詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇456)Obra, Laura Iniesta

2024-09-19 00:00:02 | estoy loco por espana

Obra, Laura Iniesta
Mixed media on canvas and crystal resin 30x30cm

 Negro, rojo y blanco. O negro, blanco y rojo. No, rojo, blanco y negro. ¿Cuántas combinaciones hay de estos tres colores? "Matemático" puede contener la respuesta. Pero rechazando esa respuesta, Laura diría: "UNO." Entiendo mal esa respuesta como "infinita".
 Es cierto que la combinación aquí es "única" y, en ese sentido, es "UNO". Sin embargo, no siento que los colores de este cuadro sean fijos. Los colores se están moviendo. Las formas se están moviendo. Sus movimientos no pueden contenerse dentro de un área de 30 cm cuadrados. Está desbordante. Se desborda hacia el mundo y atrae al mundo en el cuadro. El movimiento nunca se detiene.
 Lo llamo "infinito" porque nunca se detiene. El "movimiento" es infinito. A medida que se mueven, los colores de esta obra continúan cambiando. Sin embargo, sigue volviendo al negro, al rojo y al blanco. Vuelven más fuertes y más grandes.

 黒と赤と白。あるいは、黒と白と赤。いや、赤と白と黒か。この三つの色の組み合わせ方は、いったいいくつあるのか。「数学的」には、答えがあるかもしれない。しかし、その答えを拒否して、Lauraは言うだろう。「ひとつ」と。私はその答えを「無限」と聞き間違える。
 たしかに、ここにある組み合わせは「一回限り」のものであり、その意味では「ひとつ」である。しかし、私には、この絵が、絵のなかの色が固定されているとは感じられない。色が動いている。形が動いている。その動きは、30センチ四方の内部に納まらない。あふれていく。世界へ向かってあふれながら、世界を引き込んでいる。その動きは、止まることを知らない。
 止まることを知らないから、私はそれを「無限」と呼ぶ。「動き」が無限なのだ。動きながら、この作品の色はかわりつづける。しかし、なからず黒、赤、白に戻ってくる。より強く、より大きくなって。

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Estoy Loco por España(番外篇455)Obra, Alfredo Collado

2024-09-15 20:49:15 | estoy loco por espana

Obra, Alfredo Collado 
 “Galileo”

                                                                                                (Alfredo Collado es argentino.)

 Una metáfora es una negación.
 Una vez que la metáfora niega lo que nuestros ojos ven, la metáfora habla de una nueva existencia basada en lo que nuestros ojos no pueden ver.
 La acción de negación revela la lógica detrás de lo que ven los ojos, la lógica oculta por lo que ven los ojos. Una nueva afirmación lógica a través de la negación es la metáfora.
 No es la forma. Ni siquiera es el color. Es una verdad que trasciende la forma y el color.
 Por tanto, la metáfora debe ser negada una vez más. Al negar la metáfora, ésta trasciende la lógica y se convierte en verdad. La verdad se establece mediante la vehemente negación de la negación.

 ¿Es la esfera de cristal el universo? ¿El metal que lo sostiene es Galileo? ¿O tal vez todo lo contrario? ¿Es la verdad el lugar que sostiene a los dos? Tú, deja las palabras, dijo el poeta.


 比喩とは、否定である。
 目が見ているものをいったん否定し、目が見ていないものによって、新しい存在を語る。
 否定の作用によって、目が見ているものの奥にある論理、目が見ているものが隠している論理を明らかにする。否定による、新しい論理肯定が比喩である。
 それは形ではない。色でもない。形と色を超えた真理である。
 したがって、比喩はもう一度否定されなければならない。比喩を否定することによって、比喩は論理を超えて真理になる。真理とは、激烈な、否定の否定によって確立される。

 ガラスの球体が宇宙か。それを支えるメタルがガリレオか。あるいは逆か。ふたつを支える場が真理か。君よ、ことばを捨てよ、と詩人は言った。

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杉惠美子「おいしいごはん」ほか

2024-09-15 19:53:31 | 現代詩講座

杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)

 受講生の作品。

おいしいごはん  杉惠美子

日日草が
お陽さまに向かって
本当を語ろうとする
ありったけの一瞬があった
からっぽになったとき

おなかがすいた

何かが終わった日に
夕立が激しく音を立てた
雷が止んだとき

おなかがすいた

夏の角を曲がって
海に落ちたとき
ずぶぬれになって
私まるごとを感じたとき

おなかがすいた

十三年が経って
ようやく気付いたことがある
私の中で透明な風となって
空を飛んだとき

おなかがすいた

 一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その「一瞬」は「永遠」でもある。
 何かに気がつくというのは、こういうことだと思う。
 では、何に気がついたのか。
 「おなかがすいた」
 そんなことに気がつかなくてもいい、というひとがいるかもしれない。しかし、「おなかがすいた」と気がつけることのなかには、どうでもいいこと(?)のみが持つことでできる「ほんとう」がある。
 そして。
 この「おなかがすいた」は、最初の連の「からっぽ(腹が空っぽ)」とも強く結びついている。
 この詩では「おなかがすいた」という一行が独立して連をつくっているが、それは前の連の最終行と強く結びついている。同時に、次の連への飛躍台ともなっている。
 この変化が、非常におもしろい。
 論理があるのか、ないのか。そんなことは、どうでもいい。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、どういうことでも論理にできるからである。
 終わりから二連目、「十三年」と「気付いたこと」について、受講生は少し戸惑ったようだった。「いつ(何)から十三年」なのか、「何に気づいた」のか。私は「透明な風になって/空を飛んだ」から、流行歌の「千の風」を思い出した。大事な人が亡くなった。でも、その人はいなくなったわけではない。いまも、いる。そう気づいた。
 変わらない何かに気づいた。その安心感が、空腹を教えてくれた。いつも、変わらぬものがある。生きている。私が生きているなら、あの人も生きている。生きているから感じる。そういうことを、大事にしている。連から連への自然な変化がとてもいいし、タイトルの「おいしいごはん」もいい。タイトルは「おなかがすいた」でもいいのかもしれないが、そこから少しだけ飛躍している。その飛躍の「軽さ」がとてもいい。

百年の希望  堤隆夫

愛と言う名の生き甲斐
愛と言う名の幻
「あなたの声を聞きたい 一度だけでもいいから」
過去も 今も めくるめくロンド

別れた時も 出逢った時も
人生という舞台
二つの命 燃え合い
されど今は 懐かしい日々よ

「最期に笑う日が一番よく笑う日だ」と
涙で呟いた あなたの瞳 永遠
されど叶わぬ 人の世の定め

暗く寂しい長い夜でも あなたの温もりは 胸の底
「いつまでも決して私を忘れないで」と
過去も 今も 忘れはしない

苦悩続く夜も 歓喜迎える朝も
人の歴史の常
「私は敗けはしない」と
過去も 今も
百年の希望
百年の希望
百年の希望

 「ロンド」。音楽形式。主題が何かをはさみながら繰り返される。この詩では、テーマは愛。それが、たとえば「生き甲斐/幻」「過去/未来」「別れ/出会い」「苦悩/歓喜」のような、撞着語をくぐりぬけ、あるいはつらぬき、動き続ける。そこから「過去/今/未来(このことばは書かれていないが、百年は、これからの時間を含んでいるだろう)」が「歴史」として認識され(形成され)、「希望」へと昇華していく。
 堤の作品には漢字が多く、文字だけ見ていると「固い」印象があるが、固いけれどもなにかしら響きにリズムがある。どうしてだろう、と思っていたら、実は、堤はシンガーソング・ライターだった。
 この作品はCD化されてもいる。
 ことばを「意味」だけではなく、「音」としても存在させようとしている。しかも、その音は旋律、リズム、和音という展開の中で具体化する。
 音楽のなかの「和音」を、私は、詩では「呼応」(響きあい)というようなことばでとらえているが、堤の場合は、それが「意味」だけではなく、「音」そのものの呼応でもあったわけである。
 堤の「(詩の)音」の秘密を見たように感じたのは、私だけではないと思う。

アナトリア聖刻  青柳俊哉

飛んでくる石化したバラ 
黒海の葦の茎先 鉄の羽…… 
楔を咥えて アナトリアの炭化した地層から
女たちのもとへ

葡萄の房形の紺青(こんじょう)の台地
隠されている女たちの
神聖な手の性(さが)と
焼かれた文字

車座になって剝かれる茄子の実とバラのすじめに
結晶するユニコード
もとめあう聖刻(せいこく)
人間の土地を超えて

 「アナトリア聖刻」とはなんだろう、という疑問が受講生のあいだから聞かれた。青柳から説明はあったのだが、それとは別に、ことばの「呼応」から「和音」として何が浮かび上がってくるかを見てみよう。
 「石化」「炭化した地層」は、歴史を感じさせる。「楔」そのものは「歴史」的存在とはいえないが、「楔形文字」となると歴史である。「アナトリア」は日本ではない。異国(日本以外)を強く感じさせることばに、「黒海」がある。「楔形文字」がつかわれたメソポタミアは「黒海」に臨んでいるわけではないが、周辺地区でもある。
 そうした「古代文明」が、いま私たちに何を語りかけてくるのか。
 受講生のあいだから、また「女たち」が印象的という指摘があったが、青柳は「人間の土地を超えて」何かが伝承されていくとき、そこに「女の存在」を重視している。女がいるから、歴史がある。二連目の「隠されている女たち」ということばのなかには、青柳の歴史観も含まれているだろう。
 一篇の詩のなかにはさまざまなことばが動いている。どのことばを聴き取り、それをどう受け止めるか。詩人のことばの響きを聞くだけではなく、それを自分のことばと響きあわせてみるのも楽しい。
 いま、目の前にあることば。そのことばのなかへ、私はどうやって参加していくことができるか。

海をみている  川﨑洋

現実に
めざめている
という
それから
夢をみている
ともいう
だったら
もうひとつ
海をみている
と いってもいい
と思う

起き上がって
また
海をみる
海と呼ばずに
気障ではあるが
広いやすらぎ なんて
呼ぼうか
海よ といわずに
広いやすらぎよ
なんてさ

暮れかかってきて
雲の切れ間から
ななめに
光の柱が二本
かなたの海面に入っている
あれは
昼間
水の中にさしこんだ光が
空へ還るのだろう

 受講生が、みんなといっしょに読むためにもってきた作品。
 受講生のなかから指摘があったが、この三連構成の詩は「静的」ではない。意識(ことばの指し示し方)が少しずつ変化している。そして、その変化を、むりに制御しようとしていない。なるようになるさ、と任せている感じがする。
 一連目は、ぼんやり海を見ている。「夢か、現か」。「海を見ている」という事実を「海を見ている」ということばにすることで、「ことば」のなか(意識のなか)へ動いていく。
 二連目の「広いやすらぎ」は「海」を言い換えたもの。「比喩」、あるいは「象徴」。そこに「精神」を見ている。ただし、深刻にならないように「なんてさ」というような軽い口調をまじえている。
 ここに川崎の「音楽性」があるといえるかもしれない。
 そして三連目で、ほんとうに川崎が考えたことを、ことばにしている。そのとき、おもしろいのは、いわゆる「天使の梯子」のなかに、逆向きを動きを存在させる(海に入る光/海から空へ帰る光)ことで、その動きを「限定(断定)」していないことである。読者に、私はこう思うが、どう思う?と問いを投げかけている。
 その結果として、詩の世界が、いっそう広くなっている。
 この詩は、三連目だけでも深い詩だが、一連目、二連目、三連目へとことばの動き方が少しずつ変わっていくところを、ていねいに「記録」している点が、とくにいい。一連目、二連目がなかったら、感動しても忘れてしまう。一連目、二連目があるから、忘れられないものになる。そう思うのは、私だけだろうか。

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安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

2024-09-14 22:32:06 | 映画

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督 安田淳一 出演 山口馬木也

 一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。
 予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。
 スタッフ一覧を見てみると。
 安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役をこなしている。(もっと、こなしているかもしれない)。それがこの作品の特徴を語るすべてである。すべてのことが、安田淳一の「視点」で統一されている。だから、乱れようがない。ミスしようがない。100点になるしかないのである。
 私が唯一、これはおもしろい、と思ったのが、主人公が講演会か何かのポスターを見て、自分が江戸時代から現代にタイムスリップしてきたことを理解するシーンである。ポスターの文字が「活字」であることに驚くこともなく、江戸時代が終わったということに驚くこともない。あっという間に「状況」を理解してしまう。その「理解力」の速さを、巧みに描いている。状況が理解できずにドタバタするのは、紛れ込んだ京都・太秦の映画(テレビ)撮影現場の一瞬だけである。
 で、このことが象徴的なのだが。
 登場する人物が、みんな、「ストーリー」を「理解」してしまっている。「理解」にしたがって、それを表現している。まあ、それでもいいのだろうけれど、私が期待するのは、やっぱり登場人物が何が起きるか「知らない」という芝居なのだ。何も知らず、すべてが初めて体験する、という「人間の生き方」なのだ。役者を、生きている人間を見たいのだ。私は。それが、この映画には完全に欠落している。
 たとえば。
 映画のなかに、主人公が仇(?)と出会い、一緒の映画に出ることになり、その一シーンとして釣りをするところがある。映画はただ背中をうつすだけ、会話はとらないという条件で撮影されている。ふたりは、セリフではなく、思っていることを語り合う。それは一首のけんかなのだが、背中をとっているスタッフが「こころが通い合っているいい演技だ」みたいなことを言う。人間というのは、そういういい加減な存在なのだが、そのいい加減さがいかされていない。これと同じシーンを、私は別の映画で見た記憶があるが、それがなんだったか思い出せない。こういう裏話みたいなもので、映画の秘密をばらすのだが、それさえも「型通り」である。つまり、「いい加減」さが、どこにもない。
 だからね、100点だけれど、50点なのだ。

 どうでもいいことだが。
 予告編で、呉美保の映画を見た。タイトルは忘れたが、あ、呉美保だと、こころのなかで叫んだ。なんだったか、タイトルは忘れたが、第一作は、たしか彼女自身が脚本を書いたものだったと思う。その脚本が、いいなあ、と思った。人間のとらえ方に、みょうな深さがある。奥行きがある。そのあとも何本か見たと思うが、何かしら、印象に残るシーンがあった。
 今度は、どうなんだろう。
 思わず、こういう関係ないことを書いてしまわせるのが、安田淳一監督「侍タイムスリッパー」であった。


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増田耕三『庭の蜻蛉』

2024-09-12 23:03:53 | 詩集

 

 

増田耕三『庭の蜻蛉』(現代日本詩人選100、NO4(竹林館、2024年09月01日発行)

 増田耕三『庭の蜻蛉』の巻頭の詩「こおろぎ橋」。

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

まだ妻も子もなく
若さを失いかけた私が
昼のなかの橋を渡った

別れたのちの届けようのない想いが
りんりんと染みるように
歩み去ったひとのかかとの音が
響いていた橋のたもと

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

 とてもていねいに書かれていて、とてもよくまとまっている。
 二連目の「若さを失いかけた私」というのは、いまの感想というよりも、青春独特の「喪失の先取り」のような感覚だと思う。センチメンタルというのは、ほんとうは失っていないのに失ったと思うときに、みょうな輝きを見せる。「昼のなかの橋」の「昼のなかの」という焦点の当て方が「若さを失いかけた」という感覚と向き合って、「撞着語」のように響く。
 三連目は「うた」になりすぎているが、四連目で、最初の連を繰り返すことで、走りすぎた「うた」を、平凡な「うた」にひきもどしている。それが、落ち着きを生んでいる。
 この作品が増田の代表作かと言われれば、すこし悩むが、何篇かの作品を選ぶときには、その候補として残したくなる詩である。
 「九月の詩」は、詩集のおわりから二篇目の作品。

もうすぐ、九月が終わるというのに
一向に姿を現さない

私を置き去りにしたまま
「九月の詩」はいったいどこに
いったのだろうか

降り終えた
雨の気配だけが残されている
失った人のいた、九月

いや、
失われた人など
もうどこにもいやあしない

さばさばと消えた
きりで

 三、四連目。こう書かずには、詩を締めくくった気にならないのかもしれない。しかし、その二連はない方が「中途半端」な感じで、逆にいいのではないだろうか。「中途半端」は「余韻」と言い換えることができると思う。
 そうした方が、「 もうすぐ、九月が終わるというのに」「失った人のいた、九月」の読点「、」の呼応が美しく響くと思う。

 

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こころは存在するか(42)

2024-09-09 11:15:44 | こころは存在するか

 「こころ(精神)は存在しない」という私の考える私が、こんなことを書くと矛盾していることになるのだが。「心」ということばが出てくる文章に感動したのである。
 いま、日本語を勉強しているイタリアの青年と孟子を読んでいる。その「告子章句 上」(講談社学術文庫)の361ページに、「心」をふくむ次のことばがある。(私のワープロでは出てこない感じがあるので、一部は変更してある。)

人、鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むるを知る。心を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ。

 逆説的な言い方になるのかもしれないが。
 「こころがない」という考えに達したから、その「ないこころ」(なくしたこころ)を取り戻すために、私は本を読むのかもしれない。孟子を読みながら、突然、そう思ったのである。そして、それが勘当の原因である。

 私は、感動したとき、どうしても脱線してしまうのだが。

 私の意識のどこかに、和辻哲郎が「古寺巡礼」に書き記した父の質問がいつも「つまずきの石」のようにして存在する。「お前のやっていることは、道のためにどれだけ役に立つのか」。
 和辻はいざ知らず、私のやっていることが「道に役立つ」ことはないだろう。
 だれにも影響を与えることはない。しかし。もし「自分自身の道」というものがあるとしたら、その「自分自身の道」の役には立つだろうなあ、と思う。これは、自己満足の世界だが、私はもうそんなに長生きするわけではない。せめて「自己満足」のために、自分のいのちをつかいたいと思う。
 「学ぶ」というのは、現象を超えた法(理)に触れることだろう。それをことばにすることはできない。すでに多くの人がことばにしているが、そのことばを私は理解しているとも言えない。「法(理)が存在する」ということさえ、私の「誤読」かもしれない。
 たぶん、私は孟子の書いた「こころ」を「法(理)」と「誤読」し、さらに「法(理)即学問」と「誤読」を重ねているのだろう。

法(理=学問)を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放法(理/学問)を求むるのみ。

 「学問」を「問い、学ぶ」というふたつの動詞に「誤読」しながら、ことばを読む。
 これは、なかなか、楽しい。何よりも、金がかからないから、年金生活者には最適。本は、すでに買い求めてあるから、新しいものはいらない。「古典」と呼ばれているものが、とても楽しい。

 ところで、引用した文章に「則ち」ということばが出てくる。「即ち」ということばもある。「則ち」と「即ち」は、どう違うのか。「鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むる」は「鶏や犬がいなくなった場合は」だろう。「その場」という意味で「即ち」をつかったことばに「即興」があるから、「即ち」もつかえそうだが、私の印象は少し違う。「即ち」の場合は、何か密接な、ぴったり重なった、あることがらの「表裏一体/一心同体」という感じがする。「法/理/学(問)」の「/」が「即」だなあ。「学問」ということばは「学則問」であり「問即学」が結晶して区別がつかなくなった状態だね、と自分勝手に「誤読」するのである。

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こころは存在するか(41)

2024-09-05 13:00:03 | こころは存在するか

 谷川俊太郎の詩集に『世間知ラズ』というのがある。私は、これを「世間知(せけんち)・ラズ」と読んでいた。「ラズ」と呼ばれている「世間知(世間の常識、だれもが知っていること)と理解し、さて、「ラズ」って、何? そこで、ずいぶん悩んだ。もちろんこれは「世間知らず(せけんしらず)」と読むのだが、カタカナ語が苦手な私は「せけんしらず」ということばが思いつかなかったのである。
 笑い話にもならない、どうでもいいことなのだが。でも、私はなぜ「世間知(せけんち)・ラズ」というような、常識はずれの「読み方」をしてしまったのか。カタカナ難読症が原因と簡単に断定できるのだろうか。

 このことを、和辻哲郎「自叙伝の試み」を再読していて、突然、思い出したのである。

 姫路生まれ、姫路育ちの西脇が、東京に出てきたときのことを「半世紀前の東京」のなかで書いている。そこに、こういう文章が出てくる。

都会育ちのものに特有な繊細なセンスが田舎者には欠けているとか、都会育ちのものの頭の働きが非常に敏活であるのに対して田舎者のそれは遅鈍であるとか、それに伴ない前者は世間知が豊富であるに対し後者はそれに乏しいとか、

 「世間知」ということばが出てくる。私は、この和辻のことばを覚えていたのか、と驚いたのである。ちなみに、「世間知(せけんち)」ということばは、私のもっている広辞苑には載っていない。たぶん、和辻独自のことばなのだろう。それを、私は無意識に覚えていて、谷川の詩集を見たとき「せけんち・ラズ」と読んでしまったのだろう。
 何度も繰り返されることばではなく、一度見ただけのことばなのに、それを単独で覚えているというのは不思議なことだが、何かしら、和辻のことばには私の「肉体」そのものに触れてくる「自然」がある。
 「自伝の試み」のなかで描かれているのは明治20年代(1890年代)は和辻の幼年時代だが、それは私の幼年時代の昭和30年代(1950年代)に似ている。いや、姫路の1890年代は、私の育った能登半島の付け根の小さな集落の1950年代よりもはるかに進んでいる。半世紀すぎても、私の済んでいた集落は姫路の「文化」から遠く遅れている。ただ、「自然(山や川)」だけが「同じ年代」を生きている。西脇の描く「自然」は私の知っている「自然」と非常によく似ている。そのために、和辻の文章のリズムが、非常になじみやすい。和辻は「私の知っていること」を書いている、という気持ちで読むことができる。
 「自然」は似ている。違うのは、「世間知」である。
 「世間(社会)」のなかで流布していることが、違う。和辻は、その「違い」を東京に出てきて実感している。(幼少時代も、ほかの村のこどもと西脇が違うことを少し感じているけれど、東京へ出てきて感じた「違い」ほど大きくはない。)このときの和辻の「印象」、それを象徴する「世間知」ということばが、私の「肉体」のなかで、長い間眠っていたことになるのだろう。
 ことばの「影響」というのものは、なんと、不思議で、強いものなのか。

 「世間知(せけんち)」と関係するかどうかわからないが、私には、忘れることのできない「貧乏」と「世間知らず(せけんしらず)」を結びつける思い出がある。私は「世間」には属していない、私の属している世界は別のところにある、と感じる思い出がある。
 小学一年のときの「終業式」。私は、それがどういうものか知らないから、いつものように学校へ行った。すると担任の先生(石田先生と言った)が、私を呼び止める。そして私の親戚の2年生の女子を呼ぶ。その女子に向かって、こう言う。「きょうは修行式なのだから、修三を家につれていって服を着替えさせてこい。修三の母親にそう言え」。ああ、「式」のあるときは、いつもと違う服を着るのか、ということを私は初めて知った。たぶん、母も初めて知ったのだと思う。そういう「世間知」から遠いところで、私は生きていた。たぶん、ツギのあたった服を着ていたのだろう。それでは「式」にふさわしくないと石田先生は思って、世話をしてくれたのだろう。
 この石田先生は、なぜか私のことをよく覚えていてくれたようで、私のめい(15歳くらい年下)が小学一年生のとき、めいの担任になり、「谷内修三を知っているか」と聞いたそうである。「谷内」という姓は、能登では珍しくない名前である。姓から判断しただけではなく、顔か何かが似ていたのかもしれないが、そのことを姪から聞かされびっくりしたことがある。それくらい、私の田舎では「時間」がゆっくり流れているということかもしれない。
 話は脱線するが。
 私は和辻が姫路での幼少、青年時代を描き、さらに東京と姫路を都比較しながらいろいろ書いているのを読みながら、1950年代の、私の貧乏をいろいろ思い出す。
 先に書いた姪は、私の上の兄の娘だが、その兄と私は15歳くらい離れている。子供時代、一緒に遊んだ記憶は、私には、ない。私が小学の高学年のとき、就職先から家に帰ってきた。私は兄を何と呼べばいいのかわからず、両親に尋ねた。「おじ」というのが、その答えだった。「おじ」というのは、私の育った地方では「二男」(あるいは、弟)を意味する。私が兄を「おじ」と呼ぶのは変なのだが、なぜ、「おじ」と呼ぶかというと。実は、私にはもうひとり兄がいて、その兄は「おじ」が家に帰ってきたあと、やはり家に帰って来た。兄は「あんま」である。「あんま」のつぎが「おじ」。私は兄を名前で呼んだことはない。私は名前で呼ばれたが。
 また脱線したが、そのおじが、あるいはあまんが着ていた15年以上前の「学生服、学生ズボン」を私は履いて小学校へ通っていたことがある。海水パンツも、兄のお下がりだった。そういうものを買う余裕が私の家にはなかったということである。習字の道具(筆、すずり)も、最初は、先に書いた親戚の女子に借りて、つかっていた。あとで言えの中のがらくたをかたづけて、その下から兄たちがつかっていた硯と筆をみつけだしてつかったと思う。
 敷布団はなく、「ドン・キホーテ」の旅籠屋のなかに出てくるように、藁の上に布をかぶせて敷布団にしていた。藁を換えると、藁を干していたときの太陽の匂いがする。ふかふかする。そのときのことを、私の肉体は覚えている。こんなこともあって、私は清水哲夫の「スピーチ・バルーン」のなかの「標準語訳」の部分に、かみついたことがある。肉体が感じることばのリズムが標準語訳には反映されていないからである。
 中学生になるころ、私は私の部屋をもらったが、その部屋の窓は格子でできているのだが、ほんとうに格子があるだけ。ガラスも障子もない。つまり、風がそのまま入ってくる。だから、冬などは、そこで勉強するということなどできない。寝るときだけ、板戸の向こうの部屋で寝る。寝るための部屋だから、電灯は小さな裸電球があるだけだが、それも電気代がもったいないと、ほとんどつけなかった。私は体が弱くて、医者から「9時に寝て、6時に起きるように」と言われていたのだが、9時まで起きていることもなかった。夕食を食べると、8時前には寝ていたと思う。
 中学を卒業すると、兄弟はみんな就職した。小学生のとき、私が、新聞の広告の裏か何か絵を描いていたら、おじが「お前は絵が好きだから、映画館の看板描きになれ」と言われた。私もそのつもりになっていた。
 そういう生活だったから、和辻が描いている明治の姫路は、私にとっては、和辻が見た東京のようなものである。いや、それ以上である。そんな「ずれ」が刺戟になって、「世間知」ということばが「せけんち」として、私の肉体に残ったのかもしれない。私の肉体の中には、そして、そういう「ずれ」が、いまでも、たくさん残っている。それは、かなり頻繁に、噴出してきて、私を驚かせる。私が書いていることの多くは、その「ずれ」を出発点としている。

 「世間知」に対峙することばはなんだろうか。「自然知」、あるいは「肉体知」かもしれない。私が和辻に感じるの親近感は、その「自然知」「肉体知」に対するものだが、このことを書くのはなかなか難しい。
 でも、いつかは書きたい、書けたらなあ、と思う。「こころ(精神)」は存在しない。しかし「自然」「肉体」は存在する。「肉体」が「肉体」のまま出合える「場」を取り戻したい。修業「式」という「世間知」から遠くにいたときも、私も母も生きていた。そのことを「守りたい」。

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こころは存在するか(40)

2024-09-01 23:53:49 | こころは存在するか


 和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」という生き方が美しいと思う。

 和辻が描いている「母たちの時代の人」というのは明治20年代(1880年代後半)だが、その時代には「労力を勘定に入れない」人がいた。そして、和辻がこの「自叙伝の試み」を書いた昭和30年代(1950年代)にも、そのことばがそのまま「通用」する生活があったのだ。

 それにしても。
 和辻が生まれた姫路市の明治なかごろの風景と、私が育った氷見市の昭和30年代は、なんと似ているのだろう。というか、昭和30年になっても、私の集落は姫路の明治のなかごろに追いついてはいない。絹織物を織るというような文化的なことを私の母はしていなかったが、かわりに「むしろ」を織っていた。むしろ織り機というものがあり、私もこどものときむしろを織らされた。
 私が和辻の文章に弾かれるのは、和辻の文章の奥に動いている「自然(山や川、空)」の感じが私の知っている自然に近いからかもしれない。自然の呼吸が、どこかで私にひびいてくるからだろう。
 和辻は、和辻の家で「みそ」をつくるときのことを書いている。私も、家でみそをつくるときの様子を見ていた。大豆がふかしあがる。何の味もついていないのだが、私はその大豆を食べるのが好きだったことなどを思い出すのである。和辻の祖父が、蔵の中でコメに大きなうちわで風を送っている場面など、なんとも不思議な気持ちで読んでしまう。ふと、収穫したばかりの米を納屋の倉庫に入れた日、父が、米の番をして、その納屋で眠ったときのことを思い出したりする。
 あらゆるところに「労力を勘定に入れない」仕事があった。そして、それはなんというのか、自分よりも、「自分の作ったもの」を大事にする仕事に思えるのである。自分のかわりに、自分のつくったものが「生きていく」。「生きていく」というのは「他人(自分以外のもの、もちろん家族を含む)」のなかへ動いていくということである。
 和辻の祖父のコメの「せわ」など、その代表的なものだ。コメは和辻の祖父がつくったものではない。しかし、そのコメがまずくならないように風を送るという「労力」が、おいしいコメとして家族の中に「生きていく」。それは「高い」とか「安い」では、とらえることのできない何かだ。和辻は母のつくった絹織物を、母たちにしてみれば「呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである」と書いているが、単に「安い」だけではないものが、そこに動いていると感じる。
 和辻の文章には、なにかこういう「生きていく」ものをすくい取り、定着させることばがある。
 それは、やはり、「思想」というよりは「倫理」というものだろうなあ、と思う。

 

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青柳俊哉「バラを解く」ほか

2024-09-01 13:51:12 | 現代詩講座

青柳俊哉「バラを解く」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年08月19日)

 受講生の作品。

バラを解く  青柳俊哉

バラの深部へむかう。交配を重ねるものの寓意として、バ
ラがあまりにも人間的な美にとざされているから。

表層から花芯へ一枚一枚花弁を摘みとる。秘密を被うよう
に重なりあい密集するものの中へ分け入る。蜜のながれる
花糸を一つ一つ解いていく。裸になった花柱を摘みとる。
指先は黄色い脂粉にぬれた。

花冠は消失しても、茎の内部にはさらに深いバラの層がひ
ろがり、花弁は透けて重なり、肉体の空へ屈折している。
この細い透明な維管束をながれるものは何か。

美の影がながれる。生の個別性から死の全体性へ回帰しよ
うとする意志、隠された内的な欲動---。バラは遥かな
先行者であり、人はバラの表象である。

 一行目に「寓意」ということばがある。「寓意」ということばをつかうと、詩は、非常に難しくなる。「寓意」をどこまで深めていくことができるか、読者は期待するからである。そして、その「深さ」はときに「複雑さ」にかわってしまうことがある。「複雑」になると、しかし、問題は違ってきてしまう。「謎(解き)」になってしまうことがある。
 少し言いなおしてみる。
 「寓意」と書かなくても、(説明しなくても)、詩に登場する「バラ」を「バラ」と思って読む人は少ない。では、なんと思って読むか。「バラ」のとらえ方と思って読む。つまり、そこには「バラ」が描かれているではなく、バラと向き合った人間(詩人)がいるのであり、読者が読むのは「人間」なのである。「寓意」とことわらなくても、必然的に「寓意」のようなものが生まれてしまう。それが、ことばの運動だからである。
 受講生は、どんな「寓意」をくみとったか。
 「四連目に詩人の思考の深さがある」「人生をバラに表象している」「表層から深部へ向かう流れがいい」
 うーん、抽象的だ。質問を変えてみるのがいいのかもしれない。「自分には書けないなあ、と思ったことばは?」
 「秘密を被うように重なりあい密集するものの中へ分け入る。」「肉体の空へ屈折している。」「美の影がながれる。」「バラは遥かな先行者であり、人はバラの表象である。」
 「自分には書けない」は「自分と青柳とは違う」という「違い」の発見であり、また、単に「違いの発見」ではなく、つまり「青柳の発見」であるだけではなく、「そういう行を書いてみたい」という「自分の発見」でもあるかもしれない。
 さて。
 「寓意」であるからには、私は「バラ」を描いているとは読まない。むしろ「交配」を描いているものとして読む。「交配」とは「交合」である。「花弁を摘む」ということばは、たとえば吉岡実の「サフラン摘み」を思い起こさせる。「秘密」「蜜」「ながれる」「密集」「わけいる」「裸」「指先」「ぬれる」。
 どこまで持続できるか。
 三連目で、青柳は「茎の内部」を描き、さらに「維管束」を経て、四連目で「生」と「死」という哲学の中でことばをまとめるのだが、「寓意」ではなく「論理」になってしまった感じがする。「謎」が自分自身(読者自身)にはかえってこなくて、青柳の「思想/思考」のなかで整理されていくのを感じる。
 「思考」は整理するものではなく、むしろ、乱すもの、ではないだろうか、と私は思う。とくに詩は、論文ではないのだから、ことばの整合性は必要としないときがある。
 二連目は、これまでの青柳のことばの運動からみると新しい展開であり、そのことばが「茎の内部」、さらに「維管束」へと、ふつうはつかわないことばへと進んだのだから、そのまま「植物」を離れずに、「人間/肉体」に重ねてほしかった。「人間の内部の動き」に重ねてほしかった。
 ことばが加速して「生/死(いのち)」に昇華するのもいいが、少しことばの展開が早すぎる。長さにとらわれずというのは、講座で取り上げ、みんなで語り合うときに少し難しい問題を抱え込むことになるが、気にせずに、「隠された」「欲動」をもっと具体的にことばにし、読者を混乱させてほしいと思う。

紫の光る君  池田清子

まず
へたの周りにくるりと切れ目を入れましょう
次に
縦に四本のすじを引きましょう
ただそれだけで
二本でも三本でも
魚焼きグリルに イン

両面焼きの場合
途中九十度回転させて
あとは
お気のすむまで

紫のてかりが
少しずつ
身に影を落として
枯れていく

大好きな光る君が
自ら身を引き
大好きな素朴な君へと
変わっていく

栄養があるのかないのか
食べ過ぎてよいのかわるいのか

何と(馬鹿馬鹿しい)
深い味わい

 最終連。「他愛ない」「頑是ない」「池田さん特有の書き方」「深い味わいと直結しない」「池田さんの底知れない多様性」。いろいろな声が出たのだが。
 私は、最終連は、もっと他の書き方があると思う。
 「焼きなす」をつくって食べる。それは当たり前のようなことであって、当たり前ではない。というか、このことばのなかには、実は、これまでだれも書かなかったことばがある。
 たぶん。
 受講生の一人が「両面焼きの場合」という一行がおもしろいと言ったが、そのおもしろさは「事実」を書いているからであり、そして「両面焼きのグリル」で焼きなすをつくることはあっても、それを詩にしたひとはいないだろう。だいたい「両面焼きグリル」そのもの自体が新しいから、だれも詩に書いていないのである。直前の「魚焼きグリルに イン」も、新しい書き方である。
 そうした「新しいことば」をていねいにつなげていけば、それだけで詩になるか。じつは、ならない。「対象」と、それを「言語」にするときの作者の「位置」、つまり「距離感」が「一定」でないと、単に「新製品の宣伝」になってしまう。
 この詩ではなすに包丁で切れ目をいれるところから、途中でなすを回転させるところまできちんと描き、その動きの中に「イン」「両面焼き」といういままで存在しなかったことばがきちんとおさめられている。どのことばも「日常で使いこなすレベル」で統一されている。この統一された「ことばの距離感(作者の立ち位置)」が詩なのである。つまり、読者は「作者の立ち位置」、作者そのものを読むのである。「焼きなす」の作り方を読むのではなく、つくっている(食べている)詩人の「人間性」を読むのである。
 さて、最後。
 食べ物の味をことばにするのは難しい。でも、ことばにしてほしい。「深い味わい」では、味が伝わらない。舌触り、歯触り、におい。やわらかさ。あまさ。「切れ目」はどうなったのか。「紫の皮」はどうしたのか。
 この作品に「セクシャリティーを感じる」と語った受講生がいたが、食べることは、たしかにセックスとも関係する。池田にそういう意図があったかどうかは関係なく、読者は、自分の好みに従って読む。その「読者の好み」をからかうように書いてみるのもおもしろいと思う。
 この講座を始めるとき、私は「嘘を書いてみよう」という言い方をしたことがある。どんな嘘も「ほんとう」を交えないと嘘にならない。焼きなすをつくる。皮に切れ目を入れる。その「ほんとう」を書いたあと、ことばをどこまで動かしていけるか。たとえば、切れ目は、どうなったのか。ことばを動かしながら、自分をどこまで変えていけるか。自然に変わっていくときは、自然に変わればいい。しかし、自然に変わらないときは「わざと」変わるのである。
 西脇順三郎は「現代詩は、わざと書くもの」と言ったが、「わざと」書いた瞬間に、なにかがうまれることもある。


 
ジ イノセント  堤隆夫

殺した側の論理が いつの間にか奇妙に腐乱した果実から
手のつけられぬ程 増大した悪性腫瘍となり 無辜の肉体を殲滅する
加害の責任を問えない
問えば 人権侵害というイノセントな良識派よ

善もない 悪もない 正義もない 恥もない
どこまで行っても泥濘のこの地よ
ああ この地はいつからこのようになったのか

この敗戦の大いなる代償が 被害者の人権が雲散霧消し
加害者の人権が跳梁跋扈する 戦後民主主義なる
日本租界の 今なのか

殺される側の論理は怒り
怒りは真実の鏡
きっちりと社会責任を問うことこそが 
この地に住む人間の尊厳 そして誇り
その静かなる規範の遵守こそが 今 一番大切なこの国の同一性

汝は何時迄 負け犬で満足しているのか
汝は何時迄 自らの責任をマジョリティーに転嫁し
一人卑怯者の不遇を装い続けるのか

無恥の砂漠で もうこれ以上 生き恥を曝さないで欲しい
なぜならば わたしはあなたを理屈ぬきに愛しているから
それは あなたに対する感愛
感愛 そうそれはわたしがあなたに抱くカナシミノココロ
不条理の森に蔓延する カナシミノココロの空気
その空気の百合の公共圏―――その連帯感のエナジーで
わたしとあなたは もう一度奮い立つ
そのことこそが愛 感愛
そして わたしとあなたとの共生の志
そして 生き続ける希望

 堤の詩の魅力は、畳みかけるリズムにある。「善もない 悪もない 正義もない 恥もない」という一行があるが「善も悪も正義も恥もない」という具合には、堤は書かない。最初のことば「善」が「悪」を引っ張りだしたのか、「善」と書く前に「悪」があらわれて「善」を誘い出しているのか。それは、わからない。そういうことを考えさせないリズムである。「どこまで行っても泥濘のこの地よ/ああ この地はいつからこのようになったのか」の二行のなかの「この地」という繰り返しについても同じことがいえる。泉から吹き出す水が、吹き上がりながら、下の水にもぐりこみ、みわけがつかなくなる。そこに「勢い」がある。この「勢い」が堤の「人間性」である。「勢い」がひとつひとつのことばを鋭角的にしているのである。
 「論理」というか「意味性」が強い詩なのだが、考えさせない。考えさせないというと誤解を与えるかもしれないが、読んだ人に考える時間を与えずに疾走する。そのスピードを借りて、「その空気の百合の公共圏」というような、異質なものが突然あらわれる。「論理」の運動を突き破って、「論理」の奥から、論理になる前のものが噴出してくる。もちろん堤には、そのことばの脈絡がわかっているのだが、読者にはわからない。しかし、それはわからなくてもいいものなのだ。ただ、読者はびっくりすればいい。いつか、興奮が静まったとき、その「突然」のもっている「意味」が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。それがわからなくても、このリズムが堤のことばなのだとわかれば、それでいいのだと私は感じる。
 堤の書き方は、青柳とも池田とも違うが、違っているからこそ、そこにはそれぞれの「譲れない真実」というものがある。

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Estoy Loco por España(番外篇454)Obra, Javier Messia

2024-09-01 12:48:22 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia 

Se encuentran las arenas y las olas en nuestra playa .
Cuando la luz del sol la toca, refleja oro, y cuando la sombra de la luna la toca, se vuelve azul claro.
Las arenas y las olas se separan después de tocarse, y el sol y la luna se miran para separarse.
La belleza estaba en todas partes, pero la eternidad no estaba en ninguna parte.
Como sabíamos, siempre llega el momento en que no lo estamos esperando.
¿Puse podría escribir las palabras que dijiste en tu corazón, o podría escuchar mal lo que te dije?
Estaba escribiendo un poema en mi memoria que decía: "Estabas leyendo un poema que aún no había sido escrito".

 砂と波が出合う私と君の海辺。太陽の光が触れると金色に反射し、月の影が触れると青く澄んだ。砂と波は触れ合ったまま別れ、太陽と月は別れるために見つめ合う。美しさはどこにでもあったが、永遠なんて、どこにもなかった。わかっていたことだが、時間はいつも待っていないときにやってくる。君がこころのなかで言ったことを私がことばにしたのか、私が言ったことを君が聞き間違えたのか。君はまだ書かれていない詩を読んでいた、という詩を私は記憶の中で書いていた。

コメント (1)
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