詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

齋藤健一「毎朝」、夏目美知子「朝のリンゴ」

2014-10-31 11:41:42 | 北川透『現代詩論集成1』
齋藤健一「毎朝」、夏目美知子「朝のリンゴ」(「乾河」71、2014年10月01日発行)

 きのう読んだ佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」にはことばへの過剰な圧力のようなものがあった。その圧力が何であるか、どこから生まれてくるのか、私にはわからない。しかし、そこに圧力がある、圧力のかけ方に個性(肉体)があると感じた。それがおもしろい。
 齋藤健一「毎朝」は感想を書こう書こうと思いながら、そのままにしていた詩である。佐藤の詩を読んだあと、急に読み返したくなった。

囀るごとく見るのである。自分は返答をしないのだ。書
き物机と肱の関節。なれなれしい謝罪である。ぱちりと
瞬きをする。善人すぎて緊張が判るのだ。高音はいらい
らする。超えぬならば納まる。軽視の事態。感冒の初期
に似ている。

 佐藤の詩には「行間」がなかった。齋藤の詩には「行間」と呼ぶには大きすぎる「間」がある。そして、「間」があるののだけれど、その「間」が屈折している。そのために「間」がないかのようにことばが接近している。言いなおすと、齋藤の「間」はかる適当な定規がない。「屈折」を測ろうとしても「無」しかはかれない。ことばとことばの間に「無」がある。その「無」がブラックホールのようにことばを強い力で引きつけ、結晶させている。ブラックホールと書いたが、それは「黒(暗い)」ではなく、「明るい(光)」。だから、やっかいである。光が屈折し、反射し、輝いているのはわかるが、光の向うにあるというか、光源となっている「もの」「こと」がきちんとした「輪郭」でとらえきれない。そこに「こと」「もの」が一部だけ見える形で存在していることがわかるので、こまってしまう。

書き物机と肱の関節。

 知らないことばはない。そのすべてが「見える」(わかる)。けれど、それが出会わなければならない理由(存在理由)がわからない。また、単なる机ではなく「書き物机」といわれるとき、「机」が奇妙な位置にずれていく。「いま/ここ」なのかもしれないが、「かつて/あそこ」という感じがふいにあらわれる。いまは「書き物机」というような言い方をあまりきかないためである。いわば、「古い肉体」のようなものが「書き物机」には含まれている。その「古い肉体」と「肱」という「肉体」が出会う。
 そして、その「出会い(関係)」が

なれなれしい謝罪である。

 と言いなおされるとき(そういうことばで、接続されて、世界が広がるとき)、何もわからないのに、たしかに机と肱とは「なれなれしい」かもしれないと感じる。書き物机に肱をついている。そのときの机と肱の関係は「なれなれしい」ということばによく似合う。机が肱になれなれしいのか、肱がつくえになれなれしいのか、わからないが、どっちでもいいのだろう。いや、両方なのだろう。
 「謝罪」は、どんな謝罪か。これも、わからない。わからないが、私は「なれなれしい」ということそのものが、すでにある種の「罪」のような気がするので、この一文は何やらぐるぐるまわっている感じがする。「なれなれしくて、ごめん」と「なれなれしく」謝罪している。ほんとうに謝罪するならほかの方法があるのだけれど、机と肱の、なれあった関係なので謝罪もなれなれしくなるのだ。
 この詩では、その「なれなれしい」感覚が、ほかのことばで何度も言いなおされている。「毎朝」ということばの中には、朝の繰り返しが無意識の形で存在しているが、それと同じように「なれなれしい」ものが、ここでは繰り返され、屈折し、なれなれしさの「一瞬」を何度も反復しているのだ。何度も繰り返すように、齋藤が、私にはわからない「圧力」をことばにかけている。
 その「圧力をかけている」という感じが、わかる。詩の「意味」はわからないが、ここに書かれていることばが一定の圧力をかけられているということがわかる。この詩が好ましく感じられるのは、その圧力のかけ方が一定しているからである。その「一定」が、「一定であること」が伝わってくるから、私は齋藤の詩が好きだ。
 ことばと、ことばが指し示す対象との「距離」が一定しているということからもしれない。「一定の距離」が齋藤のことばを空間化する。また時間化する。空間、時間の「間」が一定している。--そして、その「間」というのは、圧力によって「無」の状態なの他けれど……。
 あ、私は、書き出しに書いたことに「戻る」ためにことばを書いてしまっているのかなあ。書き出しを突き破って、書き出し以外のところへ行ってしまいたいのだけれど。



 夏目美知子「朝のリンゴ」はリンゴのことと鳥のことが交互に書かれている。そこに「間」があるのだが……うーん、リンゴだけでよかったのではないだろうか。

卓上でリンゴを真半分に切る
ナイフが最後にたてる音が嫌で
刃をぎりぎりで止め
あとは手首を捻って
二つに割る

俯いてリンゴの皮を剥く
この姿勢に入ると
心の納まりがいい
編み物でも煮炊きものでも
読書でも
同じ姿勢の影に
考えごとが隠れている

 二連目を省略して引用しているのだが、肉体の動きを追いながら、肉体が肉体を超えて別なものになる。「思考」になる。そのときの、ことばへの「圧力」のかかり方が(かけ方)が、とても自然で引きつけられる。
 「俯く」という肉体の動き(たぶん、「作業(仕事)の内にははいらない姿勢)が「引力」となってほかのことばを呼び寄せ、そこに「世界」を作り上げる。「リンゴを剥く」「編み物を編む」「煮炊きをする」「読書をする」という「動詞」が「俯く姿勢」とおることで世界になる。世界が「俯く」という肉体の形を何度も往復して豊かになっていく。これは、とても美しい。このとき「俯く」のなかで動いているものを、夏目は「考えごと」と呼んでいるが、この呼び方も自然でとてもいい感じがする。
 夏目にとって、「間」とは「考えごと(考えごとをする)」であり、それは現われては消えていくという不思議な連続性をもっている。その連続性を、この詩では「俯く」という「姿勢」に託している。



私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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春に買ったノートを

2014-10-31 00:50:53 | 
春に買ったノートを

春に買ったノートを秋にまた買いに行くのは
同じ道をもう一度歩くのに似ている。

ということばを書き留めるために、
私は表紙の硬いノートを買いに丸善の階段を降りる。

ブルーのボールペンを選んでいる少女よ。
きみのことを書きたいと思ったのはどの春、どの秋、

試し書きをする背後をとおり、
春に買ったノートを買う前に紙の匂いを呼吸する。


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佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」

2014-10-30 10:30:37 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」(「YOKOROCO」2、2014年10月08日発行)

 佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」はとても奇妙な詩である。形が変なのである。

          歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫
掻き傷蜘蛛の糸
          しびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と
一角獣がいない
          凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母
影へ傾く宗教画

 私の引用では正確な形にならない(まず、ブログでは横書きになってしまう)のだが、何が「変」かというと「行間」がないのである。七字さがって書きはじめられ、次の行へ行くときの印刷に「行間」がない。そして、それがちょうど書き出しの七字のところでいったん終わる。そのためにこれはもしかしたら、一行が折れ曲がっている? という印象を呼び起こす。
 つまり、引用し直すと

掻き傷蜘蛛の糸歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫

一角獣がいないしびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と

影へ傾く宗教画凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母

 ということばが、何らかの圧力で上の七文字だけ左の方へ押しやられて、断層のようにしてつながっているのではないか、という印象を視覚に与える。
 あるいは、上の七文字は七文字で横に読むことで完結し、下の長いことばは長いことばで横に読むことで完結しているのかもしれない。
 つまり、

掻き傷蜘蛛の糸
一角獣がいない
影へ傾く宗教画
          歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫
          しびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と
          凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母

 という具合に読むのがいいのかもしれない、と視覚で思ってしまう。ことばの「意味」(ことばのつながり)を追う前に、視覚が揺れ動く。定まらない。私は網膜剥離で手術をして以来、目の調子がとても悪い。もともと近眼がひどく乱視も入っているので、なんだか目がチカチカしてしまう。
 「行間」が衝突してつぶれてしまい、その圧力でそこから光が発しているようなチカチカ感(?)がある。
 うーん、これ何?
 この「行間」を私は読めるだろうか。

 私の読み方は「邪道」で、ことばはことばの意味を追って、そこに書かれている「思想」を読み取らなければいけない--のかもしれないが。
 うーん、と私はまたうなる。

 私はもともと詩を「意味」を追いながら読んだことはない、と思い出してしまう。そこに書かれていることばの一瞬の美しさにひかれて読んでしまう。ことばのかっこよさにひかれて読んでしまう。

見つかった
何が? 永遠が
太陽と
溶け合った海が

 このランボーの「永遠」の書き出し(正確ではないかもしれない)も、「意味」なんてわかりはしない。この詩を読んだ当時、私の知っている海は富山湾と能登の海なので、太陽と海が溶け合った姿だってランボーの見ているものとはまったく違うはずだ。そして、まったく違うということを「理解(?)」して、私は私の肉眼で見た海ではなく、それを超越した輝かしい地中海を思い浮かべた。もちろん地中海なんて、実際には知らない。ランボーは、もしかしたら大西洋を描いているのかもしれないけれど、この輝かしさは古典文明の生まれた地中海(あるいはギリシャの海?)と勝手に思い込んでしまう。
 ランボーの詩は、そのあともつづきがあるのだが、つづきは読みながら、読んでいない。そこに書いてある「意味」なんか追ってはいない。ただ、瞬間的に見えた海の美しさにすっかり酔っぱらってしまう。
 そういう詩の「よろこび」につうじるものが佐藤の詩の形にある。 
 これはいったい何?
 何が書いてある?
 ことばが折れ曲がって、それでも続いている。
 どんな力が、なぜ、全ての行を同じように切断し、同時に接続しているのか。なぜ、その力を隠したまま、力が働いたという印象だけを前面に出しているのか。
 わからない。わからないけれど、佐藤はこの形を必要としている。その必要の「意味」を佐藤もわからないかもしれない。わからなくてもいいと思う。だいたい、詩は、わかって書くのではなく、わからないからとりあえず書いてみて(ことばを動かしてみて)、これがほんとうに自分の思っていたことだろうか、自分は何を考えようとしていたのだろうかと思いなおすようなもの。自分の考えに近づく、あるいは自分の考えようとしていたことを突き破って自分でなくなってしまう--「詩」そのものになってしまう。自分の言いたいこと、書きたいことが明確にわかっていたら、書かないかもしれない。

 こんなことをくだくだと書かずに、はやく佐藤の「思想」を、ことばを追って説明しろ、明確にしろ--と言われそうだが。
 そんなことは無理。
 一行一行ことばを追いかけ、そこに山崩れを見て(視界をひっぱられて)、その崩れたむき出しの山肌のまわりに緑がそのままあるというのを目撃し、緑が自然の狂暴な命の力何かを隠していると感じ(山が崩れても緑は緑のまま、まだ生きていると感じ)、そこから庭のことを思い(草が茂り放題の庭?)、そこにいる斑猫を思い、猫についていた引っ掻き傷は山崩れと緑の関係に似ていると思い、さらに狂暴な力ということばをもう一度たぐりよせて、そうか、ここでは佐藤は狂暴な力というものと向き合っているのだな、とそれらしく「意味」を捏造する。で、そのとき、蜘蛛の糸は? あ、これは猫にくっついているねばねば。その下に掻き傷がある……。その蜘蛛の糸も死んでいながら、猫に絡みつくという生き方をしている。自然はあくまで狂暴だ。
 あるいは、そんなふうに死んでしまったもの(山崩れ、掻き傷、破れた蜘蛛の糸)に何かの夢を見てはならない。そこから狂暴という「意味」を引き出してはならない。そこで終わってはならない。ものとものとのつながり(回廊)は、どこまでも続いて行く。そして、それは諭すように招いている。いや、そんなものは、嘘。回廊を造った占星術者も一角獣もいない。超越的な「意味」など、どこにもない。
 「意味」は「寓意」、現実に接近するふりをしてつくられた嘘の中で動いている。それはどうしたってまがまがしい。そこでは「受難」というような苦しみが似つかわしい。やさしさもよろこびではなく、強い力(狂暴)が働くときに生まれるもの。花さえも悲劇(受難)をあらわす。何もかもが共謀へと突き進む。母を描いた宗教画にも、やさしさではなく「狂暴」が画されている、云々。
 書こうとすれば、ことばはどこまでも動く。「意味」というのは、それくらいいい加減(佐藤が正確な意味を書こうとしているのだとしたら申し訳ないが)にでっちあげることができる。私の書いた「意味」の一部が佐藤の思いと重なるかもしれない。でも、そういうものは偶然。私は佐藤の「意味」なんか気にしないで、自分の思いやすいことを思っている。私が「肉体」で覚えていることをつなぎあわせている。山崩れを見たときの印象などをつなぎあわせている。宗教画なんて、暗くて嘘っぽい。何か、脅しを含んでいる凶悪なものであるなんていう印象がまぎれたんでいる。
 だから。
 そういうことは関係なくて、私がこの詩がおもしろいと感じたのは、詩の形、こういう行の折れ、行間のない感じで詩を書こうとしている佐藤の書き方への指向(嗜好?)に、うわっ、変な女。こわい。こわいけど、もっと見てみたいと引きつけられる。
 「意味」はどうでもよくて、ランボーの詩から太陽と海が見えるように、佐藤のことばから山崩れや緑や斑猫の傷、蜘蛛の糸が見える。しにびとさえも見える。それらをつないでいるものは見えないけれど、そこに書かれている「もの」が直接見える。それを見るとき、「もの」を見ているのか、それともそれをつなぐ「何か(意味)」を見ているかは気にしない。「もの」が見えるということは、きっと無意識の何かが「意味」をも見ているに違いない。そしてそれは「無意識」で見ているので、ことばにはできない。それが「見える」にかわるには、もっともっともっともっと、佐藤のことばを読まないといけない。さとうのことばにおぼれないといけない。
 こういうことが、詩では、あるのだ。
 佐藤は、昨年『母系譜』(阿吽塾、北海道北見市川東31-39、電話0157-32-9120)というとても変な詩集を出している。ことばに無理な力がかかっていて、その無理を何が何でも押し通している。今回の詩も、そういう無理を押し通す狂暴な何かがあって、とてもおもしろい。わくわくする。(さっきは、こわい、と書いたんだけれど……。)詩集がまだあるかどうかわからないけれど、関心のあるひとは、ぜひ、問い合わせて、読んでください。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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石蕗の花

2014-10-30 00:31:30 | 
石蕗の花

夕暮れの光のない坂を犬といっしょに上って行くと
石垣の上、視線の高さの雑木の藪に石蕗の花が咲いていた。
あまりに不ぞろいな形なので
「どれがほんとうの石蕗の花の形?」と女が聞くのだ。
私は答えず、灰色の影と黄色い色の補色が美しいと言ってみた。
反対側の崖のしたの家では明かりがついた。








*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
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高谷和幸『シアンの沼地』

2014-10-29 11:06:59 | 詩集
高谷和幸『シアンの沼地』(思潮社、2014年07月25日発行)

 高谷和幸『シアンの沼地』はふたつの章(?)に分かれているような体裁になっているが、ほんとうはもっと幾つかのものの集まりなのだろう。「 ふりそそぐGの音を聞きながら」のなかに、次の部分がある。

・帰る時になってYさんが本を呉れた。その一冊
は岩波文庫で、その本を所有した二人の名前が書
かれた「蕪村俳句集」(昭和三十二年第十七刷)だ
った。毛筆で書かれた、一年一組。和子。鉛筆書
きの二年C組。美代子。どちらから、どのように
この本は贈与されたのか? 「子」という横一文
字に移るまでの跳ね字が二人に共通した癖がある
ように思える。知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具(自分の分身)が内面に意味を持ち
出すような字だった。それは、二階の薄暗い部屋
で過ごす一人の時間を連想させた。いつ始まって、
いつ終わるのかかいもく見当がつかないでいる空
間に、窓から漏れる弱い日射しが身体の半分を手
元に置いている。 

 とてもおもしろい。「蕪村俳句集」という具体的な「もの」が、そこに書かれた「名前」によって、それまでになかった「蕪村俳句集」に変わっていく、その予感(予兆?)のようなものが書かれている。
 何かが引き継がれ、何かが切り離される。あるいは、何かが別なものによって引き継がれていく。そのときの、一種の「変形」の予感、そしてその「変形(変化)」の奥で新しく生まれる接続……。
 毛筆から鉛筆書きへ。一年一組から二年C組へ。和子から美代子へ。その「接続」を思うとき、高谷は奇妙なものに目をとめている。「子」という文字の形。

           「子」という横一文字
に移るまでの跳ね字が二人に共通した癖がある

 このことばを読むとき「子」という「文字の形」だけではなく、その文字を書いた二人の肉体が見える感じがする。筆を、鉛筆をもって動く手。そのときの姿勢まで見える感じがする。それが

      知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具

 とつづくと、うーん、そこに高谷の肉体までが重なってくる。そうか、筆記具を置く場所というのは、決まっているのか。右手の方か、左手の近くか。人によって癖があるだろう。その癖というのは肉体の動きそのものなのだが、こういうことがことばになって動くのは、高谷が筆記具の位置を決めていたんだな、と思う。
 この肉体の癖は肉体なんだけれど。その癖というのは、外形にあらわれる(右側に置く、左側に置く)けれど、そういう外形にあらわれる「知らず知らず(無意識)」こそが「内面」なんだろうなあ。

       知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具(自分の分身)が内面に意味を持ち
出すような字だった。

 「自分の分身」は、まあ、比喩だ。そこに比喩が出てくるから「内面」や「意味」という抽象的なことばも動きやすくなっている。で、その「内面」が、なんと、

              二階の薄暗い部屋
で過ごす一人の時間を連想させた。

 「場所(空間)」へと転換する。そしてそのあと直後に「時間」を持ち出し、それを「過ごす」という「動詞」で統一する。「動詞」を持ち出すと必然的に、そこに肉体があらわれてきて、そこに書かれているのが肉体の外の空間(二階の部屋)なのか、その部屋にいて時間を過ごしている肉体の内部(知らず知らず、の無意識)なのかそれをつなぐ「意味」なのか、、わからなくなる。
 それは区別するようなものではなく、むしろ、融合させた形、統一させた形でつかみとるものなんだろうなあ。「意味」は論理的というよりも直感的な「もの」のような何かだ。あとから少しずつ修正してととのえるものなんだろうなあ。
 「時間」「連想」ということばが、そのあとのことも自然に動かす。

                いつ始まって、
いつ終わるのかかいもく見当がつかないでいる空
間に、

 この区別のない感じが、そのまま高谷と和子、美代子の区別をなくしていく。高谷は和子になり、美代子になり、自分自身になって、たぶん高谷の知っている二階の部屋にいる。そこには机の置きかたや何かも決まった形でととのえられている。

   窓から漏れる弱い日射しが身体の半分を手
元に置いている。

 これは日射しがひさしにさえぎられて半分だけ入ってきているということかな? はっきりとはわからないけれど、そこに書かれている「身体」と「半分」が妙に肉感的である。和子と美代子の肉体も半分ずつそこに入ってきている。それは高谷の手元に触れる感じ。そこには和子と美代子のしかいなくて、それは二人で一人(一人ずつは「半身」)ということかもしれないけれど、そういう「半身の二人」という現実には存在しない「内面」の印象を統一しているのが高谷だから、二人しかいなくても、二人が存在するためには高谷が必要なのだ。高谷という「内面」が必要なのだ。「内面」を抱え込む高谷という「肉体」も必要になるのだ。

若草に根を忘れたる柳かな


・毛筆でこの句の頭に○印(一年一組の和子さん
の筆跡である)がついている。萌える若草と柳の
根を忘れてしまった「生命」の勢いの違いが意識
に上ってくる。彼女はなぜこの句を選んだのだろ
うか。明確なことはわかりようもないが、和子さ
んから二年C組の美代子さんに伝えられた何かが
ここにあり、それが時間を超えてわたしにも与え
られる。「忘れる」という土の層。

 ここでは、「内面」が主役になっているが、そしてそれは「明確なことはわかりようもない」のだが、○印をつけて渡された(受け取った)という「動詞」が「伝えられる」という「動詞」にかわって動くので、何かがわかったような気がする。「意味」はこのあたりにあるんだろうなあ、と感じられる。「動詞」があるから、それが「わかる」。「動詞」は何かを理解するときの基本なのだ。
 ここで、こんな例は適切とは言えないけれども、たとえば「水を飲む」の「飲む」という「動詞」。それはどんな外国語であり、それを肉体で実践して見せると、ひとに伝わる。コップに入れた水を飲んで見せる。飲みながら「飲む」というと、それがたとえば「drink 」ということばであることが伝わり、またその「水」が安全であるということも伝わる。「動詞」は肉体を「意識(意味)」にかえる装置のようなものである。
 印をつける(動詞)、渡す(動詞)、受け取る(動詞)があって、それを目撃した(動詞/この目撃するは間接的にではあるけれど)高谷(わたし)に、そのときの何か(はっきりしない意味/言語化されない意味)が「与えられる」(動詞)という具合に、「内面」が「肉体」を動かすので、「知らず知らず」それが「わかった」ような気持ちになる。「意味(内面)」を伝えようとしている/「内面(感情の意味)」を伝えたという「現場(証拠)」を目撃したような気持ちになる。
 その「動詞」はいっしょに起きたことではなく、時間をへて、起きている。そして、その「時間」というのは実は高谷のなかで生まれたものである。「意味」は時間を超えるのだ。
 「時間」は、また、ほかのことばを呼びさます。
 「忘れる」。何かが忘れられる。けれど、忘れることをとおして何かが伝えられる。
 高谷は、和子と美代子の交流を「肉体」で追いながら、高谷自身の「内面」を耕している。そして、ことばにしている。

 あ、これだけをていねいにていねいに追っていけば、とても美しい詩集になるのになあ、時間が肉体の奥を耕して、そこに和子、美代子、高谷の「地層(断層)」のようなものが見えてくるだろうになあ、と思う。
 高谷が書いていることは、ちょっと欲張りすぎて、その「地層」が見えにくくなっているのが、私には残念に思える。高谷はもっと複雑なことを書きたかったのかもしれないけれど、単純なことの方が複雑よりも複雑ということもあると私は思う。

シアンの沼地
高谷 和幸
思潮社

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十月桜--舞鶴公園にて

2014-10-29 00:35:00 | 
十月桜--舞鶴公園にて

ほら、
あ、
十月桜。
あ、

同じものを見て、
同じ顔になる。
同じものが
からだから飛び出す。

それから私たちは
知らない顔をする。
それまで
似てしまう

瞬間は、
恥ずかしい。
どこへ引き返しても、
空が青い。







*



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藤富保男『一壷天』

2014-10-28 11:30:43 | 詩集
藤富保男『一壷天』(思潮社、2014年10月25日)

 藤富保男『一壷天』にも、私は思わず首をかしげてしまった。ただし、その首をかしげるときの感じは竹内新『果実集』(きのうの日記参照)とはまったく違う。
 巻頭の(実は、二番目の作品かもしれない。巻頭の作品は「はじめに」という前書きかもしれない)、「鼻持ち」。これはシラノ・ド・ベルジュラックからはじまり芥川龍之介の小説を経て、その後日の物語へとことばが動いていく。

 異様な鼻といえば、シラノ・ド・ベルジュラックがまず浮
かぶ。

 けなされて尻を捲りて五月晴
   わが鼻息で喜劇成りたつ

 と、ロスタンが詠んだか、どうか。

 あ、しゃれていると思う。そうか、外国の物語の主人公に「和歌」を読ませると乾いた音楽になるなあ。自己批評がユーモアであることがよくわかる。同時に、「和歌」というような伝統的な音楽が藤富のなかに動いているのか、ということにも驚く。
 最初に首をかしげたのは、藤富が「和歌」の音楽を演奏して見せたからなのかなあ。
 意表をつかれた、からかなあ。
 そのあと、「中略」して、芥川の短編へ。

 禅智内供もその一人。

 右むいてそれから左ああ長し
   夕陽さえぎる禅師の鼻は

 と歌われたとは、書かれてないが、

 あ、とここで気がつく。
 藤富は「嘘」を書いている。「虚構」を書いている。シラノが「和歌」を詠んだというのは、もちろん「嘘(虚構)」である。そういうことはわかっているが、でも、「和歌」ではなくフランス語の脚韻詩なら書いたかもしれないなあ、と想像することができる。その「和歌」を藤富が日本の定型詩(和歌)に書き直しているということはありうる。その場合、「嘘」というのは、どこまで「嘘」と言えるのか。
 あるいは、シラノが詩を書いていないとしても、シラノが詩を書いていたらどうなるかと想像することは「嘘」になるのか。
 うーん、わからない。
 「ロスタンが詠んだか、どうか。」と書かれてしまうと、それが藤富の想像であることがはっきりして「想像」を「嘘」と言えば言えるけれど、「想像する」という藤富自身のことばの運動には嘘はない。想像してしまうのは、ほんとうの(?)想像力である。
 何が言いたいのかと言うと……。
 シラノが和歌を詠んだというのは嘘だけれど、その嘘を書いている藤富は本物であり、シラノが和歌を詠んだのが嘘だとわかったときから、私はシラノのことを無視して、藤富の「ほんとう」を知らず知らずに追いかけている。
 シラノを藤富がどう書くかということを追いかけながら詩を読んでいる。
 「詠んだか、どうか。」という「二者択一」の疑問を書くことで、読者(私、谷内)を誘い込むなんて、ずるいなあ。「二者択一」に向き合ったときから、知らず知らずに、考えるということをはじめてしまう。想像力を働かせてしまう。想像力が働くと、それから先のことばは藤富が考えたことばなのに、読者(私、谷内)が考えたことのように思えてしまう。想像力が真剣になってしまうのだ。意義をとなえるまえに、そのことばの動きを受け入れてしまう。染まってしまう。
 そのあとで、禅智内供を出して、シラノと同じように「和歌」があって、「と歌われたとは、書かれてないが、」と言われると、思わず「嘘だろう、それはほんとうにあった和歌なのではないのか」とついつい思ってしまう。その「和歌」があっても困らない。芥川の短編はストーリーくらいしか覚えていないが、もしかするとその「和歌」が書かれているかもしれないぞ、と思ってしまう。
 「書かれていないが」という断定が、想像力を「書かれている」という方向へねじまげてしまう。なぜ、「書かれていない」と書いてあるのに、「書かれている」と「誤読」したがるのか。
 理由は簡単。
 そっちの方がおもしろい。
 ひとは、おもしろいことを考えたがるのだ。それが嘘かほんとうかわからないが、「おもしろい」は「美しい」と同じように、真偽を超えた力をもっている。「おもしろい」「美しい」「たのしい」というような「自分を超える何か」の方へ人間は誘われてしまうと、もう、自分をとめることができない。

 これは、「かたる(語る/騙る/だます)」方も同じだろう。「嘘」であるかどうかを忘れて、ことばが動いていく。藤富はこの「嘘」を楽しくて止められなくなる。
 ただし。
 藤富は、この運動を「暴走」というよりも、なんだか静かな感じ、ゆっくりした感じ(前よりもスピードが落ちた感じ)でつづける。そうすると、それは「どうせ嘘」という感じではなくなる。おだやかな「笑い」へと落ち着いて行く。
 禅智内供は天狗のこどもと出会い、その天狗に自分の鼻を譲る。天狗は鼻をねじりとって去って行く。

 内侍の方はというと、鼻自体がねじり取られ、鼻孔から
涙のように鼻水が垂れたが、もはやあの長い鼻とは別れる
こととなった。何とも気持がよいが、何か淋しい気もして
仕方がない。今はなくなった鼻の跡にメンソレータムを塗
りながら、この淋しさと嬉しさが一度にやってきたことは
格別だ、と天を仰いだのである。

 うーん、いいなあ、この静けさ。
 でも、なぜ、いいんだろう。
 「淋しさと嬉しさが一度にやってきた」というところに、秘密があるかもしれない。「淋しさ」だけ、「嬉しさ」だけだと、いいなあ、とは思わない。矛盾したものがいっしょにある。
 藤富の書いていることは「嘘(作りごと)」なのだけれど、その「嘘」がひとつの結論(?)に結晶していない。違った「ふたつ」のものになって重なっている。どっちをとってもいい。「淋しさ」が「嘘」なら「嬉しさ」が「ほんとう」、「淋しさ」が「ほんとう」なら「嬉しさ」は「嘘」。
 
 最初に戻ると「シラノ」が「ほんとう」なら「和歌」は「嘘」、「和歌」が「ほんとう」なら「シラノ」は「嘘」。
 ふたつを組み合わせながら、どちらかを「ほんとう」にしてしまう。それが「現実(事実)」として「嘘/ほんとう」か、「想像力」にとって「嘘/ほんとう」か、ということが起きるが、「想像力」にとっては「嘘」も「ほんとう」なので、どっちでもいい。大事なのは、「ふたつ」があることなんだろうなあ。
 でも、それでいいのかな?
 と首をかしげながら、首をかしげても真剣に悩むわけではないのだが……。とぼんやりしていると、この詩集には、もうひとつ「仕掛け」があると気づく。藤富の絵が挿入されている。詩の終わりに絵がある。
 そして、どうも、その「絵」がことばの「結論」のようなのである。絵を先に描いたのか、後に描いたのか、わからないが、ことばと絵は向き合っている。「ことば」と「絵」という「ふたつ」でひとつの世界になっている。「淋しさと嬉しさ」のように、それは「いっしょ」にある。
 その「絵」を見ていると、絵というものも、ことばは同じように妙に不完全なものだと思う。それを見ると何が描いてあるか「対象」が「わかる」。「対象」そのものではなく、ずいぶん何かが省略されているのに、「対象」が何であるかが「わかる」。想像力が描かれていない部分を勝手に補い(想像力で捏造し)、それを完成させている。ことばも同じだ。書かれていない部分を勝手に補い(想像力で誤読し)、読者がそれを「完成」させる。
 そのとき、その「完成」はだれのもの?
 それは作者と読者の「ふたり」のものだ。それは「ふたり」がいてはじめて「完成」する何かだ。

 とりとめもなく、そんなことを考えた。こんなふうに「ふりり」の世界へすーっと誘われるというのはなぜなんだろう、とまた首をかしげる具合だ。


藤富保男詩集 (現代詩文庫)
藤富保男
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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信号を待ちながら、

2014-10-28 01:28:05 | 
信号を待ちながら、

信号を待ちながら、
頭の中の地図に線を引いている男は
何を要約しているのか。

信号を待ちながら、
頭の中の地図に線を引いている男は、
ビルの改装工事の足場の下をくぐりながら、
港の斜張橋を見にゆく別の男を思い浮かべる。

その男の感情の中では、
ひだまりの公園に昔のこどもが配置され、
こどもは生け垣の向こうの舗道を走る自転車を見る。
また違った……と目が語っている。

何を統合したいのだろう。(何を肯定したいのだろう、
信号を待ちながら、
頭の中の地図に線を引いている男は





*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
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竹内新『果実集』

2014-10-27 10:08:18 | 詩集
竹内新『果実集』(思潮社、2014年10月05日)

 竹内新『果実集』を読みながら、私は思わず首をかしげてしまった。妙な違和感がある。たとえば、「桃源郷」。

百回目でやっと
林は途切れて水源になる
夢が導いていったのは沈黙の山
氾濫する時間が
絶境の最中に流れて
明るく熟しているところ
数百年危うく保たれている光の果実
悲しみと憂いに包まれた
小さく静かな歓喜
怠惰に隣り合う
ささやかな勤勉
威嚇と防禦が箱庭に埋葬されて
百年保障の穏やかな日常
そこでは鶏と犬の声で
生活の距離を計っている

 どのことばにも「意味」はある。「意味」を書こうとしているのだな、と感じる。「意味」への指向が強すぎて、閉ざされていると感じる。竹内の「頭」のなかでは「意味」が正確に動いているのだろうけれど、その動きは外へ動いてこない。竹内の「頭」のなかだけで完結しようとしている。「氾濫する時間」「絶境の最中」と書かれているが「氾濫」が見えない。「絶境」が見えない。「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」も見えない。あふれてくるものがない。
 詩の定義はいろいろあるだろうけれど、私は簡単に言うと「余剰」が詩だと思っている。「過剰」でもいい。ようするに「余分」なもの。
 そこまで言わなくていいんじゃない?
 と、思わず笑ってしまうことば--それが詩。
 「意味」を超えて、「そのひと」を感じることばと言えばいいのだろうか。「意味」を忘れて、「あ、竹内らしい」と思わず感じることば--それが竹内のことばにはない。余分なものが何もない、それが竹内の詩なのだ、簡潔で引き締まったことばの運動が竹内の詩である--そう言えば、そう言えるのだろうけれど、私は竹内については何も知らないので「あ、竹内らしい」とは感じることができなかった。

 でも……。
 何かを語る(書く)というのは、もうそれ自体で「余剰(余分/過剰)」なことであるはずなのに、どうして「余剰」を感じないのだろう。
 「氾濫」「絶境」「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」「威嚇」「防禦」「保障」「距離」……あ、漢字熟語ばかりだねえ。これは私の「感覚の意見」なのだが、漢字熟語は「意味」を閉じ込めている。「意味」を結晶化させている。竹内がつかっていることばでいえば「意味」を「果実」にしている。
 「果実」だから、それはときとして、熟して腐るということもありそうなのだが、竹内の果実はそうなる前の、もっと「意味」の固まり(凝縮)していく過程のようなものである。実りへ向かって大きく育っていくときの、その内部で動いている秩序のような果実であって、それは--なんというか、まだ食べるには早すぎるという印象が強い。
 「果実」も熟れると揺らぎが生まれる。甘いはずなのに、ちょっと毒を感じさせるぴりぴりした酸っぱさがあったりする。これ、食べても大丈夫?という不安を誘うようなものがあったりするのだが、そういう「過剰/熟れすぎ」というようなことは竹内の「果実」の場合は、どこにも見当たらない。
 それだけ「清潔」ではあるのだけれど、この揺らぎ(不安を引き起こす何か)がないために、うーん、食べられない。いや、食べられることを拒んでいる、成長過程の「果実」なんだなあ、と思ってしまう。
 熟して食べられて、「まずい」といわれるのはいやだなあ、という思いがまだつまっている。
 ことば(詩、文学)というのは、「誤読」されるためにある。食べられて、「これは甘みが足りない」「しゃきっとした酸っぱさがない」「えぐみがなくて、芯を感じるない。子ども向けだ」と好き放題にけなされるのが文学というものだろう。
 竹内のことばは、そういう読者の「好き放題」を拒絶して、竹内の「頭」のなかだけで完結をめざしている。そして実際完結している、という印象がある。
 どこれこれも、「漢字熟語」が引き起こしていることのように思える。もっと手足でつかみ取った「熟語以前」のことばで書くと、印象は違ってくるのではないか。

それは
果実に残された
沈黙体験の一つ
耳そのものになった干し柿に
芭蕉も子規もかなわない                    (「干し柿」)

 「耳そのものになった」というのはとてもおもしろい。この詩集の中でいちばんおもしろい行だ。--それなのに、それを「沈黙体験」という奇妙な熟語がぶっこわしている。「沈黙」は仕方ない(?)かもしれないが、「体験」はつまらないねえ。「体験」では手も足も動かない。「耳」は、どう動いたの? 耳は何をしたの? 耳を澄ました? 耳をふさいだ? あるいは耳でかじった? なめた? においをかいだ? 触れた? うずくまった?
 「体験」を「動詞」として言いなおすとき、たぶん、そこから余剰が生まれる。「果実」を突き破って動くものがはじまるように思う。
 私は、そういう「余剰」を読むのが好きだ。「余剰」を「誤読」していくのが好きだ。好き勝手ができない竹内の詩は窮屈だ。

北風に落下し
春風の中で全身を茶色に
香りを異臭に変えて
時間に抗ううちに黒ずみ
硬直したまま
土の中へ腐朽してゆく                       (「花梨」)

 「意味」はとてもよくわかる。「描写」のなかに「目」で見たものが見える。でも、それはほんとうに「目」で見たものなのか。たとえば「全身」。これは「目」で見るというよりも「頭」で整理したことば。花梨の「全身」なんて、ふつうに言う? 「異臭」も変だなあ、と私は思う。「異臭」では、なんのことかわからない。ガスの吐き気をもよおす匂いとうんこが腐ってあまくなったような匂い、匂い感じる前につんつん鼻の奥を突き刺されて苦しくなる感じ--では、まったく違う。異臭に触れて、竹内の「肉体(どの器官)」がどう動いたかがわからないと、「竹内のことば」を読んでいる気がしない。竹内の「肉体」が見えてこない。ことばは肉体なのに、竹内はことばを「頭」に整理して、整理することが詩だと思っているようだ。

 私が思わず首をかしげてしまったのは、詩集から竹内の「肉体」が感じられなかったからだ。

果実集
竹内 新
思潮社

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地下街の夕方を

2014-10-27 08:52:30 | 
地下街の夕方を

地下街の夕方を歩いていると、色というものが遠くなり
あした私のなかにいるはずの私が
私を見捨てて過去へ引き返して行った
そう感じる空白が足先に。

天神地下街の色の少ない夕方、
ビルの地下へと幾つにもわかれてのびる通路は牛の巨大な胃袋で、
私は何度も反芻される藁くず。
行けども行けども同じ道をたどらされている。



*



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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(22)

2014-10-26 11:19:58 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(22)(花神社、2014年08月10日発行)

 「詩劇 つるんつるん」は「狂言風の一幕劇」というサブタイトルがついている。1972年に紀伊国屋ホールで実際に上演されている。(私は見ていないが。)男が女に会いに行く。(夜這いに行く。)その途中、顔を落としてしまう。そういう男が四人出てくる。ひとつだけ顔が落ちているのを見つけて、それを取り合いになるというストーリーだが、まあ、ストーリーは、どうでもいい。と書くと、粒来に申し訳ないが……。
 狂言のおもしろさはストーリーよりも語り口である。わかっていることを、何度でも言う。顔をなくした。顔を探している。顔を奪い合っている……そういうことが四人の間で繰り返しことばになる。
 そうすると何が起きるか。
 ことばから「意味」が消える。単なる音楽になる。音の響きになる。そして、それが「肉体」として動く。私はこの「狂言」を見たわけではないが、それが目に浮かぶ。私は、ことばを聞いていない。ことばは一回聞けばわかる。何度も同じことを言っているだけだから、「意味」としては聞いていない。
 このとき役者の「肉体」の方も、あまり変化はない。同じ動作の繰り返しだろう。けれど、その「肉体の動き」の方は「ことばの意味」とは違って、何度も何度も見ていたい。「ことば」も「意味」は聞きたいとは思わないが(「意味」を考えたいとは思わないが)、その「声」を聞いていたい。「肉体」のなかから出てきて、そこに「ある」声。きっと「肉体」も何度も同じ動きを繰り返すことで「肉体」から出てきて、その舞台の上に「ある」という状態になるのだと思う。
 「声」が踊るように、「肉体」も踊る。「舞い」になる。
 狂言だから、その動きは能の舞いのように洗練されていない。むしろ洗練から逸脱した「こっけい」がそこにある。それが「笑い」としておもしろいと同時に、能とは違った哲学としておもしろい。洗練されて形になる前の「混沌」がそのまま「形」になっているというおかしさ。
 「混沌」とか「無」というのは「形」を持たない。「形」以前のものだが、それは観念で(頭で)考えるから形「以前」になるのであって、「形以前」というものなどほんとうはない。「未生の精神」というようなものもない。どんなものも「形(肉体)」をもっている。「肉体」をもっているからこそ「ある」と言える。「無がある」というのは「矛盾」した表現だが、「無」には「無の形」があり、それは「無の肉体」というものでもある。--と書いていくと、ごちゃごちゃして面倒くさいが。
 端折ると。
 役者の肉体が舞台の上にあって、それが動いている。落とした顔を探しているという、ありえないようなことも、それを「肉体」で動いて表現してしまえば、そこに「落とした顔を探す」という「こと」が「事実」としてあらわれてしまう。
 こんな「事実」は「意味」を考えてはいけない。「顔を落とす」「顔を探す」ということに「比喩」を読み取ってはいけない。「意味」を感じ取ってはいけない。
 感じ取らなければならないのは、そういうときも「肉体」があるということ。「肉体」が動けば、そこで「こと」が起きてしまうということ。
 それを「意味」にしないために、「音楽」がある。「意味」とは違った「音の形式」がある。(短調/長調を持ち出せば、音楽にも「意味」があるかもしれないが……、それは省略。というか、考えないことにする。私は音痴なので……といいわけをして。)音が繰り返されると、「繰り返された」ということが「わかる」。繰り返しに出会うと、それに誘われて何かを繰り返したくなる。みぶり、てぶり。「肉体」が繰り返せるものを繰り返すように動いてしまう。「無意味」を「無意味」のまま「肉体」が吸収する。「肉体」のなかに「無意味」がたまる。それを解放するとダンス(舞い)になる。--この吸収と解放(放出)が、なんとも楽しい。
 それは「不条理」を「肉体」で吸収して、遊んでしまう、ということかもしれない。「意味」とは違ったものにして、「肉体」のなかに覚え込むということかもしれない。そして、それは一種の「肉体の智恵」のようにも思える。わけのわからないこと、それを「頭」のなかにためこんでおくのではなく、声に出して、肉体を動かして、なじませる。「頭」でわけのわからないことがあったとしても、声と肉体でやりすごすという「肉体の工夫」かもしれない。泣いたり、笑ったり、怒ったりというのは、「不条理」に閉じ込められないようにするための「智恵」なのだ。「不条理」を「肉体」の奥にしまい込む「智恵」なのだ。
 --と書いてしまうと、うーん、「意味」になってしまって、よくないね。

 詩に戻ろう。詩から(書かれていることばから)はじめないといけなかったのだ。ことばを無視して感想を先に書いてしまったために脱線した。
 詩には男が四人出てくるが、「一の男」「二の男」と数字で区別されるだけで、どう違うかはわからない。それが同じことを言うのだから、さらにわからない。わからないものを区別してもしようがないので、そのことばだけをだれが話したかを省略して引用する。

おぬしらなにを、まわしよる ああ?
かおじゃ、おらたちのな。
かおじゃと。かおちゅうと おぬしたちの目や鼻のあるか
おのこと、おらたちみてえな耳や口のあるかおのことか。
かおじゃ、おらたちのな。おまえたちのではねえ、いいや
おまえたちのではけっしてねえ、おらたちのだ。
そのかおをどうするとじゃ。まわしてよ、まわして、くり
かえして、どっちがどっちともわからなくなりそうだ。そ
れで、どうするとじゃ。
だからさ、おらたちも、わからなくなりおったのじゃ、ほ
んに。
だからさ、わしたちも わからなくなりおったのじゃ、ほ
んに。

 ことばが繰り返される。繰り返されると、それがどんなに「不条理」なことであったとしても、いま「繰り返された」ということが「わかる」。「意味」ではなく、何かを「繰り返した」ということが「わかる」。ひとは、「わからない」ことを繰り返すことができる。「繰り返す」ということが、ひとつの「こと」になってしまう。
 これは、もしかすると逆かもしれない。
 何かが起きる。しかし、それを「繰り返さない」かぎり、それは「こと」にはならない。ひとは無意識に起きた「こと」をことばにして繰り返している。ここでは、その「繰り返し」がひとりの人間の「頭」のなかでおこなわれるのではなく、四人の「肉体(声と動き)」で繰り返される。それを見ていると観客の「肉体」のなかにも、その「繰り返し」が入ってくる。役者が「肉体」で繰り返すことのできることは、観客もまた「肉体」で繰り返すことができる。観客は無意識に役者の動きにあわせて肉体を動かし、役者と一体になってしまう。
 このとき大事なことは何か。「繰り返す」ということが「できる」ということ。繰り返せないことを目の前で見せられても困ってしまう。狂言は、能の舞いのように訓練しなくてもできると思える人間っぽい動きで肉体を動かす。(実際には観客はその通りにはできないが。)そして、その「台詞」もまた「繰り返し」が簡単なものでできてている。聞いてすぐわかり、聞いてすぐ真似できることば。繰り返せることば。
 「繰り返すこと」でそこにある「こと」をしっかりとつかみ取るのだ。繰り返しによって、「こと」を直に体験するのだ。ことばによる繰り返しは「間接的」体験のように見えるが、実際に「肉体」と「声」を動かせば、その「こと」は自分にとって「直接」として響いてくる。

 粒来の詩は散文形式が多く(それしか思い浮かばないが……)、とても粘着力のある論理でことばが動いていると思う。その粘着力というのは、実は、前に書いた「こと(ことば)」を繰り返し書くときに生まれてくる。前に書いたこと(ことば)をしっかりと受け止め、肉体で(つまり、無言で)繰り返す。そのあとで次のことばを動かす--そういう「肉体」がカランだ連続性が粘着力になっている。
 この詩を読むと、粒来の粘着力のある論理というのは、何度も「声」として粒来の「肉体」を潜り抜けてきた結果としてそうなっているということが推測できる。粒来の散文詩は私にはとても読みやすく感じられるが、それは粒来のこどが「口語」を踏まえているからだ、ということが、この「狂言詩」からわかる。
 口語が生きている散文、口語が呼吸している散文なのだ。肉体で書いている散文詩なのだ。
 ここから書きはじめれば、粒来の詩へはまた違った接近の仕方ができるかもしれない。けれど、もう、書き終わってしまった。

 でも、少しだけ。巻頭の「前書き」ともなんともしれない「目次」の前に掲げられた「青梅雨」。

--死の総量ってどのくらい?と私は母に尋ねた。そうね、青梅の
種子の胚ほどよ、--と母は答えた。じゃその胚の重さは?とかさ
ねて問うと、母は少し間を置いてから、子猫の爪ほどよ--と笑っ
て答えた。

 ここには「質問」と「答え」が「口語」として書かれている。母と粒来がいて、「声」を出して質問し、「声」を出して答えている。そこには「質問」と「答え」以上に重要なものがある。二人の肉体がいて、そういう「応答」という「こと」が起きる。「こと」は「肉体」を必要としている。そして、その「こと」を粒来はいまことばで繰り返している。ことばで繰り返すと、その繰り返しのなかに、実際にあった「こと」が甦る。
 そのときの応答は何かの答えになっているか。--これを問うことはあまり「意味」がない。そのときの答えの「正しさ」を粒来は求めていないし、この詩を読むときの私も求めていない。答えはどうでもいい。質問もどうでもいい。粒来が質問し、母親が答えるという「こと」がすべてである。その美しさは、答えを必要としていない。「意味」を必要としていない。
 この口語のやりとりの中で、とてもおもしろいのは、

じゃその胚の重さは?

 である。ある答えに納得できずに、さらに質問する。ここに粒来の「粘着質」があらわさているが、その「粘着質」を証明するのが「その」である。母親の答えた「青梅の種子の胚」、「その」種子に粒来はこだわっている。「その青梅」というべきところを「青梅」は省略して「その」と指示代名詞でつながっていくときの「粘着質」。
 こういうことばの動きは散文に一般的にあらわれるものかもしれないが、一般的だから粒来の特徴とは言い切れないということにはならないと思う。
 さらに、

じゃその胚の重さは?とかさねて問うと、

 の重ねてに注意するのもおもしろいかもしれない。「その」という指示代名詞でつなげるとき、粒来はそれを「連続」としてとらえるだけではなく、その「連続」を「かさねて」という重複するものとしてとらえている。
 「重複」は「繰り返し」でもあるのだが、そこには「重なり」がある。粒来の「連続」は「延長」ではなく「重なり」という形であらわれる。「重なり」と「重なり」の「間」に、ことばにできなかった「こと」があらわれる。それを「肉体」が繰り返しているということになるのかもしれない。

 この詩集は、ここからもう一度読み返してみる必要があるなあ。

粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社

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向うから男が、

2014-10-26 00:23:12 | 
向うから男が、

真っ正面を向こう側から歩いてくる男がいる。
知らずに引用してしまったのか、あるいは剽窃したのか
どこかで見た記憶がある。
一歩近づくごとに私に似てくる。
決して道を譲らない気持ちでいる。
もう、そっくりになっているので実によくわかる。
あいての男も同じことを考えて、
あと一歩というところでにやりと笑う。
自分をひっぱりだすなら今だ
(のっとるなら、今だ
ほんとうはどう思ったのだろう。
私たちは車道を走る車や様々な足音で動き回るひとを見ながら
背中を向けて去っていく。



*



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レニー・アブラハムソン監督「FRANK フランク」(★★★)

2014-10-25 10:32:06 | 映画
監督 レニー・アブラハムソン 出演 マイケル・ファスベンダー、ドーナル・グリーソン、マギー・ギレンホール


 この映画は、私は前半はとても好きだ。歌をつくるときの昂奮が生き生きと描かれている。波を見ながら、ことばを動かし、音を動かす。街を歩きながら、女の子を見て、それがそのままことばになり、曲がつく。その自然な導入部が美しい。さらに、ドーナル・グリーソンがフランクのグループに誘われ、アイルランドで合宿しながら音を探し出すシーンが楽しい。楽器を動かすだけではなく、身の回りで音を拾い集め、その音を音楽に取り込んでいこうとするシーンが、実に楽しい。五線譜にある音(既存の楽器がつくりだす正確な音階)だけが音楽なのではなく、そこからはみ出している「音」そのもののなかにも「音楽」がある。それを五線譜にたよらずに、「和音」にする。わくわくしてしまう。新しい何かというのは、いつでも「既成のルール」とは違うところからはじまる。いったいどんな「音楽」に結晶するのか。……その作業をつづけるだけの映画で充分なのに。それだけなら100点の映画なのに……。
 途中から、「音楽」をつくるという「楽しみ」が消える。「音楽」を売る、既存の社会に受け入れさせる、という方向へ映画が捩じれてゆき、そこで「フランク」の人間性というか、社会とのかかわりあいが問題になってくる。
 これがさらに進んでいって。
 終盤がもしろくない。「フランク」(マイケル・ファスベンダー)が仮面を脱いでからが、「意味」の映画になっているのが嫌いだなあ。彼らが森の中でつくっていた「音楽」がまったく消えてしまう。--たぶん、彼らの「音楽」の底にあるのは、特に変わった嗜好ではない。ふつうの気持ち、だれもがもっている気持ちである、ということで「愛・ラブ・ユー・オール」という歌が締めくくりに出てくるのだと思うが。
 その、ラストシーンの「アイ・ラブ・ユー・オール」の歌は、意味はわかるが、こんなふうにしてしまったら前半のおもしろさが「意味」になってしまう。
 美しさというのは「意味」とは無関係。「意味」はこの映画のようにあとからどんなふうにでもつけくわえることができる。いい加減なものである。ひとをだますための嘘である。「意味」のない、「わけのわからない」こころの震えこそが美しさの味なのに、と思ってしまう。不思議な音作り(音楽作り)も、日常にある音に耳をすまし、その音から生きているものを引き出し、楽しむのが音楽のあり方である。原始時代(音楽がはじまるとき)、そこには楽器はなかった。楽器は、自分でみつけ、つくりだしていくものである--そういう「原始の音楽」からフランクのバンドは出発している--と、前半の楽しさを「意味」にしてしまうことだって、簡単にできてしまう。
 「意味」なんて、自分の思いを他人に押しつけるための「方便」なのである。

 映画にもどって、何がいけないかというと……。
 そのストーリーが抱え込む「意味」のうさんくささを指摘しておくと。
 「アイ・ラブ・ユー・オール」(君のすべてが好き、君たち全部が好き)というのはフランクの思想(肉体)である。そして、これはだれでもが共通で持っている思想(そうありたいと願っていること)でもある。
 ただし、その「愛している」という言い方はひとつではない。「アイ・ラブ・ユー」とことばだけを抜き出すと、「ひとつ」に見えるが、その言い方は人それぞれ違う。「意味」以外のものが、その「愛」(愛し方)のまわりにくっついている。そのことにひとはなかなか気がつきにくい。
 そればかりではない。「愛している」という言い方が奇妙だと、どんなに愛していても、それが相手に伝わらない。「気持ち悪い」と拒絶される。「愛している」を伝え、愛されるためには、「愛している」という言い方が大切なのだ。これは、曲作りの途中で、「愛されるように曲をつくらなければならない」という簡単なことばで語られているが、このテーマが、こんなふうに「ことば」で説明されてしまうと、あまりおもしろくない。それに、そんなふうにしてしまっては「愛している」という真剣な気持ちがなんだか薄れていく。
 「愛している」というのは、「愛し方」そのものであって、それ以外に「愛」はない。「愛し方」を変えてしまうと、「愛」も変わってしまう。「愛し方」の「個性」がそのひとの人間性そのものなのだから。
 こんなことを書いていると「説教臭く」なるが、こういう「説教臭い」感想を書かずにはいられないところに、この映画の問題がある。せっかくの楽しい「音楽」が途中から「説教」に変わる、変わるようにストーリーが動いていく。
 フランクは、そしてそのバンド仲間は、だれにでも愛される音楽ではなく、一部の人にしかわからない音楽(自分たちだけにわかる、いわば「自己満足」に近い音楽、カルト音楽)で「アイ・ラブ・ユー」と言う。聞き慣れない「和音」であったり、テルミンの奇妙な音だったり。
 そこには一部の人にしかわからなくても、「正直」がある。「これが好き」という本当がある。それが分かり合える人は少なくても、それはそれでしようがない。ドーナル・グリーソンも最初はそれにひかれていったはずである。それにひかれていったのなら、ドーナル・グリーソンが完全に変わってしまうべきである。会社の仕事をなげうってグループといっしょに行動をしたということがドーナル・グリーソンの変化といえば変化かもしれないが、そこから「現実」(人気を求めるバンド)へ戻ろうとするところが、人間として変わっていない。「音楽」になっていない。「音楽」になれずにいる。バンドを、ドーナル・グリーソンがかつていた世界に引き込もうとする。(売り出そうとする。)
 で、失敗する。
 こんなあたりまえを描いてどうする?
 どうしたって、オチ(結末)は、失敗に落ち込んだフランクがその失意のそこからふたたびバンド仲間によりそうように近づき、自分の気持ちを観客にもわかるように言うということになってしまう。それを見てドーナル・グリーソンは自分の間違いに気づき去っていく、ということになってしまう。
 こんなふうにしたのでは、カルト音楽をカルト音楽と定義して、世の中を棲み分けてしまうことになる。ぞっとする。最初の「音楽」そのものへの「共感」のようなものは、いったいどこへ消えたのか。

 マイケル・ファスベンダーが最後にマスクをとって「素顔」を見せるのも、私は気に食わないなあ。マスクがあると「素顔」がわからない? 「素顔」は「愛している」という「言い方」、マスクをつけてでも「愛している」と言いたいという「気持ち」じゃなかったのかなあ。それはマスクをとっても変わらないということかもしれないが、うーん、あまりにもうさん臭い、ご都合主義の哲学だなあ。マスクを被りつづけることを拒絶する社会の哲学だなあ。
 前半 100点、後半0点。足して割ったら、ほんとうは0点になるのだけれど、前半があまりにおもしろいので、後半は見なかったことにしてちょうど中間点の★3個。
                       (2014年10月22日、KBCシネマ1)                      (2014年10月14日、中州大洋4)






 


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届いた絵はがきに、

2014-10-25 00:42:43 | 
届いた絵はがきに、

届いた絵はがきに、
「降りることのできない機械のなかに坐って、
半日をぼんやりとした眠りとこまかな振動にあずけていると、
時間を運ばれていく夢だと言ってみたくなる。
        何の迷いもなく一筆で書いた文字が絵はがきに列をつくって動いて、
「そこは遠い場所ではなく別の時間。
私の話さないことばがひしめいていて、そこへ誰かが割り込んできて、
私がすっかり壊れていく時間。予兆のように
ことばが音になって散らばっていく

あした届いた二枚目の絵はがきでは、
「観念のようにひとつの形をたもったまま動きつづけるものに運ばれていると、
肉体のなかから時間が消え、消えていく時間のなかからさらに時間が消えていく。
窓を閉じて人工の夜をつくる機内で、その単調で規則正しいリズムに
私の骨はうっとりと酔っている。

書き方をすっかり覚えてしまったかのように届くきのうの絵はがきに、
私は私を署名して私あてに投函する秋である。



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(21)

2014-10-24 09:06:54 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(21)(花神社、2014年08月10日発行)

 「海馬よ、海馬」は認知症の妻のことが書かれている。症状の変化を妻の中に生きている「馬」として描いている。その馬の様子がだんだん日常とはかけはなれてしまう。「比喩」といえば比喩だが、詩の最後の部分がとても美しい。

                            孫が
背に背丈に不釣合いなチェロケースを背負って現れると病妻はそれ
だけで驚喜した。恐らく海馬も高らかに嘶いただろう。チェロが鳴
り出すと、目を閉じて聞いていた妻の内側で、海馬がトロットで走
り回る姿が見えたが、どうも馬は膝を痛めているようで、そのせい
か孫の弓も弦につまずきがちであった。

 ここでは、比喩(馬)が優先して、世界を変えていく。ほんとうは、孫の曳くチェロの音楽がときどきつまずく。それがわかって妻のなかの馬が足が乱れる、ということなのだが、大事なのは、妻がチェロの乱れがわかるということ。妻は正常なのだ。音楽を聴いて、その音楽にきちんと反応している。
 そして、このときの妻の態度は、また「正常」なのだ。つまずく音楽にいらだつのではなく、それにあわせてつまずいてみせる。それは、孫が間違えながら弾く曲をにこやかな顔で受け入れて、その間違いさえも楽しんでいる姿に見える。
 「私の足が悪いから、それにあわせて、こんなふうに乱れたんだね」と逆に孫をいたわる感じ。
 あ、比喩が生きている--と感じた。認知症のひとの肉体(思想)にも比喩は届いている。「認知」というような面倒くさい「頭」の働きを飛び越して、比喩が生きたまま動き、その比喩が人間の生き方をととのえている。「肉体」が覚えていること(孫に対して愛情を持った目でみつめること)を思い出し、それを自然に動かし、つかっている。愛の本能が生きていることを教えてくれる。
 この瞬間を的確につかみとる粒来のことばはすばらしい。
 最終段落は、もっと美しい。

 彼岸に妻と亡母の墓参りをしたが、寺の参道の途中で妻が立ちく
らんで了った。道の両側に釣鐘形の白い小房の花が群れていて、早
出の細腰の蜂達がもう蜜をすすっていた。私はその小花を知ってい
た。馬酔木だった。海馬はつとにこの花に酔ったのだ。妻とは言わ
ず、海馬よ海馬……と口籠もりながら、私は妻の背を叩いて覚醒を
促した。妻の目にうっすらと馬影が映っていた。

 墓参りの途中、妻が立ち止まる。何をしているのか、わからなくなったのかもしれない。それを、粒来は妻の中にいる馬が馬酔木を食べて酔っぱらったからだ、ととらえなおしている。馬である妻を受け入れて、馬が馬酔木に酔うことを受け入れている。馬が馬酔木を食べて酔っぱらうのは当然、必然なのだ。そこには「本能」に正直な「肉体」がある。トロットで足が乱れた馬は、妻自身の状況の受け入れ方だが、この最終連は、その妻を受け入れる粒来の、比喩の生き方、比喩の生かし方である。
 妻は馬酔木の名前を思い出せない。それに対して粒来は花の名前を知っていて、ちゃんと思い出せる。一方、妻はその花が何であるか知らないけれど、花の本質を知っている。それを肉体で味わっている。食べて酔っぱらっている。「馬」になって、「馬」を生きている。肉体の本能を正直に動かしている。それは粒来にはできない「生き方」である。
 だから、その「生き方」にあわせて、粒来は、そっと妻の背を叩く。いとしい馬に接するように、いまを生きる。
 そうすると、

妻の目にうっすらと馬影が映っていた。

 あ、これは粒来が妻の中に「馬」を見た(目の奥に馬がいるのを見た)というのではない。妻の、馬になった目が、粒来を馬にして目に映している。馬としてよりそう粒来を受け入れている、ということなのだ。馬にとって、いちばん優しいのは、やはり馬のことがわかる馬である。粒来は、馬になっている。

 ことばは生活から生まれてる。そして同時に、生まれることで生活をととのえる。生活を鍛える。生活を見える形(人に伝えることができる形)にする。美しくする。
 この最終段落には、そういうことばと生活の往復運動がある。ある「理念」があって、それで生活を律するというのではなく、生活の中から「理想」を育てるように動かしていくことば。それは、生活をととのえる。
 ことばがあってよかった。比喩があってよかった。比喩を生み出す力があってよかった、と心底思う。


クリエーター情報なし
書肆山田
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