詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「仮晶」ほか

2024-09-29 12:13:57 | 現代詩講座

青柳俊哉「仮晶」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月16日)

 受講生の作品。

仮晶  青柳俊哉

惹かれて野花の咲く原へ

月へむかって花の成分がながれだす

ひとつの茎が指にふれる

かたい腺毛の奥のしずけさ
唇を花びらが噛む
苦みのある繊維質の霧のような香気

月がしぐれて 舌 崩れる

多孔質
スポンジ状の子房の中へそそがれて
種子へ結晶する

接合されて
野花と生きはじめる

 「月へむかって花の成分がながれだす」は、青柳の「詩語法(詩文法)」の特徴である。肉眼では見ることのできない運動が、言語によって実現されている。「花の成分」は具体的に何を指すか。それは読者の想像力に任されている。
 この詩には、ほかにもおもしろい語法がある。
 「ひとつの茎が指にふれる」「唇を花びらが噛む」。「ふれる」「噛む」という動詞の主語は「茎」「花びら」。人間ではないものが、人間に働きかけている。ここでは、人間が自己主張しない。「無」になっている。そして、その瞬間にあらわれる世界を生きている。
 そうした運動のあとに「月がしぐれて 舌 崩れる」という魅力的な行があらわれる。「舌」につづいているのは空白(一字空き)であって、助詞がない。もし「月がしぐれて 舌が崩れる」であったら、どうなるのだろうか。「崩れる」は自動詞であって、他動詞ではないから「ふれる」「噛む」のように、何かが肉体に働きかけた結果の動きではないのだが、何かしら、それまでの運動の印象とは違った感じがしてしまう。助詞「が」を省略することで、「舌」が宙ぶらりんになる。「崩れる」が自動詞なのに、それまで読んできたことばの運動(文体)の影響で、何かの働きかけがあって「崩れる」という動きが起きたのだと感じてしまう。何かが「舌を崩す」と感じてしまう。では、何が? 「月」か「しぐれ」か。(「しぐれて」は名詞ではなく、動詞なのだが。)
 ここには、不思議な「保留」がある。「判断中止」がある。
 それを経て、「私の肉体(と、青柳は書いているわけではないが。青柳は「私の精神(意識)が」と補足するかもしれないが)」「野花」と「接合されて」「生きはじめる」。野の花として、再生する、と読んでみた。

もし神がいるのなら  堤隆夫

子どもたちの未来が、
戦争のない平和な時代でありますように
飢えに苦しむことがないように
環境汚染や被曝のために、
故郷を追われることがないように

病や事故で苦しむ人々が、
少しでも少なくなるように
必要な時、必要な医療が、いつでも受けられますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る

国境を越えて、人々が手を取り合って、友達になれますように
学ぶ環境が、阻害されることがないように
機会の平等が、保証されますように
笑顔で働ける環境でありますように
がんばれば、報われる世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは何度でも祈る

そして--自分と違うからといって、差別やいじめがないように
助け合って生きていく世の中でありますように
個々の人間が、その多様な存在のまま、尊重される世の中でありますように

もし神がいるのなら、わたしは祈る
そして--神に栄えあれ

ある詩人の言葉が、今、わたしの胸に突き刺さっている
--「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、俺は絶対風雅の道をゆかぬ」

 「もし神がいるのなら、わたしは祈る」が繰り返される。途中に「何度でも」を挟んで、それが強調される。その強調を、さらに印象づけるのが「ように」の繰り返しである。この詩のポイントは、おなじことばを繰り返すところにある。
 この「ように」は、まだ実現されていないことをつぎつぎに明るみに出す。くりかえすこととで、見落としていたものが、そういれば、これも、あれも、と誘い出されてくる感じである。
 そうしたものが増えてきて、増えることで強くなる。
 「祈り」と書かれているのだが、「祈り」を超えて「欲求/欲望」になっていく。さらに、それを実現する「意志」へと変わっていく。堤自身の「決意」へと変わってく。
 それが最終行に結晶している。そこには「祈り」ではなく「決意」がある。

垣根越しの秋  杉惠美子

目眩のしそうな暑さから
少し抜け出して
クーラーの設定温度も少し上げて
ようやく 視線の行き先も落ち着いてきました

家の中でも動きが出ています
時折 熱い珈琲が欲しくなります

夜になると
月がひときわ明るく 私をたずねてきます
私も思わず話しかけたくなるのです

庭のあちこちには蝉の抜け殻が落ちています

毎年 この姿は不思議な気持ちになります
触れたくはないけれど 見捨てたくもないような

じっと見ていると
ありのままの姿で
今日の私をすり抜けたあとのようで
自分のことばをすり抜け
その先にある もっと広いことばを探しているような気がします

ゆっくりと季節は進み
秋の草が戸惑いながら揺れています

 この杉の詩にも、くりかえしがある。そのくりかえしは、堤のくりかえしとは少し違う。一直線に進まない。高みへのぼっていくというよりも、深みへおりていき、ゆっくりと広がる。
 おわりから二連目。「すり抜ける」「ことば」が「私/自分」を交錯させる。これは「蝉の脱け殻」の「抜け」と「すり抜け」の「抜け」が交錯していることもあって、「私/自分」と「ことば」のどちらが「脱け殻」なのかというような、不思議な疑問を呼び覚ます。
 杉は、たとえば月、あるいは蝉の脱け殻と対話するだけではなく、自分自身とも対話する。それが「戸惑い」「揺れる」ということばのなかに静かに反映されている。

おかしいでしょ!  池田清子

エスコ、ペルー、ゾゾ、マツダ、
バンテ、ケイ、京セラ、みずペ、

一体、どこ?
福岡ドームでいいでしょ

あっ
ブルーのユニフォーム
西武戦か?
えっ
日ハム?

黒と黒のユニフォーム
一体、どっちの主催試合?

おかしいでしょ!

 「おかしいでしょ!」は、怒りである。自分の知っていることが否定された怒り。でも、だれに対して怒っていいのかわからない。この怒りは、堤の書いている怒りのように力にならない。あるいは、力にしないことを目的とした(?)怒りとでもいいのだろうか。つまり、笑うことのない「笑い」でもある。
 こうした詩は、一篇ではなく、たくさんあつめると、不思議な「厚み」を抱え込む。たくさん書き続けることは、一篇を完成させるよりも難しいことがある。

 

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奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)

2024-09-29 11:51:19 | 映画

奥山大史監督「僕はイエス様が嫌い」(★★★)(キノシネマ天神、スクリーン3、2024年09月28日)

監督 奥山大史 出演 佐藤結良、大熊理樹

 冒頭、おじいさんが障子に穴をあけて、外を覗いている。このシーンがラストで少年にかわる。少年が障子に穴をあけて、外をのぞく。おじいさんが何を見たかは描かれない。少年が見たのは、少年が大好きな友人と雪の上でサッカーをしている姿である。
 このシーンは、「ぼくのお日さま」を思い出させる。「見る」とは、何か、ということを考えさせる。
 見る。目で見る。だから、目が直接見ることができないものは、自分の目である。しかし、目で見るとき、そこには「自分」が反映される。つまり、それは単に「自分以外」を見るのではなく、実は「自分」を見ることでもある。
 少年は、障子の穴をとおして、彼と友人が夢中になって(ほかのだれも見えない)になって、サッカーをしているのを見る。そこに自分がいるのだけれど、自分がいない。そして、たぶん、そこには友人もいない。ただ「楽しい」、あるいは「うれしい」が「ある」。「自分」は「無」になり、そこに「楽しい、うれしい」が輝いている。「好き」とは、こういことなんだなあ、と思う。
 「ぼくのお日さま」では、主人公の少年は少女がスケートをしているのを見る。コーチが回転しながらジャンプする、その仕方を教えている。それを見た少年は、少女が教えられた方法を試してみる。このとき少年は少年でありながら、少年ではない。回転しながらジャンプするという「行動(運動)」そのものになっている。自分の肉体の動きを確かめるとき、少女の肉体の動きを確かめていると書くと書きすぎだが、「人間の肉体の動き」(何かを実現する喜び)を確かめているとはいえる。そこには「自他」の区別は存在しない。「自他」を超える「無」の喜びがある。
 奥山大史のとらえようとしているのは、何か、そうしたものである。「無」、あるいは「空」と呼んだ方がいいのかもしれないが、いま、多くの人が見失っている「絶対的喜び(幸福)」をつかもうとしている。提示しようとしている。
 大好きな友達が死んでしまったのに、そこに「よろこび」が表現されるというのは「矛盾」かもしれないが、「悲しみ」を超えてしまう「よろこび」、その純粋さ、透明さが、この「僕はキリスト様が嫌い」でも、とてもよくあらわされている。
 (★が三つになってしまったのは、たぶん「ぼくのお日さま」があまりにすばらしくて、その「反動」のようなものかもしれない。)
 このラストシーン、スクリーンの下の方に「白い何か」がゆらゆら揺れている。これを映画の「キリスト」と結びつけ、「神様が見ている」と言う人がいたが、(「神の視点から見た世界、神はいつでも人間を見守り祝福している」という人がいたが)、私は無神論者なので、そんなふうには見ることはできない。あれは、あくまで障子の穴の、その周辺の紙である。少年の「我」が消え、「無(空)」になったから、あのシーンが見えるのである。もし、どうしても「神」と結びつけなければならないとしたら、「無我」の瞬間、少年は「神」になっていると言えばいいだろうか。「神」にひとしい存在、「自己主張」が消えた視点になっていると言えばいいだろうか。
 主人公の少年は、死んだ友人への「弔辞」を読んだあと、祈祷台(?)にあらわれた小さなキリストを拳で叩きつぶす。「友人を死なせてしまうキリストなんか許せない」という気持ちか。でも、もし「神」がいるとするなら、そういう「神への憎しみ」さえも許してしまうのが「神」というものだろう。裏切ろうが、迫害しようが、人間を許し、受け入れるのが神だろう。
 悲しみを受け入れる。そして悲しみのなかで楽しかったこと、うれしかったことを思い出すほどつらいことはないのだが、不思議なことに、その悲しいときに楽しかったこと、うれしかったことを思い出すことができるということが、人間を「生かす」力となっている。少年は、ラストシーンで、それを語るわけではないが、感じている。そういうことを教えてくれるとても美しいシーンである。
 こういう純粋な透明感をそのまま具体化できるというのは、現代では、とても貴重なことだと思う。奥山大史という監督は、初めて知ったが、これからも作品を見続けたいと思う。

 奥山大史監督の特徴は、「白」にいろいろな白があるということを知っていることだ。雪の美しさ、悲しさはもちろんだが、障子のほのかな白の変化、白い花だけではなく、青い花のなかにもひそんでいる白も含めてとても美しい。黒のなかには無数の色がある、無数の色があつまり黒になると言うが、白のなかにも無数の色がある。奥山大史の、その無数の色は「光の無数の色」なのだろう。だから、最後にその無数の色があつまると、何もない「透明な光」「純粋な光」そのものになる。
 書いていたら、★4個、あるいは5個にしたくなってきた。
 いい映画というのは、こういう変化を引き起こす映画のことかもしれない。

 

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細田傳造特集

2024-09-26 10:39:32 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造特集(「阿吽」復刊01、2024年08月25日発行)

 「阿吽」復刊01の「細田傳造特集」を見た瞬間に(読んだ瞬間にではない)、笑い出してしまった。表紙に「書下ろし一〇詩篇と十二の論考」とある。そして、その「論考」の執筆者が全員女性なのである。(名前だけで判断したので、間違っているかもしれないが。)
 で、これが、笑い出した原因。
 私はだいぶ前から、細田傳造の詩は「おばさん詩」であると言っている。「論考」を書いている詩人のなかには、私が「おばさん詩」と呼んでいる詩を書いているひともいる。そうか、やっぱり細田の詩について、何かまともなことを(まともな反応を)書くとすれば(それを期待すれば)、「おばさん」以外にいないのだなあと思ったのだが、これは私だけの印象ではなく、編集者もそう思っているのかと直覚したのだ。そうでなければ、論考の執筆陣が女性だけ、というのはかなり奇妙なことだろう。
 男では、荒川洋司が、いちばんまっとうな細田傳造論を書けると思うが、ほかには書けそうなひとを私は思いつかない。
 と、ここまで書いたら、もう書くことはないのだが。
 書き始めたのだから、むりやり(?)書き続けてみるか。

 「怒り Anger of a lady」の書き出し。

あの
かたちがきらい

 この二行から何を想像するか。詩、なのだから、「正解」などないのだが、つまり、何を想像しようがかってなのだが。細田は、読者が何を想像するかを「直覚」して、ぱっと、二行をほうりだす。そのあとで、
 おちんちん。
 詩のなかで、そう言いなおされているが、「ひろこさん」がほんとうに「おとなの/おちんちんがきらい/かたちがきらい」と言いなおしたのかどうかは、わからない。細田が、ひろこさんの恋人(注釈に書いてある)にかこつけて「smells の方はいかがでしたか?」なんて聞いたから、ことばがそっちへ動いたのかもしれない。いや、そういう方向へ動くと知っていたから「smells の方はいかがでしたか?」と聞いたのかもしれない。
 まあ、どうでもいい。「説明」なら、あとからいくらでも都合にあわせて言うことができる。修正ができる。そんなものは、「その場しのぎ」である。
 一方、

あの
かたちがきらい

smells の方はいかがでしたか?

 も、また「その場しのぎ」というか、「即興」であろう。
 この「即興」の「幅」というか「飛躍」というか、何を手がかりに、どう動くかという判断の「直覚」が「おばさん」なのである。
 何かを「基本(土台)」にして、そこから飛躍するというよりも、「何か」のなかにすっと溶け込んで、自分を捨て去って(無我になって)、「何か」の内部から新しいビッグバンが起きる。その瞬間の「直覚」。
 こんなことは、ことばでは説明のしようがないのだが、細田のことばの動かし方は、どこで「おばさん」と一体になっている。「無」我になっているから、もうそれ以上なくなりようがない、だからこれでいい、これで平気という感覚かなあ。
 これは、とても難しい。男には、できない。あの、耳のいい谷川俊太郎でさえ、こういうことはできない。

あの
かたちがきらい

 という「おばさんの声」を聴き取り、それを書き留めることはできても、そのあと「おばさん感覚(他人との距離を無視する、無我になって接続してしまう)」で、

smells の方はいかがでしたか?

 と切り返し、「その場」を活性化することはできない。
 で、この「おばさん直覚」を、それでは男のすべてが持たないかというと、そうではない。ちゃんと(?)生活している男は持っている。
 「猪」という詩は、養豚場に猪があらわれ、

いきなり
雌豚の梅子の尻に乗っかった
ぶるぶるぶるっと
三回痙攣し
事をすますと
すたこらすたこら
山へ帰っていった
鈴木さんが
渋い顔をして言った
俺んちのおんなたちに
ワイルドな味をおぼえさすと
男をえらぶようになる
子豚の取れる数が減る

困ったことだ

 豚のことを書いているのか、猪のことを書いているのか。あるいは、「俺(鈴木さん)」の「おんな」のことを書いているか。鈴木さんの体験を書いているのか。鈴木さんは、おんなを寝取られたことがあるのか。
 直覚は、世界の「境界線」を消してしまう。「無我」さえも消え、「無」という絶対があらわれる。「意味」を叩き壊して、「世界」に戻る。

困ったことだ

 これは鈴木さんのことばか、細田の声か。それはほんとうに「困っている」のか、それとも「うらやましがっている」のか。つまり、イノシシになれたらいいなあ、と言いたいけれど、それを言うと「まずい」ので、「困った」と言っているだけなのか。
 「答え(正解)」なんて、ない。
 「答え(正解)」なんてなくても、人間は存在する。存在できる。存在してしまう。細田は、こういう感覚(哲学/直覚)を、こどものときから持っていたようだ。
 「そら」を全行引用する。

そとにだされて
よこにならばされた
そらをみていたら
まっすぐまえをみていろ
みんなでまえをみていた
せびろをきたおとこのひとが
おおぜいきた
えんちょうせんせいやほけんのせんせいや
たんにんのせんせいたちが
じめんをみて
じっとしている
せびろをきたおとこのひとたちの
せんとうの人がぼうしをぬいで
あるくのをやめて
れつのまんなかにいたぼくに
きゅうにはなしかけてきた
ちちはははげんきか
へんじができなくって
だまりこんで
そらをみた
あとでまた
せんせいにしかられるとおもった
せんさいこじいんというところに
ぼくたちはいた

 この透明感は、最近見た映画「ぼくのお日さま」に通じる。細田は「そら」の色、明るさ、光の感じなどを一切書いていないが、私は、何も存在しない「空(くう)」、「絶対空」の透明な光を感じる。「空則ぼく」「ぼく即空」。この「空」は「そら」と読むのか「くう」と読むのか、書いている私にもわからないが、「おばさん詩」のなかにある「絶対」を、こんなふうに昇華していくのが細田の、だれにも追いつけないところだなあ。

 

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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2)

2024-09-24 00:55:41 | 映画

(この記事の下にある「ぼくのお日さま」の感想のつづきです。先に下の記事を読んでください。)

 私は他人の批評は読まないのだが、ある人が、ユーチューブの「ぼくのお日さま」の批評について、わざわざ教えてくれた。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM
 これが、とんでもない「批評」。
 「最後の詰めが甘い」というのだが、その詰めのシーンで彼らはいちばんのポイントを見落としている。ラストシーンは、少女が遠くから歩いてくる。少年がその姿を見つける。ふたりは、久々に出合う。そのとき少年は何かを語ろうとする。そこで映画は終わる。少年が何を語ったかは、わからない。
 でもねえ。
 この少年は何を持っていたか。ただ学生鞄を持っていただけか。胸に大事にかかえていたのは何か。それはコーチがくれたスケート靴である。それを袋(鞄?)にいれてかかえている。コーチが少年にスケート靴を渡したときの袋(ケース?)の色は覚えていないが、同じ色だったかもしれない。違っていたかもしれない。しかし、どう見てもスケート靴を入れている袋にしか見えない。野球のグラブやバットが入った袋ではない。
 少女はスケート場から帰ってくる。少年はスケート場へ向かっている。少年は再びスケート(フィギュア・スケート)を始める気持ちになったのだ。そして、初めてその気持ちとなったときと同じように少女に出会ったのだ。少年は少女を、少年が初めて少女を見たときの目で見ている。そして、そこで「初めてのことば」を交わすのだ。これ以上に美しいハッピーエンドはない。
 さらに。
 驚いたことに、このユーチューバーたち(3人)は、一種の裏切りをした少女がどう立ち直っていくか(こころに傷を背負っていく)というようなことを語っているのだが、まあ、なんというか。「不潔な理想」だ。男の願望丸出しの感想。少年を、そしてコーチを裏切った少女には、罪の意識を持ってほしい、と思っているようだ。
 少女に、そんな「責任感」を押しつけて、いったいどうなるのだ。
 どうして、いろいろなことがあったけれど、スケートをつづけて立派な選手になってほしいと思わないのだろう。
 コーチが北海道を離れようが、少年がたとえスケートをやめようが(実際は、やめはしない)が、そんなことは少女には関係がない。少女は自分の気持ちに純粋にしたがっただけ。スケートが好きだし、コーチが好きだから、ちょっと自分の方を向いてほしかっただけ。裏切りも、自分をもっとみつめて、という叫び。幼いから、それをことばにできないだけ。
 少年は、そうした少女の「こころ」を知っているかどうか、わからない。少女の裏切りの背後に何があったかも、はっきりとは知らないはずである。
 でも、少年がスケートを再開すれば、それは少女の励みになる。そうなることは、見ている観客にはわかる。ふたりがペアでアイスダンスをするかどうか、そんなことは関係がない。ただ、ふたりはスケートをする。スケートをすれば、それだ楽しい。その喜びが、もう一度始まるのだ。
 「不純な中年(もう、高年?)」の、時代後れの「少女観」が、映画を台無しにしている。上記のURLの感想を聞くと、ただただあきれる。「世界のおきく」のときも、信じられないようなことを語っていた。はっきり書いておこう。上記のユーチューバーたちは、映画業界で金稼ぎをしているだけの人間である。


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奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)

2024-09-23 16:00:22 | 映画

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(2024年09月23日、キノシネマ天神、スクリーン2)

監督 奥山大史 出演 越山敬達、忍足亜希子、池松壮亮

 傑作。
 冒頭の初雪のシーン。とても美しい。透明な空気のなかの水分が結晶して、舞うように空から降ってくる。それが繊細で、美しい。純粋そのものが結晶になって舞っている感じ。みつめる少年の目が、同じように透明で純粋で美しい。
 この印象が、最初から最後まで、まっすぐにつづく。
 ひたすら透明、ひたすら美しい。純粋。
 少女の嫉妬、そしてそこからはじまる「裏切り」さえも透明で美しい。この場合の透明は、何もかもがはっきり見えるということである。はっきり見えるから、それを否定できない。少女は自分の気持ちを裏切ることなどできない。純粋な気持ちが、嫉妬さえも貫くのである。嫉妬が間違っているといえない。嫉妬を間違っていると言えるのは、嫉妬をしたことがないひとだけである。
 こんなことは、しかし、書く必要はないなあ。
 なんの説明も必要としない。
 透明で純粋で美しい、と書けば、それでおしまい。
 この透明さ、純粋な美しさを、最初から最後までつらぬけるのは大変な技量である。人間をみつめる目がまっすぐなのだとわかる。カメラワークに演出がなく、それが映画をいっそう純粋なものにしている。
 唯一、私が気に食わなかった点をあげるとすれば。少年の父親が少年と同じように吃音であること。これは、なんともいえず不自然だった。
 しかし、傑作。今年のベスト1の映画。


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呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)

2024-09-22 13:24:24 | 映画

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)

監督 呉美保 出演 吉沢亮、忍足亜希子

 「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。
 一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。
 しかし。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を題材にした映画であり、主人公は「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きているという具合にとらえているのだが。
 このとらえ方は、違っていると思う。私は呉美保の作品には何か引きつけられる部分があって、その私が感じている引きつけられる部分が、いま世間で言われている「解説(感想)」とはずいぶんかけ離れている感じがする。それで、ほんとうなのか、という気持ちもあり、映画を見た。(呉は、個人の意識(認識)を深く掘り下げるタイプの作風ではなく、人間の「幅」を広げるタイプの作風だと思う。)
 そして、やっぱり違っていた。
 「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、たしかに簡単に説明すれば、主人公が体験した「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いている。私は見が聞こえない人、口がきけない人と対話したことがないので(手話も知らないので)、私が知っている世界は「聴こえる世界」であって「聴こえない世界」ではないから、このふたつの世界を体験しているということはそれだけで、そこから教えられることは多いのだが。
 でも、この映画を「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きている主人公を描いているというだけでは、この映画を語ったことにはならない。
 たまたま、この映画の主人公は、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いているが、そういう定義でなら、「侍タイムスリッパー」も「武士の世界(幕末)」と「現代」という「ふたつの世界」を生きているということもでき、そこには違いがなくなってしまう。だいたい、ひとはそれぞれ独自の世界を生きている(というか、人はだれでも自分を主人公とする世界を生きている)という言い方をしてしまえば、そして、それぞれの独自の世界を生きていることを認める(マルチ世界を認め、尊重し合う)という方向へ論理を展開していけば、それは、どんな「現実」についても言えることである。こんな抽象的なことを言っても始まらない。
 だいたい、呉美保の映画は、そういう「抽象的説明(解説?)」とは遠い「リアル」な描写そのものに基本がある。抽象的な道徳倫理にくくってしまって、そこから何かを語っても、この映画を語ったことにはならないだろう。
 これまで書いてきた「ふたつの世界」は、実は「主人公が体験した世界」と言いなおせば「ひとつの世界」である。それを「ふたつ」に分割しているのは主人公ではなく、その映画を見ている観客が聴こえるか、聴こえないかの視点である。それは裏を返せば「私は聴こえる」という「ひとつ」の世界からみた世界、いままで気がつかなかった世界というにすぎなくて、それは「ふたつ」と数えてはならないものである。単に、「見てこなかった世界、見ようとしなかった世界」である。それをふくめて「世界はひとつ」と言ってしまえば、それでおしまい。
 なぜ、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのか。
 この日本語は、ふたつの意味をもっている。ひとつは「ぼくが主人公として体験した世界」という意味であり、もうひとつは「ぼくが主人公として生きている世界」である。後者には、実は、もうひとり「主人公」がいる。
 この映画に関して言えば、「母親」である。「母親の世界の中でぼくが主人公として動いている」。主人公「ぼく」は、このことを知らなかった。だれでも自分を主人公と考える(自分中心に考える)から、「ぼくは聴こえる世界」を生きるとと同時に、「聴こえない人のいる世界にも足を踏み入れ、そのひとたちを助けたりする」ことになる。そう考える。しかし、母親にとって「聴こえる世界」はない。「聴こえない世界」しかない。補聴器をつかって主人公の声を聞くことがあっても、それはあくまでも「聴こえない世界」でのひとつのエピソード。その「母の世界」で「母」は主人公であるのはもちろんだが、それだけでは終わらない。「母の世界」のなかで、主人公は「母」ではなかった。「ぼく」だった。「はは」は「ぼく」を主人公にするために生きていた。母にとって主人公は「ぼく」だった、と主人公が気づく。
 これが、この映画のテーマ、呉のテーマである。呉がくりかえし描く「家族」とは何かというテーマである。「私ではない、相手が主人公なのである」。「他人が主人公の世界」。そういう世界でも、私たちは実は生きているのである。
 ラストシーン直前。ぼくと母が列車の中で手話で話している。そのあと母が、ぼくにありがとうという。みんなが見ているところで手話で話してくれて、うれしかったというようなことを言う。こここそが、ほんとうのクライマックス。列車の中で手話で話しているとき、ぼくは「主役」ではなくかった。母が主役であり、ぼくは「脇役」だった。だが、「脇役」もできるというのが「主役」の強みであり、「脇役」は「主役」にはなれない。「母の世界」のなかで「主役」のぼくが「脇役」になり、母を「主役」に引き上げている。母は、それをほんとうにびっくりし、こころから喜んでいる。森進一の歌った「おふくろさん」ではないが、自分ではなく他人のために何かをするとき、そのときこそ、人間は「主役」になっているのである。「人間」になっているのである。
 主人公は、両親のために苦労させられていると感じていた。「こんな家に生まれたくなっかた」と思っていた。しかし、両親は違ったのだ。「生まれてきてくれてありがとう。おまえが私たちの主人公」と思って生きてきたのである。そして「主人公」のおまえが、主人公をやめて「脇役」になる。その瞬間、それは母が主役になるというより、ふたりが「主役」になる、「家族が主役になる」という瞬間なのだ。
 私は映画ではめったに泣かないが、思わず泣いてしまう瞬間がある。呉の、この映画でも、母が「ありがとう」と言ったあと、生きてきた苦しみが何もかも消えてしまったというような、さっぱりした後ろ姿で駅のホームを歩いていくのを見たとき、私は主人公が泣きだす前に泣いてしまった。
 あの忍足亜希子の後ろ姿、歩く姿は、もう一度見てみたい。あの瞬間までは、なんというか、映画のチラシやネットの解説がまくしたてているように「耳と口が不自由な両親をもつ主人公が体験した、聴こえる世界と聴こえない世界」をリアリティーにこだわって描いていた映画だったが、そのリアリティーは「ぼく」が見たリアリティーだけではなく、「母」の見たリアリティーでもあったのだと断言し、その世界で「ぼく」という主人公はどう母から見えていたかを教える。「ぼく」が思い出すのは母の笑顔、「主人公=ぼく」が幸福だったとき、母は「脇役」から「主役」にかわる。それを変えることができるのは「ぼく」だけなのである。
 多くの人は(私も含めてだが)、もしかしたら、私は「誰かの世界のなかで主人公しもしれない(主人公だったのだ)」と気づくことはない。だが、「世界」は、そんな不思議に満ちている。
 ホームを歩く忍足亜希子の後ろ姿までは、すこし紋切り型かもしれない。しかし、このシーンはほんとうに美しい。このシーンのために★を追加した。

 

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Estoy Loco por España(番外篇456)Obra, Laura Iniesta

2024-09-19 00:00:02 | estoy loco por espana

Obra, Laura Iniesta
Mixed media on canvas and crystal resin 30x30cm

 Negro, rojo y blanco. O negro, blanco y rojo. No, rojo, blanco y negro. ¿Cuántas combinaciones hay de estos tres colores? "Matemático" puede contener la respuesta. Pero rechazando esa respuesta, Laura diría: "UNO." Entiendo mal esa respuesta como "infinita".
 Es cierto que la combinación aquí es "única" y, en ese sentido, es "UNO". Sin embargo, no siento que los colores de este cuadro sean fijos. Los colores se están moviendo. Las formas se están moviendo. Sus movimientos no pueden contenerse dentro de un área de 30 cm cuadrados. Está desbordante. Se desborda hacia el mundo y atrae al mundo en el cuadro. El movimiento nunca se detiene.
 Lo llamo "infinito" porque nunca se detiene. El "movimiento" es infinito. A medida que se mueven, los colores de esta obra continúan cambiando. Sin embargo, sigue volviendo al negro, al rojo y al blanco. Vuelven más fuertes y más grandes.

 黒と赤と白。あるいは、黒と白と赤。いや、赤と白と黒か。この三つの色の組み合わせ方は、いったいいくつあるのか。「数学的」には、答えがあるかもしれない。しかし、その答えを拒否して、Lauraは言うだろう。「ひとつ」と。私はその答えを「無限」と聞き間違える。
 たしかに、ここにある組み合わせは「一回限り」のものであり、その意味では「ひとつ」である。しかし、私には、この絵が、絵のなかの色が固定されているとは感じられない。色が動いている。形が動いている。その動きは、30センチ四方の内部に納まらない。あふれていく。世界へ向かってあふれながら、世界を引き込んでいる。その動きは、止まることを知らない。
 止まることを知らないから、私はそれを「無限」と呼ぶ。「動き」が無限なのだ。動きながら、この作品の色はかわりつづける。しかし、なからず黒、赤、白に戻ってくる。より強く、より大きくなって。

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Estoy Loco por España(番外篇455)Obra, Alfredo Collado

2024-09-15 20:49:15 | estoy loco por espana

Obra, Alfredo Collado 
 “Galileo”

                                                                                                (Alfredo Collado es argentino.)

 Una metáfora es una negación.
 Una vez que la metáfora niega lo que nuestros ojos ven, la metáfora habla de una nueva existencia basada en lo que nuestros ojos no pueden ver.
 La acción de negación revela la lógica detrás de lo que ven los ojos, la lógica oculta por lo que ven los ojos. Una nueva afirmación lógica a través de la negación es la metáfora.
 No es la forma. Ni siquiera es el color. Es una verdad que trasciende la forma y el color.
 Por tanto, la metáfora debe ser negada una vez más. Al negar la metáfora, ésta trasciende la lógica y se convierte en verdad. La verdad se establece mediante la vehemente negación de la negación.

 ¿Es la esfera de cristal el universo? ¿El metal que lo sostiene es Galileo? ¿O tal vez todo lo contrario? ¿Es la verdad el lugar que sostiene a los dos? Tú, deja las palabras, dijo el poeta.


 比喩とは、否定である。
 目が見ているものをいったん否定し、目が見ていないものによって、新しい存在を語る。
 否定の作用によって、目が見ているものの奥にある論理、目が見ているものが隠している論理を明らかにする。否定による、新しい論理肯定が比喩である。
 それは形ではない。色でもない。形と色を超えた真理である。
 したがって、比喩はもう一度否定されなければならない。比喩を否定することによって、比喩は論理を超えて真理になる。真理とは、激烈な、否定の否定によって確立される。

 ガラスの球体が宇宙か。それを支えるメタルがガリレオか。あるいは逆か。ふたつを支える場が真理か。君よ、ことばを捨てよ、と詩人は言った。

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杉惠美子「おいしいごはん」ほか

2024-09-15 19:53:31 | 現代詩講座

杉惠美子「おいしいごはん」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年09月02日)

 受講生の作品。

おいしいごはん  杉惠美子

日日草が
お陽さまに向かって
本当を語ろうとする
ありったけの一瞬があった
からっぽになったとき

おなかがすいた

何かが終わった日に
夕立が激しく音を立てた
雷が止んだとき

おなかがすいた

夏の角を曲がって
海に落ちたとき
ずぶぬれになって
私まるごとを感じたとき

おなかがすいた

十三年が経って
ようやく気付いたことがある
私の中で透明な風となって
空を飛んだとき

おなかがすいた

 一連目が非常に魅力的である。「本当」「ありったけ」「からっぽ」が拮抗する。「本当」「ありったけ(すべて)」は似通うものがある。しかし、それは「からっぽ」とは矛盾する。このみっつのことばは、からみあって「撞着語」になる。それは「一瞬」のことであり、その「一瞬」は「永遠」でもある。
 何かに気がつくというのは、こういうことだと思う。
 では、何に気がついたのか。
 「おなかがすいた」
 そんなことに気がつかなくてもいい、というひとがいるかもしれない。しかし、「おなかがすいた」と気がつけることのなかには、どうでもいいこと(?)のみが持つことでできる「ほんとう」がある。
 そして。
 この「おなかがすいた」は、最初の連の「からっぽ(腹が空っぽ)」とも強く結びついている。
 この詩では「おなかがすいた」という一行が独立して連をつくっているが、それは前の連の最終行と強く結びついている。同時に、次の連への飛躍台ともなっている。
 この変化が、非常におもしろい。
 論理があるのか、ないのか。そんなことは、どうでもいい。「論理」というのは、後出しジャンケンであり、どういうことでも論理にできるからである。
 終わりから二連目、「十三年」と「気付いたこと」について、受講生は少し戸惑ったようだった。「いつ(何)から十三年」なのか、「何に気づいた」のか。私は「透明な風になって/空を飛んだ」から、流行歌の「千の風」を思い出した。大事な人が亡くなった。でも、その人はいなくなったわけではない。いまも、いる。そう気づいた。
 変わらない何かに気づいた。その安心感が、空腹を教えてくれた。いつも、変わらぬものがある。生きている。私が生きているなら、あの人も生きている。生きているから感じる。そういうことを、大事にしている。連から連への自然な変化がとてもいいし、タイトルの「おいしいごはん」もいい。タイトルは「おなかがすいた」でもいいのかもしれないが、そこから少しだけ飛躍している。その飛躍の「軽さ」がとてもいい。

百年の希望  堤隆夫

愛と言う名の生き甲斐
愛と言う名の幻
「あなたの声を聞きたい 一度だけでもいいから」
過去も 今も めくるめくロンド

別れた時も 出逢った時も
人生という舞台
二つの命 燃え合い
されど今は 懐かしい日々よ

「最期に笑う日が一番よく笑う日だ」と
涙で呟いた あなたの瞳 永遠
されど叶わぬ 人の世の定め

暗く寂しい長い夜でも あなたの温もりは 胸の底
「いつまでも決して私を忘れないで」と
過去も 今も 忘れはしない

苦悩続く夜も 歓喜迎える朝も
人の歴史の常
「私は敗けはしない」と
過去も 今も
百年の希望
百年の希望
百年の希望

 「ロンド」。音楽形式。主題が何かをはさみながら繰り返される。この詩では、テーマは愛。それが、たとえば「生き甲斐/幻」「過去/未来」「別れ/出会い」「苦悩/歓喜」のような、撞着語をくぐりぬけ、あるいはつらぬき、動き続ける。そこから「過去/今/未来(このことばは書かれていないが、百年は、これからの時間を含んでいるだろう)」が「歴史」として認識され(形成され)、「希望」へと昇華していく。
 堤の作品には漢字が多く、文字だけ見ていると「固い」印象があるが、固いけれどもなにかしら響きにリズムがある。どうしてだろう、と思っていたら、実は、堤はシンガーソング・ライターだった。
 この作品はCD化されてもいる。
 ことばを「意味」だけではなく、「音」としても存在させようとしている。しかも、その音は旋律、リズム、和音という展開の中で具体化する。
 音楽のなかの「和音」を、私は、詩では「呼応」(響きあい)というようなことばでとらえているが、堤の場合は、それが「意味」だけではなく、「音」そのものの呼応でもあったわけである。
 堤の「(詩の)音」の秘密を見たように感じたのは、私だけではないと思う。

アナトリア聖刻  青柳俊哉

飛んでくる石化したバラ 
黒海の葦の茎先 鉄の羽…… 
楔を咥えて アナトリアの炭化した地層から
女たちのもとへ

葡萄の房形の紺青(こんじょう)の台地
隠されている女たちの
神聖な手の性(さが)と
焼かれた文字

車座になって剝かれる茄子の実とバラのすじめに
結晶するユニコード
もとめあう聖刻(せいこく)
人間の土地を超えて

 「アナトリア聖刻」とはなんだろう、という疑問が受講生のあいだから聞かれた。青柳から説明はあったのだが、それとは別に、ことばの「呼応」から「和音」として何が浮かび上がってくるかを見てみよう。
 「石化」「炭化した地層」は、歴史を感じさせる。「楔」そのものは「歴史」的存在とはいえないが、「楔形文字」となると歴史である。「アナトリア」は日本ではない。異国(日本以外)を強く感じさせることばに、「黒海」がある。「楔形文字」がつかわれたメソポタミアは「黒海」に臨んでいるわけではないが、周辺地区でもある。
 そうした「古代文明」が、いま私たちに何を語りかけてくるのか。
 受講生のあいだから、また「女たち」が印象的という指摘があったが、青柳は「人間の土地を超えて」何かが伝承されていくとき、そこに「女の存在」を重視している。女がいるから、歴史がある。二連目の「隠されている女たち」ということばのなかには、青柳の歴史観も含まれているだろう。
 一篇の詩のなかにはさまざまなことばが動いている。どのことばを聴き取り、それをどう受け止めるか。詩人のことばの響きを聞くだけではなく、それを自分のことばと響きあわせてみるのも楽しい。
 いま、目の前にあることば。そのことばのなかへ、私はどうやって参加していくことができるか。

海をみている  川﨑洋

現実に
めざめている
という
それから
夢をみている
ともいう
だったら
もうひとつ
海をみている
と いってもいい
と思う

起き上がって
また
海をみる
海と呼ばずに
気障ではあるが
広いやすらぎ なんて
呼ぼうか
海よ といわずに
広いやすらぎよ
なんてさ

暮れかかってきて
雲の切れ間から
ななめに
光の柱が二本
かなたの海面に入っている
あれは
昼間
水の中にさしこんだ光が
空へ還るのだろう

 受講生が、みんなといっしょに読むためにもってきた作品。
 受講生のなかから指摘があったが、この三連構成の詩は「静的」ではない。意識(ことばの指し示し方)が少しずつ変化している。そして、その変化を、むりに制御しようとしていない。なるようになるさ、と任せている感じがする。
 一連目は、ぼんやり海を見ている。「夢か、現か」。「海を見ている」という事実を「海を見ている」ということばにすることで、「ことば」のなか(意識のなか)へ動いていく。
 二連目の「広いやすらぎ」は「海」を言い換えたもの。「比喩」、あるいは「象徴」。そこに「精神」を見ている。ただし、深刻にならないように「なんてさ」というような軽い口調をまじえている。
 ここに川崎の「音楽性」があるといえるかもしれない。
 そして三連目で、ほんとうに川崎が考えたことを、ことばにしている。そのとき、おもしろいのは、いわゆる「天使の梯子」のなかに、逆向きを動きを存在させる(海に入る光/海から空へ帰る光)ことで、その動きを「限定(断定)」していないことである。読者に、私はこう思うが、どう思う?と問いを投げかけている。
 その結果として、詩の世界が、いっそう広くなっている。
 この詩は、三連目だけでも深い詩だが、一連目、二連目、三連目へとことばの動き方が少しずつ変わっていくところを、ていねいに「記録」している点が、とくにいい。一連目、二連目がなかったら、感動しても忘れてしまう。一連目、二連目があるから、忘れられないものになる。そう思うのは、私だけだろうか。

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安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)

2024-09-14 22:32:06 | 映画

安田淳一監督「侍タイムスリッパー」(★★★)(2024年09月14日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン9)

監督 安田淳一 出演 山口馬木也

 一館上映で始まった映画だが、人気が人気を呼び、全国で上映されるようになった作品とか。
 予告編を見た印象は、とても効率よくつくられた作品。スクリーンに映っているシーン以外に「余分」はない、という感じだったが、本編を見てもその印象は変わらない。ていねに、しっかりとつくられた映画だが、なんというか「奥行き」がない。カメラに写っているシーン以外に、何もない。もちろん、それでもいいのだが、私は「余分」を期待して映画を見ている。「余分」がないと、味気ない。100点の映画だが、それはミスがないという意味でしかない。
 スタッフ一覧を見てみると。
 安田淳一が監督、脚本、撮影、編集と四役をこなしている。(もっと、こなしているかもしれない)。それがこの作品の特徴を語るすべてである。すべてのことが、安田淳一の「視点」で統一されている。だから、乱れようがない。ミスしようがない。100点になるしかないのである。
 私が唯一、これはおもしろい、と思ったのが、主人公が講演会か何かのポスターを見て、自分が江戸時代から現代にタイムスリップしてきたことを理解するシーンである。ポスターの文字が「活字」であることに驚くこともなく、江戸時代が終わったということに驚くこともない。あっという間に「状況」を理解してしまう。その「理解力」の速さを、巧みに描いている。状況が理解できずにドタバタするのは、紛れ込んだ京都・太秦の映画(テレビ)撮影現場の一瞬だけである。
 で、このことが象徴的なのだが。
 登場する人物が、みんな、「ストーリー」を「理解」してしまっている。「理解」にしたがって、それを表現している。まあ、それでもいいのだろうけれど、私が期待するのは、やっぱり登場人物が何が起きるか「知らない」という芝居なのだ。何も知らず、すべてが初めて体験する、という「人間の生き方」なのだ。役者を、生きている人間を見たいのだ。私は。それが、この映画には完全に欠落している。
 たとえば。
 映画のなかに、主人公が仇(?)と出会い、一緒の映画に出ることになり、その一シーンとして釣りをするところがある。映画はただ背中をうつすだけ、会話はとらないという条件で撮影されている。ふたりは、セリフではなく、思っていることを語り合う。それは一首のけんかなのだが、背中をとっているスタッフが「こころが通い合っているいい演技だ」みたいなことを言う。人間というのは、そういういい加減な存在なのだが、そのいい加減さがいかされていない。これと同じシーンを、私は別の映画で見た記憶があるが、それがなんだったか思い出せない。こういう裏話みたいなもので、映画の秘密をばらすのだが、それさえも「型通り」である。つまり、「いい加減」さが、どこにもない。
 だからね、100点だけれど、50点なのだ。

 どうでもいいことだが。
 予告編で、呉美保の映画を見た。タイトルは忘れたが、あ、呉美保だと、こころのなかで叫んだ。なんだったか、タイトルは忘れたが、第一作は、たしか彼女自身が脚本を書いたものだったと思う。その脚本が、いいなあ、と思った。人間のとらえ方に、みょうな深さがある。奥行きがある。そのあとも何本か見たと思うが、何かしら、印象に残るシーンがあった。
 今度は、どうなんだろう。
 思わず、こういう関係ないことを書いてしまわせるのが、安田淳一監督「侍タイムスリッパー」であった。


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増田耕三『庭の蜻蛉』

2024-09-12 23:03:53 | 詩集

 

 

増田耕三『庭の蜻蛉』(現代日本詩人選100、NO4(竹林館、2024年09月01日発行)

 増田耕三『庭の蜻蛉』の巻頭の詩「こおろぎ橋」。

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

まだ妻も子もなく
若さを失いかけた私が
昼のなかの橋を渡った

別れたのちの届けようのない想いが
りんりんと染みるように
歩み去ったひとのかかとの音が
響いていた橋のたもと

こおろぎ橋を渡ったのは
三十年ほど前のこと

 とてもていねいに書かれていて、とてもよくまとまっている。
 二連目の「若さを失いかけた私」というのは、いまの感想というよりも、青春独特の「喪失の先取り」のような感覚だと思う。センチメンタルというのは、ほんとうは失っていないのに失ったと思うときに、みょうな輝きを見せる。「昼のなかの橋」の「昼のなかの」という焦点の当て方が「若さを失いかけた」という感覚と向き合って、「撞着語」のように響く。
 三連目は「うた」になりすぎているが、四連目で、最初の連を繰り返すことで、走りすぎた「うた」を、平凡な「うた」にひきもどしている。それが、落ち着きを生んでいる。
 この作品が増田の代表作かと言われれば、すこし悩むが、何篇かの作品を選ぶときには、その候補として残したくなる詩である。
 「九月の詩」は、詩集のおわりから二篇目の作品。

もうすぐ、九月が終わるというのに
一向に姿を現さない

私を置き去りにしたまま
「九月の詩」はいったいどこに
いったのだろうか

降り終えた
雨の気配だけが残されている
失った人のいた、九月

いや、
失われた人など
もうどこにもいやあしない

さばさばと消えた
きりで

 三、四連目。こう書かずには、詩を締めくくった気にならないのかもしれない。しかし、その二連はない方が「中途半端」な感じで、逆にいいのではないだろうか。「中途半端」は「余韻」と言い換えることができると思う。
 そうした方が、「 もうすぐ、九月が終わるというのに」「失った人のいた、九月」の読点「、」の呼応が美しく響くと思う。

 

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こころは存在するか(42)

2024-09-09 11:15:44 | こころは存在するか

 「こころ(精神)は存在しない」という私の考える私が、こんなことを書くと矛盾していることになるのだが。「心」ということばが出てくる文章に感動したのである。
 いま、日本語を勉強しているイタリアの青年と孟子を読んでいる。その「告子章句 上」(講談社学術文庫)の361ページに、「心」をふくむ次のことばがある。(私のワープロでは出てこない感じがあるので、一部は変更してある。)

人、鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むるを知る。心を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ。

 逆説的な言い方になるのかもしれないが。
 「こころがない」という考えに達したから、その「ないこころ」(なくしたこころ)を取り戻すために、私は本を読むのかもしれない。孟子を読みながら、突然、そう思ったのである。そして、それが勘当の原因である。

 私は、感動したとき、どうしても脱線してしまうのだが。

 私の意識のどこかに、和辻哲郎が「古寺巡礼」に書き記した父の質問がいつも「つまずきの石」のようにして存在する。「お前のやっていることは、道のためにどれだけ役に立つのか」。
 和辻はいざ知らず、私のやっていることが「道に役立つ」ことはないだろう。
 だれにも影響を与えることはない。しかし。もし「自分自身の道」というものがあるとしたら、その「自分自身の道」の役には立つだろうなあ、と思う。これは、自己満足の世界だが、私はもうそんなに長生きするわけではない。せめて「自己満足」のために、自分のいのちをつかいたいと思う。
 「学ぶ」というのは、現象を超えた法(理)に触れることだろう。それをことばにすることはできない。すでに多くの人がことばにしているが、そのことばを私は理解しているとも言えない。「法(理)が存在する」ということさえ、私の「誤読」かもしれない。
 たぶん、私は孟子の書いた「こころ」を「法(理)」と「誤読」し、さらに「法(理)即学問」と「誤読」を重ねているのだろう。

法(理=学問)を放すること有りて、求るを知らず。学問の道は他なし。其の放法(理/学問)を求むるのみ。

 「学問」を「問い、学ぶ」というふたつの動詞に「誤読」しながら、ことばを読む。
 これは、なかなか、楽しい。何よりも、金がかからないから、年金生活者には最適。本は、すでに買い求めてあるから、新しいものはいらない。「古典」と呼ばれているものが、とても楽しい。

 ところで、引用した文章に「則ち」ということばが出てくる。「即ち」ということばもある。「則ち」と「即ち」は、どう違うのか。「鶏犬の放すること有れば、則ち之を求むる」は「鶏や犬がいなくなった場合は」だろう。「その場」という意味で「即ち」をつかったことばに「即興」があるから、「即ち」もつかえそうだが、私の印象は少し違う。「即ち」の場合は、何か密接な、ぴったり重なった、あることがらの「表裏一体/一心同体」という感じがする。「法/理/学(問)」の「/」が「即」だなあ。「学問」ということばは「学則問」であり「問即学」が結晶して区別がつかなくなった状態だね、と自分勝手に「誤読」するのである。

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こころは存在するか(41)

2024-09-05 13:00:03 | こころは存在するか

 谷川俊太郎の詩集に『世間知ラズ』というのがある。私は、これを「世間知(せけんち)・ラズ」と読んでいた。「ラズ」と呼ばれている「世間知(世間の常識、だれもが知っていること)と理解し、さて、「ラズ」って、何? そこで、ずいぶん悩んだ。もちろんこれは「世間知らず(せけんしらず)」と読むのだが、カタカナ語が苦手な私は「せけんしらず」ということばが思いつかなかったのである。
 笑い話にもならない、どうでもいいことなのだが。でも、私はなぜ「世間知(せけんち)・ラズ」というような、常識はずれの「読み方」をしてしまったのか。カタカナ難読症が原因と簡単に断定できるのだろうか。

 このことを、和辻哲郎「自叙伝の試み」を再読していて、突然、思い出したのである。

 姫路生まれ、姫路育ちの西脇が、東京に出てきたときのことを「半世紀前の東京」のなかで書いている。そこに、こういう文章が出てくる。

都会育ちのものに特有な繊細なセンスが田舎者には欠けているとか、都会育ちのものの頭の働きが非常に敏活であるのに対して田舎者のそれは遅鈍であるとか、それに伴ない前者は世間知が豊富であるに対し後者はそれに乏しいとか、

 「世間知」ということばが出てくる。私は、この和辻のことばを覚えていたのか、と驚いたのである。ちなみに、「世間知(せけんち)」ということばは、私のもっている広辞苑には載っていない。たぶん、和辻独自のことばなのだろう。それを、私は無意識に覚えていて、谷川の詩集を見たとき「せけんち・ラズ」と読んでしまったのだろう。
 何度も繰り返されることばではなく、一度見ただけのことばなのに、それを単独で覚えているというのは不思議なことだが、何かしら、和辻のことばには私の「肉体」そのものに触れてくる「自然」がある。
 「自伝の試み」のなかで描かれているのは明治20年代(1890年代)は和辻の幼年時代だが、それは私の幼年時代の昭和30年代(1950年代)に似ている。いや、姫路の1890年代は、私の育った能登半島の付け根の小さな集落の1950年代よりもはるかに進んでいる。半世紀すぎても、私の済んでいた集落は姫路の「文化」から遠く遅れている。ただ、「自然(山や川)」だけが「同じ年代」を生きている。西脇の描く「自然」は私の知っている「自然」と非常によく似ている。そのために、和辻の文章のリズムが、非常になじみやすい。和辻は「私の知っていること」を書いている、という気持ちで読むことができる。
 「自然」は似ている。違うのは、「世間知」である。
 「世間(社会)」のなかで流布していることが、違う。和辻は、その「違い」を東京に出てきて実感している。(幼少時代も、ほかの村のこどもと西脇が違うことを少し感じているけれど、東京へ出てきて感じた「違い」ほど大きくはない。)このときの和辻の「印象」、それを象徴する「世間知」ということばが、私の「肉体」のなかで、長い間眠っていたことになるのだろう。
 ことばの「影響」というのものは、なんと、不思議で、強いものなのか。

 「世間知(せけんち)」と関係するかどうかわからないが、私には、忘れることのできない「貧乏」と「世間知らず(せけんしらず)」を結びつける思い出がある。私は「世間」には属していない、私の属している世界は別のところにある、と感じる思い出がある。
 小学一年のときの「終業式」。私は、それがどういうものか知らないから、いつものように学校へ行った。すると担任の先生(石田先生と言った)が、私を呼び止める。そして私の親戚の2年生の女子を呼ぶ。その女子に向かって、こう言う。「きょうは修行式なのだから、修三を家につれていって服を着替えさせてこい。修三の母親にそう言え」。ああ、「式」のあるときは、いつもと違う服を着るのか、ということを私は初めて知った。たぶん、母も初めて知ったのだと思う。そういう「世間知」から遠いところで、私は生きていた。たぶん、ツギのあたった服を着ていたのだろう。それでは「式」にふさわしくないと石田先生は思って、世話をしてくれたのだろう。
 この石田先生は、なぜか私のことをよく覚えていてくれたようで、私のめい(15歳くらい年下)が小学一年生のとき、めいの担任になり、「谷内修三を知っているか」と聞いたそうである。「谷内」という姓は、能登では珍しくない名前である。姓から判断しただけではなく、顔か何かが似ていたのかもしれないが、そのことを姪から聞かされびっくりしたことがある。それくらい、私の田舎では「時間」がゆっくり流れているということかもしれない。
 話は脱線するが。
 私は和辻が姫路での幼少、青年時代を描き、さらに東京と姫路を都比較しながらいろいろ書いているのを読みながら、1950年代の、私の貧乏をいろいろ思い出す。
 先に書いた姪は、私の上の兄の娘だが、その兄と私は15歳くらい離れている。子供時代、一緒に遊んだ記憶は、私には、ない。私が小学の高学年のとき、就職先から家に帰ってきた。私は兄を何と呼べばいいのかわからず、両親に尋ねた。「おじ」というのが、その答えだった。「おじ」というのは、私の育った地方では「二男」(あるいは、弟)を意味する。私が兄を「おじ」と呼ぶのは変なのだが、なぜ、「おじ」と呼ぶかというと。実は、私にはもうひとり兄がいて、その兄は「おじ」が家に帰ってきたあと、やはり家に帰って来た。兄は「あんま」である。「あんま」のつぎが「おじ」。私は兄を名前で呼んだことはない。私は名前で呼ばれたが。
 また脱線したが、そのおじが、あるいはあまんが着ていた15年以上前の「学生服、学生ズボン」を私は履いて小学校へ通っていたことがある。海水パンツも、兄のお下がりだった。そういうものを買う余裕が私の家にはなかったということである。習字の道具(筆、すずり)も、最初は、先に書いた親戚の女子に借りて、つかっていた。あとで言えの中のがらくたをかたづけて、その下から兄たちがつかっていた硯と筆をみつけだしてつかったと思う。
 敷布団はなく、「ドン・キホーテ」の旅籠屋のなかに出てくるように、藁の上に布をかぶせて敷布団にしていた。藁を換えると、藁を干していたときの太陽の匂いがする。ふかふかする。そのときのことを、私の肉体は覚えている。こんなこともあって、私は清水哲夫の「スピーチ・バルーン」のなかの「標準語訳」の部分に、かみついたことがある。肉体が感じることばのリズムが標準語訳には反映されていないからである。
 中学生になるころ、私は私の部屋をもらったが、その部屋の窓は格子でできているのだが、ほんとうに格子があるだけ。ガラスも障子もない。つまり、風がそのまま入ってくる。だから、冬などは、そこで勉強するということなどできない。寝るときだけ、板戸の向こうの部屋で寝る。寝るための部屋だから、電灯は小さな裸電球があるだけだが、それも電気代がもったいないと、ほとんどつけなかった。私は体が弱くて、医者から「9時に寝て、6時に起きるように」と言われていたのだが、9時まで起きていることもなかった。夕食を食べると、8時前には寝ていたと思う。
 中学を卒業すると、兄弟はみんな就職した。小学生のとき、私が、新聞の広告の裏か何か絵を描いていたら、おじが「お前は絵が好きだから、映画館の看板描きになれ」と言われた。私もそのつもりになっていた。
 そういう生活だったから、和辻が描いている明治の姫路は、私にとっては、和辻が見た東京のようなものである。いや、それ以上である。そんな「ずれ」が刺戟になって、「世間知」ということばが「せけんち」として、私の肉体に残ったのかもしれない。私の肉体の中には、そして、そういう「ずれ」が、いまでも、たくさん残っている。それは、かなり頻繁に、噴出してきて、私を驚かせる。私が書いていることの多くは、その「ずれ」を出発点としている。

 「世間知」に対峙することばはなんだろうか。「自然知」、あるいは「肉体知」かもしれない。私が和辻に感じるの親近感は、その「自然知」「肉体知」に対するものだが、このことを書くのはなかなか難しい。
 でも、いつかは書きたい、書けたらなあ、と思う。「こころ(精神)」は存在しない。しかし「自然」「肉体」は存在する。「肉体」が「肉体」のまま出合える「場」を取り戻したい。修業「式」という「世間知」から遠くにいたときも、私も母も生きていた。そのことを「守りたい」。

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こころは存在するか(40)

2024-09-01 23:53:49 | こころは存在するか


 和辻哲郎「自叙伝の試み」に、何度も何度も読み返してしまう文章がある。和辻の母が蚕から生糸をつくり、それをさらに織っていく。それは「本質的」に、工場でつくるものとかわりがない。自分で紡いだ生糸を、

母たちは、好きな色に染めて、機にかけて、手織りで織ったのである。織物としての感じは非常におもしろいものであったように思う。今ああいうものを作れば、たぶん非常に高価につくであろう。しかし母たちの時代の人にとっては、自分たちの労力を勘定に入れないので、呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである。

 「労力を勘定に入れない」。このことばが、いつも胸に迫ってくる。たしかに昔の人は、「労力を勘定に入れない」で仕事をした。いまは「休憩」さえも勘定に入れる。どちらが正しいというのではなく、ただ、私は、その「労力を勘定に入れない」という生き方が美しいと思う。

 和辻が描いている「母たちの時代の人」というのは明治20年代(1880年代後半)だが、その時代には「労力を勘定に入れない」人がいた。そして、和辻がこの「自叙伝の試み」を書いた昭和30年代(1950年代)にも、そのことばがそのまま「通用」する生活があったのだ。

 それにしても。
 和辻が生まれた姫路市の明治なかごろの風景と、私が育った氷見市の昭和30年代は、なんと似ているのだろう。というか、昭和30年になっても、私の集落は姫路の明治のなかごろに追いついてはいない。絹織物を織るというような文化的なことを私の母はしていなかったが、かわりに「むしろ」を織っていた。むしろ織り機というものがあり、私もこどものときむしろを織らされた。
 私が和辻の文章に弾かれるのは、和辻の文章の奥に動いている「自然(山や川、空)」の感じが私の知っている自然に近いからかもしれない。自然の呼吸が、どこかで私にひびいてくるからだろう。
 和辻は、和辻の家で「みそ」をつくるときのことを書いている。私も、家でみそをつくるときの様子を見ていた。大豆がふかしあがる。何の味もついていないのだが、私はその大豆を食べるのが好きだったことなどを思い出すのである。和辻の祖父が、蔵の中でコメに大きなうちわで風を送っている場面など、なんとも不思議な気持ちで読んでしまう。ふと、収穫したばかりの米を納屋の倉庫に入れた日、父が、米の番をして、その納屋で眠ったときのことを思い出したりする。
 あらゆるところに「労力を勘定に入れない」仕事があった。そして、それはなんというのか、自分よりも、「自分の作ったもの」を大事にする仕事に思えるのである。自分のかわりに、自分のつくったものが「生きていく」。「生きていく」というのは「他人(自分以外のもの、もちろん家族を含む)」のなかへ動いていくということである。
 和辻の祖父のコメの「せわ」など、その代表的なものだ。コメは和辻の祖父がつくったものではない。しかし、そのコメがまずくならないように風を送るという「労力」が、おいしいコメとして家族の中に「生きていく」。それは「高い」とか「安い」では、とらえることのできない何かだ。和辻は母のつくった絹織物を、母たちにしてみれば「呉服屋で買うよりもずっと安かったわけである」と書いているが、単に「安い」だけではないものが、そこに動いていると感じる。
 和辻の文章には、なにかこういう「生きていく」ものをすくい取り、定着させることばがある。
 それは、やはり、「思想」というよりは「倫理」というものだろうなあ、と思う。

 

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