池井昌樹『冠雪富士』(43)(思潮社、2014年06月30日発行)
「寒雀」。池井は詩集の最後の、小さな「歌」で締めくくっている。
ここにはいくつかの「時間」がある。最初に書かれている「いつか」。それは「しあわせのくるひ」「ともにあるくひ」と言いなおされ「めぐりくるそのとき」とも言いなおされている。
最後に出てくる「いま」もまた「時間」である。
「いつか」は未来、「いま」は現在。
いくつかの時間と書いたが、この詩に書かれているのはそのふたつの時間かもしれない--と言おうとして、私はつまずく。
池井の書いている「時間」は「いつか」でも「いま」でもない。
「また」が池井の「時間」なのだ。
反復すること、と言い換えられるかもしれない。
池井はただひたすら反復する。繰り返す。「過去」を「いま」に、「いま」を「未来」に。そうすると、「未来」のなかに「過去」が生まれ出る。「未来」へゆけばゆくほど「過去」があらわれる。「根源」が姿をみせる。「根源」を「必然」あるいは「正直」と言い換えてもいい。
人の世が「こんなけわしい」ものであっても、「正直」へひとりで突き進めば、その「正直」は「必然」なのだから、かならず「永遠」になる。
*
今回の詩集には傑作と駄作が入り混じっている。駄作なんかない、と池井は怒るだろうが、駄作がある。(どれであるかは、それとなく書いてきているので「名指し」はしないが……。)
そしてそれでもと言おうか、あるいはそしてそれだからこそと言おうか、この『冠雪富士』は池井の代表作である。いちばんいい。『晴夜』から池井の詩はすばらしい展開(深化)で私を魅了するが、今回の詩集がいちばんの傑作だと思う。
理由は単純である。
「未完成」の部分があるからだ。「駄作」があるからだ。
「未完成」の部分は読者が完成させるしかない。完成することによって、読者は「池井昌樹」になる。大詩人になる。そういう興奮がある。
どんな詩でも小説でもそうだが、「完璧」につくられていると「傑作」とはいえない。「完璧」なものは閉ざされている。そこで完結してしまっている。それでは読者は「ことば」に参加できない。「ことば」とセックスして、互いに変わっていくということができない。それでは、そこから「愛」が生まれようがない。
人間、生きてきたからには誰かを好きになって、自分が自分でなくなりたい。自分でなくなる「わくわく」を楽しみたい。そういう「わくわく」は、やっぱり嫌いなところ(未完成で、いやなところ)があるときの方が、なんというか、興奮する。「完璧」が相手だと、自分が削られていく。削られることでととのえられる--そういうことを求める人間には「完璧」が「重要」だろうけれど、私は間違いながら、間違えることで自分の知らなかった世界へ踏み込むことが好きなので、そう思うのかもしれない。
別なことばで言いなおしてみよう。
私はいつでも「池井の詩は大嫌いだ。あんなくだらないものはない」と言える。大声で言える。どんなに私が批判しようが、否定しようが、池井の詩は私のことばなんかには傷つかず、いつでも私のそばにいる。それがわかっているから、「大嫌いだ、死んじまえ」と言うこともできる。
それは子どもが親に対して、そう言うのと同じである。
いつだって、「大嫌い、死じまえ」と言ったことを忘れて、「大好き」と言えば、その瞬間から「大好き」が戻ってくる。「大嫌い」と言ったのは「大好き」の気持ちをより強くするために、そう言ったに過ぎない。
私は池井の詩の前では、甘えん坊の駄々っ子だ。そうなれることが、私にはとてもうれしい。
「寒雀」。池井は詩集の最後の、小さな「歌」で締めくくっている。
いつかまた
しあわせなひのくることを
いつかまた
ともにあるひのくることを
おもっていまは
まいりましょう
めぐりくるそのときまでは
こんなけわしいひとのよの
ひとのころもをぬぎすてて
いまはとびたつ
ひとりひとりで
ここにはいくつかの「時間」がある。最初に書かれている「いつか」。それは「しあわせのくるひ」「ともにあるくひ」と言いなおされ「めぐりくるそのとき」とも言いなおされている。
最後に出てくる「いま」もまた「時間」である。
「いつか」は未来、「いま」は現在。
いくつかの時間と書いたが、この詩に書かれているのはそのふたつの時間かもしれない--と言おうとして、私はつまずく。
池井の書いている「時間」は「いつか」でも「いま」でもない。
「また」が池井の「時間」なのだ。
反復すること、と言い換えられるかもしれない。
池井はただひたすら反復する。繰り返す。「過去」を「いま」に、「いま」を「未来」に。そうすると、「未来」のなかに「過去」が生まれ出る。「未来」へゆけばゆくほど「過去」があらわれる。「根源」が姿をみせる。「根源」を「必然」あるいは「正直」と言い換えてもいい。
人の世が「こんなけわしい」ものであっても、「正直」へひとりで突き進めば、その「正直」は「必然」なのだから、かならず「永遠」になる。
*
今回の詩集には傑作と駄作が入り混じっている。駄作なんかない、と池井は怒るだろうが、駄作がある。(どれであるかは、それとなく書いてきているので「名指し」はしないが……。)
そしてそれでもと言おうか、あるいはそしてそれだからこそと言おうか、この『冠雪富士』は池井の代表作である。いちばんいい。『晴夜』から池井の詩はすばらしい展開(深化)で私を魅了するが、今回の詩集がいちばんの傑作だと思う。
理由は単純である。
「未完成」の部分があるからだ。「駄作」があるからだ。
「未完成」の部分は読者が完成させるしかない。完成することによって、読者は「池井昌樹」になる。大詩人になる。そういう興奮がある。
どんな詩でも小説でもそうだが、「完璧」につくられていると「傑作」とはいえない。「完璧」なものは閉ざされている。そこで完結してしまっている。それでは読者は「ことば」に参加できない。「ことば」とセックスして、互いに変わっていくということができない。それでは、そこから「愛」が生まれようがない。
人間、生きてきたからには誰かを好きになって、自分が自分でなくなりたい。自分でなくなる「わくわく」を楽しみたい。そういう「わくわく」は、やっぱり嫌いなところ(未完成で、いやなところ)があるときの方が、なんというか、興奮する。「完璧」が相手だと、自分が削られていく。削られることでととのえられる--そういうことを求める人間には「完璧」が「重要」だろうけれど、私は間違いながら、間違えることで自分の知らなかった世界へ踏み込むことが好きなので、そう思うのかもしれない。
別なことばで言いなおしてみよう。
私はいつでも「池井の詩は大嫌いだ。あんなくだらないものはない」と言える。大声で言える。どんなに私が批判しようが、否定しようが、池井の詩は私のことばなんかには傷つかず、いつでも私のそばにいる。それがわかっているから、「大嫌いだ、死んじまえ」と言うこともできる。
それは子どもが親に対して、そう言うのと同じである。
いつだって、「大嫌い、死じまえ」と言ったことを忘れて、「大好き」と言えば、その瞬間から「大好き」が戻ってくる。「大嫌い」と言ったのは「大好き」の気持ちをより強くするために、そう言ったに過ぎない。
私は池井の詩の前では、甘えん坊の駄々っ子だ。そうなれることが、私にはとてもうれしい。
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