詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(43)

2014-08-04 10:28:51 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(43)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「寒雀」。池井は詩集の最後の、小さな「歌」で締めくくっている。

いつかまた
しあわせなひのくることを
いつかまた
ともにあるひのくることを
おもっていまは
まいりましょう
めぐりくるそのときまでは
こんなけわしいひとのよの
ひとのころもをぬぎすてて
いまはとびたつ
ひとりひとりで

 ここにはいくつかの「時間」がある。最初に書かれている「いつか」。それは「しあわせのくるひ」「ともにあるくひ」と言いなおされ「めぐりくるそのとき」とも言いなおされている。
 最後に出てくる「いま」もまた「時間」である。
 「いつか」は未来、「いま」は現在。
 いくつかの時間と書いたが、この詩に書かれているのはそのふたつの時間かもしれない--と言おうとして、私はつまずく。

 池井の書いている「時間」は「いつか」でも「いま」でもない。
 「また」が池井の「時間」なのだ。
 反復すること、と言い換えられるかもしれない。
 池井はただひたすら反復する。繰り返す。「過去」を「いま」に、「いま」を「未来」に。そうすると、「未来」のなかに「過去」が生まれ出る。「未来」へゆけばゆくほど「過去」があらわれる。「根源」が姿をみせる。「根源」を「必然」あるいは「正直」と言い換えてもいい。
 人の世が「こんなけわしい」ものであっても、「正直」へひとりで突き進めば、その「正直」は「必然」なのだから、かならず「永遠」になる。



 今回の詩集には傑作と駄作が入り混じっている。駄作なんかない、と池井は怒るだろうが、駄作がある。(どれであるかは、それとなく書いてきているので「名指し」はしないが……。)
 そしてそれでもと言おうか、あるいはそしてそれだからこそと言おうか、この『冠雪富士』は池井の代表作である。いちばんいい。『晴夜』から池井の詩はすばらしい展開(深化)で私を魅了するが、今回の詩集がいちばんの傑作だと思う。
 理由は単純である。
 「未完成」の部分があるからだ。「駄作」があるからだ。
 「未完成」の部分は読者が完成させるしかない。完成することによって、読者は「池井昌樹」になる。大詩人になる。そういう興奮がある。
 どんな詩でも小説でもそうだが、「完璧」につくられていると「傑作」とはいえない。「完璧」なものは閉ざされている。そこで完結してしまっている。それでは読者は「ことば」に参加できない。「ことば」とセックスして、互いに変わっていくということができない。それでは、そこから「愛」が生まれようがない。
 人間、生きてきたからには誰かを好きになって、自分が自分でなくなりたい。自分でなくなる「わくわく」を楽しみたい。そういう「わくわく」は、やっぱり嫌いなところ(未完成で、いやなところ)があるときの方が、なんというか、興奮する。「完璧」が相手だと、自分が削られていく。削られることでととのえられる--そういうことを求める人間には「完璧」が「重要」だろうけれど、私は間違いながら、間違えることで自分の知らなかった世界へ踏み込むことが好きなので、そう思うのかもしれない。

 別なことばで言いなおしてみよう。
 私はいつでも「池井の詩は大嫌いだ。あんなくだらないものはない」と言える。大声で言える。どんなに私が批判しようが、否定しようが、池井の詩は私のことばなんかには傷つかず、いつでも私のそばにいる。それがわかっているから、「大嫌いだ、死んじまえ」と言うこともできる。
 それは子どもが親に対して、そう言うのと同じである。
 いつだって、「大嫌い、死じまえ」と言ったことを忘れて、「大好き」と言えば、その瞬間から「大好き」が戻ってくる。「大嫌い」と言ったのは「大好き」の気持ちをより強くするために、そう言ったに過ぎない。
 私は池井の詩の前では、甘えん坊の駄々っ子だ。そうなれることが、私にはとてもうれしい。





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池井昌樹『冠雪富士』(42)

2014-08-03 11:30:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(42)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「封緘」は池井の「恥ずかしい思い出」。恥ずかしいけれど「どうしても書いておかなければならない。」そう書き出されている。「人生のとば口」に立たされていたときのことを書いている。どうすることもできなくなって、山本太郎の家を訪ねる。(山本太郎は池井を見出した天才である。)

私は呼び鈴を押したのだった。悲しげな、笑っているような、巨き
く見開かれたあの眼と、糺すでも、赦すでもない、どうした、とい
うあの一言に触れた途端、直ちに辞去すべき己に気付いたのだった
が、太郎さんはお仕事中の手で冷えた麦茶をポットから何度もグラ
スへ注いで下さり、私が話し終えた後も目を閉じて黙っておられる。

 その後、山本と池井のやりとり(八戸の村次郎を紹介するから、そこで働いてみろ、と言われて紹介状を書いてもらったというようなこと)が書かれているのだが、そこにもう一度いまの引用に似た部分がある。

                             封
書はこのまま村さんに渡すこと。きみが開いて読んではならぬ。い
いか。これまでにない厳しい表情で一息に言い終えてから、漸く破
顔されたのだった。何もかもお見通しのような、悲しげな、笑って
いるような、巨きく見開かれた何時もの眼だった。

 池井は結局、八戸には行かず、村次郎に会うこともなく、いまにいたっている。その間に山本太郎は亡くなり、村次郎も亡くなっている。

                       往きばを失った
紹介状は今も封緘されたまま私の手元に遺されてある。悲しげな、
笑っているような、巨きく見開かれた何時もの眼が、糺すでも、赦
すでもなく、今も黙って私を見ている。

 こんなふうに、山本太郎の眼は詩のなかで繰り返し描写される。「悲しげな」と「笑っているような」は流通言語では矛盾する。しかし、私たちはその矛盾する感情が同時に存在することを知っているので、その矛盾をそのまま受け入れて読む。矛盾があるから「意味」にとらわれずに、そこに書かれている「こと」のなか誘い込まれる。
 「糺す」でもなく「赦す」でもない。これも同じ。「糺す」と「赦す」は対立する。矛盾する。しかし、やはり、私たちは、それが矛盾であるからこそ「意味」を超えて、そこに「あること」が存在すると感じ、その「こと」に呑みこまれていく。誘い込まれていく。
 ことばにならない「真実」がそのとき、そこで「起こっている」。「真実」はあるのではなく、「生まれてくる」。「真実」というのは事件なのだ。事件が「起きる」という「こと」が「真実」なのだ。
 それを見つめる眼。巨きな眼--と池井は何度も書く。山本太郎は、池井にとっては「眼」だったのだろう。そして、その眼は「矛盾」している。「糺す」ということをしない。「赦す」ということもしない。「悲しむ」もしない。「笑う」もしない。むしろ、そういう「基準」をすべて捨てて、「事件」が起きるのを待っている。
 実際、このとき(池井が山本太郎に会ったとき)、事件は起きている。
 二番目の引用のあとに、次のことばがつづいている。

                       太郎さんはあの
夜、私を慰めも励ましもしなかった。太郎さんの前で、私はだから
愚痴ひとつこぼせなかった。愚痴をこぼそうとしていた自分が限り
なく恥ずかしかった。それは生まれて初めての、何処へも逃げ場の
ない恥ずかしさだった。その恥ずかしさを、何処へも逃げず、誰の
手も借りず、己独りで償うこと。太郎さんはあの夜、翔び立ち兼ね
て立ち竦んでいる雛の背を、静かに、しかし敢然と押して下さった
のだと思う。

 「事件」と私が呼ぶのは「恥ずかしさの自覚」である。「恥ずかしさ」は「正直」でもある。池井は、このとき「正直」を発見している。「正直」というのは、自分のなかにしかない。自分の「必然」のことだ。
 誰の手も借りない--ではなく、誰の手も借りることができない。他人の手は「必然」ではない。
 池井は「正直」の「必然」へと進むしかなくなった。
 池井はこのとき山本太郎を頼ってやってきたのだが、その頼ってやってきた池井を山本太郎は手放す。村次郎を紹介するという形で池井に応えているようだが、それは一種の「便宜」であって(あるいは方便であって)、山本太郎は、このとき池井を手放した。池井を「正直」へと押しやった。
 うーむ、と私は唸る。
 山本太郎は、池井の「正直」がいま生まれることを、瞬間的に見抜いていた。「必然」が動きだすのを見抜いていた。それは池井の「自立」ということだが、そうなることは山本にはうれしく、頼もしいことに思えるけれど、一方で寂しいと感じもしただろう。
 ひとはいつでも「独り」なのだ。
 山本太郎も、池井と同じように、その瞬間「独り」なった。そして、その「独り」のまま、池井を「独り」のなかへ押しやった。ただし、そうやって押しやって、手放しはするのだけれど、眼はしっかり池井を見つめている。

 池井を見つめる眼、池井を「必然」へ、「正直」へ追い込む(誘い込む)眼は、池井の詩のなかに何度も出てくるが、その中心にある「具体的な眼」が山本太郎の眼である。池井は、その目の前で、いつでも「恥ずかしい」。つまり、「正直」になる。裸になる。すべてをさらけだす。
 「師弟関係」ということばが正しいかどうかわからないが、これは強烈な「師弟関係」である。人を「正直」へ押しやる師は、最大の師である、と私は思う。
 池井は、その師が「今も黙って私(池井)を見ている」と実感している。







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池井昌樹『冠雪富士』(41)

2014-08-02 09:00:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(41)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢」は池井の「いま」を書いている。そしてその「いま」というのは、たとえば2014年08月02日であって、同時にこれまでのすべての「時間」である。これから先のすべての「時間」でもある。

ほら あなた
ユメミテイルメ
おや そうか
なにをユメみていたのかな
あとへあとへとゆきすぎる
きのうおとといさきおととい
バスのまどにはきょうのそら
ゆううつなそのくもまから
けさもきれいなひがさして
ああそらのおくそらのおく
あなた また
ユメミテイルメ
いくらそんなにいわれても
あとからあとからきもりない
あしたあさってしあさって
ゆううつなそのくもまにも
さしこんでくる
ひとすじのユメ

 「きのうおとといさきおととい」と「あしたあさってしあさって」が「ゆううつな」「くもま」ということばのなかで一体になってしまう。区別がない。そこには「きれいなひ」が射してくる。「きれいなひ」は「ひとすじのユメ」と言いなおされている。
 池井はそれをみている。
 「あなた」と呼びかけたひとには、その「きれいなひ(ひとすじのユメ)」は見えない。呼びかけたひと(妻?)に見えるのは、池井の「ユメミテイルメ」である。池井の「目」が見える。それは「現実」を見ないで「夢」を見ている。そう思うのは、繰り返しになるが、妻には池井の見ている「光景」が見えないからである。

 妻は池井が見ている「光景」(あるいは「現実/真実」)が見えない。見えないけれど、それが大切なものであることはわかっている。ただ、わかっているといっても、それでは何ができるか--ということになると、なかなかむずかしい。どうすればいいのか、よくわからない(のだと思う。わかっているかもしれないけれど。)
 わからなくても、ひとにはできることがある。
 いっしょにいることだ。「あなた」と呼びかけることだ。この呼びかけによって、池井は妻の世界とつながり、同時に、池井の「無時間」の世界とつながっていることも自覚する。
 これは、妻にあてられた感謝のラブレターかもしれない。

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谷内 修三
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池井昌樹『冠雪富士』(40)

2014-08-01 11:22:20 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(40)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「いま/ここ」と「いつか/どこか」が融合する詩を池井はたくさん書いている。(と、思う。)その「いつか/どこか」が、この詩集の場合、「幼年期(少年期)/ふるさと」であることが多い。池井は、この詩集では「過去」をわりと具体的に書いている。「晩鐘」もそのひとつ。

おやすみのひのごごごじは
なにがあってもといれにはいる
ごごごじのかねきくためだ
どこでなるのかしらないが
たばこつかのまくゆらせながら
ゆうやけこやけきいているのだ
そういえば
もといたへやのまどべでも
ゆうやけこやけきいたものだな
どこでならすかしれないが
もといたへやのあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかねきいているのだ

 ここまでは「いま/ここ」と「かつて/もといたへや」なのだが、これが「ふるさとのいえ」へとやがてつながっていく。そのことは、あとでまた触れることにして、きょうの「日記」では、もう一度「繰り返し」について書いておく。
 池井の詩は同じことばを繰り返す。多くの現代詩がことばの重複を避け、次々にイメージを変化させていくのに対し、池井の詩は、まったく反対だ。同じことばを繰り返し、その同じことばを少しずつ違うものにしていく。
 「ごごごじのかね」は午後五時になる時報(会社の終業を知らせるものだろうか)なのだが、繰り返しているうちに「午後五時」は「意味」をなくしてしまう。「なくしてしまう」と書いてしまうと、池井からは抗議がくるかもしれないが、私はその「ごごごじ」の繰り返しを読んでいると、「時間」よりも、ある「時」を思い出すことの方に意識が動いていく。ある「時」の、「時」さえも忘れて、「思い出す」という「こと」、「思い出す」という動詞の方に意識が動いていく。
 思い出すとはどういうことなのか。思い出すのはなぜなのか。そのことを池井は「繰り返す」という動詞のなかで考えている。時報(鐘の音)は、あるいとはキンコーンであり、あるときは「ゆうやけこやけ」のメロディーである。それを聞くと、池井は「思い出す」のである。何かを「思った」ということ。

そういえば
もっとむかしのむかしのころも
ごごごじのかねきいたものだな
ゆうやけこやけじゃなかったが
あのかねのおときくたびに
なにやらそぞろみにしみて
かえらなければならないと
もうはやく
かえらなければならないと
ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに

 何を思ったか。「かえらなければならないと」と思った。帰る、ということを思った。繰り返し繰り返し、池井は「帰る」ということを思う。
 それは父母のいる家、という形をまずとってみせる。そこには姉もいれば、祖父母もいる。犬のコロもいる--という具合に、具体的な「ふるさと」の形をとるのだが。
 そういう具合にして、池井は一種の「自伝」のようなものを描いてみせるのだが。
 それは一瞬のことで、実は「帰る」場所が違う。

ぼくにはかえるうちがあり
ちちははがおりあねがおり
そふぼもコロもまっているのに
そんなうちよりとおいうち
ぼくはうまれてまもないくせに
むかしむかしにくらしたうちが
いまでもぼくをよぶようで
なにやらそぞろみにしみて
そういえば
いまはもうないあのころを
いまいるここでおもいだしては
ごごごじのかね
いつもひとりで

 「帰る」のは「生家」ではない。「実家」ではない。その「家」のもっととおくにある「家」という普遍的な「こと」に帰ろうとする。
 池井は「うまれてまもない」と書いているが、それは「生まれる前」のように、私には感じられる。池井はいつでも「生まれる前」へ、つまり「いのち」そのものへ帰ろうとしている。「いのち」は生まれた瞬間から死へ向かって突き進んでいるが、死へ向かうという方向をけっして変えることはできないが、池井は、それをことばで、つまり詩のなかで変えようとしている。「いのち以前」(未生のいのち)へ帰ることを、思い出している。何かを「思い出す」ということを繰り返すと、その繰り返しの瞬間「過去」が「いま」へ甦ってくるのだけれど、池井はそれを「いま」に引き寄せるのではなく、さらに「未来」へと突き動かそうとする。「未来」には「死」が待っているのだけれど、その「死」をつきやぶって「未生のいのち」を産もうとしているように思える。
 池井は「未生のいのち」という「未来」へ帰ろうとしている、と言い換えることもできる。
 「未生のいのち(生まれる前のいのち)」を産むために、池井はひたすら「思い出す」。「思い出す」ということを繰り返す。
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池井昌樹『冠雪富士』(39)

2014-07-31 10:23:10 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(39)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夕星」は「ゆうずつ」と読ませるのだろう。こんなことばを私はつかわない。つかわないけれど、出会った瞬間、あ、そういえば、そういうことばがあったなあ、と肉体の奥が揺さぶられる。肉体の奥から「ゆうずつ」という音(声)ともに薄暗いものがまわりから空へ立ち上って行く。そして、そのまだ暗くならない空に静かに光る星になってあらわれる、そういうことが起きる。ことばが情景をひきつれてくる。
 池井は、どうなのか。こんなふうに書いている。

たのもいちめんゆうやみがこめ
のびたきをするにおいがながれ
ぼくはとほうにくれてしまって
ぽつねんとたたずんでいた
おさないころのことだった
あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて
だれのこころかしらないが
ゆうずつうかぶそらのした
ぽつねんとまだ
とほうにくれて

 「ゆうやみ」がまわりに広がる。そのとき池井が最初に感じるのが「におい」であるのは、何度か書いてきたが池井の「根源的な肉体」の反応である。「におい」を呼吸する(体内に取り入れ)、そのまま放心する(途方に暮れる/ぽつねんとたたずむ)のだが、そのあとの、

あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 この4行が、書けそうで書けないなあ。
 「あのひとときがむかしになって」の「なって」、「なる」という動詞。それが「あとかたもなくなる」と変化していく。
 この変化は、とても微妙だ。
 「意味」としては、「あのひととき」と「むかし」は同じものだから、「むかしになる」の「なる」はいらない。「あのひとときは、もうあとかたもなくなって」と書いても「意味」はかわらない。
 でも、そうは、言えない。
 「学校作文」や「ジャーナリズムの節約表現」では省略(削除)してしまう、その「なる」という「動詞」を経ることによって、何か微妙なものが、そこに残る。「あのひととき」を思い出すとき、それは「いま」と変わりがない。「いま」のすぐ隣にあらわれてくる。それがすぐ隣よりもちょっと遠いところにある。それが「むかし」に「なる」かもしれない。その微妙な違い、ずれのようなものを意識するから、

けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 という感じも生まれてくる。
 「のこっている」のは「なる」があるからだ。「あのひととき」と「むかし」はほんとうは「ひとつ」ではない。「ひとつ」ではないけれど「おなじ」なにかが、そこには「のこっている」。「なる」を超えて、何かが「つながっている」。
 「あのひととき」「むかし」の風景は「現実」からは「あとかたもなくなって」しまったが、池井はその風景を「こころ」のなかに呼び出すことができる--というよりも、「こころ」のなかに残っている風景が甦ってくる。
 その「こころ」を池井は、

だれのこころかしらないが

 と書き直している。自分の「こころ」。でも、それは「池井だけのこころ」ではないのだ。
 池井はいつでも「自分だけ」のことを書く。しかし、書いているとそれは「池井だけ」のことではなくなる。「だれ」のことなのか、わからなくなる。いや、池井はわかっている、自分のことだというかもしれないが、読んでいると、「池井」がくっきりとみえてくればくるほど、それは「池井」ではなくなる。知っている「池井」ではなく、新しい「池井」に生まれ変わっていることに気がつく。毎回、「新しく生まれ変わった池井」に出会うことになる。「だれ」かわからないけれど、池井とつながっている「生まれ変わった池井」に出会うことになる。



冠雪富士
池井 昌樹
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池井昌樹『冠雪富士』(38)

2014-07-30 10:21:44 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(38)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「雲の祭日」はある日突然連絡のとれなくなった息子のことが心配になり、妻と二人でアパートまで息子の安否を確認に行くことを描いている。やっと探し当てたアパートで、息子は「携帯電話を変えた」と言う。急にたずねてきた両親にびっくりする息子に対して「鰻でも喰えばいい」と1万円渡して帰ってくる。連絡がとれずに心配してたずねてきたとは言えないのだ。まあ、「親馬鹿」ぶりをただことが起きた順番に、小学生の日記のように書いているのだが、その最後の部分。

                一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。

 息子はもしかしたら死んでしまったのではないか、という不安が消えて、ほっとする。それから「一万円は痛かったな」と、ふと、さっきの自分の行動を思い出し、ことばがでる。ほんとうは、もっと別のことが言いたいのだが、すぐにはそういうことばは出て来ない。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、大災害であれ、こどもとの連絡がとれないということであれ、どんなことでも人は初めて経験する。そして、その初めてのときは「ことば」は遅れてあらわれる。「あったこと」はすぐにはことばにはならない。何といっていいかわからないので、とりあえず、何かを言う。それは、いつかどこかで言ったような、ありきたりのことばである。そして、それは必ずしもその場にぴったりのことばではない。でも、それを言うしかない。何か言わないと、何かことばにしないと、次のことばが動いてくれない。
 その、「一万円は痛かったな」ということばに対して、妻が「いいよ、それくらい。」と応える。何でもないようだが、ここから季村の言う「出来事」があらわれる。「遅れて」あらわれる。池井と妻のこころがいっしょになって動く。家族という「こと」が静かに動く。その静かさが「こと」の確かさを証明する。「静か」が「たしかなこと」になる。
 息子の安否が確認できた。元気でいた。勤務先からの急な電話に応える息子の姿も見た。その家族の安心に比べると、一万円というのは何でもないことなのだ。
 そして、そのあとの、

子がいてくれるのは、いいな。
うん。

 この、「飛躍」がいい。息子のことが心配だった。一万円、ふいの出費があった。でも、息子が生きていること、元気で働いていることがわかった。それを「息子が元気でいてよかった」ではなく「子がいてくれるのは、いいな」と言う。子どものことを言っているのではない。自分のことを言っている。自分ではないだれかのことを、自分のことのように心配し、それから安心する。そういう「どきどき」を体験しながら生きるのは、つらいけれど、うれしい。そういう感じだ。
 最初に、この詩は小学生の日記のようだと書いたが、小学生の日記のように書きつないでいって、言うことがなくなった瞬間(書くべき出来事、報告すべき出来事がなくなった瞬間)、池井自身の「肉体」のなかにある「出来事」があらわれる。妻と愛し合って、子どもが生まれた、という「出来事」がふいにあらわれる。それは、ずっとつづいてきた「出来事」だけれど、初めてのようにしてあらわれる。つまり、「遅れて」あらわれる。「出来事」がことばになるまでの間に「遅れ(時差)」のようなものがある。その「遅れ」のなかへ、池井と妻は、帰っていく。
 突然、「幸福」がよみがえってくる。「いのち」がつながっている「幸福」が、「遅れて」やってくる。「実感」があとからやってくる。「出来事」というのは「実感」のことなんだなあ。「出来事」を「実感」と言い換えると、たぶん、ことばのしなければならない仕事、詩の仕事も見えてくる。無意識に感じているけれど、うまくことばにできないことを、口に出して言えるようにする。そのことばの形をととのえる--それが詩なんだなあ。
 だらだらと「親馬鹿」を書いてきて、最後も「親馬鹿」ではあるのだけれど、その「親馬鹿」のことばをととのえている。それがそのまま「暮らし」をととのえる力になっていく。ことばのしなければならない「必然」が、詩の形で動いている。

背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。
ヒトのこと、言えるか。私が応えた。

 漫才のようなやりとりを、夕映えの雲が姿を変えながら祝福している。
 ことばが「正直」に帰っていくとき、「必然」の詩が生まれる。ことばは、「正直」という「家(詩)」をめざして、どこまでも歩いていく。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
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池井昌樹『冠雪富士』(37)

2014-07-29 10:19:45 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(37)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「草葉」という詩まで読み進んできて、こんなところで、こんなことをいうのも変なことなのだが、池井の今回の詩集には「固有名詞」がないものがある。そういう作品が多い。たとえばこの「草葉」。

こんなところでみおろせば
いろんなはながさきみだれ
いろんなくさがおいしげり

 くさばのかげではたくさんの
 いろんなちいさなものたちが
 あちこちいったりきたりして

 どこのことを書いているのだろう。詩の途中まで読み進むと「ばすまつまでのつかのまを」という行が出てくるので、まあ、池井の家の近くなんだろうとは思うが、それにしても「実体」が見えにくい。そこに書いてある「もの」が具体的に見えてこない。「いろんなはな」「いろんなくさ」「いろんなちいさなものたち」と書かれても、花も草も虫も、私には見えてこない。何を思い浮かべていいのかわからない。「くさばのかげ」ということばからは私は「墓」を思い浮かべてしまうが、そうすると「いろんなちいさなものたち」というのは死者かな……でも死者だとどうもこの作品には合わないなあ。
 で、具体的なことは何もわからないのだけれど、「いろんな」ということばが気にかかる。「固有名詞」がないから「いろんな」になってしまうのだが、なぜ「いろんな」と書いてしまうのか。「いろんな」をつないでいるものは何だろう。

なもないあんなものたちも
ああしてゆききするところ
かえるところがあるんだな

 「いろんな」は「なもない」言い換えられている。「いろんな」は同時に「あんな」とも言い換えられている。「いろんな」だけでは池井と「いろんなもの」との関係がわかりにくかったが「あんな」と言い換えられてみると、その「いろんな」のなかには池井は含まれていない。池井から離れた存在であることがわかる。そうして、その「いろんな(あんな)」は「かえるところがある」ということで共通している。そうしたものたちを「かえるところがある」というとき、池井は「かえることろがない」と感じていることになる。
 池井はどこへ「かえりたい」のか。

 さくらのころもすぎこして
 いまはあおばがかがやいて
 いつかこずえがかぜにゆれ

それをだまってみあげている
ばすまつまでのつかのまを
みんなだまってかたよせて

 ふいに「みんな」が出てくるが、この「みんな」には「いろんなはな」などは含まれていない。「みんな」は「人間」である。そして、それは「いろんな人間」であるはずなのに、ここには「いろんな」は書かれていない。「いろんな」とは感じていないということになる。
 「みんな」ということばが「人間」をつないでいる。そこにいる人間をつなぐ何かを感じて池井は「みんな」と書いている。

 ひがしずみまたひはのぼり
 ひはのぼりまたひがしずみ
 くさばのかげにひがともり

おちこちあかりのうるむころ
あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 最後に「みんな」ではない「だれか」が突然あらわれてくる。「固有名詞」は割り振られていないが、この「だれか」は「固有名詞」である。つまり、置き換えがきかない。でも、それはだれ?
 「みおろしているいまもなお」の「みおろしている」という動詞を手がかりにすれば、それは一行目で「こんなところでみおろせば」というときの「主語」とおなじになるだろう。あのときあんなところで「みおろす」ことをしていたひとが、「いまもまだ」「あんなところで」「みおろしている」。つまり、池井が、あんなところで、いまもまだ、いろんな花や草を見おろし、虫たちを見おろしている。
 池井の意識(こころ/あたま?)のなかで、世界がぐるりとめぐって重なっている。
 そうであるなら、最初に「こんなところでみおろせば」と書いたとき、池井は、もうそのことを予感していたのかもしれない。草花を見おろしている「池井」をだれかが見おろしている。あるいは、草花を見おろす池井のなかにだれかがいて、いっしょに草花を見おろしている。
 「こんなことろで」と書いてあるのは、それは「ほんらい」の場所ではないからだろう。「場所」はほんらいのものではないが、「見おろす」(見おろしている視線を感じる)という「こと」は「ほんとう」なのかもしれない。
 何かを見おろす、見おろして何かを感じるという「こと」のなかに「ほんとう」がある。だれかの視線を反復すること(こんなところで、反復すること)のなかに「ほんとう」がある。「こんなところ」と呼ぶのはそれが「ほんとう」ではないからなのだが、「みおろし」「いろんなはな」「いろんなくさ」を見ることは「ほんとう」なのだ。
 繰り返すことができることだけが「ほんとう」であり、繰り返されるものは、繰り返されるたびに、繰り返しのなかで「ほんとう」になっていく。--というのは、抽象的すぎる言い方だが。
 「池井」が花を見るということを繰り返す。その「見る」ということは「ほんとう」。「動詞」が「ほんとう」。見られている「対象(もの/花・草・虫)」はそれぞれの固有名詞を必要としなくなり「花・草・虫」という「一般名詞」に帰っていく。かえってゆくところというのは「一般名詞」。この「一般」を別なことばで言うと「普遍」、あるいは「永遠」になる。花や草や虫には、そういう「一般」(普遍/永遠)がある。
 池井、あるいは「みんな」と呼ばれている人間には、その「普遍/永遠」とは何だろう。「家」ではない。「家族」ではない。(家、家族であるときもあるが……。)
 人間にとっては「見おろせば」の「見る」という「動詞」である。「動詞」なのかで、ひとは「普遍/永遠」になる。だからこそ、

あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 なのだ。「いまもまだ」と池井は書いているが、そこには「時間」がない。「いま」も「かこ」もない。時間がないから便宜上「いまもまだ」と「持続」として書くのである。「普遍/永遠」は人間にとっては「持続」のことである。「持続」できること(反復し、持続すること)が「普遍/永遠」である。そして「持続」は「ここ」でも「あんなところ」でもできる。「場」を選ばない。「持続(反復)」があらゆることを「いま/ここ」を「普遍/永遠」にかえるのだ。
 何をするでもなく、何をしていいのかわからず、ただ草花をみつめ、虫を見ている。そのことのなかにも「永遠」がある。
 繰り返し繰り返し考え、感じたために、その「繰り返し」だけが浮かんでくるようになった。「繰り返し」は、そのものが「肉体」として感じられるようになる(対象が無意識になる)ので「固有名詞」ではなくなるのだ。
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池井昌樹『冠雪富士』(36)

2014-07-28 11:03:05 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(36)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「野辺微風」は「人類」の続編と呼べるかもしれない。東日本大震災について何か書こうとして、その何かがうまく書けなかった。書き残したことがある。それを書き直したという印象がある。

こんなことでも なかったら
こうして であえなかったろうに

 こんなことでも なかったら
 だれとも であえなかったろうに

こんなことでも なかったら
こんなことでも なかったら

 「こんなこと」としかいいようのないことがある。起きたことが未体験のことなので、それをことばにする方法がわからない。「こんなこと」としかいいようがない。「こんなこと」で通じてしまうのは、誰もがいっしょに経験したことだからである。具体的なことを言わなくてもわかる、いや具体的なことは「こんなこと」としかいいようがない。まだ、ことばはあらわれてきていないのだ。季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(みすず書房)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、「こんなこと」がことばになるにはやはり時間がかかる。「こんなこと」がことばのなかにやってくるのは、もっと遅れてからである。でも、そういうものを待っていて書くのではなく、いま書きたい、いま書かねばならないという気持ちが、ことばを動かして、こうして詩になっている。(「人類」もやむにやまれずに、突き動かされて「ことば」を動かした詩といえるだろう。)

 けれども あいたくなんかなかった
 だれとも あいたくなんかなかった

こんなことさえ なかったら
こんなところで ひとりきり

 「便りのないのは無事な頼り」という言い方があるが、だれとも会わずに暮らせる「平穏」というものもある。誰に会わなくてもつづけられる「日常」というものがある。誰かに会わなければいけないのは非日常なのである。
 東日本大震災のあと、被災者は、誰かに会わなければならなかった。会うことが生きていることを伝える唯一のたしかな方法だからである。そんなふうに切羽つまられること--そんなことなど、だれもしたくなかっただろう。
 しかも、「ひとりきり」で誰かに会う。「ひとりきり」なのは、ほんとうに会いたいひと、いっしょにいたいひとがそこにいないからである。「こんなこと」が人を引き裂いている。
 そんな思いで、人は出会っている。そのとき、安心と、悲しみが同時にある。

 こんなことさえ なかったら
 みんなおんなじ ひとりきり

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 こうして さいて いられたろうに
 いちめん ゆれて いられたろうに

 普通は、なんにもないときは、ひとはみな「ひとりきり」である。誰かと会っている、いっしょにいるということを意識する必要はない。けれど、今は、意識するために生きている。いっしょにいるということを確かめるために生きている。だれといっしょにいるのか、だれがいっしょにいないのか、それを確認するために生きている。まずしなければならないのは、そういうことだと神経が張り詰めている。

 それから時間が経って、いま、目の前では野の花が咲いている。風にゆれている。もし、大震災がなかったら。--そう、池井は、この詩を書いたとき思っていたのだと思うが……。そうだとして、

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 繰り返されるのは「あんなこと」ではない。「こんなこと」。大震災も福島第一の事故も「あんな」という離れた「こと」ではなく「こんな」という自分に接続したものなのである。
 「こんな」はつづいている。
 池井はいま「こんなこと」と書くことで、大震災と福島第一の事故を引き受けているのである。

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池井昌樹『冠雪富士』(35)

2014-07-27 09:06:09 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(35)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「人類」は東日本大震災、福島第一原発の事故を踏まえて書かれている。

ゲンパツの跡地から
恐竜の骨が出土した

恐竜が絶滅したのは
おおよそ六千五百万年前

いわゆる白亜紀末のこと
ジンルイの影もなかった

いったい何があったのか
おおよそ六千五百万年

いわゆる西暦二千数十年
跡地は更地へあらたまり

やがて野花が咲きみだれ
人影はどこにもなかった

 「意味」が強い詩である。原発の跡地は更地になり、野の花は咲いているが人間はいない--それが福島第一原発の将来の姿である。六千五百万年前に恐竜が絶滅したように、人間もまた絶滅するかもしれない。それでも「野花」は咲き乱れる。それが池井の想像している世界である。
 おもしろくもおかくしもない詩である。原発事故に対して、おもしろ、おかしくは求めてはいけないことなのかもしれないが、なぜ池井がこの詩を書いたのか、私にはよくわからない。
 人間(ジンルイ)は信じられないが、野生の花の力は信じる、ということなのだろうか。

 池井は、この詩ではいったい誰と、あるいは何と「一体」になっているのだろうか。
 詩集には、こういう詩もある。
 この変な感じが「いま」を伝えている。

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池井昌樹『冠雪富士』(34)

2014-07-26 10:27:13 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(34)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「歌」というのは「論理」とは違って、かなりいいかげんなものを含んでいる。--と書くといろんなひとから叱られそうな気がしないでもないが(この詩集を書いた池井からも叱られそうだが)、どこかに「論理」をつきやぶって動くものがあることばが「歌」なのだ。そして、その「論理」をつきやぶって動くことばというのは、詩なのだ。
 「日和」は家を出てバスに乗るまでのことを書いているのだが、

きせつはずれのうろこぐも
こころがそらにすわれそう
でも
にんげんばかりがいとわしく
にんげんわたしがうとましく
にんげんとすれちがうたび
しかつめらしくめをそらし
なにおもうのかうつむいて
でも
くさばなはかぜはよろこび
こころもかぜにそよぎそう
こんないいおひよりのあさ

 日和のいい朝なのに池井の気持ちは「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」と、朝の気持ちよさとは「矛盾」して動いている。いや、逆か。「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」感じる朝なのに、草花、風が喜んでいるのに気づいてしまう。朝がめぐってくること、草花がいきていることと池井は無関係だからといえばそれまでなのだが、そして私はきのう、その「無関係」を「非情/永遠」ということばと結びつけて屁理屈を書いたのだが。
 「非情/永遠」と書いたくらいでは、おさまりのつかない「矛盾」がそこにある。
 どうして、私たちは、「にんげんがいとわしく」「わたしがうとましく」感じられるときにも、「くさばな」や「かぜ」にこころが動いてしまうのだろう。もちろん、暗い気持ちにあわせて草花も風もうるさく感じるときがあるのだけれど、そうでないときもある。これはなぜなんだろう。
 何かが「矛盾」している。そして、その「矛盾」に人間はすくわれている。

 池井の詩は、こんなふうにつづいていく。

うちをでて
ばすにのる
ほんのつかのま
のしりのしりとあしあとが
おおきなふるいあしあとが
うちよりずっとおとくから
ばすもかよわぬずっとさき
へと
にんげんわたし
おきざりにして

 私は草花や風(自然)を「非情」と考え、「非情」ゆえに「永遠」であると考えるのだが、池井は違う。
 草花や風は「あしあと」とともに遠くからやってきて、遠くへとつづいていく。それは「にんげんわたし(池井)」を「おきざりにして」つづいていく。それは「非情」に見えるかもしれないが、それ自体「情(こころ)」をもっていて、人間を超越した「こころ」をもっていて、そのこころゆえにつづいていく。歩いていく。自立した存在なのだ。
 その「つづいていく」ものについて池井は「のしりのしり」という大きな感じのことばをつかってあらわしている。「おおきな」と言いなおしたあと「ふるい」ともつけくわえている。
 それは池井の「いのち」以前からはじまり(古い、というのは池井よりも古いという意味である)、池井よりも大きく重いのだ。その「いのち」、その「ちから」が草花と風を存在させている。
 池井は、そういうものを感じている。
 そして、そう感じているとき、池井は、その「いのち」「ちから」よりも、「つづいている」ことの方に力点を置いているかもしれない。それが「ある」というよりも、それが「つづいている」(歩いている)にことばの重点を置いているかもしれない。「あしあと」ということばが、そういうことを象徴している。




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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-25 09:52:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「赦されて」。これも同じように「歌」なのだが、

ぼくはなんにもできなかったし
なんにもしてやれなかったし
そのうえなんにもおぼえてないし
どんなばちでもあたっていいのに
どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき
みんなすっかりわすれはて
きれいさっぱりわすれはて
ここはいったいどこいらの
いったいいまはいつころか

 こういうことは、だれにでも思い当たることがあると思うけれど(思うことがあると思うけれど)、よく考えると不思議なことではないだろうか。
 「なんにもおぼえていない」のに「ぼくにはなんにもできなかった」「なんにもしてやれなかった」ということは覚えてる。どうして「できなかった」「してやれなかった」は覚えているのだろう。
 こんなことを書くと「揚げ足取り」をしているみたいだが、そうではなくて、これは意外と重要なことなのではないか、と思う。
 これを「論理的(?)」に問いつめていくと、きっと「間違い」にたどりついてしまう。「論理的」に考えずに、ただ、そうだね、そういうことがあるね、と受けてとめればいいのだけれど--そう知っているけれど、私は少し「理屈」をこねてみたい。

 「できなかった」「してやれなかった」を覚えているのは、ほんとうは「したかった」ことを覚えているということではないだろうか。
 でも、その「したかったこと」とは何だろう。

どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき

 これが「したかった」こと。
 はなのにおい、やさしいにおいといっしょにあること、それをしたかった、してやりたかった。
 これでは、やっぱり何のことがわからないのだが……。

 わからないことは、わからないまま、ぼんやりとほうっておく。そうした上で、思いついたことを書くと、ここに書かれている「におい」。そのことばに、私は、池井の「本質」のようなものを感じる。(ここから、「屁理屈」を言ってみたいのだ、きょうの私は。)
 池井は基本的に「嗅覚」の人間である。嗅覚の詩人だ。
 そこにある「空気」を吸い込み、吐き出し、つまり呼吸して、そこにある空気と一体になる。そのときに「幸福」を感じる。
 色や音や手触りで幸福を感じるのではなく、そこにあるものを「呼吸」し、その「匂い」にすっぽりと包まれる(同時に、その匂いを池井の肉体でつつむ)ときに、「幸福」を感じる。そういう「幸福」のなかにいたかった。そして、誰かに対しては、そういう「幸福」をいっしょに分かち合いたかった。それがしたかったことなのだ。「空気」を吸い込むとき、呼吸するとき、その「空気」というものは、そこにいるすべてのひとに区別なく分け与えられている。この見境のなさ、それが「幸福」である。
 「見境がない」というのは、別のことばで言えば、「空気」は勝手に存在しているということでもある。

 ここから、私はちょっと飛躍する。(かなり飛躍する。そして、強引に、飛躍を「地続き」にしてしまう。屁理屈で……。次のように。)

 「なんにもおぼえていない」のに、いま、ここで感じているものが、「はなのにおい」「やさしいにおい」であることがわかる。「におい」(嗅覚)は人間のもっとも原始的な感覚であり、最後まで記憶に残っているそうだが、池井はその「におい」を忘れることができずにいる。そして「におい」が甦るとき、「におい」のなかから「はなの」と「やさしい」があらわれてくる。形をとる。
 それは、池井の存在とは別に、勝手に存在している。
 池井がどう感じていようが、その感じていることとは無関係に「におい」のなかに、「はな」は存在し「やさしい」は存在している。この「はな」や「やさしい」の勝手さを、「非情」ということもできるし「永遠」と呼ぶこともできる。
 「非情」と私が呼んでしまうのは、「はな」も「やさしい」も池井の「情」とは無関係だからである。「永遠」と呼んでしまうのは、それが池井の存在している「時間」とは無関係の別の時間に属しているからである。
 池井は何にもおぼえていないと書きながら、その非情/永遠の存在だけはしっかりおぼえている。忘れることができない。
 それを「におい」を嗅ぐように、呼吸したい。

 そう思ったとき、また、別のことにも気がつく。
 池井はいつだって「どこかではなのにおいがし/やさしい匂いがなかれてき」ということを体験している。池井はその「幸福」から離れて生きることができない人間なのである。だからこそ、誰かに対して「なんにもできなかったし」、誰かに対して「なにんもしてやれなかった」という思いが募る。
 それは、また池井が誰かから「何かをしてもらった」ということは、忘れることなくおぼえているということでもある。

なんだかなつかしいひざに
しどけなくただあまたれて
びろうどばりのあるばむの
せぴあいろしたいちまいに
もうあとかたもないものたちと
うまれてまもないこのぼくと
ぼくだけいまにもなきそうに
あらぬかたみて

 これは池井の子どものときの記憶である。「おぼえていること」である。
 池井は家族に愛されていた。家族の愛につつまれていた。それは「はなのにおい」につつまれること、「やさしいにおい」につつまれることと同じである。
 しかし、そういうときも、池井は、そこにある「におい」だけでは満足せずに、「あらぬかた」を「みて」いる。
 「どこかではなのにおいがし/やさしいにおいがながれてき」ているのを感じている。ものごころのつかない先から。「永遠/非情」に見つめられ、見つめかえし、その「におい」を感じている。

 池井は詩人であることを「赦されて」いる。いま、そうなのではなく、生まれたときから、「赦されて」ている。「赦されて」いる人間だけが感じる「苦悩」のなかに池井はいる。
 「宿命」とか「運命」というものを私は信じるわけではないが、池井の詩を読むと、そこに何か「必然」を感じてしまう。詩人の「必然」。私なんかとは無縁の「必然」の美しさを感じてしまう。


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谷内 修三
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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-24 09:09:58 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「星空」は「人事」と同じように「歌」である。同じことばを繰り返し、同じつもりが少しだけずれて行く。その「ずれ」をしっかり見つめると(「ずれ」にどっぷりつかっていると)、その瞬間に、とんでもない「遠く」とふいにつながってしまう。つろがろうとおもってつながるのではなく、無意識のうちに、本能としてつながってしまう。「いのち」がつながってしまう。

しんじられないことだけれども
こんなにむごいひとのよに
まだぼくをまつひとがいて
まだぼくをまつそのもとへ
はなうたまじり
かえってゆくが
ほんとはそんなひともなく
ほんとはそんなぼくもなく
こんなにむごいひとのよは
あかりしらじらまたたいて
ねこがよぎればそれきりの
あけくれかさねゆくばかり

 仕事が終わって家へ帰る。家には池井を待っている人がいる。それは「現実」である。「ほんとはそんなひともなく/ほんとはそんなぼくもなく」は「ほんと」と書かれているが「真実」ではない。
 そして「真実ではない」からこそ「真実である」。
 と書くと完全に「矛盾」だが、「矛盾」だからこそ、そこには「現実の真実」ではなく「詩の真実」がある。「詩の真実」はいつでも「矛盾」の形でしか書くことができない。まだことばになっていない、ことばとして流通していないことば、社会に生まれる前のことばが詩だからである。
 というのは、あまりに抽象的すぎるか……。

 この「矛盾」は、次のように言いなおされる。

そんなこのよのどこかしら
ぼくをなおまつひとがいて
ぼくをなおまつそのもとへ

 「家」ではなく「このよのどこかしら」に「ぼくをまつひと」がいる。それはだれなのかわからない。「どこ」にいるのかわからないのだから「だれ」かもわからない。そのとき「ぼく」もまた「だれ」かはわからない存在である。「池井」であることは間違いないが、その「池井」は「池井が意識している池井」ではないかもしれない。いや「池井が意識できない池井」である。このとき「意識できない」というのは「流通言語として説明できるようなことばにはならないことがら、未生の意識」ということである。
 池井は、この世の中には、どこかで、誰かが誰かを待っている。そういう「こと」があることだけを知っている。その「誰」はわからないし、「どこか」もわからない。わからないけれど、待っている「こと」だけはたしかである。なぜか。待っているという「こと」がなければ、池井は「かえってゆく」という「こと」ができない。池井は「かえってゆく」という「こと」をしている。そのとき、どこかで「池井を待っている」という「こと」が生まれはじめている。帰って行く「こと」で、池井は、待っているという「こと」を生み出している。
 そして、その「こと」のなかで、池井は生まれ変わる。また、その「こと」のなかで、待っているひとも生まれ変わる。

はなうたまじり
ひとりぼっちで
いつしかよるもふけまさり
しんじられないことだけれども
ほしぞらのようにまたたいて

 池井が生まれ変わり、待っているひとが生まれ変わる。その瞬間、そこでは「場」も生まれ変わる。それは「しんじられないこと」かもしれないけれど、信じてみればいい。そうすると、生まれ変わった「場」がはっきりと見える。

ほしぞらのようにまたたいて

 あ、これは正確に読むのがむずかしい。「ほしぞらのように」だから「比喩」なのだが、比喩とわかっていても、私は瞬間的に「星空」そのものを見てしまうし、またその「星空」が「またたいている」のも見てしまう。満天の星。それがまたたいる。輝いている。その輝きを見てしまう。

ほしぞらのようにまたたいて

 この行が、何を言おうとしているのか、それを「文章」として完成させることができない。「意味」がとれない。「意味」を無視して、星空を実感してしまう。
 誰かが自分を待っている--そう思って家へ帰るとき、その家がどこにあるのかも忘れて(意識することを忘れて、ということになるね)、ふと、満天の星の輝きを見る。あ、あそこが「家」だと思う。あの星が「ぼくをまっているひと」だと思う。そういう「錯覚」の幸福。

 詩は--「意味」を間違えていいのだ。「誤読」していいのだ。「意味」を正確に読まなくても、そこに書いてあることを正確に理解しなくても、そのことばを読んで何かが具体的に見えてくればそれでいい。
 何かが具体的に見えたとき、その具体的な「もの/こと」のなかで、私は詩人(池井)と一緒にいると感じる。つながっていると感じる。「ほしぞら」がはっきり見えたよ、と池井に言いたくなる--これは、そういう詩である。



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池井昌樹『冠雪富士』(32)

2014-07-23 09:17:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(32)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「人事」という詩は、この詩集に何回か登場することばのスタイルと似ている。同じことばを少し変えて繰り返し、「歌」のようにことばに酔うのだが、さらに繰り返すこと酔いのなかから、ふっと、新しいことばがこぼれて出てくる。それはある意味では酔い疲れた男の「へど」のようにも見えるが、そこには何か未消化なものが鮮やかな形で開いている。それを「美しい」と言う人は少ないかもしれないけれど。辟易した気持ちで見る人もいるだろうけれど。

よるとしなみにはかてないと
いつかよくきかされたけど
なんのことやらわからずに
ただゆきすぎておいこして
えきのかいだんとぼとぼと
ひとりうつむきのぼるころ
こみあげてくるこのおもい
よるとしなみにはかてないな
どこをまわってへめぐって
うちよせたのかこのおもい
あすのわがみもしらぬげに
ただゆきすぎておいこして
よるとしなみにさらわれて
こんなさかんなゆうばえを
ひとごとのようほれぼれと

 池井には「へど」を吐いた気持ちなどない。覚えなどない、と言うだろうなあ。
 吐いてしまえばすっきりする。そうして、そんなことを忘れて、「ゆうばえ」をほれぼれとみつめてしまう。

こんなさかんなゆうばえ

 の「こんな」を見るために、「こんな」に気づくために、池井はどこかを歩いてきた。「こんな」は「いま/ここ」にのみ存在する。そして「いま/ここ」にだけ存在するから、いつでもそれは「見えた」。ただし、そのときは「こんな」という意識はなかった。知らず知らずに見ていて、「いま/ここ」で「こんな」に気がつく。
 そうして「ほれぼれ」と放心する。その「放心」のなかへ、「いつか/どこか」で見た夕映えのすべてが集まってくる。
 それは「人事」とは無縁の美しいものだ。「人事」ではなく「自然(宇宙)」に属する何かだ。
 池井は、ここでは「歌」を歌っている。

 また、最後の「ひとごとのよう」が、不思議とおもしろい。「自分のこと」なのに「自分のことではない」。けれど、それをやっぱり「自分」だと思う気持ちがどこかにある。「自分」と「自分以外」が溶け合っている。
 「自分」が「ひとごと」になって、そこに「永遠」があらわれる。
 「ひとごと」が「自分のこと」になるとき、「永遠」が急にやってくる。この「急に」は別なことばで言うと「知らず知らずに(知らないうちに)」でもある。短い時間と長い時間が出会って、「時間」が消える。
 こういう瞬間、「論理(説明)」はいらない。ただ、それに共鳴する「歌」が必要だ。池井は、その「歌」を歌っている。酔ってぼんやりしたときに思い出して歌う流行歌のようなものだけれど、そしてそういうものに「意味」はないのだけれど、ついつい歌ってしまう「こと」のなかに、何か「真実」がある。


冠雪富士
池井 昌樹
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池井昌樹『冠雪富士』(31)

2014-07-22 09:44:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(31)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「企て」は、「あぶない」人間と間違えられたときのことを書いている。

さんぐらすしているとはいえ
あぶないものではありません
ちかごろめっくりめがよわり

 という1連目からはじまり、マスクをしているのは花粉症、頭陀袋をもっているのは昼の弁当のおむすびを入れているから、これから仕事に向かうところ……という具合に、いつものことばの調子で書かれている。
 そのあとで、

それでもあぶないあやしいと
それほどいぶかしまれるなら
あなたへこっそりうちあける

ばすのつくまでのつかのまに
ほんとうは
こんなあぶないくわだてを

それがなにかはいえないけれど
ほんとうに
こんなあやしいたくらみを

たったいま
あなたへおめにかけましょう
ささやかなこのことのはで

 「ことのは」でおめにかける「あやしいたくらみ」(あぶないたくらみ)とは詩のこと。「白洲」に書かれていた「あやしい」を引き継いでいる。でも、この詩を読む限りは、どこが「あやしい」のか、どこが「あぶない」のかはわからない。池井が自分で「あやしい(あぶない)」と言っているだけである。
 わからなくていいのだ。
 池井はいつでも「ほんとう」が「あやしい」「あぶない」ものだと知っている。その「ほんとう」につかまってまうと、逃げられない。池井そっくりの姿形、サングラスをかけてマスクをつけて、昼間は働き、夜は詩を書く--そういう60歳過ぎの男がしないようなことをひっそりとしなくてはならない。
 この静かにことばのなかには、そういう「脅し」がこめられている。
 その「脅し」を池井は「ささやか」と呼んでいる。

 ささやかではあるかもしれないが、「共感」するなよ、共感すると取りかえしがつかなくなるぞ、池井になってしまうぞ、と私はつけくわえておきたい。
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池井昌樹『冠雪富士』(30)

2014-07-21 09:35:36 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(30)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「白洲」は「法廷」。そこでは詩人・池井が裁かれている。池井が何をしたか。

あまあとのあのにじだって
あのいちめんのほしぼしだって
きぎのはずれやむしのねだって
みんなわたしのなかにあるもの
もとよりともにあるものゆえに
よろこばずにはおれません
いつものようにうちをでて
いつものようにわくわくと
うきうきとただどきどきと

 池井は(詩人は)、世界にあるものに感応し、「わくわく」「うきうき」「どくきどき」している。そしてことばを発する。それが詩。しかし、それが「問題だ」と「はんがんさま」は言う。
 そういう論理の中で、ほーっと思って読んでしまう行が二か所。
 まず「みんなわたしのなかにあるもの」。世界の悦ばしいものは、みんな池井の「肉体」のなかにある。(池井は「肉体」とは書いていないのだが……。「こころ」のなか、「魂」のなか、「精神」のなか、かもしれないが、私は区別せずに「肉体」のなかとつかまえておく。)そして、それは次の行で「もとよりともにあるもの」というとき、「肉体」と「世界」の区別なくなる。「肉体」と「世界」が融合していることがわかる。 「放心」したとき、「肉体」と「世界」が融合し、ひとつになる。--ここまでは、いままでの池井の詩そのものである。
 私がこの詩でびっくりしたのは、

いつものようにうちをでて

 この行。そこで、二度目の「ほーっ」と息を吐き。
 そうか「うち」か。
 「うち」は「家」。「家庭」だな。妻がいて、息子が二人いる。その「家庭」には家庭のよろこびがあるのだけれど、その「家」を出たときの方がこころがいきいき動くのか。そうなのか、と思わず思ったのだ。
 そうすると、池井を裁いているのは「家族」というのことになるのか。「家」ということになるのか。「家」が詩を、罪だと言っているのか。

 その「うち(家)」という「はんがん」に対して、弁明していた池井は、「かくごいたせい」と言われたときに、一転して、次のように言う。

べらんめえ
せなできらめくまんてんのほし
よっくみやがれ
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと

 この変化がおもしろい。開き直り。
 私はときどき思うのだが(ときどきではなく、最近ではしきりに思うのだが)、「思想(道)」というものは「築く(つくりだす)」ものではない。--というのは、ずいぶん飛躍した言い方、「直観の意見」になってしまうが……。
 「道」というのは、あれこれ「頭」で知っていることを全部捨て去ったとき、ぱっと「肉体」が開かれるところにできる。自分の「前」でも、高村光太郎が言ったように「後ろ(歩いたあと)」にできるのでもない。「肉体」がトンネルのようにぱーっと開かれる。その「開かれた部分(枠のなさ)」が「道」なのだ。
 強引に池井の書いていることに結びつけて言うと。
 先に引用した世界にある美しいもの(虹、星々、木々の葉擦れ、虫の音)はすべて「わたしのなかにある」、それは世界に存在するものと、池井自身の内部にあるものとの「共鳴」であり、その共鳴の瞬間が「わくわく」「うきうき」「どきどき」なのだ--というような論理。そういう「論理」を語っているとき、それは「道」のように見えるけれど、ほんとうはそうではない。単なる「かっこうつけ」である。そんな「論理」のなかを、人は歩いてはいけない。かっこうはいいが、うさんくさい。人を感動させ、たぶらかすものである。
 そんな「論理」を吐き捨ててしまって、「おれは論理なんか生きない」と開き直ったとき、「肉体」を突き破ってあふれてくる「勢い」、それが「道」である。「勢い」だから、それがどこへ向かっているかはわからない。ただ「勢い」だけがある。「勢い」が枠を叩きこわす。その瞬間に、「肉体」の内部に「道」ができる。
 
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 これが「道(思想/肉体)」のすべてである。
 「さんまんねんかんいきてきた」なんて嘘である。そんな人間なんかいない。池井は1953年の生まれである。完全な嘘。でたらめ。--だから「ほんとう」。「ほんとう」の「勢い」がある。
 そこには「枠」がない。「枠」がない(枠におさまり切れない)ものは、みんな「悪人」である。それは「流通経済」を否定する。「合理主義」、あるいは「意味」を否定する。「意味」というのは、「合理主義」に合致するもの、世界を支配する論理につごうのいいものの見方に過ぎない。
 世界を支配する「合理主義」は「わくわくうきうきどきどき」を嫌う。「わくわくうきうきどきどき」していたら、そこで「流通」が停滞するからである。「歩み」が止まるからである。あるいは乱れてとんでもない方向へ行ってしまう空手ある。池井の「勢い」はどこへ行くかわからない。制御できない。
 池井は、いったんは「わくわくうきうきどきどき」と「世界」の融合というような詩の「論理」を説明するが、それを吐き捨てて、

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 と「非論理」を叫ぶ。池井は「三万年間」生きてはいない。嘘である。この嘘、でたらめが「ほんとう」、つまり「肉体」を突き破る「勢い」である。(と、私は繰り返し書いてしまう。言いたいことは何度でも言う。)それが「道(思想)」であり、また「詩」でもある。

 「勢い」を生きるとき、ひるがえって考えるに「うち(家)」は破綻する。
 この詩には直接的には書かれていないが、たとえば池井はふるさとにいる母を施設にあずけている。「母-息子」という「家(家庭)」のつながりは、そのとき破綻している。しかし、その破綻を生きなければ、池井は詩を書きつづけることができない。
 ふいに挿入された一行「いつものようにうちをでて」と、それからあとの「おおみえ」の間に、書かれなかった「こと」を感じ、私は「ほーっ」と息を吐いたのだった。

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと
おおみえきったそのせつな
  おっさんこのあしふんどんぞ
  いつものゆめをやぶられて
  ケータイかたてのわかものに
  おおあせかきかきあやまって
  またあせをふくバスのなか
はまのまさごはつきるとも
あやしいもののたねはつきまじ
ででんでん……

 「道(思想/肉体)」をバスの中での居眠り、若者との接触にという現実にかえして、それまであったことを「おっさんの夢」にしてしまって、詩は閉じられるのだが。
 この不完全さといえばいいのだろうか、「流通思想(いわゆるかっこいい批評)」になりきれないことば、--そこに、私は不思議な「あたたかさ」を感じる。池井が瞬間瞬間につかみとっている「かっこいい思想(流通批評)」になりそうなものを、あえて完成させず、崩壊させるそのあり方、そこに詩を感じる。
 詩は、「流通思想(流行哲学)」のように閉じてはだめなのだ。完璧に構築されていてはだめなのだ。矛盾し、破綻していないとだめなのだ。

 今度の池井の詩集には、池井にはそのつもりはないだろうけれど、そういう矛盾・破綻のようなものが「全体」として存在する。だから、私はこの詩集を傑作だと思う。傑作だと言う。感覚の意見としてだけれど。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
コメント
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