う。机が肱になれなれしいのか、肱がつくえになれなれしいのか、わからないが、どっちでもいいのだろう。いや、両方なのだろう。
「謝罪」は、どんな謝罪か。これも、わからない。わからないが、私は「なれなれしい」ということそのものが、すでにある種の「罪」のような気がするので、この一文は何やらぐるぐるまわっている感じがする。「なれなれしくて、ごめん」と「なれなれしく」謝罪している。ほんとうに謝罪するならほかの方法があるのだけれど、机と肱の、なれあった関係なので謝罪もなれなれしくなるのだ。
この詩では、その「なれなれしい」感覚が、ほかのことばで何度も言いなおされている。「毎朝」ということばの中には、朝の繰り返しが無意識の形で存在しているが、それと同じように「なれなれしい」ものが、ここでは繰り返され、屈折し、なれなれしさの「一瞬」を何度も反復しているのだ。何度も繰り返すように、齋藤が、私にはわからない「圧力」をことばにかけている。
その「圧力をかけている」という感じが、わかる。詩の「意味」はわからないが、ここに書かれていることばが一定の圧力をかけられているということがわかる。この詩が好ましく感じられるのは、その圧力のかけ方が一定しているからである。その「一定」が、「一定であること」が伝わってくるから、私は齋藤の詩が好きだ。
ことばと、ことばが指し示す対象との「距離」が一定しているということからもしれない。「一定の距離」が齋藤のことばを空間化する。また時間化する。空間、時間の「間」が一定している。--そして、その「間」というのは、圧力によって「無」の状態なの他けれど……。
あ、私は、書き出しに書いたことに「戻る」ためにことばを書いてしまっているのかなあ。書き出しを突き破って、書き出し以外のところへ行ってしまいたいのだけれど。
*
夏目美知子「朝のリンゴ」はリンゴのことと鳥のことが交互に書かれている。そこに「間」があるのだが……うーん、リンゴだけでよかったのではないだろうか。
卓上でリンゴを真半分に切る
ナイフが最後にたてる音が嫌で
刃をぎりぎりで止め
あとは手首を捻って
二つに割る
俯いてリンゴの皮を剥く
この姿勢に入ると
心の納まりがいい
編み物でも煮炊きものでも
読書でも
同じ姿勢の影に
考えごとが隠れている
二連目を省略して引用しているのだが、肉体の動きを追いながら、肉体が肉体を超えて別なものになる。「思考」になる。そのときの、ことばへの「圧力」のかかり方が(かけ方)が、とても自然で引きつけられる。
「俯く」という肉体の動き(たぶん、「作業(仕事)の内にははいらない姿勢)が「引力」となってほかのことばを呼び寄せ、そこに「世界」を作り上げる。「リンゴを剥く」「編み物を編む」「煮炊きをする」「読書をする」という「動詞」が「俯く姿勢」とおることで世界になる。世界が「俯く」という肉体の形を何度も往復して豊かになっていく。これは、とても美しい。このとき「俯く」のなかで動いているものを、夏目は「考えごと」と呼んでいるが、この呼び方も自然でとてもいい感じがする。
夏目にとって、「間」とは「考えごと(考えごとをする)」であり、それは現われては消えていくという不思議な連続性をもっている。その連続性を、この詩では「俯く」という「姿勢」に託している。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。